• 大豆と満洲のお話


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    かつての日本人は、現代の日本人よりも、はるかに若くて、活動もダイナミックなものでした。
    最近、歴史に対する塗り替えや、故意にかつての日本人を貶めるような報道や政治家や評論家の発言等が目につきますが、ほんのちょっぴり自分の頭を使って思考力をはたらかせてみれば、誰でもすぐに気がつくことです。
    今回は、満州大豆を通じて、そんなお話を書いてみたいと思います。

    満州国ハルピンの町並み
    20210918 ハルピン
    画像出所=https://www.travel.co.jp/guide/article/18581/
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    もやし、枝豆、煮豆、納豆、味噌、醤油、豆乳、ゆば、豆腐、油揚げ、厚揚げ、節分、サラダ油。

    さて、共通するものは何でしょう?
    答えは「大豆」です。

    大豆を、暗い所で発芽させたのがモヤシです。
    畑で育てて、未熟大豆を枝ごと収穫して茹でたら、ビールのつまみの枝豆。
    完熟したら大豆。
    完熟した大豆を搾ると大豆油ができ、煎って粉にするときな粉になります。
    蒸した大豆を麹菌で発酵させると味噌、
    醤油ができ、蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆になります。

    熟した大豆を搾ったら豆乳。
    その残りカスがおから。

    豆乳を温めて液面にできる膜が湯葉(ゆば)。
    にがりを入れて固めると豆腐。
    豆腐を揚げると油揚げ、厚揚げ。
    焼くと焼き豆腐、茹でて湯豆腐。
    凍らせたら高野豆腐です。

    ちなみに大豆から作られる大豆油(サラダ油)は、かつては燃料としても用いられたものです。

    それにしても日本人というのは、ひとつの豆から実にいろいろな食材を工夫し、用いているものです。
    それだけ大豆が古くからの日本人の食生活に欠かせない食物であったということです。
    ちなみにその国のその民族の食材の中で、様々に工夫されているものは、それだけ歴史が古い食材です。
    逆に歴史がないと、単純な使い方しかできません。

    たとえば白菜は、大正時代になってやっと畑で栽培できるようになった作物です。
    それまでは、菜の花の花粉とすぐに結びついてしまうので、品種の固定ができなかったのです。
    ですから白菜は、新しい食材なため、炊くか、ゆがくか、漬けるかくらいしか、まだ食べ方が考案されていません。
    白菜酢だとか、白菜豆腐、白菜揚げ、白菜醤油なんて、まだないですよね。

    どこぞの国は、白菜を使った真っ赤な漬物が、民族的伝統料理だと自慢しますが、その中心野菜である白菜が、そういうことなのですから、その国では、100年にも満たない食材が、伝統料理なのでしょう。

    さて、大豆というのは、植物の中で、唯一肉に匹敵するタンパク質をもっています。
    なので大豆は、「畑の(牛)肉」、「大地の黄金」などとも呼ばれます。

    現在、大豆の生産国は、
    1位アメリカ  8282万トン、
    2位ブラジル  5020万トン、
    3位アルゼンチン3830万トン、
    4位チャイナ  1690万トン、
    5位インド    660万トンの順です。

    日本は、国内消費量434万トンのうち、420万トンを輸入に頼っています。
    いまや日本は、世界第3位の大豆輸入国となっています。

    日本が大豆を輸入に頼っているから、なんとなく、大豆は欧米産なのだと思っている人も多いようだけれど、実は、欧米に大豆がもたらされたのは比較的新しくて、ヨーロッパで18世紀、アメリカは19世紀のことです。

    そもそも大豆の栽培は、土壌が弱アルカリ性じゃないと生育しません。
    欧米の土壌は弱酸性で、古代、中世ヨーロッパで大豆の栽培が広がらなかったのも、土壌の問題です。
    この土壌を改良することで、19世紀以降、欧米でも大豆の栽培がされるようになるのですが、これも当初は、もっぱら油やプラスチックの原料などに使う工業用に栽培されていました。

    欧米で大豆が食品として注目されるようになったのは、なんと日本の大正時代(1920年代)以降のことです。
    なぜ1920年代かというと、これが実は、日本が実に深く関係しているのです。
    登場するのは、明治の中ごろ三井物産に入社した商社マン、
     山本条太郎(やまもとじょうたろう)です。

    山本条太郎
    山本条太郎


    山本条太郎は、慶應3(1867)年、福井県旧御駕町で元福井藩士の子として生まれています。
    明治13(1880)年、12歳で神田淡路町の共立学校(現・開成高校)に入学するのだけれど、病弱で2年で退学し、三井洋行(現・三井物産)横浜支店に丁稚奉公しました。

    よほど働きがよかったのでしょう。
    丈太郎は、21歳で上海支店に転勤し、明治23(1890)年には、若干23歳で上海フランス租界の近くの交差点口に、三井支店長社屋を建設しています。

    この建物は、1万坪の土地に、大きな3階建ての本館と別館、更に付属の建造物と、広大な庭には池や温室、芝生の野球場と5面のテニスコートが作られ、正門から本館の玄関までには、100メートルの小道がり、樹齢30年以上の桜の木が280本も植えられていました。

    ここではその後、毎年3月に園遊会が開かれ、国内外の官民2000人あまりが招待され、当時この園遊会に招待されなかった人は社会的に紳士として認められていないとさえいわれるほどでした。

    それだけに招待客の選出には細心の配慮と苦心が重ねられたのだけれど、これを完全に取り仕切っていたのが、やはり山本条太郎でしたから、彼は相当、頭が切れたのでしょう。
    それに礼儀正しく品性も良かった。
    なにせそういう人物でなければ、招待客の接待役などまかせられません。

    明治34(1901)年、若干34歳で、条太郎は三代目上海支店長に就任しました。
    当時の上海支店長は、車庫には8人乗りの防弾型キャディラックが1台、8人乗りのビュイックと更に中型車が2台が、支店長専用車として停まっていた。
    いやはやすごいものです。

    この車、全部防弾車で、ガラスはどれも3センチ以上の厚さがあったとか。
    不注意にドアを開けて人にぶつかると、転んでしまうほど重たいドアだったそうです。
    だから車が重い。
    重いから燃費はリッター1キロ程度だったそうです。
    このためぜんぜん走らないから、条太郎は、もっぱら営業マンの乗る普通車ばかり使っていたとか。

    普通車は、防弾処理はされていません。
    だから危険な車でもあるのですが、なにしろ軽いからよく走る。
    このあたり、身の危険を顧みず、行動を優先した条太郎らしさが出ているように思います。

    山本条太郎は、後の昭和2年に満鉄の総裁になるのですが、実は、その条太郎が日本の商社マンとして満洲に乗り込んだ第一号です。

    荒野ばかりの満洲です。
    ここでなにをしたらよいか。
    土地は広いけど、ただの荒れ地で、作物はない。

    その満洲で、条太郎が、いちはやく目をつけたのが大豆です。

    実は、中国に普及した大豆は、もともと南満州にいた貊族(こまぞく)という朝鮮族が、細々と栽培していたものを、いまから約2600年前、斉の桓公(かんこう)がここに攻め込んで、持ち帰った大豆に戎菽(チュウシュク)という名前をつけて、普及させたのがはじまりです。

    つまり、満洲では、ほんの小規模ながら、大豆が栽培されていたのです。

    大豆というのは、そもそもが温帯・亜熱帯産の植物です。
    満洲は、亜寒帯になる。基本的に生育に必要な気象条件が合いません。
    加えて大豆は、同じ場所で生育を続けていると、連作障害が起こるから、何年かに一度は、土地を休ませないといけない。
    そういう意味で、満州での大豆の栽培は結構たいへんなのですが、それが細々と栽培されていたのです。

    これに山本条太郎は目を付けました。

    気候を調べたり、品種改良の可能性を検討したり、徹底して満州での大豆の栽培の可能性を探った。
    もちろん彼は商社マンです。
    栽培の可能性の研究だけでなく、同時に販路も研究しました。

    そして、満州での大豆栽培の目途が立つと、その足でイギリス市場に売り込みをかけ、ヨーロッパ大陸に満洲の大豆の独占販売権を得ます。
    これが1920年のことです。

    その頃のヨーロッパでは、まだ大豆を食べる、という習慣がありませんでした。
    彼は、大豆の加工の仕方や料理の指導まで行いながら、ヨーロッパで大豆の売り込みをかけます。
    こうして、ほんの数トンあるかないかだった満洲の大豆は、山本条太郎が名付けた「満洲大豆」の商品名とともに大きく成長していくのです。

    条太郎が満鉄総裁に就任した昭和2年には、満洲の大豆生産高は、じつに年間500万トンに達しました。
    欧米向け輸出だけで200万トン。日本に200万トン。実に80%が輸出です。

    満洲は、世界最大の大豆生産国になったのです。

    日露戦争で勝利をした日本は、明治38(1905)年に、講和条約に調印し、長春から旅順口までの鉄道や支線全ての権利を手に入れます。
    そして、翌明治39(1906)年には、日本は「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立するにいたる。

    すこし考えればわかることですが、鉄道があっても、ただやみくもに大地が広がっているだけのところに列車が走っても、なんの収益性も産みません。

    ロシアは、満鉄を軍事輸送用に切り開きましたが、日本は、これを民生用、つまり産業育成ように用いました。
    そしてそのために満鉄が、鉄道事業の収益性維持のために、大々的に奨励したのが、鉄道沿線での大豆栽培でした。

    実際、満洲に住む人々にとって、大豆は作れば売れました。
    なにせ収穫量の8割以上が商品として輸出されていたのです。
    満州の人たちは大豆と小麦を売って、自分たちはトウモロコシやアワを食べた。
    大豆は、満洲に住む人々にとって、まさに黄金となったのです。

    当時の記録によれば、満州の貿易額の50%以上が大豆です。
    鉄道沿線で、大豆を作る。出荷するとカネになる。
    大豆の生産を増やすために、荒れ地を開墾して大豆畑を作る。
    そこに鉄道が伸びる。
    こうして満鉄は満洲国の隅々にまで、その鉄道網を拡げて行きました。

    満鉄は、ただ大豆栽培を奨励しただけではありません。
    大連に「農事試験場」と「中央試験所」を建設し、大豆の研究に取り組んでいます。

    「農事試験場」では大豆の品種改良や栽培試験を、
    「中央試験所」では大豆の利用研究を進め、大豆油(サラダ油)の近代的製造法確立の研究をしました。
    その後の30年間で設立した農事試験所関係施設はなんと90ヶ所にのぼります。
    満鉄の大豆に注いだ情熱は並大抵ではなかったのです。

    中央試験所には、当時、総勢千名を超える人員がいました。
    発表された研究報告は約1000件です。
    特許が349件。
    実用新案47件。
    華々しい成果です。

    この試験所の様子については、夏目漱石も視察した模様を小説の中で紹介しています。
    さらに満鉄中央試験所では、大豆蛋白質による人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB抽出、スタキオースの製造法の確立など、その成果は枚挙にいとまがありません。

    ちなみに、現在世界が大騒ぎしている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究も、世界の先鞭をきって開発研究に取り組んだのが、満鉄中央試験場でした。

    こうして、何もないただの荒野だった満洲の大地が、大豆栽培によって緑の大地に生まれ変わります。
    いままで、人が住めない荒地が、稔りゆたかな豊穣の土地になる。
    作った大豆は、右から左に高値で売れる。
    大豆農場が広がり、関連産業が発展し、生産穀物の中継点となるターミナル駅ができ、そこが街になり、都市になり、建設が進み、人々に供給する電力や交通、流通などの産業が発展する。大都市ができあがる。

    貧乏人には誰も振り向かないが、小金を手にすると多くの人が寄ってきます。
    今も昔もかわりません。

    満洲が豊かになればなるほど、その利権に垂涎を流す者たちが出てきます。
    とりわけ欧米列強にとっては、民度が高く、産業の発達した満洲は、喉から手が出るほどほしい。
    同時に満洲は、ロシアの南下圧力があり、これは、チャイナ中南部を実質的な支配下に置いた米英にとっても、脅威です。ロシアに巣食うコンテルンは、平気で治安を乱し、人を殺すからです。

