• 漢字はChinaから渡来しました。ではその漢字はどこで生まれたのでしょうか。


    4月17日(土)13時半から第82回 倭塾を開催します。
    詳細は↓から。
    https://nezu3344.com/blog-entry-4847.html


    便利なものは柔軟に取り入れてきたのが我が日本人です。
    我が国は、紀元前200年頃から、紀元後の8世紀のはじめまでという、およそ千年の歳月をかけて、漢字を我が国の文字として日本語の記述に同化させていったのです。

    篆書体(てんしょたい)
    20190216 篆書体
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    現代の常識のひとつに「漢字はChinaから渡来した」というものがあります。
    Chinaで漢字を統一文字として採用したのは秦の始皇帝で、それまでのChinaには、各王朝ごとに、異なる文字が使われていたわけです。
    ところがこれでは秦による統一国家の運営ができないということで漢字を共通文字として使用することが定められました。

    その漢字が、秦が崩壊後に日本に渡来してきた秦の始皇帝の末裔達や、始皇帝から派遣された徐福などによって日本にもたらされ、これを我が国でも統一文字として採用し、現在に至っているわけです。

    ではその漢字は、どうやって生まれたのかと言うと、漢字のもとになった書体が篆書(てんしょ)と言われています。
    秦の始皇帝が用いた書体が、まさにこの篆書体でしたが、非常に書きにくいものであったために、徐々にこれが定型化されて生まれたのが隷書体となり、いまの漢字の源流となりました。

    では、篆書はどのように生まれたのかと言うと、篆書のもとになったものが甲骨文字(こうこつもじ)であるといわれています。
    甲骨文字は、まるでホツマ文字そっくりですが、違うのは、いくつかの記号が組み合わせてできていることです。

    たとえば「見」という字は甲骨文字ですと下のようになります。
    20190216 見る

    上の部分が「目」の象形であることは一目瞭然だと思います。
    では下の部分は何から来ているのか。
    これは不明とされています。

    要するに甲骨文字は、漢字の原型であるとはいえ、その文字はすでに会意(二つ以上の異なる意味を持つ記号を組み合わせること)されて文字になっているわけです。

    なんでもそうですが、部品がなければ製品は決してできあがりません。
    では、その部品は、どこでどのように生まれたのでしょうか。


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  • 共産政権の恐ろしさをウクライナに学ぶ


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    ちゃんとした歴史を学べば、真実が見えてきます。
    逆にいえば、ちゃんとした歴史をまなばせまいとする人たちが、どういう人たちかということも、おのずと明らかになるということです。

    20210308 ウクライナ
    画像出所=https://www.coindeskjapan.com/78945/
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    小名木善行です。

    ウクライナは、もともとはロシア発祥の地で、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれる豊穣な土地です。
    ほとんどの国民は、敬虔なロシア正教の信徒です。

    そのウクライナに、旧ソ連の前身となる「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が誕生したのが、大正8(1919)年のことでした。
    旧ソビエト連邦というのは、このウクライナに出来た共和国に、大正11(1922)年になって「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」、そして「白ロシアソビエト社会主義共和国」等が合併し、出来上がった連邦国家です。

    下の写真は、帝政ロシア時代のウクライナ地方の絵葉書です。
    おそらく1921年頃のものであろうといわれています。
    つまり、ウクライナが、まだ共産圏に取り込まれて間もないころのものです。
    二人の女性は、とても暗い表情をしています。
    けれど、それでもまだこのときはお二人ともそれなりの体型をされています。
    つまり、食える状態にはあったことを示しています。

    ソ連に取り込まれたばかりのウクライナの農民
    ソ連に取り込まれたばかりのウクライナの農民


    この当時、旧ソ連の最大の外貨獲得手段が、ウクライナで産出される小麦でした。
    ただ、帝政ロシアの時代と、共産主義国であるソ連になってからでは、その輸出の仕方が、まるで違うものでした。
    第一に、農民の都合や天候など一切関係ない。
    クレムリンで政治が、これだけの収量を輸出に回すから国内で徴発せよと決めれば、その通りに徴発がなされるようになったのです。

    農作物というのは、天候によって毎年の収量は異なるものです。
    ところが共産主義というのは、なにごとも「政治主導」です。
    天候や農家の都合など関係ない。
    これが「政治主導」というものに内在する恐怖の一面です。

    当然、ウクライナの住民たちの生活は苦しいものとなります。
    ですから当時、ウクライナの民族主義者や、知識人、民主化推進の指導者たちは、さかんに政府批判を行いました。

    ところがここにも、共産主義の恐ろしさが発揮されます。
    ソ連政府は、こうしてソ連政府の行う徴発に抵抗したり、批判したりする者を、片端から逮捕、投獄しはじめたのです。



