• コンゴの歴史に学ぶ


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    コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。
    ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。

    コンゴ民主共和国



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    このお話を最初にねずブロに書いたのは2013年5月のことです。
    以来、毎年1回はこのお話を掲載しています。
    なぜなら、自分たちの手で国を守ることの大切さが、世界史の中でコンゴを学ぶことで明らかになるからです。
    米国の今後は、なるほどこれからの日本に多大な影響を与えることと思います。

    けれど、他人の影響ばかりを気にしていても仕方がないのです。
    大切なことは、「自分がどう生きるか」です。
    それが国家であれば、「自分たちが自分たちの国をどうしていかなければならないのか」です。

    中東からアフリカ一帯の諸国は、あまり日本人にはなじみがないところかもしれません。
    けれど、これまでヨーロッパ諸国がそれら地域に介入し、現地でどのようなことがあったのか。
    それを知る意味で、1996以降のわずか19年で、600万人が亡くなったコンゴは、そのひとつの典型といえるところかもしれません。

    「ザイール」という国名を聞いたことがある方も多いかと思います。
    昭和46(1971)年にルワンダの支援を受けたコンゴの反政府勢力が打ち立てた国で、その後も内乱と戦闘が相次ぎ、平成9(1997)年5月に、再び国名が「コンゴ」になりました。

    コンゴは実は、15世紀の終わり頃まで、この国はコンゴ王国として、王制のもとに各部族が統一され、近隣諸国とさかんな交易も行われる、平和でたいへんに栄えた国だったのです。
    それがなぜ、いまだに内乱の中にあるのか。
    実はそこに植民地支配の恐ろしさがあります。

     ***

    はじめにコンゴに、西洋人たちやってきたのは、1482年のことです。
    ポルトガル人がやってきました。
    同じ時期、少し遅れて日本にもポルトガル人がやってきました。
    「鉄砲伝来」で、1543年(1542年という説もあり)のことです。
    コンゴにポルトガル人がやってきた、わずか60年後です。

    コンゴは、ポルトガル人がやってきた2年後の1485年、コンゴ王国とポルトガル王国との間で国交を結びました。
    この国交条約は、双方の国が「対等な関係」にたつという内容のものでした。
    ともに五分と五分のお付き合いです。
    ただし、一点条件がありました。
    それが、コンゴが、ポルトガル宣教師によるキリスト教の布教を認める、ということでした。

    宗教は、人々を幸せに導く教えです。(*1)
    よろこんでコンゴはこれを承諾しました。
    そして1491年には、ローマから宣教師が派遣されてきました。
    コンゴ国王のジンガ・クウは、自から進んでカトリックに改宗し、さらに自分の息子で王子のジンガ・ムペンパを、ポルトガルに留学させました。

     (*1) 宗教は人を導く教えです。これに対して神道は人が目指すところへとたどり着く道です。受験生に例えれば「合格までの道」と、「合格のための様々な教え」の関係になります。

    ムペンパは、ポルトガルにいて学問を修め、1506年に父親の後を継いでコンゴ国王に即位しました。
    そして彼は、積極的なコンゴの欧化政策を採りました。
    さらに、多くのポルトガル人を受け入れ、コンゴの近代化に励みました。

    と、ここまでは、悪くない話です。
    しかし、侵食は静かに始まっていました。
    コンゴの欧化政策のかたわらで、コンゴ国内にポルトガルの奴隷商人たちが、大量に入り込み出していたのです。

     ***

    奴隷商人たちにとって、人身売買の元手は、そこらへんで捕まえてきたコンゴ人(黒人)です。
    多少の経費はかかりますが、元手はタダです。
    そして奴隷は高値で売れました。
    いまで言ったら、クルマを買うような感覚と考えるとわかりやすいです。
    元手がタダの新車が、飛ぶように売れる。
    ですから奴隷商人達は、またたく間にたいへんな金持ちとなりました。(*2)
    そしてコンゴの国政を平然と壟断(ろうだん)しはじめたのです。

    コンゴは、もともと貿易立国していた商業国でした。
    それだけに、欧州経済をいち早く受け入れることができるだけの土壌も育っていたのです。

    けれど、コンゴ人がコンゴで行う商売と、外国人がコンゴで行う商売は、その本質がまるで異なりました。
    コンゴは歴史ある王国です。
    ですからコンゴ王国の民衆も、自然の愛国心や、愛郷心が育まれていました。

    ところが、外国人であるポルトガル商人たちには、そうしたコンゴへの愛国心も愛郷心もありません。
    あるのは私的な欲得だけです。
    そして富を得た彼らは、あらゆる方法を使って自分たちの行いを正当化するために政治や経済を壟断するようになりました。
    こうして気がつけば、コンゴ国内は、ポルトガル人の奴隷商人たちと、その下請けとなったコンゴ人達が、社会的、経済的、政治的に、最大の影響力を持つようになっていったのです。

     (*2) 昔も今も、タダ同然で仕入れたものが高値で売れるという構造は同じです。かつてのそれは黒人奴隷であったし、半世紀前ですと麻薬、いまは幼児です。そしてこのような犯罪もしくは犯罪と隣り合わせで富を得たものたちは、決まって政治を壟断することで正義を破壊し、利権を確立してきたのが世界の歴史です。日本がそうはならなかったのは、天皇という伝統的権威が、利権や政治権力よりも常に上位にあり続けたことによります。

    事態を憂慮したコンゴ国王は、ポルトガル王に対し、奴隷貿易を止めるようにとの書簡を送りました。
    けれど、ポルトガルは、コンゴ政府ではありません。
    コンゴ国内の治安維持に責任を持っているわけでもありません。
    ポルトガルにとっては、ポルトガルが潤うことが第一なのであって、コンゴは貿易の相手国でしかありません。
    あたりまえのことですが、ポルトガルは、ポルトガルの都合で動くのです。

    ですから当然のように、コンゴ国王の書簡は無視されました。
    そして本国政府が黙認することに自信を深めたポルトガルの奴隷商人たちは、ますますコンゴにおける奴隷貿易を盛んにしていきました。
    こうしてついには、コンゴがアフリカにおける最大の奴隷貿易の中心地となってしまうのです。

    コンゴの民衆は怒りました。
    当然です。
    ある日突然、家族が、子供達が白人達に追いかけ回されて網ですくわれ、拉致され、奴隷、つまりモノとして勝手に売買されてしまうのです。
    それでもコンゴ人達は、敬愛する国王を信じ、事態が必ず解決し、いつか拉致された人々も国に戻れる日が来ると信じました。(いまのどこかの国とよく似ていますね。)

    そして、そんな日が来ないまま、コンゴ国王が永眠してしまうのです(毒殺されたという話もあります)。

    国王が亡くなったとき、コンゴの民衆は、ついに暴発しました。
    民衆は反乱し、暴動が相次ぎました。
    ところがその頃のコンゴには、もはや民衆の暴動を鎮圧できるだけの力が残っていませんでした。

    博愛主義を説くキリスト教によって、コンゴ国王の武力は否定され、コンゴ国軍は、ほとんど解体状態となっていたのです。
    しかも適齢期の若者達は、男女を問わず奴隷狩りにあって、その多くが連れ去られています。

    それでも、コンゴ国王は、なんとか暴動を鎮圧しようとしました。
    国内の平和と安定は、国王としての使命だからです。

    そんなところに起きたのが、1568年のジャガ族の襲来です。
    これもまた、「やらせ」だったという話があります。
    ジャガ族という無法者集団が、コンゴ国内に攻め込んで、一部の奴隷商人を襲撃し、さらにキリスト教施設を破壊するという事件が起こりました。

    コンゴ国王は、やむなくこの鎮圧のために、同盟国であるポルトガルに、鎮圧のための軍事支援を要請しました。
    すでにコンゴ王単独で武装集団を退治するだけの国力が、コンゴ王室になかったからです。

    要請を受けたポルトガル軍は、またたく間に、ジャガ族を鎮圧しました。
    これはあまりにもあっけなく、簡単に鎮圧されています。(ますますにおいますね)

    けれど、事態はそれだけに終わりませんでした。
    すでに国軍が衰退していることを知り、かつポルトガルの正規軍をコンゴに送り込むことに成功したポルトガルは、ここにきて、コンゴ王国との関係を、対等な関係から、主従関係へと変更することを要求してきたのです。

    圧倒的な軍事力を持ったポルトガル、しかもその軍事力が、すでに国内に基地を持っている。
    この情況では、武力のないコンゴ王は従わざるを得ません。
    こうしてコンゴは、ポルトガルの従属国となりました。

    属国となっても、コンゴ王国は、細々と存続し続けました。
    けれどそれは国として存続したというよりも、国王を名乗る家がコンゴ地方内に存続していた、というだけの情況です。(*3)

     (*3) どこかの国と同じです。○○国政府を名乗る機構がその国にあるというだけで、重要なことは毎週水曜日の○○合同会議ですべて決められる・・・。

    コンゴは荒れ、ほとんど無政府状態となりました。
    街では、武装した奴隷商人達が王侯貴族のような暮らしをし、コンゴの民衆はひたすら彼らにおびえながら、極貧生活を余儀なくされる状態となったのです。

     ***

    こうして300年が経ちました。

    情況に変化が起きたのは、1885年です。
    ベルリン会議の決定によって、ベルギーが、コンゴの新たな支配者となったのです。

    ベルギー国王のレオポルド2世は、コンゴを「コンゴ独立国」とし、自身でコンゴの元首となり、コンゴを自由貿易の国としました。
    ただし、形は自由貿易の独立国であっても、コンゴは、土地も人も一切合切、レオポルド2世の私有物です。

    ですから、ベルギー領となったコンゴの政府は、コンゴにはありません。
    コンゴ政府は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。
    レオポルド2世も、コンゴへは足を運んでいません。
    コンゴへは、総督が派遣されました。

    実際には私有地、私有財産にすぎないのに、カタチだけは独立国です。
    ですから英国人達は、これを揶揄して、コンゴのことを「Congo Free State(コンゴ自由国)」と冷笑しました。(*4)

     (*4) いまでも当時のコンゴのことを「コンゴ自由国」と呼ぶ学者がいますが、酷いことです。

    コンゴを私物化したベルギー国王は、1830年にオランダ(ネーデルラント)から独立したばかりでした。
    その親元の国であるオランダは、世界中に圧倒的な植民地を持ち、巨富を得ていました。
    ですからベルギーからコンゴに派遣された総督の任務は、ベルギー初の植民地(私有地)であるコンゴから、一日もはやく経済的利益をあげる必要がありました。

    しかしこの頃には、奴隷貿易はすでに下火になっていました。(*5)

     (*5) 富を生む仕組みは時代とともに変わります。16世紀には奴隷、19世紀からは麻薬、そして21世紀となった今日では、幼児といわれています。幼児は幼児そのものへの性愛と、幼児から採れるアドレノクロムとよばれる若返りの妙薬(アドレナリンの一種で、一時的な抗老作用がある)へと変化しています。

    ベルギー王室は、なんとかしてコンゴに産業を確立させようとしました。
    長い間、コンゴは奴隷以外に主たる産業も産物も育てられていなかったために、コンゴのインフラ整備は、たいへんに費用のかさむものでした。
    それでもベルギー王室は、コンゴの民衆が豊かになる道を選択しようとしていたのです。

    ところが、その頃から事情に変化があらわれました。
    英国で、1887年に、自転車用のゴムタイヤが発明されたのです。
    これはたいへんな技術革新でした。
    そしてその技術が自動車のタイヤにも応用されるようになったのです。

    こうなると、ゴムの需要がうなぎ上りです。
    そしてゴムの木は、他に産業らしい産業のないコンゴの、国中のいたるところに、自生していました。

    コンゴにやってきていたベルギー人達は、ゴムの採取に目を付けました。
    そしてコンゴ人達を使って、徹底的にゴムの採取を行ないました。
    おかげで、コンゴのゴムの生産高は、20世紀のはじめには、世界全体の生産高のほぼ10%を占めるに至りました。
    ベルギーは、コンゴ産ゴムによって、経済的にたいへんに潤うことになりました。
    苦労してコンゴの再生を願ったベルギー王が喜んだことは、いうまでもありません。

