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終戦内閣・鈴木貫太郎に学ぶ

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鈴木貫太郎は幼少のころから、何度も死にかけています。
そして海軍軍人となってからは、たえず死と隣り合わせの第一線に身を置きながら、生き延び武勲を立てています。
二・二六事件では銃弾を受け、実際に心停止までしています。それでも彼は息を吹き返し、八十歳近くになって大東亜戦争に幕を引くという、胆力と集中力を必要とする仕事を、見事にやってのけています。
真実は「神のみぞ知る」です。
しかしもしかすると貫太郎は、日本の終戦処理という重大使命を帯びて、この世に生を受けた人だったのかもしれません。
そう考えてみると、人はどんな人でも見えない大きな力によって「生かされている」存在で
あるのかもしれないと思えてきます。
孟子は「天が誰かに大任を委ねようとするときには、必ず「これでもか」というほどの艱難辛苦を与える」と書いています。
艱難辛苦に見事打ち勝った者だけが、天命を得る。
鈴木貫太郎の生涯を見ていくと、それは確かであるような気がしてきます。


20190219 鈴木貫太郎
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


▼目に見えない大きな力に守られて

私の家から車ですこし走ったところに、鈴木貫太郎記念館があります。
最近は、訪問者も減ってしまったそうですが、かつては小中高生の定番の社会科見学コースでした。

鈴木貫太郎は慶応三(1868)年に生まれ、昭和二十三(1948)年に亡くなりました。
第四十二代内閣総理大臣として、大東亜戦争を終結に導いたことは有名です。海軍大将、従一位、勲一等旭日桐花大綬章、功三級金鵄勲章を授章されています。
戦に立てば獅子奮迅(ししふんじん)、平時にあっても鬼貫(おにかん)と呼ばれ、老いては昭和天皇からたいへんな信頼を受けた方です。
遺体を焼いたとき、お骨から二・二六事件のときの弾丸が出てきています。
とにかくたいへんな人生です。
そして奥様が、またすごい方なのです。

その半生は、江戸から明治・大正・昭和の日本の歴史そのものといっていいでしょう。
鈴木貫太郎の人生を学んでいくと、人には使命があり、人は生きているのではなく、生かされている存在なのだということを強く感じずにはいられません。

若き日の鈴木貫太郎の生きざまは、まさに痛快であり、爽快であり、男の人生そのものです。
和泉国大鳥郡伏尾新田(現、大阪府堺市中区伏尾)の生まれですが、父親は関宿藩(千葉県野田市)の家老職であった鈴木由哲です。
鈴木家というのは、もともとは三河の渥美郡の出で、代々徳川直参旗本の家柄です。

貫太郎は子供の頃からやんちゃで、三歳のとき、暴走してきた馬の前に飛び出して転んでしまいます。
そして、その上を馬が駆け抜けていきました。
あっという間の出来事で、このとき近くで見ていた者全員が、貫太郎の死を覚悟したそうです。
しかし、たいへん不思議なことに、馬がとっさに膝を折り曲げたのです。
あり得ないことと言っていいかもしれません。
おかげで貫太郎は、幸いなことに無傷でした。




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七、八歳の頃には、水門の上で魚釣りに夢中になっていたところ、突然、水門が降りてしまうという事故に遭っています。
貫太郎は水門の扉の動きと一緒に、水の中に引き込まれてしまったのです。
このときの彼は、まだ泳ぎを知りませんでした。
一緒にいた友人たちもなす術がなく、岸で大騒ぎするだけでした。

泳げない人間が、水中深く引きずり込まれたら、普通は溺れてしまいます。
ところがこのときも、必死でもがいているうち、なぜか岸にたどりついて助かっています。

海軍に入って間もない少尉の頃に、貫太郎が乗船していた「天城」が浅瀬に乗り上げてしまいました。
船を浅瀬から脱出させるには、船を軽くして水に浮かせなければなりません。
そのために、まずは重い錨(いかり)をとって、それをカッターボートで船から離れたところまで運びました。
ところが錨を海に下ろすときに、ボートがバランスを崩して転覆してしまったのです。
貫太郎は水深十メートルの海底まで、錨とともに引きずり込まれてしまいました。
このときも、とっさの判断が功を奏し、運よく助かっています。

さらに、貫太郎が「金剛」の航海長だったときのことです。
伊勢湾に停泊中のある蒸し暑い夜、貫太郎は寝苦しい船内から甲板(かんぱん)に上がって、艦尾に突き出た砲座の上で涼んでいました。
夜風に吹かれているうちに気持ちよくなり、そのままウトウトと眠ってしまいました。
そしてしばらくして目覚めたときには、そこが大砲の下だということをすっかり忘れていました。
不用意に立ち上がった拍子に、貫太郎はいやというほど強く頭を大砲にぶつけ、脳震盪(のうしんとう)を起こしてしまいます。
そしてそのまま、まっ逆さまに海へ落ちてしまいました。

