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和気清麻呂に学ぶ

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和気清麻呂のような人物が歴史の節目節目に現れることによって、日本は、日本の国柄が守られてきました。
和気清麻呂は、奈良時代末から平安時代初期に生きた、いまから1300年も昔の人です。
そしてその心は、現代日本にも、いまだしっかりと息づいています。
こんどはひとりひとりの日本人が清麻呂になる番です。


和気清麻呂
20151227 和気清麻呂


和気清麻呂をご紹介するにあたり、高森明勅先生のお言葉をそのまま拝借します。

「歴史上、数多(あまた)の英雄豪傑偉人がいる中で、
 皇居周辺に銅像が建っているのは二人だけです。
 貴族文官からひとり。
 武将からひとりです。
 貴族文官のひとりは和気清麻呂(わけのきよまろ)です。
 和気清麻呂は戦後、歴史からまったく消されてしまった人物ですが、
 戦前戦中の日本人なら学歴居住地に関わりなく、
 誰でも知っていた人物です。
 ところがいまでは東大を卒業していても和気清麻呂を知らない」

和気清麻呂(わけのきよまろ)は、簡単にまとめれば、
「道鏡が天皇の地位を狙ったときに、
 これに抗して天朝を守り、
 そのため別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という
 ひどい名前に改名させられた挙句、
 大隅国(現在の鹿児島県)に流罪となり、
 後に赦されてからは、
 広大な土木工事を行って民の暮らしの安寧を測り、
 またいまの京都である平安京への遷都を進言して、
 その造営を図った、我が国の歴史上の人物」
となります。



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幕末、ペリーが来航する2年前の嘉永4年、明治天皇の父にあたる孝明天皇は、この和気清麻呂に神階正一位と「護王大明神」の神号を贈られています。
これは我が国の文官としてなしうる最高の栄誉です。

ところが、シビリアンコントロールが大事だとか、武官による政治はよくないなどと主張する左翼や、戦後の教育界は、なぜかその文官最高の栄誉を持つ和気清麻呂に触れません。
戦前にはお札の肖像画にさえなっていた人なのに、テレビや児童向け図書でも、和気清麻呂を描いた本は、ほとんどまったく見当たりません。
Amazonで調べてみても、和気清麻呂について書いた本は、西暦2000年以降では、久井勲氏の1冊があるだけです。

そこで、もはや毎年恒例となった和気清麻呂について、今年もまたご紹介してみようと思います。

*******

和気清麻呂は、備前国の藤野郡の生まれです。
ここは現在の岡山県和気町となっていて、選挙区でいいますと岡山県第三区で、平沼赳夫先生の地元となります。
平沼赳夫先生は、父が第35代内閣総理大臣の平沼騏一郎、曽祖父の平沼淑郎が第三代の早稲田大学総長です。

和気家は、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう、御在位紀元前1世紀頃)の第5皇子である、鐸石別命(ぬてしわけのみこと)を祖先に持ちます。
垂仁天皇は、河内の高石池や茅渟(ちぬ)池など、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにした天皇で、日本における殉死を禁じたのも垂仁天皇、和菓子の開祖とされる田道間守(たぢまもり)に命じて、常世国に妙薬の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに行かせたのも、垂仁天皇です。

田道間守は、10年かかって(おそらく)インドから菓子を持ち帰るのですが、そのときには垂仁天皇はすでに崩御されていて、そのことを嘆き悲しんだ田道間守は、御陵で断食をして亡くなったといわれています。
つまりそれほどまでに垂仁天皇は民衆から慕われた天皇であったということです。

実は、このとき田道間守が持ち帰った不老不死の霊薬とされたものが、「橘」で、これが改良に改良を加えられて、現在の「みかん」となりました。
ですから「みかん」は、日本の代表的な果物で、欧米でも「みかん」は「Mikan」と、日本語の名前がそのまま使われています。

和気清麻呂をこの時期にねずブロに書いているのも、「みかん→田道間守→垂仁天皇→和気清麻呂」と続くからで、いささかこじつけめいて聞こえるかもしれませんが、オレンジ色のミカンが店頭に並んでいる姿をみると、なぜかどうしてもこの連想から和気清麻呂が浮かんでしまうのです。