    ところが、そうした生産高を上げるために、現地で何が行われていたのか。
    そのために何が行われたか。

    ゴムの採取を強制するために、コンゴ人の女子供を人質にとって、コンゴの男たちを働かせました。
    仕事を効率よく進めるための鞭打ちでコンゴ人労働者を死に至らしめ、さらにノルマを達成できないと、人質にとってある女子供らの右手を、見せしめとして切断するという罰を与えていたのです。

    手を切られたコンゴ人
    マーク・トウェイン「レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護」p.40
    コンゴ自由国


    ここまでくると、コンゴ人達も黙っていません。
    中には集団で徒党を組んで反乱を組織するコンゴ人も出てきました。
    そこで反乱ゲリラを鎮圧するために、周辺に住む未開の部族達を徴用して、コンゴ国内に「公安軍」が組織されました。
    この「少数民族を武装させ、利用して、現地の人々を統治する」という手法は、植民地支配では、ごく一般的に行われてきた統治手法です。(日本でも戦後行われましたね)

    未開の蛮族達による徴用兵たちは、白人以上に恐ろしい残忍さを発揮しました。
    徴用兵たちの任務は、ゴム採集のノルマの達成管理だったのですが、その中には、未達者に対する手首斬り落しの強制執行も含まれていました。

    徴用兵達の給料も、利益に基づく歩合性でした。
    そのうち、蛮族たちが任務を果たしている証拠として、懲罰のために切り落とした手首の数によって昇級や賞与の額が決められるようになりました。

    すると村人たちは、この取立から逃れるために、他の村人たちを大量殺人して、手首を集めてくるようになりました。
    こうして手首は、それ自体が価値を帯びるようになり、一種の通貨になっていきました。

     ***

    コンゴが、ベルギー領コンゴとなったのは1885年のことです。
    そしてコンゴが、ようやく独立を果たしたのは、昭和35(1960)年のことです。
    その間、わずか75年の間に、コンゴで虐殺された人の数は、1000万〜1600万人であったといわれています。
    コンゴが独立したときの人口が1400万人であったことを考えると、これは恐ろしい数です。

    しかし、せっかくのコンゴの独立も、独立からわずか1週間で、内乱とベルギー軍の介入によって崩壊してしまいました。
    こうして始まったのが「コンゴ動乱」です。

    「コンゴ動乱」は、民主化を促進しようとするムルンバ大統領派と、ソ連やキューバに後押しされたコンゴ国軍が対立するという構図となりました。
    さらに国内を二分しての民族紛争がこれに重なり、コンゴはこの後約5年間、動乱に継ぐ動乱の時代となり、いまなおコンゴは戦場の中にあります。

    今年は2021年です。
    自主自存の国家だったコンゴの崩壊の引き金となったのは、1568年のジャガ族の襲来事件でした。
    この事件のときに、コンゴが自前の防衛力を保持していたら、つまり強力な軍隊を自前で保持していたら、おそらくジャガ族の襲来もなかったし、ポルトガルに援軍を要請する必要もなかったし、結果としてポルトガルの従属国となることもありませんでした。
    それどころか、奴隷商人たちの跋扈そのものを、自前の強力な軍隊の出動によって防ぐことができたかもしれません。

     ***

    「そのとき軍隊が弱かった」
    たったそれだけのことで、コンゴは国を崩落させ、それからいまにいるまで453年、いまだに内乱と戦火の中にコンゴはあります。

    大事なことは、どんなにご立派な講釈を垂れたとしても、力なき正義は正義になれない。
    それどころか多くの国民の不幸を招く、ということです。
    そもそも国家とは、領域、国民、武力の三要素によって形成されるのです。
    領域内の国民を守る力があってこその国家なのです。
    そしてそれが現実です。

    現実に日本は、どんなに立派な法的根拠、歴史的根拠を並べ立てたとしても、武力を背景にした他国による領土の占有の前に、なにもできていません。
    国民を拉致されても、政府には何もでません。

    自衛隊はあります。
    はっきりいって、強いです。
    けれど専守防衛をうたう以上、他国は日本に対していかなる不条理を押し付けたとしても、その国が日本から攻められる可能性は皆無なのです。
    武道の有段者なのに、いくらヤクザ者にカツアゲされても「絶対に抵抗しません」とヤクザ者に約束しているのが、戦後の日本政府です。
    それどころか「暴力だけはふるわないで」と、欲しいだけカネを出してくれるお金持ちで腰抜けのボンボンを演じています。

    日本国憲法に、「平和を愛する諸国民の公正と信義」と前文にありますが、公正な国ってどこでしょう?信義ある国とは、どこの国を指すのでしょう?

    日本が平和を愛し、公正と信義のある国となるためには、日本が強くなければなりません。
    でなければ、日本は4百年前のコンゴになってしまう。

    日本にも16世紀にポルトガル人が来日し、鉄砲などが伝えられました。
    けれど日本は、鉄砲をまたたく間に国内に普及させ、秀吉の時代には、日本は全世界の鉄砲保有数の約半数を持つという、すさまじい大国となっています。

    けれど、鉄砲に使う火薬の原料となる「硝石」は、日本で産出しません。
    あたりまえのことですが、火薬がなければ鉄砲はただの鉄パイプです。
    ですから、日本の戦国大名たちは、こぞってポルトガル人達から火薬を買いました。
    代金は、火薬一樽につき、日本人の若い女性50人が相場です。(徳富蘇峰、近世日本国民史)

    日本女性が奴隷に売られたのです。
    日本でも、コンゴで起きたことに近いことが、現実にあったわけです。

    けれど日本がコンゴのように、ポルトガルの属国とならずに済んだのは、彼らの鉄砲という兵器を駆使する戦いに学び、これを吸収して自前の鉄砲隊を組成してしまったこと、それにより、日本がポルトガルを圧倒する強力な軍事力を備えたこと、さらに秀吉が奴隷売買とキリスト教を禁じ、日本人女性が奴隷として国外流出することを阻止することができたからにほかなりません。

    幕末動乱も同じです。
    日本は、外国からの圧力に対し、これを学び、吸収して、その外国以上に強靭な国家を築き上げました。

    なるほど幕末に日本は外国との間に不平等な条約を締結しました。
    けれど明治44年に、日本は完全に外国との関係を対等なものに修復しています。
    それは、幕末の志士達が夢見た坂の上の雲に到達した瞬間でした。

    もし、日本が過去においてそういう努力をしてこなかったら。
    もしかすると日本人もコンゴと同様に奴隷に売られ、女性たちは旦那のために手首を斬り落され、通貨は日本円ではなく、日本人の手首になっていたかもしれません。
    銭形平次の投げるのが寛永通宝ではなく、紐でつないだ手首だなんて、想像もしたくないですよね。

    大切なことは、自立自存です。
    支配されるということは、いかなる場合においても、幸せになれることはない、ということです。
    もちろん例外はあります。
    それは日本がかつて統治した国々です。
    どの国もすべて発展し、なかには歴史上初と言って良い平和な時代を迎えた国もありました。

    けれど、日本がそうしてきたからといって、他国も同じようにするなどということは、金輪際ないし、上に述べたコンゴのように、他国の支配を受けることは、これ以上ないといって良いくらいの国民の不幸を招くのが、世界の歴史です。

    日本が、独立した国家でいられたのも、いま、私たちが平和に暮らして行けるのも、私たちの父祖、祖先が、それこそたゆまぬ努力を重ねてきたからに他なりません。
    その努力を、あらためて続けて行きたい、と思うのです。

    冒頭に書きましたが、コンゴは1996年以降の動乱で、この27年の間に600万人がなくなっています。
    コンゴは資源国ですが、その資源をめぐって、それだけの争いと殺戮が起きているのです。
    コンゴは、ゴムの採取からはじまって、いまではコバルトなど、電子機器に必要なレアメタルが大量に採れる地域となっています。
    この資源を狙う西欧諸国の利害が、コンゴの国内と周辺国の事情を複雑にし、それが原因で、いまだ内乱が絶えないのです。

    第二次世界大戦の頃、まだ中東には石油が発見されていませんでした。
    それが発見され、中東は諸外国の利害が対立する地域となり、結果、紛争地帯となっています。
    そして地球最後の石油埋蔵地帯として、いま、東と南シナ海が注目されています。
    日本は、コンゴのようになるのでしょうか。

    コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。
    おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。

    ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。


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    軍人勅諭は、明治15(1882)年1月4日に、明治天皇から、陸海軍人に下賜された訓誡です。正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」といいます。
    昔は、軍隊に入ると、まずこの軍人勅諭から次の五項目の暗記と暗唱をさせられたものです。

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    軍人勅諭は、明治15(1882)年1月4日に、明治天皇から、陸海軍人に下賜された訓誡です。正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」といいます。
    昔は、軍隊に入ると、まずこの軍人勅諭から次の五項目の暗記と暗唱をさせられたものです。

    一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
    一(ひとつ)軍人は礼儀を正しくすべし。
    一(ひとつ)軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし。
    一(ひとつ)軍人は信義を重んすへし。
    一(ひとつ)軍人は質素を旨とすへし。


    残念なことに軍人勅諭は、昭和23(1948)年6月に、衆参両院で排除・失効が決議されています。
    米国国防省が、日本の教育勅語・軍人勅諭を全面的に否定する方針を打ち出し、GHQがこれにならって教育勅語ならびに軍人勅諭を否定するように口頭で指示し、これを受けて日本の国会で全会一致で廃棄が決まったものです。

    戦後生まれの私達は、大東亜戦争は昭和20(1945)年8月15日終わったと、半ば「思い込まされて」いますが、実は違います。
    8月15日に終わったのは、武器を用いた戦闘活動であって、実はその日を境に本格的な戦争の「掃討戦」が始まっているのです。

    「掃討戦」というのは、相手国への徹底した破壊活動です。
    そして終戦によって占領がはじまり、その占領によって日本に対する徹底した破壊工作戦が行われています。
    つまり、占領行為というのは、それ自体が戦争行為なのです。

    昭和23年の廃棄決議の名前は、
     衆議院=教育勅語等排除に関する決議
     参議院=教育勅語等の失効確認に関する決議 です。

    人間でいったら、両手両足を縛られて拘束され、のど元に武器を突き付けられた状態で、廃棄を決議せよと強要されたわけで、たとえそれが議会決定であったとしても、状況からして、脅迫・強要による意思表示として法的にその廃棄は、本来、無効です。

    さて、軍人勅諭は、その最初の前段において、
    1 日本は天皇を頂点とする君主国であること。
    2 歴史的に軍は本来、政庁の所轄するものではなく、君主である天皇が直接所轄するものである、
    ということが、明確に述べられています。

    だからこそ日本軍は「皇軍」であったわけですけれど、同時にこの日本軍が占領後に解体されることによって、GHQは、思う存分日本解体工作を、まさに「やりたい放題」できるようになりました。
    いまは、このGHQの敷いた路線の上に、ChinaやKoreaが乗っかって、日本解体を推し進めています。
    また、憲法改正案の議論がこれからいよいよ本格化してくると思いますけれど、それら改正案をみても、かなり右寄りな団体が唱える改憲案を見ても、自衛隊を国防軍に名称変更する程度の話にしかなっていません。

    軍人勅諭においては、軍は内閣や政府の管轄下ではなく、陛下の直轄下にあると既定されています。
    だからこそ、軍人勅諭において、「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と宣言されているのです。
    ただし、その運用にあたっては、帝国憲法に基づき、内閣が責任を負うとされています。
    つまり、憲法上も、軍に関する責任は天皇にはない。
    ここも、帝国憲法を考える上でとても大切なポイントです。



    警察は内閣のものです。
    けれど軍は陛下の軍です。それを内閣が運用責任を負っています。
    警察法の枠内で動く存在だからです。
    けれども軍隊は、国法の及ばないところでの活動をします。

    このことはとても重大なことです。
    すなわち警察は、どこまでも法の枠内でしか動いてはならないものであるのに対し、軍は法のないところで動くことができる存在だからです。
    極端な話、いま国内数万箇所に隣国のスパイ拠点があります。
    現在の法では、法がないからこうしたスパイ施設を警察が取り締まることはできませんが、軍ならば法とは関係なく必要に応じてそれらスパイ拠点を破壊することができます。それだけ大きな違いが軍と警察にはあります。

