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独りの人間の生涯など、長生きしてもたかが100年前後です。
ところが我が国の神話や文化の伝承は、少なく見積もっても二万年以上続いてきたものなのです。
世代数にしてみたら、およそ千世代です。
父から子へ、子から孫へという伝承が、千世代続いてきた、そのエッセンスなのです。
当然、長い歳月の経過の中で、不要なものは捨てられます。
そして、大切なものだけが生き残る。
そして生き残ったエッセンスは、一見すると単純そうで、実は奥深い。菜畑遺跡 竪穴式住居ジオラマ
このジオラマに、なんとなく懐かしさを覚えたりしませんか?

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)子供にもわかるやさしさと同時に、底知れない深みを持つのが日本文化の特徴です。
たとえば剣術の棒振りだけなら、三歳児にもできます。
しかし剣術を極めようとすれば、一生かかっても果たして達することができるかどうかです。
茶道も、お茶を飲むだけなら乳離れした幼児だってすることです。
しかし茶の道を極めようとすれば、一生かかっても果たして会得できるかどうか。
お能の面の持つ美しさは小学生だってわかることです。
しかしお能を極めようとすれば、八十代九十代になっても難しい。
和歌も、ただ五七五七七で文を書くというだけなら子供にもできます。
しかし和歌の道を極めようとすれば、計り知れない遠い道のりが広がります。
このように子供にも理解できるけれど、大人にとっても、とてつもなく深いというのが、実はあらゆる日本文化に共通している事柄です。
古事記も同じです。
古事記を子供向けに話そうと思えば、それは紙芝居になります。
アンデルセンやグリム童話と同じ童話仕立てにもなるし、イソップ物語のような教訓混じりの寓話にもなります。
しかし古事記は、そもそもが国家運営の基本として、国家の典教として書かれたものです。
なぜそう言えるかというと、古事記の序文にそのように書いてあるからです。
古事記が書かれた時代というのは、それまで戦乱続きで相手にする必要がなかったChinaに、隋や唐という強大な軍事大国が生まれた時代にあたります。
散々警戒した隋は、いまの北朝鮮にあたる高句麗との戦いに疲弊して、成立からわずか37年で勝手に滅んでくれましたが、唐になるとそうはいきません。
隋が滅んだ要因が高句麗にあったわけですから、唐は高句麗を警戒して、高句麗の向こう側にある新羅と手を結び、唐と新羅の連合軍は国力の弱い百済を滅ぼして半島の南側を征すると、今度は高句麗を二国で挟み撃ちにして、ついに高句麗をも滅ぼしてしまうわけです。
そしてこの課程で起こったのが白村江(はくすきのえ)の戦いで、この戦いで日本は5万の軍勢を失っています。
そのように考えれば、このことが日本の存立に関る一大事であったであろうことは、誰しも簡単に想像が付くと思います。
なぜなら5万の兵というのは、当時の日本の人口がおよそ400万人ですから、いまの人口に例えるなら、およそ160万の若者の兵を失ったと同じことになるからです。
こうした外国の脅威を受けて、日本は、それまでの「豪族たちのゆるやかな集合体国家」という国の形を、新たに唐の脅威に抗し得る強力な統一国家へと変更せざるをえなくなります。
そしてそのために行われたのが、公地公民制であり、律令の制定であり、行政機構の整った都作りであり、史書の編纂だったわけです。
これを「我が国が唐の制度を採り入れた」とひとことで簡単に解説しているものをよく見かけますが、言葉足らずです。
なるほど唐に抗し得るだけの国力を付けるためには、唐の制度を取り入れる必要があったし、事実そのようにしたのですけれど、その際に我が国は、これを何十年もかけて、ただ唐の制度を猿真似するのではなく、我が国の風土や我が国臣民の気質に合った形に変えて、工夫しながら受け入れているのです。
その意味では、昨今の経営学や思想家などが、ただやみくもに外国の思想をありがたがって、ただの外国の猿真似を推奨している姿とは、大きく異なります。
