• 敬神の詔と大調和の精神


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾2月25日開催(場所:靖国神社内靖国会館2F、靖国神社正式参拝あり)。直会は事前申込が必要です。【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    我が国は、神道と仏教を見事に大調和させていきました。
    後年の歴史において、我が国ではこの詔の後、仏教宗派同士の衝突は起きていますが、神社間の争いはおろか、神社とお寺の対立や闘争は、ひとつも起きていません。どうしてこのようなことを実現できたのでしょうか。


    推古天皇
    20200602 推古天皇



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    どんなことでもそうですけれど、すべてのことの成り立ちには、その理由と歴史があります。
    日本における大調和の精神というものも、はじめからあったわけではなくて、時代ごとに様々な経験をしながら、そのなかで必死に調和の道を模索し続けた結果が現代に至っているものです。
    とりわけ信仰上の対立となると深刻で、まさにいまでもそのために戦争が起きています。

    さらにこの「信仰上の対立」に、「有力者の経済的得喪」が絡んでくると、事態は更に深刻で、国際外交であれば戦争に至るし、国内問題であればほぼ間違いなく内乱になります。
    そして、乱や戦争が起きれば、都度、犠牲になるのは一般庶民の若者たちです。

    元海軍航空隊松本裕昌氏は、次の言葉を著書の『我が予科練の記』で述べられています。
     我々は、今後決して、
     権力者の野望を満たすために、
     若者のエネルギーを、命を、
     奪ってはならないし、
     また奪われてはならない。

    この言葉の通りなのです。
    内乱や戦争のようなものは、その背景に必ずといってよいほど、権力者の損得勘定があります。
    これがなければ、人類史上の戦役の、おそらく99%は防ぐことができたであろうものと思います。

    なかでもとりわけ深刻な、信仰と利害が結びついた古代の紛争を、私達の祖先は、どのようにして乗り越えてきたのでしょうか。

    第30代敏達天皇の即位14年春2月24日のことです。
    この日、蘇我馬子が流行病に倒れました。
    そこで占い師に問うと、
    「父のときに祀った仏を放置した祟り」
    との卦が出ました。

    蘇我氏は大臣(おほおみ)です。
    公人なのですから、結果は天皇にも奏上されました。
    すると天皇は
    「卜者の言葉に従って、
     父の神(=稲目が祀った仏)を祀りなさい」
    と詔(みことのり)されました。

    このときの病は、実は国中に広がって、多くの民が亡くなっていました。
    そのような情況の中で、天皇が「仏を祀れ」と詔されたと聞いた物部守屋大連(おほむらじ)は、3月1日、中臣勝海とともに禁裏にまかりでました。
    そして主上に
    「なにゆえ
     我らの言葉を
     用いないのでしょうか。
     父天皇であられる欽明天皇から、
     陛下(敏達天皇)の時代に至るも
     病が流行して、
     国の民の命が絶たれています。
     それは蘇我臣が
     仏法を興しているからで
     ございます」
    と奏上します。

    天皇は
    「それが明らかならば、
     仏法を止めよ」
    と詔されました。

    こうして3月30日には、物部守屋は自ら寺に詣出て、床几(しょうぎ)に座ると、寺の塔を切り倒し、これに火をつけ、仏像と一緒に焼き払いました。
    さらに焼け残った仏像を取って、難波の堀江に捨ててしまいます。

    この日は雲が無いのに風が吹き、雨が降っていました。
    物部守屋は雨衣を被りながら、蘇我馬子に従う仏僧らを詰問しました。
    さらに蘇我馬子が供えた尼たちを呼び寄せると、彼女たちを牢屋に預けました。
    牢番たちは、尼たちの三衣(さむえ)を奪い、縛り上げて市販の馬を叩く棒で、楚撻(そうち=鞭打)ちました。
    (便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭)

    ところがそうまでしたのに、一向に疫病がおさまる気配はありません。
    蘇我馬子は、
    「これは
     物部氏が
     仏像や仏僧らに
     ひどい仕打ちをしたから、
     仏罰が下ったのだ」
    と言い出します。

    こうして、6世紀の日本は、蘇我氏と物部氏の相克の時代となっていきました。。。。。と、以上は日本書紀にある物語です。

    結局、587年の丁未の乱で物部氏は滅ぼされ、蘇我と物部の対立に決着が付きます。
    ひとつ、偉いと思うことがあります。
    この乱を通じて、物部守屋は、仏像を焼き払うときも、捨てるときも、そして蘇我馬子に屋敷に攻め込まれたときも、常に自分が先頭に立って指揮し、弓を射、常に最前線にあり続けたことです。
    これに対して蘇我の側は、大将は常に戦いの最後尾にありました。

    このことが意味することは重大です。
    なにか大きな衝突が起きたとき、
     衝突を仕掛ける側と仕掛けられる側があれば、
     仕掛けられた方は、たいていの場合、大将自らが先頭に立って戦うし、
     仕掛ける側は、大将は後ろに隠れて前線には出てこないものだということだからです。

    このことは洋の東西を問いません。
    古代ギリシャのレオニダス王は、100万のペルシャ軍に対してテルモピュライの戦いで、まさに先陣を切って果敢に戦い、300人の将兵ともども全滅しました。
    その勇気の戦いは、二千年経った現代においても、西欧では勇気の物語として語り継がれています。
    しかし、レオニダス王の戦いよりも、はるかに深刻な戦いを、我が日本軍はあちこちで展開していました・・・とまあ、そのお話は置いておいて・・・現代でも、さかんに攻撃を受けている政党などがありますが、攻撃されている側は、代表自らがその矢面に立って戦っています。
    一方、攻撃を仕掛ける側に、裏で情報等を提供している人も、攻撃資金を出している人も、決して表舞台には登場してきません。

    さて、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼしますが、それでも仏教と、日本古来の神道との間には、その後も軋轢がきしみ続けます。

    そうした時代下にあって、593年、推古天皇が御即位され、聖徳太子を摂政に親任されました。
    聖徳太子は、翌年2月1日に『三寶興隆の詔(仏教興隆の詔』を推古天皇の御名で発しました。
    「三寶」とは仏法僧のことです。

    「三寶興隆の詔」の具体的文言等は伝わっていません。
    ただ、この詔によって、当時の貴族たちが競って親の恩に報いようと仏舎を造営しました。
    そしてこの仏舎のことを「寺」と呼ぶようになったと記されています。
    (原文=是時、諸臣連等各為君親之恩競造佛舍、即是謂寺焉。)

    聖徳太子もまた、国の寺として、飛鳥寺、法隆寺(斑鳩寺)、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺などを次々に建立していきます。

    こうして仏教の興隆を十分に図ったあと、『三寶興隆の詔』の13年後に、聖徳太子は、
    607年2月『敬神の詔』
    を推古天皇の御名で詔するのです。

    そこには以下のように書かれています。
    「古来わが皇祖の天皇たちが、
     世を治めたもうのに、
     つつしんで厚く神祇を敬われ、
     山川の神々を祀り、
     神々の心を天地に通わせられた。
     これにより陰陽相和し、
     神々のみわざも順調に行われた。
     今わが世においても、
     神祇の祭祀を
     怠ることがあってはならぬ。
     群臣は心をつくして
     よく神祇を拝するように」
    (原文=朕聞之、曩者、我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祗、周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祠神祗、豈有怠乎。故、群臣共為竭心、宜拝神祗。)

    つまり、神々を敬い祀るのは「神々の心を天地に通わせるため(幽通乾坤)」と詔されたのです。
    ここにある「幽」という漢字は、糸が燃えている様子の会意象形文字ですから、そのようなかすかな灯りを頼りに天神地祇とつながるのです。
    かすかな灯りは、たいせつにしないと消えてしまいます。
    そしていつの世においても、庶民の声は、国政の前には常に「かすかな灯り」です。
    つまり「かすかな灯り」を大切にするということは、そのままひとりひとりの民草をたいせつにしていくということでもあるのです。

    道とは、生活習慣のことです。
    ですから生活習慣としての祭祀を「怠ってはならぬ」と述べているのです。
    神々の御心をしっかりと通していく道が、陰陽調和の道であるとされたのです。

    仏教に帰依し、信心することも大切です。
    同時に幽通乾坤のための祭祀も大切です。
    前者は信仰であり、後者は生活習慣です。
    対立する必要はないのです。

    こうして我が国は、神道と仏教を見事に大調和させていきました。
    後年の歴史において、我が国ではこの詔の後、仏教宗派同士の衝突は起きていますが、神社間の争いはおろか、神社とお寺の対立や闘争は、ひとつも起きていません。

    このようにして、我が国は大調和の精神を熟成してきた歴史を持つのです。


    ※この記事は、2023年2月のねずブロ記事を大幅にリニューアルした記事です。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • グアム島物語


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾2月25日開催(場所:靖国神社内靖国会館2F、靖国神社正式参拝あり)。直会は事前申込が必要です。【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    グアムの陥落によって、米軍はグアムに航空基地を設置。日本本土への無差別空爆が始まっています。そしてこの戦いで、日本の守備隊総員2万810名のうち、1万9,135柱英霊の命が失いました。しかしそれでも一部の生き残った兵士はゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行い続けました。


    ラッテ・ストーン (Latte stone)
    ラッテストーン



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    トップの写真はグアムのラッテ・ストーン (Latte stone) です。

    ラッテ・ストーンというのは、グアムなどのあるマリアナ諸島に見られる石柱群です。
    ところがこのラッテ・ストーン、「9世紀から17世紀にかけて作られた古代チャモロ文化の遺跡らしい」という以外、何に使われたのか、どのように使われたのかなど、まったくわかっていません。

    現地の人々は、ラッテ・ストーンには「タオタオモナ」と呼ぶ祖先の霊が宿っているといいます。
    「タオタオモナ」が何者なのかは、謎です。

    けれど、これをローマ字で書くと「tao tao mona」です。
    なんだか「to toi mono(尊いもの)」が転じた言葉のような気がします。
    あるいは「tae nai mono(絶えないもの)」かもしれません。
    絶えないもの、絶やしてはいけない精霊が宿っている。
    あるいは尊いもの、捧げなければいけない尊いものが宿っている等々です。

    日本の縄文文化との関わりを指摘される方もいます。
    縄文人たちは南米までも交易していたというし、古代から海洋交流をさかんに行なっています。
    最新の古代史研究では、どうやら古代倭国は、九州から朝鮮半島南部、琉球、台灣、フィリピンから東南アジア、太平洋から南米まで影響力を持った巨大国家であったとされるようになってきました。

    つまり、大東亜戦争の当時に、日本領となっていたエリア、それは地球の3分の1を占める広大なエリアですけれど、それがまさに先史時代には、倭国とその影響下にある巨大連邦だったという説です。

    チャモロという音自体、もしかすると「to toi mono(尊いもの)」が転じた言葉なのかもしれません。
    なんだか言葉の遊びみたいに思えるかもしれませんが、たとえば中世のインドに「ムガール帝国」という大きな王朝があったことはみなさんご存知と思います。
    「ムガール」というのは、「ムガル」つまり、モンゴルが転じた言葉です。
    日本では、たとえば東北の方ですと、元寇で攻めてきた蒙古のことを「ムグリ」と発音します。これと似たようなものです。

    ひとつの言葉は、それぞれの国や民族の言語に訳されますが、その国の言語によって、いわば「なまり」が生まれ、表記するときに変化します。
    ですから、日本は、ヤマトを「日ノ本」と国号しましたけれど、その「日本」は、中国語の発音だと、「ジツ・ポン」です。
    その「ジツ・ポン」をマルコ・ポーロが自国語に翻訳したとき、これを「ジパング」と訳しました。
    その「ジパング」がヨーロッパ諸国でいろいろに訳されて、英語圏では「JAPAN」となっています。
    つまり「JAPAN」は、「日本」という漢字の音読みなのです。
    ※現代中国語では、日本は「リーペン」と発音します。「ジツ・ポング」と発音したのは14世紀のチャイナです。チャイナは王朝が交替するたびに民族と言語が入れ替わってきた国です。日本語の漢字の音読みが複数あるのはこのためで、呉音、漢音、唐音など、ひとつの漢字に複数の音読みがあります。

