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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


朝鮮戦争顛末

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李承晩は、朝魚羊戦争で敗退を続けるときに、同国人を何十万人と殺しています。そういう、手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築いた、つまり国家の創成期において、嘘と論点ずらしが常態となったということは、なにより韓国の人々にとって(傍から見れば)不幸なことであるような気がします。けれど彼らにとっては、それが常識なのです。だからこそ彼らにとっての「Let it go!」は、「これでいいの!」でも「ありのままで」でもなくて、「すべて忘れて!」になるのではないでしょうか。


20190918 朝鮮戦争
画像出所=https://www.asahi.com/articles/DA3S13506299.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


昭和20年8月に大東亜戦争が終結し、その後日本はGHQによって占領統治下に置かれました。
その占領期間中である昭和25年に始まったのが朝魚羊戦争(Korea War)です。
いまの38度線は、朝魚羊戦争の結果存在しているものです。
これが歴史の事実です。

ところが韓国では、この戦争のことを「韓国戦争(または韓日戦争)」と教えます。
日本に占領され、日本に植民地化されていた状況から、国民が立ち上がって日本軍を追い出すために勇敢に戦ったのだそうです。

実際に起きていたことは、日本が敗戦によって占領統治されていた間に、満洲や大陸や半島から日本に帰ろうとする日本人を狙って、一方的に逮捕拘束したり、日本人の生命も財産も好き放題に奪ったり、日本人女性の貞操を踏みにじる非人道的な鬼畜行為が公然と行われていただけです。
当時の日本は、これに対する取り締まりをすることができませんでした。
さらに当時のコリアンたちも、それら非人道的行為を一切取り締まることをしませんでした。
こうして公然と行われた非武装の日本人への鬼畜略奪行為を、彼らはいま、
「半島から日本軍を追い出すために勇敢に戦った」
と論点のすり替えをして教えているわけです。

この、
「自ら悪事を起こし、
 論点をすり替えて、
 自己正当化を図り、
 いつのまにか自分を
 被害者に仕立て上げる」

というのは、彼の国の国民性を歪める最大の要素でありながら、それを変えよう、正常化しようというのではなく、むしろ彼らにとっての誇りに仕立て上げるかのような教育が行われていれば、人々の思考回路もおかしくなるのが当然です。

いまでも韓国では8月5日を「光復節」と呼び、自分たちの国に光がよみがえった日だとしていますが、昭和20年8月15日まで、朝魚羊半島は日本領です。
にも関わらず、日本本土のように空爆や艦砲射撃を受けることもなく、また人々が食べるに困ることもなく、とても戦時中とは思えない平和な日々が続いていたのです。

それどころか、昭和19年以降には、日本本土での成年男子たちが600万人も軍務で外地に出てしまい、日本本土内では、極端に労働力が不足。
そのため半島から日本国内に半島の若者を労働力として雇い入れ、その際には同じ日本国内、同じ日本人と認識されていたにもかかわらず、外国に赴任する場合と同じ待遇、つまり給料と同額の外地手当が支給され、社宅完備、食事完備という破格の好条件で朝魚羊の若者を労働力として雇い入れていました。
そういうことも、細かな事実が忘れられた頃になると、いつのまにか強制的に奴隷労働を無理強いさせられたという話に「論点がすり替わる」のですから、オドロキです。

「恩を知るをもって人とは言うぞ」
とは、吉川英治の『新・平家物語』での有名な平清盛のセリフですが、感謝する心がないのは、昔も今も、人の皮をかぶったケモノでしかありません。
ところが昨今の日本では、人の皮をかぶっていさえすれば人であるという誤認が激しく浸透しています。
それこそ「世界の非常識」です。

世界では、人の姿をしていても、吸血鬼(バンパイア)は吸血鬼であり、狼男(リカント)は狼男です。
逆に、姿は犬でも、飼い主の恩を忘れず、相互の愛を育むことができるなら、その犬は人間の言葉を話せなくても、人の一部です。
それが世界の常識です。

戦後は小中教育が義務教育化され、バンパイアやリカントが入学してきても、教師がそれら「人でないもの」を学校から追い出すことができなくなりました。
結果、日本全国の小中学校にバンパイアやリカントがのさばり、真面目な生徒が被支配階層にされるようになり、いまではそのバンパイアやリカントが教師を務めるようになりました。
これでは日本の教育がおかしくなるのもあたりまえです。
パンバイアやリカントを教室に入れるくらいなら、教室で犬でも飼った方が、よほどマシです。



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20190317 MARTH



いずれにせよ半島では、終戦の日まで、きわめて平和で、一定の治安も保たれていたし、戦争による死傷者も、もちろん軍人軍属には一部にあるものの、国全体から見たら、きわめて少ない人数の被害しか起きていなかったわけです。

半島に悲劇が起きたのは、この光復節の後のことです。
大東亜戦争終結後、5年も経った後に起きた朝魚羊戦争で、昭和28年までの3年間の間の朝魚羊戦争による死者は、韓国側だけで、軍人が約42万人、民間人はなんと106万人です。
そしておよそ1千万人が一家離散の悲劇にあったのです。

つまり光復節(こうふくせつ)は、光が回復した日どころか、昭和20年8月15日の大東亜の終戦後から、半島ではまさに地獄の蓋(ふた)が開き、昭和25年から28年にかけての朝魚羊戦争で、まさに半島は地獄そのものとなっていった「光失節(こうしつせつ)」であったのです。

常識で考えていただいて、昭和20年に大東亜戦争が終わったとき、日本は半島にあった日本人の持つ権益のすべてを半島にまるごと寄贈してきているのです。
終戦時、日本が朝魚羊半島に残してきた個人財産の総額は当時の価格で257億円です。
これは現在の価格に換算するとおよそ5兆円に達するものです。
このことは昭和22年3月に朝魚羊引揚同胞世話会(穂積真六郎会長)が作成した『在朝魚羊日本人個人財産額調』という書で、詳細な報告がなされています。

