• 貧窮問答歌の真実


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    欲はあっても良い。
    けれど、その欲は、自分だけではなく、多くの人々のために使う。
    これを「大我(たいが)」と言います。
    日本が健全化され、ふたたび庶民が幸せに生きることができる国となるため、いま必要なことは国民教育であり、その国民教育のためには、核となる大我の覚醒者が、ひとり、またひとりと増えていくことが必要です。

    20191206 貧窮問答歌2
    画像出所=http://blog.livedoor.jp/hirohiko24-bokepuri/archives/18343825.html
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    日本に希望の火を灯す!

    このお話は、2019年12月に拙ブログが初出で、その後2022年10月発売の拙著『奇蹟の日本史』(https://amzn.to/3eeXDco)にも、その内容を掲載したものです。
    山上憶良の『貧窮問答歌』は、7世紀後半から8世紀初頭の奈良時代を生きた貴族で、大宝2年(702)に渡唐し、帰国後は、伯耆守・東宮侍講・筑前守を歴任し、太宰府の長官であった大伴家持とも親交があった人です。

    この『貧窮問答歌』は、学校で「地方で過酷に税を取り立てられる民衆の姿・困窮する家族の姿を詠み込んだ歌」として、古代日本がいかに庶民に苛斂誅求の国であったかの、ひとつの証拠のように語られ、教えられている歌です。
    けれど、それってホントなの?というのが、本稿のテーマです。

    以下『奇蹟の日本史』の文でその文をご紹介します。

     *

    【貧窮問答歌の真実】

    ▼歌ったのは朝鮮半島の伽倻の実情?

    『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』を書いた山上憶良(やまのうえのおくら)は、筑前の国司だった人です。
    つまり筑前の国の頂点にある人です。
    山上憶良が生きた時代は、白村江の戦いで日本が朝鮮半島の権益の一切を手放したすぐあとの時代です。
    白村江の戦いが六六三年。
    山上憶良が筑前の国司に赴任したのが七二六年。
    わずか六十三年後のことです。

    筑前から海を隔てた対岸の朝鮮半島南部には、かつて日本の一部であった伽倻(かや)の地があります。
    かつてそこには任那(みまな)日本府もおかれていました。
    そしてそこは、とても豊かでした。
    なにしろ百済(くだら)が勝手に伽倻を併合したとき、それが気に入らないからと、百年もの間、百済への税の支払いを拒(こば)み、日本に税を払い続けたほど、誇りある人々が暮らす地でもあったのです。

    けれど山上憶良が筑前に赴任する頃には、その「豊かだった伽倻」は、すでに貧困のどん底になっていました。
    『貧窮問答歌』を読むと、およそ日本の一部だった時代とはまったく異なる伽倻の情況が描かれています。
    豊かで安全で安心して暮らせたはずの伽倻は、わずか六十年で貧窮のどん底暮らしになっていたのです。

    では『貧窮問答歌』を読んでみます。
    原文は漢文ですが、わかりやすいように、現代語に訳したものを掲げます。

    現代語訳『貧窮問答歌』(山上憶良作 万葉集巻五所収)

    風交(ま)じりの雨が降る夜や
    雨交じりの雪が降る夜は
    どうしようもなく寒いので
    塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり
    咳(せき)をしながら鼻をすする。

    少しはえているヒゲをなでながら
    自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが
    寒くて仕方ないので麻の襖(ふすま)紙をひっかぶり
    麻衣を重ね着しても
    やっぱり夜は寒い

    俺より貧しい人の父母は
    腹をすかせてこごえ
    妻子は泣いているだろうに
    こういう時、あなたはどのように暮らしているのか。

    天地は広いというけれど
    私には狭い。
    太陽や月は明るいというけれど
    我々のためには照ってくれない

    他の人もみなそうなんだろうか
    それとも我々だけなのだろうか

    人として生まれ
    人並みに働いているのに
    綿も入っていない
    海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけ
    つぶれかかった家
    曲がった家の中に
    地面に直接藁(わら)を敷いて
    父母は枕の方に
    妻子は足の方に
    私を囲むようにして嘆き悲しんでいる

    かまどには火の気がなく
    米を炊く器にはクモの巣がはり
    飯を炊くことも忘れてしまったようだ

    ぬえ鳥のようにかぼそい声を出していると
    短いものの端を切るとでも言うように
    鞭(ムチ)を持った里長の声が寝床にまで聞こえる

    こんなにもどうしようもないものなのか
    世の中というものは
    この世の中はつらく
    身もやせるように
    耐えられないと思うけれど
    鳥ではないから
    飛んで行ってしまうこともできない。

      世間(よのなか)を
      う(憂)しとやさしとおも(思)へども
      飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

    原文は次のような漢文です。

    風雜 雨布流欲乃雨雜 雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎取都豆之呂比 糟湯酒宇知須々呂比弖 之叵夫可比 鼻毘之毘之尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曾倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞弖泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流 天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 囲居而 憂吟 可麻度柔播 火気布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻弖 来立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道
     世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆

    ▼「筑前の民衆を描いたもの」という従来説のおかしさ

    あまりに悲惨な民衆の暮らしが描かれています。
    従来説では、これは「筑前の民衆の生活を描いたものだ」としています。

    しかし山上憶良は、筑前の国司です。
    つまり筑前の民衆の生活について全責任を担った筑前の長です。
    その筑前守が、
    「俺の国の民衆は、こんなに貧窮しているのだ」
    という内容の歌を自慢気に遺すでしょうか。
    そう考えれば、おのずと、この歌が描いた民衆が、どこの人々のことを詠(よ)んでいるのか明らかになります。

    歌の中に、
    「つぶれかかった家、曲がった家の中に、地面に直接藁(わら)を敷いて」
    という描写が出てきます。(原文は「布勢伊保能 麻宜伊保 乃内尓 直土尓 藁解敷而」)

    ワラがあるということは、稲作はしているわけです(稲作がなければ、ワラもありません)。
    稲作をするなら、普通、家屋は高床式です。
    なぜなら水田は水を引くため、地面に穴を掘る竪穴式住居では、床に水が染み出してしまうからです。
    高床式にすることで、縁の下に風を通し、ジメジメから解放されるのです。
    ところがここの人々は、地面に直接ワラを敷いて寝るというのです。
    それはさぞかし寝苦しいことでしょう。
    どうしてそのような寝方をするのでしょうか。

    不思議はまだあります。
    「つぶれかかった家、曲がった家」とありますが、日本は地震が頻発(ひんぱつ)する国です。
    「つぶれかかった家、曲がった家」では、生活できません。
    とりわけ高床式住居では、柱や梁(はり)が、しっかりしていないと、地震のときに家屋が簡単に倒壊してしまいます。
    ですから古来、日本の家屋は、たいへんしっかりした造りをするのがならわしです。
    そして「しっかりした家屋」は、各家族では建てるのも維持するのも大変だから、古民家も大家族で住むように設計され、建造されてきたのです。これが災害列島で住む人々の知恵です。
    《注》現代日本は核家族化が進み、家屋は核家族用で、その多くは安普請(やすぶしん)です。だから巨大地震が起きると、ほとんどの戸建てが倒壊の危険にあります。

    「いや、そんなことはない。
     これは筑前の都市部の民衆の話だ。
     都市部ならつぶれかかった家、曲がった家もあり得るだろう」
    という方がいるかもしれません。
    けれど我が国は、仁徳天皇が「民のカマドの煙」を見て、税の免除をされるような国柄なのです。
    民衆がカマドの煙どころか、「米を炊く器にはクモの巣がはり」というような状況を、国司が招いたとするならば、それこそ責任問題です。

    加えて『貧窮問答歌』に出てくる人物は、どうやら庶民ではないらしい。
    なぜならその人は、
    「ヒゲをなでながら
     自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれ、
     俺より貧しい人がいる」人であるわけです。つ
    まり最下層の人ではなく、貴族階級の人のようです。
    ところがそんな貴族であっても、竪穴式のつぶれかかって曲がった家に住んでいるわけです。

    山上憶良の時代のすぐ前には、半島で百済救援の戦いがあり、また白村江(はくすきのえ)で日本人の若い兵隊さんたちが大量に殺されるという事件もありました。
    そしてこの歌が詠まれた時代の、わずか六十年前には、高句麗(こうくり)が滅亡し、半島は新羅(しらぎ)によって統一されています。

    筑前には、ご承知の通り大宰府(だざいふ)があります。
    大宰府という名称は、「おおいに辛い(厳しい)府」という名前です。
    この時代の日本は、渤海国(ぼっかいこく)との日本海交易も盛んに行っていますが、渤海国との交易のための港には大宰府など設置されていません。
    単に国司のいる国府が、その交易管理にあたっていただけです。

    それがどうして筑前だけが「辛い府」なのかというと、そこが新羅や唐の国という敵性国家との窓口にあたる場所であったからです。
    唐や新羅への警戒から、日本は都を奈良盆地から近江に移したくらいですから、大宰府がいかに国防上の重要拠点とみなされていたかは明白です。

    ▼山上憶良が貧窮問答歌に込めた真意

    そもそも大陸も半島も、伝染病の宝庫といえるところです。
    ですから、出入りする船を厳しく監督しなければ、病原菌を日本に持ち込まれたら大変だったのです。

    山上憶良は、その大宰府の長官であった大伴旅人(おおとものたびと)とも親しい間柄でした。
    そしてこの時代、かつては倭国(わこく)の一部であった半島南部が、新たに半島を統一した新羅によって、きわめて過酷な取り立てと圧政が行われていたことは、歴史の事実です。

