もともと自然環境の過酷な大陸では、いわゆる一次産業従事者は、常に襲われ、収奪され続けていたという歴史を持ちます。
ですから、作物が稔ればそれを持って農民たちさえも逃げ出してします。
日本のように、ひとつの村に何代にもわたって定住して生活できるという環境がありません(周辺少数民族を除く)。
ところが人は、食べ物があっても、水を飲まなければ死んでしまう。
その水のあるとこに城塞都市があります。
土地を捨てて逃げ出しても、人はどこかの城塞都市に入らなければ、飲料水を得ることができないのです。
その城塞都市は、都市そのものを高い塀で囲い、厳重な門を築いて、通行人たちから通行税を取り立てました。
その税が問題です。
相手を見て取り立ての高低が決まる。
弱い者はそこでもまた収奪の憂き目に遭います。
この収税高を統一したのが元です。
元は強大な軍事力を持って通行税を一律にしただけでなく、信仰の自由を認め、人々の安全を確保し、城塞都市国家間の文化の交流を盛んにしました。
そしてそれによって利益を得ることのできる人々が、相次いで元の配下にはいったから、元はまたたく間に大帝国となっていったのです。
元はただ強いばかりではなく、その政策面において、ユーラシア大陸の経済の大発展を招いたという事実は、先に押さえて置かなければなりません。
こうして築かれた元の大帝国は、4人の子供たちにきれいに4等分され、さらにその子(孫)たちが、それぞれの領土を分割していきます。
分割されれば、ひとつひとつの国の国力は弱まります。
これ利用(悪用)して、元に反乱を起こして生まれたのが明です。
そして明は、元に見習って大王朝を築くべく、ベトナムから遠くアフリカにまで遠征艦隊を派遣しています。
明は、明国皇帝に服属した朝貢国でなければ、明国との交易を認めないという条件を付けながら、版図と盛大に広げていきました。
けれども元との違いは、自由な相互交易とそれを護る元という図式ではなく、明国との上下関係に基づくものであったわけです。
これが明王朝のひずみになります。
結果として明は、ひとたび支配下においた諸国が、後には次々と独立するという事態を招き、さらに欧米列強が明国にまで進出、加えて、秀吉の文禄・慶長の役への対抗のための派遣軍の編成等に出費がかさみ、国力を大きく落としていきます。
ここでも注意が必要です。
秀吉の朝鮮出兵が、あたかも侵略であるかの如く最近では宣伝されていますが、当時秀吉の軍が朝鮮半島で戦った相手は、明国の軍隊と、ごくわずかな李氏朝鮮の軍隊であって、実際には朝鮮軍はほとんど機能していないので、実質的には明国軍との戦いとなっていました。
この時代における李氏朝鮮王朝は、いわゆる国民国家でもなければ、王朝国家でもありません。
実質的には、政府不在の朝鮮半島に当時あった広域型組織暴力団「李氏朝鮮組」のようなものであって、なるほど軍はありましたが、国際戦争に勝利できるほどの軍事力もなければ、軍隊と呼べるだけの統制のある組織でもありません。
さて、こうして国力を落とした明国に対し、清を興したのが女真族のヌルハチです。
女真族というのは、民族は異なりますが、いってみれば、いまの北朝鮮です。
つまり、北朝鮮の金王朝が、中共王朝を滅ぼして、China王朝となったといったイメージで捉えると、わかりやすくなります。
なぜ北朝鮮にはできないことが、清にできたのかというと、そこにも元が関係してきます。
ヌルハチの後継者のホンタイジが、北方を制圧して「元の玉璽」を手に入れ、さらに推薦を受けて北方遊牧民の大ハーンとなったのです。
こうして生まれたのが清で、このときホンタイジが行ったことが、自分たちの出身地を満洲と命名したことです。
満洲という名は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に由来します。
文殊菩薩は梵名がマンジュシュリーです。
これを漢字で満洲と表記したのですが、これはチベットが清国皇帝に「よいしょ」のために寄贈した名称です。
その清がChina全土の王朝に至るのは、4代目の皇帝の康熙帝(こうきてい:在位1661年~1722年)のときです。
康熙帝は、自ら倹約に努め、明代の1日分の経費を1年分の宮廷費用として遣ったり、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らすなど国費の無駄遣いを抑え、さらに治安の維持を図って、China全土の物流を盛んにし、内需を拡大し、民の生活の向上を図ることで、清代のみならず、唐の太宗と並んでChina歴代最高の名君とされています。