    では自衛隊はどうかというと、自衛隊は装備は軍に近いですが、軍ではありません。
    あくまでも現在の位置づけは警察予備隊です。つまりどこまでも法の範囲で行動する警察の範疇の存在です。

    事件も事故も災害も戦時も、あらかじめ法で定めた「国家の法の都合」で発生するものではありません。
    ということは、法の及ばない事態が起きた時に、政府さえも機能不全に陥ったときに、独自に国家のために活動できる軍の存在は、どんな国においても不可欠です。

    これは憲法9条とも関係ありません。
    憲法9条は、他国を侵略するための軍備の保有は禁じていますが、国軍の存在そのものはどこにも禁じていません。
    問題は、いつのまにか、自衛隊を国軍化するという話が、国軍を憲法や法の枠内に収めるという、まったく論理の破綻した議論にすり替えられていることが、実は、大きな問題なのです。
    ここを多くの人が騙されています。

    9条を守れといいますが、自衛権というのは、国家の生存権であって、憲法以前のものです。
    9条は自衛権まで禁じているものではありません。
    ですから岸内閣のときには、憲法9条に基づいて日本は核武装できると、公式説明がなされています。

    そもそも戦争というものは、
    1 侵略戦争
    2 自衛戦争
    3 制裁戦争
    の3つの種類があります。

    9条が禁止しているのは、このうちの1侵略戦争だけです。
    9条にそのように書いてあります。

    第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

    「国権の発動たる戦争」というのは、自衛戦争のことを意味しません。
    他国への侵略戦争のことを意味します。
    そして侵略戦争のための軍隊は持たないと2項で宣言しています。

    2の自衛戦争というのは、他国に攻められたり、侵略されたりしたときに行う自己防衛戦争のことを言います。
    先に述べましたとおり、自己防衛は国家生存権であり、これはあらゆる法規に優先します。
    つまり、超法規的な戦争であって、憲法で規定できるようなものではありません。
    ですから当然に我が国は、自己防衛のために必要な陸海空の軍隊を持つことができます。
    あたりまえのことです。

    さらに3の制裁戦争は、これは国際協調に基づいて行われる侵略国等への国際制裁の一環としての戦争です。
    基本的に国際条約や国際社会の意思決定に基づいて行われますが、国際ルールが、国内法に優先するのは、ごくあたりまえの常識です。
    少し前に、K国の最高裁が、慰安婦問題に関して、我が国との間に解決済みとの条約があるのに、現憲法の人権に違反するという判決を出して国際社会から笑われました。
    しかし同じことを日本も行っています。
    国連のPKOなどの軍隊派遣に際して、国内法である憲法に違背するからと、派兵を拒むという議論が、あたりまえのようにされていました。
    憲法学者の先生方まで、そんな馬鹿げた主張をしていました。
    そして日本は国際社会から笑われました。

    9条を守るかどうかなど、ハナから問題にならないのです。
    そうではなくて、問題の本質は、国軍を警察機能の延長線上に置くのか、法の外の存在にするのか、なのです。
    これを左翼は恐れます。
    なぜなら、彼らの破壊活動ができなくなるからです。

    内閣も、内閣が所轄する自衛隊も、法に基づいてしか動けません。
    ですから、軍は内閣の外になければならず、だからこそ、天皇直轄の皇軍であるべきものです。
    その意味で、軍人勅諭の記述は、国際法に則った正論といえるものです。

    また、軍人勅諭の5には、「凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ、軽薄に趨(はし)り、驕奢華靡の風を好み、遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり、節操も武勇も其甲斐なく、世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし。其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり。此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し、士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり」とあります。

    現代語にしますと、
    「およそ質素を第一としなければ、武を軽んじ文を重んじるように流れ、軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、遂には欲が深く意地汚くなって、こころざしもひどくいやしくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世の人々から爪弾きされるまでになることでしょう。それはその人にとって生涯の不幸であることはいうまでもないことです。
    こうした悪い気風がひとたび軍人の間に起こったら、それは伝染病のように蔓延し、軍人らしい規律も兵士の意気も急に衰えてしまうことは明らかです」となります。
    まるで、いまの日本そのものです。

    ではどうするかというと、これもまた軍人勅諭に書かれています。
    「朕は深くこれを恐れて、先に免黜条例(官職を辞めさせることについての条例)を出し、ほぼこのことを戒めて置いたけれども、なおもその悪習が出ることを心配して心が休まらないから、わざわざまたこれを戒めるのである。お前たち軍人は、けっしてこの戒めをおろそかに思ってはならない」です。

    議員や公務員であっても、この免黜条例に違背する者は、即刻免職できるようにすべきです。
    免黜条例の内容は、7つです。
    1 品行不正
    2 交際不正
    3 怯懦畏避
    4 抗言持頑
    5 職務不治
    6 不曲失儀
    7 闘争
    いまいる国会議員でも、この7項目に照らせば、特に左系の議員はほぼ全員、免職処分になるのではないでしょうか。

    そこで軍人勅諭には、どんなことが書いてあったのか。
    今日は、あらためてそれを見てみたいと思います。
    いつものように、わかりやすさを優先させて、現代語訳します。
    原文は末尾に示します。


    -----------------------------------
    軍人勅諭
    明治15年陸軍省達乙第2号 (1月4日)
    -----------------------------------

    我が国の軍隊は、代々天皇が統率してきました。
    昔、神武天皇みずから大伴氏や物部氏の兵を率い、大和地方に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経っています。

    古くは天皇みずからが軍隊を率い、ときには皇后や皇太子が代わったこともありましたが、およそ兵の指揮権を臣下に委ねたことは、もともとはありませんでした。

    ところが中世になると、文武の制度を唐の国に傚(なら)って、六衛府を置いて左右馬寮を建て、防人(さきもり)などを設けました。
    これらによって兵の制度は整いましたが、平和に慣れ、朝廷の政務も文弱に流れ、兵農は、いつのまにか二分され、古(いにしえ)の徴兵はいつのまにか、壮兵の姿に変り、これが遂に武士となり、兵馬の権はひたすらに武士たちの棟梁である者のものとなり、世の乱とともに、政治の大権もまた、武士たちの所管するものとなり、七百年の間、武家の政治となりました。

    世の中の有様が移り変わってこのようになったのは、人の力をもって引き返せないと言いながら、一方では我が国体(国家のあり方)に背き、一方では我が祖宗(神武天皇)の掟に背くものでした。

    時は流れて弘化、嘉永の頃(江戸時代末期)から、徳川幕府の政治が衰えました。
    そのうえ米国をはじめとする欧米列強が通商を求めて日本を圧迫して日本人が侮辱を受けそうな事態になりました。
    朕(天皇の自称)の皇祖であられる仁孝天皇、皇孝(天皇の父)孝明天皇が非常に心配されたのは勿体なくもまた畏れ多いことです。

    さて朕は、幼くして天皇の位を継承しましたが、征夷大将軍(幕府の長)はその政権を返上し、大名、小名が領地と人民を返し、年月が経たないうちに日本はひとつに治まる世の中になり、昔の制度に立ち返りました。
    これは文官と武官との良い補佐をする忠義の臣下があって、朕を助けてくれた功績です。

    そしてこのようになったのは、歴代の天皇がひたすら人民を愛し、後世に残した恩恵であり、同時に我が臣民が、心に「正しいこと」と「間違っていること」の道理をわきまえ、大義(天皇の国家に対する忠義)の重さを知っていたからです。
    だから、この時において軍隊の制度を改め、我が国の光りを輝かそうと思い、この十五年の間に、陸軍と海軍の制度を今のようにつくり定めることにしました。

    そもそも、軍隊を指揮する大きな権力は、朕が統括するところです。
    様々な役目は、臣下に任せるが、そのおおもとは朕みずからこれを執り、あえて臣下に委ねるべきものではありません。
    代々の子孫に至るまで深くこの旨を伝え、天皇は政治と軍事の大きな権力を掌握するものである道理を後の世に残して、再び中世以降のような誤りがないように望みます。

    朕はお前たち軍人の総大将(大元帥)であるぞ。
    だから朕はお前たちを手足のように信頼する臣下と頼みます。
    お前たちは朕を頭首と仰ぎなさい。
    そうすれば、その親しみは特に深くなることでしょう。

    朕が国家を保護し、おてんとう様の恵みに応じて、代々の天皇の恩に報いることが出来るのも出来ないのも、お前たち軍人がその職務を尽くすか尽くさないかにかかっています。
    我が国の稜威(日本国の威光)が振るわないことがあれば、お前たちはよく朕とその憂いを共にしなさい。

    我が国の武勇が盛んになり、その誉れが輝けば、朕はお前たちとその名誉を共にするでしょう。
    お前たちは皆その職務を守り、朕と一心になって、力を国家の保護に尽くせば、我が国の人民は永く平和の幸福を受け、我が国の優れた威光(人を従わせる威厳)は大いに世界の輝きともなることでしょう。

    朕はこのように深くお前たち軍人に望むから、そのためになお、教えさとすべきことがある。次にこれを左に述べます。


    1.軍人は忠節を尽すを本分とすへし

    およそ生を我が国に受けた者は、誰でも国に報いる心がなければなりません。
    まして軍人ともあろう者は、この心が固くなくては物の役に立つことが出来るとは思われません。

    軍人でありながら国に報いる心が堅固でないのは、どれほど技や芸がうまく、学問の技術に優れていても、やはり人形に等しいのです。
    隊列(兵隊の列)も整い、規律も正しくても、忠節を知らない軍隊は、ことに臨んだ時、烏合の衆(烏の群れのように規律も統率もない寄せ集め)と同じです。

    そもそも、国家を保護し国家の権力を維持するのは兵力にあるのです。
    だから、兵力の勢いが弱くなったり強くなったりするのは、すなわち国家の運命が盛んになったり衰えたりすることとわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ただただ一途に軍人として自分の義務である忠節を守り、義(天皇の国家に対して尽くす道)は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい。

    その節操を破って、思いもしない失敗を招き、汚名を受けることがあってはなりません。


    2.軍人は礼儀を正しくすへし

    およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職(官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲)の階級があり、その統制のもとに属します。
    そして同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければなりません。

    下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。
    自分がつき従っている上官でなくても、上級の者は勿論、軍歴が自分より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くしなさい。

    また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはなりません。

    おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別であるけれども、そのほかは務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければなりません。

    もし軍人でありながら、礼儀を守らず、上級者を敬わず、下級者に情けをかけず、お互いに心を合わせて仲良くしなかったならば、それは、単に軍隊の害悪になるばかりでなく、国家のためにも許すことが出来ない罪人です。


    3.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし

    そもそも武勇は、我が国においては昔から重んじたのですから、我が国の臣民ともあろう者は、武勇の徳を備えていなければなりません。
    まして軍人は、戦いに臨み敵にあたることが職務であるから、片時も武勇を忘れてはなりません。

    武勇には大勇(真の勇気)と小勇(小事にはやる、つまらない勇気)があります。
    これは同じものではありません。
    血気にはやり、粗暴な振る舞いなどをするのは、武勇とはいえないのです。
    軍人ともあろう者は、いつもよく正しい道理をわきまえ、よく胆力(肝っ玉)を練り、思慮を尽くしてことをなさなければなりません。

    小敵であっても侮らず、大敵であっても恐れず、軍人としての自分の職務を果たすのが、誠の大勇です。

    だから、武勇を重んじる者は、いつも人と交際するには、温厚であることを第一とし、世の中の人々に愛され敬われるように心掛けなさい。
    理由のない勇気を好んで、威勢を振り回したならば、遂には世の中の人々が嫌がって避け、山犬や狼のように思うことでしょう。心すべきことです。


    4.軍人は信義を重んすへし

    およそ信義を守ることは一般の道徳ですが、なかでも軍人は、信義がなくては一日でも兵士の仲間の中に入っていることは難しいものです。

    信とは自分が言ったことを実行し、
    義とは自分の務めを尽くすことをいいます。

    信義を尽くそうと思うならば、はじめよりそのことを出来るかどうか細かいところまで考えなければなりません。
    出来るか出来ないかはっきりしないことをうっかり承知して、つまらない関係を結び、後になって信義を立てようとすれば、途方に暮れ、身の置きどころに苦しむことになります。
    悔いても手遅れです。

