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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


ラモウ守備隊玉砕の日

※ お知らせ
本日(9月8日)午後2時より富岡八幡宮で開催する倭塾は、台風の影響が心配されましたが、上陸が今夜半であり、午後から夕方にかけては問題なしとのことですので、予定どおり開催します。





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遠い異国の地で散華された拉孟守備隊のみなさん。
ほんとうは、どんなに祖国日本に帰りたかったであろうことか。
日本ではもうすぐコスモスが咲き出します。
「おかえりなさい。ほんとうにお疲れ様でした。ありがとうございました」って、普通の日本人が普通に御霊に感謝できる日本を取り戻して行きましょう。


20190907 亀岡コスモス
画像出所=https://www.leafkyoto.net/blog/kyonikki/2015/10/post_911.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


実はこの記事は、本来は昨日、アップしなければならなかった記事です。
というのは、拉孟(らもう)の守備隊が玉砕されたご命日が9月7日、つまり昨日だったからです。
日にちが前後してしまったことをお詫びします。
この記事は、毎年、この時期に掲載しているものです。

拉孟(ラモウ)というのは、ビルマとChinaの国境付近にある小さな村です。
この拉孟は、昭和17年(1942)当時は廃村でした。
位置は、怒川という川の西側です。海抜2000メートルの山上です。
東は怒川の大峡谷です。
向かいには、鉢巻山という高山がありました。

気候は日本とすこし似ています。
四季の変化に富んでいて、とくに秋は紅葉が美しいところです。

海に浮かぶ島での玉砕戦は、ある意味、海という逃げ場のない戦いですが、拉孟の戦いは、ジャングルの中の陸戦です。そして陸戦で、120日という長期にわたる戦いを遂げ、全員が玉砕した戦いというのは、この拉孟の戦いが人類史上初のできごとであり、これが史上最大の戦いです。

拉孟(らもう)に居た日本陸軍の守備隊の人数は、わずか1280名です。
しかもそのうちの300名は傷病兵でした。
その中には、15名の日本人女性(慰安婦)もいました。

彼らは5万人のChina国民党最強の精鋭部隊と米軍による完全包囲を相手取った戦いの末、最後、全員がお亡くなりになりました。
島嶼部での玉砕戦は、海に囲まれて逃げ場のない戦場での戦いですが、内陸部での戦いは、四方に逃げ道があります。
そうした逃げようと思えば逃げることができる内陸部での戦いにおける玉砕戦として、この戦いは、永遠に語り継がれるべきものです。

玉砕戦の模様は、本部への報告のため脱出した木下中尉のおかげで、その全容をいま、わたしたちは知ることができるのです。



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20190317 MARTH



拉孟の北と南は怒川の二つの支流です。
そこに深い渓谷があり、西側にビルマからChinaへ抜ける道があります。

この道が、英米連合がChinaの蒋介石へ援助物資を送り込む援蒋ルートでした。
昭和17(1942)年5月、日本は援蒋ルートの阻止のため、ここに第56師団を送り込み、歩兵第113連隊が、ここに陣地を築きました。

この陣地によって、援蒋ルートは、分断されました。
そうなると、China国民党軍は、軍事物資の補給が停まります。
どうしても拉孟を奪い返したい米支連合軍は、昭和18(1943)年の中期以降、拉孟奪回作戦遂行のため、20万人の大部隊である雲南遠征軍を猛烈な訓練によって徹底的に鍛え上げました。
あたりまえです。彼らにとっては援蒋ルートの確保は死活問題なのです。
そして昭和19年3月、この遠征軍のうちの5万が、拉孟の日本陸軍守備隊に襲いかかったのです。

拉孟(らもう)にいた日本の兵士たちは、福岡の野砲兵第56連隊第3大隊でした。
彼らは日本陸軍最強を自認し、自らを「龍兵団」と呼んでいました。

その「龍兵団」を指揮していたのは、金光恵次郎大隊長です。
現場叩き上げの少佐で、このとき49歳でした。
彼は、貧しい農家の出身で、とても小柄です。
性格もおとなしい。しかも小学校しか出ていません。

そんな彼は、軍隊に入ってから猛勉強をして、なんと陸軍士官学校に合格しています。
そして士官学校で鍛え上げられた彼は、まさに名指揮官の気骨ある逸材に育っていました。
ただ、見た目は、どちらかというとしょぼい。

