• 小さな積み重ねが日本を変える


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    小さな努力が、気がつけば世界最強の軍をつくり、また日本の高度成長を支える原資となった、ということは、あらためて、現代を生きる私達が、考えてみなければならないことであるように思います。
    目の前にある小さなことの積み重ねが、世界を変えるのです。
    このことは、おそらくAIが進歩した未来社会においても、きっと変わることのない真実であろうと思います。

    20210219 農村風景.jpg
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    有名な小噺ですが、
    「タイガー・ウッズが帽子をかぶって得るスポンサー料は、
     一日当たり5万5000ドル。
     その帽子を作る工場労働者の年収の38年分」
    という話があります。

    同様に、
    世界で3人に1人は戦時下に暮らし、
    世界の人口の70%以上は電話を使ったことがなく、
    世界の5人に1人は1日100円未満で生活しています。
    はたして世界は豊かになったのでしょうか。

    世界標準というのなら、世界の家計の年間所得は、日本円で60万円未満です。
    日本にいて、世界をグローバル化したいという人たちがいます。
    彼らは日本人の平均世帯所得を、世界標準にしたいのでしょうか。

    日本国内が、それに近い状態になったことが、かつてありました。
    江戸時代の文化文政年間のことです。
    よく時代劇に出てくる、江戸がまさに江戸そのものであった、そんな時代です。

    当時の日本の人口は2500万人。
    そして江戸の人工が250万人でした。
    つまり人口の10分の1が、江戸に集中していました。

    当時の江戸は、経済的にもたいへんに恵まれたところで、当時の日本のGDPのおよそ5割が江戸に集中していたといわれています。
    このため農村部の疲弊ははなはだしく、農地は次々と担保にとられていきました。
    食べていかれないから、農地を質入れしてお金を得るのです。
    けれど、一時的にお金を得ても、それはすぐに失われてしまう。
    結果、農地さえも手放すことになってしまう。

    質流れで農地を失った農家、あるいは、もう食べて行かれないからと、逃散といって農地を捨てて別な土地に移ってしまう者たちが、世の中にあふれるようになりました。
    江戸の庶民が好景気を満喫する一方で、農村部には深刻な貧困が襲ったのです。



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  • ニギハヤヒとニニギノミコトについての仮定的推論


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    生活の拠点となっていた島々が沈んでしまったことによって、人々は海洋生活から、陸上の稲作を中心とした生活へと変化しようとし、それを実現したのが、もしかすると日本建国の真意であったのかもしれません。
    たいせつなことは、古い日本を捨てることにあるのではなく、古いものの上に、これからの未来を築いていくこと。
    そういうことを大切にできる日本を、いま、私達はあらためて築いていかなければならないのではないでしょうか。

    20210305 グアム島ライン



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    小名木善行です。

    日本書紀によると、天孫降臨は九州にニニギノミコト、畿内にニギハヤヒが、ひとしく天照大御神の孫として降臨し、ニギハヤヒの末裔(まつえい)であるナガスネヒコが、自身の保身を第一と考え、民衆を顧(かえり)みなかったことから、神武天皇がこれを誅殺し、その一族を物部の一族として厚遇したとあります。
    このことはつまり、日本人の原点を構築した一族が、かつては畿内方面と九州方面の二系統に別れていたことを意味しているのかもしれません。
    といいますのは、数千年、あるいは万年の単位で歴史を観るときには、地形も、いまとはまったく違っていたことを考え合わせなければならないと考えられるからです。

    たとえば2万年前の最終氷河期、このときは陸上にたくさんの氷ができて、海面の高さがいまよりも140メートルも低かったといわれています。
    そうするとグーグルマップの航空写真モードで見た時の、海洋の薄い水色の部分は、ことごとく陸上に露出することになります。
    この結果、黄海や東シナ海は、東東亜平野と呼ばれる、広大な平野部となり、またいまでは島が点在しているだけの琉球諸島は、ほぼ陸続きの琉球列島となり、東東亜平野との間には広大な内海が広がっていたことがわかります。
    仮にこれを「琉球ライン」と呼んでみます。

