• 私心と政(まつりごと)


    一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではありません。
    そのために殿様は、世襲にして生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されました。
    食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様であったのです。

    雪の名古屋城
    20170125 雪の名古屋城
    画像出所=http://network2010.org/article/536
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    日本を豊かに
    小名木善行です。

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    劇などで、お殿様役の役者さんが、「よは満足じゃ」と語るシーンがあります。
    ここでいう「よ」とは、いったい誰のことなのでしょうか。

    現代漢字では、「余」とか「予」が充てられます。
    けれど本来は、実は「世」です。
    ただ、「世」と書くと、なんだか大上段に振りかぶった大言壮語みたいで生意気なので、すこし遠慮して「余」とか「予」を書きました。

    音はあくまで「よ」です。
    そして「よ」とは「世」のことです。

    以前にこのことを書いたときに、ムキになって、「ねずがまたウソを書いている。よ、という一人称は、漢字で予や余、世と書くのが習わしだ」などと、わかったようなことをさかんに書き立てていた人たちがいましたが、おそらく、わからない人(=心のねじ曲がった人)には、永遠にわからないことだと思います。
    そもそも日本語を、西洋的な人称という概念だけで捉えようとしていること自体が、すでに間違いです。

    なぜ「世」なのかというと、人の上に立つ者、つまり殿様は、「私」を持ってはならないとされてきたからです。
    それが日本です。
    これはとっても厳しいことです。
    殿様は、幼少期から徹底的にこのことを教育されました。
    なにしろ「私心を持ってはいけない」ということは、昔の武士たちのイロハのイの字よりも前に来る、基本中の基本だったのです。

    いまの子どもたちなら、
    「俺、これ食べたーい」とか、
    「あたし、これほしいわ」とか、
    「オイラ、これが一番いい!」などという言葉は、ごくあたりまえの日常語です。
    けれど、殿様の家庭では、これらはすべて禁語です。
    なぜなら、「俺が、私が」という言葉自体が、私心のあらわれだからです。

    このことは徹底していて、私文書の典型である日記を書くときにも「私」を示す一人称は用いてはならないとされました。
    「母が私に七草粥(ななくさがゆ)を作ってくれた。
     私はそれをとても美味しいと感じた」
    のような、完全に自分の感じたことを書く文でも、
    「母の作る七草粥は、とても美味しいものであった」
    と書くものとされました。
    「誰がそう感じたのか」は、書くものではないとされていたからです。

    これは、他の人を優先するとか、譲り合いの精神とも違います。
    私心を徹底的に排除するという思想からきているものです。
    武家において大切なことは、どこまでも世ため、人のためであり、それ以外は「ない」とされてきたのです。

    だから必要があれば、自分の腹に刃を突き立てます。
    それはとっても痛いことです。
    けれど、痛いというのは私心です。
    それが「世のため」であれば、痛いなどと言ってはいられないのです。

    領内でとても良い、おいしい大根ができた。
    それを食べてみた。
    すると本当に美味しかった。
    だから、「世の人々は満足するであろう」という意味で言う言葉が、
    「世は、満足じゃ」
    なのです。

    このように私心を排除することが大事にされた理由は、聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼります。
    第十五条に「背私向公」とあります。
    「私(わたくし)に背(そむ)き、公(おおやけ)に向(むか)え」と読みます。

    人の上に立つ者は、自分個人のことよりも、みんなのことを優先せよということです。
    まして殿様といえば、藩主ならいまの県知事、直参旗本ならいまの市長くらいの役職にある者です。
    そういう人が、「俺が、俺が」と我を張って自分個人の利益を優先するようになったら、どこかの国の不正選挙と同じです。まさに「世も末」です。

    殿様に生まれたら、これが食べたい、あれが食べたいなどと言うことなど一切許されません。
    なぜならそれは「わがまま」だからです。
    「わがまま」は、「我が、まま」です。
    ご飯に味噌汁に漬物、しかもお毒味役が毒味してからですから、冷えたご飯に冷えた味噌汁です。
    おかわりも、2杯までと決められたら、それに従うしかない。
    「キュウリは嫌いじゃ。他の物を食べたい」
    などと言えば、
    「殿が嫌いと言われれば、
     キュウリを作る農家の人がどのように思われることでしょうか。
     またせっかくこの料理を調理してくれた者たちはどのように思うでしょうか。
     そのようなわがままは許されませぬ」
    と叱られました。

    もっとも、江戸時代の武士であっても、アレルギーを持つ人はいました。
    それを食べるとアレルギー反応が出てしまう。
    そのようなことは現実にあるわけです。
    この場合は、養生の観点から、やむを得ないこととされるケースは、ごくまれにはありましたが、多くの場合、それで子が死んだなら、やむをえないこと、とされたのが殿様の家というものです。
    それほどまでに厳しかったし、それほどまでに徹底していたのです。

    なぜなら、身の全ては公(おおやけ)のためのものだからです。
    美味いものを腹いっぱい食べて「満足、満足」と言えるのは、むしろ庶民の特権でした。

    そんな次第ですから、たとえばテレビドラマの「暴れん坊将軍」が、ラストシーンで「よの顔、見忘れたか!」などというのは、まったく日本の歴史を知らないか、日本の歴史を誤って教わったか、あるいは意図的に日本の統治の精神を歪めようとするさもしい心得からくるファンタジーでしかありません。

    また、武士は自分のことを「拙者(せっしゃ)」と呼びましたが、これは「そんな公に奉仕することのできない拙(つた)ない者」という意味です。
    つまり、「私」を主張したり、自分のことを述べたりする者というのは、公ではなく私であって、それはつたないものである、と考えられていたのです。

    殿様というのは、天子様から日本の治世全体を親任された将軍から、当該地域の領土領民の統治を委ねられた者です。
    だから領土領民を「御拝領」といいます。

    いわば人のものを預かっているのです。
    何のために預かっているかといえば、その領土領民たちが、豊かに安全に安心して暮らせるようにするためです。
    私腹を肥やすためではありません。

    いまでは知事や市長は、選挙によって「選ばれた人」という位置づけですけれど、「俺は選ばれた人間だ」という意識は、いわゆる選民思想に由来します。
    これは、俺は神によって選ばれた者だ、というのに等しいことであり、傲慢な思考です。

    ですからこのような人達が、自分の所轄する、自分を選んでくれた県や市町村で、何か大きな不祥事が起きたからと、自ら責任をとることはありません。
    戦後の現代史を見ても、知事や市長が引責辞任するのは、常に、その知事や市長自身の手による金銭不祥事くらいなものです。

    以前、神奈川県川崎市で中一児童の殺害事件がありました。
    もしこれが江戸時代に起きたことであれば、川崎の、この場合は町奉行になりますが、川崎の町奉行は、世間を騒がす問題を起こしたということで、切腹です。

    なぜなら、そのような問題を「起こさないために」町奉行の職があるからです。
    問題が起きたならば、その「問題を起こしたことに責任」をとるのはあたりまえです。

    これを自覚し、自分で責任をと切腹すれば、家門は維持できます。
    せめて息子は家督を相続し、また別な任地で奉行職を勤める家柄を維持できます。
    けれど、自分で責任を自覚せず、腹も切らないとなれば、幕府から「上意でござる」と譴責(けんせき)を受けます。
    この場合は、お上の手をわずらわせたわけですから、切腹ではなく斬首になります。
    斬首は武門の恥です。
    ですから、お家はお取り潰しとなり、妻子も親も、翌日からは一介の浪人一家となり、路頭に迷わなければなくなります。

    現代社会では、切腹も打首もありません。
    そして神奈川県警が被害者をイジメた児童を逮捕し、川崎市長は、市議会で「二度とこのような事件が起きないよう、教育委員会とも連携し、しっかりと対策をしていきたいと思います」と述べるだけです。
    いささか過激な発言に思われるかもしれませんが、現代日本の市長さんは、小楽なものです。

    ここまで申し上げても、「でも昔のお殿様は世襲だったよね」などと思う人がいるかもしれません。
    しかし考えてみてください。
    殿様と呼ばれる間も、そうでない間も、泣いて我儘を言えたのは生まれたての赤児の内だけで、その後は一生死ぬまで「私」ということを、言葉さえも発してはならないのです。
    しかも何か大きな事件が起きれば、公のために問題を起こした責任をとって切腹です。それが殿様の役割です。

    気楽に「私」を主張できる民と、幼児から死ぬまで一切「私」を言えないお殿様。
    話をする際にも、「私はこのように思う」とは一切口にさえできないお殿様。
    常に「世は」と、世の中の人はこのように思うであろうという形でしか発言できず、「私は」とか「俺が」などと一言でも言おうものなら、主君押込(しゅくんおしこめ)といって、座敷牢に入れられ反省するまで半年でも1年でも牢屋から出してもらえなかったのが、昔のお殿様です。

    いま、youtubeなどにおいて、様々な論客のみなさんの動画が出回っています。
    どれでも構いませんから、どれかひとつを再生してみてください。
    多くの場合、その人の発言は、1分に一度「私は」と、私という言葉が出てきます。
    公のために活動し、発言している人ですら、そうなのです。

    良いとか悪いとか言っているのではありません。
    ただ、一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではありません。
    そのために殿様は、世襲にして生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されました。
    食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様であったのです。
    そしてそこまで徹底して公に尽くし、公に生きることは、世襲でなければできることではありません。

    ただし実力分野、たとえば藩の経理財務や藩の外交、あるいは学問や武芸などの分野においては、世襲や血筋ではなく、実力がものを言いますから、どの藩においても、そうした分野には出自(しゅつじ)などは一切問題にせず、農民や職人、あるいは商人の出であっても、とにかく有能な人材を用いました。
    これまた至極もっともなことです。

