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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


意味不明な言葉を話す、関東軍の軍服を着ていた人はどこの人?


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以下のお話は、以前にご紹介した石頭予備士官候補生の戦いの記事を読まれた、いま日光でワサビ畑「水耕栽培」をされている橋場榮二様から、いただいた原稿です。
ご本人様から、お名前と全文の公開のご許可をいただきましたので、文をそのままご紹介します。
歴史の真実が書かれています。
橋場さん、原稿をありがとうございました。


黒竜江省牡丹江市
20190830 黒竜江省牡丹江市
画像出所=http://jp.xinhuanet.com/2019-02/02/c_137793666_3.htm
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


先に申し上げておきます。
文中に次の記述があります。
「関東軍兵士が大勢いた駐屯地に、沢山の婦女子が助けを求め、集まって来ていた。これから避難するための準備(身じたく)をしている際中、兵舎から火の手が上がり、そこに居た大勢いの兵隊さんは誰もいなくなっていた。大人のみんなは、意味不明な言葉を話す関東軍の軍服を着た兵隊さんが、私たちを見捨てて逃げたと、パニック状態に陥った。」

実は戦後、このあたりの記録(記憶)が悪用されて独り歩きし、
「関東軍は人々を捨てて逃げた」
と言われるようになりましたが、まったくの嘘であり、でっちあげであり、デタラメです。

関東軍の兵士たちは、予備士官候補生までをも含めて、全員、ソ連軍のいる前線へと出ていったのです。
そして留守になる兵舎に、半 島人の指揮官のもと「半 島人の軍属」および「半島からの徴兵兵」を残しました。
彼らは(将校は別ですが)、体格も良いし、日頃はとにかく勇ましいのですが、戦闘中に敵がやってくると「アイゴー」と叫んで銃を捨てて逃げてしまうからです。
前線ではまったく役に立たないし、そのような者を、激戦が予測される前線に連れて行ったら、戦線が総崩れになってしまいます。

このため半 島人の将校に管理を任せて兵舎に置いて行ったのですが、彼らはその将校を自分たちで殺害し、さらに兵営に火を付けて逃げて行ったのです。
これを当時の日本人が見ていました。
だから文にも「意味不明な言葉を話す関東軍の軍服を着た兵隊さん」と書かれています。

 ***

──────────
父(廣:ひろし)の話。
(1915年~2002年8月29日)
──────────

父の通夜の時、お線香が突然真ん中から曲ったのを見て、父からのメッセージで、有難うと言っているように感じた。(通夜の祭壇の前で、何か気配を感じたかと思ったら、細く白い煙が立ち登っていたお線香の真ん中から、まるでお辞儀をしているように直角に曲がっていた。)
父の魂は、過去世から現世まで、相当な徳を積んで来たようだ。
だから、お線香を曲げるくらい、簡単にできるレベルにまで魂が達していたのだろう。

父は子供の頃、柿の木から落ちて、左手を骨折し骨が曲がってくっ付いていた。
そのケガがもとで、徴兵検査に落ちて兵隊になれなかった。
それから暫らくして、妻をめとり暮らしていたが、1936年頃に満州開拓団の話があり、翌年妻と共に満州国に渡った。(場所:満州国内モンゴル地区)

1940年に長男が生まれ、翌年、次男が生まれて4人家族となった。
8年ほどして満人10人ほど雇う大農家になっていた。

そのころ、日本全国で銃剣術の大会が開催され、満州国でも大会が開かれ、父が参加したところ、勝利を重ね満州国代表になった。
そして、日本本土の国技館で開催された、日本一を決める大会に出場することになった。
父は日本一にはなれなかったものの善戦したようだ。

大会終了後、満州に帰って間も無く、赤紙が来て出兵することになった。
(戦争が激しさを増すとともに、満州開拓団の働き盛りの男子や、若者のほとんどが関東軍の義勇隊員として、戦闘に加わる命令が下されるようになった。)

当時、満州を守っていた関東軍は、南方戦線が激しさを増し、関東軍が所有していた軍事物資「武器、弾薬、兵器」のほとんどを南方戦線に送っていた。
関東軍に残されていたのは、歩兵銃を含め、僅かな武器、弾薬と、工事用ダイナマイトくらいしかなかった。



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20190317 MARTH



満州の牡丹江省にあった石頭「せきとう」予備士官学校の候補生(3,600名)に出撃命令が下った。
学校長が生徒に出陣命令を下したものの、十分な武器、弾薬はなく、あるのは工事用ダイナマイトだけだった。
したがって、生徒に支給されたのは、急遽造られたランドセルにダイナマイトをびっしり詰め込み、30cmくらいの導火線をつけて、その先にマッチ棒3本糸でくくりつけた、戦車攻撃爆雷が支給された。 
(敵戦車が接近してきたらマッチ棒をすって点火させ、ランドセルを抱えたまま全力疾走で突っ込む肉攻作戦である)
父が所属した部隊は、ランドセルを背負って敵戦車に突っ込み自爆する肉攻部隊の後方を守っていた。

ソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊で、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけ、善戦したものの多勢に無勢、ついに陣地は敵戦車約40両にふみにじられ、死傷者続出の事態となった。
もはや組織的な戦闘は不能となり、後方の山中に負傷者を連れ、てんでんばらばらに脱出した。