    はじめによくよく正しいか正しくないかをわきまえ、善し悪しを考え、その約束は結局無理だと分かり、その義理はとても守れないと悟ったら、速やかに約束を思いとどまるべきです。

    昔から、些細な事柄についての義理を立てようとして正しいことと正しくないことの根本を誤ったり、古今東西に通じる善し悪しの判断を間違って自分本位の感情で信義を守ったりして、惜しい英雄豪傑どもが、災難に遭い、身を滅ぼし、死んでからも汚名を後の世までのこしたことは、その例が少なくありません。
    深く戒めなければならないことです。


    5.軍人は質素を旨とすへし

    およそ質素を第一としなければ、武を軽んじ文を重んじるように流れ、軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、遂には欲が深く意地汚くなって、こころざしもひどくいやしくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世の人々から爪弾きされるまでになることでしょう。
    その人にとって生涯の不幸であることはいうまでもないことです。

    この悪い気風がひとたび軍人の間に起こったら、あの伝染病のように蔓延し、軍人らしい規律も兵士の意気も急に衰えてしまうことは明らかです。

    朕は深くこれを恐れて、先に免黜条例(官職を辞めさせることについての条例)を出し、ほぼこのことを戒めて置いたけれども、なおもその悪習が出ることを心配して心が休まらないから、わざわざまたこれを戒めるのです。
    お前たち軍人は、けっしてこの戒めをおろそかに思ってはなりません。


    右の五ヶ条は、軍人ともあろう者は、しばらくの間もおろそかにしてはなりません。
    そして、これを実行するには、偽りのない心こそ大切です。
    そもそも、この五ヶ条は、我が軍人の精神であって、偽りのない心はまた五ヶ条の精神です。
    心に誠がなければ、どのような戒めの言葉も、よいおこないも、みな上っ面の飾りに過ぎず、何の役にも立ちません。
    心にさえ誠があれば、何事も成るのです。
    まして、この五ヶ条は、天下おおやけの道理、人として守るべき変わらない道です。
    おこないやすく守りやすい。

    お前たち軍人は、よく朕の戒めに従って、この道を守りおこない、国に報いる務めを尽くせば、日本国の人民はこぞってこれを喜ぶことでしょう。
    そのことは、朕ひとりの喜びにとどまらないのです。

    明治15年1月4日

    御名
    ----------------------------------


    (原文)
    陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)
    我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

    一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
    凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

    一 軍人は禮儀を正くすへし
    凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も輕侮驕傲の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし

    一 軍人は武勇を尚ふへし
    夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

    一 軍人は信義を重んすへし
    凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき

    一 軍人は質素を旨とすへし
    凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閑にな思ひそ

    右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや

    明治十五年一月四日
    御名



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    要するに筆順というものは、漢字のもつ象形性をより明確にするためのものでもあるのです。
    これをバラバラにしてしまったら、漢字の持つ意味がわからなくなります。

    終戦後、GHQが入ってくると、作家の山本有三や土岐善麿らが
    「日本では漢字が濫用され、これが軍国主義を形成した。
     従って漢字教育は軍国主義の復活につながる」
    などと主張しました。
    どこをどう取ったら、そのような見解になるのか、まったく意味不明としか言いようのない主張ですが、英語圏で暮らすGHQの職員らには、なるほど日本語はむつかしかったのでしょう。
    そのことと、山本有三らの主張が相まって、昭和21年には当用漢字が指定されました。

    さらにこのとき、「學」を「学」などの略字にすることが定められています。
    ところがそれだけでは不安だったのでしょう。
    今度は、筆順まで文句をつけ始めたのです。

    昭和21年頃といえば、昭和天皇のご意向を受けたマッカーサーが、日本人が餓えないようにと、さかんに人道支援を行った一方で、日本解体のために「良い」とされることは、片端から実行に移されていた時代です。
    もっとも昭和23年には、GHQのジョン・ペルゼルが、日本語の表記をすべてローマ字に改めさせようと計画していますが、これは成功しませんでした。
    というのは、事前にGHQの指導によって、当用漢字表が出されていたわけです。
    朝令暮改は、さすがにマズイだろうということになった。

    おかげで日本語の表記の漢字仮名交じり文は、維持されるのですが、「あらゆる日本的なものを破壊することが正義」とされた時代です。
    それなら漢字の持つ象形性を失わせ、教育から漢字からの推理力・読解力を奪ってしまえということになって、「學」を「学」と書き、「敎育」を「教育」と書くという、いわば簡体字のような当用漢字の普及を図るだけでなく、筆順を指定することで、漢字の持つ意味を「わからないようにさせよう」という運動が起こったのです。

    何も知らない日本人こそ、いい面の皮です。
    子供達は、指定された筆順でなければ、テストで点をもらえない。
    ですから素直に、その漢字と書き順を受け入れました。

    それから70年。
    いまでは、自分の名前の漢字でさえ、意味がわからない人がほとんどという状況に至っています。

    たとえば「成」という漢字があります。
    よく名前に使われる漢字です。
    この字は、昔の旧字は↓の字で、よく見ると「ノ」に「丁」と小さく書かれていることがおわかりいただけるかと思います。
    20180109 成る

    「丁」は釘の象形で、これに「戈」と書いてありますから、戈で釘を打ち付ける、つまり、成形するという意味の漢字となっています。

    つまり、この字は本来は、「ノ」と「丁」を書いてから「戈」と書くのが良いのです。
    ところが現代教育では、下の図の書き順が正しい書き順とされています。
    成の書き順
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。尚、本日の画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

    はたして、この書き順で、「成」という字の持つ象形性とか意味が理解できる人などいるのでしょうか。

    漢字は、もともとが象形文字から出来ているものです。
    ですからたとえば「魔」という字を見ると、中に「鬼」がいます。
    この字は、「广」+「林」+「鬼」でできているわけですが、「广」は、屋根の下ですから室内です。
    家の中が林の中のようだということは、家の中が薄暗いわけです。
    その薄暗いところに鬼がいるのです。

    「魔」という字は、異常なほどに何かに執着する人(例:色魔)や、なにかをなそうとする者を阻害するもの(例:睡魔)のことを言いますが、「魔」という漢字の意味がどうのとまる暗記するのではなく、漢字のもつ象形性をしっかりと学んでいくことによって、実は、漢字は私たちに、たいへんな理解力、洞察力、推理力をもたらしてくれるものなのです。

    これは伊勢雅臣(いせ・まさおみ)さんが書いておられことですが、
    「幼児の時から漢字を学ぶことで、
     抽象化、概念化する能力、
     推理力、主体性、読書力が
     一気に伸びていく。
     幼児の知能指数が
     漢字学習で
     100から130にも伸びたというのも
     当然であろう」

    かつての日本人がとてつもなく優秀だったのは、子供の頃からこうして漢字を学んでいたことが重要な要素のひとつであったという側面は見逃せないものであると思います。
    その意味では、戦後教育は、日本人を幼いうちからアホにする教育であったといえるのかもしれません。


    ※この記事は2018年1月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    1月8日は、「戦陣訓」が発布された日(昭和16年)です。
    「戦陣訓」といえば、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節だけが、やたらと強調されていますが、部分を切り取ってまったく別な趣旨のものにすり替えるのは、左翼のお家芸です。
    本文を読めばわかりますが、これは本訓その二の「第八 名を惜しむ」に出てくる言葉です。
    そこには、次のように書かれています。

    戦陣訓



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    「戦陣訓」といえば、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節だけが、やたらと強調されていますが、部分を切り取ってまったく別な趣旨のものにすり替えるのは、左翼のお家芸です。
    本文を読めばわかりますが、これは本訓その二の「第八 名を惜しむ」に出てくる言葉です。
    そこには、次のように書かれています。

    「恥を知る者は強い。
     常に、親兄弟や祖先の面目を思い、
     ますます奮励して、その期待に答えなさい。
     生きて虜囚の辱を受けず、
     死して罪禍の汚名を残すことなかれ」

    つまり、親兄弟に顔向けできないような恥ずかしい振る舞いはするな、ということです。
    そしてこのことは、昨日ご紹介した「戦陣訓」の「4:軍人は信義を重んずべし」を受けています。
    「戦陣訓」には次のようにありました。

    「軍人は、
     信義がなくては一日でも
     兵士の仲間の中に入っていることは難しいものです。

     信とは自分が言ったことを実行し、
     義とは自分の務めを尽くすことをいいます。
     信義を尽くそうと思うならば、
     はじめよりそのことを出来るかどうか
     細かいところまで考えなければなりません。

     出来るか出来ないかはっきりしないことをうっかり承知して、
     つまらない関係を結び、
     後になって信義を立てようとすれば、
     途方に暮れ、身の置きどころに苦しむことになります。
     悔いても手遅れです。
     はじめによくよく正しいか正しくないかをわきまえ、
     善し悪しを考え、
     その約束は結局無理だと分かり、
     その義理はとても守れないと悟ったら、
     速やかに約束を思いとどまるべきです。」

    この文脈のもとに、
    「恥を知り、親兄弟や祖先の面目を思い、
     その期待に答えるよう努力し、
     生きて虜囚の辱を受けず、
     死して罪禍の汚名を残すことなかれ」
    と説いているのです。

    左翼は、これをまるで「とんでもないこと」のように宣伝しましたが、世界的に見ても、すくなくとも非常識な破壊活動ばかりに精を出す左翼よりは、よほど立派な心構えだと思います。

    「戦陣訓」は、人生という戦いを勝ち抜く知恵でもあろうかと思います。
    ですから経営者の方や会社にお勤めの方であれば、「軍」を「我が社」に、「軍人」を「当社社員」と読み替えて読んでみてください。
    学校関係者であれば、「軍」を「本校」、「軍人」を「本校生徒」と読み替えながら読んでみてください。
    きっと何かを感じられることと思います

    たとえば戦陣訓には、「戦場においては勇怯の差なんてのは、小さなものにすぎない」と書かれています。
    勇気ある者、怯えがちな者の違いなんて、戦場では関係ないというのです。
    それよりも大切なことは、「責任感」と説かれています。
    「責任を重んずる者こそが、戦場ではもっとも勇気ある者となる」のです。

    また「戦陣訓」には、知識や謀ごとなどよりも、実行力が大事と説かれています。
    そして、その実行に際しては、道義を重んじることによつて、個人を美しくし全軍の戦力を至大ならしめる、と説いています。

    わかりやすさを優先するために、先に現代語訳を掲載し、下に原文を掲載します。

    ===========
    【戦陣訓】

    ─────────

    ─────────
    戦陣は、
    大命に基づき、
    皇軍の神髄を発揮し、
    攻むれば必ず取り、
    戦えば必ず勝ち、
    広く皇道を宣布し、
    敵をして仰いで御稜威(=みいつ、天皇のご威光)の尊厳を感銘せしむる場所です。

    ですから戦陣に臨む者は、
    深く皇国の使命を体現する者です。
    かたく皇軍の道義を保つ者です。
    皇国の威徳を四海に宣揚する者です。

    軍人精神の根本は、軍人勅諭に明らかに示されています。
    戦闘ならびに練習等における要綱も、典令の綱領に教示されています。

    けれども戦闘が行われる最前線の環境では、ともすれば眼の前の事象に心をうばわれてしまいがちです。
    このため、しなければならないことの本義を忘れ、場合によっては軍人の行動が、軍人の本分にもとるようなことがあるかもしれません。
    それは、皇軍兵士として、絶対に慎まなければならないことです。

    そこでこれまでの経験をかえりみて、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎ、その服行の完璧を期せんため、具体的行動の基準を示し、皇軍の道義の昂揚を図る。これが「戦陣訓」の趣旨です。


    ─────────
    本訓 其の一

    第一 皇国
    ─────────

    大日本は皇国です。

    日本には、万世一系の天皇がおわします。
    天皇は、国のはじめからの皇謨(こうぼ=天皇が国を統治する計画)を紹継して、とだえることなく君臨されている。
    天皇のご恩は、皇恩万民にあまねく、聖徳は世界に光を覆っています。

