• 論と書いて「あげつらふ」


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    幕末の維新の志士たちのみならず、武士はよく泣きました。
    彼らは筋道を立て、道理を重んじ、互いの尊厳を認めあい、互いに高め合おうとする強い意志を共有していたからこそ泣いたのです。
    日本的な「論」、すなわち「あげつらふ」ことを、私達はもういちど見直すべきことだと思います。
    なぜならそれこそが、欧米におけるディベートの精神そのものであるからですし、我が国の十七条憲法の教えでもあるからです。

    20200517 涙
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    十七条憲法の原文には、不思議なことに「論」という字が三度も出てきます。
    以下のとおりです。

    一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於「論」事。則事理自通。何事不成。
    十七曰。夫事不可独断。必與衆宜「論」。少事是輕。不可必衆。唯逮「論」大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。


    要点だけを抜き出すと、
    第一条 
    上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
    事を論(あげつら)ふに諧(かな)うときは
    すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

    第十七条
    必ず衆とともによろしく論(あげつら)ふべし。
    大事を論(あげつら)ふに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。


    漢文では、基本的に同じ文字を繰り返し使うことをきらいます。
    ですから二度、同じ字が繰り返されていれば、それは重要語ということになりますし、それが三度となれば、最重要語ということになります。
    そして十七条憲法では、「論」と書いて「あげつらふ」と読んでいます。

    漢字で書けば議論の「論」ですが、大和言葉は一字一音一義です。
    「あげつらふ」というのは、
    「あ」=生命を感じ取ること
    「け」=放出
    「つ」=集う、集まる
    「ら」=場
    ですから、現代語にすれば、「場に集まってそれぞれの思いを出し合い、それを互いに感じ取ること」を「あげつらふ」というということになります。
    さらに「あげ」は、「言挙げせず」という言葉にもあるように、相手の言葉や思いを「上げる」、すなわち相手の主張を大切に扱うことでもあります。

    また「つら」は「面(つら)」であって、顔の事を言います。
    つまり議論を交わすときには、相手の顔を見て、相手の言葉を尊重してよく相手の思いを聞き取る。
    また自分の意見も、相手の議論を尊重しながらこれを行うということですから、互いに相手の議論を否定し合うのではなく、どこまでもお互いの議論を尊重しあって、よりよいものにこれを昇華していくことが「論(あげつらふ)」ことの意義であると理解していることになります。

    この「あげつらふ」を、
    第一条では「上に立つ人はやわらかく、下の人も互いに仲良く、お互いにその思いを「あげつらふ」。
    第十七条では、「上に立つ人が何かを決めようとするときは、必ず人々と議論を交わしあう。特に大事なことは必ず互いに議論を重ねることで、事理は必ず成し遂げられる」といったことが述べられているわけです。

    よく、日本人は「和」の民族だから、欧米人のような議論を嫌うなどと言われますが、十七条憲法のみならず五箇条の御誓文さえも「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあります。
    全然、議論を嫌っていないのです。
    むしろ論議を交(か)わすことをすることを奨励しているのです。

    欧米では、ディベート(debate)といって、異なる立場からの議論を大切にします。
    このディベートについて、勘違いされている方が多いのですが、ひとつの事柄について、A案、B案と分かれて議論を交わす(ディベート)というのは、互いに相手の議論を否定し合うことではありません。
    ましてや感情的になって罵り合ったり、詰(なじ)りあうことでもなければ、匿名で悪口を言い合うことでもありません。
    そうではなくて、相手の論に自分の論を重ねて行きながら、より高い次元の議論(もしくは解)に至るのがディベートの特徴です。
    ですからディベートにおける最良の結果は、A案、B案のどちらかが相手を論破して勝利することではなく、最終結果としてABのどちらもが有効な学びを得ることであり、さらに場合によってはディベートの結果、C案に至るということも歓迎されるわけです。

    欧米でこうしたディベートが奨励されるようになったのは、やはり市民革命以降のことで、それまでは王や貴族のひとことですべてが決したのに対し、市民革命以降は、市民同士の議論によって意思決定が行われるようになったわけで、そこで自らの意思を集団の中で通すための技術としてディベートが広がったとされます。

    学校の勉強と違って、世の中の事柄には、正解となる結論が決まっていません。
    その正解となる結論を築いていくのが社会人としての仕事であって、そこが学校の試験と大きく異なる点です。
    しかも学校で学ぶことは、過去の知識であり、社会人の仕事は、そうした知識に基づいてこれからの未来を築くことです。
    そうした中にあって、大勢の人たちと力をあわせて新しい未来を築くための技術としてディベートが研究されるようになったのです。

    ですからディベートの語源はフランス語の「戦う」です。
    戦は、必ず敵味方双方に正義があるのです。
    その正義、つまり正論と正論とがぶつかりあって、討論して、よりよい結果を導き出すのがディベートです。

    そして欧米ではそうしたディベートが重要視されるようになった市民革命は、17世紀の英国の革命、18世紀末の米国やフランスの市民革命に端を発します。

    ところが21世紀になったいまでも、チャイナやコリアのような上意下達型社会では、今でも議論は拒否されます。
    なぜなら上意下達型の社会では、無理難題を押し付けた側が議論を挑まれれば、敗北することが明らかだからです。
    それでは上位者の権威がなくなります。

    では日本ではどうかというと、十七条憲法が世に出されたのが西暦604年、つまり7世紀のはじめであって、英国の市民革命に先んじること千年の昔です。
    その十七条憲法は、「憲法(いつくしきのり)、十七条(とおあまりななのち)と読み下します。
    「条」を「ち」と読んでいます。
    この場合の「ち」は、知恵や知識と同じ意味です。
    「いくつしき」は、「齋(いつき)」と同じ大切なことであり真実のこと。
    「のり」は「則」や「糊」と同じで、いちどぴったりくっついたら離れないもの、つまり離れてはいけないものという意です。
    つまり十七条憲法は、十七の万古不易の守らなければならない大切な知恵であり、真実の知識という意味です。

    そしてその十七条憲法は、第一条の論にはじまり、第十七条の論に終わります。
    つまり討論にはじまり、討論に終わっているのです。
    そしてその論は「あげつらふ」ことであり、お互いを尊重して、互いの意見をよく聞き、これによって論の内容を高め合うことなのだと記しています。

    十七条憲法といえば「和を以て貴しとなす」であり、議論するよりも和することを大事にしているような印象操作が行われていますが、もう一度、冒頭の条文をお読みになってください。

    《原文》
    一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於「論」事。則事理自通。何事不成。

    《読み下し文》
    一にいわく。
    和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
    人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
    ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
    しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
    事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは
    すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

    《現代語訳》
    和を大切にしなさい。相手を呪詛(忤)してはいけません。人には誰でも主張があるものです。一方で真理に達している人はすくない。そのために上司や父にしたがわずに争ってみたり、隣村といさかいを起こしたりすることが起こるのです。
    けれども、上に立つものが意図して態度を軟化させ、下の人たちも心を開いて互いに問題を討論していくならば、互いの心の思いは必ず通じるものです。そうなれば、どんな難問だって解決できます。


