• 愛と喜びと幸せと美しさ


    日本の水に流すと言う文化は、時の流れや日本的対等感、日本的善悪の基準といった思考が関連しています。


    20220602 あじさい
    画像出所=https://gardenstory.jp/plants/13515
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    日本をかっこよく!

    日本には古来「水に流す」という文化があります。
    過去に何があっても、とりあえずは水に流して、今日も頑張ろう!といった具合です。
    こうした考え方が生まれた背景には、3つの日本的思考が関係しています。

    ひとつは「時間の流れ」です。

    日本人は古来、時間が未来から過去へと流れると考えます。
    だから未来は「未だ来たらず」ですし、過去は「過ぎ去る」です。
    過ぎた昔のことにいつまでも執着するのではなく、すこしでも良い未来にやってきてもらうために、今日も一日がんばろう!といった考え方をします。

    日本には神話の昔から、この世界は「よろこびあふれる楽しい国」を目指して神々が築いたものであるという自覚があります。
    たいせつなことは、いま努力してそういう未来を築くことであって、済んだことにいつまでも執着して和を乱すことは、いけないことであると考えられてきたわけです。


    ふたつめは「対等性」です。

    このことは、日本とは異なり、上下と支配の関係を軸にする国や民族を考えるとよくわかります。
    何事につけ、順位や上下を付けたがる思考を持つ国柄にあっては、過去の不冴は、相手よりも上位に立つ格好の材料になると考えられます。
    ですから、いつまでも執拗に、そして毎日、過去の相手の失敗や過不足を言い続け、それによって自己を相手よりも優位に立たせようとします。

    少し考えれば、相手の悪口を言ったところで、自分が偉くなるわけはないことくらい、誰にだってわかりそうなものですが、そこが文化性です。
    ひたすら相手の悪口を言い続けることで、自分が相手よりも優位に立てると思い込む。

    こうした人の特徴として、常に人の悪口を言い続け、口を開けば他人の悪口ばかりをいうけれど、ひとたび自分の悪口を言われると、まるで発狂したかのように自分を被害者に仕立て上げます。
    そしていつまでも執拗に相手を批難し続け、決して「水に流す」ことがない。

    上辺がいかにイケメンや美人であろうと、どれだけスタイルが良かろうと、いかに良い大学を出ていようと、そうした人とはあまりお友達になりたくないものです(笑)


    みっつめが「善悪の基準」です。

    日本人は古来、騙す人と騙された人がいたら、「騙す人が悪い」と考えます。
    実はそうした考え方が成立するためには、世の中が豊かで平和で、手ひどい悪事を働く人がいない社会であることが不可欠です。
    そもそも騙す人がいないのですから、騙される人もいない。
    そういう社会の中にあれば、騙す人が出れば、それは「悪」であるとされるわけです。

    ところが世界はそうではありません。
    一部の支配層が民衆から徹底的な収奪をし、民衆は貧窮のどん底暮らしです。
    そうした社会にあっては、むしろ支配層をうまく騙して利得を得た人が、喝采を浴びることになります。
    こうして、騙される方が悪いのだ、という文化が成立していきます。
    すると、騙してでも利得を得たものが勝ち、という社会になります。
    けれど、そうは言っても騙された側は、いつまでも、騙された恨みを忘れない。
    そこから「恨の文化」なんてものが生まれたりもするわけです。

    こうなると、意図的に「恨み」を作り出すことで、自己の優位を図ろうとする馬鹿者まで現れるようになります。

    何が正しくて、何が間違っているのかという善悪の基準は、長い歴史の中ではじめて熟成されるものです。
    例えば米国の先の大統領選挙で、売電さん側がかなりの不正を働いたことは、多くの日本人の知るところです。
    ですからほとんどの日本人は、それを悪いことと考えます。
    けれど米国は歴史の浅い国です。
    まだ正しいことの概念が十分に発達していない。
    だから、結果が全てであり、勝てば何をやっても許されると考えます。
    多くの日本人は、それを不正だと言いますが、米国では勝つことが正義なのですから、勝った売電さんは不正ではないのです。

    歴史の重みというのは、こうした社会的価値観にも、つよい影響を与えるのです。
    そもそも社会常識というものは、法で定まるものばかりではありません。
    慣習法という言葉があるように、その社会が長年積み重ねてきた歴史伝統文化の中に定まるのが社会常識です。
    ですから、日本の常識で米国の選挙をとやかくいうこと自体に、実は無理があるのです。

    その日本について、8月革命説と言って、日本は昭和27年に建国された、歴史の浅い国だとする説があります。
    東大名誉教授で憲法学者の宮沢俊義氏が説いた説ですが、ここに大きな勘違いがあります。
    なるほど、戦前戦中までの大日本帝国は、戦後に日本国となり、憲法も大日本帝国憲法から日本国憲法に変わりました。
    けれどその変化は、日本の中の政治体制が代わったに過ぎません。
    政治体制としてみたときの国家のことを、英語で「ステイト」と言います。
    その意味では、明治日本は、薩長ステイトだったし、江戸日本は徳川ステイト、鎌倉時代は、鎌倉ステイトの時代であったということができます。

    けれど、鎌倉、室町、織豊、徳川、薩長、戦後のGHQ支配と政治体制が替わっても、日本は相変わらず日本です。
    そしてこの場合の日本のことを、英語では「ネイション」と呼びます。
    「ネイション」とは、歴史伝統文化をひとつにする集団としての国家を意味する言葉です。

    つまり8月革命説というのは、単に日本の政治体制の変化のことを指しているに過ぎないのです。
    日本というネイションは、縄文以来、ずっと続いているのです。
    それがどのくらい続いているかといえば、考古学的に判明している始期は、なんといまから3万8千年前にさかのぼります。
    4千年、5千年といったレベルではないのです。
    3万8千年の間に、日本は天然の災害から人々の争いまで、さまざまな経験をしてきて、そうした中にあって「これだけは大切だ」というものが、長い歴史の洗礼を浴びて生き残り、それが日本文化となっているのです。

    だから日本には、ネイションとしての、深い文化があります。
    そしてその文化こそ、騙される人と騙す人がいたなら、騙す方が悪いと考え、誰も見ていなくてもお天道様が見ていらっしゃると考える日本文化になっています。

    なぜそのような文化になったのか。
    それは、国家として大切な根本に、私たちの祖先が、「愛と喜びと幸せと美しさ」が大切だと気づき、それを日本の文化にまで高めてくれたからです。


    新約聖書に次の言葉があります。
    「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」

    古代ローマの歴史家のキケロの言葉です。
    「あらゆる人間愛の中で、
     最も重要で最も大きな喜びを与えてくれるのは
     祖国への愛である」

    愛と喜びと幸せと美しさ。
    そうしたものを大切にして生きることができる社会を生むために、私たちはいまいちど日本文化の根底にある、「よろこびあふれる楽しい国」を見直すべきときに来ています。


    ※この記事は2022年6月の記事のリニューアルです。
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  • 韓信(かんしん)の股くぐり


    日のもとの国は、臣民みなが「よろこびあふれる楽しい国」を目指す国です。
    政治機構も、まさにそのためにある。だから国の統治は、神々と直接つながる祭祀の長を上におき、政治の実務を司る政治の長をその下に配置したのです。このとき祭祀の長が、民を「おほみたから」とすることで、政治の長にとっての最大の仕事は、「おほみたから」である民衆が、豊かに安全に安心して暮らせるよろこびあふれる楽しい国を築くことに焦点が絞られることになります。
    これを「知らす」といいます。人類が生んだ、最高の、そして究極の民主主義です。

    20210615 韓信の股くぐり
    画像出所=https://www.kosakaweb.jp/columns/detail.php?id=408&cid=39
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    日本をかっこよく!

    我が国で古来、広く知られたチャイナの故事に「韓信(かんしん)の股くぐり」という逸話があります。
    鎌倉以降の武士の時代に、広く知られた物語です。

    韓信というのは、後に前漢の太祖である劉邦の元で数々の戦いに勝利した大将軍です。
    マンガやアニメの『キングダム』がお好きな方であれば、秦の末期から漢が興る時代におけるアニメの王騎大将軍が、まだ若い、一兵士だった頃と想像していただくとイメージがわくかもしれません。
    とにかく、その強さは猛虎の如しと言われた、強くたくましい大将軍に、後になった人です。

    そんな若き日の韓信が、ある日、町を歩いていたときのことです。
    町のヤクザものが数名、韓信に難癖を付けてきました。

    「おい!そこの大柄なてめえ。
     てめえはいつも剣を帯びているが、
     実際には体がでかいだけの臆病者だろう。
     どうだ!
     言われて悔しかったら、
     その剣で俺を刺してみやがれ!
     なに?!できねえってか?。
     だったら俺の股をくぐりやがれ!」

    明らかな挑発です。
    何ごとだろうと、騒ぎに大勢の人がまわりを取り囲んみました。
    誰もが固唾(かたず)を飲んで見守る中、
    韓信は腰の剣を横に置くと、黙って若者の股をくぐりました。
    周囲にいた者たちは、大柄な韓信を「腰抜け」と笑いました。

    けれど韓信は、こう言ったそうです。
    「恥は一時、
     志は一生。
     ここでこいつを斬り殺しても
     何の得にもならない。
     それどころか仇持ち云々と騒ぎになるだけだ」

    この出来事は「韓信の股くぐり」として、戦国時代の日本では、知らない人はいないと言われるくらい、広く知られ、日本の武士の心得とされた物語です。

    武士は何より名誉を重んじます。
    名誉のために命をも賭けます。
    けれど、
    「恥は一時、志は一生」
    なのです。

    何のために日頃から剣や弓や馬術や体術を鍛え、何のために戦うのか。
    それは武士の発生の原点に基づきます。

    武士は、もともとは新田の開墾百姓です。
    奈良時代の聖武天皇の御世に出された墾田永年私財法によって、新田を拓き、その土地を一所懸命に守り抜く。
    そして、その土地で暮らす人々が、豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことに命を賭けるのが武士です。
    武士の棟梁である将軍は、その土地の私有を認めてくれる大親分であり、だからこそその御恩に報いて、戦いをします。
    これを奉公と言います。