    こうした背景を考えれば、この『貧窮問答歌』に歌われている民衆が、かつて倭人の一部であった半島の人々の姿であることは明らかといえるのではないでしょうか。

    つまり山上憶良は、
    「政治ひとつで、あるいは国の体制ひとつで、
     ここまで民衆の生活が悲惨なものになるのだ」
    ということを、この『貧窮問答歌』であらわしたのではないでしょうか。

    「我が国を絶対にこのような国にしてはいけない!」
    その固い決意と信念あればこそ、山上憶良は、あえてこの『貧窮問答歌』を詠んだのではないでしょうか。

    『貧窮問答歌』には、次の短歌が一首付属しています。

     世間(よのなか)を
     う(憂)しとやさしとおも(思)へども
     飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

    半島と筑前の間には、海峡があります。
    船便が禁止されていれば、倭国へと移動する手段もありません。
    だから「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」です。
    これで全部の意味がすっきりと通ります。

    要するに『貧窮問答歌』は、かつて日本領であり、今では新羅によって蹂躙された半島の人々の困窮した生活の様子を、半島の向かいに位置する筑前の国司であった山上憶良が長歌に描いた作品です。

    このような、ある程度社会経験を積んだ大人なら、少し頭を働かせたら誰にでもわかる簡単なことを、あたかも山上憶良が強引な税の取り立てをした悪人であるかのように歪(ゆが)めて子供たちに教える。
    それは、すくなくとも子供たちに対する不誠実といえるのではないでしょうか。
    このようなデタラメが、戦後にはじまり、そしていまだに行われ続けている。
    それを立て直すためには、私たち今を生きる大人たちが目覚めていくしかないのではないかと思います。

    ▼これが筑前の民を思って詠んだ歌

    山上憶良は、筑前の民を心から愛し、美しいと捉えていて、次の歌を遺しています。
    万葉集の巻八に収められた歌で、題詞(ひたいのことば)には、「山上《臣》憶良詠秋野花歌」と書かれてあります。

    秋の野に咲きある花を指折りて かき数へれば七種(ななくさ)の花(一五三七)
    (秋の野に咲いている花を指折り数えると七種の花がありますな)

    萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花(一五三八)
    (その七種とは萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、おみなえし、ふじばかま、あさがおの花です。)

    歌に詠まれているのが「秋の七草」です。
    歌の特徴としては、山上憶良は花を、ただ植物ととらえているのではなく、人とともにある「生きた友」としてそれぞれの花を鑑賞しています。
    花のことは「めでる」といいます。
    漢字で書いたら「愛でる」です。
    大和言葉(やまとことば)では
    「目で愛(め)でる」
    つまり眺めて楽しみ、かつ「愛」は「おもひ、いとし」ですから、見て、いとしく思う。
    花へのそんなやさしい気持ちを言葉にしてきたのが、古くからの日本人の感性(かんせい)です。

    ちなみに、この歌にある「朝貌(あさがお)」は、今でいう桔梗(ききょう)のことです。
    私たち現代人が思い浮かべる夏の早朝に咲く朝顔は、熱帯アジア産で平安中期以降に日本に入ってきたので、この歌が詠まれた時代には、まだなかったのです。

    その花を、山上憶良は「野に咲く花」と詠んでいます。
    つまり「野に咲く花」が「自然の中で力強く咲き、生きている花である」としています。
    「いろいろな花」とは、憶良が勤める筑紫国の住民です。
    その「いろいろな花」を、山上憶良は美しいと詠んでいるのです。
    だから題詞で、「山上《臣》憶良詠秋野花歌」と書いています。

    万葉集の選者は、筑前の国司だった山上憶良が、民衆を心から愛した天皇の臣(おみ)であると書いているのです。
    このことが意味するのはただひとつです。
    それは、
    「民衆を心から愛する者」こそが、
    「万世一系の天皇の家臣」である、という自覚です。

    ***

    と、ここまでが本にしたことです。

    本書の前段階にあるのが、過日出版した『庶民の日本史』です。
    そして日本がまさに「奇蹟の国」といえるその根幹にあるのもまた、日本が庶民の国であり続けたという事実です。

    ただ日本を「オクレた国」と考え、欧風化することが正しいことであり、さらには日本よりもチャイナやコリアのほうが理想の国であるというのが、戦後日本のいわば常識となった思考です。
    しかし、それは誤りです。

    お伊勢様の式年遷宮は、第41代持統天皇の御世からはじまった、古くて長い歴史を持つ行事です。
    そして我が国は、歴史を通じて、お伊勢さまの式年遷宮は、国費をもって、これを行ってきました。
    そんな式年遷宮が、国費で行われなくなった時代が、我が国の歴史に2つあります。
    ひとつが、国が荒れた戦国時代の100年間。
    もうひとつが、戦後の日本です。
    つまり戦後の日本は、戦国の世と同じように、国が荒れた時代になっているのです。

    政治のことを「まつりごと」と言いますが、この2つの時代は、いずれも「まつりごと」よりも、人の欲が優先した時代といえます。
    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」
    まさに『貧窮問答歌』に描かれた半島の実態も、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」の世となった結果です。

    欲がいけないと言っているわけではありません。
    欲は人が生きる上で、なくてはならないものです。
    けれど、それが自分だけの欲求を満たすものであれば、そこに必ず力の強弱が生まれます。
    そして欲の強い者がますますその力を増せば、結果として、ごくひとにぎりの富裕者と、極貧状態の圧倒的多数の民衆といった構図ができあがります。

    そうではないのです。
    欲はあっても良い。
    けれど、その欲は、自分だけではなく、多くの人々のために使う。
    これを「大我(たいが)」と言います。

    日本が健全化され、ふたたび庶民が幸せに生きることができる国となるため、いま必要なことは国民教育であり、その国民教育のためには、核となる大我の覚醒者が、ひとり、またひとりと増えていくことが必要と思っています。


    日本をかっこよく!

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  • 禁門の変のお話


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    8月12日午前11時より毎年恒例の靖國神社正式参拝を行います。
    受付開始は午前10時半、集合場所は靖國神社参集殿前です。
    皆様のふるってのご参加をお待ちします。
    詳細 → https://www.facebook.com/events/645762524090656
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    皇居の禁門の警備を命ぜられた者は、一晩中、不寝番で篝火(かがりび)を絶やさず、また日中は篝火は消すけれど、雨が降ろうが雪が降ろうが槍(やり)や弓矢が飛んでこようが、まるで彫像のように、一切、不動の姿勢を崩さないのが、古くからの我が国の伝統です。

    20190717 蛤御門の変
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    日本をかっこよく!

    7月19日は、元治元年(1864年)に禁門の変があった日です。
    すこしややこしいですが、旧暦で元治元年7月19日、新暦ですと1864年8月20日になります。
    この禁門の変は、京都で起きた武力衝突事件で、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれています。

    ちなみに「変」というのは、本能寺の変、桜田門外の変というように、政権に対する武力行使で、警察力で対応できない陰謀や襲撃のことをいいます。
    警察力で対応できるものは「騒動」です。

    ですから、60年安保とか70年安保などが、もし自衛隊が出動するような事態であれば、江戸時代なら60年騒動とか70年騒動と呼ばれていたかもしれません。
    あるいは最近の森友学園や、加計学園問題などは、一昔前なら森友騒動、加計騒動です。

    もっともこのように言葉の使い分けを厳格にすると、騒動の当事者は処罰されてあたりまえ、という気風が日本社会には色濃く残っていますから、国壊議員さんや国壊メディアにとっては、いささか使いにくいことでしょう。
    そこで「○○問題」と称して、曖昧な言葉を使っているのかもしれませんね。

    さて、禁門の変ですが、禁門というのは天皇の御在所である京都御所にある門のことをいいます。
    京都御所は、簡単にいうと、御所の周囲を京都御苑が囲む・・・つまり京都御苑という広い庭園の中に京都御所がある、というつくりになっています。
    外側の御苑にある門が9つ、内側にある御所の門が6つです。
    それらすべてを総称して「禁門」といいます。
    ひとことでいえば、禁裏の門という意味です。

    内側の御所の門には、それぞれ建礼門とか建春門院などの名前が付けられています。
    外側にある御苑の門には、それぞれ蛤御門(はまぐりごもん)、堺町御門、寺町御門などの名前があります。
    禁門の変は、その外側の方にある蛤御門付近で長州と会津・桑名が衝突した事件です。
    そのため別名が「蛤御門の変」というわけです。

    実はこの戦いは、たへんな戦いでした。
    まず畿内における大名勢力同士の交戦は、大坂夏の陣(1615年)以来249年ぶりのことでした。
    次にこの変で京都市中の民家が戦火で約3万戸も焼失しました。
    京の都が乱によって焼失したのは、応仁の乱の際の大内政弘の入京の1467年から、397年ぶりの出来事です。
    まさに「変」だったわけです。

    この禁門の変は、一般に、
    「京都を追放されていた長州藩勢力が、
     会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、
     京都市中において市街戦を繰り広げた事件」

