• 健康、長寿、繁栄


    我が国では、国のすべてが、人々の「健康、長寿、繁栄」のためにその仕組みの原点が形成されてきたのです。


    20231126 御長寿



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    魏志倭人伝は、チャイナの歴史書である『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条のことをいいます。
    そこに3世紀頃の日本の民間人の様子が次のように描かれています。
    いまから1800年くらい前の日本の様子です。

    ========
    その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む
    ========

    会同というのは、簡単にいえば、村の会議のことです。
    いまで言ったら町内会や、マンションの自治会の会議のようなものです。
    その会議の「坐起」、つまり席順が、
    「父子男女別なし」
    と書かれているわけです。
    席順に、身分の上下や貧富の差や男女の性別は関係ない、と書かれているわけです。

    では、どのような席順で会議が行われていたのでしょうか。
    この答えが、千年以上前の西暦868年頃に編纂された養老令の注釈書である『令集解』の中にあります。

    この書の中に『古記』という、いまから千三百年くらいまえの738年頃に成立した大宝令の注釈書(いまは現存していない)が断片的に引用されています。
    さらにその『古記』のなかに、もっと古い文献の引用として、「一云(あるにいわく)」という節が多数用いられて引用されています。

    なんだかやっかいですが、『令集解』の中に『古記』が引用されていて、その『古記』が、さらにもっと古い文献を引用していて、それが「一云」として、『令集解』に書かれているというわけです。

    その「一云」として引用された文献の名は伝わっていません。
    いませんが、これが実におもしろい史料で、7〜8世紀頃の日本の庶民の生活の模様が、そこに活き活きと描かれています。
    原文は漢文ですので、おもいきってねず式で現代語してみます。

    =========
    日本国内の諸国の村々には、村ごとに神社があります。
    その神社に、社官がいます。
    人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。

    村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社に供え物をします。
    あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。
    神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

    春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。
    お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。

    そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

    そのあと、みんなで宴会をします。
    宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。

    このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。
    =========

    これが、いまから1300年前の、日本の庶民の姿です。
    まだ渡来仏教が、一般庶民への布教が禁じられていた時代のことで、庶民のもとには神社しかなかった時代の様子です。
    収穫時に各家の収穫高に応じて初穂を神社に奉納し、神社は捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付ける」という記述があります。

    このことは古い神社ではいまでも当時の習慣がそのまま残っていますので、すこし詳しく解説しますと、収穫期に、採れたお米は半分を税としてお上に納め、半分を神社に奉納します。
    そんなことをしたら食べるものがなくなってしまうではないかと思うのは早計です。
    今年採れたお米を、お上と地元の氏神さまに半分ずつ収めるということは、2年分貯まるとお上のもとにも、地元の神社にも、両方にまる1年分のお米が備蓄されることになります。

    このようにして、災害に備えて食料となるお米を備蓄し、3年経ったお米をみんなで取り崩して食べたのです。
    この制度は、つい最近、昭和44年までずっと我が国に続いた制度です。
    ちなみに「お上にできたお米の半分を税として収める」とありますが、お上はこうして集めたお米を3年目にはそのうちの8割を公共工事など様々な名目で民間に還元します。
    時代を通じて我が国の農業従事者の人口は、全体人口の95%を占めていましたが、こうすることで国内で生産されたお米が、常に全国民に行き渡るという形になっていたのです。

    神社は、戦後になって宗教法人法に組み入れられて、「神社は神社のもの」になってしまいましたが、もともと戦前戦中まで、神社は近隣の人たちの共有財産でした。
    近所の神社のことを氏神様(うじがみさま)といいますが、氏神とは、産土神(うぶすなかみ)のことです。
    つまり土地の神様のことを言います。
    よく「引っ越ししたら氏神様に挨拶に行きなさい」と言いますが、だいたいご近所にその土地の町名を持った神社があるものです。これが土地の神様です。

    『一云』では、その神社に村のみんなが月に一度集まって、宮司さんから中央の指示を聴いたり、神語りなどの勉強をしたりしていた様子が描かれています。
    そして会議のあとは、必ず「直会(なおらい)」が行われました。
    これはいまでいう懇親会です。

    この直会の席順について、『一云』は、
    「家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定めた」
    と書いているのです。

    社会的身分や、貧富の別なく、そこでは、ただ年齢順。
    実はこうした単純年齢順の席次は、いまでもちょっと田舎の方にいけば、そうした習慣が続いていたりします。

    つまり、『魏志倭人伝』に書かれている3世紀後頃の日本の庶民の様子は、そのまま「一云」に書かれている千年前の日本の姿だし、現代にも続く日本人の姿だということです。
    時代はちゃんとつながっているのです。

    ではここで問題です。
    どうして席次が「単純年齢順」だったのでしょうか。

    世界中どこでも、席次というのは重要です。
    身分の高い人が上座に座り、身分の低い人が下座に坐る。
    場合によっては身分の低い人は、座敷にも上げてもらえず、土間で食事をしたりする。

    上座に坐るのは、いつだって「社会的地位が高い人」であったり、「お金持ち」であったりします。
    西洋化した現代日本でも、そうした姿はそこここに見られますし、会社などでは社長が
    「今日は無礼講で行こう」なんて言いながら、席だけは最奥、つまり最上位の席を絶対に譲らなかったりします(笑)。

    ところが2〜3世紀の日本、7〜8世紀頃の日本、そして現代日本においても、ちょっと田舎の方に行けば、席次は単純年齢順なのです。
    大抵の場合、最年長がお婆ちゃんですから、女性のお婆ちゃんが最上位席。
    次にやはりお年寄りの爺ちゃんや婆ちゃんたちが座り、下座に行くに従ってだんだん若くなる。

    このことは何をしめしているのでしょうか。
    席の上下は、とても大切なことです。
    それを無視したら、たいへんな失礼にあたるものです。
    それが単純年齢順であり、社会的地位が高くても、どんなにお金もちでも、年齢の前には下座に着かなければならないのです。

    実は、ここに日本文化の非常に大切な一面があります。
    それは、
    「我が国は、社会的地位や財力より
     『健康』と『長寿』を大切にした」
    そういう社会を形成してきた歴史を持つということだからです。

    いまでも、たとえば100歳になるお婆ちゃんのもとで、3世代、4世代の子や孫、ひ孫までが勢ぞろいしたような写真を観ると、たいていの人が目を細めて「幸せ」を感じます。
    そしてなんだか、「生きるって素敵だな」って思ったりします。

    ところが内閣の発足の際の階段での総理大臣以下閣僚たちの集合写真を見て、そこに「幸せ」を感じる日本人は、当事者でもない限り、まずほとんどいません。

    あるいは懇親会のパーティなどで、お金持ちのスポンサーさんの社長さんなどが長々と壇上で挨拶をしていると、参加者のほぼ全員が退屈を感じたりします。
    アメリカ映画のように、そこで称賛の嵐が吹くなんてことは、まずありません。

    つまり、日本では「健康と御長寿」が、何世紀にもわたって、何より大切な、人の幸せと考えられてきたということを、この事実は示しています。

    国政は、国民の「安全、安心、安定」を目指します。
    それがなぜかと言えば、国民が「健康と長寿」を得るためです。

    国家権力は、軍事力、警察力、財務力ですが、国家が権力を用いて守ろうとしているのは、国民の「安全、安心、安定」です。

    つまり、我が国では、国のすべてが
    「健康、長寿、繁栄」
    のためにその仕組みの原点が形成されてきたのです。


    日本をかっこよく!

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  • インパールの戦いから学ぶこと


    インパールの戦いがなぜ破れることになったのか、作戦のどこにどのような落とし穴があったのかは、あくまで軍事の専門家にとっての重要な研究要素です。我々一般人がインパールの戦いから学ぶべきことは、まったく「別な」ところにあります。


    20231125 とんぼ



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    トンボの眼は、個眼というひとつひとつの目が集まってできているのだそうです。
    その眼の数は、トンボの種類によっても異なりますが、少ないトンボで1万個、多いものですと3万個にも達するそうです。

    トンボの眼のことを「複眼」といいます。
    世の中を見る時に、「単眼」で見るのか、それとも「複眼」で見るのか。
    単眼が、二眼になるだけで、物は立体的に見えます。
    「複眼」になったら、世界はいったいどのように見えるのでしょうか。
    これを「複眼的思考」と呼ぶことにします。

    今回も、昨日に引き続き『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』から、インパールの戦いをお送りします。
    インパールの戦は、大戦末期、日本が英国軍にさんざんに負けた戦いであり、作戦を指揮した牟田口中将はこのため戦後、まさにボロカスに言われ続けました。
    なるほど、勝つか負けるかの軍事という見方では、そのように見えるのであろうと思います。
    また軍事の専門家の方の見方であれば、なぜ破れたのか、作戦のどこにどのような落とし穴があって敗戦に至ったのかは、重要な研究要素です。
    ただ、我々一般の日本人がインパールの戦いから学ぶべきことは、まったく別なところにあるように思うのです。
    それは、戦いに参加し、敗軍となった日本の兵隊さんたちの、あまりにも真面目で、あまりにもせつないものであった、その行動です。