実際には、理由は「康熙字典」、「大清会典」、「歴代題画」、「全唐詩」、「佩文韻府」などを編纂し、「古今図書集成」の編纂を命じて文学の興隆を図り、また朱子学を尊重したからで、要するに文筆屋さんを保護したから、保護された文筆屋さんたちによって、名君と讃えられました。
このあたりは、Chineseの行動特性を知る上で、きわめて興味深いものです。
清王朝は、いわば外国人による征服王朝なのですが、その征服王朝が強大であれば、さかんにそこに媚を売って、従おうとするのです。
その良い例が辮髪(べんぱつ)で、頭髪を剃って後頭部のツムジのあたりだけの髪の毛を長く伸ばすという習俗です。
これは、満州人だけの風習であったのですが、Chineseたちは、進んでこの文化を受け入れて同じ髪型にしています。
意外と男性というものは古来、髪型に凝るものといわれていますが、仮にいまの日本で、人気の芸能人男性が辮髪にしたとしても、それが日本人男性の一般的髪型になるとは到底思えません。
ところが清国が力を付けると、当時のChineseたちは、率先して辮髪を取り入れたわけで、自らを満州人であるかのように装ったわけです。
実に興味深い習性だと思います。
清の第四代康熙帝

さて、康熙帝が行った有名な命令に「封禁令」というものがあります。
これは、
「漢人は
清国皇帝の
聖地である
満洲に
入るべからず」
としたものです。
漢人(Chinese)の立ち入りを禁じただけでなく、Chinaと満洲の国境である山海関に、関所を設けて、Chineseの入国を厳しく規制しています。
ではもしこっそりと立ち入った漢族が見つけられるとどうなるか。
「みせしめ」のために、山海関まで連行されて、そこで凌遅刑を受けました。
凌遅刑というのは、死ぬのを遅らせる死刑なのですが、柱にくくりつけた罪人の肉を、二の腕、ふくらはぎ、太ももなどと、胴体から遠い部分から、生きたまま削いで行くという刑です。
こうすると、体が身を守ろうとして、胴体や腹部に血が集まるのだそうです。
そうして膨れてぱんぱんになった腹を最後に切り裂くと、血がほとばしり出て死に至る。
ここまでを三日くらいかけて行うという、China伝統の残酷刑です。
これを人々が見ている前で行って見せしめにしました。
要するに明代末期にChinaの治世が乱れ、漢人に平和と安定を脅かされた女真族が、ついには漢人の本拠地を占領して皇帝となり、自らの出身地である満洲を聖地化して、漢人の立ち入りを禁じて、故郷の平和と安定を図った、こうしてできたのが、清国であり、満洲の聖地であったわけです。
要するに、強力な軍事力を持つ全盛期の清皇帝でさえ、女真族(満洲人)が平和に安全に安心して暮らせるようにするためには、漢人たちの本拠地を制圧し、そこに首都を移転して漢人たちに君臨して直接統治を行うだけでなく、本国を聖地化して漢人たちの立ち入りを禁ずるしかなかったということであって、このことは、私たち日本人に大切なことを教えてくれているように思います。
おかげで、満洲地方は、この後約二百年にわたり、平和と安定を得たのです。
ところが19世紀の終わり頃になると、その清の治世が乱れます。
理由はロシアの南下です。
ロシアが、義和団事件(1894~1901)の後、乱の当時はろくな働きをしなかったロシアが、勝手に南下をはじめ、ついには大連のあたりまで浸食してしまうのです。
ロシア人も漢人と同じです。
武力を用いて一般人を脅し、富と女を収奪します。
ロシア人たちが南下したとき、どれだけヒドイ仕打ちを現地の人にするかは、戦後、満洲から引き揚げようとする日本人達に、彼らがどのような振舞をしたかを見ても明らかだし、カザフやその他、何々スタンと名のつく国々が、ロシアや旧ソ連によってどれだけ酷い仕打ちを受けてきたかの歴史をみれば明らかです。
ベラ・ルーシー(白ロシア)という名称があります。
これはモンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき、湖沼が多い白ロシアの地を避けて通った。
だから「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」ルーシーと呼ばれています。