    ただし、そうした人たちは、たとえ家老職にあったとしても、責任を取るということに関しては、そういう人達は切腹やお家断絶はなく、解雇というだけにとどめられました。
    そういう違いがあったのです。

    こうしてみたとき、江戸時代が、前にもご紹介しましたが、江戸の享保年間の20年間の間に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数がゼロだったこと、あるいは江戸の日本橋のたもとという、日本一往来の激しかった場所で、青天井のもとに全国に送金される現金がザルにいれられて、見張り役さえいなかったのに、江戸時代を通じて盗難事件がゼロだったこと。
    明治から昭和の中期頃まで、家に鍵なんてかけなくても、誰も泥棒さえはいらないというほどまでに、優れた治安が実現していたことなど、ある意味当然のことであったと思います。

    それから考えれば、児童が殺害されるような事件があっても、女子高生がコンクリート詰めにされていながら、区長も知事も警察署長も、だれひとり死刑にならない時代というのは、施政者にとっては「都合の良い時代」かもしれませんが、民衆にとってそれが本当に良い時代といえるのか、そういうことをこそ、私達は考えていかなければならないのではないかと思います。


    ※この記事は2017年1月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
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  • 片平観平と日本的思考


    天が大任を与えようとするときには、強烈な試練を与えます。
    試練に負けず、めげず、怖(お)じず、そして逃げずに、たゆまず雄々しく前に進もうとするとき、はじめて天はその人に任を与える。
    逆に言えば、いまとってもつらいことであっても、途中でめげたら次はない、ということです。
    名もない民草(たみくさ)であったとしても、どこまでも、いつまでも正しい心で前に向かって歩み続ける。
    それが日本人の日本人的生き方です。

    20200130 白石用水路
    画像出所=http://volvolife.jp/author/sakusha/mymother/index.htm
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    小名木善行です。

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    天保年間というのは、その前の時代が文化文政時代で、これは世にいう「化政時代」、元禄が上方(関西)文化が花開いた時代なら、化政時代はまさに江戸庶民文化が花が咲いた時代です。

    天才歌舞伎役者の7代目市川団十郎が、市川家の名を不動のものにした時代であり、絵画では、フルカラーの印刷技術が確立し、版画を用いて作られた当時の新聞(かわら版)がフルカラーとなり、東海道五十三次の安藤広重や、歌麿、北斎が活躍したのもこの時代、本居宣長が古事記全巻の通釈本を出し、杉田玄白らが解体新書を出版し、十返舎一九が東海道中膝栗毛を書いたというのも、この時代です。

    だいたい江戸中期を描いた映画作品などが舞台にしているのも、まさにこの時代といった方がイメージをつかみやすいかもしれません。

    それだけ江戸庶民文化が華やいだ背景には、第11代将軍徳川家斉がわりと派手好きで、江戸の貨幣経済をおおいに発展させた、という背景があります。
    ところがこのことが、同時に大きな問題を起こしたのも、化政時代であったわけです。

    どういうことかというと、もともと徳川幕府というのは、税を米で収めさせたり、武士の給料(俸禄)を米で支払ったりと、物を買うことよりも、人が食うことを国の中心・柱とした政治体制です。
    だから贅沢よりも質素を好み、道徳規範を大切にして、みんなが食えるための共同体としての統治を国政の中心に据える社会を築きました。

    そこに徳川家斉という、貨幣経済大好き、贅沢大好きという将軍が登場したのです。
    しかもまる50年、統治者となりました。
    家斉という人は、たいへんな円福家でした。
    なんと側室40人、できた子供が男28人、女子27人と、都合55人もの子を儲け、あまりに夜な夜な励むので、松平定信から、
    「あまりに回数がすぎるとお体にさわりますぞ」
    と注意をされるほどだったといいます。
    ある意味、たいしたものです。

    女性好みの激しい統治者の世というのは、贅沢を好むようになりがちです。
    そして政府がお金をたくさん使うようになると、民間にお金がまわるようになります。
    つまり大都市の住民は、貨幣経済の進展によって、好景気を満喫し、庶民文化が花開くわけです。

    ところがこのことは、農村部を著しく疲弊させます。
    なぜなら農家は、農作物を育てた分の、決まった収入しかありません。
    他方、都会人は、こうして全国で生産さえれた米を動かすだけで、大金が転がり込んでくる。
    貨幣経済は、一次二次産業より、三次四次産業を発展させるわけです。

    一次二次産業と三次四次産業の違いは、アップルパイを作る人と、できあがったアップルパイを奪い合う人にたとえることができます。
    経済が「生産や製造」から、「財貨の奪い合い」に移行すると、たまたまアップルパイをたくさん得ることができた人が、極端なお金持ちになっていきます。
    すると相対的に生産者や製造者は貧しくなります。
    つまり格差社会が形成されます。

    都市部の金持ちだけがいい生活ができて、人の世で一番大切な食(農業)の生産者の生活が圧迫される。
    日本の八百万の神々は、こういうことがお嫌いなようで、経済がそのような状況になると、古来、天罰が下ります。
    それが文政4(1821)年3月の蔵王山の大噴火でした。

    この噴火はものすごい大噴火で、噴煙が全国に広がり、これが冷夏を招き、農作物が大凶作となりました。
    さらに文政7(1824)年には、大洪水、翌文政8年にはふたたび大凶作に見舞われます。
    この年、もっとも経済が華やかなはずの大阪でさえ、約5000人の餓死者が出ました。
    翌天保9年には仙台藩で大飢饉が起こって約20万人が死ぬという悲惨な出来事が起きています。

    文化文政時代最後の年、文政13(1830)年には、再び蔵王山が大噴火しました。
    噴煙が日本の空を覆い、貨幣経済によって疲弊した農村部では、肝心の農作物そのものが採れなくなりました。
    村々は大凶作にみまわれました。
    そして全国的な大飢饉が起きました。

    こうした凶作は、寒冷地である東北地方では特に大きな打撃となります。
    そもそも米は熱帯性植物で冷害に弱いということに加えて、平野部が少ないから、生産高自体が少ない。
    しかも東日本は年一期作です。収穫が年一度しかない。(西日本は二期作)

    宮城県にある白石藩といえば、もともと仙台藩伊達氏の家臣の片倉氏が代々藩主を務めた名門です。
    ここでは度重なる飢饉から人々を救うために、藩のお蔵にあるお米を供出し、新田として開墾できる平野部も、ことごとく開墾して、必死で農産物を増やして、藩の人々の食と生命を守ろうと努力していました。
    ところが相次ぐ凶作、相次ぐ飢饉で、もう藩の金庫は空っぽ。なんにもない。
    それでも、藩内の人々の命を守るためには、なんとしても、あと一歩、食糧生産高を上げなければならない。
    そしてこの時点で、白石藩に、新田開発場所として藩内に残された場所は、蔵本村周辺の一か所だけでした。

    蔵本村あたり一体は、農地に適した平野部です。
    ところが水路がないのです。
    巨大な岩盤が邪魔して、水を運んでくれない。
    水がなければ稲は育ちません。
    けれど、水さえひければ、そこは広大な農地になります。

    そこで白石藩では、白石川の上流から蔵本まで水路をひくことで、なんとか蔵本村一体を農地にしたいのですが、困ったことに、蔵本村は、いまでいうゼロメートル地帯です。
    大雨が降って水かさが増すと、堰が切れて地面に水が噴出するのです。
    すると農作物が全部やられてしまう。
    堰(せき)の修繕費も藩の財政を圧迫するし、農作物の被害は、住民の生活を圧迫する。
    まさに二重苦だったのです。

    残る方法はただひとつ。
    蔵本村にたちはだかる巨大な岩盤に穴をあけ、そこに水を通すことです。
    穴は、ふさげば、水量の調節ができる。
    そうすれば、広大な農地を守ることができます。
    農地が広大な分、農作物の取れ高があがり、庶民を飢えから救えます。
    堤防修繕という余計な出費も免れることができます。

    なんとか岩盤に穴をうがって、水を通すことはできないものか。
    けれどそれには莫大な藩費の出費と、相当な年月がかかります。
    当時は穴掘り、岩盤堀りは、全部手作業の時代だったからです。

    藩のフトコロは、これまでの飢饉対策で、もはや空っぽです。鼻血も出ない。
    完成した水路の受益者となるべき蔵本村側も、米は作れぬ、仕事はないで、岩盤くりぬき工事ができるような余裕はどこにもありません。
    まさに、藩も、村も、身動きがつかない、出口の見えない苦境に陥っていたのです。

    そんな中で、第十代藩主の片倉小十郎宗景が、かねてより蔵本村の岩盤に穴をうがつという案を藩に提案していた片平観平を城に呼びました。

    藩の窮乏を救うために、なんとかして蔵本村の新田を守り開拓しなければなりません。
    そのためには、片平観平の岩盤に穴を開けて水を通すという案しか、もはや手立てはない。
    けれども、相次ぐ飢饉対策で、もはや藩には財政上の余力がない。
    どのようにしたら良いか。
    殿は、そう正直に片平観平にご下問しました。

    このとき観平が、なんと答えたか。
    それが、
    「私が行いますれば」
    です。
    全工事を私費で行うと殿に返答したのです。

    無茶な話です。
    いまで言ったら、何十億円に相当する工事を、サラリーマンの、しかも貧乏な侍が、私費で行うというのです。
    無茶な話です。
    けれど、なんとかしなければならない。
    ほかに藩を救う手立てはない。
    目の前にいる大事な、そして優秀な武士がひとり、ただ腹を斬るだけでなく、一族郎党を路頭に迷わせてまでも、その工事をやってのけると宣言しているのです。
    藩主、片倉宗景は、涙をのんで、観平に許可を与えました。