    なぜこのようなことを記事にするのかといえば、物事は一面的な見方ではいけないと思うからです。
    複眼的思考によって、物事を違う角度で考えてみる。
    するとそこから、いままで見えていなかった感動が、誇りが、次々とこぼれだすことがあります。
    これが日本の歴史の特徴です。
    諸外国のなかには「歴史認識」という虚構を通じてみなければ、恥ずかしくて生きていくことさえ難しくなってしまうような歴史を持った国や民族もあります。

    けれども日本の歴史はまったく逆です。
    標準化された「歴史認識」ではボロカスに言われていることでも、複眼的思考をもって歴史を振り返ると、そこにはまるで、トレジャーハンターが宝物を見つけたときのような衝撃と感動と日本人としての誇りをみることができます。

    *******
    インパール作戦
    『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』より

    ▼あまりにも不自然な作戦

    大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦しました。
    けれど補給の不備で攻略を果たせず、空と陸からイギリス軍の反攻を受けつつ退却しています。

    この退却ルートで負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患した日本の軍人さんたちの大半は、途中で力つきてお亡くなりになりました。
    沿道には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、その街道は「白骨街道」と呼ばれています。
    このとき生還した兵の記録に次のようなものがあります。

     *

    道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。
    また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り、真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。
    そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
    また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。
    地獄とは、まさにこんなところか......。
    その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。そ
    のような姿で屍は道標となり、後続のわれわれを案内してくれる。
    それをたどって行けば、細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かるのだ。
    皆これを白骨街道と呼んだ。
    この道標を頼りに歩いた。
    (『ビルマ最前線』小田敦巳)

     *

    イギリス軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせたそうです。
    死体のみならず負傷し罹患して動けない日本兵まで、生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。
    こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は戦後あらゆる非難、罵声を浴びせられました。
    負ければ賊軍は世の習いです。

    しかし、いくらそんな批判をしても、失われた生命は帰ってきません。
    むしろ戦争を知らない世代である私たちにとっては、そうやって歴史を批判することよりも、そこから「何を学ぶか」が大切なことだと思います。
    そういう姿勢でこの作戦を見ていくと、驚くべき事実や不思議な出来事が浮かび上がるように、はっきり見えてくるのです。


    ▼インド兵を温存せよ

    昭和十八年九月の御前会議で、絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域を定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。
    インパール作戦は、その基本戦略に反しています。
    なぜなら、国防圏の外側にあるインドに、撃って出ようというのです。
    どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。

    しかも、はじめは反対していた大本営も、当時日本に滞在していたインドの独立運動家、チャンドラ・ボースの強い要請を受けて、作戦の実施を認めたといいます。
    もしかしたらインドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなってきた大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたのかもしれません。

    守るイギリス軍は15万です。
    攻める日本軍は9万です。
    亜熱帯のジャングルの中の陸戦ですから、大型の火砲は使えません。
    ですから当時のジャングル戦は、なにより歩兵の数がものをいいました。
    数で劣る日本軍は不利です。

    ところが実は、ほかにインド国民軍4万5千がいたのです。
    この兵力を加えれば日本の兵力はイギリスとほぼ並びます。
    ところが日本軍はそのインド国民軍のうち、どうしてもという6千人だけを連れて行き、残りをまるごと温存したのです。

    普通の国ならこうした場合、インド軍をむしろ前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくしようとするのが自然です。
    これはインド独立のための戦いなのです。
    インド国民軍を前に出して何も悪いことはありません。

    ところが日本軍はそうしませんでした。
    むしろ自分たちが戦いの先頭に立ったのです。
    戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどれだけ困難な戦いになるかは分かっていたはずです。
    だからインド兵を後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指したのです。

    日本軍の下級将校も、自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存しました。
    こうした日本軍の心意気は必ずやインドに伝わり、インドの決起を促す。
    下級将校クラスであれば、当然そのくらいのことは考えていたはずです。

    末端の兵士はそこまで具体的には考えていなかったかもしれないけれど、アジアの人々が植民地支配のもとで虐げられ続けてきたことは承知しています。

    果たして遠からずインドは独立しました。
    その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人として、パール(パル)氏を判事として送り込んだのかもしれません。


    ▼インド解放のため死しても戦う

    驚くことに、こういう惨烈な戦いであったにもかかわらず、終始日本兵の士気は高かったのです。
    インパール作戦は補給を無視した無謀な戦いであったというのが、戦後の定説となっています。
    しかし、日本軍は戦闘のプロです。
    作戦以前の問題として、第一線への補給が困難であることは当然、分かっていたことです。
    ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。

    後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。
    その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となってイギリス軍と戦い続けたのです。

    一人も降伏しない。
    誰も勝手に退却しない。
    敗戦となり軍の指揮命令系統が崩壊しても、ひとりひとりの日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令が来るまで戦い抜いたのです。

    そうした闘魂の積み重ねで、一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。
    前半戦は勝っていたのです。
    食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も横行するなかを、日本軍は二カ月間も戦い抜いたのです。
    有名なワーテルローの戦いだって、たった一日です。
    戦いの二カ月というのはものすごく長い期間です。
    相当高い士気がなければ、こんなことは不可能です。


    ▼世界最高の軍紀を誇った日本軍

    日本軍の軍紀は称賛に値すべきものでした。
    餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちのだれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。
    すでに何日も食べていない。
    負傷もしている。
    病気にも罹っている。

    そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていないのです。
    これは普通では考えられないことです。
    銃を持った敗残兵が民家を襲い、食糧を略奪するなどの乱暴をはたらくのは、実は世界史をみれば常識です。

    戦場になったビルマですが、現地の人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的です。
    それは日本の軍人が、そういう不祥事を起こさなかったからです。

    戦後、実際にインパール作戦に従軍された方々によって、たくさんのインパール戦記が刊行されたけれども、驚くことは、民家を襲わなかったことを誇る記述を、誰一人として残しておられないということです。
    戦争に関係のない民家を襲わないなんて「あたりまえ」のことだったからです。
    むしろ、退却途中でビルマの人に助けてもらった、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多い。
    それが日本人です。そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。


    ▼勝利を祝わなかったイギリス軍

    この戦いはイギリス軍15万と日本軍9万の大会戦です。
    有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万だから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。

    にもかかわらず、不思議なことにイギリスは、このインパールの戦いの勝利を誇るということをしていません。
    戦いのあとインドのデリーで、ゴマすりのインド人が戦勝記念式典を企画しました。
    けれどイギリス軍の上層部は、これを差し止めたと伝えられています。
    なぜでしょうか。

    理由は判然としません。
    しませんが、以上の戦いの回顧をして、私は何となく分かる気がするのです。
    それは、「第一線で戦ったイギリス軍は、勝った気がしなかったのではないか」ということです。

    自分たちは野戦食としては満点の食事を取り、武器弾薬も豊富に持ち、必要な物資は次々と補給される。
    そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。
    それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しもどこか負傷し、そして弾の入っていない銃に着剣して、殺しても殺しても向かってくる。
    それが何と自国のためではなく、インドの独立のため、アジアの自立のためです。
    そんな戦いが六十日以上も続いたのです。

    ようやく日本軍の力が尽き撤退したあとに、何万もの日本兵の屍が残りました。
    それを見たときにイギリス人たちは、正義はいったいどちらにあるのか、自分たちがインドを治めていることが果たして正義なのかどうか......。
    魂を揺さぶられる思いをしたのではないでしょうか。

    実際、インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっています。
    やる気がまるで感じられないのです。

    ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。
    以前のイギリス軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を撃ち込むくらいのことは平気でした。
    そして、戦後の東京裁判でイギリスは、インドがパール判事を送り、パールが日本擁護の判決付帯書を書くことについて口を出していません。
    そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じるのです。


    ▼「分かる」ということ

    唯物史観という言葉があります。
    犯罪捜査と同様の手法で歴史を観ていく考え方で、すべては証拠に基づいて判断する、状況証拠は証拠にならない、というものです。

    けれど、日本の歴史というのは、むしろ書いてあることは「......と日記には書いておこう」という程度のものが多いのが実際です。
    建前上のことを文字にして残し、その実情や心は、分かる人には「分かる」ようにしておく。

    それがあたりまえのように行われてきたのが、日本の歴史です。
    血の通った人間が、悩み苦しみ、決断して行動し、時には死を賭として戦い、そういった人生がいくつも重なりあって歴史という大きなドラマは紡がれているのです。
    多層織りなす歴史を単なる記録として扱ってしまえば、そこから学ぶものは血が通わない無機質な、実際には役に立たない知識ばかりになってしまいます。

    「分かる」ということは、たんに書いてあることを覚える、知るということとは意味が違います。
    歴史の奥に隠された先人の意志や心情にまで思いを馳はせることで、歴史は色彩豊かな世界を私たちに見せてくれ、真に役立つ知識を授けてくれるのだと思います。

