• 陸地だった大陸棚


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    人類史のような数千年から数十万年という長い時間の経過を持つものを語るとき、現代の海岸線や気候、国境・人種・民族をもとに考えると、大きな間違いを犯します。
    たとえば稲作がChinaから渡来したなどというのがその典型です。
    地球環境は、温暖化や極端な寒冷化を繰り返していて、海岸線が大きく変化しているし、火山の大噴火もあるし、それによる生命体の大量死もあるし、そしてなにより、いまよりもはるかに人口の少なかった時代、そもそも国境なんて存在しなかったからです。

    20170919 大陸棚
    Google Earthより



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    日本に希望の火を灯す!

    先日ある方からご質問をいただきました。
    ある著名な大学教授が書かれた本に、「弥生時代の始まり頃、日本は大陸や半島と比べて千年の文化の遅れがあった。このため日本は、海を渡ってやってきた呉や越の人々から、稲作や建築技術など、様々な文化を教わり、これによって、日本は弥生時代を迎えることになった」と書かれていたというのです。

    これについて意見を求められましたので、おもいきり否定させていただきました。

    DNAの解析や、稲作の水耕栽培跡など、様々な遺跡の発掘が進み、日本では縄文中期には稲作が行われていたし、穀物保存のために、その時代からすでに高床式住居が用いられていたことなどが、すでに考古学的にも明らかになっています。

    にも関わらず、そうした考古学上の明らかな発見を無視して、いまだに上にあるような珍説に固執する学者がいるということ自体が、子供じみたことです。
    何が目的なの?と思ってしまうほどです。

    もっともこの教授の本にも、一点、見るべきものはありました。
    それは「稲作が朝鮮半島を経由して日本に渡来した」という説が、全面的に否定されていたことです。
    これまた、あるわけがないのです。

    なぜなら、呉や越(つまりいまのChinaの福建省のあたり)で稲作が行われていたとしても、山東半島のあたりから、遼東半島、そしていまの北朝鮮のあたり一帯までは、気象条件がまったく稲作に適さないからです。
    稲作が、稲作のできない・・つまり稲作をしていない・・・稲がない・・ところから渡来した?
    ありえないことです。

    しかも古代の記録を見れば、いまの南朝鮮のあたり一帯は、倭国の一部であり、倭人たちが入植していたことも明らかになっています。
    だから半島で(日本よりもかなり後にできた)古墳も出土しているのです。

    倭人たちが入植したから、南朝鮮のあたり一帯では稲作も行われるようになったのです。
    そうであれば、稲作が朝鮮半島から渡来したとは、韓国の考古学者、古代史学者がどのようなファンタジーの夢を見ようが、夢は夢でしかない。

    おもしろいなと思ったのは、その本を書いた教授さんも、こうした事実から、さすがに「朝鮮半島経由で」という説は、どうやらひっこめたようなのです。

    ところが、だからなのかは知りませんが、日本文化は稲作を含めて福建省から渡来したという説にこだわり、それどころか、「その頃の日本は、大陸と比べて文化に千年の遅れがあった」などと書いているわけです。

    私などは人柄が悪いので、「先生、その千年というのは、具体的にどのような根拠に基づくのでしょうか」と思わず質問してしまいそうです。
    というより、学術本のような体裁を取りながら、何の根拠もなく「千年の遅れ」という表現を使うほうが、学問をする人として、とても残念です。

    現在把握されている考古学上の遺跡からわかっていることは、日本でおよそ8千年前の縄文中期には、水田があり、そして稲作が行われていたという事実です。

    しかし、おそらく実はもっとはるかに古い時代から、日本では稲作が行われていたのであろうと思います。
    というより、「日本では」というのではなくて、日本から台湾、フィリピン、インドネシアといった一帯で、稲が食に用いられていたであろうと思うのです。

    というのは、地球上の最終氷河期のピークは、いまから1万8千年前のことです。
    この頃の年間平均気温は、現代と比べると、▲10度以上も低いもので、このため南極や北極圏の氷河が発達し、海面の高さはいまより、140〜150メートルも低かったことが、近年の研究で明らかになっています。
    そして、その寒冷状態は、いまから約1万年前で続いています。

    そうなると、現在大陸棚となっているところの多くは、海上に露出していたことになります。
    そして、日本列島から琉球諸島、台湾、フィリピン、ボルネオ、スマトラをつなげる大陸棚は陸上にあって、そしてこのラインが、ユーラシア大陸の東の外れの海岸線になっていたことが明らかになっています。

    ところがその寒冷化の時代から、およそ6千年前までの間に地球気温は+10度も上昇していきます。
    すると何が起きるかというと、その陸地だった大陸棚が、海に沈むのです。
    そしてその頃に山だったところの先端だけが海上に露出するようになっていきます。
    こうして陸地として残ったのが、日本列島であり、琉球諸島であり、台湾であり、澎湖島であり、フィリピン、ボルネオ、スマトラであるわけです。

    縄文時代の遺跡の多くが貝塚であることに明らかなように、そのあたり一帯に住んでいた人々は、海に面したところで、貝や海藻を採って暮らしていたことがわかっています。
    こうした人々は、海岸線が後退すれば、いまのように土地の所有権や国の領有権などない時代ですから、当然、住まいを移動させていきます。

    もともとは、血を分けた本家と分家のような関係を持つ村々であったとしても、こうして海岸線の後退によって、分断され、互いの住まいが海に隔てられて行くわけです。

    そしていまから6千年前から5千年前にかけて、地球気温は急速に上昇し、この時期には日本列島の西日本一帯が熱帯地方になります。
    熱帯であれば、稲は自生します。
    縄文時代の遺跡の調査結果から、当時の人々が、木の実や粟、ヒエ、コメなどを採取して食べていたことは明らかになっています。

    つまり、実の多い稲は、貴重な食料であったろうし、それが自生していれば、食べていないと考えるほうがどうかしています。

    そして気象状態が、寒冷化に向かい、熱帯だった西日本が温帯に変われば、そのままでは稲は自生できません。
    だから、熱帯だった当時にあった雨季と乾季を人工的に演出して、稲を騙して生育するようになったのが、水耕栽培です。

    日本では、陸稲と水耕栽培の稲の両方が時代を変えて出土していますが、それにはそのような背景があったものといえようかと思うのです。

    ちなみに少し時代を戻しますが、1万8千年前に、なぜ地球が大寒冷期を迎えたかというと、これにはシベリアの火山の連続した大噴火が原因であったといわれています。
    この噴火で、火山灰が気流にのって世界中に広がり、地上を覆いました。
    このため太陽光が十分に届かずに、地上が冷えて大寒冷期となったのです。

    噴煙はたいへん多くのガラス質を含みます。
    ですから噴煙を吸い込んだ動物は、もちろん人間もですが、肺にガラスが突き刺さり、命を失います。
    つまりこのときに、東亜の人口は東亜全体でも、1万人程度、もしかすると千人くらいにまで減少したのではないかという説があります。
    地球全体でも、人類は合計して1〜2万人になったと言われています。
    そこから、生き残った人々が、いまの人口になったわけです。

    このような地球環境変化の中に、東亜の人々が暮らしていたとするならば、まさに東亜の人々は、2万年ほどさかのぼれば、実は、みんな親戚ということにもなりそうです。
    そしてその親戚同士が、地球の温暖化とともに分断されて、いまの東亜諸国を形成しているわけです。

    このように考えると私には、稲作が福建省から渡来したとか、いやいや日本から渡ったのだとかいう議論自体が、馬鹿げているように思えます。
    もともと発祥の地は、いまでは海にしずんでしまっている大陸棚にあったと考えたほうが合理的だからです。

    また、縄文時代の遺跡が貝塚であるように、原始生活においては、山間部の陸中よりも、海に面した沿岸部の方が、食料を得やすく生活に適しています。
    人類が「毛のない猿」であることも、森での生活ならどうみても体毛があったほうが合理的です。
    海で暮らすなら、体毛がないほうが、体が早く乾きますので、これまた合理的です。

    さらにいえば、山間部の木の上で暮らすにはお猿さんのように両腕の筋肉が足なみに発達している必要がありますが、海で暮らすなら、むしろ魚を船に引き上げるためには、足腰のふんばりが大切になります。
    つまり、人間の体型が適したことになります。

    人間は神様が造ったとか、宇宙人がDNAを交配させて造ったといった説がありますが、本当はそうかもしれないけれど、すくなくとも現代科学で分かる範囲においては、物理的にモノを造るのなら、その神様も宇宙人も、物理的な物体でなければなりません。
    そうであれば、我々の目に見えるはずで、それが見えない以上、現時点では、やはり進化によるものと考えざるを得ないのではないかと思います。

    その進化は、ダーウィンの進化論では「淘汰」、つまり弱肉強食で強いものが生き残るとされますが、歴史を振り返ると、サーベルタイガーにしても、ティラノザウルス・レックスにしても、地上最強の力を持ちながら、全部ほろんでいるわけです。つまり「淘汰」は進化の理由になりません。

    「共生」が進化の理由だという説もまた、サーベルタイガーのような強者が滅び、またオオツノシカなど、絶滅した種が数多くあることからすると、必ずしも「共生」が生き残りの要素とはなりにくい。

    では、進化は何によって起こり、そして何が生き残りの条件かというと、これが「適合」だと言われています。
    環境に適合した者だけが生き残るのです。
    まあ、当然だと思います。
    567にしても、ウイルスに適合した人は生き残るのです。

    このことを示す典型が、現代生きている多くの生物が、すべて脊椎動物である、という事実です。
    哺乳類も鳥類も両生類も、それらはほぼすべてが脊椎動物です。

    その脊椎動物の祖先は、カンブリア紀に登場したピカイアという生き物です。
    ピカイアは、簡単に言ったら「背骨のあるナメクジ」です。
    カンブリア紀は進化の大爆発が起きて、ありとあらゆる生命の形が地球上で模索された時代です。
    この時代に、さまざまな進化の大実験が行われ、そして最後に生き残ったのは、なんと、もっともひ弱なピカイアだったのです。

    なぜ、背骨のあるナメクジでしかないピカイアが生き残ったのかといえば、大切なのが背骨だけで、あとはいかようにも環境に適合したからだとされています。
    つまり、与えられた環境に適合することこそ、実は生き残りの条件だということができます。

    人類はいまは沈んでしまっている大陸棚にかつて住んでいました。
    そして、その海に沈んだ大陸棚で生活し、生まれた技術を持った人々が、Chinaに、台湾に、琉球諸島に、日本列島に、ボルネオに、フィリピンに、インドネシアに、ベトナムに分散して住むようになったのであろうと思います。

    つまり、人類みな兄弟なのです。
    最低見積もっても、東亜の人はみな兄弟です。
    共産主義などにかぶれて、互いの対立を煽る思想は、だから馬鹿げているのです。

    私たち日本人は、弱肉強食の淘汰を望む民族ではありません。
    もちろん共生種でもありません。
    私たち日本人は、常にいまある環境に適合し、いまある環境を、みんなの創意工夫で、誰もがより豊かに、安全に、安心して暮らせる国を目指してきた民族です。
    つまり日本人は、あらゆる環境変化に柔軟に対応し、いかなる時代においても生き残る民族なのです。


    ※この記事は2016年9月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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  • 日本武術の歴史のお話


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    日本武術は、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
    そしてそれは、いわゆる世界の格闘技とは、まったく一線を画する凄みのある世界です。

    建御雷神
    20220922 建御雷神
    画像出所=https://www.amazon.co.jp/%E7%B4%99%E8%8A%9D%E5%B1%85%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98-%E6%96%87%E3%83%BB%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%AE%97%E5%B9%A3-%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%AE%97%E5%B9%A3/dp/B00O7NLPPU/ref=sr_1_1?crid=2B6SPURWXLEIM&keywords=%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98+%E7%B4%99%E8%8A%9D%E5%B1%85&qid=1663795790&sprefix=%E3%80%8E%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%8F%E3%80%80%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%81%97%2Caps%2C202&sr=8-1
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    日本に希望の火を灯す!