海軍将校が海へはまって「助けてくれ!」など、恥ずかしくて言えません。
潮流に押し流されながら、やっとの思いで船尾にたどりつき、舵の鎖につかまって、何とか甲板にはい上がると、そこに一人の信号兵が立っていました。
「オイ、俺が海に落ちたのに気づかなかったのか!」
と叱りつけると、
「先ほど後ろの方でボチャンという音がしましたが、
 あれは航海長が落ちたときの音だったのですか」
とのんきな返事が返ってきました。

軍艦から夜の海に落ちたら、まず助かりません。
しかも脳震盪を起こしています。
ところが貫太郎は、ここでも奇跡的に助かっています。

そのうえ不思議なことは、日清・日露の両戦役を通じて数限りない激戦を経験し、幾度となく猛烈な砲弾のなかに身を置いてきたにもかかわらず、貫太郎は怪我ひとつしませんでした。
彼自身が自伝で書いているように、目に見えない大きな力に守られていたのだと思います。


▼鬼貫と呼ばれた男

明治二十七(一八九四)年に日清戦争が勃発すると、貫太郎は任官したての海軍大尉として、彼は水雷艇(すいらいてい)で僚艦を率いて、威海衛という敵の艦隊が停泊する港に夜遅く潜入し、敵主力艦に肉薄し至近距離で魚雷攻撃を行ったのです。
水雷艇隊はこの奇襲攻撃で、敵艦隊の旗艦「定遠」を大破させたほか、巡洋艦数隻を沈めています。
これが清国の海軍力を奪い、日清戦争を早期に終結させるきっかけとなりました。

続く日露戦争では、貫太郎は中佐として軍艦「春日」の副長となり、そこから駆逐隊司令に転じました。
彼は日清戦争での自身の体験から、駆逐艦による高速近距離射法(肉薄強襲)を実現しようと、部下を猛訓練しました。
あまりの猛特訓に、このときついたあだ名が「鬼貫」です。
よほど厳しい訓練を施したのでしょう。

ちなみにこの時代の魚雷というのは、距離百メートルで発射して敵艦にあたれば幸運、というシロモノです。
百メートルといえば、敵艦の主砲どころか銃弾が飛んでくる距離です。
その猛攻をかいくぐって、敵艦に目と鼻の先まで近づき、魚雷を発射するのです。

なにせ小型艦です。近づくルート、そのルートに乗るための波の避け方、艦の速力の調整、発射のタイミングの取り方、魚雷の準備、敵の砲弾で損傷した自船の応急措置、戦闘途中で怪我(けが)をした水兵の手当て、等々、ひとりひとりの兵士に与えられる任務は細かく、しかも敵弾の飛び交う中で、いっさいを効率的に処理しなくてはなりません。
だからこそ「鬼貫」の訓練は、熾烈を極めたのです。

訓練の成果は、日本海海戦で如何なく発揮されました。
「鬼貫」の駆逐隊は、なんとロシア戦艦三隻、巡洋艦二隻を撃沈させてしまったのです。
おかげで貫太郎は、戦いのあとに連合艦隊の秋山真之参謀から、
「オイ鬼貫、
 一隻くらいは
 他の艦隊の手柄に
 してやってくれよ」
とまで言われています。
そのくらい彼の活躍はすさまじかったのです。


▼二・二六の血煙とたか夫人

日清・日露戦争において、数々の大功を立てたのち、大正十二(一九二三)年、鈴木貫太郎は海軍大将に昇進し、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの重責を歴任しました。
大功あった貫太郎ですが、彼は昭和四(一九二九)年一月から、海軍ではなく、宮中の侍従長に任命されています。
侍従長というのは、それまで貫太郎が在職していた海軍の軍令部長より、席次で三十位くらいランクが下がった役職です。
貫太郎にしてみれば、薩摩藩出身が優遇される当時の海軍内で、旧幕臣であるがゆえの降格とみえたかもしれません。
そういう意味では、はなはだ面白くない人事だったといえます。

しかし彼は
「格下になるのが嫌で、
 天皇に仕える名誉ある職を断ったと
 人に思われたくない」と、侍従長の職を素直に引き受けました。

そのことで、昭和天皇から篤い信頼を得るようになります。
けれど「陛下のおそばにいる」というだけで、貫太郎は若手青年将校らから「君側の奸(くんそくのかん)」といわれるようになってしまいます。
そして昭和十一(1936)年二月二十六日未明、二・二六事件が起こります。
近衛、第一両師団に属する若手青年将校たちが暴走して、首相官邸はじめ重臣たちの官邸や私邸を襲撃したのです。

