日本人の生き方 醍醐忠重海軍中将



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20160423 ヒナゲシ


写真は、この時期によく見かけるヒナゲシの花です。
ヒナゲシは虞美人草とも呼ばれ、花言葉はいたわり、思いやり、忍耐です。

日本人といえば、特定の三国を除いて、世界中の人々から勤勉、親切、真面目、正直、礼儀正しい、助け合う、優しい、協力的といったイメージを持たれているようですが、その実態は、思いやりと、忍耐力にあろうかと思います。
そこで今日は、日本人の生き方というタイトルで、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将をご紹介したいと思います。
終戦当時日本海軍の第六艦隊司令長官だった方です。
第六艦隊は潜水艦隊です。

醍醐中将は、明治二十四(1891)年、名門貴族の醍醐家の嫡男として生まれました。
醍醐家は旧侯爵家です。
れっきとした華族のご出身です。

華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
けれど醍醐中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人でした。



醍醐忠重海軍中将
醍醐忠重海軍中将


醍醐中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めました。
けれど醍醐中将がまだ八歳の頃に他界しています。
母も相次いで亡くなりました。
醍醐忠重中将は、ですから孤児となって一條家にひきとられています。

子供の頃の醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
とても強かったそうです。

明治四十二(1900)年に、海軍兵学校に、第四十期生として入校しました。
入校時の成績は、百五十名中、百二十六番です。
それが入学後の猛勉強で、卒業時には百四十四名中、十七番になっていました。
たいへんな努力家でもあったのです。

兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐中将は、
「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、
 上品で服装もきちんとしていた。
 酒を飲んでも少しも乱れることはなく、
 謹厳で、しかも謙譲な奴だった」そうです。

昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
卒業すれば、高級士官になるからです。
けれど醍醐中将は現場勤務を選択し、巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になりました。
そして大正六(1917)年に、初の潜水艦勤務に就きました。
このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生を決定づけました。

当時大尉だった醍醐中将は、練習艦隊参謀にという内示があったけれど断っています。
醍醐中将は生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。
このとき醍醐中将が艦長を務める潜水艦は、たった一隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるというはなれ業をやってのけています。

もちろん演習ですから実弾は使用していません。
けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく全滅させられたのです。
この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれています。

昭和十三(1938)年、醍醐中将にご皇室の侍従武官の話がもちあがりました。
このとき彼が海軍大学校を出ていないからと反対意見があったそうです。
しかし人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官になっています。

当時を振り返って、入江侍従は、
「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

さて、戦争も末期となった昭和二十(1945)年五月のことです。
醍醐中将は第六艦隊司令長官に就任しました。
このとき第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えました。
潜水艦を愛し、潜水艦を知り、部下たちの心を理解する醍醐中将の長官就任は、まさに艦隊全員の喜びだったのです。
醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新されたといいます。

この頃、第六艦隊で、作戦可能な潜水艦はたったの九隻でした。
けれど醍醐中将が司令長官となった潜水艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。
重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。

インデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊五十八潜水艦は、六本の魚雷を発射し、三本を命中させて撃沈しています。
このことを、当時のニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の一ページ」と書いています。

この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載していました。
醍醐中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。
そのとき、出撃する「回天」の乗員ひとり一人と握手するとき、醍醐中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
優秀な若者を特攻させなければならないのです。
そのことに醍醐中将は深く悩んでいたのです。

終戦直後のことです。
艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。
このとき第六艦隊には、かなり巨額の金が残っていたのです。
そしてそのお金の処分が醍醐長官の決定に委されました。

醍醐中将は、
「このお金は国家のお金です。
 ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
 何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談しました。

鳥巣参謀は、
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
 本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、
 この混乱の中ではとても手が回りかねます。
 回天関係ならば全員わかっていますから」と答えました。
醍醐中将はこの方法に賛成し、即座に決定しました。

決定は、昭和二十一(1946)(年正月から春にかけて実行に移されました。
各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えました。遠距離でどうしても行けないところには郵送しました。

このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
以下にその弔辞を引用します。
わかりやすさを優先するために、いつものねず式で、現代語に訳してみます。