そんな彼が、自他ともに陸軍最強を自認する拉孟の「龍兵団」の指揮官となっていました。
荒くれ者の猛者ぞろいの大隊です。

戦いが始まる前、金光隊長は、敵襲に備えての防御陣地の構築のため、そんな「龍兵団」の猛者たちに、肉体の限界を超えるような重労働を課しました。
敵のいかなる砲撃にも耐えうる陣地を作らねばならないからです。

古来、穴掘りというのは、もっともきつくて苦しい労働です。
しかも場所は険しい山岳中です。トラックもブルドーザーもありません。すべて人力での作業です。

若い兵たちからは、当然のように不満の声があがりました。
しかし金光隊長は、何も言わず、五十歳近い身で、のこぎりを引き、つるはしやシャベルをふるい、丸太やもっこを担ぎ、土嚢やドラム缶を積み、一心に働きました。
そして金光隊長が仕事を終えるのは、いつも最後の一兵が仕事を終え兵舎に入るのを見届けてからでした。

やるべきことは、やらねばならないのです。
そして彼は、隊長として、それをみんなにやらさなければならなりません。
口下手だし、兵たちを権限にモノを言わせて叱り飛ばすようなことの苦手な金光隊長は、ただ黙って率先垂範・有言実行に徹したのです。
上官風さえ吹かせるようなことさえまったくしません。
ただ、公私ともに陰日向なく、誰に対しても公平であろうとし、進んでいちばん辛い仕事に邁進しました。
口べたな金光隊長は、口頭ではなく、背中で兵たちに語って聞かせたのです。

最初のころ、重労働に不平不満を漏らしていた兵士たちも、そんな金光隊長の背中見て、以後一切、不満の声は上がらなくなったそうです。
さすがは日本男児たちです。ちゃんとわかる。
いつしか守備隊の中には、金光隊長のもとでなら頑張れる、やれる、やってやろう!という気迫までもがみなぎったといいます。

6月2日、本格的な敵襲がはじまりました。
凄まじい砲爆撃が、一斉に開始されました。
間断なく撃ち込まれる巨弾が、大地を揺るがしました。それは、山の形までが変ってしまうほどの猛烈な砲撃でした。

しかし守備隊員が必死で作った陣地は、頑強です。
敵の猛烈な砲撃にも、まるで壊れません。守備隊の将兵は、陣地の中に身を隠し、息を殺して逆襲のチャンスを待ちました。

いつ果てるともない砲撃が続きました。
敵弾が着弾するたびに、壕の中は頭の上から土砂がこぼれてきます。落盤すれば命はありません。恐怖の中にあって、兵たちはすぐにでも飛び出したい衝動さえ駆られました。

けれど金光隊長は、反撃命令を出しません。
隊員たちはじっと命令を待ち続けました。
砲兵将校である金光隊長は、限られた火力しかない守備隊がむやみに撃ち返して、虎の子の砲の位置を敵に教える愚策、砲弾の無駄、を知っていたのです。

夜になって、ようやく弾雨がやみました。
けれど、ほっとしたのもつかの間、翌朝未明には再び敵の砲撃が開始されました。
あらゆる砲種の砲弾が、唸りをあげて落ちてきました。
爆風が土砂を、鉄片を、木片を巻き上げ、硝煙が舞い、昼間だというのに薄暗く、視界さえ利きません。

けれど相変わらず、金光隊長は動きません。
撃たれっ放しです。
やられっぱなしです。
それでも彼は動かない。

恐怖の中で、兵士達にあったのは金光隊長への信頼だけでした。全員が、ただ隊長信頼だけで、隊長の発する反撃命令をじっと待ち、じっと耐えたのです。

夜、弾雨がやみました。
翌、6月4日の朝、またもや敵の砲撃が開始されました。
ただ、この日は、いつもと様子が違いました。
あれほど猛り狂った砲撃が、ペースダウンしたのです。

敵の観測用飛行機が陣地上空を低空で飛びました。
守備隊の陣形、兵の配置などを無線で報告しているようです。

時間が経つにつれ、砲撃の確度が上がりだしました。
それまで、むやみやたらな砲撃だったものが、目標物に対する狙い撃ちに変ったのです。
これを見た金光隊長は、敵の歩兵部隊の侵入が近いことを予期しました。
金光隊長は、全隊員に戦闘準備を命じました。