この前日、貫太郎はたか夫人と一緒に、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招待で夕食会に出席したあと、午後十一時過ぎに麴町三番町の官邸に帰宅し、就寝しました。
午前五時、貫太郎の官邸に、安藤輝三大尉が指揮する麻布歩兵第三連隊の兵、二百四名が来襲しました。

第三連隊の兵士らは、貫太郎を発見すると
「閣下、昭和維新のため一命を頂戴します」
と言い放ち、五発の銃弾を撃ち込みました。
貫太郎はその場で昏倒しました。

その間、たか夫人は眉ひとつ動かさず、その場に正坐していました。
そして血の海になった八畳間に安藤大尉が到着すると、下士官のひとりが、
「中隊長殿、とどめを」と安藤大尉に促しました。

すると、それまでじっと黙っていたたか夫人が、一声を放ちました。
「それだけはおやめなさい!
 どうしてもというなら、
 わたくしが致します」
安藤大尉はうなずき、号令をかけました。
「全員、気をつけッ!
 閣下に対して、捧げ銃!」
そして、たか夫人の前に進み出て、静かに語りました。
「まことにお気の毒なことをいたしました。
 われわれは閣下に対しては
 何の恨みもありません。
 国家改造のために
 やむを得ずこうした行動をとったのであります」

反乱軍が去ったあと、貫太郎は意識が戻り、なにやら間のびした声で、
「もう賊は逃げたかい」と尋ねたそうです。
たか夫人は傷口に応急の止血処置をすると、宮内省に電話しました。

宮内省から連絡を受けた塩田広重博士がタクシーでかけつけたところ、あまりにも大量の血が床に流れていたため、すべって転倒してしまったほどです。
博士はたか夫人らとともに、貫太郎をタクシーに乗せて、日本医科大学に運びました。
しかし医師たちの手当ての甲斐なく、貫太郎は意識を失い、心臓も停止してしまいます。
すると、それまで黙って枕元に立っていたたか夫人が、凜とした声を発しました。

「あなた!起きなさいっ!」

人間、死に瀕したとき、最後に失われるのが聴覚だそうです。
この声が、貫太郎に聞こえたのでしょう。
貫太郎は奇跡的に息を吹き返しました。
いつの時代も、旦那にとってかみさんほど怖いものはないのかもしれません。

貫太郎が一命をとりとめたのは、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと、こめかみに入った弾丸が耳の後ろから出ていたことなどが幸いしたそうです。
けれどやはり、夫人の力が大きかったといえるのではないかと思います。

たか夫人は、明治三十八(一九〇五)年から大正四(一九一五)年まで皇孫御用掛として、
幼少時の迪宮様(みちのみやさま、後の昭和天皇)、秩父宮様、高松宮様の養育に当たっていた方です。
昭和天皇は、侍従長・総理時代の貫太郎に、
「たかのことは、母のように思っている」
と、語ったと言います。
すごい女性です。
それにしてもたか夫人は、まさに武人の妻というにふさわしい女性であったと思います。

貫太郎を襲った安藤大尉は、その後逮捕され、処刑されました。
その安藤大尉について、貫太郎は、次のように述べています。
「首魁のような立場にいたから、
 止むを得ずああいうことに
 なってしまったのだろうが、
 思想という点では
 実に純真な、
 惜しい若者を死なせてしまったと思う」
「安藤がとどめを
 あえて刺さなかったから
 自分は生きることができた。
 彼は私の命の恩人だ」
実は鈴木貫太郎は、安藤大尉と面識があり、若くて純粋な安藤大尉に対して好感を持っていたのです。


▼施政方針演説に込めた講和のメッセージ

鈴木貫太郎が総理大臣に就任したのは、戦況も押し迫った昭和二十(1945)年四月七日のことでした。
内閣総辞職したのが、同年八月十五日、終戦の日です。
鈴木貫太郎内閣は、大東亜戦争の終結を一手に引き受けた内閣でした。

戦いというのは、シンガリが、いちばん難しいといわれています。
勝ち戦のときは、みんなが盛り上がるけれど、負け戦をどう戦い、どう収めるかは難しい。
その大任を拝したのが、鈴木貫太郎であったわけです。

鈴木貫太郎は、戦況悪化の責任をとって総辞職した小磯國昭総理の後継として、重臣会議で次の内閣総理大臣に指名されました。
重臣会議の結果を聞いた昭和天皇は、鈴木貫太郎を呼び総理として組閣するように命じられました。

このときのやりとりを、侍立した侍従長藤田尚徳が聞いていたそうです。
あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、陛下は次のように言われたそうです。
「鈴木の心境はよく分かる。
しかしこの重大なときにあたって、
もうほかに人はいない。
頼むから、
どうか曲げて承知してもらいたい」