*****
【弔辞・謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ】

去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
皇国は鉾(ほこ)を収めて、ポツダム宣言受諾のやむなきに至りました。
まことに痛恨のきわみにして、何をもってこれをたとえたらよいのか、言葉もありません。
散華されたみなさんの忠魂を思えば、哀々切々の情、胸に迫って胸が張り裂けんばかりです。

かえりみるに、みなさんには、志を立てて海軍に入り勇躍大東亜戦争に臨んでいただきました。
けれど戦い中途からの戦況は厳しく、そのためにみなさんは回天特別攻撃隊員となり、そして戦勢を挽回しようとしてくださいました。
その闘魂は、まことに鬼神をも泣かしむるものです。

みなさんは秋霜烈日の訓練に従事されました。
ひとたび出撃するや、必死必殺の体当り攻撃をして敵艦船を轟沈する偉功を樹ててくださいました。
そして、悠久の大義に殉じられました。
まことにその忠烈、万世に燦然と輝くものです。

けれど、みなさんの武勲が赫々(かくかく)たりしものであったにもかかわらず、戦い利あらず、ついに今日の悲運となりました。
いったい誰が、今日のこの事態を予期したことでしょうか。

私達は、みなさんの期待にそうことができませんでした。
ですから、みなさんの忠魂を慰めることなどできかねます。
ああ、なんと申し上げたら良いのでしょう。

けれど、みなさんの誠忠遺烈は、万古国民の精髄です。
必ずやみなさんの七生報国の精神は、脈々と続き、永遠に皇国を護ることでしょう。

今、皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
今後におけるイバラの道は、実に計り知れません。

けれど、私達は必ずや、みなさんの特攻精神を継承し、たえがたきをたえ、忍び難きを忍び、もって新日本の建設に邁進することをお誓いします。

願わくば、やすらかにお眠りください。
ここに、敬弔の誠を捧げ、みなさんの英霊を慰める弔辞とします。

元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
**********

遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた人がいました。
彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になりました。
その話を聞いとき、鳥巣元参謀は心から喜ばれました。
「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」
しかしそのとき、醍醐中将はすでにこの世の人ではありませんでした。

昭和二十一(1946)年十二月のことです。
醍醐中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けました。
そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。

醍醐中将は、昭和十八年十一月から第二十二特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのです。
そこでポンチャナック事件に遭遇していたのです。
ポンチャナック事件というのは、概略次のような事件です。

昭和十八年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化させていました。
こういう作戦は、戦時においてはあたりまえのようにあったものです。
後方をかく乱させ、敵の戦力を削ぐために、反乱分子にカネや武器を渡して、その反抗をあおるのです。

ある日、ポンチャナックの特別警備隊長をしていた上杉敬明大尉のもとに、副隊長の中村少尉から、ある情報がもたらされました。
それは、十二月八日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を混ぜて、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものでした。

報告を受けた第二十二特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令しました。
そして調査の結果、逮捕された千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。

しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没しています。
つまり、逮捕した犯人を、別な島に送ることができない情況にあったのです。

加えて日本軍の警備隊といっても、人数はたかだか百人ほどです。
逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかわからない。
いったん反乱が起きれば、むしろ日本側が全滅するのは目に見えています。
そこで司令部は、四月上旬、上杉大尉に彼らの即時処刑を命じました。

一方、終戦後のボルネオでは、逆に、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
オランダにしてみれば、日本を追い出しさえすれば、ボルネオが手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ人を、ボルネオの人々は排除したがっていたのです。

そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、「君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ」という、報復裁判を演出しようと企図しました。
こうして醍醐中将は、戦争終結後一年半も経ってから、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されました。

このポンチヤナック刑務所というのがひどいところでした。
郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになります。
しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわきました。
不衛生極まりない悪環境です。

昭和四十九年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、三十年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。

醍醐中将は、昭和二十二年二月にこの刑務所に入れられました。
刑務所の周囲には、深さ二メートルほどのドブがありました。
そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。

看守は、そのドブさらいを醍醐中将に命じました。
普通、これはありえないことです。
海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものだからです。

けれど、オランダの醍醐中将に対する措置は真逆でした。
それは、報復のためでした。
醍醐中将は、真っ暗なドブにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりもしました。
しかし醍醐中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。

インドネシア人の看守は、ついに醍醐中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
そして、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになりました。

どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
そして十月三日、醍醐中将に死刑の判決が言い渡されました。