    工事は、ひとりではできません。
    片平観平は村々をまわり、人々を集め、岩盤をくりぬくトンネル工事の必要性を訴えました。
    膝をつめて説得にあたりました。

    村人たちも、納得してくれました。
    なにより片平様が、ちゃんと給金を出してくれるという。
    飢えて死ぬのを待つのではなく、末代までみんなが豊かな生活ができるように、力をあわせるのです。
    そりゃあ、うれしいことです。

    けれど、神々は観平に試練を与えました。
    工事を素直に完成させてくれなかったのです。
    岩盤を掘削し、ある程度トンネルを掘り進むと、その都度大水を起こって川が氾濫し、せっかく掘ったトンネルを、落盤と土砂で埋めてしまうのです。

    掘っては、大水で埋められる。
    また掘っては大水で埋められる。
    工事は、この繰り返しとなりました。
    そしてなんと、十年の歳月を要する大工事になってしまったのです。

    工事費用は全額片平観平の自費です。
    彼は一文無しになりました。
    ご先祖伝来の書物から骨董品、刀剣類から、最後は衣類までも売り払い、それでも資金が足りなくて借金に借金を重ねました。
    それでも彼は、穴掘りに働く人々への給料を、一度も溜めたことはありませんでした。

    ようやくトンネルが開通しようというところまで工事が進んだ、ある日のことです。
    前日になって、暴風雨が白石藩を襲いました。

    観平はトンネルが崩れ、工事が遅れてしまうことを心配して、大雨の中を、トンネルの様子を見に行きました。
    暴風雨で、ずぶぬれになりながら、祈るような気持ちで、今度だけは、今日だけは、トンネルを守ってほしい、あと少しで完成なのだ。そうしたら、多くの人が助かるのだ。この世に神がおわすなら、どうか、どうか、このトンネルを守ってほしいと祈りました。

    激しい雨の中、濁流のそばで、そう祈り続ける観平に、一緒に働く仲間たちが、風邪をひきますぞ。あなたがいなくなっては、工事は完成しなくなるのです、と彼を家に帰しました。
    心配で心配で、一睡もできなかった観平は、翌朝、雨が上がり、雲間が切れて太陽の光が射す中、再び現場を見に行きました。

    すると、なんということでしょう。
    まだつながっていないはずの切通しに、満々と水が流れているではありませんか。
    前夜の暴風雨で勢いを増した水が、
    それまで観平たちを困らせ続けた濁流が、
    逆にトンネルの最後の行程に穴をうがち、貫通させ、
    トンネルを開通させてくれていたのです。

    この光景を目た観平は、呆然と水の流れる様子を見つめていました。
    その目には、滂沱の涙があふれました。

    こうして俵縁から松ヶ淵まで、約250間(約450メートル)の、蔵本大堰切通しが完成しました。
    観平のこうした努力に、藩主の片倉宗景は、藩費のなかから、莫大な報奨金を観平に与えました。
    けれどその報奨金を、観平はまるごと愛宕山の水源地を守るための数万本の植林の費用に遣ってしまいます。

    こうして蔵本村は、水害を心配することなく、莫大な米の生産を可能にし、以降の白石藩の人々の生活を助けてくれました。

    観平は、全財産を使い果たし、殿からいただいた報奨金さえも植林に捧げ、何もかも遣い果たして、70歳でこの世を去りました。
    彼は、儲けどころか、全財産を失っても、人々のために生涯を捧げるという道を選びました。

    片平観平の生涯は、経済人としては、まるでダメ男といえるかもしれません。
    けれど、古来日本人は、公のために生きるということを、もっとも大切なこととしてきました。
    そしてそういう人には、天はかならず大きな試練を与えました。
    それでも最後までやり抜く。

    「天の将に大任を是の人に降さんとするや、
     必ず先づ其の心志を苦しめ、
     その筋骨を労し、
     その体膚を餓やし、
     その身を空乏し、
     行ひ其の為すところに払乱せしむ。
     心を動かし、性を忍び、
     その能はざる所を曾益せしむる所以なり」

    孟子の言葉です。
    実は同じことが、日本書紀の神武天皇記にも書かれています。
    神武天皇は、国が荒れ人口さえも減少したときに、稲作の普及のために日向(宮崎)を兄たちとともに出発されるのですが、畿内で敵に襲われ、兄たち全員がお亡くなりになり、持っていた備蓄食料もすべて海に流され、部下たちは病に倒れます。
    しかし、そのときに、天の神は神武天皇に、叢雲の剣を授け、八咫烏を派遣するのです。

    天が大任を与えようとするときには、強烈な試練を与えます。
    試練に負けず、めげず、怖(お)じず、そして逃げずに、たゆまず雄々しく前に進もうとするとき、はじめて天はその人に任を与える。
    逆に言えば、いまとってもつらいことであっても、途中でめげたら次はない、ということです。
    名もない民草(たみくさ)であったとしても、どこまでも、いつまでも正しい心で前に向かって歩み続ける。
    それが日本人の日本人的生き方です。

    片平観平が、トンネルを完成させたのは、天保11(1840)年のことです。
    いまから180年以上も昔です。
    それでも、彼は、いまも水路とともに、人々の心の中に生き続けています。


    この記事は2011年1月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 『学問のすゝめ』に見る天命と責任


    似非政治家は、やたらに他の政治家や政党に対して「責任」という言葉を口にして攻撃します。
    けれど責任というのは、権力権限に対して、言い換えれば「使命に対して」生じるものです。
    まるで関係ない個人的な問題をでっち上げても、でっち上げられた側には、その問題と称する事柄に、なんの使命も持ち合わせていません。
    なんの使命も持ち合わせていないものに、責任は生じません。


    20201230 松に雪
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    今年は激変の年です。
    ものごとの根幹が、オールリセットされて、新しい出発がはじまります。
    それは巨大な変化であり、驚愕の変化であり、新しい未来の姿です。

    そんなときだからこそ、私達は原点回帰が必要です。
    神話や日本書紀、歴史などもそうです。
    そしてそこに福沢諭吉もぜひ、入れたいと思います。
    なぜなら福沢諭吉は、独立した個人による国家の発展を説いた思想家であるからです。
    とりわけ、「脱亜論」、「学問のすゝめ」は重要であると思います。

    「学問のすゝめ」で有名な言葉が、
    「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」です。
    しかし諭吉が言いたいのは、そこではありません。
    もっと深いことを解いています。

    そこで初編の全文を原文に簡単な解説をつけながら掲示しますので、ぜひ、ご一読いただければと思います。
    なお、現代語訳は、いつものねず式です。
    (全文は17編まであります。
     今回はそのなかの初編だけです)

    「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
     されば天より人を生ずるには、
     万人は万人みな同じ位にして、
     生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、
     万物の霊たる身と心との働きをもって
     天地の間にあるよろずの物を資とり、
     もって衣食住の用を達し、
     自由自在、
     互いに人の妨げをなさずして
     おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

     されども今、
     広くこの人間世界を見渡すに、
     かしこき人あり、おろかなる人あり、
     貧しきもあり、富めるもあり、
     貴人もあり、下人もありて、
     その有様(ありさま)、
     雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。」


    学校では、福澤諭吉の『学問のすゝめ』といえば、すなわち「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」であって、人の平等を説いたものと教えるけれど、こうして原文を読めば、福沢諭吉が述べている趣旨がぜんぜん違うことにお気付きいただけるのではないかと思います。
    現実には「雲と泥」の差ほどに、人には差があると諭吉は述べているのです。

    ではどうして、そんな差異が生まれるのか。
    どうしたら少しでも貴人に成長していくことができるのか。
    そこを諭吉は述べようとしていることが、この冒頭でわかります。


    「その次第はなはだ明らかなり。
     『実語教(じつごきょう)』に、
     「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
     されば賢人と愚人との別は
     学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

     また世の中に
     むずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
     そのむずかしき仕事をする者を
     身分重き人と名づけ、
     やすき仕事をする者を身分軽き人という。

     すべて心を用い、
     心配する仕事はむずかしくして、
     手足を用うる力役(りきえき)はやすし。

     ゆえに医者、学者、政府の役人、
     または大なる商売をする町人、
     あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、
     身分重くして貴き者と言うべし。」


    本来、人は対等です。
    けれど社会的分業を営むに際して、人には責任の軽重が生じます。
    それは「責任」の重さであり、責任と権限の重さは等しいものなのだ、ということです。
    ここが西洋に似せた現代の政治や行政に欠落している部分です。

    似非政治家は、やたらに他の政治家や政党に対して「責任」という言葉を口にして攻撃します。
    けれど責任というのは、権力権限に対して、言い換えれば「使命に対して」生じるものです。
    まるで関係ない個人的な問題をでっち上げても、でっち上げられた側には、その問題と称する事柄に、なんの使命も持ち合わせていません。
    なんの使命も持ち合わせていないものに、責任は生じません。

    あるいは似非政治家は、いわゆる「論点ずらし」をよく行います。
    ずれた論点には、答える責任は生じません。

    こうした、少し考えれば誰にでもわかる論理を、残念ながら現代日本人は学校で教わっていません。
    結果、似非政治家や、金儲けをしたいだけのメディアに騙されることになります。

    「身分重くして貴ければ
     おのずからその家も富んで、
     下々(しもじも)の者より
     見れば及ぶべからざるようなれども、
     その本もとを尋ぬれば
     ただその人に、
     学問の力あるとなきとによりて
     その相違もできたるのみにて、
     天より定めたる約束にあらず。