おそらく日本の憲政史上、陛下から「頼む」と言われた人物は、鈴木貫太郎だけであろうと思います。
貫太郎は武人です。
日頃の口癖も「軍人は政治にかかわるべきではない」です。
「自分には政治的手腕はない」とも言っていました。

けれど、陛下から直接「頼む」と言われてはそれ以上、辞退できません。
陛下の母である皇太后節子(貞明皇后)様も、その場で陛下より三十歳以上年上の鈴木に対して、
「どうか陛下の親代わりになって」
とおっしゃられたといいます。

こうして鈴木貫太郎は、内閣総理大臣を拝命し組閣を行いました。
ちなみに国会議員以外から内閣総理大臣に就任したのは、鈴木貫太郎が最後です。

鈴木貫太郎が就任した直後の四月十二日に、アメリカのルーズベルト大統領が亡くなりました。
貫太郎はこの訃報に接すると、短波放送で次のメッセージを送りました。
「私は深い哀悼の意を
 アメリカ国民に送るものであります」

同じ頃、敗北寸前だったナチス・ドイツのヒトラーは、これとは対照的にルーズベルトを罵りました。
アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、イギリスBBCで、
「ドイツ国民よ、
 東洋の騎士道を見よ」
と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛しています。

たとえ戦う相手であっても、相手の尊厳を大切にする。
だからこそ武器を手にする者は、自律心を持ってこれを用います。
これが古来変わらぬ日本の武士道の心です。

死去したルーズベルトを罵ったヒトラーは、同じ月の末に自殺し、ヨーロッパにおける戦争は終結へと向かいました。
日本では鈴木貫太郎たちが、なおも和平の道を探し続けていましたが、閣内には断固戦闘を継続すべしとの強硬派も、多く存在していました。

六月八日、鈴木貫太郎はこれら強硬派が多数を占める重臣会議で、若槻禮次郎の質問に答えて、次のように述べました。
「理外の理ということもある。
 徹底抗戦で
 利がなければ死あるのみだ」
そう言って、貫太郎は机を叩いたそうです。
同席した他の重臣らは満足してうなずきました。
ところが近衛文麿は微笑していました。
貫太郎の腹の中を知っていたからです。

「内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ。」
(志賀直哉「新町随筆」〈『展望』昭和二十一年三月〉)

六月九日、鈴木貫太郎は臨時議会を召集し、施政方針演説を行いました。
「私はかつて大正七年練習艦隊司令官として、
 米国西岸に航海いたしており、
 サンフランシスコにおける歓迎会の席上、
 日米戦争観につき一場の演説をいたしたことがある。
 その趣旨は、
 日本人は決して好戦国民にあらず、
 世界中でもっとも平和を愛する国民なることを
 歴史の事実をあげて説明し、
 日米戦争の理由なきこと、
 もし戦えば必ず終局なき長期戦に陥り、
 まことに愚なる結果を招来すべきことを説き、
 太平洋は名の如く平和の海にして、
 日米交易のために天の与えたる恩恵なり、
 もしこれを軍隊輸送のため用うるがごときことあれば、
 必ずや両国とも天罰を受くべしと
 警告したのであります。
(中略)
 わが国民の信念は七生尽忠である。
 わが国体を離れてわが国民は存在しない。
 敵の揚言する無条件降伏なるものは、
 畢竟(ひっきょう)するに
 わが一億国民の死を意味する。
 われわれは一に戦うのみである。」
(『聖断天皇と鈴木貫太郎』半藤一利)

よく読むと分かりますが、ここには
「我が国体を維持できれば、
 講和を受け入れる用意がある」
という明らかなメッセージがあります。

実際に強硬派からは、怒号が飛ぶほど強い反発がありました。
そして貫太郎のメッセージを読んだアメリカ軍心理戦争課のザカリアス大佐は、部下に次のように語りました。
「鈴木は戦いのことを語っているが、
 かれが実は平和のことを考えているのだ、
 ということをこの演説は明瞭に示している。
(中略)
 鈴木は、もうわれわれの無条件降伏政策に
 条件をつける材料のないことを覚悟している。
 それでいて、なお降伏を受けいれることを
 鈴木がためらっているのは、
 将来の天皇の地位が不明だからだ。」
(『聖断天皇と鈴木貫太郎』半藤一利)

メッセージは伝わりました。
天皇の地位さえ保障すれば、日本は講和を受け入れることをアメリカは知ったのです。


▼原爆の完成により遠のいた和平への道

六月二十三日、アメリカ軍が沖縄を占領しました。鈴木貫太郎は和平の道を急ぎました。
そして、近衛文麿をソ連に特使として送ることを決めました。
日ソ中立条約を締結しているソ連を仲裁に立てて、和平の道を探ろうとしたのです。

しかし予想外の出来事が起きてしまいます。
七月十七日、トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国三巨頭が、べルリン郊外のポツダムに参集しました。
有名なポツダム会談です。