そもそも経営学や商法にしたところで、世界最古の長寿企業をいくつも持つことができたのが日本的経営です。
ほんの2〜300年の歴史しかない西洋とは、伝統風土が異なるのです。
ここまで申し上げたので付言しますが、近年では、明治以来の洋風化の波に、戦後の占領統治の洗脳が加わって、なんでもかんでも西洋のものをありがたがる風潮がありますが、その西洋が発展するようになったのは、13世紀の後半から14世紀にかけて元の大帝国に支配されるようになってからのことです。
それまでの西洋は、ユーラシア大陸におけるただの西の辺境でしかありません。
諸王国が乱立し、互いに勢力を争い、軍事的にも弱国の集合体となっていました。
だから元のオゴタイが攻めてきたとき、瞬く間に東ヨーロッパは席巻されています。
西ヨーロッパが元の支配下とならなかったのは、チンギス・カンの三男で西方戦線を担当したオゴデイが、たまたま深酒がこうじて死去してしまい、元の大軍が進撃を停めたことが理由です。
そして元の圧倒的な力と、その経済力、社会体制、とくに元が行っていた金融為替の知識を学んだ人たちが西洋で銀行家となり、この銀行家が育つことで民間で航海をする人たちが育ち、彼らが船に乗ってアフリカや北南米大陸や東洋に進出して、そこから富を収奪してくることによって、実は、世界を制するたいへんな国力を持ち始めたというのが、実は西洋の歴史です。
要するにモンゴルが出発点なのです。
そしてそのモンゴルの大帝国を開いたジンギス・カンは、実は源義経であったという説があります。
なぜならジンギス・カンの出身地は、ニホのキョト村と書かれているし、ジンギス・カンの紋章は、なぜかモンゴルにはない源氏笹です。
他も理由がありますが、これは本日の主題ではないので割愛します。
要するに日本には、縄文以来二万年もの長きに渡って人々が営んできた様々な経験が、滅びずに伝承となって現代にまで続いているわけです。
そしてその日本を守るために、行った7世紀の大改革が、大化の改新であり、飛鳥から奈良の都に至る一連の国家規模の活動であったわけです。
そしてこの時期の改革は、もちろん唐の制度を研究し、学びはしましたが、我が国では、我が国独自の我が国の風土や気性に合った制度に工夫して、これを取り入れています。
たとえば律令は、律が刑法、令が民事法を意味しますが、Chinaに限らずどの国においても、法といえば先ずは刑法が優先します。人を殺したら死罪、といった具合にです。
ところが我が国では、何十年も研究が続けられた結果、ようやく律ができあがったのは、持統天皇が上皇となられてからの大宝律令(701年)になってようやくです。
唐が成立したのが618年、白村江の戦いが663年です。それから38年もの歳月をかけて、やっと施行になりました。
民事法である令は、飛鳥浄御原令の公布が689年です。
その後12年も経ってから、ようやく刑法である律が公布されたわけです。
なぜそんなに時間がかかったかは、理由があります。
第一に我が国では、律で裁かなければならないような犯罪が当時なかった。
第二に、そのために我が国の律は、現代刑法のような「起きた犯罪を処罰する」という内容ではなく、犯罪が起きないようにすることに重きが置かれ、そのために条文が創意工夫されたからです。
都づくりも同じです。
なるほど、正方形に区画整理するという技法や、縁起かつぎの風水などは模倣されていますが、我が国は、地震大国です。
唐と同じ建築技法では、ひとたび地震が起きれば、都が壊滅するわけです。
そのためには、石を積み上げるChina風の建築技法では、あまりにも都がもろい。
だから、官庁の建物は木造軸組工法が用いられています。
ところが木造建築物は、今度は火に弱い。
そこで、都の大通りの道幅を広くして延焼を防ぐとともに、都内に縱橫に水路を敷くことで、いざというときの消火活動がしやすいように工夫が凝らされています。
また史書についても、唐の史書は、易姓革命を是認する形で書かれていますが、我が国の史書である記紀は、万世一系です。
史書というのは、過去の事実を矛盾がないようにストーリーに仕立てて記述するものです。
つまりそこには基本となる筋書きがあるのですが、その筋書き(プロット)は、唐の史書と日本の史書では、まったく異なるものです。