どういうことかというと、13世紀のモンゴル軍というのは、支配地における強姦が将兵の職務となっていた。だからモンゴルの正統な継承国であるロシアは、それが現在にいたるまで不変の文化として残っていて、そうした文化は、そのまま旧ソ連に引き継がれた。
ソ連軍による無制限の強姦については、数限りないほどの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から4歳の女児に至るまで、
エルベ川の東方(ソ連占領地区)で
暴行されずに残ったものはいなかった。
あるロシア人将校は、
一週間のうち少なくとも
250人に暴行された少女に出会った」
(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院による
レイプ犠牲者の推定数は
9万5千ないし13万人。
ある医師の推定では、
ベルリンでレイプされた十万の女性のうち、
その結果死亡した人が1万人前後、
その多くは自殺だった」
「東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでは、
すくなくとも2百万人のドイツ女性がレイプされ、
繰り返し被害を受けた人も、
過半数とまでいかなくても、
かなりの数にのぽる」
(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
そのロシア兵が満洲に南下し、さらに朝鮮半島を経由して日本に襲いかかろうとした、というのが明治の中頃の日本の置かれた状況です。
日本は、国を守るために、朝鮮北部から満洲にかけて(当時は朝鮮は日本の一部です)南下するロシア軍と、乾坤一擲の戦いを行いました。
これが日露戦争(1904~1905)です。
日露戦争が終わったとき、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に手に入れています。
ところが当時の満洲は、「馬賊と阿片は満洲の花」といわれるくらいの、盗賊王国、麻薬王国です。
そりゃあそうです。
清の国力が弱まり、ロシアが南下して暴行のし放題。
田畑は荒らされ、仕事はなく、飯も食えない。
女房や娘は強姦され、子供たちは虐殺されたのです。
ある程度元気の良い者なら、馬賊になって徒党を組んで強盗団にでもならなければ生きていけなかったし、馬賊となった人々を食わせるためには、馬賊の頭領は、アヘンを売り捌くのがいちばん手っ取り早かったのです。
満洲が乱れれば、それはそのまま日本の危機となります。
当時にあっては、それが日本の現実であり危機であったのです。
能書きの問題ではないのです。
ですから当時の日本政府は、生真面目に馬賊を退治し、法を定めて治安を保ち、産業を興し、農業を活性化し、道路や街を作り、あのリットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくり、国づくりを行いました。
下の図は、全満洲の発電量のグラフです。当時の満洲は、発電機、変圧器、送電線など、世界水準を超えるものとなっていた。

これだけではありません。日本は、満洲に「国道建設10か年計画」を策定し、道路や橋梁を築きました。
昭和12(1937)年頃には、全満洲の全国道は、1万キロを超え、四季を通じて自動車の運行が可能にしています。
そして、なにもない荒野に、新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルピン、吉林、チチハル、承徳、営口、錦洲、牡丹江といった近代都市を次々建設しました。
鞍山製鉄所では、年間20万トンもの鉄鋼資源が製造され、大連発電所、豊満ダム他、数々の近代工業設備投資が行なわれました。
満洲人、朝鮮人、Chineseにわけへだてなく諸学校を作り、近代的医療を施し、司法・行政機関を作り、China大陸の歴史始まって以来初めて、近代的な法による統治が行われたのです。
こうして満洲には、近代的な警察制度が敷かれ、また軍閥や匪賊が討伐され、街が整備されてアジアの奇跡と呼ばれるほどの近代化が促進されました。
要するに、日本が行ったことは、現地人を教育し、彼らの生活水準を日本の内地と同じ水準に引き上げるというものです。
これは、欧米列強による植民地化・・・富の収奪を目的とするものと、その心底がまるで違うものです。
