• 道のため、人のため


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    白か黒かの二者択一論では、こうした人材は生まれないし、ただ対立が深まるだけです。
    日本的な考え方ではそうはなりません。
    学ぶべきものは学び、いまこの瞬間にできることのために、学び考え行動し、最善の解を得る。
    何のためかといえば「道のため、人のため」です。
    大村藩の偉業の原因がここにあるし、西郷隆盛の信頼や勝海舟の行動の原点もそこにあります。


    20211209 無血開城
    画像出所=https://www.rekishoku.jp/ja/story/70
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    JR田町駅を降りるとすぐのところに、
    ~~~~~~~~~~
    江戸開城
    西郷南洲
    勝海舟
    会見之地
    ~~~~~~~~~~
    と書かれた石碑が建っています。
    場所は、東京都港区芝5-33-1です。

    ここは、その昔、薩摩藩邸があったところです。
    ここで勝海舟と西郷隆盛が対談し、江戸城の無血開城が決められました。
    このときの模様が勝海舟の「氷川清話」の中にあります。

    ~~~~~~~~~~
    おれは今日までに、まだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。
    どうしても西郷は大きい。
    妙なところで隠れたりなどして、いっこう、その奥行がしれない。
    厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。

    西郷はどうも人にわからないところがあったよ。
    大きな人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。
    西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。

    あの時の談判は実に骨だったよ。
    官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。

    その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる。
    板橋からは伊地知(正治)などがくる。
    また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。
    しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 

    さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

    「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」
    この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

    もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。
    万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。

    しかし西郷はそんな野暮はいわない。
    その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。

    このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ。
    その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。

    西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。
    おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。
    おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。

    このときに際して小籌浅略を事とするのは、かえってこの人のために、はらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ。
    ~~~~~~~~~~~~

    勝は、西郷を褒め称えていますが、その西郷の器の大きさを感じ取ることができた勝も、同様に器の大きな男だと思います。
    そういえば近年、勝海舟は、いわばスパイのような悪辣な存在であったといったことがしきりに吹聴されているのだそうです。
    勝海舟だけでなく、坂本龍馬も同じです。

    歴史上の人物というのは、どんな人であっても、人間ですから、良い面、悪い面があります。
    そのどちらもあるから人間なのです。
    間違いのない、「私、失敗しないので」と豪語できるような人というのは、ただ傲慢なだけで、実社会では、むしろ失敗ばかりしているのが人間というものではないかと思います。

    勝海舟も、坂本龍馬も、偉大な業績を残した人物です。
    けれど、偉大な業績というものは、常に功罪表裏一体です。
    後世の人は、そのどこを見るかではないかと思います。

    私は「歴史は学ぶためにある」というのが持論です。
    良い面、悪い面、いずれもが、私たちにとっての学びです。

    勝海舟も、その闊達な気性と歯に衣着せぬものの言い方から、あるいは旧幕臣でありながら維新後に明治政府の高官になったりしたことから、たいそう嫌う人も多かったのです。

    福沢諭吉など、勝を嫌った代表格です。
    諭吉は勝と一緒に咸臨丸で渡米した経験、すなわち幕府の巨費を投じて育成された人材です。
    けれど福沢諭吉は、明治政府には相手にされませんでした。
    一方、勝は、旧幕臣でありながら、明治政府から厚遇を得ました。
    そんな勝に、諭吉は我慢しきれなかったのでしょうね。
    「やせ我慢の説」という論文を公表し、これに対して公式にきちんとした回答をせよ、と勝に迫っています

    このときの勝海舟の返事がふるっています。
    長たらしい釈明をせず、たった3行で回答したのです。

    「行蔵は我に存す。
     毀誉は他人の主張。
     我に与らず」

    行いは自分ですることであり、批評は他人がすることだ。
    他人の批判なんて、俺には知ったこっちゃねえよ、というわけです。

    このとき、福沢のした勝批判は、要するにお前は徳川幕府派なのか明治新政府派なのか、あるいは佐幕か尊皇か、開国か攘夷か等々という、二者択一の二元論です。
    簡単に言ったら「白か黒か」と迫ったわけで、この場合、グレーであっても白か黒かどちらかに分類しなければならない。

    けれども、グレーはグレーです。
    白でもなきゃ、黒でもない。
    となると、白と答えればウソになるし、黒と答えてもウソになる。
    こうして論理の破綻をさそって相手の信用を貶める。
    ヘンに小利口な者がよくやる手口です。

    ちなみに、ボクは福沢諭吉の悪口をここで言おうとしているのではありません。
    歴史上のどんな人でも、いい面もあれば、コケたり失敗したりする面もある。
    生身の人間が「生きる」ということは、そういうことだろうと思うのです。
    だからいい面だけを掘り起こせば、美談になるし、コケたり失敗したりした部分だけをことさらに取り出せば、また違った物語になります。

    ただいえることは、いい面も悪い面も、あって当然なのが人間なのであって、後世の私たちに必要なことは、そういう事実から歴史上の人物を「評価」することではなくて、私たち自身が「いま」と、そして「これから」を生きるにあたって、何を「学ぶ」かであると思うのです。
    「評価」は傲慢です。
    「学び」は、知性を啓(ひら)きます。

    勝海舟と、福沢諭吉の最大の違いは、福沢諭吉がどこまでも身分や封建制や主君という概念の中で物事を把握し判断しようとしたのに対し、勝には常に「世界の中で日本が生き残る道」という思考があったことです。

    欧米列強が東亜の植民地化を推進しようとして虎視眈々と狙っている状況下にあって、いまさら主君も藩もない。
    俺が仕えているのは日本だぜ、というのが勝の立ち位置です。
    そういう視点からみたら、佐幕か勤王かという二者択一論は、狭量な井の中の蛙論になってしまうのです。

    白でも黒でもいい。
    大事なことは日本を守ることです。

    さて、西郷南洲と勝海舟の会見ですが、この席に西郷に指名されて同席し、会見の模様を世に伝えたのが、大村藩の渡辺清左衛門(後に改名して渡辺清=わたなべきよし)です。

    渡辺清
    渡辺清


    戊辰戦争というと、なにやら薩長土肥しか幕府側と戦ってなかったように戦後の歴史教科書は教えるけれど、実際には、薩長土肥以外にも、鳥取藩、大垣藩、佐土原藩、佐賀藩などが大活躍しています。

    なかでも凄みのあったのがを見せたのが長崎県大村市にある玖島城(くしまじょう)を藩庁に持つ大村藩で、この藩は、藩の石高でみると、わずか2万7000石です。

    ちなみに、薩摩が73万石、長州が36万石、土佐24万石、鳥取32万石、佐賀35万石といった規模です。

    だいたい1万石で、兵を250人養えるといいますから、兵力でいえば、
    薩摩 18000人
    長州  9000人
    佐賀  9000人
    鳥取  8000人
    土佐  6000人
    の規模です。

    これに対して、大村藩は700名弱の兵力でし。
    にもかかわらず、戊辰戦争の恩賞では、薩長土に続く、4番目に高い褒章を得ています。
    それだけすさまじい活躍をみせたのが大村藩だったわけです。

    大村藩というのは、戦国時代から長崎に続く名家で、石高こそ小さいけれど南蛮貿易を通じて豊かな経済力を誇っていた大名です。

    ところが日本が鎖国するに至って、南蛮貿易の利権を奪われ、米財政だけとなった。
    当然財政は厳しくなったけれど、もっぱら幕府に対して恭順の意を呈し、長崎奉行などの要職を得るようにもなっています。

    そんな経緯から、もともと国際情勢に強い大村藩です。
    幕末の頃は、藩論が佐幕派と尊皇派に藩論が二分されたけれど、尊王派の盟主が暗殺された事件をきっかけに、一気に尊皇倒幕へと藩の意思が統一されました。
    徳川がどうのとか、諸藩がどうのとか言っているときではない。
    日本は、ひとつの国となっていかなければ、国家そのものが蹂躙されてしまうというのです。

    ときの大村藩主である大村純熈の写真が現代に残っています。
    下の写真です。この写真がおもしろい。
    戦装束に、特別に大きくあつらえた日の丸の扇子を持っています。

    日の丸というのは日本という国家の象徴です。
    我こそは統一日本を築く先駈けとならん、という大村純熈の意思を、写真は明確に物語っているのです。

    大村藩第11代藩主大村純熈
    大村藩第11代藩主大村純熈


    大村純熈は、藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、藩士編成による倒幕部隊を編成させました。
    そうはいっても、大村藩はわずか2万7000石。
    兵力は乏しい。

    ところが渡辺清は、逆に少数であることを活かして、圧倒的な火力を持った少数精鋭の火力軍団を形成しました。
    組員は、銃撃二個小隊と、大砲隊、あわせて100名です。

    隊の名前は「新精組」です。
    「精」の一字に、精密射撃を旨とする新しいタイプの戦闘部隊であるという志をあらわしました。

    新精組の隊旗
    新精隊旗


    そして、刀剣中心の幕軍に対して、銃撃や大砲など、圧倒的火力を持つ新精組は、強力な力を発揮します。
    寡兵ながら桑名城を落とし、赤報隊を逮捕し、三月初めには官軍の先鋒として箱根を無血占領しています。
    こうした経緯から、渡辺清が、西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に大村藩を代表して立ち会っています。