さて、垂仁天皇の第五皇子の鐸石別命の曽孫が弟彦王(おとひこのおう)で、この王は神功皇后の朝鮮征伐に出征されています。
ちなみにまたまた脱線ですが、ここに「王」という記述があります。王は皇の下に位置する概念であることがご理解いただけようかと思います。

その遠征のあと、都に帰ろうとする神功皇后を、忍熊王(おしくまのおう)が襲撃します。
これを撃退したのが弟彦王で、この勲功によって弟彦王は、備前・美作に封じられ、代々この地で郡司として栄えることになります。
その弟彦王の末裔が、和気清麻呂になるわけです。

和気清麻呂は天平5年(733)の生まれですが、三歳上に姉の和気広虫(わけのひろむし)がいました。
姉は成人すると、奈良の都にのぼって宮中の女官の采女(うねめ)になりました。
弟の清麻呂は、姉を追いかけるように都にのぼり、舎人(とねり)となりました。
舎人は「刀禰人(とねり)」とも書きますが、これは宮中の警固を行う武官のことです。
「刀禰人(とねり)」の「り」は「人」ですが、これは「一人」と書いて「ひとり」と読むのと同じです。
これは「官吏(かんり)」の「吏(り)」も、同じです。
「刀禰(とね)」は、漢字の意味からすると「禰(うつくしい)刀(かたな)」です。
もともとは公務を預かる優秀な役人のことで、いまで言ったら上級国家公務員にあたります。
その刀禰たちは、日常的に腰に刀を佩(は)きましたから「とねり」と呼ばれたわけです。

つまり和気家の姉弟は、そろって都にのぼって天皇のお側にお仕えすることになったわけで、これはとても名誉なことでした。

二人の姉弟は、都で一緒に下宿暮らしをしていました。
互いによくたすけあう、仲の良い姉弟であったようです。

そして姉の広虫姫は、15歳(いまの16歳)で、中宮に勤める葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚しました。
夫の葛木戸主は、たいへんに心優しい人柄で、当時、戦乱や飢饉によって親を亡くした子供がたくさんいたことを悲しみ、子供達を養育して、成人すると彼らに葛木の姓を名乗らたりしています。
広虫は、そんな夫をよくたすけ、明るく子供達の面倒をみる妻でした。
ちなみにこれが現代でも続く「里親制度」の始まりです。
西暦でいえば740年のことです。

ちなみに西洋では、孤児たちの引き取り手は多くの場合、病院や教会、あるいは奴隷商人でした。
13世紀のブレシアでは、「異教徒、売春婦、孤児は町およびその周辺に存在してはならない。かくまった者には罰金を課す」という法が施行されています。
つまり社会から排除するという仕組みしかなかったわけですが、これに対し日本では、8世紀には里親がスタートしているわけです。

さて、そんなやさしい夫だったのですが、その夫が亡くなってしまいます。
その悲しみから広虫は、出家して尼になり、法名を「法均」と名乗りました。
すると、出家前の功績から、朝廷は広虫に「進守大夫尼位」を授けてくれました。

その2年後の天平宝字8年(764)、太政大臣を務めていた藤原仲麻呂が乱をおこしました。
別名「恵美押勝の乱」です。
この乱は、簡単に言うと、大手新興宗教団体の教祖が政権を壟断して天皇の地位までも簒奪しようとしているという情況に、時の総理大臣が私兵を率いてこれを倒そうとし、逆に国軍を抑えていた教祖側によって鎮圧されてしまった、という事件です。

乱を起こした総理、つまり藤原仲麻呂は首を刎ねられ、さらにその仲間となった貴族たち375人が連座で逮捕されました。
このとき、逮捕された人たちを全員死罪にすべきという意見が道鏡の側から強くでたのですが、尼となっていた広虫が称徳天皇に助命減刑を願い出て、死罪はなしとされています。