さらにGHQの統計によれば、日本の政府や軍、法人、個人などが半島に残してきた資産は、当時の日本円で891億円です。
これは現在の時価に換算するとおよそ17兆円に達します。

普通、戦争での被災がまったくなく、しかも日本から17兆円の財産をまるごと譲り受けていれば、半島は独立国として豊かなスタートができるはずだったのです。
ところが、昭和25年まで、彼らは何もしなかっただけでなく、昭和25年には戦争をはじめて、あらゆる国家財産を、ことごとく潰してしまいました。
要するに、自分たちで自分たちが受け取った財産を使い果たしてしまったわけです。
それであまりにひどい国情になっていたから、これを救ってあげたのが昭和40年(1965)の日韓基本条約です。

この条約で日本は韓国に、当時の韓国の国家予算の2倍半の現金を提供し、これによって韓国は経済的に発展できるようになるのですが、それだけの貢献をしてくれた日本の陸軍士官学校卒のパク大統領を殺害して、日本から得たお金を、簒奪し、結果、韓国は国家破産状態に至って、また日本に助けてもらうということが、これまでに何度となく繰り返されました。
富は、真面目にコツコツ働いて、努力しなければ築けないものです。
けれども彼らがしてきたことは、他所の国に助けてもらって、そのお金で贅沢をするというだけのものでした。

さて、いま朝魚羊半島は、北と南に分断されていますが、実は大東亜戦争が終結した直後、昭和20(1945)年9月6日に、統一朝魚羊(北と南の両方がひとつの国になった朝魚羊)が樹立されていたのです。
国名を「朝魚羊人民共和国」といいました。

戦前の朝魚羊は、日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてなかったのです。
そこには朝魚羊総督府があり、その総督府の機能が、そのまま朝魚羊建国に受け継がれていくはずでした。
当時の朝魚羊総督府には、呂運亨(りょうんてい)という立派な人がいたのです。
その呂さんが、朝魚羊建国準備委員会を設立し、半島統一国家の建設を企図し、「朝魚羊人民共和国」の建国宣言まで行っています。

そのまま統一朝魚羊が樹立されればよかったのですが、樹立宣言の翌日に、米軍が上陸して来ました。
当然のことながら、米軍は半島を占領しました。
そして「朝魚羊人民共和国」も「朝魚羊建国準備委員会」も、その占領統治下に置きました。

このとき、英語が堪能であることを奇貨として、米軍に取り入っていたのが後に韓国の初代大統領となる李承晩(りしょうばん)です。

李承晩は明治8(1875)年生まれの朝魚羊の独立運動家でした。
生家は、李氏朝魚羊の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔というのが自称です。
だから彼は自称・両班(やんばん)《貴族階級》の出身だというのですが、彼の家が両班だったときから、彼の世代までに、16代が経過しています。
つまり彼は没落貴族の元・両班、しかも16世代前の両班階層であって、現実の彼はただの常民(さんみん)でしかありません。
つまり、李承晩が「自分は両班の出身だ」といっている時点で、すでにそれはただのファンタジーになっているわけです。
現代のサウス・朝魚羊が過去をファンタジーとする風潮は、李承晩によって始まったともいえるわけです。

そして李承晩にとっては、実際の現実の姿と、明らかに遊離した「俺は両班だ」ということだけが、彼にとっての誇りであり自覚でありプライドでした。
そして両班階層を否定した日本統治を恨み、彼は大正8年(1919)に、上海に渡って、そこの飲み屋で一杯飲みながら、友人4人と「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗りました。
そしてこの日が、いまの韓国にとっての建国の日です。

国家というのは、国際的に承認されて、はじめて国家となります。
たとえば法人は、法律で承認された人格です。
国の場合は法がありませんから、他国が国家として承認して、はじめて国家です。
ですから、ねずさんが数名の仲間とともに勝手に「ねず国」を名乗っても、これを国際的に承認する国はありませんから、そのようなものは国の名にさえ値しません。
わが国においても、神武天皇が兄の五瀬命とともに宮崎を出発した日は、建国の日でもなんでもありません。
ただ「出発した日」です。
神武天皇が、大勢の人々とともに、堂々と建国宣言を発せられたときが、わが国の建国記念日です。

こうした理屈は、どこの国でも同じです。
フランス革命であれば、ロベスピエールたちが王権支配からの脱却を目指して仲間たちと動き始めたときは、フランスの建国とは何の関係もないし、日にちさえも特定されません。
英国においては、少年アーサー王が岩から剣を引き抜いたときの日にちまではわかりませんし、それ自体は大英帝国の建国の日にはなりません。

ところが世界中でただ一国、李承晩が上海の酒場で酔った勢いで「大韓民国臨時政府を樹立するぞ」と小声でつぶやいたときが建国の日となっている国があります。
どの国とは申しませんが。

それが大正8年です。
この頃の日本は、アジアの独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、そして人種平等を目指して戦っていました。
人種の平等というのは、人間の平等の精神でもあります。
どんな人でも、努力をすれば、相応の地位も名誉も与えられる。
単に権威の上にあぐらをかくような存在は、否定される精神でもあります。
日本はそういう国を目指したし、そういう世界を目指していました。

これに対し、李承晩が抱いていた思想は、あくまで朝魚羊半島は両班のものであるという思想です。
朝魚羊半島の人も富も、すべては朝魚羊人の両班のものでなければならないとするものです。
日本は古来、言論の自由の国ですから、李承晩が何を言おうが、言っているだけなら勝手です。
しかし彼らの思想は、日本の大東亜共栄の大義とは全く異なるものです。

日本の憲兵は、李承晩に対し、理を諭し、情をもって接するのだけれど、李承晩は火病を起こして翻意しない。
あまりのことに腹を立てた憲兵が、その李承晩に平手打ちをしました。
このたった一回の平手打ちが、実はその後の韓国と日本の関係を決定づけました。