父も敵兵に見つからない様、山中を駆けずり回わっている最中、頭をよぎるのは家族の事。
みんな無事でいて欲しいと願いながら、我が家を目指した。
必死の思いで山中を駆けずり回り、何とか無事に我が家に辿り着いた。
しかし、そこには誰も居なかった。

隠れて身を潜めていた満人(元雇っていた満人)が、何処ともなく現れ話してくれた。
家族は兵隊さんが沢山いる駐屯地「避難場」に向かったと聞かされた。
(父は、家族が無事である事を聞かされて、ここまでずっと張り詰めていた気がゆるみ安堵した)

しかし、満人から、今すぐ駐屯地に向かうのは敵兵「ソ連・中国軍」が沢山いるので危険だからと云われ、父も安堵感から疲れがドッと出て、その満人の家にかくまってもらい、早朝出かけることにした。
その晩、ソ連兵が来て、父が隠れていた屋根裏に銃弾を発砲。
声を出したら、助けてくれた満人もろとも殺されるので、恐怖をこらえ必死に耐えた。  
(父が85才の頃、認知症になり頭に焼き付いていた当時の記憶がよみがえり、何度も隅に隠れガタガタ震えていた)

早朝、かくまってくれた満人の家族に感謝の気持ちを伝え、家族がいる駐屯地に向かった。駐屯地の近くに着くと、人の気配が全くなく静まり返っていた。
近づくとそこは死体がごろごろ。
何と妻を含め若い女性たち数十人は、青酸カリで自害していた。
無惨にも、およそ100人近くの人が、銃剣で喉・心臓などを刺し自害していた。


そんな悲惨な中、奇跡的に二人の息子と男の子1人(故郷:熊本県)の3人が、死体の中に隠れて生きていた。

息子たちの話によると、関東軍兵士が大勢いた駐屯地に、沢山の婦女子が助けを求め、集まって来ていた。
これから避難するための準備「身じたく」をしている際中、兵舎から火の手が上がり、そこに居た大勢いの兵隊さんは誰もいなくなっていた。

大人のみんなは、意味不明な言葉を話す関東軍の軍服を着た兵隊さんが、私たちを見捨てて逃げたと、パニック状態に陥った。

暫くすると、ソ連兵が戦車を先頭にアリの大群のように近付いて来るのが見えた。
(ソ連兵はドイツが降伏した際、ドイツ東部の老女から4才までの、ほぼすべての女性が強姦され殺された事件を、母は耳にして知っていた。私たち女性は、野蛮なソ連兵から逃れる術はもう無い)

母が最後に言った。
お前たち兄弟は、何がなんでも生きるんだ、と云って息絶えた。

映画、上川隆也主演の「大地の子」。この映画は、まさに父と兄たちが辿った道です。
父は、満人と対等で、心通じ会う親密な態度で接し徳を積んだ。
結果、現地の人達に助けられ生き延びることができた。

その後、父は息子たちを連れ、近くのの駐屯地を駆け回った。何処も悲惨な状態だった。
ようやく、300人規模の人達が暮らしている駐屯地に辿り着いた。
そこは戦地から遠く離れていて、悲惨な目に合わなかったようだ。

父は、この駐屯地の団長に選ばれ、全員の面倒を見ることになった。
暫くして雪が舞い始め、季節は冬となった。
そのころから、発疹チフスが流行り始め、またたく間に多くの人が亡くなった。
大きな穴を掘っても、すぐに満杯になり次から次えと穴を掘り続けた。

父は、穴掘りや死体の移動などで疲れがたまり、自分もチフスにかかってしまった。
隔離された部屋に父は移され、死を待っっていた。
隣りの人が亡くなると、シラミやノミが大群となって迫ってきたが、追い払う事も出来ず、血を吸われるままどうすることもなかった。

子供たちは、父の事が心配で側に来ては、父の頭に雪を包んだ布切れを乗せ、頭を冷やしていた。
その甲斐もあって、父は徐々に回復して行った。
父の話しでは、平らなはずの地面が、蟻地獄のように窪み、そこから一歩も這い上がることが出来なかったと話していた。
何週間か経って奇跡的に病を脱した。
これは、子供たちのけなげな看病と、愛しい想いが天に通じたのだろう。

その頃になると、地面が凍り穴を掘る事が出来なくなり、死体を一か所に山積みにするしかなかった。
春が近付く頃には、当初300人いたが、生き残った人はわずか100人足らずで、おおよそ200人が亡くなった。
春になり、死骸の腐敗が始まった頃、動物や敵兵を警戒しながら、急ピッチで穴を掘り埋葬して行った。

春になると、また、敵兵「ソ連・中国軍」が攻めて来る可能性が高いので、駐屯地をなるべく早く離れる事にした。
逃走中、老人や赤子、体が弱っていた何人かは命を落した。

父の話。
逃走中、乳飲み子を背負った女性が、何者かに「中国軍?」銃で左乳房を撃たれ「貫通」、オッパイが流れ出ているのに、手当もできないまま逃げていたが、暫くして弱りはてた彼女は、足手まといになるからと云って、赤子もろとも川に飛び込み行方が分からなった。