    わたしたち皇国臣民は、忠孝勇武の血を、祖先から受け継いでいます。
    わたしたちは、皇国の道義を宣揚し、天の業を補佐し、君民一体となって皇国の隆昌をはかっていかなければなりません。

    戦陣の将兵は、わたしたちの日本の国体の本義を体得して、牢固で、決してくじけぬ信念を持って、誓って皇国守護の大任を完遂する者たちです。

    ─────────
    第二 皇軍
    ─────────

    日本の軍は、天皇が統帥し、神武天皇以来の精神を体現するための組織です。
    ですから、軍の将兵はみな、皇国の威徳を天下万民に示す役割を担っています。
    そのことによって、日本の未来を築くという役割を担っています。

    わたしたち軍人は、ですから常に、陛下の大御心を奉じ、常に正しい道を歩み、武人として人にやさしく(=仁)、世界の平和を築く役割を担っています。
    これが神武天皇以来の「日本国の武人」の基本精神です。

    帝国軍人は、常に「武」は厳格に、「仁」は幅広くという精神が必要です。

    いやしくも皇軍に敵対する者があれば、帝国軍人は烈々たる武威をふるい、断固、その者を撃破します。
    敵を屈服させたときは、降伏した敵は撃たず、従う敵には慈しみの心を持って接する。
    そうでなければ、皇軍兵士としての責務をまっとうしたことにりません。

    「武」は驕(おご)らず、「仁」は飾らず。
    その姿勢があふれんばかりに、常に行われることが尊いのです。

    皇軍の本領は、「恩」と「威」が等しく並んで行われることです。
    そうすることで、天下万民に陛下の大御心を広めて行くのです。

    ─────────
    第三 皇紀
    ─────────
    皇軍の軍紀の神髄は、おそれおおくも大元帥であらせられる陛下に対し奉り、絶対的に随順する、という崇高な精神にあります。

    上下ひとしく陛下の統帥の尊厳を尊重し、感銘する。
    上に立つ者は、陛下のご意思を承り、これを謹厳に実行する。
    下の者は、謹んで陛下に服従する至誠をまっとうする。

    そうすることで、軍人ひとりひとりの「忠」を尽くす真心(=赤誠)が重なり合う。脈絡が一貫する。
    こうして全軍一致、一令のもとに、わずかの乱れもなく活動できる。
    これこそが、戦いにあたって必須の要件であり、治安確保の要道です。

    特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべきところです。
    戦陣は、死生困苦の間に在ります。
    そこでは、命令一下、欣然として死地に身を投じ、黙々として献身服行の実を挙げるのが、皇軍兵士たる軍人の精神の精華です。

    ─────────
    第四 団結
    ─────────
    軍は、おそれおおくも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉ります。

    ですから軍は、あつく陛下のお考えを身を以て体現し、忠誠の至情に和し、軍をあげて、全員が一心一体となるところです。

    軍隊は統率の本義にのっとって、隊長を核心とし、強固であってしかも和気藹々とした団結をしなければなりません。

    上下各々、その「分(ぶ)」を厳守し、常に隊長の意図に従い、誠心を仲間たち腹中に置き、生死利害を超越して、全体のために、己を没するの覚悟が必要です。


    ─────────
    第五 協同
    ─────────
    全兵士は、心をひとつに、自身の任務に邁進するとともに、全軍が戦いに勝つため、よろこび勇んで、我を忘れて協力しあう精神を発揮しなければなりません。

    各隊はおたがいにその任務を重んじ、名誉を尊び、お互いに信じあい、お互いに援けあい、自ら進んで苦難に就き、力をあわせて目的達成のために力闘しましょう。

    ─────────
    第六 攻撃精神
    ─────────

    戦闘にあたっては、勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫しましょう。

    攻撃するときは、果断に、積極的に、相手の機先を制し、剛毅にして不屈、敵を粉砕するまでは決してとどまらず攻撃します。

    防禦に際しても、常に攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保しなさい。
    陣地は、たとえ死んでも敵に奪われてはならない。
    追撃は、断固として、あくまでも徹底的に行います。

    勇猛果敢に、何事にも恐れず、沈着にして大胆不敵、難局に際しても、固い決意を持って困苦に打ち勝ち、あらゆる障害を突破して、ただひたすらに勝利の獲得に邁進しましょう。

    ─────────
    第七 必勝の信念
    ─────────
    信じる心は力です。
    自ら信じ、毅然として戦う者こそ、常に勝者となり得る。

    そして必勝の信念というものは、日頃の千磨必死の訓練から生まれます。
    寸暇を惜しんで肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を養うのです。

    勝敗は皇国の隆替に関することです。
    光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を肝に銘じて、勝つまで戦いをやめない。
    それが必ず勝つための唯一の要諦です。


    ─────────
    本訓 其の二

    第一 敬神
    ─────────
    神霊は、天にあって、常に私たちを見ています。
    心を正し、身を修め、あつく神を敬い、誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、誓って神仏のご加護に恥じないようにしましょう。

    ─────────
    第二 孝道
    ─────────
    忠孝の道というのは、我が国の道義精粋の根幹をなすものです。
    ですから忠誠の士は、同時に必ず純情で親孝行な子です。

    最前線の戦陣にあって、深く父母の志を体し、よく忠の大義に徹して働き、祖先の遺風をみずからの働きで顕彰しましょう。

    ─────────
    第三 敬礼挙措
    ─────────
    敬礼は純真な服従心の発露であり、かつ上下一致の表現です。
    戦陣にいるときは、特に厳正な敬礼を行いましょう。

    そうすることで礼節の精神が心の内に充満します。
    謹厳であり、端正でいるのは、強き武人である証(あかし)です。

    ─────────
    第四 戦友道
    ─────────
    戦友の道義は、大義のもと、死ぬことも生きることも一緒となり、たがいに信頼の至情を結んで、互いに常に切磋琢磨し、緩急あれば互いに救い、間違いがあれば互いに戒(いま)しめて、ともに軍人の本分をまっとうするにあると心得なさい。

    ─────────
    第五 率先躬行
    ─────────
    幹部は、常に誠意を尽くし、すべての行いについて、みんなの模範となるよう努めなさい。
    上に立つ者が正しい振る舞いをしなければ、下の者は必ず乱れてしまいます。

    戦陣は、実行を尊びます。
    体をもって、みんなに先んじて毅然とした行動をとりなさい。

    ─────────
    第六 責任
    ─────────
    任務というものは、神聖なものだと心得なさい。
    責任は、極めて重いのです。

    一業一務、おろそかにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、その達成にあたって、後悔することのないようにしなさい。

    責任を重んずる者こそが、真にして最大の勇者です。

    ─────────
    第七 生死観
    ─────────
    死ぬも生きるも、たいせつなことは、崇高な献身奉公の精神です。

    生死を超越し、ひとすじに任務の完遂に邁進しなさい。
    身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとしなさい。

    ─────────
    第八 名を惜しむ
    ─────────
    恥を知る者は強い。
    常に、親兄弟や祖先の面目を思い、ますます奮励して、その期待に答えなさい。
    生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。

    ─────────
    第九 質実剛健
    ─────────
    質実をもって陣中の起居を自分自身で律し、剛健な士風を自ら築き上げ、旺盛な士気を振起しなさい。

    陣中の生活は、簡素でなければなりません。
    いろいろなモノや時間など、さまざまな事柄が常に不自由であることが常態であると思い、何事にも節約に努めなさい。

    奢侈というものは、勇猛の精神を蝕むものです。

    ─────────
    第十 清廉潔白
    ─────────
    清廉潔白は、武人気質のよって立つ所です。
    おのれに克つことができなくて、物欲に心を捉えられてしまう者が、どうして皇国に身命を捧げることができましょう。
    我が身を持するにあたっては、自分自身に対して、常に冷厳でいなさい。
    そして事に対処するに際しては、常に公正であることを心がけなさい。
    常に天地に恥じない行動をとりましょう。


    ─────────
    本訓 其の三

    第一 戦陣の戒(いましめ)
    ─────────

    (1) 一瞬の油断が、不測の大事を招きます。
    常に戦いに備え、自分をいましめましょう。
    それと、大切なことは、敵や住民を、決して軽侮してはなりません。
    また、小さな成功に安んじて、勤労を嫌がったりすることがないようにしなさい。
    不注意も、災禍の原因となることをよくわきまえなさい。

    (2) 軍機を守るには、常に細心でいなさい。
    スパイは、常に身辺にいます。

    (3) 哨戒の任務は、重大なものです。
    それは一軍の安危を担(にな)い、、一隊の軍紀を代表するものです。
    ですから身をもって、その重い任務に任じ、厳粛にこれを服行しなければなりません。

    (4) 思想戦は、現代戦の重要な一面です。
    皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝や欺瞞を見破るだけでなく、進んで皇道の宣布に勉めなさい。

    (5) 流言蜚語に惑わされるのは、信念が弱いからです。
    惑ってはなりません。動じてもなりません。
    皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼しなさい。

    (6) 敵の産物や、敵の資産の保護に留意しなさい。
    徴発、押収、物資の焼却等は、規定に従って、必ず指揮官の命に従いなさい。

    (7) 皇軍の本義に鑑みて、無辜の住民を愛護しなさい。

    (8) 戦陣において、酒色に心を奪われたり、あるいは欲情に駆られて本心を失い、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過ぎるようなことは、決してしてはなりません。
    深くいましめ、自ら慎み、断じて武人の清節を汚してはなりません。

    (9) 怒(いかり)を抑え、不満を制しなさい。
    「怒(いかり)の感情」こそ、敵だと思いなさいと、古人も教えています。
    一瞬の激情は、悔(くい)を後日に残すこと多いものです。

    軍法が厳しいのは、軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信をまっとうするためです。
    常に出征当時の決意と感激とを想い起こし、遙かに思いを父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すことがないようにしましょう。

    ─────────
    第二 戦陣の嗜(たしなみ)
    ─────────

    (1) 尚武の伝統をつちかい、武徳を自分自身の中に育て上げ、技能の練磨に勉なさい。
    「毎事退屈するなかれ」とは、古き武将の言葉にもあります。

    (2) 後顧の憂いを絶ち、ひたすら奉公の道に励み、常に身辺を整え、死後を清くするの嗜(たしなみ)を肝要としなさい。
    屍(しかばね)を戦野に曝すのは、もとより軍人の覚悟です。
    たとえ遺骨が祖国に還れないことがあっても、あえて意としないよう、あらかじめ家族に含めておきなさい。

    (3) 戦陣において病気で死ぬのは、まことに遺憾の極みです。
    特に衛生を重んじ、おのれの不節制によって奉公に支障を来すようなことは、絶対にないようにしましょう。

    (4) 刀を魂とし、馬を宝とした古武士の嗜(たしなみ)を心において、戦陣の間は、常に兵器資材を尊重し、軍馬、軍犬などを愛護しなさい。

    (5) 陣中の徳義は、戦力のもとです。
    常に他の部隊の便益を思って、宿舎や、物資の独占のようなまねは、厳に慎みましょう。
    また「立つ鳥跡を濁さず」と言います。
    雄々しく、古式ゆかしい皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられるようにしましょう。

    (6) 武勲は、誇るものではありません。
    功を人に譲るのは、武人の高風です。
    また、他の者の栄達を妬(ねた)むものではありません。
    自分が認められないことを、恨むものではありません。
    むしろ、自分自身の「誠」が足りないことを思うようにしなさい。

    (7) あらゆることに正直を旨とし、誇張や虚言を恥としなさい。

    (8) 常に大国民として襟をただし、正しいことを実戦し、義を貫いて、皇国の威風を世界に宣揚しなさい。
    そして、国際の儀礼を、軽んじないようにしなさい。

    (9) 万死に一生を得て、祖国に帰還することができたならば、思いを亡くなった護国の英霊に致し、言行を慎んで国民の範となりなりなさい。
    そして帝国臣民として、いよいよ奉公の覚悟を固くしなさい。