李承晩の誇りは、自分が両班である、という一点だけに集約されています。
だから、人から平手打ちなんてもらったことのない李承晩は、生涯にわたって、その平手打ちと、平手打ちをした日本人を恨み続けました。
誇り高い両班を打つとは何事か、というわけです。

そして李承晩にヨイショする茶坊主たちが、韓国は「恨みの文化の国だ」と言い出しました。
最初は皮肉だったのかもしれませんが、後にはこれが「論点のすり替え」で、彼の国の根本思想のように言われるようになりました。
過去の恨みに生きる人というのは、どこの国にもいるものです。
個人でも集団でも、苦労するから後の成功があるのです。
しかし多くの場合、苦労をしなかった者が言い出すのが感情的な「恨み」です。

日本人では、平手打ちはあたりまえの習慣です。
平手で相手のホッペタをピシャリと叩くのだけれど、平手打ちは打たれた側は痛みはあっても怪我はしません。」むしろ打った側が手のひらが痛くなるのが平手打ちです。
打つ側の手の平の痛みは、打つ人の心の痛みです。
その心を素直に感じることで、打たれた側も反省をする。
日本ではあたりまえの、そうした習慣が李承晩にはまったく通じなかったどころか、彼は生涯それを個人的怨恨として逆恨みし続けました。
このしつこさもまた、彼の国の特徴となっています。

李承晩は、憲兵から釈放されたあと、渡米し、そこで米国大統領ならびにパリ講和会議の米国代表団に宛てて、「朝魚羊半島を国際連盟の委任統治領にしてもらいたい」という請願書を提出しています。
もし朝魚羊半島が現実に「委任統治領」になっていたら、おそらく今の韓国の発展はないであろうことは、フィリピンを見れば明らかです。

さて、時は移って終戦直後です。
38度線の北側には、この頃すでにソ連が進駐をはじめていました。
これが悪い奴らで、この連中にずいぶん日本人婦女が強姦され殺されたのだけれど、彼らはそれだけではなく、10月までに「各地で自発的に生まれた」という名目の「人民委員会」を組織し、これらを管理下に置いて、朝魚羊北部を占領していました。

このことには、すこし説明が必要です。
ソ連兵には、もちろん朝魚羊語はわかりません。
ですからソ連が朝魚羊ンたちを支配するに際しては、朝魚羊語を話す者たちを、ソ連兵の手足として使う必要がありました。
その手足となったのが朝魚羊人の共産主義者たちで、ソ連は彼らに旧日本軍から押収した銃器と金を与え、自分たちが強姦したあとの日本人女性と食物を与えました。

要するに朝魚羊の共産パルチザンになると、働かなくても腹いっぱい飯が食えて、金がもらえて、いままで支配者側だった高貴な日本人女性を欲しいままに強姦できて、金持ち日本人の財物も奪えるというわけです。
そういうことを喜ぶ馬鹿者どもが、喜んで「人民委員会」のメンバーになりました。

歴史は複雑に絡みます。
同じ頃、チャイナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっていました。
なぜいきなり敗退しはじめたかといえば、米英が、蒋介石率いる国民党への支援を打ち切ったからです。
米英は、それまで蒋介石率いる国民党に、日本と戦わせるための豊富な軍事物資や食糧、金銭などの支援を行ってきました。
対日戦略のためだけの国民党支援です。日本との戦争が終れば彼らはもう「用済み」です。
国際社会は薄情なものです。

蒋介石の国民党は軍閥です。
古来、チャイナの軍閥というのは、配下の兵たちを親分が食べさせるのが伝統です。
つまり蒋介石は、米英の軍事的経済的支援があったから兵を集めることができたのです。
支援物資の補給を断たれたら、兵は自然と離れていきます。
そこへソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東率いる八路軍(人民解放軍)が襲いかかったわけです。
勝敗はおのずと明らかです。
補給を断たれた国民党はチャイナ各地で八路軍に追われました。

同様にソ連は、毛沢東率いる八路軍に豊富な武器や食料を与えたやり方と同じ方法で、朝魚羊半島を我が物にしようとしました。
ここで使われたのが金日成(きんにっせい)です。

終戦のとき、呂運亨(りょうんてい)が中心となって、統一朝魚羊としての「朝魚羊人民共和国」が建国されたことは、前に述べましたが、このとき李承晩は、
「朝魚羊人民共和国の政府には、
 ソ連に煽動された共産主義者たちが混入している。
 そういう者たちと一緒に統一朝魚羊を作ることは
 疑問がある」
と主張しました。
そして占領軍である米国に働きかけて、金日成一派の追い出しを図りました。

金日成は、そのままでは政治力を失います。
そこで米進駐軍による半島の国家基盤が定まらないうちに、金日成は朝魚羊北部にはいって昭21(1946)年2月8日、「朝魚羊臨時人民委員会」を設立しました。

李承晩は、米国に必死にはたらきかけて、新たに設立された「朝魚羊臨時人民委員会」の排除を求めるのですが、金日成も、その後ろ押しをしているソ連も、そんな抵抗があるのは百も承知です。
だからこそ早々に半島北部を軍事的に押さえました。
なぜならそこには日本が建設した工業地帯があったからです。

こうして金日成のもとには、富と武力と、ソ連の完全なバックアップ体制が整いました。
それだけ整った力を、金日成が手放すはずがありません。

李承晩は、金日成への対抗上、反共産勢力による早期国家設立を米国に迫りました。
そして金日成に遅れること16ヶ月、李承晩を首班とする「南朝魚羊過渡政府」が、昭和22(1947)年6月に誕生しています。

米国は、共産主義者と民主主義者が対立を深める朝魚羊半島について、同年11月、国際連合に半島統治問題を提起します。
北の金日成は、この動きに危機感を持ちます。
金日成は、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝魚羊人民軍」を創設し、同月26日に「朝魚羊民主人民共和国」の成立を一方的に宣言しました。