    このすぐ後に、渡辺清は、上野山で彰義隊と戦い、さらには奥州方面の戦いにも参戦し、戊辰戦争後は、江戸(東京市)の警備に就いています。

    ここが今日、言いたいところです。
    当時の大村藩の実力は、遠征部隊としては100名の軍団がやっとでした。
    その軍団が遠隔地に出征するとなれば、兵站部門(補給部隊)を編成しなければなないし、藩そのものの警備兵も必要です。
    つまり藩としては700名の兵力があるけれど、遠征部隊として出征できるのは、100名がやっとだったのです。

    ようするに、大村藩は、たった100名で、公称旗本八万騎と呼ばれる徳川幕府に敢然と戦いを挑んだわけです。
    これは、普通の常識で考えたら、あり得ない選択です。

    しかしそれでも彼らは立ち上がりました。
    視野を世界に広げ、日本国内での戦い方ではなく、洋式の機動部隊の戦い方を習得し、圧倒的な火力を整え、いまだ中世的な刀槍や弓矢による戦いにこだわる幕軍に対して、徹底した雷撃隊で挑んだのです。

    そして彼らの志は日本という国家の樹立そのものです。
    小さな白か黒かといった二元論ではなく、もっと大きな視野で日本を考えようとした。
    それは、長崎を拓いた大村藩ならではの活躍であったといえるのかもしれません。

    ちなみにもっと付け加えると、新精組隊長であった渡辺清の実の弟に、渡辺昇がいます。
    渡辺昇は、剣を、斎藤弥九郎の錬兵館に学びました。
    練兵館といえば、神道無念流です。
    この道場があった場所が、いま靖国神社になっています。
    そして、このころの塾頭が長州の桂小五郎です。
    渡辺昇は、小五郎の次の塾頭です。

    昇も幕末の志士として大活躍しています。
    剣を通じて得た人脈で、長崎で坂本龍馬に頼まれ、長州藩に薩摩との同盟を働きかけ、こうしてうまれたのが薩長同盟です。
    これまた白か黒かという小さな二元論ではなく、広く世界を見据えて行動するという大村藩士らしい行動です。

    もうひとつ申し上げます。
    その大村藩から、昭和になって中村松雄が出ています。
    支那事変当時、上海にいた中村松雄は、上海にいたユダヤ人の一団を、米国へ逃がしています。

    ユダヤ人たちは、ドイツのナチス親衛隊から追われていたのです。
    ほっておけば彼ら全員が殺害されると知った中村松雄は、彼らユダヤ人の避難先として、米国を選択しました。

    この頃の米国は、蒋介石を後方支援しており、日本とはあからさまな敵対関係にあります。
    ドイツとは、同盟関係です。

    にもかかわらず、中村松雄は、アメリカに話をつけて、ユダヤ人の亡命を確保し、受け入れを実現させただけでなく、三菱商事に話をつけて、無償で米国までの船を出させています。

    これも、戦時同盟云々よりももっと幅広い人道を優先しようと考える大村出身者ならではの発想であったといえるかもしれません。

    偏狭な視野や、建て前論に惑わされず、常に広い視野をもって必要なことを自分の頭で考えて、実行する。

    いま、日本を亡国から救えるのは、日本を守ろうという意識をもった幅広い層の結集にあります。
    すくなくとも、同じ志を持つもの同士で、白か黒かとやっているときではない。
    そのように思います。

    さて、幕末に新精組を編成して幕軍と対峙した渡辺清ですが、その渡辺清の長女が石井筆子です。
    石井筆子は、明治の鹿鳴館時代を代表する美人であり、かつ、明治の女性教育の向上を目指した先駆者であり、知的障害者の福祉と教育を整備した偉大な女性です。

    白か黒かの二者択一論では、こうした人材は生まれないし、ただ対立が深まるだけです。
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    ※この記事は2010年の当ブログの記事のリニューアルです。

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    人は魂の乗り物です。
    人の道を外れた行動を取れば、それは魂の傷になります。
    それは来世にまで祟ります。
    世界最長の漂流を続けた小栗重吉が、人であることを保ち続けることができたのは、そうした魂観念をしっかりと持っていたからです。
    これが日本人の根幹のひとつです。
    日本の根幹にあるのは、神と天皇と魂です。


    201911113 メデューズ号の筏
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E5%8F%B7%E3%81%AE%E7%AD%8F
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    小名木善行です。

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    上にある絵は、メデューズ号の筏(いかだ)といういう絵です。
    フランスロマン主義派の画家テオドール・ジェリコーの油絵で、パリのルーブル美術館に所蔵されています。
    写真をご覧になられた方も多いのではないかと思います。

    メデューズ号というのは、フランス海軍の小型戦艦です。
    40門の大砲を装備し、ナポレオン戦争でも活躍しました。
    この船が、文化13(1816)年、フランスから西アフリカのセネガルに向かう途中、操船を誤ってアルガン岩礁に乗り上げて座礁しました。
    このときメデューズ号には397人の乗員が乗っていたけれど、手持ちの救命ボートは6隻しかない。
    収容能力は250人です。

    そこで救命ボートに乗れない残り147人(男性146人、女性1人)について、船内の木材を使って筏(いかだ)を作り、これを救命ボートで曳航することにしました。
    海岸までは50キロです。

    ところが折からの強風のため、曳航用のロープが切れ、筏(いかだ)が漂流してしまう。
    そもそも曳航用に急造した筏(いかだ)です。
    筏(いかだ)には食料も水も、救援物資はほとんど積まれず、操舵や航海のための手段もありません。

    漂流を始めた筏(いかだ)では、まず士官と乗客、水兵と陸兵の間で争いが起こりました。
    そして漂流が始まった最初の夜の内に、20人が殺されてしまいます。

    さらに何十人もが、比較的安全度の高い筏(いかだ)の中央部の席を争って死に、3日目には筏(いかだ)上の生存者は、わずか67人に減ってしまいました。
    食料がないことから人肉食を行う者が出始め、肉を食べて力をつけた者が、弱ったり傷ついた者を海中に投じたため、漂流8日目までに52名が死亡してしまう。

    漂流9日目に偶然遭遇したアルギュスに救出されたのは、わずか15人だけでした・・・というのがメデューズ号遭難事件のあらましです。
    洋上での漂流というのは、かくも厳しいものなのです。

    さて、そうした漂流事件で、過去最長の漂流日数を記録しているのは、どこの国でしょうか。
    実は、それが日本です。

    事件はメデューサ号遭難事件の3年前、文化10(1813)年に起こりました。
    尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船「督乗丸(とくじょうまる)」(約120トン)が乗組員14人を乗せて江戸からの帰還途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれて遭難してしまったのです。

    舵を破損した督乗丸は、海流に乗って太平洋を漂流し、文化12(1815)年に、米国カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上で英国船に救助されるまで、なんと484日間にわたって漂流しました。
    生存者は、船頭の小栗重吉以下、音吉、半兵衛の3名だけでした。

    3名は、ベーリング海峡を経て択捉島(えとろふ)島に護送されました。
    途中、文化13年6月に半兵衛が病死し、最後に残った小栗重吉と音吉の2名が、同年9月に松前に到着。
    江戸での取り調べのあと、文化14(1817)年4月に身柄を尾張藩に移され、5月にようやく故郷の土を踏みました。

    文政5(1822)年、生き延びた船頭の小栗重吉から、国学者の池田寛親が漂流のいきさつと経緯を詳しく聞きとり、これを『船長日記(ふなおさにっき)』という本にまとめて出版しました。
    おかげで漂流の詳細な情況が、いまに残されたのです。

    そこで漂流の模様を元本田技研工業の仲村孝さんの講演録から、以下にご紹介します。

    ~~~~~~~~~~
    記録によると督乗丸は、海難にあった時点で米を6俵と、大量の大豆を積んでいた。
    当初、乗員14人でしたが、遭難時に1人が転落事故で死亡。
    漂流したのは13人です。
    漂流が始まって13日目には、船長の重吉は長期の漂流を覚悟したそうです。
    その理由は、「もう八丈島が見えない」だそうで、以後彼は大変なリーダーシップを発揮し、食糧の食べ方など諸々の指示を仲間に与えます。

    重吉は万年暦というものを持っていて、その暦に基づいて日々の出来事を書き付けていたようです。
    86日目に米が尽きる。
    魚を釣る話も出てきますがなかなか釣れなかったようです。
    150日目には起き上がれない人が相当出てきた。懐血病のようで寝たきりになり起き上がれない。

    212日目に初の死者が出ます。
    ここから350日までの間に10人が立て続けに死亡。
    残ったのは3人でした。

    350日目、この時に3人のうち2人が死体遺棄の提案をします。
    要は10人の死体をこのまま置いておくのは如何なものか、
    船を守っている神様が悪臭を放つ死体を嫌っているのではないか、
    しかるが故に陸に辿り着けないのではないか、
    船霊の怒りを鎮めるために死体は捨てるべきだ、と主張したのです。

