• 寒椿と平敦盛


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    豪勇無双な武士(もののふ)として知られる我が国の武人。彼らは、ひとえに情を知る者たちでもありました。なぜなら武人といえども、高い教養を持っていた。ここに日本の原風景があります。

    寒椿
    20180118 寒椿
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    治承8年2月のことです。
    いまでは神戸(こうべ)と呼ばれているかつての福原(ふくはら)の地でのこと。
    人馬が越えることができない鵯越(ひよどりごえ)て進んできた源義経の一行70騎、一ノ谷にあります平家の陣営の裏手にあります崖の上から、一気に平家一門に襲い掛かります。

    一方、この月のはじめに後白河法皇から源氏との和平の勧告を受けていた平家一門、戦いを避けようとして海上に浮かぶ船の上に逃れて行く。

    このとき少し遅れて船に戻ろうと、海に馬で4〜5段乗り入れていた平敦盛(たいらのあつもり)、練貫(ねりふき)に鶴を刺繍(ししゅう)した直垂(ひたたれ)に、萌黄匂の鎧(よろい)に身を包み、鍬形(すきがた)に打った兜(かぶと)の緒を締めて、黄金つくりの大刀を腰に穿(は)き、切斑(きりまだら)の矢立を背負って、滋藤(じふじ)の弓を手に持つという、美しい姿です。

    その様子を見つけたのが、源氏の猛将・熊谷直実(くまがいなおざね)、扇をあげて呼び止めると、
    「あれは大将軍(だいしょうぐん)とこそ
     見参(みまいら)せ候(そうら)へ。
     卑怯にも敵に後ろを見せさせたもうものかな。
     返させたまえ!」と声をあげた。

    このように言われ、背中を見せるは武門の恥。
    やむなく取って返した熱盛を、熊谷直実、馬の上から組み落とし、首を斬ろうと兜を上に持ちあげる。
    すると。
    そこにあったは、数え年16〜7歳(いまの15〜6歳)の美少年。
    顔には薄化粧、歯にはお歯黒を染めている。
    見れば、我が子と同じ年頃の少年です。


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  • 災害対策都市としての江戸時代の町並み


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    生き残りさえすれば、また復興することができる。
    生命をつなぐことができる。そういう文化をしっかり持っていたから、日本は上はお役所から、下は民衆に至るまで、木造建築物に住んだのです。
    これらは私達が日本列島に住む以上、常に考えていかなければならない課題です。
    通りすがりの出稼ぎで、いまだけ稼げれば良いというドヤ街を作った人たちとは違うのです。

    20200120 印旛郡
    画像出所=http://happy60s.net/2017/03/20/bousounomura/
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    上にある写真は、江戸時代の街並みの残る千葉県印旛郡栄町の写真です。
    ご覧いただいて、どのようなことにお気づきいただけるでしょうか。

    1 道路に面して家の屋根の向きが皆同じ
    2 家屋が木造で二階建ての家しかない
    3 道路が未舗装だけれどゴミがない
    4 各家に土間がある
    5 空が青空
    6 道路が意外と広い・・・

    等々、さまざまなお気づきがあるかと思いますが、大事なのは1と2です。(3もかな)

    道路に面して切り妻の屋根の向きが皆同じで、しかも二階屋しかないということには、実は理由があります。
    災害対策のためです。

    木造住宅ですから火に弱くて、火災が発生すると町がそっくり焼けてしまうというリスクがあります。
    ですから日頃から火事にはみんなで気をつけるし、万一火災が発生したときには、ボヤのうちに消し止めれるようにと、火の用心の防火桶などを辻ごとに設置したりもしました。

    それでも火災が大火になることがあります。
    そのときは、町火消しさんの出番で、町火消しさんたちは、延焼を防ぐために家を引き倒したのは、皆様ご存知の通りです。
    このとき、道路側に引っ張って倒した家屋が、向かいの家を壊したらなんにもなりませんから、道路の幅は、家の高さに比例するように建てられました。