    あらためてお読みいただくとわかると思いますが、どこにも議論がいけないとは書いていません。
    それどころか文意からすれば、ここで言わんとしていることは、心を開いて「議論しなさい」ということが主題になっています。
    さらに十七条です。

    《原文》
    十七曰 夫事不可独断 必與衆宜論 少事是輕 不可必衆 唯 逮論大事 若疑有失 故 與衆相辨 辞則得理

    《読み下し文》
    十七にいわく
    それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。
    少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。
    ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。
    故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

    《現代語訳》
    (上に立つ者は)物事(ものごと)を独断で決めてはなりません。かならずみんなとよく討論して物事を決めなさい。
    些細な、手軽なことまで討論しなさいと言っているのではありません。そういうことはみんなと決める必要がない。
    しかし大事なことは、必ずみんなと討論して決めるようにしなければなりません。なぜならもしも大事な意思決定に誤りがあっては取り返しがつかないことになるからです。
    そしてこのときのみんなとの討論(議論)にあたっての言葉は、かならず筋道を建てることを大切にしなさい。そうすることによってはじめて道理が立つのです。


    ここでいう「辞(ことば)」というのは、互いの鋭利な議論のことを言います。
    また「ことわり」というのは筋道を立てることです。
    議論がいかに白熱しても、そこで感情的におちいるのではなく、どこまでも筋道を立てることを大切にしていけば、必ず道理がたち、よりよい意思決定をなすことができると述べているわけです。

    つまり、十七条憲法は、心を開いて議論しなさいから始まって、その際には筋道を立てて議論しなさいという言葉でシメているのです。
    どれだけ議論を大切にしてきたかということです。

    昨今では、議論を「人の意見の足を引っ張ること、評論し評価すること」と勘違いしている風潮があると言われています。
    そうではないのです。
    それらは「評価、評論」であって、「議論」ではない。
    たいせつなことは、場に集まってそれぞれの思いを出し合い、相手の言葉や思いを「上げる」、つまり互いに高め合うこと(これを昇華と言います)が大事であり、これこそが十七条憲法の精神なのです。
    「和が大事だから議論してはいけない」などという、軟弱なものなどでは決してないのです。

    幕末の維新の志士たちのみならず、武士はよく泣きました。
    彼らは筋道を立て、道理を重んじ、互いの尊厳を認めあい、互いに高め合おうとする強い意志を共有していたからこそ泣いたのです。
    日本的な「論」、すなわち「あげつらふ」ことを、私達はもういちど見直すべきことだと思います。
    なぜならそれこそが、欧米におけるディベートの精神そのものであるからですし、我が国の十七条憲法の教えでもあるからです。

    そして議論にはルールがあります。
    そのルールとは、あくまで主題について論を戦わせること。
    決して、相手への人格攻撃をしないこと。
    そのこともまた、十七条憲法に書かれていることです。
    それが、
    「忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」です。

    「忤」という字は、呪詛のための道具の象形です。
    つまり、相手を呪ってはいけない。
    呪うといことは、言葉を変えれば、相手への人格攻撃です。

    だから十七条憲法は、
    「人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし」と書いています。
    つい言葉が乱暴になってしまったり、相手への人格攻撃をしてしまうことがある。
    あるいは、人格攻撃されてしまうことがある。
    人間なんて、ある意味、弱いものだからです。

    だからこそ、
    「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
     事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは
     すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」
    なのです。

    これはとても大事なことです。
    けれど残念なことに、戦後の学校では、「十七条憲法には、和をもって貴しとなす」と書かれているとしか教えません。

    日本人が強くなる、かっこよくなるということは、ただいたずらに、仲良くすれば良いということではありません。
    ちゃんと議論できるようになる。
    そういう日本を復活させること。
    それがまさに、日本を取り戻すということなのではないかと思います。


    ※この記事は2020年5月の記事に若干の加筆をしたものです。

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    役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。
    そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。
    これは相当に高い民度がなければ実現不可能なことです。これを実現してきたのが、かつての日本です。

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    責任、ということについて考えてみたいと思います。
    これは2015年から何度か掲載している事柄です。

    清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
    石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、かつては映画やテレビで繰り返し取り上げられ、日本中、知らない人はいないってほとの人物でした。
    ところが残念ながら、こんにちにおいては、若い人に清水次郎長と言っても、知っている人のほうがはるかに少ない。
    メディアの影響とはいえ、残念なことです。

    清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市に生まれた人で、この当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされていて、ならばしっかりとした人に育ててもらわなければならないだろうということになって、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されました。

    清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、その「山本次郎八さんの家の長五郎」が詰まって、次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。
    ところがその養父の次郎八が逝去し、若くして次郎長が甲田家を継いだのが次郎長15歳のとき。
    この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していました。
    甲田屋は、そんな米の輸送業を営むお店で、その後次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまう。

    そこで次郎長は妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊らの弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
    これが凶状旅(きょうじょうたび)と呼ばれるもので、罪を背負った人が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、ということが行われていました。

    江戸時代は、各藩がいわば独立国のような存在でしたから、駿府で犯罪者となっても、国を出れば捕まらない。
    そこで時効が確立するまで、名だたる親分衆のところを全国行脚して男をみがく、といったことが行われたわけです。
    この「犯罪者であっても、自分をみがくことに意義が見いだされていて、それが社会の常識となっていた」という点は、江戸時代における日本の一般庶民を理解する上で、とても大事な要素です。

    これは神話からくる思想で、我が国は宝鏡奉斎といって、鏡は天照大御神から渡された神聖なものです。
    「かがみ」は、「か《見えないちから》」と、「み《身》」との間に「が《我》」が入った言葉です。
    ですから「かがみ」の前で「が《我》」を取り払えば、それが「かみ《神》」になります。
    そして鏡は、ほっておけば曇ります。
    ですから鏡は、常に磨かなければなりません。
    これと同じように、生涯をかけて自分を「みがく」こと、磨き続けることが、とても大切なこととされていたのです。

    まして事情があったとはいえ、凶状持ちとなった身です。
    全国の名だたる親分さんたちをめぐり、教えを請うて、より一層自分をみがく。
    そしてその土地の神社をめぐり、神様とのご縁を深めていく。

    こうした旅は、いわば自分から進んで行う懲役刑のようなものといえます。
    懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。
    そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。
    そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。

    もちろん、悪事を働くことや、ましてや人を殺めることは、決して褒めた話ではないし、してはいけないことです。
    けれど、それをしなければならなくなった自分というものは、もういちど魂を根底から磨き直さなければならない。
    そのためには、お上の手をわずらわせるのではなく、自分から進んで魂みがきの旅に出る、ということが行われていたわけです。