    当時「船霊」といって、右舷に3種の船霊が収められていたそうです。
    1つは女性の髪の毛です。
    この時は船主の奥さんの髪の毛。
    それから双六(すごろく)のサイコロが2つ。
    そして1対の紙で作ったお雛様(ひなさま)。
    この3つが船霊だそうです。

    これに対し船長の重吉は逆に竜宮の神の怒りを心配します。
    つまり「死体を海に捨てるのは簡単だ。ただ捨てることで海底の海神様が怒るのではないか、それで海が荒れたら船は沈んでしまう」ということです。

    悩んだ船長はおみくじに頼りました。
    丁か半かということで、おみくじを引くと「捨てろ」とでる。

    こうして3人は10人の死体を海に捨てたそうです。
    その時の描写にはこう書いてあります。
    「死体を触るとぼろぼろと崩れ落ちる。
     土を運ぶがごとく手にすくって、
     その死体を海に入れた」
    「ぼろぼろと」とか「土を運ぶがごとく」という表現が印象的です。

    話が前後しますが重吉は、
    「おみくじで棄てろというなら仕方あるまい。
     ただ1ヶ月待ってくれ。
     その間、自分の夢枕に
     この死んだ者が《捨てないでくれ》と
     語りかけてきたら中止しよう」
    と言ったそうです。
    それで1ヶ月延期したのですが、誰も夢枕には出てこなかったということで捨てたそうです。

    それ以降2ケ月強、天候が悪化、サメが出たり、今まで釣れていた魚が釣れなくなったとか、3人のうち船長を除く2人が体調不良となり、元気なのは重吉だけとなったそうです。
    それから3か月あまり更に漂流が続き、重吉までもが身体が弱り、万事に悲観的になり落胆してしまう。

    もうおみくじを引く意欲も無くなるのですが、440日目に意を決して、もう1回引きます。
    その時の状況は、簡単に言えばカードを3枚用意し1と3を引いたら自殺する、2を選んだらまた生きようと考えたそうです。
    そしで選んだのが2番だった。
    そこで、「しからばいつ頃陸地に巡りあえるのだ」と更におみくじを引く。
    回答は「今から1~2ヶ月後」。それで元気回復、頑張るわけです。

    さきに概要で述べたようにその一カ月半後の484日目、サンタバーバラの沖合まで漂流した督乗丸は英船に救助され3人は露船に移乗、2人が約3年半ぶりで日本に帰った訳です。

    重吉の統率力、グループの意欲を高める力は大変なものがありました。
    例えば、皆に念仏を唱えさせたという話があります。
    念仏を唱えない奴には食料を与えないと宣言までしています。

    面白いのは船内で「好きなだけバクチをやれ」と、なかば強制的にバクチをやらせていることです。
    重吉はその時30歳を少し越したくらいの年齢でした。
    自分より若い仲間が死んでいく中、自分だけは生きて帰るという思いが特別強かったようです。

    それも自分の個人的な為でなく、
    「なんといっても供養塔を建てる、
     建てるまで俺は死ねない」
    という堅い信念のもとで彼は生活したようです。
    そうした信念あればこそ生き延びられたのだと思います。

    彼は実際に日本に戻って供養塔を建てます。
    それは現在、名古屋市熱田区のお寺に残っています。
    ただ建設資金には苦労したようで、資金集めに熱田神宮などで参詣人相手に見料を徴収しています。

    484日の漂流、プラス英・露の船での航海という世にも珍しい体験を語り、米露で集めた39品目を展示、さらには約340語の和露単語集も販売したそうです。
    ~~~~~~~~~~~

    メデュース号遭難事件にあるように、海難事故による遭難というものは、その日のうちには殺し合いが始まり、わずか3日目には食人が、そしてわずか9日間の漂流ですら400人中385人が死亡するという一種の極限状態です。
    その極限状態にあって、人としての気概を失わず、人類史上最長の漂流生活を耐え抜いたのは、他でもない日本人です。

    船頭の重吉も立派なら、音吉を含め、お亡くなりになったひとりひとりの船員たちも、皆、立派でした。
    そしてこんなところにも、共に生きようとする日本人の共生の文化がにじみます。

    さらに重吉は、亡くなった仲間に対し
    「なんといっても供養塔を建てる、
     建てるまで俺は死ねない」
    と固く心に誓い、神仏の加護を信じて疑いませんでした。

    これが日本人です。
    そしてその日本人としての血を、我々こんにちを生きる多くの日本人は、ちゃんと受け継いでいます。

    ちなみに共産主義思想は、その神仏を先ず否定します。
    神仏とか宗教とかいうものはいかがわしいものであり、ダーウインの進化論にあるように人類は常に進化するものであり、その進化の果てにあるのが理想的共産主義社会であるユートピアであると説くからです。
    しかし、そのユートピアなる社会が、どのような社会システムを持ち、どのように犯罪に対処し、どのように行政が行われ、どのように災害対策がなされるのか等といった具体的な姿は一切描かれません。
    それはそれぞれの人の思いでしかないわけです。
    しかも、過去は常に遅れた存在であると主張する共産主義者が、「いまどきの若い者は」などと言い出す始末ですから、お笑いです。

    かようにいい加減なものを、主義と称すること自体、馬鹿げているのですが、人は馬鹿げているものに夢中になるという特性があります。
    馬鹿げているから、最後は有無を言わさぬ感情で解決するしかなく、だから共産主義は虐殺主義に至ります。

    一方、西洋において、宗教がありながら漂流が常に悲惨を伴ったことにも理由があります。
    肉体を持っていて神との契約がある者のみが人だからです。
    そして人の肉体は復活の日に備えます。
    つまり肉体の保持が大事になります。
    死んで海の藻屑となり、埋葬されないのならば、その日に復活できないのです。
    だから何が何でも、自分だけは生き残ろうとします。

    東洋社会においては、チャイナの場合、人は食べ物であり、生きている間だけが人ですから、生き残るためには人を食べます。

    これに対し日本では、人は魂の乗り物です。
    人の道を外れた行動を取れば、それは魂の傷になります。
    それは来世にまで祟ります。
    世界最長の漂流を続けた小栗重吉が、人であることを保ち続けることができたのは、そうした魂観念をしっかりと持っていたからです。
    これが日本人の根幹のひとつです。
    日本の根幹にあるのは、神と天皇と魂です。


    ※この記事は2010年11月の記事のリニューアルです。

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    20181104 鳥浜貝塚の漆の木
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    上にあるのは、福井県若狭町の鳥浜貝塚から昭和59(1984)年に出土していた漆の木の枝です。
    2011年10月13日、この枝が約1万2600年前のものであることが、東北大の鈴木三男教授(植物学)ら研究グループの調査で分かりました。
    1万2600年前といえば、縄文時代草創期です。

    縄文時代というのは、いまからおよそ1万7千年前から3前年前までの1万4千年という、途方もなく長い歳月の時代です。
    あまりにも長いので、縄文時代内に時代区分があって、それは次の6つの時代に分けられています。
    1 草創期  約1万5,000 - 1万2,000年前
    2 早期 約1万2,000 - 7,000年前
    3 前期 約7,000 - 5,500年前
    4 中期 約5,500 - 4,500年前
    5 後期 約4,500 - 3,300年前
    6 晩期 約3,300 - 2,800年前

    もうすこし詳しく述べると、人が道具として自然石を使っていたのが旧石器時代。
    石を割ったり削ったりして加工して道具に使っていたのが新石器時代。
    日本ではこの新石器時代は、およそ三万年前からスタートしています。
    世界史的には新石器時代の次が青銅器時代、鉄器時代と続き、ここまでをまとめて先史時代といいます。

    要するに世界的には先史時代に縄文時代という分類はないのですが、ところが日本では、その先史時代にきわめて造形的な土器が出土するわけです。
    そこで世界史の中にある新石器時代の中に、もうひとつの時代区分として縄文時代を置いています。

    縄文時代とか弥生時代といった時代区分を提唱したのは、明治に来日した米国の動物学者のエドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)で、1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器に「Cord Marked Pottery」 と命名して報告したことが由来です。
    「Cord Marked Pottery」は、直訳したら「何らかのコードがマークされた陶器」ですが、同時代の植物学者であった矢田部良吉博士がこれを「索紋土器」(さくもんどき)と訳し、後に同じく植物学者の白井光太郎博士が「縄紋土器」と名を改め、これがまわりまわって「縄文土器」と表記されるようになったものです。

    けれども縄文時代という時代区分は、戦前には使われていませんでした。
    明治時代から終戦にかけての旧学制は皇国史観で、先史時代の日本は神々の時代ですから、縄文式土器とか弥生式土器という言葉はありましたが、それが時代区分として用いられることはなかったのです。

    ところが終戦を迎え、GHQによる占領統治が終わって日本が主権を回復したとき、日本はそれまでGHQによって禁止されていた歴史教育を復活させるのですが、プレスコードがあって学校教育の中で公然と国史の教育ができない。
    国史も、ですから社会科という社会科学(政治学、毛英英学、法学、経済学、社会思想学、歴史学、地理学、言語学等々)を扱う分野のなかのひとつとして、世界史を学び、そのなかで日本史をも学ぶという形のものに置き換えられました。
    ですから日本史は、あくまで世界史の中のひとつであり、それは英国史、米国史、中国史、韓国史などと同等の扱いとしてのみ、教育することが許されたわけです。

