• 日本の未来を暗くしてはいけない


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    私たちは今、日本の、日本人による、日本人のための政治を実現しなければならないのです。そのためには、国民経済、つまり国民の経世済民のための根幹となる日本人としての文化性を取り戻す必要があるのです。なぜならそれが日本経済の背骨だからです。

    20220407 禊



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    小名木善行です。

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    よく、「昔は良かった。でも今の日本はダメだ」と仰られる方がおいでになります。
    あるいは「最近の日本はダメだ。もうおしまいだ」と仰られる方もおいでになります。

    「じょうだんじゃないぜ」と思うのです。
    未来は「これからやってくるもの」です。
    どういう未来に来てもらうかは、今を生きている我々の努力によります。
    あきらめてどうする!と思うのです。

    戦後生まれの私たちは、素晴らしく平和で豊かな日本を生きさせていただきました。
    徴兵されることもなく、戦争で腕や足を失うこともなく、身内に戦死者を出すこともなく、お腹いっぱいご飯を食べることができるどころか、世界中の美味しいものをいただくことができる、そんな時代を生きさせて頂きました。
    おそらく日本の永い歴史の中で、これほど豊かで安全で安心な時代というのは、そうそうはなかったものと思います。

    けどそれは、戦争の時代を生き、空襲や艦砲射撃によって何もかも失い、戦地で戦友の死を目の当たりにし、戦後の焼け野原の中を経験した私たちの先輩たちが、
    「子どもたちのために、絶対に戦争のない国を築きたい」
    「子どもたちにお腹いっぱい、満足するまでご飯を食べさせてやりたい」
    「すこしでも美味しいものを子どもたちに食べさせたい」
    「子どもたちのために、少しでも快適に過ごせるマイホームを作りたい」
    「誰もが自由に過ごせる日本にしたい」
    そう思って日々努力を重ねて来てくれたおかげで、つまり日本人みんなの共通意思によって実現されてきたものです。

    では私たちは、私たちの子や孫に、どういう未来を呼ぶのでしょうか。
    それは「もうおしまいだ、もうだめだ」という未来なのでしょうか。
    違うと思います。

    もちろん、現状の日本には問題が山積みです。
    けれど、問題があるということは、すでに問題点が見えている、ということです。
    見えているなら、あとは解決するだけです。

    「政治が間違っている。
     政治がろくでも無い方向に向かっている。
     だからダメなんだ」
    って、明治以降、政治がろくでもない方向に向かっていなかった時代ってあったのでしょうか。

    そもそも明治以降、政府が関与を強めた業界は、全部ダメになっています。
    明治初期には、江戸時代からの種々の産業が潰れ、その後の富国強兵の時代に盛んであった繊維産業、炭鉱業、製鉄業は、ことごとく衰退し、戦後に日本経済の牽引役を担った造船業、鉄鋼業、家電業、半導体産業は、全て海外にシェアも利益も奪われ、そしていま日本の基幹産業である自動車産業が潰されようとしています。
    歴史を振り返れば、日本政府が関与した産業は、ことごとく外国に売られ、結果として全て外国にシェアを奪われてきています。
    問題は今に始まったことではないのです。

    昔、チャイナがいくつもの国に分かれて戦乱を繰り返していた時代がありました。
    その時代、日本は、平和と繁栄を手に入れていました。
    春秋戦国から五胡十六国の時代です。

    実は戦後の高度成長の時代も同じです。
    政治が右派と左派、ハト派とタカ派に分かれて、激しい対立と闘争を繰り返していた間、民間は、政治など信用せずに、子どもたちの未来のためにと、必死にみんなが働いていました。
    それが経済の高度成長を招きました。
    その経済成長に政治が関与した途端、日本経済が崩壊し、今なお日本経済は伸び悩みの時代のまま置かれています。

    と言うことは、政治のどこかが狂っている、歪んでいるのです。

    だから私たちは今、日本の、日本人による、日本人のための政治を実現しなければならないのです。
    そしてそのためには、国民経済、つまり国民の経世済民のための根幹となる日本人としての文化性を取り戻す必要があるのです。
    なぜならそれが日本経済の背骨だからです。


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  • 天高く馬肥ゆる秋


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    日本は自然環境の厳しい国です。
    けれど同時に、日本の自然環境は、私達日本人に恵みを与え続けてくれた環境でもあります。
    そうしたなかで、自然と育ったのが「尊敬と感謝の日本文化」です。
    私たちは、そういう日本古来の文化を、後世にしっかり伝えて行きたいと思っています。

    雲の種類と天気
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    台風が去ったら、風がめっぽう秋めいてきました。
    「天高く馬肥ゆる秋」とはよく言ったものです。
    涼しくなったら食欲も旺盛になるし、空を見上げれば、なんといっても雲が高い。

    夏の雲といえば、積雲に積乱雲(入道雲)です。
    積雲は高度が2千メートルくらい。
    積乱雲(入道雲)は、その積雲がもくもくと上空に立ち上がった雲で、てっぺんのあたりは高度が1万メートルにも達します。
    また、日本の夏は、気温だけでなく湿度も高い。
    このため低い位置に黒雲がわき、これが夕方頃に雨雲になって夕立を降らせたりします。
    雨雲のことを乱層雲と言いますが、低い雲で、高度は600mくらいからできます。
    もっとも高い乱層雲は、高度6000mにも達します。
    こうなると夕立というより、ゲリラ豪雨になります。

    秋になりますと、北からの季節風によって気温が下がり、空気も乾燥してきます。
    このため雲の位置がぐっと高くなり、それが巻雲や巻積雲といった秋の雲になります。
    こちらは高度が5,000 〜 15,000 mメートルくらいに達します。
    富士山(標高3776m)よりもずっと高。
    上層の雲は、ジェット機が飛ぶ高さ(高度約1万m)よりも高く、小さな氷の粒でできているので、まっ白に輝いて見えます。

    巻雲は、雲の仲間の中で一番高いところにできる雲です。
    別名を「すじ雲」と言います。
    ハケで掃いたみたいなスジになっている雲です。

    秋の美しい夕焼けになるのが、巻積雲。
    こちらは見え方によって、「うろこ雲」、「いわし雲」、「さば雲」などとも呼ばれます。

    「うろこ雲」は、空一面に巻積雲がひろがって、まるで空全体が魚のウロコみたいになったもの。
    「いわし雲」は、よく水族館などの水槽内で、イワシの大群がまるで巨大なモニュメントみたいにみえたりしますが、あのような感じで、スジ状の小さな雲がイワシの大群のようになって見える雲。
    「さば雲」は、まるでサバの背中のように、巻積雲が波打っている様子の雲です。

    これら巻層雲は、位置が高いので、それだけ日没後も長く夕陽を浴び続けることになり、これが秋の美しい夕焼け雲になりまるわけです。

    秋の雲


    さて、秋によく言われる「天高く馬肥ゆる秋」という言葉は、一般に杜審言(としんげん)の
    『贈蘇味道(そみどうにおくる)』という漢詩からとられた言葉とされます。
    要するに「天高く馬肥ゆる秋」も「中国様から半島を経由して日本がオクレて教わったもの」だとしたいわけです。
    けれど、杜審言の漢詩と、我々日本人がイメージする「天高く馬肥ゆる秋」では、実は意味がまるで違います。

    我々日本人は、「天高く馬肥ゆる秋」を(すこし詳しく言えば)
    「秋になると雲が高くなり、食べ物もおいしくなって、牛や馬たちも元気一杯になるよね。
     特に男子ときたら、まるで馬並みにモリモリとご飯をいっぱい食べる。
     そんなご飯のもとになるお米が収穫できるのも秋。
     秋って稔りと収穫と、そしてご飯をいっぱいもりもりおいしく食べれる季節だよね〜」
    といった、たいへん「おめでたい」用語としています。
    もっとも最近ではダイエットブームなので、秋は太り過ぎに注意といった意味にも用いられているようですが、いずれにしても日本人は、この言葉を、たいへんポジティブなものとして捉えているわけです。

    ところが杜審言の漢詩は、全然別です。
    たいへんマイナーな、陰キャラ的な歌なのです。
    もとになった歌は次の歌です。

    『秋高馬肥』
    北地寒応苦 南庭戍未帰
    辺声乱羌笛 朔气卷戎衣
    雨雪関山暗 風霜草木稀
    胡兵戦欲尽 漢卒尚重圍
    雲淨妖星落 秋深塞馬肥
    据鞍雄剣動 挿筆羽書飛
    輿駕還京邑 朋游満帝畿
    方期來献凱 歌舞共春輝

    意訳すると次のようになります。
    「北の大地は寒く苦しく
     南の宮廷に兵は未だ帰ってこない。
     国境では声が羌族の笛に乱され
     寒気のために戎衣(軍服)を身体に巻いていることだろう。
     雨や雪で関所のある山は暗く、
     風と霜で草木も疎ら。
     胡族の兵は戦いが終わって欲しいと願い、
     漢の兵は厳重に守るばかりだ。
     雲清くなり不吉なことが起こりそうだ。
     なぜなら秋が深まり敵の馬がたくましくなっているから。
     鞍に乗れば(馬上では)名剣が動き、
     筆を揺るがせば急を告げる手紙が飛ぶ。
    (人の乗る)輿と荷車は都へと還り、
     同朋は皇帝のいるこの地方に集まっている。
     勝鬨を献上することを誓って、
     歌い踊り春の輝きを共にしよう」

