• 十七条憲法と冠位十二階が定められた理由とは


    十七条憲法は一般に「和をもって貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなく、ちゃんとした議論をして問題を解決しようということです。

    20200608 冠位十二階
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    小名木善行です。

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    推古天皇の時代、つまりそれは聖徳太子が政務を司る時代であったわけですが、極めて大きな問題が噴出しています。
    それは、一般によく言われるのは、チャイナに隋の大帝国が出来たことですが、実はもっと身近な問題があったのです。
    それが新羅問題です。

    推古天皇7年(599年)に、日本に大地震が起きるのです。
    このとき百済は日本の朝廷にお見舞いを献上しているのですが、新羅は、日本国内が地震の復興で大変なこの時期に、日本の直轄領であった任那に攻め込むのです。

    朝廷はすぐに1万の兵を起こして新羅に攻め込むのですが、すると新羅の王は恐れかしこまり、すぐに降参して朝廷への服従を誓うのです。
    さらに朝廷に使者を派遣して、朝貢を行うだけでなく、
    「天に神があり、地に天皇がおわします。
     この二神を除いて、
     どこに恐れかしこまるものがあるのでしょうか。
     以後、一切の戦闘行為は行いません。
     また船の舵を乾かさないで、
     毎年必ず朝貢を行います」
    と上奏文を提出するのです。

    そこまで言うのならと、朝廷は半島に派遣していた軍を撤収するのですが、するとすぐに新羅はふたたび任那に侵攻したのみならず、日本に間者(スパイ)を送り込むのです。

    こうした状況から602年には、来目皇子(くめのみこ)を将軍にし、2万5千の兵を立てて新羅征伐を図ろうとするのですが、残念なことに突然、来目皇子が病にたおれてしまいます。
    来目皇子は、そのまま翌603年にはお亡くなりになってしまいます。

    やむなくこの年、来目皇子の兄の当麻皇子(たぎまのみこ)を征新羅軍の将軍にするのですが、同行した妻の舎人姫王(とねりのひめおほきみ)が、旅の途中の明石で急死してしまい、このため新羅征伐はできずに終わります。

    この二つの死には、二つの理由が考えられました。
    ひとつは新羅の工作による変死です。
    そしてもうひとつは、神々が新羅征伐を望んでいないという考え方です。

    新羅は、もともと神功皇后の時代に日本への服属を誓った国です。
    とはいえ、その後もスキを見ては、何かと周辺国に難癖をつけて、他国の財を奪おうとしました。
    そのくせ堂々と兵を差し向ければ、戦わずにすぐに降参するし、あるいはあらゆる裏工作を行って事態を混乱させます。

    では、こうした混乱を起こさせないためには、どのようにすれば良いか。
    ここが思案のしどころです。

    そしてこの中から出てきた答えが、実は、冠位十二階と十七条憲法でした。
    日本は、ワガママで身勝手な他所の国を責めるのではなく、まずは自分たちが率先して秩序のある良い国になっていこうとしたのです。
    古来変わらぬ日本人の姿勢です。

    603年12月こうして冠位十二階が制定されました。
    服属している他国(つまり新羅)を責めるのではなく、まずは日本自体が率先して上下の秩序を明確に示そうとしたのです。

    翌604年元旦に出されたのが十七条憲法です。
    秩序は上下関係ですが、それだけでは日本の国柄に反します。
    ですから上下一体となって、相互に議論を交わすことを「憲法」として発布したのです。

    十七条憲法は一般に「和をもって貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなく、ちゃんとした議論をして問題を解決しようということです。
    この議論のことを、古い言葉で「論(あげつらふ)」と言います。
    現代用語で「あげつらう」といえば、悪意ある批判のこととされてしまっていますが、もともとの「あげつらふ」はそうではありません。

    「あげ」は、「ことあげせず」の言葉にもあるように、相手を「上げる」ことを意味します。
    相手の言葉をちゃんと聞き、その相手の言葉に、自分の言葉を重ねることで、議論を昇華させていくことが「あげ」です。
    「つらふ」の「つら」は「面」、つまり互いの顔です。
    ですから「あげつらふ」は、互いに顔を合わせて、相手の意見を聞き、その意見に自分の意見を重ねていくによって、よりよい議論にたかめていくことです。