    拙著『日本武人史』から、「武術の始まり、建御雷神」をご紹介してみようと思います。

    タケミカヅチノカミは、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と書かれます。
    葦原の中つ国、つまり地上の国を大いなる国に育てあげた大国主神に、
    「天照大御神(あまてらすおほみかみ)、
     高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(も)ちて
     問(と)ひに使之(つか)はせり。
     汝(いまし)の宇志波祁流(うしはける)
     この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、
     我(わ)が御子(みこ)の所知(し)らす国(くに)と
     言依(ことよ)さし賜(たま)ひき。
     故(ゆゑ)に汝(いまし)の心(こころ)は奈何(いかに)」
    と国譲りを迫った神様です。

    古事記では、このとき建御雷神は、
    「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き放ち、
     その剣を逆さまに波の上に刺し立てると、
     その剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)をかいて
     大国主神に問い迫った」
    と記述しています。

    日本書紀は少しだけ違っていて、
    「十握剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、
     その剣を地面にさかさまに植えるかのように突き立てて、
     その切っ先の上に堂々と座る」
    と書いています。古事記は「海の波の上」、日本書紀は「地面」に剣を突き立てたとしているのですが、両者とも、その切っ先の上に大胡座をかいて座ったというところは一致しています。

    神々の技(わざ)ですから、もちろん本当に剣の切っ先の上に座られたのかもしれません。
    ですが普通には、現実的に、そのようなことは奇術でもなければ、まずありえないことです。
    そんなことは、記紀が書かれた古代においても、誰もがわかることです。
    ということは、これは、別な何かを象徴した記述であるということです。

    大国主神の側は、大軍を擁する大いなる国です。
    そこへ乗り込んだ建御雷神は、いきなり国王であった大国主神に直談判をしています。
    もちろん高天原からの使いですから、直接国王に面会が可能であったとしても、それでも「剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)」というのは、ありえない描写です。

    この点について、日本書紀は、経津主神(ふつぬしのかみ)と、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜を先に述べています。

    ▼経津主神(ふつぬしのかみ)の系譜
    【祖父】磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)
    【父母】磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)
    【本人】経津主神(ふつぬしのかみ)

    ▼武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜
    【曾祖父】稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
    【祖父】 甕速日神(みかはやひのかみ)、
    【父】  熯速日神(ひのはやひのかみ)
    【本人】 武甕槌神(たけみかづちのかみ)

    ここで祖父や父として書かれている神々は、古事記では、いずれも火の神が生まれることでイザナミが亡くなったときに、夫のイザナギが子の火の神を斬り、このときに飛び散った血から生まれた神として登場している神々です。
    古事記は、親子というよりも兄弟の神であるかのような記述になっているのですが、日本書紀では親子関係です。

    登場する神々は、いずれも剣に関係する神々です。
    磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)は、岩さえも根っこから斬り裂くという御神刀を意味する御神名です。
    子の磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)は、それだけ鋭利な剛剣を筒に入れる、すなわち鞘(さや)に収めている状態を示します。
    そこから生まれた経津主神(ふつぬしのかみ)は、日本書紀に登場する神(古事記には登場しない)ですが、後に香取(かとり)神宮(千葉県香取市)の御祭神となる神様です。
    別名を、香取神、香取大明神、香取さまといいます。

    一方、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は鹿島神宮の御祭神です。
    香取神宮と鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置しています。
    そしてこの両神は、我が国の古来の武神です。
    流派はそれぞれ鹿島神流、香取神道流といいます。
    いずれも我が国武術の正統な系譜であり、とりわけ香取神道流は、現存する我が国最古の武術流儀といわれています。
    いずれも最低でも二千年、もしかしたら数千年もしくは万年の単位の歴史を持つ武術流儀です。

    二千年前なら弥生時代、数千年前なら縄文時代の中期です。
    縄文時代には、人を殺める文化がなかったのですが、それでも集団においては正義が行われなくてはなりません。最近の研究では、縄文時代中期には青銅器、弥生時代には、すでに鉄器が使われていたことがわかっていますから、そうした古い時代から、なんらかの刀剣類が用いられていた可能性は否定できません。

    武術というのは、普通なら、体躯が大きくて力の強い者が有利です。
    早い話、どんなに強くても、武術を知らない大人と小学生では、大人が勝ちます。
    当然のことながら、小柄な小学生が、力の強くて大きな大人に勝つためには、なんらかの工夫がいります。
    こうして武術が工夫されます。

    工夫は、一朝一夕に完成するものではありません。
    天才的技能を持った人が現れ、その技能が伝承され、さらに世代を重ねるごとに技術が工夫され、それが何百年、何千年と蓄積されることで、信じられないような武術になっていきます。

    残念ながら、海外の諸国には、そうした武術の伝承がありません。
    世界中どこの国にも、その歴史において偉大な武術家は何人も現れたことでしょう。
    伝承も工夫もされたことでしょう。
    けれど、それらは長くても数百年のうちにすべて滅んでいます。

    なぜなら国が滅び、その都度、皆殺しが行われているからです。
    とりわけ強い武術流派は、新政権にとっては恐怖そのものですから、皆殺しどころか、その一族全員が殺されています。
    つまりこの世から消滅しているわけです。
    チャイナがそうですし、西欧でも同じです。

    米国には「マーシャルアーツ(martial arts)」と呼ばれる軍隊格闘技がありますが、マーシャル・アーツという言葉は、実は日本語の「武芸」を英訳した言葉です。
    文字通り「武の」(martial)「芸」(arts)です。

    ところが日本の武術は、何千年もの昔から工夫され、伝承されてきた武術が、いずれも途切れることなく、世代を越えて磨かれ、工夫されてきた歴史を持ちます。
    とりわけ歴史の中には、何人もの天才としか言いようのない武術家が現れ、技術がさらに工夫されました。
    また武者修行といって、一定の練達者が、遠く離れた他流派の道場に学びの旅をして技術交換をして、さらに技能を高めるといったこともさかんに行われました。

    こうして数百年、数千年と磨かれ続けてきたのが、実は日本の古来の武術です。

    よく中国武術を古いものと勘違いしておいでの方がいますが、中国武術もまた、実は日本の武術が大陸に渡って成立したものだという意見があります。
    筆者はこの説を支持しています。

    それにしても、たった二人で、大軍を要する大国主神に直談判するというのは、これは大変なことです。
    もちろん中つ国は敵地ではありませんが、それでも何十、何百という軍勢を前にしての談判ですから、そこで圧倒的な武術が示されたのでしょう。
    このことが、「切っ先の上に大胡座をかいて座った」という描写に集約されているのではないかと思います。

    さらにその後に行われた建御雷神と、大国主神の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いの描写は、我が国古来の武術の姿を垣間見せるものになっています。
    相手となる建御名方神は、千人が引いてやっと動くような大きな岩をひょいと持ってやってたとあります。
    これは建御名方神が、相当な力持ちであったことを意味します。

    そして、
    「ワシの国に来て、こっそり話をするのは誰だ!」と問い、
    「ワシと力比べをしようではないか」と申し出ると、
    「まずはワシが先にお主の腕を掴んでみよう」と、建御雷神の手を取る。
    すると建御雷神の手が、一瞬にして氷柱のような剣に変わり、建御名方神が恐れをなして引き下がったとあります。

    今度は建御雷神が、
    「お前の手を取ろう」と提案して手をとると、その瞬間、建御名方神は、まるで葦の束でも放り投げるかのように、飛ばされてしまいます。飛ばされた建御名方神が逃げると、それを遠く諏訪まで追って行って降参させています。

    古事記のこの描写は、後に武術を意味する古語で「手乞(てごい)」と呼ばれるようになります。
    手乞は「我が国の相撲(すもう)のはじまり」とも言われますが、力と技のぶつかりあいである相撲よりも、これもまた日本の古武術をそのまま紹介しているものと言うことができます。
    なぜなら日本の古武術では、相手に触れられれば、触れられた場所がそのまま凶器のようになり、また、相手に触れれば、その触れた部位を、そのまま相手の急所のようにしてしまうからです。

    アニメの「北斗の拳」では、「経絡秘孔をピンポイントで突く」といった描写がなされていますが、それはアニメやマンガのなかでの話です。
    実践で動く相手を対象に、ピンポイントでツボを突くというのは、現実にはよほどの練達者でも難しいものです。

    ですから日本の古武術では、相手に触れたその場所を秘孔にしてしまいます。
    また、相手に触れられれば、その瞬間に触れられたところを凶器に変えてしまいます。
    そして、気がつけば、遠くに投げ飛ばされてしまいます。

    これは、実際に体験した人でなければなかなかわからないことかもしれません。
    が、実際に、腕が、手が、鋭利な剣となり、また相手をまるで紙人形でも倒すかのように、投げ飛ばしてしまうのです。

    記紀が書かれたのは、いまから1300年前です。
    建御雷神の戦いは、まるで魔法のような武術によって建御雷神が勝利した物語ですが、古事記が書かれた1300年前には、すでにこうした、まるで魔法のような武術が実際に存在していたことを示しています。
    そしてその武術は、現代もなお、実在しています。

    ひとつ経験談(体験談)をお話します。
    それはある古流の武術家の先生の道場を訪問したときのことです。
    先生から抜身の真剣を渡され、「この刀で私に打ちかかって来なさい」というのです。
    いくらなんでも真剣ではこちらが怖いので、「では木刀で」ということになったのですが、全力で大上段から先生に面打ちを仕掛けて来いというのです。
    これは恐ろしいことです。
    下手をすれば先生に大怪我をさせかねない。
    だから遠慮したのですが、
    「構わないから全力で打ちかかってきなさい」と、こうおっしゃる。

    そこまで言われるなら、相手は先生なのだしと腹を決めて、言われた通りに全力で上段から先生に面を打ち込むことになりました。
    先生は防具すら付けていません。
    手に木刀も持っていません。
    つまり何も持っていません。
    だから真剣白刃取りのようなことをするのかな、と思いながら、面を打ち込みました。

    自慢するわけではありませんが、私も(学生時代のことですが)多少の心得はあります。
    面打ちの速さには、多少の自信もあります。そこで(本当は怖かったけれど)丸腰の先生に向かい、すり足で距離を詰めながら「エイッ」と木刀を振り下ろそうとしました。
    ところがその瞬間、筆者は凍りついてしまいました。

    先生が腰をすこしかがめて、手刀を突き出したのです。それは、ただ手刀を、顔の少し前に突き出しただけです。手刀は確実に私の喉元をうかがっていました。

    その結果何が起こったのかというと、振り下ろそうとした私の木刀が停まりました。そして身動きがつかなくなりました。どうしてよいかわからず、そのまま固まってしまったのです。

    固まった私から、先生は悠々と木刀を取り上げました。
    気がつけば木刀を打ち込もうとした私は、刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけとなっていました。
    その姿勢のまま木刀を取り上げられ、その姿勢のまま固まっていました。

    この間、ほんの一瞬のことです。
    そしてこれが日本古来の武術の凄みだと理解しました。

    何が起こったのかは、いまだによくわかりません。
    ひとつの理解は、肉体を使って木刀を振り下ろそうとした私は、霊(ひ)を抜かれてしまったのかもしれないということです。
    人は霊(ひ)の乗り物です。
    霊(ひ)を抜かれると、肉体の動きは停止してしまいます。
    そして肉体が停止しているから、先生は悠々と、固まっている私から木刀を奪い取った。
    その間、私の肉体は、ただ固まっているだけった・・・・ということかもしれません。

    これは筆者が実際に体験したことですが、そこには、スポーツ化した現代武道とはまったく異なる、日本古来の伝統的武術がありました。
    そしてその武術は、こうして経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
    そしてそれは、いわゆる格闘技とは、まったく一線を画する世界です。

     ***

    以上が拙著『武人の日本史』に書いた文章です。

    ひとつだけ補足します。

    縄文時代は、いまから1万7000年前に始まり、3000年前まで、なんと1万4000年も続いた時代です。
    縄文時代の遺跡は、全国に数万箇所あり、その発掘も進んでいますが、その1万4000年間に、戦争によって多くの人命が奪われたことを証明する遺跡は、なんとひとつもありません。

    そこで思うのです。

    いくら平和な時代であったとはいえ、人間の織りなす世の中です。
    喧嘩もあれば、争いもある。
    ときには村同士での相克もあったことでしょう。
    けれど、武器を用いて人を殺めたことを証明する遺跡や人骨が、いまだにひとつも出てこない。
    このことが何を意味しているか、ということです。

    そこにひとつの仮説が成り立ちます。
    縄文時代には、体術としての武術がものすごく発達していたのかもしれない、という仮説です。

    合気道といえば塩田剛三氏が有名ですが、仮に塩田氏が二人いたら、これは戦いになりませんし、怪我もしません。
    合気道は、大東流合気柔術から明治時代に別れた流派ですが、その大東流の歴史は、平安末期の新羅三郎義光にまで遡ります。
    その武術が甲州武田家に伝わり、武田氏が滅んだあと、その流派を会津藩が受け継いで幕末に至りました。

    では新羅三郎義光の武術は、どこから来たのかと言うと、これがそれ以前の律令時代から続く武術に依るとされます。
    実際、律令時代に行われた遣隋使、遣唐使では、使節団には人格高潔、学問優秀、背が高くてイケメンという条件の他に、武術に秀でていることが選ばれる条件となっていました。
    つまり、聖徳太子の時代の小野妹子は、そのまま武芸の達人であったわけです。

    我が国の歴史を調べてみると、矛(槍のこと)は、天の沼矛に象徴されるように、創生の神々の時代からそれは存在しています。
    また古事記や日本書紀の神代には、弓も登場します。
    縄文時代の遺跡には、なるほど、弓も矢も、矛も出土します。

    ところが不思議なことに、剣は出土しません。
    剣は、接近戦で用いるものですが、接近して戦おうとするなら、体術で霊(ひ)を抜かれてしまうのです。
    これでは剣は用いようがない。

    応神天皇の頃、秦の始皇帝の一族が帰化して秦氏となっていますが、彼らはチャイナの戦国乱世からやってきましたから、剣や槍を使います。
    彼らは応神天皇から許可を得て、薄い絹の織物や武術を教えるために全国諸国を巡るのですが、そのときに村の若者達に剣や槍の使い方を教え、このことが原因となって、たくさんの秦氏(八幡)を祀る神社として、八幡神社が全国に創建されています。

    日本武術の歴史は、とてつもなく古いのです。


    ※この記事は2022年9月の記事を大幅に加筆したものです。
    日本をかっこよく!