金光隊長の予想は的中しました。
雲南遠征軍の先鋒を務める、李士奇師長が率いる新編二八師の歩兵一個団(一個連隊)3000人が、沈黙したまま反抗しない日本軍を侮って、喚声をあげて押し寄せてきたのです。
 
金光少佐がじっと待ち続けていたのは、まさに、このときでした。
彼の命令一下、掩体壕(えんたいごう・砲撃から身を守るための壕)に潜んでいた守備隊の虎の子の砲が、地上ににゅうと顔を出しました。
そして、一斉射撃を開始しました。

それまでじっと耐え忍んだのです。
日本の砲撃は、まるでそれまでの憤懣を、激情のままにぶつけるかのような猛射でした。
しかもそれは、鍛え抜かれた一発必中の猛射です。

狙う。撃つ。命中する。
密集して押し寄せる敵兵は、次々になぎ倒され、大混乱に陥りました。

敵が逃げ惑います。
砲撃をくぐり抜けて陣地内に迫った敵兵には、歩兵が小銃弾の連射を浴びせました。
あるいは手榴弾を見舞い、撃破しました。

それをも突破し肉薄して来た敵兵には、抜刀した、あるいは銃剣をふるった歩兵が次々と襲いかかりました。
帝国陸軍にその名を知られた、九州福岡の「龍兵団」の精兵たちです。強い。強い。

守備隊の熾烈な猛反撃に、敵の一個連隊がまたたく間に壊滅しました。残兵は潰走しました。
そして敵が敗走したのを見届けるや、守備隊の砲はまた忽然と掩体壕に隠れました。
あたりには、何事もなかったかのような静寂が訪れる。

6月7日、前回、手痛い敗北を喫した李士奇師長は、今度こそとばかり自ら新編二八師の主力の7000人を率いて、総力攻撃をしかけてきました。
新たな目標は、守備隊の本道陣地です。

しかし守備隊の反撃はまたしても彼らを上回りました。
激闘数時間。
ついに拉孟守備隊は、数倍する敵を粉砕して、敵司令官李士奇さえも戦死させてしまいました。
なんと、わずか千名余の拉孟守備隊の前に、敵の最新鋭の精鋭部隊である新編28師団の7000の大軍が、壊滅してしまったのです。
こうして、緒戦は守備隊の完勝となりました。


戦いは、毎日続きました。
6月半ば、その拉孟から、金光隊長が司令部宛に打った報告電文があります。
「今までの戦死250名、負傷450名。片手、片足、片眼の傷兵は皆第一線にありて戦闘中。士気極めて旺盛につきご安心を乞う」

絶え間ない砲爆撃、肉弾相討つ白兵戦が、いつ果てるともなく続く戦いです。
手を失った者、足を失って這うしかない者、、眼を失った者、普通であれば野戦病院行きの重篤な負傷者たちばかりです。
それでも拉孟(ラモウ)守備隊は戦い抜きました。

無理矢理やらされているのではありません。いやいや戦っているのでもありません。
彼らは、軍医が止めても、聞かなかったといいます。
戦友だけを戦わせるわけにはいかない。
寝ている暇ななんかねえさ。オレもすぐに行かなければ・・・

夜、砲爆撃が止み、敵が休んでいても、守備隊の兵たちに休息の時はありません。
怪我をして血にまみれていても、死ぬほど疲れていても、傷んだ陣地を一刻も早く補修しておかなければ、次の戦闘で敵に付け入る隙をあたえてしまうのです。

15名の女たちも、それぞれに兵隊服を着て、ある者は男たちの作業を手伝い、ある者は炊事婦として働き、またある者は看護婦として負傷兵を手当てしました。
彼女たちも、いまや拉孟守備隊の欠かせぬ一員となって「戦って」いたのです。


6月28日、垂れ込める沈鬱な雨雲のなかから、4機の戦闘機が姿を現しました。
近付いてくる機影を見上げていた兵の一人が、甲高い声で叫びました。
「友軍機だッ!友軍機が来たぞ!」

壕を飛び出した兵たちは、翼に輝く日の丸を見て、手に持った日の丸の小旗を、力いっぱい振りました。

清水千波中尉率いる4機の戦闘機は、敵高射砲の咆哮をものともせず、危険を冒して低空飛行を敢行し、梱包した弾薬を投下しました。
そして、別れを惜しむかのように翼を振り、雲の彼方に消えていきました。
友軍機が、命がけで運んでくれた弾薬の包みを抱いて、兵たちは、声をあげて泣きました。