そして会談の最中に、原爆実験成功という知らせが、トルーマンのもとに届きました。
この瞬間、アメリカには、ソ連に参戦してもらう必要がなくなりました。
こうして七月二十六日、ソ連抜きで「ポツダム宣言」が発せられたのです。

要するに原爆実験成功によって、アメリカは自力で日本を敗戦へ追い込めると確信し、共産主義政権であるソ連の協力を仰ぐ必要はなくなったわけです。
疎外されたソ連にしてみれば、日ソ中立条約を破棄してでも強引に参戦しなければ、領土的野心(共産圏の拡大野心)を満たせず、まさに時代に乗り遅れるという判断が働いたのでしょう。
これによって、ソ連はヨーロッパに展開していた百二十万のソ連陸兵を、大急ぎで満州、樺太、カムチャツカ半島に展開する必要に迫られたわけです。

よく大東亜戦争の終結に向けて、日本がソ連を仲介役に選んだことの間違いを指摘し、批判する人がいます。
歴史は結果ですから、現代の視点で過去をみれば、ソ連に仲裁役など、なんとつまらないことをしたのだろうかと思う気持ちも分からないではありません。

けれどもし、アメリカの原爆実験成功の知らせがなければ、ソ連の介入により「ポツダム宣言」はまったく違った内容になったであろうし、そうすれば鈴木貫太郎の選択も、近衛文麿のソ連訪問も、有効な手段となっていた可能性が高かったといえます。

原爆実験成功の知らせを受けたトルーマンが、ポツダム宣言へのソ連の参加を拒否したのは、原爆を日本に対して使用することを決意していたからにほかありません。
原爆は、一般人に対する戦闘行為を固く禁じた国際条約(ハーグ陸戦条約)に、明確に反する大量殺戮兵器です。
問題は、なぜトルーマンは日本に対し、明らかに国際条約に反する原爆投下を決断したかです。

理由のひとつは、この時点で日本は大量殺戮兵器(原爆)を持っておらず、アメリカが日本から報復攻撃される恐れがまったくなかったこと、そしてもうひとつが、五百年続いた白人による有色人種支配の歴史のなかで、有色人種は「人間ではない」という考えが根づいていたからだといわれています。

白人の有色人種に対する差別意識は、私たち日本人が想像する以上のものです。
たとえば、アメリカでは建国以来、黒人を動産として扱っていました。
動産というのは、家畜と同じでモノの一種です。
つまり彼らの概念からすれば、有色人種である日本人も、モノの一種であって人間ではありません。
ですから、国際条約に反する市街地への無差別爆撃や、原爆投下に対して何のためらいもなかったのです。
戦後、トルーマンは原爆投下について
「まったく心が痛まなかった」と語っています。


▼トルーマンの悪意と日本のメディアによる歪曲報道

当初「、ポツダム宣言」の草案には、天皇制容認が明記されていました。
鈴木貫太郎のメッセージは間違いなくアメリカに届いていたのです。
しかし、この天皇制容認条項を、トルーマンが削除してしまいました。
これは戦争を長引かせる意図的な行為でした。
もし、この条項があれば、貫太郎は間違いなく「ポツダム宣言」を受諾し、一気に終戦に持ち込んでいたでしょう。

ともあれ七月二十六日に、天皇制容認条項が外された「ポツダム宣言」が発せられました。
天皇の地位が保障されなければ、日本としては受け入れられません。
鈴木貫太郎内閣は「ポツダム宣言」の存在を論評なしに公表することにしました。
そして新聞社には、現時点では黙っているのがもっとも賢明であるため、ノー・コメントで「ポツダム宣言」の全文のみを発表するよう指導したのです。

ところがここで、大変なことが起こりました。
日本の大手新聞社は、派手な見出しとともに、一歩踏み込んだ記事を掲載したのです。
「首相、ポツダム宣言黙殺」
「笑止、対日降伏條件」
「笑止!米英蔣共同宣言、
 自惚れを撃破せん、
 聖戦飽くまで完遂」
「白昼夢錯覚を露呈」等。

なかでも『朝日新聞』は
「帝国政府としては、
 米・英・重慶三国の共同声明に関しては
 何ら重大な価値あるものに非ずとして
 これを黙殺すると共に、
 断固戦争完遂に邁進するのみとの
 決意を更に固めている」
と、派手に報道したのです。

この新聞記事にあおられて勢いづいた強硬派が、ポツダム宣言に対する政府の見解を強硬に求めてきたのです。
やむなく強硬派の主張を受け入れ、鈴木貫太郎は記者会見を行いました。
その席で、鈴木貫太郎は不本意ながら情報局の作成したコメントを読み上げました。
その中には最初に新聞が使用した「黙殺」の言葉がありましたが、これは、「ノーコメント」「黙過する」という軽い意味で使われていたのです。
しかし、日本の当時の代表通信社である同盟通信社が「黙殺」を、
「ignoreittentirely(全面的に無視)」
と翻訳し、ロイターとAP通信ではこれを
「reject(拒否)」
と訳して、世界中に報道してしまいました。

