• 海戦史を塗り替えた男・・・吉川潔艦長


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    吉川潔艦長
    吉川潔艦長


    先日鈴木貫太郎の記事を書きました。

    その記事の中で、彼が水雷艇を駆って、日清日露の海戦で大戦果を挙げたことに触れました。

    水雷艇は、またの名を魚雷艇といいます。
    1870年代に開発された魚雷を積んだ水雷艇は、敵の大型戦艦の間を縫って走りまわり、近づいて巨大な破壊力を持つ魚雷を放つ。

    水雷艇は小さいので、敵戦艦の巨大な主砲もなかなか当たりません。

    これは戦艦戦隊にとって脅威です。

    小型高速艇が巨大戦艦を打ち破る。まさに日本らしい戦法といえますが、こうした戦果を受けて、どうにかして水雷艇をやっつけなければならないという研究が、世界中でなされます。

    そして、ちょこまかと走り回る水雷艇を捕捉し退治するためには、やはりちょこまかと走り回れる水雷艇が良いと考えられ、それまでの水雷艇から、砲力と走行性能を一段と強化した水雷艇が考案されました。

    それが「駆逐艦」です。

    駆逐艦は、英語名をDestroyerといいます。
    そうです。あのプロレスラーで有名なデストロイヤーです。

    その駆逐艦に生涯を捧げた日本軍人がいます。

    吉川潔(きっかわきよし)といいます。

    明治33(1900)年1月のお生まれです。
    広島県広島市段原町のご出身です。

    「不滅の駆逐艦長」といわれました。
    連合軍が恐れた五人の提督の中のひとりです。
    五人の提督の中で、彼だけは階級が中佐です。
    戦死され二階級特進で少将の栄誉に輝いています。

    父親は、漢学者で、家はもともと戦国時代の猛将吉川元春の係累なのだそうです。

    吉川潔は、旧制広陵中学(現広陵高等学校)の出身です。
    広陵高校といえば、広島商業と並んで、甲子園でも有名な学校です。いまもプロ野球選手を多数輩出しています。

    広陵を卒業した吉川潔は、海軍兵学校を受験します。

    ところが、身長が低かった彼は、身長と胸囲の不足で不合格になってしまいます。
    彼は、口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げます。

    そして翌年海軍兵学校に合格した。

    海軍兵学校時代の吉川は、同期生のなかで、もっとも背が低かった。
    後年彼は駆逐艦長を務めるけれど、戦闘の指揮を執るときは専用の台の上に立ったといいます。部下を殴るときも、飛びあがって殴った。

    兵学校での成績も下の方だったそうです。
    しかし彼は体力、気力にあふれていた。
    相撲、柔道、剣道、水泳に長じ、分隊競技では、隊を優勝に導いています。

    最近の学校では、ハンデがあるからと甘やかしたり、競争そのものを否定したりする風潮があるといいますが、そうではない。
    ハンデがあれば、それを克服する強い自分になる。自己を鍛えあげ、一定の分野で誰にも負けない実力を身につける。
    吉川は、まさにそれを地で行った。

    大正11(1922)年6月、海軍兵学校卒業。
    吉川は、「長月」の水雷長などを経験した後、「春風」「弥生」「山風」「江風」と4つの駆逐艦長を勤めます。

    そして昭和15(1940)年、40歳になった吉川は中佐に昇進、駆逐艦「大潮」の艦長を拝任します。

    艦長としての彼は、恐れを知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄、部下に対する思いやりの深さがあった。
    艦の中で最年長だった彼は、どんなに苦しい戦いのときでも明るさを失わず、乗員のなかへ入って気軽にはいり、笑いの渦を巻き起こしたといいます。
    彼の艦には「この艦長のためなら」という気風がみなぎった。

    大東亜戦争開戦後の昭和17年2月、バリ島沖海戦では、吉川艦長の指揮する駆逐艦「大潮」は、僚艦と協力して、巡洋艦3、駆逐艦7からなる米蘭連合軍に4回にわたる戦いをいどみます。

    そしてオランダの駆逐艦ピートハインを砲撃と雷撃で撃沈。
    さらに巡洋艦3隻中破、駆逐艦3隻小破という大金星をあげる。

    この年4月、彼は一時内地に帰還し、駆逐艦「夕立」の艦長に異動となります。

    8月末「夕立」はソロモン海北西の島を基地に、陸軍一木支隊の兵員をガダルカナル島に上陸させる任務を負います。

    以来、第三次ソロモン海戦開始までの二か月半、「夕立」はガダルカナル島に18往復します。
    うだる暑さ、絶え間ない空襲、まとめて2時間と寝ることのできない不眠のなかで、一回に約150人の陸兵と、15~30トンの武器、弾薬、食糧を回送した。