    また、畿内から伊豆、伊豆諸島を経て、パラオ、グアムに至る列島線も、いまよりもずっと島の数が多くて、島々がひとつのラインを形成していたことが伺えます。
    仮にこれを「グアム島ライン」と呼んでみます。

    この「琉球ライン」と「グアム島ライン」は、西パプアからフィリピンを経て島伝いに台湾、そして琉球諸島へとつながる大きな輪を形成しています。
    すると、もしかすると、2万年の昔、フィリピン海を取り巻く大きな輪を持つ、ひとつの大きな海洋文明があったかもしれないということが想像できます。

    「グアム島ライン」に住む人々の暮らしは、まるで映画『モアナと伝説の海』に登場する「ご先祖さま」さながらに、船を使って島から島へと渡り歩く、そんな暮らしだったかもしれません。
    男たちは漁業をし、女達は島で男たちの帰りを待ち、また子を育てる。
    そんな男たちにとって、島にいる女性たちは、島にいる「神」であり、また船をつける「浅瀬に居る比売(ひめ)」たちです。
    だからいつしか、妻のことを「かみさん」と呼ぶ習慣が生まれ、また航海の安全と豊かな自然の恵みを叶える瀬織津比売(せおりつひめ)が、たいせつな神様とされるようになったのかもしれません。

    一方、琉球ラインを見ると、いまの沖縄本島や石垣島などは、海上に点在する島ですが、大昔は陸続きで、いまある島は、山岳地帯だったことが伺えます。
    海面が上昇し、山岳地帯の山のてっぺんだけが、いまでも海上に露出して島になっているわけです。
    そんないまある島と島の間には、もしかすると広大平野がひろがっていたのかもしれません。
    その平野は、たくさんのたべもの、特に稲の生育がなさせる「たからのハラ」と呼ばれていたのかもしれない。
    その「たからのハラ」には、辺り一帯のひとびとの長となる偉大な人がいて、大きな屋敷を持っていた。
    その屋敷は、貝殻のパールで装飾されていたから、太陽の光を浴びると、まるでそこに太陽があるかのように光り輝いた。
    人々は、そんな屋敷と、その主を、「アマの太陽が照らすカミ」と呼んだ・・・・・のかもしれません。

    念の為繰り返し申し上げますが、あくまで、想像ですよ?(笑)

    ところが1万5千年ほど前から6千年前にかけて、地球全体の気温が上昇していきます。
    それまで島だったり、大きな平野だったりしたところが、次第に海に沈んでいく。
    人は陸(おか)がなければ生活できませんから、島が沈むようになれば、まだ海上にあって生活できる大きな島へと移動しなければなりません。
    こうして、「タカラのハラ」の「アマの太陽が照らすカミ」の孫が、ハラにある大切な稲穂を預かって、新天地としての九州に上陸する。

    一方、「グアム島ライン」の人たちもまた島が沈み、本州の畿内にたどり着く。
    一方、琉球諸島のヒル湖あたりにいた人々は、九州の宮崎あたりにたどり着いて、そこで生活をはじめます。
    ところがその人達は、もともと小さな列島暮らしで、漁労が生活の主体ですから、稲作の習慣を持ちません。
    稲作をしようにも、平野部そのものがなかったからです。
    海は常に豊かな恵みを与えてくれましたら、そもそも稲作の必要もなかった。

    ところが、こうして、「漁労+稲作」と、「漁労のみ」という、別々の生活習慣を持つ2つの異なる系統の人達が、日本列島で生活するようになると、衝突が起きます。
    それは、民族間のいわゆる「文明の衝突」というほど大げさなものではなかったのだけれど、やはりどちらかが、その後の日本の形成を担っていかなければならない。

    こうして、神武天皇による東征が行われ、稲作組が日本の支配層となっていった・・・・ということなのかもしれない(笑)
    そしてこの二系統は、その後も源平合戦、あるいは関ヶ原となり、いまでも関東文化と関西文化といった違いとして、存続している・・・・のかもしれない、というわけです。