数度にわたり実施された空中投下の都度、金光隊長は第三三軍司令部にあてて感謝の電文を送っています。
「今日も空投を感謝す。手榴弾約百発、小銃弾約二千発受領、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。」


7月24日、実際に拉孟陣地への空輸を担当した第三三軍配属飛行班長の小林憲一中尉の記録があります。
この日、軍偵察機3機と戦闘機「隼」12機を一団として、50キロの弾薬筒を各軍偵に2個、隼に各1個、計18個吊し、空輸したのです。
15機は、一団となって飛び続け、拉孟(ラモウ)を目指しました。

やがて拉孟(ラモウ)陣地上空付近に達すると、敵戦闘機のPー38、P−51が、迎撃のため襲い掛かってきました。
「隼」は空中戦に突入しました。
敵高射砲陣地からは、続けざまに高射砲が放たれます。

そんな中で、弾薬筒を投下するために目標を定めようと眼下を見下ろした小林中尉の目に、地上の様子がはっきりと映りました。
それは想像絶する光景でした。
拉孟陣地の周囲が、全部、敵の陣地と敵兵によって、びっしりと埋め尽くされていたのです。

小林中尉は手記に、次のように記しています。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。上半身裸体の皮膚は赤土色。T型布板を敷くため、一生懸命に動いている。スコールのあとでもあり、ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、私は心から手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた」

そして、友軍機の爆音を聞いて二人、三人と壕を飛び出してきた兵隊達の言いようのない感激の表情が、小林中尉の肺腑をえぐりました

「その時、私の印象に深く残ったものに、モンペ姿の女性が混じって白い布地を振っている姿があった。思うに慰安婦としてここに来た者であろうか、やりきれない哀しさが胸を塞いだ」

兵隊たちも女たちも、一心に、手をちぎれるほども振り、声を上げ、感謝している。
小林中尉の眼は、熱いものが溢れてかすみ、手袋をぬいでいくら眼をこすっても眼が見えなくなりました。

小林機は、低空から2個の弾薬筒を無事投下しました。
そして小林中尉は、涙をぬぐった眼でしっかりと、この何分か、何十分後かに戦死しているかもしれない戦友の顔を刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにするのだけれど、あとからあとから溢れるもので眼はかすみ、どうにもならなかったそうです。

激情に駆られた小林中尉は、弾薬筒を投下後直ちに戦場を離脱すべしとの軍命令にもかかわらず、敵高射砲の弾幕をくぐって急降下しました。
そして意地の銃弾を、猛然と敵陣地に向け叩き込んみました。
敵弾が愛機の機体を貫きました。
敵の弾が小林中尉の体もかすめました。
それでも小林中尉は、まなじりを決して、弾倉が空になるまで、あらん限りの銃弾を撃ち続けました。


それから一ヶ月が経ちました。
8月23日午後5時の、金光隊長から司令部宛の電文が残っています。

「19日以来、敵の猛攻に対し死守敢闘せるも、大部の守備兵は不具者となり、また関山を爆破せられた。
2回にわたり夜襲し、これを奪回確保するも、敵兵の集中砲撃により百名以上が戦死。
兵力の寡少の関係上、戦線を横股、檜山、音部山、裏山半部、連隊長官舎南方高地、東北高地を連ねる線に整理す。守兵は、片手片足の者が大部分にあるも、全力を奮って死守敢闘該線を確保しあり」

8月23日の電文です。
「最悪の場合、各種報告のため、砲兵隊木下昌巳中尉を脱出させ報告に向かわす。木下中尉は守備隊本部にあって戦闘参加しあり戦況を熟知。彼は唯一無傷の年少気鋭の将校にあり」

この時点で、もはや守備隊には満足な弾薬はありません。水も、食糧もありません。
百名に満たない不具の将兵が、不眠不休で戦闘を続けていました。
それは眼をそむけたくなるような、悲愴な光景でした。


8月30日電文。
「3ヶ月余の戦闘と28日以来、敵の総攻撃により守備兵の健康者は負傷し、更に、長期の戦闘により歩兵砲兵とも、小隊長死傷し皆無となり、守備兵は不具者のみにて音部山の一角及び砲兵隊兵舎西山横股の線に縮小死守、危機の状況なり。又、弾薬欠乏し、白兵のみの戦闘なるも、突撃し得る健康者なきをもって、兵団の戦況之を許せば、挺身隊を編成し拉孟の確保方依頼す」

