ちなみにジアスターゼと日本人の関係は古くて、日本書紀には神武天皇が戦勝を祈願して水飴を神様に奉納したという記述がありますが、その水飴は、デンプンにジアスターゼを混ぜて分解してつくります。
つまり日本では、ジアスターゼは、とっても古くから使われていたものです。
高峰譲吉

さて、高峰譲吉は、嘉永7(1854)年に、富山県高岡市で、加賀藩の漢方典医、高峰精一の長男として生まれています。
幼い頃から外国語や科学に才能を見せた譲吉は、加賀藩の藩校である明倫堂に8歳で入学しました。
世が幕末を迎えた慶應元(1865)年、譲吉は、よほど頭が良かったのでしょう、若干12歳で、藩費で長崎に留学し、英語を学ばせてもらっています。
明治元(1868)年には、京都の兵学塾、大阪の緒方塾で学び、明治2(1869)年には、わずか16歳で大阪医学校に入学し、その後、後に東京大学工学部となる工部大学校の応用化学科を、首席で卒業しました。
明治13(1880)年、譲吉は、英国グラスゴー大学への3年間留学しました。
英国で彼が興味を持ったのは、スコッチ・ウイスキーの製法です。
ウイスキーは、大麦のモヤシにあたる麦芽酵素でデンプンを分解させて糖化させます。
できあがったモルトを蒸留すると、ウイスキーになります。
デンプンの分解なら、大麦の麦芽酵素より、日本酒に使う麹(こうじ)を使用したほうが効率的です。
麦芽酵素より、日本で使われる麹(こうじ)の方が、でんぷんの分解力が強いからです。
つまり、麹(こうじ)を使うことで、ウイスキーが、早く、たくさん作れる、といわけです。
そこで彼は英国留学中に、「高峰式元麹改良法」を考案しています。
もともと譲吉の母親は、造り酒屋の娘さんで、譲吉は、幼い頃から日本酒造りを習得していたのです。
明治16(1883)年、譲吉は帰国して、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって、専売特許局局長代理になります。
官職を得た譲吉ですが、ただのお役人になっておとなしくしていることができない。
英国や米国のエネルギッシュな社会を見てきた譲吉は、日本の農業用肥料を改良し、農作物の収穫を飛躍的に高めようと考えます。
そして日本の土壌にあった肥料を探し、研究するとともに、それを製造して販売する会社を設立してしまう。
こうした研究開発や、技術指導は、お役所仕事よりも民間企業の方が展開が速いと考えたのです。
彼は、渋沢栄一から資金を提供してもらい、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立します。
ちなみに、こうした「官よりも民」という発想は、何も最近の現代人の専売特許ではありません。
そもそも明治政府の方針自体が、根本的に「民の生活をサポートする」という方針です。
もっというなら、明治16年頃の明治政府というは、お金もなくて、たとえば学制を敷いて小中学校をつくるに際しても、その資金は各地の民間頼みです。
さて譲吉は、明治17(1884)年には、米国人女性、キャロライン・ヒッチと婚約しています。
もともと語学が堪能であることに加えて、彼は自分で開発した農業用肥料を米国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に持ち込み、さらに日本代表の事務官の一員として万博に派遣されていたのです。
そしてその万博会場で、とキャロラインと出会っています。
明治19(1886)年、再び帰国した譲吉は、かねて米国で特許出願中だった「高峰式元麹改良法」を採用したいという連絡を、米国の酒造会社から受けます。
当時の日本では、まだウイスキーは一般に製造販売されるものにはなっていません。
自分の研究を続け、新開発のウイスキー製造法を普及するには、ふたたび渡米しなければならない。
それにアメリカには、婚約者のキャロラインもいます。
当時の東京人造肥料会社の大株主は渋沢栄一です。
渋沢栄一は、作ったばかりの会社で、まだ軌道にものっていないのに、いまの段階で会社を放りだして渡米するとは何事かと、譲吉をたしなめたけれど、譲吉にしてみれば、会社の事業の柱になるべき新醸造法の研究と普及のためには、渡米しなければならないわけです。
迷う譲吉に、三井物産社長の益田孝は「これからは日本だけを考えていてはだめだ。お国のためにも渡米せよ」と強く勧めてくれ、資金面の面倒も見てくれています。
このとき譲吉、36歳です。
明治23(1890)年、渡米した譲吉は、木造の研究所をこしらえて米麹(こうじ)を使ったウイスキー作りの研究をしました。
譲吉の読みは見事に当たり、米麹(こうじ)ウイスキーで、安く量産されたウイスキーは、全米を席巻します。
譲吉は、晴れてキャロラインとも結婚します。
ところが、米麹ウイスキーの普及拡大で困ってしまったのが、それまでいたモルト職人たちです。
職を追われてしまったのです。
モルト工場に巨額の投資をしていた醸造所のオーナー達も、投資が水の泡になってしまう。
なぜ水の泡になったかというえば、「もとを正せばイエローモンキーのジャップが、みょうちきりんな製法をもちこんだせいだ、コイツだけは許せねえ!」ということになって、怒ったオーナーやモルト職人たちが、譲吉の殺害を企てます。
この時代、まだまだ人種差別が濃厚だった時代です。
白人以外は、どんなに叩いても血を流しても、痛みを感じる神経がないと、本気で信じられていた時代です。
黄色人種など、ペットの猿以下の動物でしかない。
まして黄色人種の命など、野良ネコの命ほどの重さもない。
もうひとつ重要なことは、世界では(これはいまもですが)
「報復のおそれのない相手に対しては、どんなひどい仕打ちをしても許される」というのが、いわば「常識」なのです。
弱い者いじめはするな。
喧嘩するなら正々堂々、自分より強いものと当たれ!
