• 元寇とネクロマンサー


    元寇の戦いには、一点、不思議なことがあります。
    それは、
    「なぜ元軍は、大軍を博多湾だけに集結させたのか」
    という疑問です。
    彼らは、遠路はるばる船を連ねて日本にやってきたのです。
    もし目指す上陸地点が博多湾ではなく、京都府のすぐ北にある若狭湾であったとしたら。
    あるいは博多湾に襲来すると見せかけて、そのまま下関海峡を抜けて瀬戸内に入り、大阪湾に上陸することもできたのです。
    それこそこれは、日本にとって「恐怖のシナリオ」です。

    20210304 死者の軍勢
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    小説も映画も大ヒットした『指輪物語』シリーズのペレンノール野の合戦で、「死者の軍」という大軍が登場し、主人公たちを助けるという物語がありました。
    また映画『ハムナプトラ』の第三作『呪われた皇帝の秘宝』では、ジェット・リーこと李連杰(り・れんぼく)演じるハン皇帝が、死者の軍を率いてこの世界を乗っ取ろうと大戦を仕掛けるという設定がありました。
    どちらも大ヒットした映画なので、ご覧になられた方も多いかと思います。

    どちらもただの空想の物語です。
    けれど意外とそういうことは「あり」なのかもしれません。

    時は1185年のことです。
    本州の山口県と、九州の福岡県を隔てる関門海峡で行われたのが、有名な「壇ノ浦の戦い」です。
    平家物語によれば、この戦いに動員した平家一門の船舶数はおよそ3千艘で、1船あたり、平均20名の乗船とすると、その兵力はおよそ6千名です(諸説あります)。
    その6千の軍勢が、一般には壇ノ浦で海の藻屑と消えたとされているわけですが、どっこい、人は魂の乗り物です。
    魂が本体、肉体はただの乗り物にすぎない、というのが縄文以来の我が国の知恵です。

    この戦いの後に行われたのが元寇です。
    一度目が文永の役(ぶんえいのえき・1274年)で89年後。
    二度目が弘安の役(こうあんのえき・1281年)で96年後です。

    特に二度目の弘安の役においては、日本の博多湾めがけて押し寄せた14万の元の大軍を、鎌倉御家人たち6万の軍勢が、見事打ち破っているのですが、この元寇の戦いには、一点、不思議なことがあります。
    それは、
    「なぜ元軍は、大軍を博多湾だけに集結させたのか」
    という疑問です。

    彼らは、遠路はるばる船を連ねて日本にやってきたのです。
    もし目指す上陸地点が博多湾ではなく、京都府のすぐ北にある若狭湾であったとしたら。
    あるいは博多湾に襲来すると見せかけて、そのまま下関海峡を抜けて瀬戸内に入り、大阪湾に上陸することもできたのです。

    なにしろ彼らは船に乗ってやってきているのです。
    そして船には機動力があります。
    14万の大軍を乗せた船団が、そのまま若狭湾や大阪湾に襲来していたら、その後の歴史はどのように変化したでしょうか。
    それこそ恐怖のシナリオです。

    しかし彼らはご丁寧にわざわざ大軍で、都から遠い博多湾に殺到してきています。
    どうしてなのでしょうか。
    一説によれば、当時の船は長期間の外洋航海に耐えなかったからといいます。
    しかし彼らの一部は、チャイナの今の福建省あたりからはるばる東シナ海を横断して日本までやってきています。
    つまり、十分な航海能力があったということです。

    さらに若狭湾までは、日本海の海流に乗っているだけで、潮流の関係で航海が可能です。
    そもそも元寇の時代よりもずっと前から、日本海の海流を利用して、平安時代には渤海国との交易が盛んに行われていたのです。
    仮にもし、彼らが船で東北地方にまでやってきていたら、東北地方で算出する莫大な黄金を手に入れていたかもしれません。
    あるいは大阪湾にやってくるには、下関海峡の壇ノ浦を越えさえすれば、あとは波の静かな瀬戸内の航海です。
    これまた大阪湾まで安全な航海が可能です。
    それがどうして、博多湾だったのでしょうか。

    実は、この疑問への答えとなりそうなことが、多分にカルト的になるけれども、元寇の100年前に沈んだ平家軍の将兵たちなのです。
    平家の将兵たちが海の守り神となって元軍が関門海峡以東に押し寄せることを断固阻んだ、とでも考える以外に、他に解釈のしようがないのです。

    平家というのは、たいへんに信仰心の厚い家で、広島の宮島にある厳島神社は、平清盛が造営し、有名な平家納経を行っています。
    この平家納経というのは、実にたいへんなことで、美しく大和絵が描かれた絵巻物に、平家の公達全員が、お経を手書きするというものでした。
    当時は、ぜんぶ筆字の自筆です。
    そして一文字でも間違えれば、一巻の絵巻物が全部ボツです。
    ですからこの絵巻物は、一字たりとも間違えないよう、毎回沐浴して体を清め、一文字ずつ丁寧に書写されたものです。

    それだけの貢献をした厳島神社の御祭神が、宗像三神です。
    宗像三神は、海の守り神で、その本営は福岡県宗像市にあり、日本神話に登場する日本最古の神社のひとつです。
    そしてその宗像神社は、博多湾から下関海峡に至る海上ルートの、ちょうど中間あたりにあります。

    実は元寇のとき、この宗像大社の辺りを越えて、下関海峡に入ろうとした元の船団がいたことが記録されています。
    ところがなぜかその船団は、そのままわざわざ潮の流れに逆らってまでして、博多湾に引き返しているのです。
    これは不思議な行動です。

    そして結果として、元の船は、まったく不思議なことに、宗像神社(御旅所)から沖合に浮かぶ宗像大社沖津宮を結ぶラインの外側、つまり博多湾だけに集結して、結果破れているのです。

    こうなると、もしかするとですけれど、実は下関海峡の壇ノ浦を通過して、瀬戸内から大阪湾に攻め込もうとした元の船の一部が、斥候として壇ノ浦に向かったとき、海中からネクロマンサー(死者の軍団)となった平家の軍団が、宗像三神とともに、海中から次々と立ち上がり、元の船に対して
    「ここは通さん!!」
    と刃向かってくれたからなのかもしれません。

    そうとでも考えなければ、元の軍勢が瀬戸内に入ろうとしなかった理由の説明がつかないのです。

    肉体はなるほど今生限りのものですが、魂は永遠の存在であり、むしろ肉体はその魂の乗り物にすぎない、というのが、日本の縄文以来の知恵です。
    そして縄文時代の集落跡を調べると、だいたい集落の真ん中にご先祖たちの墓地がある。
    このことはつまり、縄文人たちは、死者と共存していた、と考えられているわけです。

    実はこうした「集落の真ん中に墓地を持つ」という村落の構成は、いまでも南米や南太平洋の島々などに古くからの習慣として残っています。
    そして彼らは、共通のご祖先が倭人たちであるという。
    つまり、日本における古くからの万年の単位で行われ続けてきた習慣が、いまでも存続しているわけですが、このことが示す意味は、現代においても日本は、生者と死者が共存している国である、ということです。

    このように申し上げると、現代日本人には少しわかりにくいかもしれませんが、もともと仏教では、死んだ人の魂は濁悪の娑婆世界、つまりこの世を離れて、理想の国である極楽浄土へと旅立つとされています。
    その極楽浄土のひとつが、須弥山であり、東の果てにある扶桑国であり、ユートピアの蓬莱山、あるいは崑崙(こんろん)であるとされているわけです。
    だから、人が亡くなると、その魂は浄土へと旅立ちますから、お別れを告げる「告別式」が行われます。

    ところが日本古来の神道では、亡くなった人の魂は、家や村の守り神となって、子々孫々の幸せをずっと守り続けてくれると考えられています。
    つまり、日本は縄文以来、ずっと死者と共存する国であったし、それはおそらく今もなお、続いていると考えられるわけです。

    そうであれば、厳島神社で平家納経まで行った平家が、ただ闇雲に壇ノ浦で滅んだとばかりは、考えられない。
    なるほど彼らは、壇ノ浦の戦いで海に沈んだけれど、そこは海の守り神の宗像三女神のすぐお膝元でもあるわけです。
    なにしろ、元寇のときの元軍は、まったく不思議なことに、宗像神社(御旅所)から沖合に浮かぶ宗像大社沖津宮を結ぶラインを越えていないのです。

    海に沈んだ平家の武士たちは、宗像三女神の指揮のもとで、こんどは海の守り神となって死者の軍を起こし、元寇においては、元の大軍が関門海峡以東に移動するのを阻止し、また大東亜戦争においては、北九州に原爆を落とそうとしたB29を、南へと追い払うという、重要な働きをいまもなお、されている・・・のかもしれません。

    このように考えると、先の大戦で命を失った我が日本の英霊諸氏もまた、いまや護国の守り神として、この日本を守り続けてくれているということも、ごく自然な流れとして理解できます。

    終戦直後の日本は、どこもかしこも焼け野原でした。
    それに食料も不足していました。
    英霊の多くも、餓死しています。
    それだけに、彼らの子や孫たち(つまり戦後を生きた人たち)が、まずは国土を復興させ、産業を起こし、食べるに困らない国造りをする。
    そのことだけを、亡くなった英霊たちもまた、しっかりと応援してくれていたのであろうと思います。

    その間日本国内には、偏差値偏重教育とか、あるいは西洋かぶれの個人主義などといった怪しげな思想や、労使の対立と闘争といった事柄が、が生きている日本人の間に蔓延しました。
    しかしそのようなものは、英霊の子女たちが平和に豊かに安全に安心して暮らすことという大きなテーマの前には、およそ微細な波風にすぎません。
    平和ボケといいますが、戦乱の世と比べたら、平和ボケするくらい平和な社会であるということは、実はとっても幸せなことであるといえると思います。