大変な苦労を重ね、やっとの思いで子供たち3人を連れ、日本に帰ることが出来た。
駐屯地でただ一人生き残った男の子は、故郷から親戚が迎えが来て、熊本に帰ることになった。
子供たちは、別れを惜しみながら、去っていく男の子を見送った。
(後の話、男の子は立派な青年に成長し、父に感謝を伝えるため訪ねて来た)

父たちは、富山の村に着いた。
村人から兄「三義:みつよし」も出兵し、まだ帰って来てないと聞かされた。
したがって、しばらく兄の家で畑を耕しながら暮らす事になった。
(当時、先祖代々の資産その他は、長男が全て引き継ぐと云う法律になっていた)

********

※ 母(きみ子)の話。
(1923年~2008年5月3日)

母は米倉を沢山持つ大地主(領主として優雅な暮しをしていた)の娘で、地主の子など選ばれた女子のみが入学できる女学校に通い、不自由の無い青春時代を過ごしていた。

16才の頃、東京から来た青年に一目ぼれした。
母は、富山県や村一番の美人で、縁談話しは数えきれないほど来た。
しかし、母は、都会に憧れ、家出して東京の彼のに駆け込んだ。

その家は、心休まる温かい家庭で母にとって居心地のいい家庭だったようだ。
母は、田舎育ちで自由気ままに育って来た。
その家の姑さんとその家族から、都会で暮らして行く為の、行儀作法や躾、田舎なまりの指摘など一から教えていただいた。

母は、私の姉を身籠って間もなく、東京空襲が始まり防空壕に避難し始めた。
母は、子どもを出産したころから空襲が激しくなり、防空壕に入ると子供が激しく泣き、他の人に迷惑になる為、富山の村に疎開することにした。

そして2日後、1945年3月10日、東京大空襲で深川は壊滅。
一同全員行方不明となった。

母を心配した村人が、東京の深川へ様子を見に行ったが、深川に住んでいた家があった場所は、軍事工場が近くにあったせいで、徹底的に破壊され防空壕なども跡形も無くなっていた。
それを聞いた母は、水身自殺をしようとしたが、我が子の泣き声で死ぬのを留まった。

それから間も無く終戦となり戦争は終わった。

戦後の後処理として、GHQが日本に来て、封建制度の廃止で農地改革を始めた。
母の実家は、100人ほどの小作人に、ただ同然で土地を明け渡し、おまけに代々数百年に渡って受け継ぎ貯めて来たお金、現在のお金に換算すると数十億円という莫大な金額が没収され、一気に貧乏人となってしまった。(父方は小作人で、土地「数ヘクタール」をただ同然で貰った側)

大地主(領主)は、小作人100に対し1の割合で、文句を言えばその土地で暮らしていけないどころか、袋たたきにされ命も危ぶまれる時代。
国の方針に逆らうことは死を意味していた。

また、GHQの方針で法律が変わり、それまでの法律は、長男がひとりで全ての遺産を継承・相続するという法律を、すべての兄弟に平等に分配する法律に変えた。
これは、一見良さそうに思えるが、全ての子供たちに農地を分配して行く事は、何代か続いたら、その土地からの収穫では食って行けなくなり、農民は借金地獄に陥り、暮しが立ち行かなくなる法律だ。

GHQが日本を統治した頃、母と父が出会った。
母は、心身ともにボロボロの状態で、実家も領主と云う優雅な暮らしから一転、何もかも取られ貧乏暮しになった為、母を養うほどの余裕はなくなっていた。
そこで良縁談は望まず、戦地で妻を亡くした父とお見合いで結婚させられた。

お互い子持ちで、気持ちが通じ合ったようだ。
父は、母の負担を減らす為、次男を養子に出した。

そして、私が生まれ兄姉(きょうだい)5人の親子となる。

父と母は、父の兄「三義」の土地で農作をして暮らしていた。
もう長い年月が経ちこの土地で一生暮らすのかなと思っていた頃、8年目にして兄が戦地から帰還した。
兄の話によると、ソ連軍に捕まりシベリアへ抑留され、厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を何年も強要させられていた。
戦友は、栄養失調や病気でバタバタ亡くなっていったとの事。

父は、兄が帰って来た事で、この村から出て行かなければならなくなった。
そこで、母が叔父さんに、叔父さんの所で父母・家族ともに暮らせる環境で、働かせてもらえないか頼んだ。

叔父さんは、群馬県の相俣ダム(あいまただむ)の建設工事を請け負った(株)熊谷組の下請け工事をしていた。
叔父さんは、土方(どかた・どかちん)80人ほど雇っていた親方で、父母を喜んで受け入れてくれた。
父は、警備班で金庫番の仕事。(父の銃剣術で鍛えた腕力が認められた)

それまで土方が暮らす飯場(はんば)では強盗や喧嘩は日常茶飯事で、給料日前日は給料強盗が度々起きていたようだ。(飯場とは:屋根瓦ではなく板葺きで、仕切りはべニア板で出来た長屋)

私は、無法地帯である飯場で、子どものころ暮らしていた。
酒の勢いで喧嘩や殺し合いは日常茶飯事で、恐ろしい光景も数えきれないほど見て、大人に怯えながら暮らす日々が続いた。(父が勇敢に立ち向かう姿を見て誇らしげりに思った)