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  • 黒船来航とペクサン砲


    当時の武士たちにとって、ペクサン砲がもたらす被害がどのようなものになるか。
    それは簡単に予測がつくことです。
    そして予測がついたなら、被害が発生する前に行動をしなければならない。
    それが武士の務めです。
    そのような武士が、庶民から見たときに、慌てふためいて「たった四杯で夜も眠れず」という狂歌になったくらいの衝撃を受けているのだし、それがペリー来航が特別な出来事になった理由です。
    事態が起きてから「たいへんだ、たいへんだ」と騒ぐのではなく、たいへんなことを予測して行動する。いまの日本のメディアとは真逆の姿がそこにあります。

    海軍用ペクサン砲、フランス国立海軍博物館
    ペクサン砲



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    ペリー来航といえば、幕末の黒船来航として、みなさまご承知おきのことと思います。

     太平の眠りを覚ます上喜撰
     たった四杯で夜も眠れず

    の狂歌は、学校の教科書でも紹介され、みなさまご存知のことです。
    黒船が来て、幕府から江戸の市民まで大騒ぎになったことを茶化して詠んだ歌ですが、この狂歌が紹介されるときは、必ず同時に、
    「当時の日本は遅れた国で、
     そこに黒船という強大な文明がやってきたから
     日本人は周章狼狽し。
     幕府もみっともなく慌てふためいた」
    と耳打ちされるわけです。
    何も知らない生徒や視聴者たちは、それでコロリと騙される、というわけです。
    けれど、
    1 ペリーが黒船でやってきたこと、
    2 日本中が大騒ぎになったこと
    は事実(史実)ですが、この「」の中の台詞は、ただの解釈であり、意図的に事実を捻じ曲げたものであり、極めて思想的な煽動性を持つ刷り込みです。

    なかには(どの本かは忘れましたが)、吉田松蔭が黒船に乗り込もうとしたシーンで、松蔭が、
    「私は、なぜあのような鉄の船が海に浮くのかを知りたいのだ。
     彼らの文明とはいかなるものなのか、
     是非、自分をあの船に乗せてもらいたい」
    と、黒船に乗り込もうとして幕府の官吏によって逮捕されたという描写がありました。
    要するに吉田松陰ほどの人物が、「鉄が海に浮くことが信じられない」というのですが、それはおもしろい描写ではあるけれど、ありえないことです。

    なぜって、江戸の昔といわず、もっと古い時代から、日本には鉄製のお鍋や、オカマがあったし、鍋もオカマも水に浮くことは、子供でも知る常識であったからです。
    それにそもそもペリーの座乗した船は木造艦です。

    また、鉄の船というのなら、黒船来航の300年も前に、織田信長が本願寺攻めを行った時に、木造船に鉄板を張った巨大戦艦を建造しています。

    蒸気エンジンに驚いたと書いた本もありましたが、蒸気エンジンが外交上どのような影響をもたらすのかとなると、その技術への驚きはあったかもしれないけれど、そうしたエンジンがあるということは、すでにそれ以前に、オランダから日本はちゃんと情報を入手しています。
    ですので、そのことが幕府を驚かしたということも、実は、あまり説得力を持たないのです。

    では、どうして幕府は、ペリーの黒船に、あれだけ大きな衝撃を受けたのかというと、実は答えは「大砲」にあります。


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  • 頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか


    頼朝が幕府を中央から遠く離れた鎌倉に置いた理由。
    それは、新田の開墾百姓たちにとっての鎌倉の権威の確立によって、流血を防ごうとした。
    それは縄文以来の、流血を嫌う日本人の古くからの知恵に基づくものであったのです。

    伊勢神宮の御稲御倉(みしねのみくら)
    20210221 御稲御倉
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    「頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか」

    この問題を解くにあたっては、いつくかの前提となる事実を思い出しておく必要があります。
    それは、
    1「みやこ」とは何か
    2 源氏とは何か
    3 平家とは何か
    の3つです。

