このことが理解できず、藩主が傲慢な君主のように振る舞うときには、家臣たちが藩主を座敷牢に押し込め、毎日対話を続けて藩主に考えを改めるように説き、もしそれでも改まらないときには、藩主は家臣たちによってその地位を追われたし、藩主が改心すれば、そこではじめて座敷牢から出されて、もとの藩主の地位におさまりました。
これは「主君押込(しゅくんおしこめ)」といって、有名な上杉鷹山さえも、その「主君押込」に遭っています。
これが我が国の「忠義の道」です。
チャイナ的儒教観では、上長に身を捧げるのが「義」、上長の命令を絶対視することが「忠」、上長に恥があれば、嘘をついてでもそれをかばうのが「諱(き)」です。
けれども我が国は、天の神が中心にあり、その天の神の子の天子様(天皇のこと)が、すべての民を「おほみたから」とする知らす国です。
ですからチャイナとはベクトルの方向が異なり、
「民のために身を捧げるのが義」
「民の幸せを中心に置くのが忠」
「民のために誠意を尽くすことが誠」等と規程されます。
そして上長の恥を隠す「諱(き)」の概念は、我が国にはありません。
たとえ上長であっても、間違っていれば、堂々とこれを諌(いさ)める者こそ忠義の士とされてきたのが日本です。
「主君押込」は、そうした伝統文化の中に存在しています。
播州赤穂藩の浅野家は、そうした日本古来の思考を重要視した山鹿素行によって、藩の教育が施された藩です。
山鹿素行は『中朝事実』を著し、真の中華といえるのは、Chinaではなく我が国であると、言い切った、江戸時代を代表する国学者であり、皇室尊崇論者です。
従って、赤穂藩の藩風は、とりわけ更新尊崇の念が強い。
その赤穂藩のお殿様が、吉良上野介とともに、勅使下向の接待役を幕府からおおせつかります。
勅使下向というのは、毎年正月に、幕府から京の都の天子様に充てて、新年の祝賀の品が届けられます。
その届け物の御礼にと、今度は天皇の使いである勅使が、江戸に下向します。
京の都に向かうのが「上り」、京の都から江戸に行くのが「下り」です。
だから「勅使下向」といいます。
赤穂藩は山鹿流ですから、何よりも皇室尊崇です。
一方、吉良家は、高家(こうけ)といって、もともと室町時代以来の名門の家柄です。
室町幕府は、ご存知の通り将軍が「日本国王」を名乗った政権で、比較的冷静に官位に忠実な気風があります。
そこでトラブルが起こります。
勅使(ちょくし)は天皇の使いです。
ちなみに、天皇の使いが勅使で、上皇の使いなら院使(いんし)、皇后の使いなら皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使いなら中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使いなら皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使いなら女院使(にょいんし)です。
勅使は天皇の使いで、大納言、中納言の官位にある人が、勅使を努めます。
将軍は、左右大臣ないし内大臣です。
徳川将軍は、この時代、五代将軍綱吉の時代ですが、綱吉はこの時代には、正二位内大臣兼右近衛大将兼征夷大将軍です。
官位の順番は、
太政大臣
左大臣
右大臣
内大臣 (←将軍)
大納言
中納言 (←勅使)
少納言
と続きます。
つまり、勅使は天皇の名代ではありますが、官位は将軍の下です。
そこで問題になるのが、勅使の席次です。
官位からすれば、将軍が上座、勅使は下座です。
しかし勅使は「天皇の名代(みょうだい)」です。
名代ということは、天皇の代理なのですから、勅使が上座に座り、将軍が下座に座る。
当然のことです。なぜなら将軍は天皇の部下だからです。
ところが、室町幕府以来の伝統は、将軍が上座、勅使が下座です。
徳川幕府も、これを踏襲していたし、室町以来の伝統を保守する吉良上野介もまた、当然、この将軍上座説を採っていました。
なぜそのようになったかというと、理由は室町幕府の初代将軍足利尊氏の時代にさかのぼります。