    「満洲が欲しい」
    米英は、満洲建国にナンクセをつけて、日本を満洲から追い出しにかかります。

    日本の満洲統治というのは、その基本として、つぎの3項目を掲げるものでした。

    1 悪い軍閥や官使の腐敗を廃し、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることを建国の精神とし、資源の開発が一部の階級に独占される弊を除き、多くの人々が餘慶をうけられるようにする。

    2 門戸開放、機会均等の精神で広く世界に資本をもとめ、諸国の技術経験を適切有効に利用する。

    3 自給自足を目指す。

    この理想を実現するために、日本は満州国建設に伴う産業開発五カ年計画を策定し、当時のカネで、48億円というとほうもない資金を満洲に提供し、大豆、小麦といった農産物に加えて、鉄、石炭、電力、液体燃料、自動車、飛行機などの生産力向上を図っていたのです。

    日本は、かつてのロシアの満州経営が軍事に終始していたのに対し、満州の経済と人材の開発をその使命としていた。
    なぜなら、経済というのは、人が行うものだからです。
    約束を守り、時間を守るという、いわば「あたりまえのこと」があたりまえにでき、人々が創意工夫をし、公に奉仕する精神がなければ、経済の発展などありえない。
    しかしこういうことをされると、それまで何百年か続いた欧米の植民地政策は、破綻に瀕します。
    現地人の民度を下げ、富だけを収奪するのが植民地政策だからです。

    満洲は発展しました。
    農業、産業、教育の振興と都市部の発展にあわせて、満州鉄道の路線は、昭和14(1939)年には、なんと1万キロメートルを超えました。
    バス路線は、二万五千キロメートルに及びました。
    満州航空輸送会社による国内航空路は、網の目のように張り廻らされました。

    満洲は、世界有数の経済大国として成長していったのです。

    そして、その満洲国の発展の、おおもとにあったのが、大豆でした。

    ところが、満洲はもともと酸性の土壌です。
    大豆の栽培には、土壌がアルカリ性でなければならない。
    土壌改良のために、農薬として、大量のリンが必要になります。
    当時の満洲は、リンをアメリカから輸入していました。
    ところがこのリンの満洲に対する輸出を、突然アメリカが打ち切ったのが、あのABCD包囲網です。

    こうなると、満洲経済の基礎中の基礎である大豆の生産ができなくなります。
    満洲経済は、その基礎を揺るがせられてしまったのです。
    ABCD包囲網から日米開戦へ。
    この流れは、もっぱら石油のことばかりが語られますが、当時の日本にとって、満州での大豆の栽培ができなくなることが、そのまま日本の家庭の台所を直撃する問題にもなったのです。

    もともと大豆を食べる習慣のない欧米には、たいした問題ではないかもしれない。
    けれど、大豆を、味噌汁や醤油、豆腐などで、主食並みに消費する日本人、大豆の輸出で産業を形成している満洲にとっては、これは大打撃です。
    こうして日本は、大東亜戦争に突入せざるをえないところまで追いつめられていくのです。

    昨今、戦争は当時の軍部が引き起こしたものである、という人がいます。

    しかし、それは違います。
    戦争のことが一番嫌いなのが、軍隊だからです。
    なぜなら、戦争が起きたとき、まっさきに痛く、辛い思いをするのが、軍隊です。

    リンがない。
    大豆の栽培ができない。
    なんとかしてくれ。
    自分が大豆栽培農家で、同じ環境に置かれたら、誰しもそう言うのではないでしょうか。

    その一方で、満州では、女房子供のために、一生懸命野良仕事をして生産した大豆を、英米から武器を支給された野盗の群れが、共産主義者を自称したり、正義の味方の馬族などと称して、平気で荒らして、農作物を持って行ってしまう。
    家の中まで入り込んで、目の前で女子供を強姦し、殺害する。
    そんな事件さえ頻発するのです。
    子供たちが学校に行くにも、関東軍の兵隊さんに守ってもらわなければ、街を歩くことさえできない。

    連中は、ただ貧しいだけです。
    まじめにちゃんと働いてくれるなら、当時の満洲にはいくらでも働き口はあった。
    ところが、連中に、タダで武器が支給されるのです。
    全部英米製の高性能武器です。

    いい年した若者が、昨日今日、いきなり五族協和の理想郷であるはずの満洲にやってきて、武器を持ってまじめに働く満洲人の家や畑を襲い、日本人が出て行けば自分たちの楽園が空から降ってくるなどとわけのわからないことを言いながら、日本人に協力するまじめな満洲人を襲い、平気で殺害する。

    冷静になって考えれば、当時の満洲が、いったい誰のおかげで富める国になったのか、ほんのちょっとでも脳みそがあるならわかりそうなものです。
    ところが彼らには教養がない。
    教養がないからそういう大事なことがわからない。
    図々しさと、勢力と武器だけがある。
    広大な原野を荒らしまわり、農地を襲って作物を奪い、女を蹂躙し、カネを奪う。

    そんな状態が何年も続く中で、日本の政府は、それでもこちらから武器をもって反撃するのは決してすべきでないと、無抵抗主義、温情主義を貫きました。

    だから、満鉄の総会では、議場に集まった多くの群衆から、檀上の軍の代表者たちにむけて
    「腰の軍刀は竹光かっ!
     俺たちの生活を守るのが
     君達の使命ではないのか!」
    と、血を吐くような言葉が飛び交ったのです。

    とまあ、この続きは、当ブログの他の記事に譲ります。
    ≪五族協和を目指した満洲国≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-784.html

    そこへ、リンの輸入禁止です。
    大豆の栽培ができない。
    どうしてくれるんだ!
    満洲の輸出産業の50%を担う農場からも、悲痛な叫びが聞こえてきます。

    そして日本と満洲国は、やむにやまれず、大東亜戦争に突入しました。
    その後の満州を襲った悲劇については、
    ≪満洲国開拓団の殉難≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html

    いろいろと大戦前後の歴史を学んでいてひとつ思うことは、日本という国、あるいはかつての日本人は、どこまでも大御心のままに、善意と正義を貫き通したのだ、ということです。

    しかもかつての日本人は、現代の日本人よりも、はるかに若くて、活動もダイナミックなものでした。

    最近、歴史に対する塗り替えや、故意にかつての日本人を貶めるような報道や政治家や評論家の発言等が目につきますが、ほんのちょっぴり自分の頭を使って思考力をはたらかせてみれば、誰でもすぐに気がつくことです。

    いまの日本人に必要なことは、本当のことを知ることです。

    さて、今日のお題は、大豆のお話です。

    最近のものの本によると、大豆はチャイナの東北省(旧・満洲)のあたりが原産地である、などと書いてある本があります。
    なるほど上に述べた通り、南満州に斉の桓公(かんこう)が攻め込んで、大豆を持ち帰ったというのですから、それなりの大豆栽培の歴史はあったものと思います。
    ただしこれはいまから2600年前、紀元前7世紀頃の話です。

    では、それ以前はどうだったのかというと、教科書などには、稲作と同じように、大豆はチャイナから朝鮮半島を経由して、いまから2000年くらい前に日本にもたらされた、と書いています。
    なぜなら・・・という、これが実に面白いのですが、実はこの説は、具体的な考古学上の検証に基づくものではありません。

    どういうことかというと、その昔、チャイナに神農皇帝という人がいた。
    神農というのは、チャイナ古代の三皇五帝の三皇のひとりで、いまから4700年ほど前に「実在した」とされる皇帝です。
    この神農時代の事跡を書いた本が「神農本草経」という本で、その本には、
    「生大豆をすり潰して、
     腫れものに貼ると膿が出て治る」
    「呉汁を飲むと解毒作用がある」
    などという記述がある。
    だから、チャイナでは、いまから4700年前、もっといえば、いまから5000年前には、大豆が栽培されていた、というのです。

    もっとも多くの学生さんたちは、上の文の前段は省かれて「チャイナでは、すでに5千年前には大豆の生産が行われて・・。」というところだけをまる暗記させられる。
    テストに出ると言われれば、そう覚えるしかないです。

    ところがこの神農という人が、実にすごい人です。
    なんと身体が、脳と四肢を除いてぜんぶ透明!
    内臓が外からはっきりと見えたのだそうです。

    で、その神農が草木を嘗めて毒か薬かを調べると、毒があれば内臓が黒くなったので、その植物の毒の有無と、人体に影響を与える部位を見極めることができたのだそうです。

    なぜ、胴体部分だけの皮膚や体脂肪だけが透明だったのか、どうして四肢は透明ではなかったのか、どうして脳は見えなかったのか、いろいろ考えだすと眠れなくなっちゃいそうですが、ひとついえるのは、その姿って、アマリミタクナイ^^;

    「神農本草経」という書にしても、その原書があるわけではありません。

    あるのは、西暦500年頃、つまり日本でいうと、蘇我氏と物部氏が、いろいろとゴチャゴチャと争いをしていた時代に、南朝の陶弘景という人が、原書を手本に注釈本として「神農本草経注3巻」を書いた、その注釈本が残っているだけの話です。
    どこにも、4700年や、5千年を証明するようなものはない。
    ほとんど、白髭三千丈とかの話と同じで、たんたんたぬきの百畳敷きという話です。

    具体的に大豆が史書に登場するのは、先に述べた斉の桓公の逸話が、紀元前7世紀、次に出るのが、紀元前140~8年に書かれた「史記」になります。
    「史記」には、歴代皇帝が五穀豊穣を願って儀式をしたと書いてある。
    五穀とは、諸説ありますが、米、大麦、小麦、粟(あわ)、黍(きび)、大豆であり、前に述べた、紀元前7世紀ごろの斉の桓公の逸話から600年で、チャイナ全土に大豆が普及したとしても、これはおかしくはありません。

    では日本ではどうかというと、実は、縄文前期(約7千~5千年前)の遺跡である福井県三方町の鳥浜貝塚から、大豆が出土しています。
    なにが目的なのか、その発見された大豆のことを「リョクトウ」と表記している本が多いのですが、これは感じで書くと「緑豆」で、ただしくは、ミドリマメと読みます。
    これは大豆のことです。

    逆にいえば、いまから2000年ほど前、つまり紀元1年ごろに、大豆が大陸から渡来したという証拠は実はなにもないのです。
    むしろ、古代から日本で栽培され、日本人の食生活になくてはならないものとなっていた、と考える方が、土壌的にも、地質学的にも、考古学的にも、要するに科学的であり論理的です。

    実は、先日食べたオカラがすごく美味しかったものだから、ついつい夢中になって大豆のお話をしてしまいました。
    それにしても、日本て、ほんと、とてつもない国ですね。


    ※この記事は2010年の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    この時代は、まさに江戸の庶民文化が花開いた時代で、ですから江戸時代を描く時代劇では、たいていこの時代が舞台になります。
    たとえば銭形平次や、火盗改方の鬼平さん、大岡越前守や遠山の金さん、浮世絵や歌舞伎が世の人気をさらったりする時代が、まさに江戸の文化文政年間です。

    これより少し前には元禄時代がありましたが、こちらはどちらかというと上方(大阪)文化が花開いた時代で、大阪の豪商、淀屋辰五郎が大名をもしのぐ大金持ちとなって天井に水槽を築き、そこで魚を飼ったなどという逸話が残されました。
    赤穂浪士の物語が、この元禄時代の物語ですが、討ち入りは江戸ですけれど、大石内蔵助の芸者遊びなどは、京都での出来事です。

    文化文政年間は、元禄より100年ほどあとの時代で、第11代将軍の徳川家斉(いえなり)が、将軍職を引退して大御所となって権勢をふるった時代で、このため大御所時代とも呼ばれます。

    将軍家斉というのは、とかく賛否両論のある人で、将軍としての職務と責任は12代将軍の家慶(いえよし)に全部まかせ、自分は贅沢三昧して遊び暮らしたという豪気な人で、おかげで江戸市中にお金がよくまわり、結果、江戸の町人文化が花開きました。

    文化文政時代に出た有名人としては、東海道五十三次の安藤広重、世界的に有名な歌麿、北斎、東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九、天才歌舞伎役者として有名な七代目市川団十郎。
    学問の世界では、35年がかりで古事記全巻の通訳本を出した本居宣長、解体新書を出した蘭学の杉田玄白などがいます。

