義和神拳



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天津市を徘徊する義和団
<20150928 天津の義和団


「義和神拳」と、なんだかマンガの「北斗の拳」みたいなタイトルなので、いったい何の話だろうと思われた方もおいでかもしれませんが、義和団事件の実話です。
もともと義和団というのは、拳法結社で、もとになったのが、China山東省にあった「神拳」という拳法の流派です。
これに剣術の太刀会や、拳法の梅花拳など複数の武術道場が合流し、門弟たちを集めて「義和拳(義和神拳)」を名乗って、巨大な武闘集団となったのが、義和団です。

義和神拳を身につけると、体は鋼鉄となって銃弾さえも跳ね返し、刀で刺すことも斬ることもできなくなる。
不死身の肉体となるだけでなく、闘気だけで敵を倒すことができると信じられていたのだそうで、もしかすると、本当にそんなことのできるリーダーがいたのかもしれません。
そのリーダーが、数多くの門弟を率いて武闘団となり、その武力に惹かれてさらに大勢が群がる。
気がつけば、ものすごい大集団になっていたわけです。

まるでマンガの北斗の拳で、ラオウが複数の武道家の流派を統合して、巨大な大軍を率いたみたいな話ですが、こちらは実話です。
義和拳の生まれた山東省は、もともと孔子様の生地なわけです。
住民には、そういう意味では地域への誇りというか、プライドがありました。

ところがそこにドイツが進出し、さかんにキリスト教の勧誘をしたのです。
ただ宗教というだけなら問題はなかったのかもしれませんが、教会を建てるために、強引に地元住民を立ち退かせたりして、土地争いが起きるわけです。
そしてこの仲裁に、最初に介入したのが、剣術道場の太刀会で、それに拳法道場の神拳が合流する。


動画版:ねずさんのひとりごと


相手がドイツ軍ならいざしらず、相手は「ドイツ系のカトリックの教会」なのです。
当然、神父たちは武装などしていません。
武装していない人達を、剣と拳法を身につけた人達が大勢で襲撃すれば、そりゃあ勝てます。
非武装のドイツ人を袋叩きにして撲殺しただけなのに、その話にいつの間にか尾ヒレがついて、ドイツ軍の銃弾さえも通さない肉体となり、さらにドイツ軍がとれて「鉄砲玉も通さない神の拳」と、尾ヒレに派ヒレがついて、ついには義和神拳となっていったわけです。
このあたりの話の膨らみ方は、まさにChina的です。

しかもこの武闘集団、襲撃対象をキリスト教関連施設にだけ限定していました。
Chinaの軍閥は、集団を維持するために周辺住民から収奪を行い、必要に応じて周辺住民を捕まえて食べるのですが、この剣術と拳法の集団は、そんな襲撃対象を、外来宗教のカトリックに限定したわけです。
そのため彼等は「義に厚い平和の拳法」という意味で、「義和団」と自称するようになります。

「義」とは、日本人にとってはものごとの道理を意味しますが、Chinaにおいては戦いに我が身を捧げるのが「義」です。
ですから、非武装・無抵抗のカトリック教徒を、剣術や拳法の武芸者が襲撃して金品を奪い、教会に火を付け、神父らを食べることが、彼らにとっての「義」であり「和」となります。
このあたりの言語感覚の違いも、私達日本人はちゃんとわきまえる必要があります。
「ねずさん、ちょっとひどく書きすぎじゃないの?」と言われそうですが、事実なのだから仕方ありません。

こうして「義和拳」とか「義和神拳」と呼ばれるようになった彼等は、山東省内で巨大化していきます。
巨大化すれば、当然弾圧があります。
義和団は、明治32(1899)年に、北洋軍閥の袁世凱によって弾圧され、山東省から蹴散らされるのです。
つまり本物の銃を持ったChinaの軍閥によって蹴散らされたわけです。
銃弾さえも跳ね返す肉体だったはずですが、弾が当たると痛かったのでしょうか。

そんなわけで義和拳は山東省から追い出されるのですが、これによって逆に義和拳の一団は、勢力を拡大しています。
ここがまたChina的です。
要するに義和神拳の噂が独り歩きしていたために、河北や天津、北京方面で次々と入団者ができ、またたく間に彼等は20万の大勢力になるわけです。