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    だからこそ板さんは、その心を鍛えるためにきびしい修行を積んだのです。
    日本食は、日本の文化のひとつです。
    そして日本の文化は、だれでもわかる入り口の広さが特徴ですが、奥行きがものすごく深い。
    ただのパクリでは、日本の味は真似できないのです。

    20230912 金沢まいもん寿司
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    日本に希望の火を灯す!

    半世紀前には、一時期、高級品だったお寿司。
    回転寿司の普及と競争で、いまではすっかり庶民に人気の食べ物になりました。
    このお寿司、来日する外国人にも大人気で、「日本食で何がお好きですか?」と聞くと、十中八九の外国人が「寿司」と答えます。

    そのお寿司、お寿司そのものの歴史はとても古いのですが、昨今定番の江戸前寿司は、意外と歴史は浅くて、生まれたのはほんの200年ほど前です。
    一方、寿司の名の由来となった「なれ寿司」の歴史は古くて、縄文時代には、すでに作られていたとか。

    「なれ寿司」というのは、魚を米飯でくるんで発酵させた食品で、昔は魚の長期保存のために作られていました。
    日本のように高温多湿の国では、食材がいたみやすいため、いざというときのために食品を長期保存する保存することは、まさに死活問題です。
    とりわけ縄文時代は、貝塚が示すように、多くの人が海沿いの村で暮らしていましたが、台風の影響などで海が時化ったり、あるいは海水温の関係で、それまで獲れていた魚がまったく取れなくなったりなどに、生きのこれるかどうかは、まさに食料保存にすべてがかかっていたわけです。

    日本に稲作が普及したのも、まさにそのためで、お米は玄米の状態にすれば、常温で20年経っても食べることができます。
    冷蔵庫がなかった時代に、このことがどれだけ貴重なことであったのか。

    日本で、いわゆる発酵食品が開発普及したことも、日本が高温多湿で食料保存がむつかしい国であることが、おおいに関係しているとみるべきです。
    その発酵食品の、いわば代表格になるのが「なれ寿司」でもあるわけです。

    ところが本当に近年、頭がどうかしているのかと思うのですが、そんな「なれ寿司」さえも、
    「もともとの発祥は
     タイの北部から中国雲南省にかけての地域で、
     弥生時代に稲作が中国から伝わったのと
     同じルートでもたらされた」
    というのが学者さんの説です。

    ちょっと考えたらわかることですが、タイの北部というのは山岳地帯です。
    そこでどうして海魚が常備食になるのでしょうか。
    また中国から伝わったといいますが、中国の発酵食品で古くて有名なものが「腐乳」ですが、これは豆腐に中国の麹を入れて発行させたものです。
    ところが豆腐を作るのに必要な「にがり」は、海水から天日採塩法で塩を得るときに、まだ湿気ている塩から滴るマグネシウムを大量に含む水のことです。
    要するに、海に面していて塩田のあるところでしか採ることができません。

    つまり豆腐が生まれるためには、大豆と塩田の両方が備わっていなければならないわけで、そうなると内陸部の広い中国で豆腐が生まれたとは、どうにも考えにくいし、ましてそれが朝鮮半島を経由して日本にもたらされたという論説は、普通にちょっと頭を働かせれば、誰でも「おかしい」とわかることです。

    一方「なれ寿司」は、魚とお米があれば、生まれる可能性はいつでもあるわけで、日本においておそらくは縄文時代には、すでに食されていたと考えて、なんら不思議はありません。
    「なれずし」で有名なのは、滋賀県琵琶湖の鮒寿司や、和歌山県の「サンマのなれ寿司」などで、なかでも和歌山県の「サンマのなれ寿司」は、30年も保存できる食品です。

    加えて「なれ寿司」は栄養価抜群で、美肌効果、アンチエイジング効果があるだけでなく、一日一舐めするだけで、整腸、便秘解消、体内毒素の排出効果など、味のおいしさもさりながら、きわめて健康に良い。
    あのね、美と健康は、現代人だけでなく、縄文弥生の時代にも、女性はいくつになっても美と健康を大事にしたと思うのですが、いかがでしょうか。
    だって現実に縄文女性は、指輪にイアリング、アームリング、ブレス、ネックレスなど、ものすごくおしゃれで、縄文時代の女性の服装は、そのまま現代の原宿あたりを歩いても、とっても素敵な衣装です。

    さて、こうして奈良平安、鎌倉室町江戸時代と食され続けてきた「なれ寿司」ですが、これに大きな変化があったのが、江戸時代の文化文政年間のことです。

    文化文政年間というのは、江戸の街に人口が集中し、まさに江戸の庶民文化が花開いた時代で、ですから江戸時代を描く時代劇では、たいていこの時代が舞台になります。
    たとえば銭形平次や、火盗改方の鬼平さん、大岡越前守や遠山の金さん、浮世絵や歌舞伎が世の人気をさらったりする時代が、まさに江戸の文化文政年間です。

    これより少し前には元禄時代がありましたが、こちらはどちらかというと上方(大阪)文化が花開いた時代で、大阪の豪商、淀屋辰五郎が大名をもしのぐ大金持ちとなって天井に水槽を築き、そこで魚を飼ったなどという逸話が残されました。
    赤穂浪士の物語が、この元禄時代の物語ですが、討ち入りは江戸ですけれど、大石内蔵助の芸者遊びなどは、京都での出来事です。

    文化文政年間は、元禄より100年ほどあとの時代で、第11代将軍の徳川家斉(いえなり)が、将軍職を引退して大御所となって権勢をふるった時代だったことから、大御所時代とも呼ばれています。

    将軍家斉というのは、とかく賛否両論のある人で、将軍としての職務と責任は12代将軍の家慶(いえよし)に全部まかせ、自分は贅沢三昧して遊び暮らしたという豪傑です。
    おかげで江戸市中にお金がよくまわり、結果、江戸の景気がものすごく良くなって、江戸の町人文化が花開いた・・・というわけです。

     ***
    ※ このこと、歴史を学ぶ上でとっても貴重です。
    事の良し悪しは別として、政府がお金を【国内で】いっぱい遣うと、都市部の景気が良くなって庶民生活が向上するということだからです。
    よく「マリー・アントワネットが贅沢三昧をしたからパリ市民の生活が貧しくなってフランス革命が起きたのだ」と言われますが、マリー・アントワネットは、バリの洋装店から衣服を買っていたし、宮中に集う貴族たちも市中で大枚をはたいて贅沢な衣服を買い、美容師に髪を結ってもらっていたのです。
    ということは、パリの景気はものすごく良くなったわけで、それがパリ市民の怒りになったというなら、別な理由をちゃんと考えなければ、理屈が合わなくなるのです。
    同様に現代日本の30年の不況も、国会やメディアがやたらに緊縮を叫ぶようになってきてから起きた事象といえます。
    政府は国内でお金を遣うと叩かれるから、海外にお金を撒き散らすようになり、結果日本は対外債権世界一(419兆円)を持つ国になっています。
    その419兆円が、内需に向けられていたら、単純計算すれば国民一人当たり400万円の所得増。
    4人家族なら1600万円の所得増になっていたことになります。
     ***

    文化文政時代に出た有名人としては、東海道五十三次の安藤広重、世界的に有名な歌麿、北斎、東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九、天才歌舞伎役者として有名な七代目市川団十郎。
    学問の世界では、35年がかりで古事記全巻の通訳本を出した本居宣長、解体新書を出した蘭学の杉田玄白などがいます。

    そして、この時代に生まれたのが、「酢」と「江戸前寿司」なのです。
    「なれ寿司」を簡素化して生まれたのが、大阪のバッテラ、いわゆる押し寿司ですが、この押し寿司が、大きく変化したのが、文化文政時代の江戸だったのです。

    最近では、大阪の押し寿司も酢飯を使いますが、もともとは米を使って発酵させて作るものだったようです。
    ところが、発酵食品というのはどれもそうですが、出来上がるまでにものすごく時間がかかります。
    魚を仕入れて、米に漬けて発酵させて、いざ食べれるようになるまでには、早くて1~2週間、長いものでは一年以上かかるわけです。

    気の短い江戸っ子が、そんなに待ってなんていられねえ!とばかり、炊きたてのご飯に「酢」を混ぜることで、発酵米もどきの味をつけ、そこに新鮮な魚をちょいと乗せ、わさびを加えて、
    「ハイ、お待ち!」
    お客さんは、これをちょいと醤油に浸して、ポンと口に入れていただく。
    これが江戸前寿司で、手軽に作れて、すぐに、しかも早く食べれることから、気の短い江戸っ子にぴったり!ということで大評判になり、いっきに江戸の町で普及しました。
    あまりの人気に、江戸前寿司は関西にも流れ出て、押し寿司の大阪寿司まで酢飯が用いられるようになったわけです。

    この酢飯誕生には、同じ文化文政の時代の「酢」の量産化が重要な要素となりました。
    どういうことかというと、文化元(1804)年に、尾張名古屋の半田村で、造り酒屋を営んでいた中埜又左衛門(なかのまたざえもん)という人物が、「酢」を江戸で売ろうとしたのです。
    これは、いわばお酒を作る際に捨てていた汁(もっと悪い言い方をするなら、お酒のおしっこみたいなもので、それまで廃棄物だった汁)を、人口の多い江戸で売ろうとしたのです。

    それだけみたらずいぶんな話ですが、中埜又左衛門の頭の良かったのは、
    「なれずしを作るには時間がかかりすぎるじゃねえか。
     炊きたてのご飯に酢を加え、
     食べやすい大きさにご飯を握って
     その上にネタを乗せて出したらどうか」
    と、いわゆる「提案型営業」を江戸で行ったのです。

    この提案に飛びついたのが「華屋(はなや)」という「なれ寿司店」を営んでいた与兵衛さんです。(つなげて、華屋与兵衛といいます)。
    華屋与兵衛は、福井県南部の若狭の生まれの人で、早くに両親が病死したため、ひとりで江戸に出て、小さな【なれ寿司店」を開いていたのです。

    そんな小さな「なれ寿司屋」に現れたのが、中埜又左衛門で、
    「米をいちいち発酵させなくても、
     酢を加えれば、あっという間に酢飯ができますぜ」
    「なるほど!
     こりゃ、楽でいい!」
    と納得した華屋与兵衛さん。
    さっそくこれに「江戸前握り寿司」と名前をつけて商品化したのです。
    (ネーミングって大切ですね)。

    するとこれが、大ヒット!

    なにせ発酵食品と違って、手軽に作れる。
    早いし、安いし、旨い!!