    と説明されています。
    ところが実は、会津藩や桑名藩にしてみれば、この変は、たいへんに、たいへんに、たいへんに迷惑なものでした。

    といいますのは、そもそも御所の各門の警備というのは、江戸時代には各藩が持ち回りで行っていましたが、そのための経費、つまり会津藩なら福島県の会津若松市から京の都まで、警備の藩士たちを連れての旅費交通費、移動途中および京の都内での宿泊費、食費、出張旅費その他一切の経費は、朝廷や幕府から1円の手当も出ない、100%大名の自己負担です。

    すこし考えたらわかることですが、これはたいへんな経費です。
    けれども、武士たちにとって、あるいは大名にとって、宮中の門番をやらせていただけるということは、先祖伝来の最高の名誉と考えられていました。

    このことは、江戸時代を通じてずっとそうでしたし、もっと古い時代、平安時代後期に、台頭した武士たちである源氏や平氏が禁門の警備をしましたが、それらも経費の一切は、源氏や平氏の負担でした。
    では武士たちが台頭する前の時代(天皇の歴史は武士よりはるかに古い)の禁門の警備は誰がやっていたかというと、いまでいう皇居勤労奉仕にやってきた庶民が、これを行っていました。

    禁裏の門の警護をやらせていただけるということは、ご先祖に誇れる素晴らしく名誉なことと考えられていましたから、一般の庶民、つまり平素お百姓さんをしている方々でも、皇居にやってきて、そこで女性なら皇居のお掃除、元気の良い男性なら皇居の警備を受け持ちました。
    それは生涯の記念になるというだけでなく、代々のご先祖に誇れる素晴らしい経験であったのです。

    御存知の通り、我が国の皇居は、諸外国の城塞都市にあるような王城と異なり、守城のための装備がまったくありません。
    天皇は、城の警護の必要がまったくない、民衆との良好な関係にあったからです。
    民衆の側からすれば、天皇という存在が、権力者よりも上位にあり、その上位にある天皇によって民衆が「おほみたから」とされているから、自分たちは「権力者からの自由」を得ているのです。
    つまり、民衆にとっての権力からの自由は、天皇という存在のありがたさによって保証されているのだと考えられてきました。

    ですから天皇の存在は民衆の自由の象徴でしたし、民衆が権力の横暴から逃れていることができるのも、これまた天皇のご威光のおかげであったわけです。
    もちろんその時代に自由とか民主主義などといった言葉はありません。
    けれど、権力よりも偉い天子様がおわし、その天子様から「おほみたから(大御宝)」とされているのだという自覚は間違いなくあったし、農家にしても、これを百姓と呼ぶのはわしらの姓は天子様から与えられたものだという自覚と誇りは、一般の農家の人々の胸にもしっかりと息づいていたのです。

    知行地を持つ武士は、俸禄を支給される武士よりも、より位が高いとされました。
    なぜなら知行地を持つということは「知らすを行う武士」であることの証であり、知行地に住む人々の生活一切に責任を持つことであったからです。
    そのための知行地なのです。
    なぜそのようになるのかといえば、知行地に住む人々は、すべて天子様の「おほみたから」です。
    それは、天子様(天皇)の「御宝」をお預かりする、ということです。
    たいへんなお役目なのです。
    そしてそうしたご皇室を最高権威とするという思考のもとに、いまなお続く「皇居勤労奉仕」が行われていたのです。

    その勤労奉仕の中でも、禁門の警備を任せられることは、まさしく家門の名誉でしたし、ご先祖様への最大の供養でもありました。
    ですから警備を命ぜられた者たちは、一晩中、不寝番で篝火(かがりび)を絶やさなかったし、日中は篝火は消すけれど、雨が降ろうが雪が降ろうが槍(やり)や弓矢が飛んでこようが、まるで彫像のように、一切、不動の姿勢を崩さなかったのです。これが我が国の歴史であり伝統です。

    そういう歴史的経緯のもとにありますから、禁門の変のときも、門を護る会津や桑名の武士たちは、銃や鉄砲を持った長州が攻めて来ても不動の姿勢を崩すことができません。
    石像のように立っていることが任務なのですが、そこに長州が矢や鉄砲を射掛けたり撃ったりしてくるわけです。
    動かないのですから、当然、弾が体に当たります。
    それでも仁王立ちでいるのですが、死んで倒れると、次の輪番の武士が、門番に立って不動の姿勢を取ります。
    当然、弾があたり、矢が刺さる。
    それでもそのまま立っていた。
    そしてついに倒れると、今度は別な武士が、そこに立つ。

    まるで連続自殺のようですが、たとえ不条理であったとしても、約束は守り抜くのが武士です。
    しかし突然攻められた会津や桑名の藩士たちにとって、禁門の警護場所を攻められるということが、どれだけ迷惑なことであったのかご想像いただけますでしょうか。

    当時の長州藩士たちを責めたり、悪く言ったりするのではありません。
    禁門の変のおよそ1年前には、八月十八日の政変によって、長州藩は、名誉ある堺町御門の警備を免ぜられているのです。
    先祖伝来の最高の名誉ある禁門警備を免ぜられるということが、当時の長州藩士たちにとって、どれだけ屈辱であったのか、どれだけ恥ずべきことであり、ご先祖に申し訳ないことであったのか。
    それは、死罪を仰せつかるよりも、もっとはるかに不名誉なことであったのです。
    このことを考えれば、追い詰められた長州藩士たちが、禁門警備を免じた会津や桑名藩に対して、どれだけ戦意をつのらせたか、ご理解いただけようと思います。

    歴史は、このように、当時の気分というか、当時の常識というか、そのようなものをきちんと踏まえなければ、ちゃんとしたものが見えてきません。
    この日「禁門の変があった」ということは史実ですが、史実と歴史は異なります。
    歴史は、なぜその事件が起こり、どのような経緯があり、その結果何が起こったのかを合理的に再現性を持って説明するのが歴史です。
    当然その時代の人となって事態を把握しなければ、見えるべきものが見えてきません。

    早い話、日本を取り戻すという昨今の保守運動にしても、それが国壊主義(左翼)と国護主義(右翼)の思想上の対立の演出というだけでは、我が国では、武力衝突は絶対に起こりません。
    そこに人々の魂を動かすだけの誇りや名誉への毀損が加わったとき、衝突は感情の暴発となります。

    このことが何を意味しているかと言うと、日本人が「どこまでも平和を愛する民族である」ということです。
    日本人が本来どこまでも平和を尊ぶ民族であることは、近畿での武力衝突が大坂夏の陣(1615年)以来249年ぶりのことであったことでも証明されています。

    歴史は、単に起きた事実の羅列を学ぶことではありません。起きた事件を通底するものが何であるかを合理的に説明するものです。
    そしてそれが合理的であるとき、はじめて歴史は再現性を持つことになり、そこからはじめていまを生きる、あるいは現状を打開する知恵となります。
    逆に合理的な説明がつかない、あるいは再現性のないものは、歴史を再構築できませんから、歴史の名に値しません。

    あたりまえのことですが、禁門の変を、マルクス史観の階級闘争史観で説明しようとしても無駄なことです。
    会津藩も長州藩も、どちらも等しく藩であり、誇り高い武士であったからです。
    尊王攘夷派と佐幕派の対立と闘争で説明することも不可能です。
    なぜなら長州藩も会津藩も、どちらも尊王であったからです。


    ※この記事は2017年7月の記事の再掲です。
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  • 日本語と世界の言語の歴史を論理的に紐解いてみる


    初期の言語は無声化音(子音)がなく、母音だけであったと考えられます。それが長い歳月と地域差の中で、子音が生まれ、次第にそれぞれの地域や民族に合った形となることで、世界の言語がバラバラになっていったとするならば、元々の言語はどこにあったのか。もしかすると、古代の知恵をそのまま残す日本語の中に、人類の始祖からの言語の形態が温存されているのかもしれないということになるのです。


    20220724 ヒエログリフ
    画像出所=https://wired.jp/2020/09/18/google-egyptian-hieroglyphics/
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    日本をかっこよく!

     有名なシンガーソングライターの谷村新司さんの曲は世界中の言語に翻訳されて歌われています。
    その関係から世界中の音楽祭等に招かれて、そこで現地の人の言葉で歌われる「昴(すばる)」や、「群青」、「いい日旅立ち」などを聴き、またご自身でも歌われるのだそうです。
    こうした経験を経て、氏が「あらためて日本語の美しさを感じた」と述べられたことがあります。

     実は日本語は、とても美しい言語です。
    美しいだけでなく、世界中の言語と互換性を持つ包容力があり、世界中の言語や文化を日本語の中に取り入れることができます。

     このことについてこれまでは、「日本列島はユーラシア大陸の東の果てに有る。文明は西から東へと流れ、海を渡って日本にやってくる。けれどその先はもはや太平洋である。それ以上先へ進むことができないから、気がつけばなんとなくこの日本列島で人々が同化し、日本人を形成していった」といった具合に説明されていました。
    あるいはもうすこし過激なものになると、「日本列島にはそもそも文化も言語も存在せず、野生の猿同然の暮らししかなかったところへ、チャイナからコリアを経由して文明がもたらされ、日本文化は、チャイナ・コリアの模倣文化として形成されたのだ」などといった説もあります。多くの教科書は、後者の説をとっているようです。