    原文の「雲淨妖星落 秋深塞馬肥」は、
    「雲浄くして妖星落ち、秋高くして塞馬肥ゆ」と読み下しますが、これはひとことでいえば、
    「馬が肥えるて長距離を走れるようになる」という意味です。
    体力をつけた馬に乗って匈奴が攻めて来る、だから友に、気をつけろよ」というわけです。

    杜審言は7世紀の軍事大国「唐」の官僚で、あの「国破れて山河あり」の詩を書いた杜甫の祖父にあたる人です。
    この歌は杜審言が、友人で同じく詩人でもあった蘇味道という人に贈った詩で、蘇味道はこの頃、北方の守備軍に書記として従軍していました。
    友の安全を気遣ったのが、この歌です。

    杜審言のいた唐は、最終的には度重なる匈奴の襲来で国力を落として滅んでいます。
    つまり、匈奴の侵攻は、唐の役人からしたら、まさに王朝の死活問題であったわけです。
    友人はその対匈奴の最前線にいます。
    いつ殺されるかわからないのです。
    だからせめて、春まで生き伸びてくれよ。
    そうして都に帰ってきたら、一緒に勝鬨をあげて、歌い踊り明そうではないか、と詠んでいるわけです。

    おかしな話で、この歌が、日本的な意味での「天高く馬肥ゆる秋」となったのは、
    「昔の日本人はアホだから、杜審言の詩の意味を取り違えたのだ」と解説されています。

    しかし違うと思います。
    むしろ、稔りの秋を寿ぐ習慣が、日本には古代からあり、空も高いし、馬たちも食欲旺盛になるし、人間もそれと同じように、みんな食欲がモリモリとでてくる。
    そのことについて、たまたま似たような意味を持つフレーズが杜審言の詩の中にあったから、その言葉を抜き出して日本流に楽しんだ、というのが正解なのではないでしょうか。
    実際、同じ唐の時代の杜甫の詩の「国破有山河(国破れて山河有り)」は、漢詩の意味がそのまま日本国内で普及しています。

    ではどうして日本人が杜審言の歌を別な意味に抜粋したのかというと、
    それは「日本が遅れていたから」ではなく、むしろ日本には、チャイナとはまったく別な文化性が育っていたからだということができます。

    たとえば戦後の日本は、米国たくさんのカタカナ英語を採りいれましたが、その中には、本来の英語の意味とはぜんぜん別な意味に使われている単語がたくさんあります。
    どうしてそうなるかといえば、日本人が、単に英語をカタカナにしているのではなく、日本の文化的の土壌の上に、カタカナ英語を採りいれているからです。

    杜審言の『秋高馬肥』の歌も同じです。
    杜審言の漢詩は漢詩として楽しむ。
    けれど、もとからある「食欲の秋」に、たまた似た意味のフレーズが杜審言の漢詩にあったから、そこに寄託して「天高く、馬肥ゆる秋」を慣用句として用いたのです。

    なんでもそうですが、漢詩にせよ漢文にせよ英語にせよ、なんでもかんでも日本は劣っていて、何もかも余所の国から教わったのだというように子供たちに教えたり、解釈したりすることは、よろしくないと思います。
    そういうものは、情報操作に軽々と乗せられてしまった、あわれな愚行であると、断じさせていただきたいと思います。

    日本語にカナ(カナは神名(かな)ともいいます)があり、漢字に訓読みがあるように、我々の祖先は、もとからある大和言葉による日本文化という土壌の上に、輸入文化を日本風にアレンジして導入してきたのです。

    似て異なるのが、漢字文化と日本文化です。
    両者を混同するだけでなく、漢字文化が日本文化よりも上位に位置するのだというように、そもそも物事を上下関係でしか捉えようとしないということ自体が、日本的思想からは外れているのです。
    これは特に戦後の文系学会の、大きなはき違いの最たるものであろうと思います。
    あたりまえです。
    文化に上下など、あろうはずがないのです。

    それぞれの国の、それぞれの風土の中で培(つちか)われてきたものが文化です。
    地震のない国と、常に地震の脅威にさらされている国では、その建築文化に違いがあるのは当然です。
    内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。
    要するに文化に上下などない。

    さて、秋の雲といえば羊雲。
    その羊雲を、天皇の大喪の礼の際の弔問の人々に見立てた歌が万葉集にあります。
    日本は自然環境の厳しい国ですが、同時にその自然環境は、常に私達日本人に恵みを与え続けてくれた環境でもあります。
    そうしたなかで、おのずと備わった尊敬と感謝の日本文化。
    こういうものを、我々は後世にまで、しっかりと伝えて行きたいと思っています。


    ※この記事は2014年9月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
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  • 苦しいこともあるだろさ、悲しいこともあるだろさ


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    日本文化には、あらゆる主義主張を超えた普遍性があるのです。

    20220917 ひょうたん島
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    「ひょっこりひょうたん島」をご存知でしょうか。
    そのひょうたん島のテーマソングに、次のような歌詞がありました。

    〜〜〜〜〜〜〜〜
    ひょうたん島は どこへ行く
    ぼくらを乗せて どこへ行く
    丸い地球の 水平線に
    何かがきっと 待っている
    苦しいことも あるだろさ
    悲しいことも あるだろさ
    だけど ぼくらは くじけない
    泣くのはいやだ 笑っちゃお!
    進め
    ひょっこりひょうたん島

    〜〜〜〜〜〜〜

    苦しいことも あるだろさ
    悲しいことも あるだろさ
    だけど ぼくらは くじけない
    泣くのはいやだ 笑っちゃお!


    これこそが日本主義の原点なのではないか。

    日本人は、西欧的保守のような神の楽園であるエデンの園や、共産主義思想にある人類の理想の地であるユートピアのような思想を持ちません。

    そのような、あるかないかわからない世界を希求すること自体を、古来日本人は、非現実的とみなしてきました。

    では、日本人は何を理想とし、何をもって未来を切り拓こうとしているのか。
    それが、
    〜〜〜〜〜〜〜
    苦しいことも あるだろさ
    悲しいことも あるだろさ
    だけど ぼくらは くじけない
    泣くのはいやだ 笑っちゃお!
    〜〜〜〜〜〜〜
    です。

    日本神話は、日本の古い時代の神々の物語です。
    そしてその神話にあるお話は、たとえば因幡の白ウサギが、ワニに嘘をついたから皮を剥がれた、ということが大事なのではなくて、そういう経験を経て「成長すること」が大事だと教えてくれているように思うのです。

    そして、苦しいこと、辛いことがあっても、なお、くじけずに強く、笑って生きて行く。
    それが日本神話が日本人に与えてくれた日本の心です。

    左の人たちや、日本にいて日本語を話し日本人のような顔をしている日本人を嫌う人たちも、結局は、こうした日本的文化のもとでなければ、自分たちの主義主張を発信することはできません。
    そして気がつけば、反日と言いながら、日本的文化に染まっている。

    このことが意味していることは、
    日本文化には「あらゆる主義主張を超えた普遍性がある」ということです。
    日本を否定することは、普遍性を否定するということなのです。

    普遍性の反対は刹那性です。
    つまり「いまだけ、カネだけ、自分だけ」です。
    それらは本来の日本的価値観ではないのです。

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  • 秋のひつじ雲と文化のお話


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    文化に上下など、あろうはずありません。
    文化とは、それぞれの国の、それぞれの風土の中で培(つちか)われてきたものだからです。
    地震のない国と、常に地震の脅威にさらされている国では、その文化環境に違いがあって当然です。
    内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。あたりまえのことです。
    要するに文化は、必然なのであって、そこに上下はありません。

    20200929 ひつじ雲
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    風がめっぽう秋めいてきました。
    「天高く馬肥ゆる秋」とはよく言ったもので、あの暑かった夏はどこへやら。
    だいぶ涼しくなってきて食欲も旺盛になるし、空を見上げればなんといっても雲の位置が高いです。

    ちなみに、夏の雲といえば、積雲に入道雲(積乱雲)ですが、積雲というのは、だいたい高度が2千メートルくらい。積乱雲(入道雲)は、その積雲がもくもくと上空に立ち上がった雲で、てっぺんのあたりは高度が1万メートルくらいに達します。
    夏は、湿度が高いので低い位置に雲ができやすく、これが夕方には雨雲になって夕立を降らせたりします。
    このときの雨雲は乱層雲で、やはり高度は2千メートルくらいです。

    ところが秋になりますと、空気が乾燥してきて、雲の位置がぐっと高くなります。
    秋の雲といえば、巻雲、巻積雲などですが、こちらは高度が1万3千メートルくらい。
    たいへん高いところにある雲です。