初代の足利尊氏は、バラバラに分断された全国の土地の管理を、各国ごとに任命した大名主(おほなぬし)のもとにすべての管理権を統合しました。
これは土地に関する「私的所有権」をそのままに、「公的管理権」によって統合したという、近現代の法学的にも、世界史的にも実は画期的なことを実行したわけです。
ところが、こうして土地を分け与えるに際して、幕府所有の土地を、あまりに限られた小さなものにしてしまった
ために、室町幕府にはカネがない。
三代将軍足利義満の時代になると、財政の赤字がとんでもないものになってしまうわけです。
そこで起死回生の策として、成立したばかりのチャイナの明国との交易による財政の立て直しが計策されました。
ところが当時の明国は(できたばかりの国で強気で)、明国皇帝に朝貢する国でなければ、交易を認めないという。
そこで足利義満は、明国皇帝に、自分が「日本国王」であると述べるわけです。
明国は「日本の統治者は天皇であって、将軍ではないのではないか」と問い合わせてくるのですが、義満は、「天皇はあくまで祭司長であって、日本の統治者は自分である」と回答しました。
明国はこれを認め、これによって1404年、日明貿易のルートが開かれます。
日明貿易がどのくらい儲かったかについては記録があるのですが、だいたい一往復で財産が400倍になった(行きで20倍、帰りで20倍)と言われています。
これはつまり、元手100万円が、一往復で4億円になるようなものです。
これによって足利義満は、見事に足利幕府の財政を立て直しました。
そして余力の生まれた財政によって、お能や彫刻、建築物として金閣寺などに代表される北山文化が形成されるわけです。
そういう意味では、つまり財政建て直しの手腕や、文化育成という面においては、足利義満は実に偉大な将軍であったといます。
けれど、天皇と将軍の位置づけを国内向けと海外向けに分けたことが、後年には、結果として、日本国内に価値観の分断を生んでしまいました。
どういうことかというと、日本を古くからの国家最高権威としての天皇を頂点とするシラス国と規定するか、将軍を最高権力者である日本国王とするまったく新たな日本と規定するのか、いう、ふたつの相反する概念(感情とか気分と呼んだほうが良いかもしれません)を生んでしまうのです。
将軍は、毎年正月に天皇のもとに贈り物をします。
その御礼の使者が「勅使下向(ちょくしげこう)」です。
天皇が上、将軍はその部下ですから、「下向」と言うのです。
ところがここで、勅使が将軍と対面するときが問題になります。
本来なら、天皇は将軍よりも偉く、勅使は天皇の名代ですから、勅使となった個人の官位にかかわらず、将軍より上座につくのがあたりまえです。
なぜなら、名代ということは、天皇の代わりなのですから、勅使としてのお言葉を述べられるときには、天皇に準ずる地位になるからです。
ところが室町幕府には、ときに明国からも使者がやってきているわけです。
対外的には、日本でいちばんエライのは日本国王である将軍としています。
天皇は単なる祭祀長という立場です。
そうなると、明国の使者も列席する勅使と将軍の対面のとき、勅使を将軍より上座に座らせるわけにいかないのです。
つまり将軍が上座になり、下である勅使の答礼を聞く、という形になります。
これが室町以来の伝統です。
そして吉良家は、室町幕府の足利将軍家にもっとも近い血筋です。
これを「高家(こうけ)」と言います。
そして高家である吉良家は、代々、室町以来の伝統を江戸の徳川将軍に伝え、それを護る役割を担っていました。
一方、山鹿流の浅野家は、もちろん皇室尊崇ですから、勅使が上座という考え方です。
室町幕府以来の伝統に従う吉良家は、将軍が上座、勅使が下座です。
室町以来、徳川幕府も将軍が上座、勅使が下座で勅使下向の接待を行ってきています。
吉良上野介と浅野内匠頭による勅使の接待役は、二度行われていますが、一度目は、初めてのことでもあり、浅野内匠頭は吉良上野介の指示を受け入れています。
単純に受け入れたのですから、トラブルも起きていません。
しかし皇室尊崇の念の強い播州赤穂家にしてみれば、この席次はどうにも受け入れがたい席次です。