子供心で一番ショックだった出来事は、父が留守の時、当時ペットとして飼っていた雑種犬太郎が、誰かに連れ去られてしまったことだ。

夜、太郎が激しく泣いて急に静かになったので、見に行こうとしたら、一緒に寝ていた母から手を強く握られ、見に行くことが出来なかった。
翌日、太郎がいないので皆で探したところ、河原で太郎の毛皮の一部と骨が見つかった。
近くに焚火の後があり、太郎は焼かれて食べられてしまったのだ。
犯人たちの顔も分からず、悔しい思いでいっぱいと、太郎の気持ちを思うといつまでも涙が止まらなかった。

母は、女学校出で教養もあり、飯場の中の事務所で経理の仕事をしていた。
ダム工事の仕事は、危険も多く無残な死人の姿も数えきれないほど見て来た。(母の下の弟は、ダムで高さ200メートル付近から転落して、死体がダム湖の底から上がってくるまで3日ほどかかり、母が毎日泣いていたのを記憶している)

またある日の事、工事現場の500メートル以上もある崖から落石があり、何人か負傷した。
その内の一人が父だった。
大変だぁ~、と云いながら次々と担架に乗せられ、ケガ人が運ばれてきた。
父は意識があり、痛みに耐えながら担架に乗せられていた。(父のケガは、右脇腹からお尻にかけて傷があり、全治6週間のケガ)

私が小学6年生になった頃、相俣ダムが完成し、父の仕事場が静岡県富士宮市の隧道工事現場に移り、私たち家族もこの地に移動した。

富士宮市の飯場は、30人ほどの小さな飯場で、それまでも秩序と規律は、きちっと守られ、父が赴任してさらに、飯場の治安が良くなったようだ。
しかし、隧道工事は度々洪水が発生し、多くの死者を出していた。

ある日、大洪水が起き4人の犠牲者が出た。
私を、いつも可愛がってくれていたおじさんが、その中の一人で、おじさんは小さい子供が何人もいて、全員おじさんいにしがみ付いて泣き叫んでいるの光景を、私は何も感じることなく呆然と見ていた。

富士宮飯場近くで、大変な事件が起きた。
飯場から800メートルほど上がった丘の村で、18才の娘さんが何人かに強姦され、首を絞められ殺害された。私は、遺体が安置されていた部屋に忍び込み、娘さんの顔を見て驚いた。
それは、まるで天女のように美しく輝いていた。
警察も飯場など調べに来たが、犯人は分からず未解決のままこの事件は終った。

関西の六甲おろしと同じように、富士山おろしは凄まじい自然の驚異だった。
富士山の裾野が見える富士宮市は、富士山との間に障害物が何もなく凄まじい風が吹く。
台風が来ると何もかも吹き飛ばす強い風が吹く地域。

富士川から、15メートル上がった高台に事務所があり、台風が接近していた時、母と一緒に事務所にいた。
風が強まり引き戸の扉が弓なりとなり、母に見てと云った瞬間、扉がバンと破裂したと思ったら、扉が私の両耳をかすめて左右に吹き飛んで行った。
同時に、あっという間に私の体も飛ばされていた。
後ろにいた母が必死でキャッチしてくれたお陰で助った。
事務所は、ばらばらになり富士川に飲み込まれていった。
母が受け止めてくれなかったら、私も川に落ち濁流にのまれていたと思う。

その後、富士川の水位がみるみる上がりはじめ、水面より10メートル上に建っていた飯場は、濁流の中へ消えて行った。
川の向こう岸までの川原、約2~3キロ離れた川原が一面濁流となり、まるで海のようになっていた。
水位が何処まで上がって来るのか分からず、ここに居ると危ないと云うことで、高台の村まで逃げる事になった。しかし、高台の村までの道は、何本も太い木が倒れていて、そこを通ることは危険と云うことで、仕方なく水位が上がって来てもすぐに避難できる場所で、富士川の水位を見守りながら不安な夜を明かした。

私が、中学2年の時、父母が東京で運送会社を設立し、私たち家族も東京都北区西ヶ原に移り住んだ。

母は、社員4~5人の面倒をよく見、食事の支度や夜食などを作り食べさせていて、社員からも大変頼りにされていた。母は、社員のお見合いに積極的に取り組み、何組も結婚させていた。

私の高校生時代は、ほぼ毎日、上野駅で牛乳4ケース約60kgを肩に担いでホームの階段を駆け上がり、いくつもの売店に運んでいた。

18才になって免許を取得した頃は、八幡製鉄所の溶接棒25kg×4ケース「100kg」を持ち上げ、造船所の船の階段、高さ50メートルほどを何度も運び上げていた。
また月に一度は、東京から神戸まで往復3日かけて、トラックの荷台にドラム缶を積んで運んでいた。
その頃の道路は舗装道路は少なく、ほとんど砂利道でデコボコだらけの道をのろのろ走っていた。
冬は、トラックに暖房が無く足に毛布を掛け、危険な碓氷峠超えを寒さで足の感覚が無くなり、危険な思いを何度もしながら、必死で走っていた。