    巻雲というのは、雲の仲間の中で一番高いところにできる雲で、「すじ雲」とも呼ばれます。
    ハケで掃いたみたいなスジになっている雲です。

    夕焼け雲になるのが、巻積雲です。
    巻層雲は、見え方によって、「ひつじ雲」、「うろこ雲」、「いわし雲」、「さば雲」などと呼ばれます。

    「ひつじ雲」や「うろこ雲」は、空一面に巻積雲がひろがって、まるで空全体が魚のウロコみたいになったもの。
    「いわし雲」は、よく水族館などの水槽内で、イワシの大群がまるで巨大なモニュメントみたいにみえたりしますが、あのような感じで空に見える雲。
    「さば雲」は、まるでサバの背中のように、巻積雲が波打っている雲です。

    巻層雲は、位置が高いので、それだけ日没後も長く夕陽を浴び続けます。
    これが秋の美しい夕焼け雲になります。

    この巻層雲を、天皇の大喪の礼のときの弔問客に見立てた歌が万葉集にあります。
    第41代持統天皇の御製です。

     北山につらなる雲の青雲の
     星(ほし)離(さか)り行き
     月も離(さか)りて
    (原文:向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而)

    この歌は、夫の天武天皇が崩御されたときの葬儀のときに、皇后陛下であられた持統天皇が挽歌として詠まれた和歌です。
    この歌にある「つらなる雲(陳雲)」というのが、まさに「うろこ雲」のことで、大喪の礼に参列したたくさんの弔問客を、空いっぱいにひろがったうろこ雲に例えています。
    意訳すると次のようになります。

    北枕でご安置された天武天皇の涙のご遺体   向南山
    空に浮かぶ羊雲のように連なった参列の人々  陳雲之
    高い徳をお持ちだった天武天皇は       青雲之
    世を照らす光となって離れ去られました    星離去
    歳月もまた過ぎ去りました          月矣離而

    偉大な夫を失なわれた持統天皇の深いお悲しみと、夫の偉業を受け継いで、これからは自分が天皇としてすべてを背負っていかなければならないという決意を込めた、悲しく、美しく、それでいてとっても力強い響きの歌です。

    うろこ雲ができる秋は、雲が空高く、だから「天高く馬肥ゆる」ともいいます。
    この言葉が杜審言(としんげん)の『贈蘇味道(そみどうにおくる)』という漢詩から生まれた言葉だという説がありますが、これはとんでも説です。
    なぜなら、杜審言の漢詩が持つ意味と、日本語の「天高く〜」では、意味がまったくことなるからです。
    杜審言という人は、7世紀の軍事大国「唐」の官僚で、「国破れて山河あり」の詩を書いた杜甫の祖父です。

    杜審言の書いたこの漢詩は、原文に「雲淨妖星落 秋深塞馬肥」とあり、
    「秋になって雲が高くなって空気が澄んで来る季節になると、北方の遊牧民である匈奴たちの馬は、夏草をいっぱい食べて、今頃は太ってきているであろう。そうなると、匈奴がまた南に下って攻めて来るので、気をつけてくれよ」と友人に伝えた詩です。
    杜審言が所属した唐の国は、最終的に匈奴の襲来で国力を落として滅んでいますから、彼らにとって、北の匈奴の動向は死活問題であり、そのことが歌に読み込まれているわけです。

    この歌の中に「馬肥」の二字が入っているから、昔の日本人が杜審言の詩の意味を取り違えて、「天高く馬肥ゆる秋」という慣用句を造語したのだというのが、いまの主流となっている説ですが、たまたまチャイナの古典漢詩に「馬肥」の二字があったからといって、そこまでこじつけるのは、かなり無理があると言わざるを得ません。

    むしろ、稔りの秋を寿ぐ習慣が、日本には古代からあり、秋の空は高いし、馬たちも食欲旺盛になるし、人間もそれと同じように、みんな食欲がモリモリとわいてくる。
    そのことについて、たまたま「馬肥」の二字が杜審言の漢詩にあったから、それも含めて日本流に楽しんだ、というのが実際のところであったろうと思います。

    こうしたこが起こるのは、我が国がチャイナ以上に深い文化を持っていたからで、ただ外国のものをありがたがったということではない、という点に注意が必要です。
    半島系の人は、すぐに「どちらが上か、どちらが下か」というように思考回路が働きますから、「天高く馬肥ゆる」も「父にあたるチャイナ様が発祥であり、それを我々半島人が兄として、オクレた日本に教えてやったのだ」といいたいのでしょが、まったくの間違いです。

    チャイナで生まれた老麺(ろうめん)が、日本で「ラーメン」として発展し、さらに美味しくなって世界に広がり、現代チャイナでも、日本式ラーメンが、とても美味しいと喜ばれる。
    あるいは、中国生まれの餃子が、日本でさらに美味しい食品となり、チャイナでも、その美味しさの秘宝をさらに工夫して、また新たな餃子が誕生する。

    カレーは、もともとインドの食品だけれど、いまや世界中で食され、英国風カレーもあれば、フランス風のカレーもあるし、我が日本のカレーライスもある。
    大切なことは、民衆のよろこびにあり、よろこびや、楽しさ、あるいはおいしさ、といったものが、様々な国のさまざまな人達によって、切磋琢磨し、工夫されることで、よりよいものへと発展していくことが大事なのです。

    自動車は、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作した蒸気自動車がその原型であったとされていますが、だからフランスが上だとか言い出したら、それこそ世界の物笑いです。
    フランスで生まれ、米国でこれがガソリンエンジン車へと発展し、フォードが量産型の自動車を出し、さらに世界中で工夫や改善が施されることで、いまや自動車は世界各国の主要産業です。
    もちろんいまでは、チャイナ産の自動車もあれば、コリア産の自動車もあります。
    それをフランスが、大本はフランスの蒸気自動車(当時は時速3キロでしか走行できなかった)なのだから、フランスが上だと米国が言い出したら、それこそ世界の物笑いです。
    「天高く馬肥ゆる」が「父にあたるチャイナ様が発祥云々」を言うのは、これと同じです。
    アホのたわごとにすぎない。

    似て異なるのが、チャイナやコリアの文化と日本文化です。
    両者を混同するだけでなく、漢字文化が日本文化よりも上位に位置するのだというように、そもそも物事を上下関係でしか捉えようとしないということ自体が、日本的思想からは外れているのです。

    そもそも文化に上下など、あろうはずがないのです。
    文化とは、それぞれの国の、それぞれの風土の中で培(つちか)われてきたものです。
    地震のない国と、常に地震の脅威にさらされている国では、その建築文化に違いがあるのは当然です。
    内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。

    文化に上下など、あろうはずありません。
    文化とは、それぞれの国の、それぞれの風土の中で培(つちか)われてきたものだからです。
    地震のない国と、常に地震の脅威にさらされている国では、その文化環境に違いがあって当然です。
    内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。あたりまえのことです。
    要するに文化は、必然なのであって、そこに上下はありません。

    ただし、環境が異なれば、そこで育まれる文化が異なるものになるのもまた当然です。
    それを無理やり一緒くたにしようとすれば、無理が生じます。
    そして無理は、必ず民衆を苦しめることになります。

    大陸では、国境は陸続きです。
    そうであれば、常に国は他国からの侵略に苦しめられることになります。
    国同士が仲良くしても、どこのどんな世界にも、どうしようもない悪者はいるものなのです。
    その悪者が国境を越えてくれば、そこで必ず悪さをする。
    人が殺されたり、大切なひとが奪われる。
    だから、国をあげて、国の守りをします。
    そうでなければ、人々が安全に安心して暮らすことができないからです。

    その国の守りには、費用がかかります。
    大勢を動員できる力も必要になります。
    だから国王をはじめとした、一部のリーダーが、富を独占します。
    そうでなければ、国も個人も守れないからです。

    けれど海に囲まれた国の海洋族は異なります。
    他国からの侵略からは、海が護ってくれます。
    時折悪者がやってきても、圧倒的多数の民衆によって、それら悪者は退治されます。
    それに、富は(富というのは貨幣が生まれる前は食べ物のことですが)海が提供してくれます。
    だから民衆は、いちいち国王の言うことなど聞く必要がないのです。
    自分たちで生活できるからです。
    それに、富を得るのには、人を殺して厄介事を起こすより、海でいくらでも得ることができます。
    だから、人を殺したり、奪ったりという文化が育たないし、奪われることから身を守るという文化も育ちません。
    その代わり、互いに助け合い、協力しあうという文化が育まれます。

    日本は、そうした海洋性文化の上に、稲作文化が発達しました。
    冷蔵庫がなかった時代に、米は唯一、長期保存が可能な食物です。
    だから稲作もまた、できた作物を奪うのではなく、みんなで協力して保存するという文化が育まれています。

    要するに文化の成り立ちが違うのです。
    そんな日本人だから、他国に行っても、奪うよりも、その国の人々の助けになるように動きます。
    大昔も、今もです。

    そんな日本が、いま、大陸的な「奪う文化」に侵されています。
    けれど、奪う文化は、日本の風土気候には馴染みません。
    なぜなら日本は、天然の災害が多発する国だからです。
    人からいくら奪っても、ひとたび災害がやってくれば、全部失うのです。
    結局は、日本人は、互いに協力しあって、日頃から災害に備える生活しかできないのです。
    そういう風土だからです。