もちろんそうなると、全員が義和神拳をマスターしているわけではありませんし、各地で様々な拳法道場や剣術道場などを仲間に引き込んでいましたから、もはや義和拳とばかりはいえなくなり、そこで変えた名前が「義和団」でした。

要するに義和団は、もともと神拳を名乗る武術流派であり、それが山東省内のドイツの圧政に立ち上がって非武装無抵抗のカトリック教会を襲い、そこに山東省内の様々な武術流派が合流して義和神拳となり、それが山東省で弾圧されて、周辺地域に逃げ出したことによって、China国内の不平分子を統合して、さらに一層、巨大な組織となっていったというわけです。
このあたりのChineseの行動様式というのは、たいへん興味深いものです。

さて、明治33(1900)年6月10日に、20万の大軍で北京入場を果たした義和団は、清王朝の西太后にたいへんに気に入られます。
西太后は、この頃、清王朝内の自分の政治権力基盤を強化することを画策していましたから、義和団の20万の正規軍(Chinaでは、軍と暴徒とヤクザは同じものです)は、たいへんにたのもしい存在にみえたわけです。

一方で義和団からしてみれば、北京の王城入りは必然でした。
なにせ20万の大軍なのです。
仕事もしない愚連隊です。
でも食べていかなければならない。
食料の調達には費用がかかりますから、普通、Chinaでは周辺の住民からタダで食べ物を奪います。
ようするに集団強盗をするわけです。
必要に応じて、住民も食べます。

ところが彼らは仮にも「義和」を名乗っているわけです。
そうなると、あまり悪辣な真似もできないし、しにくい。
だから、むしろ積極的に清朝政府に取り込まれることで庇護を受けようとしたわけです。

一方で清朝内部は、西太后一派がやや強いといえ、内部は対立と抗争のメッカです。
軍を謹呈しますといえば、必ず乗ってくる。
案の定、西太后は新たに生まれた20万の軍勢(ここで暴徒が軍に早変わりしています)に狂喜するわけです。

義和団は、彼等の暴行を制止しようとした日本公使館の杉山彬書記生を路上で殺害し、同月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーを殺害します。
そして西太后から清王朝の10万の正規兵を借り受け、北京市内にあった外国人公使館区域にいる約4000人の外国人、およびChineseキリスト教徒たちを、いっきに殲滅・殺害しようとしたのです。

このとき北京の外国人公使区域(外国人疎開)にいたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインと、日本の合計11カ国の公使とその家族と随員、それと教会に付属していたChineseキリスト教徒たち、合わせて4000人です。
このうち、まともに戦える兵士は、11カ国全部合わせても、わずか400人しかいません。
そのわずか400人が、義和団20万、清王朝の正規軍10万、合わせて30万の大軍を前に、なんと100日間の籠城戦を闘いぬいたのが、義和団事件です。

この戦いの中、ある英国人の義勇兵が、とても人間業とは思えない光景を見たと、P・フレミングの「北京籠城」に書いてあります。

*****
隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。
真赤な血が飛び散った。
しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。
『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた。
(中略)
戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。
彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。
しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
(中略)
長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。
中には発狂寸前の人もいた。
だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった。
*****

続けて英国人B・シンプソンの日記です。

*****
数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。
その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。
しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。
公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。
(中略)
この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。
ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。
******

柴五郎中佐
柴五郎中佐


英国公使館の正面の壁に穴があけられて、そこから数百の清国兵が乱入したときのことです。
当時、北京市内で最も広壮だった英国公使館には、各国の婦女子や負傷者が収容されていました。
このとき柴五郎中佐は、安藤大尉以下8名を救援に向かわせています。

現場に到着した安藤大尉は軍刀を抜くと清国兵に斬りかかり、目に見えないほどの速さでたちまち数名を斬り伏せました。
清國兵が手にしているのは主に青竜刀です。
ご存知の通り青龍刀は、太くて厚みがあって、大きく湾曲しています。
ですから青竜刀で打ち掛かられたものを剣で受けても、青龍刀はすべるように剣を押しのけて相手を斬り倒します。
ある意味、戦場に特化した強力な剣なのです。

ところが会津流の剣術の達人であった安藤大尉は、敵の打ち込みを毛筋一つで交わします。
そして眼に見えないほどの速さで、一瞬にして敵兵数名を斬り倒したわけです。

そしてこれに呼応してつづく日本兵が銃剣で次々に敵兵を突き刺しました。
すると清國兵たちは浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出しました。
安藤大尉らの奮戦は、英国公使館に避難していた人々の目の前で行われました。
このため日本兵の勇敢さは讃歎の的になりました。