この乱によって親を亡くした子どもたち83人を広虫姫は養育して、彼らに夫の葛木の姓を与えています。

さて、その5年後の神護景雲3年(769)、得意絶頂にあった道鏡がついに事件をおこしました。
なんと、ついに皇位を望むに至ったのです。

もともと道鏡は、河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶です。
孝謙上皇の看病に成功したことで寵愛され、太政大臣禅師、ついで法王の位を授けられていました。
宿敵である藤原仲麻呂は、すでに殺害しています。
もはや、道鏡の権勢欲を邪魔する者はいないという情況でした。
そこで道鏡はこの年の5月、天皇のもとに「宇佐八幡の神託」と称して、

「道鏡に天皇の位を与えれば、
 天下は太平になる」

と言い出したのです。
この話を持ち出したのは、大宰主神である習宜阿曽麻呂でした。

かりにも宇佐八幡の神託だというのです。
けれどその内容は、臣下の身である道鏡が皇位を継ぐという、前代未聞の珍事です。
称徳天皇は事の重大さに思い悩みました。

神託には神託で対抗するしかありません。
そこで称徳天皇は、夢枕に八幡大菩薩の使いが立たれたとして、その使いが真の神託を伝えるので、法均(広虫姫)を遣わすように告げたとして、法均(広虫)に、その使いを命じたのです。

ところが命じられた側の法均(広虫)は、このとき病に臥せっていて、長旅に耐えられません。
そこで弟の和気清麻呂に、その勅使の代行をさせるようにと願い出ました。
これは、神話の時代から続く日本の風習なのですが、命令を受けた者が別な誰かを推薦してその者を命令の遂行者にするということは、その遂行者が行なった結果に、直接命令を受けた者が連帯して全責任を負うということです。
ですからこの場合、勅命を受けた広虫と、勅命を実行する和気清麻呂は、勅命に対する連帯債務者となります。

このとき和気清麻呂は37歳で、近衛将監として美濃大掾(だいじょう)を勤めていました。
話を聞いた道鏡は、和気清麻呂を呼び、
「ワシが天皇になれば、汝に大臣の位を授けよう」
と誘惑しています。
もちろんこれは、逆に「ワシに逆らえばお前たち姉弟の命はないものと思え」という脅迫でもあります。

清麻呂は、姉の広虫姫と、国の行く末について話し合いました。
そして姉の助言を、心中深く受け止めました。

いよいよ神護景雲3年(769)6月末、宇佐八幡の神託の真偽をたしかめるため、和気清麻呂は勅使として都を旅立ちました。
出発に先立ち、称徳天皇は、ひそかに清麻呂に一首の歌を贈りました。

 西の海
 たつ白波の
 上にして
 なにすごすらん
 かりのこの世を

「西の海」というのは、西方浄土を想起させます。
つまりこれは仏教界の海、つまり大御所である道鏡のことです。
「たつ白波」は、その道鏡が立てた波風(白波)です。
「上にして」は、道鏡を天皇に就任させるということです。
「かりのこの世を」は、現世を、
「なにすごすらん」は、どうしてすごせましょうか、です。
つまり称徳天皇は、どうして臣下であり万世一系の血筋のない道鏡を天皇にしなければならないのか。
それをしてしまったら、Chinaの易姓革命と同じで、結局は日本は、政権をめぐって血で血を洗う国になってしまう。
だから道鏡の要求は絶対に認められないというメッセージです。

ちなみに、ではなぜ称徳天皇は、そのように道鏡に対して、あるいは時の貴族たちに対してはっきりと言わないのか、という疑問を持つ人もいるかもしれません。
そこが、実は日本の統治のいちばんたいせつな肝の部分です。

天皇は政治権力を持たない、行使しないというのが、日本のカタチです。
天皇が直接政治に介入し、政治権力を揮うようになれば、それはChinaやKoreaの王朝と同じで最高権力者が民衆を私的に支配する国になってしまいます。
権力者のもとに、民衆が私的に支配されるなら、民衆は人でなく、私物というモノになってしまうのです。