    過去の歴史を振り返ると、外国からやってきた様々な文化は、長い歳月をかけて、ことごとく日本化していきました。
    排他的な宗教さえも、日本では民衆のためのものへと変化しています。
    資本家が、経営力のある者を使って金儲けをさせて、その上がりをいただくという西洋的企業概念は、日本にはもともとなかったものです。
    日本では、企業は働く人達のものであり、お客様に最高の便宜をお届けするものです。
    明治以降の法は、西洋の猿真似であるがゆえに、国は、企業を資本家のものとしました。
    いまの商法もそういう構造になっています。

    けれど、そのことが多くの日本人にとって幸せといえるかは、まったく別物です。
    そのことに現在、多くの日本人が気付き始めています。
    日本は必ず変わります。
    そしてそれは、必ず良い方向に変わります。
    変えるのは、私たち国民です。


    ※この記事は2014年9月の記事のリニューアルです。

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  • 女性の立て膝座りはあったのか


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    今回のテーマは「政治と宗教を考える」です。
    場所や参加方法などの詳細は↓こちら↓
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    立膝は、あくまで仮りの座りですから、目上の偉い人の前や、一定以上の時間、座って過ごすときには、正座や安座、もしくはそれに近い座り方となって、立膝という不安定な姿勢はとりません。
    そういうところを、しっかりと考証するのが、本来の番組作りであると思います。
    ましてや、ありもしない「半島からの文化輸入」など、いまも昔も、そんなものは悪事以外にはまったくないと断言させていただきたいと思います。


    NHK大河ドラマの「麒麟がくる」の1シーン
    女性が立膝座りをしているが、下にハカマを付けていない。
    20200910 麒麟が来る立膝
    画像出所=https://encount.press/archives/33600/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
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    小名木善行です。

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    以前、NHKが大河ドラマの『麒麟が来る』を放送したとき、出演女性たちが立膝座りをしていることに、かなりの批判が起きたことがありました。
    なるほど着物の女性の立て膝座りは、現代人には、どうにもお行儀が悪く見えます。

    この所作について、NHK養護派の先生らは、
    「戦国時代の女性を描いた絵画などを見ると、
     その多く、もしかしたら半数に
     女性が立て膝をしている姿が描かれている。
     女性の正座は、江戸時代中期以降のもので
     それまでは女性は立膝座りや、
     立膝で食事をするのがあたりまえだった」
    などと述べています。

    半島では、つい最近まで女性の立膝座りは当たり前だったし、食事の際にも立て膝であることから、「日本は未開の国であり、半島が日本に文化を輸出してあげたのだ」とする歴史認識では、何が何でも日本女性が、半島と同じように立て膝座りをしていたと思いたいのでしょう。

    ただ、歴史を考えるときには、もうすこし深く掘り下げて考える必要があります。
    まず、戦国以前の女性たちが描かれた絵画では、なるほど女性たちが立膝をしているものが多くあります。
    しかし、それらは、ちょっとした所作、つまり、動きのある状態での立膝姿であり、かつ、女性がハカマを付けていることに注意する必要があります。

    お能は、室町時代に完成された芸能ですが、お能でも女性の立膝座りはあります。

    まず、舞台の上や、舞台に出るための待機のときの一時座りは、すべて立膝姿です。
    一方、地謡や囃子方など、長時間座った姿勢でいる人たちは正座で座ります。

    シテやワキは、舞台で演じなければなりませんから、座りは一時的なものなので、すぐに立てるように、片膝を立てた姿で座るのです。
    つまり、一時的な仮の座りのときは立膝。
    ずっと座りっぱなしでいるときは正座、というようになっているわけです。

    ちなみに狂言では、役者は男女とも正座です。
    これは狂言が、場を楽しませるためのものであり、観客に敬意を払うためです。
    お能の場合は、むしろ観客がシテやワキといった役者さんたちに敬意を払って観劇するので、座り方も仮り座りの片膝を立てた姿になるわけです。

    立てる方の膝は、お能の流派によって異なります。
    左膝を立てるのが観世流、宝生流、
    右膝を立てるのが喜多流、金春流、金剛流です。

    女性の着物は右前合わせなので、左膝を立てたときは裾を右手で押さえられますが、右膝を立てると、どうしても裾がはだけてしまいます。
    それを右手で押さえる仕草が、女らしくて色っぽい仕草になります。

    もともと日本の家屋は、板の間でした。
    これが畳敷きになったのが室町時代の書院造りです。

    畳自体は、とても歴史の古いもので、古事記に、弟橘比売が江戸湾で入水されたとき、波の上に「菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而」という記述があります。
    2世紀の初め頃の出来事ですが、この時代には畳がカーペットのような敷物として使われていたことがわかります。

    平安時代になりますと、板の間に敷布団のような寝具として畳を敷く習慣が生まれました。
    これが室町時代になると部屋全体に畳を敷くようになり、これがいわゆる書院造となるわけです。
    まあつまり、部屋中がベットの上のようになったわけですね。

    そしてこの頃衣服面でも大きな変化が現れます。

    もともと日本人は海洋民族なので、船上での生活が縄文以来の伝統になっています。
    船は揺れますから、女性が座るときも、正座はなんとも座りが悪い(安定しない)ので、男女の別なく、あぐら座り、横座りが主流です。
    立膝座りは、ちょっと座る(仮り座りする)ときに普通に用いられていました。

    ついでにもうひとついいますと、正座の際に、かかとをお尻の下にするのではなくて、両方のかかとをお尻の左右に出す座り方も、これまた揺れる船内で、安定して座るひとつの方法であったとされます。

    行動学的にも、板の間での生活は着衣が板と擦れるため、着衣の汚れや擦り切れが早くなります。
    その意味で、接地面をできるだけ少なくする座り方という意味で、正座よりも安座や横座り、立膝座りが合理的でもあったといえます。

    ところが前合わせタイプの着物では、立膝やあぐら座りをすれば、お股が見えてしまいます。
    そこで鎌倉期くらいまでは、女性は前合わせの着物の下、または着物の上からハカマを付けるのが常態でした。
    ハカマを穿いていれば、あぐら座りでも、おまたが見えることはありません。
    この習慣は、神社の巫女さんの服装にも、いまでも伝統としてちゃんと残っています。

    さて、室町時代のはじめ、第三代将軍の足利義満によって、日明貿易がはじまります。
    足利義満は、この日明貿易を通じて、大陸から「高機(たかはた)」と呼ばれる、色の付いた糸を織ることを可能にする技術を導入しました。
    この「高機」によって、反物に絵柄を付ける技術が日本に導入されたわけです。

    それまでは着物の絵柄は、染柄と刺繍だけです。
    染柄ではカラフルな色彩の表現はむつかしいし、刺繍ですと着物が重たくなります。
    ところが高機(たかはた)は、布を織る段階で、色の付いた糸を織ることで着物に柄を付けます。
    このため軽くて色彩豊かな着物が作れるようになりました。
    その代表が京都の西陣織です。
    西陣織の美しさは、誰もが認めることでしょう。

    この高機導入がきっかけで、女性たちが着る着物は、鮮やかな色柄の付いた着物となりました。
    そうなると、せっかくのその美しい着物の柄を、ハカマや裳で隠してしまうのはもったいない、となります。
    そこで女性の着物からハカマや裳が取り払われて、美しい着物の柄をよく見せる、現在の着物姿へと変化するわけです。
    足利義満は、後に戦国時代を招いた原因をつくった国家的価値観の混乱を招いた人でもありますが、同時に文化面においては、ものすごい貢献をした将軍でもあったのです。

    そしてこの時代に、先程申し上げました書院造り、つまり室内全部に畳を敷き詰めるという習慣が始まります。
    すると、それまでの板の間暮らしと異なり、部屋中どこでも座れるし、着物を汚すこともない。
    そうなれば、より美しい座り方として、正座の習慣があたりまえになってくるし、下にハカマを穿いていませんから、座り方はむしろ正座でなければならないというように、室内の立ち振舞の文化が変化するわけです。

    そして江戸中期ころには、女性の座り方は完全に正座のみといって良いくらいにまでになっていくのです。

    要するに、日本にも室町時代中頃までは女性の立膝座りは普通にあったけれど、その後、日本では衣類の柄のとても美しいファッション性の高い被服文化へと変化し、また生活空間全体に柔らかな畳が敷き詰められるようになったことで、戦国後期から江戸中期にかけて正座が主流になっていったのです。

    これに対し、お隣の半島では、古代の暮らしのままの状態がつい最近まで続いていたため、いまだに女性の立膝座りが主流になっている、というわけです。

    テレビの時代劇では、昭和50年(1975)に放送されたNHKの大河ドラマの「風と雲の虹と」(加藤剛主演、平将門)の番組で、時代考証から女性が立て膝座りをするシーンが描かれ、視聴者から大クレームがおきて、すべて正座にあらためた、というケースが有りました。

    最近でも「麒麟(きりん)がくる」で女性が立て膝をしているシーンが描かれて問題になっていますが、他のことにはいい加減な時代考証をしておいて、そういうところばかり「正確に描写しています」とは片腹痛いことです。
    女性に立て膝座りをさせるなら、着物の下か上に、ちゃんとハカマを穿かせなければ、視聴者にみっともないと思われるのは当然のことですし、時代考証的に「間違っている」と指摘されても当然です。