    さて、グアムのチャモロ人たちが、ラッテ・ストーンが何に使われたものかわからなくなっているのですが、わからなくなった理由は、16世紀にさかのぼります。
    ある日、スペイン人たちがやってきて、彼らの持っていた文化を徹底的に破壊してしまったのです。
    南米と似ています。
    南米も、インカ帝国は、遺跡はあるけれど、それが何のために築かれたのか、どのような文化がそこにあったのか、いまではまったくわからなくなっています。

    ちなみに近年では、インドネシアのボロブドゥール遺跡に、アウトリガーの付いた外洋帆船と共にラッテ・ストーンと思われる石柱の上に建造物が乗っている壁画が発見され、このことからラッテストーンは、建造物の土台説が有力となっています。

    さて、グアム島を含むマリアナ諸島に人が住みついたのが、紀元前3000年~2000年頃だといわれています。(もっと古いという人たちもいます。)
    マレーシアやフィリピン、インドネシアから、カヌーに乗って移住してきたといわれていますが、確証はありません。
    一方、魏志倭人伝によると日本は黒歯国といって、どうやら南米のエクアドルあたりまで進出していたようですから、縄文人たちが進出していたのかもしれません。
    このあたりはいまとなっては、歴史の闇の彼方のお話です。

    ヨーロッパ人がグアムにやってきたのは1521年のことで、マゼランがヨーロッパ人としてはじめてでした。
    そしてグアム島は、1565年にスペイン人のレガスピがやってきて、島の領有を宣言し、スペインの植民地となりました。

    現地の人とスペイン人との間には、何度となく激しい戦いがあったようです。
    しかし、スペイン統治の333年間に、先住民であるチェモロ人の純血種は絶えてしまいました。
    現在島にいるのはスペイン人との混血だけです。
    そして、チェモロ人たちの文明がどのようなものであったのか、どのような歴史を持っていたの、どのくらいの人口があったのかさえも、いまでは、まったくわからなくなっています。
    チェモロの歴史は、完全に絶えてしまったのです。
    いまのこっているのは、石でできたラッテ・ストーン、ミクロネシアダンス、庶民の生活、恋人岬の伝説、そしてスペインなまりのチェモロ語など、その痕跡しか残っていません。

    植民地になる、他国に占領される、それはそうなることを意味します。
    日本もかつて占領統治を受けました。

    それでも私たちが日本文化をいまだに失わずにいるのは、ABC級戦犯などという汚名を受け、多くの人が殺されながらも、生き残った人たちが日本人であることの誇りを失わず、占領統治下にあっても、武器を言論に置き換え、またなによりも国土の保全と復興のために真剣に真面目に取り組んでくださったおかげです。

    戦争は、銃を手にしてドンパチすることだけが戦争ではありません。
    占領統治も戦争です。

    昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、条約上は戦争が終結しています。
    けれど米軍基地が日本に置かれているということは、日本はいまだ占領統治化にあることを示します。
    つまり日米は、ドンパチをしていない、むしろ協力しているというだけで、政治的行政的にはいまだ占領下、つまり戦争状態にあります。

    占領に流され、日本を見失い、おかしな政治思想に流された人もたくさんいましたが、それでもなお、日本が日本でいられるのは、終戦後も、日本を守るためにたくさんの血を流してまで戦い続けてくださった諸先輩方の凄味のおかげです。決して戦後生れの現代人のおかげではないことに、我々は気づく必要があります。

    さて、グアムを植民地にしていたスペインは、1894年にアメリカと米西戦争を起こしました。
    戦いは米国の勝利となり、グアムはアメリカに割譲されました。

    初代総督の米海軍大佐レアリーは、グアムの英語化を指示しました。
    その内容は、住民が英語でサインができればOKというものでした。
    サイン以外の、住民に対する教育には、アメリカはまるで関心を持ちませんでした。
    ここは大事なポイントです。

    現地の人たちはチェモロ語しか話せないし書けないのに、公用語は英語なのです。
    役所関連の仕事は、英語でなければいっさいできない。
    ところがその英語を教えてくれる人はいない。
    英語教育の制度もない。
    当時の現地の人たちの苦労が偲ばれます。

    一方、1914年にはじまった第一次世界大戦の結果、1919年のパリ講和会議で、日本は、ドイツ領だったミクロネシアと、北マリアナ諸島をドイツに代わって統治することになりました。
    日本統治になることで、ミクロネシア、北マリアナはみるみる発展していきます。

    ここでおかしな現象がおきます。
    大国が勝手に決める国境とは別に、島の人々は、相互に交流しているわけです。
    米国領であるグアムのチャモロ人が、日本領になった近隣の島々を訪問すると、そこで日本統治による発展を目の当たりにするわけです。
    チャモロ人たちが、日本人に対し尊敬と賞賛の気持ちを抱いたのは、当然の帰結だったろうと思います。

    そして、1941年12月8日、日米が開戦となりました。
    日本は、真珠湾攻撃の5時間後、米領グアムへの攻撃を開始し、わずか1日で米軍の軍事施設を陥落させました。そして12月10日には米領グアムの占領を宣言しています。日本軍は、めちゃくちゃ強かったのです。

    日本によるグアム統治は、その後、約2年7か月続きました。
    日本は、グアムを「偉大なる神の居る島」を意味する「大宮島」と改名しました。
    そして学校、医療、道路などの社会的インフラを整備しました。
    同時にチャモロ人に対して、住居・信仰・言論の自由等を保障しました。

    現地での教育は日本語で行いました。
    本当はチャモロ語で教育したいところですが、社会用語や科学技術用語は、全部日本語です。
    ですから現地の社会制度を確立し、技術振興を図るためには、日本語で教育するしかなかったのです。

    国民皆教育制度は、日本統治下の「大宮島」時代になってようやくグアムで確立されました。
    日本語での教育なのですが、島の人々はとても勤勉で、また日本語での教育を受けることをたいへんに喜びました。

    米国統治時代には、名前が英語で書ければ十分だったけれど、日本は、学校を作り、語学、算数、理科、社会をきちんと教育してくれたのです。
    いまでは学校教育を面倒に感じる人も多いかと思いますが、それは戦後教育にある一定の歪みが生まれたためです。
    本当は、知識を得るということは、とても楽しくエキサイティングなことです。

    そのことは、戦前戦中の学校と、いまの学校を比べたら一目瞭然です。
    いまは、学校が徒歩五分のところにあっても、学校に通うことを喜びにしている生徒は、あまりいないようです。
    けれど戦前戦中は、遠い子は毎朝5キロも10キロも歩いて登校したのです。
    雨の日も、雪の日も、です。
    なぜでしょう。
    学校が楽しかったのです。
    そこに志と希望、そして何より知的興奮となる学ぶことの楽しさがあったからです。

    当時を知るチェモロ人たちも、当時の日本語の学校の思い出が、まさに人生の宝だといいます。
    そういうものが、本来の教育というものなのだろうと思います。

    ですからグアムには、いまでも、当時世話になった日本人の名前をもらい、自分の家族名にしている人たちがたくさんいます。
    日本統治時代の教育が、いまでの彼らの誇りなのです。

    ところで、グアムが日本の統治下になるということは、米国にとってグアムは「敵に占領された米国領土」となります。
    米軍は、日本本土攻略のための基点として、そのグアムの奪還と占領を目論みます。

    1944年、米軍は先ず戦艦による艦砲射撃と空母艦載機及び陸上爆撃機(B-29)で、グアムの日本軍施設の爆撃を開始しました。
    予定では6月18日には部隊を上陸させるはずだったのだけれど、日本軍の猛烈な抵抗にあい、上陸開始は、1ヶ月以上も遅れた7月21日です。

    その間、1ヶ月以上にわたり、グアムは艦砲射撃と空爆の嵐に遭いました。
    美しいサンゴの自然が破壊され、山の形さえも変わってしまっています。

    日本守備隊は、米軍の上陸を、水際で食い止めようとしました。
    そのために揚陸中の米軍を重火器で激しく攻撃しました。
    日本守備隊は、20両のLVT(水陸両用装軌車)を破壊したけれど、弾薬の補給が間に合いません。

    島にいた日本軍守備隊の将兵は、18,500名です。
    対する米軍は2個師団55,000人+戦艦+航空機による爆撃という圧倒的戦力です。

    7月28日 早朝から、上陸した米軍は、戦車数十両で日本軍師団司令部のある本田台を包囲しました。
    日本側はこれに対し、対戦車爆弾を抱えて、敵戦車に体当たり攻撃を行いました。
    しかし、機銃や火炎放射機に阻まれ、味方の死傷者がつのり、ついに対戦車爆薬さえ尽きてしまいます。

    それでも日本の将兵たちは、手榴弾による悲壮な攻撃をしかけました。
    戦車に手榴弾は通用しません。
    では何をしたのかというと、敵戦車に乗り込み、天井の蓋を開けて、中に手榴弾を放り込んだのです。
    完全防備で、しかも周囲を米兵で固める戦車には、近づくことさえ容易なことではありません。
    それを近づき、戦車の上に乗り込み、手榴弾を放り込むのです。
    あまりにもすさまじい鬼気迫る戦いです。

    この悲痛な状況の下、高品彪(たかしなたけし)中将は、全島で3000名以上の生存者があることを考え、戦車の重囲から脱出し北方での再起を決意しました。

    高品彪(たかしなたけし)中将
    高品彪中将


    午後2時、高品師団長は、敵の機関銃弾を受け、壮烈な戦死を遂げられました。
    7月29日、日本軍の残存兵力は、陸軍約1000名、陸戦隊約800名、戦車部隊、砲6門、その他約2500名となりました。
    この時点で、もはや日本軍には、陸海軍の区別も、第1線と後方の区別もありません。
    その中で、まだ戦える者全員が又木山(マタグアック)に集結しました。

    全員が負傷兵です。指のない者、腕のない者、足のない者、片眼がつぶれている者もいました。
    残された戦いの手段は、敵戦車、敵機関砲に対し、銃剣突撃だけです。銃はあっても弾がありません。

    8月9日、早朝から約50両の米戦車が、一斉に最後の日本軍陣地である又木山への攻撃を開始してきました。
    8月10日、残った日本兵は、みなで話し合って、翌11日を期して最後の攻撃を敢行することを決めました。
    午後8時、小畑英良中将が天皇陛下並びに大本営に対し「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打ちました。

    そして、8月11日午後2時35分、 又木山に集結した日本軍残存兵力の約60名が、小畑中将とともに自決されました。
    8月13日、米国はグアム全島の占領をラジオで発表しました。

    グアムの陥落によって、米軍はグアムに航空基地を設置。日本本土への無差別空爆が始まっています。
    そしてこの戦いで、日本の守備隊総員2万810名のうち、1万9,135柱英霊の命が失われました。
    しかしそれでも一部の生き残った兵士はゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行い続けました。
    ナイフしかない、食べ物も、水もない。そんな状況下で、亡くなった将兵の武器や弾薬を集め、ジャングルに隠れながら戦い続けました。

    そのなかのひとりに、若き日の横井庄一伍長がいました。
    彼は、1972年(昭和47年)まで、グアム島内に潜伏しました。味方が再来するときを信じて、たったひとりでグアムで戦い続けました。
    その横井庄一氏の帰国の際の第一声は「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」というものでした。