このため当時の満洲には、旺盛な労働需要が発生し、農業も振興され、日本の指導によって、きちんと灌漑が行われた結果、ただの荒れ地だった広大な土地が、肥沃な農地に生まれ変わりました。
つまり満洲は、食えて、働けて、安心して住むことができる土地になったのです。
断っておきますが、ここまでの満洲の国家的インフラ整備は、満洲事変前、つまり、満洲国が起こる前の出来事です。
いまでもそうだけれど、Chineseという人種は、そこが食えて、働けて、安心して住めるということがわかると、大挙して押し寄せます。
マンションの一室に、ある日、Chineseが住み始める。気がつくと、そのChineseの親戚やら友人といった連中が、次々とChinaからやってきて、そのマンションに住み始める。気がつくとそのマンションは、ほぼ全棟、Chineseばかりという情況になる。
こうした行動パターンは、古来、Chinese(漢人)の特徴です。
このため当時の満洲は、日本が介入してわずか20年ほどの間に、もとは満蒙人しか住んでいなかったのに、なんと9人中8人までもが漢人(Chinese)になってしまいました。
【昭和5年当時の満洲の人口】
満蒙人 300万人
Chinese 2600万人
朝鮮人 100万人
日本人 23万人
このことを、左翼系に偏向した歴史教科書などは、
「清王朝の政策によってChineseの満洲地方への入植が行われた」
などと書いていますが、とんでもない大嘘です。
当時の清朝政府には、それだけの指導力も資金力もありません。
南京において、日本が統治を始めたわずか2ヶ月後には、南京の人口20万が、25万人に増えたのと同様、民衆は、治安が保たれ、仕事があり、食えるところに人が集まるのです。
China全土が軍閥や共産主義者、窃盗団等によって、好き放題荒らされ、農地が荒廃し、建物が破壊され、惚れた女房は強姦され、旦那や息子が虐殺されるという無法地帯と化した中にあって、多くの人々が、治安が良くて仕事があり、安心して暮らせる土地を目指したというのは、ごく自然な行動です。
昭和になると、なんと毎年100万人規模で、Chinese達が満洲に流入しています。
満洲事変勃発前の昭和5(1930)年には、ついに全人口の9割がChineseです。
Chineseが増えるとどうなるか。これも昨今の日本の各所でみることができることと同じです。
彼らは彼らだけのコミュニティを作り、平気で暴行を働き、治安を乱します。
そしてついに満洲国内で、Chineseたちによる主権が主張されるようになりました。
これはChineseのいわば習い性のようなものです。
いまのままでは、米国も危ない。
1 まずChineseが入植する。
はじめは少数で。次第に大人数になる。
2 Chineseとの混血化を進めようとする。
はじめは現地の人との婚姻で。
次第に大胆になり、果ては異民族の若い女性を
数万人規模で拉致し、妊娠を強要する。
3 現地の文化財を破壊する。
4 天然資源を盗掘し収奪する。
5 Chineseによる自治を要求する。
6 国家を乗っ取る。
昭和のはじめの満洲が、まさにこのパターンです。
そして軍閥を営んで満洲の自治を奪ったのが張作霖(ちょうさくりん)です。
張作霖は、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭で、勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てました。
昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元です。
そのうち、1億2百万元を、張作霖は自己の利益と軍事費に遣っています。
なんと国家予算の8割を個人的利益のために遣ったのです。
要するに、せっかく都市インフラが進み、みんなが豊かに生活できるようになったと思ったら、その富を横から出てきたChineseがまるごと横取りしたのです。
張作霖

張作霖が、実質的な満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。
1 財産家の誘拐、処刑
2 過酷な課税
なんと5年先の税金まで徴収した。
農作物や家畜にまで課税し、
収税の名目はなんと130種類。
3 通貨の乱発
各省が勝手に紙幣を乱発。
当然通貨は大暴落した。
4 請負徴収制度
税吏は、税額を超えて集金した分は、
奨励金として自分の収入になった。