などというのは、日本人の価値観であって、世界は違うのです。
強ければ、武器があれば、何をしても許されるという「力の正義」が堂々とまかり通るのが、いまだに人類社会の情況です。
このことは、譲吉の時代の米国が、南北戦争が終わって間もない時代だったからということは理由になりません。
日本には原爆が落とされていますが、これは、その時点で日本にもはや反撃、すなわち日本からの報復のおそれがまったくないという状況だったから落とされています。
もし日本に原爆を落としたら、ニューヨークかロスに、報復のための原爆が投下されるという危険が万分の一でもあったら、日本に原爆は投下されていません。
もうひとつ、米国人のマインドという面において付け加えるならば、今のアメリカは訴訟社会です。
けれどそれは、西部劇のガンマンの持つ銃が、法に変わっただけのことです。
銃は相手のすべてを奪うけれど、法を盾にして相手のすべてを奪うのが訴訟社会です。
和を大切にし、三方一両得を説く日本とは、根本的な考え方が違うところがあります。
ただ最近は、日本的な価値観が、日本以上に米国内(というより世界に広がり)、それがディズニー・アニメの『インサイド・ヘッド』のような対等感になっています。
さて、モルト工場の投資家やオーナーやモルト職人たちは、夜間に譲吉とキャロラインが住む家に、銃で武装して侵入し、家じゅう探し回って、譲吉を殺害しようとしました。
譲吉夫婦は、あやうく地下室に隠れて難を逃れるのだけれど、腹を立てた醸造所のオーナーたちは、腹いせに、譲吉の家や研究施設に火を放って、家を全焼させてしまいます。
生き残った譲吉は、オーナーやモルト職人たちと話し合いの場を設けています。
そして新しい醸造工場に、モルト職人を従来より「高い賃金」で雇うことで和解しています。
新しい醸造工場は、米麹ではなく、モルトを使った工場です。
要するに、譲吉の考案した米麹ウイスキーは、東西の文化摩擦によって挫折したのです。
譲吉は失意のうちに、重い肝炎にかかり、以後、長く闘病生活を米国で送っています。
しかし、そこでくじけないのが明治の日本人魂です。
譲吉は、麹の研究を通じて、明治27(1894)年、デンプンを分解する酵素であるジアスターゼを植物から抽出することに成功します。
このジアスターゼに、譲吉は「タカ・ジアスターゼ」と名付け、デトロイトの医薬品会社パーク・デイビスから、これを消化薬として発売しました。
譲吉が住んだシカゴは、当時米国内で有数の肉製品の産地です。
大量の肉を食べて、消化不良を起こす人も多かったのです。
譲吉の発明した「タカ・ジアスターゼ」は、またたくまに全世界に普及し、製品は大ヒットします。
このとき、譲吉は、販売権の付与にあたって、日本だけをバーク・デイビス社から外させています。
譲吉の日本に対する思いが、こんなところに出ています。
明治32(1899)年、譲吉は、日本で「タカヂアスターゼ」を販売するために、三共商店(現三共)を設立しました。
さらに譲吉は、シカゴに多数ある食肉処理場から廃棄される家畜の内臓から、明治33(1900)年に、アドレナリンの抽出に成功します。
これは、世界ではじめてのホルモン抽出事例です。
翌年、譲吉は、アドレナリンの特許を取得しました。
アドレナリンは、止血剤として、あらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献する。
ジアスターゼの発見、アドレナリンの発見によって、譲吉は巨額の特許収入を得るようになります。
明治43(1910)年には、2年がかりで、ニューヨークのマンハッタンのリバーサイドに、純日本風の大邸宅を建築する。
またニューヨーク州メリーワルドには、敷地面積245万坪の別邸を建築し、そこには、明治37(1904)年に、セントルイス万博で使われた日本館を移築しただけでなく、庭には湖や滝までこしらえています。
譲吉はこの大邸宅で、華麗なる民間外交を展開し、日露戦争における日本の米国からの戦費調達などにも貢献しています。
また、日本にある三共商店は、大正2(1913)年に、三共株式会社(現在の第一三共株式会社)に改組し、譲吉が初代社長に就任しています。
そして大正11(1922)年、譲吉は68歳でこの世を去りました。
問題は、このあとに起こります。
譲吉よりも先にアドレナリンの生成に成功したと発表していたジョンズ・ホプキンズ大学のJ.J.エイベル博士が、譲吉の死後、昭和2(1927)年になって、「高峰譲吉の成果は、自分の手法を盗んだ」と主張したのです。
裁判が行われたわけでも、証拠の検証が行われたわけでもなく、大金持ちの大資産家である譲吉の家族から、すべてを奪い去ろうとしたのです。
そもそもイエローが大富豪となっていること自体が気に入らないのです。
そういう社会風潮があって、米国医学会は、エイベル博士の言い分を全面的に認めてしまいます。
そして以降、米国内では「アドレナリン」という名称は廃止され、エイベル博士が名付けた「エピネフリン」という名称が用いられるようになります。
要するにジャップの業績は抹殺しようということです。
ところが、真実というものは、時間はかかっても、かならず明らかになるものです。
昭和40年代になって、譲吉の研究助手だった上中啓三の実験ノートから、エイベルの主張がまったく的外れであっただけでなく、エイベルの方法(ベンゾイル化法)ではアドレナリンが結晶化しないことが判明します。
譲吉の盗作疑惑は、まったくの濡れ衣だったことが明らかになったのです。
そしてこの事実は、アドレナリン発見後100年を記念して米内分泌学会が平成13(2001)年になって、アドレナリン発見百年のシンポジウムで報告され、譲吉は晴れて名誉を回復し、米国内でも「アドレナリン」の名称が再び使用されるようになりました。
エイベル博士が異を唱えたのが昭和2(1927)年です。
それが間違いとわかり、譲吉が名誉を挽回したのが平成13(2001)年です。
アドレナリンの名称が米国内で復活したのが、平成14(2002)年です。
そこまでになんと75年の歳月が流れています。
世代交代というものは、25年をひとサイクルにしているといわれています。
25年で、ひとつの世代が終わり、50年で2世代、75年で3世代が交代します。
ひとつの名誉が、政治的圧力等で穢されたとき、世の中が冷静さを取り戻して真実の姿が明らかになるのには、三代かかるということです。
日本が戦争に敗れて、今年で70年目です。
75年目というと、平成32(2020)年です。
日本が大きく変わる。
その節目がやってきているように思います。
※この記事は2011年1月の記事のリニューアルです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
■ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
http://goo.gl/WicWUi</u>">
http://goo.gl/WicWUi■「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。 http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782■ねずさんのひとりごとメールマガジン。初月無料 http://www.mag2.com/m/0001335031.html</u>">
http://www.mag2.com/m/0001335031.html『さくら、さくら ~サムライ化学者 高峰譲吉の生涯~』予告編
【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

コメント
中川由紀恵
2015/12/12 URL 編集
くすのきのこ
欧州では、アドレナリンという英名をずっと採用していたようですよ。
日本の医学書でもアドレナリン記載です。アメリカが異だっただけのようで
すね。現在は医学論文も英語が主流ですが、明治時代はドイツ語文献が主流
の時期ですし、アメリカは、WW2中と戦後の亡命ドイツ人研究家達により、
各科学分野が急新した国。言うなれば、いまだにカネに物を言わせてる国で
すwwカネによって優秀な研究者を移民で引き寄せる。既存権益集団の損に
なる研究は潰す。アメリカ人で少し研究分野に入った者なら、だ~れでも知っ
ている事。(日本人はあんま~り認識してないと思うな・・)
ノーベル賞の科学分野だって、既得権益集団・・まあ大多数がユダヤ系の白
人集団・・の利益になった・・あるいは儲けを呼び込む研究に授与されるわ
けです。ですから、交流発電機を世界で初めて発明したニコラ・テスラは潰
され、直流のエジソンが体制した。でもね・・交流電流こそが、世界中の人々
の暮らしを豊かにし続けているんです。テスラは、エジソンの直流電流はエ
リート・・つまり金持ちだけのものだと言っています。彼は、交流電流を労
働者の助けにと思っていた・・みんなが電気の恩恵を受けるのが当然と思っ
て研究していた。彼の名はあまり残っていないけれども、磁束密度の単位に
テスラが使われています。エジソンの蓄音機もいいが、テスラの蛍光灯の方
が庶民のお役立ちアイテム。エジソンと同世代ですが、日本での知名度が低
いのには・・意図を感じますね。明治時代のアメリカは、今ほど幅をきかせ
ていたわけではありません。その頃から、日本を評価し警戒していたものと
推測しています。江戸時代からオランダと交易しており、オランダのユダヤ
商人達からアメリカの同胞達への情報が伝わっていたはずだから。そうでな
くては、日露戦争でヤコブ・シフがカネを貸してくれたかな?ふっる~い話
ですが、オランダは、家光の時代に幕府にマカオ攻略の為に日本兵を出して
くれ~と依頼したりしちゃってるわけで・・その背景には、日本の農兵がむ
ちゃ強かった~人身売買されてとか、傭兵で海外で戦っていたわけですが・・
家光さん断りましたし、人身売買止めさせました・・歴史は繰り返す・・日
本というのは、ユダヤにとってそ~ゆう国です・・でなければ小国日本を大
国ロシア帝国にぶっつけるような・・博打にカネは出さないかもww・・ロ
シア帝国は、エカテリーナ2世の時代にポーランド併合して多数のユダヤ民
を抱えてしまう羽目になり、ユダヤを圧迫した・・だから一殴りしたかった
ようですよww明治政府はそれに載ったし、うまく利用して白人世界に一矢
報いた形になりました。アメリカというのは現在もそうですが、金持ち達に
よって転がされる国で、大衆をコントロールするのに、宗教とか肌の色とか
で理由づけしているわけです。宗教や人種が違えば警戒心が湧くのは当然で
すから。本質は、カネ儲けの邪魔かどうかだと思いますよ~wアメリカはカ
ネさえあれば、いい国かもしれませんね~・・そろそろ変化が起きるかもし
れませんけど・・金持ちだけが集う自治都市が出来始めていますが、これに
は当然反動が予想されるからです・・カネがあってもアブナイ国に?
高峰氏の発想が温故知新である事も面白いですね。酒の発酵や、大根のジア
スターゼとか。もし現代に生きておられれば、バイオエネルギー関係で活躍
されたかもしれませんね。
アドレナリン(英語)もエピネフリン(ギリシャ語)もスプラレニン(ラテ
ン語)も同じく副腎という意味だそうです。アドレナリンは副腎髄質ホルモ
ンですから。当時の研究者達の競争の熱が感じられるような・・ww
狭い世界ほど難しいかもしれませんね。
2015/11/29 URL 編集
junn
ねずさんは取り上げていらっしゃいますよ。
>ありがとうございます。
2015/11/29 URL 編集
日本みつばち
横から失礼しますが、
鈴木梅太郎氏については、2012年2月28日のブログで
ねずさんは取り上げていらっしゃいますよ。
2015/11/28 URL 編集
にっぽんじん
韓国人の「呉善花」氏と産経新聞の英訳本が世界の政治家や著名人に寄贈され、波紋を投げかけています。そのことに対して歴史修正者として反論もあるようですが間違いなく大きな影響を与えると思います。
何故か韓国を含め、日本のマスコミが騒ぎません。怖くて騒げないのかも知れません。これからも英語版の「歴史の真実」を拡散願います。
ベトナム戦争 韓国軍によるベトナム人女性暴行の証言 ライダイハン問題 (英語版)
https://youtu.be/AbL_BKLVhJo
南京陥落後に撮影された風景
http://www.history.gr.jp/nanking/fukei.html
2015/11/28 URL 編集
hiyo
2015/11/28 URL 編集
junn
2015/11/28 URL 編集