• 権利と通義


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    一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中に、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)があります。
    そして、その一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが政治の役割であり、こういうことをしっかりと子供や青年たちに教えるのが教育の役割です。
    教育が至らないなら、これを大人たちをも含めて、しっかりと広めていくことこそが、メディアの役割です。
    それを誰もやらないといって、文句を言っても始まりません。
    誰もやらないなら、自分でやるのです。

    20211016 笑顔
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    以前、戸塚宏先生から教わった「権利」についてのお話です。

    ある日のテレビ討論の番組で、売春をしていた女子中学生が他の出演者から責められていました。
    ところがこの女子中学生、周囲から何を言われても、キョトンとしていたのです。

    で、この女子中学生の発言の番が回ってきた。
    そのとき彼女が言ったのが、
    「で、あたし、誰か、人に迷惑かけた?
     誰か被害受けた人いるの?
     いないでしょ?
     私が何をしようが私の勝手じゃん。
     私にだって権利があるんだから!」

    彼女のこの言葉に、それまで彼女を責め立てていた周囲の大人たちは、誰も言い返せなかったそうです。
    1分間くらいの沈黙が続いたという。
    しかたなく番組は、コマーシャルに切り替えました。

    さて、みなさんなら、この中学生に何と言い返しますか?

    戸塚先生は、この例え話をひいて、
    「そもそも『権利』という言葉が誤訳である」と述べられました。
    そこからすべての間違いが起こっているというのです。

    どういうことかというと、「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語です。
    「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)です。

    西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才だった人です。
    文久2年にはオランダに留学し、明治にはいってから機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いました。
    藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語です。

    彼は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。

    たとえば、英語の「philosophy(哲学)」を、「フィロソフィー」とカタカナ語で用いるのではなく、翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。
    なぜそうするかといえば、外国語を外国語のまま紹介したのでは、専門の学者にはそれでいいかもしれないが、その心とする語彙が広く世間に普及しない。
    欧米の概念は、欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を、我が日本のものとしていかなければならない云々、です。

    英語の言葉を、単にそのままカタカナ語で用いるのでは(最近はそういうカタカナ英語が氾濫しているけれど)、その意味は広く世間に伝わりません。
    欧米の哲学や科学力を日本の日本人の知識としていくためには、語彙に即した日本語を造語していかなければならい。
    そうすることではじめて、外国の概念や哲学が日本人のものになる、というのです。

    これは、まさにその通りです。
    「リテラシー」などと言っても、何のことかわからないけれど、「識字」と日本語で書けば、書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力を指すということがわかるし、
    ネットリテラシーといえば、ネット上に反乱する情報を正しく読んだり理解する能力ということが理解できます。

    西周(にしあまね)は、こうして英単語のひとつひとつを、和訳し、造語していくという作業を、ずっと続けられた人であるわけです。

    そしてその西周が「Right」を翻訳した言葉が「権利」です。

    ところが、この「権利」という訳に、福沢諭吉が噛み付いています。
    「誤訳だ!」というのです。
    福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、
    「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘しました。

    なぜ、福沢諭吉は、そこまで厳しく噛み付いたのか。
    その理由は2つあります。

    ひとつは、「権利」には能動的な意味があるが、「Right」は受動的な力であること、
    もうひとつは、Rightには「正しいこと」という意味があるけれど、「権利」という日本語にはその意味が含まれていないこと、です。

    「私がリンゴを食べる」というのが、能動です。
    「リンゴは私に食べられた」というのが受動です。

    「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になります。
    けれど、英語の「Right」には、そんな意味はありません。
    一般的通念に照らして妥当なものが「Right」です。
    つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても妥当な正当性のあるものが「Right」の意味です。

    さらにいえば、「Right」には、正義という概念が含まれます。
    要するにひらたくいえば、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が「Right」です。

    これを「権利」と訳してしまうと、子供の我がまままでが「権利」だと勘違いされてしまうのです。
    お父さんはテレビでプロ野球の試合を観たいのに、子供がお笑い番組を観たいといえば、それは子供の権利であり、むりやりお父さんがチャンネルを野球に変えれば、それは子供の権利の侵害にあたる、などという、もっともらしい理屈だけれど、明らかな「間違い」が起こるようになります。

    だから福沢諭吉は「Right」を「権利」と訳すのは、「誤訳だ!」と抵抗したのです。
    では、福沢諭吉が「Right」を何と訳したかというと、
    「通理」
    です。
    いつの時代でも、どこにあっても、誰にでも通用する道義的理論、というわけです。

    この「Right」という単語は、米国の独立宣言にも出てきます。
    〜〜〜〜〜〜〜
    They are endowed by their Creator with certain unalienable Rights,
    that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.
    That to secure these rights,
    Governments are instituted among Men,
    deriving their just powers from the consent of the governed,
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    直訳すると次のようになります。
    〜〜〜〜〜〜
    すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき「Right」を与えられている。
    その「Right」には、Life、Liberty、そしてthe pursuit of Happinessが含まれている。
    そのthe pursuit of Happinessを保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。
    〜〜〜〜〜〜

    つまり、英語圏における「Right」は「神から与えられたもの」です。
    ですから、本質的に正しいものです。
    これを「権利」と訳すと、次の文節である「そのRightには、Life、Liberty、そして幸福の追求が含まれている」が違う意味になります。
    なぜなら、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、個人個人が神の意に反していても「権利だ」と言えるようになるからです。

    けれど文意は明らかに、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、神から与えられた「Right」の内訳と書いています。
    これでは意味が非常にわかりづらくなります。

    これを「通義」と訳すと、米国独立宣言の文章は、次のようになります。

    〜〜〜〜〜〜〜
    すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき通義を与えられている。
    その通義には、人生、道義、そして幸福の追求がが含まれている。
    その幸福の追求を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。

    (福沢諭吉訳)
    天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。人間政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメテ真ニ権威アルト云フベシ
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    要するに「Right」というのは、神から与えられた「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義」を言うのです。
    自分勝手が許される「権利」ではないのです。

    「Right」を「権利」と訳すから「権利と義務」とか、よけいにわかりにくくなるのです。
    「Right」が通義なら、「権利と義務」の本来の意味は、
    「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義と、これを享受するための義務」となります。
    意味が、ずっとつかみやすくなる。

    そうすると、冒頭の中学生の少女の売春行為も、未成年者の売春行為自体が「正義」ではないのだから、実にとんでもないことで、問答無用で、「あんたは悪い。だからやめなさい!」と言えるようになるわけです。

    つまり、日本における権利意識の大きな間違いは、そもそもの誤訳から始まっているのです。
    権利という言葉自体が誤訳であり、通義が正しい訳とすれば、権利意識という単語は、通義意識となります。
    通義なら、一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義ですから、通義意識は「一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義のための意識」です。

    そしてここまでくると、「人権擁護法案」などというとんでも法案も、要するに「人権=人の持つ権利」という誤訳の上に誤解を重ね、さらに「Right」を曲解したところから生じている無教養と身勝手が招いた「とんでもない法案」であることがわかります。