常識で考えても、天皇の勅使が上座は当然のことだからです。
ですから二度目の接待に際しては、これが許せない。
そこで浅野内匠頭は、勅使を上座、将軍を下座として席を準備します。
ところが、これに気づいた吉良上野介が、席を全部やり直してしまいます。
浅野内匠頭ならずとも、赤穂藩士たちにとって、これは許しがたい蛮行です。
このことは、たとえば現代の内閣総理大臣が、その親任式において天皇よりも上座に立ったら、おそらく保守系の考え方をお持ちの方なら、そんな総理を絶対に赦さないどころが、おそらくテロにも走りかねない、といえば、その気持はすこしはわかっていただけるのではないかと思います。
こうして殿中松の廊下の事件が起こっています。
この事件は、江戸城内の松の廊下で、浅野内匠頭が脇差しを抜いて吉良上野介の額を割ったという事件です。
少し補足しますが、吉良上野介は、伝統を受け継ぐたいへん立派なお殿様で、その人格の素晴らしさから、地元でたいへんに尊敬され、息子は上杉家の跡取りになっているし、娘は大納言の大炊御門家、島津家などに嫁ぐという栄誉を得ている人です。
決して、ヒヒ爺のような人物ではありません。
刃を振るった浅野内匠頭も、そういうことをわかっているから、松の廊下の刃傷沙汰においても、実は殺意はありません。
なぜなら、顔の傷はものすごい流血量となるのに、吉良上野介は、そこまでの流血はしていません。
ということは、刃物で切ったのではなくて、刃物の背を使って額を叩いたか、薄皮一枚の傷を負わせただけということがわかります。
浅野内匠頭は、脇差しを抜くと、刀身を返して刀の峰で吉良上野介の額を叩いたか、はじめから額の薄皮一枚を斬るという離れ業を行っているわけです。
これなら多少の出血はあっても、大流血ということにはなりません。
第二に、額に向けて切りつけられれば、誰でも手で額をかばおうとします。
ところが吉良上野介は、手には怪我をしていません。
これはおかしなことです。
顔の前に刃物を振り下ろされて、手でかばおうとしない人などいません。
ということは、浅野内匠頭の小刀の使い方は、よほどの練達であったということです。
なぜなら、吉良上野介が額を手でかばういとまも与えずに、素早く傷を負わせているからです。
まさに抜く手もみせぬ早業です。
吉良上野介が自分の額をかばう間も与えずに、額を割ったのです。
ところが、それだけの早業のできる練達の剣士であった浅野内匠頭でありながら、浅野内匠頭は吉良上野介の額に浅く傷をつけただけです。
つまり浅野内匠頭に殺意はなかったということです。
吉良上野介を懲らしめようとしただけであったのです。
もし浅野内匠頭に殺意があったのなら、脇差しで首を狙うか、肋骨の間に刀身を水平に差し込んで殺害します。
仮に殺意を持って頭部を狙ったのなら、すくなくとも吉良上野介は額を割られているわけですから、渾身の力を込めて打ち下ろしたなら、吉良上野介は頭を二つに割られて即死しています。
では、何のために額に傷を負わせたのか。
答えは簡単に見つかることです。
たとえ殺意はあらずとも、殿中で刃傷に及んだとなれば、大目付ないし老中クラスの取り調べを受けることになります。
このときに、勅使の席次について、これを改めるように建言する。
その機会を得るために、吉良を斬っています。
ただし、目的が、建言にあるのですから、吉良上野介を死にいたらしめる必要はない。
必要がないから、浅野内匠頭は吉良を殺さなかったのです。
そしてこのことから、浅野内匠頭の行動は、衝動的なものではなく、あくまで計算ずくで行ったものであることがわかります。
ただ、誤算がありました。
それは、幕府が、いきなり浅野内匠頭に切腹を命じたことです。
幕府がなぜそのような対応としたのか。
これもまた理由は明白です。
仮に浅野内匠頭の言い分を認めて、勅使と将軍の席次を入れ替えれば、江戸幕府開闢以来、今日までの勅使饗応に際して、幕府が不手際を続けてきたことを認めることになってしまいます。
その責任は、誰がどのように取るのか。
つまり幕府の体面を守るためには、浅野内匠頭を、単に「城中で刃傷沙汰を起こした」という一点で切腹とし、後に禍根を残さないように赤穂藩を解体するしかなかったのです。