    江戸時代、武士が街のやくざ者に絡まれると、武士は黙って頭を下げたといいます。
    ただし、武士を本気で怒らせたら、刀を抜くだけでなく、命を捨ててそのやくざ者を斬り殺しました。
    そして自分もその場で、人を斬った責任を果たすために、腹を切りました。

    武士が刀を抜くということは、それだけの重みがあることであったのです。
    だから韓信の、
    「恥は一時、志は一生」
    は、武士の心得となりました。

    社会の上層部における常識は、その社会における常識となっていきます。
    一般の農家においても、あるいは町人の間においても、この韓信の股くぐりからくる「恥は一時、志は一生」は、日本の常識となっています。

    そうした社会常識を持つ社会において、おおいに誤解されているのが、江戸時代初期に実在した「踏み絵」です。
    キリスト教の布教を禁じた幕府によって、キリシタンかどうかを識別する道具として「踏み絵」が行われた。
    「踏み絵」にはキリスト像や、マリア像が描かれていて、これを踏むことができない者は、バテレン(キリシタン)として改宗のための拷問に付された、というものです。

    けれど、すこし常識を働かせて考えていただいたらわかるのですが、命を取るか、絵を踏むことを選ぶかといえば、日本人の常識は、平然と絵を踏むことを選びます。
    なぜなら、これもまた韓信の股くぐりだからです。
    信仰というものは、心が行うものであって、形式や形ではない。
    早い話、その踏み絵が、阿弥陀様や大日如来、あるいは天照大御神の絵柄であったとしても、命か踏むかという選択なら、平然と絵を踏む。
    それが日本人です。

    要するに踏み絵は、ある種のパフォーマンスとして実在したものであって、逆に合理性を尊ぶ日本社会では、むしろ絵を踏むことを拒否して、拷殺されることを選ぶことは、むしろ不自然な行動となります。

    もちろん、イエスズ会の側が、信者に踏み絵を踏むことを拒否させ、信仰に殉じた信者を誇大に宣伝することで、幕府の横暴を訴えたということは、あったといえます。
    しかし、そうした考え方は、本当に信者たちの幸せを願うならば、本来、あってはならないことです。

    そういえば先日ある会で
    「日本ではなぜ日本でキリスト教が根付かないのでしょうか」
    というご質問をいただきました。

    イエズス会の布教によって、戦国時代にキリスト教に改宗した人の数は、日本の人口の1%内外であったといわれています。
    このことは、戦後にGHQがさかんに日本でキリスト教を布教しようとしたときにも、キリスト教に改宗した人は、やはり1%前後であったといわれていますから、日本人の精神性は、昔も今も変わらないということがいえます。

    ちなみにチャイナでは、キリスト教の伝道師は、ものすごい成果をあげることができたといいます。
    これはラルフ・タウンゼントの『暗黒大陸中国の真実』に詳しいのだけれど、日本に来た宣教師たちは、なかなか日本人がキリスト教に改宗しないため、成果があがらない。
    一方、チャイナに派遣された宣教師たちは、ものすごい人数の信者を短期間に集めることができた。
    このため多くの派遣された宣教師たちが日本を憎み、その一方でチャイナを愛した、といったことが書かれています。

    チャイナで信者を集めることは簡単で、ただ教会で毎日無料でパンを配れば、チャイニーズたちは列をなしてやってくるし、それどころか、その日からキリスト教に簡単に改宗してしまう。
    ところが、パンがもらえないとなると、その日のうちにキリスト教を辞めてしまう。
    実は彼らは、ただパンが欲しいだけであって、信仰をする気など微塵もないのである、とタウンゼントは書いています。

    これに対し、日本では、なかなかキリスト教に改宗しようと言う人が生まれない。
    ところが、です。
    日本では、実はキリスト教は、おおいに普及しています。

    たとえば、クリスマスのお祝いや、プレゼント、あるいは「きよしこの夜」を歌ったりすることは、日本人なら、誰でも行います。
    だいぶ以前ですが、知り合いのお寺のご住職が、ずいぶんと若い美人さんと結婚しました。
    お寺の住職ですから、当然結婚式も仏式で行うのだろうと思っていたら、びっくり。
    結婚式場に設置されている教会で、神父さんを呼び、新郎は白のタキシード、新婦も白のウエディングドレスでの結婚式でした(笑)

    要するに日本人は、キリスト教を拒否しているどころか、おおいにキリスト教を社会に取り入れているわけで、決して拒否しているわけではないということができます。

    このことは、仏教においても同じで、仏教では死んだら極楽に逝くと説きますが、神道では死者の魂は神となってイエ・ムラ・クニの守り神となるとされます。
    両者の考え方はまったく異なるのですが、なぜか日本では神仏習合で、神様と仏様は普通に共存しています。

    もっと言うなら、現代日本では、神仏習合どころか神仏基(基は基督教(きりすときょう)のこと)習合なのであって、そのことに疑問を持つ日本人はほとんどいません。

    なぜこのようなことが可能になるのかというと、日本古来の神道が、「道」であって、「教え」ではないことによります。
    受験に例えるなら、大学合格までの「道」があります。
    その道を歩むにあたり、受験生は、良い教師に付いたり、よい教材を教わったりして、より確実な合格を目指して努力するわけです。
    神道(かんながらの道)もこれと同じで、縄文以来、我々は神様になるために生まれてきたのだから、そのために必要な良い教えであれば、仏教であれ道教であれ、ヒンズー教であれ、キリスト教であれ儒教や易経であれ、良いと思われる「教え」は、なんでも採り入れる。

    つまり、日本人の目的意識は、よりよく生きるようとするところにあるのです。
    教えそのものは目的ではありません。
    そこに日本的思考、日本的価値観の特徴があります。

    こうした文化的土壌の背景にあるのが日本神話です。
    日本書紀によれば、イザナギとイザナミがこの世界を作ったのは、「豈国(あにくに)」つまり、「よろこびあふれる楽しい国」を作ろうとしたのだと書かれています。

    されに言えば、イザナギとイザナミから生まれ、高天原を知らすことになられた天照大御神は、孫のニニギの天孫降臨に際して、
    「中つ国においても、高天原と同じ統治をしなさい」
    と語られたと、神話に記されています。
    高天原というのは、全員が神々の国です。
    その高天原と同じ統治をするということは、臣民のひとりひとりを、すべて神々の御分霊として尊重しなさいということです。

    ここからさらに、我々人間は、神々の御分身である霊(ひ)が本体、肉体はその乗り物に過ぎないという思考が生まれています。
    神々の御分霊であるのは、ひとりひとりに備わった霊(ひ)であって、肉体ではないからです。
    これは、神社と神様の関係と同じです。
    神社は、神様のおわすところであって、神様そのものではありません。
    言い換えれば、肉体が神社のお社(やしろ)、その神社(肉体)に宿っているのが、神様である霊(ひ)です。
    だからどんな人でも大切にしなければならない。
    たとえ悪人であっても、罪は憎むが、人は憎んではならない。
    そうした日本的思考の大本になっているのが、そうした霊(ひ)の思考です。

    そして日本は、日のもとの国です。
    日は、霊(ひ)であり、天照大御神を意味します。
    そうすることで、日のもとの国は、高天原と同じ統治という形を目指していることが明確になります。

    そして日のもとの国は、臣民みなが「よろこびあふれる楽しい国」を目指す国だとされてきたのです。
    政治機構も、まさにそのためにある。
    だから国の統治は、神々と直接つながる祭祀の長を上におき、政治の実務を司る政治の長をその下に配置したのです。
    このとき祭祀の長が、民を「おほみたから」とする。
    すると政治の長にとっての最大の仕事は、「おほみたから」である民衆が、豊かに安全に安心して暮らせるよろこびあふれる楽しい国を築くことに焦点が絞られることになるのです。
    これを「知らす」といいます。
    人類が生んだ、最高の、そして究極の民主主義がここにあります。

    よろこびあふれる楽しいクニ、よろこびあふれる楽しい社会、よろこびあふれる楽しい人生を実現するために、良いと思う教えなら、なんでも採り入れる。
    目的がそこにあるのですから、キリスト教を学んでいる人であっても、「踏み絵」を踏まなければころすぞと言われれれば、何の迷いも躊躇もなく、これを踏む。
    それが日本人のしたたかさであり、日本人の強さの根源です。

    まして、股くぐりくらい、なんでもない。
    日本男児にとって、「恥は一時、志は一生」です。


    ※この記事は2021年6月の記事の再掲です。

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  • 我を捨てる日本的思考


    神々の御心は、果てしなく広く、深いものです。このことは、いまから2683年前の神武天皇のお振る舞いが、以後の日本の発展と、私たちの命にそのまま繋がっていることに思いをいたすとき、たしかなものとして、私たちの前に、その凄みを見せてくれます。

    20230531 神武創業
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    日本をかっこよく!