     けれど、少し考えたら誰にでもわかることですが、古代において我が国で数多く作られた古墳はチャイナに存在しません。日本の古墳は2世紀から形成されますが、コリアの古墳4世紀のものです。
     チャイナに高度な文明が花咲いたといいますが、世界最古の土器や漆器は、日本で見つかっています。
    日本文明は、およそ3万8千年前からずっと継続していて、時代ごとの変遷を現代までたどることができますが、コリア半島には、いまから1万2千年前から7千年前まで人が住んだ痕跡を示す遺跡がありません。

     日本は3千年前から鉄器を用いていますが、日本で作られた鉄器は、鍬や鎌などの農機具ばかりです。ところがこれが大陸に渡ると、武器として使用されるようになりました。
     人々が生きるための生活道具が、人を殺す武器になる。これは民族性といえることかもしれません。
     ちなみに武器と凶器は異なります。最初から人を殺傷する目的で作られるのが武器、他の生活用品として用いられているものが、たまたま殺人に用いられると、これを凶器と呼びます。

     そしてこのあたりが、西洋やチャイナの歴史観と、日本の歴史を考えるときの、実は大きな違いになります。
     このことは西洋がわかりやすのですが、西洋の科学技術は、基本、軍事力の強化のために開発され、発展したものといわれています。(もちろんそうでないものもありますけれど、全体に、その傾向があるという話です。)このことは東洋史も同じで、技術は、農機具や人々の生活用品の工夫や開発が主軸ではありません。すべて軍事技術が基になっています。

     ところが日本では、軍事技術よりも、人々の民生品として技術が発達しています。たとえば鉄器は、もちろん刀剣にもなっていますが、それはずっと後の時代の話。もともとは鋤や鍬、鍋や釜などに用いるために開発されました。その伝統を引き継ぐものに南部鉄器や、精巧な大工道具があります。

     こうした文化的伝統は、実はいまも続いていて、世界最先端の半導体を、海外の大国諸国は、ことごとくこれを軍事に用いますが、日本では、NASAより進んだ超最先端の半導体が、プレステなどのゲーム機に使われ、人々の楽しみに貢献しています。
     こうした文化の違いは、言葉そのものにも現れています。

     西洋においても、中世までは言葉や文字はそのまま魔力を持つものとされ、魔法は呪文で行われるし、文字も、もともとは呪術道具として用いられてきました。このため文字や言葉を操る者は、そのまま魔術師や魔法使いと呼ばれ、そこから魔女狩りなどというものも派手に行われています。同じことは東洋にもあり、方士(ほうし)と呼ばれる人たちは、仙術を用いて敵を籠絡するものとされてきました。
     ところが日本では、西洋や東洋がまだ中世社会であった千年前に、紫式部のような女流文筆家が登場し、さらに8世紀に成立した万葉集では、一般庶民のおじさんやおばさん、娘さんや息子さんたちが、歌を詠み、それを文字にしたりしています。そしてそれらは、人々の楽しみや、よりよく生きるための学びとして用いられてきました。

     シェパートといえば、警察犬としての活躍が有名ですが、あるブリーダーさんによると、米国で生まれたシェパードで、訓練士の言うことをまったく聞かず、とにかく性格が悪くて乱暴者のシェパードが、いらない犬だからということで、日本に送られて来るのだそうです。
     ところがそんなシェパードが、日本で暮らして半年も経つと、どの子も実にあたたかで思いやりがあり、訓練士の言うことをよく聞く良犬になってしまうのだそうです。そのブリーダーさんは、「これはおそらく日本語が持つ特殊性にあるのではないか」と述べておいでになりました。

     日本語は、世界的に孤立した特殊な言語なのだという説があります。日本語は撞着語といって、名詞や動詞を「てにをは」でつなぐ言語であり、また語順も「SOV型」で特殊な言語だと言われます。Sは(主語)、 Vが(動詞)、 Oが(目的語)ですが、この語順が英語は「SVO型」、日本語は「SOV型」であり、世界の中で孤立した言語だというのです。

     まず言語の発達を考えてみます。
     はじめに猿人から進化したばかりの人類の初期の頃の言語は、「あ〜」とか「う〜」とかいった母音だけの原始的なものであったであろうと考えられています。
    上を向いて青い広大な空を見上げて声を発すれば、自然に「あ」の音が声に出まし、誰かに声をかけようとすれば、自然と話しかけようとすれば、「なあ、なあ」という声が出ます。
    これらは人類の喉の構造から、自然にそうなってしまいます。

    そこから日本語ですと、「あ」は広大な天であり、その広大な天の中に生きる自分という意味で、古語の一人称が「吾(あ)」となります。
    また人に話しかけるときの「なあ、なあ」が転じて、二人称が「汝(な)」となりました。
    自分が「あ」、相手が「な」で、「あ」と「な」がようやく出会うと「ふ〜」とため息が出て、そこから誰かと誰かの出会いが「あ」が「ふ〜」で、「あふ」となります。
    こうして単語が生まれ、単語がさらに組み合わさって、複雑な言語が形成されていきます。

     そうすると、最初に誕生した単語の多くは、名詞や動詞であり、それらをつなぎ合わせることで、言語が形成されていったと考えられます。つまり人類の始祖の言語は、撞着語であった可能性が高いといえるのです。そしてこのことは、西洋における最古の文明といわれる古代シュメール文明の言葉が、日本語と同じ撞着語であったことによって証明されています。

     ところが言語というものは、長い歳月の間に省略化という現象が起きるものです。最近の日本語でも、たとえば「教(おそ)わった」という言葉は、いつの間にか短縮されて「おさった」に変わったりしています。

    ローマ字で書くと
     OSOWATTA(おそわった)
     OS ATTA(おさった)
    で、ここでは「OW」が省かれています。

     またあるいは、アニメや漫画がお好きな方なら、「ふざけんな!」という言葉が、「ざけんな」となったり、軍隊の号令の「撃て〜!」が省略されて「て〜!」となったりすることは、皆様御存知の通りです。これらを総称して言語の「無声化」と言います。母音が無声子音に挟まれたり文末に来たりすると、声帯の振動がなくなって、母音が聞こえなくなる現象が起こるのですが、そうすると、徐々に無声部分が言語から省かれて、異なる言葉になっていく、というわけです。
    たとえば「洋服(ようふく)」は、「ふ」が無声化して、「よう〜く」のように聞こえます。わかりやすいのが文末で、「〜です」、「〜ます」の「す」も無声化して「です(DESU)」が「DES」へと変化します。方言でも、「わかりました。そのようにいたします」が、「わかりゃた。そのようしまっ」なんて変化するわけです。これらは無声化したものが、ついには省略されてしまっているわけです。

     つまり言語の発生、単語の生成と、言語化による無声化現象を考えてみると、もしかすると撞着語の方が歴史が古いのかもしれないという仮説が成り立ちます。実際、諸国の言語は、「Know」のように先頭の子音が無声化したり、末尾の母音が省略されて単語の末尾が子音で終わるものがたくさんあります。無声化したもの、つまり聞こえない音が言語になることはありませんから、それらはもともとは、しっかりと全部が発声されていたのに、長い歳月と、地域の移動によって、次第に無声化したものが定着して、別な言語になってしまったと考えられるわけです。

     実は語順も同じで、文法上は、たとえば日本語では「私は(S)、東京に(O)、行きます(V)」のように「SOV型」で書かれますけれど、日常会話では、「行くぜ(V)、東京に(O)、俺(S)」のように「VOS型」になることもあれば、「行くぜ(V)、俺(S)、東京(O)」のような「VSO型」にもなり、「俺(S)、行くぜ(V)、東京(O)」のような「SVO型」になることもあるわけです。
     英語においても、文法的には「I am going to Tokyo.」ですが、実際の会話では「Go to Tokyo,I」となったり、「Go I Tokyo」になったりもします。

     要するに話し言葉であれば、身振り手振りも加わりますので、どの国の言語でも、語順はかなり適当であるわけです。
     また、軍事を中心とする言語であれば、「いつ」は非情に重要な事柄になります。ですから言語内に時制が入るのは、これは必要から生まれます。一方日本は平和ですから、言語に時制を求めません。そうした社会的背景もまた、言語に影響を与えていくわけです。

     要するに、初期の言語は無声化音がなく、それが長い歳月と地域差の中で、次第にそれぞれの地域や民族に合った形となることで、世界の言語がバラバラになっていったとするならば、元々の言語はどこにあったのか、ということが議論になります。そしてそれはもしかすると、古代の知恵をそのまま残す日本語の中に、人類の始祖からの言語の形態が、もしかするとまるごと温存されているのかもしれません。

     さらにいうと文字についても、日本の神代文字は、世界中の古代文字(ヒエログリフ)と共通であったりします。筆者には読めませんが、神代文字をご専門に研究されている方は、世界中の古代文字で書かれた文がちゃんと解読できるのだとか。

     タイムマシンでもない限り、実際はどうであったのかはわからないことですが、7300年前のアカホヤの大噴火のときに、日本列島から多くの人々が世界各国へと流れ出したこと、ちょうどそれと時を同じくしてシュメール文明が起こり、またチャイナにおいては長江文明が起きていることなどを考えますと、これまたもしかすると日本は、世界の文明の基礎を築いた国であった、といえるのかもしれません。