    ちなみに(ここも大切なことなのですが)、凶状持ちの犯罪者は、全国どこの都市でも、長屋(ながや)などに住むことはできませんでした。
    長屋というのは、いまでいうアパートや賃貸マンションのことですが、長屋に入居するためには、誰か身元保証人が必要です。
    しかしそれだけではなく、仮にもし、その長屋から犯罪者が出たり、あるいはその長屋が犯罪者をかくまっていたと知れた場合には、その長屋はお取り潰し、つまり完全撤去されるのみならず、向こう三軒両隣は、以後許可が出るまで、通常の三倍課税、長屋の大家は逮捕遠島、長屋の地主もまた遠島を命ぜられました。
    要するにものすごく厳しい制裁が課せられていたのです。

    ですから清水港で失敗したからといって、安易に江戸や大阪などの大都市に移り住むとかいうことなどまったくできなかったし、だからこそ、親分衆のもとを転々とするしかなかった。
    そしてそのことを逆に利用して、より魂を磨こうとした人たちがいた・・・と、そういう社会文化が人々の間に定着していたのです。

    ひるがえって現代を見るに、果たして庶民の安全は図られているといえるのか。
    犯罪者でさえも、自ら自分を罰し、自ら魂を磨くという考えに至ることが常識となっているといえるのか。
    あまりにも江戸文化、あるいは古くからの日本の文化を、軽くみすぎてきてはいないか。
    いまの日本で、果たして江戸時代のような、自ら懲役を科すこと、およびそのことに民衆が理解を示し、かつ歓迎することは、果たして可能でしょうか。

    日本は、意外にすごい国なのです。
    そんな日本を、もう一度、しっかりと見直してみるということは、とても意義のあることではないかと思います。


    ※この記事は2015年2月の記事のリニューアルです。

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    権力を持つ人が偉い人なのではありません。
    権力に媚びて自己の利益を図ることが社会常識でもありません。
    どこまでも、民衆の仕合(しあわ)せを願って行動することが、政治権力や行政や司法の役割とする。
    そのために、権力よりも上位に天皇という存在を戴(いただ)き、その天皇によって民衆を「至上の宝」としていただく。
    これは、全世界が歴史を通じて築くことができなかった、そして日本だけが築くことができた究極の民主主義です。

    澪標(れいひょう・みをつくし)
    20220505 みをつくし
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    関ヶ原の合戦のときのことです。
    伊勢・伊賀32万石の大名であった藤堂高虎の家臣に、藤堂仁右衛門(とうどうにえもん)という人がいました。
    激しい戦いの中、藤堂仁右衛門が水を飲もうと谷川に降りたところ、敵の大将、大谷吉継の重臣である湯浅五助(ゆあさごすけ)に出会いました。

    勇名で鳴らした湯浅五助です。
    「いざや、尋常に勝負!」と手にした槍を持ちかえました。

    すると湯浅五助、
    「いや、待たれよ」という。「実はいま、主(あるじ)の大谷吉継の首を埋めているところでござる。勝負はするが、貴殿を見込んでお願いがござる。主人の容貌は腐りの病で見るに耐えぬほどになっている。首を晒されたなら天下に醜貌(しゅうぼう)を晒すことになろう。ついては首を埋めたこの場所を、どうか他言しないでもらいたい。我が願いを聞き届けとあらば、よろこんで槍を合わせよう。」というのです。

    主君を思うその気持ちに打たれた藤堂仁右衛門は、「委細承知」と答え、五助が首を埋め終わるのを待ちました。
    そして尋常に勝負し、見事、五助の首をあげました。

    関ヶ原の戦が終わり、大谷吉継の首探しが始まりました。
    ところが、どこをどう探しても、首が見つかりません。
    そこで家康は五助を討った藤堂仁右衛門を呼び出しました。
    「何か手がかりを知っているのではないか。」

    問われた藤堂仁右衛門は、家康に向かって言いました。
    「吉継殿の首の在処は存じております」
    「ではすぐにこれへ持ってまいれ」

    ところが藤堂仁右衛門、首を横に振ります。
    「それはできかねることにござる。
     湯浅五助殿に頼まれたのでござる。
     それゆえ、たとえご上意であっても、
     その場所をお答えすることはできませぬ」

    家康の近習たちは、色をなして怒りました。
    「殿の御前であるぞ。どうしても教えられぬと申すか」
    「たとえご成敗されても、申し上げられませぬ」
    「ならば成敗するぞ」
    「ご随意に」と、藤堂仁右衛門は、首を前に伸ばしました。

    その様子を黙ってじっと見ていた家康は近習に、
    「そこにある槍を持て」と命じました。
    一同に緊張が走りました。

    家康は、槍を手にすると言いました。
    「仁右衛門、その心がけ、いつまでも忘れるなよ」
    そう言って、その槍を藤堂仁右衛門に与えました。

    大谷吉継は、敵の大将です。
    その首を差し出せば、藤堂仁右衛門は大きな恩賞に預かれます。
    さらに勇猛で知られた湯浅五助の首さえもあげているのです。
    損得でいえば、藤堂仁右衛門は死んだ五助に自分が言った言葉を守るよりも、家康に首を差し出した方がはるかに「得」です。
    けれど、損得より、もっと大きなものを大切にしたのです。

    「身を尽くす」という言葉があります。
    かねて古代から大切にされてきた日本の概念です。
    自分のすべてを捧げるのです。

    この言葉が、そのまま海上交通の標識になっています。
    それを「澪標(みおつくし)」といいます。
    「澪標」は、浅瀬を通行する船に水深を知らせる目印の杭です。
    標識の向こう側は浅瀬で、そこを船が通行したら座礁してしまう。そういうところに立てられる標識です。
    大阪市の市標にもなっています。

    「れいひょう」と読めば良いものを、あえて「みをつくし」と読むのは、理由があります。
    船が進んではいけないところに侵入するのは、船が座礁の危険を伴う。
    これは人で言ったら、怪我をする、ということです。
    もしかしたら、それによって死んでしまうかもしれない。

    だから、日頃は、その標識の先には行ってはいけない。
    けれど、行かねばならないときが来たら、命がけでそこを進む。
    だから「澪標」は「身を尽くし」です。
    「澪(みお)」は「れい」とも読みます。
    「れい」は、「霊(れい)」でもあります。
    我が魂を賭けて、命がけで物事に取り組むから「みをつくし」です。

    藤堂仁右衛門は、家康の指揮する東軍の兵としてではなく、約束を守るという一点に命をかけたのです。
    それは、軍の中にあっては、まさに命がけのことでした。
    それでも彼は「みをつくし」たのです。

    こうした心得は、藤堂仁右衛門のような大名に限らず、下級武士たちにとっても、あたりまえに具わっていた観念でしたし、現代日本人にも備わっているものです。
    政治家として当選するためには、よく「地盤・看板・算盤」といいます。
    この3つが揃わなければ、政治家になれない。当選もしない。

    けれど何にもなくても、現状をなんとかして打破したい。
    既得権益にまみれて、国民不在となっている現在の政治を、いまいちど庶民の手に取り戻したい。
    そしてどこまでも、選挙も政策も、しっかりと学んだみんなの総意と合意によって形成していきたい。
    そういう心で、いま立ち上がった人たちがいます。