ですから日本の天皇は、古来、政治権力を持ちません。
政治権力者よりも上位にある最高権威となり、その最高権威が民衆を「おおみたから」としているのです。
ということは、政治権力者は、国家の最高権威の「おおみらから」のために働く存在となります。
民衆が、国家における最高のたからであり、政治権力は、その「おおみたから」の幸せのために働く存在となるのです。
これが日本的「シラス(知らす、Shirasu)」統治の根幹です。

ところが道鏡は、孝謙天皇に寵愛されたことをよいことに、政治権力を手にいれるや、その国家の最高権威までをも、私物化しようとしたわけです。
これはつまり、権威と権力が日本において一体化することを意味します。
するとその社会は、皇臣民が鼎立(ていりつ)する社会ではなくて、支配者を頂点とするピラミッド型の社会となります。
それはつまり上下関係だけしかない社会です。
そして上下関係だけしかない社会では、上に立つ者からみたとき、その下にいる者は、全員が人の形をした所有物となります。
所有物ということは、モノですから、殺そうが奪おうが、意のままです。

上に立つということを、そのような形でしか解しない人や組織や国家は、21世紀となったいまでも世界中に残っています。
いまの日本にも蔓延しています。
そして多くの人々の自由や冨を奪い、収奪しています。
下の者に対しては、残虐な暴力が平気でまかり通る国もあります。
けれど日本は、超が付くほどの古代に、この問題を根本的に解決しているのです。

それがわかるから、称徳天皇は、道鏡の神託をしりぞけたいのです。
けれど、ここが大事なのですが、
称徳天皇が直接そのような指示を出したら、
それは天皇の政治への介入になります。
すると天皇が政治権力者として権限を揮うことになります。
そうなると、道鏡よりも前に、道鏡が行おうとしていることを天皇自らが行ってしまうことになるのです。
これはできないことです。

ですから政治権力者である高官に、道鏡の神託を退けてもらわなければなりません。
ところがその政治権力者の高官が道鏡なのです。
そしてそれ以下の者は、道鏡の権力と財力におもねり、道鏡のいいなりです。
すでに道鏡の冨と権力と財力に取り込まれているのです。

称徳天皇は、こうした情況の中で、その大御心を和歌に託されておいでになります。

上の歌は、いっけんすると、これから大分県にある、つまり奈良の都からみて、西の方角にあって、海を渡った先にある宇佐神宮に向かおうとする和気清麻呂の無事な航海を願っただけの歌にも見えます。
けれど、和歌は、相手の気持ちを「察する」文化です。
詠み手の心を、読み手が察する。
その察する技術を磨くのが和歌の世界です。

宇佐八幡宮は大分県宇佐市に鎮座する武神です。
宇佐八幡社に到着した和気清麻呂は、身を清め心を鎮めて八幡大神に宝物を奉り、宣命の文を読もうとしました。
すると禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)が、
「すでに道鏡を皇位に即けよという神託が下されているのだから、
 あらためて宣命を奉る必要はない」
と、これを拒みました。

和気清麻呂は不審を抱きました。
そして改めて与曽女に言いました。
「これは国家の大事です。
 そして私は勅使です。
 その勅使の前に、託宣があったとは信じ難いことです。
 その神託というのを、私の前に示してください」

これに与曽女は、こたえられません。
そこで和気清麻呂は、あらためて八幡大神に宣命の文を奏上し、大神の神託を受けています。

このあたり、すごい迫力を感じます。
おそらく和気清麻呂の到着前に、道鏡によって買収圧力がかかっていたのでしょう。
だから禰宜の与曽女は、和気清麻呂を拒んだのです。

このように、すでに、あらかじめできあがっていたシナリオをひっくり返すというのは、並み大抵のことではできません。
相当の覚悟と迫力がなければできないことです。
このあたりの和気清麻呂には、武人にも劣らない気迫を感じます。

伝承によれば、重ねて神託を申し出た和気清麻呂の前に、身の長三丈(9メートル)で、満月の如く輝く神々しい八幡大神が姿を表わし、厳かに真の神託が降ろされた、とあります。
そしてその神託は、

