そもそも一方において自衛隊を暴力装置呼ばわりした閣僚を野放しにし、一方において尖閣問題や南北朝鮮の砲撃合戦があり、現実に竹島を武力で制圧され、北方領土にはロシアの大統領やら副大統領やらが公然とやってきているというこの国際情勢の中で、ただでさえ要員数が不足して身動きがとれない自衛官をさらに人数を圧縮するなどと、公然と述べている総理が、なんでこの時期に硫黄島なのか。
そして堂々と軍手で手を合わせるという非礼をマスコミを通じて発表する。
なんだか情けなくてたまりません。
硫黄島については、昨年6月に「硫黄島の星条旗と日章旗」という題で、文章を書かせていただきましたが、今回、このカンソーリ事件に鑑みて、その記事を再掲したいと思います。
硫黄島の思いを、みなさんと再確認したいのです。
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硫黄島の戦い(昭和20(1945)年2月16日~同年3月26日)は、大東亜戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘です。
日本軍は、20933名の守備兵力のうち20129名までが戦死されました。
硫黄島の戦いは、大東亜戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶な戦いでもあります。
第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の、実に4分の1以上が、硫黄島侵攻部隊のために与えられています。
さらに米海軍は、いくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名しています。
大戦後に制定されたアメリカ海兵隊記念日は、硫黄島の戦いにおいて、同島の擂鉢山に星条旗を立てた日でもあります。
戦没者を弔う米国立アーリントン墓地のアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものです。
当時、全米で新聞紙上を飾った硫黄島の戦いを象徴する写真今日書くのは、この写真にまつわるお話です。
硫黄島は、その字のごとく、島全体に硫黄が噴き出す島です。
地下壕内の温度は、摂氏50度に達します。
地下壕内には、水もありません。
壕内にこもる将兵の水は、ですから外からパイプで、壕内に引きこんでいました。
ですから、上の写真の星条旗にある旗竿のパイプは、この写真が撮られたとき、まだ壕内に残っている日本の将兵たちの命を支えるためのパイプでした。
その、写真に写っている星条旗は、最初に掲げられたものではありません。
いったん掲揚されたあと、あらためて写真撮影のためにと、大型の星条旗を掲げたときのものです。
AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールが写したこの写真は、同年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しました。
創立以来常にその存在意義が問われ続けていたアメリカ海兵隊は、この写真によって水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示しています。
この光景を目撃したフォレスタル海軍長官は「これで海兵隊も500年は安泰だな。」と語ったといいます。
実は、硫黄島の戦いの時点で、米国政府は歳費を使い果たし、国家破産目前の状態にありました。
けれど、この硫黄島の星条旗写真によって、膨大な戦費が民間の寄付で集められ、破産の危機を救っています。
この写真に写っている兵士たちが全米各地を回り、寄付金を得るための講演をしてまわっていた、というのも有名な話です。
この旗について、映画では語られない実話があります。
それが何かというと、実は米軍が擂鉢山に星条旗を掲げた翌日、摺鉢山守備隊の日本兵がこれを奪還して、日章旗を掲げていたという実話です。
米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼きました。
そしてかなり時間をかけて、次の星条旗を掲げています。
けれど、この二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取りました。
そして今度は、やや赤茶けた色の日の丸の旗が掲げました。
血で描かれた日の丸でした。
この旗も、三度、星条旗に変わり、その後、日章旗に戻ることはありませんでした。
このときの様子を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次さんが手記に記しています。
(「17歳の硫黄島」秋草鶴次著)