    けれど世界がごく一部の利権を持つ者たちに支配され、世界中の人々がそんな大金持ちたちの植民地奴隷になろうとしている昨今、日本が平和ボケのままでいることは、日本人の生活まで困窮させ、国土を腐敗させる大きな要因となります。

    だからいま、英霊たち、そして我が国を築いてきた歴史上の日本人たちのすべてが、日本の建て直しのために動き出した。
    そして生きている日本人を目覚めさせるためには、30年という長く続く不況さえも経験させる必要があった。
    このように考えることもできるのです。

    我々、生きている人間は、生きている人間の世界だけが世界に存在していると思いがちです。
    けれど、もしかすると縄文時代に万年の単位で習得した知恵にあるように、我々の生者の世界というものは、実は死者と共存している世界なのかもしれません。

    生きている人は、必ず睡眠を取りますが、深い睡眠状態のときには、実はその人の魂が肉体から抜け出て、あちらの世界に行っているのだ、という話があります。
    それが本当のことかどうかまではわかりませんが、我が国の死者たちというのは、亡くなった祖父母であり、曾祖父母や、もっと古い時代の、要するにすべてが今を生きている我々の血縁者です。
    我々の住む国土は、森の木の一本一本にいたるまで、我々の祖父や祖先が大切に育んできてくれた国土です。

    戦後の日本は、一時的に「はしか」のような流行病に侵されてきました。
    そんな日本をあたたかく見守りながら、戦後の復興をお手伝いしてくださっていた英霊たち、そして我々の歴代の祖先たちは、いま、日本が正気を取り戻すときを迎えていることを、しっかりと教えようとしてくださっているのではないか。
    そのように思います。

    日本精神が復活する時は、いまです。
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  • 洪思翊中将と民族の誇り


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    日韓関係が対立的闘争的でギクシャクすることで利益を得るのは、どこの国のどういう人たちなのかを考える必要があります。このことは逆に日韓関係が極めて良好なものであったときに、損をするのはどこの国かということと同じです。このように考えると、熱しやすい韓国民を焚き付けて日韓関係を常にHOTな状態にしておくことで利益をえているいくつかの国をすぐにイメージできるものと思います。ものごとを見るには、歴史の流れを考える必要があるとは、このことです。
    そこで今回は、立派だったコリアンについて書いてみたいと思います。こういう人がいたのです。洪思翊陸軍中将のことです。

    洪思翊陸軍中将
    20220327洪思翊
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     岸田総理大臣と韓国のユン・ソンニョル大統領の日韓首脳会談が16日行われました。韓国の新聞各紙は、相変わらず日韓関係について否定的で、日本では韓国がこれまでに何度も約束を反故した経験から、首脳会談という道筋は保持するものの、基本的に韓国政府を信頼できるパートナーとは考えきれないといった情況にあります。あたりまえです。約束を守るから信用が生まれるのです。約束を何度も反故にして信用してくれとは、言葉は悪いですが「盗っ人猛々しい」としか言いようのないものです。

     もっとも日本のメディアは、韓国について肯定的な報道で、このあたりにも日本のメディアが日本人による日本人のための日本人のメディアになっていない情況が伺えます。そういえば先日のサムライジャパンの日韓戦について、事実上の優勝決定戦などといったアオリの報道が目立ちましたが、実力からいって、高校野球の甲子園出場校と、これまで一度も二回戦に進めれたことのない高校の試合のようなもので、それが事実上の優勝決定戦とは片腹痛い。あまりに馬鹿げたアオリ報道であったといえます。

     しかし問題は、日韓関係が対立的闘争的でギクシャクすることで利益を得るのは、どこの国のどういう人たちなのかです。このことは逆に日韓関係が極めて良好なものであったときに、損をするのはどこの国かということと同じです。このように考えると、熱しやすい韓国民を焚き付けて日韓関係を常にHOTな状態にしておくことで利益をえているいくつかの国をすぐにイメージできるものと思います。ものごとを見るには、歴史の流れを考える必要があるとは、このことです。

     このようなことを申し上げると、筆者があたかも差別主義者であるかのように言う人達がいます。差別主義者という言葉自体が的を外しています。差蔑はよくないことです。けれど世の中の秩序というのは、差別によって成り立っています。部長には部長の、課長には課長の権限の差異があるのはこのためです。
     ちなみに故・加瀬英明先生は「虫凶が崩壊すると韓国は世界一の親日国になる」と述べられていました。筆者はこの意見に賛成しています。

     そこで今回は、立派だったコリアンについて書いてみたいと思います。こういう人がいたのです。
    洪思翊陸軍中将のことです。

     帝国陸軍の中将というのは、並みの努力でなれる役職ではありません。陸軍士官学校をとびきり優秀な成績で卒業し、限りない軍功を立て、人物、識見ともに誰からも尊敬を集めるだけのものがなければ、なれる役職ではない。単なる年功序列でなれるような甘い役職ではないのです。そしてその中将となられた方に、洪思翊(こうしよく)という人がいます。朝鮮半島の出身者です。

     洪思翊中将は、李王家の縁戚でも、かつての朝鮮貴族であるヤンバンの出身でもありません。朝鮮半島の極貧の家庭に生まれ、努力して体力、知力とも優秀な成績を修め、当時の日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した人です。彼は軍人として、古今の戦史、戦術に深く通じるだけでなく、四書五経から英語にまで精通し、相撲も武道も強い人でした。

     洪中将は、新しい部隊に赴任すると、居並ぶ日本兵の前での初訓示で、毎回、次のように語ったそうです。
    「自分は朝鮮人の洪思翊である。
     唯今より天皇陛下の御命令により指揮をとる。
     異義のあるものは申し出よ」
    実に堂々とした態度です。

    彼は、当時、多くの同国人から、
    「洪さん、あなたも日本人名に改名したらどうか」と勧められそうです。しかし頑として朝鮮名を名乗り通しました。彼にとって、それはあたりまえのことだったのです。自分が生を受けた自国の名を捨てるということは、自らの郷里や父祖を否定し捨てることになる。朝鮮人である自分は、日本人より遥かに立派に生きてみせる。それが誇りある男の態度というものです。

     彼がまだ大尉だったころ、彼の息子の洪国善が、近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたのだそうです。どこにでも悪童はいるものです。そのとき洪思翊は息子に、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、
    「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。
     決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したそうです。

     洪中将は、終戦時、南方軍総司令部の兵站総監を勤めていました。そしてB級戦犯として、捕虜虐待の罪を着せられ、フィリピンで刑死されました。洪中将が捕虜を虐待したという事実はまったくありません。要するに単なる結論ありきの、戦勝国による復讐裁判です。しかしその茶番裁判に、洪中将は判決のあと、周りの人に笑って答えたそうです。「絞首合格だったよ」と。
     絞首の「こうしゅ」を、徴兵検査の「甲種合格」にかけたのです。そして平然として処刑台に向かわれました。

    辞世の句は、

     昔より 冤死せしもの あまたあり
     われもまたこれに 加わらんのみ

     当時の朝鮮人の中には、洪中将の他にも、日本人部隊を率いて抜群の武勲を立てて、軍人としての最高の名誉褒章である金鵄勲章を授与された金錫源陸軍大佐、陸軍士官学校を抜群の成績で卒業し、終戦時は満洲国軍の中尉となり、後に韓国大統領となった朴正熙、朝鮮出身者でありながら特攻兵に志願し、沖縄の空に散った金尚弼ら14人の航空隊員、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じ、同国の独立のために最後まで戦った梁七星、その他、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名など、多数の人たちがいます。

     昭和18年に行われた朝鮮志願兵の募集(それまで支那事変や大東亜戦争を戦いながら、日本は朝鮮半島での志願兵募集をしていません)には、6300人の募集枠に対し、なんと30万人以上の青年の応募が殺到しています。合格倍率は、なんと48倍です。血書による嘆願も、数百人にのぼり、採用されず、自殺までした青年も現れて、当時の朝鮮総督府を困らせました。

     大東亜戦争に、自ら進んで軍人、軍属として出征したKoreanの青年は合計24万人です。そのうち2万1000人余りが戦死し、いまも靖国神社に祀られています。東京裁判で、A級戦犯として禁錮20年の判決を受け、獄死した東郷茂徳外務大臣も朝鮮人です。

     人は成長することができる生き物です。同様に人種も国家も成長することができるものと思います。民族の誇りというものは、差別されたの強制連行されたの創氏改名を強要されたのと、ありもしないでっちあげで相手を非難したり中傷したりしたら生まれるというものではありません。立派に生きた先人たちに学び、自らも立派に生きようと努力するところに、本当の誇りが芽生え、育まれるのです。

     一部の方々は、筆者を差別主義者だとレッテルを貼って嫌います。
    筆者が、拒否しているのは、韓国や在日コリアン活動方針の反日活動です。
    それは、空想を宣伝し、自分たちを空想で正当化し、自分たちだけの利益を図ろうとし、人々の生活を奪う身勝手な行動だからです。
    まっとうに生きる個々の人ではありません。

     真面目に一生懸命生きようとしているすべての人が、「おほみたから」です。
    それぞれが本分をわきまえ、しっかりと生きていくところに、人にも国家にも幸福があります。
    したがって、これを自己の利益のために破壊する者は、人体のがん細胞と同じです。
    癌細胞は、好きも嫌いもなく、退治しなければなりません。
    けれど、がん細胞を拒否することと、人体そのものを拒否することとは、まったく別次元の問題です。

    洪思翊中将のように、民族として真の誇りがあるのなら、正々堂々と真実を受け入れ、嘘と虚構を排除することです。


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    彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。彼女は戦争未亡人で、夫は米軍との戦いで命を落としていました。しかも彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長でした。そしてソロモン海戦で乗艦と運命を共にしていたのです。
    バーク大将は、「あなたのご主人を殺したのは、私かもしれない」と彼女に言いました。
    ところが彼女は毅然としてこう言いました。
    「提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら提督が戦死していたでしょう。誰も悪いわけではありません。強いて言えば、戦争が悪かったのです」