なぜなら、筋も道理も、赤穂藩の側にあることが、誰の目にもあきらかだからです。
もともと浅野家は、秀吉の妻の兄の家柄です。
つまり出自は百姓であるわけで、その浅野家にとっては、百姓は天皇の「おほみたから」という皇室尊崇論は、まさに希望そのものでもあったという側面も無視できないものです。
しかし、万一、生き残った赤穂藩の残党が、何らかの行動に出たらたいへんです。
万一にも討ち入りのような事件が起きれば、これまた将軍の責任問題になる。
以前、川崎で中一児童の殺害事件がありましたが、このような事件が江戸時代に起これば、川崎の町奉行は切腹です。
なぜなら川崎の町奉行は、そうした事件や事故が起こらないようにするために、あらゆる権限を与えられているわけです。
にも関わらず事件が起これば、権限と責任は一体ですから、当然に町奉行は責任を取って切腹です。
では、大名同士が江戸市中で刃傷沙汰を起こした場合はどうなるでしょうか。
武家の総責任者は将軍です。
つまり、万一、大名殺害という事件が起これば、将軍にその責任が及ぶのです。
これが道理です。
しかしそのような前例を作れば、大名同士で刃傷が起きたことを演出しさえすれば、将軍を切腹に追い込むことができるという悪しき先例を作ってしまうことになります。
そうであるならば、城中で刃傷に及んだというその一点をもって、浅野内匠頭に切腹を申し付ける。
これは、高度な政治的判断です。
赤穂藩は山鹿流ですから、放置をすれば、赤穂藩が幕府に反旗を翻すやもしれず、だから、即時、赤穂藩のお取り潰しが決まっています。
しかし、そうなるとおさまりがつかないのが、赤穂藩士たちです。
なぜなら浅野内匠頭の辞世の句があるからです。
風さそふ 花よりもなお 我はまた
春の名残(なごり)を いかにとかせん
この時代、花といえば桜花を意味します。つまり日本を代表するもの・・・ご皇室です。
春の名残というのは、日本古来の国の形のことを言います。
つまり浅野内匠頭は、皇室尊崇という我が国のあるべき姿を、この先、どうやって実現していくのか(いかにとかせん)と、辞世を詠んでいます。
そしてその志は、殿と同じく山鹿素行から薫陶を受けた赤穂藩の藩士一同、まったく同じ思いでいます。
本来、藩がお取り潰しになれば、これは現代サラリーマンが、会社が潰れたら、別な会社にさっさと就職するようなもので、普通、それ以上に仇討ち事件など、おもいもよらないものです。
ただし、赤穂の浪士たちは、江戸を所払いになった山鹿素行を師とあおぐ教育を受けています。
だから彼らの動静は注視していく必要がある。
だから、大石内蔵助は、幕府の密偵によって、ずっと監視が続けられたのです。
こうして、赤穂浪士の討ち入りが行なわれます。
その討ち入りの前、大石内蔵助は、芸者をあげて派手な大騒ぎをしています。
なぜそのようなことをしたのか。
京都の祇園の町は、5万石とはいえ、田舎大名の家老クラスが連日豪遊できるようなところではありません。
まして藩がお取り潰しになっているのです。
この豪遊について、「幕府の目を誤魔化すためだ」という説がありますが、承服しかねます。
それならばむしろ目立たないように控えるのが普通だからです。
豪遊などをして目立つ振る舞いをすれば、それだけで贅沢を理由に幕府によって逮捕投獄されるリスクもあるのです。
そうではなく、祇園で芸者をあげて派手な大騒ぎをすることで、大石内蔵助は、世間の口にのぼるような目立つ存在になろうとしたのだと思います。
世間によく知られた人物が討ち入りを果たせば、討ち入りの成果がより大きくなり、世間で騒がれれば騒がれるほど、つまり室町時代から続く勅使下向の際の非礼を幕府に修正させようとする旧・赤穂藩士の思い、そして何より殿の思いの実現に近づけると考えた、というのが正解であろうと思います。
大石内蔵助が江戸に下る段で、有名なシーンがあります。
大石内蔵助は、橘右近(異説によれば垣見五郎兵衛)の名を騙って、江戸への旅をするのですが、ある旅籠に泊まったとき、本物の橘右近が現れてしまう。