張作霖は、満洲国を軍事制圧すると、国民から税金として金銭をむしりとり、自身は老虎庁と呼ばれる豪邸に住み、贅沢の限りを尽くしました。
そしてついに張作霖は、日本を追い出して満洲を完全に自己の支配下に置こうとしたのみならず、Chinaまでも征服し、China皇帝にのぼりつめようと画策しました。
張作霖の公邸「老虎庁」

そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。
この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けていたけれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと書かれています。
すなわち、張作霖を爆死させ、それを日本軍のせいにすることによって、日本を糾弾し、さらに日本とChina最大の軍閥である蒋介石を戦わせることで、両国を疲弊させ、最後にソ連が、Chinaと日本の両方をいただく・・・というシナリオです。
張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民がどういう反応を示したかというと、これが拍手喝采して喜んでいます。
当然です。
むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのです。
その張本人がいなくなれば、みんな大喜びする。
ごく自然ななりゆきです。
張作霖が死ぬと、その息子の張学良が後継者として奉天軍閥を掌握し、蒋介石を頼って反日政策を進めました。
ところが張学良は、満洲事変で満洲から追い出されます。
するとChina共産党と結び、蒋介石との国共合作に引き入れる西安事件を起こしています。
結局張学良は、その後、絶世の美女数十人を連れてヨーロッパに逃げ、Chinaで奪った様々な財宝を欧州でばら撒き、また美女による高官達の接待を行って、西欧の反日を煽り続けました。
ちなみにこのChinese美女による接待というのは、彼の国の伝統芸で、早い話、政治やメディアの有力者に性的サービスを行う美女を秘密裏に提供するのですが、女性だって、60歳過ぎの爺さん相手の接待など、普通なら嫌がるはずです。
ところがどこの国とはいいませんが、接待を拒否する若い女性は、同じく全土から集められた女性たちの目の前で、見せしめとして公開処刑されます。
いうことを聞けば、あらゆる贅沢が与えられ、言うことを聞かなければ残酷な死が与えられる。
それが彼の国の古代から続く文化で、民こそ「おほみたから」とする日本では、到底考えられない外交サービスです。
そしてこのサービスによって、ヨーロッパ並びに米国は、ついには日本は、平和に暮らすChineseたちの国を一方的に侵略した悪の枢軸国というレッテルを貼られ、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」なるものまで組成されて、情報戦によって世界の敵にまでされてしまいます。
こうして日本包囲網が築かれ、その後に起こったのが大東亜の戦いです。
日本を学ぶということは、単に私たち日本人が幸せに暮らすためだけのことではありません。
本当の意味での正義を世界に打ち立て、取り戻すためのものです。
そしてそのためには、私たち日本人自身が、日本をもう一度、いちから學び直さなければなりません。
そうしなければ、この国を、そして「民の幸せ」を希求して亡くなっていかれた英霊たちに申し訳ない。
そのように思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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満洲国国都、新京《前編》

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コメント
ジュウオウタイガー
東ヨーロッパにチンギス・ハンの孫にあたるバトゥの軍勢が攻め込んできたとき、この地で覇権を握っていたのがキエフ大公国でした。この国名は日本での呼び名で、自称はルーシ。キエフ大公国に従っていた同族系の諸侯もルーシなんですが。
キエフ大公国を中心としたルーシ諸国は、バトゥ軍の一撃で砕け散ります。バトゥはヴォルガ川下流のサライに中心を置き、ルーシ一帯を支配します。サライの政権を黄金のオルド(日本では金帳汗国とも)といい、その直轄・直属ルーシが金ルーシです。