    アメリカ海軍提督 アーレイ・バーク
    20150918 バーク大将



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    まず、以下の文をお読みください。

     *****

    大東亜戦争の終結から5年後の昭和25(1950)年9月、まだ戦火の傷跡が残る日本に、一人の米国人がやってきました。
    米海軍の提督、アーレイ・バーク大将です。

    バーク大将は駆逐艦乗りです。
    駆逐艦は、敵弾をくぐり抜けて巨大戦艦を打倒し、海中に潜む潜水艦をも追い詰める艦です。
    ですから駆逐艦乗りには、日米ともに「猛将」といわれた人が多くいました。
    バーク大将もその一人です。

    バーク大将は大東亜戦争の中でも、日米合わせて9万人以上もの犠牲を出した「ソロモン海戦」で日本軍の脅威となった男です。
    そのバーク大将が、敗戦国日本を支配する占領軍の海軍副長として、アメリカから派遣されてきました。
    「朝鮮戦争」が勃発したからです。

    バーク大将は、東京・帝国ホテルにチェックインしました。
    従業員が
    「バーク様、お荷物をお持ちいたします」と言うと、バーク大将は、
    「やめてくれ。最低限のこと以外は、私に関わるな!」と言ったそうです。

    実は、バーク大将は筋金入りの日本人嫌いだったのです。
    バーク大将の心には、敵だった日本人への激しい憎悪が燃えていました。
    戦時中に彼は、
    「日本人を一人でも多く殺すことが重要だ。
     日本人を殺すこと以外に重要なことはない」
    という訓令を出しています。
    ついこの間まで戦争で敵として戦い、多くの仲間を失っているのです。
    米国海軍大将として、それは当たり前の感情であったのかもしれません。

    バーク大将は日頃から公(おおやけ)の場で日本人を「ジャップ」「イエローモンキー」と差別的に呼んでいました。露骨に日本人を蔑(さげす)みました。
    ですから帝国ホテルで日本人の従業員が話しかけても無視したし、日本人に自分の荷物を触らせるなど、もってのほかであったのです。

    そのバーク大将が日本に来てから一ヶ月ほどしたある日のことです。
    「それにしても、なんて殺風景なんだ、この部屋は!」
    室内はベッドと鏡台とイスだけです。
    バーク大将は、せめてもの慰みにと一輪の花を買ってきてコップに差しました。
    このあと、この花が意外な展開をたどることになったのです。

     *

    翌日、バーク大将が夜勤から戻ってみると、コップに差してあった花が、花瓶に移されていました。
    バーク大将はフロントに行き、怒鳴りました。
    バーク「なぜ、余計なことをした。誰が花を花瓶に移せと言った!?」
    従業員「恐れ入りますが、ホテルではそのような指示は出しておりません」
    バーク「何だって!? うーむ…」

    この時は誰が花瓶に移したのか分かりませんでした。
    そして数日後…、何と花瓶には昨日まではなかった新しい花が生けられていました。
    「いったい誰がこんなことを……」

    花はその後も増え続け、部屋を華やかにしていきました。
    バーク大将は再びフロントへ行きました。
    「私の部屋に花を飾っているのが誰なのか、探してくれ」

    調べた結果、花を飾っていた人物が分かりました。
    それは、バーク大将の部屋を担当していた女性従業員でした。
    彼女は自分の少ない給料の中から花を買い、バークの部屋に飾っていたのです。
    それを知ったバーク大将は彼女を呼び出して問い詰めました。

    「君は、なぜこんなことをしたのだ」
    「花がお好きだと思いまして」
    「そうか。ならば、君のしたことに代金を払ねばならない。受け取りなさい」と彼女にお金を渡そうとしました。
    ところが彼女は、
    「お金は受け取れません。私はお客様にただ心地よく過ごしていただきたいと思っただけなんです」
    「どういうことだ?」

    米国ではサービスに対して謝礼(チップ)を払うのは当たり前です。
    しかし彼女はお金はいらないという。

    このあと、彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。
    彼女は戦争未亡人で、夫は米軍との戦いで命を落としていました。
    しかも彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長でした。
    そしてソロモン海戦で乗艦と運命を共にしていたのです。

    バーク大将は、「あなたのご主人を殺したのは、私かもしれない」と彼女に言いました。
    ところが彼女は毅然としてこう言いました。
    「提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら提督が戦死していたでしょう。
     誰も悪いわけではありません。
     強いて言えば、戦争が悪かったのです」

    バーク大将は考え込みました。
    「自分は日本人を毛嫌いしているというのに、
     彼女はできる限りのもてなしをしている。
     この違いは、いったい何なんだろうか?」


    のちにバーク大将は次のように述懐しています。

     *

    私は彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。
    日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に対して金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかないこと、を学んだ。
    そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった。

     *

    こうして、バーク大将の日本人に対する見方は一変しました。
    折りしも朝鮮戦争は激しさを増していました。
    バーク大将は一刻も早く米国の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に働きかけるようになりました。
    なぜなら、東アジアにしっかりした独立国が存在することがこの地域の平和を安定させるからです。

    そして、その日本の独立を守るために絶対に必要なのが「日本海軍の再建」であると主張しました。
    まだ終戦五年後のことです。
    米国人の多くがまだ反日感情を持っている時代に、バーク大将は根気強く説いてまわり、ついに海上自衛隊の設立を実現させました。

    帰国したバーク大将はアメリカ海軍のトップである作戦部長に就任しました。
    この時、バーク大将は最新鋭の哨戒機(しょうかいき)P2Vを16機、小型哨戒機を60機も海上自衛隊に無償で提供しました。

    昭和36(1961)年、バーク大将は海上自衛隊の創設に力を尽くした功で、日本から勲一等旭日大綬章(最高位の勲章)を贈られました。

    平成3(1991)年、バーク元海軍大将は96歳で亡くなりました。
    各国から多くの勲章を授与されたバークですが、葬儀の時に胸に付けられた勲章は日本の勲章ただ一つでした。
    それは本人の遺言によるものでした。

    そのため、ワシントン海軍博物館のバーク大将の展示には、日本の勲章だけが抜けたままになっています。

     *

    平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲いました。
    この戦後最大の国難に際して、在日アメリカ軍は直ちに「OPERATION (オペレーション) TOMODACHI=トモダチ作戦」を発動しました。

    このトモダチ作戦で、もっとも早く被災地に着いたのが、原子力空母ロナルド・レーガンです。
    本来は韓国に向かう任務で移動中でしたが、艦長の独断で日本の救援に駆けつけてくれたのです。
    その艦長の名は、海軍大佐トム・バークでした。
    そう、あのアーレイ・バークの孫です。

    バーク大佐は、ヘリコプターのパイロット出身でしたから、空母のことは副長に任せ、自分は救援物資を積んだヘリを操縦して、避難所を飛びまわりました。

    このような自然災害が発生した場合、世界中でどんな光景が見られるか知っていますか。住民たちによる食料の取り合いが始まります。
    こうなると、ヘリコプターといえども危険で着陸できないそうです。
    何とか着陸した途端(とたん)、被災住民が銃を撃ちながら食料を取りに来ることもあるといいます。
    したがって、たいていは低空から支援物資を空中投下することになります。

    艦長のトム・バーク
    20150918 トムバーグ


    ところが東北地方はどの避難所にもヘリが着陸しやすいように、着陸の目印「H」が書いてありました。
    ヘリが着陸すると、被災した住民が荷降ろしを手伝いました。
    終わったら、全員がお礼を言って見送ってくれました。
    これには、世界各地で救援活動をしてきたバーク大佐も驚いたそうです。

    みずから「東北地方では、一件の略奪も殺し合いもなかった」と軍の機関紙『星条旗』に書いています。
    さらに、住民たちは必ず「ここはこれだけで良いから、別の避難所に持って行ってください」と言いました。
    そんなことを言われたことも、日本だけだったそうです。
    人間、極限状況にある時ほど、その本性があらわれると言います。
    日本人には「みんなが困っている時ほど他人を思いやる」という遺伝子が備わっているように思います。

    バーク大佐は帰国後、日本で経験した驚きの出来事を家族に話しました。
    この時、もしバーク大将が生きていたら、「お前も日本好きになりおったなぁ」と言って何度もうなづいたかもしれません。

     *****

    (服部先生の感想)

    私たちは安全で物にあふれた日本に生きています。
    飢えることはなく、生命の危険を感じることもなく、夜道を女性が一人で歩いても安心です。
    こんなすばらしい国は世界にありません。
    しかしながら、これにどっぷりつかって思考停止してしまうと、大人も子供もなれ合いになりがちな日常生活の中で大切なことを見失うことにもなりかねません。
    思いやりの気持ちも、その大切なことのひとつだと思います。
    この授業を通して生徒たちは思いやりの精神の美しさを再認識してくれました。
    生徒たちは、自ら進んで思いやりの心を身につけようとの意欲を示してくれました。

     *****

    以上のお話は、次の本からの抜粋です。
    服部剛 著、中山成彬先生推薦
    『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』
    から、一部をブログ用に文章を修正して掲載させていただいたものです。

    この本には、こうした素晴らしいお話がぎっしり詰まっています。


    ※この記事は2015年9月の記事のリニューアルです。
    日本をまもろう!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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    20220325 アッツ島
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    日本人と戦争〜アッツの戦いを振り返る

    「瀬島、役所に帰ったらすぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」
    それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、
    「閣下、電報を打ちましても、残念ながらもう通じません」
    すると元帥は、「たしかに、その通りだ」とうなづかれ、
    「しかし陛下は自分に対し『アッツ島部隊は最後までよく戦った。そういう電報を杉山、打て』とおっしゃった。だから瀬島、電報を打て」と、言われた。
    その瞬間、ほんとに涙があふれて……。