両者が出会ったとき、橘右近は、内蔵助が右近を名乗ることを認めています。
なぜでしょうか。
このとき本物の橘右近は、都の貴族である九条家の使い(垣見五郎兵衛の場合は日野大納言の用人)として道中を旅しています。
つまり、皇室尊崇の側の人間なのですから、浅野内匠頭の気持ちも、なんとしても「勅使が上座」を実現しようとする赤穂の浪士たちの気持ちも痛いほどわかる。
だから、道中手形を内蔵助に渡しています。
こうして大石内蔵助以下、四十七士が討ち入りを果たすわけです。
時は将軍綱吉の時代です。
綱吉は、犬でさえも殺してはいけない、まして人であればなおのことを生類憐れみの令にまでした将軍です。
生類憐れみの令は、稀代の悪法呼ばわりする人が結構いますが、この令は、幕末まで、何度も繰り返し発布されています。
武士は人を斬るのが商売ですが、生きとし生けるものは、犬でさえ斬り殺してはいけないというのです。
まして人であればなおのことです。
そういう綱吉の時代に、討ち入りをするということが、何を意味するか。
討ち入りをした浪士たちは、全員揃って打ち首が当然ということになるでしょう。
彼らはそれをわかって討ち入りをしています。
こうした行動は、逆ギレして場所柄もわきまえずに刃物を揮うような情けない上司のためになど、絶対に行われないものです。
そうではなく、彼ら自身も、将軍が上、勅使が下ということに納得がいかない。
これを不条理と思うから、彼らはそれを将軍家に改めさせるために、最も有効な手段として、吉良上野介の首をあげるという選択をしたのではないでしょうか。
打ち首切腹は、最初から覚悟の上なのです。
再就職に有利になるから打ち入ったのだという解釈もありますが、いろいろな解釈があって良いと思います。
ただ、歴史の解釈というのは、再現性が第一となります。
生類憐れみの令まで出されて、武士が刀を振るうことが思い切り規制されていた時代に、江戸市中で狼藉を働いた浪士など、どの藩が採用し、就職をさせるのでしょうか。
さて、討ち入りによって困ったのが幕府です。
浪士といえども、武士は武士。
かつてはれっきとした藩士たちが起こした事件です。
しかも場所は将軍家のお膝元の江戸市中です。
誰の責任になるのでしょうか。
誰が責任をとって腹を斬ることになるのでしょうか。
答えは将軍です。
当然です。大名の上に立つのは将軍しかいないからです。
では、そうならないためには、何が必要でしょうか。
そうです。
四十七士の行動を、義挙にしてしまうことです。
その宣伝工作のために、およそ2ヶ月が費やされ、赤穂浪士は切腹となりました。
赤穂浪士=義士という風評が立ったところで、幕府は、あらためて四十七士に切腹を命じたのです。
これは当然のことで、赤穂浪士が義士でなければ、将軍は武家の責任者として、腹を斬らなければならなくなるからです。
赤穂の四十七士は切腹して果てました。
その後、勅使下向に際しての幕府の対応が、勅使が上座、将軍が下座と改められたのは、ちょうど、討ち入り事件の百年後です。
すぐには改めることができない。
なぜなら、江戸市中で狼藉を働けば、将軍を辞職に追いやるか、切腹させることができるなどという前例をつくることなどできないし、また狼藉によって幕府を動かすことができるなどという悪しき前例を作ることは、絶対にできないことだからです。
おそらくそうしたことは、討ち入りをした赤穂の浪士たちもわかっていたことでしょう。
すぐに答えを出せるものではない。
けれど、百年の後、必ず歪みは訂正される。
そう信じたからこそ、赤穂の浪士たちは、莞爾(かんじ)とばかり、切腹をして果てたのだと思います。
また、彼らが打ち首ではなく、切腹となったこともまた、幕府が「必ず未来において歪みを訂正しよう」という、幕府の側の暗黙の回答であったのであろうと思います。
今回のお話もまた、ねずブロの初期から毎年掲載しているお話です。
「赤穂浪士は尊皇の筋を通したのだ」と聞かされれば、「そんな話、聞いたことがない」という方が多いことと思います。
実際、江戸時代からの各種演劇や忠臣蔵の講談などに、そのような描写はありません。