    **********

    以上が本に書いたことです。

    すべての物事には、原因があって結果が生まれます。
    ということは、いま、何かの問題を抱えているとして、その問題点は、これまでの経緯から生まれた結果だということができます。
    同じ行動からは同じ結果しか生まれません。
    戦後の日本が弱化した、あるいは日本人の精神性が砕けたというのなら、それは戦後75年間の日本の行動という原因によってもたらされた結果です。

    ではそれを改善したい、問題を解決したいならどうすればよいか。
    ただ現状批判を繰り返してボヤいたり、ぐちを言ったり、悪口を言ったところで何の解決にもならないことでしょう。
    いやむしろ、そんなボヤきや愚痴や悪口によって、新たな政権が発足するような事態にでもなれば、それこそ日本のおわりです。

    問題を解決するには、その原因を調べ、除去し、あるいは修正していかなければなりません。
    そうであれば、戦後75年間で蓄積されて、いまや常識になっていることは、はたしてそれが本当に常識の名に値するものであるのかを再考していく必要があります。

    そしてこのときに必要になるのが、
    「複眼的思考」であり、
    物事を「違う角度で考えてみる」という思考であり、行動です。

    それによって私達は真実から「日本の美しさを知る」ことができます。
    そこには感動があります。
    そして感動は、世の中を変える力になる。
    私はそう信じています。

    お読みいただき、ありがとうございました。

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  • 因縁話と江戸城天守閣


    明暦の大火のあと、幕府は江戸城天守閣の再建をしませんでした。
    民間への援助を優先したためです。
    こういうことこそが、我が国施政の誇りといえるのではないでしょうか。


    20211115 明暦の大火
    画像出所=https://hanaha09.exblog.jp/26691893/
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    「因縁話(いんねんばなし)」と呼ばれる物語があります。
    かつてはさかんに行われ、いまではすっかり廃(すた)れてしまった、前世の因縁を中心話題とする昔話です。

    その因縁話に、次のような物語があります。
    むかしむかしの物語です。

    江戸の麻布に、質屋の娘さんで梅乃(うめの)さんというたいそう美しい娘さんがいたのだそうです。
    その梅乃さんが、ある日、本妙寺の墓参りに行く。
    用事を済ませて帰ろうとしたとき、たまたま出会ったお寺のお小姓(こしょう)さんに一目惚れします。

    女性から告白なんて、考えられなかった時代のことです。
    しかも相手はお坊さん。

    梅乃さんは、そのお小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせ、これを愛用しました。
    ところが梅乃さんは、なぜかふとしたことで、わずか17歳で亡くなってしまいます。

    ご両親の悲しみはいかばかりだったことでしょう。
    梅乃さんの棺に、ご両親はその振袖を着せてあげました。

    その頃、こうして棺に掛けられた服や、仏が身につけているカンザシなどは、棺が持ち込まれたお寺の湯灌場で働く者たちが、もらっていいことになっていました。
    この振袖もそういう男たちの手に渡りました。

    振袖は売却され、回り回って紀乃(きの)さんという、これまた17歳の娘さんの手に渡りました。
    ところがなんとこの紀乃さんも、あくる年の同じ日に亡くなってしまったのです。

    振袖は、再び墓守たちの手を経て、今度は、幾乃(いくの)さんという娘さんのもとに渡りました。
    その幾乃さんも、翌年、17歳で同じ日に亡くなってしまったのです。

    三度、棺にかけられて寺に持ち込まれた振袖を見て、寺の湯灌場の男たちは、びっくりしてしまいました。
    そして寺の住職に相談しました。

    住職は、亡くなった娘さんたちの親御さんを呼び出しました。
    みんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、お寺でご供養をすることになりました。
    それが明暦3(1657)年1月18日午前10時頃のことです。
    住職は、読経しながら火中に振袖を投じました。

    そのとき、突然、強い風が吹きました。
    火がついたままの振袖が、空に舞い上がりました。
    まるで何者かが振袖を着ているかのようでした。
    舞い上がった振袖は、寺の本堂に飛び込みました。
    そして本堂の内部のあちこちに火をつけたのです。

    おりしも江戸の町は、80日も雨が降っていませんでした。
    本堂に燃え移った火は、消し止めるまもなく次々と延焼しました。

    火は、まる三日間燃え続け、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くし、さらに翌日には北の丸の大名屋敷を焼きました。
    江戸城の天守閣まで焼失しました。
    これが明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」です。

    火事で亡くなった人は10万人以上にのぼったといわれています。
    火災としては、東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大の大火災でした。
    ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数える人もいます。
    また、この大火災で焼失した江戸城天守閣は、今日になっても、まだ再建されていません。

    さて、この話には後日談があります。

    事件の発端になったお寺の小姓は、天正18(1590)年、徳川に攻め落とされた土岐氏の子孫だというのです。
    そして実は、滅ぼされた土岐氏の恨みを、振袖に託して復讐を遂げた。
    燃え上がる梅乃の慕情と、土岐氏の恨みが重なり、慕情と恨みが紅蓮の炎となって江戸の町を焼いたというのです。

    この手の因縁話は、ひとむかし前までは、ほんとうにごく普通に、一般的に、テレビドラマや映画などでも、よく語られたり演じられたりしたものです。

    横溝正史の「八つ墓村」は、映画が3本、テレビドラマが6本、漫画が5作品、舞台が1作品ありますが、そのなかの映画ひとつとっても、昭和26年の松田定次監督で片岡千恵蔵が金田一耕助を演じた映画、昭和51年に野村芳太郎監督が渥美清、萩原健一で撮った映画までは、田治見家の因縁話が、話の主題でした。

    ところが平成18年に豊川悦司主演の八つ墓村は、監督が市川崑でありながら、因縁話がなりをひそめて、事件の残酷性や事件当時者たちの愛憎が主題へと変化しました。

    ひとつの大きな事件に際して、因縁がほんとうにその事件のきっかけだったかどうかは別として、そうした因縁が多くの人々の共感や納得を得たということは、人々の間に「共有する歴史があった」ことを意味します。
    逆にいえば、因縁話が理解できない社会は、「歴史が共有されていない社会」であることを意味します。

    たいせつなことは、因縁話は非科学的だとか、因縁を信じる信じないは個人の勝手とかいうことではなくて、我々が自分たちの存在を、歴史の中に感じ取ることができるかどうかにあります。
    因縁話を受け入れられなくなっているということは、日本人が歴史を失ってしまっていることを意味する側面があるといえるからです。
    このことは、もしかすると、明暦の大火よりもおそろしい出来事かもしれません。

    縄文・弥生時代の集落跡は、全国にたくさん発見されていますが、その特徴は、集落の真ん中に先祖の墓地があることです。
    つまり死者と生者が、ひとつの村落の中で共存していたのです。
    これはつまり、人々が歴史と一体となって生きていたことを表します。
    これが太古からある日本人の姿です。

    集落の形が示すように、昔といまが共存しているということは、いまと未来も共存していることを意味します。
    人々が、地理的な水平方向だけに行きているのではなく、過去現在未来という時間の縦軸の中に生きていることを表しているのです。

    一生懸命学んで大人になって、
    大人になったら、一生懸命働いて、
    子や、孫の未来を築く。
    それが日本人の、1万7000年続いた縄文時代以来の、DNAに蓄積された日本人の姿です。

    ここに因縁話が生まれる背景があります。
    因縁というのは、歴史的原因と経過のことだからです。
    ということは、因縁話が理解されない社会というのは、その民族が「民族としての歴史を失っている」、もしくは「失わせたい力が働いている」ことを意味します。

    さて、明暦の大火に関連して、もうひとつたいせつなことを書いておきます。
    この大火の延焼で、江戸城にあった五層建てのたいそう立派な天守閣が、燃えてなくなりました。
    ところが徳川幕府は、明暦の大火で家屋を失った民衆のために、惜しみなく資金を提供し、町の復興のために予算を用いました。
    そしてそのために、わが国最大にして最高の江戸城天守閣の再建をあきらめたのです。

    天守閣を再建して虚勢をはることよりも、焼け出された人々への民生が第一。
    これが西洋やChinaの歴史にない、我が国の政治権力の姿です。

    徳川幕府が天守閣を後回しにし、さらには以後200年以上も天守閣を再建しなかった理由に、当時の武士たちの立ち位置が現れています。
    武士はもともと新田の開墾百姓たちです。
    そして武士は、平安の昔も、鎌倉時代も、戦国の昔も江戸時代も、領主として、天皇のたからを預かったのであって、領土領民はあくまで「天子様の大御宝」と認識されたのです。

    西洋やChinaでは、領主は領土と領民を支配します。
    けれど日本では、領主はあくまで、天皇のたからである領土領民に知らす統治を行なう「知行」をしていたのであって、領土領民を支配したのではありません。
    いまの会社内で、部長や課長が部下を「支配」しているのではなく、部下はどこまでも「会社」の社員であり、「役席者が私的に支配しているのではないことと同じです。

    そしてそういうことがなぜ実現できたかといえば、歴史的を大切にしてきたからなのです。
    因縁話は、そうした歴史的背景と日本の常識の中から生まれた物語であるといえるのです。

    明暦の大火のあと、幕府は民間への援助を優先し江戸城天守閣の再建をしなかった。
    こういうことこそが、我が国施政の誇りといえるのではないでしょうか。



    ※この記事は2013年6月のねずブロ記事をリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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    行いは自分ですることであり、批評は他人がすること。
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    (勝海舟)

    20231119 西郷隆盛



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    日本に希望の火を灯す!