    もっというなら、立膝は、あくまで仮りの座りですから、目上の偉い人の前や、一定以上の時間、座って過ごすときには、正座や安座、もしくはそれに近い座り方をします。
    立膝という不安定な姿勢はとりません。

    そういうところを、しっかりと考証するのが、本来の時代考証であり、番組作りであると思います。
    ましてや、ありもしない「半島からの文化輸入」など、いまも昔も、そんなものは悪事以外にはまったくないと断言させていただきたいと思います。


    ※この記事は2020年9月の記事のリニューアルです。

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  • 小町園の悲劇(18歳未満および女性の方閲覧禁止)


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    今日のこの記事もまた、この時期に毎年掲載しているものです。
    今回が14度目の掲載になります。これからも毎年掲載します。どうしてもお伝えしなければならない、歴史から消し去ってはならないことだと思うからです。
    尚、このお話は「18歳未満および女性の方閲覧禁止」です。

    20190811 特殊慰安施設協会
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E6%85%B0%E5%AE%89%E6%96%BD%E8%A8%AD%E5%8D%94%E4%BC%9A
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    この小町園の悲劇について書くのは、2011年3月以降、これが14回目になります。
    忘れてはならないことだと思い、毎年この時期に再掲させていただいています。

    この物語は、安田武、福島鋳郎著『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』に収蔵された実話です。
    原文は文語体ですが、読みやすいように、ねず式で現代語訳しています。
    原文には書いた人の記名がありますが、ここでは割愛しています。
    あまりにかわいそうだからです。

    我が国では古来、民衆は天皇の「おほみたから」です。
    そして政府は、天皇の下にあって、「おほみたから」である民衆が豊かに安心して安全に暮らせるようにすることを第一の責務とする存在です。
    それが我が国古来の基本です。

    ところが戦後は、西欧風の政治観が蔓延しています。
    それは「国のトップは国家最高権力である」という認識です。
    権力とは、「武力、財力、情報力」によって成り立ちます。
    そしてこれら3つの力によって、国民を支配します。
    そして支配者は、限られたごく少数の権力者の富と安全と安心のために、民衆を欺き、民衆を利用します。
    この小町園にしても、まさに自分たちが米軍にゴマをするために、日本の一般女性たちを差し出したと言われても仕方がない振る舞いを、当時の政権が行っているわけです。

    当時の政権の誰がこの件に関与したのかは、現時点では不明とされています。
    しかし、自己の利益と保身のために国民の犠牲を厭わないという、権力の歪みは、現下の日本において、より顕著になっているように思います。

    日本を取り戻すというのは、このような「権力による国民の支配」という構図ではなく、国民が「おほみたから」とされてきた日本を取り戻すことにあります。
    そのために必要なことは、日本人が日本のもともとの形を、あらためて確たるものとして認識することにあります。
    そしてそのためには、勉強と拡散が必要です。


    *********

    【小町園の悲劇】
    安田武、福島鋳郎著『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』より


    大森海岸の「小町園」と聞けば、いまの中年の御紳士方なら、ずいぶんと懐かしがる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
    戦前は、今のように、温泉マーク(注:ラブホテルのこと)が都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合にたちいたりますと、京浜国道をひと走り、大森の砂風呂へ行こうと、みなさん、よく大森海岸までお越しになったのです。

    小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きい料亭でございました。
    戦前の、落ち着いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描き出したあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。

    現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することを誰も信じていただけないのではないかとおそれています。
    けれど、小町園の柱のひとつひとつ、壁の一面一面には、日本人の娘さんの貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついているのです。



    忘れもしません。
    あれは終戦の年の、昭和20年8月22日のことでした。
    ご主人が銀座の方へお出かけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ、
    「ここがRAAの第一施設になるらしい」という噂が伝わってきました。
    女中部屋はそれを聞いて、ハチの巣をつついたような騒ぎになりました。

    私には、そのRAAというのがわかりません。
    聞いてみると、特殊施設協会とかいって、政府と警察と、それから私たち業者などが一緒になって作っているお役所で、お金は政府が一億円も出しているということでした。

    でも私たちが驚いたのは、まだ見たこともないアメリカ兵がここへ入ってくる、ということでした。
    そのRAAというのは、進駐軍を迎えてサービスをする施設だというのです。
    「それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所になるってこと?」
    みんなびっくりしました。

    その頃はまだ、パンパンという言葉はありません。
    アメリカ兵は「鬼畜米英」などと新聞に書かれ、私たちも素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を食うなどと思っていたのです。
    皆の不安も無理ありません。
    しかし、あとの騒ぎをいま振り返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ食べなかったけれど、それを同じことをした、と思わずにはいられないのです。

    RAAの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうです。
    けれどさすがに三越が承知しなかったので、大森海岸の料亭では?ということになり、うちに決まったという話でした。
    その話が伝わった翌日には、なんと大工さんが50人もやってきました。
    そして昼も夜もぶっつづけで、こわれたところや、いたんだ箇所を直しはじめました。

     *

    さあ大変です。
    いよいよアメさんがくるのが本当だとわかると、女中の中にはひまをもらって、辞めていく人もあるし、毒薬を懐にして、いざとなったらこれを飲んで死んでやるといきまく者もいます。
    私も家さえあれば、逃げて行きたいところでした。
    けれど、家は焼けて住むところがありません。
    それで、ええ、ままよ、と悪く度胸を据えてしまったのですが、その当時は、女中も、あとから来た慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がないという人が多かったのです。

    ご主人は、私たち20人ほどの女中を集めました。
    そして、
    「この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように」と訓示なさいました。
    けれど私たちは、パンティを2枚履くやら、大騒ぎでした。

     *

    いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むという、その前日のことです。
    お店の前に二台のトラックがとまりました。
    そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へぞろぞろと入ってきました。

    リーダーみたいな男の人が、RAAの腕章をしていました。
    その女の人たちが、進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかりました。
    私たちは集まって、いたましそうに、その人たちをみやりました。

    モンペをはいている人もいます。
    防空服みたいなものをつけている人もいます。
    ほとんど誰もお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかし何と言っても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘い匂いのようなものがただよっていました。

    この人たちは、みんな素人(しろうと)のひとでした。
    のちに応援にきたひとは玄人(くろうと)の人もいましたが、はじめ小町園に来た人は、みんな素人の娘さんだったのです。

    銀座の八丁目の角のところで、
    「新日本の建設に挺身する女事務員」という大看板を出して集めた人たちだったのです。
    ですから、進駐軍のサービスをするということはわかっていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかった人たちもいました。
    なかには、そのときまで生娘だった女性も、何人かまじっていたのです。

    前にちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、
    軍人の御嬢さん、
    まだ復員してこない軍人の奥さん、
    家を焼かれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。

    その30人の人たちは、もちろん、ちゃんと着物を与えられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。

    しかしその上に、何をもらわなくちゃならなかったか、その人たちは、翌日から知ったわけでした。



    8月28日には、アメリカ軍が、厚木基地に進駐してきました。

    何という早さなのでしょう。
    もうその晩には、新装をこらし、灯りをあかあかとつけたお店の前に、組み立ておもちゃみたいな自動車が停まりました。
    そこから5人の兵隊が、何かお互いにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。

    それがはじめてのお客でした。

    その人たちは、缶詰のビールを持ち、めいめい腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で、
    「ここに御嬢さんたちがいると聞いてきたが」といって、カードを通訳のひとに見せました。

    それには、お店の地図が書いてありました。
    いつの間にかRAAの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。
    主人はよろこんで、この5人の「口切り」のお客様をもてなそうとしました。
    この人たちは、靴のまま上がろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上がると広間でおとなしく持参のビールを飲みはじめました。

    広間で特別に招いた大森芸者の手踊りを見せました。
    けれど彼らはそんなものはさっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんはどこにいるのだと聞き、料理をはこぶ私たちを抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで押し倒して裾に手をいれようとしたりする兵隊もありました。(和服がめずらしかったのでしょう)

    それで私たちは、ご主人に言って、5人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。
    なにしろ、素人の娘さんたちですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。
    それをまるで赤ん坊でも抱くように、ひざの上に抱き上げて、ほおずりしたり、毛だらけの大きな手で
    「かわいい」とでも言っているのでしょう、何か言いながら、あちこち体を撫で回したりしているのを見て、私は急いで障子を閉めました。

    廊下で聞いていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。
    泣き声は女で、わめき声は男です。
    おそらく何か月もの間、殺伐な戦場で、女の肌に一度も触れないできたのでしょう。
    その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。
    物音や、声を聞いていると、女の私でさえ、変な気持ちになりました。
    もう何年もそういうことからは遠ざかっていた私ですから。

    そして、ああ、やっぱり、日本は負けたのだと、日本の娘がアメリカの兵に犯されている物音を廊下で聞きながら、はじめてそのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙が出てきました。

    5人のアメリカ兵は、その夜、12時頃までいて帰りました。
    私はタバコを1箱、チップにもらいました。
    部屋へ行ってみると、部屋中にアメリカ人の体の匂いが甘酸っぱく漂い、そのなかでRAAの娘さんが顔をおおっていました。
    素顔で体中汗でひかり、いかにも苦しそうに息をはいていました。