    本来、国史というのは、それぞれの国の子供達が、自国に愛情を持ち、国民としてのアイデンディディを育成するとともに、過去の歴史の一当事者となって思考し考えることによって、現代を生き抜き、未来を拓くための知性を磨くための教育分野です。
    けれど、その国史教育が否定されているわけですから、復活するに際しては、あくまでも世界の諸国の歴史を学ぶのと同等の、いつ誰によって何があったかといった事実だけを単に詰め込む教育という形で、ようやく歴史教育が復活したわけです。
    そしてそのために名称も、社会科の中のひとつの分野の日本史と変更されました。

    ここで困ったのが、教科書に我が国の先史時代をどのように記述するかです。
    そこで神話の時代、神々の時代を、あらためて考古学的な見地に立った時代区分が求められるようになりました。
    こうして、明治時代の初頭に名付けられた縄文式土器、弥生式土器の名称が復活し、それぞれ縄文時代、弥生時代と命名されるに至ったわけです。

    要するに優秀な日本人を育てないための方法として、この縄文、弥生の用語が新たに時代区分として復活したわけです。
    ここでおもしろいことが起こりました。
    もともと皇国史観では、紀元前660年の神武天皇による建国以前の時代は、神々の時代としての認識です。
    従って祖代(古代よりも前の時代)は神々の時代ですから、その時代を人々の営みという形で捉えることはタブー視されていたのです。
    ところが戦後にそのタブーが取り払われて、祖代に土器の時代があったとされたことで、古い時代の遺跡からの考古学上の発見に俄然、熱が入るようになったのです。

    このため戦後には、次々と新しい発見が相次ぐようになりました。
    そして戦前まではせいぜいさかのぼっても4〜5千年くらいだろうとされていた日本列島での人々の営みが、なんと12万年前までさかのぼることが証明され、また縄文式土器の時代も、青森県の大平山元1遺跡の発見によって1万6500年前にさかのぼることが確認され、さらに漆もトップの鳥浜貝塚の発見によって1万2600年前にさかのぼることがわかるようになったのです。

    なんでもかんでも戦前が良くて、戦後は悪いという思想に共鳴できないのは、こうしたこともひとつの理由です。
    ひとつの思想に凝り固まると、とかく「ゆがみ(歪み)」が生じやすいものです。
    だから「学問は常に自由であるべき」と思うのです。
    そして学問というものは、その根幹に常に合理性、必然性、論理性を持つものです。
    どこぞの国の歴史観のようなファンタジーにはその3つがありません。
    ないということは、その史観は学問ではないということです。
    学問ではないからファンタジーなのです。

    戦後の日本は、東京裁判史観と共産主義史観によって思想的政治的に歴史認識に歪が生じ、戦後に近隣諸国条項によって、China史観やKorea史観によってあらためて大きな学問のゆがみを生じさせました。
    しかし、では明治から終戦までの日本の史観がすべて正しいのかというと、正しい正しくないよりも、冷静な学問的追求に政治的思想的に制限が生じていたという問題をはらんでいたといえます。
    では、江戸時代の学問はすべて自由であったのかというと、これまた幕藩体制の縛りがあり、たとえば蘭方医(いまの西洋医学)は、外科にしか活用してはいけないなどといった制限があったわけです。

    秩序維持に制限や制約は必要なことです。
    ですからそうした政治的思想的な制限や制約は、いつの時代にもあることです。
    天動説地動説の争いなどもその一例です。

    そういう意味で、過去がすべて良くて、いまがすべて良くないという思考にも問題があるし、逆にいまが一番良くて、過去はすべてよくないというのも、単に政治的思想的見解にすぎません。
    現在というのは、私達にとって現実です。
    その現実を少しでも良い方向に向かわせるために、過去の良いところから学び、現代の問題点を見つめ、現代の良いところと過去の良いところを組み合わせて、一歩でも二歩でも、良い未来を築いていく。
    そのためにあるのが学問なのだと思います。
    秩序のために、学問に思想的政治的制約を課すことは必要なことですが、過度にそれを行うことは人々の営む社会の未来を奪うことになりかねないのです。

    冒頭の漆の木片も、そうした経緯から発見され、研究されるようになったものです。
    長さ約20cmくらいの木の枝ですが、森林総合研究所(茨城県つくば市)での顕微鏡検査で2005年に漆と突き止められました。
    2011年には、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(通称:暦博)で放射性炭素による分析が行われ、それが1万2600年前のものであることが判明しています。

    実はこれはたいへんなことです。
    単に日本に漆の木が自生していたことがわかったというだけの話ではないからです。
    漆は、木を植えただけでは育ってくれないのです。
    下草を刈って、毎年毎年手入れをして、樹液の採取ができるようになるには、まる10年かかる木なのです。
    ですから漆の木が出土したということは、いまから1万2600年前に、そこに人々が定住し、集落を営んでいたというだけでなく、目的をもって長い歳月をかけて漆を栽培していたということになるのです。

    考古学者の中には、そのころの日本人(縄文人)は、まだ定住性がないから、漆は「栽培」したのではなく、「自生」していたにすぎない、と反対する人もいます。
    こういう学者は、あくまで漆はChinaから渡来したものと言いたいらしいのですが、検査の結果わかったことは、この漆の木片は、日本固有種であって渡来ものではない、ということです。

    さらにいうと、いまから9000年前の漆塗りの製品として、北海道函館市の垣ノ島B遺跡から、漆塗りの副葬品が発見されています。

    漆は長いことChinaから日本に渡来してきたものだと言われてきました。
    Chinaの浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡で発見された漆の椀は、いまから約7000年前のものと判明してます。
    同省の跨湖橋(ここきょう)遺跡で発見された漆塗りの木弓は、約8000年前のものとされています。
    けれど、なにせ白髭三千丈の国です。

    そもそも河姆渡(かぼと)遺跡というのは、いまから7000年から6500年前の遺跡で、漆椀の7000年前は納得できるとしても、漆塗りの木弓だけが8000年前のものだというのは、どうにも時点があいません。
    しかも年代測定の詳細が公表されていない。
    さらにいうと、Chinaの漆は、黒漆です。
    日本の漆は赤漆です。
    色がぜんぜん違う。

    その黒漆が、いつ頃日本にもたらされたのかには諸説あるようです。
    具体的な証拠としては、北海道の函館市の垣ノ島A遺跡で出土した注口土器があります。
    これは、いまから3200年ほど前のものですが、なんと黒漆を下塗りして、上から赤漆を塗って味わいを出しています。
    たいへんに美しい。

    注口土器
    注口土器


    ちなみいこの遺跡からは、「足形付き土器」というものも出土しています。
    これは亡くなった子供の足形を粘度版に型どったもので、多数のものが見つかっています。

    足形付き土器
    足形付き土器


    いまでは医療が発達し、子供が死ぬケースはごくまれになりました。
    けれどほんの100年くらい前まで、日本に限らず世界中どこでも、子供というのは、よく死ぬものだったのです。

    幕末に有名な大老、井伊直弼は、井伊家の14男です。
    14男が井伊家の跡継ぎとなったということは、長男から13番目の兄貴までが、みんな亡くなってしまったということです。
    昔は、それだけ子供が生き延びてオトナになるのは、たいへんなことだったのです。

    けれど産んだ親にしてみれば、亡くなった子も我が子です。
    年老いても、幾つになっても、絶対に忘れることはありません。
    ウチの死んだオヤジは、長男ですが、男4人兄弟です。
    けれど、オトナになるまで育つことができたのは、長男坊のオヤジと、末っ子の叔父貴だけでした。
    次男と三男は、やはり病気で子供の頃に亡くなりました。
    死んだ婆さん(オヤジの母)に、まだ子供だった頃のボクは、亡くなった二人の自慢話をよく聞かされたものです。

    昭和の時代でさえそうだったのです。
    ましていまから何千年も前の時代であればなおさらです。
    だからこそ親たちは、亡くなった子供の足形を粘度板にとって、大事に大事にしたのです。
    それが私たちの祖先の姿です。

    人は、おおむね25年で一世代が交代します。
    これは今も昔も変りがない。
    爺さんから、オヤジ、自分、そして子が大きくなって現役のオトナとなるまでが4代100年です。

    古事記が書かれてから、来年で1300年になります。
    ということは、古事記が書かれてから、まだたったの50世代です。
    今上陛下は125代。
    そして1万4000年続いた縄文時代は、560世代です。

    だいたい国民の特徴は、400年で外観や気質が固定すると言われています。
    日本文化は、世界の良心の「最後の砦」だと言った人がいました。
    日本がアメリカや、特アの国々に翻弄され続けているのは、戦後の日本人が、日本人としての価値観や国家観、誇りを失っているからだといわれています。

    いまこそ、私たち日本人は、世界最古の和の文明を開花させた誇りある民族であることの誇りと自覚を取り戻すべきときです。
    そして日本が、再び太陽を登らせるとき、世界は本当に目覚めることができるのではないか。
    そんな気がします。