    JR田町駅を降りるとすぐのところに、
    ~~~~~~~~~~
    江戸開城
    西郷南洲
    勝海舟
    会見之地
    ~~~~~~~~~~
    と書かれた石碑が建っています。
    場所は、東京都港区芝5-33-1です。

    ここは、その昔、薩摩藩邸があったところです。
    ここで勝海舟と西郷隆盛が対談し、江戸城の無血開城が決められました。
    このときの模様が勝海舟の「氷川清話」の中にあります。

    ~~~~~~~~~~
    おれは今日までに、まだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。
    どうしても西郷は大きい。
    妙なところで隠れたりなどして、いっこう、その奥行がしれない。
    厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。

    西郷はどうも人にわからないところがあったよ。
    大きな人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。
    西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。

    あの時の談判は実に骨だったよ。
    官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。

    その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる。
    板橋からは伊地知(正治)などがくる。
    また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。
    しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 

    さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

    「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」
    この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

    もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。
    万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。

    しかし西郷はそんな野暮はいわない。
    その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。

    このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ。
    その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。

    西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。
    おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。
    おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。

    このときに際して小籌浅略を事とするのは、かえってこの人のために、はらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ。
    ~~~~~~~~~~~~

    勝は、西郷を褒め称えていますが、その西郷の器の大きさを感じ取ることができた勝も、同様に器の大きな男だと思います。
    そういえば近年、勝海舟は、いわばスパイのような悪辣な存在であったといったことがしきりに吹聴されているのだそうです。
    勝海舟だけでなく、坂本龍馬も同じです。

    歴史上の人物というのは、どんな人であっても、人間ですから、良い面、悪い面があります。
    そのどちらもあるから人間なのです。
    間違いのない、「私、失敗しないので」と豪語できるような人というのは、ただ傲慢なだけで、実社会では、むしろ失敗ばかりしているのが人間というものではないかと思います。

    勝海舟も、坂本龍馬も、偉大な業績を残した人物です。
    けれど、偉大な業績というものは、常に功罪表裏一体です。
    後世の人は、そのどこを見るかではないかと思います。

    私は「歴史は学ぶためにある」というのが持論です。
    良い面、悪い面、いずれもが、私たちにとっての学びです。

    勝海舟も、その闊達な気性と歯に衣着せぬものの言い方から、あるいは旧幕臣でありながら維新後に明治政府の高官になったりしたことから、たいそう嫌う人も多かったのです。

    福沢諭吉など、勝を嫌った代表格です。
    諭吉は勝と一緒に咸臨丸で渡米した経験、すなわち幕府の巨費を投じて育成された人材です。
    けれど福沢諭吉は、明治政府には相手にされませんでした。
    一方、勝は、旧幕臣でありながら、明治政府から厚遇を得ました。
    そんな勝に、諭吉は我慢しきれなかったのでしょうね。
    「やせ我慢の説」という論文を公表し、これに対して公式にきちんとした回答をせよ、と勝に迫っています

    このときの勝海舟の返事がふるっています。
    長たらしい釈明をせず、たった3行で回答したのです。

    「行蔵は我に存す。
     毀誉は他人の主張。
     我に与らず」

    行いは自分ですることであり、批評は他人がすることだ。
    他人の批判なんて、俺には知ったこっちゃねえよ、というわけです。

    このとき、福沢のした勝批判は、要するにお前は徳川幕府派なのか明治新政府派なのか、あるいは佐幕か尊皇か、開国か攘夷か等々という、二者択一の二元論です。
    簡単に言ったら「白か黒か」と迫ったわけで、この場合、グレーであっても白か黒かどちらかに分類しなければならない。

    けれども、グレーはグレーです。
    白でもなきゃ、黒でもない。
    となると、白と答えればウソになるし、黒と答えてもウソになる。
    こうして論理の破綻をさそって相手の信用を貶める。
    ヘンに小利口な者がよくやる手口です。

    ちなみに、ボクは福沢諭吉の悪口をここで言おうとしているのではありません。
    歴史上のどんな人でも、いい面もあれば、コケたり失敗したりする面もある。
    生身の人間が「生きる」ということは、そういうことだろうと思うのです。
    だからいい面だけを掘り起こせば、美談になるし、コケたり失敗したりした部分だけをことさらに取り出せば、また違った物語になります。

    ただいえることは、いい面も悪い面も、あって当然なのが人間なのであって、後世の私たちに必要なことは、そういう事実から歴史上の人物を「評価」することではなくて、私たち自身が「いま」と、そして「これから」を生きるにあたって、何を「学ぶ」かであると思うのです。
    「評価」は傲慢です。
    「学び」は、知性を啓(ひら)きます。

    勝海舟と、福沢諭吉の最大の違いは、福沢諭吉がどこまでも身分や封建制や主君という概念の中で物事を把握し判断しようとしたのに対し、勝には常に「世界の中で日本が生き残る道」という思考があったことです。

    欧米列強が東亜の植民地化を推進しようとして虎視眈々と狙っている状況下にあって、いまさら主君も藩もない。
    俺が仕えているのは日本だぜ、というのが勝の立ち位置です。
    そういう視点からみたら、佐幕か勤王かという二者択一論は、狭量な井の中の蛙論になってしまうのです。

    白でも黒でもいい。
    大事なことは日本を守ることです。

    さて、西郷南洲と勝海舟の会見ですが、この席に西郷に指名されて同席し、会見の模様を世に伝えたのが、大村藩の渡辺清左衛門(後に改名して渡辺清=わたなべきよし)です。

    渡辺清
    渡辺清


    戊辰戦争というと、なにやら薩長土肥しか幕府側と戦ってなかったように戦後の歴史教科書は教えるけれど、実際には、薩長土肥以外にも、鳥取藩、大垣藩、佐土原藩、佐賀藩などが大活躍しています。

    なかでも凄みのあったのがを見せたのが長崎県大村市にある玖島城(くしまじょう)を藩庁に持つ大村藩で、この藩は、藩の石高でみると、わずか2万7000石です。

    ちなみに、薩摩が73万石、長州が36万石、土佐24万石、鳥取32万石、佐賀35万石といった規模です。

    だいたい1万石で、兵を250人養えるといいますから、兵力でいえば、
    薩摩 18000人
    長州  9000人
    佐賀  9000人
    鳥取  8000人
    土佐  6000人
    の規模です。

    これに対して、大村藩は700名弱の兵力でした。
    にもかかわらず、戊辰戦争の恩賞では、薩長土に続く、4番目に高い褒章を得ています。
    それだけすさまじい活躍をみせたのが大村藩だったわけです。

    大村藩というのは、戦国時代から長崎に続く名家で、石高こそ小さいけれど南蛮貿易を通じて豊かな経済力を誇っていた大名です。

    ところが日本が鎖国するに至って、南蛮貿易の利権を奪われ、米財政になりました。
    当然財政は厳しくなったけれど、もっぱら幕府に対して恭順の意を呈し、長崎奉行などの要職を得るようにもなっています。

    そんな経緯から、大村藩は、もともと国際情勢に強い藩でした。
    幕末の頃は、藩論が佐幕派と尊皇派に藩論が二分されたけれど、尊王派の盟主が暗殺された事件をきっかけに、一気に尊皇倒幕へと藩の意思が統一がなされています。
    徳川がどうのとか、諸藩がどうのとか言っているときではない。
    日本は、ひとつの国となっていかなければ、国家そのものが蹂躙されてしまうということを理解していたのです。
    このあたりの政治感覚は、中央で明治維新に寄与した下級貴族らたちと比べてはるかに優れたものと言えます。

    ときの大村藩主である大村純熈の写真が現代に残っています。
    下の写真です。この写真がおもしろい。
    戦装束に、特別に大きくあつらえた日の丸の扇子を持っています。

    日の丸というのは日本という国家の象徴です。
    我こそは統一日本を築く先駈けとならん、という大村純熈の意思を、写真は明確に物語っているのです。

    大村藩第11代藩主大村純熈
    大村藩第11代藩主大村純熈


    大村純熈は、藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、藩士編成による倒幕部隊を編成させました。
    そうはいっても、大村藩はわずか2万7000石。
    兵力は乏しい。

    ところが渡辺清は、逆に少数であることを活かして、圧倒的な火力を持った少数精鋭の火力軍団を形成しました。
    組員は、銃撃二個小隊と、大砲隊、あわせて100名です。

    隊の名前は「新精組」です。
    「精」の一字に、精密射撃を旨とする新しいタイプの戦闘部隊であるという志をあらわしました。

    新精組の隊旗
    新精隊旗


    そして、刀剣中心の幕軍に対して、銃撃や大砲など、圧倒的火力を持つ新精組は、強力な力を発揮します。
    寡兵ながら桑名城を落とし、赤報隊を逮捕し、三月初めには官軍の先鋒として箱根を無血占領しています。
    こうした経緯から、渡辺清が、西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に大村藩を代表して立ち会っています。