「わが国家は開闢より君臣定まれり。
 臣をもって君となすこと、
 未だこれあらざるなり。
 天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。
 無道の人は
 よろしく早く掃い除くべし」

と下されました。
ここで描写されている「身の長三丈(9メートル)で、満月の如く輝く神々しい八幡大神」というのは、八幡大菩薩がそのお姿をあらわしたというよりも、このときの和気清麻呂の迫力が、まさに「身の長三丈」の神々しさを湛えたものであったのかもしれません。

こうして、八幡大神の神託は、
「道鏡の皇位を認めない」と下されました。

和気清麻呂は、いそぎ都へ帰り、すぐに参内すると、群臣が見守るなか、神託のとおりの報告をし、重ねて、
「道鏡を掃い除くべし」
と奏上しました。

その席には、道鏡もいました。
道鏡にしてみれば、事前に宇佐神宮にも、ちゃんと手を打っていたのです。
報告は、道鏡をして「皇位に就けよ」というものであるはずでした。
ところが、和気清麻呂の報告は、その反対だったのです。

このとき道鏡は、
「憤怒の形相で烈火のごとく怒った」
と記録は伝えています。
和気清麻呂のひとことで、道鏡の全ての野望はおしゃかになったのです。

皇位に就けなかったとしても、道鏡は、この時点で政治上の最高権力者です。
激怒した道鏡は、和気清麻呂呼び、名を
「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」
と改名するよう命じます。
さらにこれだけでは飽きたらず、和気清麻呂を大隈国(鹿児島県牧園町)へ流刑にしてしまいました。

そして姉の法均(広虫)についても、強制的に還俗させたうえ、名を「別部狭虫(わけべのさむし)」と改めさせ、備後国(広島県三原市)に流罪にし追放してしまいました。

ちなみに、このときに和気清麻呂を大隅国に流刑にしたところにも、道鏡の底知れぬ悪意と底意地の悪さを感じます。
というのは、大隅国は、神武天皇の御生誕の地です。
そこには神武天皇のご両親の陵墓があります。
つまり大隅は、この時代における「聖地」なのです。
「聖地」ですから大隅には国司もいません。
太古の昔のまま、大切にされていた土地だったのです。

その大隅へ清麻呂を飛ばしたということは、
「お前が神武天皇にはじまる万世一系の天皇をどこまでも奉じるというのなら、初代天皇の聖地で死ぬまで過ごしておれ!」というメッセージです。

いいかえれば、この流罪事案ひとつをとってしても、道鏡が我が国における天皇の存在の理由とありがたさを、頭から否定し、自分が「皇帝」になろうとしていたということがわかります。

それだけではありません。
大隈国に流罪となった和気清麻呂は、旅の途中で道鏡の放った刺客に襲撃を受けています。
ところがこのとき不思議なことが起こります。
激しい雷雨となって、さらにどこからともなく勅使が現れて、わずかに死を免れたのです。
まさに九死に一生を得る旅でした。

しかし罪人として輿(こし)に入れられて、何日もかけて護送されたのです。
大隅(鹿児島県)に到着する前に、通り道となる大分の宇佐八幡に、お礼のためにと和気清麻呂は参拝しようとしたのですが、すでに脚が萎えて歩くことができない。

ようやく宇佐の近くまで来たとき、なんと山から突然三百頭の猪(いのしし)が現われて、清麻呂の乗った輿の前後を守りながら、八幡宮まで十里の道を案内してくれたとあります。

そしていよいよ参詣の当日、不思議なことに、和気清麻呂の萎えていたはずの足は、なんと元通りに治っていたのだそうです。
この故事から、猪は清麻呂の守り神とされ、いまでも和気清麻呂のゆかりの神社には、狛犬の代わりに「狛いのしし」が安置されています。