    これもまた、まさに「みをつくし」です。

    日本は、天皇のシラス国です。
    それは、天皇を絶対権力者として崇(あが)める政治体制ではありません。
    まして、天皇教でもありません。

    国家最高権威として、政治権力を持たず、また政治権力よりも上位の御存在である天皇が、民衆を「おほみたから」とする。
    そうすることで、権力の最大の使命を「民衆が豊かに安全に安心して暮らせるようにする」とした、これは究極の民主主義といえる国家体制です。
    それを日本は、7世紀という、いまから1300年もの昔に実現しています。

    権力を持つ人が偉い人なのではありません。
    権力に媚びて自己の利益を図ることが社会常識でもありません。
    どこまでも、民衆の仕合(しあわ)せを願って行動することが、政治権力や行政や司法の役割とする。
    そのために、権力よりも上位に天皇という存在を戴(いただ)き、その天皇によって民衆を「至上の宝」としていただく。
    これは、全世界が歴史を通じて築くことができなかった、そして日本だけが築くことができた究極の民主主義です。

    こうして保護された日本の庶民は、ただ自分が生き残るために、嘘や虚飾に走るのではなく、みずからの霊(ひ)に恥じない生き方を追求することを大切に生きることができました。
    そして人々がそういう生き方に、まさに「みをつくす」ことができる社会が構築されたことによって、我が国は、きわめて民度の高い社会を築き上げることができたのです。

    藤堂仁右衛門の行動も、これを赦(ゆる)した家康の行動も、ここに原点があります。
    家康の家臣たちにとっては、勝利の確定のために大谷吉継の首は欠かせないものです。
    けれど、組織の頂点にある家康にとっては、ひとりひとりが誇りを持って生きることができる組織そのものが大事なのです。

    これが日本の形の根本です。


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    武と暴力は違います。
    武は、悪を打ち倒すために用いられます。
    そして武が、あくまで世の不条理への戦いを挑もうとするとき、はじめて神々は、武に祝福を与えるのです。

    20220508 大江山酒呑童子
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    武の意義について考えてみたいと思います。

    平安中期、第66代一条天皇の御時に、都で子どもばかりを狙った人さらい事件が度々起こりました。
    そんなあるとき、池田の中納言の一人娘がさらわれてしまいます。
    心配した両親が安倍晴明に占ってもらうと、娘は他の子供たち同様に、大江山の鬼に連れて行かれたといいます。

    鬼たちは、都の西北にある大江山に住み、その大将の赤鬼は酒吞童子(しゅてんどうじ)と呼ばれる身長3メートルの大鬼であると言われていました。
    鬼たちは、さらっていった娘や子たちをさんざんこき使った挙げ句、最後には食べてしまうと噂されています。

    心配した中納言は、天子様のもとにあがると、情況を詳しく申し上げて、子らや娘の無事と一日も早い鬼退治をお願い申し上げました。
    天子様はたいそう気の毒に思召めされ、
    「たれか武士のうちに、大江山の鬼を退治する者はないか」と大臣にお尋ねになられました。すると大臣が
    「源氏の大将の頼光がよろしい」と言う。
    一条天皇も「それが良いであろう」と思召(おぼ)しめられ、源頼光を呼んで大江山の鬼退治をお命じになられました。

    依頼を受けた源頼光は考えました。鬼たちを退治するのに大江山に大軍を繰り出せば、鬼たちは逃げてしまいます。
    そこで頼光は、四天王と呼ばれた配下の渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、坂田公時(さかたのきんとき)と、友人の平井保昌(ひらいのやすまさ)の6人だけで、大江山に向かうと決めます。
    けれど、鬼たちは神通力を使うという。
    そこで神々の助力を得るため、頼光と保昌で男山の岩清水八幡宮へ、綱と公時で住吉明神へ、貞光と季武で熊野権現にお参りをして御加護を祈り、山伏の姿で大江山へ向かいました。

    艱難辛苦を神々の助力によって、ようやく酒吞童子と相まみえた頼光らは、鬼たちに持参した酒を飲ませ、スキを見つけて鎧に着替えると、まずは頼光が酒吞童子を倒して、その首を掻き斬りました。
    すると酒吞童子の首は、眼をカッと見開いて頼光に噛みつこうとしました。
    けれどそのとき、頼光の兜(かぶと)の前立てが光って、鬼が眼をくらませます。
    頼光はすかさず、二太刀、三太刀と刃を浴びせ、ついに酒吞童子を倒します。
    他の鬼たちは、てんでに鉄棒をふるって打ちかかってきましたが、平井保昌と四天王らが果敢に戦って、一匹残らず倒しました。

    こうして鬼を倒した頼光らは、池田の中納言の姫様や、他のさらわれた子たちを助けて、めでたく都に帰ります。
    都の人々はたいそうよろこび、一条天皇からもたくさんのご褒美をいただいきました。
    これが「大江山酒呑童子」の伝説です。

    この鬼退治で源頼光が用いた刀が「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」の名刀で、この日本刀は、現存する日本刀の中でも最上級の「天下五剣」の中にあって、最も古く、最も価値の高い日本刀とされて、現在、国宝となっています。

    「童子切安綱」は、伯耆国(ほうきのくに)の刀工、大原安綱の作の刀で、安綱の最高傑作とされる刀です。
    安綱は、あまりに素晴らしい刀が出来たので、これを征夷大将軍坂上田村麻呂に献上しました。
    坂上田村麻呂もまた、あまりに素晴らしい刀なので、これを伊勢神宮に奉納しました。

    そして後年、源頼光が伊勢神宮に参拝すると、天照大御神からのお告げがあって、この刀がなぜか源頼光に授かるのです。
    これは、天照大御神は、その後に源頼光が鬼退治をすることをあらかじめ知っていて、頼光にこの刀を授けたのだと、言われています。
    そしてこの刀で、源頼光は大江山の酒吞童子を倒したのです。

    「童子切安綱」の切れ味については、こんな逸話があります。
    江戸時代、津山藩の松平家で、この刀の試し切りを行いました。
    すると「童子切安綱」は、積み上げた6体の遺体を一刀のもとに両断したのみならず、さらに遺体の下にあった台座まで、真っ二つに切り裂いたそうです。
    現在「童子切安綱」は、東京国立博物館に所蔵されています。
    観ると、吸い込まれるような美しさのある名刀です。

    大江山酒呑童子の物語は、何が悪であるかを教えるものです。酒吞童子の一味は、女性や子供を誘拐し、拉致し、奴隷として使役していました。それは、子や娘をかどわかされた親に悲しみを与えるものであるし、拉致された子や娘の悲しみです。
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  • 常住坐臥心胆を戦場に置く 可児才蔵と塚原卜伝


    ※次回の倭塾は5月21日(土)13時半から富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
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    試合で一本を取ることが勝つことではない。自らを鍛え、鋼鉄の信念を持し、すべてにおいて準備万端怠りなくし、常住坐臥、常に心胆を戦場に置く。それが武人の心得です。