恐らく金ルーシの北が黒ルーシ、西が白ルーシだったのでしょう。現在のベラルーシはキエフ大公国(キエフ・ルーシ)から独立してポロツク公国としてキエフと対抗していたので、金ルーシとは別に数えられ、金・黒の西なので白なのでしょう。
紅ルーシというのはこれも恐らくですが、遠いサライの支配力が衰え、ルーシのキプチャク化(トルコ化)が進む中で、「さすがに金じゃないだろ」ということで、黒(北)に対して紅(南)になったのではないかと思います。
トルコでも西は白、北は黒(玄)、南は紅(朱)という考えはあります。トルコ語では地中海のことをAk deniz(白い海)といいます。トルコの北が黒海、南が紅海(オスマン帝国の版図で)です。
五行説でいえば東は青のはずですが、遊牧軍団にとって東は故地ですから地名や民族名として新たに名付ける場面がなかったのかもしれませんが、黒が紅と対になるように、青は白と対で使われます。
ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)の宗家であるバトゥ家が断絶した後、バトゥの兄オルダの系統と弟シャイバンの系統が対立しますが、オルダ家・国家はAq Orda(アク・オルダ=白帳汗国)、シャイバン家・国家はKök Orda(キョク・オルダ=青帳汗国)と呼ばれました。(白帳・青帳の興り、関係は諸説あります)
モンゴル由来のこの呼び名はルーシの地位低下もあってさほど広がらなかったようで、文献上も疑問点が多々あります。北西ルーシ人(現在のベラルーシ人)はリトアニア大公を担いでリトアニア王国を強大化させてキエフ・ルーシ(現在のウクライナ)を支配したりしますが、その際にはリトアニア人(民族上のリトアニア人は別にいます)を名乗っています。
リトアニアがポーランドと同君連合を組むと(やはりキエフ・ルーシを支配します)、北西ルーシ人たちは一般にポーランド貴族と訳されるシュラフタを名乗ります。ウクライナは20世紀までポーランド貴族に支配されていたと解説されることがありますが、ウクライナ人(ルーシ人)を支配していた多くはベラルーシ人(ルーシ人)だったのです。
忘れられていた白ルーシが復活するのは、16世紀にモスクワ大公国(あるいは第3のローマ)がルーシのギリシア読みであるロシアを国号・帝号として使用し始めたころ、現在のロシア地域を大ロシア、ウクライナ地域を小ロシア、ベラルーシ地域を白ロシアと呼んだことに因ります。
最初はモスクワ主教座の称号として使われていたようですが、やがて政治の世界でも使われ、ロシア帝国による白ロシア併合、白ロシア・ソビエト成立などを経て定着。「ベラルーシ」はこのギリシア&ロシア語由来の白ロシア(ベロロシア)をベラルーシ語に直したものです。
欧米では「ベラルーシ語源は肌の色説」が根強いようですが、これだと黒ルーシが説明できません。
2018/02/15 URL 編集
にっぽんじん
が、近現代史を研究する学者が不在です。
いても東京裁判歴史が出発になっています。
何故そうなるのでしょうか?
大学では教授の下に師弟関係があります。
教授の意に叶わない研究は出来ないのが今の歴史学会です。
多くの歴史学者教授達は「東京裁判信奉者」です。
歴史学者というより「イデオロギー学者」達です。
日本の教育に本当の近現代史が育たない理由が教育界の「イデオロギー」化です。
韓国は教育界の反国家的教育で反日国家になってきました。
日本も危うい状態です。
中国、韓国を知りたければ外国の資料を読むことです。
1.ラルフタウンゼント著書(1932年)「WAYS THAT ARE DARK-The Truth About China(暗黒大陸中国の真実)芙蓉書房出版
2.フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著書(1938年)「Behind The News In China(中国の戦争宣伝の内幕) 芙蓉書房出版
3.R・F・ジョンストン著書「紫禁城の黄昏(上下) 祥伝社出版)
4.アレン・アイルランド著書(1926年)「THE NEW KOREA」 桜の花出版
5.イザベラ・バード著書「朝鮮紀行」 講談社学術文庫出版
6.全文リットン報告書 ビジネス社出版
7.ユン・チアン著書「マオ(上下)」 講談社出版
は是非読んで欲しい著書です。
2018/02/15 URL 編集