    まず、「みやこ」とは何かです。
    大和言葉で「みや」というのは、大切な場所のことを言います。
    ですから神社などは、みんな「みや」です。
    そして「こ」とは米蔵(こめぐら)のことを言います。
    つまり「みやこ」とは、もともとは「大切な米蔵」を意味した言葉です。

    我が国は、初代神武天皇が橿原(かしはら)に「みやこ」をつくり、そこに全国から持ち寄ったお米を蓄え、天然の災害などで困った地域があったら、そこからお蔵米を放出して、困った人たちを助ける、というところから出発しています。
    いわばクラウド(民衆)ファンディング(資金調達)をお米で行ったようなものです。
    そのためには、中央にいつでも出庫できる大きなお米の貯蔵場(米蔵)が必要です。
    これが「みやこ」の事始めであり、日本建国の原因であり理由です。
    それが紀元前7世紀の出来事です。

    漢字の伝来は、早いもので1世紀、本格的な漢字の日本語への採用は7世紀のことです。
    つまり千年の間があります。

    「都」という漢字のもともとの意味は、「多くの人が集まる場所」という意味です。
    千年という時の経過とともに、もともとは単に米庫を意味した「みやこ」という大和言葉が、次第に天皇の御在所として国の中心となり、多くの人々の集まる経済と文化の中心地となりました。
    そこで「みやこ」という大和言葉に近い意味を持つ漢字の「都」が当てられるようになりました。


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  • 江戸時代の凶状旅と高い民度について


    2月21日(日)13:30から、東京江東区・富岡八幡宮婚儀殿で、第80回倭塾があります。
    みなさまのご参加をお待ちします。→ 
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    懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。
    そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。
    これは相当に高い民度がなければ実現不可能なことです。これを実現してきたのが、かつての日本です。
    いまの日本で、果たしてこれが可能でしょうか。

    20170126 清水一家
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    清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
    石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、かつては映画やテレビで繰り返し取り上げられ、日本中、知らない人はいないってほとの人物でした。
    ところが残念ながら、こんにちにおいては、若い人に清水次郎長と言っても、知っている人のほうがはるかに少ない。
    メディアの影響とはいえ、残念なことです。

    清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市に生まれた人で、この当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされていて、ならばしっかりとした人に育ててもらわなければならないだろうということになって、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されました。

    清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、その「山本次郎八さんの家の長五郎」が詰まって、次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。
    ところがその養父の次郎八が逝去し、若くして次郎長が甲田家を継いだのが次郎長15歳のとき。
    この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していました。
    甲田屋は、そんな米の輸送業を営むお店で、その後次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまう。

    そこで次郎長は妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊らの弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
    これが凶状旅(きょうじょうたび)と呼ばれるもので、罪を背負った人が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、ということが行われていました。

    江戸時代は、各藩がいわば独立国のような存在でしたから、駿府で犯罪者となっても、国を出れば捕まらない。
    そこで時効が確立するまで、名だたる親分衆のところを全国行脚して男をみがく、といったことが行われたわけです。
    この「犯罪者であっても、自分をみがくことに意義が見いだされていて、それが社会の常識となっていた」という点は、江戸時代における日本の一般庶民を理解するうで、とても大事な要素です。


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  • 日本の台湾統治


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     特殊な国が反日になるのは、そこに経済的利益の獲得という目的があるからです。ジャイアンとスネ夫が、お金持ちになったのび太からカツアゲするようなものです。
     おカネが最大の目的になるのは、安全の欲求が満たされないからです。人には下から順に「生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求の五段階があると唱えたのはアメリカの心理学者のアブラハム・マズロー(1908~1970)ですが、国内で常に権力《=暴力》によって脅かされる状態が続くと、人は安全の欲求が満たされませんから、もっぱら人を騙してでも金を得ようとします。そして人生の目的が金だけになり、そのために他人や他国を蹴落としても「騙した方が勝ち」という国柄になります。
     一方台湾は、日本統治時代に、安全が満たされ、自分たちが承認され、自己実現を図ることができることを学びました。このため元からいる台湾の人達は、台湾が安全のための金の亡者となる道を嫌い、いまもなお親日を貫いています。つまり、台湾には知性があるのです。