    今回はちょっとむつかしい話を書きます。
    根幹にあたることです。
    ここを理解すると物事の見方が変わります。

    孟子に有名な言葉があります。
    次の言葉です。
    「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんとするや、
     必ずまずその心志(しんし)を苦しめ、
     その筋骨を労し、
     その体膚(たいふ)を餓えしめ、
     その身を空乏(くうぼう)し、
     行い為すところを仏乱(ふつらん)す」

    要するに天が大事を人に任せようとするときには、必ずその人を奈落の底に突き落として厳しい試練を与えるのだ、というのです。
    ここから、「試練は乗り越えられる人にしか訪れない」といった言葉も生まれています。
    この言葉から勇気をいただいたという人も多いのではないかと思います。

    ただし!
    この言葉はチャイナの言葉という点に注意が必要です。
    どういうことかというと、主役が「自分」なのです。

    自分に対して天が大きな任務を与えているから、試練があるのだ、というわけです。
    そこに「オレが、オレが」の精神があります。
    自己中なのです。

    日本の古くからの考え方は違います。
    自分が主役ではなく、あくまで神々の御心が中心になります。
    どういうことなのか、日本書紀の神武天皇の物語から拾ってみます。

    神武天皇は、九州の宮崎を出発され、大分、福岡、広島、岡崎でたいへんに歓迎され、人々によろこばれながら、東へと向かいました。
    そして畿内に入ろうとしたとき、突然長髄彦(ながすねひこ)から、「お前たちはワシの国を奪いに来た!」と言われて襲撃され、このため兄の五瀬命が矢傷を受けてお亡くなりになってしまいます。

    このとき、神武天皇は撤退を決意されます。
    そのときの御言葉です。

     いまやつかれは ひのかみの  今我是日神
     うみのこにして ひにむかひ  子孫而向日
     あだをうつのは あめのみち  征虜此
     これさからふに しからずば  逆天道也
     しりぞきかへり よわきこと  不若退還示弱
     しめしてかみを ゐやいわひ  礼祭神祇
     そびらにかみの いをせおひ  背負日神之威、
     みかげのままに おそひふむ  隨影壓躡
     かくのごとくに するならば   如此
     やひばにちをば ぬらさずに  則曽不血刃
     あだはかならず やぶれなむ  虜必自敗矣

    現代語にすると、
    「我らが日の神(天照大御神のこと)のご神意を得て
     日に向かって進軍して悪い奴らを討つことは、
     まさに天の道なのだ。
     これに逆らうことはできないことだ。
     しかしここでいったんは退【しりぞ】いて兵を引き、
     我らが弱いと見せかけ、
     あらためて、
     神々を敬い、礼を尽くしてお祀りし、
     神々の御威光を背負おうではないか。
     さすれば、
     日に陰が挿【さ】すように、
     敵を襲い倒すことができよう。
     そしてこのようにするならば、
     刃を血で濡らすことなく、
     必ずや敵を破ることができるであろう」

    この御言葉を「神武天皇が負け惜しみを言ったのだ」と解釈する方もおいでになるようですが、違います。
    そうではないのです。
    「神々の御心は、人間の頭の大脳新皮質程度では計り知れないほど深いものだ」ということが述べられているのです。

    畿内に入るまで、どこに行っても歓迎され、喜ばれ、稲作の指導をしてこられたのです。
    それが畿内に入った途端、襲撃を受けたのです。
    ここで「おかしい」と気付かないほうがどうかしているのです。

    神々に時間軸は存在しません。
    千年前も、現在も、千年後も、ずっと存在されておいでになるのが神々です。
    つまり、神々の御意思は、我々人間が思いつくよりもずっと先の先まで見通しておいでになられるのです。
    ということは、ここで襲撃されたことにも、何らかの神の御意思がある。
    そう気付かなければならないのです。

    神武天皇は、ここで撤退し、畿内を南下されて行かれます。
    すると岩間から、生尾人(なまおびと)がゾロゾロと出てきます。
    生尾人というのは、尻尾の生えた猿人ではありません。
    食べ物を収奪され、骸骨のようにやせ細った人たちのことを言う、古い言葉です。
    人間、ガリガリにやせ細ると、お尻の肉がゲッソリと落ちて、尾骨が飛び出したようになり、まるで尻尾が生えているかのように見えるようになるのです。
    だから生きていながら、尾が生えたように見える人という意味で生尾人といいます。

    神武天皇はそうした人々に食べ物を与え、味方に付け、さらに神々から神剣を授かります。
    剣を授かったということは、「戦え」という神々の御意思です。

    こうして神武天皇は、新たに味方になった人々と、あらためて長髄彦の軍と対峙して戦います。
    この戦いの最中に「お腹が空いた」ので、「瀬戸内の人々よ、早く食べ物を持ってきておくれ」と神武天皇が歌った歌が遺されています。

    こうして神武天皇は、米による兵站の調達に成功し、この成功体験から橿原の地に「みやこ」を造ったとあります。
    「みやこ」というのは、いまでは「都」で首都のことを言いますが、もともとの大和言葉は一字一音一義です。
    「み」は、御。
    「や」は、屋根のある建物。
    「こ」は、米蔵を意味します。

    神武天皇は、橿原の地に、大きな米蔵をつくり、そこに全国で造ったお米を蓄えるようにしたのです。
    そして、被災地の人々に、お米を支給できるようにされました。

    考えてみてください。
    日本列島は、天然の災害の宝庫の国です。
    台風が毎年やってきて、土砂災害を起こします。(ちなみに台風があり、大水が出るから平地が生まれ、稲作ができます)。
    何年かに一度は、巨大地震がやってきます。
    火山の噴火もあります。

    こうした大規模災害が起きると、その後の飢えと疫病から、いっきに多くの人が死に絶えて、人口の6〜8割が失われてきたのが、世界の歴史です。
    ところが日本では、どんな災害があっても、災害の瞬間さえ生き残れば、食料は安定して被災地に送られるのです。
    食べて体力を付ければ、疫病の流行も防ぐことができます。
    そうして命が繋がれてきた果てに、いま生きている私たちの命があります。
    つまり、神武天皇の畿内に入られたときの撤退は、現代の私たちの命につながっているのです。

    もし、神武天皇が、長髄彦の襲撃と兄の死に逆上して、「コノヤロー」とばかり長髄彦に挑み、全滅する、もしくは長髄彦に勝利して征圧によって国を建てていれば、その後の日本の歴史は大きく代わっていたであろうし、現代を生きる私たちの命も、存在しません。

    私たちの命は、神武天皇が、このときのいきなりの襲撃を「神々の御意思」と謙虚にとらえ、悔しいけれど撤退し、あらためて天神地祇をお祀りし、神々の御意向のまにまに行動しようとされた、このことによって我が国に米の備蓄の文化が生まれ、その文化によって、私たちの命が繋がれているのです。

    そこにあることは、「オレがオレが」ではありません。
    「天の大任ガー」でもありません。
    ひたすら天神地祇に感謝し、神々の御心のまにまに生きようとする素直で謙虚な心です。

    生きていれば、楽しこともあるけれど、嫌なこと、つらいこと、悲しいこと、悔しいこと、どうにもならない忸怩(じくじ)な思いも、たくさんあります。
    いやむしろ、つらいことの方が、はるかに多いかもしれない。

    けれど、人生を振り返ってみれば、そんなつらいことや悲しいこと、悔しいことがきっかけになって、新たな気付きをいただき、成長し、現在の自分がある。
    神々のなせる御業(みわざ)に、不要なものなどひとつもない。
    すべてが関連し、つながり、そのなかを誠実に生きることだけが、自分の未来を開き、日本の未来を築く。
    ここに日本的精神の根幹があるのだと、そういうことを、神武天皇の撤退の物語は伝えているのです。

    このことは、結果からみれば「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんと」したものなのかもしれません。
    けれど、だからといって、そこで「オレに天が大任を与えようとしているのだ」と、「オレがオレが」になってしまってはいけないのです。

    なぜなら神々の御心は、果てしなく広く、深いものであるからです。
    そしてこのことは、いまから2683年前の神武天皇のお振る舞いが、以後の日本の発展と、私たちの命にそのまま繋がっていることに思いをいたすとき、たしかなものとして、私たちの前に、その凄みを見せてくれるのです。


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  • 「人でなし」という言葉の持つ重み


    古来我が国では、「人でなし」を最大の侮辱言葉としてきました。
    民は「おほみたから」なのです。
    民衆のひとりひとりが、誰もが「人」として生きていくことができる社会であるからこそ、「人でなし」は最大の侮辱言葉となったのです。
    「人でなし」は実は、奴隷を制度とした国や民族には、考えられない言葉なのです。

    20180524 5月の花
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    昔は、盗みや争いごとをするような者のことを、「人でなし」と言いました。
    理由は、日本の社会は、誰もが「人」であることを重視してきた社会だからです。
    人であることを大切にした社会であるからこそ、最大の侮辱の言葉が「人でなし」だったのです。

    その日本が、近年ではテレビや新聞の社会面は毎日「人でなし」の報道ばかりです。
    私たち日本人にとっての現在の未来の理想像は、「人でなし社会」なのでしょうか。

    日本は神話の昔から人々が、誰もが「よろこびあふれる楽しいクニ」を生きることができるように、あらゆる創意工夫と努力が払われてきた国柄を持ちます。
    そういう国に生まれ育ち、その恩恵を一身に受けて暮らしていながら、私たちは子や孫たちの未来に「人でなし」のクニを残すのでしょうか。

    『令集解(りょうのしゅうげ)』という書があります。
    いまから千年以上前の西暦868年頃に編纂された書です。
    惟宗直本(これむねのなおもと)という、当時の法律家の学者による、私的な養老令の注釈本なのですが、律令のうち、令だけを対象に、その細かな注釈をした書です。
    もともとは全部で50巻あったとされ、このうちの36巻が現存しています。

    律令は、律が刑法、令が民法を意味します。
    実は我が国では、律は、律自体が未完成であったり、注釈本もなかったりで、あまり重視されていなかった様子が伺えます。
    つまり我が国は律があまり必要とされていなかったのです。
    それはつまり、もともと「治安が良かった」ということです。

    その『令集解』に『古記』として、いまから千三百年くらいまえの738年頃に成立した大宝令の注釈書が断片的に引用されています。
    さらにその『古記』のなかに、さらに古い文献が「一云(あるにいわく)」として引用されています。
    なんだかやっかいですが、『令集解』の中に『古記』が引用されていて、その『古記』が、さらにもっと古い文献を引用していて、それが「一云」として、『令集解』に書かれているわけです。
    つまり「一云」というのは、西暦でいうと6世紀頃の日本の様子です。

    その「一云」として引用された文献の名前は伝わっていません。
    いませんが、これが実におもしろい史料なのです。
    なにが「おもしろい」かといいますと、6〜7世紀頃の日本の庶民の生活の模様が、そこに書かれているからです。
    この時代の天皇や貴族のことを書いたものはありますが、庶民生活の模様を書いたものはとてもめずらしいものです。

    では、どのように庶民の生活が書かれているのでしょうか。
    原文は漢文です。
    これをいつものねず式で現代語訳してみますので、ちょっと読んでみてください。

     ***

    日本国内の諸国の村々には、村ごとに神社があります。
    その神社には、社官がいて、人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。

    村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社にお供え物をします。
    あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。
    神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

    春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。
    お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。
    そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