死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
死刑が確定した時、通訳が醍醐中将にそのことを伝えました。
醍醐中将は、
「ありがとう。大変お世話になりました。
 オランダの裁判官の皆さんに、
 あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

処刑は民衆の面前で行なわれました。
処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、
 身には真っ黒の洋服を着用、
 頭にはラシャの帽子を被り、
 目かくし布はなかった。
 努めて平静の様子だった。
 刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、
 彼は国歌を歌った。
 その歌調には壮絶なものがあった。
 歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
 それが終わると、
 直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、
 全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」

陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針の穴で次の文を書き綴りました。
これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。
そこには、次のように書いてあります。

「十二月五日
 昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
 閣下は平然としておられる。
 実に立派なものだ。
 一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
 かつて侍従武官までされた人だったのに。

 十二月六日
 海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
 余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
 国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
 その声我が胸に沁む。
 天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
 予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
 予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
 閣下は私のお貸しした『生命の実相』をよくお読みになり、
 死の前日、そのお礼を申された。
 閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」

東日本大震災の現場でも、そして目下の熊本地震の避難所でも、たいへんな暮らしの中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がたくさんいます。
よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、
「顔晴る」なのだそうです。

醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。

醍醐中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。
醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


※この記事は2011年4月の記事のリニューアルです。

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コメント

「ど」の字

それは、定石のように人の心を支え、あるいは打ちのめす。
 先ずは、日本人として誇るべき生き方をして下さった醍醐忠重海軍中将閣下に、合掌してお礼を申し上げます。
 日本史には、こういった立派な方々がどれだけ居られるのでしょう。
 そして、そうした人々はどれだけ現在の歴史から隠されているのでしょう。
 こうした立派な人々の生き方を知る事は、将棋をより良く指すために定石を知るのと同じように、人としてより良く生きるために重要だと考えます。

 ★

 その一方で、こうした人の生き方を否定し冤罪で処刑したオランダなどの諸国の将来を、心から悲しみます。
 そうした国が、このような人物を輩出する事は決して無いでしょう。

 自分の為した悪事を日本に擦り付けて、責任を逃れ切ったつもりなのでしょう。
 しかし、意志を発し命じた指導者たちは覚えているでしょう。
 命じられて銃殺した兵士たちも覚えているでしょう。
「天知る、地知る、人知る、我知る」
 人としての定石となるべき生き方を、勝者の権を以て理不尽に否定した事実は、大きな円を描いてその国に帰って来ます。

 彼ら連合国軍は、この定石を否定し、日本人にも無理矢理否定させようとしました。
 この卑怯な行いが、彼ら自身の心を挫いていない筈がありません。
 連合国軍の白人将兵は、まず間違い無くキリスト教徒ですので。
「汝ら偽善な教法師たちは、律法の形式的な解釈を押し付けることによって、真の知識の鍵を民衆から取り去り、自らも入らず、人にも入らせない。(『ルカによる福音書』より抜粋)」
 彼らの行いは、まさにイエスの言行録が口を極めて否定するパリサイ派教法師の行いそのものです。
 信仰を棚上げにしたこの行いは、彼ら自身を打ちのめすでしょう。

hiyo

一寸思いついたことです。
「禊払いとは川や海の水に身を浸すことで、水によって身を洗い清め、罪・穢を除くこと」であるとするとイザナギの穢れが天照(太陽)や月読(月)やスサノオ(地球)ということになるので、なんか矛盾するような気がします。そんなに単純な意味だけではないような気がします。汚いものや悪いものをただ排除すればよいというのは誤解しているような気がします。
「情けは人の為ならず」、「天に唾する」、「人を呪わば穴二つ」、「喜捨」、「幸せになりたければ、布施をしなさい。もらうこと、取ることばかり考えていたら、幸せはきませんよ」などは、因果応報によって結局善悪に限らず自分がしたことは必ず自分に戻って来ることだと思うので、そのことを知っていれば人を騙したり批判したりは出来ない筈です。日本人は普通に昔から知っていたことだと思います。しかし、テレビでは「やられたらやり返す。倍返し」や「赤信号みんなで渡れば怖くない」などのような言葉を流行らせることで明らかにミスリードしていると思います。日本人の民度を下げる為に意図的に仕組まれているような気がします。