決して弱音を吐くことのなかった金光隊長が、自分たち守備隊が玉砕した後、なんとか後事を託すため、挺身隊を組織して派遣していただくことはできないか、と願ったのです。
しかし、この時点で、三三軍司令部にも師団司令部にも、もうその余力も時間もありませんでした。

9月5日電文。
「通信途絶を顧慮し、あらかじめ状況を申し上げたく。四囲の状況急迫し、屢次の戦闘状況報告の如く、全員弾薬糧秣欠乏し、如何とも致し難く、最後の秋(とき)迫る。
将兵一同死生を超越し、命令を厳守確行、全力を揮って勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力のためご期待に沿う迄死守し得ず、誠に申し訳なし。
謹みて、聖寿の無窮皇軍の隆昌と兵団長閣下始め御一同の御武運長久を祈る」

これが、拉孟守備隊金光隊長の最後の電文となりました。
電文を打った直後、金光隊長は無線機を破壊し、暗号書、機密文書等のすべてを焼却しました。


9月6日、降り止まぬ雨のもと、敵の砲撃はますます激しさを増してきました。
この時点で生存者は、重傷者をいれて80名です。
敵の迫撃砲弾が陣地周辺に集中し、死傷者が続出しました。

金光隊長は、鞘を捨てた軍刀を握りしめ、戦闘の陣頭指揮にあたっていました。
午後5時、一発の迫撃砲弾が金光隊長のそばに着弾し、炸裂しました。
金光隊長は、腹部と大腿部に致命傷を負い、泥土のなかに倒れました。

付近にいた兵たちが、隊長を安全なところに隠そうとしました。
けれど、もう、隠せる場所すらありません。
金光隊長は、深傷を負いながらも、なお毅然と指揮をとり続けようとしました。
けれど午後7時、ついに戦火の中で息を引き取りました。
享年49歳でした。


この時点で拉孟守備隊は、重傷者をいれても、もはや50名に満たない状態になっていました。
金光隊長戦死のあと、指揮権は真鍋大尉が引き継ぎました。

その夜、真鍋大尉は、護り続けてきた歩兵第百十三連隊の軍旗を焼きました。
彼ら生き残っている将兵の周りには、既に息絶えた戦友たちが累々と横たわっています。
そして動くことのできない重傷兵は、炎に包まれて焼け落ちる軍旗をじっと見つめていました。
まだ息をしている誰もが、声も上げずに泣きました。


9月7日、午後5時、真鍋大尉は、最後の突撃を決断しました。
「諸君!、長い間ごくろうであった。ほんとによくやってくれた。亡き金光隊長にかわって、あらためて礼をいう」
そう言うと真鍋大尉は、軍刀を抜き放ち、「男らしく、立派に死のうではないか!」と静かに言いました。
そして、「いざ!」と声を励ましました。

先頭は真鍋大尉です。すぐ後ろに連隊旗手黒川中尉が続きました。その後ろを、かろうじて動ける兵たちが、一塊になって追いました。

意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺して殺しました。
自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えて自決しました。

天草からやってきていた女たちは、何よりも大切にしていた晴着の和服に着替えました。
そして戦場のすすで汚れた顔に、最後の化粧として、口紅をひきました。
そして全員、次々に青酸カリをあおりました。

この日まで、喜びも悲しみも共有してきました。辛さも苦しさも分け合ってきました。
慰安婦だった彼女たちは、このとき、まぎれもなく帝国軍人でした。

そして真鍋大尉以下、最後の拉孟守備隊は、雲南遠征軍の大集団のなかに消えていきました。


最後の突撃の少し前、真鍋大尉は、木下昌巳中尉に、本部への報告のために拉孟の脱出を命じました。
脱出には、山本熊造伍長と窪山俊作上等兵が同行しました。
玉砕の当日、木下中尉は、辛うじて味方の第56師団の前線に辿り着きました。
そして戦闘の様相を克明に報告しました。

重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様、空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面、弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者、15名の邦人の慰安婦たちが臨時の看護婦となり、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働く姿などなど。