米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚しました。
秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞いていたのです。
大変、賑やかだったそうです。
翌日、秋草通信兵は、摺鉢山の頂上に今度は日章旗がへんぽんと翻っているのを、島の反対側にある硫黄島の司令本部から見ています。
彼はすぐに栗林中将を呼びました。
遠く、擂鉢山のてっぺんに、日の丸が翻っている様子を見た中将は、
「守備隊は頑張ってるな」とポツリと語られました。
それを聞いたとき、秋草通信兵は、思わず感涙にむせいだといいます。
けれどこのとき、私達日本兵が立てこもる地下壕の中は、凄惨を極めていました。
水も食料もありません。
蚤や虱は、追っ払うのでなく、捕まえ、つぶして食べたそうです。
傷口が化膿してウジ虫がわく。
それも口に入れました。
噛んで汁を吸い、ついで皮を噛み砕こうとしますが、これが意外と堅かったそうです。
また、実家で豚の餌に、炭を混ぜていたことを思い出し、炭も口にしたりしています。
壕の中は、息苦しく、ありとあらゆる不快な臭いに充ちていました。
天然の硫黄臭に加えて、排泄物のにおい、死臭、流れ出た血の腐臭。
それは耐え難いものだったといいます。
死体からは燐(りん)が流出しました。
燐は、浮遊しながら、あちこちで燃えて火の玉となりました。
「ひとだま」です。
大怪我をしていた秋草さんは、まどろみ、もうろうとなり、三途の川らしき光景に身を置くところまで見たと書き遺しています。
敗色濃厚となった頃、米軍から投降の呼びかけがありました。
既に捕虜となっていた日本兵が「戦争は終わった。米軍は安全を保証する。心配ない。みんな安心して出てきてくれ。」と放送して回ったりもしたそうです。
しかし壕にいる兵士たちは、誰ひとり、そんな呼びかけに応じなかったそうです。
なぜでしょうか。
硫黄島の戦いのあった前年(昭和19(1944)年)夏、アメリカ軍はサイパン島を攻略し、11月からB-29で日本本土への長距離爆撃を開始しました。
硫黄島は、サイパンと日本本土のちょうど中間地点にあります。
ですから日本にとって硫黄島は、日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点でもあります。
硫黄島は、航空隊の拠点でもありました。
そこを拠点に、戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることもできたのです。
実際、日本軍の爆撃機飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えています。
12月には、硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」は、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場を機銃掃射し、11機のB-29破壊し、8機に大きな損害を与えています。
このことは米軍にとって脅威です。
日本軍の硫黄島守備隊の存在によって、米軍は、グアム、サイパンからの出撃に際して、B-29に護衛の戦闘機部隊を随伴させることができません。
なぜなら距離の関係上、小柄な戦闘機はガソリンが持たないのです。
また日本上空で損傷を受けたり故障したB-29が、小笠原諸島で不時着することも多かったのです。
ちなみに、不時着して拿捕したB-29から、日本軍は航空燃料やオイルを抜き取り、これをゼロ戦や紫電改に用いました。
当時の日本軍は、オクタン価の低い粗悪なガソリンで飛行機を飛ばしていたのですが、米軍のガソリンやオイルを使って戦闘機を飛ばすと、機体の性能が「眼の球が飛び出るくらい」向上したそうです。
日本からしてみれば硫黄島は本土防衛の拠点です。
ということは、米軍からみれば、そこは日本本土への攻撃のための拠点となります。
ですから米軍は硫黄島の占領をはかったのです。
占領の目的は、次の通りです。
1 日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
2 日本軍の早期警報システムの破壊
3 硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
4 損傷爆撃機の中間着陸場の確保
5 長距離護衛戦闘機の基地の確保
このことは、日本からすると、硫黄島を死守することは、上記の目的の裏返し・・・を達成することにもつながるということです。
すなわち、
1 米航空隊を本土に来襲する前に撃滅する
2 米軍の空襲を早期に発見する
3 米軍の爆撃機に戦闘機の保護をつけさせず、まる裸にする。