    華屋はまたたく間に江戸っ子にもてはやされ、毎日長蛇の列ができるほどの繁盛ぶりとなりました。
    こうなると次々に真似をする者も現れます。
    おかげで、にぎり寿司屋は、瞬く間に江戸中に広がって、ついには江戸の名物になるのです。

    江戸には、屋台で廉価な寿司を売る「屋台店」が市中にあふれ、料亭のような店舗を構えて寿司を握る者、あるいは持ち帰りや配達で寿司を売る者、宅配する者など、あっという間に江戸中に普及していきました。

    そして箱寿司が主流であった大阪にも、江戸前寿司の店は広がり、天保年間には名古屋にも寿司店ができるようになりました。
    こうして手軽な握り寿司は、あっと言う間に全国に広がったのです。

    江戸前寿司が普及するにつれ、酢の需要もうなぎ上りに増大しました。
    おかげで「酢」造りの中野又左衛門の造り酒屋も、またたく間に巨大なメーカーに育って行きます。

    この中野又左衛門が創業した商店は、いまでも残っています。
    その社名が「ミツカン」です。
    そうです。あの「株式会社ミツカン」です。
    ミツカンは伝統で、いまでも社長は中野又左衛門(中埜又左エ門)を名乗っています。

    ちなみに、昨今関東で見かける「華屋の与兵衛」というファミレスは、これは関西資本のライフコーポレーションが設立したチェーン店で、寿司を始めた与兵衛さんとは関係はないそうです。

    ちなみに、どうも戦後の歴史教科書というのは、とにもかくにも江戸時代は貧しい時代で、武家が贅沢三昧な王侯貴族のような暮らしをし、庶民は貧窮のどん底暮らしを余儀なくされていたという荒唐無稽な歴史観を無理矢理生徒たちに刷り込んでいますが、これは違います。

    そもそも、武家しか米が食べられないような社会情勢だったのなら、江戸前寿司が江戸町民の間で普及するなんてことは、起こりえません。
    それでも、武家に搾取されていたなどと、子供じみたデタラメを言うような教師や学者には、二度と君たちは寿司を食うな!と言いたいくらいです。

    そもそも日本の歴史を、共産主義思想による階級闘争史観で図ろうとするところからして、無理があるのです。
    日本の歴史は、支配するものと支配される者、収奪する者と収奪される者という二極化した階級闘争の歴史ではありません。

    天皇のもと、身分という社会的な役割の違いを互いに尊重することで秩序を築いてきた歴史を持つのが日本です。
    従って、日本における身分制は、
    「社会の秩序を保持するための制度」であって、チャイナやコリア、あるいは西洋にあるような
    「富の収奪のための制度」ではありません。

    そもそも武家の屋敷というのは、実に簡素で空っぽです。
    西洋の王侯貴族のように、屋敷中に高価な宝玉がそこここに飾り立ててあるなんてこともありません。
    ないということは、贅沢をしていなかった、ということです。

    むしろ、士農工商という江戸身分制度は、富の順番からすれば「商工農士」の順で、自らの貧窮をかえりみず、民を豊にすることこそ武家の役割とされていたのです。

    だからこそ、町民は「宵越しの銭」を持たなくたって、ちゃんと生活が成り立ったし、農家においては、祭りの際に豪華な屋台や御神輿を作れるくらいのゆとりさえあったのです。
    そもそも歌舞伎だって、町人文化です。

    そうそう。「握り」の話が出たので、もうひとつ。
    世の中で一番美味い「おにぎり」って、なんだかわかりますか?

    それは、母親が幼子の遠足のためにと作る「おにぎり」だったり、あるいは新婚ホヤホヤの新妻が愛する夫のために作る、すこし形のおかしな「おにぎり」だったりするのだそうです。
    これは、愛情のこもったおにぎりが、その食材そのものの味わいよりも、もっと大きな味わいと美味しさを持つからだと言われています。
    すべてのものは振動によって出来ているといいますが、その振動に愛情の波動が乗る、ということなのかもしれません。

    料亭の板前さんや、寿司屋の職人さんというのは、単に最高級の食材を仕入れ、包丁の使い方から調理の仕方まで、その技術を鍛え上げるというだけでは、実は、本当に美味しい味を引き出すことはできないのだそうです。
    だからこそ、何十年もかけて、母の愛に勝てる味わいを出せるように修行を積むのです。

    昨今では、お寿司も廻り寿司で簡単に食べれるようになりましたが、一昔前までは、寿司はお寿司屋さんで握ってもらうのが常でした。
    すると、同じお店で、同じ材料を使って握っているのに、親父さんが握るお寿司と、修行中の息子さんが握る寿司では、まるで味が違う、なんてことが、よくありました。
    ですから、修行は、まさに消費者に直結していたのです。
    単にネタがでかいとか、新鮮だとか、米や酢が良いとかいった物理的なものだけでない何かが、そこにあるのです。

    味は心がつくるもの。
    だからこそ板さんは、その心を鍛えるためにきびしい修行を積んだのです。

    さて、その寿司ですが、近年、寿司や海鮮丼がたいへんな人気で、おかげで外国資本の寿司屋さんが、日本にも、米国にもたくさんできるようになりました。
    看板は派手なんですよね。
    ところが味はとみると、もう最悪。
    店内は生臭く、ネタもただ解凍しただけの、氷状態であったり、水っぽかったり。
    シャリと呼ばれるご飯も、酢飯の具合がわからないらしく、ただの普通のご飯であったり。

    江戸前寿司というのは、ただシャリの上に刺身が乗っていれば寿司になるわけではなくて、すべてが活きの良さによって成り立つものなのであろうかと思うのですが、キムチなどの超辛い食品ばかりを口にしていると、微妙な味覚が崩れてわからなくなってしまうのかもしれません。

    都内の高級寿司バーも、値段は張るのですが、味は素人のおばちゃんたちが造るスーパーのお寿司のお弁当のほうが、はるかにマシだったりすることがあったりします。
    逆に、銀座の小さな回転寿司屋さんが、実に見事な味だったり。

    もともと江戸前寿司は、ご飯を醗酵させるのではなく、単に酢を混ぜることで、手軽に誰でも簡単に作れるようにした食品です。
    けれど、簡単で単純なだけに、奥がものすごく深い。
    そういうことがちゃんと理解できる日本人の経営者が、しっかりとした味を追求し、かつ、修行を積んだ日本人の寿司職人さんが握るお店が、お寿司はやっぱり美味しいです。

    日本食は、日本の文化のひとつです。
    そして日本の文化は、だれでもわかる入り口の広さが特徴ですが、奥行きがものすごく深い。
    ただのパクリでは、日本の味は真似できないのです。


    ※この記事は2012年12月の記事のリニューアルです。
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    人物写真で、誰もが幸せを感じる写真は、年寄の周囲に親族一同が集まった集合写真なのだそうですが、そんな集いができた日本という国は、まさに幸せの国であり、蓬莱山そのものであったといえるのではないでしょうか。

    20220921 親族一同
    画像出所=https://www.ac-illust.com/main/search_result.php?word=%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85
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    日本に希望の火を灯す!

    チャイナに「老師」という文化があります。
    「老師」というのは、一般にお師匠さんとなる年寄りのことで、年輪を重ねた分、学徳があったり、世の中を知っていたり、あるいは武術に長けていたりします。
    そうした人たちのことを「老師」と呼ぶわけですが、チャイナではこの「老師」というのが曲者で、とにかく威張る威張る(笑)

    古来チャイナでは「老師」はしゃにむに尊敬しなければならないとされていて、「老師」に服従することが若者の勤めというのが彼らの文化です。
    ですからある意味「老師」というのは絶対的な存在です。
    「老師」の指示には逆ってはいけない。
    それがいわば社会常識になっているし、「老師」の側もこのことを知っていて、やたらに威張ります。

    チャイナ映画に、よく白ヒゲを長く伸ばした「老師」が登場しますが、ようするにあのような人たちです。

    もちろん日本でも昔から老人は尊敬するものとされてきました。
    もちろん日本にも老師という存在はあったりします。
    けれど日本の老師は、まさしく老人で、ある意味、ヨボヨボ(笑)。
    一方チャイナの「老師」は、どういうわけか元気が良い。

    この違い・・・に秘密があります。

    まず、これは日本もチャイナも、世界中同じことなのですが、ほんの百年ほど前までは、子供はよく死にました。
    だいたい十歳まで生きることができる子というのは、特に男の子であれば、確率的に50%ほどです。
    たとえば千人の男の子が生まれれば、そのうちの500人が、十歳に至らずに死んでいったのです。
    女児も亡くなる子がありましたが、全体の1割位。
    女子の方が、断然強い!!(笑)

    ちなみに昔はどこの国のどこの民族でも一夫多妻制でしたが、これには理由があって、男子は成人する子が5割程度であることに加え、成人後にも事故や戦争でそのまた半分が死んだのです。
    ですから、たとえば男1000人、女1000人で、合計千人の子が生まれでも、20年後くらいには、男子は子供のうちに半分、成人してからまた半分が死にますから、生き残っているのが250人程度。
    これに対して女の子は、成人する子が900人であったわけです。

    男が250人、女が900人。
    つまり男二人につき、女が7人という社会構造でしたから、戦死した兄貴の嫁さんと子供を、弟が妻に娶って妻子を安なうなんてことはあたりまえのようにあったし、力のある大金持ちや権力者が側室を10人20人と置くこともまた、ごくあたりまえのことであったわけです。

    これが現代では、医療の発達のおかげで、幼児の死亡率が限りなくゼロに近づき、ほとんど全員が晴れて成人できるようになりました。
    幼児が病気や怪我などで死ぬと、逆に医療過誤の問題になったりと、一昔前までなら考えられないような社会にいまはなっているわけです。
    このことは実に不思議なもので、五割が死ぬという時代では、子が事故や病気から助かると、それがお医者への感謝になりましたが、医療が発達して死亡者の割合が限りなくゼロに近づくと、逆に医者の責任が問われだし、医者への感謝さえもなくなるわけです。
    人間の気質というのは、ある意味、悲しい。

    さてこうして昔は、まず幼児の死亡率が五割近くもあって、その上、やっと成人になっても、食糧事情が悪くて、食材の衛生環境が劣悪だと、やはり病気や、栄養不足などで、死ぬケースがあります。
    とりわけ一昔前までのチャイナでは、衛生環境がとびきり悪かったため、ほんの70年前まで、平均寿命が35歳です。(いまは77歳です)

    どういうことかというと、栄養状態が悪いところに、衛生環境も劣悪。
    城塞都市内では、糞尿が壺に捨てられ、それを農民が桶に入れて天秤棒で畑まで担いで運びます。
    その桶は、洗いもせずに、出来た野菜等をその桶に入れて、城で売り歩く。
    畑に持っていった糞尿は、素足で女性たちが土と捏ねてかき回す。
    (このため、近代までのチャイナの平民女性の服装は、下が黒の半ズボンでした)

    こうなると、感染症が広がったとき、村や城塞ごと全滅することが、ごくあたりまえのようにあったわけです。
    もちろん、医療もありません・・・とこのように書くと、日本の昔の医療は中国生まれじゃなかったの?と思われる方もおいでかもしれませんが、もちろんチャイナでも一定の医療はありましたが、それらは政府高官たちだけのもの。
    一般の庶民が死のうが病気になろうが、国はお構いなし、というのが国柄であったわけです。

    そうした社会が二千年以上続いているわけですから、チャイニーズがいまだけ、カネだけ、自分だけという思考を発展させていったことも、ある意味、当然といえます。
    こうしたチャイナ社会にあっては、40代も半ばをすぎれば、もはや老人です。
    その年令に達することができる人自体が、めったに居なかったからです。

    さりとて実年齢は、50歳前後です。
    実際には、まだまだ若いし、覇気もあれば体力もある。
    しかも、自分以外は、皆、若者たちばかりという環境ですから、老人が希少価値で「老師」と呼ばれ、歳を重ねていること自体が、価値を持ったわけです。

    人生時計という言葉があります。
    年齢を時計の文字盤になぞらえたものです。
    たとえば、30歳なら、24時間表示の人生時計で、まだ午前10時です。
    社会人なら、今日の仕事に取り掛かり、仕事に集中している時間帯です。

    50歳なら17時、つまり午後5時で、さあ、いよいよアフター5です。
    60歳だと、夜の8時。夜のお楽しみタイム、つまり人生のお楽しみタイムは、これから。
    66歳だと、午後10時(22時)で、勉強や今日一日の反省のの時間。
    69歳になると、午後11時(23時)で、そろそろおネム。
    72歳で24時で、その先は午前様のサービスタイム、というわけです。