    横井さんは、日本に帰国後、どうして日本は負けたのかの質問に、こう答えられました。
    「武器がなかったからです。精神は勝っていた」

    グアムは、いまは、アメリカ領土です。
    しかしグアムは、米国の「未編入領土(Unincorporated Territory)」とされています。
    グアムは、グアム議会の決議より、米国合衆国憲法が優先され、住民は合衆国政府が定めた納税義務を負っているのですが、そうであるにもかかわらず、グアムの人々には、大統領選挙に参加する資格は与えられていません。

    要するに「未編入領土」というのは、植民地の言い換えです。
    つまり、グアムはいまだに米国の植民地です。
    そして全島の3分の2が、米軍基地です。

    現在、グアム島の人々の経済は、米軍基地を中心に成り立っています。
    けれど本当は、日本に戻りたいのだそうです。
    解決の方法ですか?
    ただひとつです。
    それは日本が米軍基地を買い取って、人も装備もそのままに日本軍基地にすることです。



    ※この記事は2015年2月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾2月25日開催(場所:靖国神社内靖国会館2F、靖国神社正式参拝あり)。直会は事前申込が必要です。【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    むすび大学【初】リアル講座2月23日開催【詳細】https://nezu3344.com/blog-entry-5863.html
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    頼朝が幕府を中央から遠く離れた鎌倉に置いた理由。それは、新田の開墾百姓たちにとっての最高権威の確立によって、流血を防ごうとしたからです。この意識は、縄文以来の流血を嫌う日本人の古くからの知恵に基づくものです。これはすごいことです。


    20210221 御稲御倉
    画像出所=https://twitter.com/hashtag/%E5%BE%A1%E7%A8%B2%E5%BE%A1%E5%80%89
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    トップの写真は、伊勢神宮の御稲御倉(みしねのみくら)です。
    お伊勢様では、古来このお蔵にお米を貯蔵してきました。

    さて本日、まずはじめに申し上げたいことは「社会科と歴史学は違う」ということです。

    戦後、GHQは、教育指令によって日本での歴史教育を禁止しました。
    その禁止された状態で、日本の国会議員が中心となって、なんとか日本の子どもたちに歴史教育の片鱗でもいいから復活させたいと願い、復活したのが「社会科の中の歴史的分野」としての日本史であり世界史です。

    社会科というのは、あくまで社会常識として知っておくべき知識を与える教科です。
    ですから「鎌倉幕府は1192年にできました」、以上おしまいです。
    それだけでもいいから歴史教育を復活させようとしてくださった終戦直後の政治家の先生方の努力は、素晴らしものがあります。
    けれど、昭和27年に主権を回復した後の日本が、2024年の現代においてもなお、歴史教育を社会科のままにしておいたことは、完全な政治の怠慢です。

    社会科と歴史学は違います。
    歴史学であれば、事実に基づき、なぜ幕府が鎌倉に置かれたのかを、論理的に考えさせることが授業の主題です。
    考えることが主題ですから、ここに正解はありません。
    事実に基づいて自分の頭で考えること。
    その考える力を過去の歴史を通して養うのが、歴史の授業です。

    講演などでは、よく「頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのかの理由を述べよ」といったお話をさせていただいています。
    頼朝が鎌倉に幕府を開いたことは、数々の証拠のある事実です。
    けれど「どうして頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか」を説明する史料は、ありません。
    ないなら、自分の頭で考えなければならない。
    ということで、以下は、ひとつの考察です。

     *

    「頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか」
    この問題を解くにあたっては、いつくかの前提となる事実を思い出しておく必要があります。
    それは、
    1「みやこ」とは何か
    2 源氏とは何か
    3 平家とは何か
    の3つです。

    まず、「みやこ」です。
    大和言葉で「みや」というのは、大切な建物のことを言います。
    ですから神社などは、みんな「みや」です。
    そして「こ」は米蔵(こめぐら)のことを言います。
    つまり「みやこ」とは、もともとは「大切な米蔵」を意味した言葉です。

    我が国は、初代神武天皇が橿原(かしはら)に「みやこ」をつくり、そこに全国から持ち寄ったお米を蓄え、天然の災害などで困った地域があったら、そこからお蔵米を放出して、困った人たちを助ける、というところから出発しています。
    いわばクラウド(民衆)ファンディング(資金調達)をお米で行ったようなものです。
    そのためには、中央にいつでも出庫できる大きなお米の貯蔵場(米蔵)が必要です。
    これが「みやこ」の語源であり、事始めであり、日本建国の理由です。
    それが紀元前7世紀の出来事です。

    我が国における漢字の本格的な利用開始は、その千年後の7世紀のことです。

    このとき「みやこ」という大和言葉には、「都」という漢字が当てられました。
    「都」は「多くの人が集まる場所」という意味の漢字です。
    長い歴史のなかで、もともとは神武天皇が開かれた米蔵が、次第に天皇の御在所として国の中心となり、多くの人々の集まる経済と文化の中心地となりました。
    そこに多くの人々が集まり、住みました。
    そこで「みやこ」に「都」の字が当てられるようになったのです。

    漢字には音読みと訓読みがありますが、先に大和言葉が言語として確立され定着していたから、漢字に訓読みがあるのです。その逆はありません。
    ちなみに東アジアには、漢字を用いる国は多々ありますが、漢字に「訓読み」を持っているのは日本だけです。

    次に、源氏と平家は、いずれも新田の開墾百姓であり、そこから生まれた自警団が組織化されていった集団です。
    墾田永年私財法などによって、新しく開いた田んぼは、私有地にしても良いとされるようになり、これが我が国の食糧生産高の上昇や文化の向上につながるのですが、私有田は貴族の荘園ではありませんから、土地の境界争いや、利水権などの紛争に際して、貴族に調停を依頼することができません。
    税を払っていないのだから、紛争が起きても知らないよ、というわけです。

    そこで新田の開墾百姓たちが選んだ紛争の解決法が、武力を持つと同時に、武力衝突ではなく、天皇の血筋に基づく「権威による裁定」という道でした。
    これは戦って武力で利害を確定させるのではなく、どこまでも話し合いで利害を確定させようとする、実に日本的な裁定方法であるといえます。
    そしてこれを実現するために、天皇の血筋が持つ「権威」が活用されたのです。

    権威が確立していないと、武力による解決しか他に方法がなくなります。
    すると紛争の都度、流血騒動となり、敗れた側には恨みが残り、奪われた土地を取り戻すために、再び争いが起こることになります。
    西洋やチャイナにおいて、絶えず流血紛争が続いたのはこのためです。

    また、紛争のための武力衝突には、多くの若者が参加します。
    勝っても負けても、激しい戦いを生き残った若者たちは、親しかった友や、尊敬していた先輩、可愛がっていた後輩たちが死んだのに、どうして自分だけが生き残ったのかというストレスを抱えることになります。
    そして、そうした若者たちが戦乱の後に、命を粗末にして無茶な行動を取ることになります。
    戦国時代の傾奇者(かぶきもの)、昭和の戦後の愚連隊などが、そうしたものの典型ですし、同じことはベトナム戦争やアフガン紛争後の米国にも起きています。

    知的教養の足りないエリアでは、過去の歴史において、そうして生き残った者たちが、武闘派勢力となって各地を荒らし回り、殺された多数の遺体が放置されることによって、遺体に湧いた蛆から伝染病が媒介され、人口の6〜8割が死滅するといった事態が起きています。
    こうして過去が全部精算され、これにより過去の経験から来る知恵が失われ、伝統的権威が消滅し、力(ちから)だけが正義だという社会が構築されます。
    以後、この繰り返しになってきたのが世界の歴史です。

    一方、伝統的権威が確立され、これが歴史を通じて保持されていると、「古いことが正しいこと」、すなわち「正義」となります。
    「伝統的権威」イコール「正義」となるのです。
    何が正しくて、何が間違っているのか。
    そのことが、伝統的権威によって、陰に陽に示されるからです。
    そして伝統的権威を大切にするということが、同時に正義を大切にすることになりますから、紛争が起きたときに、その解決に際して、権威によって流血騒動を避けることができるようになるのです。
    ここ、とても大切なところです。

    我が国は、古来、そうした伝統的権威が確立されていましたから、私田における紛争も、力による解決、つまり流血騒動に頼らなくても、権威ある人による調停によって紛争を解決することができました。
    そこで、第50代の桓武(かんむ)天皇、第56代清和(せいわ)天皇の直系の子孫を、棟梁としてみんなで担ぎ上げ、その権威によって、紛争を(流血騒動を回避して)解決するということが行われるようになったのです。
    こうして生まれたのが、平氏であり、源氏です。

    たとえていうなら、これは最高裁判所を、東西に二つ設けたようなものです。
    大阪最高裁と、東京最高裁があり、人々は紛争の最終的解決を、そのどちらかに判断、判定してもらうわけです。
    ただ一点、最高裁と異なるのは、源氏と平氏は、いずれも強力な武力を背景にしたという点です。
    裁定というのは、決定したことに従わせる「力」が不可欠なのです。
    世の中には、裁定に従わないろくでなしがいるのです。これは現実です。

    主に西国を中心に担がれて勢力を持った平氏は、瀬戸内水軍との関係を強化することで、入宋交易による富を支配下に置くことになりました。
    この交易がどれほど儲かったかは、いまでも七福神の乗った宝船が、富と幸せの象徴となっていることでも明らかです。何しろ一回の交易で、財産が400倍に増えたのです。

    こうして平氏は、土地と富の両方を得ることになります。
    そして保元の乱、平治の乱を経由して朝廷内で力を持つようになり、ついには天才政治家であった平清盛の時代に、天皇のもとでの国家最高権力者としての頂点を極め、武士として初めての従一位の太政大臣に任ぜられることになります。

    平清盛は、朝廷内にその政治基盤を築きました。
    そうすることで、朝廷の米蔵と、平家の米蔵を、一体化する道を選んだわけです。
    これは、「貴族の荘園」と、「武士の新田」が、一体化して平家のもとで管理されることになったことを意味します。

    土地の境界や、利水権の問題は、農家としては生命につながる大問題です。
    たとえ1ミリだって、オラがさ土地はオラのものというのが、土地に生きる者の執着です。
    そしてそうした紛争解決のための最高権力者が、武士の出である清盛になったわけです。

    残念なことに清盛は、桓武天皇を祖先に持つとはいっても、あくまで武士の棟梁です。
    武力とカネは持っていても、古くからの貴族の前では、伝統的権威がありません。
    ですから清盛の裁決が、貴族の側に不利なものであれば、清盛は貴族に恨まれることになります。
    逆に武士の側に不利な裁決があれば、武士団から恨まれることになります。

    つまり、いくら桓武天皇を祖先に持つといっても、あくまで新興勢力である武士の棟梁である以上、傘下の新興武士団からみたら伝統的権威が認められるものであっても、貴族たちや、別な権威を信奉する武士団からしたら、どこまでもただの新興勢力でしかないのです。
    つまり、力があっても平氏は正義として認められなかったのです。

    ここ、とっても大事なところです。

    力は、武力、財力、情報力の三つの要素によって成り立ちます。
    これによって物事を「ゴリ押し」することができ、相手を屈服させることが可能です。
    つまり「力」とは、「相手を屈服させる力」です。

    正義は、ゴリ押しにさえもゆるがない権威です。
    そして何が正しいかは、その国の長い歴史伝統文化によって一般常識として共有されている価値観に基づきます。
    つまり正義は、その国で共有された価値観であり、その国の歴史伝統文化によってもたらされます。
    つまり、古いことが価値を持つのです。