せっかく国連に話し合いを提案したのにと、米国はこれを激しく非難しますが、黙って非難されている金日成ではありません。
彼は報復処置として、南半部への送電を全面的に停止しました。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていたのです。
同時に半島南端にある済州島に共産ゲリラを送り込み、武装蜂起させました。
これがコリアンが、チャイナから古い時代から教わった「遠交近攻」です。

李承晩は鎮圧のために済州島に軍を派遣しました。
ところが韓国軍がやってきたときには、済州島の共産ゲリラは、全部逃げたあとでした。
その共産ゲリラが逃げた先が日本でした。

李承晩の軍は、済州島の一般市民を、共産ゲリラの代わりに8万人も虐殺しました。
これを昭和23(1948)年の済州島四・三事件といいます。
そしてこれによって、「実力によって暴動を陳圧」した、つまり「暴動の鎮圧ができるだけの政府機能が整った」として、李承晩は同年8月15日に「大韓民国」の成立を宣言するのです。
これまた「論点のすり替え」ですが、それが韓国建国の原点です。
要するに、何もかも、嘘っぱちです。

金日成はこれに対抗して翌月9日に「朝魚羊民主主義人民共和国」建国を宣言します。
これによって朝鮮半島には、二つの国が同居することになりました。
国家は他国の承認があってはじめて国家たりうると、上に述べさせていただきましたが、このとき北朝鮮はソ連が、韓国は米国が国家として承認したのです。

そうそう。
すこし脱線しますが、済州島事件のときに、先に逃げ出した共産ゲリラが逃げ落ちた先が日本だったと申しましたが、彼らは日本国内で、その後、ありとあらゆる非合法活動を行います。
そしてこの頃から、日本における年間の失踪者数(昔は蒸発と言いました)は、一日平均300人、そしてその多くが若い女性になりました。
その状態は昭和40年代まで続きます。

昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官が、次のように発言しました。
「米国が責任をもつ防衛ラインは、
 フィリピン、沖縄、日本、
 アリューシャン列島までである。
 それ以外の地域は責任をもたない。」

この発言は、たいへんに微妙なものがあります。
朝鮮半島は、米国が占領統治していたのです。
そして昭和23年には、北と南が独立宣言をしているのです。
ところがその半島が、上の発言に入っていないのです。

この発言は、米国の国防政策において太平洋の制海権は絶対に渡さないことを述べたものですが、同時に李承晩を抑え込む意図があったともいわれています。
どういうことかというと、この頃の李承晩は、済州島で一般市民を虐殺したことを、共産ゲリラ8万人を排除したと論点をすり替え、そのすり替えた行動を、次の根拠として、自分たちには半島内の共産主義者を追い払うだけの軍事力が備わっているから、早々に北の金日成を攻め落とすべし!と実に威勢よく、鼻息も荒かったのです。
この「言うだけ番長」は、いまも昔も変わりません。

けれど米国政府にしてみれば、すでに第二次世界大戦が終わって5年も経っているのです。
いまさら戦争など、誰もしたくありません。
米国内の世論だって、もう戦争にはあきあきしています。
おそらくこの時点で、「朝魚羊で戦争すべし!」などと発言する政治家もジャーナリストも、米国には誰もいなかったのではないか。

そこで米国は、韓国の軍事力の大半を米国が請け負い、韓国軍が単独で北朝魚羊に攻め込むことを防ごうとしました。
韓国に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。
しかし、そのようにすればするほど、言うだけ番長は、戦争だ!戦争だ!と言って世論を煽り立てます。

このことは、北の金日成にとっては、南朝魚羊の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機、つまり攻めこむための口実が与えられたことを意味します。
こうして金日成は、昭和25(1950)年3月、ソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めます。

スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認する。
同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じます。
スターリンは、金日成の南進によって朝魚羊人同士で戦わせ、万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようとしたといわれています。

同年5月、金日成はChinaに毛沢東を訪ねます。
そして
「北朝魚羊による南半部への侵攻に際し、
 中華人民共和国がこれを援助する」
という約束を取り付けます。

こうして始まったのが、朝魚羊戦争です。

昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝魚羊軍の砲撃が開始されました。
宣戦布告なんてありません。
いきなりの砲撃です。

開戦の30分後、11万人の大軍からなる北朝魚羊軍が、38度線を越境しました。
ちなみに北朝魚羊は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張しています。
けれどこの主張は、ソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定していることです。

前線の韓国軍は、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていただけでした。
どういうことかというと、韓国軍兵士の多くは、6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
しかもソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていませんでした。
李承晩大統領への「北来襲」という報告すら、奇襲後6時間経過してから、やっと韓国政府に届いたという始末でした。
手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すら用意されていませんでした。

このあたりも、言うだけ番長の面目躍如です。
済州島での軍功(?)をネタに、共産ゲリラものともせずとばかり、威勢よく北を攻めると主張していたわけです。
そのような主張を展開すれば、当然、北は警戒するし、場合によっては先に北から軍事侵攻してくる可能性も大となるわけです。
子供でもわかる理屈です。
しかしそれだけの大言壮語をしておきながら、実際の警備にあたっては、農繁期だからと兵を帰省させ、戦車対策もしていなかったのです。

要するに、子供でもわかる理屈がわからない。
こうすれば、こうなる、という想像力が根本的に欠如しているのです。
常に、いまこの瞬間に大きな顔ができれば良いのです。

このことはいまも同じで、日本からのフッ化ガスなどがほしいから、ホワイト国から排除は困ると言っているのに、日本製品ボイコットという。
日本製品がほしいのか、いらないのか。
はたからみていると、よくわからない。