    このすぐ後に、渡辺清は、上野山で彰義隊と戦い、さらには奥州方面の戦いにも参戦し、戊辰戦争後は、江戸(東京市)の警備に就いています。

    ここが今日、言いたいところです。
    当時の大村藩の実力は、遠征部隊としては100名の軍団がやっとでした。
    その軍団が遠隔地に出征するとなれば、兵站部門(補給部隊)を編成しなければなないし、藩そのものの警備兵も必要です。
    つまり藩としては700名の兵力があるけれど、遠征部隊として出征できるのは、100名がやっとだったのです。

    ようするに、大村藩は、たった100名で、公称旗本八万騎と呼ばれる徳川幕府に敢然と戦いを挑んだわけです。
    これは、普通の常識で考えたら、あり得ない選択です。

    しかしそれでも彼らは立ち上がりました。
    視野を世界に広げ、日本国内での戦い方ではなく、洋式の機動部隊の戦い方を習得し、圧倒的な火力を整え、いまだ中世的な刀槍や弓矢による戦いにこだわる幕軍に対して、徹底した雷撃隊で挑んだのです。

    そして彼らの志は日本という国家の樹立そのものです。
    小さな白か黒かといった二元論ではなく、もっと大きな視野で日本を考えようとした。
    それは、長崎を拓いた大村藩ならではの活躍であったといえるのかもしれません。

    ちなみにもっと付け加えると、新精組隊長であった渡辺清の実の弟に、渡辺昇がいます。
    渡辺昇は、剣を、斎藤弥九郎の錬兵館に学びました。
    練兵館といえば、神道無念流です。
    この道場があった場所が、いま靖国神社になっています。
    そして、このころの塾頭が長州の桂小五郎です。
    渡辺昇は、小五郎の次の塾頭です。

    昇も幕末の志士として大活躍しています。
    剣を通じて得た人脈で、長崎で坂本龍馬に頼まれ、長州藩に薩摩との同盟を働きかけ、こうしてうまれたのが薩長同盟です。
    これまた白か黒かという小さな二元論ではなく、広く世界を見据えて行動するという大村藩士らしい行動です。

    もうひとつ申し上げます。
    その大村藩から、昭和になって中村松雄が出ています。
    支那事変当時、上海にいた中村松雄は、上海にいたユダヤ人の一団を、米国へ逃がしています。

    ユダヤ人たちは、ドイツのナチス親衛隊から追われていたのです。
    ほっておけば彼ら全員が殺害されると知った中村松雄は、彼らユダヤ人の避難先として、米国を選択しました。

    この頃の米国は、蒋介石を後方支援しており、日本とはあからさまな敵対関係にあります。
    ドイツとは、同盟関係です。

    にもかかわらず、中村松雄は、アメリカに話をつけて、ユダヤ人の亡命を確保し、受け入れを実現させただけでなく、三菱商事に話をつけて、無償で米国までの船を出させています。

    これも、戦時同盟云々よりももっと幅広い人道を優先しようと考える大村出身者ならではの発想であったといえるかもしれません。

    偏狭な視野や、建て前論に惑わされず、常に広い視野をもって必要なことを自分の頭で考えて、実行する。

    いま、日本を亡国から救えるのは、日本を守ろうという意識をもった幅広い層の結集にあります。
    すくなくとも、同じ志を持つもの同士で、白か黒かとやっているときではない。
    そのように思います。

    さて、幕末に新精組を編成して幕軍と対峙した渡辺清ですが、その渡辺清の長女が石井筆子です。
    石井筆子は、明治の鹿鳴館時代を代表する美人であり、かつ、明治の女性教育の向上を目指した先駆者であり、知的障害者の福祉と教育を整備した偉大な女性です。

    白か黒かの二者択一論では、こうした人材は生まれないし、ただ対立が深まるだけです。
    日本的な考え方ではそうはなりません。
    学ぶべきものは学び、いまこの瞬間にできることのために、学び考え行動し、最善の解を得る。
    何のためかといえば「道のため、人のため」です。

    大村藩の偉業の原因がここにあるし、西郷隆盛の信頼や勝海舟の行動の原点もそこにあります。


    ※この記事は2010年の当ブログの記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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    20231118 天国



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    日本に希望の火を灯す!

    天国というのは、神や頭の上に輪のある天使などがいる清浄な天上の世界なのだそうです。
    極楽浄土は、仏教の仏さまや菩薩が住む清浄な世界なのだそうです。

    具体的にイメージしてみると、天国も極楽浄土も、美しい世界であり、どこにいても美しい音楽が流れ、良い香りがして、人々が優しくて食べ物が豊富な世界です。
    街で人に会えば、誰もが丁寧にゆっくりした声で、
    「こんにちは〜。きょうも良いお天気で〜〜」と声をかける。
    かけられた方も、
    「はあい。ほんにきょうは良いお天気で〜〜」と言葉を交わす。
    なるほど素晴らしい世界です。

    そういえば昔『帰って来たヨッパライ』という歌謡曲があって、歌の中で、
    「天国良いとこ、一度はおいで。
     酒はうまいし、姉ちゃんはきれいだ」
    と歌っていました(笑)

    けれど、どうでしょう。
    たいていの方は、そんなところ、三日もいたら飽きるのではないでしょうか。
    三日目くらいになると、
    「すみません。どこかにスマホはありませんか?」
    「あのぉ、パソコンはどこかにありませんか?」
    「ここって、Wi-Fiは使えますか?」
    それらが、全部ないとなれば、
    「じゃあ、囲碁か将棋盤はありませんか?!」
    などと、刺激を求めるようになるかもしれません。

    人によっては、天国の住民にもっと楽しんでいただくために作曲をしたり、楽器を演奏したりする人もあるかもしれません。
    もっと美味しくて滋養のある食べ物を作ろうとする人もあるかもしれません。
    天国の衣装をもっと楽しむために、ファッションデザイナーをする人が出るかもしれません。
    楽しみを共有するために、みんなと一緒にビジネスを始める人もいるかもしれません。
    もしかすると、恋をする人もいるかもしれない。

    でも「何かをする」ということは、そこには失敗もつきものです。
    失敗して落ち込んだら、そこがどんなに天国のような素敵なところであったとしても、本人にとっては地獄です。

    要するに人の魂には向上心があり、人は生きるために、あるいはよりよい神になるために、なんらかの刺激がなければ、生きていられないし、刺激を求めればそこには必ずリスクがあるのです。

    刺激のことを、現代用語で「ストレス」と言います。
    ストレスはいけないこととされています。
    ストレスとは「重圧となる重荷」のことです。
    そうであれば、人は重圧を受ければ、押しつぶされるか、逃げ出すか、選択は二つにひとつしかないとされます。
    そして、このような考え方のもとであれば、ストレスを受ければ、たいていの人は、潰れます。

    けれど、よくよく考えてみれば、そもそも「ストレス」というのは外来語です。
    もともとの日本語に「ストレス」という言葉はありません。
    日本では、日々ある苦難のことを「ストレス」ではなく、「試練」と呼びました。
    そして「神は乗り越えられない苦難は決して与えない」とされてきました。

    だから、終戦の頃、日本中が焼け野原となり、住む家も、食べ物さえもなくなってしまった時代にあっても、人々は、「これは神々が与えてくださった試練なのだ。
     乗り越えることができるものだ。
     よおし!頑張ろう!」
    と、むしろ笑顔で瓦礫を片付け、住まいを作り、着物を売ってお米に変え、必死に生き抜いて来たのです。
    そのおかげで、いまの私達の命があります。

    いまこのとき、誰もがそれぞれに苦難を抱えています。
    つらいことを抱えています。
    そして振り返ってみれば、思い通りになったことなど、生まれてこの方、数えるほどもなくて、毎日が苦難の連続です。
    そして、そんな苦難を、試練と思って乗り越えてきたからこそ、いまがあります。

    どこに行っても良い音楽が流れていて、良い香りがして、人々がやさしくて、いながらにして世界中の美味しいものが食べられて、人々が諸外国とくらべても、誰もがやさしくて、思いやりがある。
    そんな国は、天国そのもの、極楽浄土そのものです。
    けれど、このことは日本という国にそのままあてはまることでもあります。

    だからほんの700年前まで、日本は、諸外国から「扶桑国【ふそうのくに】」、「蓬莱山【ほうらいさん】」などと呼ばれてきました。
    13世紀までの世界地図は、東を上にして描かれましたが、その頂点にある丸い島がパラダイスとされていました。
    パラダイス(paradise)の語源は、古代ペルシア語の「pairidaēza」で、その原義は「周囲を囲われた園」とされます。
    けれどもしかしたら、それは「周囲を海に囲まれた園」であったのかもしれません。
    扶桑国、蓬莱山も、パラダイスも、この世の天国のことをいいます。

    つまり、日本こそ、極楽浄土であり、天国なのです。
    天国も、極楽も、どこか遠いところにあるわけではない。
    なんと、私達のあしもと、いま生きているこの日本こそが、極楽所土であり、天国であり、パラダイスです。
    つまり、私達は、天国の住民であり、極楽浄土の住民であり、パラダイスの住民なのです。