    ─────────

    ─────────
    以上に述べたことは、ことごとく軍人勅諭から出たものです。
    ですから各自は、この「戦陣訓」を、戦陣における道義として実践し、もって任務の完璧を期すようにしなさい。
    戦陣の将兵は、すべからくこの趣旨を実行し、いよいよ奉公の至誠をひときわぬきんでて実践し、よく軍人の本分をまっとうして、厚い皇恩に答へ奉りなさい。

    ============

    【戦陣訓】


    夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
    惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘並に練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に促はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

    本訓 其の一

    第一 皇国

    大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
    戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。

    第二 皇軍

    軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て貴しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。

    第三 皇紀

    皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
    上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
    特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

    第四 団結

    軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

    第五 協同

    諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
    各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

    第六 攻撃精神

    凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
    攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。
    勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

    第七 必勝の信念

    信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
    必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
    勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。

    本訓 其の二

    第一 敬神

    神霊上に在りて照覧し給ふ。
    心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

    第二 孝道

    忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
    戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

    第三 敬礼挙措

    敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
    礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。

    第四 戦友道

    戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。

    第五 率先躬行

    幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざけば下必ず紊る。
    戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

    第六 責任

    任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
    責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

    第七 生死観

    死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
    生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

    第八 名を惜しむ

    恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

    第九 質実剛健

    質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。
    陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

    第十 清廉潔白

    清廉潔白は、武人気質の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物慾に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
    身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。

    本訓 其の三

    第一 戦陣の戒


    一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。
    敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
    二 軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
    三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
    四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
    五 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
    六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
    七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
    八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
    九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
    軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。
    第二 戦陣の嗜


    一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
    二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。
    屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。
    三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
    四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹を愛護せよ。
    五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
    「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
    六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
    他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
    七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
    八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
    国際の儀礼亦軽んずべからず。
    九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。



    以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。
    戦陣の将兵、須く此趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。


    ※この記事は2015年1月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • マッカーサーを心服させた昭和天皇


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    マッカーサーは
    「天皇とはこのようなものでありましたか!
     天皇とはこのようなものでありましたか!」
    と、二度この言葉を繰り返しました。そして、
    「私も、日本人に生まれたかったです。
     陛下、ご不自由でございましょう。
     私に出来ますことがあれば、
     何なりとお申しつけ下さい」と。

    20181229 昭和天皇
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    ,昭和二十年(1945)九月二十七日のことです。昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。
    「ついに天皇をつかまえるときが来た!」
    事前に連絡を受けていたマッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
    この時点で陛下をどのようにするのかGHQの中でも議論が交わされていました。
     方針は大きく分けて三つありました。
    一、東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
    二、日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
    三、Chinaに亡命させて秘密裏に殺害する。

    いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。
    ですからマッカーサーは陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
    このため彼は傲慢不遜にマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。

    このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。
    当時の米国はトウモロコシが主たる産物でした。
    これが小麦にとってかわるのは、日本占領後日本の農林十号と呼ばれる小麦が米国に渡ってからのことです。
    ですから当時トウモロコシでできたマドロスパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴だったのです。
    パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、マドロスパイプのような柄の長いパイプは長時間咥(くわ)えていれません。口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
    ですからマッカーサーがマドロスパイプを咥えるということは、米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。

    椅子に座って背もたれに体を預けて足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。
    そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。
    そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このように仰せられました。

    「日本国天皇はこの私であります。
     戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
     私の命においてすべてが行なわれました限り、
     日本にはただ一人の戦犯もおりません。
     絞首刑はもちろんのこと、
     いかなる極刑に処されても、
     いつでも応ずるだけの覚悟があります。」

    弱ったのは通訳です。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。
    「しかしながら
     罪なき八千万の国民が
     住むに家なく、
     着るに衣なく
     食べるに食なき姿において、
     まさに深憂に耐えんものがあります。
     温かき閣下のご配慮を持ちまして、
     国民たちの衣食住の点のみに
     ご高配を賜りますように。」

    マッカーサーは驚きました。
    世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。
    ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。

    マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
    続いて椅子から立ち上がりました。
    そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。さらに部下に、
    「陛下は興奮しておいでのようだから、
     おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

    マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ちました。
    そこで直立不動の姿勢をとりました。
    「天皇とはこのようなものでありましたか!
     天皇とはこのようなものでありましたか!」
    彼は、二度、この言葉を繰り返しました。そして、

    「私も、日本人に生まれたかったです。
     陛下、ご不自由でございましょう。
     私に出来ますことがあれば、
     何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

    陛下も、立ち上がられました。そして涙をポロポロと流しながら、
    「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。
     この私に何の望みがありましょうか。
     重ねて国民の衣食住の点のみに
     ご高配を賜りますように」と申されたのです。

    こののちマッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
    そしてあわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を百八十度変更するあらたな命令を下しています。
    このことがあったあとマッカーサーは、次のように発言しています。
    「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた。」



    「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。
     旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
     ヒロヒトが四十歳を過ぎた猫背の小男ということを
     日本人に知らしめてやる必要がある。
     神さまじゃなくて人間だということをね。
     それが生きた民主主義の教育というものだよ」

     昭和二十一年二月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、そんな会話が交わされていたそうです。
    ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約八年半かけて回られました。
    行程は三万三千キロ、総日数百六十五日です。 各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことさえありませんでした。

    英国の新聞は次のように驚きを述べました。
    「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、
     天皇の声望はほとんど衰えていない。
     各地の巡幸で群衆は天皇に対し
     超人的な存在に対するように敬礼した。
     何もかも破壊された日本の社会では
     天皇が唯一の安定点をなしている。」

    イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか一ヶ月で廃位に追い込まれています。
    これに対し日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
    欧米人の常識では理解できないことが起こっていたのです。

    以下のことは、先日の日本史検定講座で高森明勅先生に教えていただいたことですが、フランスに世界を代表する歴史学者のマルク・ブロックという人がいます。
    そのマルク・ブロックが、ヨーロッパの歴史を書いた『封建社会』(みすず書房刊)という本があるのですが、その本の中で彼は次のように述べています。

    「西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違って
     ゲルマン民族の大移動以降、
     内部で争うことはあっても、
     よそから制圧されて文化や社会が
     断絶するようなことがなかった。
     それによって内部の順調な発展があった。
     我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも
     共有することのないこの異例の特権を、
     言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の
     基本的な要素のひとつだったと
     考えても決して不当ではない。」

    西ヨーロッパは歴史が断絶しなかったからこそ、中世の文化を継承し世界を征服するだけの国力をつけて十八世紀後半以降の市民革命を実現し、近代化を実現することができた。
    そのことを「我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない異例の特権」とマルク・ブロックは書いているのです。
    ここに書かれたゲルマン民族の大移動は、四世紀から五世紀にかけて起きた事件です。
    そしてこの大移動をもって西ヨーロッパの古代の歴史は断絶し、まったく別な中世へと向かうわけです。

    日本の四世紀から五世紀といえば大和朝廷の発展期です。
    大和朝廷は弥生時代に倭国を築いた朝廷がそのまま大和地方に本拠を移したものに他なりません。
    弥生時代は縄文時代の延長線上にあります。
    弥生人は決して渡来人などではなく、縄文時代からずっと日本に住み続けた同じ日本人です。
    そしてその弥生時代がまさに卑弥呼の登場する時代です。
    その倭国が東上しながら古墳時代をつくり、そして奈良県の大和盆地に都を構えたのが大和時代です。

    その大和朝廷は、第三回の遣隋使で
    「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」
    と書いた国書を持参しました。
    これが日本が対外的に「天皇」を名乗った最初の出来事です。
    西暦六〇八年の出来事です。

    この大和朝廷が「日本」を名乗ったのが六八九年です。
    つまり天皇の存在は日本という国号よりも「古い」のです。
    そして万世一系、昭和天皇は第百二十四代の天皇です。
    ご在位は歴代天皇の中で最長です。昭和の時代は世界恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが昭和天皇です。

    その昭和天皇の辞世の御製です。

     やすらけき世を 祈りしも いまだならず
     くやしくもあるか きざしみゆれど

    この御製は昭和六十三年八月十五日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
    「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、
     それはいまだなっていない。
     そのことが悔しい。
     きざしはみえているけれど、
     そこに手が届かない」
    という意味と拝します。

    昭和天皇は崩御される直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。
    どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思いに、わたしたちは日本国民として、ちゃんと答えているのでしょうか。

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2011年3月から毎年掲載しているものです。

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  • ライト兄弟より早く飛行機を飛ばした日本人


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    「発明や発見というのは、
     その人一代限りの名誉でしかないんだよ。
     人類は、飛行機の発明で、
     これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
     このことはたいへん意義深いことだ。
     だがな、
     人類は未来永劫飛行機による殉難者を抱えることになる。
     その慰霊ができるのは、
     飛行機に愛情を注ぎ続けた
     日本人の二宮忠八しかないんだ。
     だから神々は、手柄をライト兄弟に譲ったんだよ」
    日本文化の根幹にあるものは「つながり」です。
    1位を競うことではない。

    飛行神社
    20151226 飛行神社



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    世界初の有人飛行といえばライト兄弟が有名です。
    ライト兄弟が飛行を成功させたのは、明治36(1903)年12月17日です。
    ところが我が国では、なぜか4月29日が「飛行機の日」とされています。
    なぜでしょうか。
    今日は、このお話を書いてみたいと思います。

    ライト兄弟が、ノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズで、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で、飛ばした飛行機は、最初のフライトが、わずか12秒でした。
    4度目の飛行で、59秒260メートルの飛行が行われました。
    下の写真は、そのときの実写版で、飛行機を操縦しているのが弟のオーヴィル、横にいるのが兄のウィルバーです。

    ライト兄弟
    ライト兄弟


    ところが実は、ライト兄弟よりも12年も前に、飛行機を飛ばしていた人が日本にいます。
    二宮忠八(にのみやちゅうはち)といいます。
    香川県の丸亀練兵場で、わずか10メートルではありますけれど、日本初のプロペラ飛行実験を成功させました。
    それが明治24(1891)年4月29日なのです。
    だから日本では、4月29日が「飛行機の日」です。

    ちなみに、二宮忠八は、翌日には、なんと36メートルの飛行に成功しています。
    もっともその飛行機は有人ではありません。
    個人の努力のため、予算がなかった二宮忠八は、小型の模型飛行機を作って飛ばしています。
    けれどこれが人類初の「動力飛行実験」の成功であったことは、疑いのない事実なのです。

    二宮忠八
    二宮忠八


    二宮忠八は、慶応2(1866)年の生まれです。
    このとき25歳の若者でした。
    もともと忠八は、伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)の、かなり富裕な家の生まれだったそうです。
    ところが父親が事業で失敗し、さらに二人の兄が遊興に耽(ふけ)ってしまいました。
    要するに遊女に狂ってしまったのです。
    こうして家計が傾いたところに、父親が急死してしまう。

    残された家族を養うため、忠八は12歳で、一家を支えるためにと、町の雑貨店に丁稚奉公に出ました。
    その忠八は、無類の凧(たこ)好きで、奉公先でもいろいろな凧(たこ)を考案しました。
    忠八の凧は、とてもよく飛ぶので、「忠八凧」と呼ばれて、たいそうよく売れたそうです。

    明治20(1887)年になると、忠八は21歳で徴兵されました。
    すこし補足しますが、これはとても名誉なことでした。
    というのは当時徴兵された男子というのは、同年代の男子200人に5人程度の割合です。
    身体頑健、虫歯もなく視力良好、痔疾を含む一切の持病なし、頭も良くて読み書きがちゃんとできること、性格良好、まっすぐで規律正しい男子だけが、甲種合格者として軍人になれたのです。

    入隊した忠八は、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。
    連隊は大佐が指揮する約三千人の大所帯です。

    入隊して2年経った頃、忠八に神が降ってきました。
    それは、野外演習の帰りのことでした。
    霧の深い日でした。
    忠八が仲間たちとともに木陰で昼食をとっていると、そこにカラスが舞い降りてきたのです。
    おそらく残飯の米粒を求めにきたのでしょう。
    よく見かける光景です。

    カラスは翼を広げ、羽ばたかずに、すべるように舞い降りてきます。
    そして飛び立つときには、何度か大きく羽をあおり、谷底からの上昇気流でサァ~と舞い上がります。
    「これだ!」と忠八は思ったそうです。
    「向かい風を翼で受け止めたら、空気抵抗で空を飛ぶことができるじゃないか!」
    これが、「固定翼による飛行原理」の発見になりました。