    要するにチャイナの昔の「老師」というのは、人生時計ならアフター5が始まったばかりです。
    これからがお楽しみタイムですから、まだまだ現役年齢そのものであるわけです。

    けれどそういう年齢の人が、社会的には希少価値を持ち、「老師」と呼ばれた。

    ちなみに、チャイナの平均年齢の35歳(1949年当時)は、明治初期の頃のコリアの平均年齢(25歳)と比べると、はるかにご長寿です。
    コリアの場合は、チャイナ以上に栄養状態や食糧事情が悪かったことを示します。
    もっとも、そんなチャイナも、日本で言う江戸時代頃までの平均寿命は、24歳前後であったといいますから、チャイナもコリアもあまり変わらない。

    では日本はというと、明治大正期の平均寿命が44歳で、これは江戸時代、あるいはそれ以前の時代から、実はほとんど変わっていません。

    幼児の死亡率は、チャイナ、コリア、日本とも変わりはありません。
    ところが日本では、ひとたび成人してしまうと、その後の寿命がたいへんに長かったのです。

    このことは3世紀末に書かれた魏志倭人伝にも見ることができます。
    次のように書かれています。

    【原文】其人壽考 或百年或八九十年
    【現代語訳】
     人々の寿命は、百年あるいは八、九十年です。

    3世紀頃の日本人の寿命を、魏志倭人伝は80〜90歳だと書いているわけです。

    これは昔のほうが寿命が長かったのかというわけではありません。
    世界中、どこでも幼児の死亡率は変わりませんから、その危機を乗り越えて成人となった者がどれだけ生きるかということを表しています。

    そして幼児の死亡率が5割あり、その後の寿命が80〜90年になるとどうなるのかというと、全体の平均寿命が、その半分、つまり45歳前後となります。
    つまり統計的に明らかになっている明治大正期の日本人の平均寿命と、ほぼ一致します。

    どうして日本人がこんなに長寿だったのかと言うと、これはチャイナの逆です。
    食糧事情が良くて、安全で安心で栄養価の高い食べ物が供給され、食糧事情が良かったのです。

    ちなみに、同じく3世紀の西洋の状況をみると、ローマ時代のエジプトの統計が残っているのですが、その平均寿命が24歳です。
    14~15世紀のイングランドが24歳、18世紀のフランスが25歳です。

    要するに世界中、どこもかしこも、平均寿命は24〜35歳くらいでしかなかったわけで、それだけ成人の死亡率が高かったし、簡単にいえば50歳を過ぎれば、もう人生も最後の老人であったわけです。

    ところが日本は、世界の諸国と同じように幼児の死亡率は変わらないのに、成人すると80〜90歳くらいまで生きる。
    平均寿命は世界の諸国よりも20年も長い45歳前後です。

    このため日本は、古代において、不老長寿の国、扶桑の国、蓬莱山と呼ばれました。
    道教における神仙の国というのも、実は日本のことだと言います。
    実際、単純にチャイナやコリアと比べて、平均寿命が倍ともなれば、不老長寿と言われてもおかしくないかもしれません。

    そしてもともと長寿国であった日本では、チャイナで「老師」と呼ばれる50代は、まだまだ普通に現役です。
    とりわけお坊さんの世界などでは、50代60代は、はまだ若者扱いです。
    70代でようやく壮年、80代、90代になって、ようやく年寄りで、老境に至って老師と呼ばれるようになるのは100歳を越えてからです。

    その意味で、チャイナの50代で「老師」というのは、まだまだ香具師のような側面があるわけで、若者の前でふんぞり返って、あれやこれやと指図し口出しをする。
    「老師」とはいっても、実年齢が若いのです。
    けれど、希少価値がある。

    これが日本ですと、50代はまだまだ若者扱い。
    「老師」と呼ばれるのは、肉体も枯れてくる90代以降の話です。
    90代ともなると、およそ「威張る」ということがなくなる。

    しかも、昔は15〜16歳で結婚です。
    17歳にもなれば、子もある。
    その子が成人して、やはり15〜6で結婚して子を生むと、
    90歳代にもなると、子、孫、曾孫、玄孫、来孫、崑孫、つまり曾孫のまた曾孫くらいまで会うことができました。
    おばあちゃんのもとに集まると、おばあちゃんの曾孫の子が、そのまた孫を連れてくるなんてことまでありえる話になったわけです。

    人物写真で、誰もが幸せを感じる写真は、年寄の周囲に親族一同が集まった集合写真なのだそうですが、そんな集いができた日本という国は、まさに幸せの国であり、蓬莱山そのものであったといえるのではないでしょうか。


    ※この記事は2022年9月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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    昭和20年のことです。
    重慶で蒋介石と毛沢東の会談が行われました。
    会談の名前は「重慶会談」ですが、別名を「巨頭会談」といいます。
    これが実におもしろい。

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    日本に希望の火を灯す!

    チャイナ文化の典型的一面をご紹介したいと思います。
    それは「巨頭会談」です。

    昭和20年のことです。
    重慶で蒋介石と毛沢東の会談が行われました。
    「重慶会談」、別名を「巨頭会談」と呼ばれています。
    これが実におもしろい。

    この年の8月15日、日本が自主的に戦闘行為を終結させ、マッカーサーが降伏文書調印に先立って神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立ったのが8月30日です。
    そして同じ日に、重慶で、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が、たがいに争いを止め平和的に戦後処理を行なおうではないかと、巨頭会談が行われたのです。

    ここまで聞くと、たいていの日本人は「良いことだね」と思うとおもいます。

    この対談は、なんと43日間にも及び、10月10日、両者は合意を成立させて協定を結びました。
    その協定が「双十協定」です。
    日付に10が2つ重なっている日だから「双十」です。

    その内容はというと、
    (1) 国民党と共産党は互いに平和を希求して一切の紛争を対話によって解決する。
    (2) 互いに協力しあって内戦を避け、自由で富強な新しい中国を建設する。
    (3) 中国共産党は、蒋介石の南京政府を合法的指導者であると承認する。
    というものでした。

    見事な平和的解決です。
    国共内戦(国民党と共産党による内戦)は、1927年にはじまり、なんとこの年まで悲惨な殺し合いが18年も続いていたのです。
    それがたったの「43日間」で事態の解決に至った。
    ですから当時の世界も、この協定を「ようやくチャイナに平和がもたらされた」と大歓迎しています。

    ところが・・・です。
    この協定が結ばれた、まさにその当日に、山西省の上党地区(現長治市)で共産党軍が、同地にいた11万の国民党軍に攻撃しました。
    この戦いは共産軍の一方的な戦いとなり、国民党軍の側は三日間の戦いで3万5千人が殺戮されています。
    そしてこのときから、第二次国共内戦がはじまるのです。

    我々日本人の目からみると、「ではいったい何のための協定だったの」と、たいへん不思議に思えます。
    なぜ不思議に思えるかというと、日本人は、約束といえば、条件反射的に「守る」という言葉が思い浮かぶという文化を共有しているからです。
    日本人は「約束は守るためにある」と考えるし、約束は守るのが常識です。
    しかしそれは、あくまで日本の文化がそのような文化であるからなのです。

    いやいや西洋でも約束は守るものというルールがあるよ、と言われるかもしれません。
    もちろんその通りです。
    ただし、ここでいうルールは、じつは「支配」を意味します。
    彼らにとっての約束は、「神の支配(ルール)を受け入れる」という意味です。
    ですから守るのはどこまでも約束したことだけです。
    そうでなければ、自由がなくなるからです。

    ですからたとえば「私は君の机にもう落書きをしません」と約束したなら、約束の主語は「私」であり、対象は「君」であり、場所が「机」ですから、私が私以外の人に命じて落書きするのはOKとなります。
    また、私が君以外の人の机に落書きすることもOKです。
    落書きが禁止されているのですから、「私が君の机の上に」、「落書き」ではないものを書くのもOKです。
    これが構成要件該当性で、西洋の契約論には欠かせない概念です。

    ところが日本の場合ですと、「君の机にもう落書きをしません」と約束すれば、その本意は「落書きをしない」ということにあるわけですから、他の児童に対しても、また机以外のものに対しても、落書き以外の何物かを書くことも、一切禁止です。
    日本人にとって、約束は守るものであるということが優先されますから、約束の趣旨が重要視されるのです。

    江戸時代の金銭借用証文が、「期日に支払わなければ、人前で笑われても致し方なき候事」というこの一文だけで契約が履行されたというのは、まさにそうした日本人の「約束を守る」という日本の文化に基づきます。

    チャイナの場合、西洋とはまた違った思考になります。
    彼らにとって約束は、「相手に守らせる」ためのものです。
    自分が約束を守る必要はないのです。
    どこまでも「相手に対してだけ」守らせるものなのですから、
    「互いに協力しあって内戦を避ける」と取り決めたという一文は、「相手の戦闘活動を押さえ込む」という効果を持つことになります。
    ということは相手の攻撃力・反撃力が弱まるのですから、このときこそが攻撃のチャンスになる。
    これがチャイナの流儀です。

    敗れた側が、「あいつらは約束を破ったぁ!」と言って騒ぐことは、まったく問題になりません。
    そのように騒いでいる者がいたら、殺してしまえば済むことだからです。

    「こんなことではいけない。
     チャイナは堯舜の時代に還り、
     約束を守る法治主義を徹底しなければならない」
    と言って、中原を統一したのは秦の始皇帝となった嬴政(えいせい)で、アニメや映画のキングダムで有名になりました。

    ちなみに「嬴」という漢字は、「女(おんな)+𦝠ラ(神獣)」で、神獣を後ろ盾とした女性を意味し、古代の母系家族の意味を持ちます。
    アニメでは、女剣士の羌瘣が登場しますが、羌氏はもともと姜氏の一族で、その姜氏は嬴氏の一族の出といわれています。
    ということは、嬴政と羌瘣は、もとは親戚?だったのかもしれませんね。

    話が脱線しましたが、秦の始皇帝である嬴政は、その理想のもとに強引に中原を統一し、中原初の始皇帝となりましたが、法に縛られる、約束を守ることを強制されることを嫌がる項羽によって秦はほろぼされ、その項羽もまた人治主義の劉邦によって滅ぼされて生まれたのが前漢王朝です。
    そしてこのとき以来、チャイナは上に立つ者の恣意でどうにでもなる国となり、約束が決して守られることがない国として現代に至っています。

    日本人は、上古の昔から天皇という国家最高の権威をいただき、その国家権力よりもはるか上位の国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」とされてきました。
    そしてこれが、天子様と呼ばれた天皇と、臣民との、いわば絶対の約束事となっていました。
    そしてこのことが守られている以上、「国家国民が宝のように幸いを得て隆(さか)えることまさに天地と共に永遠となりましょう」というのが天壌無窮の神勅です。

    インドの哲学者のラビ・バトラは、かつてプラウト理論の中で、世界は
    A 戦士(Warrior)の時代
    B 資本家(Acquirer)の時代
    C 知識人(Intellectual)の時代
    が繰り返すと述べましたが、このことは言い換えると、

    (1) 500年続いた力の時代=植民地時代=征服社会
    (2) 200年続いた商業の時代=現代商業時代=金儲け社会
    (3) これからはじまる知恵の時代=情報化の時代=知価社会

    といった変化を想起させます。
    そして知価社会においては、約束事はちゃんと守られなければなりません。
    そのために中共は崩壊しなければならないし、世界にあってはならない国ということになります。

    世界はこれから大きく変わります。
    西欧社会にしても、これまでの力こそ正義の時代から、約束事をちゃんと守ることによって成立する商業社会へと変化しました。
    その変化に対応できなかった中共は、いまや世界の敵となっています。
    そして約束事がちゃんと守られるようになるためには、ただ約束を破った者を力で叩き伏せれば良いという社会ではなく、社会構造そのものが、約束を守ることが当然の常識とされる世界になっていかなければならないことになります。

    そしてそれを過去において実現してきたのは、大国のなかでは世界でただひとつ、日本だけです。
    このことは、これからの世界では、日本的思考、日本的社会構造が、新たな世界秩序を構成するうえで求められる中心核となっていくことを意味します。

    そうであればなおのこと、現代日本人は、もっと日本を学ぶ必要がある、と思います。

    「シラス」という概念は、日本の神語に依拠しますが、この思考が常識化していくことが、まさに日本人の覚醒につながり、世界の覚醒にもまたつながっていきます。
    そしてそれは神々の御意思であるものと思います。