後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中で次のように記しています。

******
戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。
日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。
******

6月27日に清国兵による一斉攻撃があったときは、午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入しています。
このときも柴中佐は、敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をして、敵を蹴散らしました。
敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていきました。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞したといいます。

英国公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記しています。

******
王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。
王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・
日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。
日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
わがイギリス水兵がこれにつづく。
しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
******

8月13日になって、やっと救援の連合軍が北京にたどりつきました。
総勢1万6千の約半数が日本から駆けつけた第5師団でした。
その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などの混成軍です。

籠城していた各国の兵士たちは、このとき、ほとんど弾薬も尽きた状態でした。

14日、西太后らが北京を脱出し、西安に向けて逃げ出しました。
義和団も散り散りになって逃げて行きました。
北京を占領した連合軍に対し、柴中佐は日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許しませんでした。
その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となりました。

そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶たず、町は日に日に繁昌しました。
日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らは、容赦なく捕えて厳罰に処しました。
また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵だったそうです)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出しました。

このため事件後も、北京に住む中国人の一般市民は、日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきました。
施政者が何を言おうが、学者モドキがいかなるウソを並べようが、民衆は、自分たちの本当の庇護者は誰なのかよく知っているのです。

そしてこの北京籠城戦で総指揮官を務めた英国公使のマグドナルドが駐日大使に転じたとき、日英同盟の締結を強力に押し進めてくれました。
それは、柴中佐と日本の将兵の見せた奮戦ぶりから、「日本こそが大英帝国が頼みにするに足る国と確信したからであった」といわれています。

そもそも英国は、「栄光ある孤立」といって、どこの国とも同盟関係をもたなかった国ですし、しかも七つの海を制するとまでいわれた、世界の最強国です。
その世界最強国が、世界ではじめて対等なパートナーとして選んだのが、有色人種の国、日本だったのです。
明治白人至上主義の世界にあって、有色人種である日本が、世界最強の覇者である大英帝国と対等な同盟関係を結んだという事実は、これは、当時の世界にあって、まさに「ありえないこと」だったのです。

そしてそのきっかけを作ったのは、まぎれもなく、義和団事件で八面六臂の大活躍をみせた柴五郎中佐や安藤大尉以下の日本軍の奮戦でした。

ちなみに、事件後に日本の救援軍を指揮した福島少将は、清国政府の国益を守るために奮闘しています。
清国皇族で実力者の慶親王に「一刻も早く北京に戻り、列国と交渉を始めなければ、清国はその存立が危ない」と使者を送ったのも福島少将です。

実際、北京攻略戦には一兵も参加しなかったドイツは、事件後に続々と大兵を送り込んで、北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しはじめていました。
また混乱に乗じて全満州を制圧したロシアは、中国を丸ごと手中にしようと、慶親王の誘拐を計画していました。
これには英国公使のマクドナルドがいちはやく情報をキャッチして、柴中佐らと協力して、慶親王の安全を確保してことなきを得ています。

また事件後の清国への賠償請求では、最大の賠償金を吹っかけたのがロシアでした。
一番少なかったのが日本の5000万円です。
英国は日本の5倍で2億5000万円、
義和団鎮圧後にやってきたドイツは英国の2倍の5億円、
わずかな兵を出しただけのフランスも、日本の2倍(出兵数比で日本の100倍)を要求しています。
まさに「世界は腹黒い」のです。
 
さて、そんな義和団を、昨今のChinaでは勇敢な戦士と称えているのだそうです。
何を信奉しようが、それぞれの国の勝手ですけれど、とにかく排外のためなら「何をやっても良い」というのは、近時のChinaの「愛国無罪」と同じ延長線上にある考え方で、極めてよろしくないことです。

なぜならそれは、「目的のためなら手段は選ばないということが正当化される」ということだからです。
目的のためなら、どんなに非人道的なことが行われても、すべては無罪であるという思考は、共産主義と、今も昔も変わらぬChinaのお家芸ですが、それが結果として何をもたらすのかといえば、どこまでも暴力の連鎖です。