    いくら平氏が桓武天皇以来の家柄であるとはいっても、多くの貴族たちは、それよりもっとずっと古い歴史を持つ存在です。
    たとえ清盛が、政治の頂点である太政大臣になったとしても、太政大臣というポストから生じる「権力」を持っていても、古い家柄である貴族たちからは、「権威」が認められないのです。
    そして権威が認められないということは、清盛の判断と行動が、正義として認められないということを意味します。
    何をしても、ただの力の発露だとみなされるわけです。

    もしここまでの説明がわかりにくいようなら、小学校卒で内閣総理大臣になった田中角栄氏を思い浮かべていただければ良いかと思います。
    田中角栄氏は、豊富な財力と巧みな弁舌で政界に一大勢力を築きました。
    政治的にも決断力に富み、もし2年半に終わった田中角栄政権が、あと6年続いていたら、おそらく日本は憲法を変え、日本の独立を果たし、軍事的にも経済的にも米国に並ぶ世界の二大巨頭になったかもしれません。
    (1970年代にそれを実現していたら、間違いなく日本は再び米国と敵対関係になったかもしれない。そのことは、また別な話です)

    それほどまでの実力者であった田中角栄ですが、足元である自民党の、いわゆる官僚派と呼ばれる議員さんたちからは、蛇蝎のごとく嫌われていました。
    官僚派の政治家というのは、明治以降続く、伝統的権威を背景に持ちます。
    大蔵官僚(いまの財務省)に至っては、飛鳥奈良平安の律令時代から続く歴史的伝統的価値観があります。

    つまり伝統的価値観に立脚した正義感を持つわけです。
    そしてその正義感からすると、まるでブルドーザーのように現状を力任せに変更していく田中角栄氏は、単なる政治権力の発露者でしかないのです。

    『伝統的権威に立脚する価値観、正義感というものは、それほどまでに深くて重いものである』ということを、ここで是非、ご理解いただきたいと思います。

    話を戻します。
    保元・平治の乱で中央での政争に敗れた源氏は、その基盤であった関東を中心に、あらためて武闘派としての基盤を築きます。
    そして平家を追討すると、鎌倉に、武士たちのためだけの米蔵、つまり武士団専用の「みや・こ」を置きました。
    つまり、武士団の米庫を、京の都の朝廷と、武士団のための鎌倉の米庫に分離したのです。
    こうすることで、あくまで新田の開墾百姓たちに関する調停は、あくまで新田の開墾百姓たちで行う。
    そしてそのための最終解決は、鎌倉で裁定する、としたわけです。
    これが「御恩と奉公」の基盤となる仕組みです。

    なぜこのようなことをしたのかというと、
    >朝廷の貴族たちの荘園の紛争は貴族たちで、
    >武士団の新田の紛争は鎌倉で、
    最終的な解決が図るようにした、ということです。
    つまり、新田の紛争は新田側で解決し、そこに貴族や朝廷からの干渉がないようにしたわけです。

    そしてそのために源頼朝は、正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍という要職にありながら、むしろ征夷大将軍であるということを逆手にとって、京の都から遠く離れた源氏の基盤である関東に、征夷大将軍のための出張所としての「幕府」を置いたわけです。

    新田の開墾百姓である武士たちにとって、源頼朝は、唯一の確認された清和天皇の末裔であり、武士たちにとっては、完全に完璧な武士団における最高権威です。
    つまり武士たちにとっては、源頼朝の判断こそが、正義(権威に裏打ちされた正義)となり得るのです。

    こうすることで鎌倉幕府が、武士団にとっての国家最高権威となることができます。
    そしてひとたび権威が確立すれば、以後の紛争の解決に、血を流さずに済みます。

    頼朝が幕府を中央から遠く離れた鎌倉に置いた理由。
    それは、新田の開墾百姓たちにとっての最高権威の確立によって、流血を防ごうとした。
    それは縄文以来の、流血を嫌う日本人の古くからの知恵に基づくものであったのです。
    これはすごいことです。

    少し補足します。
    源平合戦は、源氏と平氏の戦いというように思われていますが、実はもうすこし複雑です。
    たとえば、源頼朝に従った平氏として、北条時政、土肥実平、熊谷直実、畠山重忠、梶原景時、三浦義澄、千葉常胤、上総広常などがいます。
    また、平宗盛に従った源氏には、新田義重、佐竹秀義、源季貞などがいます。
    つまり歴史的事実は、源氏と平氏が戦ったのではなく、むしろ平家一門が源氏の棟梁を担ぎ、源氏の一門が平家の棟梁を担いで戦ったというのが真相です。
    ということはつまり、源氏と平家が紅白合戦を繰り広げたわけではない、ということがいえます。

    つまり源平合戦は、

     貴族と米蔵を一致させた清盛派と、それに従う武士団と、
     あくまで新田の米蔵は別であるべきと考える武士団が、
     それぞれ平宗盛と源頼朝を押し立てて戦った

    と考えなければ、歴史解釈の辻褄が合わなくなるのです。

    以上の解釈には、異論反論もあろうかと思います。
    けれど歴史には、過去に起きた事実はあっても、「これが正解だ」というものはありません。
    100人の歴史学者がいれば、100通りの解釈があるというのが、歴史学です。
    つまり、反対意見があって良いのです。

    こうした学習により、生徒たちは、自分の意見だけが正しいのではなく、人によって、あるいは立場によって、さまざまな理論や意見があるということを認知する力を得ることができます。
    人それぞれが顔貌が違うように、人それぞれ意見も違うのです。
    その意見の異なる人達が、一緒になって何か事を為す。
    そのためには何が必要なのかといえば、みんなに納得してもらえる自分に、自分が成長するしかないのです。
    ここに「みがき」という日本古来の価値観との共通性があります。

    歴史にある年号や事件名、人物名をいくらたくさん暗記しても、そんなものは人生において何の役にも立ちません。
    けれど、過去の事例を通じて、様々な人間模様を学ぶことは、自分自身を「みがく」ことにつながります。
    ここに歴史教育の真の目的があります。

    ひと昔前までは、「男子は生涯一事を成せば足る」と言われました。
    先人たちの過去を学べば、どんな聖人君主とされる人物であっても、悩み苦しみ、世間から後ろ指をさされてきたことがわかります。
    百点満点の人など、この世にはいないのです。
    どこか、みんな、欠陥車なのです。
    そして欠陥車だからこそ、一生懸命に努力し、時代を拓いて行ったのです。
    それが「生涯一事」の意味です。

    歴史学は、そうしたことにも気付きを与えてくれる学問なのです。


    ※この記事は2023年2月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • ピサロの暴虐と日本


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾2月25日開催(場所:靖国神社内靖国会館2F、靖国神社正式参拝あり)。直会は事前申込が必要です。【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    むすび大学【初】リアル講座2月23日開催【詳細】https://nezu3344.com/blog-entry-5863.html
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    日本は、戦後ようやく迎える真の独立のチャンスを目の前にしています。それは、これまでの79年の戦後世界で漁夫の利を得てきた人たちにとっては、まさに「世界の終わり」です。けれど、どんなときでも「終わり」は次の時代の「始まり」です。つまり、日本はいま真の独立を果たし、新しい時代を迎えようとしているのです。


    20160212 アタワルパ王


    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    インカは、およそ7千年の歴史を持つ南アメリカのペルーのあたりにあった一大文明です。
    最盛期には、80の民族と1600万人の人口をかかえる大帝国であったといわれています。
    カミソリの刃も通さないほど精巧に重ねられた巨大な石の建造物や、黄金の仮面、水晶のドクロ、土器や織物、
    謎の高原都市などをイメージされる方も多いかと思います。

    ところが、それだけの文明が、いまでは歴史伝統文化はおろか、言語さえも失われ、遺跡もただ「謎」ばかりとなっています。

    インカ人の特徴は、男性の身長が平均1m57cm、女性が1m45cmくらい。
    全体に背がの低いモンゴロイドで、DNAは日本の縄文人の人骨のDNAにもっとも近く、また日本の縄文時代の遺跡と同様、なぜか遺跡から武器が出土しないという特徴があります。
    また、太陽を崇拝し、灌漑による農耕技術を持っていたとされています。

    紀元前7千年といえば、日本では鹿児島沖でカルデラ大爆発が起こり、遠洋漁業が始まった頃です。
    そして日本ではあまり語られないし、本にもなっていませんが、現地で取材してわかったことは、インカの神話では「自分たちの祖先は倭国からやってきた」とされているのだそうです。
    つまり、自分たちは日本人と同祖であるというのが彼らの伝承で、これがあるから日系人のフジモリ氏が大統領に任命されたりしています。

    インカの遺跡は神殿、民家、要塞、道路などが、きわめてすぐれた技術によって建設されています。
    なかでもすごいのが石造りの幹線道路。
    北部のキトからチリ中部のタルカまで、5230kmにも達する石の道路が建設されています。
    しかもこの道路、まるで高速道路のパーキングエリアと、サービスエリアみたいに、6キロごとにトポと呼ばれる里程があり、約18km毎にタンボと呼ばれる宿駅が設置されています。

    さらにチャスキと呼ばれる飛脚が約9km毎に設置されていて、タンボ間のリレー方式で、1日になんと約240kmの情報伝達能力を持っていたのことが明らかにされています。
    武器の出土がない状況からすると、こうした情報通信幹線は、軍事用というよりむしろ民生用に用いられていた可能性が高く、これを民間人たちが普通に活用していたとするならば、その社会はおどろくほど平和で効率的な社会であったことになります。

    ところがインカは、それだけ発達した交通網と文化を持っていたことによって逆に、帝国も文明も滅んでしまうのです。
    どういうことかというと、スペインの掠奪者、フランシスコ・ピザロの一行がやってきたのです。

    ピザロは、現在のペルーの首都、リマ市を建造した英雄と称えられています。
    けれど、殺戮と略奪の限りを尽くし、歴史あるインカ文明を完膚なまでに滅ぼし、いまやその片鱗さえもうかがい知ることができない状態にまでしてしまった大悪党でもあります。

    フランシスコ・ピザロは、スペインのエスロラマドゥラ地方で私生児として誕生、母親は売春婦だったといいます。
    生まれるとすぐに町の教会の前に捨てられ、豚小屋で雌豚から乳をもらって育ちました。
    成長して豚飼いを生業としたけれど、やがて新大陸に幸運を求める一旗組に身を投じています。
    南米に渡ってきたのは1531年、ピザロ39歳のときです。

    アタワルパ王を追って南進したピザロは、翌1532年にカハマルカでアダワルパ王と会見し、その場で彼を生け捕りにしています。
    絵はそのときの模様です。

    アタワルパ王を逮捕したピザロは、インカ帝国に身代金を要求し、巨額の金銀を受け取りまました。
    ところがこれに味をしめたピザロは、アタワルパ王をまる裸にして辱めた挙句、最後には殺害しています。
    絵には、そんな謁見の際のピザロの得意満面の表情と、そんな極悪人の前に引き立てられながらなお、その矜持を失わずにたったひとりで抗議をするアダワルパ王の苦悶の表情が描かれています。

    そしてピザロはインカで殺戮と破壊、強奪と強姦を繰り返し、ついにはインカ帝国の首都クスコを廃墟にし、さらに財宝を持ち帰ったピザロに刺激を受けたスペインの荒れくれ者たちがインカに向かい、各所で略奪を繰り返しました。
    その結果、いまインディオの純血種はいません。
    全員がスペイン人のDNAを持っています。

    はじめにやってきたピザロの一行は、わずか180名です。
    しかしその180名は、結果としてインカの大帝国を滅ぼし、その文明の痕跡さえも完膚なきまでに消し去ったのです。
    頭数が少ないから心配ないなどということはないのです。
    キチガイは少人数でも文明文化を滅ぼす、その証拠がインカにあります。