    そしてそんな日本の国土において、私達は、日々、さまざまな試練を受けています。
    なぜなら、そんな試練がなかったら、生きていても、なんの刺激もなくて、おもしろくないし、魂を成長させることができません。
    だからこそ試練があし、試練があるから魂を成長させることができるのです。
    乗り越えることができない壁はないのです。

    いまの日本は、問題だらけです。
    このままでは日本は本当に崩壊しかねない。
    そのとおりです。

    けれど、それを食い止めて、より良い未来を築くのは、いまを生きている私達のつとめです。
    あたりまえです。
    未来は「いま」の向こう側にしかないからです。

    日本という神々の国に生まれたことに感謝し、生んでくれた両親に感謝し、命を育んでくれた祖霊に感謝し、すこしでも良い未来を築いて、子たちや孫たちが、自分たちが生きた時代よりも、もっとマシな時代を生きることができるようにしていく。
    すくなくとも、私達の父祖は、そのようにしてくれました。

    昭和20年代の日本、30年代の日本と現代とを比べたら、それこそ、現代日本の環境は天国そのものです。
    それは、ストレス社会だからそうなったのではありません。
    いつの時代も問題だらけでしたけれど、その問題を、ひとつずつ、私達の先輩たちが、毎日コツコツと、すこしづつ改善してくれてきたからこそ、現代日本の良さがあります。

    私達の父祖の時代は、戦争もあったし、徴兵もあったし、同僚が戦友が、自分のすぐとなりで頭を吹き飛ばされて何人もが死んでしまうような、そんな日々を過ごしてきました。
    寒い冬の夜は、すきま風が吹く家の中で、小さな火鉢ですごしてきました。
    そんな生活をしながら、時代を拓き、気がつけばエアコンの効いた部屋の中で、いまではいながらにして、あらゆる情報に接することさえできるようになりました。

    そんな時代を誰が作ってくれたのかといえば、それは間違いなく苦労を重ねた私達の父祖たちです。
    そのおかげで、良い時代をすごさせていただいた私達は、近年の日本が良くないからといって、
    「もう日本はおしまいだあ」と言いながら、ただ嘆くばかりですごすのでしょうか。

    問題があるなら、解決すればよいのです。
    そのために必要なことを、日々積み重ねていくことです。
    それが、天国に、極楽浄土に生まれさせていただいたことへの、最大の感謝であり、貢献です。

    つらいことがある。
    悲しいことがある。
    悔しいことがある。
    いいじゃないですか。
    それらがあるから、生きている意味があるのです。

    もうひとつ加えます。
    いいときはいいのです。
    けれど人生も組織も、いつの世も山あり谷ありです。
    かならず谷はやってくる。

    その谷は、実は「一度立ち止まって考えなさい」という神様からのメッセージなのだそうです。
    振り返ってみれば人生も組織も、そんな谷のときに、一番の勉強ができてたし、一番成長させてくれた機会だったのではないでしょうか。


    ※この記事は2022年11月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 千年後の歴史教科書


    日本は、マネーばかりが幸せを築くものではないことを、期せずしていま、世界中に情報発信するようになりました。6000年前、世界に文明をもたらしたのは「やまとの国」です。そしていま、日本は再び「新しい日本」としての出発をしようとしています。

    20201106 雲海
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    日本に希望の火を灯す!

    以下の文は、2012年から毎年掲載しているお話です。
    千年後、様々な政治圧力が風化して、人々が冷静かつ客観的に物事の事実を時系列にちゃんと見れるようになった時代。
    その時代には世界中の学校で、人類史として、500年続いた人が人を支配する時代としての植民地時代と、それを終わらせた20世紀の日本という歴史が必ず教えられるようになる、と、そういうお話です。

    ただ、いまもうひとつ大事なことを先に付け加えた上で、このお話を再掲したいと思います。
    それは、千年後といわず、百年後二百年後の日本の教科書に、21世紀の初頭、情報化の進展によって世界中の人々が、一部の人達による利権が、それまでの世界で多くの命を奪ってきたこと。
    そして世界の勢力図が大きく変わったとき、日本に昔からある「人こそが宝」という理念が世界を覆うことで、人類社会の構図が大きく変化した。これもまた日本の活躍に依るものであったと、そのように書かれるようになるに違いないということです。

    これまでの世界は、人々の良心や愛情など、身分の上下や力関係によって平然と踏みにじられたきたという歴史を持ちます。
    国家規模のものとしての植民地支配は、私たちの先輩たちが激しい戦いの末、終わらせました。
    次に来るのは、人々の精神の自立です。
    戦後の日本は欧風化し、世界と同じように上下関係と銭がすべてを決めるという社会を築いてきました。
    そのためにほんの少し前までの日本人は、世界中からエコノミックアニマルとそしられるようにさえなりました。
    神々は、そんな日本に30年間の不況を与え、世界の経済から日本を大幅に後退させました。

    そして日本は、マネーばかりが幸せを築くものではないことを、期せずしていま、世界中に情報発信するようになりました。
    6000年前、世界に文明をもたらしたのは「やまとの国」です。
    そしていま、日本は再び「新しい日本」としての出発をしようとしています。


    ▼ 二十世紀における最大の出来事

    仮にいまから千年後の子供たちが、世界史の授業で二十世紀という時代を習うとします。
    そのとき、二十世紀を代表する最も大きな出来事は、いったい何だと教わるでしょうか。
    みなさんは、何だと思われますか?
    世界史──つまり人類史において、二十世紀を代表する最大の出来事とは・・・・?

    私は間違いなく、「植民地支配の終焉」を挙げることになるだろうと思います。
    人が人を差別する時代、しかもそれを国家ぐるみ、民族ぐるみで人種差別し収奪した時代、これがはじまったのは、十六世紀の大航海時代から以降のことです。
    もちろん古代においても奴隷支配という植民地の原型はありましたが、対等に戦い、勝負した結果、支配する者と支配される者に別れ、歴史においてその地位が度々逆転した中世以前の戦勝国による支配と、大航海時代以降の国家ぐるみ、民族ぐるみで人種そのものを差別し搾取した「植民地支配」とでは、その規模も内容もまるで異なっています。

    十六世紀以降、アジアやアフリカの有色人種諸国は白人が入植する植民地となり、現地の人々は収奪され、家畜のように扱われ、そして愚民化政策によってただ隷属するだけの民族に仕立て上げられていきました。
    当時の白人たちにとって、被植民者である現地のカラード(有色人種)は、人間ではありませんでした。
    これは誤解されている方もいらっしゃるのですが、人間として扱わなかっただけでなく、そもそも白人たちは有色人種を人類とは別の種類の生き物──つまり獣であると認識していたのです。

    有名な話ですが、植民地においては、白人の娘さんが部屋で着替えているところに、有色人種の男性(奴隷)が用事で入ってきても、娘さんは平気だったそうです。
    要するに室内に犬や猫が入ってきたのと、まるで同じだったのです。
    もちろん白人女性が着替えているところに、白人男性が入ってきたら、それはもう大騒ぎになります。

    こうした欧米列強による有色人種への植民地支配は、約五百年続いたのです。
    その間、何度かカラード(有色人種)による大規模な反乱なども起こっています。
    インドで1857年に起こったセポイの乱などもその一例です。暴動は白人たちの圧倒的火力の前に鎮圧され、首謀者たちは大砲の前に縛り付けられた状態で、大砲を発射され、五体をバラバラに飛ばされて処刑されました。
    なぜそのような残虐な方法で処刑できたのかといえば、有色人種は人間とみなされなかったからです。

    ▼ 日本人が自らを犠牲にして果たしたこと

    そうした植民地時代が、二十世紀の終わり頃、突然各地で終焉を迎えたのです。
    世界中の被植民地国家は次々と独立を果たし、欧米諸国はその富の源である植民地をことごとく失いました。
    それだけではありません。
    かつて被植民地として支配されたカラード(有色人種)国家は、経済面でも急激な成長を遂とげ、二十一世紀となったいまでは、世界の経済の牽引役にまで育っています。
    この突然の変化の背景には、何があったのでしょうか。
    五百年続いた絶対的優位の植民地支配が、なぜ、こうも短期間に突然の終息を迎えたのでしょうか。

    これをお読みのみなさんなら、もうお分かりかと思います。
    答えは、日本にあります。

    東洋の辺境にあった島国の日本が、世界でただ一国、カラードでありながら自尊独立のために短期間で国をまとめ、積極的に欧米の文物を取り入れ、瞬く間に欧米列強と肩を並べる強国になったかと思うと、ただ一国で世界最強の誉れ高いロシア陸軍を彼らの最も得意とする陸戦で打ち破り、さらに世界最強のバルチック艦隊を壊滅させたのみならず、昭和16年には絶対に負けることがないと信じられた大英帝国の東洋不沈艦隊を壊滅させてしまいました。

    さらに日本は、植民地支配されていた諸国で白人支配者を追放すると、現地の人々に行政を教え、教育を施し、軍備を整えさせ、彼らの独立自尊を手助けしました。
    その代わりに、日本は満身創痍の焼け野原になりましたが、ついに世界は、植民地支配という構図を失うに至ったのです。