    20220325 アッツ島
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    戦争のお話をします。
    お話に先立って、ふたつのことを先に申し上げます。

    ひとつめは、戦争に関するお話をするときに、必ず申し上げていることです。

     我々は、今後決して、
     権力者の野望を満たすために、
     若者のエネルギーを、命を、
     奪ってはならないし、
     また奪われてはならない。


    この言葉は、元海軍航空隊の松本裕昌氏が、著書の『我が予科練の記』に記した言葉です。

    世界では現に紛争が起きています。
    当事国の兵士が何人死んだ、でも本当はもっと死んでいるなどといった報道があります。日本人として恥ずかしく思います。
    お亡くなりになった兵士の方、あるいは民間人の方々、そのひとりひとりに家族があり、人生があり、幸せになろうとする意思があったのです。
    何百人とか、そういう十把一絡げではなく、ひとりひとりの命をどこまでも大切にしてく。それが日本人です。

    国際社会は、戦争の悲劇を何度も繰り返しています。
    が、私達日本人にとって大切なことは、そうした戦争による悲劇を二度と繰り返さないこと、繰り返させないことです。どちらか一方の国に肩入れすることではないのです。

    ふたつめは、我が国は「戦争をした」ということです。
    先の大戦は、やむにやまれず、開戦に至った戦争です。
    やむを得ず「戦争をした」のです。
    開戦の理由は、開戦の詔勅にちゃんと書いてあります。

    そしてその戦いを、我が国は自主的に終わらせました。
    なぜなら、先の大戦が「戦争」ではなくなったからです。原爆のことです。
    戦争には国際法がちゃんとあって、軍服を着た兵隊さん同士が争うと定められています。
    原爆は、民間人を大量に殺害するものです。
    民間人を大量に殺害することは、「虐殺」であって、「戦争」ではありません。
    戦争が、虐殺に替わった。
    だから我が国は戦闘を辞めたのです。
    このことは、終戦の詔勅にちゃんと書かれています。

    これから述べるアッツ島の戦いは、先の大戦で、初めて我が国の玉砕戦となった史実です。
    そしてそれは、あくまでも軍人さん同士が勇敢に戦った「戦争」です。

     *

    さて、明治維新以来、アメリカと日本は、親しい友人でした。
    第二次世界大戦は昭和14年(1939年)にはじまっていました。
    日本への石油の輸出が禁輸となったABCD包囲網が形成されたのは、昭和16年7月のことです。
    日米開戦は、その年の12月です。

    なぜあの大戦に至ったのか。
    それは、カネの流れを追えば明らかです。
    文字通り、先の大戦は、カネのための「権力者の野望」によって始まり、続けられ、多くの若者の命を奪ったのです。

    同じことは、いまも続いています。

    そんな中にあって、あらゆる理不尽の中にあっても、最後まで勇敢に戦い散って行かれた先人たちがいました。

    カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々があります。
    北米に近い方の島々が「ラット諸島」、アジアに近い方の島々が「ニア諸島」です。
    ニア諸島の西のはずれ、つまりアジアに近い方にある大きな島がキスカ島で、それよりもうすこし西側、(アジア寄り)にある小さな島が、アッツ島です。
    北海道よりも、ずっとずっと北にある、とても寒い島です。

    80年前、そのアッツ島を守っていた日本軍守備隊2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いが行われました。
    そしてこの戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いとなりました。

    日本軍がこの島に進出したのが昭和17(1942)年9月18日のことです。
    人数は、2,650名でした。
    目的は、この島に飛行場を建設するためでした。

    アッツ島は無人島でした。
    そして形式的には米国領でした。
    そしてこの島は、米国にとって、1812年の英米戦争以来の、初の外国軍によって米国領土が占領された事例となりました。

    そういうわけですから、米軍はたびたび建設途中のアッツ島に空襲を仕掛けてきました。
    そして昭和18年には、大艦隊を率いてこの島の奪還にやってきたのです。

    このときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)陸軍大佐(没後二階級特進で中将・以下陸軍中将で統一します)でした。
    陸軍中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった、昭和18(1943)年4月18日にアッツ島に赴任されました。
    それは、赴任時点で死ぬと決まった転任でした。
    念の為もうしあげますが、この人事はなんらかの報復人事とか、内部対立とかそういうものではありません。
    寡兵をもって米国の大艦隊と五分に戦うことができる男は、この時点で山崎保代陸軍中将しかいなかったのです。

    山崎保代陸軍中将は、山梨県都留市のご出身の方です。
    代々僧侶の家柄で、子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を25期生として卒業されました。
    陸軍に任官後は、シベリアに出兵され、斉南事件の際にも出動しています。

    ※斉南事件
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-597.html

    潜水艦でアッツに到着した山崎保代陸軍中将は、守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じく敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。
    もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊と大部隊編成でくるだろうと予測したからでした。

    アッツ


    米軍を、一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にない。
    このように読んだ一事をとっても、山崎保代陸軍中将がどれだけ優秀な士官であったかを知ることができます。

    5月5日、守備隊の前に米軍があらわれました。
    まさに大艦隊でした。
    米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました。

    上陸部隊だけで、1万1000人です。
    守る日本軍は、わずか2650名です。
    しかも日本側には、純粋な地上戦戦闘要員は、半数もいませんでした。

    米軍は、洋上で天候回復を待ち、12日から島への上陸を開始しました。
    それは小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行ったうえでの、大部隊の上陸でした。

    アッツの守備隊は、見事なまでの大奮戦をしました。
    島の奥深くまで侵入して来た米軍第17連隊を壊滅させ、また一個大隊押し寄せた米軍と真っ向から対峙し、これを海岸線にまで後退させました。

    しかし衆寡敵せず、約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。

    この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。
    辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。
    18日間の短い日記です。

    5月29日の最後の日記を引用します。

    *******
    夜20時、地区隊本部前に集合あり。
    野戰病院も参加す。
    最後の突撃を行ふこととなり、
    入院患者全員は自決せしめらる。

    僅かに33年の生命にして、
    私はまさに死せんとす。
    但し何等の遺憾なし。

    天皇陛下萬歳。
    聖旨を承りて、
    精神の平常なるは
    我が喜びとするところなり。

    18時、
    総ての患者に手榴弾一個宛渡して注意を与へる。
    私の愛し、そしてまた最後まで
    私を愛して呉れた妻妙子よ、
    さようなら。
    どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。

    美佐江様
    やっと4歳になったばかりだが、
    すくすくと育ってくれ。

    睦子様
    貴女は今年2月生まれたばかりで
    父の顔も知らないで気の毒です。

    政様 お大事に。
    こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、

    さようなら。

    ********

    辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎保代陸軍中将と、最後までご一緒においでだったものと思われます。

    アッツ島の日本兵


    文中にあるように29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎保代陸軍中将は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させました。
    集まった兵は、この時点でわずか150名でした。

    山崎陸軍中将は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりの兵のねぎらいました。
    次に通信兵に
    「機密書類全部焼却、
     これにて無線機破壊処分す」
    と本部への打電を命じました。

    そして「いざ!」と声をかけました。
    山崎保代陸軍中将は、右手に抜き放った軍刀を、左手に日の丸を持たれました。
    このとき、山崎保代陸軍中将は、みんなにニコッと笑顔を向けました。
    そして攻撃部隊の先頭に立つと、生き残った全員を引き連れ、先頭に立って山の斜面を駆け上って行かれました。

    生き残った全員があとに続きました。
    死ぬ、とわかって最後の特攻攻撃を行ったのです。

    この突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
    米軍は大混乱に陥りました。
    日本陸軍の突撃隊は、次々と米軍の陣地を突破していきました。
    それはまさに鬼神の進撃そのものでした。

    米軍の死体がそこらじゅうに転がりました。
    そしてついに、突撃隊は、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄するのです。
    あと一歩でした。
    上陸部隊の本陣を抜くところまで、迫りました。

    しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて猛然と機銃で反撃に出ました。
    味方の兵が、バタバタと倒れました。
    そして我が軍は、全員、散華されたのです。

    戦いが終わった後、累々と横たわる我が軍の遺体の一番先頭に、山崎保代陸軍中将の遺体がありました。
    このことは米軍が確認した事実だといわれています。

    山崎保代陸軍中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。
    先頭は、いちばん弾を受ける位置です。
    おそらく途中で何発も銃弾を受け、何度も倒れられたことでしょう。
    けれど撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がり、そしてついに、味方の兵が全員玉砕したときも、彼は突撃隊の先頭に這い出て、そこでこときれたのであろうと推測されています。

    これが帝国軍人将校の心得です。
    享年51歳でした。

    山崎保代陸軍中将以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史が次のように書いています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」
    そして米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えました。

    山崎保代陸軍中将
    山崎保代中将


    このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。

    ********
    アッツ島部隊は非常によく戦いました。
    アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。
    それでもやはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに次のような電報が届きました。

    「こういうふうに戦闘をやりましたが、
     衆寡敵せず、明日払暁を期して、
     全軍総攻撃をいたします。
     アッツ島守備の任務を果たしえなかったことを
     お詫びをいたします。
     武官将兵の遺族に対しては、
     特別のご配慮をお願いします」

    その悲痛な電報は、
    「この電報発電と共に、
     一切の無電機を破壊をいたします」
    と、結ばれていました。

    当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

    この種の電報の配布第一号は天皇です。
    第二号が参謀総長、
    第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

    そして翌日九時に、参謀総長の杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって参謀総長のお供をして参内いたしました。
    私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。

    それで杉山元帥はアッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、
    「瀬島、終わったから帰ろう」
    と、こうおっしゃる。

    参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
    この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。