ちなみにこの「想像力の欠如」というのは、ドラマや映画を観た時の感想でもそうで、たとえば感動的な映画などを観たあとで、ネットの口コミ、レビューなどを観ると、号泣させられたような映画でも、「どこが泣けるの?意味分かんない」みたいな感想が多々書き込まれたりしています。
前頭葉発育不良なのだそうですが、どうりで特攻隊の遺書を読んでも、彼らがなんとも思わないのもうなづけます。
脱線しますが、アナ雪はたいへん感動的な映画でしたが、韓国では映画はあまりヒットしなかったのだそうです。
ところが主題曲の「Let it go!」は、たいへんな人気となったのだそうです。
映画がヒットしないのに、主題曲は大ヒット。
不思議なこともあるものだと思っていたら、日本語バージョンの「Let it go!」のサビは、「ありのままの」と歌われていましたが、韓国語バージョンでは「다 잊어!다 잊어!」、つまり「全部、忘れて〜!」となっていました。
国民性の違いなのでしょうね。
ちなみに英語版の「Let it go!」を直訳すれば、「行っちゃおう!」ですが、英語の語感としては「これでいいの!」みたいな感じになります。


さて、朝魚羊戦争です。
北朝魚羊軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車の大部隊を中核に、次々に前線を突破し、各所で韓国軍は総崩れとなって潰走しました。

朝魚羊戦争の攻防
朝魚羊戦争03


金日成率いる北朝魚羊は、初戦の猛攻で大勝利します。
気を良くした金日成は、一気呵成に李承晩を半島から追い落として、5回目の光復節はソウルで行うとまで宣言します。
北朝魚羊軍の士気はおおいに盛り上がります。

開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落しました。
住民に多くの犠牲を出しながら、韓国政府は、首都をソウル南方の水原に移しました。

このときに有名な事件があります。
ソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋を爆破したのです。
漢江にかかる橋を爆破すれば、北朝魚羊のソ連製戦車部隊の侵攻を遅らせることができるし、それだけ南朝魚羊政府は、逃げおおせることができるから爆破したのですが、この爆破時、漢江の北側のソウルの街には、まだ多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていたのです。

孤立した韓国軍兵士とソウル市民は、北朝魚羊軍によって随所で虐殺されました。
このとき、どのようなことが行われたかは、歴史の記録に残っていません。
ただひとついえるのは、圧倒的火力でソウルの街を征服した北朝魚羊の兵士たちは、およそ人間ができる最悪の鬼畜非道を行ったであろうということです。
だからこそ記録すらされていないということは、容易に推定できることではないかと思います。
すくなくとも、北の兵士たちが、戦時捕虜となった韓国兵士や、婦女子を含む一般市民を手厚く保護したという記録は、まったくありません。

さて、水原に落ちのびた韓国政府と韓国軍です。
彼らが落ちのびたとき、軍は敗軍そのものだったといいます。
士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況となっていた。

そこにマッカーサーが、東京からやってきたという記録が残っています。
水原は、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていました。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまっています。

東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団を投入するように進言しました。
しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しない。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンは、ようやく1個師団だけの派兵を許可します。

大統領の許可を得たマッカーサーは、日本に駐留していた第24師団の第21連隊第1大隊を基幹とする師団を水原市に派遣します。
部隊は水原南方の烏山の高地に陣取って北朝魚羊軍を待ち受けました。

対する北朝魚羊第4師団は、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を先頭に烏山に迫ります。
このとき派遣された米第24師団は、大東亜戦争での経験を持たない、新たな徴用兵たちです。
旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れ、すでに本国に帰還していたからです。

北朝魚羊軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えますが、相手はソ連の誇る新鋭T-34/85戦車です。
バズーカ砲ごとできは、まったく歯が立ちません。
北朝魚羊軍の戦車と歩兵は各所で戦線を突破し、米軍は総崩れとなって大敗してしまう。

マッカーサーは、米精鋭部隊の派遣を要請するけれど、戦争に倦んだ米国世論は、これを許しません。
トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝魚羊半島に送り込みます。
けれど、明確な指揮命令系統のない、混成の国連軍は、各所で敗退してしまう。
戦いに作戦は必要なものです。
けれど、どんなに綿密な作戦を国連軍が立てても、敵軍が目の前に迫ると、韓国軍は銃を捨てて逃げてしまうのです。
だから全軍が総崩れになる。
この繰り返しでした。

その逃げ足の先頭に経っていたのが李承晩です。
彼は水原も捨て、南へ南へと、逃げました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、武器を持たない一般市民を、韓国保導連盟員や共産党関係者だと決めつけ、一方的に20万人以上の一般国民を虐殺しています。
武器を持った北朝魚羊軍の前では、味方を見捨ててでもひたすら逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国民に対しては、平気で虐殺の限りを尽くしたのです。

一方北朝魚羊は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。
北の金日成、南の李承晩は、互いに武器を持たない一般市民を虐殺しあっていたのです。

李承晩は、ついに朝魚羊半島南端の釜山まで追い詰められてしまいました。
釜山は、韓国の最も日本寄りの港町です。
いまでも日本から韓国への観光船の定期便は、福岡ー釜山間を運行している。
つまり、日本に一番近い韓国の都市が釜山、というわけです。

李承晩ひきいる韓国政府と韓国軍は、ついにそこまで追いつめられたのです。
釜山は、この時点で韓国にとっての最後の砦、韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひきます。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されていました。
けれど国連の多国籍軍は動かない。
兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめたまま、戦いに参戦しなかったのです。

タテマエは「戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ」というのです。
けれど本音は、韓国軍が連戦連敗しているのに、なんで自分たちが命がけで北朝魚羊と戦わなければならないのか、というものです。
このことは、私たち日本人も、よく肝に銘じておく必要があります。
日米安保だ、国連だと言っても、天は自ら助ける者を扶けるのです。
自分たちで戦おうとしないような弱虫に、誰が変わりに命がけで戦うものか、ということです。