    つまり、人権なるものの本来の意味が、「人の通義」すなわち「国民の一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義」であるとするならば、ごく一部の在日外国人の利権のために、他の多くのまともな日本人の生活が犠牲になるなど、もってのほかとわかるわけです。

    ここは日本人の住む日本です。
    日本は日本人のものであって、外国人のものではない。
    日本人としての通義は、日本人のためのものであって、外国人のためのものではない。
    あたりまえのことです。

    一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中に、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)があります。
    そして、その一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが政治の役割であり、こういうことをしっかりと子供や青年たちに教えるのが教育の役割です。
    教育が至らないなら、これを大人たちをも含めて、しっかりと広めていくことこそが、メディアの役割です。
    それを誰もやらないといって、文句を言っても始まりません。

    誰もやらないなら、自分でやるのです。
    それが天の岩戸以来の日本人の伝統です。

    高天原は平和で豊かで住みよいところです。
    あたりまえです。天照大御神が統治されているのです。
    けれど、だからといって高天原に住む八百万の神々が、なんでもかんでも天照大御神にお任せして、自分たちで責任を持って高天原を護り、また生活を護ろうとしないなら、それは仮りそめの平和、かりそめの豊かさにしかなりません。
    与えられたことに、自ら責任を持つという概念がなければ、平和も繁栄も安定も、ガラス細工にしかならないのです。

    だから天照大御神は、須佐之男命がやってきたときに、自ら先頭に立って武装して須佐之男命を待ち受けました。
    やってきたのが、実弟の須佐之男命ではなく、もしそれが本物の外敵であったのなら、高天原はどうなっていたでしょう。
    そのことがわかったから、須佐之男命は、自ら高天原で暴れ、田んぼの畦を壊したりして、八百万の神々の目覚めを図ったのです。
    ところが目覚めない。
    だからついには天照大御神が自ら岩戸に籠もるという選択をなされました。
    そしてこのことでようやく「自らの責任」に目覚めた八百万の神々は、自分たちの生活は、なによりもまず自分たちで護るという行動を取るようになります。

    結局、須佐之男命の行動も、天照大御神の行動も、誰も目覚めないなら、自ら行動するしかないのだ、ということを後世の私たちに教えてくれています。
    誰もやらないから自分もやらない、ではなく、誰もやらなくても、自分がその必要を感じるのなら、まずは自分から行動するのです。
    須佐之男命は、それによって最後には、目覚めた八百万の神々によって処罰されています。
    そして須佐之男命は、黙ってその処罰を受けています。
    これこそが日本男児の生きる道です。

    世間の常識と違うことを始めれば、最初は非難轟々でしょう。
    変人と言われる(笑)
    けれど、大事なこと、大切なことと思うなら、やりつづけるしかない。
    なぜなら、誰も見ていなくても、正しいことをして生きていくということこそが、日本人の日本的生き方だからです。

    私はそういう生き方をしたいと思っています。
    まあ、失敗が多いですけどね(笑)
    でも、やるんだw


    ※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。
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  • 人類の現在のもう一つの解釈


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    初期条件をリセットすると、ガーハの皆さんのような、働かないで、何億もの人の年収相当額を、個人で得ているような人たちこそが、神を恐れぬ傲慢な人たちという意味になります。
    そしてこのことは、社会構造そのものを変革します。

    20211014 アダムとイブ
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    旧約聖書の創成期の「アダムとイブ」による人類の「原罪」の物語は有名です。
    アダムとイブが、エデンの園で禁断のリンゴの実を食べることで、互いが裸であることに気が付いた。
    そこで二神は腰巻きを付けるのだけれど、これを神が見とがめます。

    神の問いにアダムは、
    「神が創られたイブに勧められたのです」と、神と女に責任転嫁し、
    イブは
    「蛇に騙された」と、これまた蛇に責任転嫁します。

    残念に思われた神は、
     イブに「産みの苦しみと夫からの支配」を
     アダムに「一生苦しんで地から食物を取ることと土にかえる」ことを命じた、
    というのが、この物語で、そこから女性の出産や、男性の労働は、人類の「原罪」であるとされます。

    ちなみに女性に与えられた原罪のもうひとつが「夫からの支配」で、
    これは英文では
    「Your desire will be for your husband, and he will rule over you.」
    と書かれています。

    つまり、神は「ルール(rule)」を書き換えた、と書いているわけです。
    聖書が書いていることは、単にそれまでの安閑とした楽園暮らしというルールを、苦痛を得、それによって大きな幸せを得るというルールに替えたわけです。

    ところが西洋の人たちは、およそ3000年の間、これを神に与えられた「原罪」だと解釈しました。
    神によるペナルティだというのです。

    古代ギリシャでは、ポリスと呼ばれた都市国家の人口の1%のおじさんたちが「自由民(エレウテロス)」で、今風に言うなら、都市国家のGDPの50%を独占しました。
    このおじさんたちが、なぜ「自由民」なのかというと、神から与えられた「原罪」である労働から開放されて、神に与えられたルールから自由になっているからです。

    残りの99%は、奴隷です。
    (厳密に言うと人口の5%が自由民なのだけれど、5%のうちの半分は女性であり、残りの2.5%の男たちのうち、現役を引退した老人と、若年層の子どもを除くと、いわゆる成人男子の人口は、全体の1%程度になります)
    この奴隷たちは、男が「ドエロ」、女が「ドエラ」と呼ばれました。

    おもしろいのは、ドエロやドエラであっても、支配層である自由民と普通に恋愛したし、結婚もしました。
    また奴隷階層であっても、真面目に働けば、城塞都市の中で土地や家を買うこともできました。

    と、ここまでお読みいただいたら、もう皆様、お気づきと思います。
    ギリシャ時代というのは、いまから2700年ほどの昔ですが、その社会構造は、現代の欧米の社会構造と、まったく同じです。

    たとえば米国なら、全米の1%の大金持ち層が、全米のGDPの5割を寡占します。
    そしてこのひとたちにとって、一般の米国民は、国民とか市民とかの名前だけは与えられているものの、実際にはギリシャ時代の奴隷たちと、身分も、生活環境も、まったく変わっていないのです。

    どうしてそのようなことが起こるのかといえば、これももうお気づきと思いますが、
    「働くことが、人類の原罪」
    だからです。
    そしてそのことが、すくなくとも欧米社会では、2700年にわたって、ずっと守られてきているわけです。

    ところが日本的思考では、これがちょっと変わります。
    人類の原罪というけれど、神は「命じた」とあります。
    これを「ルール」にしたのです。

    そして、よくよく考えてみれば、たとえば女性には出産の苦しみを与えたけれど、その苦しみの後には、苦しみに負けずに最後まで頑張って出産すれば、無上のよろこびである我が子を、その腕に抱くことができるのです。
    そしてそのときの母となった女性の幸福感、高揚感は、まさにこのうえのないよろこびとなります。
    そしてそんな我が子のためなら、睡眠時間が2時間程度しかなくなったり、夜中に起きてオシメを替えたり、乳をあげたり、女性はそのときに自分にできるすべてを子の成長のために捧げます。
    なぜなら、それこそが「幸せ」なことだからです。