前にも書きましたが、爆撃機というのは、大型であって荷物(爆弾)をいっぱ積んでいます。
当然機体は重いし、派手な宙返りなどはできない。
戦闘機からしてみれば、爆撃機というのは、ある意味、ネタでもありました。
ですから大型の爆撃機は、機体の四方八方に機銃を並べて防御力を強化しています。
これは、そうしなければならない事情があったから、です。
昭和20年になると、日本は、すでに制空権、制海権を奪われていました。
その中で、硫黄島への補給は困難を極めたし、何もない島しょにおいて、補給困難というのは、島が長く持ちこたえられないということでもありました。
これがどういうことかというと、硫黄島守備隊は、はじめから玉砕を覚悟の部隊だったということです。
島に駐屯している2万人全員が死ぬことを覚悟していました。
なぜ死ぬとわかっていても戦ったのでしょうか。
答えは簡単です。
硫黄島を米軍に奪われれば、米軍は硫黄島に航空基地を作ります。
そうすると、B-29が、戦闘機の護衛を受けながら、なにはばかることなく日本本土上空に飛来し、爆弾の雨を降らせる。
そうすると、爆撃を受けた町で、大勢の日本人が死ぬのです。
戦士であれば、自分が戦って死ぬのはある意味、本望です。
しかし、銃後を守る婦女子や非戦闘員、爺ちゃんや婆ちゃんや、オヤジやお袋、愛する子供たちが、みすみす犠牲になることだけは、絶対に防ぎたい。
手の届かない上空から、無差別に爆弾を落とされて、真っ赤に焼けて死んで行くなんて、絶対に見過ごせない。
それをわかっていて指をくわえて見ているなんて、人間のすることじゃありません。
だから戦いました。
米軍に、硫黄島を絶対に渡さない。
島にこもる全員が玉砕することになったとしても、その戦いを長引かせることで、ひとりでも多くの同胞が疎開し、助かるようにする。
それが、硫黄島守備隊のひとりひとりの覚悟だったのです。
ですから硫黄島守備隊は、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていました。
いちにちでも多く硫黄島を守り抜けば、それだけ日本本土にいる多くの人々が、疎開できます。
いちにちでも多くの日を稼げば、多くの日本人が、ひつつでも多くの防空壕を作ることができます。
そのための石礎となろう。
そのために死のう。
その決意と覚悟で、2万人の硫黄島守備隊は決死の戦いに臨んだのです。
ペリリューの戦いでは、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功しています。
栗林中将率いる硫黄島守備隊は、この戦術をさらに発展させ、地下陣地による持久抵抗によって、いちにでも長く敵を硫黄島に踏みとどまらせ、上陸部隊をすり減らすという作戦を選択しました。
客観的な数字を申し上げたいと思います。
硫黄島を奪われたあとのことです。
米軍は、日本本土にB-29で空爆を行いました。
東京だけでも、死者8万3793名、負傷者4万0918名の被害が出ています。
被災者は、100万8,005名です。
被災家屋は26万8,358戸にのぼります。
米軍は、1平方メートルあたり、3発の焼夷弾を、東京という木造家屋が密集した町に落とし、東京中を焼いて焼いて焼きまくりました。
にもかかわらず、死傷者の数が被災者数に対して意外とすくないのは、硫黄島守備隊が、およそ1か月半にわたる長く苦しい戦いを戦い抜いてくれたおかげなのです。
硫黄島守備隊が、あらゆる艱難辛苦に耐えながら、戦い続けてくれたおかげで、東京を含む太平洋側の多くの都市では、人々が疎開したり、防空壕の強化をすることができたのです。
もし、疎開がまだ十分に進まない、防空壕など、空襲対策も十分でない状態で、本土空襲が行われたら、どれだけ多くの民間人が亡くなったことでしょうか。
おそらく東京だけでも100万人以上の死者が出ています。
つまり、いまを生きている私たち日本人は、このとき命を犠牲にしてまで苦しい戦いを戦ってくださった父祖のおかげだ、ということです。
そのことに、私たちは、深く感謝しなければならないと思うのです。
それが人として当然のことです。
秋草さんは、
「死んで行った戦友に、この六十年戦争が無かったんだから、その死は無意味ではない。そう言ってやりたい」と語られました。
おそらく、この稿を読まれている方でも、戦争に賛成だとか、戦争を賛美するような人は、誰もいないと思います。
誰だって自分の体にわいたウジ虫など、食べたくなありません。
けれどそうまでして我々の祖先が守り抜いてくれたこの日本という国を受け継いだ私たちは、今度は私たちの子や孫、そして子孫のために、やはり住みよい素晴らしい国日本を残せるように、努力しなくちゃいけない。
そう、思うのです。
他国と仲良くすることは、大いに結構です。
外国人がたくさん日本列島にやってくることも、結構なことです。