    もうひとつ。
    垣ノ島B遺跡から出土した漆器は、なんといまから9000年前のものでした。
    ところが非常に偶然、この遺跡は2002年12月28日の深夜に火災にあっています。
    そして8万点にも及ぶ出土文化財や、写真や図面がまる焼になりました。

    幸い、関係者の必死の努力で、漆塗りの製品の形の認識や繊維状の痕跡がはっきりと視認できる部分は焼失を免れたのですが、Chinaよりも古い漆器が出土したことが確認された途端、その遺跡が不審火によって火事に遭っているというのは、なんとも不思議な話です。

    そして漆器は、なぜかChinaのものが古く、日本はそれを輸入したという説ばかりが、妙に垂れ流されています。
    稲作と同じです。
    現実に遺跡の年代測定をしてみれば、明らかに日本の水稲栽培の方が古いのに、なぜかいまだにそのことはあまり公にされません。

    それどころが世界最古といって良い、日本の縄文時代の遺跡群は、学会において決して「縄文文明」とは呼ばれることはありません。
    ところがChinaの長江流域の河姆渡遺跡などは、「長江文明」と、なぜか「文明」として発表されています。
    そういう点もまた、なにやらキナ臭いところです。
    逆に言えば、日本人が日本文明の文化意識、国家意識に目覚め、日本人としての普遍的な歴史認識を取り戻すことが、いかに彼ら特アの工作員さんたちにとって、脅威であるかということです。

    いくらガリレオを否定しても、天動説が正しかったように、日本をいくら否定し、日本人からいくら歴史観を奪っても、ひとたび東日本大震災のような大事が起これば、実に整然とした日本人の美質が、自然と発揮されてしまう。
    これはもう、縄文時代から培われた、日本人のDNAのなせる業としか言いようがありません。
    あとは、日本が、しっかりとした歴史認識を取り戻すこと。

    日本人が、日本人としての誇りを取り戻すことは、世界の良心を目覚めさせることだと思います。


    ※この記事は2011年11月の記事のリニューアルです。

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    第96回 倭塾は、本日令和4年11月20日(日)13:30開講です。場所はいつもと異なり、JR新宿駅新南口近くの会場になります。映画『めぐみへの誓い』を製作した野伏翔監督の講話もあります。終了後、懇親会もあります。会場の都合で今回のみ事前申込が必要です。詳細は↓で。
    https://nezu3344.com/blog-entry-5408.html
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    このお話は、CGSで神谷宗幣さんとの偉人伝シリーズの対談でお話したのですが、聞いた神谷さんが泣いてしまいました。日々、様々な重圧のもとで活躍している神谷さんの心琴に触れたのでしょうね。
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    妻子の誠に応えるのは、我々日本男児の使命です。
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     武田勝頼の妻の名は伝わっていません。北条氏康の六女であったことから、武田家では北条夫人と呼ばれていました。天正一〇年(一五八二)三月、織田信長が大軍で武田氏に攻めこんだ時、武田の旧臣たちが勝頼に背いたので、勝頼は百騎ばかりで城から落ちのびました。それは、夫人もようやく荷(に)付(つけ)馬(うま)に乗って、侍女らはみんなワラジを履(は)いての逃避行でした。城には敵が攻め入り火煙が天をおおっていました。

     勝頼たち一行は、天目山(てんもくざん)に遁(のが)れました。けれどそこにも、秋山摂津守が叛(そむ)いて火砲を発して襲ってきたので、鶴背のほとりの田野というところに隠れました。敵兵が潮(うしお)のように湧き出て攻めてきました。勝頼は夫人に告げました。
    「武田の運命は今日を限りとなりました。おまえは伴(とも)をつけて、小田原の実家に送り届けよう。年来のおまえの情(なさ)けには深く感謝している。甲府からどんな便りがあったとしても、おまえは小田原で心安く過ごしなさい」

    夫人が答えました。
    「おかしなことを聞くものです。たまたま同じ木陰(こかげ)に宿ることさえ他生の縁と申すではありませんか。わけても7年。あなたと夫婦の契(ちぎり)を結び、今こうして危機に遭ったからといって、早々に離別されて小田原へ帰るならば、妾(わらわ)の名がけがれましょう。ただ夫婦は、死生を同じうすべし」

    夫人は老女を振り返り、
    「この年月は、子ができないことばかり嘆(なげ)いて神仏に祈っていましたが、今はむしろ良かったのかもと思えます。たとえ子がなくても小田原は跡(あと)弔(とむら)い給うべし(小田原はきっと弔ってくださることでしょう)」
     故郷への手紙には、
    「女の身なればとて、北条早雲、北条氏康より代々弓矢の家に生まれ、ふがいなき死をせしといわれんも恥ずかし。妾(わらわ)はここにて自害せりと申せ」

    手紙の上巻に髪の毛を切り巻き添え、

     黒髪の みだれたる世を はてしなき
     おもひに契(ちぎ)る 露(つゆ)の玉の緒

    と詠ぜられました。そして敵軍、乱れ入り、一族郎党ことごとく討たれていく時、夫人は声高く念仏を唱えて自害しました。老女もともに殉死しました。勝頼も自害して、武田の一門はこうして滅亡しました。

    「跡弔い給うべし」という言葉は、お能の「敦(あつ)盛(もり)」の中に登場する言葉で、次のように展開されます。

     討たれて失(う)せし身の因果
     めぐり逢ふ敵(てき) 討(う)たんとするに
     仇(あだ)をば恩に 法事の念仏 弔(とむら)はば
     終(つい)には共に 生まるべき
     同じは蓮(はす)の 蓮生法師
     そは敵にては なかりけり
     跡(あと)弔(とむら)ひて 賜(たま)び給(たま)へ
     跡弔ひて 賜び給へ

    現代語にすると次のようになります。

     戦いに敗れて討たれて失われるは我が身の因果でございましょう。
     めぐりあう敵は、もしかすると愛の逢瀬のようなものかもしれませんわ。
     敵を討った仇さえも、ご恩のひとつと感謝して念仏を唱えましょう。
     そうすれば、次の世に、きっと二人仲良く生まれ変わることもできることでしょう。
     互いに同じ蓮の根につながる魂でございます。
     敵も味方もありませぬ。
     どうか、あとの弔いを頼みますね。

    「めぐり逢ふ敵」に、男女の逢瀬を意味する「逢ふ」という字が使われているので、「めぐりあう敵は、愛の逢瀬のようなもの」と訳させていただきましたが、語感としては、これが最も正しい訳であろうと思います。たとえ自分の命を失うことがあっても、そこに愛を見出す。これこそが日本的な価値観といえます。
     死ねば魂が肉体から離れ去ります。だからこれを「逝去(せいきょ)」といいます。「逝」という字は、「折」がバラバラになることを意味し、「辶」が進むことを意味します。肉体と魂がバラバラに離れて去って行くから「逝去」です。魂の行く先は、時間に縛られた低次元の世界から、時間を超越した高次元の世界です。勝頼の妻の辞世の歌は、そういう理解の上に成り立っています。

     歌にある「玉の緒」というのは、魂の緒のことです。魂は紐で肉体とつながっていると考えられていましたから、玉の緒が離れることは、死を意味します。露と消える玉の緒であっても、ひとつの思いは消えることはない。その消えない思いというのが、「夫である勝頼と今生では乱れた黒髪のような乱世を生きることに成ってしまったけれど、きっと来世には平和な時代に生まれて、一緒に仲良く、長く一緒に暮らしましょうね」という句になっています。

     そして「黒髪の乱れる」は、和泉式部の歌から本歌取りです。失っても失っても、それでも一途に愛する想いを大切にするところで使われる語です。
     「玉の緒」は式子内親王の歌から本歌取りしています。たとえ露と消えて死んでしまっても、大切なものを護り通して行きたいという想いがこめられた語です。

     この時、勝頼の妻、わずか十九歳です。今から四百年も昔の戦国時代。現代日本人の感覚としては、戦国時代というのは、有史以来最も国が荒れた時代とされますが、そんな時代にあってなお、若い女性がこれだけ高い教養を持ち、そして男も女も純粋に必死で生きていたのです。


    ※このお話は2021年11月の記事の再掲です。
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  • 38度線のマリア


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    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    恨みは「私心」でしかない、というのが日本の古くからの教えです。
    「公」の道というのは、まずその私心を捨てるところから出発する。あたりまえのことだと思います。
    愛とは慈しみの心です。
    愛を失った政治、メディア、支配は、暴力装置でしかありません。

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    いまの韓国から消された歴史のひとつが、「38度線のマリア」と呼ばれた日本人女性の実話です。
    朝鮮戦争から、生涯で133人もの韓国戦災孤児を育て、昭和46(1971)年には、朴正煕大統領(朴クネ現大統領の父)から韓国名誉勲章並びに冬柏賞がそれぞれ授与された女性です。
    望月カズといいます。

    望月カズ(旧姓:永松)は、昭和2年(1927)、東京・杉並区に生まれた生粋の日本人女性です。
    4歳のとき母と二人で満州に渡ったのですが、6歳で母を亡くし、孤児となってしまいました。
    このためカズは、農奴(大陸にあった農業奴隷)として、China各地を転売されながら子供時代をすごします。
    昭和19年(1944)、17歳になったカズは、このとき朝鮮の城津に売られてきていたのですが、そこで偶然知り合った永松晃・礼子夫妻に養子にしてもらい、やっと日本国籍を得ています。