私が大学生時代後半になると、父母の運送会社は軌道に乗り、運転手として働くことが無くなっていた。
私は大学を卒業したのち、父の運送会社は兄が引き継ぐ事になり、私は工業製薬会社に就職した。
その頃、ダンスブームが起こり、私は、社交ダンスに打ち込み青春時代を謳歌していた。

30才頃からヨットに夢中になり、千葉県館山市に別荘を買ってもらい、週末は、ヨットを走らせて楽しんでいた。

1978年「昭和53年4月9日」事件が起きた。
3人でヨットを走らせていた時、突然突風(春の嵐)が吹きヨットが転覆し、3人ともヨットの外へ投げ出された。
私は、ヨットを立て直し1人をヨットに乗せ、もう一人を助けようとしたが、突風にあおられ遠ざかっていった。助けに行こうとしたが、どんどん流され頭が小さくなっていくのを呆然と見ていた。
これではいけないと岸に戻り、漁船に頼んで探してもらったが見つかりませんでした。

1週間後、海に浮かんでいる死体を漁船員が見つけ浜辺に運んできた。
顔は、お地蔵さんのように優しい顔でふっくらとし、まるで別人のようでしたが、服装や免許証で友人であることが分かった。

死亡した友人は、私が中学2年の時の同級生で、東京に来て初めて友達になった
佐藤君。
佐藤君とは、毎日一緒に遊んだたった一人の掛替えのない友でした。
14才から佐藤君が亡くなる30才まで、旅行も遊びもいつも一緒に過ごした中。

だがその時、私は死に別れ、人の悲しみを感じられないことに気づいた。
つまり、身近な人が死んでも涙が出ない。
愛犬「くう」が死んだ時も、悲しみが感じられない、どころか涙も出ないことに気付いて驚いた。

これは、私が子供の頃から、いろんな死様を見て来たからだと思う。
いろんな悲しい恐ろしい事を沢山経験すると麻痺し、何も感じなくなる事が分かった。
でも、私ほどいろいろな死様を長い間見つめ続け、経験した人は皆無に等しいと思うから、この感覚は誰も理解できないと思う。

********

※ 榮二の22才からの回想録。

1970年、城西大学経済学部を卒業し、工業薬品会社に就職。
勤務先は、大阪市中央区道修町(どしょうまち)で大阪支店の営業部に勤務。
毎日、点々とある薬会社を駆けずり回り、営業活動をしていた。
大阪支店には寄宿舎が無く、淀川近くの長屋アパートに居住した。

アパートの管理人(老人)と親しくさせてもらい、管理人の趣味である囲碁を、一から教えてもらい毎日のように囲碁を楽しんだ。
管理人は毎日、粉末の粉にお湯を注いで飲んでいた。
不思議に思いそれは何ですかと尋ねると、米ぬかだよと教えてくれた。
一杯ご馳走してもらい飲んでみたら、濃紺な牛乳を温めて飲んでいるようで美味しかった。

それから、人生の話や、最近流行っている社交ダンスなどの話をした。
君もダンスをやったら女の子にもてるよと云われ、近くのダンス教室に行って見た。

その教室は、競技ダンスに出場する為の教室で、若い男女が通う教室だった。
私も言われるままにメダルテストに挑戦し、競技会に出場する資格を2年半ほどかけて取得。
管理人が言っていた通り、女の子にもてるよと言っていた事は本当だった。

また、教室のプロ教師夫妻に親しくしてもらい、土曜日の晩から徹夜麻雀で夜を明かす日々が続いた。
教師夫妻の奥さんは、スタイルが抜群で、超が付くほど美人。
時間があったら特別に私を鍛えてもらっていた。
ステップが上手く出来ないと、手のひらのピンタが容赦なく飛んできた。
普段は優しい女「ひと」なのに、ダンスレッスンになると鬼に変身する。

月日が流れ、いよいよダンス競技会に出場しようとしていた頃、本社から転勤命令が発令された。
ダンス教室の教師夫妻に転勤の話をすると、美人教師から、あなたはプロの世界で活躍する素質がある。
だから練習も厳しくして来た。
会社を退社しダンスの世界に飛び込むか、あるいは会社に留まっても、社交ダンスだけは続けなさいと言われた。

私は、東京の両親のもとへ帰りたい気持ちもあったし、ダンスの世界に入るのも少し躊躇していた。
そして、東京に帰る決心をし、ダンス教室の皆さんに別れを告げた。
ダンス教室に通っていた女子生徒4~5人全員、別れを惜しんで何時までも私の側から離れようとしなかった。
その内の一人はショックのあまり、腰が抜けたように立つ事が出来ない程ガッカリしてした。
プロ教師夫妻も寂しさをこらえていた。
私は、我が子のように可愛がっていただいた事に、感謝の気持を伝え別れを告げた。

本社に戻る頃、世の中は、コンピュータ時代の始まりで、社内にも大型コンピュータを導入しようとする時代だった。
その頃、ウインドーズ95がアメリカで開発され、パソコン時代が始まった。

私も無中で、パソコンの勉強に取り組み、プログラム作りに没頭した。
その頃、初心者でもプログラム開発ができるベーシック言語が開発され、ベーシック言語は100種類ほどの英単語(if・print・and・samなど)で、プログラムが作れる画期的な言語だった。
私もこの言語を使いプログラム開発に励んでいた。