    ですから基本的に家屋は二階屋までです。
    三階建や四階建ての家屋をつくるだけの建築技術は、お城などに明らかなように、すでに大昔に確立していましたが、火災の延焼を防ぐために(家を引き倒すから)、家屋は二階屋までとされていたのです。

    長屋のような平屋建ての住宅の場合は、道路幅は、上の写真のものよりもずっと狭くなります。
    要するに、家屋の高さに応じて、道路幅が決められていたのです。

    ちなみに江戸時代の五街道(東海道、甲州街道、日光街道など)の道幅は、意外に思われるかもしれませんが、だいたい1.5メートル程度でした。
    ですから大名行列なども、みんな一列縦隊です。
    それが町中に入ると、道幅が広くなりました。

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  • マルコポーロと豊玉姫命(とよたまひめのみこと)


    1月16日(土)倭塾開催します。

    20201224 真珠
    画像出所=http://shinju.or.jp/item/y-n-592/
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    小名木善行です。

    マルコポーロの『東方見聞録』は、知らない人はいないと思います。

    マルコポーロはベニスの商人の家に生まれた人で、叔父がモンゴル高原の古都、カラコルムに滞在したことから、彼も父に伴われてローマを出て、1275年にカラコルムに入りました。
    ポーロは、元朝に17年仕え、その間に日本のことを耳にし、弘安4年(1281年)に元軍が日本のために殲滅されたことも知っていました。
    元の王女がペルシャの王に嫁ぐのを送って、厦門(あもい)を発し、1295年、無事にベニスに帰っています。

    時あたかもベニスは、同じくイタリアの北西部にある海洋商業都市のジェノバの艦隊に襲撃され、マルコポーロもまた部将として戦い、敗れて俘虜の身となりました。
    『東方見聞録』は、その際の獄中の作です。

    この『東方見聞録』にあるジパングに関する記述をご紹介してみようと思います。

     ***

    ジパングは、大陸から1500里の東方の洋上にある一大島です。
    住民は白色にして、教養高く、かつ儀礼醇厚(じゅんこう・人柄などが素朴で、人情にあついこと)です。

    彼らは偶像を崇拝していて、いかなる国にも従属していない。
    その無限に産する巨額の黄金についていえば、国王はその輸出を欲せず、さらに加えて大陸から遠隔な地であるため、たずねる商人もまたわずかであるから、彼らの黄金はますます豊富になってきた。

    私はその君主の宮殿について、驚嘆すべき事実を語ろうと思う。
    壮大な宮殿は、あたかも我らの教会堂が鉛をもっておおわれているように、全部が目もまばゆい黄金をもっておおわれ、このためその価値を評価することは、ほとんど不可能に近い。

    なお、宮殿一切の敷石、および床板は、版石のように黄金で敷き詰められ、かつ指二本分の厚さを持っている。
    窓もまた、黄金で作られている。
    この宮殿の豪華なことは、まったく筆舌につくしがたいものである。

    また彼らはおびただしい真珠を持っていて、その真珠たるや、バラ色で大粒、しかも歪みのない球体をしている。
    その価値は、白真珠に比べて、まさるとも劣らない。

    この島では、死人のあるものは埋葬され、他は火葬に付せられる。
    遺体を火葬にするときに、口に一個の真珠を含ませる習慣がある。
    また、真珠以外にも、豊富な宝石を有している。

     ***


    「住民は白色」というのは、東洋の諸国の中にあって、日本人が色白であることを指しています。
    これは本当で、日本人は他の東洋人と比べて色が白い。
    「偶像崇拝」というのは、仏教の仏像のことを言っているのであろうといわれています。

