僕ら日本人の一団は、吉林省の平安屯で、ひとつの団体を作ったのです。
ロシア軍が不意に国境を越えて満洲国に侵入したとき、吉林省内の各地に散らばって開拓の仕事をしていた人たちは、何一つ持つこともなく、着の身着のままで吉林に向かったのです。
でも、吉林もロシア軍が侵入してきて、無茶苦茶なことをしていたので、平安屯に集まった人たちでひとつの団体を作って、新京に逃れることにしたのです。
この新京に到着するまでの出来事を思い出すと、いろいろのことが山のようにあります。
でも、その出来事というのは、ロシア人と満人から日本人である僕らがいじめられたということです。
ロシア人にとって、日本人というのは虫けら以下だったのです。
あの当時、ロシア兵は日本人を殺そうが、焼いて食おうが、自由気ままにできたのです。
だから、平安屯から新京までの間でも、ずいぶん痛めつけられました。
ようやく新京に着いたので、これで安心と思ったのは、日本人のヌカ喜びだったのです。
ロシア兵と満人が、田舎から出てきた僕らに対し、虫けらでも殺すのと同じように殺したり、傷つけたり平気でするのです。
道をひとりで歩けませんから、二、三人で歩いていると、不穏の動きがあると言ってロシア兵から取り締まられるのです。
ロシア兵に見つかって逃げると、すぐパーンと銃で撃たれるのです。
それで日本人が死んでも、それは全く日本人が悪いのだというのです。
何をしても日本人の言うことは通用しないし、いじめることではロシア人ほど上手な奴はいないでしょう。
あれは、人間ではなくて、鬼か蛇のようなケモノ達だったのです。
結局、僕たちは新京にいてはいけないと、ロシア兵が言うのです。
とうとう平安屯から一緒にきた日本人は、ハルピンに追いやられることになったのです。
さんざん苦労してハルピンに着いたのは、満洲では降った雪が来年まで溶けないと言われる11月の中ごろだったのです。
しかし、そのハルピンも、僕たちにとっては永住の地ではなかったのです。
もちろん僕たちも戦争に負けた日本人のひとりだから、そんなに楽な生活をしようとは思ってなかったのです。
しかしロシア軍が、日本の強い兵隊がいたときに満洲に攻めてきて、強い日本軍と戦争して勝って満洲国に入ってきたのだったら仕方がないとあきらめるけれど、ロシア軍というのは卑怯な奴だから、強い日本軍がほとんどいなくなったすきに、コソ泥のように満洲に入ってきて、日本人である僕たちをいじめるのだから、腹が立って仕方なかったのです。
もし僕がもっと大きくて力をもっていたら、僕ひとりでもロシア兵と戦うのになあと思いました。
ロシア兵はそんな無茶苦茶なことをするのです。
僕たちは、みんな、歯を食いしばってロシア兵の乱暴に耐えたのです。
こうした思いをもってハルピンまでたどりついたのです。
ところがハルピンに着くと、ロシア兵がやってきて
「お前らのような汚い日本人をハルピンにおくことはできない。
お前たちはみんな奉天に移動せよ」と申すのです。
やっとハルピンに着いたのに、また奉天に行けとはあんまりしたことであったので、日本人を代表してロシア兵に抗議をしに行った日本のおじさんは、抗議をしたというだけで、その場で撃ち殺されてしまったのです。
僕たちは、もう、抗議をすることも、お願いをすることも許されないということを知らされました。
牛や馬が、人間の言うままに動かなくてはならないのと同じだったのです。
奉天に移動するということになると、もうひとつ大変困ったことがあるのです。
それは、平安屯から新京へ、新京からハルピンへと移動したのですが、実をいうと移動するたびに、僕らの持っている荷物が減ってくるのです。
そんなことはロシアの兵隊にはわからないし、また、わかっても言うことを聞くような奴らではありません。
ロシア兵という奴は、自分たちが少しでも機嫌が悪くなると、すぐ日本人をなぶり殺しにするのです。
日本人が死んで行くのを見ては、ワイワイ騒ぎながら酒を飲んで、自分たちの機嫌を直すのです。
こんなロシア兵が奉天に移れと言うので、仕方なく奉天に移ることにしました。
奉天に移ることになると、汽車に乗らなければなりません。
三時間汽車に乗ると、五時間歩かなければならなかったし、五時間汽車に乗ると、五万円も七万円も機関手に賄賂を渡さなくてはならなかったし、いやないやな旅でした。
ようやく奉天に着いたものの、もう12月も終わりに近づいていた満洲は、大変な寒さであった。