    第一条には次のように書いてあります。
    「和をもって貴しとし、人を恨んだり人格攻撃をしてはいけない。
     問題があれば互いに議論を交わしなさい」
    最後の17条では
    「物事はひとりで勝手に決めてはいけない。
     必ずみんなと議論しなさい。
     特に重要なことは、
     必ずどこかに間違いがあると疑って、
     しっかりとみんなで議論をしなさい」
    と書かれています。

    軽々に軍事侵攻をするのではなく、どこまでも話し合いで解決する国柄であることを、まずは率先して日本が示すことによって、新羅もまた、軽々に侵略に走るのではなく、話し合いで物事を解決することを期待したのです。

    ところがその後にどうなったかというと、新羅はまるで現代におけるどこかの政党の誰それみたいに、何も問題がないところで、声を大にして意味不明の大騒ぎをして自己の利益ばかりを図ろうとする。
    それがまるで、みんなが静かに寝たい寝室で、布団を叩いて大騒ぎするような国だということで、新羅に付いたあだ名が「栲衾(たくぶすま)」であったわけです。

    これが7世紀のはじめの出来事です。
    あれから1400年以上経過しましたが、あの国も、あの国から戦後に日本にやってきた人たちも、まるで変わっていないようです。


    ※この記事は2020年6月の記事の再掲です。

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  • 朝鮮通信使と柳川一件


    江戸時代の朝鮮通信使に関連して起こった対馬藩の事件は、
    「柳川一件」
    と呼ばれ、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓にされました。
    どんなに勉強ができたり通訳ができたとしても、
    「民を靖(やす)んじる」
    という施政の本義を失ったならば武士ではない。
    どんなに学問ができようが良い大学を出ようが、一見正しげな理屈を言おうが、国を靖んじ民の安寧を離れては「曲学阿世の徒」でしかないということが、きつく武家のいましめとされたのです。

    朝鮮通信使の行列



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    かつて百済や新羅があった時代、百済王や新羅王の倅(せがれ)、つまり次の国王となる王子は、人質として日本の都に留め置かれました。
    これは日本における伝統的な統治方法で、こうすることによって日本で成長した王子が日本人女性と結ばれる。
    そしてその王子が次の国王になれば、その次の王となる王子は日本人との混血ですから、きわめて平和的に血が混じり、両国が自然と良い関係になっていく。

    この方法を全面的に採り入れたのが元の大帝国で、元もまた征服した各地の王から、後継ぎの王子をカラコルムに人質に取り、子供のうちからモンゴルで過ごさせることによって、モンゴルの言葉や習俗にも通じ、モンゴル人の妻を娶って、次の国王を生んでいました。

    また同時にこのことは、次の国王となる王子が人質になっているということは、その王国が裏切れば、その王子はまっさきに処刑されるわけです。
    つまり、王は、宗主国を裏切れないというわけで、これはどうみても、王子が人質に取られている側が、宗主国の属国となっているということが明らかです。

    これと同じ仕組みが西洋にもあって、国王の側近にあって国王を護るための兵のことを近衛兵と言いますが、その近衛兵というのは、王に従う貴族たちの跡取り息子たちです。
    貴族は、王の命令によって、外地に出征していきますが、もし、その貴族が王を裏切ったり、裏切ったと疑われるような振舞いをすれば、即時、王子は処刑、国許にある貴族の領地や財産も没収、貴族の館に勤める女たちも奴隷として売買されるというのが、近衛兵の仕組みです。
    世の中、決して甘くはないのです。

    ところが戦後の日本の歴史教科書や歴史小説、あるいは韓国の歴史教科書は、百済や新羅が日本に王子を人質として出していたことについて、これを
    「親善大使として、日本に長く逗留させていた」
    などと、まことしやかな嘘を書いていました。

    少し考えれば、親善大使なら、子供時代から青年期に達するまで何年もの間、日本にずっと滞在し続ける理由がありませんから、誰でもこの書き方がおかしいことに気付いてしまうのですが、そのように書いた経験のあるある作家の方に以前伺いましたところ、当時はそう書かないと流通に乗せてもらえなかったのだそうです。