    当時の世界にあって、日本が世界最大の黄金の産地であったことは事実です。
    しかし皇居が黄金でできているというのは、伝聞にしても、すさまじい。
    ただこの時代、元の属国であった高麗王が、フビライに日本を攻めるよう建言したとき、日本をあたかもそのような国であるように誇張して宣伝したことが、騎馬での戦いを中核とする元が日本を攻める理由のひとつとなったともいわれています。
    迷惑な話です。

    真珠は、西洋では「月のしずく」「人魚の涙」などと呼ばれ、クレオパトラが酢に溶かして飲んでいたという話は有名です。
    いまでは南米のベネズエラが真珠の産地となっていますが、これは1498年スペインのコロンブスの第三回航海の際に、ベネズエラで真珠を手に入れたことによります。
    ヨーロッパから、スペインは西廻りに、ポルトガルは東廻りで世界を制覇していこうとしましたが、そのポルトガルでは、バスコ・ダ・ガマがセイロン島で真珠を手に入れています。

    実はこのスペイン、ポルトガルとも、マルコポーロが東方見聞録のなかで、インドと日本に美しい真珠があると紹介したことが、大航海時代の幕開けに結びついています。
    もっともその日本は、後に鎖国をしたことによって、西欧による世界の真珠争奪戦に巻き込まれずに済みました。

    日本はもともと、古代からアコヤ貝の一大産地で、日本の真珠は魏志倭人伝や後漢書にも登場しますが、日本の真珠は白真珠であって、そのことは海幸彦と豊玉姫(とよたまひめ)の神話にも登場します。
    マルコポーロは、赤真珠だと書いていますが、これは赤珊瑚と、白真珠がごっちゃになったものでしょう。

    その豊玉姫の御歌が遺されています。
    皇子を産んだ豊玉毘売は、産褥の姿を夫の山幸彦に見られてしまい、海の国に帰ってしまいます。
    けれど夫が恋しい。
    そこで詠んだ歌です。

     赤珠は 緒さへ光れども
     白珠の 君が装(よそ)ひし
     貴(たふと)くありけり

    「赤珠」が赤サンゴのことで、その美しさから緒紐(おひも)まで光り輝くようにさえ見える。
    「白珠」は豊玉毘売のことで、海の豊かさを象徴する姫=豊玉姫=白真珠です。
    その「白珠」を、夫である「君が装(よそ)ひし」ですから、夫婦の愛の暮らしです。
    その暮らしが「貴い」とあります。
    これが「ありけり」で、「けり」は「ける」の連用形ですから、「とても貴かったわ」となります。
    意訳すると次のようになります。

     美しい赤サンゴは、緒までも光るといいます。
     けれど私(豊玉=白珠)が、愛する貴方といた日々は
     それ以上に貴くたいせつな日々でした。

    さてその真珠が、ヨーロッパでたいへんな高値で取引されていたことから、高知の藤田昌世が1916年に養殖真珠の技術を開発しています。
    ところがこのことが1921年にヨーロッパで、天然真珠に養殖真珠が紛れ込んでいるとしてスクープされて問題になり、パリの真珠市場が閉鎖されたり、養殖真珠の排斥運動が起きたりし、このことが1929年のブラックマンデーにはじまる世界大恐慌のひきがねのひとつにもなったと言われています。
    そしてヨーロッパの真珠市場は、壊滅状態になってしまうのです。

    ところが、その真珠の美しさを、あらためて復活させたのがココ・シャネルで、シャネルが「コスチュームジュエリー」として真珠を多用したファッションを流行させたことから、あらためて真珠が大きな市場を形成するようになりました。

    大東亜の戦いのあと、GHQは、日本国内での真珠販売の一切を禁止し、国内で生産された真珠の一切をGHQに納付させました。
    昭和23年に真珠販売が解禁されると、真珠は日本の輸出産業最大の花形となり、日本経済復興のための最初の起爆剤となっています。
    それはなんだか豊玉姫神のお働きであられたかのようです(私は本気でそうだと信じています)。