    20220506 塚原卜伝
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     「勝つ」ということについて考えてみたいと思います。

    戦国時代に、可児才蔵(かにさいぞう)という豪傑がいました。
    宝蔵院流の槍(やり)の名手で、戦(いくさ)の場では、討った敵将の数が多すぎて、首を腰にぶら下げきれない。
    そこで背中にいつも笹(ささ)を背負い、自分が討ち取った敵将の首に、必ず笹の葉を咥(くわ)えさせました。
    そこからついたあだ名が「笹の才蔵(ささのさいぞう)」です。

    ある日のこと、才蔵に試合を申し込む武者が現れました。
    約束の日、相手の武者が試合場である河原で待っていると、笹の指物を背中に指し、甲冑(かっちゅう)で身を固めた才蔵がやってきました。
    さらに才蔵の部下10名が鉄砲を持ち、火縄に火をつけて、後ろに控えました。

    相手の武者は驚いて、
    「これは実戦ではない。試合だ」と抗議しました。すると才蔵は、
    「俺の試合は実戦が全てだ」と笑いながら答えました。

    この時代の試合は、そのまま命のやりとりです。
    ですから試合とは言っても、ほとんど実戦と変わりません。
    違うのは、一対一で行われて、そこに邪魔が入らないくらいです。

    実戦ですと、そうはいきません。強敵と戦っている間に、横から別な敵が打ちかかってくることもあれば、矢が飛んでくることもあります。
    こちらが剣で戦っていても、相手は銃を使うかもしれません。
    結局のところ、試合は試合でしかないのです。

    近年、試合で勝つことが強いことであるかのように思い込む人がいます。
    少し違います。

    たとえば柔道にしても、背負投で一本が決まったとしても、投げた側は、相手が頭部を損傷しないよう、相手が畳に落ちる寸前に相手の頭部を引き上げます。
    剣道でも、あくまで防具を用いるし、使う道具は、当たっても怪我をしにくい竹刀です。レスリングやボクシングでも、試合を行うのは柔らかなマットの敷かれたリングの上ですし、試合中に休憩時間もあれば、相手の男性選手が股間を怪我しないようになどのルールもあり、反則をチェックする審判もいます。

    塚原卜伝といえば、戦国時代の剣豪として有名です。
    鹿島流と香取流の両方を学び、八十三年の生涯で、
    武者修行に全国行脚が三回。
    戦場に三十七回立ち、そのうち二十二回敵と干戈を交えて、すべて勝利しました。
    討ち取った大将首が十二、武者首が十六、斬り倒した相手の数は二百十二人と伝えられます。
    しかもこの間に自分が受けた傷は、ささいな矢傷がわずかに六ヵ所。
    まさに大剣豪と呼べる人物です。

    そんな塚原卜伝に、次のような逸話があります。

    ある日のこと、塚原卜伝が琵琶湖で渡し船に乗っていると、その船中に乗り合わせた若い剣士が、卜伝と知って決闘を挑んできました。
    あまりに腕が違いすぎるので、卜伝がのらりくらりとかわそうとするのですが、血気にはやった若い剣士は卜伝は、そのうち卜伝が臆病風に吹かれているのだと思い込み、卜伝を罵倒してきました。

    このままでは周囲に迷惑がかかってしまうと、卜伝はその剣士に「船を降りて決闘を受ける」と告げ、剣士と二人で小舟に乗り移りました。
    小舟が近くの小島に近づくと、その若い剣士は、水深が足の立つ程になるやいなや、舟を飛び降りて島へと急ぎました。

    すると卜伝、なにくわぬ顔で、櫂(かい)を漕(こ)いで島から離れて行きます。
    取り残されたことに気付いた若い剣士が大声で卜伝を罵倒すると卜伝、
    「わはは、戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」
    と言って、大笑いしながら去って行きました。

    また卜伝は、梶原長門(かじわらのながと)という武芸者と決闘したとき、相手が刃渡り七十五センチの小薙刀(こなぎなた)を使うと知り、自らの得物を八十五cmの太刀に変更することで、間合いの深さでの優位を築き、立ち合いでは一刀のもとに相手を斬り倒したことも有名です。

    試合であっても、命のやり取りともなれば、必ず勝てるよう、あらかじめ準備万端整えておくのです。
    もちろんそれ以前に日頃の鍛錬が必要であることはいうまでもありません。
    けれど実戦では、勝か負けるかは紙一重です。
    本気で殺そうとする相手が来れば、練達者であっても、良くて相打ちともいわれます。
    実戦のスポーツと違う厳しさがそこにあります。

    日本武道は、こうして「勝つ」ということの意義を深めて行きました。
    試合で一本を取ることが勝つことではない。
    自らを鍛え、鋼鉄の信念を持し、すべてにおいて準備万端怠りなくし、常住坐臥、常に心胆を戦場に置く。
    それが武人の心得とされていくようになったのです。

    いまメディアを見ると、つねに自分たちは矢のあたらないところにいながら、ただ批判の毎日です。
    日本武士道は、そういうものを許さずに、一刀両断のもとにたたっ斬る。
    そういう精神性の復活が求められています。


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  • 海戦史を塗り替えた男 吉川潔艦長


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    私達を護るために立派に戦ってくださった方々をしっかり語り継ぐのも、私達日本人の役割だと思います。
    それは戦争を礼賛しているとか軍国主義者だからとか、そういう低次元な話ではなく、もっとも大切な日本人の魂の血脈を受け継ぐことだからです。

    駆逐艦 夕立
    20220505 駆逐艦夕立
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E7%AB%8B_(%E7%99%BD%E9%9C%B2%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
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    水雷艇は、またの名を魚雷艇といいます。
    1870年代に開発されたもので、魚雷を積んで敵の大型戦艦の間を縫って走りまわり、近づいて巨大な破壊力を持つ魚雷を放ちます。
    水雷艇は小さいので、敵戦艦の巨大な主砲もなかなか当たりません。

    これは戦艦戦隊にとって脅威です。
    小型高速艇が巨大戦艦を打ち破る。まさに日本らしい戦法といえますが、こうした戦果を受けて、どうにかして水雷艇をやっつけなければならないという研究が、世界中でなされます。
    そして、ちょこまかと走り回る水雷艇を捕捉し退治するためには、やはりちょこまかと走り回れる水雷艇が良いと考えられ、それまでの水雷艇から、砲力と走行性能を一段と強化した水雷艇が考案されました。
    それが「駆逐艦」です。
    駆逐艦は、英語名をデストロイヤー(Destroyer)といいます。

    駆逐艦に生涯を捧げたのが吉川潔(きっかわきよし)艦長です。
    明治33(1900)年1月の生まれ、広島県広島市の段原町出身です。

    吉川艦長は、「不滅の駆逐艦長」と呼ばれた人で、連合軍が恐れた五人の提督の中のひとりです。
    五人の提督といいますが、吉川艦長だけ、階級が中佐です。
    (戦死され二階級特進で少将の栄誉に輝いています)