    忠八はあれこれ工夫を重ね、一年後に「カラス型飛行器」を完成させました。

    カラス型模型飛行器
    カラス型模型飛行器


    明治24(1891)年4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場で、忠八は自作のカラス型飛行器の飛行実験を行ないました。
    練兵場の仲間たちがみんな見に来てくれました。

    この頃忠八は、練兵場にある精神科の軍病院に勤務していました。
    忠八が飛行機の動力源に選んだのが、なんと医療用聴診器のゴム管でした。
    そのゴム管につながった4枚羽根のプロペラが回転すると風が起きて、飛行機が舞いあがるという仕組みです。

    凧は、糸を人が引っ張って空に浮かべます。
    しかし動力飛行機は、自分の力で、空に舞います。

    忠八がプロペラを回してゴムを巻きました。
    いっぱいに巻いたところで、カラス型飛行機をそっと地面に置きました。
    忠八が手を離しました。
    プロペラが勢いよく回転を始めました。

    たくさんの仲間達が見守る中、カラス型飛行器は、約3メートルの助走しました。
    そして、フワリと地面から浮き上がり、空に舞い上がりました。
    まだ誰も飛んだことのない有人飛行に向けて、忠八の夢をいっぱいに乗せた飛行機が練兵場の空を舞いました。
    ぐ~んと高度を上げた飛行機は、10メートルほど飛んで、草むらに着地しました。

    成功です。
    な~んだ。ただのゴム飛行機じゃないかと侮るなかれ!
    人類を宇宙に飛ばすロケットだって、最初の一号機は、ロケット花火程度の小さなモノからの出発です。

    見守る人も忠八も、飛行機が自走して空に舞ったことに大喜びしました。
    忠八は、何度も飛行器を飛ばし、翌日には飛距離を30メートルに伸ばしました。

    自信をつけた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手しました。
    いろいろ研究しました。
    有人飛行の研究のために、忠八は、鳥類の体型を詳細に調べるだけでなく、鳥や昆虫、トビウオから、天女や天狗などにいたるまで、およそ「空を飛ぶもの」ならなんでも調べたそうです。
    そして、鳥の体型にヒントを得た「カラス型」では人間の体重を支えきれないことを知ります。

    どうしたらいいのか。
    忠八は、昆虫の飛行を研究しました。
    そしてそこから4枚羽根の飛行機を考案しました。
    明治26(1893)年のことです。
    この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられました。

    玉虫型飛行器
    玉虫型飛行器


    「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されていました。
    ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。
    翼幅は2メートルです。
    有人飛行を前提とした実機の、縮小模型機です。

    飛んでくれれば、まさに、世界初の実用機となるはずの飛行機です。
    ですからこの飛行機は、人間が搭乗することを前提として、空中で飛行機の向きを上下左右など自在に操れる工夫が施されました。

    いよいよ、飛行実験の日がやってきました。
    動力には強力なガソリンエンジンを搭載しました・・・といいたいところですが、当時は、まだガソリンエンジンは、たいへん高価なものでした。
    忠八個人には、高価なガソリンエンジンを買う資金はありません。

    ですから機体は、ゴムヒモだけで飛ばせる最大サイズとしました。
    そして烏型と同じ4枚羽の推進式プロペラを機尾で回転させました。
    この日の飛行実験で、「玉虫型飛行器」は10メートルの飛行に成功しました。

    残る問題は、動力源です。
    いかんせん、ゴム紐エンジンでは、人が乗るわけにいきません。
    しかし、まだ電気すら通っていない明治の中頃のことです。
    最先端の軍艦だって、まだ石炭を焚く蒸気機関の時代です。
    けれど蒸気機関では、重すぎて飛行機のエンジンに使えないのです。
    さりとてガソリンエンジンは、あまりに高価で、庶民が個人で買うことはできないものです。

    忠八は、「飛行機は絶対に戦場で役に立つ!」と思いました。
    そうなればきっとお国のために役に立つ。
    だから軍でこの研究を引き取ってくれないか。
    忠八は「飛行器」の有効性とその開発計画についてをレポートにまとめ、有人の「玉虫型飛行器」の開発を、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申しました。

    個人では資金がないのです。
    このままでは実機を作れない。
    軍が研究を採用してくれれば、発動機を入手することも可能なのです。

    しかし何度足を運んでも、長岡大佐の返事は「戦時中である」というものでした。
    大島旅団長も乗り気ではありません。
    忠八ひとりの趣味や夢に、軍の予算をまわすわけには行かないという返事でした。

    あと一歩、あとすこしで有人飛行機が完成するのです。
    発動機さえあれば。エンジンさえ買うことができれば・・・。
    忠八は、必死に考えました。
    そして軍の協力が得れないならば、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかない、と決意しました。

    忠八は、軍を退役しました。
    そして大日本製薬に入社しました。
    そして必死で働きました。

    頑張ればその分、給金があがるのです。
    だから本気で働きました。
    忠八は、みるみる成績を挙げ、明治39(1906)年には、愛媛の支社長にまで出世しました。
    支社長になった忠八は、すこし時間に余裕が生まれました。
    それまで給料の大半を貯金に回しながら蓄えたお金も、ようやくまとまった金額になりました。
    軍を辞めてから12年の歳月が経っていました。

    明治40(1907)年、忠八は精米用の二馬力のガソリンエンジンを購入しました。
    そして再び飛行機の研究を再開しました。
    ところが、せっかく購入したエンジンなのだけれど、ニ馬力では、人間を乗せて飛ばすだけの推力が生まれません。
    完全にパワー不足です。

    当時、新しく開発されたオートバイ用のガソリンエンジンは、日本にも徐々に輸入されるようになってきていました。
    けれど、それはものすごく高価な品で、忠八の手は届かないのです。

    考えた忠八は、ガソリンエンジンの部品を少しずつ買い集めました。
    エンジンそのものを自作しようと考えたのです。
    すこしずつ器材も買い揃えはじめました。

    このとき忠八が自作しようとしたエンジンは、12馬力のエンジンでした。
    実はライト兄弟の「フライヤー1号」も、12馬力エンジンです。
    そのライト兄弟ですが、いまでこそ、世界初の有人飛行として有名になっていますが、明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の有人飛行というのは、アメリカ本国内ですら、当時はまるで報道されませんでした。

    これには、ライト兄弟自身がアイディアの盗用を恐れて公開飛行を行わなかったことも理由のひとつですが、地上すれすれに僅かの距離を飛行したということが、この時代には、まだ「大型の凧上げ」程度にしか一般に認識されなかったのです。

    ですからようやくライト兄弟による有人飛行成功が広く世間に広まったのは、明治40年になってからのことです。
    そしてこのことが、日本の雑誌「科学世界」の明治40(1907)年11月号で報道されました。

    忠八は、ライト兄弟の成功を知りました。
    ショックでした。
    このとき忠八は、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話があります。
    実際に壊したかどうかは別として、忠八にとって、このことがとてもつらく悔しかったであろうことは、容易に想像できることです。
    人生をかけてやってきたことの、すべてを失ったという気持ちにさえなったかもしれません。

    結局忠八は、せっかく支社長にまでなっていた大日本製薬も辞め、飛行器の開発も止めてしまいました。
    よほどショックだったのでしょう。
    忠八は、それまで貯めていたお金で薬の製造の仕事にうちこみ、明治42(1909)年に、マルニという製薬会社を起こしています。

    このとき忠八が製作しようとした飛行機は、長い間重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。
    平成3年10月、有志によって忠八の当時の設計図通りに、実機が作られました。
    なんと、この飛行機は、見事、故郷の八幡浜市の空を舞っています。

    さて、だいぶ時が経ち、大正8(1919)年といいますから、忠八が53歳のときのことです。
    明治から大正にかけての日本人の平均寿命は、44~45歳くらいだといいますから、いまの感覚でいったら、60歳くらいの社長さんという感じかもしれません。

    忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会に恵まれました。
    このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がりました。

    この白川義則という人、後年、陸軍航空局長を務め、最終階級は、陸軍大将になるお方です。
    後に関東軍司令官、上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任した人物でもあります。
    タダモノではありません。

    忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にそうした上申があったのかどうか、すぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じました。
    すると、見事、正しい。
    なんと、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたことが確認されたのです。

    白川は、陸軍その他に働きかけ、大正11(1922)年に忠八を表彰しました。
    さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動してくれました。

    おかげで忠八は、大正14(1925)年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、
    大正15(1926)年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、
    昭和2(1927)年には、勲六等に叙勲され、
    さらに忠八の物語は、昭和12年度から、国定教科書に掲載されました。

    このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪してくれています。
    ちなみに、このときの長岡大佐の謝罪は、上から強制されたものではありません。
    もうとっくに軍を退役したおじいちゃんです。いまさら命令もありません。
    彼は、自らの不明を恥じ、自らの意思で忠八に頭を下げに来たのです。
    これは、実に素晴らしい、男らしい振舞だと思います。

    誰だって、自分を正当化したがるものです。
    失敗を他人やご時世の「せい」にしたがるものでもあります。
    そうやって、自らの責任から逃れようとしたがるものです。

    しかし長岡大佐は、自らの非を認めました。
    自分に厳しいから、他人に対して頭を下げることができるのです。
    往々にして、他人に罪をなすりつけたがるタイプの人は、自分に甘いのです。
    長岡大佐は、実に立派な人であったと思います。

    ただ、ひとこと言わせていただくならば、当時長岡大佐が忠八の進言を容れて、軍の上層部に上申したとしても、おそらく100%の確率で却下されたものと思います。
    明治24年といえば、日清戦争の3年前です。
    当時の日本政府は、ほんとうにお金がないなかで、列強の軍事力に屈しないために巨額の建造費のかかる軍艦の製造もしなければならなかったし、陸軍の兵士として採用した者たちへの給金、あるいは宿舎等の手当など、出費がかさんでいました。

    日清戦争が始まってからも、戦傷病者のための病院施設に、看護婦を採用することさえなかなかできなかったのです。
    看護婦は女性です。
    女性看護婦を採用すれば、看護婦の宿舎や更衣室、トイレなどを、男性用とは別にまた造らなければならない。
    その予算がなかったのです。
    そういう厳しい情況下にあって、このうえさらに、できるかできないかわからない飛行機のために予算を割くだけの余裕は、軍にはまったくなかったことは、連隊指揮官である長岡大佐にもよくわかっていたし、軍の上層部も、そうした状況下で軍を維持管理運営していたのです。

    そういう意味では、長岡大佐の不明というばかりではないのです。
    けれど、それでも、可能性を潰してしまったことに、長岡大佐は自責の念を抱いたわけです。
    さすがは明治の陸軍軍人、立派な人であったと思います。

    飛行機は、その後、瞬く間に世界に普及しました。
    ただし初期の頃の飛行機は、事故も多かったのです。
    満足な滑走路も、飛行管制塔もない時代です。
    エンジン性能も、いまどきのエンジンのように安定したものではありません。
    このため飛行機事故で、多くの人が命を失っています。

    忠八は、数々の表彰等でいただいたお金を、ずっと貯めて持っていました。
    そして自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われていくことに深い悲しみを覚えました。
    そして、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るためにと、彼は私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立しました。
    そして会社もたたみ、神職の勉強をして資格をとると、自ら神主になりました。
    そこで生涯、航空の安全と航空殉難者の慰霊に一生を投じたのです。

    飛行神社
    飛行神社


    忠八は、昭和11(1936)年、70歳で永眠しました。
    忠八は、ライト兄弟のような有人飛行機を飛ばすには至っていません。
    しかしライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理を着想し、10年前には実験に成功もしています。

    二宮忠八が飛行機の開発にいそしんだ時代は、まだ日本に電気はありません。
    ガソリンエンジンは高価だったし、忠八にはお金もありません。
    けれどそんな中で、世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。
    日本語の「飛行器(機)」というのも、二宮忠八の造語です。