    いま、刻々と伝えられる大統領選の情報が、様々な権謀術数を見せています。
    その模様は、ハリウッド映画ですら敵わないほど。
    はたしてどのように決着するのか、ハラハラドキドキで過ごしておいでの方も多いかと思います。

    けれど、どんなに紆余曲折があっても、最後は、豊玉毘売のやさしさやおもいやりが、人々を救うのです。
    そしてそれこそが、我々日本人の進むべき道であり、豊玉毘売神の御心なのであろうと思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行でした。


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  • 昭和の赤穂浪士ー日本人の覚醒と行動をハバロフスク事件で考える


    「ねずラジ」は、筆者が12年にわたって書き綴ってきたブログの記事4000本の中から、選りすぐりの記事をベースに対談形式でお届けするラジオ番組です。もちろん、ただ過去記事を読み上げるだけでなく、その都度補足しながら、より理解が深まるように話しています。意外と人気で、リスナーが多いのでびっくりしています。
    詳細はこちら→https://www.ishikikaikaku.jp/nezuraji/

    人を人として考えない。モノや使い捨ての道具のようにしか思わない。まるで鬼畜外道の振舞ですが、実はそれが世界の標準であるといえます。
    日本だけが違う。ご皇室をいただく日本では、ご皇室という国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」と規定されます。権力は、ご皇室のもとで、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるように責任を持つことが役目です。そういう国家のカタチは、世界の中で日本だけが持っていた、これこそが誇るべき日本のカタチだし、戦前戦中の日本人が必死で戦って護ろうとしたものです。

    20201227 シベリア
    画像出所=https://www.asahi.com/and_travel/20170712/6381/
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    小名木善行です。

    日本人が目覚めるときというのはどういうときなのか。
    目覚めたとき、日本人はどのような態度をとるのか。
    このことについて、「ハバロフスク事件」を題材に考えてみたいと思います。
    「ハバロフスク事件」というのは、かつてシベリアに抑留されていた人が、日本人としての誇りに目覚め、立ち上がった事件です。

    シベリアに抑留された日本人は、十年間、ひたすら恭順の姿勢をとり続けていました。
    「民主化」と称する旧ソ連流の共産主義教育にも大人しく従っていました。
    その日本人が、ある日、立ち上がったのです。
    それは銃を手にした戦闘とは、まったく異なる実に日本的な戦いの姿でした。

    大東亜戦争終結後、ソ連は、旧関東軍の将兵をシベリアに抑留しました。
    ソ連兵の態度は、まったく威圧的で情け容赦なく、
    「我々は、百万の関東軍を
     一瞬にして壊滅させた。
     貴様等は、敗者で、囚人だ」
    と、何かにつけ怒鳴ったのだそうです。
    もう本当に「嘘を言うな!」とこちらが怒鳴りたくなりますが、ソ連兵は銃を持ち、こちらは丸腰だから、悔しいけれど抵抗できない。

    現実には、そもそも終戦時、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされていて、満州には戦えるだけの戦力がありませんでした。
    そういうところにいきなり日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦してきて、強奪と暴行の限りを尽くした卑(いや)しい見下げ果てた連中が、「自分たちは勝者である」と威圧的態度をとる。
    腹がたって仕方がないが、生きてさえいれば、いつの日か、必ず祖国に帰ることができる。
    生きて家族に会うことができる。
    その一点のためだけに、彼らは、腹の立つのをぐっとこらえて、耐え続けていたのです。

    しかし従順に職務をこなす日本人捕虜たちに対して、ソ連兵が行ったのは、徹底的な酷使です。
    日本人は黙って言うことを聞くから、もっともっと酷使しちまえ!というわけです。
    人を人として考えない。
    モノや使い捨ての道具のようにしか思わない。
    まるで鬼畜外道の振舞ですが、実はそれが世界の標準です。
    日本だけが違う。