    吉川艦長の父は漢学者ですが、もともと吉川家は、戦国時代の猛将・吉川元春の係累なのだそうです。
    吉川艦長は、旧制広陵中学(現広陵高等学校)出身で、広陵といえば、広島商業と並んで、甲子園で有名な学校です。
    いまもプロ野球選手を多数輩出しています。

    広陵を卒業した吉川艦長は海軍兵学校を受験するのですが、身長と胸囲が足らず、不合格になってしまいます。
    彼は、口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げ、翌年海軍兵学校に合格しました。
    海軍兵学校時代の吉川艦長は、同期生のなかで、もっとも背が低く、後年彼は駆逐艦長を務めたときも、戦闘の指揮を執るときは専用の台の上に立ったし、部下を殴るときも、飛びあがって殴ったそうです。

    兵学校での成績も下の方です。
    ところがそんな小柄な吉川艦長は、相撲、柔道、剣道、水泳では抜群の能力を示し、分隊競技では、隊を優勝に導いています。

    最近の学校では、ハンデがあるからと甘やかしたり、競争そのものを否定したりする風潮があるといいますが、そうではなくて、ハンデがあれば、それを克服する強い子に育てるのが、本来の教育なのではないかと思います。
    そもそのハンデというのは、我々が生まれてくるときに、意図してそのハンデを背負って生まれてくるのだそうです。
    これを克服することで、より高貴な魂に今生で成長する。
    そのためにわざわざハンデを選んで生まれてきたのです。
    それをただハンデにつぶされたままにされたのでは、生まれてきた意味がないというものです。

    大正11(1922)年6月、海軍兵学校卒業した吉川艦長は、「長月」の水雷長などを経験した後、「春風」「弥生」「山風」「江風」と4つの駆逐艦長を勤めました。
    そして昭和15(1940)年、40歳になった吉川艦長は中佐に昇格され、駆逐艦「大潮」の艦長になりました。

    艦長としての彼は、恐れを知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄、部下に対する思いやりの深さがあり、しかも艦の中で最年長だった彼は、どんなに苦しい戦いのときでも明るさを失わず、乗員のなかへ入って気軽にはいり、笑いの渦を巻き起こしたといいます。
    彼の艦には「この艦長のためなら」という気風がみなぎりました。

    大東亜戦争開戦後の昭和17年2月、バリ島沖海戦では、吉川艦長の指揮する駆逐艦「大潮」は、僚艦と協力して、巡洋艦3、駆逐艦7からなる米蘭連合軍に4回にわたる戦いをいどみました。
    そしてオランダの駆逐艦ピートハインを砲撃と雷撃で撃沈。
    さらに巡洋艦3隻中破、駆逐艦3隻小破という大金星をあげています。

    この年4月、彼は一時内地に帰還し、駆逐艦「夕立」の艦長に異動となりました。
    8月末「夕立」はソロモン海北西の島を基地に、陸軍一木支隊の兵員をガダルカナル島に上陸させる任務を負いました。
    以来、第三次ソロモン海戦開始までの二か月半、「夕立」はガダルカナル島に18往復しています。
    うだる暑さ、絶え間ない空襲、まとめて2時間と寝ることのできない不眠のなかで、一回に約150人の陸兵と、15~30トンの武器、弾薬、食糧を回送しました。

    輸送任務のとき、軍医長だった永井友二郎中尉が、吉川艦長に聞いたそうです。
    「輸送を何べんやっていても、
     急降下爆撃機に突っ込んでこられると、
     首をすくめてしまいます。
     艦長はこわくないのですか」
    すると髭面の吉川艦長がニヤリと白い歯をみせてこう言いました。
    「そりゃ、俺だってこわいさ」

    「だがなぁ、永井、
     私は対空戦闘や操艦で頭がいっぱいで、
     こわいのを忘れてるんだ。
     軍医長のように、する仕事がなくて、
     ただどうなるか待っているのはこわいはずだ。
     自分の使命感で耐えるほかはないだろう」

    率直に「こわい」と語る吉川艦長の言葉に、永井軍医は心を和ませられたと回想しています。
    そしてその後は任務第一を心がけるように努めたそうです。
    看護長の奥村忠義二等看護兵曹は、吉川艦長からこんなことを言われたそうです。
    「なぁ奥村。
     俺は死んでも代わりがある。
     だがな、お前が死んだら
     だれが病気やけがの面倒をみてくれるんだ?
     奥村、おまえは体に十分注意しろよ」
    これを言われたときは、激しい戦闘中だったそうです。
    奥村兵曹は、この言葉に涙があふれて・・・・。

    バリ島沖海戦では、こんなエピソードがあります。
    撃沈した「ピートハイン」からボートで脱出中の敵乗員10人を、吉川艦長の「大潮」が救助したのです。
    そして彼らを捕虜収容所に送りました。
    1ヵ月ほどして、捕虜の食糧が欠乏していると聞いた吉川艦長は、「そりや大変だ」と言って食糧、菓子、タバコを持って、捕虜たちの慰間をしています。
    このとき吉川艦長が捕虜たちを見る目はとても暖かく、まるで自分の息子に語しかけているように見えたそうです。

    輸送作戦に従事していた9月4日、陸兵をガ島に揚陸したあと、敵飛行場を発見した「夕立」は、これを砲撃し大打撃を与え、さらに敵の駆逐艦二隻を撃沈します。
    このときのことを連合艦隊参謀長宇垣少将は、9月5日の日記にこう書いています。
    「吉川中佐の如き攻撃精神旺盛、
     体力気力抜群の者が武人として
     よく勝ちを収める」


    昭和17年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦が起こりました。
    日本艦隊はルンガ岬に進出しました。
    そこには、カラハン少将率いる米艦隊が待ち伏せしていました。
    「敵艦隊発見!」
    そのままでは、日本艦隊は包囲され、壊滅してしまいます。

    吉川艦長は、僚艦の「春雨」とともに、みずから操縦する駆逐艦「夕立」と2隻で、米艦隊に向けて猛突進を敢行しました。
    米艦隊は、この2隻の駆逐艦との衝突を避けようとパニックに陥いる。
    この隙を見て、日本艦隊は先制砲火を開始します。
    先制砲火を確認した吉川艦長は、艦を反転させると、日本の主隊と交戦を始めた敵艦隊の真っただ中にもぐりこみました。
    そして軽巡洋艦「アトランタ」に魚雷2本を命中させて航行不能に陥らせ、次いで至近距離から旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせました。

    真っ暗ななかでの戦いでした。

    「夕立」は、なんと敵からだけでなく、味方の砲撃まで浴びて航行不能に陥るのだけれど、この戦いにおける駆逐艦の戦いぶりは、世界の海軍史を通観しても、これに匹敵する事例を他に見出せないものとして、いまでの世界中の海軍でケース・スタディとして学ばれているのだそうです。

    吉川艦長の戦歴見ると、全海戦で8隻を撃沈、12隻撃破というめざましいものです。
    しかし彼は、功を誇ることは一切せず、訓練においては、必ずみずから号令を下し、砲戦、水雷戦が自分の意図どおりに行なわれるよう、厳しく部下を訓練行う人であったそうです。