    つまり神は、そんな人として、あるいは女性として生きる上での最高のよろこびを、人類に与えたのだし、またそのよろこびを最大にするために、あえて、出産に、痛み、苦しみを与えたともいえるのです。
    先に大きな苦痛や痛みがあるほど、そのあとのよろこびは大きいし、幸せ感が長く続くからです。

    このように考えると、神が与えたというお産の苦しみというのは、実は原罪でもなんでもなくて、むしろ適正かつ公正な、そして人類に与えられた無上のよろこびであるとみることができます。

    同様に、夫から支配される苦痛というけれど、これもまた原罪ではなくて、食料を得るために外に働きにでかける夫を気持ちよく送り出すようにすることで、単純な男たちは、がんばって外で働き、得た食料や富を必ず家に持ち帰るのです。むしろ、女性が威張っていて、男性が逃げ出してしまったら、食料を運んでくる人がいなくなってしまうのですから、女性にとっても、子にとっても、それこそ不幸です。

    このように考えますと、男性に与えられた「労働」も、罰ではなく、よろこびであると考えられます。
    「一生苦しんで地から食物を取る」ということは、覚悟のことです。
    最初から、畑を耕して、食料を得ることは、たいへんなこと、苦しいこととわかっていれば、腹も決まるし、そこにむかって挑戦していこうとする根性も生まれるのです。

    そもそも男性というのは、筋肉と同じで、筋肉痛が出るほどに鍛えれば鍛えるほど、太く丈夫になる生き物です。
    逆に女性は内蔵と同じで、やさしくいたわらないと故障します(笑)

    つまり神が与えた「労働の苦しみ」というのは、実は「苦しみだ」と覚悟させることで、収穫のよろこび、そして収穫された食べ物を家に持ち帰ったときの、妻の笑顔、子どもたちの笑顔という、無上のよろこびを神が与えてくれたという解釈も成り立ちうるのです。

    「そうか。おまえたち、知恵の実を食べて
     そういう知恵がまわるようになったのだな。
     ならば、こんどはお前たち自身で
     食べ物をつくり、
     子をつくり、
     自分たちで努力して生きて生きなさい。
     そうすることで、
     生きるほんとうのよろこびを、
     幸せを
     おまえたちも、その子たちも
     得ることができるであろう」

    旧約聖書の神による原罪は、実はそういう意味であったのではないでしょうか。

    このように考えるならば、国民の1%が、働かないで富を独占するなどというのは、むしろ神に対する冒涜であると理解できます。
    現場で、汗を流し、努力をかさね、苦痛があってもそれを乗り越えながら、強く生きていくことこそがよろこびであり、人類に与えられたルールだということになります。

    そしてもし、西欧の人たちが、神が与えた原罪なるものを、そのように解釈していたならば、おそらく西欧社会は、原罪とは180度違った社会になったでことでしょう。

    残念ながら、西欧社会では、ついに「労働しない人が自由人」という発想から逃れられずに現在に至っています。
    もしかすると、神様の目線からしたら、
    「おまえたちは、なぜこんな大事なことがわからんのだ。
     すこしは宮殿の中でみずから農業を行った
     マリー・アントワネットを見習いなさい」
    くらの感じになるかもしれません。

    言いたいことは、西欧の解釈が正しいとか、間違っているということではありません。
    このように、事実はひとつであっても、それについての見方や、ストーリーの解釈を変更することを、
    「初期条件の変更」
    といい、初期条件を変えることで、その後の人生や社会構造が変わるということを申し上げようとしています。

    たとえば、極貧の家庭に生まれて、子供の頃からすごく貧しい暮らしをしていました。だから私は不幸なんです、ということを初期条件にしてしまうと、その人の人生は一生不幸なままになります。
    なぜなら、不幸でいることを初期条件化してしまっているからです。

    ところが、「私は極貧の家に生まれました。最低の境涯でした。だからこそ、そこから這い上がることが楽しくて仕方がないのです」ということを初期条件にすると、その人の人生は、成長することをよろこびとする人生になります。

    旧約聖書の「原罪」も同じです。
    働くことが罪だ、ということを初期条件にしてしまえば、働かないことが幸せなことということになります。
    けれど人間、食べなければ死んでしまいますから、結果、誰か立場の弱い人を使役して食べ物を作らせて、これを奪うことが自由であることの証になります。

    けれど、実はそれは労働の喜びを命じたものであったのだ、と初期条件をリセットすると、ガーハの皆さんのような、働かないで、何億もの人の年収相当額を、個人で得ているような人たちこそが、神を恐れぬ傲慢な人たちという意味になります。
    そしてこのことは、社会構造そのものを変革します。

    日本を変えるとか、日本を取り戻すということも、実は同じことで、現在の延長線上で、文句ばかりを繰り返していても、実は何も変わらないのです。
    私たち一人ひとりが、「よろこびあふれる楽しいクニ」を目指し、霊(ひ)を大切にする意識に目覚め、シラスという古語を常識語に取り戻すことで、実は、戦後日本の初期条件がリセットされ、世の中が大きく進歩する原因となります。

    わたしたちは、そのために日々、勉強し、また語り合っているのです。


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    教育勅語に、
    「一旦緩󠄁急󠄁アレハ
     義勇󠄁公󠄁ニ奉シ
     以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ
     扶翼󠄂スヘシ」という言葉があります。
    ひとたび危急の大事があったならば、不可能を可能にする力を奮い起こして公のために身を奉じ、
    これをもって天壌(あめつち)に終わりがない皇運を支えなさい」という意味です。

    加藤清正像
    20200925 加藤清正
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    昨日聞いたびっくりするお話。
    就職試験の面接のとき、面接に来た若者に、「前職はどのようなお仕事だったのですか」と聞いたところ、
    「はい。オレオレ詐欺をやっていました」

    いやはや、言って良いことと悪いことや、事の善悪の区別がつかなくなり、儲かりさえすれば何をやっても良いのだという、千年遅れた外国の文化に、なんともはや、ここまで染まるものかと。
    「ならぬことは、ならぬのです」と什の掟で育った人が聞いたら、びっくりすることでしょう。

    こうしたことの背景にあるのは、パワーと価値観のバランスの乱れです。
    パワーというのは「武力、財力、情報力」で、この青年は財力をパワーと考え、パワーがありさえすれば、好きなことを何でもできるのだと、単純に思い込んでいる。

    けれど世の中には、正義というものがあるわけです。
    正義とは価値観です。
    何が価値有ることなのか。
    そして価値は、パワー(力)を凌駕することができる、というのが、昔の日本人の考え方です。
    どうせ命をかけるなら、あるいはせっかくのこの人生を意義あるものとして生きるためには、パワーのために人生を費やすのではなく、正義のために、価値有るもののために使っていこう。そういう人生を生きていこうというのが、昔の日本人の常識です。