歴史が古いということは、長い歳月の中で揉まれた物語が不要な部分が削ぎ落とされて、その中で時代を越えて役立つ重要なエッセンスを持つものだけが生き残るということです。
そして生き残る重要なエッセンスというものは、それが天下国家のために役立つものであるならば、あるいは誰にとっても役立つものであるならば、子供にもわかるくらい平易なものであるはずです。
そしてその内容は、生涯かけても底を伺うことができないほど、奥深い。
そうであるはずなのです。
なぜなら、独りの人間の生涯など、長生きしてもたかが100年前後です。
ところが我が国の神話や文化の伝承は、少なく見積もっても二万年以上続いてきたものなのです。
世代数にしてみたら、およそ千世代です。
父から子へ、子から孫へという伝承が、千世代続いてきた、そのエッセンスなのです。
当然、長い歳月の経過の中で、不要なものは捨てられます。
そして、大切なものだけが生き残る。
そして生き残ったエッセンスは、一見すると単純そうで、実は奥深い。
戦後生まれの我々の世代は、そうした日本文化の持つ奥深さを、すっかり忘れて、西洋かぶれしてきた世代であるといえます。
けれど、そろそろ、私たちは自分たちが日本人であるということの自覚を取り戻すべきときに来ています。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
ポッポ
日本の雇用形態である年功序列と終身雇用ですが、戦後も長らく続いたものの、最近は実力主義と言う形態に変わってきました。
その一方で、西欧の国で年功序列と終身雇用を、採用する企業が現れていると聞きます。
永年に渡って、日本の雇用方法として使われた年功序列ですけれど、企業への忠誠心という意味で、これ程の優れたものはありません。
会社に潜り込んで企業の技術を盗み出すことが、技術力と考える国から守るには、最高の経営形態だと思います。
2017/11/09 URL 編集
73
天皇愛という本の中で初めて知りました。
2017/11/08 URL 編集
にっぽんじん
その歓迎ぶりに対して、「失敗外交」といった評価が多いです。
が、もしかすると「成功外交」だった可能性があります。
「成功」というのは「文大統領の本音」からみた評価です。
日米とも韓国を同盟国として引き留めておきたいと考えているが文大統領は日米から離れて中露に付きたいと考えています。
それは口に出せないので「失敗歓迎会」を演出した可能性があります。
文大統領は北朝鮮の核保有に反対しているが、本音は統一半島として核を保有したいと考えているかも知れません。
米国の軍事行動は「許さない」と言っている限りトランプ大統領も手を出しにくいのではないでしょうか。
トランプ大統領が中国に行ってどんな話をするかは分からないが、韓国外しを前提にした協議があれば面白いと思います。
「米軍は韓国から撤収する。半島のことは半島に任せて日米中ロは一切手を出すな。韓半島が統一されてから次を考えよう。ただし、核の保有は認めない」となれば文大統領はどうするでしょうか。
文大統領は日米から離れるための「理由」を日本のせいにするでしょう。
2017/11/08 URL 編集
疑問
さすがに、(日本の)旧石器時代の‶超古い文化”や神話が現在に伝えられているかどうかは不明ですが、縄文の伝統が知らず知らずのうちに現代に受け継がれ、あるいは縄文の言語が基層に存在する事は、恐らく事実だろうと思います。
遺跡を調査する人々は、縄文から弥生、弥生から古墳への変化は明確ではないと言います。
「文明開化」といった目覚ましい変化がなく、弥生式稲作をやりながら、縄文的な狩猟や漁労や採集も並行して行われ、特に東日本では、こうした生業の面だけではなく、縄文的な墓制(洗骨や再葬等)や他界観が弥生時代や古墳時代になっても続き、出土する人骨の多くも、相変らず低身長(男性は160センチ以下、女性は150センチ以下)で、四角顔や丸顔が目立つようです。
本当に縄文の末裔たちは北海道へ大挙移動してしまったのでしょうか?
むしろ、多くの人々が現地に踏みとどまり、複雑に混血しながら伝統を伝えて行ったと考えた方が自然です。
2017/11/08 URL 編集