しかし、日本を攻撃し、日本の文化を破壊し、日本の奴隷化を目論むような、とんでもない連中まで、ニコニコ笑顔で呼びこむ必要など、全くない。
世界には、いまだに日本と戦争をしている気になっているおかしな国があります。
そしてそれらの国々は、日本だけでなく、平和を愛する周辺国、さらには自国民に対してまで、人命軽視の非道を公然とやってのけている。
実際、東トルキスタンや、ネパールで何が行われたか。
反日教育を受けた半島人が、現にいま日本で何をやっているか。
在日韓国人の魯漢圭は、在日韓国人のための民団の新聞にこう書いています。
「もはや裏社会は我々(在日韓国人)が制圧した。その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ、やがては軍事力も手にした日には完全に日本から独立した、世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。
こうして、在日朝鮮民族はアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する」
この国には、私たちを守るために、自分のからだにわいたウジ虫まで食べて戦い、玉砕し、散っていった人達がいたのです。
その英霊たちのおかげで、いま、私たちは生きています。
擂鉢山の頂上に、ぺんぽんとひるがえった日章旗。
米軍が建てた星条旗は、地下壕に立て篭もる日本の兵隊さんたちの貴重な水確保のためのパイプでした。
そのパイプを取り返し、星条旗を外して雨水導入管として利用すれば、彼らは今宵の一杯の水を確保できたのかもしれません。
しかし彼らは、気温50度に達する地下壕にいて、自分たちの水より、擂鉢山のてっぺんに高々と日の丸を掲揚することを選び、実際、それを実行してくれた。
みんな死んでしまいました。
硫黄島で擂鉢山に日の丸を掲げてくれた日本兵が、誰だったのか、赤黒い血で描かれた日の丸は、誰の血だったのか。
いまもう、誰にもわかりません。
けれども、この日、米軍の掲げた星条旗を引きずりおろして、硫黄島に日章旗を高々と掲揚してくれた日本人がいたという事実を、私たちは決して忘れてはならないと思います。
↓よろしかったらクリックを。
Battle of Iwo Jima 硫黄島の戦い
硫黄島で散華された栗林忠道中将のお孫さんが、現衆議院議員の新藤義孝氏です。
(HP=http://www.shindo.gr.jp/index.php
ちなみに、12月20日までですが、現在、衆議院埼玉1区・4区・6区・14区の衆議院議員候補者を、募集中です。
我こそはと思う方、応募されてみてはいかが?
【募集要項は↓コチラ】
http://www.jimin-saitama.net/koubo.html
コメント
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2014/02/26 編集
戦後
2012/08/15 URL 編集
遠藤
因みに守備軍司令官栗林忠道大将(硫黄島玉砕前に大将昇進発令)と私の祖父は同期生であり(士官学校26期生)、父の従兄弟も司令部付きとして一時この島にいたことがあります。
新藤代議士とは同期生の孫同士ということで応援させていただいております。
2012/01/24 URL 編集
-
「ルーズベルトに与ふる書」についても知っていたら教えてください。
2011/12/25 URL 編集
さやーむ
菅氏の軍手で合掌する姿を見て、同じ日本人としてとても悲しく思いました。
英霊は土の中からどんな思いでその様子を見ておられるのか・・・。
でもそんな首相を選んだのは、他でもない私たち日本国民なんですよね。。。
ねずきち様のこちらの記事のリンクを拙ブログに貼らせていただきました。
事後報告になりまして申し訳ありません。
硫黄島のその後「何のためにやるのか」関テレアンカー
http://blog.livedoor.jp/siamyamato/archives/1785216.html
よろしくお願い致します。
さやーむ
2010/12/22 URL 編集
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2010/12/19 URL 編集
国賊 中国篭絡 黒田東彦 アジア開発銀行総裁
国賊 中国篭絡 黒田東彦 アジア開発銀行総裁
国賊 中国篭絡 黒田東彦 アジア開発銀行総裁
国賊 中国篭絡 黒田東彦 アジア開発銀行総裁
国賊 中国篭絡 黒田東彦 アジア開発銀行総裁
2010/12/19 URL 編集
taku
貴ブログ、よく拝見させて頂いております。
今回の記事の内容とは違いますが、一点気になる所がありコメントさせて頂きます。
冒頭にあります硫黄島の俯瞰写真ですが、記事内容の東京都硫黄島でしょうか?