    ところが終戦となる。
    このとき望郷の念に駆られたカズは、日本行きの船で密航して日本に帰るのですが、身よりもないうえに、焼土となった日本に絶望し、再度満州に渡ろうとして朝鮮半島に戻ります。
    ところが時を同じくして、朝鮮戦争が勃発し、カズはソウルに足止めとなってしまう。

    ソウルに攻め込んだ北朝鮮軍、市民を放ったらかしにして逃げてしまった李承晩大統領。ソウルに取り残されたカズは、そこで胸を撃たれて銃弾に倒れた女性の胸に抱かれて血まみれになっていた男の子を助けます。
    このことがきっかけとなり、カズは次々と孤児たちを救い、孤児たちの母として生きていくようになりました。
    かつての自分と同じ身の上の子供達を、カズはほっておくことができなかったのです。

    けれど子供達は、食べさせていかなければなりません。
    そのためにカズは、豆炭売りや軍手作り、ときには売血までして孤児たちを育てました。
    そして紆余曲折のあと、カズはモグリの理髪店をはじめます。

    カズは子供達を厳しく育てました。
    たとえどんなに厳しい身の上であったとしても、人として大切なものを失ってはいけない。
    転んでも転んでも、ダルマさんのように、何度でも立ち上がりなさい。
    カズの教えは、日本人の誇りと魂の教えでした。

    昭和38年(1963)、カズは理髪師としての免許をとりました。
    そしてカズはこの頃から「愛の理髪師」と呼ばれるようになりました。
    翌年、ソウル市から「名誉市民章」を受賞したカズは、『この子らを見捨てない』という手記を出版しました。
    この本はベストセラーとなり、同書を原作とした映画『愛は国境を越えて』は日本でも上映されて、大きな反響を呼びました。
    そしてカズには、多くの支援者が集まるようになりました。

    昭和42年(1967)年の韓国独立記念日に、韓国政府は日本人には異例の「光復章」を贈りました。
    そして4年後には当時の朴大統領が、彼女に韓国名誉勲章・冬柏賞を叙勲しています。
    この叙勲の日、大統領府に現れたカズは、普段着のモンペ姿に下駄履きでした。
    慌てた府の職員が、靴だけでも履き替えるように申し出たところ、カズは
    「私は他に何も持っていません。これでだめなら帰ります」と断固として拒否し、そのまま叙勲式に臨んだという逸話があります。

    この頃の韓国も、いまと同じで反日感情がたいへんに強い国でした。
    けれどカズは、日本人としてのアイデンティティを守り続け、普段着は和服にモンペ姿、祝日には日の丸を掲揚し、端午の節句には堂々と「こいのぼり」を掲げていました。
    「こいのぼり」を掲げるとき、カズは孤児たちにいつも、
    「日本では、今日はこどもの日で、子供達が丈夫に育つように、これを掲げるんだよ」と教えていたといいます。

    けれど長年の重労働がたたったカズは、次第に体調の不良を訴えるようになり、死期を悟ってからは、
    「死ぬときは母国の土の上で死にたい。死んだら富士山の見える所に眠らせてください」と語るようになります。
    けれど、昭和58(1983)年11月12日、カズは日本への帰国を果たせないまま、ソウル市内の自宅で亡くなりました。享年56歳でした。

    この年、カズに、日本からも「勲五等宝冠章」が贈られました。
    日本の支援者たちは、祖国に帰りたいと願ったカズの悲願を叶えてあげようと、韓国側に分骨を頼みに行きました。
    昭和60年(1085)年4月、静岡県にある瑞林寺で、日韓両国150人の関係者立会いのもと、分骨式が行われました。
    そしてカズの墓は、ソウル郊外のキリスト教墓地と、富士山がよく見える瑞林寺の両方に建立されました。
    カズは、日韓両国の土になったのです。

    カズに育てられた孤児たちは、異口同音に、
    「オンマ(母)は、温室のような育て方をしないで、深い愛情で、いかなる暴風雨にも耐えうる根の深い木に成長させようとしてくれました」と語ります。

    日本側にあるカズの墓には、次の墓碑が刻まれています。

    ==========
    三十八度線のマリアと
    呼ばれた望月カズ
    1927年8月3日出生
    1983年11月12日没
    富士山の見えるところに
    眠りたいとの遺志を
    かなえてここに眠る
    ==========

    今日のお話に、ポイントが3つあります。
    ひとつは「いかなる逆境にあっても日本人としての矜持を失わないことの大切さ」、もうひとつは「愛は甘えやわがままを許すことではない」ということ、みっつめは「それでも韓国は日本を好きになれないのか」という三点です。

    1 いかなる逆境にあっても日本人としての矜持を失わないことの大切さ

    カズが母と死別したのは6歳のときです。
    その後は農奴として転売されています。
    つまり、カズは小学校さえも出ていません。
    カズは女の子ですし、大陸朝鮮のことです。
    この頃の中国残留孤児となった日本人の子供達が、どれだけ悲惨な目に遭ったかは、想像するに余りあります。
    そのことは、山崎豊子の小説『大地の子』にも詳しいです。
    ほとんど人間性さえも失われてしまった子供達さえ数多くいました。
    おそらくカズも、繰り返し酷い暴行を受けていたものと思います。
    けれどそれでもカズは、日本人としての誇りと矜持を失わなかったのです。
    けれどカズは、「6歳までに母から教わった日本人としての矜持」を、生涯持ち続けました。
    逆にいえば、6歳までにしっかりとした正しい心を養う家庭内教育が、どれだけ大切かということです。
    そしてその日本人としてのアイデンティティを強く持ったことが、朝鮮戦争以降のカズの人生となっています。


    2 愛は甘えやわがままを許すことではない

    カズに育てられた子供達は、いかなる逆境にあっても矜持を失わないことを徹底して教育されました。
    カズの育児は、たいへんに厳しいものであったようです。
    けれど、その厳しい教育を受けた子供達は、カズを心から尊敬し、敬愛していました。
    なぜならカズには「愛」があったからです。
    「愛」というのは、漢字なら字源は「心+夂(足をひきずる)」で、意味は「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿」です。要するに、後ろ髪を引かれる思いであり、後ろ髪を引かれるような執着を覚えながら、そこから立ち去ってしまうという身勝手さを持つ意味の漢字です。
    ところが日本では、もとからある大和言葉の「おもふ、おもひ」と「いとし」に、あとから「愛」という漢字を充てています。
    日本語の「おもひ」は、相手を思うこと。「いとし」は、相手と糸で結ばれることです。
    つまり日本における「あい」の意味は、相手のことを糸で結ばれた相手を心から思うこと、いつも思っていることを意味します。
    そしてカズは、預かった子供達を、つねに思い、いとしい存在としていた。
    そしてそのことがちゃんと子供達に伝わっていたからこそ、子供達はカズの思いをしっかりと受け止めるようになっていったのです。
    愛は甘えやわがままを許すことではないのです。


    3 それでも韓国は日本を好きになれないのか

    韓国の朴槿恵大統領は、極端な反日政策で知られる人ですが、彼女の父の朴正煕元大統領は、日本人女性に韓国名誉勲章並びに冬柏賞を与えています。
    そして与えられたその日本人女性は、大統領からの受賞当日、和服にもんぺに、下駄履きという日本人のスタイルで授賞式に臨み、それを父の朴正煕元大統領は、ちゃんと受け入れています。
    朴正煕元大統領は反日だったという人もいれば、親日だったという人もいます。
    けれど朴正煕元大統領は、そのどちらでもありません。
    彼は韓国の大統領なのです。

    そして韓国にとって、もっとも良い選択を当時の世界情勢の中で選択していたのです。
    だからこそ朴正煕元大統領の時代、韓国はめざましい復興と経済の成長を遂げています。
    これに対し、娘の朴槿恵大統領がいましていることは、それは本当に韓国にとっての良い選択といえるのでしょうか。
    プロパガンタが先行し、肝心の国民のため、という視点を見失ってはいないでしょうか。

    もしそうであるならば、それは「公私の区別がついていない」ということです。
    日本の聖徳太子の憲法十七条に、次の文があります。

    =======
    私に背(そむ)き公(おおやけ)に向かうは、これ臣の道なり。
    およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととな)わず。
    同(ととなわ)ざれば則ち私をもって公を妨(さまた)ぐ。
    憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。
    故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。
    それまたこの情(こころ)なり。

    (背私向公 是臣之道矣 凡人 有私必有恨 有憾 必非同 非同則以私妨公 憾起 則違制害法 故初章云 上下和諧 其亦是情歟)
    =======
    恨みは「私心」でしかない、というのが日本の古くからの教えです。
    「公」の道というのは、まずその私心を捨てるところから出発する。あたりまえのことだと思います。
    韓国は儒教国なのだそうですが、韓国儒教には公私混同を戒める教えはないのでしょうか?