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  • 水師営の会見


    第81回 倭塾開催 令和3年3月21日(日)13:30開講 場所:東京・富岡八幡宮・婚儀殿

    私達日本人は、戦後、さまざまなものを手に入れました。
    そしてそれまでには考えられなかったような、すばらしく豊かで平和な日本を築き上げました。
    けれど、だからといって人として大切なことを忘れてしまったら、どうなるのでしょうか。
    人として大切なことを忘れてしまった人のことを、「人でなし」といいます
    豊かで平和でも、それが人でなしの国なら、そこは地獄と化すでしょう。
    そしてソドムやゴモラのように、神々は、そのような国をお許しにならない。

    20210317 水師営の会見
    画像出所=https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12430736755.html
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    小名木善行です。

    以下は「水師営(すいしえい)」という題で、かつての国民学校初等科6年(いまの小学6年生)の国語教科書に書かれた一文です。
    この文章を読んで、皆様は何をお感じになられるでしょうか。

    ********
    「水師営」
    国民学校初等科国語六

    明治38年1月5日午前11時・・・この時刻を以って、わが攻囲軍司令官乃木大将と、敵の司令官ステッセル将軍とが会見することになりました。
    会見所は、旅順から北西四キロばかりの地点、水師営の一民屋でした。
    附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていました。
    この一民屋だけが残っていたのは、日 本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえ していたからでした。

    前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真白な布を掛けました。
    下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景にほほ笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、
    「あの新聞紙を、白くぬっておくように」
    といいました。
    新聞紙は、露軍敗北の記事で満たされていたからです。

    さきに1月1日、ステッセル将軍は、わが激しい攻撃に守備しきれなくなって、ついに旅順開城を申し出て来ました。
    乃木将軍はこの旨を大本営に打電し、翌日、両軍代表は、旅順開城の談判をすませたのでした。


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  • 公正な世界を目指した日本


    第81回 倭塾開催 令和3年3月21日(日)13:30開講 場所:東京・富岡八幡宮・婚儀殿

    差別は、特定の人の利益のために『つくられた』ものです。
    ですからそんな人達の利益とは何の関係もない日本人からしたら、差別があることのほうが不思議です。
    もっというなら、日本にいて、ことさらに差別を言い立てる人たちは、「差別を作っている人たち」です。
     人は対等。
     一寸の虫にも五分の魂。
    これは古来変わらぬ日本人の精神性の根幹です。

    デュボイス



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    小名木善行です。

    W・E・B・デュボイス(William Edward Burghardt DuBois)という人がいます。
    米国人で、1868年にマサチューセッツ州で生まれ、1963年にお亡くなりになりました。
    デュボイスは、米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人です。
    米国の公民権運動指導者、汎アフリカ主義、ブラック・ナショナリズムの先駆者、全米黒人地位向上協会の創立者でもあります。

    デュボイスは、昭和11年(1936)年に来日しています。
    彼は、満洲に1週間、Chinaに10日間、日本に2週間滞在し、「ピッツバーグ・クリア」紙に、「忘れがたい経験」と題するコラムを連載しました。
    以下はそのとき掲載された彼の体験談です。

    デュボイスはある日、東京の帝国ホテルでフロントで勘定を払っていました。
    そこに「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が「さも当然であるかのように」彼の前に割り込みました。
    ところがホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせず、デュボイスへの対応を続けました。
    勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向きました。

    フロント係の毅然とした態度に、デュボイスは、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感しました。


    彼は言います。
    「母国アメリカでは
     けっして歓迎されることのない一個人を、
     日本人は心から歓び、
     迎え入れてくれた。
     日本人は、
     われわれ1200万人のアメリカ黒人が、
     同じ有色人種であり、
     同じ苦しみを味わい、
     同じ運命を背負っていることを、
     心から理解してくれているのだ。」

    さらにこの旅でデュボイスは、日本人とChineseとの違いを悟ったといいます。
    それは上海での出来事でした。

    デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、その場をどくように言ったそうです。
    すると、中国人の大人たちはみな、あわてて道をあけました。
    「これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。」


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  • 多くの人は十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなせ」を誤解している


    第81回 倭塾開催 令和3年3月21日(日)13:30開講 場所:東京・富岡八幡宮・婚儀殿

    十七条憲法においても、その第一条の文意は、「和」そのものにあるのではなく、むしろ「論(あげつら)ふ」ことにあるといえます。
    そのあたりの読み違えは、今後の日本でしっかりと正していきたいものだと思います。

    20201018 十七条憲法



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    小名木善行です。

    十七条憲法は、我が国のアイデンティティの、いわば原典を構成した偉大な憲法(いつくしきのり)です。
    そこで、第一条から順に、何がどのように書かれているのかを、一度、皆様とともに、しっかりと読んでみたいと思います。