    聞いてみましたが、恥ずかしがって何も言いません。
    しかし、皆の話を総合してみると、彼らは思ったよりずっと親切だったそうですが、何しろ体が大きいし、はげしいので、みんなくたくたにされてしまったようでした。

    その5人の兵隊たちが満足したのも無理はありません。
    彼らは幸せだったのです。処女もその中にひとりいましたし、そうでないのも、ながい間、そううことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。
    だから、女の人も疲れてしまったのです。



    しかし、そんなのんきなのは、この晩だけでした。
    この5人は、嵐の前触れのようなものだったのです。

    翌日は、昼間から、ウワサを聞いた彼らが続々とやってきました。
    大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。
    土足でずかずか上り込み、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで追い回したりします。

    10日ほど経ったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。
    ほかにも、ポツポツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私たちからみたら、なんだか東京中の進駐軍が、みんな私たちのところへやってくる気がしました。

    ジープが前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとからあとから、兵隊たちはやってきました。
    はじめてやってきた30人の女のうち、ふたりは、最初の晩にどこかへ逃げて行きました。

    残った娘さんたちがお客をお迎えしていたのですけれど、部屋が足りません。
    まるで体格検査場みたいに広間を屏風(びょうぶ)で仕切って、そこに床を敷いて待たせ、一部屋になっているところも、兵隊たちが障子をこわしてしまったので、開けっ放しでした。
    女たちはそれを嫌がりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって面白がって口笛を吹いたり、声をかけたりして楽しんでいました。

    ひとりの男が中にはいると、あとの列が、ひとつづつ前へ進みます。
    まるで配給の順番でも待っているようでした。
    その列が廊下にあふれ、玄関に延び、ときには表の通りまで続くときもありました。

    私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間をかけまわって、用をたしました。
    気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるかわからなかったのです。
    接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、私もしまいには神経が太くなってしまって、接吻なぞ、何度もされました。
    なにしろ、右を向いても左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。

    ひどい目にあったのは、募集で集まってきた女の人でしょう。
    みんな素人の娘さんたちなのです。
    はじめての日に処女をやぶられて、一晩にひとりの男の相手をするだけでも、心が潰れるほどのことだったでしょうに、毎日、昼となく夜となく、一日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。

    素人の女ですから、要領というものを知りません。
    はげしく扱われれば、正直に女の哀しさを見せてしまいます。
    それではたまったものではありません。

    たちまち別人のようになって、食事もろくにとれず、腰の抜けた病人のようになってしまう人が多かったのです。
    どうしてこんなアシュラのようなところから、みんな逃げ出さなかったのか不思議に思うのですが、逃げようにも逃げる気力さえなくなっていたのかもしれません。
    どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。
    それを聞いていると、日本の女が、戦勝国の兵隊の蹂躙にまかせられているという気がしみじみとしました。

    それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの縮図でした。見本でした。

    私たち女中のなかからも犠牲者が出ました。
    よっちゃんという19の子は、布団部屋にはいったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかでイヤがるのを無理に輪姦されて、
    「お姉さん、あたし・・・」
    と私に泣きついてきました。

    傷口を洗ってやりましたが、裂傷を負っていました。
    「わたし、好きな人がいたの。こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!」
    そういって、翌日から慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。

    しかしこの子は、もともとそういうことが好きだったらしく、それに外人の体がめずからしく良かったのでしょう。
    復讐どころではなく、何人のお客を迎えても、鼻歌交じりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。

    一日に60人のお客をとったという女が表れたのも、その頃の話です。
    そのときは、ペイディ(ねず注:給料日)で、朝から横になったきりで、食事も寝ながらとるという調子だったそうです。
    その女性は、もうそれっきり立てなくなって、病院に送られましたが、すぐ死にました。
    精根を使い果たしたのだと思います。



    そんな毎日が続いても、お客はあとから、あとから増えるばかりで、混乱におちいってしまいました。
    女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも使い物にならなくなれば困ります。

    ご主人は、銀座のRAAに応援を求めました。
    RAAの方では、はじめの失敗に懲りて、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を、補充に30人ほどこっちへ送り込んできました。
    そしてRAAのほうに応募してくる素人の娘さんは、いったん吉原などへ送り、そこで泣いたりわめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。

    こんど来た人たちは、何といっても、そういうことには慣れている人たちですから、一晩に10人や20人のお客をとるのは平気です。

    「それでもねぇ、やっぱりなんだかヘンよ。体が違うでしょ? それに言葉は通じないし、おまけに向こうでは、女のご機嫌をとろうと思って、いろんなことをしてくるでしょ? こっちはなまじっか、そんなことされないで、早く切り上げてくれた方がいいと思うんだけど・・」
    などと、くわえタバコで、私たちに、そんなことを打ち明ける人もいるほど、なれていました。

    この人たちが来てからは、だいぶうまくいくようになり、兵隊同士のケンカや、女中の犠牲者たちも少なくなりました。

    はじめにきた30人の女の人は、その2~3か月の間に、病気になったり、気が違ったりして、半分ほどになっていました。
    しかしその半分の人も、現在ではきっとひとりも、この世に残っていないと思います。
    それほどひどかったのです。

    まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまる人たちでした。
    とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い、何も知らない娘さんたちがやったのです。
    そしてボロ布のようになって死んでいったのです。

    そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。
    お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林と続いて開業しましたので、うちへ入るお客も、自然少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。

    でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがっていくのが、私たちにもわかりました。
    若いお嬢さん風の女の人が、玄関にはいってきて、主人に「働かせてください」と頼むことがありました。
    理由を聞いてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家に帰れないから、というのでした。

    自分から、アメリカ兵に媚を売る女になっていく人も、何人かありました。
    今思うと、こうしてあの頃、東京中にパンパンなるものが生まれつつあったのですね。

    私はそれから何か月か経って、とうとうアメリカ兵のひとりに犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。

    *********


    体験談は以上です。

    昭和20(1945)年8月15日の終戦の後、RAAという組織が日本におかれました。
    進駐軍を迎えるにあたって、時の東久邇(ひがしくに)内閣が、当時のお金で一億円という巨費を投じて、昭和20(1945)年8月22日に設置した組織です。

    RAAというのは、「Recreation and Amusement Association」の略です。
    直訳すれば「レクリエーションとお楽しみ協会」です。
    現実には、日本国内におかれた国営特殊慰安婦施設です。
    ここで慰安婦は「Serving Ladies(奉仕する淑女)」と呼ばれました。
    施設名は、そのものズバリで、「Sex House」と英訳されました。

    第一号店が開設されたのは、マッカーサーが厚木飛行場に降り立った日より2日早い、昭和20(1945)年8月28日のことです。
    指定されたのは東京・品川の大森海岸の駅前の老舗料理屋であった「小町園」です。

    RAA(特殊施設協会)は、日本が進駐軍を迎えるのにあたって、日本人の一般の女性たちが性の被害に遭うことをおそれて、設置した施設でした。
    悲しいことですが「善良で清純な婦女子を守るために」やむをえない措置だったのです。

    昨年6月に、米国のメアリー・ルイーズ・ロバーツ(Mary Louise Roberts)教授(歴史学)が米仏で膨大な量の第2次大戦中の資料を研究してまとめた著作「What Soldiers Do: Sex and the American GI in World War II France(兵士らは何をしたのか:第2次世界大戦中のフランスにおける性と米兵」が出版されました。

    そこには、第二次世界大戦で南フランスのノルマンディに上陸した米兵たちが、そのノルマンディで強姦の限りをつくしたこと、当時の米誌「LIFE」がフランスを
    「快楽主義者4000万人が住む巨大な売春宿」
    と表現していたことなどが記されています。
    残念なことですが、これが現実です。

    昨今、日本のかつての軍の駐屯地付近で商売をしていた慰安婦のことが話題になります。
    はっきりといえることは、日本軍ほど、女性を大切にした軍はない、ということです。
    世界中どこの国でも戦勝した軍は、その地元の女性たちをまるで戦利品のように蹂躙しました。

    それどころか、ChinaやKoreaでは、兵になるということは、その地域、つまり「味方のいる地域の一般住民から収奪し、女とみれば強姦する権利を与えられる」ということでした。
    勝てば占領地の、どころか、武器を持たない弱い者が、まず蹂躙されたのです。
    そして古来大陸における戦争は、民族間の戦いの後、むしろ強姦によって民族の血を交わらせ、混血児をつくることが、次の戦争を防ぐために必要なこととさえ考えられていました。
    他民族を、自民族に変え、後の世の戦乱を防ぐために必要な行動とされていたのです。

    ところが日本の軍は、武士の時代から兵は、決して現地の女性たちに手を出しません。
    たまたま日本の軍の兵士が現地の女性と仲良くなり、当事者同士は本気の相思相愛で、互いに合意の上での体の関係であったとしても、結婚もしてなのにそうした関係をもてば、それは即、男性である日本兵側の「強姦事件」として厳罰に処せられました。
    しかも、そのような性の問題で軍を追われれば、郷里に帰った時、親戚一同の恥さらしです。
    親族全員が大迷惑です。