    そして、この時代に生まれたのが、「酢」と「江戸前寿司」です。

    寿司自体は、たいへん歴史の古い食べ物で、紀元前4世紀には、米の中に塩味をつけた魚を漬けて発酵させ、これによって魚肉を長期間保存を可能にした「なれずし」が始まっていました。
    これは、魚からモツ(内臓)を取り出して、身の部分をお米のご飯に漬ける、というもので、ご飯の自然発酵作用によって、魚の保存性を高めたものです。
    要するにご飯の中に「塩から」を包み込みこんで保存したわけです。
    発酵に用いられた米は捨てていました。

    「なれずし」で有名なのは、滋賀県琵琶湖の鮒寿司や、和歌山県の「サンマのなれずし」などで、なかでも和歌山県の「サンマのなれずし」は、30年も保存可能でる。
    これ自体驚きですが、実は栄養価抜群で、美肌効果、アンチエイジング効果があるだけでなく、一日一舐めするだけで、整腸、便秘解消、体内毒素の排出効果など、味のおいしさもさりながら、きわめて健康に良い食品といわれています。

    この「なれずし」が大阪に行って生まれたのが、バッテラです。
    いわゆる押し寿司です。
    そしてこの押し寿司が、大きく変化したのが、文化文政時代の江戸だったのです。

    最近では、大阪の押し寿司も酢飯を使いますが、もともとは米を使って発酵させて作るものだったようです。
    ところが、発酵食品というのはどれもそうですが、出来上がるまでにものすごく時間がかかります。
    魚を仕入れて、米に漬けて発酵させて、いざ食べれるようになるまでには、早くて1~2週間、長いものでは一年以上かかるわけです。

    気の短い江戸っ子が、そんなに待ってなんていられねえ!とばかり、炊きたてのご飯に「酢」を混ぜることで、発酵米もどきの味をつけ、そこに新鮮な魚をちょいと乗せ、わさびを加えて、
    「ハイ、お待ち!」
    お客さんは、これをちょいと醤油に浸して、ポンと口に入れていただく。
    これが江戸前寿司で、手軽に作れて、すぐに、しかも早く食べれることから、気の短い江戸っ子にぴったり!ということで大評判になり、いっきに江戸の町で普及しました。

    あまりの人気に、江戸前寿司は関西にも流れ出て、押し寿司の大阪寿司まで酢飯が用いられるようになったわけです。

    この酢飯誕生に、同じ文化文政の時代の「酢」の量産化が進んだことが重なりました。

    どういうことかというと、文化元(1804)年に、尾張名古屋の半田村で、造り酒屋を営んでいた中野又左衛門という人物が、江戸に出てきたのです。
    そして酒粕を用いて、「酢」を作る技術を開発しました。

    ここで生まれた「酢」が、大阪から江戸に進出してきた寿司と出会うわけです。

    「なれずしを作るには時間がかかりすぎる。
     そこで、炊きたてのご飯に酢を加え、
     食べやすい大きさにご飯を握って
     その上にネタを乗せて出したらどうか」

    この提案に飛びついたのが、華屋(はなや)という発酵寿司店を営んでいた、華屋与兵衛(はなやよへい)でした。
    華屋与兵衛は、福井県南部の若狭の生まれです。
    伝染病のために両親が相次いで他界したため、与兵衛は単身、江戸に出て、小さな発酵寿司の店を開いていたのです。
    若狭といえば、サバ寿司が有名ですよね?

    そこに現れたのが、酢造り職人の中野又左衛門です。
    米をいちいち発酵させなくても、酢を加えれば、あっという間に酢飯ができる。
    というわけで、これに「なるほど!」と納得した与兵衛は、さっそくこれに「江戸前握り寿司」と名前をつけて商品化しました。
    これが、大ヒット!

    なにせ発酵食品と違って、手軽に作れる。
    早い、安い、旨い。

    華屋はまたたく間に江戸っ子にもてはやされ、毎日長蛇の列ができるほどの繁盛ぶりとなりました。
    こうなると次々に真似をする者も現れます。
    おかげで、にぎり寿司屋は、瞬く間に江戸中に広がって、江戸の名物になりました。

    江戸には、屋台で廉価な寿司を売る「屋台店」が市中にあふれ、料亭のような店舗を構えて寿司を握る者、あるいは持ち帰りや配達で寿司を売る者、宅配する者など、あっという間に江戸中に普及していきました。

    そして箱寿司が主流であった大阪にも、江戸前寿司の店は広がり、天保年間には名古屋にも寿司店ができるようになりました。
    こうして手軽な握り寿司は、あっと言う間に全国に広がったのです。

    江戸前寿司が普及するにつれ、酢の需要もうなぎ上りに増大しました。
    おかげで「酢」造りの中野又左衛門の、酢屋も、またたく間に巨大なメーカーに育って行きます。

    この中野又左衛門が創業した酢屋は、いまでも残っています。
    その社名が「ミツカン」です。
    そうです。あの「株式会社ミツカン」です。
    ミツカンは伝統で、いまでも社長は中野又左衛門(中埜又左エ門)を名乗っています。

    ちなみに、昨今関東で見かける「華屋の与兵衛」というファミレスは、これは関西資本のライフコーポレーションが設立したチェーン店で、寿司を始めた与兵衛さんとは関係はないそうです。

    ちなみに、どうも戦後の歴史教科書というのは、とにもかくにも江戸時代は貧しい時代で、武家が贅沢三昧な王侯貴族のような暮らしをし、庶民は貧窮のどん底暮らしを余儀なくされていたという荒唐無稽な歴史観を無理矢理生徒たちに刷り込んでいますが、これは違います。

    そもそも、武家しか米が食べられないような社会情勢だったのなら、江戸前寿司が江戸町民の間で普及するなんてことは、起こりえません。
    それでも、武家に搾取されていたなどと、子供じみたデタラメを言うような教師や学者には、二度と君たちは寿司を食うな!と言いたいくらいです。

    そもそも日本の歴史を、共産主義思想による階級闘争史観で図ろうとするところからして、無理があるのです。
    日本の歴史は、支配するものと支配される者、収奪する者と収奪される者という二極化した階級闘争の歴史ではありません。

    天皇のもと、身分という社会的な役割の違いを互いに尊重することで秩序を築いてきた歴史を持つのが日本です。
    従って、日本における身分制は、
    「社会の秩序を保持するための制度」であって、チャイナやコリア、あるいは西洋にあるような
    「富の収奪のための制度」ではありません。

    そもそも武家の屋敷というのは、実に簡素で空っぽです。
    西洋の王侯貴族のように、屋敷中に高価な宝玉がそこここに飾り立ててあるなんてこともありません。
    ないということは、贅沢をしていなかった、ということです。

    むしろ、士農工商という江戸身分制度は、富の順番からすれば「商工農士」の順で、自らの貧窮をかえりみず、民を豊にすることこそ武家の役割とされていたのです。

    だからこそ、町民は「宵越しの銭」を持たなくたって、ちゃんと生活が成り立ったし、農家においては、祭りの際に豪華な屋台や御神輿を作れるくらいのゆとりさえあったのです。
    そもそも歌舞伎だって、町人文化です。

    そうそう。「握り」の話が出たので、もうひとつ。
    世の中で一番美味い「おにぎり」って、なんだかわかりますか?

    それは、母親が幼子の遠足のためにと作る「おにぎり」だったり、あるいは新婚ホヤホヤの新妻が愛する夫のために作る、すこし形のおかしな「おにぎり」だったりするのだそうです。
    これは、愛情のこもったおにぎりが、その食材そのものの味わいよりも、もっと大きな味わいと美味しさを持つからだと言われています。
    すべてのものは振動によって出来ているといいますが、その振動に愛情の波動が乗る、ということなのかもしれません。

    料亭の板前さんや、寿司屋の職人さんというのは、単に最高級の食材を仕入れ、包丁の使い方から調理の仕方まで、その技術を鍛え上げるというだけでは、実は、本当に美味しい味を引き出すことはできないのだそうです。
    だからこそ、何十年もかけて、母の愛に勝てる味わいを出せるように修行を積むのです。

    昨今では、お寿司も廻り寿司で簡単に食べれるようになりましたが、一昔前までは、寿司はお寿司屋さんで握ってもらうのが常でした。
    すると、同じお店で、同じ材料を使って握っているのに、親父さんが握るお寿司と、修行中の息子さんが握る寿司では、まるで味が違う、なんてことが、よくありました。
    ですから、修行は、まさに消費者に直結していたのです。
    単にネタがでかいとか、新鮮だとか、米や酢が良いとかいった物理的なものだけでない何かが、そこにあるのです。

    味は心がつくるもの。
    だからこそ板さんは、その心を鍛えるためにきびしい修行を積んだのです。

    さて、その寿司ですが、近年、寿司や海鮮丼がたいへんな人気で、おかげで外国資本の寿司屋さんが、日本にも、米国にもたくさんできるようになりました。
    看板は派手なんですよね。
    ところが味はとみると、もう最悪。
    店内は生臭く、ネタもただ解凍しただけの、氷状態であったり、水っぽかったり。
    シャリと呼ばれるご飯も、酢飯の具合がわからないらしく、ただの普通のご飯であったり。

    江戸前寿司というのは、ただシャリの上に刺身が乗っていれば寿司になるわけではなくて、すべてが活きの良さによって成り立つものなのであろうかと思うのですが、キムチなどの超辛い食品ばかりを口にしていると、微妙な味覚が崩れてわからなくなってしまうのかもしれません。

    都内の高級寿司バーも、値段は張るのですが、味は素人のおばちゃんたちが造るスーパーのお寿司のお弁当のほうが、はるかにマシだったりすることがあったりします。
    逆に、銀座の小さな回転寿司屋さんが、実に見事な味だったり。

    もともと江戸前寿司は、ご飯を醗酵させるのではなく、単に酢を混ぜることで、手軽に誰でも簡単に作れるようにした食品です。
    けれど、簡単で単純なだけに、奥がものすごく深い。
    そういうことがちゃんと理解できる日本人の経営者が、しっかりとした味を追求し、かつ、修行を積んだ日本人の寿司職人さんが握るお店が、お寿司はやっぱり美味しいです。

    日本食は、日本の文化のひとつです。
    そして日本の文化は、だれでもわかる入り口の広さが特徴ですが、奥行きがものすごく深い。
    ただのパクリでは、日本の味は真似できないのです。


    ※この記事は2012年12月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 女性の立て膝座りはあったのか


    立膝は、あくまで仮りの座りですから、目上の偉い人の前や、一定以上の時間、座って過ごすときには、正座や安座、もしくはそれに近い座り方となって、立膝という不安定な姿勢はとりません。
    そういうところを、しっかりと考証するのが、本来の番組作りであると思います。
    ましてや、ありもしない「半島からの文化輸入」など、いまも昔も、そんなものは悪事以外にはまったくないと断言させていただきたいと思います。

    NHK大河ドラマの「麒麟がくる」の1シーン
    女性が立膝座りをしているが、下にハカマを付けていない。
    20200910 麒麟が来る立膝
    画像出所=https://encount.press/archives/33600/
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    小名木善行です。

    NHKの大河ドラマの『麒麟が来る』で、女性が立膝座りをすることについて、かなりの批判があるようです。
    なるほど女性が立て膝をすることは、江戸時代から現代人の目を通して観たとき、どうにもお行儀が悪い。
    この所作について、NHK養護派の先生らは、
    「戦国時代の女性を描いた絵画などを見ると、
     その多く、もしかしたら半数に
     女性が立て膝をしている姿が描かれている。
     女性の正座は、江戸時代中期以降のもので
     それまでは女性は立膝座りや、
     立膝で食事をするのがあたりまえだった」
    などと述べています。

    半島では、つい最近まで女性の立膝座りは当たり前だったし、食事の際にも立て膝であることから、「日本は未開の国であり、半島が日本に文化を輸出してあげたのだ」とする歴史認識では、何が何でも日本女性が立て膝座りをすることにしたいのでしょう。

    ただ、歴史を考えるときには、もうすこし深い内容があることに思いをいたさなければなりません。
    まず、戦国以前の女性たちが描かれた絵画では、なるほど女性たちが立膝をしているものが多くあります。
    しかし、そのどれもが肖像画としてのものではなく、ちょっとした所作、つまり、動きのある状態での立膝姿であることには、注意が必要です。