    今回は、第一条です。

    第一条
    《原文》
     一曰
     以和為貴 無忤為宗
     人皆有黨 亦少達者
     是以
     或不順君父 乍違于隣里
     然上和下睦 諧於論事
     則事理自通 何事不成


    《読み下し文》
    一にいわく。
    和(わ)を以(も)ちて貴(たっと)しとなし、
    忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
    人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
    ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
    しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
    事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは
    すなわち事理(じり)おのずから通ず。
    何事(なにごと)か成(な)らざらん。


    《現代語訳》
    第一条
    和をもって貴しとして、
    人を恨んだりしてはなりません。
    人には誰にも信じるものがあります。
    また、達した人、つまり悟りを得たような人は、すくないものです。
    だから、人によっては主君や父の言葉に従わなかったり、また隣の人や、村同士で意見が異なったりします。
    けれども、上に立つ人から率先してやわらぎ、下の人たちもまずは仲良くすることを第一にして、様々な事柄をみんなで議論するときにこそ、大切な主張も通じるし、あらゆることが成就していくのです。



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  • 市丸利之助海軍中将の「ルーズベルトニ与フル書」


    第81回 倭塾開催 令和3年3月21日(日)13:30開講 場所:東京・富岡八幡宮・婚儀殿

    この「ルーズベルトニ与フル書」は、後に米国内の様々なメディアで紹介され、書に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となり、いまや世界の人類の常識とまでなっています。
    そしてこの書は、アメリカ海軍兵学校内アナポリス博物館に今でも大切に保管されています。
    知らないのは日本人だけです。
    それはとても残念なことです。

    20210304 ルーズベルトニ与フル書
    画像出所=https://youtu.be/kn7jx4qgsnQ
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    小名木善行です。

    硫黄島で散華された市丸利之助(いちまるりのすけ)海軍中将が米国大統領のルーズベルトに与えた書簡は、そのねず式現代語訳版をhiramekiTVさんがyoutubeの動画にしてくださり、17万回を越える再生回数となりました。

    硫黄島で戦死された市丸利之介(りのすけ)中将がルーズベルト大統領に宛てた手紙を紹介します。
    市丸中将が、最後の突撃攻撃を行って散華されたのは、3月26日です。
    その9日前の3月17日、中将は、地下20メートルの洞穴に、動けるものを全員集めました。

    そして副官である間瀬中佐が、一歩前に出て、「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げました。

    朗読が済むと、この書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけ、
    英文のものは航戦参謀の赤田中佐が身に付けました。

    そして市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行い、散華されています。

    「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。

    市丸中将は、自らの死を目前として、たとえ硫黄島が奪われ、我が身が土に還ったとしても、人が人として生きることの大切さをこの「書」にしたためることで、死して尚、日本の描いた壮大な理想、悠久の大義のために戦い続けようとしたのではないでしょうか。

    この「ルーズベルトニ与フル書」は、後に米国内の様々なメディアで紹介され、書に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となり、いまや世界の人類の常識とまでなっています。
    そしてこの書は、アメリカ海軍兵学校内アナポリス博物館に今でも大切に保管されています。 

    知らないのは日本人だけです。
    それはとても残念なことです。

    今回も原文は文語体なので、ねず式で現代語に訳しています。
    (原文の日本文と英文は画面下に表示します)。





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  • ビアク島の戦い


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     私たちの国には
     明治維新以来
     幾度かの困難に敢然と立ち向かった
     日本民族の不屈の歴史があります。
     たった一つしかない命を国家に
     同胞に捧げた凛とした真実の歴史があります。

    ビアク島
    20180306 ビアク島
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    ビアク島の戦いは、後に
    「北のアッツ島(戦死2,638名、生還27名)、
     南のビアク島(戦死12,347名、生還86名)」
    とも言われた壮絶な戦いでした。

    当時の東京新聞に次のような記事があります。

    ~~~~~~~~~~~
    【友思い涙「証人」の孤独】
    東京新聞 社会部 加古陽治
    平成17年10月2日記事
    http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/P_25_shinbun_kigi/shinbun_kigi.htm

    病院の廊下の奥で車椅子の老いた男は何度も泣いた。
    そのたびに顔がくしゃくしゃになった。
    昭和19(1944)年5月、
    米軍の上陸で激しい戦闘の舞台となった
    インドネシア・ビアク島。
    1万2千余の日本兵の命を呑み込んだ
    この「死の島」から奇跡の生還を果たした
    元陸軍兵長、渋谷惣作(山形県遊佐町)に
    この夏、会った。