    たとえば大震災が起きます。
    被災地に軍が送られます。
    現代世界では、治安が良くなり、軍も兵も地域住民を守ることが使命と考えられるようになりましたが、ほんの近代までは、大陸では「軍がやってくる」ということは、震災後にかろうじて残ったなけなしの財産を強奪され、地元女性が強姦されるということを意味したのです。
    力さえあれば、欲しいものはなんでも手に入るという欲心の行き着く先が、そういう現実でした。

    ところが日本では、すくなくとも有史以来、多少の例外はあるものの、軍は規律正しいものという伝統があります。
    おそらく世界の歴史で、ここまで規律正しい軍は、日本だけです。
    なぜそうなったのかという答は簡単です。
    日本では、たとえいまは敵味方であっても、どちらも天子様の大御宝だからです。

    さて、都内に設置された小町園のような施設は、3カ所ありました。
    そして同様の施設は、全国に置かれました。
    そのために政府は、日本全国の都道府県に「外国駐屯慰安施設等整備要項」を出し、公娼、私娼、芸妓を中心に、慰安婦を集めました。
    それでも数が足りず、昭和20年の9月下旬には、全国紙に慰安婦の募集記事がRAAによって掲載されています。

    そこにはこう書いてあります。
    ~~~~~~~~~~
    女子事務員募集
    年齢18~25歳まで
    宿舎、被服、食糧支給
    ~~~~~~~~~~

    戦後の焼け野原で、住むところも食料も衣服さえも替えがなかった時代です。
    しかも、優秀な適齢期の男たちは、みんな戦地に行き、そこで多くが戦死し、抑留されました。
    この結果、終戦直後の日本国内の適齢期の男女比率は、男1に対して女5の割合だったのだそうです。

    加えて、国内経済は壊滅状態です。
    就職のあてなどありません。
    敗戦後二年間の失業者は600万人です。
    女性に限っていえば、まったく就職のあてなどありません。

    本文にある小町園では、三井銀行の事務員をしていた娘さん(処女だったといわれている)が、はじめての客に黒人兵をとり、気が変になって、その日のうちに京浜急行の電車に飛びこんで亡くなっています。

    横浜に設置された山下町の「互楽荘」では80人ほどの女性が集められ、小町園から4日遅れの9月1日に開業していますが、どこでどう話を聴きつけてきたのか、開業の前日に百人を超える米兵がカービン銃を突きつけて押し込み、そこにいた14人の女たちを蹂躙しました。
    翌朝、泥靴の跡も生々しい女たちが、虫の息で転がっていました。

    さらに「互楽荘」では、開業二日目、黒人兵からひどい目に遭わされたことのある女性が、別の黒人兵に嫌悪感をあらわにして相手をするのを嫌がり、それを無理やり犯そうとしたために女性が逃げ出しました。
    怒った黒人兵がそれを追い、首を絞めて殺しています。
    この事件では、MP(米軍の憲兵)が駆けつけ、逃げようとしたその黒人兵を射殺しました。

    この結果、横浜の「互楽荘」は、その日のうちに閉鎖になっています。
    世界の軍隊の中では、まだマシなほうと言われている米軍でさえ、これなのです。

    これが悪名高い中共の人民解放軍だとどうなるか。
    チベットを見ればわかります。
    チベットは、2千年の歴史のある国です。
    そこに中共軍が、チベットはChinaの固有の領土であると一方的に宣言して進駐しました。
    その結果、4500あった寺院は破壊し尽くされました。
    今ではたったの45しか残っていません。
    15万人いた僧侶は、今はたったの1400人、
    一般市民で虐殺された者は128万人です。
    国民の4人に一人が殺されました。

    チベットは敬虔な仏教国ですが、僧侶は異性との交合は禁止されていました。
    やってきた人民解放軍は、尼僧を犯し、男性の僧侶にも、尼僧への強姦を強要しました。
    男性の僧侶がこれを拒むと、手足を切り落とし、
    「信仰の力で、これをくっつけてみろ」と言って、ゲラゲラと笑ったそうです。

    そのチベットは、いまでは子供たちの教育の機会さえ奪われて、いまやチベットの文盲率は男子で60%、女子で82%です。
    これは現在進行中の話です。

    本稿で、日本政府がRAAを用意したことに嫌悪感を持たれる方も多いかと思います。
    けれど当時の政府は、より多くの国民を守るために、そういう選択をせざるを得なかったのだということを、書き添えておきます。

    つまり慰安施設を、ちゃんと用意しておかなければ、一般の婦女子が犠牲になるのです。
    それを防ぐために、慰安所を設けたのです。
    もし、政府がそれをしなければ、上に書いたような悲劇は、単にその施設内のできごとというのではなく、一般の日本人女性がどれだけの被害を受けたことか。

    日本よりすこし前に占領されたベルリンでは、街の女性が少女から老婆まで、なんと女性の8割が強姦されています。
    そういう事態を防ぐために、苦汁の選択をしたのだ、そうやってひとりでも多くの日本の婦女子を守ろうとした人たちがいたのだ、そのおかげで、日本が7年間もの占領統治を受けながら、日本人として純潔をいまだに保つことができているのだ、ということに、私たちは、あらためて思いをいたし、感謝しなければならないと思います。

    また終戦という混乱の時期にあって、国内においてさえ「小町園」のような悲劇が起こった、だから「戦争がいけないんだ」というのも、議論の飛躍です。
    なぜなら、敗戦によって占領を受けた国は、戦後70年経った今でも、「小町園の悲劇」がいまだに延々と継続しているのだ、という、この事実を見落としてはならないからです。
    先ほど述べたチベットしかり、ウイグルしかり、です。

    日本は、有色人種として植民地奴隷になる道を選ばず、自存独立のために明治以降、必死になって国を支えてきました。
    おかげで日本は、植民地にならず、日本人は奴隷にならずに済みました。
    なんの抵抗もしないで奴隷になる道を選んだのなら、いまのアジア諸国も、アフリカ諸国も、いまだ植民地のままです。
    日本人も、その他の東洋人も、生まれたその日から死ぬ日まで、一生、男はタダ働き、女は操を無視され、私有財産もプライバシーも自由もない生涯を、何百年も過ごさなければならなかったのです。

    いま、沖縄を中共にくれてやろう、などという不埒なたくらみをする連中がいます。
    いうまでもなく、反日左翼の連中です。

    選挙になると、わざわざ住民票を1000人単位で移してまで、インチキ選挙を繰り広げ、沖縄を中共に売る工作をしています。
    同時に、彼らは反日を扇動し、あおっています。

    けれど、彼らは沖縄が日本でなくなったとき、沖縄県民が受けるであろう悲劇をちゃんとわかっているのでしょうか。

    日本を外に売り渡そうなどと、ろくでもないことを考える前に、いかにして日本が往年の姿を取り戻し、住みよい日本になるかをちゃんと考えるのが、筋というものです。

    また、日本国内におけるRAAで働いた女性ですが、朝鮮半島における売春婦(慰安婦)とは決定的に異なる点が2つあります。

    日本国内のRAAは、政府の外郭団体です。
    いわば政府の機構でした。
    これに対し、朝鮮半島における慰安所施設は、Koreanの女衒が、日本軍の駐屯基地の周辺で勝手に始めた商売であったということが、まずひとつ。

    それと二つ目には、RAAの慰安婦女性たちは、宿舎、被服、食糧が支給されたただけで、給料は普通の女子事務員とほとんど変わりがありません。
    これは当時の日本政府にお金がなかったことも一因で、このため、米軍の進駐後に誕生した街の街娼(パンパン)の方が、はるかに稼ぎが良いということから、RAA職員よりもパンパンとなることを選ぶ女性が増え、この結果、RAA施設はその後、自然消滅的になくなってしまいました。

    これに対し、朝鮮半島の慰安婦たちは、日本の兵隊さんたちの月給の数十倍の給料を稼ぎ、当該女性のみならず、その女性の親戚一同までが生活状況を一変させるという状況にありました。
    また、慰安所において、小町園や互楽荘で起こったような暴力事件や死亡者が発生するということもまったく、ただの一件もなかったのです。
    このことは、事実として、歴史に止めておくべきことであろうと思います。


    もうひとつ。
    小町園での悲劇をご紹介しましたが、最初は東京銀座の三越が慰安所に充てられる予定だったという事実です。
    三越は、断固これを拒否しました。
    断った理由は、江戸時代から続く老舗の伝統を踏みにじられてなるものか、という三越の「誇り」です。
    おかげで三越は慰安所にならずに済みました。
    もし、このとき三越が、政府の要求をのんでいたら、いまごろ三越はどうなっていたでしょう。

    たとえどんな相手でも、横暴な要求は断固拒否する。
    その「誇り」と「矜持」があったおかげで、三越は、いまや世界の三越に成長しています。
    このことは、成長し未来を切り拓く力は、「常に誇りと矜持から生まれる」ということを明確に示しています。