    この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
    「今日の御下問のお言葉は、
     どういうお言葉がありましたか。
     どうお答えになりましたか。」
    ということを聞いて、それをメモして役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。

    車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
    車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
    右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

    それでもその日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
    「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」
    と、重ねてお伺いしました。

    そうしたら杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、
    「瀬島、役所に帰ったら、
     すぐにアッツ島の部隊長に
     電報を打て」
    と、いきなりそう言われた。

    それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、
    「閣下、
     電報を打ちましても、
     残念ながらもう通じません」
    と、お答えした。

    そうしたら元帥は、
    「たしかに、その通りだ」
    と、うなずかれ、

    「しかし陛下は自分に対し
     『アッツ島部隊は、
      最後までよく戦った。
      そういう電報を、
      杉山、打て』
     とおっしゃった。
     だから瀬島、電報を打て」
    と、言われた。

    その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

    母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
    陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。

    それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、
    「本日参内して奏上いたしたところ、
     天皇陛下におかせられては、
     アッツ島部隊は最後まで
     よく戦ったとのご沙汰があった。
     右謹んで伝達する」
    という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて電波を送りました。


    ********

    昭和62年(1987年)日米共同により、日本政府がアッツ島に「北太平洋戦没者の碑」を、最後の玉砕地となった雀ケ丘に建立しました。
    そしてこの碑には
    「さきの大戦において
     北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび
     平和への思いをこめてこの碑を建立する」
    との銘が刻まれました。

    日米ともに、多くの民衆の持つ思いは同じです。
    平和に豊かに安全に安心して暮らしたい。
    家族が戦地に散るようなことがあってはならない。
    だから「平和への思いをこめてこの碑を建立」したのです。

    アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。

    アッツ島慰霊碑
    20200520 アッツ島慰霊碑
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6


    いまも戦争が起きています。
    紛争と呼びなさいとか言われていますが、国対国が軍事力を用いて戦うなら、それは戦争です。
    そして戦争は、多くの若者の命を奪います。

    それだけではありません。
    第一次世界大戦以降の戦争では、むしろ武器を持たない多くの市民を標的にした戦争が、あたりまえのように行われています。

    紛争が好きな人、戦争で儲けようとする人たちもいます。
    けれど、世界はそういう人たちのためにあるのではありません。
    多くの民衆が、豊かに安全に安心して平和に暮らせることこそが、正しい真実です。

    戦争の悲惨を知る日本人だからこそ、日本だからこそ、いまも、そしてこれからも、絶対に戦争の惨禍を繰り返さない。
    このことを、国民的合意として、強く国際社会に訴え続けて行かなければならないのだと思います。

    また、それができる国になっていくこと。
    それこそが、日本の進むべき道であると思います。
    現に戦いが始まってから当事国のどちらか一方に肩入れするのではなく、どこまでも人の命を大切にしていく。
    そのことが、日本人として、あるいは日本国として大切なことであると思います。


    日本をまもろう!

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    そのために必要なことは、3つです。
    1 歴史を学ぶ
      歴史は人々のアイデンティティを構築します。
    2 論理的に考える
      嘘には必ず論理の矛盾や飛躍があります。
    3 明清正直に行動する
      明るさと清らかさと正直さで行動します。
    つまり、「学び、考え、行動する」のです。

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    日華事変、大東亜戦争、そして現代における慰安婦問題や南京虐殺、あるいは731部隊の嘘など、現代の世界で、かつての日本についての大嘘がまかり通っています。
    これらの問題について、多くの論客の方が、様々な切り口で、これらの情報の嘘を理論的に暴いているのですが、残念なことに、世界の動きは日本人(軍)悪玉論がまかり通っているのが実情です。

    誰しも騙されるなどしたくもないのに、ではどうして嘘がまかり通るのかと言えば、嘘が「常識化」しているからです。
    ここに情報戦の要があります。

    現代の西側諸国は、基本的に民主主義を標榜しています。
    ですから大統領も議員も、すべて選挙によって選ばれます。
    選挙に選ばれるためには、有権者もつ常識に答える必要があります。
    選挙に受かるためには、より多くの有権者の期待に答えなければなりません。
    その期待の最大公約数が、得票数になるからです。
    従って、現代の西側世界において、政治家は世間の常識に答える人でなければならないことになります。

    そこで、工作をする人たちは、世間の常識を演出します。
    これは実際に世間がどのように思っているかは関係ないことです。
    政治家に、それを「世間の常識」と思わせる(誤認させる)ことが大事になります。

    そのために工作をする人たちは、メディアや、影響力のある芸能人、あるいはお金がほしい言論人などを動員して、嘘を、あたかもそれが世間の常識であるかのように演出します。
    そしてひとたび、この「常識」が出来上がると、これにいくらいわゆる正論を持って対抗しようとしても、打ち寄せる波に木刀で向かうようなもので、まったく歯が立ちません。

    そこでまず、情報戦とはどのようなものかを、先の大戦前にさかのぼって考察します。
    そのうえで、現代においてそうした情報戦に勝利する方法を考えたいと思います。

    ひとつの例を申し上げます。
    日米戦争開戦前のアメリカです。
    大統領はフランクリン・ルーズベルトです。

    当時のアメリカは、1920年のブラック・マンデーの不況から、いかに脱出していくかが最大のテーマとなっていました。
    ルーズベルトは、1933年に大統領に就任すると、ニューディール政策と呼ばれる公共投資で失業者の大量雇用を行い、翌年には早くも全米の景気を回復させていきました。
    ところがいくつかの政策が、米国最高裁で不当競争にあたるとして、違憲判決が出されてしまいます。
    そしてこのために、米国経済は、1937年には、またしてもデフレ・スパイラルに陥入り、1940年には、名目GDPも失業率も、大恐慌のときの水準にまで戻ってしまいます。
    ここで景気の巻き返しを図らなければ、大統領再任は難しいという状況に至っていたわけです。

    一方、Chinaでは、1937年に盧溝橋事件、通州事変などが立て続けに起こり、同年には第二次上海事変が勃発し、Chinaに上陸した日本軍によって、圧倒的な軍事力を持っていた国民党が蹴散らされました。
    この国民党のボスが蒋介石で、妻が宋美齢(そうびれい)で、彼女は、辛亥革命のときの孫文の妻の宋慶齢(そうけいれい)の妹にあたります。

    そもそも国民党は、なぜ日本軍に歯向かうという選択をしたのでしょうか。
    もともと日本軍がChinaに駐屯していたのは、11カ国が共同して行った北京議定書に基づくものです。
    ですから出兵も、11カ国共同です。
    何も日本だけが駐屯していたわけではありません。
    アメリカもイギリスもドイツもフランスもロシアも、その他5カ国とともに駐屯していました。
    これはいまでいう、ソマリア海賊掃討のための多国籍軍駐留と同じものです。
    しかも当時のChinaは中央政府を失い、内乱状態にさえありました。

    そうした中にあって、日本軍が駐留しているエリアや都市では、極めて高い治安が保たれていました。
    高い治安が保たれるということは、Chineseたちにとっても、それは歓迎すべきことであったはずです。
    本来なら、Chinaの覇権を握ろうとしていた蒋介石にとっては、日本軍は味方に付けるべき存在であるはずでした。

    ところが西安事件をきっかけに、蒋介石はChina共産党と手を組んで、抗日作戦に打って出ます。
    それまでの国民党は、日本とではなく、China共産党と戦っていました。
    ところが国民党は、西安事件後、日本を敵にしています。
    なぜそうなったかについては、様々な憶測が飛んでいますが、今日はそこが趣旨ではありませんので、そのあたりの事情についての解説は省略します。

    問題は、蒋介石が以後、日本を敵としたことです。
    なぜ、治安を維持している良心的な日本を敵とすることになったのか。
    実は、そこに「アヘン利権」が絡んでいたという説があります。

    このことは河添恵子さんの著書『トランプが中国の夢を終わらせる - プーチンとの最強タッグが創生する新世界秩序』に詳しいので、詳細は同書をお読みいただくとして、簡単に要約すると、要するに蒋介石の妻の宋一族が持っていたアヘン利権が、日本軍の良心的統治によって壊滅させられたということが原因となっていたという説です。
    もとのマーケットを取り返すためには、日本軍を追い払わなければならないし、そのために宋一族は蒋介石のスポンサーになって資金提供をしたし、娘を蒋介石の嫁にしたというのです。
    私は、この説がもっとも核心を突いているように思います。

    ところが彼らが頼みとした国民党は、誰が見ても圧倒的な軍事力を持っていたにも関わらず、あえなく日本軍に敗れてしまう。
    そこで宋一族が次に頼みとしたのが、米国だったというのです。

    日本が南京戦に勝利したのが1937年12月です。
    そして翌1938年7月には、米国で「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という組織が結成されています。
    この委員会には、ヘンリー・スティムソン元国務長官、ロジャー・グリーン元在漢口アメリカ総領事、ハリー・プライス元北京大学教授、ジョージ・フィッチChinaYMCA主事、作家のヘレン・ケラー、パール・バックなど、以後、徹底した反日活動に加担した著名人がズラリと名を連ねています。

    彼らは、同月には、『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』というブックレットを作成しました。
    その主張は、茂木弘道史実を世界に発信する会会長代行によりますと、次の5点に要約されます。
    1 日本は中国の国土に不法な侵略を行っている。
    2 日本は軍需品仕入れの半分をアメリカに依存している。
    3 つまりアメリカは侵略者日本の共犯者となっている。
    4 平和のためアメリカは共犯者であることをやめるべきである。
    5 日本との貿易関係を犠牲を払ってでも停止すべきである。

    この委員会の主張は、全米の各種メディアを動員して展開されました。
    そして対日軍事活動に米国が介入することは、実は、米国の不況からの脱出を模索するルーズベルト大統領にとって、まさに天啓となっています。
    そしてルーズベルトは、日本のChinaでの軍事行動について、次のように述べています。
    「宣戦布告もなく、
     いかなる種類の警告も弁明もなく、
     女性や子供を含めた民間人が
     空から降ってくる爆弾によって
     虐殺されている・・・」

    「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」の主張は、まさしく事実を無視した荒唐無稽なものです。
    しかし、この委員会の主張は、不況脱出を図ろうとするルーズベルトの意向と合致するのです。
    なぜなら、軍産複合体の活性化こそが、全米の景気回復にあたっての最大のニューディールだったからです。

    戦争を、政治から見ようとするだけでは、その全貌は見えてきません。
    必ず経済がその背景にあります。
    つまり、Chinaにおける宋一族の経済的利益の回復と、ルーズベルトの軍産複合体の活性化という米国の経済的利益は、ここで見事に一致するわけです。

    「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が発行したブックレットは、わずか6万部です。
    しかし、その6万部は、各種メディアや、全米での講演活動などを通じて、あたかもそれが米国民の世論であり、常識であるかのように宣伝されていきます。

    実際には、日米開戦前の世論調査では、「日米開戦を望まない」と答える人が全米の85%に達していました。
    つまり本当の世論は、誰も戦争など望んでいなかったのです。
    ところが、わずか数パーセントの「望む」という声が、あたかも全米の共通した世論のようにして扱われたわけです。
    このことは、日米開戦前の日本で、日米開戦を望まない人が日本人の圧倒的多数を占めていたのに、メディアの報道では、特に朝日を中心に、鬼畜米英とか、あたかも戦争をするのが当然だという風潮が演出されていたことと同じです。
    おそらく国内でも、大手メディアに、Chinaや米国のスパイ工作が及んでいたであろうことは、想像に難くないことです。

    こうした世論ではないことを、あたかも世論であり、国民の常識であるかのように思わせ、演出することは、いまも行われていることです。
    地震や土砂災害、大雨による出水等が相次いで起こっている日本では、いま国会で森友だの加計だの、不倫だのと騒いでいるような余裕はないはずです。
    いつ襲ってくるかわからない天然災害を前に、出来る限りの対策を事前に施していく。
    そうした防災対策は、公共施設の補強工事を含めて、国内のまさにニューディール政策となり得るたいへん有益なことですし、国民の誰もが望むことでもあります。

    あるいは北朝鮮の軍事についての備えの強化や充実、万一の場合の避難の確保も必要です。
    先の大戦とは桁違いの爆発力となったいまどきのミサイル攻撃に、果たして防空壕が役立つかどうかはわかりませんが、ホーム核シェルターの普及に、税金からの補助金を出すなどの措置は必要であろうし、すくなくとも、全国の行政施設には、核シェルターの設置を義務付けるくらいのことがあってもしかるべきです。
    スイスは世帯あたりの核シェルター普及率が100%を超えています。

    さらにいえば、原発廃棄云々の議論の前に、すでに耐用年数を徒過した原発が、半数以上に上っていることについても、冷静な議論と対策が必要です。
    いまの国会に、森友や加計や不倫などの議論をしている暇など、まったくないはずなのです。

    ところが、そうした冷静な議論よりも、なぜか森友や加計や不倫などの議論ばかりが強調され、災害対策も軍事対策も資源エネルギー対策もまったく世論誘導がなされません。
    現代日本の常識は、あたかも、政治は芸能ニュースどころか、与野党による漫才のボケとツッコミでしかなく、世間は政治に呆れて、政治離れが促進され、この結果、特異な利権集団が政治上、巨大な力を持つように、実は誘導されています。

    日本の常識は、騙す者と騙される者がいるとき、騙すほうが悪いとしますが、世界の常識は、騙される方が悪いのです。
    日本人も、先の大戦時における米国民も、同様に「騙される人々」になっているわけです。

    宣伝戦というのは、世間に「どのような常識を作り上げるか」という戦争です。
    従って、冒頭に述べた慰安婦問題や南京虐殺、あるいは731部隊の嘘などに抗するためには、我々が主体となって、そうではない真実の歴史の共有化、つまりいかにして真実を常識化していくかが不可欠です。

    簡単にいうならば、その健康食品が有効だということを宣伝するためには、難解な学者の証明書よりも、著名な芸能人がテレビに出て「私も愛用しています!」と述べるほうが、何百倍もの宣伝効果を持つのです。
    証明書は、その根拠になるにすぎません。

    仮にいま、明確な敵を示すとともに、真実の日本の姿が書かれ、著名人の推薦文がいくつも掲載されたブックレットを国内に50万部、海外向けに数か国語に翻訳したものを150万部印刷して、国内外の書店や、主要な政治家等にバラまき、これをテレビで宣伝したら、そのプロモーション費用は、おそらく10億円内外で済むことになるでしょう。
    これは年間のODAの100分の1の費用で済むことですが、これを日本政府がやったのでは話になりません。
    政府が出資した民間団体が行うから意味があるのです。

    なぜなら政治は対立だからです。
    そうではなく、民意を作っていく。
    世間の常識にしていく。
    そこにこそ、情報線の要諦があります。

    と、ここまでのところで、情報戦とはどのようなものかを見てきました。
    では、現代においてそうした怒涛のような情報戦に勝利する方法はあるのでしょうか。

    答えは「ある」です。

    情報伝達の仕方は、もちろんメスメディアのチカラが大きいです。
    けれど、チカラは、持つようになると、おもしろいものでだんだん仕事が粗くなります。
    加えて情報戦の目的が、一部の人の利益にあるのですから、真実が明らかになるに連れ、民意が変化していきます。

    現代の情報発信は、テレビや新聞だけでなく、ネット動画など、さまざまな媒体が存在します。
    しかも世界はグローバル化しており、普通の人が海外でメディアが報じない実態を動画にアップしたりもします。

    情報戦に勝利する要諦は、個々のチカラを、向上させながら結集していくことです。
    そのために必要なことは、3つです。
    1 歴史を学ぶ
      歴史は人々のアイデンティティを構築します。
    2 論理的に考える
      嘘には必ず論理の矛盾や飛躍があります。
    3 明清正直に行動する
      明るさと清らかさと正直さで行動します。

    つまり、「学び、考え、行動する」のです。

    <参考図書>
    河添恵子著『トランプが中国の夢を終わらせる - プーチンとの最強タッグが創生する新世界秩序』

    ※この記事は2017年8月の記事のリニューアルです。
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    彼女たちは昭和13年に『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』という小冊子を刊行し、「1937年7月、China政府が和平のための努力をしたにもかかわらず、日本の軍事政権は北京郊外で、盧溝橋(Marco Polo Bridge)事件を起こし、これを利用してChinaへの全面的な侵略を開始した。」という、荒唐無稽な主張を展開したのです。
    この荒唐無稽な主張を書いた小冊子を編集発行したのは、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という名の団体です。
    そしてこの団体には、ヘンリー・スティムソン(元国務長官、後陸軍長官)、ロジャー・グリーン(元在漢口アメリカ総領事)、ハリー・プライス(元北京大学教授)、マーガレット・フォルシス(YWCA北米同盟)、フランク・プライス(在中宣教師)、アール・リーフ(元UP中国特派員)、ジョージ・フィッチ(中国YMCA主事)、ヘレン・ケラー(作家)、マクスウェル・スチュワート(『ネイション』副編集長)、フィリップ・ジャッフェ(『アメレジア』編集長)など、政界とメディアの大物がズラリと顔を揃えました。

    20180627 上海の阿片窟 1901年
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    米国人のラルフ・タウンゼント(Ralph Townsend)は、1900年(明治33年)生まれで、戦前のChinaに外交官として赴任した人です。
    この人が書いた本の日本語訳が出版されています。
    たいへん興味深い内容です。
    『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著


    以前、義和団事件(1900年)を題材にしたチャールトン・ヘストン主演の映画『北京の55日』のご紹介をしたことがあるのですが、この映画を見たあるご年配の方が、
    「当時のChineseには、あんなに太っている奴なんていなかったよ。」
    とおっしゃられていました。
    清朝末期、国が荒廃する中で、誰もが餓え、貧困のどん底にいた時代です。
    とりわけ圧倒的多数を占める低所得者層の生活は悲惨を極めていました。

    そんな時代の、Chinaの光景が、このタウンゼントの著書には詳しく述べられています。
    そしていまではChinaは豊かになったとはいえ、その精神構造は、当時と何も変わっていない。
    そのことを、この本は私達に教えてくれます。

    すこし刺激が強いですが、たいへんな良書です。
    以前にも一度ご紹介しましたが、そのなかの一部を抜粋してお届けしてみたいと思います。

    ******
    屎尿(しにょう)はどう処理をするのか。
    家の中に大きな石のカメがあり、これに用をたす。
    これをとっておき、農家や仲介業者に売る。

    華北では、営業許可を得た農家や業者が毎日のように、呼び声高らかに、手押し車や荷馬車を引いて、華南では、天秤棒に桶を二つぶらさげて買いに来るから良いが、内陸部の田舎はひどい。
    客室と同じ棟に巨大なカメがデンと座っている。

    なかなか処理しないから、慣れない客はたいへんだ。
    脱臭剤など見たことも聞いたこともない。

    都市部から田舎へ向かう屎尿買い付けの長い列が続く。
    写真で見ると実に素晴らしい。
    見渡すかぎりの田舎道、山道を、桶を二つぶらさげた天秤棒を担いで、何千という人間がのろのろ歩いていく。
    古くなって中程がへこんだ屋根の家や、灰色の竹と日干レンガのあばら屋などがごちゃごちゃした中に、高くそびえる塔がひとつ、ふたつ見える街から集めた屎尿を畑に撒きに行くのである。
    伝統的な畑造りである。

    華南では、担ぎ手は大抵が女で、痩せてはいるが足腰は強く辛抱強い。
    年嵩の女連中は、荷物で重くなってキーキーいう竿(さお)にあわせて掛け声をかける。
    決まったようにくるぶしと膝の中ほどまでの黒い木綿のズボンをはき、よほど暑くない限り何もかぶらない。
    上着は何度も洗うから、色落ちしている。
    足は裸足である。

    若い娘の中には目もと明るい美人もいる。
    また、赤いヘアバンドをしている者もいる。
    これは人妻の印である。
    ぽっちゃり型で元気であるが、歳をとるのが早いから、すぐに歯が欠け、おばあちゃんになる。

    街の市場で買い物をする者がいる。
    魚一匹、田舎では買えない野菜一束等である。
    これを桶の側にぶらさげるから、糞尿がかかる。

    手押し車や荷車で市場に野菜を運ぶ者がいる。
    前日、糞尿を入れた同じ桶に入れてなんとも思わない。
    まして糞尿がかからないように包もうなどとは、まったく考えない。

    彼らは伝染病が流行るときは大変だ。
    流行に一役買うことになる。
    屎尿を桶にめいっぱい汲んで蓋をしない。
    毎日通る道をヌルヌルに汚して、全く気にしない。
    そこで遊んだ子供や犬や豚が、バイ菌を家に持ち込むのである。

    写真で見たらきれいな田舎の風景ではあるが、現実はきれいごとでは済まされない。
    街から集めた屎尿を水で薄め、作物に撒き、家族総出で一日中、土になじむように裸足でこねまわすのである。
    真夏の強烈な日差しに照らされると、美しい田園風景どころではない。
    一面、悪臭で息もできなくなり、一度足を踏み入れたら、必ず具合が悪くなる。


    (『暗黒大陸 中国の真実』82ページ)
    *******

    タウンゼントは米国人で、米国務省に入省し、昭和6(1931)年に上海副領事としてChinaに赴任しています。
    満州事変に伴う第一次上海事変を体験し、その後福建省に副領事として赴任したあとに、昭和8(1933)年に米国に帰国してこの本を出版しました。

    タウンゼントは親日派の言論を展開したために、大東亜戦争開戦後にまる1年間投獄されてしまいました。
    もし当時の米国がChinaの買収による宣伝工作に乗らず、冷静かつ客観的にタウンゼントの言をいれて東亜政策を推進していたのなら、おそらく日華事変も大東亜戦争も起きなかったといわれています。
    またその後のChina国民党とChina共産党の争いもなく、China共産党による1億人規模の虐殺も起こらなかったことでしょう。

    辛亥革命は、清朝の王都である紫禁城内にあった清王朝の所有する財宝類を、まるごと奪い去りました。
    清の最期の皇帝である愛新覚羅溥儀に残されたのは、古くなった自転車1台と、いま着ている服一着だったそうです。
    それ以外は、すべて略奪されました。
    その略奪された財宝は、値段のつけれないような高価な品々ばかりでした。

    当然のことですが、貧しい当時のChinaでは品物の捌きようがありません。
    そこで蒋介石は弟をヨーロッパに、妻の宋美麗を米国に派遣して、これらの財宝類をメディアや政治家たちにばらまきました。
    また国民党が日本に勝利した暁にはと、China国土の欧米への切り売りの空手形を大量に発行していました。

    この蒋介石および妻の宋美齢の三姉妹は、いずれもChinaのある家族集団の出身です。
    その集団は、古代の周から春秋戦国時代の王族の末裔といわれ、中原を追われてジャングルなどの僻地に家族集団でドーナッツ状の巨大家屋を造って、長年その内側だけで生活をしてきました。

    欧米列強が清国の蚕食にやってきたとき、彼らの植民地支配には特徴があって、欧米人にはChina語はわかりませんから、現地にある迫害された(とされる)少数民族に特権を与えて、彼らを手先として利用して、その国の簒奪を行いました。
    このとき、英国の手先となって、英国の東インド社のアヘン売買を一手に担ったのがその家族集団でした。

    英国のアヘンは人気が高く、当時は麻薬としての扱いは受けておらず、民間の治療薬として、一時的に戦闘によって得た痛みも消す効果があって混迷が続いて暴力が支配したChina国内でたいへんな人気となりました。
    またアヘンは性交に用いると男女ともに腰が抜けるほどの快楽を得ることができるのだそうで、そのあたりもアヘンの人気に一役買ったと言われています。

    ところが日華事変後、日本軍が統治するところでは、アヘンの密売が規制され、しかも日本軍は、他の国々の軍と違って、彼らの得意の買収戦略も効き目がない。
    まさに当該家族集団にとっては、日本軍は「彼らのアヘンでの金儲けのための市場を奪い取った侵略者」であったわけです。

    そこで国民党や八路軍などを操って日本軍への交戦を仕掛けるのですが、圧倒的に数が少ないはずの日本軍が、やたらと強い。
    沿道に2万のトーチカを設置し、ドイツ式の最新型の武器を揃えて20倍の戦力を持ってしても、日本軍が勝ってしまう。

    あまりに負け続けるところに、一方で欧米では、代々続く植民地の支配層の貴族や、その貴族らをスポンサーとする政治家たちにとって、日本軍は、東亜における植民地解放や、人種の平等を高らかに主張するので、口には出せないけれど、今風に言うなら、ウザい存在ともなるわけです。

    ヨーロッパでは、男性が行った当該家族集団の行動は、あまり大きな成果をもたらさなかったけれど、米国でChineseの女性集団が始めた運動は、おもいきりツボにはまりました。

    彼女たちは昭和13年に『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』という小冊子を刊行し、「1937年7月、China政府が和平のための努力をしたにもかかわらず、日本の軍事政権は北京郊外で、盧溝橋(Marco Polo Bridge)事件を起こし、これを利用してChinaへの全面的な侵略を開始した。」という、荒唐無稽な主張を展開したのです。

    この荒唐無稽な主張を書いた小冊子を編集発行したのは、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という名の団体です。
    そしてこの団体には、ヘンリー・スティムソン(元国務長官、後陸軍長官)、ロジャー・グリーン(元在漢口アメリカ総領事)、ハリー・プライス(元北京大学教授)、マーガレット・フォルシス(YWCA北米同盟)、フランク・プライス(在中宣教師)、アール・リーフ(元UP中国特派員)、ジョージ・フィッチ(中国YMCA主事)、ヘレン・ケラー(作家)、マクスウェル・スチュワート(『ネイション』副編集長)、フィリップ・ジャッフェ(『アメレジア』編集長)など、政界とメディアの大物がズラリと顔を揃えました。

    そして小冊子には、ルーズベルトも寄稿して、
    「宣戦布告もなく、いかなる種類の警告も弁明もなく、女性や子供を含めた民間人が空から降ってくる爆弾によって虐殺されている」
    と書き、またパール・バック女史は、
    「世界のためを考えるならば、
     日本とChinaとどちらが勝者になってくれるのが好ましいだろうか。
     Chinaが勝ってくれる方が、はるかに世界の利益に叶うように私には思われる。
     日本が勝ったならば、
     一等国に成り上がるばかりでなく超大国となって、
     東洋全体を掌中に収めるであろう。
     日本はさらにプライドを高めて
     なお一層の征服に乗り出すであろう。」
    と書き立てました。(史実を世界に発信する会・資料より)

    そして米国の民衆のほとんどすべては誰も日本との戦争など望んでいなかったにも関わらず、これが米国の「世論」ということになって、ルーズベルトは日本を開戦へと追い込んでいくことになるわけです。
    パール・バック女史は知りませんが、このとき、他の男性の米国要人のもとには、かなりの数のChinese女性が献上されたといいます。
    こうして、なんと宋姉妹の工作活動は、スタートからわずか一年後には、米国の対日通商条約破棄という暴挙に至り、その3年後には、ついに真珠湾攻撃に至るわけです。

    我々日本人は、スパイというと、007や忍者のイメージで、裏の世界でうごめく人を想像しがちですが、世界的な大スパイというのは、世間でも名の通った大物です。
    そもそも影響力のある人であり、それなりのカネとヒトを動員できる人でなければ、工作などできないのです。
    当然のことです。

    よく、日本はChinaの宣伝工作によって追い詰められたという話を聞きます。
    しかし宣伝なら、戦前の日本もしていたのです。
    しかし、ただ宣伝したり、オフィシャルな正論を展開する日本に対し、Chinaはあらゆる非合法手段を駆使して、目的を遂げようとしました。

    いまでもChinese美女が工作のために要人の夜の同伴をするということが行われるのだそうですが、それら美女はChina中から集められ、言うことを聞かなければ見せしめのために彼女たちが見ている前で、言うことを聞かない女性が処刑されるのだそうです。
    言うことをきけば、ありとあらゆる贅沢が与えられ、聞かなければ残酷な処刑が待っている。
    今も昔も変わらぬ、アメとムチの巧妙な使い分けがそこにあるのだそうです。

    ちなみに個人的には、人を利用主義的に利用するということは、するのもされるのも絶対に受け入れられません。
    人は、誰もが対等であり、おほみたからであり、安心と安全と、互いのよろこびや幸せのために自分なりに誠実をつくすことが大事なことだと思います。

    それからもうひとつ、上にご紹介した『暗黒大陸 中国の真実』の一文だけでもそうとう衝撃的ですが、糞尿を作物の肥料として活用するということは、日本でもごく普通に行われていたことです。
    ただ、日本では、Chinaのように回収した糞尿をそのまま畑に蒔くのではなく、深い穴である肥溜めに糞尿を入れ、そこで発酵させて良質な肥料にして畑に撒きました。

    発酵させて畑に撒いた方が衛生的でもあるし、肥料としても役立つのです。
    ところがChinaで、直接畑に撒いて、裸足で土とこねました。
    どうしてそのようなことになったかというと、畑はいつ暴徒たちに襲われて、作物を根こそぎ持っていかれるかわからなかったからだといわれています。
    ですから深々と肥溜め用の穴を掘って肥を発酵させることもできないし、仮に掘っても、万一そこに暴徒の誰かが落ちようものなら(昔は日本でも子供などがよく落ちたものです)、報復のために一族全員皆殺しに遭いかねなかったのだそうです。
    哀れといえば、とんでもなく哀れなことですが、人が人を支配するだけのウシハク国では、そうなってしまうのです。

    女性の服装が、綿でできた黒の半長パンツと、何度も洗いざらして色の抜け落ちた上着しかなかったというのも、同じ時代の日本では、相当、貧しい人達であっても、現実にもう少しましな服装をしていたことを考えれば、いかにChinaの民衆が虐げられていたかわかります。

    Chinaが貧しかった理由のひとつに、作物の収量に対して人口が多すぎる、という問題がありました。
    昭和初期のことです。
    日本は、稲塚権次郎博士が、従来の品種の5倍もの収量のある小麦(農林10号)をChinaに持ち込み、終戦後もまる二年Chinaにとどまって、その栽培指導をし続けました。
    これは蒋介石の依頼があってのことです。

    Chinaでは、日本からもたらされた新種の小麦によって、なるほど小麦の収量はChina全土で約3倍になりました。
    「これで、みんなが腹いっぱい食えるようになる」というのは、日本人の甘い見通しでした。
    Chinaでは小麦の収量が増えた分、そのまま人口が増えたのです。

    大東亜戦争開戦前のChinaの人口は4億5千万人です。
    それがいまでは15億の人間がひしめいています。
    そしてその多くは、年間所得が30万円にも満たない貧しい人々です。

    いかなる道徳も、社会システムも、それは人間が作るものです。
    人々のアイデンティティの基礎になる国の歴史がとんでもないものであったり、捏造であったり、あるいはそもそもアイデンティティの基礎になる教育そのものが奪われたりしていれば、人間はただの動物になります。
    そして動物が相手では、いかなる道徳も社会システムも、まともに機能などしません。

    そして人間に危害を加える恐れがある動物たちがひしめきあっているところには、人間は近づかないのが、実は一番良いのです。

    セオドラ・ルーズベルト・ジュニアは、米国の第25代副大統領であり、第26代大統領、そして大東亜戦争開戦時の第32代米国大統領であるフランクリン・ルーズベルトの遠縁にあたる人です。
    そのセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、昭和12(1937)年10月にChinaの視察から帰ってきて、『サタデー・イブニング・ポスト誌』に、Chinaで婦人が実際に見た事実を述べています。

    ******
    突然私達は叫び声を聞いた。
    それは不機嫌なわめき声に変わっていった。
    私達のすぐ下で、ひとかたまりの群衆が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら、5人の日本人を追っていた。
    4人はうまくバスの中に逃げ込んだ

    奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
    ひとりがよろけて落ちた。
    彼らはそこに襲いかかった。

    それから彼は、血だらけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。
    肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。

    そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点からムチを持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。
    それから救急車を呼んだ。
    暴徒がまた集まってきた。
    あきらかにやり返しに来たのだ。

    私はあの日本人が死んでいると確信した。
    しかし、担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た。

    (『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著 p.34~35)
    ******

    貧しいChinaの民衆に同情し、彼の国で農業指導や教育などにあたった結果がこれです。
    そしてセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、この事件の目撃をしたのは、通州事件などが起きたあと、そして日本軍によって南京城にいた国民党が追い払われ、南京の治安が回復した直ぐ前の出来事です。

    そして、そういう民族性を持ったChineseたちが、いま、南シナ海に軍事施設を作っているだけでなく、東シナ海にも海上ヘリポートをすでに10機以上建設しているのです。
    その場所は、尖閣諸島のすぐ近くです。
    そして日本国内には、人民解放軍が兵士達が、いまやウヨウヨいる、という状況です。

    私は、Chineseが全部悪いと言う気はさらさらありません。
    そういう意味での差別には断固反対です。
    まともな人もたくさんいるからです。

    ただ、同じ日本人同士の親しい友人であっても、やはり、違いはあるものです。
    早い話が、隣の家と我が家では、家風が違います。
    ましてや国や民族や言語が違えば、その風俗習慣も、歴史伝統文化も、まるで異なるものであるのは当然です。
    それを、あたまから「日本人と同じ」として、違いを理解したり区別したりすることさえも否定してしまうのは、それは傲慢です。

    他国には、他国の文化があるのです。
    たとえば南洋のある島では、男性同士が親しくなった時、たがいの下半身を撫で合うという習慣をもった民族がいるそうです。
    普通の日本人なら、まさに「たまげて」しまいそうな風習ですが、彼らにとっては、それはそれで意味のある立派な風習です。
    日本式の礼がただしくて、その民族の礼は間違っているなどと、どうして決め付けることができるのでしょうか。

    アフリカには、親しみを込めた挨拶に、たがいに唾をかけあうという風習をもった民族があります。
    これまたびっくり仰天ですけれど、彼らにしてみたら、体を接してキスをすることのほうが、よっぽど異常に思えるのだそうです。

    日本人はよく風呂に入りますし、温泉とか大浴場とか大好きです。
    けれど、国や民族によっては、風呂もシャワーも、一生に何度か経験する程度という民族もあります。
    おとなりのChinaでは、民衆は起きているときの服装のまま寝るのがあたりまえです。
    パジャマに着替えるということが、奇妙に思えるそうです。
    危険が迫った時に、着替えなければ逃げれないからです。

    民族ごとに、違いがあります。
    だから国境があります。
    「違いがある」ということを、ちゃんと認識して、お付き合いをする。
    そこにある程度の距離感は、これはむしろ人間関係を円滑にしていくのに、必要なことです。
    なんでもかんでも受け入れれば良いというものではないのです。


    参考図書(お薦め本です)
    『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著
    『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著


    ※この記事は2018年6月の記事の再掲です。
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    北海道開拓を否定する人たちがいますが、北海道開拓の苦労の歴史があるからこそ、いまの北海道があるのです。
    これは忘れてはいけないことです。

    寒地稲作の祖中山久蔵(なかやま きゅうぞう)
    生没年:1828年~1919年
    20220308 中山久蔵
    画像出所=https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/sum/senjin/nakayama_kyuzo/
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    北海道米として有名な「ゆめぴりか」は、とても美味しいお米です。
    けれど北海道でお米の栽培ができるようになったのは、明治に入ってからのことです。

    戊辰戦争によって破れた幕府側の諸藩の藩士の多くが北海道に入植しました。
    そのなかのひとりに河内国石川郡春日村(現:大阪府南河内郡太子町春日)出身の中山久蔵という農民がいました。
    中山久蔵は17歳のときに家を出て諸国を旅し、25歳のときに仙台伊達藩の藩士・片倉英馬の下僕となった人です。

    戊辰戦争のとき、仙台伊達藩は佐幕派でした。
    官軍に挑んで破れ、それまでの62万国が28万石へと減封されました。
    このため士族籍を没収された武士たちは、「私費で」北海道開拓に向かいました。
    そのなかのひとりに片倉英馬がいたのです。

    中山久蔵は、片倉英馬とともに北海道に渡りました。
    けれど北海道は寒冷地です。
    お米が育たない。

    中村久蔵は、寒冷地に強いお米の品種改良に取り組みました。
    そして明治6年に、「赤毛」という名の寒冷地米を開発するのです。

    中山久蔵は、片倉英馬とともに、その「赤毛」の種籾を無償で他の開拓民に配布しました。
    これにより北海道での米作りが広がり、ようやく北海道は「食べていくことができる土地」へと変貌したのです。
    これがなければ、いまの北海道はありません。
    そして、いま北海道で栽培されている「ゆめぴりか」は、すべて中村久蔵の「赤毛種」の子孫です。

    「赤毛」によって、北海道はお米の一大産地となっていきました。
    ところが戦後、1969年(昭和44年)、食管法の改正とともに、お米の生産そのものが、政府によって抑制されました。
    政府が米を作るなというのです。
    ならば小麦を、としたいところですが、小麦は米国から輸入するから作らなくて良いという。
    こうして北海道も減反が相次ぎました。

    しかし、減反によって田んぼが減るなら、残った田んぼで、いままで以上にもっと美味しいお米、つまり付加価値の高いお米を作ろうということになって、1988年には「きらら米」、2001年には「ななつぼし」という冷めても美味しいお米が、やはり「赤毛種」の中から品種改良されて誕生しています。
    さらに2003年には「ふっくりんこ」が誕生。
    そして2008年に誕生したのが、「ゆめぴりか」です。

    「ゆめぴりか」「ななつぼし」「ふっくりんこ」は、その後食味ランキングで特Aを連続獲得し、北海道米は全国に販路を持つ優良品種となりました。
    あの独特の真っ白さともっちり感が大好きという方も多いかと思います。

    どんな苦境に至っても、どこまでも創意工夫によって生き残る。
    けっしてあきらめない。
    そして、良い品種ができたからと、その新しいお米の籾米を無償でみんなに分け与える。
    そういうことをしてきたのが、日本人です。

    北海道開拓を否定する人たちがいますが、北海道開拓の苦労の歴史があるからこそ、いまの北海道があるのです。
    これは忘れてはいけないことです。

    近年では、日本の近くの反日で有名な国が、日本の新品種の美味しいイチゴを勝手に盗んで、自国産として安値で世界中に売りまくるという馬鹿なことをしたりしています。
    鶏卵が値上がりしていますが、鳥インフルエンザによって、我が国は100万羽の殺処分をしています。
    それによって儲けている他国もあります。

    日本をまもる。
    それは単に軍事だけの問題ではありません。
    農業も、思想も文化も生活も、すべては防衛問題に始まるのです。

    日本をまもろう!

    ※この記事は2022年3月の記事のリニューアルです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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