    ご皇室をいただく日本では、ご皇室という国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」と規定されます。
    権力は、ご皇室のもとで、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるように責任を持つことが役目です。
    そういう国家のカタチは、世界の中で日本だけが持っていた、これこそが誇るべき日本のカタチだし、戦前戦中の日本人が必死で戦って護ろうとしたものです。


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  • 高松城と清水宗治


    察するという文化なしに、ただやみくもに議論するなら、それは「考えることをしない議論」になります。考えもなしに、ただ議論するのなら、それは互いに「言い張る」ことにしかなりません。つまり、微細な違いをとりあげての強弁や、偽りを真実と言い換える詭弁ばかりが横行することになります。これでは、互いに議論を交わすことでより高い次元の知見を得ようとする英語圏のディベートにさえおよばないものとなってしまうのではないでしょうか。

    高松城水攻めの図(高松山妙玄寺)
    20201226 高松城水攻めの図
    画像出所=https://myougenji.or.jp/about/mizuzeme/
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    小名木善行です。

    戦時中の国民学校(いまの小学校)の6年生の國語の教科書から、「ひとさしの舞」という、高松城水攻めに際しての城主清水宗治(しみずむねはる)の物語を転載しようと思います。

    ときは天正10年4月、秀吉が信長の命を受けて中国の毛利輝元を攻めたときのことです。
    この報を受けた輝元の叔父の小早川隆景は、いちはやく備前、備中の諸城を固く守られたのですが、秀吉の軍勢に押されて、次々に落城し、ついに、高松の一城を残すのみとなりました。

    高松城は、周囲をヤマで囲まれた一面の沼地で、道は、わずかに和井元口と、地下口との二筋があるばかりの要害堅固な名城でした。
    城主は、知勇兼備の将と言われた清水宗治で、この主のためには生命を惜しまない5千の部下が、城を守っていました。
    さすがの秀吉も、これには攻めあぐんでしまうのです。

    このときたまたま部将であった黒田孝高が水攻めの計を献じたのを幸い、大堤防を築いて足守川の水を注ぎ込み、さしもの高松城を水浸しにしてしまうところから、この物語は始まります。

    *********
    【国民学校初等科國語6
     二十 ひとさしの舞】


    高松の城主清水宗治(しみずむねはる)は、急いで天守閣へのぼった。
    見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流がものすごい勢で流れ込んで来る。
    「とうとう、水攻めにするつもりだな」
    この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになるのも、間はあるまい。
    押し寄せて来てるる波を見ながら、宗治は、主家毛利輝元を案じた。
    この城が落ちれば、羽柴秀吉の軍は、直ちに毛利方を攻めるに違いない。



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  • 漢字渡来以前に日本に文字はあったか


    日本には文字がなかったという風説の根拠になっているのが『隋書・倭国伝』です。そこには「無文字。唯、刻木、結繩。敬佛法於百済求得佛經始有文字」と書かれています。
    この文は、現代語訳すると、
    「(倭国では)仏典に用いられている楷書体の文字は使われていなかった。もともとは、刻木(こくぼく)文字や結繩(けつじょう)文字(縄文文字)が使われていた。(倭国は)仏法を敬(うや)まうようになり、百済から仏典を求め得た後、始めて楷書体の漢字が用いられるようになった。」と書かれています。
    日本では、漢字以外の文字が使われていたと、ちゃんと書かれているのです。

    20201122 隋書倭国伝
    画像出所=http://www2.plala.or.jp/cygnus/R35.html
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    628年に書かれた『隋書』の「倭国伝」に、
    「(倭国に)文字はなく、ただ木を刻んだり、縄を結んで文字代わりとす。
     仏法を敬い、百済に仏典を求めて始めて文字を得た」と書かれていることから、
    「日本には仏教渡来以前には文字がなかった」などと言われています。

    本当でしょうか。
    そこで、この『隋書・倭国伝』の原文を見てみます。

    「無文字
     唯、刻木、結繩
     敬佛法
     於百済求得佛經
     始有文字」


    と書かれています。

    読み下すと、
    「(倭国に)文字は無い。
     唯(ただ)、刻木(こくぼく)と結繩(けつじょう)のみ。
     仏法を敬(うや)まい
     百済於(よ)り仏経を求め得て
     始めて文字有り」