    その象徴となったのが、昭和39(1964)年の東京オリンピックでした。
    東京オリンピック参加国は、その時点で史上最多の93カ国です。
    なぜ最多なのか。
    新たに独立した世界中の元植民地国が参加してくれたからです。

    東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手は、イタリアの植民地から独立したばかりのエチオピアからの参加です。
    ちなみに東京オリンピックの前に開催された1960年のローマオリンピックの参加国は83です。
    1956年のメルボルンオリンピックでは、参加国は67でした。
    1896年に行われたアテネオリンピックでは、参加国はわずか14です。

    東京オリンピックの次に開催されたメキシコシティオリンピックでは参加国は112となり、2012年のロンドンオリンピックでは、ついに参加国は204となりました。
    参加国が増えたということは、それだけ独立国が増えたということです。
    そしてそうなった背景には、間違いなく日本の働きがそこにあるのです。


    ▼ 日本は戦争目的において勝っていた

    そして、二十世紀までの世界史のなかで、自国の利益を度外視してまで周辺諸国の独立と平和のために戦い、勝利を得、それら諸国に莫大な経費をかけて自立を促したという、まさに神様のような国は、日本以外に存在しません。
    韓国人で、韓日文化研究所の朴鉄柱氏は、次のように述べています。

    「大東亜戦争で日本は敗れたというが、
     敗れたのはむしろイギリスをはじめとする
     植民地を所有していた欧米諸国であった。
     彼らはこの戦争によって
     植民地をすべて失ったではないか。」

    まさに、そのとおりです。
    五百年後、千年後の世界の歴史教科書には、二十世紀に関する記述として、間違いなく「植民地時代の終焉」という語句が入ると思います。
    これこそ二十世紀最大のエポックであり、人類史に残る偉業といえることだからです。
    そしてこれを成し遂げたのは、まぎれもなく、私たちと血のつながった若き日の私たちの父祖たちだったし、それを引き起こしたのは間違いなく日本でした。
    そういうことを私たちは、しっかりと知っておく必要があると思います。

    ちなみに、植民地というのは英語で「colony(コロニー)」です。
    ですがおもしろいもので、日本語でコロニーと書かれるときは、生活共同体の意味に用いられるようです。英語の「colony」が、日本語では「植民地」「コロニー」と二つのまったく別な言葉に訳されて使われているのです。
    ちょっとおかしな話です。


    ▼ 不思議の国「日本」

    さて、せっかくここまで書いたので、もうひとつ。二十世紀の終わり頃から二十一世紀にかけて、世界の人類に起こった最大のエポックは何でしょうか?
    第一次、第二次世界大戦ではありません。
    それらはいずれも二十世紀に終わっています。
    米ソの冷戦でしょうか。
    それも二十世紀に終わっています。
    核の開発と利用、人類初の月面着陸、火星探査機の打ち上げ、もちろんそれもあるでしょう。

    けれどそれよりなにより、もっとはるかに大きな出来事があります。
    それは、世界の人口が70億を超えたことです。

    大東亜戦争が終結した頃、世界の人口は約20億人だったのです。それがわずか70年足らずで、70億人へと3倍半に増加したのです。
    これは人類史上、初の出来事です。
    地上にこんなにたくさんの人間が住むようになったのは、人類史上、いまをおいてほかにありません。

    一七九八年に、英国のトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)という学者が、『人口論』という本を書きました。
    まさに歴史的名著といわれる本なのですが、その中で彼は、次のように述べています。

    「人口は、幾何級数的に増加する。
     一方、食料の生産能力には限界がある。
     だから人口の増加には一定の限界がある。」

    これはとても重要な指摘です。
    なぜならここに指摘されているとおり、人類は食料の生産能力を超えて生き残ることは不可能だからです。
    マルサスは本の中で、

    「いろいろな研究調査の結果、
     最終的に世界の人口は二十億人が限界で、
     それ以上は食糧生産高が間に合わず、
     人口は増加しない」
    と述べています。
    そしてマルサスの本から150年後の世界は、まさに20億の人口となっていたのです。

    第二次世界大戦の発生原因については、政治学的な考察や、軍事学的な検証、あるいは地政学的なアプローチなど、さまざまな研究がなされています。
    しかし、戦争原因についての統一見解はありません。
    つまり諸説ある状態なのです。
    それら諸説の根本を探っていくと、結局のところ、戦争の原因は貧困と飢え──つまり人口が20億に達し食料供給が限界になった世界が、新たな食料の供給源を求めて奪い合いをしたからだと考えることができます。

    けれどここに、やはりおかしな国が、世界に一国だけありました。
    日本です。

    日本は満州や中国大陸、東亜諸国や南洋諸島に進出しましたが、そこで何をやっていたかというと、もちろん政治経済軍事的側面もありますが、同時に大変熱心に農業指導をしているのです。
    世界が「自分たちが食うため」に他国を侵略し、その国の食い物を横取りするという挙に出ていた時代に、世界でただ一国、そうした暴力集団を追い払い、現地の人々と一緒になって汗を流して食料生産高の向上を図ろうとしていた──それが日本だったのです。

    事態はそれだけにとどまりません。
    日本は大変な国費をかけて農業生産物の改良をし、なかでも稲塚権次郎氏の開発した小麦は、なんと収量がそれまでの小麦の五倍というすごい品種でした。
    稲塚氏が直接指導した中国の華北産業科学研究所は、まさに中国全土にこの新種の小麦の普及促進と農業指導をして回っていました。
    おかげで華北産業科学研究所の職員は、大東亜戦争終結後も中国に2年間とどまり、その普及活動を継続させられています。

    その結果、何が起こったのでしょうか。
    大東亜戦争当時の中国の人口は約5億人でした。
    それがいまや15億です。
    人口が三倍に増えました。
    三倍の人が「食って生きて」いくことができるようになったのです。

    さらに稲塚氏の開発した小麦は、戦後に起こったインドの大飢き饉きんを救っています。
    飢饉によって1億人以上が死ぬと思われたときに、この小麦の改良品種がインドにもたらされ、たくさんの命が救われました。
    それ以降、インドで飢饉は起きていません。

    さらに1960年代から90年代にかけて、インドの小麦の収量は3倍に増大。
    その結果、人口まで3倍に増えたのです。

    こうしたことの積み重ねによって、世界の人口は爆発的に増大し、いまや70億に達しようとしています。
    つまり、二十世紀の後半から二十一世紀初頭にかけての、爆発的な人口増加の理由のひとつに、間違いなく日本という国の働きがあるわけです。

    誰しも、人が死ぬのは悲しいことです。
    まして飢えて死ぬなどということは、もっと悲しいことです。
    飢えによって我が子を死なせることになったら、いくら悔いても悔やみきれない悲しみが残ります。
    そうした飢えから多くの人々を救い、子孫を増やすことができるようにしたのだとすれば、それはまさに神の行いといっても過言ではないかもしれません。

    もちろん、世界に奇跡の小麦が普及拡大した背景には、日本以外の多くの国の良心と協力と努力がそこにありました。
    いまの私たちには、こうした先人たちの努力に学び、見習い、未来を担うという役割が課せられているのではないでしょうか。


    ▼ 日本の心を取り戻そう!

    せっかくここまで書いたので、もうひとつ書いておきたいと思います。
    文明は必然的に火を使いますから、人類が文明を築いた地域では多くの木が伐採されるため、何もしなければ森林の面積が少なくなっていきます。
    おかげでいまでは、人類の古代文明発祥の地は、どこもかしこもペンペン草も生えないような砂漠になっています。

    いちど砂漠化した土地に、自然に緑が戻るには、最低でも五千年の歳月がかかるといわれています。
    ところが最近、そうして砂漠化した土地に、緑が戻りつつあります。
    何が起こっているかとクズの普及です。
    クズというのは、漢字で「葛」です。
    葛飾区、葛根湯の「葛」、好きな人も多い葛切りのクズです。

    クズは根が丈夫で、荒れた土地でも生息が可能です。
    日本生まれのこのクズが、世界の砂漠地帯で、砂だらけの土地を緑に変えつつあります。
    もちろん日本人の指導によって、現地の人たちが植えているのです。

    クズの葉は砂漠を覆って日陰をつくり、日陰は土地を潤します。
    そして葉が落ちると、それが腐って腐葉土となります。
    地面に栄養分が戻りはじめるのです。
    そうして何年かたつと、その土地が蘇り、そこでイモなどの栽培ができるようになります。
    するとますます地味が肥え、さらに灌かん漑がいにより水が引かれることによって、いままで何もないただの砂漠だった土地に、なんと何十年かぶりに緑が蘇るのです。

    見ていてください。
    十年後、五十年後、百年後、千年後。
    私たちが学生時代に、何もない砂漠地帯と教わり、パジェロがラリーで走るくらいしか使い道のなかった白い大地が、緑豊かな大地として蘇るのです。

    日本を神の国だという人がいます。
    私には、それが本当かどうかは分かりません。
    けれどひとつ言えるのは、戦後、私たち日本人が失った「日本の心」は、皆が幸せに、そして平和に暮らせる社会を皆で築いていこうという、世界の人々が待ちわびている神の心、神の願いと深いところでつながっている、そんな気がするのです。

    「日本を取り戻そう!」という言葉が、私たちの合い言葉になっています。
    それは「日本の心」を取り戻すことでもあり、世界の人々にとって本当に幸せをもたらすものは何なのかを真剣に考え、行動していくことでもあります。
    私たちはいま、それができるかどうかの瀬戸際に立っているように思います。


    ※この記事は2012年から毎年掲載している記事です。
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    20201109 秋
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    日本に希望の火を灯す!