名無しさん@ニュース2ch

No title
で、今、インドネシア人はその時の事をどう思い、どう評価しているのだろう。
取り敢えず親日のようには装っているけれど、今の東南アジアの状況からそうなっているだけだと私は思っている。
醍醐中将は我々日本人には立派な方だし、その様な亡くなり方をされたのも残念極まる。
しかし、オランダもインドネシアも、日本人が何も言わない事を良い事にして、未だに当然の事だとしているのであろう?。
私は、日本一国だけが残りの全世界とは違う生命だと思う。
わずかに残るまともな日本人ですら、消えて行こうとしている昨今だから小名木さんですら声を挙げ始めているのが現状でしょう。
日本から、まともな人が消えてしまったら、この星はただの悪魔しか住んでいない星、に成り果てると思うのだけれど。
本当に神などいるのなら、70年前に日本が敗戦した事がそもそもおかしいと私は思っている。
ウシハク国家なら、今では日本まで含めて全世界の国がウシハク状態なのだから。

あの戦争は例え日本本土が戦場になってでも、少なくとも負けてはいけなかった。
それなら、世界の中でシラスの国が一か国だけ残った事になり、それが以後の希望にもなっただろう。

heguri

No title
今日もまたシェアさせていただきます。どんなに頑張っても真似の出来る事ではありませんが、気持ち、心構え位は近づきたいと思います。

junn

No title
舛添リコールの件は予想通り再燃した。<いざという時はどうにでも切り捨て可能>であるのなら、いまこそがその時だ。官房機密費をじゃんじゃん使ってスキャンダル切り捨てを狙うもよし、湯河原の愛人(舛添の)に一芝居打ってもらうもよし、菅氏の手腕に期待が膨らむ。 少なくともリコール運動の援護射撃ぐらいはしてほしい。 ハングル表記のネームプレートを知事室に飾る売国奴は、デング熱が流行してもそ知らぬ顔で海外視察の連続だった。 近くは5千万円もの都税を浪費しての大名旅行と洒落込んで、その禿げた頭はいつも朝鮮半島を向いている。南朝鮮との外交は国の仕事であって地方自治体の仕事ではない。舛添の主張は明らかに職権逸脱行為であって、東京五輪を控えるこの大切な時期に、その首長が斯様な国賊であってよいわけもない。早々に引き摺り降ろし、後任には川口順子(かわぐちよりこ)氏を推したい。かつて安倍政権下の参院・環境委員会委員長で、シナの楊 潔篪(よう けつち、ヤン・ジエチー)と尖閣問題で一歩も譲らず国益を守り抜いた方である。 だがその会談に臨んだがため環境委員会に出席できず(事前に出張期間延長を申請していたことも認められず)、民主党のいつもの狂った理由なき火病攻撃にさらされて委員長を退任、その後は政治家としても馬鹿馬鹿しくなられたのだろう、野に下られた方である。国際経験も豊富、外務大臣も歴任という五輪にうってつけの方だ。 さらに詳しく知りたい方はwikiをどうぞ。
http://yh649490005.xsrv.jp/public_html/553

junn

No title
TPPが奪う少女の一生。なぜ「子宮頸がんワクチン」は禁止されないのか?
http://www.mag2.com/p/news/184061
http://www.mag2.com/p/news/184061/2
http://www.mag2.com/p/news/184061/3

junn

No title
ヘイトスピーチ法案-マイノリティーは弱者か?
http://blogs.yahoo.co.jp/gakumonnoiratume/71176441.html

御裳濯川

醍醐家
> 醍醐家は旧侯爵家です。

醍醐家は延宝7年(1679年)に初代・冬基が醍醐の家名を下賜され、一條家から分家して創設されました。一條家は藤原摂関家の一つですが、先々代・一條内基に子がなく、後陽成天皇の第9皇子を養子としました。これが冬基の父・一條昭良です。

なので醍醐冬基は皇孫です。本家に当たる一條家は数代後に再び男子が得られずに養子などしますが、醍醐家は冬基の男系が継続しており、醍醐中将も「皇統に属する男系男子」ということになります。

junn

No title
【今日は何の日?】ワシントン米初代大統領の就任宣誓式(4/30)
http://blog.livedoor.jp/acablo-nakagawayatsuhiro/archives/37647971.html
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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