    お能は、室町時代に完成された芸能ですが、「お能では女性を演じらるときにどのように座るか」について、O先生に教えていただきました。

    まず、シテやワキが女性を演じるときには、舞台の上や、舞台に出るための待機のとき、座り方はすべて立膝姿です。
    一方、地謡や囃子方は正座で座ります。
    地謡や囃子方は、舞台の間、ずっと座位のままですから正座です。
    シテやワキは、舞台で演じなければなりませんから、座りは一時的なものなので、すぐに立てるように、片膝を立てた姿で座ります。
    つまり、一時的な仮の座りのときは立膝。
    ずっと座りっぱなしでいるときは正座、というようになっているわけです。

    ちなみに狂言では、役者は男女とも正座です。
    これは狂言が、場を楽しませるためのものであり、観客に敬意を払うためとされます。
    お能の場合は、むしろ観客がシテやワキといった役者さんたちに敬意を払って観劇するので、座り方も仮り座りの片膝を立てた姿になるわけです。

    立てる方の膝は、お能の流派によって異なります。
    左膝を立てるのが観世流、宝生流、
    右膝を立てるのが喜多流、金春流、金剛流です。

    女性の着物は右前合わせなので、左膝を立てたときは裾を右手で押さえられますが、右膝を立てると、どうしても裾がはだけてしまいます。
    それを右手で押さえる仕草が、女らしくて色っぽい仕草になります。

    もともと日本の家屋は、板の間で、これが室町時代に書院造りといって畳の間が生まれるようになりました。
    畳自体は、とても歴史の古いもので、古事記に、弟橘比売が江戸湾で入水されたとき、波の上に「菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而」という記述があります。
    2世紀の初め頃の出来事ですが、この時代には畳がカーペットのような敷物として使われていたことがわかります。

    平安時代になりますと、板の間に敷布団のような寝具として畳を敷く習慣が生まれました。
    これが室町時代になると部屋全体に畳を敷くようになり、これがいわゆる書院造です。

    そしてこの頃衣服面でも大きな変化が現れました。

    もともと日本人は海洋民族なので、船上での生活が縄文以来の伝統になっています。
    船は揺れますから、女性が座るときも、正座はなんとも座りが悪い(安定しない)。
    このため女性であっても、あぐら座り、あるいは横座りが主流で、またしっかりと座るわけではなくて、ちょっと座る(仮り座りする)といった場合には、立膝もありだったのです。
    ついでにもうひとついいますと、正座のような座り方で、かかとをお尻の下にするのではなくて、両方のかかとをお尻の左右に出す座り方も、これまた揺れる船内で、安定して座るひとつの方法であったのです。

    また、板の間での生活であれば、着衣が板と擦れるため、着衣の汚れが早く、また擦り切れも早くなります。
    その意味で、接地面をできるだけ少なくする座り方という意味で、正座よりも安座や横座り、立膝座りが合理的でもあったわけです。

    ところが前合わせタイプの着物では、立膝やあぐら座りをすれば、お股が見えてしまいます。
    そこで鎌倉期くらいまでは、女性は前合わせの着物の下または上にハカマを付けました。
    ハカマを穿いていれば、あぐら座りでも大丈夫であったわけです。
    この習慣は、神社の巫女さんの服装にも、いまでも伝統としてちゃんと残っています。

    さて、室町時代のはじめ、第三代将軍の足利義満によって、日明貿易がはじまります。
    足利義満は、この日明貿易を通じて、大陸から「高機(たかはた)」と呼ばれる、色の付いた糸を織ることを可能にする技術を導入しています。
    この「高機」によって、反物に絵柄を付ける技術が日本に導入されたわけです。

    それまでは着物の絵柄は、染柄と刺繍だけです。
    染柄ではカラフルな色彩の表現はむつかしいし、刺繍ですと着物が重たくなります。
    ところが高機(たかはた)は、布を織る段階で、色の付いた糸を織ることで着物に柄を付けます。
    このため軽くて色彩豊かな着物が作れるようになりました。
    その代表が京都の西陣織です。
    西陣織の美しさは、誰もが認めることでしょう。

    この高機導入がきっかけで、女性たちが着る着物は、鮮やかな色柄の付いた着物となりました。
    そうなると、せっかくのその美しい着物の柄を、ハカマや裳で隠してしまうのはもったいない。
    そこで女性の着物からハカマや裳が取り払われて、美しい着物の柄をよく見せる、現在の着物姿へと変化するわけです。
    足利義満は、後に戦国時代を招いた原因をつくった国家的価値観の混乱を招いた人でもありますが、同時に文化面においては、ものすごい貢献をした将軍でもあったのです。

    そしてこの時代に、先程申し上げました書院造、つまり室内全部に畳を敷き詰めるという習慣が始まります。
    すると、それまでの板の間暮らしと異なり、部屋中どこでも座れるし、着物を汚すこともない。
    そうなれば、より美しい座り方として、正座の習慣があたりまえになってくるし、下にハカマを穿いていませんから、座り方はむしろ正座でなければならないというように、室内の立ち振舞の文化が変化するわけです。

    そして江戸中期ころには、女性の座り方は完全に正座のみといって良いくらいにまでになっていきました。

    要するに、日本にも室町時代中頃までは女性の立膝座りは普通にあったけれど、その後、日本では衣類の柄のとても美しいファッション性の高い被服文化へと変化し、また生活空間全体に柔らかな畳が敷き詰められるようになったことで、戦国後期から江戸中期にかけて正座が主流になったのです。

    これに対し、お隣の半島では、古代の暮らしのままの状態がつい最近まで続いていたため、いまだに女性の立膝座りが主流になっている、というわけです。

    テレビの時代劇では、昭和50年(1975)に放送されたNHKの大河ドラマの「風と雲の虹と」(加藤剛主演、平将門)の番組で、時代考証から女性が立て膝座りをするシーンが描かれ、視聴者から大クレームがおきて、すべて正座にあらためた、というケースが有りました。

    最近でも「麒麟(きりん)がくる」で女性が立て膝をしているシーンが描かれて問題になっていますが、他のことにはいい加減な時代考証をしておいて、そういうところばかり「正確に描写しています」とは片腹痛い。
    女性に立て膝座りをさせるなら、着物の下か上に、ちゃんとハカマを穿かせなければ、視聴者にみっともないと思われるのは当然のことですし、時代考証的にも、それは「間違っている」と指摘されても当然です。

    またもっというなら、立膝は、あくまで仮りの座りですから、目上の偉い人の前や、一定以上の時間、座って過ごすときには、正座や安座、もしくはそれに近い座り方となって、立膝という不安定な姿勢はとりません。

    そういうところを、しっかりと考証するのが、本来の時代考証であり、番組作りであると思います。
    ましてや、ありもしない「半島からの文化輸入」など、いまも昔も、そんなものは悪事以外にはまったくないと断言させていただきたいと思います。


    ※この記事は昨年9月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 巨頭会談


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    昭和20年のことです。
    重慶で蒋介石と毛沢東の会談が行われました。
    「重慶会談」、別名を「巨頭会談」と呼ばれています。
    これが実におもしろい。

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    小名木善行です。

    チャイナ文化の典型的一面をご紹介したいと思います。
    それは「巨頭会談」です。

    昭和20年のことです。
    重慶で蒋介石と毛沢東の会談が行われました。
    「重慶会談」、別名を「巨頭会談」と呼ばれています。
    これが実におもしろい。

    この年の8月15日、日本が自主的に戦闘行為を終結させ、マッカーサーが降伏文書調印に先立って神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立ったのが8月30日です。
    そして同じ日に、重慶で、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が、たがいに争いを止め平和的に戦後処理を行なおうではないかと、巨頭会談が行われたのです。

    ここまで聞くと、たいていの日本人は「良いことだね」と思うとおもいます。

    この対談は、なんと43日間にも及び、10月10日、両者は合意を成立させて協定を結びました。
    その協定が「双十協定」です。
    日付に10が2つ重なっている日だから「双十」です。

    その内容はというと、
    (1) 国民党と共産党は互いに平和を希求して一切の紛争を対話によって解決する。
    (2) 互いに協力しあって内戦を避け、自由で富強な新しい中国を建設する。
    (3) 中国共産党は、蒋介石の南京政府を合法的指導者であると承認する。
    というものでした。

    見事な平和的解決です。
    国共内戦(国民党と共産党による内戦)は、1927年にはじまり、なんとこの年まで悲惨な殺し合いが18年も続いていたのです。
    それがたったの「43日間」で事態の解決に至った。
    ですから当時の世界も、この協定を「ようやくチャイナに平和がもたらされた」と大歓迎しています。

    ところが・・・です。
    この協定が結ばれた、まさにその当日に、山西省の上党地区(現長治市)で共産党軍が、同地にいた11万の国民党軍に攻撃しました。
    この戦いは共産軍の一方的な戦いとなり、国民党軍の側は三日間の戦いで3万5千人が殺戮されています。
    そしてこのときから、第二次国共内戦がはじまるのです。

    我々日本人の目からみると、「ではいったい何のための協定だったの」と、たいへん不思議に思えます。
    なぜ不思議に思えるかというと、日本人は、約束といえば、条件反射的に「守る」という言葉が思い浮かぶという文化を共有しているからです。
    日本人は「約束は守るためにある」と考えるし、約束は守るのが常識です。
    しかしそれは、あくまで日本の文化がそのような文化であるからなのです。

    いやいや西洋でも約束は守るものというルールがあるよ、と言われるかもしれません。
    もちろんその通りです。
    ただし、ここでいうルールは、じつは「支配」を意味します。
    彼らにとっての約束は、「神の支配(ルール)を受け入れる」という意味です。
    ですから守るのはどこまでも約束したことだけです。
    そうでなければ、自由がなくなるからです。

    ですからたとえば「私は君の机にもう落書きをしません」と約束したなら、約束の主語は「私」であり、対象は「君」であり、場所が「机」ですから、私が私以外の人に命じて落書きするのはOKとなります。
    また、私が君以外の人の机に落書きすることもOKです。
    落書きが禁止されているのですから、「私が君の机の上に」、「落書き」ではないものを書くのもOKです。
    これが構成要件該当性で、西洋の契約論には欠かせない概念です。

    ところが日本の場合ですと、「君の机にもう落書きをしません」と約束すれば、その本意は「落書きをしない」ということにあるわけですから、他の児童に対しても、また机以外のものに対しても、落書き以外の何物かを書くことも、一切禁止です。
    日本人にとって、約束は守るものであるということが優先されますから、約束の趣旨が重要視されるのです。

    江戸時代の金銭借用証文が、「期日に支払わなければ、人前で笑われても致し方なき候事」というこの一文だけで契約が履行されたというのは、まさにそうした日本人の「約束を守る」という日本の文化に基づきます。

    チャイナの場合、西洋とはまた違った思考になります。
    彼らにとって約束は、「相手に守らせる」ためのものです。
    自分が約束を守る必要はないのです。
    どこまでも「相手に対してだけ」守らせるものなのですから、
    「互いに協力しあって内戦を避ける」と取り決めたという一文は、「相手の戦闘活動を押さえ込む」という効果を持つことになります。
    ということは相手の攻撃力・反撃力が弱まるのですから、このときこそが攻撃のチャンスになる。
    これがチャイナの流儀です。

    敗れた側が、「あいつらは約束を破ったぁ!」と言って騒ぐことは、まったく問題になりません。
    そのように騒いでいる者がいたら、殺してしまえば済むことだからです。

    「こんなことではいけない。
     チャイナは堯舜の時代に還り、
     約束を守る法治主義を徹底しなければならない」
    と言って、中原を統一したのは秦の始皇帝となった嬴政(えいせい)で、アニメや映画のキングダムで有名になりました。

    ちなみに「嬴」という漢字は、「女(おんな)+𦝠ラ(神獣)」で、神獣を後ろ盾とした女性を意味し、古代の母系家族の意味を持ちます。
    アニメでは、女剣士の羌瘣が登場しますが、羌氏はもともと姜氏の一族で、その姜氏は嬴氏の一族の出といわれています。
    ということは、嬴政と羌瘣は、もとは親戚?だったのかもしれませんね。