    そして力のある人ほど、そうした価値や正義のために生きようとした。

    「義を見てせざるは勇無きなり」は、『論語』の為政篇第二24にある言葉です。
    そこには次のように書かれています。

    「子いわく、その鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭(まつ)るは諂(へつらい)なり。義を見て為(な)さざるは勇無きなり」
    (原文:子曰。非其鬼而祭之、諂也。見義不為、無勇也。)

    現代語に意訳すると次のようになります。
    「先生いわく、
     御魂でもないのに、さもありがたいことのように
     なにものかを祀(まつ)るのは、
     ただのまやかしであり、へつらいです。
     同様に、我が身を捧げるべきときに
     それをしないのは、
     勇気がないからです」

    修身教科書にあるこの加藤清正の物語は、約束を果たすために我が身を捧げた清正の義勇をあらわしたものといえます。

    「義」とは、漢語の意味は、我が身を神に捧げる羊のように、身命(しんみょう)を捧げることです。
    大和言葉では義と書いて「ことわり」と読みますが、これはあらかじめ定まった道のことです。

    「勇」の漢字は、重いものを持ち上げる力を意味し、そこから転じていさましいことをあらわします。
    大和言葉では、「いさむ」と読み、「いさ」は差を埋めることですから、いわば越えられない壁を乗り越える力のことをあらわします。

    ですから「義勇」とは、ひとことでいうなら、「不可能を可能にする力」です。
    このことを題材にした物語が、戦前の教科書の尋常小学修身書巻五にあります。
    加藤清正(かとう きよまさ)のお話です。

     ***
    「信義」

    加藤清正は、豊臣秀吉と同じく尾張の人であります。
    三歳のとき、父を失い、母の手で育てられていましたが、母が秀吉の母といとこの間柄でしたから、後に秀吉の家に引き取られて育てられました。
    15歳のとき、一人前の武士として秀吉に仕え、たびたび軍功をたてて、次第に立派な武将となり、肥後(ひご)を領して秀吉の片腕となりました。

    秀吉は、その頃乱れていた国内をしずめ、さらに明国を討つために、兵を朝鮮へ出しました。
    清正は、一方の大将となって彼の地へ渡りました。

    清正の親しい友だちに、浅野長政という人がありましたが、その子の幸長(よしなが)も、朝鮮に渡って勇ましく戦っていました。
    ところがあるとき、幸長が蔚山(うるさん)の城を守っていたところへ明国の大兵(たいへい)が攻め寄せてきました。

    城中には兵が少ない上に、敵が激しく攻め立てるので、城はたちまち危なくなりました。
    そこで幸長は使いを清正のところへやって救いを求めました。

    清正の手もとには、敵の大兵に当たる程の兵力がありませんでした。
    けれども清正は、その知らせを聞くと、

    「自分が本国を発つとき、
     好長の父・長政が、
     くれぐれも幸長のことを自分に頼み、
     自分もまたその頼みを引き受けた。
     いまもし幸長を早く救わなかったら、
     自分は長政に対して面目が立たない」
    と言って、身の危険をかえりみず、部下の五百騎を引き連れて、すぐに船で出発しました。


    味方の船は、わずかに20艘ばかり。
    清正は、銀の長帽子(ながぼうし)のかぶとをつけ、長槍をひっさげ、船の舳先(へさき)に突立って部下を
    指揮し、手向かってくる数百艘の敵船を追い散らし、囲みを破って蔚山の城に入りました。
    それから幸長とここに立て篭もり、力を合わせて明国の大兵を引受け、さんざんにこれを悩ましました。

    そのうちに兵糧(ひょうろう)が尽き、飲み水もなくなって、非常に難儀をしましたが、とうとう敵を打ち破りました。

    格言「義ヲ見テ為(せ)ザルハ勇ナキナリ」

     ***


    この義勇について、教育勅語には、
    「一旦緩󠄁急󠄁アレハ
     義勇󠄁公󠄁ニ奉シ
     以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ
     扶翼󠄂スヘシ」

    とあります。

    「ひとたび危急の大事があったならば、不可能を可能にする力を奮い起こして公のために身を奉じ、
    これをもって天壌(あめつち)に終わりがない皇運を支えなさい」という意味です。

    ちなみにこの小文は、朝鮮半島での戦いの模様を表していますが、本文をお読みいただくと、そこに攻め寄せてきたのは「明国の兵」と書いてあることがわかります。
    よく「秀吉の朝鮮征伐」と言いますが、これは戦いがあった場所が半島であったことを言っているのであって、秀吉の軍が戦ったのは、あくまで明国の兵であったことを意味します。
    日本が戦ったのは、あくまで明国であって、李朝ではありません。

    この時代、半島にあったのは李氏朝鮮王朝ですが、この王朝に半島の政府としての機能も意思もありません。
    いわば半島にあった暴力団の組長のようなもので、行政機能を持ちません。
    ですから半島では国民への教育も行なわれていませんし、半島の人々も、自分たちが李朝の国民、つまり李氏朝鮮国の国民であるという「李氏朝鮮国民」としての自覚も意識も認識もありません。

    そういう情況ですから、戦いが始まっても、半島人にとっては、外国人たちが自分たちの土地で勝手に戦っているという程度の認識しかなかったし、まして国を守るなどという意識もありません。
    そもそも守るべき国を持っている認識自体がない。

    その意味では「秀吉の朝鮮征伐」という言葉は、「川中島の戦い」という語と同じで、戦いが行われた場所が半島内であったというだけで、川中島に住む人々が戦いの当事者ではないのと同じものであるというのが、我が国の古くからの認識です。

    ***

    下にある動画は、涼恵さんの歌う君が代です。
    君が代の持つやさしい響き、高天原に通じる美しい響きを、神官でもある涼恵さんが歌い上げています。
    君が代をオペラのように歌う歌い方もありますが、君が代の歌詞に込められた古代からの私たちの祖先の想いは、もっとやさしく、もっと美しい、清陽(すみてあきらか)なものだと思います。
    その清陽を、見事に歌い上げていると思います。

    ちなみに、このプロモーション・ビデオで、君が代を2回歌っていますが、これが本来の歌い方です。
    我が国では、単独のものは必ず二度繰り返す。
    手紙が1枚なら、何も書かれていない紙を後ろに付けるし、何かをするときも同じことを二度繰り返すか、あるいは2名で行います。
    報告も2系統から行われる。
    そうすることで、思いを確実なものにしていくというのが、我が国の伝統文化です。

    争わず、やさしさを保持して生きることができる社会こそ、人類の理想といえる社会です。
    そんな国柄を護る、やさしさを護る。それがやまとおのこのつとめです。
    男は男らしく。女は女らしく。
    そうすることで互いの良さを最大限に発揮できる社会こそ、私達が取り戻そうとしている豊葦原の瑞穂の国です。
    そして君が代は、そんな大和の国を皇国臣民のみんなで讃える歌です。
    君が代こそが、国歌です。




    ※このお話は2020年10月の記事のリニューアルです。
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    それは、民度が相当に高くなければ、決してできないことです。
    私たちの祖先は、現実にそれを可能にする国を築いてきたのです。