     ちなみに何万年も前や、アカホヤが噴火したときの7300年前のことは、タイムマシンでもない限り、誰も行くことができないのですから、これらはあくまで考古学的証拠やDNAの解析等から、文化の流れを論理的な整合性があるように推理していくほかないわけです。従って現時点では「こうなのだ!」と決めつけるのではなく、あくまで仮説として事実に基づいて過去に起きたことを論理的に考え、再現していくしかないわけです。これはほとんど犯罪の科学捜査に似ていることということもできます。


    ※この記事は2022年7月の記事の再掲です。
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  • 十七条憲法の誤解釈を斬る


    常に天然の災害に囲まれている日本では、その事前事後の対策のため、常にみんなとの合意の形成を大切にしてきたのです。

    20200615 聖徳太子
    画像出所=https://toyokeizai.net/articles/-/118796
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    「論」という字の訓読みは、「あげつらふ」です。
    「あげつらふ」は、お互いに顔(つら)を上げて、相手の目を見て討論するという意味です。
    中世から近世にかけては、目上の人には平伏して、下の者は上の人に許可されるまで顔をあげることができないものでしたから、顔(面)をあげて、相手の目を見て討論するというのは、上下関係の秩序とは別なものです。

    秩序は人間社会にとって大切な(必要な)ことです。
    しかし秩序ばかりを重んじて、論(あげつらふ)ことを失うと、独断専横の世の中になります。
    大陸系の文化では、この独断専横を重んじます。
    なぜなら独断専横は、意思決定が迅速であり、戦争に有効だからです。
    外敵が常に人であり集団であるならば、これに打ち勝つには人を集めて戦うしかない。
    けれど戦えば死者が出ますから、その戦いにあたっての兵は、できれば自分たちの集団ではない者たちを使用することが好ましい。
    そこから奴隷兵の概念が生まれるわけで、簡単に言えば死んでもらっても構わない者たちを兵として使役することで、身の安全を図り、権力や富を維持しようとするわけです。

    ところがこうした考え方は、日本では通用しません。
    なぜなら日本は、天然の災害が多発する国土を持つからです。
    幸いにして天災が数十年にわたって起きないでいてくれれば、大陸型の上下と支配、隷民の使役による富の構築などが、その災害のない期間中は有効になります。
    けれど、ひとたび大きな災害が襲えば、上下と支配の関係は成立し得なくなるのです。

    なぜなら災害復興のためには、多くの労働力が必要です。
    災害によって疲弊した地域の人々が、復興への大きな希望を保つためには、被災地となったエリアに住む人々の生活に、日頃から一定のゆとりと、高い民度がなければなりません。
    このゆとりと高い民度があるから、日本では大地震の直後でも人々がコンビニの前に並ぶことができるのです。
    すべての富を、人口の上位1%の人が握り、あとはすべて生きていることが精一杯の奴隷という社会では、災害が起きれば、生き残った人々は暴動をし、あるいは略奪をするしか生き残る術がないのです。

    また次に大きな災害がやってきたときに、被害を最小限に食い止めるためには、防災工事の正確を期さなければなりません。
    そのためには、何よりもみんなが納得ずくで完璧な工事や予防対策、復興工事などが行われる必要があります。
    どこかに手抜き工事があれば、たとえばそれが堤防なら、その場所から堤防が簡単に決壊してしまうからです。

    要するに古くからの国の形が、
    (1)「戦火・人災」への生き残り策として形成されてきた
    (2)「天然の災害」への生き残り策として形成されてきた
    この違いが、日本の特殊性を形成しているということができます。
    そして(2)が成立するためには、国民がそれぞれに高い民度を持ち、相互に秩序を重んじながらも、同時にちゃんと建設的な論(あげつらふ)ができるという国民性が必要になります。

    ところがこのことは、同時に(1)の権謀術数型の国から見たときに、(2)の国はきわめて工作のしやすい国ということになります。
    なぜならその論の場に、強硬に反対だけを主張する者を送り込みさえすれば、(2)の社会は何も決めることができなくなるからです。

    ですから十七条憲法では、第三条において
    「詔(みことのり)を承けては必ずつつしめ」
    というルールを定めています。
    討論では、互いに激論を交わして良いけれど、討論をつくして結論が詔(みことのり)として出されたときには、どんなに自分が反対の意見を持っていたとしても、出た結論にちゃんと従いなさいという意味です。

    しかしそのためには、
    「高い民度を持ち、
     相互に秩序を重んじながら
     同時にちゃんと建設的に
     論(あげつらふ)ことができる国民性」
    が必要になります。

    これが我が国が1400年前に制定した憲法の精神です。
    十七条憲法は、単に「和を以て貴しとなす」ことをうたいあげた憲法ではありません。

    「それ事(こと)は独(ひと)りで断(さだ)むべからず。
     必ず衆(もろもろ)とともによろしく論(あげつら)ふべし。
     少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。
     ただ大事を(あげつら)ふに逮(およ)びては、
     もし失(あやまち)あらむことを疑へ。
     故(ゆへ)に、衆(もろもろ)とともに相弁(あいわきま)ふるときは、
     辞(ことば)すなわち理(ことはり)を得ん」

    これが第17条です。
    「物事は独断で決めてはいけません。
     必ずみんなとよく討論して決めなさい。
     小さな事、自分の権限の範囲内のことなら、
     ひとりで決めても構いませんが、
     大事なこと、つまりより多くの人々に
     影響を及ぼすことを決めるときには、
     必ずどこかに間違いがあると疑い、
     かならずみんなとよく議論しなさい。
     その議論の言葉から、
     きっと正しい理が生まれます。」
    というのが、この条文です。

    そしてこの条文が、第一条の文言につながるのです。
    「一にいわく。
     和を以(も)って貴(たつと)しとなし、
     忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
     人みな党(たむら)あり、
     また達(さと)れるもの少なし。
     ここをもって、
     君父(きみやちち)に順(したが)わず、
     また隣里(となりのさと)に違(たが)ふ。
     しかれども上(かみ)和(やわら)ぎ
     下(しも)睦(むつ)びて
     事を論(あげつら)うに諧(かな)うとき、
     すなわち事理(ことはり)おのずから通ず。
     何事か成らざらん。」

    つまり十七条憲法は、あくまで上下の身分を越えて顔を合わせて議論することの大切さと、そのためのルールを定めた憲法なのです。
    ただ単に「和を以て貴しとなせ」というだけではない。
    それにそもそも「和を以て貴しとなせ」というのなら、なぜ「和」が大事なのかの理由が明確にされていなければなりません。
    その理由を明確にしないで、単に頭ごなしに「和が大事」と述べているのが憲法だというのなら、それではただの教条主義であり、どこかの新興宗教と同じです。

    そうではなく、まず冠位十二階があり、身分の上下を明確に定めたうえで、十七条憲法においては、その身分の垣根を越えて、互いに心を開いて議論しましょう。
    そうすることで我が国は間違いのない、あるいは少ない、国になることができるのだ、ということを示したのが十七条憲法であるわけです。

    これは五箇条の御誓文の第一「広く会議をお越し万機公論に決すべし」と同じことです。

    日本人は、ただ和を大切にするというだけの民族でもなければ、国家でもありません。
    常に天然の災害に囲まれている日本では、その事前事後の対策のため、常にみんなとの合意の形成こそが大事とされてきたのです。


    ※この記事は2020年6月の記事の再掲です。
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  • 47の戦争宣伝の内幕


    家族が隣家と自家が異なるように、民族にも違いがあります。
    だから国境があります。
    「違いがある」ということを、ちゃんと認識して、お付き合いをする。
    その距離感は、関係を円滑にしていくのに必要なことです。
    なんでもかんでも受け入れれば良いというものではありません。

    20180627 上海の阿片窟 1901年
    20180627 上海の阿片窟
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    米国人のラルフ・タウンゼント(Ralph Townsend)は、1900年(明治33年)生まれで、戦前の47に外交官として赴任した人です。
    この人が書いた本の日本語訳が出版されています。
    たいへん興味深い内容です。
    『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著


    以前、義和団事件(1900年)を題材にしたチャールトン・ヘストン主演の映画『北京の55日』のご紹介をしたことがあるのですが、この映画を見たあるご年配の方が、
    「当時の47人には、あんなに太っている奴なんていなかったよ。」
    とおっしゃられていました。
    清朝末期、国が荒廃する中で、誰もが餓え、貧困のどん底にいた時代です。
    とりわけ圧倒的多数を占める低所得者層の生活は悲惨を極めていました。

    そんな時代の、47の光景が、このタウンゼントの著書には詳しく述べられています。
    いまでは47は豊かになったとはいえ、その精神構造は、当時と何も変わっていない。
    そのことを、この本は私達に教えてくれます。

    すこし刺激が強いですが、たいへんな良書です。
    以前にも一度ご紹介しましたが、そのなかの一部を抜粋してお届けしてみたいと思います。

    ******
    屎尿(しにょう)はどう処理をするのか。
    家の中に大きな石のカメがあり、これに用をたす。
    これをとっておき、農家や仲介業者に売る。

    華北では、営業許可を得た農家や業者が毎日のように、呼び声高らかに、手押し車や荷馬車を引いて、華南では、天秤棒に桶を二つぶらさげて買いに来るから良いが、内陸部の田舎はひどい。
    客室と同じ棟に巨大なカメがデンと座っている。