    その体験を語る口調は訥々(とつとつ)としている。
    だが戦友の悲惨な死にふれるたびに、
    顔をゆがめて泣くのだった。

     *

    「渋谷、水くみに行こう」
    昭和19年5月27日、
    歩兵第222連隊工兵中隊(盛岡編成)の
    一員としてビアク島に渡った渋谷は、
    夜明け前、戦友に誘われ
    ボスネック地区の洞窟(どうくつ)を出た。

    沖合に浮かぶヤーベン島が
    見えないほどの大艦隊が海を覆っていた。
    「どれが大和かな」
    味方と思ったら、号砲が鳴った。

    「敵襲!」
    大声で叫び、洞窟に戻った。
    艦砲射撃が鎮まると米兵が大挙して上陸。
    午後になると洞窟の近くにきた。

    「ニッポンヘイタイいるか」
    なまりのある声で米軍の通訳が呼んだ。
    「はい、おります」
    ひとりがそう応じ、出て行こうとした。
    「やれ」
    すかさず小隊長が部下に命じ、
    仲間に帯剣で刺された兵士は絶命した。

    しばらくすると、
    洞窟にドラム缶が投げ込まれ、
    火を放たれた。
    「中は真っ赤で・・・。
     とてもとても・・・。
     もうぜんぜん分からない。
     意識をなくして、
     倒れたところが川だった。
     それで息ができた」

    ゴーゴーと火が燃えさかる。
    しばらくして意識を取り戻した渋谷は叫んだ。
    「この川の水に顔つけれ。
     息継ぎが楽だぞ」
    いまも忘れない、
    おいしい水だった。

    水だけで過ごし、三日目に外に出た。
    野戦病院で一服し、
    大洞窟にある司令部に合流した。

    整備した滑走路は米軍の手に落ちていた。
    渋谷たちの任務は、
    それを使わせないための肉弾攻撃。

    歩兵も工兵もなく突撃させられ、
    そのたびに十人、二十人と死んで行った。
    「いよいよ、今日は俺の番だのって思うだけ・・・」

    七月にはいると、
    支隊長葛目直幸中将が自決し、
    島での組織的戦闘は終わった。
    それで渋谷らは
    死に場所を求めるように戦い続けた。
    同月末、工兵中隊の残存兵で
    米軍の車列に最後の攻撃を仕掛け、
    渋谷ら9人だけが生き残った。

    あとはただ生きるための戦いだった。
    トカゲやネズミがごちそうだった。
    人肉を食べた者すらいたという。
    屈強だった若者は、
    そこまで追いつめられていた。
    (※ねず注:
     あとに引用しますが
     渋谷さん本人の手記には、
     この人肉食のことを
     明確に否定した文章があります。
     おそらくここは記者か編集部が
     筆を走らせたものだろうと思います)

    部隊はバラバラ。
    極限の飢餓状態。
    食料を盗もうと、
    三人で米軍施設に近づいたとき、
    地雷にやられた。
    ひとりはほぼ即死。
    同郷で親しかった一等兵の粕谷博も虫の息だった。

    「おれと一緒に帰るぞ」
    「うん」
    「おめえ、(遊佐町)藤崎のどの辺や」
    「学校から三軒目や」
    それが最後の会話になった。

    夢の中で二人の爪を噛み切り、
    軍票につつむ。
    戦友の死の証だった。

    気がつくと近くに白い子犬がいる。
    ついて行くと畑に出た。

    夢かうつつか、
    小さなトマトが鈴なりになっている。
    「博が助けてくれた」
    そう思い、夢中で食べた。

     *

    昭和19(1944)年10月、
    渋谷は米軍の捕虜になり、
    命を永らえた。
    工兵中隊254人のうち、
    生き残ったのは3人だけだった。

    だが彼には戦後、
    新たな闘いが待っていた。
    あれだけ過酷な戦場に身を置いたのに、
    軍歴が少し足りないからと
    恩給ももらえない。
    あまりにも悲惨な体験談を、
    地元の人たちは疑いの目で見た。

    渋谷の脳裏には、
    いろり端の光景が刻まれている。
    「村の人が逃げて帰ってきたと後ろ指をさす」
    「戦友と一緒に死ねば良かった」
    「おれはビアクで何人も殺しているし、
     死ぬのは怖くない」
    何度もそんな場面が繰り返された。
    「いま思えば戦争後遺症だった」
    と家族はいう。

    「誰も信じてくれねえ」
    渋谷は戦場の記憶を封印した。
    家族と戦友だけが例外だった。

    今年(平成17年)7月、
    久しぶりに記憶の糸をたどってくれた渋谷は、
    最後に吐き捨てるようにつぶやいた。
    「もう戦争には行かない」

    約一ヶ月後の8月18日、
    21世紀までひとり人生を生き抜いた
    工兵中隊「最後の証人」は、
    83年の生涯を閉じた。
    戦友に61年遅れの死だった。
    ~~~~~~~~~



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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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