    そのあと、みんなで宴会をします。
    宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。

    このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。


     ***

    いかがでしょうか。
    これがいまから1400年前の、日本の庶民の姿です。

    なかでも特徴的なのが、
    「宴会のとき、
     家格や貧富の別にかかわりなく、
     ただ年齢順に席を定め、
     若者たちが給仕をする」
    というくだりです。
    社会的身分や貧富による差異ではなく、ただ「年齢順」に席順が決まるというのです。

    集まる場所は神社です。
    その神社の氏子会館でお祭りの打ち合わせをし、終わればみんなでいっぱい飲む。
    こうした習慣は、少し田舎の方に行けば、いまでも全国に残っている習慣です。
    しかもおもしろいことに、お祭りの打ち合わせに集った人たちにとって、互いの社会的身分や地位などは、まるで関係ありません。
    「俺は◯◯社の部長だ」と言ったところで、お祭りの打ち合わせには何の関係もない。
    こうした伝統は、なんと千年以上も前から続いているものだということが、わかるのです。

    世界中どこの国においても、宴席であろうがなかろうが、席次は身分や力関係によります。
    ところが古くからの日本社会では、男女、身分、貧富の別なく、単純年齢順だというのです。
    しかもこうした習慣は、いまでもちゃんと残っています。

    このことが何を意味しているかというと、日本社会は古くから身分や貧富の差よりも「人であること」を重視してきた、ということです。

    同じことが3世紀の末に書かれた『魏志倭人伝』にも書かれています。
    そこにあるのは、西暦200年代の日本の姿です。
    いまから1800年くらい前の様子です。

    何と書かれているかというと、
    その会同・坐起に、
     父子男女別なし。
     人性酒を嗜む

    です。

    会同というのは、簡単にいえば、お祭りの際の宴会のことです。
    その宴会の「坐起」つまり席順です。
    その席順には「父子男女別なし」とあるわけです。
    つまり、身分の上下や貧富の差や男女に関わりなく、みんなで酒を楽しんでいるよ、と書かれているわけです。

    つまり、この『魏志倭人伝』に書かれている3世紀後頃の日本の庶民の様子は、そのまま「一云」に書かれている日本の庶民の姿につながります。
    要するに我が国は歴史が途切れていないのです。

    もうひとつの「一云」の重要なポイントは、村人たち全員が集まった祭事のときに、「社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせていた」というくだりです。
    このことは、中央政府の発する御触れ等が、神社のネットワークを経由して、全国津々浦々に情報が伝達されていたということを意味します。
    税の徴収や治安の維持等は国司の仕事ですが、民間へのさまざまな示達は神社がこれを担っていたわけです。

    いまでも収穫の季節には神社に「奉納」として米俵が積まれたり、お酒が備えられたりします。
    また神社の建物は、たいてい高床式の建物になっています。(岩などが御神体の神社は別です)。
    これが何を意味しているかというと、仏教伝来前の神社では、お米の収穫のための種籾の保管をし、翌年には苗を育て、その苗を各農家に配り、また災害時の備蓄食料は、神社がこれを保管していたということです。

    ある由緒ある、代々世襲の神社の宮司さんとお話したことがありますが、その宮司さんは、新米を食べたことがないとおっしゃられていました。
    今年できた新米は、万一のときの非常用備蓄食料としてまるごと保存します。
    備蓄米は、前年に収穫したお米と合わせて二年分が常時備蓄されます。
    そして3年が経過した古々米から食べ始めるのです。

    また「一云」は、「神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります」と記述しています。
    いまはその役割を、地域の農協が行っています。
    つまり、古い時代の日本では、神社=農協の役割をも担っていたのです。

    『魏志倭人伝』に書かれている3世紀初頭の日本は、弥生時代の終わり頃にあたります。
    その弥生時代を担った人々は、縄文時代の日本人と同じ日本人です。
    その弥生時代の日本人が、大和朝廷を築き、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和を経て、平成のいまの世に生きています。

    そしてその間、ずっと日本は日本としての歴史は、断絶することなくつながっています。
    そうした日本の歴史において、村落共同体や神社のもっていた役割、あるいは祭事のもっていた役割は、とても大きなものであったといえると思います。
    そして、そういう社会基盤があったからこそ、日本は歴史がつながっています。

    英語でいうと、そんな日本の歴史伝統文化をひとつにする集団のことが「ネイション(Nation)」です。
    これに対し、政治体制のことを「ステイト(State)」と言います。
    ですから、古くからある歴史伝統文化の国としての日本はネイションであり、大日本帝国や日本国は、そのなかのステイトという関係になります。
    1952年に生まれた日本国ステイトの歴史は浅く、縄文以来1万7千年以上続く日本ネイションの歴史は古くて深い。

    『魏志倭人伝』は、他にも「盗窃せず、諍訟少なし」とあります。
    日本人は盗みをはたらかず、争いごとも少ないというのです。
    当然です。
    天然の災害の多い日本では、人々が日頃から互いに助け合って生きていかなければ、災害時に生き残ることさえも難しくなってしまうからです。

    近年の我が国では、大陸や半島の文化があたかも良いものであるかのように宣伝されてきました。
    天皇という紐帯を持たないそれら諸国諸民族では、自分と自分をとりまくわずかな家族しか信頼することができず、他人から物を奪い、自分だけが贅沢三昧な暮らしをすることが、あたかも正義であるかのように宣伝され、正当化されています。

    しかしそのことが多くの人々にとって、かならずしも愛と喜びと幸せと美しさのある人生をもたらさないことは、すこし考えたら誰の目にも明らかなことです。
    「人」というのは、ごくわずかな特定の人ばかりを指すものではありません。
    民こそが「おほみたから」であり、民衆のひとりひとりが、誰もが「人」として生きていくことができる社会こそが大事です。
    そうであればこそ、古来我が国では、「人でなし」を最大の侮辱言葉としてきたのです。

    ※この記事は2014年5月の記事のリニューアルです。
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  • なぜ学ぶのかを考える


    決して負けない。
    けっしてくじけない。
    それが日本人の精神です。
    オトナの学問はそのためにあると申し上げたいのです。

    20210418 イザナギイザナミ
    画像出所=https://jun-tan.me/nihonshinwa-izanagi-izanami-kamisama/
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    「オトナがなぜ学ぶのか」について考えてみたいと思います。
    まずはじめに明確にしておかなければならないことは、大人の学問と、小中学生の学問、幼児の学問は、「異なる」ということです。

    幼児の学問は、数の数え方とか、文字の読み方、書き方、そして何が正しいことなのかという価値観のもとになる神話教育などがその基礎となります。
    幼児と言ってあなどることなかれ。
    4〜5歳の子たちの暗記力、運動能力は、開発次第ではすさまじく、言語の取得から古文の丸暗記、教えかた次第では、大人顔負けのジャズやクラシックの演奏まで、幅広くこなさせることができます。
    そしてこの時期に学んだ価値観が、その人にとっての生涯の正義となります。

    小中教育では、さらにそれらの幅が広くなります。
    算数は数学となり、国語では単に読み書きだけでなく、その内容を理解して涙する感動する心を養うことができます。

    この時期から、理解度がテストで試されるようになります。
    江戸時代までの少年期教育が大きく変化したのがこの部分で、かつては試問と言って、先生の設問に答えて理解の程度を測るというものであったものが、明治以降には西洋式のテストにこれが替わりました。

    師匠の「試問」か、筆記試験(テスト)か。
    この違いは重要です。
    テストは、記憶力を試し、成績によって明確に生徒に順位を付けることができます。
    このことは、簡単に言えば、クイズに早くたくさん答えることができた者を成績上位とする、ということです。
    成績は客観的ですが、実は大事なことが抜けています。

    何が抜けているのかというと、ストーリーです。
    部品は、それを組み合わせて製品にしたときに、はじめて付加価値をもたらします。つまり、商品になります。
    商品にしたり、部品を組み合わせたりするプロセスが、ストーリーです。

    家を建てるとき、材木や大工道具がいくら正確に揃っていても、どういう家を建てるのかが決まっていなければ、家の建てようがありません。
    歴史でいえば、歴史上の事件名や人名をいくらたくさん覚えても、それらがどのように関連し、どのように歴史となっていったのかが理解されなければ、それは事件記録でしかなくて、歴史とは呼べません。

    部品の品質をあげるために、部品の品質を掘り下げることは大事ですが、いくら部品を掘り下げても、全体の組み立てラインがちゃんとできていなければ、自動車はできません。
    かろうじて理系が、戦後もその高度性を保つことができたのは、理系の場合、たとえば数学がそうですけれど、テストに「応用問題」を出すことができた。
    これが奏効したといえるかもしれません。
    なぜなら、応用問題を解くには、ストーリーが必要だからです。

    とりわけ戦後教育では、中学卒業者の集団就職の時代から大卒のホワイトカラーの時代に至る規格大量生産の時代の必要から、できるだけ均質性の高い卒業生であることが求められ、いまではすっかり、ただの記憶力のクイズに、素早く答えることができることが、あたかも学問であるかのような誤解が浸透するようになりました。

    これが高等教育になると、より顕著になります。
    もともと高等教育(いまの高校)は、中学までに、部品の作り方と、その組み合わせによる完成品の作り方を覚えたら、さらに高校では、その設計ができたり、あるいはもっと品質の良いものを組み立てたりという、応用力を養成するところでした。
    そもそも、昔は、15歳で元服で、オトナになったのです。
    ですから、高等教育は、大人向けの教育であったわけです。
    それがいまでは、小学校、中学校と、同じ子供向け教育が行われているだけです。

    大学になると、もっとたいへんです。
    明治の頃の帝大は、日本が西欧に追いつき追い越せのために、世界中から優秀な人材を集めて教授とし、世界最先端の教育を行った・・・つまり教育というより、大学の存在そのものに目的があったのです。
    ところが戦後の日本の大学は、旧帝大であっても、その目的性を失いました。
    私立大学も、本来は個性があり、建学の目的があったはずですが、いまではただのバイトのための休憩所になっています。

    諭吉は『学問のすゝめ』の中で次のように書いています。

    「学問とは、
     ただむずかしき字を知り、
     解げし難き古文を読み、
     和歌を楽しみ、
     詩を作るなど、
     世上に実のなき文学を言うにあらず。