そんなこともわからない国のトップが、愛妾を連れて米国大統領を公式訪問。
これまたありえないことです。
なぜならそれは、マフィアのボスの面会要求と同じだからです。

北京の55日
北京の55日


上の写真は、チャールトン・ヘストン主演の『北京の55日』というハリウッド映画のDVDのジャケットです。
この映画は昭和38(1963)年に製作・公開されたもので、出演がチャールトン・ヘストンに、『陽はまた昇る』で有名な美人女優のエヴァ・ガードナーです。
大資本家サミュエル・ブロンストンが1960年代に続けに製作したスペクタクル大作映画のひとつで、ブロンストンは他に『ローマ帝国の滅亡』や『エル・シド』、『キング・オブ・キングス』などを手がけています。

なかでもこの北京の55日は、(明治33(1900)年)に実際に起きた「義和団事件」を題材にしていて、押し寄せる20万のChinese暴徒と、それに対抗した、たった400人の勇気ある八カ国連合の兵士たちの姿が活き活きと描かれた対策になっています。

映画は、愛する女性を護るため、理不尽な暴力に果敢に立ち向かった勇気あるアメリカ軍人の物語・・・となっているのですが、実は主演のチャールトン・ヘストンの活躍は、実はそのまま日本人、柴五郎中佐の活躍です。




参考:国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h14/jog222.html

■この記事は2009年9月のリニューアルです。

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コメント

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No title
映画『北京の55日』では、若い頃の伊丹十三が柴五郎役を演じてましたね。
当時はまだ日本軍や日本人に対する偏見からか?な演出も有り、義和団の「京都」の筵旗には大笑いしました。w
その柴五郎ですが、会津の出身で斗南藩では辛酸を舐めたひとりですね。
安藤大尉も会津とは失念しておりました。
戊辰戦争の遺恨も残りますが、日本軍の師団は、攻めの九州兵、守りの奥州兵が強兵で有名だったと聞いたことがあります。
西南戦争でも活躍した警視庁抜刀隊の元会津兵も強かったことでしょう。
そういえば、板東俘虜収容所長の松江豊寿中佐も会津出身でした。
敗軍の惨めさを聞かされて育ったからか、収容所では捕虜を人道的的に扱ったことで有名ですね。
こちらも映画化され『バルトの楽園』が公開されましたね。

キョウリュウジャー

小学生の時にまんが日本の歴史を読んで義和団が英雄のように書かれてたのは今でも覚えています。
このブログを読んで実はただの暴力団だと知って驚きました。
今でも書店にはまんが日本の歴史が並んでますが今でも義和団は英雄のように書かれてるのかもしれませんね。

-

No title
だいたい予想通り、ですね。日本は関与を生じさせずやり過ごしたいものです。ただ任那に関しては注意が必要です。古来よりの陛下の土地であるなら、尖閣、竹島同様取り戻さねばなりません。その意味で満州や大陸とは異なります。確か先帝陛下の勅語で「昔に失われた領土が戻ってきて嬉しい」という内容のものがあったような気がするのですが見つけられません。私の勘違いなのかずっと気になっております

junn

No title
日中共同声明に調印(9/29)


日中共同声明に調印、日本と中華人民共和国の国交が成立<日中国交>

(1972年=昭和47年)



『「日中共同声明」と「上海コミュニケ」の破棄を』


中共とロシアは、満州〔ママ〕とモンゴルの部分を除けば、地政学的にも対立をしなければならない要素が皆無である。この両国が一九四九年から一九五九年の十年間のあのようなハネムーン的な同盟関係になるとは思えないが、中露は本質的に「戦略的パートナーシップ」という言葉がぴったりの連携関係をこれからも末長く安定的に維持しつづけるだろう。つまり、これからの日本の対中・対露外交とは、この中露関係にいかに楔をうち込み、いかに“中露離間”を図るか、がその根幹になるということである。『孫子』は「親而離之(親にしてこれを離す)」という表現で、“離間”を重視しそれを兵法十二ヶ条の一つとしている。そして我々は、日本が中露双方を同時に仮想敵国(潜在脅威)と見なして敵視政策をとるときに中露は相互にきしみだすことをすでに歴史から充分に学んでいる。