その頃本社では、IBMの大型スーパーコンピュータを導入し始動し始めていた。
だが、経理の簿記を始め、工場の工業簿記はまだ手作業で行っていた。
当時、電卓が出始めの頃で、全員そろばんで計算していた。

私はその頃になると、独学でコンピュータプログラム作りをマスターしていた。
上司から、君、工場の工業簿記の手作業を、コンピュータ化してくれないかと云われ、私は自信があったのでやってみますと答えた。
しかし、私には簿記の知識が無いので、村田簿記に夜通わせて欲しいと頼んだ。
(夜7:00~9:00までの2時間、若者に交じって勉強し、1年で3級試験に合格)

それから間も無く、工場の現場でプログラムの開発に着手した。
当時アメリカで開発された、パーソナルパールと云うプログラムが開発されていたので取り寄せて研究した。
このプログラムは、今の計算ソフト・エクセルに多数のファイルと連結させることが出来る、画期的なプログラムだった。

その頃、(株)電装で4ギガビットのハードディスクが開発され、それまで12時間程かかった計算処理を、わずか15分ほどで終わらす画期的なものだった。
工場が扱う工業薬品は、800種類以上で薬品台帳も800ページ。
製品台帳も400ページと膨大なもの。
この記帳を全て手作業で行い、計算はそろばんで行なっていた。

工場では、月の収支決算がそれまで、10日以上かかっていたのがわずか1日で出せるようになった。
しかもコンピュータだから計算ミスはゼロ。
工場のプログラムも完成し、パソコンやハードディスクが、順調に稼働するようになった。
(この時の出来事を文書にして、「かわぐち」と云う小雑誌に題名「物にも心が宿る」で掲載した文書があります。)

次は、本社の経理もコンピュータ化してくれと云われ、取り掛かることになった。
経理のパソコン導入は、工場の経験からスムーズに出来た。
しかし、後で気づいた。経理のコンピュータ化は、多くの社員の首切りに繋がる。
実際、工場や本社でも経理課から4人部署替えで移動して行った。つまり今までいた経理課6人から、4人減らし2人で稼働する時代を作ってしまった。

経理課から寂しそうに去っていく彼・彼女らに、恨まれても仕方がない複雑な気持ちで、胸が痛く感じる日々が長く続いた。(簿記1級を取得していた経理課係長だった男性が、私の仕事が無くなったので、田舎に帰って百姓をやると寂しそうに去って行った)

そして、私はその功績が認められ、経理課長兼務・総務課長に就任することになった。
当時の総務部長から云われた事は。
総務とは、トップまたは役員であろうと、不正は絶対に許さないと云う権限を有する職務で、例え社長が不正を認めても、会社の将来の為、断固反対意見を言える権限を有する重要な職務だと。

総務に配属された事は、大変名誉なことで自分に誇りを思ってもいいと云われた。
私は、会社員として最高の職務を与えてもらったが、それからと云うもの、心の中は複雑で、やるせない気持ちで一杯でした。
暫くして、この気持ちに耐えることができない旨を総務部長に伝え、会社を退職した。

そして、1993年(平成5年)6月1日
タンポポワールド株式会社「資本金1千万円」を設立。
「当時45才」

この会社は、江戸川区瑞江駅前で碁会所を経営しながら、囲碁で碁を打つと同時に、
自動で棋譜(一手から終局までの手順が分かる)が取れる機械を開発をする会社。

会社を設立と同時に、日本棋院のプロ棋士、泉谷七段の自宅に通い、三年で三段免許取得。
囲碁自動棋譜作成装置を作るには、莫大な費用が必要で、装置の開発や、コンピュータプログラムの開発など、他社に依頼したら1億円は掛かる。
そんな資金は無いので、自分で作ることにした。

碁盤装置の機械を作る為に、2年かけて集積回路「IC」からあらゆる電子部品の働きや、回路図の書き方などを勉強をした。
パソコンを動かす為のプログラムは、それまで、何年も勉強してきたので難なく出来た。
足掛け5年で開発に成功。
NHKが毎月出してる囲碁講座の雑誌にも掲載された。

当時の坂田本因坊から電話があって、凄いものが出来たね、これから囲碁の発展に大いに寄与するとお褒めの言葉を頂いた。

いよいよ販売開始となり数十台販売したが、思わぬトラブルが発生。
それは、故障が多く修理に翻弄される日々となったので、新規販売を中止した。

部品の半田付けが、時間が経つにつれ剥がれ、接触不良を起こしていた。
部品の半田付けは、中国・韓国留学生にアルバイトで働いてもらっていたが、半田付けの技術が未熟で、思わぬ事態となってしまった。

もともと部品の半田付けしなくてもいい、集積回路「IC]を作れば故障が起こらなかったのですが、集積回路の設計と開発費用をIC会社に依頼すると、1億円以上かかると云われあきらめる経緯があった。
仕方なく販売した製品のほとんどを回収し会社を閉めた。
(一部のお客様は、故障しても電気に詳しい人に直して貰うから欲しいと云われた)