     これらの文学も
     おのずから人の心を悦こばしめ
     ずいぶん調法なるものなれども、
     古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、
     さまであがめ貴むべきものにあらず。

     古来、漢学者に
     世帯持ちの上手なる者も少なく、
     和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。

     これがため心ある町人・百姓は、
     その子の学問に出精するを見て、
     やがて身代を持ち崩すならんとて
     親心に心配する者あり。

     無理ならぬことなり。
     畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして
     日用の間に合わぬ証拠なり」

    要するに「実のない学問」など、学問の名に値しないと述べているわけです。
    では「実のある学問」とは何か。
    これについて、諭吉は次のように述べています。

    「まず一身の行ないを正し、
     厚く学に志し、
     博(ひろ)く事を知り、
     銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、
     政府はその政まつりごとを施すに易やすく、
     諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、
     互いにその所を得て
     ともに全国の太平を護らんとするの一事のみ」

    つまり学問とは、「世の太平を護ることにある」のです。
    これがオトナの学問です。

    そしてこのことについて諭吉は
    「今余輩の勧むる学問も
     もっぱらこの一事をもって趣旨とせり」
    と述べています。

    枝葉末節にこだわることも大切ですが、それ以上に、経世済民。
    そのために自分でなすべきことを学ぶ。
    それこそが学問だ、ということです。

    個人が優秀であることと、国が優秀であることは異なります。
    個人が優秀でも、国自体に歪みがあれば、個の優秀さは阻害されます。
    個人が優秀といえないまでも、国が優秀であれば、個人もまたその優秀さの一端を担うことになります。

    現状に問題があることは、いつの時代も同じです。
    けれど、その問題を乗り越え、より豊かで自由な「よろこびあふれる楽しい国」を築く力は、オトナの学問によってのみ拓かれます。

    なぜなら、それはストーリーだからです。
    歴史もストーリー、未来もまた現在を出発点とするこれからのストーリーです。
    そのストーリーをより良いものにしていくために、日々努力を重ねていけば、積小為大、必ず良い未来が拓けます。
    逆に、日々の日常に埋没するだけなら、現在の延長なだけの問題だらけの未来になります。

    では、いかにして未来をストーリーを描くのか。
    そのなかにあって、自分自身がいかに貢献していくのか。
    道は遠く、果てしないけれど、それでも一歩ずつ答えのない未来に答えを得ようと努力をし続けることが、すなわち学問なのだろうと思います。

    イザナギとイザナミが最後にお別れするとき、千引石をはさんでイザナミが言います。
    「愛(うつくし)き我(あ)が那勢命(なせのみこと)、
     このようにするならば、
     汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)を
     一日に千頭(ちかしら)
     絞(くび)り殺(ころ)しましょう」

    国民を毎日千人、くびり殺すというのです。
    まるで宣戦布告です。
    普通ならここで、「なにを!このやろー!やれるもんならやってみやがれ!千人殺したら、千人殺し返してやるぞ!」となりそうなところです。
    けれどこのとき夫のイザナギは、

    「愛(うつくし)き我(あ)が那迩妹命(なにものみこと)よ、
     汝(いまし)がそのようにするならば、
     吾(あれ)は一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を建てよう」

    と述べました。
    産屋(うぶや)というのは、出産のための仮小屋のことを言います。
    殺されても、失っても、それでも未来に希望を持って、建設の槌音を絶やさない。
    それが日本人の生き様です。

    決して負けない。
    けっしてくじけない。
    それが日本人の精神です。
    そのためにあるのがオトナの学問です。

    ※この記事は2021年4月の記事の再掲です。
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  • 蝿は金冠を選ばず・・・木村長門守重成物語


    このお話は、昭和天皇がたいへんに愛された物語です。
    史実であったかどうかということより、物語が伝えようとしている人の心を学びたいものです。

    20230524 蝿に金冠
    画像出所=https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=265251396
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    日本をかっこよく!

    木村重成(しげなり)は、慶長二十年《一六一五年》五月の大坂夏の陣で、豊臣方の主力として東大阪市南部方面に進出し、藤堂高虎の軍を打ち破ったものの、井伊直孝との激戦に敗れ、22歳で戦死した武将です。

    この木村重成が大阪城詰めの頃のことです。
    若い武将ですから、まだ戦場での実践経験がない。
    人柄が立派で、美男子、だけれども実戦経験がないということで、中には妬(ねた)む者もいました。
    要するに嫉妬です。
    世の中に「男の嫉妬と女の恨みほど恐ろしいものはない」と、これは昔からよく言われることです。

    大坂城にいた、山添良寛(やまぞえりょうかん)という茶坊主もそのひとりでした。
    茶坊主といっても、良寛は腕っ節が強く五人力の力自慢です。
    常々から
    「まだ初陣の経験もない
     優男(やさおとこ)の木村重成なんぞ、
     ワシの手にかかれば一発でのしてやる」
    と、はばかることなく公言していました。

    ある日、たまたま大坂城内の廊下で木村重成に出会った良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成のハカマにひっかけました。
    「気をつけろい!」
    良寛が重成をにらみつけました。
    良寛にしてみれば、それで喧嘩になればしめたもの。
    人気者の木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくとでも考えたのでしょう。
    この手の身勝手な自己顕示欲を持つ者は、いつの時代にもいるものです。

    ところが木村重成、少しも慌てず、
    「これはこれは。
     大切なお茶を運ぼうとしているところを
     失礼いたしましました。
     お詫びいたします」と頭をさげました。

    そんな重成の様子に、嵩(かさ)にかかった良寛、
    「そんな態度では謝ったことになりませぬ。
     土下座して謝っていただこう!」と迫ります。
    要するに怒らせて手を出させればしめたもので、そこを反対にやっつけてやろうというわけです。
    加えて城内での喧嘩刃傷沙汰はご法度(はっと)です。
    武士である木村重成は、身分を失って失脚して大坂城を追われるだけでなく、場合によっては切腹になります。
    かたや地位ある武将、かたや地位などない茶坊主です。
    失脚すれば「ざまあみやがれ!」というわけです。

    こうした心理もまた、いつの時代にもあるものです。
    現代政治家など、著名人や有名人、あるいは人気のある人物をネットなどでこき下ろす。
    現代のネットの場合は、匿名であったりする分、この茶坊主良寛より卑劣さはもっと深刻かもしれません。
    いつの時代においても健全な批判は必要です。
    けれどニーチェが言っています。
    「悪とは相手の名誉を奪うことである」
    つまり、個々の問題点に関する指摘や意見は大事であっても、相手の名誉を損ねる発言や行動は、実はそれ自体が悪でしかない。

    木村重成は、初陣経験のない大坂城勤務とはいえ、一国の大名です。
    しかも豊臣秀頼の側近です。
    相手はただの茶坊主です。
    しかもこれは言いがかり。
    武将である木村重成の土下座などあり得ないことです。

    ところが木村重成、
    「それは気がつきませなんだ」
    と言うと、膝を折り、床に膝をついて、深々と頭を下げて
    「申し訳ございませんでした。」

    すっかり気をよくした良寛、勝ち誇った気になって、
    「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。
     ワシに土下座までして謝った。
     だいたい能もないのに、
     日頃から偉そうなんだ」
    と、言いたい放題。

    日頃人気のある重成です。
    誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、見た目も凛として、武将としてもたくましい風情がある。
    この頃の木村重成は、大阪城内の若い女性たちの人気の的であったともいわれています。

    それだけに、日頃抱(いだ)いていたイメージと、まったく違うことが流布(るふ)されると、人々はびっくりして、耳がダンボになってしまうのです。
    これを「認知不協和」といいます。
    良寛のまき散らしたウワサは、たちまち大阪城内に広がりました。
    なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという噂は、木村重成の貫禄のたらなさとなって、まさに大坂城内の笑い者、語り草になっていったのです。

    この時代、まだ戦国の世の中です。大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからない。
    まして戦国武将といえば、常に武威(ぶい)を張(は)らなければ、敵からも味方からも舐(な)められてしまいます。
    舐められるということは、武将としての一分(いちぶん)にかかわることです。

    噂というものは、必ず本人の耳にも入るものです。
    当然、重成の耳にもはいってきました。
    登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。
    心配した周囲の人が、
    「よからぬウワサが立っていますよ」
    と重成に忠告もしてくれました。
    しかし重成は、笑って取り合いませんでした。

    そんなウワサが重成の妻の父親の耳にも入りました。
    実はこの父親、とんでもない大物です。
    大野定長(さだなが)といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長(はるなが)の父親であり、戦国の世で数々の武功を立てた猛者(もさ)でもあります。
    その娘で、重成の妻の青柳(あおやぎ)は、たいへんな美人で、大野定長からしたら目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘です。
    その娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされているとあっては、大野の家名にも傷がつく。
    「よし、ワシが重成のもとに行き、
     直接詮議をしてくれよう。
     ことと次第によっては、
     その場で重成を斬り捨てるか、
     嫁にやった青柳に荷物をまとめさせて、
     そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」
    と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。

    定長「重成殿、かくかくしかじかのウワサが立っているが、
     茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。
     なぜその場で斬って捨てなかった。
     貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、
     ワシが代わりに斬り捨ててくれる。
     何があったか説明されよ。
     さもなくば今日この限り、
     娘の青柳は連れ帰る!」

    重成「お義父様(とうさま)、
     ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。
     ただ、お言葉を返すわけではありませぬが、
     剣の腕なら私にもいささか自信がございます。
     けれどお義父様、
     たかが茶坊主の不始末に
     城内を血で穢(けが)したとあっては
     私もただでは済みますまい。
     場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。
     いやいや、腹を斬るくらい、
     いつでもその覚悟はできておりますが、
     仮にも私は千人の兵を預かる武将にございます。
     ひとつしかない命、
     どうせ死ぬなら、秀頼様のため、
     戦場でこの命、散らせとうございます」
    そして続けて、
    「父君、
     『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。
     蠅には、金冠の値打ちなどわかりませぬ。
     たかが城内の蠅一匹、
     打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」
    と申し上げました。