ハルピンも奉天もこの、寒いということでは、一緒であったし、平安屯から持ってきた着物などもほとんど売りつくしていたので、奉天の集中営に入ったときは、乞食と同じようになっていました。
この集中営に入ってからは、自分の持っている着物は全部身につけてしまったけれど、まだ寒いので毎日震えていました。
そして何もない、本当になにもないお正月が終わって、五、六日過ぎた頃、突然ロシア兵が十五、六名、どやどやと部屋の中に入ってきました。
そしてその中で日本人のような顔をしたロシア兵が、大きな声でわめくように、
「この中に、陸軍の将校の家族の者はいないか。いたらすぐロシア軍の司令部まで来い」と日本語で怒鳴ったのです。
僕たちはどうなることだろうと思っていましたが、誰もそんな人はいないだろうし、またいても、出て、ロシア軍の司令部に行くようなお人好しはいないだろうと思っていました。
すると僕のすぐそばにいた、僕をいつも可愛がってくれていた、山田というおばさんがすーっと立つのです。
僕はびっくりしました。
時がときだけに、僕の心臓は早鐘を打つように高鳴ってきました。
山田のおばさんは、そのまま外へ出て行こうとします。
僕はおばさんの後を追って、部屋を出ました。
そして集中営の出口のところで、山田のおばさんに追いつきました。
「おばさん、どこへいくの」と尋ねたのです。
するとふっと振り返った山田のおばさんは、いつもよりすこし青ざめた顔をしておりました。
しかし、いつものようの微笑みながら
「ロシア軍の司令部へ行くんですよ」と、いつもの変わらぬ口調でおっしゃるのです。
僕はこの山田のおばさんの言葉にびっくりして、
「おばさん、行っちゃだめだよ。
ロシア軍の司令部に行ったら、どんなことをされるかわからないから、行っちゃだめ。
おばさん、誰も知らないことだから、行かなくてもいいよ。
それにおばさんは、軍人さんのおばさんですか」と尋ねると、
「そうです。おばさんのところのおじさんは、立派な軍人さんでした」
「おばさん、行かなくてもよいでしょう。行かないでください」
僕が頼むように言うと、おばさんは笑いながら、
「おばさんは、帝国軍人の妻ですよ。満男ちゃん、立派な人になって、戦争に負けた日本の国を、早く再建してください」と言い残すと、そのままロシア軍の司令部の方へすたすたといつもと同じような様子で、立ち去って行かれたのでした。
奉天に来てから、あんなに僕を可愛がってくれたあの優しいおばさんのことが胸いっぱいに湧き上がってきて、おもわず僕は泣きたくなりました。
そしてその翌日のことでした。
昼ごろになったので、日本人はみんな食事をしようかなと話し合っているときでした。
ロシア軍の司令部から、命令が出たとのことです。
それは日本人は全員、奉天駅前に集合せよ、とのことです。
みんなは、何だろうと話しながら、奉天の前に急いだのです。
ただ、僕は、奉天の駅前に集まれとの命令が出たときから、何かしきりと胸騒ぎがしていたのです。
それは何の胸騒ぎであるかわかりませんが、きっと何かおおきな不幸が怒るんじゃないかと、胸が痛いほど心配がたかぶってきたのです。
奉天の駅前に着いてみると、もう黒山のように人がいっぱい集まっていました。
日本人だけではありません。
満人も、鮮人も一緒でした。
日本人が一番前の方に出されました。
するとあの日本人のような顔をした日本語をよくしゃべるロシア兵が出てきて、集まっている日本人をにらみつけました。
「今日ここで、みんなに見せつけのために、日本のかつての陸軍の将校の家族のものを処刑する。
正しくない戦争、侵略の戦争をすれば、その最後はこんなものになるのであるということを、みんな肝に銘じておけ」と大声で怒鳴るのです。
(ねずきちです。よく言うよ!です。「正しくない戦争、侵略の戦争?」日本軍の勢力が衰えたところにまるで泥棒猫のように侵略し、暴行非道の限りを尽くすことこそが、正しくない戦争であり、侵略の戦争でしょう!こうしたコミュニストマインドというのは、世界の悪そのものです)
日本語が上手といっても、ロシア人です。
ところどころの日本語はわからないようなところもありましたが、何かこのロシア兵がわめいていることを聞いているうちに、ぞーっとしてまいりました。
そして僕の体が、ガタガタと震えだしたのです。
この日本語をしゃべるロシア兵が、しゃべり終わって後ろを向いて合図をしました。
すると、ちょうど奉天駅の前に、僕らが奉天に着いたときからあったロシア軍の大きな戦車の横から、十三名のロシア兵に連れられた日本の女の人が現われてきたのです。
僕はその女の人をパッと見たとき、のけぞるばかりに驚きました。