報告を受ける56師団も、語る木下中尉も、ただ涙あるばかりでした。
松井少将も、部下を救い得なかった無念の思いで、悲憤の落涙を禁ずることができなかったそうです。


この戦いについて、敵将の蒋介石が雲南遠征軍に発した督戦令があります。
これは無電で発せられ、日本軍にも傍受され、解読されています。

*****
戦局の全般は有利に展開し、勝利の光は前途に輝いているが彼岸に達するまでの荊の道はなお遥かに遠い。
各方面における戦績を見ると、予の期待にそわないものが非常に多い。
ビルマの日本軍を模範にせよ。
ミイトキーナにおいて、拉孟(ラモウ)において、騰越(トウエツ)において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りするか。予は甚だ遺憾に堪えない。
将兵一同、さらに士気を振起し、訓練を重ね、戦法を改め、苦難欠乏を甘受克服して大敵の打倒に邁進せんことを望む。
*****

この督戦令は、もちろん蒋介石が国民党軍に対して発したものですが、その内容が、逆に日本軍の強さを讃えるような内容になっていることから、「蒋介石の逆督戦令」と呼ばれています。


こうして拉孟の戦いは終わりました。
遠く異境の地で、こうして果てて行った日本人がいます。
彼らは、間違いなく、わたしたちと血のつながった父祖たちです。

世界中どこの国でも、こうして勇敢に戦った将兵は、国家として、民族として、そして「人として」、感謝し、顕彰しています。
けれど日本だけが、それを止めた。
それどころか、伝えることさえもしていません。
どうなんでしょう。
それは人として、国として、許されることなのでしょうか。

もうひとつ、拉孟(ラモウ)には、特要員と呼ばれた女性が20名いました。
熊本県天草出身が15名、朝鮮半島出身者が5名です。
特要員というのは、要するに売春婦です。
戦いが始まる前に、金光隊長は、彼女たちに拉孟(ラモウ)からの脱出を命じました。
しかし、日本人女性15人は、拉孟に残ると言って聞かない。
脱出したのは、朝鮮人女性5人だけでした。

その中の一人が後年、NHKと朝日のやらせの「女性国際戦犯法廷」で、後年、「日本兵の自決の巻き添えになるのを恐れ、逃げ出した」、「私たちは置き去りにされた」と証言しました。

このことについて、この戦いの記事を靖国神社の会報に寄稿した桜林美佐さんは、次のように書いています。

*****
「逃げた」のか、「逃した」のか、その論議はあまりにも虚しい。
ただ、彼女たちを死なせなかった元「慰安婦」を含む守備隊兵士たちの「優しさ」に敬意を表するのみであり、また彼等の慈悲を踏みにじるような所業には、怒りを通り越し、憐れみすら感じてしまう。
守備隊と共に戦い、玉砕した女性たちは、そのとき既に「慰安婦」としてではなく、まさに「兵士」として最期を迎えたのであり、彼女たちは靖国に祀られたいと願ったのではないか、という思いが頭をよぎる」

そして、桜林美佐さんは、さらに次のように続けます。
「『この戦闘の様子は誰が伝えるのだ』この金光隊長の言葉が六十年を過ぎた今でも、私には聞こえるような気がするのである。
遠く雲南省の果てに、今なお守備隊兵士は孤立し、残されたままだ。
金光は、この拉孟守備隊の真実を「遺族」に伝えることを望んだが、それはまさに私たちを指しているに他ならない。
何故なら一億二千万の国民全てが「遺族」であると、私は考えているからだ。
彼等が戦いぶりを「伝え」「残したい」と熱望した、「遺族」である我々日本人の頭の中に、「拉孟」の「ら」の字もあるだろうか。
私たちは骨も拾わず、感謝もせず、ただ忘れるばかりの日本人ではなかったか。
『古い上着』の内ポケットに忘れてきた『最も大切なもの』は、『英霊への想い』なのではないかと、私は思うのである。」
*****

桜林美佐さんの言葉にある「金光はこの拉孟守備隊の真実を遺族に伝えることを望んだが、それはまさに私たちを指しているに他ならない」という言葉は、重く私たちにのしかかります。
金光隊長たちは、いったい何のために、そこまでして戦ったのか。
それは東亜の平和のため、私たち、いま生きている日本人を守るためではなかったか。

この歴史こそ、後世に生きる私たちが「常識」として知っておかなければならない事柄なのではないでしょうか。

今日の記事の冒頭の写真は、少し早いですがコスモスにしました。
写真は亀岡市のコスモス園様のものをお借りしています。
(クリックすると当該ページに飛びます。)
遠い異国の地で散華された拉孟守備隊のみなさん。
ほんとうは、どんなに祖国日本に帰りたかったであろうことか。
日本ではもうすぐコスモスが咲き出します。
「おかえりなさい。ほんとうにお疲れ様でした。ありがとうございました」って、普通の日本人が普通に御霊に感謝できる日本を取り戻して行きましょう。