    これを聞いた大野定長、
    「うん!なるほど!」と膝を打ちました。
    蠅はクサイものにたかります。
    クサイものにたかる蠅には、糞便も金冠も区別がつきません。
    そのような蠅など、うるさいだけで、相手にする価値さえない。

    たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、
    「ウチの娘の旦那はたいしたものじゃ。
     『蠅は金冠を選ばず』と言うての、
     たかが茶坊主の蠅一匹、
     相手にするまでもないものじゃわい」
    と婿(むこ)自慢をはじめました。

    日頃から生意気で嫌われ者の茶坊主の良寛(りょうかん)です。
    これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が大坂城内に広まりました。
    挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちから良寛は、
    「オイッ!そこな蠅坊主、
     いやいや、良寛、お主のことじゃ!
     そういえばお主の顔、蠅にも見えるのお。
     蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主!わはははは」
    と、さんざんからかわれる始末です。

    ただでさえ、実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。
    「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
    「かくなるうえは俺様の腕っ節で、
     あの生意気な重成殿を、
     皆の見ている前でたたきのめしてやろう」
    と機会をうかがいました。

    機会はすぐにやってきました。
    ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。
    いかに裸で、背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。
    正面切っての戦いを挑むほどの度胸もない。
    良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。
    なにせ五人力の怪力です。
    殴った拳の威力は大き・・・かったはずでした。

    ところが。。。。
    「イテテテテ」と後頭部を押さえ込んだ男の声が違う。
    重成ではありません。
    頭を押さえていたのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛でした。
    体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。

    いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤に怒って脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、
    「いま殴ったのは誰じゃ!
     出て来い!タタッ斬ってやる!」
    と、ものすごい剣幕です。
    風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守りました。
    そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。

    「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが・・・
     そこな良寛!
     おぬし、人違えでワシを殴ったな! 
     ナニ、返事もできぬとな。
     ならばいたしかたあるまい。
     ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。
     じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。
     拳には拳でお返しするが、
     良いか良寛、そこになおれ!」
    と、拳をグッと握りしめました。

    戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。
    腕は丸太のように太く、握った拳は、まるで「つけもの石」です。
    その大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。
    又兵衛にしてみれば、かなり手加減(てかげん)したつもりだけれど、殴られた良寛は、一発で気を失ってしまいました。

    又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの湯船の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、浴槽からあがると、倒れている良寛のもとへ行き、
    「あわれな奴。
     せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」
    と、ひとことつぶやくと、「エイッ」と良寛に活(かつ)を入れ、そのまま去って行きました。

    さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、
    「イテテテて。
     後藤又兵衛様では相手が悪かった。
     次には必ず木村殿を仕留めてやる!」

    そのとき、そばにいた同僚の茶坊主が言いました。
    「良寛殿、
     あなたに活を入れて起こしてくださったのは、
     その木村重成様ですぞ」

    これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりません。
    ただの弱虫と思っていたのに、ワシを助けてくれた?なぜじゃ?
    そのときハタと気付いたのです。
    重成殿はワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、城内という場所柄を考え、自分にも、重成殿にも火の粉が架からないよう、アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。
    「そうか。俺は間違っていた。
     木村殿の心のわからなかった。
     ワシが馬鹿だった」
    良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。

    この年、大坂夏の陣のとき、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死しています。

    このお話は、「蠅に金冠」という題目で、神田家の講談話として、昔はたいへんによく知られた物語だったものです。昔、私がまだ高校生くらいだった頃に、この物語を講談で聞いて、大感動した遠い記憶があるのですが、実は、八年ほど前に講談師の神田山緑(かんださんりょく)師匠の口演で、この講談を久しぶりに聴く機会に恵まれました。
    高校生の頃に聴いたときとは、ある程度の人生経験を経てから聴くのとでは、感じるものにも違いがあります。
    久しぶりに聞いた「蝿に金冠」は、たいへん感銘を受ける物語でした。

    この物語は、実は、神田山緑さんのお師匠さんが、生前に、昭和天皇の前で口演された演目であり、また昭和天皇がたいへん愛されたお話でもあります。

    人の上に立つ人、ある程度世間で目立つ人、そして金冠を持つ人は、必ず世間の一部の人から酷評され、あることないこと、言われている本人も知らないようなことまで、言われたり、馬鹿にされたりします。
    このことは世の常で、万人受けする人というのは、まずありえないものです。
    信長を好きだという人が千人いれば、信長だけは大嫌いという人が千人いる。
    世の中というのはそういうものです。

    逆に言えば、嫌いだという人の声が聞こえてこない、好きだ、お気に入りだという声ばかりなら、それは世の中で目立っていないということか、あるいは世間から相手にされていないということです。
    youtubeなら、たとえばブルーノマーズの『Uptown Funk』というミュージック動画は、再生回数が40億回という化け物のような動画ですが、そのような人気動画でも、イイネが1535万件、良くないねは90万件あります。
    世界的に大人気の歌手の動画でも、すくなくとも90万人は、よろしくないのボタンを押下したわけです。

    情報の発信者となった側の人は、どうしても、否定的な意見が気になるものです。
    なぜならそこに、自らを成長させる鍵があると思うからです。
    けれど否定者の中には、心無い意見どころか、心を折ろうとするような意見を寄せる者もいます。
    それどころか、身の危険を及ぼしかねないような、ひどいことを述べる者も、残念なことですが、世の中にはいます。

    そういうときに思い出すのが、この「蠅は金冠を選ばず」です。
    正しいことをしようとするとき、真面目に何かをしようとするとき、蠅たちは言いたい放題です。
    まして影響力があり、責任がある者は、言いたいことの半分も言えないものです。
    一方、攻撃する側は、無責任で、何の影響力もないから、言いたい放題です。

    ウワサは、良いウワサばかりではありませんし、あからさまな中傷や非難、あるいは名誉を毀損する振る舞いは、言われる側にときに重大な影響を及ぼすこともあります。
    昨今の若者の自殺問題も、その裏側にはかなりの部分、ネットでの匿名による中傷があるという話もあります。
    被害を受ける当事者にしてみれば、蠅どころではないかもしれない。
    もちろん、清らかで正しいコメントをいただくことで、自らの襟を正すこともできるわけですから、必ずしも否定的なご意見のすべてが悪いとか、否定すべきということでもありません。
    要するに大切なことは、自分が正しく生きる、いろいろなことをしながら、魂の生長を続けていくということなのではないかと思います。

    昭和天皇は、本当に偉大な天皇であられたと思います。
    昭和天皇の大御心は、もったいなくも私どもには到底図りかねることです。
    ただ、陛下がこの「蝿は金冠を選ばず」の物語を愛されたということは、お察しするに、昭和天皇にとっても心が洗われるお話であられたのであろうと思います。

    また、戦地で勇敢に戦い、散って英霊となられた帝国軍人の皆様も、戦後は、すでにお亡くなりになられていることをいいことに、あらん限りの中傷を浴び続けました。
    やれ赤ん坊を放り投げて銃剣で刺し殺しただの、女性を性奴隷にしただの、本人たちに聞いたら、目をまるくして驚きそうな野蛮人に仕立てられました。
    まるで思いも着かないような蛮行の犯人に仕立て上げられ、馬鹿にされ、中傷され続けていたわけです。
    しかも、すでにお亡くなりになられていて、一切反論もできない。

    それでも「蠅は金冠を選ばず」です。
    誰も見ていなくても、お天道様が見てらっしゃるからと、誠実に生きる。
    他人に悪口を言われたからといって、同じように悪口で返したとしても、相手が変わることはありません。
    上にご紹介した物語の茶坊主の山添良寛は、最後には改心して木村重成のために忠誠を誓っていますが、それは当時の人々の民度が高く、名誉を重んじて行動してた日本人社会であったればの出来事です。
    現代社会では、山添良寛のような改心など、のぞめるはずもありません。
    むしろ蠅を相手にしたら、自分も蠅の仲間入りすることになるだけです。

    日本人はもともと「対立と闘争」の国の住人ではありません。
    全体の中で、自らの分をわきまえて行動し、すこしでも全体のために役立てるよう、ひとりひとりが努力をし続ける。それが日本人です。
    対立と闘争、支配と蹂躙という大陸型の土俵で勝負しよと思っても、日本人は、もともとそういう概念自体が乏しいのですから、同じ土俵では勝ち目はありません。
    むしろ日本人なら、日本的な・・それはひたすら努力を重ねて魂をみがく・・・価値観を大切にしていくことではないかと思います。

    木村重成が、良寛の真似をして、殿中で刃傷沙汰を起こしてしまっていたら、いったいどうなっていたでしょう。
    そうそう、木村重成は、戦(いくさ)のとき、兜(かぶと)に香を薫(た)きしめて、戦場に赴いたそうです。
    戦いに破れ、首を刎ねられたとき、その首が汗臭いのでは、相手の武将に申し訳ないという心がけだったそうです。

    木村重成が討死(うちじに)したとき、敵将の徳川家康は、「大切な国の宝を失った」と涙をこぼしたと伝えられています。
    蠅にわからなかった金冠の値打ちも、敵将の家康にはちゃんと伝わった。
    ちゃんとわかった。
    世の中、そんなものだと思います。

    わかる人にはわかる。わからない人には、永遠にわからない。
    わからなくても、きっと明日は晴れるし、きっとお天道様がまたのぼってくださるのです。
    それを信じて生きてきたのが、日本人です。


    ※この記事は『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』からの引用です。


    日本をまもろう!

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  • 静御前物語


    八百年以上も昔の女性でありながら、いまもなお多くの日本人から愛され続けている静御前。
    義経との愛の日々。
    悲しい吉野のお山での別れ。
    満開の桜の下で行った、たったひとりでの女の戦い。
    彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
    敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せた北条政子。
    頼朝の深い思いを察して、人としての道を貫いた安達清常。
    我が子を信じぬいた実母の磯禅尼。
    静御前の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないのです。

    上村松園『静御前』
    20230523 静御前
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    日本をかっこよく!