    武器を持たない文化は、国内で対立が生まれたときに解決手法として武器に物を言わせない分、発達した内政用の統治システムを持ちます。
    それは人々に平和と安定をもたらし、きわめて高い道徳心を育成します。
    これはとても良いことです。

    しかし、そうしたすぐれた統治システムも、歴史も伝統も文化も、道徳観を持たない武器を持った暴力の前には、実はまったく無力となります。
    国内統治には、武器など必要のない政治が理想です。
    しかし身を護る軍事力を持たなければ、国も文明も文化も滅ぼされるのです。

    広島と長崎に、原爆という人類史上未曾有の暴力が振るわれたのは、そのときの日本がすでに反撃能力を失っていたとみなされたからです。
    現在でも世界には、話し合いやだけで平和的に物事を解決できるだけの高度な国際統治システムはありません。
    ということは、弱いとみなされれば、インカや北米インデアンのように、蹂躙されるということです。
    現実に、いまの日本は世界のATMとなっています。

    世界に正義を実現できるのは、話し合いだけでなく、武力が背景にあるときだけだというのが、悲しい現実なのです。
    弱虫は、どんなに正しい理屈を垂れても馬鹿にされ、蹂躙されてしまうのです。
    そしていまの日本は、あきらかにチャイナやコリア、あるいは米国に馬鹿にされ、蹂躙されています。

    この日本の現状を救い、本来の日本の歴史、伝統、文化を取り戻すためには、私たち自身が日本をしっかりと学ぶだけでなく、日本の軍事力の増強が、実は不可欠の要素なのです。
    現代の日本は、物理的軍事力だけでいうなら、環太平洋最強です。
    日本の武力の前に、チャイナも叶わないし、米太平洋艦隊も敵いません。
    けれど、それらを使えるようになっていないし、なによりそれら軍事力を行使する人たちが法的政治的に骨抜きにされています。

    これを「改善しよう」と政治家が発言すると、問題発言だと言ってメディアや野党から総攻撃を受けて潰されます。
    戦後の日本政治は、そのために政界を追われた政治家の累々とした屍が横たわっています。

    そうであれば、民間分野から、民意として「国護り」の意識改革が必要だし、これを堂々と主張する政党が必要です。
    その政党は、いまはたとえ小さくとも、その主張内容の正当性から、必ず巨大政党に成長します。
    現代の小選挙区比例代表制のもとでは、少数政党は成立し得ないと主張する人もいます。

    それは違います。

    成立するかどうかが問題なのではなく、国民が本当のことを知り、国民が目覚めることが大事なのです。
    そして反日が一部の人たちに経済的利益をもたらし、その影響下にあるメディアが同じく反日に傾いている現代においては、本当のことを検閲無しで大勢の人々に直接訴えることができる機会は、選挙のとき等の街頭演説という機会しかないのです。
    どんなに正しいことを言っていても、一部の限られた人たちからしか賛同を得ることができないのであれば、それは国全体としては「ない」ことと変わらないのです。

    大切なことは、極端な反日派と、極端な親日派の対立ではないのです。
    その中間にいる圧倒的多数の日本人がどっちを向くかなのです。

    人は、情報によって判断をします。
    その情報が偏っているから、そうではないという情報を、多くの人たちに届ける必要があるのです。

    さらに、個人が情報によって目覚めても、それだけで国が変わることはありません。
    目覚めた個人が集まって圧倒的多数のコミュニティを形成し、その多数意見を、国家的意思にしていかなければ、国は変わらないのです。
    政党とは、まさにそのためにあります。
    数は大事ですが、山椒は小粒でピリリと辛いのです。
    そこに正義があれば、山は動くのです。

    目的が「山を動かす」ことにあるなら、少数政党だから意味がないのではなく、少数政党が民意を形成していくことが大事なのです。

    日本を食い物にしたい国や人たち、そして日本を食い物にすることによって巨富を得ている人たちは、当然、これを見越して、反撃を仕掛けます。
    その反撃は、必ず、内紛による内部分裂と、個人への中傷という形で行われます。
    当然です。
    反撃者の正体がバレれば、反撃した側が世間を的に回ることになるからです。

    つまり、もしいま「内紛による内部分裂と、個人への中傷」を受けている少数政党があるなら、それこそが「まともな政党」です。
    もっというなら日本派の、日本人による日本人のための日本人の政党です。

    批判家の人たちは、保守であるかないかを問わず、叩かれている少数政党があれば、寄って集って批判します。
    しかし批判だけで世の中が変わることは絶対にありません。

    そもそも世の中に、完璧な人などいません。
    誰もがどこかに欠陥を持っています。
    その欠陥を乗り越えようと努力して生きるから成長できるのです。
    大切なことは、実現しようとする意思と情熱と、それらがもたらすある種のカリスマ性です。

    カリスマが信頼できないと思うなら、そこを出て、自分たちで独自活動をすることもひとつの選択です。
    けれど、そもそも「完璧な人」など、いないのです。
    ということは「完璧なカリスマ」も、いないのです。
    まして我々は反日であることが正義であるという教育を受けています。
    さらに、批判をすることが正義ある、という教育を受けて育っています。
    こうして有能な人材を潰してきたのが、戦後の日本です。

    大切なことは、カリスマ自身ではないのです。
    日本をしっかりと護っていこうとする意思を、国民自身が自覚することです。
    そして国をしっかりと護っていくことができる日本を築くことです。
    そしてこれを行おうとする人たちこそが、新たな日本の未来を拓く人たちです。

    いま日本は、千載一遇のチャンスを目の前にしています。
    それは、チャイナが崩壊寸前の情況にあり、米国が二分しそうな情況にあるということです。
    チャイナは人民解放軍が崩壊寸前の情況にあります。
    米国は、今年大統領選挙があります。
    トラさんが勝てば、これまで米国追従で反日運動を行っていた人たちは粛清に向かい、日本は民族独立の方向に向かうチャンスとなります。
    民主党が勝てば、米国は合衆国と共和国の二つに分裂します。
    そうなれば、米国は海外にある米軍基地を維持できません。
    その時は、日本にある米軍基地は、日本が買い取ればよいのです。

    日本は、戦後ようやく迎える真の独立のチャンスを目の前にしています。
    それは、これまでの79年の戦後世界で漁夫の利を得てきた人たちにとっては、まさに「世界の終わり」です。
    けれど、どんなときでも「終わり」は次の時代の「始まり」です。
    つまり、日本はいま真の独立を果たし、新しい時代を迎えようとしているのです。


    ※この記事は2016年2月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 江戸時代の凶状旅と「みがく」文化


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾2月25日開催(場所:靖国神社内靖国会館2F、靖国神社正式参拝あり)。直会は事前申込が必要です。【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    むすび大学【初】リアル講座2月23日開催【詳細】https://nezu3344.com/blog-entry-5863.html
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。これは相当に高い民度がなければ実現不可能なことです。これを実現してきたのが、かつての日本です。いまの日本で、果たしてこれが可能でしょうか。


    20170126 清水一家
    画像出所=https://nezu3344.com/blog-entry-3279.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
    石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、かつては映画やテレビで繰り返し取り上げられ、日本中、知らない人はいないってほとの人物でした。
    ところが残念ながら、こんにちにおいては、若い人に清水次郎長と言っても、知っている人のほうがはるかに少ない。
    メディアの影響とはいえ、残念なことです。

    清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市に生まれた人で、この当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされていて、ならばしっかりとした人に育ててもらわなければならないだろうということになって、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されました。

    清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、その「山本次郎八さんの家の長五郎」が詰まって、次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。
    ところがその養父の次郎八が逝去し、若くして次郎長が甲田家を継いだのが次郎長15歳のとき。
    この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していました。
    甲田屋は、そんな米の輸送業を営むお店で、その後次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまう。

    そこで次郎長は妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊らの弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
    これが凶状旅(きょうじょうたび)と呼ばれるもので、罪を背負った人が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、ということが行われていました。

    江戸時代は、各藩がいわば独立国のような存在でしたから、駿府で犯罪者となっても、国を出れば捕まらない。
    そこで時効が確立するまで、名だたる親分衆のところを全国行脚して男をみがく、といったことが行われたわけです。
    この「犯罪者であっても、自分をみがくことに意義が見いだされていて、それが社会の常識となっていた」という点は、江戸時代における日本の一般庶民を理解する上で、とても大事な要素です。

    これは神話からくる思想で、我が国は宝鏡奉斎といって、鏡は天照大御神から渡された神聖なものです。
    「かがみ」は、「か《見えないちから》」と、「み《身》」との間に「が《我》」が入った言葉です。
    ですから「かがみ」の前で「が《我》」を取り払えば、それが「かみ《神》」になります。
    そして鏡は、ほっておけば曇ります。
    ですから鏡は、常に磨かなければなりません。
    これと同じように、生涯をかけて自分を「みがく」こと、磨き続けることが、とても大切なこととされていたのです。

    まして事情があったとはいえ、凶状持ちとなった身です。
    全国の名だたる親分さんたちをめぐり、教えを請うて、より一層自分をみがく。
    そしてその土地の神社をめぐり、神様とのご縁を深めていく。

    こうした旅は、いわば自分から進んで行う懲役刑のようなものといえます。
    懲役を、役人の手をわずらわせるのではなく、むしろ自分から懲役を(自分の意志で)実行する。
    そうすることで犯罪を犯した過去の自分よりも、さらに一層進歩した磨かれた自分に成長して、国に帰るのです。
    そういうことが、人生修行としての、「みがき」だと考えられ、常識化していたのが、江戸時代の文化です。

    もちろん、悪事を働くことや、ましてや人を殺めることは、決して褒めた話ではないし、してはいけないことです。
    けれど、それをしなければならなくなった自分というものは、もういちど魂を根底から磨き直さなければならない。
    そのためには、お上の手をわずらわせるのではなく、自分から進んで魂みがきの旅に出る、ということが行われていたわけです。

    ちなみに(ここも大切なことなのですが)、凶状持ちの犯罪者は、全国どこの都市でも、長屋(ながや)などに住むことはできませんでした。
    長屋というのは、いまでいうアパートや賃貸マンションのことですが、長屋に入居するためには、誰か身元保証人が必要です。
    しかしそれだけではなく、仮にもし、その長屋から犯罪者が出たり、あるいはその長屋が犯罪者をかくまっていたと知れた場合には、その長屋はお取り潰し、つまり完全撤去されるのみならず、向こう三軒両隣は、以後許可が出るまで、通常の三倍課税、長屋の大家は逮捕遠島、長屋の地主もまた遠島を命ぜられました。
    要するにものすごく厳しい制裁が課せられていたのです。

    ですから清水港で失敗したからといって、安易に江戸や大阪などの大都市に移り住むとかいうことなどまったくできなかったし、だからこそ、親分衆のもとを転々とするしかなかった。
    そしてそのことを逆に利用して、より魂を磨こうとした人たちがいた・・・と、そういう社会文化が人々の間に定着していたのです。

    ひるがえって現代を見るに、果たして庶民の安全は図られているといえるのか。
    犯罪者でさえも、自ら自分を罰し、自ら魂を磨くという考えに至ることが常識となっているといえるのか。
    あまりにも江戸文化、あるいは古くからの日本の文化を、軽くみすぎてきてはいないか。
    いまの日本で、果たして江戸時代のような、自ら懲役を科すこと、およびそのことに民衆が理解を示し、かつ歓迎することは、果たして可能でしょうか。

    日本は、意外にすごい国なのです。
    そんな日本を、もう一度、しっかりと見直してみるということは、とても意義のあることではないかと思います。


    ※この記事は2020年2月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • インパールの戦いと日本の若者