    なかなか処理しないから、慣れない客はたいへんだ。
    脱臭剤など見たことも聞いたこともない。

    都市部から田舎へ向かう屎尿買い付けの長い列が続く。
    写真で見ると実に素晴らしい。
    見渡すかぎりの田舎道、山道を、桶を二つぶらさげた天秤棒を担いで、何千という人間がのろのろ歩いていく。
    古くなって中程がへこんだ屋根の家や、灰色の竹と日干レンガのあばら屋などがごちゃごちゃした中に、高くそびえる塔がひとつ、ふたつ見える街から集めた屎尿を畑に撒きに行くのである。
    伝統的な畑造りである。

    華南では、担ぎ手は大抵が女で、痩せてはいるが足腰は強く辛抱強い。
    年嵩の女連中は、荷物で重くなってキーキーいう竿(さお)にあわせて掛け声をかける。
    決まったようにくるぶしと膝の中ほどまでの黒い木綿のズボンをはき、よほど暑くない限り何もかぶらない。
    上着は何度も洗うから、色落ちしている。
    足は裸足である。

    若い娘の中には目もと明るい美人もいる。
    また、赤いヘアバンドをしている者もいる。
    これは人妻の印である。
    ぽっちゃり型で元気であるが、歳をとるのが早いから、すぐに歯が欠け、おばあちゃんになる。

    街の市場で買い物をする者がいる。
    魚一匹、田舎では買えない野菜一束等である。
    これを桶の側にぶらさげるから、糞尿がかかる。

    手押し車や荷車で市場に野菜を運ぶ者がいる。
    前日、糞尿を入れた同じ桶に入れてなんとも思わない。
    まして糞尿がかからないように包もうなどとは、まったく考えない。

    彼らは伝染病が流行るときは大変だ。
    流行に一役買うことになる。
    屎尿を桶にめいっぱい汲んで蓋をしない。
    毎日通る道をヌルヌルに汚して、全く気にしない。
    そこで遊んだ子供や犬や豚が、バイ菌を家に持ち込むのである。

    写真で見たらきれいな田舎の風景ではあるが、現実はきれいごとでは済まされない。
    街から集めた屎尿を水で薄め、作物に撒き、家族総出で一日中、土になじむように裸足でこねまわすのである。
    真夏の強烈な日差しに照らされると、美しい田園風景どころではない。
    一面、悪臭で息もできなくなり、一度足を踏み入れたら、必ず具合が悪くなる。


    (『暗黒大陸 中国の真実』82ページ)
    *******

    タウンゼントは米国人で、米国務省に入省し、昭和6(1931)年に上海副領事として47に赴任しています。
    満州事変に伴う第一次上海事変を体験し、その後福建省に副領事として赴任したあとに、昭和8(1933)年に米国に帰国してこの本を出版しました。

    タウンゼントは親日派の言論を展開したために、大東亜戦争開戦後にまる1年間投獄されてしまいました。
    もし当時の米国が47の買収による宣伝工作に乗らず、冷静かつ客観的にタウンゼントの言をいれて東亜政策を推進していたのなら、おそらく日華事変も大東亜戦争も起きなかったといわれています。
    またその後の47国民党と47共産党の争いもなく、47共産党による1億人規模の虐殺も起こらなかったことでしょう。

    辛亥革命は、清朝の王都である紫禁城内にあった清王朝の所有する財宝類を、まるごと奪い去りました。
    清の最期の皇帝である愛新覚羅溥儀に残されたのは、古くなった自転車1台と、いま着ている服一着だったそうです。
    それ以外は、すべて略奪されました。
    その略奪された財宝は、値段のつけれないような高価な品々ばかりでした。

    当然のことですが、貧しい当時の47では品物の捌きようがありません。
    そこで蒋介石は弟をヨーロッパに、妻の宋美麗を米国に派遣して、これらの財宝類をメディアや政治家たちにばらまきました。
    また国民党が日本に勝利した暁にはと、47国土の欧米への切り売りの空手形を大量に発行していました。

    この蒋介石および妻の宋美齢の三姉妹は、いずれも47のある家族集団の出身です。
    その集団は、古代の周から春秋戦国時代の王族の末裔といわれ、中原を追われてジャングルなどの僻地に家族集団でドーナッツ状の巨大家屋を造って、長年その内側だけで生活をしてきました。

    欧米列強が清国の蚕食にやってきたとき、彼らの植民地支配には特徴があって、欧米人には47語はわかりませんから、現地にある迫害された(とされる)少数民族に特権を与えて、彼らを手先として利用して、その国の簒奪を行いました。
    このとき、英国の手先となって、英国の東インド社のアヘン売買を一手に担ったのがその家族集団でした。

    英国のアヘンは人気が高く、当時は麻薬としての扱いは受けておらず、民間の治療薬として、一時的に戦闘によって得た痛みも消す効果があって混迷が続いて暴力が支配した47国内でたいへんな人気となりました。
    またアヘンは性交に用いると男女ともに腰が抜けるほどの快楽を得ることができるのだそうで、そのあたりもアヘンの人気に一役買ったと言われています。

    ところが日華事変後、日本軍が統治するところでは、アヘンの密売が規制され、しかも日本軍は、他の国々の軍と違って、彼らの得意の買収戦略も効き目がない。
    まさに当該家族集団にとっては、日本軍は「彼らのアヘンでの金儲けのための市場を奪い取った侵略者」であったわけです。

    そこで国民党や八路軍などを操って日本軍への交戦を仕掛けるのですが、圧倒的に数が少ないはずの日本軍が、やたらと強い。
    沿道に2万のトーチカを設置し、ドイツ式の最新型の武器を揃えて20倍の戦力を持ってしても、日本軍が勝ってしまう。

    あまりに負け続けるところに、一方で欧米では、代々続く植民地の支配層の貴族や、その貴族らをスポンサーとする政治家たちにとって、日本軍は、東亜における植民地解放や、人種の平等を高らかに主張するので、口には出せないけれど、今風に言うなら、ウザい存在ともなるわけです。

    ヨーロッパでは、男性が行った当該家族集団の行動は、あまり大きな成果をもたらさなかったけれど、米国で47人の女性集団が始めた運動は、おもいきりツボにはまりました。

    彼女たちは昭和13年に『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』という小冊子を刊行し、「1937年7月、47政府が和平のための努力をしたにもかかわらず、日本の軍事政権は北京郊外で、盧溝橋(Marco Polo Bridge)事件を起こし、これを利用して47への全面的な侵略を開始した。」という、荒唐無稽な主張を展開したのです。

    この荒唐無稽な主張を書いた小冊子を編集発行したのは、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という名の団体です。
    そしてこの団体には、ヘンリー・スティムソン(元国務長官、後陸軍長官)、ロジャー・グリーン(元在漢口アメリカ総領事)、ハリー・プライス(元北京大学教授)、マーガレット・フォルシス(YWCA北米同盟)、フランク・プライス(在中宣教師)、アール・リーフ(元UP中国特派員)、ジョージ・フィッチ(中国YMCA主事)、ヘレン・ケラー(作家)、マクスウェル・スチュワート(『ネイション』副編集長)、フィリップ・ジャッフェ(『アメレジア』編集長)など、政界とメディアの大物がズラリと顔を揃えました。

    そして小冊子には、ルーズベルトも寄稿して、
    「宣戦布告もなく、いかなる種類の警告も弁明もなく、女性や子供を含めた民間人が空から降ってくる爆弾によって虐殺されている」
    と書き、またパール・バック女史は、
    「世界のためを考えるならば、
     日本と47とどちらが勝者になってくれるのが好ましいだろうか。
     47が勝ってくれる方が、はるかに世界の利益に叶うように私には思われる。
     日本が勝ったならば、
     一等国に成り上がるばかりでなく超大国となって、
     東洋全体を掌中に収めるであろう。
     日本はさらにプライドを高めて
     なお一層の征服に乗り出すであろう。」
    と書き立てました。(史実を世界に発信する会・資料より)

    そして米国の民衆のほとんどすべては誰も日本との戦争など望んでいなかったにも関わらず、これが米国の「世論」ということになって、ルーズベルトは日本を開戦へと追い込んでいくことになるわけです。
    パール・バック女史は知りませんが、このとき、他の男性の米国要人のもとには、かなりの数の47人女性が献上されたといいます。
    こうして、なんと宋姉妹の工作活動は、スタートからわずか一年後には、米国の対日通商条約破棄という暴挙に至り、その3年後には、ついに真珠湾攻撃に至るわけです。

    我々日本人は、スパイというと、007や忍者のイメージで、裏の世界でうごめく人を想像しがちですが、世界的な大スパイというのは、世間でも名の通った大物です。
    そもそも影響力のある人であり、それなりのカネとヒトを動員できる人でなければ、工作などできないのです。
    当然のことです。

    よく、日本は47の宣伝工作によって追い詰められたという話を聞きます。
    しかし宣伝なら、戦前の日本もしていたのです。
    しかし、ただ宣伝したり、オフィシャルな正論を展開する日本に対し、47はあらゆる非合法手段を駆使して、目的を遂げようとしました。

    いまでも47人美女が工作のために要人の夜の同伴をするということが行われるのだそうですが、それら美女は47中から集められ、言うことを聞かなければ見せしめのために彼女たちが見ている前で、言うことを聞かない女性が処刑されるのだそうです。
    言うことをきけば、ありとあらゆる贅沢が与えられ、聞かなければ残酷な処刑が待っている。
    今も昔も変わらぬ、アメとムチの巧妙な使い分けがそこにあるのだそうです。