    20190929 神社の鈴
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    多くの神社には、拝殿のところに鈴があり、そのすぐ下にお賽銭箱があります。
    作法は、まずお賽銭を入れてから、鈴に付いている紐でガランガランと鈴を鳴らして二礼二拍一礼するというものです。

    この鈴のことを本坪鈴(ほんつぼすず)といいます。
    坪というのは、土地の平らなところのことをいいます。
    そこから鈴は、平らかに神様にお出ましいただくための合図であるとか、参拝前に鈴の音によって悪霊を払うのだとか説明されます。
    ちなみにお寺さんの場合は、この鈴は鰐口(わにくち)といって、仏界とこの世を分ける門番を意味するとされています。
    門番さんにご挨拶をしてから、仏様にお参りする、というわけです。

    いずれにしても、流れとしては、まずお賽銭、次に鈴、そして参拝、という流れになります。
    ところが興味深いお話があります。
    以下はなにぶん古い時代の話なので、多少不快に思われる方がおいでになるかもしれませんが、そういう考え方もあったのだくらいに思っていただけるとありがたいです。

    実は本坪鈴は「たまたま」であって、その「たまたま」を竿(さお)を意味する紐(ひも)で、こちょこちょとすることで、先端からほとばしる「たま」の代わりにコインをお賽銭箱に入れるのだ、というのです。

    赤ちゃんは、こうすることで、新しい命を授かります。
    神社での参拝も同じで、こうすることで参拝の都度、新しい命もしくは新しい息吹(いぶき、生吹)をいただくというのです。
    また、そうすることで心身と御魂を浄化し、また新たな生命を得て、未来を拓く。
    神社の参拝とは、実はそういうものだといいます。
    というわけで、実は、大昔の参拝は鈴が先でお賽銭が後だったのだけれど、それですとあまりにも直接的すぎるということから、後に順番が入れ替わって、お賽銭が先、鈴が後になった・・という・・・これはお話です。

    真偽はわかりません。
    ただ、一面において、非常に興味深いのは、この短い作法の解釈の中に、男女とは何か、というひとつの命題についての、古代から続く日本的解釈が根底になっていると思えるのです。

    もともとわが国では、古来より生き物には「霊(ひ)」が宿ると考えられてきました。
    「霊(ひ)」というのは、言い方を変えれば御神体です。
    ですから、身よりも貴重です、
    なにせ「身(み)」は一代限りの、いわば使い捨てですが、「霊(ひ)」は永遠の存在です。
    そこから「たとえこの身が不浄に落ちても、我が魂だけは汚すものか」といった心が生まれたりもしています。

    子を産むときにも、この「ひ」と「み」の関係で説明されました。
    出産することができるのは、女性だけです。
    つまり女性は「身(み)」から、赤ちゃんという「身(み)」を生みます。
    けれど女性だけですと、毎月、その子種は流れてしまいます。

    ところが男性が「たままた」でつくった「たま」を成人した女性の胎内に注ぐことで、子種が本物の子となって生まれてきます。
    つまり子種が魂(霊(ひ))を授かるわけです。

    そこから霊統は、男性から子へと受け継がれると考えられてきました。
    霊統というのは「霊(ひ)」の流れです。

    ですからたとえばご皇室というのは、天照大御神から続く霊統です。
    なぜなら天照大御神は御神体、つまり「霊(ひ)」のご存在なのですから、何よりも霊(ひ)の流れを保つことが重要です。
    これが国家最高権威の理由となります。

    天皇の霊統に、女性のご皇族が一般人と結婚して生まれた子(つまり女系)です。
    つまり天照大御神から続く万世一系の流れというのは、「霊(ひ)」の流れのことを言います。
    その「霊(ひ)」は、男性の「たまたま」からつくられて女性の胎内に注がれるわけですから、「霊(ひ)」の流れは、男系でなければならないのです。

    繰り返しますが、女性だけしか出産することができないけれど、女性は母体という身(み)から、赤ちゃんという身(み)を生みます。
    その赤ちゃんに、「霊(ひ)」を授けるのは、男性の役割です。
    そして「霊(ひ)」と「身(み)」が合わさったときに、はじめて新しい命が生まれます。
    従って、天照大御神からの直系の霊統(霊(ひ)の流れ)は、誰の「たま」かが重要視されることになります。
    これが男系男子の理由です。
    つまり男系天皇という発想は、霊(ひ)の流れを途切れさせない、という思考から生まれているわけです。

    これに対し、女系という発想があります。
    女系というのは、サザエさんがフグ田マスオさんと結婚して生まれたタラちゃんが、女系になります。
    この場合、タラちゃんの霊(ひ)は、マスオさんのフグ田家の霊(ひ)の流れになります。
    サザエは、磯野波平さんの男系女子ですが、そのサザエさんがマスオさんと結婚して、マスオさんの子を生んでいるからです。
    これが女系です。

    仮に波平さんが、天照大御神からの霊統の人であったとして、サザエさんまでは、天照大御神の霊(ひ)の流れが維持されていますが、サザエさんはタラちゃんという身(み)を生んでいます。
    そのタラちゃんに乗っている霊(ひ)は、フグ田家の霊(ひ)ですから、仮にタラちゃんを天皇にしてしまうと、天照大御神からの霊(ひ)の流れが途絶えてしまうことになります。

    男系、女系をY遺伝子の流れで説明される方が多いですが、この仕組が完成した古代には、まだ遺伝子の存在は知られていません。
    知られていないのになぜ男系が重要視されたかといえば、上に述べたような背景があったからです。

    それほどまでに大切にされてきた霊(ひ)の流れ。
    その流れの中に、冒頭の神社での参拝作法があります。
    その意味から、個人的には、もちろん作法としてお賽銭を捧げてから鈴を鳴らしていますけれど、その一連の作法から、参拝の都度、たまを鳴らして子種を入れて新しい命をいただいてくるという仕組みを、なんとなく実感している次第です。

    最後にひとつ付け加えます。
    神社での「作法」と書きました。
    あたりまえすぎるほどあたりまえのことですが、神社でそんな作法に従わなかったからといって、罰金を取られたり、逮捕されることはありません。
    また、そうしなければならないという法律もありません。

    法を作ったり、逮捕して無理やり従わせようとするのではなく、それらがマナーとして、あるいは作法として人々の間に定着する。
    そうすることで、平和で豊かで安定していて、誰もが安心してすごせる国を築いていく。

    それは、民度が相当に高くなければ、決してできないことです。
    私たちの祖先は、現実にそれを可能にする国を築いてきたのです。
    だから、取り戻そうよ、と常々申し上げているのです。


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    自分の人生を、ただ他人様の悪口を言うだけに使うのか、それとも自分の霊(ひ)の成長のために使うのか。
    もちろん日本を壊そうとする者や、世界を破壊しようとする者、自己の利益のために公然と嘘をつくような者たちを論破することは大切です。
    では、論破とただの悪口はどこがどう違うのかといえば、それは対象の名誉を奪っているか否かの違いです。
    論には論で戦うのが筋であり、論破できないからなどと、相手の名誉を奪う言動に出れば、それは暗黒面(カン国面)に堕ちたようなもので、自らの霊(ひ)を汚す行為となるのです。
    この違いは紙一重ですが、天と地ほどの差があります。