その女の人は、あの山田のおばさんだったのです。
「あっ・・、山田のおばさん」と僕は叫びだしたいような衝動に駆られました。
僕の膝はガクガクと揺れ出してしまって止まりません。
そしてその山田のおばさんの姿を見ていると、もう立っていることができないようになりました。
鬼より、野獣より、汚い恐いロシア兵が、山田のおばさんに何をするのだろうと不安で胸が破裂しそうです。
ロシア軍戦車の前に引き出された山田のおばさんは、薄紺のズボンに薄紺の上着を着ているのです。
とても綺麗なおばさんに見えるのです。
いままで山田のおばさんが、こんな綺麗な美しい人だとは知らなかったのです。
その山田のおばさんは、いま、僕の眼の前で、さみしそうだけれど、その顔には微笑みさえ見えるのでした。
やがてこの奉天駅前の広場に、五頭の馬が引き出されて来ました。
そしておばさんの右手と左手、右足と左足に、大きな縄がくくりつけられました。
そしてその縄のはしを、引き出された五頭の馬にそれぞれくくりつけられたのです。
しかし山田のおばさんは、顔色を変えずにまだ立っているのです。
そして僕たち日本人の方を静かに振り向きながら、はっきりした口調で、
「さようなら、みなさん。元気で早く日本に帰ってください。そしてまたきっと遇いましょう」と言われたのです。
おばさんがこの言葉を言っているうちに、ひとりのロシア兵が出てきて、いきなりおばさんの顔を針金のようなものでピシリと殴り付けたのです。
おばさんの頬から、真っ赤な血潮がパッと吹きだすように流れました。
見ていた日本の女の人たちは、おもわず横を向いて目をつぶったのです。
見ていられなかったのです。
僕はおもわず、
「おばさーん、おばさーん」と叫びました。
そしておばさんの方へ駆け出そうとしました。
その僕を、誰かがしっかり押さえました。
そのうち、もう一本の縄がおばさんの首にかけられ、馬にくくりつけられました。
やがて、ロシア兵の将校が現われてきました。
髭を生やした偉そうな男です。
この男が合図をすると、二人のロシア兵が来て、おばさんを押し倒し、そのおばさんの体の上に、このロシア兵が馬乗りになっていました。
五頭の馬には、ひとりずつ、ロシア兵が手綱と鞭を持って立っていました。
どうなることかと見守っていると、やがてあの髭を生やしたロシア将校が、さっと手をあげて合図をしました。
すると、ああ、いま思い出してもぞっとするあの惨劇が眼の前で行われたのです。
五人のロシア兵が馬の手綱をひきながら、鞭で馬の尻を叩いたのです。
馬は五方面に走りだしたのです。
そのときどうでしょう。
ギャーッという叫び声とバリバリという音が聞こえました。
そして山田のおばさんの体は無くなってしまっているのです。
ただ、蛇のような腸の切れ端が少し残っているだけだったのです。
満人と鮮人は、ワーッと喚声をあげていました。
ロシア兵はニタリニタリと笑っていました。
僕はとても見ていることができず、その場に座り込んでしまったのです。
動くことができなかったのです。
ロシア兵も満人も鮮人もいなくなりました。
あとに残ったのは日本人だけだったのです。
日本人の眼には、誰の眼にも涙が光っておりました。
僕はしばらくたって、あのおばさんの体の引き裂かれたものを、ひとつひとつ集めました。
ほかの日本人の人たちも、このおばさんの体を集めはじめました。
僕は、いまでも奉天という名を聞くだけで、何かを呪いたいような気持になさしめられるのです。
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このお話は、調寛雅(しらべ かんが)著「天皇さまが泣いてござった」から、そのまま引用させていただきました。
最近、日本なんてなくなったっていいんだよ。俺たちは国際人として、あるいは世界市民としてこれからの新し時代を築くのだ、などと、まことしやかに言う議論を耳にします。
しかし、そういう気楽な発言ができるのも、ここが日本だから、そういう庶民が自由に発言できる日本という国を、立派に守ってくださった多くの先人たちの血の努力があったからなのだということを、忘れてはいけないと思うのです。
日本という国があるから、人々は安心して暮らすことができ、自由に意見も言える。
そういう国という枠組みがなくなったらどうなるのか。何が起こるのか。そのひとつの例が、今日、ご紹介した山崎さんの手記です。
中学生の男の子が、こんな体験をしなければならない。