    ちなみに個人的には、人を利用主義的に利用するということは、するのもされるのも絶対に受け入れられません。
    人は、誰もが対等であり、おほみたからであり、安心と安全と、互いのよろこびや幸せのために自分なりに誠実をつくすことが大事なことだと思います。

    それからもうひとつ、上にご紹介した『暗黒大陸 中国の真実』の一文だけでもそうとう衝撃的ですが、糞尿を作物の肥料として活用するということは、日本でもごく普通に行われていたことです。
    ただ、日本では、47のように回収した糞尿をそのまま畑に蒔くのではなく、深い穴である肥溜めに糞尿を入れ、そこで発酵させて良質な肥料にして畑に撒きました。

    発酵させて畑に撒いた方が衛生的でもあるし、肥料としても役立つのです。
    ところが47で、直接畑に撒いて、裸足で土とこねました。
    どうしてそのようなことになったかというと、畑はいつ暴徒たちに襲われて、作物を根こそぎ持っていかれるかわからなかったからだといわれています。
    ですから深々と肥溜め用の穴を掘って肥を発酵させることもできないし、仮に掘っても、万一そこに暴徒の誰かが落ちようものなら(昔は日本でも子供などがよく落ちたものです)、報復のために一族全員皆殺しに遭いかねなかったのだそうです。
    哀れといえば、とんでもなく哀れなことですが、人が人を支配するだけのウシハク国では、そうなってしまうのです。

    女性の服装が、綿でできた黒の半長パンツと、何度も洗いざらして色の抜け落ちた上着しかなかったというのも、同じ時代の日本では、相当、貧しい人達であっても、現実にもう少しましな服装をしていたことを考えれば、いかに47の民衆が虐げられていたかわかります。

    47が貧しかった理由のひとつに、作物の収量に対して人口が多すぎる、という問題がありました。
    昭和初期のことです。
    日本は、稲塚権次郎博士が、従来の品種の5倍もの収量のある小麦(農林10号)を47に持ち込み、終戦後もまる二年47にとどまって、その栽培指導をし続けました。
    これは蒋介石の依頼があってのことです。

    47では、日本からもたらされた新種の小麦によって、なるほど小麦の収量は47全土で約3倍になりました。
    「これで、みんなが腹いっぱい食えるようになる」というのは、日本人の甘い見通しでした。
    47では小麦の収量が増えた分、そのまま人口が増えたのです。

    大東亜戦争開戦前の47の人口は4億5千万人です。
    それがいまでは15億の人間がひしめいています。
    そしてその多くは、年間所得が30万円にも満たない貧しい人々です。

    いかなる道徳も、社会システムも、それは人間が作るものです。
    人々のアイデンティティの基礎になる国の歴史がとんでもないものであったり、捏造であったり、あるいはそもそもアイデンティティの基礎になる教育そのものが奪われたりしていれば、人間はただの動物になります。
    そして動物が相手では、いかなる道徳も社会システムも、まともに機能などしません。

    そして人間に危害を加える恐れがある動物たちがひしめきあっているところには、人間は近づかないのが、実は一番良いのです。

    セオドラ・ルーズベルト・ジュニアは、米国の第25代副大統領であり、第26代大統領、そして大東亜戦争開戦時の第32代米国大統領であるフランクリン・ルーズベルトの遠縁にあたる人です。
    そのセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、昭和12(1937)年10月に47の視察から帰ってきて、『サタデー・イブニング・ポスト誌』に、47で婦人が実際に見た事実を述べています。

    ******
    突然私達は叫び声を聞いた。
    それは不機嫌なわめき声に変わっていった。
    私達のすぐ下で、ひとかたまりの群衆が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら、5人の日本人を追っていた。
    4人はうまくバスの中に逃げ込んだ

    奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
    ひとりがよろけて落ちた。
    彼らはそこに襲いかかった。

    それから彼は、血だらけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。
    肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。

    そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点からムチを持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。
    それから救急車を呼んだ。
    暴徒がまた集まってきた。
    あきらかにやり返しに来たのだ。

    私はあの日本人が死んでいると確信した。
    しかし、担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た。

    (『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著 p.34~35)
    ******

    貧しい47の民衆に同情し、彼の国で農業指導や教育などにあたった結果がこれです。
    そしてセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、この事件の目撃をしたのは、通州事件などが起きたあと、そして日本軍によって南京城にいた国民党が追い払われ、南京の治安が回復した直ぐ前の出来事です。

    そして、そういう民族性を持った47人たちが、いま、南シナ海に軍事施設を作っているだけでなく、東シナ海にも海上ヘリポートをすでに10機以上建設しているのです。
    その場所は、尖閣諸島のすぐ近くです。
    そして日本国内には、人民解放軍が兵士達が、いまやウヨウヨいる、という状況です。

    私は、47人が全部悪いと言う気はさらさらありません。
    そういう意味での差別には断固反対です。
    まともな人もたくさんいるからです。

    ただ、同じ日本人同士の親しい友人であっても、やはり、違いはあるものです。
    早い話が、隣の家と我が家では、家風が違います。
    ましてや国や民族や言語が違えば、その風俗習慣も、歴史伝統文化も、まるで異なるものであるのは当然です。
    それを、あたまから「日本人と同じ」として、違いを理解したり区別したりすることさえも否定してしまうのは、それは傲慢です。

    他国には、他国の文化があるのです。
    たとえば南洋のある島では、男性同士が親しくなった時、たがいの下半身を撫で合うという習慣をもった民族がいるそうです。
    普通の日本人なら、まさに「たまげて」しまいそうな風習ですが、彼らにとっては、それはそれで意味のある立派な風習です。
    日本式の礼がただしくて、その民族の礼は間違っているなどと、どうして決め付けることができるのでしょうか。

    アフリカには、親しみを込めた挨拶に、たがいに唾をかけあうという風習をもった民族があります。
    これまたびっくり仰天ですけれど、彼らにしてみたら、体を接してキスをすることのほうが、よっぽど異常に思えるのだそうです。

    日本人はよく風呂に入りますし、温泉とか大浴場とか大好きです。
    けれど、国や民族によっては、風呂もシャワーも、一生に何度か経験する程度という民族もあります。
    おとなりの47では、民衆は起きているときの服装のまま寝るのがあたりまえです。
    パジャマに着替えるということが、奇妙に思えるそうです。
    危険が迫った時に、着替えなければ逃げれないからです。

    家族が隣家と自家が異なるように、民族にも違いがあります。
    だから国境があります。
    「違いがある」ということを、ちゃんと認識して、お付き合いをする。
    その距離感は、関係を円滑にしていくのに必要なことです。
    なんでもかんでも受け入れれば良いというものではありません。


    参考図書(お薦め本です)
    『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著
    『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著


    ※この記事は2018年6月の記事の再掲です。
    日本をまもろう!

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  • 江戸時代の凶状旅


    懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。
    そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。
    これは相当に高い民度がなければ実現不可能なことです。これを実現してきたのが、かつての日本です。

    20170126 清水一家
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    日本をかっこよく!

    清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
    石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、かつては映画やテレビで繰り返し取り上げられ、日本中、知らない人はいないってほとの人物でした。
    ところが残念ながら、こんにちにおいては、若い人に清水次郎長と言っても、知っている人のほうがはるかに少ない。
    メディアの影響とはいえ、残念なことです。

    清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市に生まれた人で、本名を長五郎(ちょうごろう)といいます。
    当時は元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもなく悪い奴になるかどちらかだといわれていました。
    ならばしっかりした人に育ててもらわなければならないだろうということで、生後まもなく母方の叔父で、米屋を営なむ甲田屋の主(あるじ)、山本次郎八(やまもとじろはち)のもとに養子に出されました。

    そこで「山本次郎八さんの家の長五郎さん」が詰まって、次郎長(じろちょう)と呼ばれるようになるのですが、その養父の次郎八が逝去して、次郎長が甲田家を継ぐ。
    それが次郎長15歳のときのことです。
    当時は15歳、いまで言ったら中学3年生で、もういっぱしの大人とみなされたのですね。

    この頃の清水港は廻船港(かいせんみなと)といって富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送するのが主な仕事でした。
    ちなみに江戸時代に鎖国が行われる前までは、清水港といえば、いまと同じ国際港で、ここから東南アジアやインド、中東方面にまで盛んに船が出て交易が行われていました。
    シャムで大将軍となった山田長政なんかも、清水港から出帆していたくらいです。

    それが江戸時代の鎖国によって、国際港としての機能が失われるのですが、米を運ぶためには、当時としては大型の船舶が必要で、そうした海運事業が清水港を潤していたわけです。
    次郎長が継いだ甲田屋は、そんな米の輸送業を営むお店で、その後次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまうのです。

    江戸時代も中期以降は、ヤクザ者同士の殺し合いには、基本、お役所は関わらないとされました。
    世の中には必ず一般世間から落ちこぼれる人がいるわけで、そのような人たちは、地元の親分さんが面倒を見るとされたのです。
    ですからもし犯罪が起きても、誰がやったのかは、親分さんに聞いたらすぐにわかる。
    その場でわからなくても、親分さんのネットワークで、犯人はすぐに割れる、というふうになっていました。