会社を閉めてから間もなく、母から会社の経理を、担当してもらえないか頼まれ、引き受ける事にした。
その会社は、兄の経営手腕で社員数200人以上、売り上げは月15億円と中小企業としては、大きな会社に入る中堅企業に成長させていた。
運送会社の経理事務も、1年掛けてコンピュータ化した。

それから5年の月日が流れ、私は経理課長として働いていたが、父母の息子である事から、当時の部長以上の役員と馬が合わなくなり、会社を退職することにした。
次に、何をしようか考えていた時、タクシーの運転手募集の記事を見て、還暦を迎えタクシーの運転免許の取得に挑戦してみようと思った。

タクシーを運転するには、2種免許が必要で、60才になっていた私は、頭が固く柔らかくするのに相当時間が掛かった。しかし、試験で何回か落ちたが2種免許は無事取得できた。
一番大変だったのは、タクシー免許を取得するには、地理試験と法令試験に合格しなければダメで、特に地理試験は、都内のすべての道路名や交差点名・ホテル他名所など、丸暗記しなければならず、頭が固い状態で丸暗記するのは大変な苦労をした。

そして、地理試験と法令試験は見事1回で合格。
(試験官が合格者の名前を順番に発表し、私の名前が読み上げられた。合格証書を受け取る為に試験官の前に立ったとき、「普通5~6回で試験が一巡しなければ、合格出来ない試験を1回で合格した人は、希少だとみんなの前で云われた」)

たまたま運よく、近くの菅原橋交差点「江戸川区」の試験問題が出て回答できたので合格出来た。
これは、神仏が応援してくれたからだと思いました。
それから65才定年までの5年間、タクシー運転手として働いた。

そして65才定年後、NPO法人を立ち上げ、社会に貢献しようと勉強を始めた。
NPO法人を立ち上げる為の勉強を開始してから1年、NPO法人eheを設立。
その後、栃木県日光市でモデルハウス造りを開始し、現在に至る。

試 練

日光の家を作っている時、もう死ぬのかと思った事が3度あった。
1度目は、ハシゴから落ちて背骨を負傷した。
(背骨、下から6番目のブロックが潰れ、九の字に曲っていた)
何分か気を失っていたが、耳元で起きなさいと言う声で突然目が覚めた。
しかし、回りに誰もいなかった。
背骨を負傷して動くこともできず、痛みが想像を絶するほどなのに車を運転して家まで無事たどり着いた。
(全治6か月の大けが、将来的に手術が必要になるかも知れない状態)

2度目は、高さ4.5メートルの屋根裏で作業をしている時、突然ハシゴが外れ、2~3cmの小さな隙間に、指の第一関節までかろうじて入り、引っかかっている状態で、宙ぶらりんになった。
背骨を傷めていたので、このまま落ちたら死ぬと思って、胸がドキドキ体から血の気が引いて顔面蒼白になっていた時、1本のロープ(屋根に荷物を上げる)が垂れ下がっているのが目に入った。
必死の思いでそのロープの近くまで近寄り、足でロープをたぐり寄せロープにしがみ付いた。
幸い摩擦熱で、手の平に軽い火傷を負った程度で済んだ。
助かってすぐ全身ガタガタ震え、しばらくの間止まらなかった。
(今、思い出してもゾッとし、夢で何度も飛び起きる日々が続いた)

3度目は、部屋の3.2mの上に通風孔を取り付けている時、突然、ハシゴがずり動いて3m下のコンクリートの床に、体が横になったまま落ちた。
息ができない、もうこのまま死ぬなかなと思いながら、頭と身体は大丈夫か様子をうかがっていたところ、突然右肩に激しい痛みが走った。
それでも車の運転は出来たので、休み休み家に向かって走り、無事家に着いた。(ケガの状態は、右肩付け根の圧迫による複雑骨折と肋骨のヒビ、右足の打撲で全治6か月のケガ)
これは、神仏が私の本気度を試すための試練だったと思う。
神仏は、死ぬ思いをするほどの試練を3度も与え、この試練を乗り越えられるか私を試したのだろうと思います。

私がこの試練を乗り越えた事で、
神仏からの叡智とご加護を伝授してもらえるようになったと考えます。

神仏の叡智とご加護が、私に伝わる時は、
① 夢で見る。
② 直接目の前に答えが現れる
 例1. 森を見ている時、文字が現れたり絵が浮かんでいたりする。
 例2. テレビやパソコンを見ている時、求めている答えが眼に映る。
建築家でも無い素人の私が、建築を目指し、モデルハウスを造る事が出来た。
これは、私一人では不可能ですが、神仏の叡智があったからこそ、モデルハウスを造る事ができた。

神仏のご加護とは、神仏が自らの力「パワー」で、日々、私を守って頂いている事と、健康についての叡智の伝授が多くなったようだ。

(中略)

私が書いた文書は、日本人が唯一、神仏からの叡智とご加護を受け取る事ができる民族であることを証明しています。
この事から、日本人として生まれたことを誇りに想える文書だと思います。
AIの出現で沢山の失業者が出る前に、全国にNPO法人eheの施設を沢山作りたい。