実は、日頃から鈴木貫太郎ら閣僚と接する機会の多い新聞記者たちは、貫太郎が和平の道を探っていることを承知していたのです。
承知していて彼らは意図的に歪めた報道を行ったのです。
これは「軽はずみ」ということで済まされる問題ではありません。


▼歪曲報道の結果とその罪過

こうした日本のメディアの情報の歪曲によって、アメリカは「日本は断固戦闘継続の意向」との見方をすることになりました。
当時のアメリカは、すでに戦争によって国費を使い果たし、国家財政が破綻寸前の状況にありました。
また、多数の戦死者を出していることから市民の間には厭戦気分が広がり、さらに共和党を中心として、戦争継続反対の気運が盛り上がっていたのです。
ですからアメリカ政府は、アメリカ側の被害をこれ以上増やさずに戦争を終結するため、実験に成功したばかりの原爆の使用を、ついに容認してしまうのです。

これは日本の常識として、私たちが明確に知っておかなければならない歴史だと思うのですが、広島と長崎に投下された原爆被害は、
「日本のメディアの軽はずみな報道がひとつの原因であった」
とさえいえるのです。

確かにトルーマンは、日本に対して原爆を使用するつもりでいました。
しかし市街地への原爆投下など、誰がどう考えてもやってはいけない非人道的な行為です。
原爆の使用に関しては、アメリカの多くの議員や軍人が反対していました。
後にアメリカ大統領になるアイゼンハワーも猛反対しています。
日本のメディアの歪曲報道がなければ、これら原爆反対派の意見が主流となり、日本との間に講和の糸口を見いだした可能性が十二分にあったのです。

原爆投下は八月六日、九日、ソ連の対日参戦は九日です。
「ポツダム宣言」は七月二十六日です。
もし、そうした和平をめぐる動きが出ていたとするなら、原爆投下はなかったであろうし、ソ連の対日参戦も行われなかった可能性があるのです。
ソ連参戦がなければ、満州にいた日本人が大量に虐殺されたり、シベリアに抑留されたりするといった大惨劇もありませんでした。

この点は是非、みなさまにもよく考えていただきたいのです。鈴木貫太郎は「天皇の地位を保障するなら、いつでも和平に応じる」とメッセージを発しているのです。
そのことは新聞記者なら知っていました。
それがどうして「ポツダム宣言黙殺」や「笑止」「聖戦飽くまで完遂」「錯覚」となるのでしょうか。
どこをどうしたら、そういう報道になるのでしょうか。

そしてこのことは、もうひとつの大切な歴史を私たちに教えてくれます。
よく、戦時下の日本では
「厳しい言論統制が行われていた」
という記述を見かけますが、実際にはかなりの報道の自由、言論の自由が我が国において「認められていた」ということです。

なるほど、天皇を抹殺しようとする者や、国家体制の転覆を目論む者については、治安維持法により、これを逮捕し勾留しました。
これは当然のことで、そうでなければ国内の治安は維持できません。
過激な共産主義者や不逞外国人が当時の日本社会にも少なからず存在していたのです。

たとえば、終戦時に戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した重光葵外相は片足がありません。
それは不逞外国人による爆弾テロに遭ったからです。

けれど、そうした極端な思想以外については、日本社会においては、共産主義国はもとより欧米諸国と比較しても、かなり自由な言論が認められていました。
なぜそうした自由が認められていたかといえば、我が国の民は「天皇の民=公民(おほみたから)」と考えられたからです。
公民(おほみたから)である以上、そこに自然と尊厳が認められ、自由な言論も認められたわけです。

日本の新聞は、そのありがたみを忘れ、いたずらに戦意をあおり、事実を故意にねじ曲げて報道し、結果として多数の人命を失う悲劇を招きました。
そして現在にいたるまで、新聞各社は、誰ひとり責任をとっていません。
しかしこの事実は、本来、厳しく弾劾(だんがい)されてしかるべきものです。


▼ご聖断を仰ぐ

さて、長崎に原爆が投下され、ソ連が対日参戦した日の夜、鈴木貫太郎は緊急閣議を召集しました。
その席で貫太郎は、なかば強引にポツダム宣言受諾を取り決めようとしました。
けれど閣僚の半数が賛成、残りの半数が反対です。
結論がでないのです。

そこで貫太郎は、御前会議で天皇のご聖断を仰ぐことになりました。
これは本来、「あってはならないこと」です。
政治における意思決定は内閣の仕事です。
その意思決定をせずに、天皇にご聖断を仰ぐというのは、内閣の存在意義を自ら否定するようなものだからです。