    となります。

    ここでいう「刻木(こくぼく)」というのは、漢字の始祖とされたチャイナの三皇時代の倉頡(そうきつ)が考案した「書契(しょけい)」のことで、書契とは「木に文字を刻む」という意味の言葉です。
    「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」ということになります。

    チャイナの三皇時代というのは、チャイナの神話に登場する三人の神《伏羲(ふくぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)》のことで、半獣半神の姿をした神ということになっています。
    続く五帝(ごてい)が人間の聖人君主で、『史記』では黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、嚳(こく)、 堯(ぎょう)、舜(しゅん)と続きます。

    チャイナでは、この三皇五帝の時代が、まさに理想国家であったのだと説かれるのですが、『契丹古伝』では、その三皇五帝は、「皆、倭種なり」と記しています。
    つまり、すべて倭人であった、と記述しているわけです。

    話が脱線しましたが、要するに『隋書』は、仏教の経典に用いられた「楷書体の漢字のことを、漢字と呼ぶ代わりに『文字』と呼んでいる」わけで、倭国では仏教伝来以前には「刻木文字、結繩文字」が使われていたと記しているわけです。


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  • 世界初のクラウドファンディングを行った国とは


    実際に神武天皇が、どのようであったのかは、タイムマシンを持たない私達にはそれを知る手段はありません。ただ、はっきりといえることは、神武天皇を初代天皇として日本書紀を書いた7世紀の人たちには、我が国が戦いの国ではなく、人々が互いに助け合って行きていく国にしていこうという明確な意思があったということです。
    そしてそれが我が国の国柄となりました。これこそ、私達日本人が世界に誇る日本の国柄といえるのではないでしょうか。

    左から順に、白米(はくまい)、玄米(げんまい)、籾(もみ)
    20201208 白米、玄米、籾
    画像出所=https://farm-tanaka-blog.com/2019/07/09/momi_or_brown_rice/
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    小名木善行です。

    最近よく聞く言葉に「クラウドファンディング(crowdfunding)」という言葉があります。
    インターネットを通じて不特定多数の人々から少額ずつ資金調達をする方法のことです。

    言葉の意味は
    ・クラウド(crowd)    =群衆
    ・ファンディング(funding)=資金調達
    です。
    文字通り、群衆から資金調達をすることを「クラウドファンディング(crowdfunding)」というわけです。

    ところで我が国の建国が、まさにこのクラウドファンディングであったことはご存知でしょうか。

    資金というのは、現代社会が貨幣経済であるため、一般に通貨、つまりお金を意味しますが、まだお金(通貨)が存在していなかった時代においては、資金は、たとえば我が国では「お米」を意味しました。

    日本は天然の災害が多発する国です。
    台風は毎年やってきますし、年中地震があるし、数十年に一度は巨大地震に見舞われます。
    津波もやってくるし、火山の爆発もあるし、大水、積雪による被害、風害、干ばつによる被災もあります。

    そうした天災は、容赦なく町や村を破壊しました。
    冷蔵庫のなかった時代です。
    災害は人々からまたたく間に食料供給の手段を失わせ、人々は飢餓に苦しみました。
    飢餓は疫病を生み、人々の命を奪いました。

    そうした冷蔵庫がなかった時代にあって、唯一、数年単位の備蓄が可能な食料が「お米」でした。
    お米は、
     収穫したままの種の状態が「籾(もみ)」
     籾から籾がらを剥いたものが「玄米(げんまい)」
     玄米を精米(せいまい)したものが「白米(はくまい)」
    で、玄米の状態なら、常温保管で20年経っても食べることができます。

    この性質を利用して、日本を建国されたのが、初代・神武天皇(じんむてんのう)です。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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