その方法として考えている事は、この文書を映画化できれば実現可能ではと思っています。

大地の子のような映画館で上映する豪華な映画ではなく、できればYouTubeで動画配信するような、誰でも自由に観ることができる映画。
(私は以前、facebookで(★ペット動画 いとおしくてかわいい「クー」)の動画を作っています。
 https://www.facebook.com/eijiehe
また、若い頃に撮った社交ダンスのデモ動画がありす。

そして、これから作る動画(映画)を観た人の中で、心から感動し日本人としての誇りを感じた人で「NPO法人ehe」に幾らかの寄付を寄せて頂ければ、私は天命を全うする事が出来ると思っています。
NPO法人ehe のホームページ(日光のモデルハウス建設日記「活動報告内」)

  https://ehe.co.jp


 *******

お話はまだまだ続くのですが、掲載はここまでにしたいと思います。

戦争の記憶、とりわけ戦争によって国からの保護を失うことの恐ろしさ。
いま、平和を謳歌している日本も日本人も、ほんの70余年前には、ここに書かれたような悲惨な経験を積んできているのです。

これから時代はどんどんと変わっていきます。
けれど大切なことは、私達はどこまでも平和を愛する民族であること。
そして、そのために道義国家としての日本を取り戻していくこと。

そのための鍵となるのが、魂の存在をあらためて認識することなのではないかと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。


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コメント
私の地元です
 私は橋場さんが小学生時代を過ごした相俣ダムのほとりに生まれ育ち、今もその恩恵を受けて暮らしております。たぶん、橋場さんが学んだ小学校を私も出ております。
 ダムが完全に完成したのは昭和34年で、60年も前のことですね。
 一度完成したものの漏水があったために再度工事が始まったと聞いております。

 亡くなられた方も多かったので、忠魂碑が建てられております。

 富山県から職能手段が来ていたという話は聞いたことがありまして、その中に橋場さんご一家もいたのでしょう。佐渡や秋田からもこちらに働きに来てそのまま住み着いた人も少なからずいます。

 ダム工事現場の2kmほど下には弘済会の病院が作られ、台湾出身の医師が面倒見てくれていました。私も小学校でマムシにかまれて担ぎ込まれたことがあります。この病院はダム完成後も15年くらい残っていました。
 ダムを作った岩盤が崩落して亡くなられた人がいる話は私も聞いております。

 私が生まれたのはダム完成後ですが、苗場スキー場建設や峠の橋梁工事やトンネル工事であちこちに飯場が立ち、夜は温泉地の盛り場で毎晩喧嘩が絶えない環境でした。
 今でいうならPTSDなんでしょうか?戦争の後遺症を心に持った大人たちが暴れてました。

 犬食いもよく耳にした話で、河川敷で犬をさばいて鍋にしてしまう。父も知らないで食べさせられてことがあるそうですが、ゲップをすると犬が雨に濡れたときの匂いがするのでわかったようです。

 縁あって、シベリアの遺骨収集や旧満州の日本人虐殺の現場などを訪ねることができ、お話に出てくる土地の想像もおよそつきます。

 引き揚げ家族が住み着いた開墾地なども身近にあったため、その暮らしぶりの厳しさなども幼少のころから目にしてきました。
 生産性の低い山奥なので、開墾地に入ったものの食っていけず南米に移民した家族もいました。
 夜逃げと引越しの区別がつかない幼少期でした。

 今はそのダムから2kmほど下流に住んでおりますが、かつて水害が相次いだ土地もダムと堤防のおかげで大きな被害もなく過ごせております。
 ありがたみと言うのはなかなかわからないもので、当たり前でいられるありがたみをしみじみ思い起こさせてもらいました。

 これからダムの慰霊碑にお礼に行ってこようと思います。
2019/09/02(月) 10:59 | URL | こぐれきみあき #-[ 編集]
國防は最大の福祉なり!
例えば七三一部隊?
極悪非道実験部隊?
軍は邦人を放置して逃げた?
出鱈目は流され続けています。
語り部は減り、記憶はどんどん薄くなっていきます。
今は空気も水も平和もタダ?
金があれば何でも手に入る?
目覚めない方々は最早重症…あまりにも憐れです。
これでいい筈はありません。
亡くなられた英霊に対し申し訳無いと思う心は単なる感傷などではありません。
國防は最大の福祉なり!
使い古された言葉ではありますが、事に際しての原点だと思います。
2019/09/02(月) 10:45 | URL | takechiyo1949 #VCU7f5e.[ 編集]
いじめ対策
明治大学の名誉教授が面白い記事を書いていました。
それは「いじめ」問題に関する対応です。
教育界や政府も「いじめをしない教育」をしているが間違っているというものです。

「いじめ」に対しては立ち向かうことが必要だと自分の経験を書いていました。腕力で劣っていても協力して立ち向かえば対抗できると言っています。

私も自分の経験から「立ち向かう」必要性を感じています。
自分より強い相手をいじめる「いじめっ子」はいません。
「集団的自衛権」で協力して立ち向かえば「いじめっ子」は動けなくなります。

小学校3年の時に転校した時、「がき大将」と喧嘩したことがあります。
勝てはしなかったがそれからはいじめに会うことはありませんでした。
むしろ仲良くなった記憶があります。

「戦う」ことを教えることも大事ではないかと思っています。
2019/09/02(月) 10:42 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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