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    小名木善行です。

    「人は霊(ひ)の乗り物である」というのが、日本の古来からの考え方です。
    だから「ヒト」と言います。
    「ヒ」とは霊(ひ)のことであり、「ト」は停めることや止めることを意味します。
    つまり「ヒト」とは、身(体)に霊(ひ)を留めた存在だから、「ヒト」という日本語ができています。

    霊(ひ)の状態にあれば、なんでも思いどおりになりますが、ふれあいがないし、悩みもないので霊(ひ)の成長がありません。
    だからこの世界の身に乗ることで、様々な体験をし、自らを成長させようとします。

    その意味で、身は、いわばアバターのようなものです。
    ところがその身には寿命があり、さまざまな制限があります。
    幼い頃は、身に自由が効かないし、青年期には身は思い通りに動くけれど他者との関係の中で様々な挫折を味わいます。
    壮年期になると疲れが出始め、老齢期には身の自由がだんだんに利かなくなる。
    要するに使っているうちに、だんだんにポンコツになるわけで、最後には捨てるしかなくなります。

    もともとこの世で身というアバターを手に入れるのは、そのアバターが老いて使い物になるまでの短い間に、自分の霊(ひ)をより高いものに成長させるためです。
    わざわざそのために身に宿ったのに、人によってはいつの間にか自分の霊(ひ)を成長させることを忘れ、我儘や身勝手、自分さえ良ければといった、むしろより低い次元のものに我が身をやつしてしまいます。

    霊(ひ)は、もともと「ひかり」の存在です。
    「ひかり」というのは、「霊(ひ)+力+光彩」のことで、力を発揮できる光彩が「ひかり」です。
    太陽の光は七色の光彩を持ちますが、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色が全部あわさると、白い太陽光になります。
    赤だけが、俺が偉いからと、橙や青色を支配しようとするのは、馬鹿げた話ですが、とかく身の世界ではそうしたことが起こりがちです。

    支配は闘争であり、赤色が黄色や青色と闘争して、自分だけが贅沢ができるようにしようと闘争することですが、誰もそんなものは求めていず、結果は必ず破綻します。
    むしろ、赤は赤、黄色は黄色、青は青として、それぞれが互いの存在を認めながら、対等な社会を築いていく。
    それこそが、共存共栄の道なのに、それが身にはわからない。
    身に備わった大脳の本能が、自分だけの生存を追い求めようとするからです。

    つまり人の身は、本来霊(ひ)のアバターでしかないのに、アバターの大脳に霊(ひ)が負けてしまう。

    組織もおなじです。
    自分の組織の生存のために、すぐに仮想敵をつくりたがる。闘争したがる。
    闘争して勝利して天下をとれば、次には内部での抗争が起きる。
    果てしない抗争の結果、最後にはすべてが滅びてしまいます。

    古事記によれば、人の世は神々の胎児です。
    胎児の細胞は、日々新陳代謝を繰り返しますが、このことは何億という人の世が人の生死の繰り返しによって構成されているのと同じです。
    そしてその全ては、神々の体内にあり、この世は神々の胎児のようなものであるという理解です。

    胎児のなかのひとつの細胞が、自らの細胞としての役割を果たさず、自分さえ良ければと周囲の細胞から栄養分を横取りするようになると、これを癌細胞と呼びます。
    体中が癌細胞だらけになったら、胎児は死亡し、そんな胎児をお腹に持つ神も無事では済まなくなります。
    そうなれば、神々は胎児を、まるごと処分することになります。

    人類はいま、そんな癌細胞に、神々による外科手術が行われようとしているのかもしれません。
    切除されないためには、自らがこの世に生を受けた意味をもういちど考え直し、周囲の細胞と上下と支配ではなく、あくまで対等に共存していくことを、あらためて常識として取り戻していくことが必要です。

    肉体とその人生は、魂が成長するための乗り物です。
    そして人生は、長く生きても100年です。
    60代になれば、10代のときと比べて、一年はその6分の一しかありません。
    感覚的には10代の1年は、60代の2ヶ月に相当します。
    時間は、歳を重ねる毎に短くなっていきます。

    自分の人生を、ただ他人様の悪口を言うだけに使うのか、それとも自分の霊(ひ)の成長のために使うのか。
    もちろん日本を壊そうとする者や、世界を破壊しようとする者、自己の利益のために公然と嘘をつくような者たちを論破することは大切です。

    では、論破とただの悪口はどこがどう違うのかといえば、それは対象の名誉を奪っているか否かの違いです。
    論には論で戦うのが筋であり、論破できないからなどと、相手の名誉を奪う言動に出れば、それはダークサイドのカン国面に堕ちるようなもので、自らの霊(ひ)を汚す行為となるのです。
    この違いは紙一重ですが、天と地ほどの差があります。

    では自分の名誉を奪われたと感じたらどうするのか。
    答えは、また「名誉を築くしかない」です。
    イザナギとイザナミは、最後に千曳岩(ちびきいわ)をはさんで別れるとき、イザナミが
    「愛する夫よ、お前がそのようにするのならば、私はお前の国の民草を毎日千人くびり殺そう」と言います。
    これに対しイザナギは、
    「愛する妻よ、お前がそのようにするのならば、私は毎日1500の産屋(うぶや)を建てよう」と答えます。
    これが日本人の戦い方です。

    名誉は、預金残高と同じです。
    コツコツ貯め込んで増やすしかない。
    名誉が奪われたときは、その預金通帳の残高がゼロかマイナスになったということです。
    すでに失われているのですから、いくら相手の悪口を言ったところで戻ってくるものではない。
    そうであれば、またコツコツと貯めていって、名誉という名の預金残高を増やしていくほかないのです。

    名誉を奪う究極は、相手の生命を奪うことです。
    これには物理的な殺害もありますが、相手の政治生命や、相手の仕事や家庭を奪うことも、その中に含まれます。
    腹が立つのはわかりますが、ひとたびその世界に入ると、定性進化で、その方向だけしか見えなくなるものです。
    そしていつの間にか、悪に染まることになります。
    議会制民主主義が陥る最大の欠陥がここにあります。
    そして悪と悪の対決なら、最初から悪そのものである方が圧倒的に有利です。
    なぜなら何の良心の呵責もないからです。

    日本は、戦後の大きな歪みの中にあると言われます。
    しかしその歪みは、よくよく調べてみると、すでに戦前から始まっていたことであるとも言われます。
    だからなんとかして、素晴らしい日本を取り戻したい。
    そう思います。
    しかし、そのために悪に染まるのか。
    悪口雑言で他人の名誉を奪うことだけに、自分の一生を費やすのか。

    一生をかけて自らの魂の成長を求めていくところに、日本人の日本人的な生き方があります。
    なぜなら人は霊(ひ)の乗り物だからです。


    ※この記事は2020年10月の記事の再掲です。
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    先人に感謝。
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    それが大人というものの生き方です。
    わが国では、父母も祖父母も曾祖父母も高祖父母も、祖先たちも、何千年、何万年も前から、ずっとそうやって生き、時代をつむいできたのです。
    これこそが日本人の誇りです。

    20191023 松
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    小名木善行です。

    尋常小学読本四から、「松の木の話」をご紹介したいと思います。
    これもまた、たいへん示唆に富んだお話です。
    原文は漢字とカタカナ文ですので、いつものようにねず式で現代語訳します。

    ***
    尋常小学読本四
    第12 松の話


    松の木は、青い針のような葉を持っています。
    その葉は、たいてい2つづつ一緒になって付いています。

    松の葉は、他の木の葉のように、色が変わったり、落ちたりするようなことはありません。
    ですから人が「松はめでたい木だ」と言って、門松(かどまつ)などにします。

    あるとき、林の中に小さな松の木がありました。
    たいそう自分の葉を嫌って、いつも
    「金の葉を持ってみたいものだ」
    と言っていました。

    ある朝、目を覚まして見ますと、葉がすっかり立派な金の葉に変わっていました。
    松の木はたいそうよろこびました。
    ところがまもなく人が来ました。
    そしてその金の葉を、ひとつも残さず、取っていってしまいました。

    松の木はたいそう悲しがりました。
    そしてそれからは、
    「カラスの葉を持ってみたいものだ」
    と言っていました。

    ある朝、松の木が目を覚ますと、どの枝にもガラスの葉が付いていました。
    それは陽が映えて、たいそうきれいでした。
    松の木は、またたいそう喜びました。

    ところが間もなく、風が強く吹いてきました。
    そしてそのガラスの葉を、ひとつ残らず吹き落として壊(こわ)してしまいました。

    松の木は、またたいそう悲しがりました。
    そしてそれからは、
    「金の葉や、ガラスの葉には、
     もう懲(こ)りてしまった。
     草のような葉を持ってみたいものだ」
    と言っていました。

    ある朝、目を覚ましてみますと、どの枝にも、草のような葉が付いていました。
    松の木は、たいそう喜びました。
    ところが間もなく、牛が来ました。
    そしてその葉をすっかり食べてしまいました。

    松の木は、声をたてて泣き出しました。
    そしてそれからは、
    「金の葉や、ガラスの葉や
     草のような葉には
     もう懲りてしまった。
     やっぱり元の、
     青い針のような葉が
     一番よい。
     どうかして早く元の通りになりたいものだ」
    と言っていました。

    ある朝、目を覚ましてみますと、すっかり元の通りになっていました。
    松の木は、たいそう喜びました。
    そしてそれからは、もう
    「他の葉を持ってみたい」
    と言ったことはありませんでした。


    ****

    みなさまは、何をお感じになりましたか?

    松は、どんなに土の栄養のとぼしい、岩場や断崖絶壁、あるいは砂地でも風雪に耐えて雄々しく茂ることから、古来、源氏の象徴としされてきた木です。
    それこそが、どんな難事にあっても、不退転の武士の心だということで、武士の象徴ともされ、ですからお城といえば、庭に松の木が定番ともなりました。
    またお能は源氏の棟梁の足利氏が引き立てた芸能ですが、そうした次第から、全国どこの能楽堂でも、壁には松の木が描かれています。

    その松の木が、金やガラスや草をうらやましがって、実際に枝をそのようにしたら、結果は残念なことになったというのが、この物語です。
    けれど考えてみれば、戦後の日本は、たとえば住宅行政において、欧米式の核家族住宅をよろこび、そのような家を手に入れることが、サラリーマンの夢とされ、気がつけば、国土から緑が失われ、災害に弱い都市をつくってしまいました。
    住宅用の木材も、国産材を使わず、舶来品ばかりをありがたがって、法制度もそのように変えたのですが、外材は、たとえば年間の平均湿度が20%に満たないような土地で生えた木材を用いるわけです。
    日本は高温多湿の国ですから、そのような木材を住宅用に使えば、木材は大喜びで空気中の湿気を吸う。
    結果、壁紙の裏側はカビだらけといった事態を呼んだりしています。

    個人の生活においても、他人の生活をうらやんだり、手に入らないとわかれば悪口を言ったりと、これまた読本の松の木のように、ないものねだりをしては、結果、民度を下げています。

    分をわきまえて生きる。
    自分の分の中で、雄々しく、しっかりと人生をすごしていく。
    そうしたことのたいせつさを、戦前は、子供たちにしっかりと教えていたのです。

    そういう教えを受けて育った人たちが、大正生まれの日本の若者たちでした。
    そしてそうした教育を受けた彼らが、果敢に戦ったのが先の大戦です。

    大戦が終わったあと、彼らが同窓会を開くと、ひとクラス40人の学級で、男子20人、女子20人いたのに、集まるのは女子が15〜6人、男子は3人か4人だけでした。
    なぜかというと、戦争でみんな死んでしまったからです。

    それだけの犠牲を払いながら、苦労して、私たしの国を遺してくれたから、いまの私たちの命があります。
    そのことに感謝の心のひとつも持たずに、ただ姦(かしま)しく戦前の批判ばかりするような人を、私は信用する気になれません。
    なにより大切なことは、いま私たち自身が、こうして命をいただいているのは、彼らが苦しい戦いを必死で闘ってくれたから、そうした先人たちの恩に、感謝する心を持つことこそが、自分が人であることの証(あかし)だと思うからです。

    だから、感謝の心を持たず、ただいたずらに批判ばかり繰り返す人を、私は「ひとでなし」だと思っています。
    せっかく人に生まれたのに、人でなしを生きるなんて、あまりにも馬鹿げています。
    そうじゃありませんか?

    先人に感謝。
    爺さんに感謝。
    父に感謝。
    そして子や孫の幸せのために、自分にできる最善を尽くす。
    それが大人というものの生き方です。
    わが国では、父母も祖父母も曾祖父母も高祖父母も、祖先たちも、何千年、何万年も前から、ずっとそうやって生き、時代をつむいできたのです。
    これこそが日本人の誇りです。

    昭和天皇が終戦の翌年に詠まれた御製です。

     降り積もる
     深雪に耐えて
     色変えぬ
     松そ雄々しき
     人もかくあれ


    大切な「お示し」だと思います。



    お読みいただき、ありがとうございました。
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    日本には日本の歴史があります。
    私たちは、戦後に教わってきたことが、本当に、正しい歴史であったのか。
    いまいちど、冷静に考え直してみるべきときにきていると思います。

    樋口季一郎陸軍中将
    20191018 樋口季一郎
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人、満洲に入国できずにソ連のオトポール駅で立ち往生となっていました。
    駅舎からあふれた人々は、吹雪の中で野宿同然の状況となっていました。
    身の回りの物だけを持ってようやくたどりついた難民たちです。
    オトポールの3月の気温は、夜にはマイナス30度の極寒です。
    食糧もすでに尽きており、飢えと寒さで凍死者さえも出はじめていました。