けれど貫太郎は、たとえ自分がいかなる恥ずかしめを受けようとも、これ以上、多くの日本人がアメリカの殺戮兵器により命を落とす事態を防ごうとしました。
だからこそ御前会議を召集したのです。
このことも、昭和の歴史を語るうえで、とても大事な点です。

八月十四日の御前会議で、日本は正式にポツダム宣言受諾を決定しました。
そしてみなさまご存知の玉音放送が、八月十五日の正午に流れました。
ところがその日の早朝、東京小石川の私邸にいた鈴木貫太郎は強硬派に襲撃されています。
貫太郎夫妻は警護官の手によって無事に脱出しましたが、私邸は焼き払われ、財産もろとも全焼しています。

鈴木貫太郎は八月十五日、内閣を総辞職しました。本来であれば、ポツダム宣言の受諾を承認した以上、九月四日の降伏文書調印も鈴木貫太郎内閣で行うべき仕事です。
にもかかわらず鈴木貫太郎が辞職したのは、御前会議でご聖断を仰ぐという、内閣として本来あってはならないことをしてしまった責任をとったからです。
貫太郎は、全責任を自分ひとりで負ったのです。

鈴木貫太郎は、主戦論渦巻く当時の内閣、国会、世論に対して、表立った反論をせず秘かに和平の道を探り、日本を終戦へと導きました。生粋の軍人でありながら時代の要請で首相となり、わずか四カ月の在任期間で、戦争終結という大業をなし遂げたのです。

精根を使い果たした貫太郎は、このわずか二年半後の昭和二十三(1948)年四月十七日未明、八十歳で永眠しました。
最期に一言、

「永遠の平和」

という言葉を残したそうです。

鈴木貫太郎は幼少のころから、何度も死にかけています。
そして海軍軍人となってからは、たえず死と隣り合わせの第一線に身を置きながら、生き延び武勲を立てています。
二・二六事件では銃弾を受け、実際に心停止までしています。それでも彼は息を吹き返し、八十歳近くになって大東亜戦争に幕を引くという、胆力と集中力を必要とする仕事を、見事にやってのけています。
真実は「神のみぞ知る」ですが、もしかすると貫太郎は、日本の終戦処理という重大使命を帯びて、この世に生を受けた人だったのかもしれません。
そう考えてみると、人はどんな人でも見えない大きな力によって「生かされている」存在で
あるのかもしれないと思えてきます。

そして天は、誰かに大任を委ねようとするときには、必ず「これでもか」というほどの艱難辛苦を与えるのです。
その艱難辛苦に見事打ち勝った者だけが、天命を得るのではないか、鈴木貫太郎の生涯を見ていくと、それは確かであるような気がしてきます。

※この記事は拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第二巻』の転載です。


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02-02 創生の神々と十七条憲法のただならぬ関係とは
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03-03 ヒルコをめぐる三つの意味とは
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03-05 国生みと神生み
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01 修身教育とは
02 誠実
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04 礼儀
05 博愛
06 公益
07 よい日本人
08 自立自営
09 我が郷土
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11 勇気
12 進取の気象
13 信義
14 国旗
15 慈善 