    世界において、著名な芸能人とか、ものすごく大きな財力を背景にしてアフリカなどでの孤児に対する支援や慈善活動をする偉人は数多くいます。
    けれど、何の財力もないどころか、自分自身も孤児であり、しかも無一文でありながら、必死で働きながら孤児たちの世話をし続ける。
    そういう、歴史に名を留めないけれど、真摯に生きた本物の偉人が、日本の歴史には数え切れないほどいます。
    なぜ日本人がそうなのか。

    その答えが、日本の、天皇のもとに万民を「おおみたから」とする国風であり、憲法十七条以来の日本の国風にあります。
    八百万の神々と考える日本では、人は神様になるために生まれてきたと説かれました。
    誰もみていなくてもお天道さまが観ていらっしゃると考え行動してきたのが日本人です。

    その国風を、次代のために学び語り伝えていくことは、いまを生きる目覚めた日本人の使命です。

    そして、望月カズの歴史を消したいまの韓国政府やメディアには、愛がないと思います。
    愛とは慈しみの心です。
    愛を失った政治、メディア、支配は、暴力装置でしかありません。


    ※この記事は2014年11月の記事のリニューアルです。

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  • 近世まで水車小屋を造ることができなかった半島のお話


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    第96回 倭塾は、令和4年11月20日(日)13:30開講です。場所はいつもと異なり、JR新宿駅新南口近くの会場になります。映画『めぐみへの誓い』を製作した野伏翔監督の講話もあります。終了後、懇親会もあります。会場の都合で今回のみ事前申込が必要です。詳細は↓で。
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    日本で水車を見た朝○通信使は大感動しました。
    そして、わざわざ水車の見取り図を詳細に書き取り、その図面を国に持ち帰りました。
    そして李氏半島王に、
    「これはたいへん便利で進んだものです。
     是非我が国でもこれを造りましょう」
    と奏上し、許可を得て、職人さんたちを集めて、水車を造ろうしました。

    20161123 水車小屋
    画像出所=http://www.platz-hobby.com/products/3131.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    田園風景に水車小屋。
    最近ではあまり見かけなくなった風景ですが、少し前までは水車小屋は、全国どこでも見かける
    ごくありふれた光景でした。

    水車小屋というのは、川などの水流の力で回転エネルギーを得て、その力で水のくみ上げをしたり、杵(きね)付きをしたり、あるいは脱穀や製粉、製糸などへと幅広く活用されたものです。

    この水車が世界のどこで生まれたのか、一説によれば紀元前2世紀頃のトルコという説もありますが、なるほどトルコの風景に水車小屋はよく似合いそうではありますけれど、実際には、よくわかていません。
    生まれはわからないけれど、自然のエネルギーの活用という意味において、古代には、世界中にまたたく間に広がり、ヨーロッパでも中東でもChinaでも世界中で幅広く使われていたものです。

    ちなみに日本には推古18(610)年に高句麗からやって来た僧の曇徴(どんちょう)が、水車の技術を伝えたという説がありますが、これは大きな間違いで、曇徴が伝えたのは、石臼にすぎません。
    逆にいえば、曇徴以前に日本では水車小屋が普通に普及していたということです。

    では、その日本では、いったいいつごろから水車小屋が作られるようになったのか。
    これはもう、「わからないくらい古い昔から」としか言いようがありません。

    そもそも高句麗の曇徴が日本に水車小屋をつくる技術を伝えたという論説には、明らかな無理があります。
    どういうことかというと、お隣の半島では、近世(日本でいう幕末まで)に至るまで水車が造られていなかったからです。
    というか、作る技術が無かったのです。

    実は、このことは、だいぶ以前に「悪韓論」の著者の室谷克実先生から教わった話なのですが、思わず大爆笑してしまったことです。

    どういうことかといいますと、室町時代に、第一回の朝○通信使が日本にやってきたのです。
    このときの半島の書記官が、日本にある揚水(ようすい)水車をみて、たいへん感動したというのです。

    揚水水車というのは、川の水を汲み揚(あ)げるための水車です。
    川の高さと、田んぼの高さって違います。
    ですから大規模なものなら、川の水をせき止めて水位を高くして田に水をひきます。
    それが小規模なものなら、田から水を人が汲み上げて、田に入れるわけです。

    お風呂とちがって、田は広いです。
    使う水の量だって半端じゃない。
    それを人力で汲み上げたら、たいへんです。

    そこで日本では、かなり古い時代から、揚水水車が用いられていたのです。
    これなら、水車が勝手に水を汲み上げてくれますから、人間は楽チンで、ありがたい。

    水車を見た朝○通信使は大感動しました。
    そして、わざわざ水車の見取り図を詳細に書き取り、その図面を国に持ち帰りました。
    そして李氏半島王に、
    「これはたいへん便利で進んだものです。
     是非我が国でもこれを造りましょう」
    と奏上し、許可を得て、職人さんたちを集めて、水車を造ろうとするわけです。

    ところが。
    いつまで経っても、水車ができない。
    次の王様の時代になっても、まだできない。
    その次の王様の時代になっても、まだまだできない。

    ついに、それから300年経ってしまいました。
    江戸時代の幕末近くになって、第12回の朝○通信使が日本にやってきました。
    そして帰国した通信使が、李王に報告した記録には、
    「日本には水車という大変素晴らしい物がある。
     わが国にも是非、これを導入したい!!」

    なんと、まる300年、こと水車に関して何の進歩もなかったというわけです。
    まるで冗談のような話ですが、これが本当のことですから驚きです。

    そもそも高い文化や技術が、Chinaから半島を経由してオクレタ日本に伝えられたというのは、まったくのデタラメです。

    水車さえ、造れなかった国が、果たして進んだ文化文明を持つ国だったのでしょうか。
    稲作さえも、DNAの研究によって、近年では半島渡来説は完全に否定されています。

    昨今、柔道や剣道、茶道、華道から、アニメや日本料理やしゃぶしゃぶまで韓国発祥とか言い出している半島族ですが、そもそも日本よりもはるかにオクレていて、文化と呼べるようなものさえもなかった半島族が、いったい何を日本に「教えた」というのでしょう。

    なるほど仏教は半島を経由して日本にやってきたけれど、仏教はそもそも半島発の文化ではありません。
    それにそもそも百済の王が日本に仏教の経典や、仏像を寄贈したのは、理由はまったく別なところにあります。

    この頃の半島は、南部一体が倭国の領土でした。
    そしてその北側に、百済と新羅がありました。
    その百済は、日本の役人を賄賂で買収して、半島にあった倭国の領土を、勝手に自国の領土に取り込んでしまったのです。

    ところが、そうは言っても新羅は怖い。
    だから、広大な土地をただだまし取っただけでは、日本との関係が悪化してしまうので、なんとか日本にゴマを擦ろうとしたのです。
    ところが、半島には、日本が喜びそうな物品など何もない。
    そこで、やむなく百済王は、日本に、唐の国の高僧をスカウトして日本に進呈し、併せて唐の国の仏教の経典と仏像を日本に寄贈したわけです。

    要するに土地泥棒が、露見をおそれて、日本が喜びそうな他所の国の坊さんと経典を献上したという話が、実は、戦後の教科書にもっともらしく書いてある「仏教伝来」の実際の姿です。
    ぜんぜんありがたい話ではないのです。
    この経緯は、日本書紀にちゃんと書かれています。

    要するにこのあたりの思考方法というか、日本に対する姿勢は、6世紀の半島も、現在の半島も、実は、何も変わっていないのです。

    つまり、
    「高い文化や技術が、チャイナから半島を経由して日本に伝えられた」
    というのは、実は真っ赤な偽りで、本当のところは、
    「高い文化や技術を持った日本を隣国に持つ半島では、
     日本の文化や技術のパクリが流行っていた」
     半島は、大昔からパクリのウリジナル国家だった」
    というのが、およそ1400年前から、変わらぬ半島の姿であったわけです。

    さて水車の話に戻りますが、日本書紀に、推古天皇18(610)年春3月に、高麗王が、五経に通じていた僧の曇徴(どんちょう)を日本に貢ぎ(派遣ではなく「貢いだ」と書かれています)、曇徴はが碾磑(てんがい)を造った、と書かれています。

    この「高麗王貢上僧曇徴、并造碾磑」という一文から、日本における水車小屋は、半島から技術が渡来したのだなどといる学者さんなどがいるのですが、勉強不足もいいとこです。
    字をよく見ていただきたいのです。
    碾磑(てんがい)という字は、二字とも「石へん」です。

    つまり碾磑というのは、水車小屋に取付けて粉などを打つ石臼(いしうす)のことです。
    原理は非常に簡単で、
     →水車が回る
     →カムシャフトが杵(きね)をひっかけて持ち上げる
     →カムが外れて杵が石臼に落ちる
     →また杵を持ち上げる
    というだけのものです。
    ということは、僧の曇徴(どんちょう)が日本にもたらしたのは、水車そのものではなくて、その水力による回転力を利用した石臼だったというだけのことです。
    しかもこの碾磑(てんがい)、その後の日本ではほとんど普及していません。
    粉を挽くくらい、手でやってもそれほど手間のかかるものではないからです。

    水車というのは、たいへんに精巧な作りのものです。
    盥(たらい)さえ造ることができなかった半島人が、盥(たらい)よりもはるかに複雑な構造物である水車など、造れたはずもないし、現に、半島には水車はまったくありません。
    つまり、これが何を意味しているかといえば、半島には、誇るべき文化も技術も、何もなかった、ということです。