    静御前物語

    歴史上の人物で誰が好きかと問われれば、1番にあげさせていただくのが静御前です。
    江戸時代、歴史上の女性で最も愛されたのが静御前、二位が巴御前であったという話もあります。

    よく時代劇などで、大奥のお女中たちなどが、忍び込んだ曲者に気がついて、薙刀を持って頭に鉢巻を絞め、
    「曲者でございます。お出会えそうらえ」
    などといって廊下をバタバタと走る姿などが描かれます。
    武家の娘といえば、まさに薙刀が定番だったわけですが、なぜ、江戸時代の武家の娘さんたちが薙刀を習ったかというと、これまた実は、静御前への憧れからきていたといわれています。

    静御前といえばいまでいうダンサーである白拍子だった人であり、源義経とのロマンスが有名ですが、同時に彼女は当時の世を代表する薙刀の名手でもあったのです。
    武家の女性たちにとって、まさに静御前は永遠の憧れだったし、だからこそ、彼女たちは静御前に倣って、薙刀を学んだのです。
    おそらく静御前は、日本史上もっとも多くの女性から愛され続けた女性であろうと思います。

    実は、この薙刀、たいへん強力な武器です。
    相当腕の立つ剣道の達人でも、女性の扱う薙刀の前に、手も無くやられてしまうことがあります。
    そういう意味では、江戸の武士たちは、もっとも強力な武器をむしろ女性たちに与え、自分たちはそれより弱い、大小二本の刀を腰に差していたともいえるわけです。

    ちなみに大小の刀二本を差したのには、理由があります。
    大刀は、もちろん相手を斬るためです。
    そして小刀は、その責任をとって自らの腹を切るためのものとされていました。
    武士は斬捨御免だったなどと言われますが、実は、人を斬れば、自分も責任をとって腹を切る。それが武士の覚悟というものでした。

    ▼流転の旅と吉野山中の別れ

    静御前は飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせることができた「神に届く舞」を踊れる白拍子として、後白河法皇から「都一」のお墨付きをいただいた女性です。
    この神事のとき、後白河法皇の側にいた源義経は、静御前のあまりの美しさに心を打たれ、その場で御前を妻に娶ることを願い出ました。
    以来二人はずっと寝起きをともにします。
    けれど京の都で雅な生活をする義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝に疎まれ、ついに京を追われてしまいます。
    京を出た義経一行は、尼崎から船に乗って九州を目指すのですが、暴風雨に遭って船が難破してしまい、一行は散り散りになってしまいます。
    嵐の中でも、決して手を離さなかった義経と静御前は、一夜開けて芦屋の里に漂着します。
    九州落ちが不可能となったため、生き残った弁慶や源有綱、堀景光らと一緒に、陸路で大和へと向かいます。
    目指すは奥州平泉です。

    大和の吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。
    そこからは、大峰山の山越え路です。
    ところが問題がありました。
    大峰山は神聖な山で、女人禁制なのです。
    女の身の静御前は立ち入ることができません。
    やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。
    「ここからなら、都もさほど遠くない。
     これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう。
     そなたは都の生まれ。
     必ず戻るから、
     都に帰って待っていておくれ」
    それを聞いた静御前は、
    「私は義経さまの子を身ごもっています」
    と打ちあけます。
    そして「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。
    このときの静御前は、鎧をつけ大薙刀を持っています。
    鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、泣かせる場面です。

    ここでひとこと注釈を挟みます。
    大峰山は、たしかに女人禁制の山です。
    しかし義経一行は、頼朝に追われた逃避行です。いわば緊急避難行動中です。
    たしかに静御前は女性ですが、大峰山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。
    関所があるわけでもありません。
    つまり、女人禁制とはいっても、女性を連れて入ろうとすれば、いくらでも入ることができる状態でもありました。
    人が見ていなければ、見つからなければ、何をやってもいいと考えるのは、昨今の個人主義の弊害です。
    昔の日本では、人が見ていようが見ていまいが、約束事は約束事、決まりは決まりです。

    たとえどんなに愛する女性であっても、たとえ口の堅い部下しかそこにいなかったとしても、誰も見ていなくてもお天道様が見ている。
    そう考え、行動したのがかつての日本人です。
    だから義経は静御前に「都へ帰りなさい」と言ったのだし、御前もその義経の心中が分かるからこそ、禁制を破るより「殺してください」と頼んでいるのです。

    義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている鏡を、そっと差し出しました。
    「静よ、これを私だと思って使っておくれ。
     そして私の前で、もう一度、
     静の舞を見せておくれ」
    愛する人の前で、静御前は別れの舞を舞います。
    目に涙を浮かべいまにも崩れ落ちそうな心で、静御前は美しく舞う。
    それを見ながら涙する義経。名場面です。

     静御前が舞ったときの歌です。

     見るとても 嬉しくもなし ます鏡
     恋しき人の 影を止めねば
    (鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです......)

    義経一行は、雪の吉野山をあとにしました。
    その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。
    一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いています。
    文治元年《一一八五年》十一月のことです。

    この月の十七日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の僧兵たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行いました。
    夜十時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけます。
    そして執行坊に連れてゆき尋問しました。荒ぶる僧兵たちを前にして、静御前はしっかりと顔をあげ、
    「私は九郎判官義経の妻です。
     私たちは、一緒にこの山に来ました。
     しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、
     義経様御一行は、山伏の姿をして
     山を越えて行かれました。
     そのとき数多くの金銀類を私に与え、
     雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
     しかし彼らは財宝を奪い取り、
     深い峰雪の中に、
     私を捨て置いて行ってしまったので、
     このように迷って来たのです」と述べます。

    翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいました。
    一方、静御前は鎌倉へと護送されます。
    鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行き先は知りません。
    知らないから答えようもありません。
    やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女が妊娠五カ月の身重であることを知ります。
    このため出産の日まで、静御前を鎌倉にとどめ置くことになりました。

    ▼敵陣で舞う桜

    年が明けて文治二年四月八日、鎌倉幕府で源頼朝臨席の花見が、鶴岡八幡宮で盛大に執り行われることになりました。
    この日頼朝は、幽閉されていた静御前に、花見の席で舞を舞うことを命じました。
    なにしろ静御前は当代随一の神に通じる舞の名手です。
    けれどそれは静御前からすれば、敵の真っただ中で舞うことになります。できる相談ではありません。

    「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。
     いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、
     わが身の不遇をあれこれ言うことはできません。
     けれど義経様の妻として、
     この舞台に出るのは恥辱です」
    そう言って、八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断ったのです。

    これを聞いた将軍の妻、北条政子は、たいへん残念に思いました。
    新興勢力である鎌倉幕府記念の鶴岡八幡宮での大花見大会なのです。
    「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、
     近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」
    政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるよう頼みます。
    頼朝は「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう指示しました。
    単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するということでは、舞う意味がまったく違います。
    神への奉納となれば、これは神事だからです。
    静御前は神に捧げる舞を舞う白拍子です。
    神事といわれれば断ることができません。

    静御前は着替えを済ませ、舞台に出ました。
    会場は鎌倉の御家人たちで埋め尽くされています。
    静御前は一礼すると、扇をとりました。
    そして舞を舞いはじめました。曲目は、「しんむしょう」という謡曲です。
    歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとりました。
    満員の境内の中に桜が舞います。
    その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。
    素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。

    ただ......、何かものたりないのです。
    心ここにあらずなのです。
    続けて静御前は『君が代』を舞いました。
    けれど舞に、いまひとつ心がこもっていません。
    ちなみに『君が代』を軍国主義の象徴のように思っている方もいらっしゃるようですが、大東亜戦争よりも八百年以上前に、静御前がこうして舞った歌でもあるのです。

    ▼女ひとりで挑んだ戦い

    鶴岡八幡宮では、どこか心の入らない静御前の舞に、場内がざわめきはじめます。
    「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」
    「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?
     それとも静御前が大したことないのか」
    会場は騒然となりました。
    敵の中にたったひとりいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭たちのうなり声のようにさえ聞こえたかもしれません。
    普通なら、足が震えて立つことさえできないほどの舞台なのです。
    その静御前は、二曲を舞い終わり、床に手をついて礼をしたまま、舞台でかたまってしまいました。
    そのまま、じっと動きません。

    「なんだ、どうしたんだ」
    会場のざわめきが大きくなりました。
    それでも静御前は動きません。
    このとき御前は何を思っていたのでしょう。
    遠く、離ればなれになった愛する義経の面影でしょうか。
    このまま殺されるかもしれない我が身のことでしょうか。

    「二度と会うことのできない義経さま。
     もうすぐ殺される我が身なら、
     これが生涯最後の舞になるかもしれない。
     会いたい、会いたい。
     義経さまに、もういちど会いたい......」

    このとき静御前の脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。
    『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。
    「詮ずる所敵の前の舞ぞかし。
     思ふ事を歌はばやと思ひて」
    (どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろう!)

    そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がりました。
    なにが起こるのでしょうか。
    それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきます。
    そして、しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れたとき、静御前が手にした扇を、そっと広げました。
    そして歌いはじめます。

     しづやしづ しづのをだまき 繰り返し
     昔を今に なすよしもがな

     吉野山 峰の白雪 踏み分けて
     入りにし人の 跡ぞ恋しき

    (いつも私を、静、静、苧環の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。幸せだったあのときに戻りたいわ。吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた義経さま。あとに残されたあのときの義経さまの足跡が、いまも愛しくてたまりません......)