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾2月25日開催(場所:靖国神社内靖国会館2F、靖国神社正式参拝あり)。直会は事前申込が必要です。【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    むすび大学【初】リアル講座2月23日開催【詳細】https://nezu3344.com/blog-entry-5863.html
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    世界では、銃を持った敗残兵が、民家を襲ってそのようなことをするのは、いわば「常識」です。自分が生き残るためなのです。しないほうが、おかしいといって良いくらいです。けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本の兵隊さんに襲われた民家というものが、ただの1件もありません。それどころか、あまりに襲うことがない日本の兵隊さんたちに、地元の農民たちは、食料を与えようとさえしてくれていました。


    20190201 インパール
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    インパールの戦いは、日本の正式な作戦名を「ウ号作戦」といい、昭和19年3月から同年7月初まで継続した戦いです。
    この戦いに参戦した日本軍兵士は、およそ9万人。
    帰還できたのは、そのうちの約1万2千人です。

    この退却戦で、陸空から英国軍の攻撃を受け、さらにマラリヤや赤痢が日本の兵隊さんたちを襲いました。
    退路となった街道には、延々と餓死した日本兵の腐乱死体や白骨が横たわり、その有様から、この街道は「白骨街道」と呼ばれました。

    街道で亡くなった兵隊さんの数は、およそ4万人に達するといわれています。
    亡くなって一週間程度の屍には、どす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。
    なにかの拍子に蠅が飛び上がると、遺体がもぞもぞと動いて見えたそうです。
    大量の蛆が、遺体を食べながら動いているのです。
    腐臭もすさまじいものであったそうです。
    けれどその遺体は、ひとつひとつが、歓呼の声に送られて出征した、笑顔さわやかな頼もしい皇軍兵士たちです。

    生きて生還できた小田敦己さんの談話には、次のような記述があります。

     *
     半日前とかー時間ほど前に
     息を引き取ったのか、
     道端に腰掛けて休んている姿で
     小銃を肩にもたせかけている屍もある。

     また手榴弾を抱いたまま爆破し、
     腹わたが飛び散り
     真っ赤な鮮血が
     流れ出たばかりのものもある。

     そのかたわらに
     飯盒と水筒はたいてい置いてある。
     またガスが充満し
     牛の腹のように膨れている屍も見た。

     地獄とは、まさにこんなところか・・・・
     その屍にも雨が降り注ぎ
     私の心は冷たく震える。

     そのような姿で屍は道標となり
     後続の我々を案内してくれる。
     それをたどって行けば
     細い道でも迷わず
     先行部隊の行った方向か分かるのだ。

     皆これを白骨街道と呼んだ。
     この道標を頼りに歩いた。
     ここらあたりは、
     ぬかるみはなく
     普通の山道で緩い登り下りである。
     雨があがり晴れれば
     さすかに熱帯
     強い太陽か照りつける。

     暑い。
     衰弱しきった体には
     暑さは格別厳しく感じられる。

    ≪一兵士の戦争体験ビルマ最前線白骨街道生死の境 小田敦己≫
    http://www.geocities.jp/biruma1945/index.html

     *

    英国軍は、この退路にも、しばしば現れて、容赦なく銃弾を浴びせました。
    撃たれて死んだ者、伝染病に罹患して餓死した者の遺体や動けなくなった兵は、集団感染を恐れて生死を問わずガソリンをかけて焼却したといいます。

    この戦いを指揮した牟田口中将は、戦後、
    「戦場でもっとも大切な
     兵站を無視した無謀な戦いをした」
    「牟田口中将はバカである」
    「はじめから意味のない戦いだった」
    等々、あらんかぎりの罵声を浴びせられました。

    実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死したのです。
    「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世のならいです。
    まして多くの味方の人命が奪われる負け戦では、それを指揮した将校は、後々の世までボロかす言われる。
    それはある意味しかたがないことかもしれません。

    しかし、思うのです。
    負けた戦いを、単に「負けたからアイツはバカだ」というのは簡単です。
    けれどそんな「評価」をいくらしたところで、失われた人命が帰ってくるわけではありません。
    後世を生きる人間にとってたいせつなことは、そのように歴史を「評価」することではなく、歴史から「何を学ぶか」にあるのではないかにあります。

    インパールの戦いについてみれば、後世の我々からみて不思議なことがいくつかあります。

    昭和19年といえば、もはや戦局は厳しさを増してきているときです。
    日本は、全体として防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期にあたります。
    にも関わらず牟田口中将は、なぜあらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。

    兵站が不足していることは、行く前からわかっていることです。
    にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。
    無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面の総力ともいうべき15万の大軍を出撃させてこれを迎え撃とうとしたのか。
    意味がないなら、迎撃する必要さえないはずです。

    そしてまた、英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力です。
    日本側には、インド国民軍の兵士4.5万人がいたけれど、なぜか日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させていません。
    4万のインド国民軍を温存したのです。
    どうしてインド国民軍を、厳しい戦いとなることが分かっているこの戦いに参加させなかったのでしょうか。

    そしてこの戦いは英国軍15万対日本軍9万という歩兵陸戦の大会戦です。
    世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれるワーテルローの戦い(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)、明治3(1870)年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン軍20万の戦い)、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)などがあげられます。
    インパールの戦いは、これに匹敵する大規模な陸戦です。

    その戦いに英国は勝利したのです。
    にも関わらず英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしていません。
    それは何故でしょうか。

    このブログで、武道の心について何度か書かせていただいています。
    欧米における格闘技は、敵を殺し、倒すためのマーシャルアーツです。
    ところが日本武道は、試合や勝負における「勝ち」を、からなずしも「勝ち」としません。

    スポーツにおける「勝ち」は、試合に勝つことです。
    そのためには、体を鍛え、技を磨きます。

    日本武道における勝ちは、試合に勝てばよいという考え方をとりません。
    試合というのは、どんな場合でも、単に「模擬戦」にすぎないからです。
    本当の勝利は「克(か)つこと」にあります。
    その場の勝ちだけでなく、最終的、究極的な勝ちをもって、勝ちとする。

    たとえば、小柄な男性が、好きな女性とデートの最中に、大男に囲まれて、女性を差し出せと要求される。
    小男が拒否する。
    小男は、ハンゴロシになるまでボコボコに殴られる。
    寝転がって「うう・・」となってしまう。
    しかし「心・技・体」、「心」を鍛えたこの小男は、殴られても殴られても何度も立ち上がる。
    気を失っても、まだ立ち上がる。
    いいかげん気持ち悪くなった大男たちは、帰っていく。
    女性は暴行されずに助かる。

    殴り合いの勝ち負けでいったら、このケンカは、大男の勝ちです。
    小男は負けです。
    けれど大好きな女性を護りきったという意味においては、目的を達成したのですから小男は「勝ち」です。
    どっちが勝ったといえるのかといえば、両方勝った。
    それが武道の心です。

    武家に生まれたら、たとえ武芸に秀でていなくても、たとえ小柄で非力でも、たとえそのとき病んでいたとしても、すでに老齢になっていたとしても、戦うべき時には戦わなければなりません。
    相手が野盗の群れのような大軍だったら、戦えば必ず死にます。
    しかし、たとえ自分が死んだとしても、野盗が盗みをあきらめて帰ってくれれば、みんなの生活の平穏が保たれるのです。
    そのために自分が死んだとしても、みんなを護るために戦い、死ぬ。
    戦いでは「負け」たかもしれないが、それによってみんなを守ることができたなら、それは武士にとっては「勝ち」です。

    マンガ「明日のジョー」で、矢吹ジョーが、ホセ・メンドーサと試合します。
    殴られても殴られてもジョーは立ち上がる。
    ホセは、いいかげん気味悪くなって、さらに矢吹ジョーをボコボコに殴る。
    ジョーは、もはやガードの姿勢をとることすらできない。
    それでも立ち上がる。何度も立ち上がる。
    普通、常識でいったら、タオルがはいって、試合はジョーの負けです。

    マンガの試合結果がどっちだったかは忘れてしまいましたが、なんとなく覚えているのは、この試合でホセは、ジョーに対するあまりの恐怖のために、髪が真っ白になり、現役を引退してしまう。

    リングの上の勝負ではホセの勝ちですが、結果、ホセは引退し、ジョーは、次の対戦に臨む。
    ホセも勝った。ジョーも勝った。
    どちらも勝ちです。

    そして「勝ち」は「価値」と同音です。
    さらにおもしろいのは「徒士(かち)」も同音です。
    古くは「徒歩」と書いて「かち」と読みました。
    つまり大和言葉の「かち」というのは、目的に向かって一歩ずつ前進することを意味します。
    そしてそのことが最も貴重で大切なこと、つまり「価値あること」とされてきたのが日本です。

    試合の「かち」は、その場の勝敗ではなく、その試合を一歩として、さらに次の一歩のための自己鍛錬に励む。
    そこに「価値」があるとされてきたのが日本です。
    そうした日本文化からインパールの戦いを考えると、巷間言われている筋書きとはまったく別なストーリーが見えてきます。

    インパールの戦いは、インド・ビルマ方面における、日本軍のほぼ全軍と、英国のインド駐屯隊のほぼ全軍が会戦した大会戦です。
    繰り返しになりますが、英国はインパールに15万の兵力を展開し、対する日本軍は9万です。
    この時点でビルマにいたインド国民軍4.5万を合わせると、兵力はほぼイーブンになるのに、牟田口中将は、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。
    そして、約4.5万のインド国民軍の兵士のうち、どうしても一緒に戦いたいと主張して譲らない6千名だけを連れてインパールへ出撃しました。

    インド国民軍を合わせれば、兵力はイーブンになるのに、わざわざインド国民軍をおいてけぼりにしているというのは、ふつうに考えて、あり得ないことです。
    ただでさえ、火力が足らないのです。
    これにさらに兵力不足が重なれば、これはもう、わざわざ負けに行くようなものです。

    しかも補給がありません。物資がないのです。
    食べ物すらありません。
    インパールは補給を無視した無謀な戦いだったとよく言われますが、補給物資がすでにないことは、牟田口中将以下、軍の参謀たちも、参加した兵たちも、みんなはじめからわかっていたことです。
    補給路の確保とかの問題ではありません。そもそも補給すべき物資がハナからないのです。

    それでも日本軍は、ジャングルのなかを、遠路はるばる出撃しました。
    そして2か月を戦い抜きました。
    2か月というのは、ものすごく長い期間です。
    かのワールテルローの戦いだって、たった1日の大会戦です。

    補給がないということは、単に食料や弾薬がないというだけにとどまりません。
    医薬品もありません。
    場所はジャングルの中です。
    山蒜(ひる)もいるし、虫もいる。
    マラリアもある、デング熱もある、アメーバー赤痢もある。
    日本の将兵たちは、敵と戦うだけでなく、飢えや病魔とも闘わなければならなかったのです。

    そして戦いの早々に、日本軍の指揮命令系統は壊滅します。
    それでも、ひとりひとりの兵たちは、ほんの数名の塊(かたまり)となって、英国軍と戦い続けました。
    日本軍と撃ちあった英国軍の将兵は、銃声が止んだあと、日本の兵士たちの遺体を見て何を感じたのでしょう。

    英国の兵士は、栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。
    そして自分たちのために戦っています。

    ところが日本の将兵は、他国(インド)のために戦い、武器・弾薬も不足し、食料もありません。
    ある者はガリガリにやせ細り、ある者は大けがをしている。
    遺体は、まるで幽鬼のような姿です。

    ガリガリに痩せ細り、まるでガンの末期患者の群れのような少数の兵士が、弾のない銃剣を握りしめて、殺しても殺しても向かってくる。
    最初のうちは、英国の将兵たちも、勝った勝ったと浮かれたかもしれません。
    しかし、それが何日も続く、何回も続く。