    ただし、このことを日本的価値観の強制とか、日本人による世界征服などと誤解されたら、最悪です。
    とりわけ西洋の人たちは、多民族の持つ価値観について、自ら学んで受け入れることにはなんの躊躇もしませんが、他所からこれを強制されると、それこそ武器を手にして戦おうとします。

    その意味で、我々日本人は、日本文化の根幹を学びながら、かつ、それを他国に強要することなく、物静かに、むしろ「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で謙虚に進んでいかなければならないものと思います。
    なぜなら「正義」とは、他に強要するものではないからです。
    強要すれば争いになります。
    それが国家規模なら戦争になります。
    いまどき防衛の必要は認めても、戦争を望む日本人など、誰もいないことでしょう。

    逆に中共やコリアは、自国の「正義」を他国に強要しようとします。
    結果、彼らはいま世界中から排除されようとしています。
    いっときは良いかもしれませんが、結果は排除されてしまうのです。

    「正義(せいぎ)」は、訓読みしたら「ただしき、ことわり」です。
    「ことわり(義)」というのは、条理や道理のことを言います。
    つまり、「正しい道理」が「正義」です。
    そしてこれは、英語の「 justice (ジャスティス・公正・正義)」の語源と同じ意味です。

    「正しい道理」とは、強制強要をするものではなく、
     誰か見ても納得できる、
     普遍性を持ち、
     腑に落ちるもの
    です。

    もちろん反撃や反論もあることでしょう。
    いま正義でないものをもって利得を得ている人たちからすれば、侵略に見えてしまうかもしれませんし、徹底した「つぶし」に遭うこともあるかもしれません。
    けれど、それでも、しっかりと世の中のルールを守りながら、誰か見ても納得でき、普遍性を持ち、誰の心にもちゃんと腑に落ちるものをブレずに語り継ぎ、決して威張らない。

    この「正しい道理」のことを、別の言い方で「権威」と言います。
    権威は、何が正しいかを決める規範です。
    法でいうなら、成文法に対する慣習法です。
    法より以前に、その国やその民族にとって普遍の価値を持つもののことを権威と言います。

    我が国は、万世一系の天皇を国家最高権威とする国柄を持ちます。
    かつては、その天皇のもとにある国を「天下」と呼びました。
    「天下」はいまでは「てんか」と呼ぶのが一般的ですが、むかしはこう書いて「あめのした」と読みました。
    「あめのした」は、天の神々の下という意味であり、同時に神々に最も近いお立場の天皇を意味しました。
    ですから「天下(あめのした)」は、天皇のもとにある国のことをいいます。

    その天下のもとに、もっとも大きな権力を持つ幕府がありました。
    幕府は政治権力機構です。
    英語でいうなら、これが「State(ステイト)」です。
    ステイトは、政治体制のことを言います。

    幕府は権力機構ですから、当然に権力には責任がついて回ります。
    権力と責任は、常にイコールの関係にあると考えられてきたからです。
    けれど、幕府の頂点にある将軍が、みずから責任をとって腹を召されたら、幕府の権力の信頼が失墜し、天下が混乱します。

    徳川政権のもとでは、実際に政治権力を振るう役割を老中が果たしました。
    その老中は、小藩の藩主から選ばれましたが、その理由は、小藩なら、万一の際に腹を切ることになっても、天下への影響を最小限に留めることができると考えられたからでした。
    もしこれが大藩の藩主であれば、その影響は計り知れないからです。

    こうして日本は、国家最高権威の下に、国家最高権力を置くという社会体制を続けてきました。
    それは、古くは太政官であったし、鎌倉以来の幕府もまた同じです。
    そして国家最高権威の下の国家最高権力だから、その権力所のことを、意図して「幕府」と呼んだのです。
    「幕府」は、天皇のもとにある将軍が、出陣先で張る陣幕の貼られた仮の軍政の中心場所のことをいいます。
    「政府」ではなく、「幕府」なのです。

    いつの時代でも、権力亡者を国のトップに据えてはいけない。
    それが日本古来の知恵なのです。


    ※この記事は2020年9月の記事のリニューアルです。
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    琵琶法師の語る平家物語は、実に色彩が豊かで、まさにそれは総天然色フルカラーの世界。
    その口演が、一話2時間くらいで、12話で完結です。
    二時間分の話し言葉というのは、だいたい1万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい12万字、つまり、いまならちょうど本一册分くらいの分量です。
    これだけの文学作品が、なんと13世紀頃にはできあがっていたというのですから、これまた日本というのはすごい国です。

    平教経(たいらののりつね)
    20210903 平教経
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    日本に希望の火を灯す!

    源平合戦の締めくくりとなる壇ノ浦の戦いは、旧暦ですと寿永4年3月24日、西暦ですと1185年4月25日の出来事です。
    山口県下関の沖合で行われました。

    治承4(1180)年に源頼朝が平家打倒の兵をあげて以来5年、屋島の戦いで兵を引いた平家一門は、長門国引島(山口県下関市)まで後退していました。

    源氏と平家は、いろいろに対比されますが、戦い方の手法も、正反対です。
    平家は、弓矢を用いて離れて敵を討つという戦い方を得意としました。
    これは特に水上戦で有効な戦い方です。
    大量の矢を射かけ、敵を粉砕します。

    対する源氏は、馬を多用した陸上での接近戦が得意です。

    実は、こうした戦闘形態の違いは、近代戦も同じです。
    先の大戦での島嶼(とうしょ)部での戦いも、米海軍は艦砲射撃やら空爆やらで、あめあられと砲弾を撃ち込む戦いをしました。
    対する日本陸軍は、上陸した敵に肉薄して接近戦で敵を粉砕する戦い方でした。
    前者がが平家、後者が源氏の戦い方です。

    さて、だいぶ春めいてきた新暦の4月25日、平家一門は、関門海峡の壇ノ浦に、無数の船を浮かべて義経率いる源氏を待ち受けました。
    静かに夜が明ける。
    そして午前8時、いよいよ戦いの火ぶたが切って落されます。

    源氏は潮の流れと逆ですから、船の中で一定の人数は常に櫓を漕ぎます。
    平家は、潮の流れに乗っていますから、櫓を漕がなくても舵だけで船が前に進みます。

    潮の流れに乗る平家は、流れに乗って源氏の船に迫り、盛んに矢を射かけました。
    なにせ漕ぎ手が不要です。
    ですから総力をあげて矢を射続ける。

    一方、潮の流れに逆らう源氏の船は、平家の射る矢の前に、敵に近づくことさえできません。
    船を散開させ、なんとか矢から逃げようとする源氏、密集した船で次々と矢を射かける平家。
    こうして正午頃までに源氏は、あわや敗退というところまで追いつめられていきます。

    ところが、ここで潮の流れがとまる。
    追いつめられていた源氏は、ここで奇抜な戦法に討って出ます。
    義経が、平家の船の「漕ぎ手を射よ」と命じたのです。

    堂々とした戦いを好む坂東武者にとって、武士でもない船の漕ぎ手を射るなどという卑怯な真似は、本来なら出来ない相談です。
    ところが開戦から4時間、敵である平家によってさんざんやっつけられ、追い落とされ、陣を乱して敗退していた源氏の武士達も、ここまでくると卑怯だのなんだのと言ってられない。
    むしろ義経は、源氏の武者たちがそういう気分になるまで、待っていたのかもしれない。
    そのために朝の8時を開戦時間にしたのかもしれません。

    義経の命に従い源氏の兵たちは、平家の船の漕ぎ手を徹底して射抜きました。
    この時点で平家は、狭い海峡に無数の船を密集させて浮かべています。
    そこに源氏の矢が、漕ぎ手を狙って射かけられたわけです。

    船の漕ぎ手を失った平家の船は、縦になったり横になったり、回ったりして、平家船団の陣形を乱します。
    平家の軍団が、大混乱に陥いる。
    すでに潮の流れは、源氏側から平家側へと移り変わっています。
    まさに潮目が変わったのです。

    潮の流れというのは、一見したところあまりピンとこないものだけれど、まるで川の流れのように勢いの強いものです。まして狭い海峡の中となれば、なおのことです。

    勢いに乗った源氏は、平家一門の船に源氏の船を突撃させました。
    船同士を隣接させれば、船上の戦いとはいえ、源氏得意の近接戦です。

    一方、平家一門は、ここまで約4時間、矢を射っぱなし。
    すでに残りの矢が乏しい。
    それを見込んでの源氏の突進を矢で防ぎきれない。

    接近戦になれば、源氏武者の独壇場です。
    離れて矢を射かける戦い方に慣れた平家は、刀一本、槍一本で船に次々と飛び移って来る坂東武者の前にひとたまりもありません。
    平家の船は次々と奪われ、ついに平家一門の総大将、平知盛の座乗する船にまで、源氏の手が迫ってきました。

    「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名な平家物語はこのあたり、まるで錦絵を見るような色彩豊かな描写をしています。

    平清盛の弟・教盛(のりもり)の子の平教経(たいらの のりつね)25歳は、若くて体も大きく武芸の達人でした。
    迫り来る敵を前にした平教経は、そのときすでに、部下ともども、矢を射尽くしていました。
    そこに源氏の兵が潮に乗って迫って来ました。

    平教経(たいらの のりつね)は、今日を最後と肚に決めました。
    この日の教経(のりつね)の服装は、
     赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、
     唐綾縅(からあやおどし)の鎧です。
     そして厳物作りの大太刀を腰にして、
     白木の柄の大長刀(おおなぎなた)の鞘をはずすと、
    波のように押し寄せる敵を次々となぎ倒していきました。

    その壮絶な戦いぶりに、教経の叔父で総大将の平知盛(たいらのとももり)が使者を遣わしました。
    「教経殿、あまり罪を作りなさるな。
     そんなことをしても相手は立派な敵だろうか」

    ここ、大事なとこです。
    戦いの最中に平知盛は、
    「雑兵を殺すことが、
     武将として立派な戦いでしょうか?」
    と伝えているのです。

    雑兵というのは、日頃はお百姓さんです。
    ということは、源氏だ、平家だと言う前に、彼らは天皇(すめらみこと)の大御宝(おほみたから)です。
    武士ならば戦いはやむを得ない。
    けれど、雑兵は、普段は民百姓(たみひゃくしょう)です。
     たとえ敵であったとしても、
     すこしでも守ってやり、
     命をながらえてやるのが、
     誇りある武士の勤めだ、
    と言っているのです。

    おそらく今どきの人なら、「戦(いくさ)のさなかに、何を能書き垂れてんだ!」と思ってしまいそうです。
    けれど当時の貴族や武将にとって、このことは命を賭けるほどに大事な哲学でしたし、この精神はその後の鎌倉時代も、室町時代も、戦国時代も江戸日本も、そして明治、大正、昭和の時代もまったく変わりません。
    先の大戦のときも同じです。
    戦いは武人(先の大戦時は兵士)が行うものであり、一般の民間人への殺傷は一切許さない。
    それは日本の武人の心得であり、日本軍の心得でもありましたし、ハーグ陸戦条約における国際社会の戦争のルールでもありました。
    このルールがあるから、支 ナ事変で蒋介石は、さかんに「日本軍が一般庶民を殺生した」と、ありもしないことを宣伝したし、その後の中凶は南キン事 件をでっちあげてまで宣伝しているのです。

    けれど実際には日本は、常に武人の誇りを重んじたし、軍は出身地の村落毎の編成です。
    ルールを破ればその者は村の恥、故郷の恥とされ、末代まで悪事が語り継がれてしまうという仕組みになっていました。
    ですから日本軍が一般人を虐殺するなど、まさに「ありえないこと」でした。

    一方、先の大戦は、もともとは戦争であったけれど、島嶼での戦いから本空襲に至り、戦争が、兵士同士の戦いではなく、民間人を狙った虐殺に変化しました。
    そして極めつけが広島と長崎への原爆投下となりました。
    戦争の反対語は、平和ではなく、虐殺です。
    日本は、やむを得ず戦争はしたけれど、虐殺に加担する気はない。
    だから名誉ある終戦を選択したのが昭和20年8月15日の玉音放送です。

    たとえ敗れてでも名誉を重んじるという習慣は、こうして平家物語にもくっきりと描かれているのです。

    平知盛のひとことに、ハッと気がついた教経(のりつね)は、
    「さては大将軍と組み合えというのだな」
    と心得、長刀の柄を短く持つと源氏の船に乗り移り乗り移りして、
    「義経殿はいずこにあるか」
    と大声をあげました。