    イソップ物語に次のお話があります。

    【キツネと酸っぱいブドウ】

    ある日、キツネはみずみずしいブドウが高い木からぶら下がっているのを見つけました。
    ブドウは本当に美味しそうでしたから、キツネは長いこと見つめていました。
    ブドウが食べたくてたまらなかったのです。

    キツネはとても高くとび上がりましたが、ブドウを取ることはできません。
    何度とび上がっても、ブドウには手が届きませんでした。
    キツネは疲れておなかも空いていました。
    キツネは座り込んで、ブドウを見つめて言いました。

    「私って本当に馬鹿みたい!
     何度とび上がってもブドウは取れない。
     おかげでとても疲れたし、
     おなかもペコペコだわ。」

    ついにキツネは、ブドウに対して本当に腹を立てて叫びました。
    「どうせあんなブドウはおいしくないわ。
     きっと酸っぱくてまずいわよ。
     もう食べなくていい!!」

    キツネは「あのブドウは酸っぱい」と言いました。
    でも本当は食べたくて仕方がなかったのです。
    キツネは捨て台詞を吐いて立ち去りました。

     *

    【ラクダと角(つの)】

    ラクダは、角(つの)の自慢をする強そうな牛を見て羨ましくなって、自分も同じものを手に入れたいと思いました。
    そこでゼウスの所へ出かけて、角を授けて欲しいとお願いしました。
    するとゼウスは、大きな体と強い力に満足せず、余分なものまで欲しがるとはもってのほか、と立腹して、角をくっつけてやらなかったばかりか、耳の一部を取り去ってしまいましたとさ。


    ***

    同じような話を二話ご紹介しました。
    古い昔に読んだ記憶をお持ちの方も多いと思います。
    この二つのお話は、いずれも「ないものねだり」の愚かしさの物語とされます。

    しかし・・・
    腹が減ったときにキツネがブドウを求めたのは合理的思考です。
    体の大きなラクダが、さらに強くなろうと角(つの)を求めることも、合理的思考といえます。
    さらに・・・
    キツネはお腹が空いていたし、ラクダは牛より喧嘩に弱かったことを示しています。

    実は「思想」も、これと同じです。
    何かの思想があるということは、その思想が理想とする社会が、そこにないことを示します。

    民主主義を理想とする社会は、実は少数の大金持ちによって民衆が支配され隷属させられている収奪型社会であって、実はそこに民主主義はないし、ないから人々が欲しがるのです。
    あるいは自由主義を理想とする社会には、実は自由がない。
    共産主義を理想とする社会には、実は共産も平等もコミュニティも存在しません。

    要するに、ないから欲しい・・・つまりすべては「ないものねだり」の虚構でしかないのです。
    昔の人は、それを称して「水中に火を求む」とか「木に縁(よ)りて魚(うお)を求む」と言いました。

    四方を海に囲まれた日本では、海外の実情がわからないから、それらの主義を標榜している国に、本当に民主や自由があると思いこんでいます。
    そして実際に海外に行くと、「ああ、やっぱり日本が良いな」と・・。

    おもしろいもので、海外で生活していると、日本人女性が世界でいちばん美しい女声に思えてくるそうです。
    なぜなら海外で接する日本人女性の情報は、週刊誌や動画など、きれいな女性ばかりだから。
    同じことは、日本にいて外国人がかっこいいと思う心理にも似ているのかもしれません。

    日本は、天皇を天子と仰ぐ国柄です。
    そして、すべての人は天皇の「おほみたから」であるとする。
    これが古来からある日本の形です。
    君も宝、ボクも宝、彼も彼女も宝です。
    だから人を尊重するのです。
    日本人は、人と接するとき、どんな相手でも、まずは敬意を持って接します。
    どんな相手も、「おほみたから」だからです。

    これは思想ではありません。
    主義でもありません。
    古来から定まった「形」です。
    日本人が「形」を大事にするのも、ここから出発しています。

    お隣の半島の人は、やたらと「世界平和」を口にします。
    世界平和自体は、もちろん良いことです。
    しかしどうして「世界平和」なのかというと、彼らは腹の中を洗いざらいぶちまける、我慢しないのが正しいことだという文化を持ちます。
    けれど、思いは人によってまちまちですから、それをすることによって常に周囲と衝突を繰り返すことになります。
    そして上下関係が形成される。

    結果、上に立てばやたらと支配的になるし、下であれば常に上のわがままに無理やり付き合わされることになります。このため、心中には「いつかころしてやる・・」という恨みが常にある。
    つまり個人間の付き合いでも、会社などの組織でも、国自体も、その心中は平和とは程遠い、恨みが常にはびこっているわけです。
    だからやたらと「世界平和」とか、「世界が平和でありますように」という言葉が使われます。
    ないものねだりなのです。

    「日本を取り戻す」という言葉が広く認知されたのは、いまの日本に日本らしさが欠けていることの裏返しです。
    要するに、社会用語というのは、多くの場合、「ないものねだり」である、ということです。

    立憲主義を守ることを標榜する人たちがいます。
    彼らは憲法を守ることが大事だと主張します。
    けれども日本は法治国家であり、憲法が守られています。
    にもかかわらず、憲法を守れと言っているということは、彼ら自身は憲法を守る気がまったくないということの裏返しであるということです。
    つまり破壊主義者です。

    あるいは「あらゆる差別に断固として闘う」と言っている人たちがいます。
    つまりそれらの人たちは、差別をしていると(彼らが思う人)を差別したいわけです。
    つまり実は彼らこそが差別主義者であるということです。

    表面上言われていることと、実体の違い・・・
    もっとわかりやすく言えば、「言ってること」と「やってること」の違いの根幹にあるものは、常に「ないものねだり」です。
    「みんなで勉強して、本当のことを知ろう。
     そうすることで、みんなで日本を変えよう」というのは、
    「ない」から「創(つく)ろう」という運動です。
    本気で日本を変えようとするなら、それしか他に方法がないのです。

    そのためには一時的には「やってること」は独裁的にならざるを得ない。
    これは当然のことです。
    「みんな」が育ってくれば、まさに「みんな」で「日本を変える」ことが可能になります。
    これは「形」を作ろうという運動であって、主義主張とは異なります。

    そうしたことが、既存の「政党=主義主張」という見方ではわからなくなります。

    出典根拠を示せという人がいます。
    「そんな話、どの本に書いてあるのか?」
    というわけです。

    馬鹿なことを言ってはいけません。
    書いてないから、述べたり書いたりしているのです。

    そもそも、歴史において、本に書かれている内容というのは、その本を書いた教授なり著者の「論」でしかありません。
    「論」は「事実」ではありません。
    「事実」をもとにした、その教授なり先生の「意見」です。
    その「意見」をもとに自説を組み立てても、それは「屋上屋を架す」ことにしかなりません。
    考えるまでもない、あたりまえのことです。

    そうではなく、「事実」に基づいて考える。
    そして時系列に連続する「事実」が、合理的かつ客観的に再現可能性が極大になるように、ストーリーを組み立てる。
    歴史学というのは、本来、そういうものです。
    だから百人の歴史家がいれば、そこには百通りの歴史があるのです。
    年号や事件名や、誰かの「意見」を鵜呑みにするのが歴史学ではありません。

    「そんな話、どの本に書いてあるのか根拠出典を示せ」というのは、言ってみれば、「だってぇ、ママがそう言ってたもん!」と言い張っている子供と同じです。
    すくなくとも筆者にはそう見えます。
    大人なら、自分の頭で考えろ!ということです。

    したがって、筆者の述べる歴史のストーリーも、それは筆者の「論」にすぎません。
    ですから、それを鵜呑みになんてしてもらいたくない。

    そういうことではないのです。
    そこでもし、知的刺激を受けられたのなら、今度はご自分の頭で考えていただきたいのです。
    それは、自分の仕事のことでも、社会のことでも、政治のことでも、医療のことでも、みな、そうです。

    情報化社会というのは、そういうものです。
    あらゆる情報が氾濫しているのですから、それらを鵜呑みにするのではなく、どれが正しいか、どれが自分で納得できるか、自分の頭で考えることが必要な時代になっているのです。

    特定個人を叩いても、何の益もありません。
    叩くことと、自分の頭で考えることは違うからです。

    日本をかっこよくする。
    そのために必要なことは、ひとりひとりの日本人が、誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、それぞれが自分の頭で考えるようになること。
    そこにこそ、日本再生のための、わずか一本の蜘蛛の糸の希望があるのです。


    ※この記事は2020年11月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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