    輸送任務のとき、軍医長だった永井友二郎中尉が吉川に聞いたそうです。

    「輸送を何べんやっていても、急降下爆撃機に突っ込んでこられると、首をすくめてしまいます。艦長はこわくないのですか」

    すると髭面の吉川は、ニヤリと白い歯をみせてこう言った。

    「そりゃ、俺だってこわいさ」

    「だがなぁ、永井、私は対空戦闘や操艦で頭がいっぱいで、こわいのを忘れてるんだ。
    軍医長のように、する仕事がなくて、ただどうなるか待っているのはこわいはずだ。
    自分の使命感で耐えるほかはないだろう」

    率直に「こわい」と語る吉川艦長の言葉に、永井軍医は心を和ませます。
    そしてその後は任務第一を心がけるように努めたそうです。


    看護長の奥村忠義二等看護兵曹は、吉川にこんなことを言われた記憶があるそうです。

    「なぁ奥村。俺は死んでも代わりがある。だがな、お前が死んだらだれが病気やけがの面倒をみてくれるんだ? 奥村、おまえは体に十分注意しろよ」

    激しい戦乱の中、奥村はこの言葉に涙を流したそうです。


    バリ島沖海戦では、こんなエピソードがあります。
    撃沈した「ピートハイン」からボートで脱出中の敵乗員10人を、吉川の「大潮」が救助します。そして彼らを捕虜収容所に送った。
    1ヵ月ほどして、捕虜の食糧が欠乏していると聞いた吉川は、「そりや大変だ」と言って食糧、菓子、タバコを持って、捕虜たちの慰間をした。

    このときの吉川が捕虜たちを見る目はとても暖かく、まるで自分の息子に語しかけているように見えたそうです。

    輸送作戦に従事していた9月4日、陸兵をガ島に揚陸したあと、敵飛行場を発見した「夕立」は、これを砲撃し大打撃を与え、さらに駆逐艦二隻を撃沈します。

    このときのことを連合艦隊参謀長宇垣少将は、9月5日の日記にこう書いています。

    「吉川中佐の如き攻撃精神旺盛、体力気力抜群の者が武人としてよく勝ちを収める」


    昭和17年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦が起こります。

    日本艦隊はルンガ岬に進出します。

    そこにカラハン少将率いる米艦隊が待ち伏せしていた。

    敵艦隊発見!

    そのままでは、日本艦隊は包囲され、壊滅してしまいます。

    吉川は、僚艦の「春雨」とともに、みずから操縦する駆逐艦「夕立」と2隻で、米艦隊に向けて猛突進を敢行します。

    米艦隊は、この2隻の駆逐艦との衝突を避けようとパニックに陥いる。

    この隙を見て、日本艦隊は先制砲火を開始します。

    先制砲火を確認した吉川は、艦を反転させると、日本の主隊と交戦を始めた敵艦隊の真っただ中にもぐりこみます。

    そして軽巡洋艦「アトランタ」に魚雷2本を命中させて航行不能に陥らせ、次いで至近距離から旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせた。

    真っ暗闇の中の海戦で、「夕立」は敵味方からの多数の弾丸を受け航行不能となったけれど、この海戦における吉川艦長の働きは、その旺盛な攻撃精神といい、卓抜した戦闘技法といい、まさに駆逐戦隊の華と称えられた。

    この戦いにおける駆逐艦の戦いぶりは、世界の海軍史を通観しても、これに匹敵する事例を他に見出せないものとされています。

    吉川の戦歴見ると、全海戦で8隻を撃沈、12隻撃破というめざましいものです。
    しかし彼は、功を誇ることは一切せず、訓練においては、必ずみずから号令を下し、砲戦、水雷戦が自分の意図どおりに行なわれるよう、厳しく部下を訓練した。

    第三次ソロモン海戦を振り返って中村悌次は、

    「闇夜のなか、流れるように口をついて出る的確な号令は、まさに自己訓練の賜物だった」と、吉川の冷静で果断な指揮を語っています。


    第三次ソロモン海戦から帰投した吉川は、海軍兵学校教官への転任を断り、駆逐艦「大波」の艦長を引き受けて、ふたたび激闘のソロモン海へ向かいます。

    ガダルカナル島撤退の後、敵の北進を阻止するため、「大波」はブーゲンヴィル島北端のブカ島への輸送、補給を行います。

    目的を果たして帰投中の昭和18年11月24日、最新式レーダーを装備した米駆逐艦に雷撃され、「大波」は大爆発を起こし、数分で乗員もろとも海底に没した。

    吉川潔は、戦死後、駆逐艦長としてただ一人、二階級特進の栄誉を担い、少将に任ぜられたのです。

    ねずきちは、別に軍事オタクではありません。
    ただ、吉川潔艦長という人物の生きざまをみたとき、小兵ながらも自らを鍛えあげた男の精神の凄味、また、そして部下を持つ男としての心得など、この人物を通じて、ボクたちはものすごく多くを学べるのではないかと思うのです。

    日本人にとって戦争の記憶は、長く、とても苦しいものだった。
    しかし、その長く苦しい戦いの中で、堂々と、そして潔く生きた男たちの記憶というものは、日本人は決して忘れてはならない、そんなふうに思うのです。

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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