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コメント
トルーマンも実は後悔していた
 こんにちは。
 成程と思うお話ありがとうございます。
 で、原爆とその前後のお話になりますが、軍人は特に最高責任者四人、陸軍長官スチムソン、参謀総長マーシャル、海軍長官フォレスタル、更に最も日本を嫌っていたとされる作戦部長キングですら原爆投下には反対、他にもマッカーサー、ニミッツ、ハルゼーなど、到底親日とは言えない面々ですら反対しておりました。
 また、トルーマンは最終的に広島、小倉(この時点では)への原爆投下を決定しますが、これは共に軍都であり民間人はいないという前提の許、軍事拠点だから許可したということが分かっております。トルーマンも無差別攻撃になる都市への投下には心理的抵抗があったようです。
 この背景には原爆開発に当初から関わっていた一人、レスリー・グローブスの影響が大きいと言われています。
 調べれば投下目標が都市なのか軍事拠点なのかは分かりそうなものですが、トルーマンはグローブスの進言を鵜呑みにしていたと言われ、投下後にかの惨状の写真を見せられたトルーマンは激怒し、こんなの国民に公表できないと報道管制を敷いたと言われています。
 戦後間もない頃、日本国内に於いて原爆に関する厳しい検閲が行われたのは、その実態が日本国内に知れ渡りアメリカへの非難となって占領統治の支障になるというのもあったでしょうが、それ以上にアメリカ国内での非難の高まりを恐れていたと推測されます。
 というのも終戦直後にフーバー元大統領を筆頭に共和党から、『我々は民主党に騙された』という批判があり、その結果トルーマンの支持率はその時点で22%。これは歴代大統領で最低の数字です。
 そして日本で厳しい検閲が行われた時期とトルーマンの再選の時期がほぼ重なっており、再選を意識していたのは間違いないでしょう。
 現在広島の原爆資料館には多くの外国人が訪れますが、そんな外国人と話す機会があり、原爆の実態をネットで知ってこの目で知りたくなり平和資料館まで足を運んだという方が多いのですよね。
 つまり、つい最近まで原爆の実態を知らない外国人は少なくなかったという訳で、それを知ったアメリカ人の中にルーズベルト、トルーマンを非難する声が高まりつつあるのもある意味トルーマンの当時の危惧を裏付けていると言えましょう。
 余談ながら、子孫の証言でトルーマン自身も原爆投下を後悔していたことが判明しており、実際原爆投下へのシナリオは全てルーズベルトによってほぼ完成していたことを考えると、今更トルーマンにそれに抗う術はなかったと言えなくもないかもしれません。
 冷静に考えれば原爆投下については不運な悪条件が悪魔の仕業としか言いようのないほどに重なった末の帰結であり、日本としてはその経緯を研究し、今後の教訓としていくべきでしょう。
 でもって無責任なマスコミはこれをネット上で多くの国民が知れば企業経営のみならず人間が社会生活を営む上で最も重要な信用を失い、最終的に倒産という形で代償を支払うことになると思います。
 特に未だマスコミを信じる高齢者はこの先いなくなり、入れ替わるように世代が交代していきますからマスコミは内心戦々恐々でしょう。
 あとルーズベルトの死については随分とタイミングが良いような気がしないでもないですが、確かに元々あまり丈夫でなかった所へ多忙を極め過労が祟ったのは間違いないでしょうけど、それでも不可解なタイミングで世を去っているとしか思えないのは、日本に手を出せば必ず滅びる、所謂Jの法則が発動したのではと思うことがあります。
 実際、その直後にトルーマンによってソ連の息のかかった閣僚はほぼ更迭されており、もしもルーズベルトがあと4か月も生きていたら日本を含むその後の世界の勢力地図はどうなっていたかは分かりません。
 また、統合参謀本部の創設はトルーマンの数少ない功績です。
 因みに、ねずさんが何度も記事にしているように、ソ連はこの戦争の影に隠れるようにして侵略を進めていたものの、ルーズベルトの絶妙のタイミングの死によってある意味御破算となり、更にこの46年後にソ連は歴史の彼方に消えて行きましたが、結局日本に手を出してしまったことの報いと言えなくもなく、ここまで来ると最早Jの法則というよりJの呪いですね。
 ルーズベルトもスターリンも、結局のところ目標を九割九分まで達成しながら達成目前で全てが水の泡になってしまったわけです。残り1%で全てが水の泡。これ以上に相手にダメージを負わせる話もないかと思います。そして、両超大国の衰退はこの時から始まっていたと解釈することもできます。
 アメリカもソ連も戦争に勝ちはしたけど政治目標は何一つ達成できず、その意味で第二次世界大戦に真の意味での勝利者はいないと言えましょう。もしかしたら、神々の御意志により、第二次世界大戦に勝利者はいてはならなかったのかもしれません。
 そして、第二次世界大戦の勝利の美酒に酔うのも束の間、その僅か5年後に朝鮮戦争、更にベトナム戦争、冷戦とアメリカは国力を擦り減らし、今となっては超大国の面影など見る影もありませんが、もしかしたら更に後世のアメリカ人からルーズベルトはアメリカを衰退に追いやった大統領、アメリカ憲政史上最悪の大統領と呼ばれることになるかもしれません?
 最後に、覇権を握った国は全て滅びるか見る影もない程落ちぶれているかであり、アメリカもその例外ではなかったのです。
 日本がこれまでなんだかんだ言いながら生き延びてこれた理由の一つが、覇を唱えなかったからではと私は推測しております。
2019/02/23(土) 09:55 | URL | kinshisho #eYj5zAx6[ 編集]
天命
時を経ても…何度も一気に読んでいます。
武人の妻…たか夫人。
体が震え眼が潤みます。

天命に従い壮絶に生きる…真似できることではありません。
しかし「天命」ってあるんだ…微力の徒ではありますが、自分なりの生き様を全うしたいと思って居ります。

本日は、皇太子徳仁親王殿下の御生誕記念日です。
謹んで壽ぎ奉り、皇室の御彌榮と我國の益々の隆盛を祈念申し上げます。 

聖壽万歳!天皇彌榮!
日本よ!立ちあがれ!

皇紀二千六百七十九年
二月二十三日
2019/02/23(土) 09:26 | URL | takechiyo1949 #VCU7f5e.[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
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『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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