私見ですが、鹿児島硫黄島のように思えます。差し出がましい事を書き込み申し訳有りません。当方の勘違いなら陳謝致します。
2010/12/19 URL 編集
-
自分の生き方をもう少し真摯に考えなければと、
改めて思わせて戴きました。
来年こそは日本がもっとより善き国になるよう、
私たちもなおいっそう努めてゆかねばなりませんね。
良い記事を有難うございました。
2010/12/19 URL 編集
猫めでる婆
ただいまコンパスで南西の方角を確認し、手を合わせてご祈念申し上げました。
これから毎朝、どうぞご無事でご帰還なさいますようにとお祈りいたします。
あなたの大切なお身内は、私たちにとっても大切な方です。
こんなことしかできなくて、心苦しい限りです。
2010/12/19 URL 編集
元組合活動家
2010/12/19 URL 編集
-
2010/12/19 URL 編集
ぷれっくす
母方の祖父は仕事の整理が付かず一人残り爆撃で亡くなったそうです。
本土への空襲があと一ヶ月早く本格化していたら、母も私も今この世にいなかったかも知れません。
そのようなことに考えがいたったのも最近のことなのですが、それ以来硫黄島で散華された英霊の方々急に近しいものに思えてきました。
こんなにも多くの人が自分たちの為に地獄の中を耐え、そして死んでいった。
戦前の教育を受けていたなら普通にわきまえていたであろう、当たり前のことに気付けないまま随分長い時間を過ごしてしまいました。
2010/12/19 URL 編集
元組合活動家
2010/12/18 URL 編集
亜
そのとき戦闘機に護衛された約20機の神風特攻隊が硫黄島の上空に現れ、上陸支援部隊の護衛空母群めがけて突っ込んだ。
艦隊空母の「サラトガ」はちょうどそのとき夜間作戦のために分派されてそこに居合わせていた。特攻機は5隻の艦に命中粉砕した。
3隻は中破程度ですんだが、「サラトガ」は2発の爆弾と3機の特攻機の命中を受け、火炎に包まれ、飛行甲板の大部分を破壊されてしまった。
同艦は必死に消火作業と応急処置によって沈没は免れたものの123名の死者と192名の死傷者を生じた上、大修理を要することとなり、その後3か月間は作戦不能となった。
護衛空母「ビスマークシー」は1機の神風機の突入を受けて、大火災を起こし、相次ぐすさまじい誘爆のため弾薬庫が爆発した。
ついに同艦は放棄され、転覆して沈み、乗員200名余りが艦と運命をともにした。硫黄島の占領は予定では5日間ということであったが、激戦死闘の反復がほとんど月余にわたって続いた。
3月15日にやっと全島の確保が宣言されたが、25日に至って潜伏中の日本守備隊が全進してきて最後の壮烈な攻撃を行った。
しかし、ついに日本守備隊はわずか2,200名の捕虜を除いてここに全員が玉砕した。
硫黄島攻略戦は攻撃軍の死傷者が防衛軍の損害を上回ったことで知られている。
実に上陸軍と艦隊乗員のうち約7千人が戦死または戦傷死を遂げ、負傷者は1万9千人という多数に達しまたのである。
ニミッツ元帥は述べている。「硫黄島作戦に参加したアメリカ人の中では超人的な勇気というものが全員に共通な普通の美点であった」
【「ニミッツの太平洋海戦史」より】
∧__∧
( *´∀) コンナに強い米軍に対抗した日本軍は本当に強かったって事だな!