    残念なことに教経は、義経の顔を知らない。
    そこで鎧甲(よろいかぶと)の立派な武者を義経かと目をつけて、船をめぐらせたのです。

    義経は、まるで鬼神のように奮戦する教経の姿に、これは敵わないと恐怖を持ちます。
    他方、部下の手前、露骨に逃げるわけにもいかない。
    そこで教経の正面に立つように見せかけながら、あちこち行き違って、教経と組まないようにします。

    ところが、はずみで義経は、ばったりと教経に見つかってしまう。
    教経は「それっ」とばかりに義経に飛びかかります。

    義経は、あわてて長刀(なぎなた)を小脇に挟むと、二丈(およそ6メートル)ほど後ろの味方の船にひら〜り、ひら〜りと飛び移って逃げました。
    これが有名な「義経の八艘飛び」です。

    教経の周囲は敵兵ばかりです。
    すぐに続いては船から船へと飛び移れない。

    そして、今はこれまでと思ったか、その場で太刀や長刀を海に投げ入れ、兜(かぶと)さえも脱ぎ捨てて、胴のみの姿になると、
    「われと思はん者どもは、
     寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。
     鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、
     ものひとこと言わんと思ふぞ。
     寄れや、寄れ!」
    (われと思う者は、寄って来てこの教経と組みうちして生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝に一言文句を言ってやる。我と思う者は、寄って俺を召し捕ってみよ!)
    と大声をあげます。

    ところが、丸腰になっても、教経は、猛者そのものです。
    さしもの坂東武者も誰も近づけない。
    みんな遠巻きにして、見ているだけです。

    そこに安芸太郎実光(あきたろうさねみつ)という者が、名乗りをあげます。
    安芸太郎は、土佐の住人で、三十人力の大男です。
    そして太郎に少しも劣らない堂々たる体格の家来が一人と、同じく大柄な弟の次郎を連れています。

    太郎は、
    「いかに猛ましますとも、
     我ら三人取りついたらんに、
     たとえ十丈の鬼なりとも、
     などか従へざるべきや」
    (いかに教経が勇猛であろうと、我ら三人が組みつけば、たとえ身長30メートルの大鬼であっても屈服させられないことがあろうか)
    と、主従3人で小舟にうち乗り、教経に相対します。
    そして刀を抜くと、教経にいっせいに打ちかかりました。

    ところが教経、少しもあわてず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、かるくいなして海にドンと蹴り込むと、続いて寄ってきた安芸太郎を左腕の脇に挟みこみ、さらに弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締めぎゅっと締め上げると、

    「いざ、うれ、さらばおれら、死出の山の供せよ」
    (さあ、おのれら、それではワシの死出の山への供をしろ)

    と言って、海にさっと飛び込んで自害するわけです。
    まさに勇者の名にふさわしい最後を遂げたのです。
    このとき、教経、享年26歳です。

    このあたりの描写は、吉川英治の新・平家物語よりも、むしろ琵琶法師の語る原文の平家物語の方が、情感たっぷりに描かれていて、素敵です。
    激しい戦闘の中にも、愛や勇気、女たちの涙の物語などが盛り込まれている。

    こうして壇ノ浦の戦いで、平家は滅びました。
    平家物語は、壇ノ浦の戦いで命を救われた建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)を、後白河法皇が大原にお訪ねになられて、昔日の日々を語り合う場面で、語りおさめとなります。
    建礼門院は、平教経からみたら従姉妹の関係になります。
    とりわけ美しく、優秀で、才色兼備の素敵な女性でした。

    京都の大原の里は、三千院のすぐ近くにあります。
    そこにある大原寂光院に、後白河法皇がご到着あそばされたとき、建礼門院はたまたま不在で、寺には留守の尼僧がひとりでした。

    「建礼門院はいずこへ?」
    との問いに、その尼が「山に花を摘みに」と答えました。
    後白河法皇が、
    「左様な事にお仕え奉る人もいないか。
     おいたわしいことだねえ」
    と仰ると、尼は
    「五戒十善の御果報つきさせ給ふによって、
     今かかる御目を御覧ずるに候へ。
     捨身の行に、
     なじかは御身を惜しませ給ふべき」
    と答えます。
    尼は、あまりに粗末な、絹なのか麻や木綿の布なのかの区別もつかないようなボロを縫い合わせて着ています。
    ところがそんな尼が、あまりに教養高い答えぶり。
    後白河法皇があらためて尼に名を問うと、
    「亡くなった少納言信西入道の娘で、
     阿波内侍(あわのないし)と申したものでございます。
     母は紀伊の二位。
     法皇様よりかつて深いご寵愛がございましたのに、
     私を見忘れなさったことにつけても、
     我が身の衰えてしまった程度が思い知られて、
     今さらもうどうしようもないことと
     かなしく思われます」
    と涙を見せます。
    つまり、家柄もしっかりしていて、かつては後白河法皇のご寵愛も受けたことがあるほどの女性であったのです。
    それほど高貴な女性が、いまやすっかりボロを着ている。

    そのうち戻ってきた建礼門院もまた、姿を見ても法皇にはそれが建礼門院とはわからないほどにやつれ、深い黒染めの衣も、ボロボロになっていました。
    あまりの変わりように、法皇も涙にむせびなさる。
    そこに阿波の内侍の老尼が女院のもとに参り、花籠を女院から頂いた・・・と続きます。

    さて、その大原寂光院には、建礼門院が日々経をあげられていたお地蔵様もそのまま遺されていたのですが、2000年(平成12年)5月9日の未明に放火に遭って全焼。いまは復元された本堂が建ち、焼け残って炭のようになったお地蔵様が展示されています。
    焼け跡からプラスチックの容器の燃えかすと灯油が検出されたことから、京都府警は放火と断定しましたが、結局犯人逮捕に至らず、いまは公訴時効となりました。
    滅多なことは言えませんが、当時、日本の文化遺産に、わざわざ外国からやってきて放火して本国に逃げ帰るという犯行が流行っていましたから、もしかするとこの事件も、そんな一連の犯行のひとつであったのかもしれません。

    さて、琵琶法師の語る平家物語は、実に色彩が豊かで、まさにそれは総天然色フルカラーの世界。
    その口演が、一話2時間くらいで、12話で完結です。
    二時間分の話し言葉というのは、だいたい1万字ですから、法師の語る平家物語は、全部でだいたい12万字、つまり、いまならちょうど本一册分くらいの分量です。
    それだけの文学作品が、なんと13世紀頃にはできあがっていたというのですから、これまた日本というのはすごい国です。

    平家物語は、歌舞伎や講談で、義経千本桜、熊谷陣屋、敦盛最期など、各名場面が興行され、多くの人の喝采を浴びました。

    日本は、ほんとうに古くて長い歴史と伝統と文化を持った国です。
    私たちは、そんな日本の歴史伝統文化をご先祖から受け継いで生まれてきました。
    私たちにとっての日本は、ご先祖からの預かりものなのです。

    建礼門院・平徳子
    20210903 平徳子
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    この記事は2021年9月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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  • ギリシャ神話が西洋の神話となった理由とは


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    日本に希望の火を灯す!

    欧米の映画やテレビ番組を観ると、毎度出てくるのがギリシア神話の世界です。
    ギリシャ神話は、紀元前15世紀頃に遡(さかのぼ)る物語、つまりいまから3500年ほど昔の神々の物語です。
    その物語を2800年ほど前に吟遊詩人ホメロスが「イーリアス」や「オデッセイア」などとして語ることで、広がったとされます。

    けれど、不思議に思いませんか?
    ギリシャの神話が、どうしてヨーロッパの主だった国々の神話になっているのでしょう。
    神話というのは、民族ごとに成立していたはずのものです。
    それがどういうわけかギリシャ神話が西欧の基本となる神話となっている。
    実はこのことには、モンゴルの大帝国が関連している・・・というのが今回のお話です。

    ちなみにそのギリシャ神話、子供のころ、童話などで読まれた記憶のある方も多いかと思います。
    世界が混沌としたカオスの時代からはじまり、オリンポス神々の逸話によって語られる世界。
    とても美しく、甘美な世界であるようなイメージが、かなりあると思います。
    大王神であるゼウス、神々の女王のヘラ、知恵と芸術の女神アテナ、光の神のアポロン、愛と美しさの女神アフロディーテ(ヴィーナス)、戦いの男神のアレス、貞淑の女神アルテミス、豊穣の女神デメテル、雷と火の男神のヘパイストス、青年神ヘルメス、海神のポセイドン、家族の女神ヘスティア。

    強く、美しく、魅力的な神々の織りなすギリシャ神話は、素敵な物語と思っておいでの方も多いと思います。
    そこで、そのギリシャ神話に出てくる物語の一部を抜粋してみます。

    「大地の母神ガイアは、
     子のウラノスと交って
     キプロスたち三つ子を産んだ。
     彼らはひとつ目の怪物であった」

    「大地の母神であるガイアは、
     父ウラノスの男根を切れと息子のクロノスに命じた。
     母から鎌を渡されたクロノスは、
     母ガイアと父がまさに交合しようとするときに、
     父の男根を切り落とした。
     こうしてクロノスは神々の王となった。」

    「王となったクロノスは、
     実の妹のレイアと結婚して5人の子をもうけた。
     クロノスは、
     我が子に打ち負かされて
     王位を奪い取られる運命にあると
     予言されたため、
     生まれてきた子を順番に食べてしまった。」

    「このとき妻のレイアが隠しとおした子がゼウスであった。
     ゼウスは成長すると
     祖母のガイアに教えられた通りに
     父クロノスを騙して吐き薬を飲ませた。
     クロノスはゼウスに飲まされた石を吐きだし、
     続けてクロノスが食べたゼウスの兄や姉を吐き出した。
     吐き出された兄弟たちはゼウスの家来となってクロノスと戦った。」

    「クロノスの子のうちのひとり、
     女神のヘラは、
     実兄の妃となり、
     オリンポスの女王となった」

    「プロメテウスの犯した罪のために弟のエピメテウスはオリンポスを追放された。
     エピメテウスは地上で人間とともに暮らしていたが、
     怒りのおさまらないゼウスは、
     人間にも罰をあたえようとした。
     そこで何でも作れる鍛冶屋の神のヘパイストスに
     女性を造らせた。」

    「できあがった女性に、ゼウスは命を吹き込んだ。
     このときゼウスは、女性に、
     美しさ、歌と音楽、
     賢(かしこ)さと狡(ずる)さ、好奇心を与え、
     ゼウスは『これは人間にとっての災(わざわ)いとなろう』
     と述べた。」


    なにやらとても残酷ですし、また女性を「人間にとっての災(わざわ)い」と規定するなど、読んでみらたものすごい内容ですが、どうしてそのようなストーリーがヨーロッパ全域の神話となって広がったのかというと、実はその理由が元《モンゴル》の大帝国の台頭と滅亡にあります。

    よく誤解されていることですが、13世紀以前のヨーロッパの白人社会というのは、決してみやびで豊かな王国社会ではありません。
    言葉はキツイですが、殺し合いと収奪が織りなす、いわば暴力的で原始的な社会でした。

    そこにやってきたのが、モンゴルの大帝国です。
    モンゴルは「力で支配」した面ももちろんありますが、どうしてその力を得ることができ、どうして多くの諸国や民族がモンゴルに従ったかというと、実はモンゴルが、きわめて平等な「一定税率」を採用し、かつ、すべての兵を正規兵として組み込むという、それまでのユーラシア大陸に存在しない、まったく新しい社会体制を築いたことによります。

    まず税制についていえば、それまでの大陸では、門番が相手を見て入城税を取るというやり方になっていました。
    大陸内部では、飲水が貴重です。
    その飲水が湧く泉のあるところを護るために城塞が気づかれたのが城塞都市国家です。
    税制が厳しいから、人々がそこから逃げ出したとしても、どこかの城には入らなければ水を飲むことができない。
    だから城に入りたい。
    けれど入るためには、入り口で門番に法外な税を取られていたのです。

    この仕組みは、門番にとっても、城の王にとっても有利な税制です。
    ですが、城塞都市から城塞都市へと移動しながら商売をする商人たちにとっては、門番の気分次第、門番との力関係で税が決まるという仕組みは、あまりに乱暴です。