(参考文献)
楳本捨三「壮烈 拉孟守備隊」光人社
相良俊輔「菊と龍」光人社
名越二荒之助「昭和の戦争記念館 第五巻」展転社  
blog「大和国奇譚」http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/221276/

※この記事は2014年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。


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コメント
ねずさん、はじめまして
拉孟守備隊の事を恥ずかしながら初めて知りました。尊い記録をありがとうございます。今の日本を見ていると本当の日本人はあの戦争で大半が失われてしまったのではないかと思ってしまいます。
2019/09/08(日) 21:04 | URL | jm #GHYvW2h6[ 編集]
No title
掲載ありがとうございます。
拉孟守備隊の存在を初めて知りました。
涙なしには読めません。
彼らご先祖様が守ろうとした祖国を、
残された我々はしっかり守ろうと思います。
2019/09/08(日) 13:48 | URL | ZIPANGU #-[ 編集]
ねず先生版今日は何の日、過去の重大事件の日時にアップロード。過去記事に新情報、気持ちを加える形が良いのでは?僭越ながら愚考
ねずさん、私もあの辺りを旅行した事があります。クネクネ曲がる細い山道でバスが谷に落ちたら助からないなと思っていました。
慰安婦の記述がありますが、どうして#metoo界隈のフェミニスト、田島先生とか日本人慰安婦について人権を救済しないのでしょうか?先日、韓国で暴行されたとの女性は報道されるだけマシなのでしょうか?マスコミへの不審(関西生コンに報道価値が無いとの株主総会)からガス抜きかヤラセかと思うようになりました。先日、母が戦場では日本兵は悪い事をしたに違いない、と言うので遡及法と誣告と偽証罪について話し、スマホを買ったのならねず先生のブログを毎朝読んで思い込みで先祖を愚弄しないように言いました。ねず先生がおっしゃる通り大切な事は出来る限り事実に立脚してなぜそんな不幸な事件が起きたのか過去に原因を探り未来に対策を立てる事です。対策の無い謝罪は唯のポーズに過ぎず悲劇を繰り返す。レーダー照射事件は先方が対策を示すまで曖昧に終わらせてはいけない。求めるのは土下座じゃない、対策。このままなあなあで誤魔化すと近い将来に自衛官が無駄死にする。
国籍不明の武装勢力()が対馬、五島列島に。北のソウル進攻。民族統一は酋長の悲願。建国スポンサーはあがりより維持費が高くつくなら更地にして賭場を移す。独立は大変な偉業、ほぼ無血でソウル開城ならノーベル平和賞間違いない!彼はゴルビーに比肩する、世宗大王以来の逸材だったのか?
台湾は国民党による学校での洗脳を家でお年寄りが体験を話す事で解いたように思うのですが、日本のWGIPによる洗脳はいつ解けるのか、少なくともドイツのように全てをナチのせいにして思考停止し又同じ過ちを繰り返したくないものです。
先日ある香港人が中国人の愛には心が無い(爱)、と言っていましたが戦後ほぼ同時期に日本も漢字を愚民化しています。着付けや茶道の先生にもあちらの方々が入り込んで居ますが日本の真善美は守られているのでしょうか?
2019/09/08(日) 10:07 | URL | 休日で長く書いてしまいました #JyN/eAqk[ 編集]
No title
この記事を読むとどうしても涙が出てしまいます。
そして映画にしてほしいといつも思います。
2019/09/08(日) 09:57 | URL | #-[ 編集]
英霊の想いとは?
我国は経済大国と呼ばれます。
しかし…戦場に散った弱冠十七十八の英霊の想いはそういうことだったのでしょうか。
享楽におぼれ怠けてる?
胸が苦しくなります。
2019/09/08(日) 09:10 | URL | takechiyo1949 #VCU7f5e.[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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サンフランシスコ講和条約で、日本は台湾に関して処分権は連合国に提供しましたが、領土の割譲は行っていません。条約以降、連合国も日本も台湾の処分先を決めていません。つまり台湾はいまも日本であり、台湾にいる1500万人の戦前からいる台湾人は、日本国籍を有する日本人です。私は台湾民政府を支持します。
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ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

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