朝魚羊戦争で、韓国軍が釜山という南の果てまで追いつめられたのには、もうひとつの理由があります。
実は、韓国軍の兵士というのは、その多くが日本統治時代に、日本軍に在籍していた者たちだったのです。
けれど個人的怨恨から日本が嫌いな李承晩は、日本軍によって薫陶を受けた元日本軍士官だった朝魚羊人や、元日本軍兵士だった兵士たちを嫌い、軍の主要な任務に就けなかっただけでなく、元日本軍兵士だった朝魚羊人だけでの部隊の編制を厳禁していたのです。

どんなに訓練を受けた強い兵士や士官でも、上に立つ者がアホなら、戦果はあげられません。
なぜなら軍は上官の命令によって動くものだからです。

そして韓国軍は、ついに釜山まで追いつめられた。
このとき、韓国軍に金錫源(きんしゃくげん)という人物が現われます。

彼は、漢城出身の朝魚羊人です。
日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やチャイナ事変で一個大隊を率いて国民党軍を殲滅し、朝魚羊人としては初、また生存している佐官クラスでは、異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

金錫源は、軍事対策会議に出席すると、国連軍の総司令官がマッカーサーであることを哄笑します。

日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
 よろしい。
 日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、
 存分にみせつけてやりましょう。


彼はそういって軍刀の柄をパチンと鳴らしました。
これは日本武士の約束は守るという意思表示作法です。

李承晩にしても、釜山が陥落すれば、もはや朝魚羊半島は完全に北朝魚羊に支配され、己の命もなくなることは、この時点で十分承知しています。
そしてこの段階に至って、はじめて李承晩は、金錫源の言を入れ、元日本軍兵士たちだけでの師団を編成することを認めます。
金錫源は、元日本兵だけを集め、1個師団を編成する。

軍事経験に乏しく、十分な訓練を受けていない日本軍での訓練経験のない韓国人士官たちは、敵が来ると、我先に逃げてしまうのです。
軍は指揮官によって動く。
指揮官が敵が見えただけで逃げ出す軍では、どうにもならなかったのです。

それが釜山まで追いつめられた時、やっと念願の元日本軍士官に率いられた、元日本軍兵士たちによる部隊ができたのです。

金錫源は、一個師団を編成すると、全員の前で薫陶を行います。
このとき、演台の変わりに、近くにあった大きな壷に乗って、兵士たちに薫陶しました。
金錫源将軍は、兵士たちに必勝の檄を飛ばしたのだけれど、そのとき力一杯足を踏み鳴らしたために、その壷のフタが割れ、足が壷に入ってしまった。
なんとその壷は、糞壷だったのだそうです。
平時であれば笑ってしまいそうな話ですが、そのときの金錫源将軍の迫力は、ものすごく、兵士たちはひとりとして笑うものなどいず、全員が必勝の意欲に燃えたといいます。

そして師団は、8月15日深夜、粛々と釜山東部の守備に向かう。
その途中、金錫源将軍は、師団の一部の兵士を夜陰にまぎれてどこかへ逃がします。
なぜ逃がしたのか、この時点では誰も知りません。

師団の移動の様子は、北朝魚羊側から丸見えです。
なんのことはない。裸同然で、銃器程度の武器しかない一個師団です。
ソ連製戦車の前では、赤子同然の兵力でしかない。

金錫源将軍の師団が釜山東部で配置に付いた時、北朝魚羊軍は、戦車を先頭にした大軍で、これを包囲します。
集中放火によって、完全に金錫源将軍の師団を殲滅する作戦です。

この包囲によって、金錫源の師団は完全に孤立してしまう。
そして双方の戦いが始まった。

金錫源は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちます。
そして敵軍を睥睨し、撃て~!と叫ぶ。
その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だ、と兵の士気を著しく高めたといいます。

金錫源たちが奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守っています。
つまり、金錫源率いる師団に援軍はないのです。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦い続けた。

金錫源は、頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中すると、北朝魚羊軍に一斉砲撃をしかけます。
そして、にわかに突撃を命じます。

相手は命知らずの旧日本軍韓国兵です。
北朝魚羊軍はあわてて後退した。

敵殲滅の好機到来です。
金錫源の士気はいやがおうにもあがった。

ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じます。
深夜です。
日付はすでに16日になっている。

北朝魚羊軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると、反撃に転じ、金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきます。

金錫源将軍の師団は、岬を回って潰走します。
とにかく逃げる、逃げる。
北朝魚羊側は、まさに好機到来と、金錫源将軍の師団を追います。
全軍一丸となっての猛烈な追撃です。
北の戦車部隊も、一気に追い、責め立てる。

そして北の戦車隊が岬を回り込んだときです。
そこにこつ然と、米軍の大艦隊が出現したのです。

ソ連製の戦車は、装甲が厚く、銃や迫撃砲、バズーカ砲などではまるで歯がたちません。
けれど戦艦から繰り出される対戦艦用の大型砲門相手ではどうでしょう。
戦車の巨体よりもさらに大きい、米艦隊の砲弾が、雨あられと北の戦車部隊に降り注いだのです。
これには北の自慢の戦車部隊も一網打尽です。

実は、前夜、金錫源将軍の師団が移動中、一部の兵士に命じ、作戦の詳細を米艦隊に連絡させてあったのです。
師団がおとりになり、北朝魚羊軍が進路を東に転じて海岸線にでたところに、米艦艇から一斉に艦砲射撃をあびせるようにと、です。

それまでの弱腰だった韓国軍に、最初は半信半疑だった米海軍も、金錫源将軍が元日本陸軍の左官であり、勲章ももらっている人物であると聞き、それならもしや、と艦隊を待機させてくれていたのです。
要するに日本の信用で、米艦隊が動いた。