では備後国に流された姉の広虫はどうなったのでしょうか。
彼女は、備後で、きわめて貧しい暮らしをさせられていました。
そして弟のことや、都に残してきた養育している子供たちのことを思い、淋しくつらい日々を過ごしていました。
ところがそんなある日、都から干し柿が届くのです。
広虫姫が育てていた子供たちが、義母の身の上を心配し、激励の手紙を添えて、食べ物を送ってくれたのです。

さて、神護景雲4年(770)8月、称徳天皇が53歳で崩御され、第49代光仁天皇が即位されました。
即位した光仁天皇は、道鏡を罷免(ひめん)し、下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷しました。

古来、天皇は政治には関与しません。
そして天皇がいったん親任した政治権力者は、親任した天皇によって罷免されることはありません。
けれど、天皇が崩御し、次の天皇が即位するとき、新たな天皇がその人物を親任するかどうかは、その天皇の裁量によります。
こうして光仁天皇は、道鏡をついに罷免したのです。

そして新たに起こった太政官は、大隅の備後に飛ばされていた和気清麻呂と、姉の広虫姫の流罪を解き、ふたりを都に帰朝させました。
そしてもとの姓名に戻させ、二人の名誉を回復したのです。

光仁天皇の後を継いだのが、第50代桓武天皇です。
桓武天皇は、道鏡のように、信仰を利用して己の私欲を満たそうとする者の政治への関与を防ぐために、あらためて、風水を立てて、都を葛野方面に移設することを計画しました。
平安京遷都です。
そしてこの計画を提案したのが、和気清麻呂です。

和気清麻呂は、桓武天皇のもとで、平安京の造営大夫となり、新都造営に手腕を振るいました。
そしてついに延暦13年(794)に京の都が完成し、この年の10月、遷都が行われました。

都づくりに手腕を発揮した和気清麻呂は、続けて河内と摂津の国境に水利を通じたのをはじめ、京阪神一体の治山治水事業を推進し、民の生活の安定をはかりました。
そして平安遷都の5年後の799年、67歳で永眠しています。

『日本後記』は、和気清麻呂について、
「人と為り高直にして、匪躬の節有り。
 故郷を顧念して
 窮民を憐れみ忘るることあたわず」
と絶賛しています。

また同書は、広虫についても、
「人となり貞順にして、
 節操に欠くること無し
 未だ嘗て法均の、
 他の過ちを語るを聞かず」
と、慈悲深く、人の悪口を決して言わない高潔な人柄をたたえています。

こうして、和気清麻呂の活躍によって皇統は護られました。
そして嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と「護王大明神」の神号を贈られ、また明治天皇は、明治31年(1898)に、薨後1100年を記念して、贈正三位から位階を進めて、贈正一位を和気清麻呂に与えました。

和気清麻呂は、戦前は十円紙幣に肖像画が印刷され、さらに皇居近くの大手濠緑地に、和気清麻呂の銅像が建てられています。

わたしたちの国の根幹である民を守る、公と私のけじめつけるというシラス国を、個人の欲得によって簒奪しようとする人は、さまざまな時代に登場します。
そしてこうした者たちは、巨大な権力と財力を持っていますから、権力や金力に群がる亡者たちを利用して、さらに一層、自らの権威権勢を高めようとします。

そしてこのような者たちが跋扈する時代には、必ず、藤原仲麻呂のように、反乱者として首を刎ねられたり、あるいは連座した375人のように、つらい仕打ちを受けています。
和気清麻呂も、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前を与えられ、暗殺までされそうになり、すでに高齢となっていた姉までも流罪にさせられるというひどい仕打ちを受けました。
同様のことは、幕末においても、吉田松陰、橋本左内、河井継之助、頼三樹三郎、安島帯刀、梅田雲浜などが死罪となり、またそれ以前にも天誅組の中山忠光などが殺害されています。

権力と財力によって、民衆を支配することを、日本の古い言葉で「ウシハク」と言います。
シラスとウシハクは、両方あってはじめて統治が機能します。
ウシハクだけなら、収奪社会にしかならないし、シラスだけでは、横暴や暴力を食い止めることができません。