     諺ことわざにいわく、
     「天は富貴を人に与えずして、
      これをその人の
      働きに与うるものなり」と。

     されば前にも言えるとおり、
     人は生まれながらにして
     貴賤・貧富の別なし。
     ただ学問を勤めて
     物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
     無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。」


    「天より定めた約束」というのは、その人の「使命」のことを言います。
    これを「天命」と言います。そして天命を果たすことは、その人の責任です。そのために権力権限が与えられます。
    人に「生まれながらの貴賤」はありません。
    そうであれば、天命を得るには学問が必要です。

    その学問は、「問い、学ぶ」ことですから、天から与えられた約束事ではありません。
    人の学問の努力によって、その人の天命が定まるのです。

    「学問とは、
     ただむずかしき字を知り、
     解(げ)し難き古文を読み、
     和歌を楽しみ、詩を作るなど、
     世上に実のなき文学を言うにあらず。

     これらの文学も
     おのずから人の心を悦(よろこば)しめ
     ずいぶん調法なるものなれども、
     古来、世間の儒者・和学者などの申す様(よう)に
     あがめ貴(とうと)むべきものにあらず。

     古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、
     和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
     これがため心ある町人・百姓は、
     その子の学問に出精するを見て、
     やがて身代を持ち崩すならんとて
     親心に心配する者あり。
     無理ならぬことなり。
     畢竟(ひっきょう)その学問の
     実に遠くして
     日用の間に合わぬ証拠なり。」


    ここでいう和歌や古文というのは、いまどきの学校教育と同じです。
    諭吉の生きた幕末から明治にかけてでいえば、難しい漢学や和歌です。
    テストでどれだけ正答を書くことができるか、どれだけ詳しく答えることができるか。
    しかしそのようなものは、いわば単なる雑学です。
    問題は、それらを通じて、いかに天命を得るかにあります。
    そのための学問です。
    クイズの答えをいくら知っていても、多くの場合、そこに天命は生じません。
    そういうことを福沢諭吉は述べています。

    「されば今、
     かかる実なき学問はまず次にし、
     もっぱら勤むべきは
     人間普通日用に近き実学なり。

     譬(たとえ)ば、
     いろは四十七文字を習い、
     手紙の文言(もんごん)、
     帳合いの仕方、
     算盤(そろばん)の稽古、
     天秤(てんびん)の取扱い等を心得、
     なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

     地理学とは日本国中はもちろん
     世界万国の風土(ふうど)道案内なり。
     究理学とは天地万物の性質を見て、
     その働きを知る学問なり。

     歴史とは年代記のくわしきものにて
     万国古今の有様を詮索する書物なり。
     
     経済学とは一身一家の世帯より
     天下の世帯を説きたるものなり。

     修身学とは身の行ないを修め、
     人に交わり、
     この世を渡るべき
     天然の道理を述べたるものなり。

     これらの学問をするに、
     いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、
     たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、
     あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、
     一科一学も実事を押え、
     その事につきその物に従い、
     近く物事の道理を求めて
     今日の用を達すべきなり。

     右は人間普通の実学にて、
     人たる者は貴賤上下の区別なく、
     みなことごとくたしなむべき心得なれば、
     この心得ありて後に、
     士農工商おのおのその分を尽くし、
     銘々の家業を営み、
     身も独立し、家も独立し、
     天下国家も独立すべきなり。」


    要するに、不要不急の和歌や古文よりも先に、まずは実学として生活に必要なことを、共通の文化土壌として、しっかりと誰もが身につける。
    そこが肝心で、これによって人も国家も自立していくことができるのだ、というわけです。
    なぜ自立が必要かといえば、我々自身が自由に生きるためです。
    そして「自由であるところに天命が生じる」のです。

    「学問をするには分限を知ること肝要なり。
     人の天然生まれつきは、
     繋(つながれ)ず縛られず、
     一人前いちにんまえの男は男、
     一人前の女は女にて自由自在なる者なれども、
     ただ自由自在とのみ唱えて
     分限(ぶんげん)を知らざれば
     わがまま放蕩に陥ること多し。

     すなわちその分限とは、
     天の道理に基づき
     人の情に従い、
     他人の妨げをなさずして
     わが一身の自由を達することなり。

     自由とわがままとの界(さかい)は、
     他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
     譬(たとえ)ば自分の金銀を費やしてなすことなれば、
     たとい酒色に耽(ふけ)り
     放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、
     けっして然しからず、
     一人の放蕩は諸人の手本となり、
     ついに世間の風俗を乱りて
     人の教えに妨げをなすがゆえに、
     その費やすところの金銀は
     その人のものたりとも、
     その罪許すべからず。

     また自由独立のことは
     人の一身にあるのみならず、
     一国の上にもあることなり。

     わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、
     古来外国と交わりを結ばず、
     ひとり自国の産物のみを衣食して
     不足と思いしこともなかりしが、
     嘉永年中アメリカ人渡来せしより
     外国交易こうえきのこと始まり、
     今日の有様に及びしことにて、
     開港の後もいろいろと議論多く、
     鎖国攘夷(じょうい)などと
     やかましく言いし者もありしかども、
     その見るところはなはだ狭く、
     諺(ことわざ)に言う
     「井の底の蛙かわず」にて、
     その議論とるに足らず。

     日本とても
     西洋諸国とても
     同じ天地の間にありて、
     同じ日輪に照らされ、
     同じ月を眺め、
     海をともにし、
     空気をともにし、
     情合い相同じき人民なれば、
     ここに余るものは彼に渡し、
     彼に余るものは我に取り、
     互いに相教え互いに相学び、
     恥ずることもなく誇ることもなく、
     互いに便利を達し
     互いにその幸いを祈り、
     天理人道に従いて
     互いの交わりを結び、
     理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、
     道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、
     国の恥辱とありては
     日本国中の人民
     一人も残らず
     命を棄(すて)て国の威光を落とさざるこそ、
     一国の自由独立と申すべきなり。

     しかるをChineseなどのごとく、
     わが国よりほかに国なきごとく、
     外国の人を見ればひとくちに
     夷狄(いてき)夷狄と唱え、
     四足にてあるく畜類のように
     これを賤(いやしめ)これを嫌(きら)い、
     自国の力をも計らずして
     みだりに外国人を追い払わんとし、
     かえってその夷狄に窘(くるしめ)らるるなどの始末は、
     実に国の分限を知らず、
     一人の身の上にて言えば
     天然の自由を達せずして
     わがまま放蕩に陥る者と言うべし。」


    Chineseを引き合いにだしています。本当に彼らは今も昔も変わらない。
    彼らの根底にあるのは「自分のため」です。
    福沢諭吉が説くことは、「みんなのため」です。
    ジャスティス(正義・Justice)」とは、みんなのために良いことのことを言います。
    そうであれば、ジャスティスの反対にある悪とは、「自分のため」です。
    天命は自分のためには生じません。


    「王制一度ひとたび新たなりしより以来、
     わが日本の政風大いに改まり、
     外は万国の公法をもって外国に交わり、
     内は人民に自由独立の趣旨を示し、
     すでに平民へ苗字(みょうじ)乗馬を許せしがごときは
     開闢(かいびゃく)以来の一美事(びじ)、
     士農工商四民の位を一様にするの基(もとい)
     ここに定まりたりと言うべきなり。

     されば今より後は
     日本国中の人民に、
     生まれながらその身につきたる
     位などと申すはまずなき姿にて、
     ただその人の才徳と
     その居処(きょしょ)とによりて
     位もあるものなり。

     たとえば政府の官吏を
     粗略にせざるは当然のことなれども、
     こはその人の身の貴きにあらず、
     その人の才徳をもって
     その役儀を勤め、
     国民のために
     貴き国法を取り扱うがゆえに
     これを貴ぶのみ。

     人の貴きにあらず、
     国法の貴きなり。

     旧幕府の時代、
     東海道にお茶壺の通行せしは、
     みな人の知るところなり。
     そのほか御用の鷹(たか)は人よりも貴く、
     御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、
     すべて御用の二字を付くれば、
     石にても瓦(かわら)にても
     恐ろしく貴きもののように見え、
     世の中の人も数千百年の古(いにしえ)より
     これを嫌いながら
     また自然にその仕来(しきたり)に慣れ、
     上下互いに
     見苦しき風俗を成せしことなれども、
     畢竟(ひっきょう)これらはみな
     法の貴きにもあらず、
     品物の貴きにもあらず、
     ただいたずらに政府の威光を張り
     人を畏(おどし)て
     人の自由を妨げんとする
     卑怯なる仕方にて、
     実なき虚威というものなり。」


    現代日本はダメ、明治大正昭和もダメ、江戸日本こそが理想の国家であるというようなことを言う人がいますが、そうでもない。
    実は江戸時代には「御用」といえば、馬や壺の前に土下座しなければならないような不都合もあったし、人々に不満もあったわけです。
    いつの時代にも、良い面、悪い面があります。
    それぞれの時代の良いところと、今の良いところを組み合わせて、さらにもっとよい国をつくる、よい時代を築いて未来をひらくのです。
    政治はそのためにあります。
    他の政治家や政党の悪口を言うためにあるのではありません。

    「今日に至りては
     もはや全日本国内に
     かかる浅ましき制度、風俗は
     絶えてなきはずなれば、
     人々安心いたし、
     かりそめにも政府に対して
     不平をいだくことあらば、
     これを包みかくして暗に上(かみ)を怨うらむることなく、
     その路を求め、
     その筋により
     静かにこれを訴えて
     遠慮なく議論すべし。

     天理人情にさえ叶うことならば、
     一命をも抛(なげうち)て争うべきなり。
     これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