    第三次ソロモン海戦を振り返って部下だった中村悌次さんは、吉川の冷静で果断な指揮を
    「闇夜のなか、
     流れるように口をついて出る的確な号令は、
     まさに自己訓練の賜物だった」
    と語っています。

    第三次ソロモン海戦から帰投した吉川は、海軍兵学校教官への転任を断り、駆逐艦「大波」の艦長を引き受けて、ふたたび激闘のソロモン海へ向かいました。
    ガダルカナル島撤退の後、敵の北進を阻止するため、「大波」はブーゲンビル島北端のブカ島への輸送、補給を行いました。

    目的を果たして帰投中の昭和18年11月24日、最新式レーダーを装備した米駆逐艦に雷撃され、「大波」は大爆発を起こし、数分で乗員もろとも海底に没してしまいました。
    吉川潔艦長は、戦死後、駆逐艦長としてただ一人、二階級特進の栄誉をいただき、少将に任ぜられています。

    よく「明治の軍人は立派だったけれど、昭和の軍人は軍国主義に汚染された鵺(ぬえ)のような存在だった」などという話を聞くことがあります。
    情報の出どころは朝日がバックアップした司馬遼太郎さんだったようですが、司馬遼太郎の作品は好きで、たぶん全部読んだと思うのだけれど、いまにして思えば、朝日が自社の主張を通すためにひとつの才能を利用主義的に利用したものであったような気がします。

    実際のところは、明治の軍人も立派だったし、昭和の軍人もそれに輪をかけて立派だったのです。
    そしてその精神は、いまの自衛隊の皆様にもちゃんと通じているし、目を歴史に転ずれば、いつの時代においても我が国の武人たちは立派な人たちであったし、民衆が豊かに安全に安心して暮らせるようにと、その全力を投じ続けてきたのです。
    なぜならここは、国家最高の御存在である天皇が、民衆を大御宝とする日本だからです。

    そして私達を護るために立派に戦ってくださった方々をしっかり語り継ぐのも、私達日本人の役割だと思います。
    それは戦争を礼賛しているとか軍国主義者だからとか、そういう低次元な話ではなく、もっとも大切な日本人の魂の血脈を受け継ぐことだからです。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。

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    いま起きていることの話をしようと思います。
    けれどそれを理解する前に、ひとつ大切なお話をします。
    前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)です。

     もろともにあはれと思へ山桜
     花よりほかに知る人もなし


    山桜よ、おまえも諸人とともにあわれと思っておくれ。
    (この山奥では)お前以外に知る人もいないのだから。

    行尊は、第六十七代三条天皇の曾孫です。
    12歳で出家して園城寺(おんじょうじ)に入り、このお寺で、後に大僧正(だいそうじょう)にまで栄達しました。

    園城寺は、仏教と神道を融合させた、たいへん修行の厳しいお寺です。
    滝に打たれたり、お堂に篭ったり、山登りしたりと、霊力を得たり高めたり。
    ありとあらゆる荒行が行われます。
    天皇の子に生まれながら、行尊はそんな厳しいお寺で青春時代を過ごしました。

    ところがそのお寺が、行尊26歳のときに全焼してしまいます。
    行尊にとっては、青春のすべてを賭けたお寺が全焼させられてしまったわけです。
    原因は放火でした。
    犯人は個人の特定はありませんが、比叡山延暦寺の荒法師たちです。

    なぜこのようなことになったのかというと、実は延暦寺も園城寺も、ともに天台宗でありながら、互いに不仲だったのです。
    延暦寺はインドからChinaを経由して渡ってきた、いわば正当派の天台仏教です。
    これに対し園城寺は、この天台の教えを我が国古来の神道と融合させようとした宗派です。
    それを理屈理論だけでなく、厳しい修行を通じて会得していくという方法が採られているのが圓城寺です。
    ところがこのことが、延暦寺にはおもしろくない。
    園城寺は邪道だというのです。

    それが言論だけのことならば良いのですが、当時の延暦寺はたくさんの荒ぶる僧兵を抱えています。
    その僧兵たちが調子に乗って園城寺の焼き討ちをしてしまったわけです。

    寺が焼けるということは、寺に備蓄してあった食料も焼けてしまうことを意味します。
    行尊たちは、ただ焼け出されただけではなくて、その日から、着替えもなく、飯も食えない状態になったのです。

    行尊を含む若手の僧たち全員で、近隣に托鉢(たくはつ)に出ました。
    托鉢というのは、各家を周って寄付を募る活動です。
    そして行尊は、托鉢のために吉野から熊野にかけての山道を歩いているときに、山中で一本の山桜を見つけます。
    その山桜は、前年の秋の台風で、風になぎ倒されて折れてしまった山桜でした。

    行尊が、たまたまその知覚を通りがかったとき、すでに折られて生気を失っていたはずのその山桜は、倒れながらも満開の桜を咲かせていたのです。

    『金葉集』(521)には、
    「大峰にて思ひがけず桜の花を見てよめる」と詞書されて、二首が掲載されています。

    ************
    (山桜が)風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを

     折りふせて 後さへ匂ふ 山桜
     あはれ知れらん 人に見せばや

     もろともにあはれと思へ山桜
     花よりほかに知る人もなし
    *************

    深い山中で花を咲かせても、誰の目にもとまらないであろう。
    けれどこの山桜は、嵐で倒れてもなお、あのようにたくさんの美しい花を一生懸命に咲かせている。
    自分たちは、誰も見ていないところで厳しい修行に明け暮れてきた。
    寺は理不尽にも焼き討ちに遭って無くなってしまったが、あの山桜を見習って、焼け野原からまた立ち上がっていこうではないか。

    たった一本の山桜の姿に、心を動かされた行尊は、仲間たちとともに立派に園城寺を再建しました。
    そして厳しい修行を再開し、行尊は優れた法力を身につけて、白河院や待賢門院の病気平癒、物怪調伏などに次々と功績を挙げ、園城寺の権僧正にまで上りました。

    ところが行尊67歳のとき、園城寺は再び延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちにあってしまうのです。
    再び全焼でした。
    若い頃とは、すでに体力が異なります。
    すでに老境にあった行尊は、一門の僧たちとともに托鉢(たくはつ)に出ました。
    そして再び寺を再建しました。

    数々の功績を残した行尊は、僧侶の世界のトップである大僧正の位を授かり、81歳でお亡くなりました。
    亡くなるとき行尊は、ご本尊の阿弥陀如来に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら、目を開け、座したままの姿であの世に召されていきました。
    それはまさに、鬼神のごとき大僧正の気魄でした。

    前大僧正行尊(冷泉為恭による絵)
    前大僧正行尊


    行尊の偉いところは、延暦寺の僧兵たちに焼き討ちに遭ったからといって、報復や復讐を考え行動するのではなく、むしろ自分たちがよりいっそう立派な修験僧になることによって、世間に「まこと」を示そうとしたところにあります。
    誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、山桜のようにただ一途に自分の「まこと」を貫く。精進する。