    思えば、黒船来航以来の日本を守ったのも志士たちの「誇り」でした。
    日清、日露、大東亜戦争を戦ったのも、日本人の「誇り」でした。
    そして戦後の奇跡的とさえいえる驚異の戦後復興を成し遂げたのも、私達日本人の「誇り」でした。

    いま不況に沈む日本が失っているもの。
    それは、日本人としての「誇り」なのではないでしょうか。
    逆にいえば、日本がこれから未来に向けて成長し、発展し、より豊かな生活を取り戻すのに必要なこと。
    それこそまさに「日本人の誇り」です。

    そして「誇りを持つ」ということは、何も威張ったり、ふんぞり返ったり、他を蹂躙したりすることではない。
    日本人は、ごくごく普通に振る舞っていれば、それだけで「凄い」民族です。
    なぜなら、それだけの実績を、私たちの先人が築き上げてきてくれたからです。
    私たちいまを生きる日本人は、そのことにもういちど「感謝」の心を取り戻すべきだと、私は思います。

    それともうひとつ。
    たいせつなことは、コトの正邪ではありません。
    こうした過去の歴史を、わたしたちがいかにそこから学び、現在に活かし、未来を築く礎にするかということです。
    二度と悲劇はくり返してはならない。
    日本は、強くあらねばならないと思います。
    そのために必要なことは、国民の勉強です。


    日本をかっこよく!
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     だから、どのような職業であれ、どのような社会的立場でれ、魂を高貴なものに保つことこそを、大切にしてきました。それが、「日本人が日本人であることの、人としての矜持(きょうじ)」です。

    20200119 森田春代
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    なかでも渡辺崋山は、天保十(一八三九)年の蛮社の獄で逮捕されたとき、師匠の松崎慊堂が、老中水野忠邦あてに建白書を出し、そのおかげで死罪を免れています。
    渡辺崋山にとって松崎慊堂は、師匠であるとともに、命の恩人でもあったわけです。

    松崎慊堂は熊本の農家の出身で、幼名を松五郎といいます。
    家が貧しく寺に預けられていましたが、勉強好きだった松五郎は、学問で身を立てようと十三歳で江戸に出ました。
    江戸では浅草の寺の住職に拾われ、寛政二(一七九〇)年には設立されたばかりの、江戸湯島の昌平坂学問所(いまの東大)に入りました。
    さらに江戸一番の儒学者である林述斎のもとで学んで、寛政六年には林塾で塾生のトップである塾生領袖になっています。
    領袖というのは、要するにトップということですが、単に成績が良いというだけでなく、人格識見指導力などにおいても、最高の人材ということを意味します。
    たいへん優秀で、かつ勉強熱心で、人柄も良い、そんな若者だったわけです。

    さて松五郎が、林塾の領袖時代のことです。
    ある日、考え事をしながら歩いていて、町のならず者たちにドスンとぶつかってしまいました。
    そして、彼らが手にしていた酒徳利を割ってしまいました。

    彼らは「ごめんなさい」と松五郎がいくら謝っても、許してくれません。
    それどころか、酔ったならず者たちは、「酒代を出せ!」と大金を迫ってきます。
    ところが松五郎は、書生の身ですから貧乏です。
    「そんな大金はありません」としきりに謝るのだけれど、ならず者たちは、ますます激昂して脅しをかけてきます。

    この様子を、すぐ近くで旅籠の飯盛り女をしていたおすみという女性がみとがめました。
    そしてならず者たちに近づき、
    「あんたたち、よってたかって何やってんのさ」
    と間に割って入ります。

    そして彼らが要求した額を、おすみはその場で全額立て替えて支払いました。
    松五郎は恐縮してしまいます。
    「必ずお金は返します。
     しかしいまはお金がないから、
     分割にしてください」
    とおすみに申し出ました。

    ところが話を聞けば、月二分の生活費でやりくりしているといいます。
    いまでいったら、月三万円です。
    着ているものもみすぼらしい。
    その少ない生活費から払うというのだから、おすみは同情して、
    「分かりました。
     では、月二分を
     私があなたに
     払ってあげましょう」
    と約束してくれたのです。

    それからのこと、毎月毎月、おすみから松五郎のもとにお金が届けられました。
    頂いているうえに、届けてもらうのは申し訳ないからと、途中からは松五郎が自分でもらいに行きました。

    月日がたったある月のこと。今月に限って松五郎が現れません。
    松五郎の住む長屋に行っても不在です。
    それっきり、松五郎から音沙汰がなくなりました。

    おすみは、周りの女性たちから、
    「バカねえ。
     あんた、騙されたのよ」
    と言われてしまいます。

    松五郎は日本を代表する私塾の塾生です。
    おすみは宿場の飯盛り女です。
    飯盛り女というのは要するに、私的売春婦です。
    あまりにも身分が違うのです。

    さらに何カ月かたった、ある日のことです。

    おすみの住む宿屋に、立派な身なりをしたお侍さんが駕籠に乗ってやって来ました。
    そして、宿屋の主人に、
    「おすみさんはいますか?」
    とたずねました。

    呼ばれて奥から出てきたおすみは驚きました。
    あのみすぼらしかった松五郎が、見違えるような立派な姿で、そこに立っているではありませんか。

    松五郎は、懐から六両のお金を出しました。
    「いままでお世話になりました。
     これはお借りしたお金です」
    そう言って、おすみにお金を渡しました。
    「ようやく塾を卒業し、
     掛川藩に教授として
     召し抱えになりました。
     これから掛川に向かいます。
     いままで本当にお世話になりました。
     ありがとうございました」

    そしておすみに、こう言いました。
    「あなたさえよければ、
     私の妻になってください」

    その後、二人はめでたく祝言をあげました。
    まるでリチャード・ギアが主演したハリウッド映画『愛と青春の旅立ち』そのもののようなストーリーですが、こちらは実話です。

    ここで大事なことが二つあります。
    ひとつは、掛川藩にお抱えになったばかりの松五郎が、売春婦であるおすみを妻に迎えているという点です。
    もし日本人が、売春婦を卑しい職業と考えていたのなら、松五郎がおすみを妻にすることはありえません。
    これから藩の若侍たちに学問を教える人物が、卑しい職業の女性を嫁にするなど、許されることではないからです。

    ところが掛川藩は、松五郎の妻のことを全く問題にしていません。
    それどころか藩の重要な任務となった朝鮮通信使の通訳兼交渉役にさえ、松五郎を抜擢しています。

    もうひとつの大事なことは、おすみが宿屋の売春婦でありながら、松五郎に仕送りしたり、ならず者にからまれてカツアゲされたときに、そのお金を代払いしている点です。
    戦後の時代劇などで、売春婦たちは子供の頃に女衒(ぜげん)によって連れてこられ、売春宿の主人に借金漬けにされ、年季があけるまで無理やり働かされたという設定がなされています。
    要するに、そういうのは全部噓っぱちだ、ということです。

    女衒に買われてきたのは事実です。
    仕事ですから、つらいこともあったでしょう。
    けれど経済的には、彼女たちは実に豊かでした。

    当時の売春婦というのは、十七歳から二十七歳くらいまでしか働かせてもらえません。
    それ以降は、それまでに貯めたお金で、自分で小さなお店を開いたりしました。
    売春婦たちには、それくらいの稼ぎと経済的余裕が、実はあったのです

    お店に買われてきたのは六〜七歳のときです。
    店に出るまでの10年は、お店がその娘に徹底した教育を施しました。
    和裁、着付け、三味線に小唄に長唄、読み書きそろばん、日本舞踊、太鼓、琴、小料理など、女性が生きるのに必要なあらゆる分野の教育が行われました。
    幼い頃から雇い入れ、申し訳ないけれど商売に使わせていただく。
    その代わりに、彼女たちが一生食うに困らないだけの貯えと、教養と技能を、しっかりと身につけさせようというのが日本の風俗の伝統であったのです。
    そのために、店に出るまでの10年間、店のお金で徹底した教育が施されたのです。

    商売以上に、人を大事にする。
    それが、私たちの日本です。
    これを可能にしたのは、権力者の上位に、天皇というありがたい存在です。
    権力者は天皇の民である私たち民衆を私物化することができない。
    これが日本古来の国のカタチ(構造)なのです。

    その後、松五郎は、松崎慊堂(まつざきこうどう)と改名して、日本を代表する学者になりました。
    その弟子が、渡辺崋山や、高野長英など、江戸後期の名だたる学者たちです。
    その学者たちが、まだ学生だった頃、その子達の生活の面倒の一切をみたのが、おすみでした。
    おすみは、育った学者たちから、一生を通じてまるで母のように慕われ、この世を去りました。

    日本人は、どのような社会的立場にあっても、あるいはどのような職業に就いていても変わらない「人としての矜持(きょうじ)」を大切にします。
    職業には貴賤があっても、その職業を行う人の魂に貴賤はない、というのが日本人の古来の思考です。

    だから、どのような職業であれ、どのような社会的立場でれ、魂を高貴なものに保つことこそを、大切にしてきました。
    それが、「日本人が日本人であることの、人としての矜持(きょうじ)」です。


    ※この記事は拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第二巻』でご紹介した記事のリニューアルです。
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    Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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    昭和31年1月生まれ
    国司啓蒙家
    静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
    ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。
    
《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。
    
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