     前条に言えるとおり、
     人の一身も一国も、
     天の道理に基づきて
     不覊(ふき)自由なるものなれば、
     もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば
     世界万国を敵とするも恐るるに足らず、
     この一身の自由を妨げんとする者あらば
     政府の官吏も憚(はばかる)に足らず。

     ましてこのごろは
     四民同等の基本も立ちしことなれば、
     いずれも安心いたし、
     ただ天理に従いて
     存分に事をなすべしとは申しながら、
     およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、
     またその身分に従い
     相応の才徳なかるべからず。

     身に才徳を備えんとするには
     物事の理を知らざるべからず。
     物事の理を知らんとするには
     字を学ばざるべからず。
     これすなわち学問の急務なるわけなり。」


    福澤諭吉は江戸時代の武士の生まれの人です。
    江戸時代の武士にとって、交渉事は、常に命がけです。
    武士は腰に大小二本の刀を差しますが、重大な責任を担って交渉に及ぶとき、万一、相手がそれに従わない時は、その場で相手を斬って捨て、自分もその場で腹を切る。
    それだけの覚悟を前提として、日常の行動や交渉事が行われていました。
    ですから、交渉に行って、ダメでしたと、すごすごと引き上げてくるような者は「腰抜け」とされ、場合によっては「お上の権威を汚す者」として、武士の身分を剥奪されたりもしました。

    明治に入って四民平等となり、諭吉の言うように「静かに訴えて遠慮なく議論」する時代となることで、日本人の交渉事は、必ずしも命がけというものでなくなりました。
    近年ではKoreaの「ケンチャナヨ」同然に、ほぼほぼ適当であることで十分とするような姿勢さえも常態化しているようです。
    これは見方によっては日本人が「腰抜け」になったということです。

    なぜ「命がけ」が大事なのかといえば、行動は常に「天の道理に基づく」という強い理念と意思がそこに存在したからです。
    これを「天命」と言います。

    学問は、日常の生活に必要なソロバンや文章の書き方といった基礎的なものから出発し、「天明」を悟り、「天命」をまっとうするためにあります。

    「昨今の有様を見るに、
     農工商の三民は
     その身分以前に百倍し、
     やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、
     今日にても三民のうちに人物あれば
     政府の上に採用せらるべき道
     すでに開けたることなれば、
     よくその身分を顧み、
     わが身分を重きものと思い、
     卑劣の所行あるべからず。」


    「卑劣」というのは、することが正々堂々としておらず、いやしくきたならしいことを言います。
    一言で言えば「無責任」です。
    自分からレーダー照射をしておいて、していなかったと嘘を言う。
    泥棒をして「泥棒!」と言われたら、「お前が泥棒だ」と言い返せと彼の国のことわざがあるそうですが、嘘つきというのは、責任感の欠如を意味します。
    人の上に立つということは、責任を持つということです。
    その「責任」を「身分」だと履き違える。
    そのようなたぐいの人のことを「恥知らず」といいます。

    「およそ世の中に
     無知文盲の民ほど
     憐(あわれ)むべく
     また悪(にくむ)べきものはあらず。

     智恵なきの極(きわ)みは
     恥を知らざるに至り、
     己(おの)が無智をもって
     貧窮に陥り飢寒に迫るときは、
     己が身を罪せずして
     みだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、
     はなはだしきは徒党を結び
     強訴(ごうそ)一揆(いっき)などとて
     乱暴に及ぶことあり。

     恥を知らざるとや言わん、
     法を恐れずとや言わん。

     天下の法度(ほうど)を頼みて
     その身の安全を保ち、
     その家の渡世をいたしながら、
     その頼むところのみを頼みて、
     己が私欲のためにはまたこれを破る、
     前後不都合の次第ならずや。

     あるいはたまたま身本(みもと)慥(たしか)にして
     相応の身代ある者も、
     金銭を貯(たくわ)うることを知りて
     子孫を教うることを知らず。

     教えざる子孫なれば
     その愚なるもまた怪しむに足らず。
     ついには遊惰放蕩に流れ、
     先祖の家督をも
     一朝の煙となす者少なからず。

     かかる愚民を支配するには
     とても道理をもって諭(さとす)べき方便なければ、
     ただ威をもって畏(おどす)のみ。

     西洋の諺ことわざに
     「愚民の上に苛(から)き政府あり」
     とはこのことなり。

     こは政府の苛きにあらず、
     愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
     愚民の上に苛き政府あれば、
     良民の上には良き政府あるの理なり。

     ゆえに今わが日本国においても
     この人民ありてこの政治あるなり。
     仮りに人民の徳義
     今日よりも衰えて
     なお無学文盲に沈むことあらば、
     政府の法も今一段厳重になるべく、
     もしまた人民みな学問に志して、
     物事の理を知り、
     文明の風に赴(おもむ)くことあらば、
     政府の法も
     なおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。

     法の苛(から)きと寛(ゆる)やかなるとは、
     ただ人民の徳不徳によりて
     おのずから加減あるのみ。

     人誰か苛政を好みて
     良政を悪にくむ者あらん、
     誰か本国の富強を祈らざる者あらん、
     誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、
     これすなわち人たる者の常の情なり。

     今の世に生まれ
     報国の心あらん者は、
     必ずしも身を苦しめ
     思いを焦がすほどの心配あるにあらず。

     ただその大切なる目当ては、
     この人情に基づきて
     まず一身の行ないを正し、
     厚く学に志し、
     博(ひろ)く事を知り、
     銘々の身分に相応すべきほどの
     智徳を備えて、
     政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、
     諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、
     互いにその所を得て
     ともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。

     今余輩の勧むる学問も
     もっぱらこの一事をもって趣旨とせり。」


    要するに福沢諭吉の勧める学問というものは、「天命を得る」ことに尽きるというこであろうかと思います。
    「天命」は「天の道理」であり、これを外れる者が「愚民」です。
    民衆が愚民に堕ちるならば、政府は圧政をもって人々を弾圧するしかないし、政府が愚かな政府であれば、その愚かな政府は領民を苦しめます。

    「天の道理」というのは、あらゆる価値判断の基準となるものです。
    その基準となる価値観をしっかりと学ぶ。
    そのためにこそ学問はある、ということです。

    ですから、和歌や古文を学ぶということは、たとえば和歌であれば、その「テニヲハ」のテクニックを学ぶことが和歌を学ぶことでもなければ、和歌をたしなむことでもありませんし、物知り顔に、もっともらしい難解な言葉を羅列したり暗唱したりするこことでもありません。
    私が百人一首の和歌や古事記をご紹介しているのも、そこに取り戻すべき日本の形があり、その形は皇国臣民として不可欠のものであると確信するからです。

    何事も、目的をはじめるのでなければ意味がありません。
    ただ古事記を学びたい、和歌を学びたいのなら、他をあたって下さいと申し上げます。

    その目的とは、実学としての「天の道理を身につける」ことです。
    学問が、ただ知識の丸暗記や、むつかしいことをただ「知っている」というだけのものに堕ちるのなら、それは愚民のなせる技にしかならないのです。
    大切なことは、それらを通じて「何を学び、どう活かすか」です。

    愚民の上の苛(から)き政府は、実は政府が苛いのではない。
    それは愚民がみずから招く災(わざわい)です。
    愚民の上に苛き政府があるならば、
    良民の上には良き政府ができるのです。

    たいせつなことは「民衆の覚醒」です。
    「民衆の覚醒」とは、民衆が「天の道理」をわきまえることです。
    そのために必要なものが、「問い、学ぶこと」、つまり「学問」です。


    ※この記事は2019年2月の記事の解説を大幅にリニューアルしたものです。
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  • お伊勢様にまつわる怪談


    以下は、江戸時代にあった実話で、新刊の『家康の築いた江戸社会』でご紹介しているお話です。
    神様って、やっぱり本当においでになる、と思います。

    20230124 森田春代
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    農家から、とある商家に奉公に出ていたある女中【じょちゅう】さん。
    その女中さんは、一度でいいからお伊勢様に参拝したいと願っていました。

    ある日のこと、主人が小判を一両、箱に入れたのを見て、その夜こっそりと取り出して、それを旅費にしてさっそく誰にも告げずにお伊勢様に出掛けました。
    女中は、うしろから追われるのではないかと思い、街道の方へ急ぎました。

    途中、ワラジのヒモが切れてしまいました。
    治すにしても一銭もないので、手にしている小判を銭に両替してもらおうと、あちこちを回るのですが、どこに行っても断られてしまいます。

    「どうしよう・・・」と思案に暮れていると、どこの人ともしれない男がその様子を見ていて、そっと道の向こうに呼び寄せました。

    「お前、一緒に行く人もいないのに伊勢神宮へ参拝するようだが、カネを持っていると思われるとどんな目にあうかわからない。取られないように用心したほうがいい。小判を持っているなら、銭に替えてやろう」という。

    女中が承知しないでいると、その男は金二分を取り出して見せ、
    「ワシはこっそり取り替えてやろうと思ったが、ここにある二分金以外に持っていない。少し待っていろ。外に行って両替してきてやろう。とにかく二分金を渡しておくから、この小判を出せ」というので、本当かと思い、女中は小判を渡します。

    ところがその男、いつまで経っても現れない。
    さてはだまされたかと気付くのですが、男の行方はわからない。
    思案に暮れているとその男が帰ってきます。

    そして荒々しい声で、
    「きさまはよくも俺を騙したな、あの小判はニセモノだ」と怒鳴りました。
    女中も負けてはいません。そんなことあるもんですかと、こちらも大声を出して応じます。
    男と女の言い争う声は激しさを増しました。