天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびき、無数の砲弾が北朝魚羊軍第五師団のうえに降りそそぎます。米国誇る太平洋艦隊の主砲です。T型戦車などひとたまりもない。

それを待っていた金錫源の第三師団は隊列を変化させ、北朝魚羊軍を包囲して砲撃を開始します。艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴いた。
北朝魚羊の戦車は粉砕され、兵は空中に飛ばされ、隊列を乱して逃げる北朝魚羊兵士は、金錫源将軍の師団の銃撃の恰好の餌食となった。

追って来た北朝魚羊軍は、一瞬で壊滅し、兵士たちがバラバラになって敗走をはじめます。

ところがその潰走ルートには、金錫源が、やはりこれも前夜のうちに金錫源将軍があらかじめ忍ばせた伏兵が待ち受けます。
伏兵たちは、潰走する北朝魚羊兵に猛射をあびせた。

「草木皆ナ兵ト化ス」

恐慌状態におちいった北朝魚羊軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能となってしまいます。
北朝魚羊軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり再編を余儀なくされてしまいます。
それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなり、各部隊の孤立化がはじまりました。

8月22日、金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝魚羊軍の攻撃に耐えかねて後退を開始しました。
ここにも元日本兵が数多くいました。

このままでは米軍第27連隊の側面が敵にさらされてしまいます。
韓国も、米軍も、戦線の崩壊はまぬかれません。

そこに、白 善燁(はくぜんこう)師団長が駆けつけます。
そして散らばっていた元日本兵だけを集合させて座らせました。

白善燁も日本軍の出身です。
昭和14(1939)年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学、昭和16(1941)年に卒業して満州国軍に任官し、昭和18(1943)年には間島特設隊に配属され戦った経歴を持ちます。

実はこの日、白師団長はマラリアを患って高熱を発し、病院にいたのです。
けれど釜山西側の危機を知った白師団長は、集まった西側守備隊の兵士たちに
「二日間、補給もないのに
 よくがんばってくれた。
 感謝の言葉もない」
とねぎらいの言葉をかけると、

「ここが破れれば
 われわれには死が待っている。
 それに見ろ。
 アメリカ人もわれわれを信じて
 戦いに来ている。
 かれらを見捨てることができるか」
と静かに語りました。

そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに言いました。

「ただいまより、
 あの四八八高地を奪回する!
 ワレに続け!
 もし俺が臆病風にふかれたら
 後ろから撃て!」

そうさけぶと、銃をとり、先頭にたって突撃を敢行したのです。
兵たちは驚きます。
いきなり前線に、マラリアで入院中の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。

「師団長に続け~~!」

鬼人と化した元日本軍の韓国兵は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいます。
そしてそこから谷底の北朝魚羊軍にむかって猛烈な砲火をあびせた。
そしてここでも北朝魚羊軍は完全に潰走してしまいます。

前線の北朝魚羊軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝魚羊軍の補給路を完全に断ち、9月28日には、ソウル奪回を果たしました。

勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、反攻に転じ、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝魚羊の臨時首都の平壌までも制圧します。

北朝魚羊が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝魚羊に味方して参戦します。
100万人以上の大兵力です。
米韓多国籍軍は、チャイナの人海戦術に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走しました。

しかしチャイナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
それ以上の装備はない。旧式兵器に頼るチャイナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。

米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回。
しかし、戦況は38度線付近で膠着状態となりました。

そして最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

以上が朝魚羊戦争の概略です。


こうした史実をみるとき、いつも思うのは、戦いにおける「勢い」と「転機」ということです。

北朝魚羊の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を、その窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し、数々の武功を立てた元日本兵でした。

上に登場した金錫源将軍は、朝魚羊動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし、
「攻勢こそは最大の防御」
「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」
と部下を叱咤激励したといいます。

韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたからだともいいます。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中にあって「日本刀は武人の魂である」と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でもあったそうです。

昭和55年、金錫源将軍は、靖国神社に参拝しています。
靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られています。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちにこう語ったといいます。

「自分の息子は戦死した。
 それは軍人として本望である。
 本人も満足しているであろう。」


息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もなかったのです。
逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に「軍人精神の神髄」を見たと感嘆しました。

ご存知の通り、朝魚羊半島は北と南に、いまも分断されています。
日本統治時代までは、朝魚羊半島はひとつだったのです。
それがいまでは、親戚であっても行き来ができない。厚い鉄のカーテンによって北と南は38度線によって分断されているからです。

大東亜戦争が終わったとき、統一朝魚羊がちゃんとできていたのです。
それを潰したのが、米国でロビー活動をしていた李承晩でした。

そしてその李承晩が、シノゴノ言っている間に、ソ連は北の金日成に力を与え、半島北部を共産党によって占領させました。
慌てて李承晩は南に政府を作るのだけれど、これを危惧した金日成は38度線を超えて、南に攻め込んだわけです。

そのとき大言壮語していた李承晩は、味方さえも見捨てて逃げ出しました。
逃げ出しただけでなく、あたりにいる韓国市民が、みんな共産ゲリラに見えた李承晩は、行く先々で同国人を片端から虐殺しています。

自国民を殺しながら逃げる李承晩、追う北朝魚羊軍。
南朝魚羊も、ちゃんと戦えば、もしかしたら早期に北を駆逐できたかもしれない。
それを阻害したのは、やはり李承晩です。
日本嫌いな彼は、元日本軍関係者だというだけで、疑いを持ち、元日本軍士官だった者たちを重用せず、指揮はいつの時点でも、日本軍と関係なかった者だけを用いた。
その結果は、常に南朝魚羊の完敗です。
それだけでなく、米軍にも多大な損害を与えてしまっている。

そしてついに韓国最南端の釜山まで追いつめられたとき、李承晩はやっと元日本軍士官と、元日本軍兵士に軍の指揮を委ねた。
その結果、なんと最南端の釜山まで追いつめられていた南朝魚羊は、逆に北のはずれの平壌まで、北を追いつめることになったのです。