    モンゴルは、この入城税を、モンゴル帝国の支配下にあるすべての城塞で定額化しました。
    このことは、城塞間の物流を活発化させ、城塞都市に住むすべての人々の経済を成長させました。
    逆に言えば、モンゴルの支配下にある城塞都市が、極めつけの好景気を満喫しているのに、モンゴルの支配下にない城塞都市では、相変わらず王と門番ばかりが威張っていて、庶民生活は貧困状態にあるし、商業も振るわないのです。
    そうなれば、むしろモンゴルがやってくることを城民たちが歓迎します。
    歓迎しないのは、個人的な利得を得ていた王と門番だけです。

    さらにモンゴル帝国の軍制も、時代を変えるものでした。
    それまでの戦争は、王や貴族が、城の民を強制徴用して、弓や刀や盾を持たせただけの奴隷兵の戦いです。
    戦争をしたい人たちは後ろで指揮をしているだけで、戦いをするのも、命を失ったり大怪我するのも、無理やり家族と引き離されて兵にされた庶民です。
    強制的に兵にされているだけで、ひとりひとりには、まるでやる気はない。

    ところがモンゴルは、軍のすべてを10人組にしています。
    戦いに勝利すると、戦利品のうちの2割をモンゴルの将軍が取って、残りの8割を10人の将軍に均等に与えます。
    将軍は自分の取り分としてそこから2割を取り、残りを10人の副将軍に与えます。
    副将軍は自分の取り分としてそこから2割を取り、残りを10人の将に与えます。
    将は、自分の取り分としてそこから2割を取り、残りを10人の兵長に与えます。
    兵長は自分の取り分としてそこから2割を取り、残りを10人の什長に与えます。
    什長は自分の取り分としてそこから2割を取り、残りを10人の兵に与えます。
    この報酬制度は、たとえその兵が亡くなっても、その家族に確実に届けられました。

    モンゴルは、戦えば必ず勝ちました。
    ですからモンゴルの軍団に参加することは、そのまま儲けに繋がることでした。
    当然、モンゴルの軍団は、自分が死んでも報酬は確実に家族に届けられるのですから、名誉ある死をも厭わない軍団になります。

    片や、無報酬で強制徴用された奴隷兵。
    片や、死んでも報酬がもらえる志願兵。
    こうなると、もはや戦う前から「勝負あった!」です。

    実は、こうした報酬制度や軍制は、日本の源氏の軍制とまったく同じものであったことは、まことに興味深いのですが、その話はさておいて、こうした税制や軍制に加えて、騎馬を活かしたモンゴル軍の機動力も相まって、モンゴル帝国はまたたく間にユーラシア大陸を席巻し、その勢力は遠く東欧にまで及ぶことになったわけです。

    ヨーロッパ戦線を担当したバトゥが、たまたま大ハーンのオゴデイが重篤となったために、大ハーンの後継者を決めるためにモンゴルへと帰還してくれたおかげで、西ヨーロッパはモンゴルに組み込まれずにすみました。
    けれどあと半年、バトゥの帰還が遅れたら、おそらく北欧やイギリス、フランス、スペインなども、完全にモンゴルに飲み込まれたであろうと言われています。

    ところがそれだけの勢力を誇ったモンゴルの大帝国が、世界史の教科書では、またたく間に歴史から消えていきました。
    これはモンゴル帝国が滅んだのではなくて、モンゴルの相続制度が、息子たちへの財産(領地)の均等配分する方式であったことによります。(実はこれもまた源氏の仕組みと同じです)

    つまり相続が行われるたびに、領土が分割され、細分化されていきます。
    つまり領土が相続によって細分化されていくことによって、モンゴル帝国は、いくつもの小国に分裂していったのです。

    世界史の教科書では、モンゴル帝国は、次にチャイナの王朝となる「明」の朱元璋(しゅげんしょう)によって、あたかも軍事的に滅ぼされたかのように書いたりしていますが、大きな間違いです。

    実はモンゴル帝国の末期の1340年代に、チャイナで疫病(ペスト)が猛威をふるいました。
    それがどのくらいの猛威だったかというと、当時の元帝国の人口が1億2千万人です。
    なんと、このうちの9500万人が死亡しました。
    そしてこのペストが、モンゴルの交易ルートに乗ってヨーロッパにまで感染が拡大し、当時のヨーロッパの人口の6割を失わせています。

    この時代、感染症がウイルスによって引き起こされるなんてことは、誰も知らない(わからない)時代です。
    目の前で人々がバタバタと死んでいくのは、これは神の怒りとしか思われない。
    そして神の怒りを鎮めるのは、もっぱら宗教の役割です。

    さまざまな宗教が起きた中で、元では白蓮教が教団勢力を伸ばしました。
    白蓮教が最大勢力となり得た理由は、彼らがあるときはキリスト教を名乗り、あるときは仏教を名乗るなど、要するに現世利益のためならなんでもありの宗教であったことによります。
    その白蓮教では、肉体は闇の存在で悪魔であり、霊魂は光であって尊いものと教えました。
    このため汚れた肉体同士の接触を極度に嫌いました。
    ハグも禁止、握手も禁止、ついでに性交も忌避されました。

    つまり極端に肉体の接触を避ける教団であったわけで、この事が結果として白蓮教徒をペスト感染から遠ざけることになり、教団勢力拡大に寄与することになったのです。

    普通にハグの習慣を持つモンゴルと、肉体の接触を嫌う白蓮教。
    ペストによって人々がバタバタと死んでいく中で、白蓮教は教団勢力を伸ばし、その白蓮教徒たちは1351年に紅巾の乱を起こしました。
    けれど、モンゴルの将官たちは、ペストが怖くて戦えない。
    結局、モンゴルは、衛生環境に問題のある大都(北京)を捨てて、疫病の流行のない北方の遊牧地帯に避難して去って行ったのです。

    一方で、無人の野を行くがごとく元の領土を奪った紅巾軍の将官であった貧農出身の朱元璋は、誰も居ない北京に殴り込み、誰もいない王城を奪って1368年に皇帝を名乗って即位しています。
    こうして建国されたのが明朝です。
    もっともこうして生まれた明も、17世紀にはやはりペストが原因で、滅ぼされていくのですが。。

    要するにチャイナでは、疫病の大流行(これに蝗害や洪水なども加わる)によって、大量死が起こり、都度、王朝が交代してきた歴史が繰り返されています。
    疫病、蝗害、洪水といった危機に際して、その被害をまともに受けた地域と、受けなかった地域や民族が、中原を統一して新たな王朝を建ててきたのが、チャイナの歴史であるわけです。

    一方、元の勢力が衰えた中東では、オスマンの大帝国が台頭しました。
    オスマンの宗教は御存知の通りイスラム教ですが、イスラムでは、ハグやキスは厳禁で、異性との肌の接触も身内以外とは厳禁です。
    つまり結婚しなければ男女が肌を合わせることができません。
    ということは、感染が起こりにくいわけで、結局、ペストの流行によってモンゴルの勢力が衰えさせたところに、ペストの感染率が低いイスラム教徒が、新たに起こした国がオスマンの大帝国であったわけです。

    ちなみに数ある中東商人の中で、どうしてオスマン家だけがここで興隆できたのかというと、そこにも理由があります。
    モンゴル帝国は紙の通貨である「交鈔(こうしょう)」を発行していましたが、この通貨が通貨としての価値を持ったのは、モンゴル帝国がその交鈔と塩の交換を保証したことによります。
    大陸内部では、塩がとにかく貴重です。
    塩がなければ人は生きていけない。
    だからその塩への交換券が(もともとは通行免税券)そのまま通貨としての役割を果たすようになったのです。

    ところがモンゴル帝国がペストの流行とともに滅ぶと、紙の交鈔と塩の交換もなくなります。
    つまり、紙の通貨が、そのままただの紙切れになってしまったのです。
    ほとんどの大金持ちが、このときに財産を失うことになりました。

    ところが、そのモンゴル帝国の時代に、しきりに日本との交易によって黄金を溜め込んだ一族がいたのです。
    それがオスマン家でした。
    紙の通貨が価値を失ったとき、極めて高い交換価値を持つ黄金を独占的に持っているところには、人も集まります。
    オスマンは、力自慢、腕自慢のボディーガードたちを指揮者にして、地中海で交易する商人たちから無理やり高額な税を取り立て、ますます富を拡大していきました。
    こうしてオスマンは、中東から東ヨーロッパあたりまでを勢力下に治め、地中海交易の利権を完全に独占していきました。

    こうなると、地中海沿岸のヨーロッパ諸国は、きわめておもしろくないわけで、生き残った人たちは、自分たちの独立を求めていこうとします。
    そしてこのときに、元に征服されたヨーロッパだけれど、俺達には大昔からの歴史伝統文化があるのだ、ということで興ったのが、有名なルネッサンス運動です。

    ルネッサンス運動は、ひとことでいえば「ギリシャ・ローマの時代に還れ」というものです。
    ここで自分たちが栄えある歴史を持った種であることを裏付けたのが、ギリシャ神話であったわけです。

    いまでも現在進行系で続いていますが、王国どうしが戦いに明け暮れると、破れた側は国が失われるだけでなく、文化や神話も失われます。
    ヨーロッパでは王国同士の殺戮と、極限までの収奪によって、古い文化がことごとく滅ぼされてしまっていました。
    文化を失うということは、還るべき原点を失うということです。

    そこでルネッサンス運動に採用されたのが、ギリシャ神話であったわけです。

    ギリシャ神話には、もちろん、上にご紹介したような、残酷な面もありますが、一方では、ペルシャ戦争におけるテルモピュライの戦いで、100万の軍勢を持つペルシア軍に対し、スパルタ国のレオニダス王は、わずか300の手勢を率いて果敢に戦い、全滅しながらもペルシャの2万の兵を倒したといった勇敢な物語が描かれています。

    ヨーロッパでは、いまなおこのレオニダス王とスパルタ兵を顕彰し、テルモピュライには顕彰碑が建てられて、観光名所ともなっています。
    日本では、先の大戦において数々の玉砕戦が営まれましたが、国をあげての顕彰は、戦後75年経ったいまなお行われていません。
    これに対し、ヨーロッパでは、紀元前480年のテルモピュライの戦いが、2500年経ったいまなお語り継がれ、映画化され、またドラマ化されてるわけです。
    誇りというものは、保ち育まなければならないものであることを、あらためて痛感します。

    いずれにせよ、少々難ありといえども、神話や歴史が、民族ての誇りを育くみます。
    そして神話は、何が正しくて、何が間違っているのかという美意識や物事の正邪や善悪の判断の根幹となるのです。

    戦後の日本は、昭和20年(1945年)にGHQによって神話教育が禁止されました。
    その禁止事項を、戦後78年も経過して、いまだに日本政府は守っています。
    律儀という面では素晴らしいかもしれませんが、日本人としてのアイデンティティを失うことは、とても残念なことです。

    このことについて、文科省を責める声は度々あがりますが、文科省は行政のお役所ですから、法律や通達で決められた範囲の仕事しかできません。
    そしてその決まりが、神話教育の禁止であれば、文科省の役人がどれだけ個人としては復活を願っていたとしても、復活させることはできません。

    では、昭和20年の神話教育禁止の通達を廃止して、神話教育を行うことを意思決定するのは、どこでしょうか。
    それは立法府である国会の仕事です。
    行政はルールを守るところ。
    国会は、そのルールそのものに変更を加えるところです。

    その国会における議員が、「文科省が悪い!」などと言っているようでは、何も変わりません。
    議員が、ひとつの思いを実現しようとするなら、同じ意見を持つ議員の仲間を集め、勉強会を開催し、仲間の議員の数を過半数にしていくことで、はじめてそれを実現することができます。
    それが議会制民主主義です。

    面倒な仕組みと思う方がおいでかもしれませんが、もともとの日本的仕組みなら全会一致です。
    全員の賛同が得られるまで、変えることができない。
    それから比べたら、過半数の賛成だけでなんでもできてしまう現代日本のしくみの方が、よほど楽といえるかもしれません。

    大切なことは、誰かを犯人扱いして責めることではありません。
    同じ志を持つ仲間を集め、みんなで勉強し、合意の形成を図っていくことです。
    それは、いつの時代でも変わらぬ大切なことです。

    ことは、そうした合意の形成です。

    「確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ)
     任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ
     総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」とは、昭和天皇の終戦のご詔勅です。
    そのお言葉通りに、謙虚に進むことが、我々臣民の道であると信じています。


    ※この記事は2020年9月の記事のリニューアルです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

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