    あたりに響く争いの声に、近くにいた人たちが何事が起きたのだと集まってきます。
    双方の言い分を聞いているうちに、男は詐欺師で、女中をだましていると感じる。
    これは男から二分を取り戻すことが先決だと集まった人たちは考え、男を責めました。
    男はこうした方法で旅人をだましてはカネをかすめとることで渡世【とせい】しているならず者でした。

    男は、この場をうまく切り抜けることはもはやむつかしいとみて、身を隠すに限ると思ったのか、一瞬のすきをみて素早く逃げ出してしまいました。
    集まっていた人たちは、逃がすな、あの野郎と追い掛けたが、男は人混みのなかを駆け抜けて姿を消してしまいます。

    仕方なく戻ってきた人は、女中に、
    「あんたには気の毒だが、あいつは詐欺専門のならず者だから皆だまされる。それでも半分は手もとに残ったのだから、あきらめな。そのカネを旅費にすれば、伊勢参拝はできるから」と慰めてくれました。

    女中はやむをえないと思って、その二分金を旅費にして伊勢参拝を果たして、無事に故郷に帰ってきました。
    そしてこの一連のできごとを詳しく家族に話しました。

    すると主人は、
    「おかしな話だよ。まったくその男がお前をだまして盗んでいった小判は、実はニセモノなのだ。旅費につかえるようなものではない。それを男のために二分金を手に入れ、楽々と伊勢神宮に参拝できたことは、神の恵みと言っていい」と言いました。


     ***

    このお話は、江戸時代に実際に遠州の榛原郡であった話で、中村乗高という人が『事実証談【ことのまことあかしがたり】』という本で紹介したことで、いまに伝えられている話です。

    二分金というのは、現在の三万円です。
    もしかしたらどうしても伊勢参拝をしたいと願う女中の思いを神様が汲んで、旅費を恵んでくれたのでしょうか。女中さんは、途中で怖い思いもしたけれど、一生の思いが叶ってきっと満足したであろうと思われます。

    いつの時代でも、人々は与えられた境遇のなかで、懸命に生きているものです。
    家康が開いた江戸社会は、家康自身が、日本古来の文化である、庶民こそが「おほみたから」とする社会が実現された時代であったということができます。
    それは、一部の破格の大金持ちは生みませんが、その代わり誰もが豊かに安全に安心して暮らせる世です。

    時代は、人々の思いによって築かれるものです。
    人々の思いが「いまだけ、カネだけ、自分だけ」ではなく、江戸時代の人の心を日本人が取り戻せば、日本は必ず再生し、世界中に民衆の幸せの時代をもたらす大きな力となって行きます。

    政治が人を変えるのではありません。
    人々の思いが政治を動かすのです。
    人々の思いが、大金持ちになることであれば、その競争に勝って目標を達成することができるのは、ほんの一握りの覇者だけです。
    人々の思いが、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる世であるなら、政治もまた、そのような社会つくりに貢献せざるを得なくなります。
    今年は激動の年だといいますが、神々はきっと日本人の覚醒を望んでおいでなのだと思います。


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  • みかんのお話


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新年最初の倭塾は、本日開催(1月21日(土)13:30から)江戸川区タワーホール船堀 401号室です。
    参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。
    皆様のふるってのご参加をお待ちしています。

    https://www.facebook.com/events/458686826358362

    日本は、国の富を社会のみんなでわかちあう形の国家を築いてきました。
    そんな日本では、社会的富は国民に分散されてきました。
    ですからかつての日本は、みんながお金持ちであり、みんなが等しく貧乏でした。
    けれど、そんな日本に、黒船に乗った一部の王侯貴族だけが社会の富を独占する文化がやってきました。
    これはショッキングな出来事です。
    なぜなら、そこには華麗な宮殿や美麗な衣装、華やかな社交界があったからです。
    華麗で豊かな世界には、誰もが憧れます。
    日本人も憧れました。
    けれどそんな華やかな社会は、実は、ごく一部の人たちが社会の富を独占することによって成り立っていました。
    イソップ物語の「アリとキリギリス」でいえば、日本人はアリ、西洋人はキリギリスであったわけです。
    そのキリギリスは、世界中の有色人種から富を奪い、贅沢な暮らしをしていました。
    これはいまでも同じです。

    20200108 みかん
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
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    お正月といえば、お餅にみかん。
    最近では、そのみかんの製法がずいぶんと工夫されるようになり、糖度の高い実においしいみかんが市場に出されるようになりました。
    冬の寒い時期にはみかんを食べると風邪をひかないなどと言われ、子供の頃は指先が黄色くなるほどみかんを食べたなどという記憶がある方も多いかと思います。

    そのみかん、実は大昔に、お菓子として栽培されるようになったものです。

    お菓子そのものの歴史は縄文時代にさかのぼり、どんぐりなどのアクの強い木の実を、砕いて水にさらして団子状にまるめて熱を加えてお弁当やお菓子としていただきました。
    これが「縄文クッキー」で、まさに自然食品そのもので、おそらく当時と同じ製法で作って焼いたこの縄文クッキーをいただいたことがあるのですが、いやはやこれが実に美味しい。
    縄文時代の食事をご専門に研究されている方もいて、他にも様々な料理をいただいたのですが、どれをいただいても、ものすごく美味しい。
    縄文時代の日本人は、意外とグルメ嗜好だったのかも、なんて思ったりしました。

    その縄文時代に、災害対策用としてお米が作られるようになると、その米を発芽させて「米もやし」にし、そこからでんぷんを採取して水飴にし、これを甘味料に用いるという技術が開発されています。
    この水飴、初代・神武天皇が、戦勝を祈願して神様に奉納したという記録が日本書紀に書かれています。

    「お菓子」というのは、「果」という字が木の実を表す字で、ですからみかんやリンゴなど、樹木から採集される木の実のことを果実(かじつ)とか果物(くだもの)といいます。
    その果物の神様が田道間守(たじまもり)で、お菓子の縁起の神社に祀られているのですが、第11代、垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代(紀元前70年頃)の時代の実在の人物です。

    田道間守は、垂仁天皇の病を治すため、不老不死の果物を求めて「常世国(とこよのくに)」まで旅だつのです。
    この時代、常世国というのは、いまでいうブータンやチベットのあたりを言いました。
    田道間守は、艱難辛苦の末、9年後に日本に帰国します。
    ところがすでに垂仁天皇は崩御された後でした。

    嘆き悲しんだ田道間守は、垂仁天皇の御陵に詣(もう)で、帰国の遅れたお詫びと約束を果たしたことを報告しました。
    そして持ち帰った菓子を墓前に捧げ、その場で何日も絶食して、殉死を遂げたのです。
    このとき田道間守が持ち帰った菓子(つまり果物(くだもの)の子)が、橘の木で、その橘の木の果実を美味しく改良したものが、みかんの木です。

    こうしてみかんは、実は日本の在来種であり個生種となりました。
    よく、みかんと、外国生まれのオレンジが同じものと思ってらっしゃる方がいますが、実は両者はまったくの別物です。
    どちらももともとはインド奥地のブータンやチベットあたりが原産地なのですが、これがヨーロッパに広まって広く栽培されるようになったのがオレンジです。
    ちなみにみかんは、ブータン・チベットあたりからインド、チャイナ、朝鮮半島を経由して日本に入ってきたのだと説明しているものをよく見かけますが、まったくの間違いであることは、上に述べた通りです。

    ちなみにみかんといえば「温州みかん」が有名で、温州(うんしゅう)というのはチャイナの地名ですから、みかんの原産地(つまり橘の木からみかんの木へと改良した地)は、チャイナの温州だと思いこんでいる人がいるようですけれど、それはまったくの誤りです。
    天津甘栗と同じで、外国かぶれで、なんでも外国産(舶来品)なら良いものだとされた明治期に、日本産のみかんを高く売るために付けた名前が「温州みかん」です。
    なるほど温州でもみかんの栽培がさかんですが、それは日本からもたらされたものです。

    みかんとオレンジの違いは、簡単にいうと、皮の厚さと香りの勁さにあります。
    ヨーロッパで栽培されて進化したオレンジは、ヨーロッパの空気が乾燥しているために、中身の水分を逃さないために皮が厚くなり、中身の果実(じょうのう)の袋も厚く、中身のつぶつぶ(砂じょう)も、ひとつぶひとつぶかしっかしていて張りがあって固いです。
    とにかく実の水分を逃さないために、皮も袋もつぶつぶも、みんなしっかりしているのです。
    こうして中の果肉がしっかりと閉じ込められたオレンジは、香りがとても強い果物になりました。
    その香りの強さを利用してジャムにしたものが、ママレードだったりします。

    これに対してみかんは、日本が高温多湿であるために、その温暖性によって糖度が高くて、酸っぱいというよりも甘い果物になりました。
    またそれほど皮や袋を強くしなくても、そもそも湿度が高い国土ですから、それほど防備を固める必要もないということで、みかんは簡単に手で剥くことができる果物となりました。
    こうして甘くておいしいみかんとして成長したわけです。

    ちなみにみかんは、種無しの種類が多いために、いっとき「男性が食べると種がなくなる、女性が食べると種を受けづらくなる」などと言われて、栽培が激減したことがあるなどという俗説がありますが、大嘘のコンコンチキの作り話にすぎません。
    それが事実なら、紀伊国屋文左衛門の逸話など存在するはずもないし(紀伊国屋文左衛門は嵐の中を紀州から江戸にみかんを船で運んだことで有名)、江戸の鍛冶屋といえば「ふいご祭り」のときに、鍛冶屋の屋根からみかんをばらまいて地域の人に振る舞うというお祭りが有名ですけれど、そんな祭りが生まれるはずもありません。