    そもそも半島発祥の文化って何があるのでしょう。
    トンスル?
    李氏半島王や半島貴族の回春剤だった処女の大便の乾燥粉末?
    千年経っても変わらない民族性は、おそらく千年後も同じです。

    最後に一点。
    日本語の「国」という言葉には、ネイション(nation)という意味と、ひとつの行政単位としての県《プリフェクチャー(Prefecture)》を意味する場合と、二通りあります。
    ですから、出雲の国とか、伯耆の国といった言葉があります。
    その昔は、いまでいう県《プリフェクチャー(Prefecture)》が「国」であり、いまでいう「国」のことは「天下」と呼んでいました。

    チャイナの歴代王朝の場合、たとえば「清国」なら、それが「国」です。
    そして李氏朝鮮は、王がいましたが、そこは清国の属国であり、事実上県《プリフェクチャー(Prefecture)》、もしくは州《ステイト(State)》でした。
    従って、李氏朝鮮とは言いますが、李氏朝鮮国とは呼びません。

    ところが、特に戦後の日本では、この「国」という用語に曖昧さの幅があることを奇貨として、李氏朝鮮をあたかも「国民国家」もしくは「王国」であったかのようなイメージで語られることが多いです。
    それは、言葉のマジックというものです。
    くれぐれも、誤解のないようにしたいものです。

    日本は、いい加減、あらぬ妄想から覚めるべきです。


    ※この記事は2016年11月の記事の再掲です。

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  • 京杭大運河の失敗と遣隋使・遣唐使についての考察


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    https://nezu3344.com/blog-entry-5408.html
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    隋や唐の周辺国にあたる国は数ありますが、隋や唐の失敗から、自国の統治スタイルを「民をこそおほみたからとする」というシラス統治にまで発展させることができた国は、日本だけです。
    そしてこの統治システムが素晴らしかったことは、日本がそのまま千年以上にわたって、ひとつの国家で有り続けているという事実が見事に証明しています。

    京杭大運河(けいこうだいうんが)
    20211117 京杭大運河
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9D%AD%E5%A4%A7%E9%81%8B%E6%B2%B3
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    「京杭大運河(けいこうだいうんが)」は、北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河で、築いたのは隋の二代目皇帝の煬帝(ようだい)です。

    煬帝は、西暦604年に皇帝に即位し、大運河の建設は605年から着手しました。
    完成は610年です。
    つまり、7世紀のはじめです。

    煬帝は、この運河建設のために、女子供まで含む100万人の民衆を強制的に動員し、使役しました。
    短期間で、巨大な2500キロの大運河を掘ったのです。
    どれだけたいへんな労働を暴力で課したのか、想像できようというものです。

    こうした強制徴用と強制労働は、世界中に例がありますが、基本的な内容は変わりません。
    作業員には飯もろく与えず、昼夜を問わず、死ぬまで、ただ働かせました。
    労働者は、骨と皮ばかりになっても、尻に肉がついていれば、まだ強制的に働かされました。

    普通、こうした工事に必ず付随する、作業員たちのための飯場の手配や、炊事や洗濯、宿場の手配に食料の調達、トイレの整備といった、いわゆる人を使うにあたっての基本的な手当はまったく行われませんでした。
    作業員は、ただ働かされたし、ムチで打たれたし、それで死んだら、その屍体が生き残った作業員の食料になりました。

    隋の煬帝は、そもそもはこの運河を、産業振興と、迅速な軍の移動のために築くと言っていたのだそうです。
    ところが百万の民衆を強制労働させて、やっと運河が完成すると、煬帝は運河に遊覧船を浮かべて、派手な行楽を行いました。

    結果、煬帝は物見遊山のために民を動員して強制労働させたのだと誹(そし)られ、これが隋王朝打倒の大義名分となって、唐王朝が建国されることになりました。
    隋の煬帝は「運河」を造って、「運」を失くしたわけです。

    さらに、京杭大運河(けいこうだいうんが)は、なるほど7世紀における土木の巨大工事ですが、工事そのものに技術要素が、ほとんどありません。
    単に地面に大きな溝を掘って、そこに水を流したというだけのものでした。
    要するに、技術が必要な土手や堤防、あるいは健康的な労務管理などが、まったく行われていないのです。

    よく「日本は遣隋使を派遣して、隋の高い文明文化を学ぼうとした」と仰られる方がおいでになります。
    そうした論は、一部正解、一分不正解です。

    まず、何事も100%ということは、なかなかあるものではありません。
    遣隋使や遣唐使は、もちろん学びのための派遣であったのですが、それは「隋や唐が高度な文明を持ち、日本が遅れた国であったから」ではありません。

    隋も唐も、中華を統一した強大な軍事国家です。
    そしてその魔の手は、周辺国に及んでいました。
    つまり、周辺国は隋や唐のターゲットとされていました。
    そしてチャイナ外交は、いつの時代も遠交近攻です。
    隣国を攻め滅ぼすために、その向こうにある国と手を結ぶ。

    その意味で、日本は「ひとつ向こうの国」ですから、隋や唐にとっては味方に付けたい国であったわけで、そういう状況のうちに、隋や唐の様子や仕組み、軍事力の規模、社会体制など、様々な点を、日本はしっかりと調査しておく必要があった・・・・と、これが遣唐使、遣隋使派遣の第一の目的です。

    他に、仏教や儒教、六韜【りくとう】などの様々な教えや、舞踊などを学ぶという目的もありましたが、それらは国家が行う遣隋使や遣唐使に付随的に行われたもので、もちろん乗組員はそれ自体を目的にする人もありましたが、遣隋使や遣唐使の派遣の目的自体がそこにあったわけではありません。

    そもそもこの時代、我が国は全国の国(出雲の国や伯耆国、山科の国等々)ごとに、それぞれ地域の豪族たちがいました。
    その意味で、当時の我が国は、全国の豪族たちのゆるやかな集合体であり、それらが中央の大和朝廷と縁戚となったり、災害支援といった事柄によって結ばれていたというのが実態です。

    この全国の地域ごとにある豪族の呼び方を、豪族ではなく「王」と呼ぶと、それぞれ出雲王朝、関東王朝、伯耆王朝、越後王朝、関東王朝、奥羽王朝、熊襲王朝などといった呼び方になります。
    つまり言ってみれば、当時の我が国は、全国の国ごとに存在した王国のゆるやかな集合体であったわけです。

    現在では、王国という呼び方をせず、豪族という呼び方をしていますが、これは後に中央の大和朝廷によって日本が統一国家になったことによって、そのようになったということであって、日本が始めから統一国家であったというわけではありません。
    このことは西洋においても、当初の国はギリシャのポリスと呼ばれる都市国家からはじまった歴史を持つのと同じことです。

    ただ、ギリシャと我が国の違いは、我が国は万年の単位の古く長い歴史を持ち、このため全国の豪族たちが、すべて一様に親戚関係にあったこと。
    このことは、現在のヨーロッパ各国の王朝が、すべて親戚関係にあるのと、実は同じ仕組みといえます。

    ところがチャイナに強大な軍事帝国ができあがると、我が国も国防上、全国を統一した統一国家にしていかなければ、国を護ることができません。
    そのためには、中華統一を実現した隋や唐に、その国の制度や仕組みを学ぶことが一番、手っ取り早いと考えられたのは、これはきわめて自然な流れであったということができます。

    その意味で日本が、学びのために遣隋使、遣唐使を派遣したという言い方は、あながち間違いではないのですが、ただし日本は、チャイナのシステムをただ模倣したわけではないところに、日本の独自性があります。

    とりわけおおきなきっかけになったのが、この京杭大運河と隋の滅亡で、皇帝と呼ばれる国家最高権力者を国の頂点にした場合、その皇帝の権力を抑えることが誰にもできなくなってしまうこと。
    権力が暴走したとき、誰もその暴走を押さえられず、このことが結果として国を滅ぼす原因となってしまうことを、我が国は、目の当たりに学んでいるわけです。

    そこで隋や唐の制度を日本に取り入れて、日本を統一国家にするにあたって考案されたのが、国家最高の存在である天皇から、政治権力を取り上げる、という方法でした。
    天皇は、国家最高権威であり、国家権力の行使は、その下にある大臣がこれを担う。
    そうすることで、大臣の所業に間違いがあったときには、その責任を大臣自身にちゃんと追求できるようにすることができる。
    また、国家最高権威である天皇によって、国民を「おほみたから」とすることで、国家権力は自然と国民に奉仕するという役割になる。

    こうしたことが、隋の滅亡と、唐の皇帝の横暴などを横目に見ながら、日本はしっかりと学び、日本独自のシラス統治を完成させていくわけです。

    隋や唐の周辺国にあたる国は数ありますが、隋や唐の失敗から、自国の統治スタイルを「民をこそおほみたからとする」というシラス統治にまで発展させることができた国は、日本だけです。
    そしてこの統治システムが素晴らしかったことは、日本がそのまま千年以上にわたって、ひとつの国家で有り続けているという事実が見事に証明しています。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

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E-mail info@musubi-ac.com
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