このためには、日米ともに、キッシンジャー外交の「負の遺産」の呪縛からまず自由になることである。それは一九七一年七月のキッシンジャーの北京入りそのものを全否定することなしにはありえない以上、中共との国交はあってもなくともかなわないが、米国はニクソン大統領の「上海コミュニケ」(一九七二年二月)を破棄し、日本も田中角栄首相の「日中共同声明」(一九七二年九月)を破棄することである。これによって日本では、後者の第三項「台湾が中共の領土の不可分の一部であることを日本が尊重する」に束縛されずに済み、日本は現実と国益に沿った真に賢明な東アジア外交の主体を回復できる。日本に対する核戦争計画を着実に整備し遂行している敵性国家との間に、未来永劫にわたって友好関係が存在しうる余地はなく、日本は“世界の中の日本”として国際社会の秩序と自由への責任を果すべきであろう。


中川八洋『中国の核戦争計画』

 



ミュンヘン協定(9/29)


ミュンヘン会談の結果、イギリス・フランスがナチス・ドイツのズデーテン地方併合を容認。<ミュンヘン協定>

(1938年=昭和13年)



『対ヒットラー宥和が招いた世界大戦』




チェコスロバキアは、オーストリアがナチス・ドイツに併合された時点で、二つのことを再認識すべきだった。第一は、その西半分のいわゆるチェコ域(ボヘミア地方/モラビア地方)がドイツに包囲されたこと。第二は、この包囲があっても、“天然の大要塞”ズデーテン山系によって、チェコにはドイツの最新鋭の戦車軍団など第一線部隊ですら突入できず、チェコは単独でも、確実にドイツ軍を敗退に追い込める完璧な防衛戦争ができること。


しかし、チェコは、この「location(位置)の不利を補って余りある絶対有利のtopography(地形)」を認識できなかった。不幸は続くもので、チェコの不幸は、もう一つ到来した。話し合いで戦争を回避できると考えるチェンバレンという無能な英国首相が、ヒットラーとの頂上会談で、何でもかんでもヒットラーの言うがままに了解したのである(一九三八年九月末)。ルーズベルト米国大統領のヤルタ会談における「対スターリン宥和」と並び(一九四五年二月)、「対ヒットラー宥和(アピーズメント)」という、世界史に悪名を遺した最愚劣な外交だった。


この英独仏伊のミュンヘン協定の会談に、チェコは呼ばれていないから、この協定は、国際法上、チェコを拘束しないし、チェコは拒絶声明を出すだけで、万事が済んだのである。だがチェコ政府は、もともとチェコ民族が、自立心より依存心の強い、おとなしい民族的特性もこれあって、仰天の余り心理的にパニック情況に陥り、単独で戦う最良の選択肢を忘失した。


軍事バランスを精密に算定することは、主権国家におけるインテリジェンスの最優先事項である。だが、チェコは軍事バランスの計算に、(今日の日本のように)余りに無関心すぎた。また、自己を卑下しすぎるのは、自己を慢心するのと同じく、自滅への序曲で命取りになる。日本の現在の自衛隊は、マスコミ論壇そして防衛省や政治家が悪いのだが、驚くほど貧弱で小国の軽武装である自分の武器体系をさも一定の軍事力かのような自己慢心に酔っている。当時のチェコは、今日の日本とは逆に、極端な自己卑下をしていた。

それはともかくミュンヘン協定は、(1)その半年後に、ポーランドを南側から包囲する包囲網を完成させたばかりか(チェコ解体、一九三九年三月)、(2)チェコという、当時ヨーロッパで突出した兵器工業国家をドイツに渡すことになった。チェコのスコダ工場の年間兵器生産量だけでも、英国すべてのそれとほぼ同じだった。そればかりか、ドイツは、チェコの正規軍二十一ヶ師団と新規動員の十五、六ヶ師団も手にしたのである。また、ズデーテン地方の三百五十万人の人口も手に入れた。これは合邦によるオーストリア人七百五十万にさらに上乗せした分だから、計一千百万人のマンパワーの増強をナチス・ドイツは労せず達成したことになる。


マンパワーこそは、国家の国力の源泉であり、それは侵略の力となるし、防衛の力ともなる。マッキンダーが、地政学として、地理と同列に、マンパワー(人口力)を強調してやまない理由はこれである。日本の出生率の大低下によるマンパワーの大激減は必ず日本を亡国に至らしめる。


中川八洋『地政学の論理』

-

更新ありがとうございます。
いやー、柴五郎中在は美男子ですね。
けれど美醜など関係なく面魂は大和人そのものです。この時代はこんな男性が多くおられたのでしょうね。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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