    冬の寒い時期、温かな地方で獲れたおいしいみかんを、コタツに入って家族で楽しむ。
    それは貴族や武家から庶民にいたるまで、誰もが愛した日本の普通の家庭の姿であったこと、実はそこが大事なところです。

    上に述べました通り、もともとみかんは天皇の不老不死を求めて、遠く海外にまで足を伸ばして持ち込まれた果物(くだもの)です。
    垂仁天皇がすでにお亡くなりになられていることを知った田道間守は、死さえも選んでいる。
    それくらいみかん(持ち込まれた当時は、タチバナの木の果実)は貴重な品であったわけです。
    そんな故事から、京都御所には、桜と対(つい)でタチバナの木が植えられています。

    そしてそのタチバナが、日本の高温多湿な風土の中で改良されて、日本産のみかんとなりました。
    そのみかんは、秋から冬にかけて、「コタツにみかん」というくらいで、上は貴族から下は庶民に至るまで、日本人なら誰もが楽しむ家庭の味になっています。

    「特別なものを、
     一部の大金持ちや高級貴族で独占や寡占をしない。
     いちばん良いものは、常に庶民とともにある」

    日本食も同じです。
    日本食でもっともおいしいものは、釣り上げたばかりの船上でいただく魚や、採れたての木の実、新鮮な野菜など、すべて産地でいただくものとされています。
    大名や武士、古くからの貴族、古い神社の宮司さんなどは、たとえばお米を食べるにしても、3年前の古古米です。
    新米など、よほど特別な、よそで食べるとき以外、まず口にすることさえない。
    大名の食べる料理がマズかったことは、落語の「目黒のさんま」などでも有名です。
    一番良いものこそ、庶民とともにある。

    人の上に立つ者は、そういう意味では世間の余り物をいただいて生きているわけです。
    だから自分のこと(一人称)を、「余(あま)り」と書いて「よ」と言います。
    世の中の余り物だというわけです。

    人が生きるには、食べ物が必要です。
    その食べ物を生産している人が、いちばん偉い。
    末端の庶民こそが、天子様の「おほみたから」。
    そういうことが社会の隅々まで浸透した国だから、みかんが庶民のお菓子になったのです。
    こういうことが、実は本当の意味での、日本の誇りです。

    100人で生産して得た100の富を、ひとりが50取り、残りの50を99人で分けるようにすれば、50を取ったひとりは大金持ちです。
    誰よりもよい衣装を着、誰よりも美味しいものを食べ、誰よりも偉い存在になります。
    けれどそれは、99の人たちにとっては、不幸なことです。

    だから我が国では、古来、ひとりが得た知識や知見、富などは、常に多くの人に還元することが正しいこととされてきました。
    ラグビー精神とされる、
    「one for all, all for one」
    (一人はみんなのために、
     みんなは一人のために)
    は、まさに日本精神そのものであり、また日本の社会慣習であり、日本社会の常識だったのです。

    明治に入って欧米文化が日本にやってきたとき、日本人が驚いたのは、西洋の貴族たちが、まるで王侯貴族のような生活をしていることでした。
    当時は彼らは船で日本にやってきます。
    それには莫大な費用がかかります。
    つまり、爵位を持った貴族でなければ、日本にやってくることはできないし、西洋貴族は贅沢な暮らしをしています。

    日本は、国の富を社会のみんなでわかちあう形の国家を築いてきました。
    そんな日本では、社会的富は国民に分散されてきました。
    ですからかつての日本は、みんながお金持ちであり、みんなが等しく貧乏でした。
    けれど、そんな日本に、黒船に乗った一部の王侯貴族だけが社会の富を独占する文化がやってきました。
    これはショッキングな出来事です。
    なぜなら、そこには華麗な宮殿や美麗な衣装、華やかな社交界があったからです。

    華麗で豊かな世界には、誰もが憧れます。
    日本人も憧れました。
    けれどそんな華やかな社会は、実は、ごく一部の人たちが社会の富を独占することによって成り立っていました。
    イソップ物語の「アリとキリギリス」でいえば、日本人はアリ、西洋人はキリギリスであったわけです。
    そのキリギリスは、世界中の有色人種から富を奪い、贅沢な暮らしをしていました。
    これはいまでも同じです。

    もう一度、本当にたいせつなことは何なのか。
    一部の王侯貴族だけが、みかんを食べることができる社会なのか。
    それとも、一般庶民の誰もが、暖かな部屋でみかんを感謝していただくことができる社会なのか。
    私達は考えてみる必要があるのではないかと思います。

    さて、まったくどうでもいいことですが、孫のところにみかんを5kgの箱で買って持っていったら、4人の孫たちがなんと3日で箱を空にしてしまいました。
    まあ、じいちゃんとしては、みかんの食べすぎよりも、風邪をひかないでいてくれる方がうれしいので、それもありかな、と・・・(笑)

    そういえば、近年ではみかんの栽培にあたって、マルチシート栽培といって、地面にシートを敷いてみかんの栽培をすることで、ものすごく糖度が高くておいしいみかんが栽培されるようになったのだそうです。
    昨年、そうして栽培されたみかんのジュースを飲んで、そのあまりのおいしさにびっくりし、冷凍してあったマルチシートみかんを解凍してひとついただいたのですが、そのあまりのおいしさに、またまたびっくり!!

    いやはや日本の農家のおいしさの追求というのは、すごいものだなあと、あらためて感心した次第でした。


    ※この記事は2020年1月の記事のリニューアルです。
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  • 筑後川・五庄屋物語


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    いまわたしたちが住んでいる町も、道路も、公園も、川に架かる橋も、電車も、電線も、全部わたしたちの先人達が、何代にもわたって築いてきてくれた大きな遺産です。
    そしてその遺産は、同時にわたしたちの先輩達が、先輩達の生活のためでもあり、また同時に、後世に生きるわたしたちのためであり、そのまたわたしたちの子や孫、それに続く未来の世代のためにと、先輩達が力を合わせ、協同して築いてくれた遺産です。
    今回ご紹介する筑後川の五庄屋物語も、実は全国にあった物語でもあるのです。

    20230119 五庄屋物語
    画像出所=https://www.tamagawa.jp/correspondence/about/column/detail_19759.html
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    以下のお話は、実は戦前の尋常小学校6年生の修身の教科書にあったお話を、ねず式に現代文にしたものです。

     ****

    九州の久留米の東側を流れる筑後川(ちくごがわ)。
    かつてこの川の流域に、川の近くなのに、川が低くて、流れが急なために田に水が引けない地域がありました。
    このため村では充分な作物が採れず、村人たちがたいそう貧しい生活をしていました。

    江戸時代の初めごろのことです。
    この地方に栗林次兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞という五人の荘屋さんがいました。
    五人は、村の困難をどうにかして救おうと相談しました。
    そしてついに、筑後川に大きな堰を設けて、掘割を造って水を引こうと決めました。

    測量も行い、成功の見込は立ちました。
    けれど、これまで誰も計画したことのない大工事です。
    人夫もたくさんいるし、費用もかかる。

    藩政は苦しい台所事情です。
    藩の許可を得るのは、なかなか容易なことではありません。
    それでも五人は、
    「ワシらがいったん思い立った以上は、
     たとえどんなことがあっても
     きっとこれを成就しよう。
     それまで五人の者は
     一心同体であるぞ」
    と、堅く誓いあいました。

    五人はそれぞれに村人たちを集め、みんなに計画を話しました。
    みんなも協同して働くと誓いあってくれました。

    他の村の荘屋さんたちも、計画を聞いて仲間に加りたいと申し込んでくれました。
    けれど五人は、
    「この大工事がもし不成功に終わったら、
     ワシら五人は、命を捨ててお詫びしなければならない。
     むやみに人様を仲間に入れ、
     万一の迷惑をかけてはならない」
    と、これを断りました。
    それでも他の村の荘屋さんたちは、五人の志が堅いことを知って、いっしょになって藩への願い出に連署してくれました。

    藩も、工事には理解を示してくれました。
    けれど、あまりに費用が大きい。
    許可はなかなかでません。

    一方、この計画の水路にあたる一部の村の荘屋さんたちは、
    「そのような堰を設られたら、
     洪水の際に我々の村に被害が出る」
    と、工事に反対をしてきました。

    五人の荘屋は度々藩の役所に出て、計画が確かなものであることを熱心に説明しました。
    役人は五人に向かい、
    「もし計画通りに行かなかったら、
     お前方はどうするつもりか。」
    とききました。
    「そのときは、私ども五人、
     責任を負って、
     どんな重い刑罰でも、
     快くお受け致します」
    と申しました。
    役人は、五人の志を受け、藩にもかけあい、ついに五人の願いを許したのです。

    五人の荘屋は、仲間の荘屋たちと一しょになって、村人たちを指図して、いよいよ工事にとりかかりました。
    監督に来た藩の役人は、
    「もし失敗したら、
     ふびんながら、
     五人を重く罰するぞ。」
    と、改めて申し渡しました。

    村人たちは口々に、
    「荘屋を罪におとしてはすまない」
    と言って、夜昼なく一生懸命に働いてくれました。
    女子供までも手伝って木や石を運んでくれましたから、さしもの大工事が意外にはかどりました。

    いよいよ大きな堰が出来上りました。
    水を通しました。
    計画通り、筑後川の水がとうとうと掘割に流れ込みました。
    そのときの村人たちの喜びはたとえようもないものでした。

    その成功を見て、他の村々でも、水を引きたいと願い出てきました。
    そして堰と掘割をひろげることになりました。
    始めのうち工事に反対していた荘屋さんたちも、水の分前にあずかりたいと願い出てきました。