    話が脱線しましたが、秦の始皇帝である嬴政は、その理想のもとに強引に中原を統一し、中原初の始皇帝となりましたが、法に縛られる、約束を守ることを強制されることを嫌がる項羽によって秦はほろぼされ、その項羽もまた人治主義の劉邦によって滅ぼされて生まれたのが前漢王朝です。
    そしてこのとき以来、チャイナは上に立つ者の恣意でどうにでもなる国となり、約束が決して守られることがない国として現代に至っています。

    日本人は、上古の昔から天皇という国家最高の権威をいただき、その国家権力よりもはるか上位の国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」とされてきました。
    そしてこれが、天子様と呼ばれた天皇と、臣民との、いわば絶対の約束事となっていました。
    そしてこのことが守られている以上、「国家国民が宝のように幸いを得て隆(さか)えることまさに天地と共に永遠となりましょう」というのが天壌無窮の神勅です。

    インドの哲学者のラビ・バトラは、かつてプラウト理論の中で、世界は
    A 戦士(Warrior)の時代
    B 資本家(Acquirer)の時代
    C 知識人(Intellectual)の時代
    が繰り返すと述べましたが、このことは言い換えると、

    (1) 500年続いた力の時代=植民地時代=征服社会
    (2) 200年続いた商業の時代=現代商業時代=金儲け社会
    (3) これからはじまる知恵の時代=情報化の時代=知価社会

    といった変化を想起させます。
    そして知価社会においては、約束事はちゃんと守られなければなりません。
    そのために中共は崩壊しなければならないし、世界にあってはならない国ということになります。

    世界はこれから大きく変わります。
    西欧社会にしても、これまでの力こそ正義の時代から、約束事をちゃんと守ることによって成立する商業社会へと変化しました。
    その変化に対応できなかった中共は、いまや世界の敵となっています。
    そして約束事がちゃんと守られるようになるためには、ただ約束を破った者を力で叩き伏せれば良いという社会ではなく、社会構造そのものが、約束を守ることが当然の常識とされる世界になっていかなければならないことになります。

    そしてそれを過去において実現してきたのは、大国のなかでは世界でただひとつ、日本だけです。
    このことは、これからの世界では、日本的思考、日本的社会構造が、新たな世界秩序を構成するうえで求められる中心核となっていくことを意味します。

    そうであればなおのこと、現代日本人は、もっと日本を学ぶ必要がある、と思います。

    「シラス」という概念は、日本の神語に依拠しますが、この思考が常識化していくことが、まさに日本人の覚醒につながり、世界の覚醒にもまたつながっていきます。
    そしてそれは神々の御意思であるものと思います。

    ただし、このことを日本的価値観の強制とか、日本人による世界征服などと誤解されたら、最悪です。
    とりわけ西洋の人たちは、多民族の持つ価値観について、自ら学んで受け入れることにはなんの躊躇もしませんが、他所からこれを強制されると、それこそ武器を手にして戦おうとします。

    その意味で、我々日本人は、日本文化の根幹を学びながら、かつ、それを他国に強要することなく、物静かに、むしろ「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で謙虚に進んでいかなければならないものと思います。
    なぜなら「正義」とは、他に強要するものではないからです。
    強要すれば争いになります。
    それが国家規模なら戦争になります。
    いまどき防衛の必要は認めても、戦争を望む日本人など、誰もいないことでしょう。

    逆に中共やコリアは、自国の「正義」を他国に強要しようとします。
    結果、彼らはいま世界中から排除されようとしています。
    いっときは良いかもしれませんが、結果は排除されてしまうのです。

    「正義(せいぎ)」は、訓読みしたら「ただしき、ことわり」です。
    「ことわり(義)」というのは、条理や道理のことを言います。
    つまり、「正しい道理」が「正義」です。
    そしてこれは、英語の「 justice (ジャスティス・公正・正義)」の語源と同じ意味です。

    「正しい道理」とは、強制強要をするものではなく、
     誰か見ても納得できる、
     普遍性を持ち、
     腑に落ちるもの
    です。

    もちろん反撃や反論もあることでしょう。
    いま正義でないものをもって利得を得ている人たちからすれば、侵略に見えてしまうかもしれませんし、徹底した「つぶし」に遭うこともあるかもしれません。
    けれど、それでも、しっかりと世の中のルールを守りながら、誰か見ても納得でき、普遍性を持ち、誰の心にもちゃんと腑に落ちるものをブレずに語り継ぎ、決して威張らない。

    回り道に見えるかもしれませんが、結局はそれが一番の近道なのではないでしょうか。

    実るほど頭を垂れる稲穂かな。


    ※この記事は2020年9月の記事の再掲です。
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  • 10円玉に学ぶ武士道精神


    次回倭塾は9月18日(土)13時半から富岡八幡宮婚儀殿。
    テーマは「ご先祖から預かった大切な日本」です。
    詳細は→https://www.facebook.com/events/453891059222691


    10円玉に描かれた鳳凰堂。
    いまではそれが世界遺産にまでなっていますが、その鳳凰堂から学ぶものは、贅沢三昧な暮らしではなく、実は、質素倹約を重んじ、魂をみがくことを第一とした武士道そのものにある。あるいはもっというなら、平時においては贅沢を慎み、いざというときのために常に備えを怠らないという日本精神そのものの象徴ともいえようかと思います。

    20200820 平等院鳳凰堂
    画像出所=https://in.pinterest.com/pin/344173596516490331/?nic_v2=1a668yKoA
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    小名木善行です。

    567で家にいることが多くなり、断捨離をすることが広く行われるようになりました。
    かくいう筆者も、ほんのすこしずつではありますが、室内の断捨離を進めています。

    そういえば、小銭入れに入っている10円玉。

    この10円玉は、昭和26年から用いられているものですが、昔は10円玉の周囲の縁にはギザギザがありました。
    そのギザギザがなくなったのが昭和34年のことで、小学校時代、ギザギザのある10円玉を集めて喜んでいたことがあります。
    そのギザギザのある10円玉の時代から、現在に至るまで、10円玉の表裏のデザイン(表面:平等院鳳凰堂、裏面:常盤木(ときわぎ))は、昭和26年の発行年から、ずっと変わっていません。かれこれ69年間もの間、同じデザインが用いられているわけです。

    常盤木とは、常緑広葉樹のことで、普通は広葉樹は寒くなると落葉するのですが、その葉が散らない木のことを言いいます。
    日本では常盤木といえば、その代表格がクスノキ(楠)で、楠(くすのき)といえば、我が国の歴史上登場する数多(あまた)の武官武将のなかで、唯一、皇居に銅像が飾られている楠正成(くすのきまさしげ)が想起されます。

    一方、平等院鳳凰堂は、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」の歌で有名な藤原道長の子である関白太政大臣・藤原頼通によって創建された建物です。
    往時には他に、本堂や多数の宝塔が立ち並ぶ寺院だったそうですが、度重なる京の都の火災で消失し、現在往時のままの姿で残っているのが、この鳳凰堂だけです。

    建造されたのは天喜元年(1053年)、いまから967年もの昔。
    もともとは阿弥陀堂とよばれていたのそうですが、建物を正面から見た姿が、まるで鳳凰が翼を広げた姿のようだということで、江戸時代の初め頃から鳳凰堂と呼ばれるようになりました。

    そしてこの場所は、かつて河原左大臣と呼ばれた源融(みなもとのとおる)が別荘を建てた地です。
    河原左大臣といえば百人一首に有名な

     みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに
     乱れそめにし われならなくに

    の歌があります。
    そしてこの源融こそ、源氏物語の光源氏のモデルになった人物です。

    源氏物語の光源氏といえば、まさに貴公子であり、モテ系男子の典型で、下の絵は大和和紀さんの『源氏物語〜あさきゆめみし〜」からのものですが、おそらく下の絵のような、要するにイケメン男子というのが共通のイメージではないかと思います。

    20200820 光源氏2

    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。)

    ところが現実はなかなか厳しいもので、下は幕末から明治初期に活躍した菊池容斎が描いた河原左大臣《源融(みなもとのとおる)》ですが、おそらくまあ現実はこのようなものであったのかと。

    20200820 源融

    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。)

    さてこの源融ですが、お能の「融(とおる)」という演目が、この源融を題材に採った物語です。

    このお能の演目の中で、実は源融が、左大臣まで昇りつめながら、藤原氏との政争に敗れ、六条河原に大邸宅を造営して、余生を風雅のうちに過ごたことが描かれています。
    お能では、ひとりの旅の僧がこの六条河原を通りがかったところ、そこで源融の霊に出会う。

    その霊は、かつてここにあった邸宅は、陸奥の塩釜の景観を模したもので、毎日難波から海水を汲んで屋敷まで運ばせ、院の庭で塩を焼かせて楽しみとするという贅沢が行われていたけれど、後を継ぐ人もなく、この河原院は荒れ果ててしまったと嘆きます。
    そして最後は、その霊が、若々しい在りし日の姿・・・つまり「熱心に文武に励み、真剣に民を想って仕事をしていた純粋だった若き日の姿・・・となって月の都へと帰っていく、というのが、この「融」の物語です。

    お能は武士に愛された芸能ですが、なかでもこの「融」は、毎日難波から海水を汲んで屋敷まで運ばせるという贅沢な暮らしが、権力の座から降りた者が行う、いわば「敗軍の将の暮らし」に他ならず、現職にある者はそのような華美な暮らしをするものではない、という、贅沢にひたることの愚かしさをあらわした物語です。
    だからこそ「融」は、お能の代表的な作品として、毎年のように城内で演じられた能楽であったのです。

    その昔、武士は刀槍と具足(ヨロイのこと)以外は何も持たず、屋敷は常にガランとしていることが最上とされました。
    屋敷も贅沢な調度品も、時が建てばすべて失われていきます。
    けれど、今生の武勇と、身に付けた知性は魂となって世代を超越します。
    そしてその知性から生まれる和歌(うた)は、世代を越えて世に残る。
    昭和の軍人も、そうした武士道精神を濃厚に保持した人たちでありました。

    以前にも書きましたが、いまではお能といえば「侘び寂び幽玄の世界」などとばかり強調されますが、まったくこれは間違った見方です。
    そうではなく、武士道の根幹を学ぶための芸能が、お能であったのです。

    武士は子供の頃から、このお能に親しみ、そしてお能によって日本武士として必要な価値観を学び、そのうえで四書五経などの漢学を学びました。
    四書五経で学んだのは、チャイナやコリアの高官たちも同じですが、彼らの国に武士道が育たず、日本に武士道が育った理由は、まさにお能にあったのです。

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  • 9月2日降伏文書調印の日


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    日本は幸いなことに、真実を保持することができました。
    戦後ずっと様々な虚報が流され続けましたが、多くの日本人には知性があります。
    そして日本人が日本人としての知性を取り戻すこと。
    それは、個人レベルの新しい歴史の価値観創造です。

    20200902 戦艦ミズーリ
    画像出所=http://historyjapan.org/the-end-of-pacific-war
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    9月2日は、昭和20年に戦艦ミズーリ艦上で降伏文書への調印が行われた日です。
    世の中には、この日を光復節として、世の中に光が戻った素敵な日だということにしている国や民族がありますが、現実には歴史を紐解けば、その国では「この日までずっと平和だった」のに、この日以降、民族間ですさまじい殺し合いが起こり、なんと200万人以上の民間人が殺戮されています。
    光が戻ったどころか、現実は「地獄になった」というのが、客観的に見た事実です。

    世の中には、個人の利得や、特定集団の利益のために、多くの民衆が犠牲になることをなんとも思わない、とんでもない人たちがいます。
    そしてそういう人たちは、必ず、嘘を正当化して、「これだけが正しい事実だ」と言い張り、他の一切の意見も議論も認めません。
    567もまったく同じ構図ですが、ひとつの見方以外、一切認めないことがあれば、それは多くの場合、意図的な世論誘導であり、その見方自体が虚構であり、世間ではこれを一般にファシズムと呼びます。
    そんなファシズムに小学校時代から騙され続けている民族というのは、哀れなものです。