    そんな行尊の心得が、この歌にしっかりと詠み込まれています。

    人は、生きていれば、耐え難い理不尽に遭うことが必ずあります。
    何もかも失って、生きていても仕方がないとまで思いつめてしまうようなことだってあります。
    けれど、そんなときこそ、
    たとえそんな辛さを知る人が自分一人しかいなかったとしても、
    たとえ、心が折られてしまったとしても、
    1本の山桜だって、花よりほかに知る人もいない。
    幹だって折られてしまっている。
    それでも山桜は、なお、咲く。

    行尊の歌は、そんな、人生の辛いときにこそ、心に沁みる歌なのではないかと思います。

    ネットの時代は、建前上は、誰でも自由に発言することができます。
    そのことを利用して、報酬を渡して中傷や嫌がらせを行う集団もあります。
    それは言葉の暴力です。
    けれど、暴力に暴力で対抗するというのは、すこし違うと思います。

    誰の眼から見ても、中傷や暴力を跳ね返すだけの立派な人間になっていく。
    そのために日々努力を重ねる。
    そこが大事なことだと思います。

    古いやまと言葉では、それを「おほしさ」と言いました。
    「おほし」は、いまでは「雄々し」と書きますが、日本書紀では「意富(おほ)し」です。
    自分の意思を富ませること。
    それが「おほし」です。

    何があっても、どんなことがあっても、おおやけに尽くし、悠久の大義に生きる。
    戦中の軍人さんたちは、まさにそれをやってきました。

    戦争が終わったときには、日本人は世界の最貧国民でした。
    国土は占領され、東京裁判まで開かれ、WGIPによって洗脳工作まで受け、もう二度と日本は立ち上がることができないところまで追い詰められました。
    けれど日本は、みるみるうちに、まずは都市や町といったハードを復興しました。
    そして経済は、復興どころか、発展までしました。

    それは、日本が悪い国だと言っている国や人を批判し非難し中傷したからできたことではありません。
    他所の国から何を言われようが、どのような理不尽な要求をされようが、黙々とまじめにひたすら、「多くの人の幸せのために」全力をあげて国民の一人ひとりが努力し続けてきたからできたことです。

    「もろともにあはれと思へ」だけでは、かわらないのです。
    「花よりほかに知る人もなし」であっても、立ち上がる。
    たったひとりであっても、信念を崩さずにしっかりと生きていく。
    何があってもあきらめずに立派な日本人になれるよう努力し続ける。
    そこが大事なのだよ、と行尊は教えてくれています。

    平成以降の日本は、経済的貧困状態にあると言われています。
    それは、もしかすると結果かもしれません。
    精神が貧困だから、国も貧困になるのです。

    なぜなのか、と考えてみると、戦後の都市の復興、経済の復興といったハード面での復興は、ひとつの段落を過ぎたといえるのです。
    ハードの復興は、精神といったソフトがあるから為し得ることです。
    そしていま、日本は、神々から、その日本人としての精神復興が求められているのではないかと思います。

    何事も心が先です。
    経済は、富の奪い合いですから、常に競争を前提とします。
    けれど、我々日本人は、競争よりも、和を大切にします。

    そうした心の花を、再び咲かせる。
    それは、いまはまだ、山奥の折れた山桜かもしれません。
    それでもくじけない。

    戦前の日本が強かったのは、ただ兵器だけの力ではありません。
    どこまでも戦う。
    いつまでも戦う。
    勝つまで戦い続ける。
    その心が、日本を強い国にし、世界から植民地支配を失くしました。

    いま世界は、ごく一握りの金持ちが、世界中を支配するという状況にあります。
    けれど世界は、一部の大金持ちのためにあるのではありません。
    普通の人が、普通に生きることができる。
    誰もが豊かに安全に安心して生きることができる。
    そういう未来を築くために、実は日本の戦いは、まだ続いています。

    媚びす、怖じず、威勢を張らず、誰もが豊かに安全に安心して生きることができる、そういう世界を築くために、いま日本は、高度成長から、次のステップに入ったのだと思います。

    世界は必ず変わります。
    ある人は、それをミロクの世と言います。

    インターネットのURLは、毎度「www」で始まりますが、「w」を数字に置き換えると「6」です。
    もしかすると「ミロク」とは、「666」であり、「www」なのかもしれません。

    「www」というのは、「World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ)」の略です。
    世界が、一部の支配者によってつながっていた20世紀と異なり、21世紀以後の世界は、誰もがいつでも世界とつながることができる、ネットの世界へとシフトしています。

    そういう新しい世界で求められるのは、一部の支配者ではありません。
    人々に幸せをもたらす人、山中に花を咲かせることができる人です。

    いま世界で起きていることの根幹にあるのは、
    1 事実上の世界政府をつくり、寡頭制で経済世界を支配しようとするグローバリストと、
    2 国や地域ごとの歴史伝統文化を尊重し、人々の安全安心な暮らしを優先しようとするナショナリスト
    との抗争に、通貨抗争が重なったものです。

    前者はわかると思います。
    後者は、ニクソン以来、ただの紙が通貨となり、その信用の裏付けが軍事力となっていたことの修正です。

    これまでは米ドル一極支配で安定していましたが、チャイナ紙幣が暴走したことで、そのカラクリがバレてしまいました。
    さらに米国の軍事力が実質的に低下して、戦うことができない軍になってしまいました。
    これによって、紙通貨の信用の裏付けがなくなり、紙通貨の信頼が失われようとしています。

    結果、信頼できる通貨は金(ゴールド)だけだということで、ゴールドが瀑上げしていますが、ふくらんだ紙紙幣の絶対量は、ゴールドだけではまかなうことができません。
    兌換券による信用創造を行うにしても、ゴールドが足りません。
    それが日月神示にいう「何もかも3分の1になる」の正体ではないかと思っています。

    一方、実はいま世界で流通しているゴールドのおよそ半分に相当するゴールドが、日本の金鉱に眠っています。
    戦後は、世界経済に影響を与えるからということで、米国によってその掘削がきびしく禁止されてきたものです。
    日本が堂々とこれを掘ることができるようになったとき、世界のマネーを制するのは日本になります。

    このようなご時世で、我々一般人にできること。
    それは、勤勉であること。
    批判より、建設ができる人材になることです。

    世は人が織りなすのです。
    人々が、世(4)を齋(いつき・5)、心を無(6)にして、菜(7・食べ物)を家(や・8)で作り、子を育てること。
    ひふみの数詞の言葉です。
    ここでいう「や(8・家)」は、八紘一宇の「宇(いえ)」と同じ意味ですから、誰もが仲良くし、互いに協力しあって、原点に帰って清浄に生きるようにしていく。

    物欲と金欲と傲慢は、この世からなくなることはありません。
    しかし、それだけでは生きられない時代が、もうすぐそこにやってきています。
    新しい世界で求められるのは、一部の支配者ではなく、
    人々に幸せをもたらす人であり国、
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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