    満洲国は、日本の同盟国でした。
    その日本はドイツと同盟関係にありました。
    「もしユダヤ難民を受け入れれば、
     ドイツ側から抗議を受ることになる」
    満洲の役人たちは、そのことを心配してユダヤ難民の受け入れを拒否しました。

    オトポール駅は、ヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側の終点です。
    次々とやってくるユダヤ難民たちは、ついにその数、2万人に達するものとなっていました。

    満州のハルビン市で特務機関長をしていた陸軍の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)陸軍少将のもとにハルビンユダヤ人協会会長で医師のカウフマン博士がやってきました。
    そして樋口陸軍少将に、ユダヤ難民の救出を依頼してきました。
    しばらく考えていた樋口少将は答えました。
    「わかりました。
     すべての責任は私が負います。
     博士は難民の受け入れ準備に
     取りかかってください」
    この言葉を聞いたとき、カウフマン博士は滂沱の涙を抑えることができなかったそうです。

    樋口陸軍少将は、すぐ満鉄の松岡洋右(ようすけ)総裁に特別列車の手配を依頼しました。
    オトポールのユダヤ人たちは、すでに多くが満足に歩けない状態となっていました。
    駅から満洲の国境までは、わずか数百メートルです。
    そこには満鉄の日本人職員が待ち構えていました。

    ユダヤ人たちはすでに息も絶え絶えの状況でした。
    待ち構える日本の職員たちは、
    「頑張れ、もう一息だ!」
    と叫びました。
    ようやく国境にたどり着いたユダヤ人たちを、職員たちが背負って列車まで連れて行きました。
    こうして、すべてのユダヤ人が救出されました。

    特別列車は、二日かけて、ハルビン駅に到着しました。
    列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
    病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運び出されました。
    やつれた幼い子供たちには、暖かなミルクが振る舞われました。
    子供も大人も、そのそのビンを見ただけで泣き出しました。

    数時間後、樋ロ陸軍少将はオトポールの難民すべてが収容されたという報告をうけました。
    十数名の凍死者、および病人と凍傷患者二十数名を除き、すべてのユダヤ人が無事に保護されました。
    もし救援があと一日遅れていたら、この程度の犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言いました。

    ユダヤ難民たちは、日本やアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。
    日本に着いたユダヤ人たちは、在日ユダヤ人会と協力して、神戸に受け入れ施設を作られました。
    日本の警察も、乏しい食糧事情の中で、トラック何台ものジャガイモをユダヤ人に贈りました。

    こうして事件が落着した2週間後、日本国政府に対してドイツ政府から強硬な抗議文が送られてきました。
    関東軍の司令部の東条英機参謀長は、樋口陸軍少将を呼び出しました。
    樋口陸軍少将は、東条英機参謀長に答えました。
    「ドイツは日本の同盟国です。
     しかしドイツのやり方が
     ユダヤ人を死に追いやるものであるならば、
     それは人道上の敵です。
     私は日本とドイツの友好を希望します。
     しかし日本はドイツの属国ではありません。」

    そして参謀長の顔を正面から見据えて言いました。

    「参謀長!
     ヒトラーのお先棒をかついで、
     弱い者いじめをすることを、
     正しいとお思いになりますか」

    東条は天井を仰いで言いました。  
    「樋口君、よく言ってくれた。
     君の主張は筋が通っている。
     私からも中央に、
     この問題は不問に付すように伝えておこう」

    そして日本国政府は、ドイツの抗議を、
    「当然なる人道上の配慮」
    として一蹴しました。

    数年後、転勤で樋口少将がハルピンを去る日、駅には二千人近い群衆が集まりました。
    遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけたユダヤ人もいました。
    それは樋口少将が土地や住居を世話したユダヤ難民たちでした。
    樋口陸軍少将の乗った列車が動き出すと、群衆はホームになだれ込み、
    「ヒグチ!」「ヒグチ!」「ヒグチ! バンザイ!」の声がいつまでも響きました。

    オトポール事件から約七年後、大東亜戦争の末期に突如侵攻してきたソ連軍を撃退した樋口陸軍少将は、ソ連に恨まれて、終戦後に戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。
    このとき樋口陸軍少将を救ったのはユダヤ人たちでした。

    「命の恩人ヒグチを救え!」
    「ヒグチに恩を返すのは今しかない!」
    世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ政府に働きかけ、樋口を救いました。

    かつての満洲は、いまは中共の東北省と、ロシア領に分断統治されています。
    そこには、かつてのロシア帝国の元貴族たちや、こうして樋口季一郎元陸軍中将に助けられた多くのユダヤ人たちも平和に暮らしていました。
    日本が戦争に敗れたとき、満洲には、China共産党軍とソ連軍がなだれ込み、満洲国はなくなりました。
    そして、そこにいたロシア帝国の元貴族やユダヤ人たちは、いまでは誰も残っていません。

    運の良いものは、難を逃れてアメリカやヨーロッパに亡命することができました。
    けれど、それをすることができたのは、1000人にひとりもいなかったといわれています。
    国を失うということが、そこに住む人々に何をもたらすのか。
    そして責任ある将官と、その将官に率いられた軍の存在こそ、人々の安全を護るものであるということを、私たちはいまいちど考えてみる必要があると思うのです。

    日本における軍は、上古の昔の神倭伊波礼毘古命に率いられた御軍の時代から現代の自衛隊に至るまで、常に公正無私、人々の生活の安全と安心を護る軍でした。
    ですから日本人にとって、軍人といえば、それはいまの自衛官や機動隊員と同様、常に正義の味方です。

    ところがこのことは、日本人の常識であっても、諸外国の常識ではありません。
    大陸や半島においては、自国の軍は常に暴徒であったしヤクザ者であったし、ギャングの手先で有り続けました。
    西洋においては、軍といえば傭兵で、傭兵は常に食いはぐれた愚連隊の集合体でした。
    そしてその軍を動かすものが支配者でした。
    ですから支配者=収奪者であったし、だからこそ、そこからの自由のために民衆が軍と戦ったという歴史を持つのが西洋社会であり、その収奪者から逃れて、自由のために新大陸を目指したのがアメリカです。
    日本とは国の成り立ちが違うのです。

    その、国の成り立ちが違う人達が、日本の軍のあまりの強さを見て恐怖して、戦後70年間、必死になって行ったことが、「日本の軍は怖い存在」というイメージです。
    ところが、70年もかけながら、現実には、「日本の軍は怖い存在」というイメージは、ただの言葉遊びにしかならず、これを政争の道具にすればするほど、それをする野党は、日本の世間から見放されてきました。
    また、これを教育よって日本人に刷り込もうとすればするほど、自衛隊への入隊希望者が増えています。

    日本には日本の歴史があります。
    私たちは、戦後に教わってきたことが、本当に、正しい歴史であったのか。
    いまいちど、冷静に考え直してみるべきときにきていると思います。


    ◆参考文献
    服部剛著『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』


    ※この記事は2016年10月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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