彼の眼に、鬼畜のように写ったロシア兵も、その多くは銃で脅され、本人の意思とは関係なく軍に挑発され、言うことを聞かなければ殺されるという環境の中で、給料も払われず、そのかわり戦勝地では、ありとあらゆる略奪、暴行が許されるという環境の中にいた兵士達です。
当時のソビエト共産党にとって、ソビエト人も人間ではない。家畜以下です。
そして家畜以下にされた彼らロシア人は、同様に日本人に対して、さらに酷い家畜以下の仕打ちをした。
要するに、「武器を持っていれば、なんでも無理を通すことができる」という、人類史の闇が前面に出てきたとき、こうした自体が起こるということです。
日本人は、武器をもって他人に言うことを聞かせるのではなく、ひとりひとりが武器を持つことよりも働くこと、人のためになることを優先する民です。
そうやって過去、1万年の進化を遂げてきた。
しかし、世界はそうではない、ということです。
武器を持って支配する。
言うことを聞かなければ殺す。
支配する者と支配される者との関係は、人と家畜の関係以下である、ということです。
ですから、日本の左翼が好きかって言えるのも、ここが日本だからです。
しかし彼らが望む、日本崩壊、日本亡国は、結果として、多くの日本人に「悲惨」の二字を与える。
文中に出てくる陸軍将校の奥さんのお話が出てきました。
おそらく、髭のロシア将校が、日本人の将校の妻を今夜のごちそうにしようと、部下に命じて徴発させたのでしょう。
山田のおばさんも、そんなことは百も承知だった。
同時に山田のおばさんは、誇り高い日本陸軍の将校の妻として、絶対に彼らの言うことは聞くまいと、心に誓って彼らのもとに赴いたに違いありません。
何週間も風呂にも入れない生活が続いた避難民です。
おそらく、ロシア将校は、山田のおばさんに、将校の妻だからと、新しい服を与え、体もきれいに拭かせたのでしょう。
そしておかずにしようとした。
しかし、山田のおばさんは、これを凛として拒んだに違いありません。
そしてそのあまりの凛々しさに、さすがのロシア兵すらも、手を出すことができなかった。
そこで見せしめのために、馬に引かせて五体をバラバラにして殺した、というのが真相であろうかと思います。
そしてそういう非道を、子供にさえも平気で見せる異常さ。
そういう残酷な姿を見て喜ぶ満人や鮮人の異常さ。
世界には、そういう異常者がいるのだ、という事実を、やはり私たちは絶対に忘れてはならないと思うのです。
日本を守るのは、日本しかない。それが歴史の真実です!
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満州国国都、新京
コメント
名無しさん@ニュース2ちゃん
2011/05/25 URL 編集
ロ-タス ~(*ё)/~~
何とも言い語い人間たち‥
2011/05/25 URL 編集
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ほとんどの王は、戦乱の世に道徳学問など無用として聞く耳を持たず、ひどい時には国外追放や野盗に殺されそうになったりと、孔子の人生の大半は不遇をかこつものでした。
孔子の伝説の一つに、儒教の教えが「形骸化」つまり上辺だけ華々しく飾られてしまい、儒教の本旨は二の次になってしまう事を、孔子自身が予期していた、という話があります。
儒教の本旨を忘れ、支配階級の権力維持の為だけの道具としている今の中国の有り様を見れば、孔子の予見は的中したと言えるでしょう。
きっと、孔子が「孔子平和賞」を知ったら、驚いてこう言うと思います。
「私の名を冠した、争い無きを期する表彰ならば、投獄されている劉暁波氏こそが相応しい」
中国反体制派「オスロの誓い」 劉暁波氏が“まとめ役”に (1/2ページ)
2010.12.12 01:53
http://sankei.jp.msn.com/world/china/101212/chn1012120155000-n1.htm
2010/12/12 URL 編集
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当の孔子や弟子たちも、旅の間中飢えや盗賊などに苦しめられたと言われています。
当時の有り様を記録する歴史書には、しばしば「皆飢えて、隣家と子供を交換し合って食べた」旨の記述があります。
もちろん、人食など考えただけでおぞましく、到底容認出来ないものですが、今の飽食日本を生きる我々に、果たして当時の中国における人食を非難出来るのでしょうか?