    けれど、哀れだからといって、手を差し伸べることはできません。
    すれば、余計なことをしたと、かえって手を差し伸べた方が悪者にされるのです。
    歪んだ人々を治す薬は「ない」のです。
    そうであれば、近くにそんな歪んだ人々や国があっても、微動だにしない自分、微動だにしない国に、自分たちがなるしかありません。
    隣人は変わらないのです。
    けれど、自分が強くなることはできます。
    私たちは、もっと強い国になることができるのです。
    そのために歴史があります。

    さて、上の写真は、戦艦ミズーリ(Missouri)の艦上での調印式のときの模様です。
    写真を見るとわかりますが、重光全権と随員(この随員は当時の外務省の職員で、実は加瀬英明先生のお父さんです)は、モーニングにシルクハット姿です。
    ということは、最高の礼装です。

    ひとり白の背広の上下の方がおいでになりますが、これは大田三郎さんという外務省の職員です。
    戦災ですべて焼き出されてしまって、モーニングが間に合わずに、仕方なく背広の上下で出席しました。

    日本の軍人さんも写っています。
    軍人さんは略式の軍服です。
    軍人が正式の礼装をするときは、いまの警察官のような、固いツバのついた帽子をかぶります。
    ところが軍人さんたちは戦闘帽です。
    海軍にいたっては、カーキ色の戦闘服で出席しています。

    どうして軍人が略式の服装だったり戦闘服なのに、外務省の一行は正装のモーニング姿なのでしょうか。
    周囲にいる米国を筆頭とした相手側の人たちも、礼服は着ていません。通常の軍の勤務時に着用する勤務服(SERVICE UNIFORM)を着用しています。

    これらに対して、重光全権ら日本の外務省の一行が正装している理由は何でしょうか。

    これは、外務省の一行が、畏れ多くも天皇陛下を代表する立場であったからです。
    外務省の一行は、敵国に対してではなく、天皇陛下に敬意を表して礼服を着用したのです。
    日本の軍人は、軍の代表であり、正々堂々と戦って敗れたのですから、仇敵に特段の敬意を払う必要がありません。
    ですから略服を着用しているのです。

    小さなこと思われるかもしれません。
    けれど、国際交流というのは、人間関係と同じです。
    小さなことが大きなことなのです。

    この降伏文書調印の日から、日本は正式に「連合国統治領日本」として、連合国に統治されることになりました。
    もっとも連合国とは名ばかりで、実質は米国に統治されることになったわけです。

    しかし日本は、昭和27年には主権を回復し、米国の植民地になることはありませんでした。
    なぜでしょうか。
    答えは簡単です。
    日本に、天皇がおいでになられたからです。

    天皇はヨーロッパなどの王室(King)とは区別されます。
    王(King)より上位にあるのが、エンペラー(Emperor)です。
    日本の天皇は、世界が認めるエンペラー(Emperor)です。

    そしてエンペラーがおわすということは、合衆国とはまったく異なる国体を持つということです。
    ですから天皇の御存在が認められる以上、日本には占領統治は可能でも、日本を植民地として国際法的に支配下に置くことができないし、現にそうなることはなかったのです。

    そうであれば、我々日本人が、すくなくともいま、何かと不便や不自由があったとしても、個人としての尊厳を与えられているのは、天皇の御存在のありがたさのおかげ、ということになります。
    そのことのありがたみは、本来であれば、学校教育でキチンと教えられなければならないことです。
    それができないのは、日本をいまだに「連合国統治領日本」のままにしておきたいという、きわめて不思議な人たちがいるからです。

    そういう人たちは、日本の国旗である日の丸も否定します。
    では、どういう国旗が良いのかといえば、下の図の国旗です。
    これは三色旗と言って、連合国統治領日本を表す国旗です。

    連合国統治領日本を示す旗
    連合国統治領日本の国旗


    そしてこの9月2日の降伏文書調印のあと、翌年5月から極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)が行われています。
    俗に言う「東京裁判」です。

    2年半続いたこの裁判で、判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となりました。
    理由は「平和に対する罪」でした。
    日本が平和に暮らす東アジアの国々を勝手に侵略したというものです。

    ところがこの東京裁判が行われている間、その当の東アジアの諸国は、再び支配しようとやってきた連合国側の諸国と、民族の独立をめぐって、激しい戦いを繰り広げていました。
    まさに侵略者たちと戦っていたのです。

    この一点をもってしても、どちらがもともとの侵略者であるのかは一目瞭然です。
    日本はその侵略者たちと戦い、それらを駆逐していたのです。
    そして、日本が万一にも負けたときにも、現地の人たちが再び戻ってくるであろう欧米諸国と対等に戦うことができるように、日本は彼らに厳しい教練を施していました。

    こうして東アジアの諸国は、激しい戦いの後、独立と被支配からの脱却を実現しています。

    ただ例外もありました。
    それがチャイナとコリアです。

    チャイナは、個人的な蓄財と金儲けのために、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が結託して、欧米諸国と対立関係にあった日本を苦しめることで、欧米諸国から大金を得ていました。
    得た大金は、蒋介石や中共幹部の個人的利益となり、チャイナの民衆に還元されることは決してありませんでした。
    そして日本が敗れた後、連合国から見て用済みとなった蒋介石は、資金力を失いました。
    そこで毛沢東率いる中共は、蒋介石を駆逐し、ソ連のバックアップを得て、昭和24年(1949年)10月1日に建国式典を行っています。
    蒋介石がカネがなくなったから、追い出したとはいまさら言い出せない彼らは、日本と戦って同日建国したと国内向けの歴史書に記しました。

    コリアは、日本が戦いに敗れたあと、日本の朝鮮総督府から日本人が撤退し、半島人だけの手で、統一朝鮮国としての「朝鮮 人民共和国」が成立しましたが、北側がソ連によって、南側が米国によって占領されると、両国はその「朝鮮 人民共和国」の成立を否定しました。
    そして国内で内乱が起こり、結果としていまなお北と南に分割されたままになっています。
    このとき、南朝鮮では、大統領自らが自国民を大量虐殺してまわり、その事実をおおいかくすために、朝鮮戦争は日本からの独立のために、日本と戦ったと偽装しました。

    嘘から始まったこの二国は、いまだ反日のままでいます。
    そして嘘から始まったこの二国は、いま、コロナ騒動下で、国家そのものが破綻しようとしています。

    日本は幸いなことに、真実を保持することができました。
    戦後ずっと様々な虚報が流され続けましたが、多くの日本人には知性があります。
    そして日本人が日本人としての知性を取り戻すこと。

    それは、個人レベルの新しい歴史価値観の創造でもあります。



    ※この記事は2020年の同日記事の再掲です。
    このところ、動画の収録と新刊著の原稿書きが集中するハードスケジュールで、あまりブログを書く時間が取れません。そのためもっぱら過去記事の再掲、もしくはリニューアル再掲になっていますが、更新だけは絶対に続けて行こうと思っていますので、引き続きご贔屓のほど、よろしくお願いします。

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 9月1日は関東大震災があった日


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    毎年、この日に掲載している記事です。
    私達は、地震が起こることを防ぐことはできません。
    しかし地震による被害を最小限に食い止めることができるように備えることは、人の力でできます。
    ですから、我が国は、国をあげて、災害対策に取り組んできた歴史を持ちます。
    その歴史を、現代で途切らせる理由は何もありません。
    私達は国の原点に還ることで、いかなるときでも、豊かで安全で安心して暮らすことができる日本を築いていくべきです。

    20200901 関東大震災
    画像出所=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/92/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    今日は関東大震災があった日です。
    97年前の出来事です。
    関東に周期的に地震が起きていることはよく知られていることで、近いところでは、

     1703年 元禄地震 死者 約1万名
     1782年 天明地震 死者 少数
     1855年 安政地震 死者 7,444名
     1923年 関東地震 死者 約14万人

    などが起きています。
    次の地震までのサイクルは、
     元禄ー天明 79年
     天明ー安政 73年
     安政ー関東 68年
     関東〜現在 97年経過
    であり、もはや関東にはいつ巨大地震がやってきてもおかしくはない状況にあることは、よく知られたことです。

    前回の関東大震災は、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東地方で発生したマグニチュード7.9の巨大地震で、震源地は相模湾北西沖80kmでした。

    被害規模について、前回の関東大震災の死者数が際立っていますが、東京の人口は、元禄、天明、安政、関東とも、およそ200万人余で、ほとんど変化はありません。
    変化がないのに、どうして元禄地震の14倍、安政地震の19倍もの死者が出たのかというと、これは震災後の火災のためです。

    関東大震災においても、地震そのものによる当日の被害は、およそ1万人程度であったといわれているのです。
    ところが、震災後に鎮火したはずの火災が、その翌日から大規模な火災となり、広大な敷地の避難所であっても、そこにいた数万人の人たちが巨大な火炎柱に襲われて、全員焼死したりしています。
    これによる住宅の焼失数はおよそ45万戸に及びます。

    少し詳しく見ると、被害概況は次の通りです。
     死者・行方不明者 14万2800人
     負傷者      10万3733人
     避難人数     190万人以上
     住家全壊     12万8266戸
     住家半壊     12万6233戸
     住家焼失     44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
     その他      868戸

    大津波を伴った東日本大震災でさえ、死者・行方不明者数は18,456人であったのに、どうして関東大震災のときには14万名余が焼死したのか。
    昭和20年3月10日の東京大空襲でも、死者数はおよそ10万人余です。
    つまり関東大震災における火災は、東京大空襲以上のものであった、ということです。

    なぜ、これほどまでに被害が広がったのでしょうか。
    一説によれば、当時の家屋が木造であったためだといいますが、元禄、天明、安政の頃だって、江戸の家屋は木造です。
    人口が違うという人もいるかもしれません。
    江戸時代の江戸の人口は(諸説ありますが)おおむね200万人から250万人であったといわれています。
    手元に大正9年の東京市の人口の資料があるのですが、それによると、震災当時の東京市の人口は、217万3,201人です。
    江戸も東京も、人口は大差ありません。

    また、地震の発生時刻がお昼どきの炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに折からの台風余波による大風が重なって被害を拡大させたともいわれています。
    大風のときに、大火災が発生するということは、江戸時代にも数々ありますが、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(1657年)は、江戸城の天守閣まで焼失させるほどの大被害をもたらしましたけれど、死者数は諸説ありますけれど、ほぼ正確だと言われている史料が3万人余、かなり盛っていると言われている史料であっても、最大で10万人の死者です。
    関東大震災は、それらをはるかに上回る死者数であったわけです。
    どうしてそのようなことになったのでしょうか。

    関東大震災では、地震による直接の被害としては、浅草の凌雲閣(浅草十二階)が大破、当時建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊して作業員300余名が一瞬で圧死するなどの被害が発生しました。
    また、震源に近い横浜では、官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが、石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊し、ここでも多くの死者が出しました。

    日本の民家は木造ですが、これは地震などの災害の際に、「天災によって家屋が倒壊するのは仕方がない。その代わり、すぐに復興できるように木造で建築しよう」という考え方によるものです。
    ですから小規模な火災なら、辻ごとに儲けられた消火桶で消し止めることができますし、大規模火災に至った場合でも、広大な敷地を持つ施設を近隣の指定避難所とし、日頃から避難訓練を施すことで、火災から生き残る知恵を身に着けていたのです。
    過去における震災の死者が少ないのは、このことが理由です。

    関東大震災では、震災発生直後にほぼ同時発生した139件(これは確認されています)の出火は、全部、地震直後に消し止められています。
    つまり震災発生直後に、数千から1万人弱の死者は発生はあったものの、その後の火災による死者は出なかったはずなのです。

    ところが、避難所となっていた広大な敷地に、地震の「翌日」に火災のための火炎柱が襲い、避難していた人々を、まるで炭のように丸焼けにしてしまったのです。
    たとえば、東京の本所区横網町(現在の墨田区内)にあった本所区被服廠は、2万430坪もある広大な敷地内に4万人近い人が避難していました。

    ところがその避難所を火炎柱が襲い、ここだけで3万8千人も亡くなっています。
    集まっていたのは、もちろん地震による家屋倒壊等によって避難を余儀なくされた人達です。
    安全だから、被服廠にいたのです。