そしてこのことが、一部の思想家や権力者に蘇っただけでは、日本は変わりません。
みんなの気持ちが、シラス国をあらためて求めるようになったとき、シラスは蘇り、日本の国体が正常化していきます。
そしてウシハクに抗してシラス国を守ろうとする者には、必ず試練が襲いかかります。
けれど、それを護り抜いたとき、古くて新しい本当の日本の未来が拓けます。

和気清麻呂のような人物が歴史の節目節目に現れることによって、日本は、日本の国柄が守られてきました。
和気清麻呂は、奈良時代末から平安時代初期に生きた、いまから1300年も昔の人です。
そしてその心は、現代日本にも、いまだしっかりと息づいています。
こんどはひとりひとりの日本人が清麻呂になる番です。

お読みいただき、ありがとうございました。

※このお話は2014年11月の記事のリニューアルです。



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はじめに
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01-02 古事記と日本書紀の違いとは
第一章
02-01 隠身と別天神
02-02 創生の神々と十七条憲法のただならぬ関係とは
03-01 諸命以と修理固成という重要語
03-02 見立てると成り成りて
03-03 ヒルコをめぐる三つの意味とは
03-04 神議(かむはか)り
03-05 国生みと神生み
03-06 イザナミの神避りと古代の葬祭


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10 人の名誉を重んじる
11 勇気
12 進取の気象
13 信義
14 国旗
15 慈善 






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民族区別
犬の中には獰猛な犬もいれば大人しい犬もいます。
それはその犬が持っているDNAによるものです。

人間も同じです。
それぞれの民族は民族固有のDNAを持っています。
獰猛な民族もいれば大人しい民族もいます。
 
日本は韓国に対する対応を誤ってきました。
それが戦後の日韓関係の軋轢の原因です。
戦前の日本人はそのことを良く理解していました。

下記の文章は日韓併合時に政府が朝鮮総督府に送ったものです。
決して「差別」ではありません。

併合時の日本政府から朝鮮総督府への通達

一、朝鮮人は対等の関係を結ぶという概念がないので、常に我々が優越する立場であることを認識させるよう心がけること。
一、朝鮮人には絶対に謝罪してはいけない。勝利と誤認し居丈高になる気質があり、後日に至るまで金品を強請さるの他、惨禍を招く原因となる。
一、朝鮮人は恩義に感じるということがないため、恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。
一、朝鮮人は裕福温厚なる態度を示してはならない。与し易しと思い強盗詐欺を企てる習癖がある。
一、朝鮮人は所有の概念について著しく無知であり理解せず、金品等他者の私物を無断借用し返却せざること多し。殊に日本人を相手とせる窃盗を英雄的行為と考える向きあり、重々注意せよ。
一、朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること。
一、朝鮮人と商取引を行う際には正当なる取引はまず成立せぬことを覚悟すべし。
一、朝鮮人は盗癖があるので金品貴重品は決して管理させてはいけない。
一、朝鮮人には日常的に叱責し決して賞賛せぬこと。
一、朝鮮人を叱責する際は証拠を提示し、怒声大音声をもって喝破せよ。
一、朝鮮人は正当なる措置であっても利害を損ねた場合、恨みに思い後日徒党を組み復讐争議する習癖があるので、最寄の官公署特に警察司法との密接なる関係を示し威嚇すること。
一、朝鮮人とは会見する場合相手方より大人数で臨む事。
一、朝鮮人との争議に際しては弁護士等権威ある称号を詐称せる者を同道せる場合がある。権威称号を称する同道者については関係各所への身元照会を徹底すべし。
一、朝鮮人は不当争議に屈せぬ場合、しばしば類縁にまで暴行を働くので関係する折には親類知人に至るまで注意を徹底させること。特に婦女子の身辺貞操には注意せよ。
一、朝鮮人の差別、歴史認識等の暴言に決して怯まぬこと。証拠を挙げ大音声で論破し、沈黙せしめよ。
一、朝鮮人との係争中は戸締りを厳重にすべし。仲間を語らい暴行殺害を企てている場合が大半であるので、呼出には決して応じてはならない。
2019/01/13(日) 10:41 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

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