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
"""~""""""~"""~"""~"
2010/12/18 URL 編集
護国
2010/12/18 URL 編集
-
かばねとなりて なおも守らん 大和の国の
勇者の想い 輩して受けん
わが身を投げて 世につながん
かたじけなしや 先人の恩
2010/12/18 URL 編集
AIXIN
17時より尖閣諸島上陸の石垣市議街頭演説
http://www.ch-sakura.jp/1428.html
ニコニコニュースhttp://live.nicovideo.jp/watch/lv34737486
【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
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2010/12/18 URL 編集
猫めでる婆
TVで菅直人の合掌パフォーマンスを見なかったので、早速フォトを探して見ました。
作業着で軍手をはめたままとは、ずいぶんご英霊を馬鹿にしてくれたものです。
硫黄島は、災害現場ではありません。
日本の気高い英雄たちが玉砕された聖地です。
その場にふさわしい服装ができないアレは、絶対日本人ではありません。
国会で口元を隠して水を飲む姿を見て帰化人だと知っていましたが、ここまでご英霊を侮辱してくれたかと沸々とどす黒い感情がこみ上げてきました。
どうせ成りすましをするのなら、日本人の神経を逆なでしないよう、もっと上手にやれと怒鳴りたいです。
ところで6月の新月の頃から、夫に「朝鮮半島がキナ臭い」と言い続けていたら、さっき『ニッポン自衛隊、中国軍と戦わば』という雑誌を買ってきました。
渡すとき「あんた、こういうの好きでしょう」と、まるで私を軍事オタク扱いです。
「もう、実は戦争中なんだよ」と言おうとしましたが、やめました。
この雑誌は週刊アサヒ芸能の増刊号ですから、まあキワモノ系でしょうが、元陸上自衛隊北部方面総監の志方俊之さんのインタビュー記事はすばらしいです。
『中国は強い相手には弱く、弱い相手には強く出る国。日本人は凛とした姿勢を貫け。』
まさにそのとおりですね。
2010/12/18 URL 編集
元組合活動家
2010/12/18 URL 編集
亜
志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、
1939年陸軍士官学校を卒業。1944年陸軍大学校を卒業し陸軍少佐に昇進。
1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。
終戦後シベリア抑留にあい、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い
モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに
諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受ける。
こういう奴がたくさんいて、戦後ずっと「日本は悪い国だ!天皇制は差別の元凶だ」
とか言い続けた。
ところで、志井という名前にピンとこないだろうか?
2010/12/18 URL 編集
best
一国の首相になる資格はないですね。
驚いた。
2010/12/18 URL 編集
えむえむ
悪い予感というのは、《カン民主党は、《遺骨の状態》について改竄、または隠ぺいするのではないか》ということです。日本人は《父・祖父の代の日本人が愛国の血を流した、硫黄島の真実》を直視すべきだと思います。
2010/12/18 URL 編集
猪
沖縄での「ヤマトンチュー」発言?何故同じ日本人と言えないのか、死ぬ以外に完治の方法は有りません。毎日は意見は致して居りますが・・・偶には書かせて下さい。
2010/12/18 URL 編集
共通一次世代
怒りに震えました・・・。
2010/12/18 URL 編集
和田
『両軍の勇戦に敬意を!!』
2010/12/18 URL 編集
愛信
http://www.ch-sakura.jp/1428.html
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http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
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2010/12/18 URL 編集
すずき
誰にもこの誇らしさを否定することなど出来ないでしょう。
絶対に本当の日本を取り戻しましょう。
多少の意見の違いはあるでしょうが反日サヨクをこの日本からたたき出す気持ちは一緒だと信じています。
まずは売国奴どもを追い出してからゆっくり日本をどうするか考えませんか。そうしないとあいつらを追い詰めることも出来ませんから。
2010/12/18 URL 編集
プラ亀
マスゴミの凄さはここまで行ってるようです。
2010/12/18 URL 編集