    そこを震災後に「消し止め終わっていたはずの火災」が襲ったのです。
    関東大震災による死者数が、著しく多いのは、これが理由です。

    ではなぜ、鎮火したはずの火災が、火災が鎮火して住んでいる人たちも全員避難所に去ってしまったあとに人々を襲ったのでしょうか。

    実は、震災後、人々が避難所に逃げている間、誰もいないはずの街で、爆弾を使った建物破壊や放火が次々と起きています。
    いったい誰がそんな不埒なことをしたのでしょうか。

    当時の新聞の見出しでこれを見てみます。
    (見出しに使われていた朝 魚羊 人の文字は、すべてコリアンに変換しています)

    「コリアン、隊をなして石油・爆弾使い放火」
     (小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)
    「コリアン、各所暴動検束数千名」
     (小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)
    「コリアン、横浜~王子放火」
     (大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)
    「コリアン、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
     (荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)
    「コリアン、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
     (新愛知 大正12年9月4日号外)
    「コリアン浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」
     (名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)
    「コリアン、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
     (福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)
    「コリアン、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」
     (小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)
    「コリアン捕縛 爆弾其の他押収。
     軍隊が治安維持に出動したため、
     不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
     (九州日報 大正12年9月4日号外第三)
    「コリアン暴挙は完全取締を遂行」
     (大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)

    関東の地震なのに、報道は地方のものばかりですが、これには理由があります。
    当時、新聞社は、東京に一局集中していました。
    この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞紙の印刷です。
    地震のとき、東京にあった新聞社では活版印刷のための活字ケースが地震で倒れて活字が散乱し、印刷機能が停止してしまったのです。
    加えて、東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く13あった新聞社が、すべて社屋を焼失してしまいました。

    このため、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付の夕刊を発行するまで、首都の報道機能は、印刷という行程において完全に麻痺してしまっていたのです。
    そこで大手新聞社の記者や、地方新聞の東京、横浜などの支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある新聞社に連絡し、それを営業できる地方の新聞社が印刷して、各地での号外となっていたわけです。

    当時の新聞記事を見ると、震災後の混乱の中で、在日の不逞コリアンたちが連続放火を繰り返したり、略奪、暴行、婦人凌辱等を行い、それらの証拠隠滅のためにさらに放火を繰り返すといった、悪逆非道の限りを尽くしていたことがわかります。
    中には、爆弾まで使って放火や略奪、窃盗をしていた者まであり、これにはやむなく陸軍が出動して鎮圧を行っています。

    このときの内閣は、山本権兵衛内閣です。
    山本総理は震災の翌々日に「公式発表」を行っています。
    「不逞なコリアンについては、
     三々五々群を為して放火を遂行、
     また未遂の事実があるが、
     既に軍隊の警備が完成に近づきつつあり。
     国民のみなさんは、恐れないでください。」
    これは「公式」に行なわれた発表です。

    在日不逞コリアンたちによる略奪や暴行、放火は「事実だった」ということです。
    最近では関東大震災において「コリアンによる凶行はデマであった」という風説がまかり通っています。
    けれどそれがデマでなかった証拠には、
    「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」
    「不逞ではないコリアン保護のため、
     警視庁は取締りを完全に遂行せよとの急告通達を出した」
    (大阪毎日新聞)などの報道があります。
    実際に当時は、軍も警察も暴動の鎮圧に乗り出しているのです。

    現代を生きる同胞には申し訳ないけれど、いまよりも、はるかに人々の徳性が高かった時代です。
    その時代に、東日本大震災に匹敵する大地震が起きたとして、普通の日本人がそこで暴行や傷害、窃盗、放火、強姦、殺戮などの凶行をするでしょうか。
    軍隊を出動させなければならないほどの凶行を日本人が起こすでしょうか。
    もし、日本人の習性に、そのような凶暴性があるのなら、東日本大震災や阪神淡路大震災においても、掠奪、放火、強盗、強姦などの事件が多発したはずです。
    けれどもそれがない。
    ということは、関東大震災で起きた震災後の凶行は、日本人の行ったものではないということです。

    当時、警察には、繰り返し多数の不逞コリアンによる事件通報がはいりました。
    一方、不逞在日コリアンたちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成しました。
    コリアンたちの暴行に備えたのです。

    一方、山本権兵衛内閣は、「不逞鮮人では無いコリア人」の保護を閣議決定し、彼らの収容を決定しました。
    警察では、警視総監の赤池濃(あつし)氏が、
    「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、水野錬太郎内務大臣に「戒厳令の発布」まで建言しています。
    戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。
    これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。

    「東京付近の震災を利用し、
     コリアンは各地に放火し、
     不逞の目的を遂行せんとし、
     現に東京市内に於て爆弾を所持し、
     石油を注ぎて放火するものあり。
     既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、
     各地に於て充分周密なる視察を加え、
     コリアンの行動に対しては
     厳密なる取締を加えられたし。」

    更に警視庁からも戒厳司令部宛に
    「コリアンの中の不逞の挙について、
     放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、
     現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
     この際これらコリアンに対する取締りを厳にして
     警戒上違算無きを期せられたし。」
    と打電しています。

    暴徒と化したコリアンを、日本人は恐れました。
    そして自然発生的に若者たちを中心とした自警団が生まれたのは当然の成り行きです。
    そして自警団は、町に「関所」を設けて、町内や、避難所の安全を確保しました。

    そして関所では、朝鮮語に語頭に濁音が来ないことから、「十五円五十銭」とか「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないとコリアンとして追い払ったりしています。
    なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者まで追い払われてしまったという不幸な出来事も起こりました。
    そして発音のできない者たちが、集団で関所を強硬突破しようとして、争いが起こったり、関所を避けて避難所内に侵入した凶行犯と、自警団がもみ合いになったりという事件が、そこここで起こっています。

    以前にも書きましたが、世界中どこの都市でも、何事もない平時においては、人々は普通に仲良く暮らしています。町には笑顔があり、歌や音楽があり、買い物客があふれ、ビジネスマンが忙しそうに働いています。
    そんな光景や姿は、世界中、どこも同じです。

    問題は、震災などが起きた異常時です。
    世界中どこの都市でも街の治安が一気に破壊され、略奪や暴行が日常化するのです。
    そうならないのは、日本くらいなものです。

    ところがその日本で、略奪暴行傷害強盗強姦放火が多数起こったのです。
    そして日頃おとなしい日本人が、自警団まで組んでいます。
    これは、震災直後の日本人が、そうしなければならないほどまで「追いつめられていた」ということです。

    横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、コリアン約300名を保護しました。
    普通なら、警察がいっぺんに300人も保護するなどということはあり得ません。
    1 一部の不逞コリアンが悪行を働いた。
    2 やむなく日本人が自警団を組んだ。
    3 コリアン居留区への報復攻撃が行われると、事態がさらに混乱する虞れがあり、やむをえず警察がコリアンを保護した、という流れです。

    案の定、警察が保護したことを知った地元の自警団約1000人が、犯行を行ったコリアンたちを差し出せ、と警察にやってきました。
    署長の大川氏は、
    「コリアンを諸君には絶対に渡さん。
     この大川を殺してから連れて行け。
     そのかわり私が諸君らと命の続く限り戦う」
    と言って自警団の人たちを追い返しています。

    さらに大川所長は、
    「毒を入れたというなら、その井戸水を持ってこい。
     その井戸水を俺が飲んでみせよう」
    とまで言って、その場で一升ビンの水を飲み干したりもしています。

    こうして署長は、コリアンたちを守りました。
    たとえ、同胞が殺されたとしても、あくまでもそれは個人の犯罪であり、民族で十把一絡げにしてはいけない・・・これは古来変わらぬ日本人社会の姿勢です。

    軍隊も多くのコリアンを保護しています。
    また警察は、コリアン・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
    殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名にも及びました。
    これは、当然のことであろうと思います。
    手を出せば、その手を出したことについて、取締がなされる。
    それは治安を維持する上で、当然のことだからです。

    ただし、それが有罪であるか否かは、また別な問題です。
    毎度書いていることですが、「挑発」を受けて、つまり先に被害にあって、これに対応して武力を行使するのは、暴力ではなく、正当な生存権保持のための自衛行為です。
    喧嘩を売られて、やむなく相手を殴り倒して怪我をさせたとしても、そもそも因縁つけて喧嘩を売ってきた方が悪いのです。あたりまえのことです。

    本来、震災時にあっては、互いに助け合い、被災者の救助や火災の延焼をみんなで協力して防がなければなりません。
    また怪我人を救出したり介抱したり、老人、婦女、子供たちの安全を確保し、食料や水の確保や、安心して用便ができる環境をつくったり、風呂などの用意をしたりと、互いに協力しあって、ひとりでも多くの人が救出され、また安全を確保できるようにしていかなければなりません。
    けれど、そういうことがあたりまえに出来るということが、日本にとっては常識だけれど、これまた世界では非常識です。

    さらにいえば、生き残った日本人が互いに助け合おうと努力しているところを、一緒に助け合うどころか、逆に暴徒となって日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦し、放火する。
    あるまじき行為ですが、そういうことを、混乱時だからこそ、喜んでやってしまう人たちがいたということは、今後においても、しっかりと考え、対応しなければならないことだと思います。

    横浜の鶴見警察では、大川署長の男気で、日本人自警団たちも、納得し解散しています。
    けれど、似たようなケースで、戦後の混乱期には、警察署そのものが襲撃され、放火されて丸焼けにされたというケースが何件もありました。

    このときの関東大震災の問題が再燃したのは、関東大震災から30年経って、人々の記憶から当時の不逞コリアンの凶行のの記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。
    タイミングとしては、ちょうど日本がサンフランシスコ講和条約によって主権を回復した翌年にあたります。

    それまで占領統治の、というか植民地統治のセオリーである、「その国内にいる少数民族を手なずけ特権を与えることで、言葉の通じない当該国の民衆を支配する」という古来変わらぬ植民地統治の手法で、コリアンたちが厚遇され、また、この頃に終わった朝鮮戦争によって、大量のコリアン難民が日本にやってきていました。

    難民たちは不法入国者ですが、朝鮮戦争当時の日本には主権はありません。
    難民が押し寄せてきても、これを武力を用いて追い払うことも、逮捕投獄することもできません。
    ですから、数十万人が日本に上陸していました。
    そうした人たちは、本来であれば不法入国者ですから、朝鮮戦争が終わり、半島内の治安が回復した時点で、朝鮮本国に送り返さなければならない人たちでした。

    ところが朝鮮半島は、身分差別の著しいところです。
    帰れば、「こいつらは俺たちが戦っているときに敵前逃亡して逃げた奴らだ」とののしられるし、戦争が終わったと言っても、いつまた政府によって殺されるかわからない不安な状態にありました。
    だからなんとかして日本に残りたかった。
    そのために、自分たちはもとから日本にいて、日本人によって差別されてきた弱者だと、突然、本末転倒の主張を繰り広げ始めたのです。
    それが当時の在日コリアンたちによる、「関東大震災のときにコリアン達がいわれなく6000人も殺された」と言うデマです。

    そもそも6000人という人数自体、いきなり降ってわいたような何の根拠もない数字です。
    それをいうなら、6000人という曖昧な数字ではなくて、具体的に何名が殺されたのか。
    そのひとりひとりはいかなる状況で亡くなったのか、具体的に特定をしていただきたいものです。
    もっというなら、不逞コリアンによって、12万余の日本人が殺されているのです。

    人は、極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、同じパターンの行動をとります。
    小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口で泥棒をします。
    喧嘩でも、大声を出す人は必ず大声で怒鳴りちらすし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手をあげます。
    日本にはない習慣ですが、何かあったら大声でウソ泣きをして泣き叫ぶ。これまた特定の出自の人たちの特徴です。

    ところが日本人は、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。
    旧日本軍の軍人さんたちがそうでしたし、近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンがみられます。
    むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりします。
    教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきとしかいいようがないことなのかもしれません。

    ひとつ大事なことを書いておきます。
    関東大震災の歴史を通じて、私はコリアンが民族として全部がおかしな人たちとは思わないし、そのように主張する気もありません。
    コリアンでも、日本人よりも立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でないコリアン達の方が、むしろ数の上では圧倒的に多かったのです。