    ヤクザ者同士の争いで、仮にけが人や死者が出ても、お役所は関与しません。
    けれどヤクザ者が堅気(かたぎ)の人、つまりヤクザ者以外の一般人を襲ったり怪我をさせたりすれば、おかみは当然に犯人を逮捕するし、もし地元の親分さんがそのような人物を匿(かくま)えば、親分さんも逮捕されるようになっていました。

    次郎長が人を斬ったのは、次郎長がまだ堅気、つまり普通の庶民だったときです。
    ですから、これは当然、殺人罪となり、逮捕の対象となります。
    そこで次郎長は妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊らの弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
    これが凶状旅(きょうじょうたび)と呼ばれるもので、罪を背負った人が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、ということが行われていました。

    江戸時代は、各藩がいわば独立国のような存在でしたから、駿府で犯罪者となっても、国を出れば捕まらない。
    そこで時効が確立するまで、名だたる親分衆のところを全国行脚するといったことが行われたわけです。
    これを「男をみがく」と言いました。

    他国の親分さんたちにとっては、他国で凶状持ちになった人は、自国では逮捕の対象外です。
    また、凶状旅の旅人さんは、他に行く宛のない人達です。
    というのは、たとえば清水で凶状持ちとなった人が、名古屋でどこかの長屋に住もうとしても、一般の長屋に住むには、身元引受人と、身分証明が必要だったのです。
    長屋というのは、いまでいうアパートや賃貸マンションのことです。

    これらを偽って、どこかの長屋に住んだ場合、それがバレたら、長屋はお取り潰し。
    地主さんと大家さんは遠島。
    長屋の全員は、重課税となり、特にその家の向こう三軒両隣の人たちは、全員同罪として遠島もしくは軽くても所払いといって、地元を追い出されたのです。

    つまり凶状持ちの人を住まわせれば、その長屋の人達全員に大迷惑をかけることになるわけで、だから結局のところ、凶状持ちの人は、全国の親分さんのところを転々とするしかなかったのです。
    なぜなら、人は食べなければ生きていくことができないからです。

    親分さんは、そんな事情をよく知っていましたから、親分さんのところにわらじを脱げば、その親分さんの家では、その凶状持ちを、最下級の人として、炊事、洗濯、薪割り、食事の配膳や布団敷き、掃除にと、徹底的にこき使いました。
    また、その親分さんが、別な親分さんとの抗争になれば、凶状持ち者は、先頭をきって戦わせられました。
    どこにも行く宛のない凶状持ち者にとっては、親分さんのところで飯を食わせてもらい、また宿をお借りすることは、それこそ一宿一飯の恩義とされていたのです。

    凶状持ち者は、いまでいう犯罪者ですが、こうして名だたる親分さんのもとで、牢屋(いまでいう刑務所)にいるよりも、もっと厳しいシゴキを受けたわけです。
    このシゴキのことが「男をみがく」こととされました。

    凶状持ち者は、こうしてひとりの親分さんのところで徹底的にしごかれ、ある程度のシゴキ期間が終わると、親分さんに、また別な親分さんを紹介されて旅立ちました。
    そして、その新たな親分さんのもとで、またシゴキを受けたのです。

    この「犯罪者であっても、自分をみがくことに意義が見いだされていて、それが社会の常識となっていた」という点は、江戸時代における日本の一般庶民を理解する上で、とても大事な要素です。

    これは神話からくる思想で、我が国は宝鏡奉斎といって、鏡は天照大御神から渡された神聖なものです。
    「かがみ」は、「か《見えないちから》」と、「み《身》」との間に「が《我》」が入った言葉です。
    ですから「かがみ」の前で「が《我》」を取り払えば、それが「かみ《神》」になります。
    そして鏡は、ほっておけば曇ります。
    ですから鏡は、常に磨かなければなりません。
    これと同じように、生涯をかけて自分を「みがく」こと、磨き続けることが、とても大切なこととされていたのです。

    まして事情があったとはいえ、凶状持ちとなった身です。
    全国の名だたる親分さんたちをめぐり、教えを請うて、より一層自分をみがく。
    そしてその土地の神社をめぐり、神様とのご縁を深めていく。

    要するに、こうした旅は、いわば自分から進んで行う懲役刑のようなものであったといえます。
    懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行したわけです。
    そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長し、時効の成立を待って国に帰る。
    そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化であったのす。

    悪事を働くことや、ましてや人を殺めることは、決して褒めた話ではないし、してはいけないことです。
    けれど、それをしなければならなくなった自分というものは、もういちど魂を根底から磨き直さなければならない。
    そのためには、お上の手をわずらわせるのではなく、自分から進んで魂みがきの旅に出る、ということが行われていたわけです。

    ひるがえって現代を見るに、果たして庶民の安全は図られているといえるのか。
    犯罪者でさえも、自ら自分を罰し、自ら魂を磨くという考えに至ることが常識となっているといえるのか。
    あまりにも江戸文化、あるいは古くからの日本の文化を、軽くみすぎてきてはいないか。
    いまの日本で、果たして江戸時代のような、自ら懲役を科すこと、およびそのことに民衆が理解を示し、かつ歓迎することは、果たして可能でしょうか。

    日本は、意外にすごい国なのです。
    そんな日本を、もう一度、しっかりと見直してみるということは、とても意義のあることではないかと思います。


    ※この記事は2021年5月の記事のリニューアルです。
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    20220325 神武天皇



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    これこそが、日本の偉人伝です。

    もちろん、歴史上のポイントとなる人物も、しっかり掲載しています。
    上にある絵は、最初にご登壇いただいた、神武天皇のページです。
    クリックすると拡大してご覧いただくことができます。

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    最初の神武天皇の段の原稿です。

    ***********

    一 助け合いを国の形に・・・神武天皇


    「この国は天然の災害が多い。
     けれどそれが神様から授かった国だ。
     だから、いざという時に備えて、
     大きな米倉(こめぐら)をつくり、
     これを『みやこ(御屋蔵)』と名付けよう。
     そうすることで四方八方に住む人々が
     大きなひとつ屋根の下に暮らす家族となり
     互いに助け合って生きていく。
     そういう国をつくろうではないか。」
     
    今からおよそ二八〇〇年前のことです。
    そう言って国を建国された天皇がおいでになりました。
    それが初代天皇であられます神武天皇です。
    世界中にたくさんの国がありますが、思いやりと助け合いのために生まれた国家というのは、歴史上も、現在の地理上も、世界でただひとつ、日本だけです。

    そういうことを今の日本の学校は教えません。
    世界中どこの国であっても、国がある以上、必ずその国には建国の歴史があり、その歴史は、これまた必ず学校で教えられ、国民の常識になります。日本だけがそれをしない。

    日本は世界で一番長くて古い歴史を持つ国です。
    世界に今ある国の中で、二番目に古い歴史を持つ国がデンマークの千年です。
    三番目が英国の九百年。
    米国は建国からまだおよそ二五〇年の歴史しかありません。
    中共(中華人民共和国)はわずか七〇年あまり。
    韓国も同じです。

    そこでまずはじめに、日本の建国について、みなさまとともに学んでみたいと思います。

    今から二七〇〇年ほど昔、九州の宮崎に、天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)のお孫さんの、さらに孫(これを玄孫といいます)が吸収の宮崎で暮らしていました。
    名前を神(かむ)倭(やまと)伊(い)波(わ)礼(れ)毘(ひ)古(この)命(みこと)と言いました。
    その方のもとに、ある日、塩土老翁(しおつちのおきな)というおじさん(古語で塩は海のこと、土は陸のことを意味します。塩土老翁は、海陸の情報通のおじさんといった意味になります)がやってきました。

    ***

    本の方では、お話はまだまだ続きます。
    というか、ここからが本番です(笑)

    本書は、いわゆる日本人の偉人伝ですが、やはりその最初に描くべきは初代神武天皇であろうと思いました。

    日本という国があるということは、当然のことながら「建国」があったということです。
    そして建国の理念は、必ずその国の方向性を決定づけます。
    これは、企業における創業理念が、その企業の原点となることと同じことです。

    もっというなら、自分の人生をいかようにするかは、年齢に関わりなく、自分の人生の出発点をどこに置くのかによって決まるといえます。

    人生の始まりは、もちろん生まれた時です。
    けれど、生きるための原点となる理念は、出生時ではありません。
    自分が、「こう生きる」と決めたとき、その出発点が、人生の理念であり、原点となります。

    近年は、その原点を、ただ「儲けたい」と考える拝金教の信者が増えているといわれています。
    もちろんなかには、幼年時代の貧しさから、拝金主義を理念とする人もあることでしょう。
    けれど多くの人は、そこを原点としない。

    米国では、(というより、米国の保守の人)たちが、近年、人生の原点としていることは、家族です。
    妻を、夫を生涯愛すると教会で誓ったその日から、生まれ、成人する子供たちをふくめて、家族への愛を人生の原点とする、また、誓った場所である教会を大切にする。寅さん支持層に多いタイプです。

    日本では、ボランティアなどに付く多くの人が、「人の役にたちたい」という原点を持っています。
    ここでいう「人」には、もちろん家族が含まれますが、それ以上に、日本全体を家族とする、つまり日本中がみんな家族なのだから、その家族のために働きたい、生きたいという人が数多くあります。

    それが日本の建国精神です。

    そうであれば、日本の建国精神や建国理念を学び、また建国の経緯を知っておくことは、これは日本人として不可欠な要素であるといえます。


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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