    ライト兄弟よりもずっと前に、日本で飛行機が実際に研究され、作られていたんだって、なんだか感動です。
    そしてこのお話は、戦前の教科書にはちゃんと載ってたお話です。
    どうして戦後は教科書から削除してしまったのでしょうか。
    このお話のどこに不都合があったのでしょうか。

    二宮忠八は、飛行機に限りない愛情を注いただけでなく、飛行機によって亡くなられた方々の御魂を慰めるために、私財を投げ打って飛行神社を創建し、世界中の飛行機による殉難者の慰霊に残りの生涯を捧げています。
    神々が、二宮忠八ではなく、最終的にライト兄弟に世界初の有人飛行の手柄を譲ったことについて、こんな話を聞きました。

    「発明や発見というのは、
     その人一代限りの名誉でしかないんだよ。
     人類は、飛行機の発明で、
     これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
     このことはたいへん意義深いことだ。
     だがな、
     人類は未来永劫飛行機による殉難者を抱えることになる。
     その慰霊ができるのは、
     飛行機に愛情を注ぎ続けた
     日本人の二宮忠八しかないんだ。
     だから神々は、手柄をライト兄弟に譲ったんだよ」

    そうかもしれないな、と思いました。
    日本文化の根幹にあるものは「つながり」です。
    1位を競うことではない。

    ※この記事は2010年4月の記事をリニューアルしたものです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇たちをいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。

    20211225 かまどの煙
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    聖徳太子がお隠れになったとき、太子の死をすべての人が嘆き悲しみました。
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    その聖徳太子の没後、再び蘇我入鹿が専横をしはじめます。
    朝廷は、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらおうとしますが、これを察知した蘇我入鹿は、643年、武力をもって山背大兄皇子を襲いました。
    このとき、逃げ落ちるように説得する家来たちに、山背大兄皇子は、戦いによって多くの臣民の命が失われることを偲ばれて、自害して果てます。
    こうして聖徳太子の子孫は絶え、蘇我氏が専横を極めるようになっていきました。

    「このままではいけない」
    そう思って立ち上がったのが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
    中大兄皇子の父は舒明天皇です。

    舒明天皇は、我が国の理想を歌に詠みました。
    それが『万葉集』にある「天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌」です。

     山常庭    やまとには
     村山有等   むらやまあれど
     取与呂布   とりよろふ
     天乃香具山  あめのかくやま
     騰立     のぼりたち
     国見乎為者  くにみをすれば
     国原波    くにはらは
     煙立龍    けぶりたちたつ
     海原波    うなばらは
     加万目立多都 かまめたちたつ
     怜忄可国曽  うしくにそ
     蜻嶋     あきつのしまの
     八間跡能国者 やまとのくには

    意味は概略すると次のようになります。

    「恵みの山と広い原のある大和の国は、
     村々に山があり、豊かな食べ物に恵まれて
     人々 がよろこび暮らす国です。
     天の香具山に登り立って
     人々の暮らしの様子を見てみると、
     見下ろした平野部には、
     民(たみ)の家からカマドの煙が
     たくさん立ち昇っています。
     それはま るで果てしなく続く海の波のように、
     いくつあるのかわからないほどです。
     大和の国は、人々が神々の前でかしづき
     感動する心を持って生きることができる国です。
     その大和の国は人と人とが
     出会い、広がり、また集う美しい国です」

    この歌について、舒明天皇が単に「大和の国は美しい国だ」と詠んだだけだと翻訳しているものをよく見かけます。
    理由は、「うまし国」の解釈にあります。
    原文にある「怜(忄可)国曽(うしくにそ)」《「忄可」は、りっしんべんに可というひとつの漢字です》を、「美しい国」と翻訳していることにあります。

    全然違います。
    怜(忄可)の「怜」は、神々の前でかしずく心を意味します。
    「忄可」は、良い心を意味し、訓読みが「おもしろし」です。
    古語で「おもしろし」は、感動することを言います。
    つまり「うまし」は「怜(忄可)」と書いて、人々が神々の前でかしづく感動する心を持って生きることができる国であることを示しています。

    天皇のお言葉や歌は「示し」です。
    数ある未来から、ひとつの方向を明示するものです。

    よく戦略が大事だとか、戦術が大事だとか言いますが、戦略も戦術も、そもそも仮想敵国をどこにするのかという「示し」がなければ、実は戦略の構築のしようがありません。
    その意味で、トップの最大の使命は「戦略に先立って未来を示すこと」です。
    舒明天皇は、我が国の姿を、
    「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」
    と規定された(示された)のです。

    ちなみにここでいう「おもしろい国」という言葉は、我が国の古語における「感動のある国」を意味します。
    昨今では、吉本喜劇のようなものをも「おもしろい」と表現しますが、それでも例えばとっても良い映画を観た後などに、「今日の映画、おもしろかったねえ」と会話されます。
    この場合の「おもしろい」は、「とてもよかった、感動的した」といった意味で用いられます。

    「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」というのは、聖徳太子がお隠れになられたときの民衆の反応に見て取ることができます。
    人々が互いに助け合って、豊かで安心して安全に暮らすことができる国だから、素直な心で、いろいろなことに感動する心を保持して生きることができるのです。

    特定一部の人が、自分の利益だけを追い求め、人々を出汁(だし)に使うような国柄であれば、人々は使役され、収奪されるばかりで、安心して安全に暮らすことはできません。
    とりわけ日本の場合、天然の災害の宝庫ともいえる国ですから、一部の人の贅沢のために、一般の庶民の暮らしが犠牲にされるような国柄では、人々が安全に暮らすことなどまったく不可能であり、さらに何もかも収奪されるような国柄では、とても人々はなにかに感動して生きるなど、及びもつかない国柄となってしまいます。

    舒明天皇の時代は、強大な軍事帝国の唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし始めた時代であり、内政面においては蘇我氏の専横が目に余る状態になってきていた時代でした。
    そんな時代に、舒明天皇は、「うし国ぞ、大和の国は」と歌を詠まれたわけです。
    それは、舒明天皇が示された我が国の未来の姿です。

    そんな父天皇を持った中大兄皇子は、そこで宮中で蘇我入鹿の首を刎ねます。
    これが乙巳の変で、645年の出来事です。

    蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は、皇位に即(つ)かず、皇太子のまま政務を摂ります。
    これを「称制(しょうせい)」と言います。
    我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家最高権力者ではありません。
    このことは逆に言えば、天皇となっては権力の行使ができなくなることを意味します。
    ですから中大兄皇子が、大改革を断行するにあたっては、中大兄皇子が皇位に即(つ)くわけにはいかなかったのです。

    そして同年、中大兄皇子が発令したのが「公地公民制」です。
    これによって、日本国の国土も国民も、すべて天皇のものであることが明確に示され、またその天皇が、あえて権力を持たずに国家最高権威となられることで、民衆こそが「おほみたから」という概念を、あらためて国のカタチとすることを宣言したわけです。

    このことは、当時の王朝中心主義の世界にあって実に画期的なことであったといえます。
    なにしろ、21世紀になったいまでも、日本の他には、国家最高の存在が国家最高権力者である国しかないのです。

    ところが中大兄皇子は、朝鮮半島への百済救援のための出兵を意思決定されます。
    倭国は勇敢に戦いましたが、気がついてみれば、百済救援のために新羅と戦っているはずが、百済の王子は逃げてしまうし、新羅は戦いが始まると逃げてばかりで、まともに戦っているのは、倭国軍と唐軍です。
    これでは、何のために半島に出兵しているのかわからない。

    さらに白村江で、倭国兵1万が犠牲になりました。
    亡くなった倭国兵たちは、その多くが倭国の地方豪族の息子さんと、その郎党たちです。
    この禍根は、実は後々まで尾を引きます。

    我が国が天皇を中心とする国家であることは、誰もが認めるし、納得もできるのです。
    そして天皇がおわす朝廷の存在によって、いざ凶作となったときには、全国的な米の流通が行われて、村の人々が飢えることがないようにとの国家の仕組みも納得できるのです。
    けれど我が子が死んだ、中大兄皇子の撤兵指示によって、結果、白村江で多くの命が失われ、そのときに我が子が死んだという、この感情は、どうすることもできません。
    理屈ではわかっていても、感情は尾を引くのです。

    この禍根は、天智天皇から数えて三代後の持統天皇の時代にまで続きました。
    持統天皇が行幸先で、誰とも知れぬ一団に襲撃を受け、矢傷を受けられるという事件も起きているのです。
    国内的には、まさに分裂の危機であり、その分裂は、そのまま唐による日本分断工作に発展する危険を孕んだものであったわけです。

    こうしたなかにあって、兄の天智天皇から弟の天武天皇への皇位の継承が行われました。
    なるほど表面上は、天武天皇が軍を起こして天智天皇の息子の大友皇子を襲撃したことになっています。
    しかし、よく考えてみると、これはおかしな歴史の記述です。

    天智天皇は大化の改新によって、実に革命的に多くの改革を行いました。
    当然、そうした改革は、ものごとが良い方向に向かうようにするために行われるものです。
    しかし、短兵急で強引な改革は、必ず改革によって不利益を被る者を生じさせるのです。

    そうした反天智天皇派の人たちの期待は、当然のように弟の大海人皇子の皇位継承に集まります。
    そして大海人皇子が軍を起こして、天智天皇の息子の大友皇子を追い、みずから天武天皇として即位するとします。

    反天智天皇派の人たちは、よろこんで天武天皇に従ったことでしょう。
    そして天武天皇が即位されると、もともと天智天皇派だった人たちは、もとよりご皇室中心の日本を大切に思う人達なのです。
    このことが意味することは重大です。
    つまり、天武天皇の旗揚げ(壬申の乱)によって、実は国がひとつにまとまるのです。

    正史は、天智天皇亡き後、天武天皇が兵を起こしたことになっています。
    そして天智天皇の子の大友皇子は、人知れず処刑されたことになっています。
    けれど、大友皇子の処刑を観た人はいないのです。

    天智天皇の崩御にも疑問が残ります。
    天武天皇の正妻は、持統天皇です。
    その持統天皇は、天智天皇の娘です。
    そして天武天皇が、皇位に即位されたあと、事実上の政務の中心となって改革を継続したのが、その持統天皇です。
    しかも持統天皇は、なぜだか31回も吉野に行幸されています。

    これは正史には書かれていないことですが、個人的には、おそらく天智天皇は生きておいでであったのだろうと思います。
    生きていても、当時の考え方として、出家されれば、この世のすべてを捨てて、今生の天智天皇としては崩御したことになるのです。
    そして吉野に隠棲し、そこで僧侶となる。

    弟の天武天皇に皇位を継承させるためには、天智天皇に集中した国内の不満分子を、まるごと天武天皇が味方に付けてしまうことが一番の選択です。
    そして皇位継承後は、娘の持統天皇が、皇后として政治に辣腕を揮う。
    幸い、きわめて優秀な高市皇子が、政務を執るのです。
    天智、天武、持統、高市皇子のこの強い信頼関係のもとに、あらためて日本は盤石の体制を築いたのではないか。
    そのように個人的には観ています。

    天智天皇と天武天皇が兄弟であったことさえ疑う意見があることも承知しています。
    しかしそのことを示す史料はなく、この不仲説の根拠となっているのは、万葉集における天智天皇、天武天皇、そして天武天皇の妻であり一女まである額田王の歌が、根拠となっています。
    しかしその根拠とされる歌も実は、その意味をまるで履き違えた解釈によって、歪められていたという事実は、このたびの拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』で詳しく述べた通りです。
    (まだお読みでない方は、是非、ご購読をお勧めします)

    不幸なことに、天武天皇のまさかの崩御によって、鵜野讚良皇后が持統天皇として即位されます。
    そして持統天皇が、敷いたレール、それが、反対派を粛清したり抹殺したりするのではなく、教育と文化によって、我が国をひとつにまとめていくという大方針です。

    万葉集も、そのために持統天皇が柿本人麻呂に命じて編纂を開始させたものです。
    こうして我が国の形が固まっていきました。
    それは高い民度の臣民によって培われた、民度の高い国家という形です。

    我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇をいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。
    爾来1300年、我が国は、庶民の高い民度によって支えられる盤石の国家が築かれてきたのです。


    ※この記事は2019年12月の記事のリニューアルです。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

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