    歌いながら、舞う。
    舞いながら歌う。
    美しい。あまりにも美しい。
    場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として声も出なかったといいます。
    その姿は、まさに神そのものが舞っているように見えたとも伝えられています。

    この「しづやしづ」の舞を、静御前が白拍子だったから「賤(しず)」である、などと書いているものもあるけれど、とんでもない話です。
    義経は、静御前を「苧環(おだまき)の花」にたとえているのです。
    映画やドラマなどでは、いろいろな女優さんが静御前を演じ、私たちはその映像を見ます。
    けれど物語は千年前です。
    テレビも映画もありません。
    ですから昔の人は文字だけで何とか美しさを表現しようと、その場面に背景や花を添えてイメージを伝えているのです。

    静御前は、青色の苧環(おだまき)の花にたとえられました。
    背景は満開の桜の花です。薄桃色一色に染まった背景の中で、一輪の苧環の青い花が舞うのです。
    このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。
    「賤」なんて、とんでもありません。

    静御前が舞い終えました。
    扇を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭を垂れました。
    会場は静まり返っています。
    およそ芸能のプロと呼ばれる人には、瞬時にして聴衆の心をぎゅっと摑んでしまう凄味があります。
    なかでも神に通じる当代随一と呼ばれた静御前です。
    しかもその御前が、愛する人を思って舞ったのです。
    どれだけ澄んだ舞だったことでしょう。
    想像するだけで、体が震えるほどの凄味を感じます。
    しかも、舞台は敵の武将たちのど真ん中。そこで静御前は、女一人で戦いを挑んだのです。

    会場には、またもうひとつの緊張がありました。
    源氏の棟梁である源頼朝と、名だたる御家人たちの前で、静御前が敵方の大将であり、逃亡中の義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。

    静寂を破ったのは頼朝でした。
    「ここは鶴岡八幡である。
     その神前で舞う以上、
     鎌倉を讃える歌を舞うべきである。
     にもかかわらず謀叛人である義経を
     恋する歌を歌うとは不届き至極である!」

    このとき、日ごろは冷静すぎるくらいの頼朝が、珍しく怒りをあらわにしたとあります。
    このままでは静御前は、即刻死罪となるかもしれません。
    けれど、これを制したのが頼朝の妻の北条政子でした。
    「将軍様、私には彼女の気持ちがよく分かります。
     私も同じ立場であれば、
     静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
    「ならば」と頼朝は言います。
    「敵将の子を生かしておけば、
     のちに自分の命取りになる。
     そのことは自分が一番よく知っている。
     生まれてくる子が男なら殺せ」

    実は、このとき静御前は妊娠六カ月です。
    お腹の子は、もちろん愛する義経の子です。
    母親となる身にとって、生まれて来る子を殺されることは、自分が殺されるよりつらいことです。
    北条政子は言いました。
    「では、生まれてくる子が女子ならば、
     母子ともに生かしてくださいませ」
    同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。
    頼朝は、これには、
    「ならばそのようにせよ」と言うしかありませんでした。

    ▼千年の時を超えてなお、日本人の心を震わせる物語

    それから四カ月半後の七月二十九日、静御前は男の子を出産しました。
    その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやって来ました。
    お腹を痛めた、愛する人の子です。
    静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに引き渡すことを拒みました。
    武者数名がかりで取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放さなかったといいます。

    数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きました。
    安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。
    そりゃそうです。初産を終えたばかりなのです。体力も限界だったでしょう。
    けれど御前が寝入ったすきに、静御前の母の磯禅尼(いそのぜんに)が赤子を取り上げ、安達清常に渡してしまいます。
    子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて殺し、遺体もそのまま海に流してしまいました。

    目覚めて、子がいないことに気がついた静御前の気持ちはいかばかりだったことでしょう。
    「どうせ殺すなら、私を殺してほしかった」
    気も狂わんばかりとなった御前の悲しみが、まるで手に取るように伝わってきます。

    産褥の期間を終えた静御前は、九月十六日、鎌倉から放逐されることになりました。
    このとき御前を憐(あわ)れんだ北条政子は、たくさんの重宝を御前に渡し、京へと旅出するよう言ったといいます。

    こうして、およそ半年間暮らした鎌倉を、静御前と、その母の磯禅尼(いそのぜんに)は後にします。
    街道を歩く二人に会話はありません。
    この世で最も信頼すべき母は、この世で最も大好きな源義経様の種になる我が子を、殺すためにやってきた安達清常に渡してしまった人なのです。
    この先誰を信じて生きていけばよいのか。
    凍りついた静御前の顔は、このとき、まるで蒼白となった能面のようになっていたことでしょう。
    母を殺して自分も死ぬか。けれど親殺しはこの世で最も重い重罪です。

    乱れる心で街道をたどって、ようやく鎌倉を抜けて峠に差し掛かったとき、そこに馬を降りた安達清常が立っていました。
    安達清常は、静御前母子に真顔で近づきます。
    普通なら、静御前にとって安達清常は憎んでも憎み足りない敵(かたき)です。
    けれど我が子を失い、すでに心が死の淵に行ってしまっている静御前にとって、もはや目の前にいる安達清常は、ただの物体でしかありません。

    その安達清常が言います。
    「静(しづ)殿、お待ちしておりました。
     母君の磯禅尼(いそのぜんに)殿に、
     ほだされましてな。
     『武士が赤子を殺すのか!』というわけです。
     それで委細(いさい)を承知つかまり、
     由比(ゆい)ヶ浜で海に漬(つ)けたことにして、
     こうしてひそかにお育てしてまいりました」

    見れば、安達清常の後ろに立っている女性が赤子を抱いています。
    (生きていれば私の子も、この子くらいだったかもしれない)
    静御前には、まだ事態が飲み込めません。
    安達清常は、女性が抱いている赤子を静御前に抱かせます。
    「ほら。若君ですよ。
     大切にお育てしてまいりました。
     ささ、お顔をよくご覧ください。
     若君、ホラ、母君だよ・・・。」

    腕に抱いた赤子の重み。
    母というのは不思議なものです。
    どんなにたくさんの赤ちゃんがいても、そのなかからひと目で我が子を見つけます。
    このときの静御前もそうでした。

    そのとき、静御前の胸の中ですべてがつながりました。
    母は知っていながら、心を殺してまでしてそのことを自分に黙っていた。
    娘が傷つき、心が死の淵をさまよう状況にまで至っても、それでも母は自分を信じていてくれた。
    鬼と思って憎んでいた安達清常も、こうしてみれば真っ直ぐそうな良いお男です。
    これまで乳母をしてくれていた女性の笑顔。
    にっこり笑った髭面の安達清常。
    母のやさしい笑顔。
    静御前の目から滂沱(ぼうだ)と涙がこぼれ落ちます。

    赤ん坊が生きていたという記述は、『義経記』にはありません。
    ただ、赤子を殺せと命じた頼朝も人の子です。
    弟の赤子を殺したとあれば、死ぬまで後悔が続きます。
    けれど政治の事情で、そのように決断しなければならなかったし、将軍の決断は、そのまま実行に移されなければなりません。

    しかしそこが政治なのです。
    静御前の赤子を取りあげに誰を行かせるか。
    ちゃんと事情を飲み込んで対処できて、しかも口にチャックを締めて誰にも言わずにいれる男。
    だから信頼できる側近の安達清常を静御前のもとに向かわせたのです。

    安達清常は、御家人ではありません。
    御家人というのは、いま風に言えば、領土を持った地元の名士たちです。
    けれど安達清常は、一般の庶民の出で、京の都で元暦年間から頼朝に仕えた、武士階級の出ではない頼朝の側近の「近習(きんじゅう)」です。
    それだけに安達清常は、頼朝の気持ちを察して行動できる信頼できる男でもありました。

    ちなみに安達清常は、その後の時代において「近習」の道を開いた男としても知られています。
    「近習」は、土地持ちの御家人ではありません。
    また単なる「配下」《部下のこと》でもありません。
    上役の考えを「察して、責任を持って、自己の判断で行動できる男」。それが「近習」です。
    そしてそんな近習もまたれっきとした武士であり、土地がなくても才覚と努力で御家人となる道を開いたのが、安達清常であったのです。

    ただ赤子を殺すだけなら、小物を派遣すれば足ります。
    けれど頼朝が、近習の中の近習、最も信頼できる安達清常を派遣したのは、
    「清常ならこの問題をきちんと処理してくれる」
    という期待と信頼が頼朝にあったからです。
    そしてそういう人材こそが、幕府の官吏としてふさわしいとされ、そうであればなおのこと、御家人たちは、さらにもっと深く察して行動できる力量が求められるようになっていったのです。

    ここが他所の国と日本の武士文化の異なる大事なところです。
    命令されたからと言って、何の感情もなく、ただ人を殺せるような痴れ者は、鎌倉武士の中にはひとりもいない。
    そう断言できるだけの武士文化を、頼朝は構築したのです。
    だからこそ、江戸時代に至っても、男子が戦慄する武士の模範的姿は、常に鎌倉武士であったのです。

    「察する」ということを大切にした日本の文化においては、文学であっても時代への配慮を欠かしません。
    ですから物語そのものは「○○と日記に書いておこう」と同じで、いわゆる建前で記述されます。
    しかしそのようなものは、どこかおかしなところがあるもので、前後の経緯や事態の流れから、容易に実際にあった出来事を察することができるように書かれているものです。

    そんなことを言い出すと、間違っていると言われるかもしれません。
    どこにも書いてないよ、と言われるかもしれません。
    なるほどそうでしょう。
    間違っているかどうか、どこかに書いてあるかどうかはとても大切なことです。
    けれど洞察し、見抜くことは、人が生きていく上において、もっと大切なことですし、日本文化の根幹です。
    ここを理解しないで日本文化を語るのは、幼児が大人の社会を語るようなものでしかないのです。

    ▼その後の静御前

    その後の静御前については諸々の伝承があり、はっきりしたことは分かりません。
    北海道乙部町で投身自殺したというもの。由比ヶ浜で入水したというもの。義経を追って奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたって死んだというもの等々、列挙すればきりがないほど、たくさんの物語が存在します。
    もしかしたら、大陸に渡ってチンギス・ハーン《経(ちん)義(ぎす)官(ハーン)》となった義経のもとに、静御前は向かったのかもしれません。

    そういえばなるほど鎌倉を出た後の静御前には、埼玉から福島、岩手、そして大陸との交易で栄えていた新潟に、その後の静御前の足跡が遺(のこ)っています。

    八百年以上も昔の女性でありながら、いまもなお多くの日本人から愛され続けている静御前。
    義経との愛の日々。
    悲しい吉野のお山での別れ。
    満開の桜の下で行った、たったひとりでの女の戦い。
    彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
    敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せた北条政子。
    頼朝の深い思いを察して、人としての道を貫いた安達清常。
    我が子を信じぬいた実母の磯禅尼。

    静御前の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないのです。


    ※この記事は拙著『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』からの引用です。



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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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