「今の価値感で過去を裁いてはならない」
どこかで聞いた事のある言葉では?
そうは言っても、昔ほど食に困ってもいないにも拘わらず、未だに人食が止まない(という噂です)現代の中国は、やはり野蛮であると断ぜざるを得ないでしょう。
2010/12/12 URL 編集
名も無き愛国者
満州といえば、西欧諸国が植民地化・資源獲得の狙いを付けていた場所ですね。世界恐慌後のブロック経済化・保護貿易化の進む世界では日本の命綱であったし、軍事大国のソ連・ロシアとの緩衝地帯の意味もあったでしょう。そこで何が起こったのか、日本人なら満州進出の是非を様々な角度から絶対に学習しなければなりません。以前の満州関連のエントリーも興味深く拝見しました。ねずきちさんのBlogは、24時間無料開放された貴重な資料庫、近現代史アーカイブだと思います。
これからも頑張って下さい。
2010/12/11 URL 編集
韓国ナショナリズム 変質者 岡田克也
大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人
大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人
大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人
大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人 大前研一は韓国人帰化人
竹島は韓国領で構わないと主張する絶倫変態野郎 大前研一
日本国内における韓国人売春婦の経済効果でも計算しとけ、強姦大国韓国人帰化人の大前研一
2010/12/11 URL 編集
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本当に売っていません。
復刻ドットコム
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail%3Fno%3D9868&wsi=8713c26c439622d3&ei=iHnMTJjiJsuikAWYoo22BA&wsc=tb&ct=pg1&whp=30
にリクエストしてみましょう。
2010/12/09 URL 編集
zipangu
2010/12/09 URL 編集
杜若
それを念頭におくと中国の「孔子平和賞」はなにかお笑いじみてますね。
そのうち、孔子は聖人ではなくて人肉グルメ人という定説になるかもしれません。
気持ち悪いことを書いて失礼しました。
こんなことを書いてるとそのうち投稿禁止になるかもしれませんね、、^^。
2010/12/09 URL 編集
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↓ ↓ ↓
ノーベル平和賞に対抗 “茶番劇”孔子平和賞に失笑 本家同様、受賞者不在
2010.12.9 21:04
http://sankei.jp.msn.com/world/china/101209/chn1012092107004-n1.htm
「孔子平和賞」受賞となった台湾の連戦元副総統の代理として、トロフィーを受け取る少女(左)=9日午後、北京市内(共同) 【北京=川越一】中国の民主活動家、劉暁波氏に対するノーベル平和賞授賞に対抗して、急遽(きゅうきょ)設立された「孔子平和賞」の授賞式が9日、北京市内で行われた。初代受賞者に選ばれた台湾の連戦・中国国民党名誉主席は受賞を拒絶。本家と同様、受賞者不在というおまけがついた“茶番劇”に、報道陣から失笑がもれる一幕もあった。
「孔子平和賞は長い間準備してきたものだ」「連戦氏は当代の平和に貢献した」「(劉暁波の)3文字とは関係ない」-。選評委員会の譚長流委員長(北京師範大博士)が顔を真っ赤にして訴えた。
孔子が論語の中で述べた「和をもって貴しとなす」の心を設立理由に挙げ、ノーベル平和賞への対抗措置であることを否定。だが、パンフレットには「ノーベル平和賞は世界中の人々に開放され、少数派の推薦で決めてはならない。同賞は多数派とは言い難く、不公平さ、誤謬(ごびゅう)は免れない」と明記されている。