    ニューヨーク・タイムスの記事(1904年9月25日)
    ニューヨークタイムスの記事



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    小名木善行です。

    1904年のニューヨーク・タイムスの記事をご紹介します。
    この年は日清戦争の勝利によって、日本が台湾の割譲を受けて9年目にあたります。
    そしてこの年の2月には日露戦争が勃発しています。

    日本による統治がいかに素晴らしかったか。
    また、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。
    そして、なぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々が、たいへんわかりやすくまとまっています。

    元記事は、2009年にブログ「台湾は日本の生命線」さんが紹介してくださったものですが、日本語訳について、ねず式で、すこし読みやすくしています。

    ニューヨーク・タイムスの記事
    (1904年9月25日)
    20160125 日本人が変えた未開の島


    ******
    【日本人が変えた未開の島―台湾】
    ~他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々~
    ☆他の植民地主義国家への教訓☆
    ニューヨーク・タイムス(1904年9月25日)

    1904年9月24日、ロンドン。
    本日のニューヨーク・タイムス紙は、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載します。

    どんな事業でも、成功のためには「生来の能力」と「綿密な対応」そして「経験」の三要素が必要です。
    植民地経営も例外ではありません。
    実際、ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗しました。
    どんな事業でも最初の試みは失敗しやすいのです。
    そういう意味において、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深いものがあるといえます。

    日本が最初の植民地とした台湾島には、過去、他の国々が植民地化するうえで、絶対に克服できない困難がありました。
    日本統治前の台湾島は、Chinaやその他様々な国からの無法者が跋扈していました。
    野蛮さや、無法者の人口比率がかなり高いため、台湾島は、何度も侵略されながら、これまで決して植民地化されたことがありませんでした。
    (註:清朝は、台湾のことを「鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女」と蔑んでいました。)

    スペインやオランダも、台湾の植民地化を試みました。
    けれど絶望の内に断念しました。
    Chinaは島を事実上の荒れ地として放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうけれど、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはありませんでした。



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  • 大塩平八郎の檄文


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    先日、大塩平八郎の檄文を倭塾でご紹介したのですが、みなさん、スクリーンに映し出されたその檄文(現代語訳したもの)を、そのまま写メされていました。
    大塩平八郎の檄文は、それほどまでに、現代にそのまま適合する内容だったのです。

    大塩平八郎の檄文
    20200719 大塩平八郎の檄文
    画像出所=https://twitter.com/shishinosenzi/status/923116798496489472/photo/1
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    小名木善行です。

    大塩平八郎といえば、学校で「大塩平八郎の乱」として習う人なので、ご存知の方も多いかと思います。
    天保8(1837)年、彼は大阪で飢饉にあえぐ民衆を救おうと蹶起(けっき)し、破れて自決しています。

    この蹶起の際に、彼は「檄文」をしたためています。
    この檄文は、彼の人柄を示す実に見事な書で、また内容もたいへん立派であることから、彼の死後も書写の手本となって全国に広がりました。
    そして、彼の思想と行動は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らへと受け継がれ、黒船来航という外圧が起こった際に、いっきに全国運動となって幕末動乱から、明治維新へとつながります。

    下に掲載しますが、この檄文の内容は、いまの米国大統領戦にも、まったく同じことがあてはまるでしょうし、また日本の政治にもあてはまることではないかと思います。
    是非、ご一読賜りたいと思います。

    先日、大塩平八郎の檄文を倭塾でご紹介したのですが、みなさん、スクリーンに映し出されたその檄文(現代語訳したもの)を、そのまま写メされていました。
    大塩平八郎の檄文は、それほどまでに、現代にそのまま適合する内容だったのです。

    大塩平八郎の乱は、明治維新の30年前のできごとです。
    檄文、乱、といえば、三島由紀夫の自決が昭和45(1970)年でした。
    はやいもので、あれからもう半世紀が経過しています。
    しかしコロナショックは、いま日本を目覚めさせようとしています。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
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『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
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