    けれども日本人のなかの、たった数名がテルアビブでハイジャック事件を起こしただけで、後々まで日本人はハイジャックをすると言われ続けなければならないのです。
    悪行は、犯行を犯した者が、たったひとりであったとしても、あとあとまで「◯◯人は」といわれてしまうものなのです。
    だからこそ、本来なら彼ら自身のコミュニティにおいて、彼ら自身がよりまっとうな日本での生活者として身を律することを学んでいただきたいと思うのです。

    歴史は学ぶためにあります。
    なぜなら歴史は「繰り返す」ものだからです。

    繰り返しになりますが、関東大震災で問題を起こしたのは、「不逞在日コリアン」です。
    そうでないまっとうなコリアンもたくさんいたのです。
    終戦直後、朝鮮半島を経由して日本人が帰国するとき、日本人に対して居丈高になって酷い仕打ちをしたコリアンもたくさんいました。
    がその一方で、必死になって日本人を助けようとしてくれた数多くのコリアンもいました。
    だからこそ、多くの日本人が日本に帰ってくることができました。

    現代でも日本国内で悪いことをする在日コリアンがいます。
    すぐにカッとなり、激情に駆られやすい半島の人は、悪意ある人達には利用しやすいという側面もあるようです。

    その一方で、日本人以上に日本的価値観を学び、一生懸命生きている在日コリアンもいます。
    問題は、彼らのコミュニュティや、彼らの本国である韓国が反日であることを是としている反日の在日コリアンたちです。
    彼らは日本人に対する犯罪行為を、むしろ煽り、彼らの行う犯罪行為までも正当化してきました。
    そして日本人がこれを指摘すると、「ヘイト」だの「差別」だのといい出しています。
    これはおかしなことです。
    なぜなら、犯罪は犯罪でしかないからです。

    終戦後、日本がまだ貧しかった頃に朝鮮戦争が勃発しました。
    北朝鮮が、南朝鮮に攻め入り、南朝鮮の李承晩は、同国人を片端から虐殺しながら、南下してついには釜山まで追いつめられました。
    このとき戦ったコリアンの金錫源将軍は、日本の陸士を卒業した方ですが、おなじく日本兵だった経験を持つ韓国人兵士たちの一軍を組織し、まさに帝国軍人の面目躍如といえる勇敢な戦いをされています。

    一方、多くのコリアンが済州島を経由して、難民として日本に上陸しました。
    裸一貫で、何も持たずに日本に上陸してきたコリアンたちを、当時の日本人たちは、自分たちが貧しいのにも関わらず、彼らの生活や食事、風呂や衣類まで誠実に面倒をみています。

    悪いこともたくさんありました。
    けれど、良いことも、ちゃんと歴史に残っています。

    残念なことですが、戦後に韓国が建国されて以来、韓国政府が韓国国民のための政治を行ったのは、前・朴政権のときだけです。これによって、韓国は漢江の奇跡と呼ばれる大発展を遂げることたできました。
    ところがそれ以外では、韓国の政治は常に韓国の政府高官のフトコロを肥やすことだけのために政治が行われています。

    そして昨今の韓国は、まるで昔あった地元の上場企業を脅してカネをたかる暴力団の姿そのものです。
    地域経済がその企業によって成り立っているのに、その企業をゆすり、たかり、食い物にしようとする。
    前民主党政権のときはよいカネになったのに、安倍政権になってから、カネをもらえないので、かさにかかって派手なゆすりを展開しているのも彼ら反日グループです。

    けれどそのゆすりに負けてカネをわたしたところで、韓国民の生活はひとつも良くなりません。
    なぜならそのお金は、全部、上の方の偉い人のフトコロに入り、庶民の生活向上のためには、まったくお金が遣われることがないからです。

    まっとうなコリアンと不逞なコリアン。
    まっとうな日本人と不逞な日本人。
    まっとうなアメリカ人と不逞なアメリカ人。
    それらはどのように区別したら良いのでしょうか。

    現実には区別などできるものではありません。
    戦時においては、戦時国際法において、民間人の中に便衣兵が隠れていたら、その辺り一帯にいる人は皆殺しにしても良いことになっています。
    この場合、民間人か便衣兵かの区別はありません。
    区別などしていたらこちらが殺されてしまうからです。
    しかしいまは平時です。
    しかも不逞半島人は戦争をしているわけではない。

    悪いことをすれば日本人だろうがアメリカ人だろうが、世界中どこの国や地域に行っても警戒されるし処罰されます。
    要するに反日は徹底的に取り締まることがまずは大事です。
    しかし犯罪の処罰というものは、犯罪の実行者に対して与えられるものです。
    関東大震災の混乱に乗じて、では火付けや強盗などを働いていたのは誰なのか。
    その特定は困難です。

    江戸時代までのにほんでは、だから「犯罪を犯しそうな者を処罰する」という仕組みが採られてきました。
    そして実際に犯罪が行われれば、その咎は、その一族郎党、身内親類縁者に及びました。
    さらに、近隣に住む者、家主や管理人も処罰の対象となりました。

    実はわたしは、ここにしか他に方法がないと思っています。
    どういうことかというと、私達日本人は、千年以上も古い昔から、悪いことをしたら「自分に責任がある」という概念を共有しています。
    誰も見ていなくても、お天道様が見ているのです。
    悪いことをしたのか、しなかったのか。
    それが悪いことであったのか、なかったのか。
    私達は胸に手をあてて考え、悪いことをしたと思えば、自ら責任を取る、という、これは日本古来の文化です。

    ですから、政府やおかみや官憲によって逮捕され、強制的に責任を取らされるということを不名誉なことと考えられてきました。
    それは、どこかの国の人たちが、「捕まったから不名誉」とするものとは異なります。
    責任は自分でとるものだから、おかみの手をわずらわせた、ということが、日本人にとっては、もう、不名誉なのです。

    見つからなければ、捕まらなければ何をやっても良いと考える人たちと、
    見つかろうが見つからまいが、責任は自分で取る、という人たちとでは、その文化や民度の違いは天と地ほどもあります。

    だから、日本では最初の律令が出来たのが、701年の大宝律令ですが、刑法を意味する「律」は、結局明治になってドイツ刑法を、まるごと真似て作った現行刑法が生まれるまで、なんと1200年もの間、我が国に刑法は完成しなかったのです。
    むしろ刑法は、あったほうが、民度を下げるからです。

    どういうことかというと、刑法で悪事を定めれば、刑法に書かれていないことなら、どんな悪事でも許されることになってしまうし、刑法に書かれていたとしても、現実の問題として、
    「第八十一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する」
    と書いてあっても、では外国とは何か、通牒とはどういう事を言うのか、この場合の武力とはどの程度のものを指すのか等々、細かな点をあげつらえば、現実にスパイ行為を働いたとしても、その99%は逮捕に至らないし、たとえ逮捕されたとしても、裁判で有罪にすることは、現実に非常に困難になるのです。
    けれど、外国と結んで日本に損害を与えたかどうか、それを本人がちゃんと自覚するという文化があれば、そもそもそういう法律事態が不要になるのです。

    つまり日本は、民度を高く留めるために、意図して刑法を作らずに1200年、やってきたのです。
    それが明治に入って、日本よりも千年以上、遅れた文化を持つ国の制度を真似るという、愚行をするから、現代の混乱を招いています。
    そして、このことは同時に、日本よりも千年遅れた外国の文化を「文化」と思っている人たちや、そもそも不正な暴力団が支配層として君臨していた国の人たちと日本人では、あまりに民度が違いすぎるということを意味します。

    さて、首都圏直下型大震災は、いま、関東に住んでいる皆さんにとって、これはまさに「いまそこにある危機」です。
    歴史を振り返れば、冒頭に記した元禄、天明、安政の大地震などは、これまでおおむね70年周期で起こっています。
    今年は関東大震災から94年目です。
    こんなに長く関東に大型地震が来ていなかったときは、過去の歴史にないのです。
    ということは、関東は、いつ大規模地震が来てもおかしくない状況にあります。

    1923年の関東大震災の頃の京浜地区の人口密集地の人口は約380万人くらいでしたが、いまの首都圏の人口集積地の人口は、約2千万人です。5倍です。
    前回の関東大震災では、東京の人口の約3%が死亡したわけですが、同じ比率で次の首都圏直下型地震が起こると、死者・行方不明者の数は600万人に及ぶことになります。

    ところが首都圏の高速道路や、幹線道路、道路に架かっている橋や、ビルの多くは、昭和39年(1964)を前にして建設された建物や構造物が多い状況にあります。
    鉄筋コンクリート造りの建物や橋、高架橋、地下鉄を含む地下通路等の都市インフラは、そもそも最初の設計段階で耐用年数が50年です。
    もともとそういう設計なのです。
    もう50年の耐用年数を20年以上過ぎています。

    老朽化した橋や建物、高架鉄道、地下鉄路線など、抜本的なリニューアルや整備を行わないと、次に必ず襲ってくると予想されている震災に間に合いません。
    そのために政府は予算を計上するのだけれど、ところが工事を請け負う業者が不足しています。

    競争入札をすると価格の叩き合いになって、利益がないから、技術力のある国内の建設土木事業者では、修繕工事の受注が難しいのです。
    そうなると、韓国系などの業者が、安く工事を落札します。
    その韓国では、手抜き工事による新築ビルの倒壊や、橋の倒壊が頻繁に起こっています。

    さらに東日本大震災のときに大きな被害をもたらした津波被害の大きさも予測されます。
    とりわけ東京の湾岸部は、ほぼ、東京五輪以降の埋立地ですから、そこに津波が襲った場合、古くにあった被害とは比べ物にならないほどの大災害が予測されるわけです。

    震災直後の救助体制の問題もあります。
    大災害の勃発時、住民が頼りにするのは、自衛隊、警察、消防、都庁、各区役所等ですが、災害発生時のこれら行政組織が、どのように連携し、どのように救助や被災者の救出、あるいはライフラインの確保をするのか、相互の連携はどうするのか、総合指揮は誰がどのようにとるのか等、ことは人命にかかわることだけに、きわめて重大な問題です。
    にもかかわらず、現在の都知事は、東京五輪の日本単独開催には反対のようですが(韓国と共同開催にしたいようです)、震災対策には、ほぼ無関心です。

    メディアがまったく報道しないことですが、震災後の暴動の問題があります。
    民度が下がり、また外国人の特に多い首都圏で、この暴動が発生しない、もしくはそれを混乱の中で機能的に鎮圧出来る体制は、いまの日本にありません。
    こんなことで良いのでしょうか。

    このところあちらこちらで申し上げていることですが、わが国は「農業国家」であったとよく言われるけれど、実はそれは言葉足らずで、もともと日本人は3万年以上も海洋族として生きてきた歴史を持ち、わずか2681年前に、稲作を中心とした国造りが行われるようになってからも、常に自然災害と正面から向き合って暮らしてきた歴史を持ちます。
    わが国は、古来「災害対策国家」であり続けた国なのです。
    この形が崩れたのは、戦後になってからのことです。

    災害とは、国家における緊急事態です。
    そして緊急事態に平時から備えることは、災害の多い日本では、政治のもっとも大きな役割です。
    このことは、私たち日本人はあらためて確認し、認識すべきことです。

    巨大地震は恐ろしい出来事です。
    けれど前回の関東大震災(1923年)による犠牲者の9割以上は、震災による死亡ではなく、震災後の火災、それも放火によるものでした。
    そしてその放火は、人為的にもたらされた不逞外国人によるものでした。

    このことは、冒頭に述べた過去の関東の震災のみならず、
    阪神淡路大震災(1995年)の当日死亡者が5036人であったこと、
    東日本大震災の死者が津波被害を含めて1万5786人であったことをあわせ考えても、
    関東大震災の犠牲者が、突出して多かったことは、あきらかに異常な事態であったといえます。

    地震が起こることを防ぐことはできません。
    しかし、震災による被害を最小限に食い止めることができるように、日頃から備えることは、人の力でできることです。
    我が国は、国をあげて、災害対策に取り組んできた歴史を持ちます。
    その歴史を、現代で途切らせる理由は何もありません。

    私達は日本の原点に還ることで、いかなるときでも、豊かで安全で安心して暮らすことができる日本を築いてくべきです。


    ※この記事は2009年の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

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