インターネットを通じた投票に基づいて選出したといいながら、サイト名や調査期間の公表を拒否。台湾メディアが連戦氏の受賞拒否についてただすと、「拒絶などできない…」としどろもどろに。同氏に正式に通知すらしていないことも明らかになり、最後は無関係の少女にトロフィーを渡してお茶を濁した。
2010/12/09 URL 編集
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時々「中国ロシアは獣同然」との意見を見つける事がありますが、それは少し違います。
狼や虎などの獣は、こんな残酷な殺し方はしません。
ですから、獣では無く、悪鬼と言う方が、より事実に即しています。
これは悪口の類では無く、事実を通した見解です。
2010/12/09 URL 編集
おりおり
私は奉天(瀋陽)駅に行ったことがあります、そんなことがあったとは知らず…留学時はいつも謝ってばかり。無知は本当に身を滅ぼしますね。
2010/12/09 URL 編集
翡翠
最後、「デスバイハンギング」という判決を、冷静に受け止め、静かに頷いていた東条英機初めとする「戦争犯罪人」とされた人々の顔が脳裏に焼きついて、私は忘れることができません。
日本は素晴らしい、良い国。反日外国人や反日日本人と戦って、勝利しないといけないと思います。
2010/12/09 URL 編集
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世界はあまりに野蛮で、ずる賢く、醜悪ですね。
2010/12/09 URL 編集
マカロン
カルタゴの話は 確かに身につまされます
ですが、私たち日本人には 《天皇》がおられます
日本の心は、《天皇》がまとめてきた
アメリカが憲法にしなくとも、私たちの心は《天皇》にあり、《天皇》は私たち 日本国の象徴、日本人の魂なのです
だから、私たちは カルタゴのようにはならない
決して!
させない!!
失礼致ましたm(_ _)m
2010/12/09 URL 編集
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2010/12/09 URL 編集
共通一次世代
(「諸君! 2006 2月号」佐々淳行 著)
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平成17年(2005年)11月25日、ノーベル工業株式会社会長・志賀淑雄さんが91歳の波瀾に満ちた生涯を終えた。
志賀さんは日本海軍史にその名を残す零戦の飛行隊長で、敗戦により価値観が崩壊した戦後の日本では忘れられた英雄だった。
始めて志賀さんに会ったときの驚きを、筆者は今も忘れない。
彼を紹介してくれたのはスイス・エリコン社の日本代表、英国籍のサビエル・小池氏(故人)だった。
志賀さんは、中肉中背の、礼儀正しく穏やかで謙虚な中年紳士という印象だった。
渡された名刺を見て首をひねった。志賀淑雄?聞いたことがある名だ。共産党幹部に同名異人がいるな。まてよ、もしかして太平洋戦史によく出てくるあの有名なゼロ戦乗りか?
「失礼ですが、もしかしてハワイ空襲の空母『加賀』のゼロ戦制空隊長の志賀さんですか?」とたずねてみると、「ハイその志賀でございます。こうして生き恥をさらしております」という返事が返ってきた。
戦史上、筆者の知っていた志賀淑雄海軍少佐は、鹿児島出身、海兵六十二期、旧性四元、源田サーカスとよばれた海軍戦闘隊の超エースの一員。
ハワイ空襲以来「加賀」「飛龍」「隼鷹」「信濃」と四隻の空母の分隊長又は飛行長として徹頭徹尾太平洋のあらゆる海空戦を最前線指揮官として戦い抜いた。
とくに南太平洋海戦では三回も攻撃隊指揮官として出撃し、最期は沈みゆく米空母の上を超低空で航過し、艦番号を自分の目で確かめて、それが「ホーネット」であることを報告した英雄だった。
(中略)
気性の烈しい軍人だったようだ。
麾下の零戦隊から特攻隊志願者を差し出せと高級幕僚が命令してきたのを断乎拒否し、「どうしてもというなら私が征く。その時は参謀長、貴官も私と一緒に征け」とくってかかり、辟易した参謀は尻尾を巻いて引き上げたというエピソードもある。
(中略)