    軍としての統制と機能は、とっくに壊滅しているはずなのに、ひとりひとりが戦士となって向かってくる。
    降参も呼び掛けましたが、誰も降参しない。
    弾の入っていない銃剣ひとつで向かってくる。
    そんな戦いが60日以上も続いたのです。
    人間なら、誰もがそこに「何か」を感じるのではないでしょうか。
    まして騎士道の誇り高い英国の兵士たちです。

    ようやく日本軍は潰走をはじめます。
    街道を撤退しはじめました。
    マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めました。
    そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がりました。

    インパールの戦いについて不思議なことがあります。
    それは、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いない、ということです。

    戦いのあとインドのデリーで、英国軍が戦勝記念式典を開催しようとした事実はあります。
    英国軍に「よいしょ」するインド人たちが、おめでとうございますと、戦勝記念式典を企画したのです。
    ところが、当時インドに駐留した英国軍の上層部から、これに「待った」がかかりました。
    結果として、戦勝記念式典は、行われていません。
    15万対9万の陸戦という、ヨーロッパ戦線おいてすらあまりなかったような世界的大会戦だったのです。
    それに勝利したなら、盛大なパレードと、飲めや歌えやの大祝賀会が開催されたっておかしくないことです。
    けれども、祝賀祭も、パレードも開催されていないのです。

    この戦いに参加した英国の将兵にしてみれば、とてもじゃないが、この戦いを「勝った」と誇る気分にはなれなかったのかもしれません。
    実戦に参加せず、安全な場所にいて指示だけ出していた連中が、得々と戦勝記念祭を開催しようとしても、実際に戦った英国軍の将兵たちは、それをこころよしとしなかった。

    英国軍は、なるほどインパールの戦闘に「勝ち」ました。
    しかし戦いに参加したすべての英国軍将兵たちにとって、その戦いは、ひとつも気持ちの良いものではなかった。
    どうみても「大勝利」したはずの戦いなのに、彼らは自分たちの「敗北感」をひしひしと感じていたのかもしれません。
    すくなくとも、騎士道精神を誇りとする英国の将兵には、それが痛いほど感じられたのではないでしょうか。
    なぜなら彼らも「人」だからです。

    牟田口中将以下の日本の将兵は、戦いに負けることはわかっていたのかもしれません。
    補給さえないのです。
    そして牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発しています。
    戦いの相手は、騎士道精神を持つ英国軍本体です。
    ならば「かならず伝わる」、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。

    だから「負ける」とわかって敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃したのかもしれません。
    なぜなら、当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いているのです。

    たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。
    実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。
    しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいませんが中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持ち続け、最後のさいごまで、日々の業務に誠実に取り組んだら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。

    まだ建設談合があった頃のことですが、公共工事を請け負った会社が、工事途中で倒産するということが、度々発生しました。
    工期なかばで、会社が倒産してしまうのです。
    建設現場で働く人たちは、当然、倒産のその日から現場に来なくなると思いきや、会社がなくなっても彼らは、黙々と工事を続行しました。

    理由のひとつには、公共工事には必ず工事の請負業者に、工事完成の保証を行う建設会社が付いたということもあります。
    けれども、その保証会社が、倒産した会社の職人さんたちに給料を払うかどうかはわからないのです。
    それでも彼らは、工事を続けました。
    多くの場合、保証会社は、その職人さんたちの請負を継続しましたし、職人さんたちへの支払いも代行したものですが、そもそも最初の建設業者が倒産寸前かどうかは、すでに工事請負の段階で、狭い日本です。知られていたのです。
    それでも、良い工事を遺したい。
    ひとたび請け負った仕事である以上、親受け会社が倒産しようがしまいが、工事は最後までキチンと行う。
    それが日本の職人さんたちの誇りであり、意地でもあったのです。

    インパールの戦いも、もともとは「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。
    その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていました。
    にもかかわらず、インドという大陸に進撃しました。
    インドの独立のために。
    自らを捨て石とするために、です。

    大切なことがあります。
    餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。
    お腹も空いていた。
    病気にもかかっていた。
    怪我もしていた。

    そんな状態の日本の兵隊さんたちの退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
    そして街道筋を見れば、街道の両側こそ林になっていますが、その林の外側には、農地が広がっているのです。
    そして民家では、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。

    民家には屋根があります。
    熱帯ですから、猛烈な暑さだけでなく、雨季ですから湿度も高い。スコールも降ります。
    怪我をした体に、屋根はありがたいものです。
    けれど、誰一人、民家を襲うどころか、畑にたわわに稔った作物を奪っていないし、民家の家畜を殺して食べるようなこともしていないのです。

    退路を引き上げる日本人の兵隊さんたちは銃を手にしていました。
    弾はすでに使い果たしていました。
    けれど銃剣は付いています。
    武器を持たない現地の民家を脅せば、飯も食えるし、屋根の下に寝ることだってできたはずです。
    怪我の治療薬を奪うことだってできるかもしれない。
    腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。

    世界では、銃を持った敗残兵が、民家を襲ってそのようなことをするのは、いわば「常識」です。
    自分が生き残るためなのです。
    しないほうが、おかしいといって良いくらいです。
    けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本の兵隊さんに襲われた民家というものが、ただの1件もありません。
    それどころか、あまりに襲うことがない日本の兵隊さんたちに、地元の農民たちは、食料を与えようとさえしてくれていました。

    けれど、日本兵は受け取らない。
    やむなく彼らは、屋台を出して、お店として食料を日本人に与えるという工夫までしてくれました。
    支払いは軍票で良いという。

    生きて帰還できた日本の兵隊さんの多くは、たまたま運良く、こうして屋台の食事を食べることができた兵隊さんたちでもありました。
    そしてその生き残った兵隊さんたちが、様々な数多くの手記を遺しているのですが、その手記になんと書いてあるかというと、
    「あのとき支払った軍票は、戦後、全部ただの紙切れになってしまったので申し訳ない」
    です。

    一方、「俺は民家を一度も襲わなかった」などと書いてあるものは皆無です。
    なぜなら、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎなかったからです。

    インパールの戦いについて、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。
    それに対して、インパールの戦いに参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。
    しかし、ひとついえることは、インパールの戦いを生き残った人たちは、インパールの戦いを、「インパール作戦」と書いている、ということです。

    他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。
    真珠湾は「攻撃」です。
    しかし、インパールは「作戦」です。

    敵と交戦することを「戦い」と言います。
    しかし、インパールは「作戦」です。
    「作戦」は、目的をもってこちらから仕掛けるから、戦いを作るのです。
    だから「作戦」です。

    その目的は「インドに独立をもたらすための火を灯(とも)すこと」です。
    インパールの作戦には、ですから当初、大本営はガンとして反対していました。
    それに対して、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズです。
    チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。
    そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。

    牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」、その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするかを理解しました。
    彼らは戦いのプロです。
    瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。

    そして、すべてをわかった上で、作戦を実行しました。
    だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのです。
    「自分たちは、ここで死ぬ。
     あとは君達で頑張れ」

    普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。
    なにせ、インドの独立のための戦いなのです。
    インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。
    しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
    自分たちが戦いの先頭に立ちました。

    軍だけではありません。
    個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。

    「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
     しかし戦った日本兵の心は、
     インドの人々の心に残り、
     かならずやインドの人々の
     決起を促すであろう」

    インパールの戦いは、まさに「肉を切らして骨を断つ」という戦いでした。
    だからインパールは「作戦」です。
    そして「作戦」は見事に成功しました。
    なぜなら間もなくインドは独立を果たしているからです。

    このお話には、さらに後日談があります。
    英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。
    命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないか、ということです。
    作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いてしまったのです。

    実際、インパールの戦いのあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいものとなりました。
    まるでやる気が感じられないのです。

    ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
    それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に大砲を撃ち込んでいます。

    そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
    そうです。
    パル判事です。
    そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。

    なぜでしょうか?
    どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。
    そもそも、植民地のカラード(有色人種)を、わざわざ判事に指名してきたのは、英国だけです。
    その英国は、米国と同盟関係にあります。
    ですから東京裁判にも、英国判事を出しています。

    けれど英国は、自国の判事だけでなく、わざわざ有色人種のパル氏を判事として東京裁判の裁判官に名を連ねさせました。
    およそ企業でも軍隊でも、用兵というものは、どういう人物を起用するかで、ほぼ決まるものです。
    インド独立を希求するパル氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。

    英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。
    けれど英国は、東京裁判という茶番劇(あえてこう書きます。はじめに結論ありきなら、それは裁判の名にさえ値しないからです)において、英国人判事には、米国との同盟関係に配慮して、連合国万歳の判決を書かせたけれど、植民地支配するインドの代表判事には、ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。
    そこに、英国の「何か」を感じることはできないでしょうか。

    インパールの戦い当時の英国のインドのトップは、英国王室の人物です。
    世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。
    パル判決書は、インパールでメッセージを受け取った英国王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。

    おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパールの戦いの英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。

    なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。
    そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。

    しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、感謝こそすれ、評価するのは間違いだとボクは思います。
    それは卑怯者のすることです。

    インパールの戦いは、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であったのです。
    すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかったのです。
    わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしなかったのです。

    最後にもうひとつ。
    インパールの戦いの退却行は、誰ひとり民家を襲うような非道な真似をしなかったのだけれど、そのことを誇るような記述をした人は、戦後、誰もいない、ということは、見過ごせない部分だと思います。

    誇るどころか、関係のない民家を襲わないなんて、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎない。
    それが日本人だ、ということです。
    そして、そうやってきたのが私たちの祖父の若き日であった、ということです。

    世界では、襲うのがあたりまえで、襲わないことがありえない。
    日本では、襲わないのがあたりまえで、誰ひとりそのことを誇ろうとさえしない。

    さらにいえば、あの苦しい退却行において、生き残った人たちの手記を読むと、途中でビルマ人の青年に助けてもらった、あるいは民家の人たちが沿道で食事を振る舞ってくれたということに、心からの感謝を捧げている。
    それが、若き日の、私たちの父の姿であり、お爺ちゃんの若き日の姿なのです。

    なお、インパールの戦いについて、本文では、「負けるとわかって戦った」という一般の考察をそのまま記載させていただきましたが、異説もあります。
    それは、インパール戦が、前半まで圧勝であったという事実です。
    日本軍は、インパール街道の入り口をふさぐコヒマの占領に成功している。
    コヒマの占領は、味方の補給ラインの確保を意味します。
    従って、この段階では、日本軍側に補給の問題はなく、戦線は日本側有利に動いています。

    このあと、牟田口中将は、近くにある敵の物資補給の要衝であるディマプールをつこうとしてます。
    これが成功していれば、インパールの戦いは、日本の勝利に終わっています。
    そのことは、戦後になって敵将が、はっきりと認めています。

    戦後左翼のああだこうだの評論よりも、戦った相手の言う事と、その後、何が起こったのかをきちんと見ることの方がよほど真実に近いのではないかと思う次第です。

    【参考記事】
    ◆勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html

    ◆チャンドラ・ボーズ
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html

    ※この記事は2011年2月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 身分を返上した武士や貴族


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第107回倭塾は、特別な倭塾として、靖国神社で開催します。倭塾終了後、正式参拝を行います。この際、篠笛の奉納も行います。また直会は事前申込が必要です。
    【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    現代の常識を、あらためて日本の歴史から眺めてみると、様々な気付きが生まれます。


    20240129 京都冬景色



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    革命が成功したときというのは、その革命を成功させた人たちが以後の政治の中心、つまり権力者になります。
    これは世界中どこでも、歴史的にも、全部そうです。
    ところが我が国にはこの歴史があてはまりません。
    明治維新の際に、維新の立役者となった藩主も武士も、維新成功後に進んで身分を返上しています。
    さらに
    「四民平等」を実現し、
    「版籍奉還、廃藩置県」まで行っています。

