国を失うことのもたらす現実 通化事件



20160909 吉林省通化市
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「国なんて、あってもなくても同じなんだよ」とか、「国防だとか安全保障だとか日本が軍事力を持つから戦争になるんだよ」などと、本気なのか冗談なのか知りませんが、平然と発言する人がいます。
現実に北朝鮮が、核弾頭の実験に成功したという報道があっても、「戦争はんた〜い」です。

核弾頭を開発し、日本海に向けてミサイルの発射実験を繰り返している国が現実にあっても、あくまでも戦争を起こすのは日本の与党政治家であって、他国が日本に攻めてくるなど、あたかも絶対にないといいたげです。
では、元寇はどう説明するのでしょうか。
時代が違う?
それなら尖閣に現実に押し寄せている中共、現実に日本の領土である竹島を軍事占領している韓国、北方領土を奪ったままのロシアは、日本の領土領海への侵犯はしていないといえるのでしょうか。

そこで今回は、以前にもご紹介した記事ですけれど、通化事件を通じて、私たちが国を失ったときの現実を考えてみたいと思います。
国民の安全で安心で豊かな生活を護るのが、国家の役割です。
その国家という庇護がなくなったとき、民衆の身に、いったいどのような現実が振りかかるのか。
このことは、とっても大切な問題だと思います。

牡丹江は、ウラジオストクから約二百キロ内陸部にはいったところにある町で、
昭和二十年八月、そこにソ連が満州国国境を越えて攻め込んできました。
この方面に向けられたソ連軍の兵力は、航空部隊や戦車部隊を含めて50万もの大軍です。
メレンコフ元帥が直接率いたこのソ連部隊は、まさにソ連軍の主力部隊で、歩兵四師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲三千五百門、ロケット砲四百三十門、戦車約一千両、他に空挺部隊まで保有していました。

これを迎え撃ったのは、わずか三千六百名の、陸軍の予備士官学校の士官候補の学生たちでした。
予備士官学校というのは、士官になるための訓練校です。あくまで訓練校ですから実弾も乏しいし、そもそも銃さえ人数分ありません。
こうかくと意外に思われる方がおいでになるかもしれませんが、当時の日本は、南方戦線に大量の武器を移送しており、満蒙の地には、もちろん正規軍には、それなりの銃の支給はありましたが、とても予備士官候補の学生たちの分までは、銃がまわりきらなかったのです。

銃は3人で一丁の支給です。
それでも予備士官候補生たちは、圧倒的兵力のソ連軍に立ち向かいました。

彼らがソ連軍を迎撃するために会戦地に向かう途中、彼らはトラックの荷台に詰めれるだけ詰め込まれた満州北部の在留邦人の避難民たちと、何度もすれ違いました。
乗っていたのは女子供たちです。

彼女たちは、トラックの荷台の上から、
「お願いしま~す」
「頑張ってくださ~い」と、悲痛な声で叫んでくれたそうです。
そして祈るようなまなざしを向けてきました。

(絶対に彼女たちを無事に逃がさなければならない。)
士官学校の生徒たちは、決意を新たにしたそうです。


20160810 目からウロコの日本の歴史



けれど生徒たちには、戦うための武器がほとんどありません。
小銃では、ソ連製の鋼鉄の戦車の前で何の役にも立たないし、重機銃はあるにはあったけれど、まるで数が足りません。
そこで彼らがどのように戦かったかというと、ダイナマイトです。

当時の満州はまさに建国のまっただ中でしたから、発破作業に使う民生用のダイナマイトは、腐るほどあったのです。
そこで予備士官候補生たちは、小学生のランドセルくらいの雑脳袋(ざつのうぶくろ)にダイナマイトを詰め、袋から少しだけ導火線を出して、引火のためのマッチを各自三本だけ持ちました。
そして引火して、やってくるソ連軍の戦車に飛び込んだのです。

飛び出した予備士官候補生は、爆発音とともに、胴体から離れた首が、空高く舞い上がりました。
それが地上に落ちていく様子は、次の番を待つ候補生たちには、まるでスローモーションを観ているように感じたそうです。

こうして男たちが必死に戦っていた中で、では、逃げ落ちた女性たちはどのようになったのでしょうか。
彼女たちは、いまの吉林省にある通化市に向かいました。
そこには、満州北部から戦禍を逃れて避難した邦人達は集まっていました。
その数なんと一万七千人です。

その通化市にたどり着くまでも、実は想像を絶する困難がありました。
彼女たちは現地のChineseやKoreanたちによって暴行を受け、手回り品を奪われ、何人もの女性たちが途中で自害していました。
ようやく通化市にたどり着いた人達も、多くは麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿だったそうです。

その通化市に、ソ連軍がやってきたのが昭和20年8月24日のことです。
将校が20人、兵士二百人です。彼らは市内の竜泉ホテルに司令部を設置しました。
将校といえば、われわれのイメージでは、立派な軍人さんです。
けれど、それは日本をはじめ、限られたごく一部の国についていえることです。
すくなくとも、通化市にやってきた将校たちは違いました。

戦勝国を気取り、日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるって殺しました。

武装解除されたとはいえ、通化市にはごく少数ですが、日本軍の憲兵隊がいました。
原憲兵准尉は、ソ連兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付けました。
原憲兵准尉は女性を救おうとソ連兵を制止しました。
しかし銃を持っていず体の小さな日本人憲兵など、武装したソ連兵たちは、ただ笑い者にするだけです。
日本の法も、すでにこの世から消えてなくなった満州国の法も、人道も、彼らには通用しません。
彼らは、原准尉の制止を完全に無視して、強姦を続けました。
准尉はやむなく軍刀を抜くと、強姦兵たちを一刀のもとに斬り捨てました。
けれどその場で原准尉は、別のソ連兵に射殺されました。

事件後、日本人は憲兵といわず民間人といわず、日本刀を全部没収されました。
完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を性の道具として供出せよと命じました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いて金儲けしていただけの話です。
売春が合法だった時代です。
ですから日本兵はちゃんとお金を払って商売女性たちを買っていました。
当時、日本兵の給料が将校クラスで二十五円、兵隊クラスが十五円でしたが、そんな時代に朝鮮人売春婦たちは、二年もすると三~五万円の貯金ができたといいます。
いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。
ですから一家の女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びしていました。
しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしていました。
ついでにいうと当時の荒稼ぎの成功体験からなのでしょうか。
その国では、いまでも売春がさかんです。

世界の常識は日本の常識とは異なります。
戦いに勝てば、負けた側の財産や女を略奪し蹂躙し尽くす。
それが世界の常識です。
負けた側は、人ではないのです。
法の適用もありません。
すでに戸籍も崩壊しているのです。
つまり殺されても、どこからも苦情の来ない存在になります。

残念ながらそれが世界の常識です。
私たち日本人の感覚とはほど遠いものですが、ですから日本が朝鮮半島を侵略し、朝鮮人女性をセックス・スレイブ(性奴隷)にしたといわれると、世界の人たちは「なるほど」と簡単に納得します。
それが彼らにとっての常識だからです。

通化市で拠出を要求された日本人女性たちは、ですから当然、給料などありません。
まさにセックス・スレイブにされました。
そしてソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取って抵抗力を削いだだけでなく、日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオまで没収しました。
そうした没収や女性供出の下請けとなったのが中国共産党の兵士たちでした。
彼らは日本兵狩りと称して、民間人の若い男性たち六百人を検挙して吉林へと連行していきました。
つまり通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにしました。

ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、通化市の市役所職員を全員連行しました。
そしてその全員を殺害しました。
こうして彼らは通化市の行政機能を奪いました。
これが済むと、次は「清算運動」と称して、旧満州人たちの民家に片端から強制侵入し、金品を掠奪しました。

昭和二十一年九月二十二日には、中国共産党軍が、公式な国際的連合国軍の一員であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けました。
そして通化市から中華民国軍を追い払いました。
十月二十三日になると、中国共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきました。
十一月二日には、中国共産党軍の劉東元(りゅうとうげん)司令がやってきました。
そして同日付けで、中国共産党軍は、一万七千名の日本人遺留民に対して、収容能力がたった五千名の旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命じました。

移動した日本人遺留民に対し、中国共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部」の設立を命じました。これを略称で「日解連」と呼びます。
日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する中国共産党の下請け的な共産党組織です。

このことは大事なポイントなのですが、およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。
欧米列強が東南アジア諸国を支配するに際して、最貧層だった少数民族の華僑を利用したり、日本を占領したGHQが、在日朝鮮人を利用して武器を与え朝鮮進駐軍を名乗らせたのも、そうした分断工作のうちです。
満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、Chinaの共産主義を受け入れる者にある種の特権を与えることで、同民族内での意図的な分断工作が行われました。
それが日解連だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、China共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を、中国共産党軍に与えました。
日解連は、中国共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとしたのです。
日本人遺留民たちは、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けました。
日本人は国や行政を信頼する気持ちが強いからです。
すると中国共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求しました。

十一月十七日、中国共産党に応じないでいた元満鉄総裁の大村卓一さんが、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄されました。
この間も、中国共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。

十二月二十三日、日解連が主催する「通化日本人遺留民大会」が、通化劇場で開催されました。
劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっていました。
大会には劉東元司令を始めとする中国共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいしました。
そこに日本人遺留民の代表者たち三千人が出席しました。
議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めました。
彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言しました。

日解連幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われました。
「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く中国共産党に媚びた発言が次々となされました。
ところが日本人遺留民たちの発言の番になると、日本人遺留民たちは、堂々と日解連を非難しました。
そしてある者は明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げました。

山口嘉一郎という老人が立ち上がりました。
そして、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。
会場に、満座の拍手が沸き起こりました。
議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立しました。
そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われたのです。

万歳のあと、山口老人は、
「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育されてきたので、
 いきなり百八十度変えた生き方にはなれません。
 ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べました。
きわめて常識的な発言です。

大会は終わりました。
翌日から、大会で発言した者が、ひとりひとり中国共産党員によって連行されました。
一方通行でした。連れて行かれた者で、帰ってきた者は誰もいませんでした。

大会から一週間経過しました。
年が明け、昭和二十一年の元旦となりました。
その日、なぜか中国共産党の工作員であった内海薫が、殺害されました。
犯人はわかりません。

一月十日、中国共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら百四十名を、内海薫を殺害した容疑で連行しました。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させました。

一月二十一日、中国共産党は日本人四名を、市中引き回しの上、渾江(こんこう)の河原で公開処刑しました。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺しました。
銃でハチの巣にしたうえで、切り刻んだのです。
日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まりました。

そして起こったのが、昭和二十一年二月三日の「通化(つうか)事件」です。
この通化事件について、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時二十七歳)の手記があります。
まるごとご紹介します。

 *

中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。
その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年六月、通化にやってきた今利(いまり)中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。
この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、二月三日の未明を期して一斉に蜂起した。
それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(中国共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。
部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。
この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。
この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。
通化市内では、十六歳以上六十歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと命令された。
市内は恐怖のるつぼと化した。
八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。

この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。
とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。
「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。
 諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。
 わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。
みるみるうちに、ばたばたと倒れた。重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。
死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま五日間もの間立ったままにされた。
苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。
その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。
そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。
たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。これが毎日のように行われた。
なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。
凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。
抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。
殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされた。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となった。

拘束から五日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺された。
撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていた。
その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。
女性にも多数の処刑がされた。
渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がった。

男たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもあった。
事件後、三月十日になると、市内の百貨店で中国共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれた。
戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、二月五日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして三日間に渡り立たされた。
三月十五日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で三週間さらされた。
渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんだ。

 *

「通化事件なんて何十年も昔の話だろう」という人がいました。
けれど、天安門、ウイグル弾圧、チベット弾圧等々。いまも同様の弾圧や粛正は続いています。

この稿では満州国崩壊時の通化市の状況をご紹介しましたが、その満州の各大都市には、決まってロシア人街がありました。
いまでもその様子は大連市などで見ることができます。
満州国がまだあった頃、そのロシア人街には、多くの白系ロシア人が住んでいました。
白系ロシア人とは何者かというと、実は、旧ロシアの貴族たちだった人たちです。
ロシア革命後、国を追われたその貴族たちは、シベリアをさまよい、多くの人がそこで命を落としていました。
その白系ロシア人たちのために日本は、満州で彼らのために、彼らの様式の住居を日本のお金で築き、そこにロシア人たちに住んでもらったのです。
彼らの子女は、満鉄などの大企業に率先して就職してもらいました。
満鉄の本社に行くと、とびきりのロシア美女がたくさいて、びっくりしたという手記を書いている人もいます。

けれど戦争末期になり、そこにソ連軍が攻めて来て満州国はなくなりました。
日本人もたくさん殺されましたが、それでも日本という祖国があったからこそ、再び日本に帰って来れた人もたくさんいました。
けれど、そこに住んでいた白系ロシア人たちはどうなったのでしょう。
満洲に住むロシア人のもとに、ソ連兵がやってきたのです。
幸せになったのでしょうか。
とんでもない。
日本人よりも先に、彼ら彼女たちは皆殺しにされています。

国を失うということが、どれだけみじめでたいへんなことなのか。通化事件は私たちにはっきりと教えてくれます。
私たち日本人が、平和を愛し、家族を愛し、平穏な生活を求めるならば、国家の安全保障は、経済政策以前の問題として、しっかりとしておかなければならないことなのです。

明治維新以降、戦前の日本は、終戦までのわずか80年の間に、5回も大きな対外戦争をしています。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日華事変、第二次世界大戦です。
このなかで、国際協調として行った第一次世界大戦参戦以外の4つの戦争は、いずれも日本の国会が、軍事費よりも内政優先を唱えて、軍事費の大幅削減を図った後に起きています。
目先の年度予算から国防費をケチることで、結果として巨額の戦費を負担することとなり、しかも、都度、多くの国民の命が失われたのです。

歴史は学ぶためにあります。
そして個人にとっての美徳は、集団にとっての悪徳という言葉があります。
国家という巨大な集団にとっては、安全保障は実はなにより大切なことです。
これを忘れたり、二重国籍のスパイに撹乱されたりすると、結果として国民がお金だけでなく命までも失う取り返しのつかない損失を負うことになります。

お読みいただき、ありがとうございました。

20151208 倭塾・動画配信サービス2


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コメント

名無しマックス

戦争反対と言ってる人を大別してみた。
一方的に虐殺したい人「(抵抗されるの嫌なので)戦争反対!」
戦闘、争い自体が嫌な人「(互いに痛いの嫌だから)戦争反対!」
知ら無いけど聞こえだけ良いから合わせる人「(面倒くさいから)戦争反対!」
金もらって命令されてるだけの人「(何でもいいから)戦争反対!」

陸井夏樹

今日も道らすの一つ覚え!。
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-

◇◆RAND研究所シミュレーション◆◇
Foreign Policyの記者とRAND研究所のDavid Shlapakの
尖閣をめぐる交戦の議論の内容を、あたかも彼によるシ
ミュレーションのこの研究所の公式発表であるかのよう
に、この外交誌で報じられ、日本で騒然となりましたが、
これは漢族のプロパガンダの一環の疑いが浮上している
ようです。よって、この記事のように日本がこてんぱん
に敗北するのは、可能性が低そうです。ただし、最悪シ
ナリオとして想定に入れるべきです。

最悪シナリオ回避の最善策は、反安保法制デモで福岡か
ら来た学生の「酒を飲みあって説得する」という、お花
畑的なものではあり得ず、抑止力です。最も現実的なも
のは防衛同盟ですが、いざというときのための最重要必
要条件は、十分な自主防衛力の確保です。その際、最も
確実な抑止力は核です。したがって、核武装を選択肢か
ら排除すべきではなく、採用の可否は別にして、その議
論をすでに始めているべき状況にあります。議論の中で
は、国際社会を納得させる戦略の導出が重要です。

ポッポ

No title
終戦後のソ連軍及び中国共産党による通化事件は、ある意味で通州事件よりも酷い事件です。何故なら、この事件には日解連と言う日本人の組織が参加しているからです。

このことを考えますと、日解連に関係する日本共産党の危険性を今も否定することはできません。

もう一つは今更ながらです。日本の中では、中国共産党軍は日本人捕虜の人権に配慮したと信じている人がたくさんいます。
WIKIで日解連を見ますと、「1938年ごろから、中国共産党軍は徐々に日本人捕虜を処刑するだけではなく、工作員になるよう思想教育を行うようになった。」とありました。
これは、1938年頃までは中国共産党軍は、日本人捕虜をすべて処刑していたと言い換えても同じです。

ですから、通化事件において日本人をぎゃく殺し、女性をせいど隷としても気にしなかったし、これが中国では普通のことであったと思います。
その民族性は、今も変わっていません。
そのことは満州は消えましたが、チベットでも、東トルキスタンでも、南モンゴルでも同じことが続いているのです。
これが、この次に沖縄で起こるとしたら、ゾッとします。

-

北朝鮮核実験
いつもありがとうございます。
北朝鮮に核技術を提供しているのは
ロシア、プーチンだと想います。北方四島の交渉を有利に進めようとの魂胆がありありです。択捉島、国後島を返さずに実利だけを日本から頂こうという事です。だから北朝鮮にミサイル実験で日本海にミサイルを撃ちこませて日本を威嚇しているのです。 アメリカ国防省は分かっています。
安倍首相も分かっていると期待します。

junn

No title
●「日本の原発情報は世界にダダ漏れ」(EJ第4250号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/436118872.html

愛信

● 日本政府、パチンコのマルハン・韓昌祐会長に『紺綬褒章』を授与。
● 日本政府、パチンコのマルハン・韓昌祐会長に『紺綬褒章』を授与。

https://twitter.com/aixin_jp/status/773392327100473344

北朝鮮のミサイル開発資金源の
パチンコ業界マルハンの会長に
社会に大いなる貢献をした事を称える勲章を与える。

 安倍晋三総理の日本国民を愚弄する行為である、アホな日本人には判らないと考えている。
パチンコは景品を換金する行為が法律に違反して為に犯罪と看做されている。
 パチンコ依存症は社会的な問題を引き起こす為に現在、南朝鮮(現韓国)でさえも違法賭博として禁止されている

【関連情報】
http://aixin.jp/lbaxjh/chapter38.htm

詳細は
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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