「なぜ戦後航空自衛隊に入らなかったのですか?」と訪ねると、
「多くの部下を戦死させました私の出来ることは、彼らの菩提を弔うことと、生き残った戦友たちや戦死者の遺族たちの生活の面倒を見る事です。
空戦中、敵機に後ろに廻り込まれてあわや撃墜されるかと思ったとき、列機が間に割り込んで庇ってくれ、被弾炎上したその零戦の搭乗員が私に挙手の礼をして墜ちていきました。
その姿が忘れられません」という答えだった。
部下に殉職者を出した経験のある筆者には、数限りない修羅場をくぐり、地獄をみ、多くの部下同僚を戦死させた志賀さんの菩提遁世の心境はわかるような気がした。
戦争がなくなった戦後でも、日夜命がけの任務を遂行している
警察官の身の安全について志賀さんの力の入れようは尋常ではなく、利益を度外視して警察のニーズに対応してくれた。
筆者が後藤田警備局長(当時)の特命で ケネディ暗殺事件調査と要人警備体制の研究のため訪米したとき、フーバーFBI長官にお土産として持参した伸縮式特殊警棒は、志賀さんのノーベル工業製のものだった。
(中略)
警察官たちを凶弾凶刃から護る最期の護身装備である防弾・防刃チョッキ、初期の爆発物処理器材などなど、志賀さんが研究開発した警察装備は数々あった。
だが、枯淡の心境にあった志賀さんは、いざ量産、やっと儲かるという段階になると実に爽やかに大企業に儲けの機会を譲ってしまい、筆者らはそのあまりな無欲さぶりに歯がゆい思いをしたものだ。
謙虚な人柄だった。ある時、「志賀さん、零戦の星として四年も最前線で戦い抜いたんですから、さぞ沢山敵機を撃墜したでしょう。撃墜記録は何機ですか?」と聞いてみた。
答えは「単独撃墜は六機でございます。あと協同撃墜はもっと多うございます。ある程度撃っておいて、まだ撃墜記録のない新参の列機に墜させるんでございます」
これには筆者は恐れ入った。
ハワイ空襲、ミッドウェイの支援作戦だったアリューシャン作戦、珊瑚海海戦、南太平洋海戦等々艦上戦闘機零戦の分隊長、飛行長を四年間第一線の艦隊勤務で、最期は松山の柴電改第三四三飛行長として、勝ち誇る米高速機動部隊のパイロットたちをして「日本にまだこんなに強い戦闘機隊が残っていたのか」と驚嘆せしめた志賀淑雄少佐のことだ。
撃墜五十機といおうが百機といおうが、流石「源田サーカス」の列機だった名パイロット、当然のことと世人は納得するだろうに、「六機」ときた。
この人は「本物だ」と思ったものだった。
(略)
筆者は日本のために戦い、大空に散った空の勇士たちを代表するにふさわしい人を招いてよかったと目頭が熱くなった。
昭和史の語り部志賀さんは、遂に勲を語ることなくこの世を去った。志賀淑雄さん、どうぞ安らかお眠りください。
=========
2010/12/09 URL 編集
共通一次世代
「命の大切さ」「戦争の悲惨さ」は「広島、長崎」でも充分刻まれます。いまも子供たちが殺される事件が起こったとき、学校は子供たちに「命の大切さ」を教える。でも命の大切さはみんな解っているはずです。
あの北朝鮮のような気の狂った、異常な人間がこの世の中にはいる。次に教えるべきはそれらから自分の命を守るにはどうしたら良いか。そして多くの命を守るためにはどうすべきか。これがすっぽり抜けてしまっている。
また、昔、狂人の集団から日本を、日本人を守るために戦ってくださったのが英霊の方々であること。自分の命を賭けて守ろうとしてくれたこと。いまの自衛隊の方々も同じく日本を守ってくれていること。
自分たちの命がどんな人達の努力のお陰で守られているか、どれほど命がけで守っていただいているか、それを教えることが重要だと感じます。
仙谷の「暴力集団」という言葉は、本当に許せません。
あの言葉は国を守るために命を賭ける人たち全てを冒涜した言葉だと思います。即刻議員辞職すべきだと思います。
2010/12/09 URL 編集
球出しおやじ
2010/12/09 URL 編集
チェルノブ
その1 携帯では全文表示しきれず最後まで読めない事が有ります。改善して頂きたいです。
その2 「博士の独り言」のように「ねずきちのひとりごと」も書籍化を希望します。親戚・縁者に配布するつもりです。学校の教科書には何も期待出来ません。
2010/12/09 URL 編集