    一部の人たちからは、
    「あの人々は、当初工事に反対したから、
     俺たちの村に水が来るまでは、
     後回しにすべきだ」
    という声もあがりましたが、
    五人の荘屋は、
    「この工事は、
     もともとこの地方のために起したことですから、
     その水利は出来るだけ広く
     受けさせとうございます。
     どうか皆様に同時にお許し下さい」
    と、反対する人たちに頭をさげました。
    役人も同意してくれました。

    こうして筑後川の流域は、この地方を代表する、大穀倉地帯に生まれ変わりました。
    それは、五人の荘屋さんたちを始め、村人たちが心をあわせ必死になって尽くしてくれたおかげです。


    ・・・・・・

    この物語を修身教科書は、次のように締めくくっています。
    =========
    我等の住む市や町や村は、
    昔から人々が協同一致して
    郷土のために力を尽くしたおかげで、
    今日のように開けて来たのです。
    協同の精神は、
    人々が市町村を成し、
    全体を反映させる基であります。

    =========

    いまわたしたちが住んでいる町も、道路も、公園も、川に架かる橋も、電車も、電線も、全部わたしたちの先人達が、何代にもわたって築いてきてくれた大きな遺産です。

    そしてその遺産は、同時にわたしたちの先輩達が、先輩達の生活のためでもあり、また同時に、後世に生きるわたしたちのためであり、そのまたわたしたちの子や孫、それに続く未来の世代のためにと、先輩達が力を合わせ、協同して築いてくれた遺産です。
    つまり上にご紹介した筑後川の流域の庄屋さんと村人たちの物語は、実は全国で行われた物語でもあるのです。

    わたしたちの先輩たちまでは、そういうことを学校で学びました。
    その前の先輩たちも、おなじことを、寺子屋で学んでいました。
    ですから、こうした協同という理念は、日本人にとって常識でした。

    けれど戦後教育は、そうした理念そのものを否定しました。
    そして昨今では「理念を学ばせないこと」がまるで正義であるかのようにさえ語られます。

    今日のお話の中で「藩のお台所が苦しい」というくだりがありました。
    江戸時代の全国の諸藩の大名たちが、みんな赤字財政で四苦八苦していたことは、みなさん学校でも習いますし、テレビの時代劇などでもご覧になったことがあろうかと思います。
    大名たちは、江戸や大阪の大商人たちから、たいへんな借金をしていた。そんな話はきっとみなさん聞き覚えておいでのことと思います。

    けれど、それがウシハク世界の領主たちなら、赤字なら藩民から、徹底的に搾取したことでしょう。
    なぜなら自分たちだけが人間であり、民というのは、自分たちを食わせるためのヒトモドキの道具ないし私有物でしかなかったからです。

    大名たちには、年貢による収入があるのです。
    にも関わらず、彼らはどうして大赤字で、大商人たちから借金を重ねていたのでしょうか。
    自分たちが贅沢をするためでしょうか。
    全然違います。

    今日のお話しにもあったように、水路や堤防の工事、あるいは土砂災害や地震、噴火、火災からの復旧工事など、民のための土木や建築などに、藩政が赤字であっても、必要な工事を藩の事業として推進していたのです。
    なぜなら、それが天皇のおおみたからを預かる武士の役割だと認識されていたからです。

    藩民は、天皇のおおみたからです。
    そして藩主は、そのおおみたからたちが幸せに安心して暮らせるようにすることが仕事と認識されていたのです。
    そういう自覚があったからこそ、彼らは明治時代にはいって、版籍奉還に応じているのです。

    江戸の大火や、地震、あるいは富士山の噴火などによる被害、あるいは干ばつによる農産物の凶作など、日本は、各種自然災害などが民の生活を脅かすことが多々ある国です。
    そしてその都度、幕府は、備蓄していたお蔵米を民のために炊き出ししたり、無償でお米を配ったりしていましたし、町並みの復興のために、莫大なお金を使っています。
    だから赤字にもなる。
    赤字になれば、大商人から借金する。
    武士たちの贅沢のためではありません。
    全部、藩民の生活を安定させるためです。
    だから武士たちは、民から尊敬されたのです。

    私達は、日本を取り戻そうとしています。
    日本は、縄文以來、あるいはもっと古い昔から、民の安全で安心できる生活の保持を、政治の使命としてきた国です。
    それが崩れたのは、むしろ、現代の戦後日本です。

    いまの日本は、解体的出直しが必要といわれます。
    左の方も右の方もそのようにおっしゃいます。
    スクラップアンドビルドです。

    けれど左系の人たちの間違いは、世の中を新しくしたいと言いながら、ただ理想だけを描くところにあります。
    新しい理想だけが独り歩きするのです。
    すると何が起こるかというと、理想を独り占めにした人が、個人的な利得を得ることになります。
    そしてその利得の奪い合いから、大量虐殺が起こります。
    我々人類は、20世紀にまさのその経験をしてきたのです。

    けれど過去を忘れ、ただ新しいもの、理想だけが語られる。
    多くの場合、そうした理想は実は誰かの利権のために、表面上の綺麗事が並べられているだけであることが多い。
    共産主義革命がそうでした。
    共産主義はユートピアを理想とし、美辞麗句を並べましたが、やったことは大量虐殺でした。

    ところがそんな共産主義がなぜそこまで普及したのかには理由があります。
    それは、マルクスの資本論が、歴史を基に描かれた、という点です。

    マルクスは、西洋の歴史を階級闘争という視点で、ギリシャ・ローマ時代からあらためて描き直すということを行ったのです。
    そのうえで、原子共産主義者会への回帰を促したのが『資本論』という分厚い本でした。

    すべての歴史を階級闘争という視点で捉えるということは、明らかに間違っています。
    間違っているから、共産主義革命は虐殺革命になったのです。
    けれど、そんな誰が見ても危ない共産主義が、多くのインテリ層の注目を集め、いまだにその信奉者が世界中にいることには、理由があるのです。
    それが、「古い歴史」と「現代の理念」を融合させた、という点です。
    古いものを起点にして、新しいものを築こうとしたのです。

    実は、大きな改革を実現する力というのは、この
    「古いものを起点にして、新しいものを築く」
    というとこからしか、生まれないものです。

    日本を取り戻すといいます。
    そうであるなら、取り戻すべき日本には、過去と現在にギャップがなければなりません。
    そのギャップをまずは理解する。
    そのためには、歴史の再構成が必要なのです。


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    「一隅を照らす」という言葉があります。
    伝教大師が桓武天皇に宛てて記した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」にある言葉です。

    「径寸十枚
     是れ国宝にあらず。
     一隅を照らす
     是れ即ち国宝なり」

    意味は、
     直径3センチもある宝石十個(金銀財宝)が国の宝なのではない。
     世の中の一隅で暮らす人々が、その場所で精一杯努力して光りを放つこと。
     それこそが国の宝である。
    といったものとされています。

    原文は
     照于一隅此則国宝
    となっています。

    「一隅を照らす」と書きたいだけなら、「照一隅」で良いのです。
    けれど原文では、なぜか「照【于】一隅」と「于」の字が入っています。

    「于」という漢字は、長い刀の象形で、ここから長い、永いを意味するときに使われる文字です。
    ですから「于」にウカンムリが付けば「宇」になります。
    地球から観たら傘か屋根のように見える大空、星空は、じつは果てしない。
    だからウカンムリに「于」と書いて「宇」です。
    つまり「于」は、果てしなく続くことを意味します。

    ということは、伝教大師が「照【于】一隅」と、あえて「于」を入れて書かれたということは、
    単に「一隅を照らす」だけでなく、それを「照らし続ける」、「永遠に照らし続ける」と述べていることになります。

    よく講義などで、
    「ねずさんの話を聞いて感動したけれど、
     自分でどうしたら良いのか、
     何をしたら良いのかわからない」
    といったご質問をいただきます。

    答えは、「一隅を照らす」です。
    何か大きなことをするとか、世直しをするとか、そんな大きなことではないのです。
    それはあくまで結果であって、我々が日々すべきことは、その日その日に自分なりにできる一隅を照らすこと、しかもそれを、「照らし続ける」のです。
    結局の所、継続は力なり、なのです。

    すごい人、と呼ばれる人がいます。
    そうした人たちの、何がすごいのかといえば、それは「続けた」ことです。
    続けたからすごいのです。

    1億円の宝くじに当たったというのは、ただの偶然か運です。
    そのような僥倖を得ることができる人も、世の中にはあるのでしょうけれど、そのような人は、1億人にひとりなのです。

    そうではなく、日々コツコツと善行を積み重ねる。
    それをひとりではなく、みんなで行う。
    一億人が1円ずつ持ち寄れば、1億円になってしまうのです。
    それを30日続ければ、30億円です。
    10年で300億、100年で3000億円です。

    続けるのです。
    ほんのちょっとで良い。
    続けることが、実は「照于一隅」の意味です。

    現状を憂いても、すぐには何も変わりません。
    けれど憂いているのなら、一隅を照らす、照らし続ける。

    比叡山に、伝教大師の童形像があります(トップの画像)。
    この像は、全国の小学生が、当時のお金で1銭(いまの1円)を出し合うことで建てられた像です。
    小学生の1円が、これだけ立派な像になるのです。
    大人たちが力を合わせれば、どれだけのことができるのか。

    全国の大型一級河川には、広大な堤防があります。
    その堤防のほとんどは、まだ建設重機のなかった江戸時代に、地域の人々が力を合わせて、人力でモッコを担いで築き上げたものです。
    ひとりひとりの力は小さいけれど、みんなが集まり、それを続ければ、必ず巨大な事業を為すことができるのです。

    一隅を照らすは、「照于一隅」です。
    一隅を照らす、照らし続ける、のです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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