当然です。
すれば将軍家に恥をかかせることになり、それは「おかみの威光を傷つけた」として処罰の対象となったからです。だからあからさまに、ありえない、すぐにおかしいとわかる「年寄りの若者イジメ」を発端として描いたのです。
「江戸の芸能は二度美味しい」と言われます。
まず、舞台を見て、美味しい。
そして帰りの蕎麦屋で、祖父から舞台裏の本当の理由を教えてもらって、また美味しい。
だから「二度美味しい」です。
世の中の正道を保つためには、どうしても建前を重視しなければならないというのが、日本古来の考え方です。
建前など関係なく、結果を得ることができさえすれば良いというのは、共産主義です。
だから共産主義には殺戮や不公正がまかりとおるのです。
そのような思考は、我が国にはありません。
我が国は、お上は、常に論理的に正しく説明がつくように政道を行なわなければならないとされてき歴史を持ちます。
勝ってしまえば、何をやっても許されるという、どこかの大統領 選挙のようなわけにはいかないのです。
このことは、我が国においては、10世紀に活躍した太政大臣の藤原公任(ふじわらのきんとう)以来の伝統です。
藤原公任は、裁判の判決に際して、必ず論理的な判決理由と刑期が明記することを、世界に先駆けて実施した人です。
これにより、裁判の均一化、公平化を図ったのです。
西洋社会がこれを実現するのは、18世紀になってからのことです。
そしてこのことがきっかけとなって、我が国では、裁判に限らず行政においても、立法においても、権力を持つ施政者の側に、常に論理的公平性や普遍的妥当性による具体的正義の実現が求められるようになったのです。
いわゆる「本当のこと」、「真相はかうだ」といったものは、解釈ですから、様々な解釈が成り立ちうるのです。
赤穂浪士の事件に関する一連の論考も、これは解釈です。
けれど、だからといって、様々な解釈を羅列しても、意味はありません。
むしろ、建前として、「この件は、こういうことであったのだ」と「決めて」しまう。
そうすることによって、具体的正義を実現する。
建前というのは、決して意味のないものではなく、建前が立てられるからこそ、社会が安定し、対立や闘争を離れて、人々の生活の安寧が図られるのです。
このことは、何が正しいかよりも、はるかに重要なことです。
そういえば以前、この赤穂浪士事件は、皇室尊崇論に基づくという記事を書いたとき、「赤穂浪士の学界の公式見解が吉良上野介のイジメによるものなのだから、ねずさんの説は間違っている」というご意見をいただきました。
上にも述べましたが、見方や論は、100人の人がいれば100通りのものがあるものです。
たいせつなことは、そこからどのような学びを得るか。
そして、もっとたいせつなことは、さまざまな切り口で、常識を思われていることをあらためて根本から見直してみる、という思考です。
なぜならそれをすることによって、たとえば上に述べましたように、建前の大切さまでが理解できるようになるからです。
赤穂浪士の事件は、時代の中で、忠義の物語「忠臣蔵」として語り継がれました。
そしてその忠義の精神が、江戸社会に一般化したとき、ペリーが来航し、日本は開国へと舵を切ることになりました。
そして忠勇無双の我が皇軍兵士たちが、まさに忠義の心を発揮して、日清日露、第一次世界大戦を勝ち抜き、そして第二次世界大戦において、世界から植民地を抹消するという、まさに義挙を成し遂げています。
日本の歴史は、つながっているのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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赤穂の乱 1702年
勅使下向の復古 1802年
五箇条の御誓文 1868年
大東亜戦争終戦 1945年
そして今年は。 2020年
時の流れは実は悠久ではなく、
隣り合っているのではないのか、
ねず先生から教わるたびに、
この感覚が真実だと自発する。
私の先祖も何処かで生きていたのだから。
以上
2020/12/14 URL 編集