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伊勢の歌は、権力の座にある男が、自分よりも弱い者を犠牲にして、なんでもかんでも好き放題に手に入れることを完全否定した歌といえます。
なぜなら伊勢は、一介の女官でありながら、時の権力者となった仲平を、堂々と拒否しているからです。
そして伊勢は、祈りの人、つまり神々に奉仕する人として魂を成長させていくのです。
難波潟 短き蘆の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや百人一首19番にある伊勢(いせ)の歌です。
伊勢は、平安前期の女流歌人です。
そして、その後の中期に登場する和泉式部や右近など、日本を代表する女流歌人たちに、ものすごく大きな影響を与えた女性です。
言い方を変えると、伊勢がいたからその後の平安女流歌人たちの興隆があったといっても過言ではありません。
それほどまでに伊勢は、後世に強い影響を与えたし、その意味では平安中期の「女性が輝く時代」をもたらした、第一人者となった女性です。
百人一首に掲載された冒頭のこの歌を現代語訳すると、次のようになります。
難波潟に茂る葦の
節と節の間くらいの
短い時間さえも、
あなたと逢わないで
この世を過ごしなさいと
おっしゃるのですか?むつかしい表現といえば、「過ぐしてよとや」くらいなのですが、
「過ぐして」は「過ごして」、
「とや」は「〜とおっしゃるのですか?」という問いかけです。
そこまでわかれば歌の現代語訳はすぐにわかると思います。
ところが、この歌の解釈となると、いま販売されている多くの本は、
「わずかな逢瀬も許されない恋への絶望感を読んだ歌」だと書いています。
伊勢が、
「逢えない恋に、
絶望している」
というわけです。
そしてさらに、このように解釈を述べておきながら、この歌は、
「『ほんのわずかな間も
逢えないと言うの?』
と上目遣いに媚びて
潤んだ瞳を男に向けた女性の歌」
「平安時代の貴族の女性の色気の歌」
などと書いています。
なんだか、さんざん色目を使いながら恋に敗れて絶望したのだといわんばかりの解説になっているわけです。
基本的に、歌の解釈というのは、人それぞれであって良いと思います。
ただし、解釈の深さは人によって異なります。
子供には子供の、大人には大人の解釈があるのです。