毛沢東率いる百万のChina人民解放軍の参戦を得た北は、戦線を38度線までようやく盛り返したけれど、そこで停戦に応じたのは、韓国にいた元日本軍兵士たちがあまりに強かったからに他なりません。

けれど、大韓民国を建国し、初代大統領に就任した李承晩は、それでも日本が嫌いで、日本との国境線を勝手に定めた(李承晩ライン)りもしています。
この李承晩ラインは、当初の李承晩の考えでは、九州も韓国領となっていました。

そして李承晩が示した韓国建国の理念は、なんと
「日本によって奪われた朝魚羊半島を、朝魚羊の手に取り戻した」
というものです。
嘘に嘘を上塗りして、日本を悪と決めつけ、自分たちは両班が取り仕切っていた平和で豊かな朝魚羊半島を取り返した英雄であるという「論点ずらし」によって立国された国。

なるほど李氏朝魚羊の時代、朝魚羊貴族の両班たちにとっては、まさに半島は天国だったかもしれません。
なにせ一般国民には私有財産すら認めず、女性には名も与えず、両方の乳をすぐに露出させれる服を着ることを強制し、女は犯し放題、財産やカネも奪い放題の特権階級を作っていたのですから。

けれど両班にとって天国だったという朝魚羊半島は、他の99%以上の国民にとっては、地獄そのものの国でしかなかったのです。

李承晩は、朝魚羊戦争で敗退を続けるときに、同国人を何十万人と殺しています。
そういう、手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築いた、つまり国家の創成期において、嘘と論点ずらしが常態となったということは、なにより韓国の人々にとって(傍から見れば)不幸なことであるような気がします。
けれど彼らにとっては、それが常識なのです。
だからこそ彼らにとっての「Let it go!」は、「これでいいの!」でも「ありのままで」でもなくて、「すべて忘れて!」になるのではないでしょうか。

※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。
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コメント
自国の独立した日まで捏造する朝*人
▲「光復節」 ── これは、「解放記念日」(日本の支配から解放された日)・「独立記念日」(日本から独立した日)とされている韓国の祝日(8月15日)です。
昭和20(1945)年8月15日、日本の終戦に伴い、祖国・韓国は日本の植民地支配から「解放」され、
そして「独立」したのだと言う訳です。
▲韓国が独立(建国)した日は、1948年8月13日で、この日、首都・ソウルで、韓国樹立の宣布式が
挙行されているのです。
日付は「8月13日」です。つまり、「独立記念日」(建国記念日)は、8月15日では無く、
正しくは8月13日と言う事になります。
▲・・・
実は、韓国は日本から独立した訳では無かったのです。
▲昭和20年8月15日、日本の終戦に伴い、当時の朝鮮総督、阿部信行・陸軍大将と、朝鮮軍司令官、上月良夫・陸軍中将の二人が、朝鮮総督府から日章旗(日の丸)を下ろし、太極旗(現・韓国国旗)を掲揚させると共に、朝鮮建国準備委員会を結成させ、朝鮮に自治権を付与しました。
つまり、終戦の日、朝鮮は「自治権」を獲得したのであって、決して日本から「独立」したのでは無いのです。
しかし、その自治権も、同年9月8日、米軍が韓国に進駐してくると、解消されてしまいます。進駐してきた米軍は、ソウルの空にはためいていた太極旗を引きずり下ろし、再び日章旗を掲揚させたのです。
▲つまり、アメリカは、朝鮮をあくまでも「日本の一部」として扱った訳で、その「日本の一部」
である朝鮮が、やれ「自治権」だの、やれ「独立」等とは、以ての外と言う訳です。
そして、進駐の翌日(9月9日)、連合国軍最高司令官 ダグラス=マッカーサーが、韓国に対して、
アメリカによる「軍政」を布告、ソウルの空には星条旗が翻る事となったのです。
▲つまり、韓国の前身 ── 、終戦の日、日本から「独立」する事無く、今度はアメリカによる「軍政」の下に置かれる事となった訳で、8月15日は、決して「祖国の解放」(独立) 等では無いのです。
アメリカの軍政下にあった韓国が「独立」を達成したのは、
終戦から3年後の1948年8月13日でした。

ttp://kogame441.blog8.fc2.com/blog-entry-12.html
*「とりだより」さんのサイトから引用しました。
2019/09/25(水) 16:35 | URL | Rick #awEUW5xo[ 編集]
時代が変われば表現も変わる
こんにちは。
ネットが今程便利になる前にデイトンにあるアメリカ空軍博物館(今は国立アメリカ空軍博物館と改称)が開設されたウェブサイトで調べ物をした際に "Korea Conflict" と表現がされているのを見付けて成程と納得していたのですが、最近は "Korea War" と表現されています。
時代が変われば表現(認識?)も変わるのでしょうねぇ。
(・・・国の単語の後ろに "n" が付くのが正しい表現です。昨今のネットを取り巻く状況から余計な詮索をしてしまい脱字に・・・申し訳ありません)
2019/09/21(土) 20:49 | URL | 時代遅れのオッサン #CtIkmD/g[ 編集]
とにかく学びましょう!
動物達は、生まれながらにして生き延びる術を持っています。
一族を守備し、子供を育て、テリトリーを防衛します。
しかし…人は基本ソフト無しの真っ新で生まれてきます。
教わらなければ子育ても何もできません。
実に軟弱な生き物です。
ですから、私達は教育を受け、自ら学び続け、それらを未来に継承しなければならないのだと思います。
生粋の日本人であっても自国の歴史や文化を知らない?
何もしなければ、そういうことになるでしょうね。
2019/09/21(土) 10:34 | URL | takechiyo1949 #-[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
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通州事件を実際に体験された女性の手記です。
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https://docs.google.com/file/d/0B9Dh1-gISO9CZERHN2oxempSeEk/edit
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