    当時の官軍側の諸藩で、維新後に内閣総理大臣になったお殿様は、平成5年に内閣総理大臣となった第79代細川護煕氏しかいません。他に誰も居ません。

    明治維新後に身分を失ったのは、武家だけではありません。
    かつての摂関家を含む公家も身分を失っています。
    公家出身の明治の元勲といえば岩倉具視が有名ですが、なるほど彼が養子入りした先の岩倉家は正三位の大納言の家柄ですが、実父の堀川家は中納言格です。
    摂関家を今でいう閣僚級とすると、その下の大納言・中納言は省庁の次官クラスにあたります。
    また、岩倉具視は若い頃は「岩吉」と呼ばれる京の都のガキ大将でしたが、公家時代の収入は100俵取りです。
    つまり、お蔵米を支給される役職でした。

    ここは注目すべきことです。
    当時の公家や武士たちの給料支給には二通りがあって、ひとつが「石取り」、もうひとつが「蔵米取り」です。
    「石取り」というのは、所領をいただき、その領内のお米の出来高を「石」で表したものです。
    たとえば500石取りなら、米500俵を算出できる村などの地域(所領や知行地など)を与えられているわけです。
    よく1万石の大名などという場合も、理屈は同じです。

    年貢の割合が、四公六民なら、1000石✕4割=400石がその武家(貴族も同じ)の取り分でした。
    けれども、武家の取り分が400石あったからといって、武家はそれを全部消費できるわけではありません。
    で、村人たちが凶作時に餓えないように、また、道路や水路、水害対策の普請、火災時のお蔵米の放出など、その地域の人々の生命財産安全について、その石高を用いて全責任を負っていたのです。

    これは天然の災害が多発する日本で、いわば自然発生的に生まれた、日本だけのシステムといえます。
    世界では、税は、ただ取られるだけですが、日本では古代から江戸の昔まで、いざというときに備えて、お米を社会全体で備蓄したのです。
    ですから、農家にしてみれば、収める税(年貢)は、いわば災害保険のようなもので、いざ災害が起きれば、自分たちが納めた何倍もの食料が返ってくるのです。
    このため戦前戦中まで、我が国では納税期間中に滞納する人が、日本中探してもどこにもいなかったといわれています。
    世界の常識が、税理士などを使って、お金持ちが極力納税を忌避しようとするのに対し、日本では誰もがいざというときに備えて、キチンと納税していたのです。

    さらに加えて、税を取る武士の側は、石高に応じて、家人や郎党の数、屋敷の門構え、馬の数などが細かく定められていました。
    もちろんそれに応じて支払いも発生します。

    1俵がおおむね1両に相当しました。
    1両はだいたいいまのお米の代金で換算すると3万円くらいですが、貨幣価値でいうと、いまの6万円くらいに相当します。
    その1俵のお米を算出できる田んぼの面積が、昔の言い方ですと1反です。
    1反は、だいたい30メートル四方で、その面積での収穫高が大人が1年に食べる量とされていましたから、これが1俵。
    石高なら、1石になるわけです。

    ですからいまのお金に換算していうと、千石取りの武士の場合、30キロ四方の地域を所領とし、そこから2400万円くらいの税収を得ていますが、そこから指定された被雇用者の給料を払い、また参勤交代を行い、さらに蓄財を行って、領内で何か問題が発生したら、その対処をしたり、あるいは問題が発生しないように道路や水路、堤防の管理などを行っていたわけです。
    決して威張っているだけで良いような楽な生活ではないことがお分かりいただけるかと思います。

    また、たとえ千石取りの武家であっても(千石取りといえば大身の武士ですが)、その収入で所領の面倒を万が一の事も含めて全部面倒を見るのは、不可能です。
    ですからそのために、大名家の一員となって、いわば団体保険をかけるようにして、万一の対策としたのです。

    こうした所領についての考え方は、我が国が天皇を頂点として、その天皇が民を「おほみたから」としているという発想から生まれています。
    武士にせよ貴族にせよ、名前こそ所領であっても、それは天子様(天皇のこと)の「おほみたから」であり、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくために、所領を与えられているということが基本認識としてあるからです。
    すべてが自分のものであり、領民が私有民という考え方なら、収奪だけしていれば良いことにしかなりません。

    また、税が四公六民というと、給料の4割を税金で持っていかれるといったイメージとなり、ものすごい重税のようなイメージになってしまうのですが、これもまた田んぼの収穫高を低めに見積もり、また江戸時代初期の田のみをベースにした取り分で、その後に開発された新田の面積の方が圧倒的に広かったことなどから、実際の出来高換算では、1公9民程度の年貢米となっていました。

    当時は大地主制で、地主である庄屋さんなどが村の事実上の管理を行っていましたが、農家そのものが豊かであることによって、村内の様々な出来事に関しては、概ね村内で処理できる体制にもなっていたわけです。
    もっともそうでもしなければ、武士にせよ貴族にせよ、所領地に常駐しているわけでなく、参勤交代で江戸詰になったり、城中の勤務のために地元への訪問などは、年に1度できれば良い方でもあったわけですから、十分に目が行き届かないし、さりとて、所領内で一揆の横暴な打ち壊しでもあれば、領主である武士が責任をとらされて腹を斬らなければならないわけです。
    武士もたいへんだったのです。

    これに対し「蔵米取り」というのは、所領を持たず、ただ上役である大名や貴族から、お蔵米を現物支給される人たちで、幕府でいえば御家人のような下級武士、貴族であれば、宮中に務める下級貴族の給料が、それにあたります。

    岩倉具視の100俵取りというのは、これは石高でいうと250石取りに相当しますが、所領を持たず、お蔵米を現物支給されているわけですから、所領(知行地)に対する責任を持ちません。
    江戸時代までの日本では、責任と権力は常に一体とされていましたから、責任を持たない者は、それだけ軽輩ということになります。
    岩倉具視の岩倉家が大納言格でありながら、岩倉具視自身が「下級貴族」と呼ばれるのは、彼の家が「蔵米取り」という責任負担のない家柄であったことによります。

    明治維新は、こうした古くからの伝統的な石高制そのものを打ち破り、給料の支払いを米から現金に変え、所領についての責任制度を廃止した、たいへんな改革であったわけです。
    しかしそれだけの改革を実現するということになれば、世界の標準では、ものすごい数の民間分野での死者が出るのが普通です。

    明治維新における戊辰戦争の死者は、幕府側の8,625名、新政府側3,588名、合計で13,562名です。
    黒船がやってきた当時の日本の人口は3,124万人でから、これは人口のわずか0.04%にしかあたりません。

    ところがChinaでは、易姓革命の都度、毎度、国の人口の8割が失われています。
    ロシア革命が6割です。
    帝政ロシアの人口はおよそ1億といわれていますが、ロシア革命による死者は、なんと6600万人です。
    フランス革命は、人的損害という意味においては、成功した革命といわれていますが、それでも当時のフランスの人口は2千万人、革命による死亡者数はおよそ490万人、人口の24.5%が犠牲になりました。

    明治維新は、単に自国内での争いというだけでなく、そこに欧米列強、つまり外国が介入した内戦が起きています。
    それでいて明治維新がわずかな犠牲で済んだということは、実は世界史ではありえないことなのです。

    ところが日本人の感覚からすると、戊辰戦争はきわめて大きな内乱です。
    この感覚の違いは、実は、我々日本人にとって戊辰戦争は「政変」に過ぎず、「政変」でありながらこれだけの死者が出たからこそ、たいへんな争いという感覚に包まれるのです。

    もし明治維新が、ロシア革命のような「革命」であったのなら、我が国の当時の人口は、約3千万人が、1千万人にまで減少したかもしれない。
    大人も子供も老人も女性も含めて、3人に2人が死亡です。
    それがどれだけ恐ろしいことか。
    その意味では「革命」などというものは、そんなに簡単に待ち望んだりしては、絶対にいけないものであると思います。

    左系の人は、いまも共産主義革命を望み、ゲバラを尊敬しているそうですが、ゲバラの行ったキューバ革命による死者は約22万人です。
    しかもそのうちの約8割が一般市民です。
    民衆のための革命といいながら、なぜ大量の民衆の命が犠牲になるのか。
    普通の常識に従えば、彼は偉大な革命家ではなく、ただの殺人鬼です。

    ではどうして日本は、民衆の犠牲を伴わずに大規模な改革が可能だったのでしょうか。
    その最大の答えは、我が国における改革が、常に「政権交代」の枠組みの中にあったという点です。
    つまりロシア革命やキューバ革命、フランス革命、あるいはChinaの易姓革命のような、国の形が変わる革命を、我が国はしなくて済んできたのです。
    それができたのは、我が国に天皇がおいでになったからです。

    日本の国の形は、はっきり申し上げれば「君主国」です。
    頂点におわすのは、もちろん天皇です。
    戊辰戦争においても、佐賀の乱でも、西南戦争でも、天皇の「おほみたから」という概念が根底において崩れていない戦いであったから、民衆の犠牲者はほぼ皆無に近く、どこまでも責任を持つ武士たちの戦いの枠組みを外れることがなかったのです。

    これは、我が国の天皇が古来政治権力を持たず、政治権力よりも上位の存在として民衆を「おほみたから」としてきたからこそ実現できたことです。
    なぜなら、政治を担う者は、常に「天皇のおほみたからを支える立場」にあたるからです。
    これによって民衆は権力者の私有民、奴隷、被支配民とならずに済んできたし、政治の枠組みの大改編に際しても、民衆の血を求めずに済んできたのです。

    これがわかると、天皇の存在を否定する人たちというものが、どのような思考に基づいている人たちなのかがはっきりと見えてきます。
    それは「自分が世間の、あるいは社会の支配者になりたいというきわめて幼稚な思考しか持たない人たち」です。
    なぜなら、「国家最高の存在は権力者でなければならない」という概念しか持っていないからです。
    要するに外国かぶれです。

    明治維新にせよ、大日本帝国憲法にせよ、欧米列強という侵略者たちに立ち向かうために積極的に彼らの文化や軍事を採り入れざるを得なかったという時代背景のもとに生まれたものに過ぎません。
    しかしその目的はなにかといえば、我が国の万年単位で続く、平和な国柄を、民をこそ「おほみたから」とする国柄を護るために行われたものです。

    従って、明治以降に生まれたものが、必ずしも正しいものではないことになります。
    なぜなら、欧米で生まれた大航海時代以降の西洋文明は、支配と隷属、一部の者の利益のみを重視する文明にほかならないからです。
    彼らは、キリスト教を信仰しますが、キリスト教の教えは、民を子羊として慈しむものであると聞きます。
    そうであれば、なぜ、その民が犠牲になり続ける政治体制がいまも続くのでしょうか。

    現代の常識を、あらためて日本の歴史から眺めてみる必要の理由が、ここにあります。

    お読みいただき、ありがとうございました。


    ※この記事は2018年1月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第106回倭塾 2024/1/6(土)13:30〜16:30 タワーホール船堀・2F・蓬莱の間
    第107回倭塾 2024/2/25(日)13:00〜17:00 靖国神社 靖国会館2F偕行東の間

    出版書籍一覧(新しい順)
    22 家康の築いた江戸社会
    21 ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康
    20 奇蹟の日本史
    19 後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち
    18 日本武人史
    17 縄文文明
    16 子供たちに伝えたい 美しき日本人たち
    15 金融経済の裏側
    14 庶民の日本史
    13 日本建国史
    12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
    11 [復刻版]初等科国語 [高学年版]
    10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
    9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
    8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
    7 ねずさんと語る古事記・参
    6 ねずさんと語る古事記・弐
    5 ねずさんと語る古事記
    4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
    3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
    2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
    1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

01 | 2024/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク