• 恋愛結婚と見合い結婚


    ◆次回倭塾は6月26日(土)開催です。
    13時30分講義開始、場所は東京江東区の富岡八幡宮婚儀殿です。
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    タイトルにあるテーマは、恋愛結婚か、見合い結婚かにあるのではなく、家計の収入が、世帯に払われたという社会の仕組みと、個人に支払われるという現代社会の仕組みの違いにある、ということであろうと思います。

    20210616 お見合い
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    恋愛結婚が良いか、見合い結婚が良いか。
    戦後、ずいぶんと議論されたことに、そんな設問があったりします。

    もともと日本では、武家や町家ではお見合い結婚が主流で、恋愛結婚をするケースは、かなりマレでした。
    なぜそのようなことになったのかというと、これは社会の仕組みに関係があります。

    いまでは、個人主義が広がったため、夫婦であっても、旦那の稼ぎは旦那のものといった風潮、つまり稼いだ給料は、稼いだ個人のもの、という考えが一般的ですが、社会の仕組みがそのようになったのは、実は戦後のことでしかありません。

    では、昔はどうであったのかというと、稼いだ給料(武士の俸禄や商家の給金など)は、その人の所属する「世帯」に払われるもの、というのが常識でした。

    ですからたとえば俸禄取りの武士の場合(必殺仕置人の中村主水のような30俵二人扶持といったケース)では、働くのは旦那ですが、俸禄は家に支払われ、その管理は主婦の仕事でした。
    要するに、旦那はただ外で働くだけで、稼ぎは全部、女房殿が管理したわけです。
    旦那が外で一杯やりたいときは、奥さんからお小遣いをもらったわけですね。

    そして子供が15歳で元服して、18〜9歳で結婚すると、旦那は隠居して、家督を息子に譲ります。
    これは息子が結婚していることが条件で、なぜそうなるのかというと、旦那が隠居して息子に家督を譲ったということは、家計の管理権(つまり世帯の収支管理権)もまた、旦那の女房(つまり姑)の手を離れて、新妻がその管理権を握るようになりました。

    もちろん、たくさんの家があるわけですから、中には御ババ様が家の財産管理を生涯手放さないという家があったのも事実ですが、それはかなりのレアケースであって、基本的には、家督を相続したセガレが結婚すれば、その新妻が家禄の収支から、家の財産管理の一切を任せられるようになったわけです。

    そういう次第ですから、家格が釣り合わないと、妙なことになったのです。


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  • 大和心とポーランド孤児


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    「20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
     シベリアにいたポーランドの子供は、
     さまざまな劣悪な条件にありました。
     その恐ろしいところから日本に連れて行き、
     その後、祖国に送り届けてくれました。
     親切にしてくれたことを忘れません。
     (合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。
     日本のみなさん、ありがとう」

    ポーランド孤児1



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    平成7年(1995)の阪神淡路大震災の翌年のことです。
    ポーランドに震災で親を亡くした日本の子供たち30名が招待されました。それも、3週間という長い期間です。
    招待された子供達は、ポーランド各地で大歓待を受けました。

    この旅行のとき、ひとりの日本人少年は、片時もリュックを背から離さないでいたそうです。
    世話をしたポーランド夫人が少年に理由を聞くと、「震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くした、家も丸焼けになってしまったのだ」といいます。
    少年は、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめていたのです。
    夫人は、不憫(ふびん)で涙が止まらなかったそうです。

    ポーランドでの最終日、震災孤児が帰国するお別れパーティに、4人のポーランドの老人がやってきました。
    4人とも、かつてシベリア孤児だった方です。すでにご高齢で、歩行もままならない。
    それでも老人たちは、
    「75年前の自分たちを思い出させる
     可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、
     是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」
    という思いで、やってこられました。

    そして4人は、涙ながらにバラの花を、震災孤児一人一人に手渡しました。
    会場は万雷の拍手に包まれました。

    その75年前・・・なにがあったのでしょうか。

    その昔、ポーランドは、帝政ロシアの支配下におかれていました。
    ポーランドという国は、もともとスラブ系の人々が築いた国です。
    ポーランドという国名も、もともとは「ポラン(平原)」からきた名前で、これが「ポーランド」になって「平原の人々」という意味が語源となっています。

    一方、ロシアは、語源が「漕ぐ人」です。
    スラブ系の人々が住むロシア地方に、あるときバイキング族がやってきて、あたりを平定し、そこに王朝を築きました。
    つまり、帝政ロシアは、バイキングたちによる征服王朝です。
    ロシア王朝では、そのため代々地元の人々(スラブ人)たちとの交流も婚姻もゆるされていませんでした。
    言語も違う。
    風俗習慣も違う。

    その帝政ロシアが、スラブ系のポーランドを支配したわけです。
    ポーランド人たちは、あくまで独立を図ろうとして抵抗しました。
    そしてその中心となった愛国者たちは、家族ごとシベリアに強制流刑されました。

    大正8(1919)年、ポーランドは、ロシアから独立しました。
    このとき、ロシアはロシア革命の最中、つまり内戦状態にありました。
    シベリアにはこのとき十数万のポーランド人がいたのですが、内乱によって、ただでさえ乏しかった食料の供給が止まり、彼らはたいへんな飢餓と疫病の中で、苦しい生活を余儀なくされていたのです。



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  • 水軍と陸軍の戦い方の違いと壇ノ浦


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    神々のお計らいというのは、我々人間にはわからないものです。
    けれど、間違いなく日本は、神々の護りをいただいた国です。
    神恩感謝。
    このことを源平合戦に学んでみたいと思います。

    20210608 源平合戦
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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    小名木善行です。

    以下の文は、6月1日のねずさんの有料メルマガに掲載した記事です。
    週遅れになりますが、内容が深いので、こちらにも転載します。


     *

    源平合戦といえば、西暦1184年の一の谷の合戦から、1185年の屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いへと続く、源義経率いる源氏と、平知盛以下平家の水軍との戦いとして有名です。
    多くの演劇が、平家のだらしなさと、義経の剛勇を称えるストーリー展開になっていますが、実際の歴史はちょっと違います。

    まず一の谷の合戦ですが、海に面した街道筋である一の谷に陣取った平家10万に、東から源範頼率いる5万、西から土肥実平率いる7千、そして後背地となる鵯越(ひよどりごえ)の崖の上から義経の3千が襲いかかったところまでは有名な話です。

    このとき平家はおよそ千名の死者を出しながら、海上に避難しています。
    物語としては、義経の戦上手を称えるものとなっていますが、実際には、合戦の前日、後白河法皇の近臣である修理権大夫(しゅりごんだゆう)が、平家に後白河上皇の手紙を渡しています。
    その手紙には「源平の和平のために上皇ご自身がそちらに向かうから、交渉が終わるまで一切戦闘行為をしないように。このことは関東武士(源氏)にも伝えてあるので、平家方も徹底するように」と書かれていたのです。
    律儀のこの停戦要求に応じた平家は、武装を解き、一の谷にいた・・・そこに源氏が突然三方から襲いかかった、というわけです。

    それでも水軍である平家には、まだまだ十分な勝機がありました。
    というのは、ここで水軍と陸軍の戦い方の違いが現れるのです。

    基本的に陸上で戦う陸軍は、内陸部から攻撃を開始し、敵を海に追い詰め、殲滅する、という戦い方をします。
    これが陸軍のセオリーです。
    チャイナで、チャイナ共産党が国民党軍を追い詰めた戦いも、そのやり方を踏襲しています。
    だから人民解放軍が勝利したのです。

    これに対し支那事変当時の日本陸軍はというと、沿岸部から国民党に襲いかかり、逆に内陸部へと国民党を追い払っています。
    けれど内陸部は奥深く、結果、敵を殲滅するに至っていません。



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  • 酒池肉林


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    日本は調べれば調べるほど、まっとうな国だし、まっとうでないとされてきた歴史上の出来事も、よくよく調べてみれば、巷間言われてきたことは単なる不勉強で、実はきわめてまっとうな出来事であったとわかるのです。このことをチャイナ神話である妲己と紂王の酒池肉林の逸話から考えてみたいと思います。

    20210606 酒池肉林
    画像出所=http://naokis.doorblog.jp/archives/shuchinikurin.html
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    小名木善行です。

    『史記』に「妲己と紂王(だっきとちゅうおう)」の逸話があります。
    紀元前11世紀頃の、殷(いん)の時代の出来事です。

    ちなみにこのことを「中国の殷王朝」という言い方をするのは、正しくありません。
    中国というのは、エリアのことを指すわけではなくて、現在の中華人民共和国の国名、もしくは1911年(明治44年)に起きた辛亥革命時の中華民国の国名のいずれかを短縮した略称です。
    要するに20世紀になってはじめて登場した名称であって、紀元前はおろか、19世紀まで、そのような国は世界中どこを探しても存在していません。

    したがって、「いま中共政府が置かれているエリアに紀元前11世紀に存在した殷の王国」というのなら正確で、これを短縮して述べたいなら、たとえば「47(漢字で書くとチェックされる)の殷王朝」とか、「中原にあった殷王朝」、あるいは「中華の殷王朝」というあたりしか、実は言いようがないし、それ以外の呼び方は、本当は、たいへん相手国に失礼にあたるのです。なぜなら、嘘を言うことになるから、相手に誠実ではない呼び方をしていることになるからです。

    話が脱線しました。
    さて、殷の時代のこの頃の皇帝は、第30代の紂王(ちゅうおう)でした。
    紂王は、頭もよく武力にも恵まれ、その力量は人々を凌駕し、猛獣すらも手で撃ち殺す程であった人です。

    『史記』は、その紂王について、
    「その知たるや諫めを遠ざけるに足り、
     その言たるや非を飾りて是なるが如くに論ずるに足り、
     人臣に対しては己が才能に驕り、
     天下に対してはその盛名に驕り、
     誰一人として己に及ぶ者はいないと自負していた。」
    と書いています。

    その紂王のもとに、殷に滅ぼされた有蘇氏から、妲己(だっき)という美女が献上されます。
    妲己は十代後半でしたが、強大な権力者である紂王にも物怖じせず、媚びもせず、それでいて妖しい魅力をもっていたのだそうです。

    そんな妲己の虜(とりこ)になった紂王は、彼女の気を引こうと、彼女に金銀財宝を与えたのみならず、庭に砂の離宮を建て、離宮の庭園にある池に酒を満たし、木々には美味しい干し肉を吊るし、淫靡な音楽を流し、多数の奴隷たちの男女を裸にして、思うがままに交合をさせます。
    そしてそんな様子を前に、紂王は妲己との愛欲に耽ります。
    これが『酒池肉林』の語源です。



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  • 5月29日 アッツ島玉砕


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    山崎保代陸軍中将以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史が次のように書いています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」
    そして米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えました。

    20200520 アッツ桜
    画像出所=http://hhana.biz/photo.php?photo=920
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    小名木善行です。

    この時期この日、毎年お伝えしなければならない記事を書いています。
    それが「アッツ島」です。

    写真の花は「アッツ桜」です。
    ちょうど今頃の季節に咲く花です。
    この花の本当の名前は「ロードヒポキシス」です。
    原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原。
    太平洋の北の外れのベーリング海峡に浮かぶ、アッツ島ではありません。
    けれど日本だけは、なぜかこの花を「アッツ桜」と呼んでいます。

    カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々があります。
    北米に近い方の島々が「ラット諸島」、アジアに近い方の島々が「ニア諸島」です。
    ニア諸島の西のはずれ、つまりアジアに近い方にある大きな島がキスカ島で、それよりもうすこし西側、(アジア寄り)にある小さな島が、アッツ島です。
    北海道よりも、ずっとずっと北にある、とても寒い島です。

    78年前、そのアッツ島を守っていた日本軍守備隊2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いの末、全員玉砕されました。
    その報に接したとき、ある園芸店の店主が、アッツ島守備隊の方々の死を悼んで、この花に「アッツ桜」と名付けました。
    この花は、桜科の樹木植物ではありません。ユリ科の球根植物です。
    ひとつの球根から伸びた茎の先に、一輪の美しい花を咲かせます。

    アッツ桜と命名した園芸店主は、国を想い北の果てで散って行かれた島の守備隊の面々に、この花を捧げたかったのでしょう。
    同じ思いを共有した多くの日本人によって、この花はまたたく間に「アッツ桜」の名で日本中に広がり、いまも、この花は、花屋さんの店頭で「アッツ桜」として売られています。

    アッツの戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いです。
    日本軍がこの島に進出したのが昭和17(1942)年9月18日のことです。
    人数は、2,650名でした。
    目的は、この島に飛行場を建設するためでした。

    アッツ島は当時無人島でした。
    そして形式的には米国領でした。
    そしてこの島は、米国にとって、1812年の英米戦争以来の、初の外国軍によって米国領土が占領された事例となりました。

    そういうわけですから、米軍はたびたび建設途中のアッツ島に空襲を仕掛けてきました。
    そして昭和18年には、大艦隊を率いてこの島の奪還にやってきたのです。

    このときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)陸軍大佐(没後二階級特進で中将・以下陸軍中将で統一します)でした。
    陸軍中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった、昭和18(1943)年4月18日にアッツ島に赴任されました。
    それは、赴任時点で死ぬと決まった転任でした。
    念の為もうしあげますが、この人事はなんらかの報復人事とか、内部対立とかそういうものではありません。
    寡兵をもって米国の大艦隊と五分に戦うことができる男は、この時点で山崎保代陸軍中将しかいなかったのです。


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  • ものすごくわかりやすくDSと世界の歴史を俯瞰する(3)大航海時代


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    20210528 大航海時代
    画像出所=https://sekainorekisi.com/world_history/%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%83%8C%E6%99%AF/
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    小名木善行です。

    ペストによってモンゴル帝国が崩壊したとき、帝国が裏付けた通貨である交鈔(こうしょう)が価値を失いました。
    そしてこのとき、日本から金《GOLD》を大量に輸入し所持していた中東商人のオスマン家が、次の時代の主役となりました。
    オスマンは、地中海交易の利権を独占し、地中海で行われるあらゆる商船取引から、徹底的に税を取り立てました。
    結果、地中海交易は「儲からなく」なりました。

    地中海の端にあるスペインとポルトガルは、そこでオスマンに支配された地中海交易から抜け出して、新大陸に富を求めました。
    彼らはオスマン家の貯蓄財産を保有している、かつての石屋さんたち(メイソン《石屋》、ロック(石)のフェラー(一家)さんたち)に金《GOLD》を出してもらい、その金《GOLD》を元手に外洋船を造り、船長を雇い、船長は船員を集めて、アフリカへ、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸へと向かいました。
    元手はタダではありません。一定期間後には、全額返さなければならない。
    ですから彼らは、ありとあらゆる方法を用いて、船の行き着いた先から富を持ち帰りました。

    こうして大航海時代が始まりました。
    この時代を描いた映画などを見ると、航海する船の中に、船長ではないのに、船長よりも威張っている人が、必ず乗船していることにお気づきいただけるものと思います。
    それが投資家から付けられた、いわば付け馬にあたる人で、彼らは船長がカネを持ち逃げしないか監督し、また状況を本国にいる投資家の親分に逐一報告することを仕事にしていました。
    そしてこの仕組は、実は現代の株式会社の仕組みになっています。

    日本の学校では、株式会社は、企業が資金調達するときに、その資金を小口に分散した株にして、多くの人たちから資金を調達する仕組みであると教えます。
    基本はそのとおりです。しかし欧米の企業の場合は、その前にちょっとした仕組みがあります。


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  • ある中学三年生の手記


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    第83回 倭塾 5月23日(日)13:30より開催
    https://www.facebook.com/events/535392340770225


    自衛隊は警察と同じで、法によって定められた立法府、行政、司法の枠内で動かなければなりません。
    軍は、軍の内部に立法、行政、司法を保有した、独立した機構です。
    だから軍は、国法が機能しない状態でも活動ができるのです。
    大規模天然災害の多い日本こそ、こうした機構の存在は不可欠です。

    満州国の新京・吉野町の様子
    満州国の新京吉野町の様子



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    小名木善行です。

    ある中学三年生の手記をご紹介します。
    昭和20年のものを、現代語に直したものです。
    出典並びに私の感想は、末尾に書いています。

    =========
    ある中学生の手記
    山崎満男(仮名)

    僕ら日本人の一団は、吉林省の平安屯で、ひとつの団体を作りました。
    ロシア軍が不意に国境を越えて満洲国に侵入したとき、吉林省内の各地に散らばって開拓の仕事をしていた人たちは、何一つ持つこともなく、着の身着のままで吉林に向かいました。
    でも吉林もロシア軍が侵入してきて、無茶苦茶なことをしていたので、平安屯に集まった人たちでひとつの団体を作って、新京に逃れることにしたのです。

    この新京に到着するまでの出来事を思い出すと、いろいろのことが山のようにあります。
    その出来事というのは、ロシア人と満人から日本人である僕らがいじめられたということです。

    ロシア人にとって、日本人というのは虫けら以下でした。
    あの当時、ロシア兵は日本人を殺そうが、焼いて食おうが、自由気ままにできました。

    平安屯から新京までの間でも、ずいぶん痛めつけられました。
    ようやく新京に着いたので、これで安心と思ったのは、日本人のヌカ喜びでした。
    ロシア兵と満人が、田舎から出てきた僕らに対し、虫けらでも殺すのと同じように殺したり、傷つけたり平気でした。
    道をひとりで歩けませんから、二、三人で歩いていると、不穏の動きがあると言ってロシア兵から取り締まられました。

    ロシア兵に見つかって逃げると、すぐパーンと銃で撃たれました。
    それで日本人が死んでも、それは全く日本人が悪いのだというのです。
    何をしても日本人の言うことは通用しないし、いじめることではロシア人ほど上手な奴はいないでしょう。
    あれは、人間ではなくて、鬼か蛇のようなケモノ達でした。

    結局、僕たちは新京にいてはいけないと、ロシア兵が言うのです。
    とうとう平安屯から一緒にきた日本人は、ハルピンに追いやられることになりました。

    さんざん苦労してハルピンに着いたのは、満洲では降った雪が来年まで溶けないと言われる11月の中ごろでした。
    そのハルピンも、僕たちにとっては永住の地ではありませんでした。
    もちろん僕たちも戦争に負けた日本人のひとりだから、そんなに楽な生活をしようとは思ってなかったのです。
    しかしロシア軍が、日本の強い兵隊がいたときに満洲に攻めてきて、強い日本軍と戦争して勝って満洲国に入ってきたのだったら仕方がないとあきらめるけれど、ロシア軍というのは卑怯な奴だから、強い日本軍がほとんどいなくなったすきに、コソ泥のように満洲に入ってきて、日本人である僕たちをいじめるのだから、腹が立って仕方なかったのです。




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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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