    もっとも韓国の歴史教科書は、新羅や百済の方が日本よりも文化的な上位国であって、遅れた国である日本に王子を「親善大使」として送ったのだと相変わらず強弁しているようです。
    しかし後年の李氏朝鮮は、モンゴルに征服されたとき、やはり王子をモンゴルに送っていますし、これは明らかな人質以外の何ものでもありませんし、日本は新羅にも百済にも李氏朝鮮にも、天皇や将軍の跡取りを人質に送ったことなど、歴史上、ただの一度もありません。
    嘘は、つじつまが合わないから、結局はバレるのです。

    同じように嘘にまみれたものに、江戸時代に朝鮮から来日した朝鮮通信使があります。
    この朝鮮通信使について、Koreaでは
    「徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、
     先進文物を取り入れようと
     李氏朝鮮王に懇願して招いたもの」
    だったと教えているのだそうですが、馬鹿な話です。
    徳川幕府というのは、いまのお金に換算すれば、将軍の個人資産が800兆円に達していた当時にあって、世界最大の大金持ち政権です。
    なにせ世界の金の3分の1を支配していたのです。
    それがどこをどうしたら「徳川幕府が経済的に困窮」となるのでしょうか。

    しかも朝鮮通信使は、毎度600人からの大勢でやってきて、日本国内を対馬から江戸まで旅するのですが、その旅の経費は、毎度、全額日本持ちです。
    「将軍家就任のお祝いにやってきた」というのですから、粗略に扱うわけにもいかないし、彼らに自由行動を認めれば、娘はかどわかすし、暴力は振るうし、放置できないから仕方なく日本側で全部経費の面倒をみながら、彼らの行動を制限するしかなかったのです。

    ちなみに李氏朝鮮では、国王から派遣される巡見使が国内の地方を回るときは、それぞれの滞在先で巡見使の一行の全員が、それぞれの村の若い娘に夜伽を命じ、言うことを聞かなければ、娘が承諾するまで、その娘の眼の前で、その娘の親兄弟をムチでぶっ叩くというのが慣習でした。
    彼らの国ではそれが常識であったとしても、我が国では、村人たちは全員、天子様の大御宝であり、これを護るのが大名や将軍の務めですから、彼らの行動を制約するためには、厳重警護するしかなかったというのが実情でした。
    そこまでしても、よその国に来て、鶏泥棒はするし、畑の作物は勝手に持ち去るし、旅籠に泊めれば、旅籠にある置物から布団、茶碗まで全部持っていってしまう。
    朝になれば、旅籠にちゃんとトイレがあるのに、わざわざ路上に出てフンをする。
    だから江戸時代の末期になると、さすがにあまりに迷惑だからと、対馬で追い返し、追い返すことに成功した対馬守は、その功績で将軍から多額の謝礼を受け取っているのです。

    そういえば、江戸時代のはじめ頃、秀吉の時代に日本にやってきた朝鮮の儒者や職人たちを、李氏朝鮮が「返せ」と言ってきたことがありました。
    職人たちというのは、陶工などの特定の技術知識集団だったのですが、この求めに、儒者はほとんどが帰国を希望したので、日本はあご足つきで、彼らを朝鮮に送り返しました。

    ところが技術職人である陶工たちは、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残りました。
    これには理由があって、李氏朝鮮では、陶工たちは白丁(奴隷)であり、収奪の対象であり、最下層の賤民です。
    上から司令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられました。

    ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができる。
    もちろんなかには、それでも日本人を信じられなかったり、どうしても故郷に思い残すところがあって帰国を申し出た者もいたけれど、ほとんどの職人たちは、むしろ日本に残って腕を振るいたいと願ったのです。
    つまり、圧倒的大多数の半島人職人さんたちは、日本に居残ることを希望したのです。

    ところが李氏朝鮮にしてみれば、これが気に入らない。
    あくまでも「返せ!」という。

    このことは、朝鮮との国境を接する対馬の対馬藩にしてみれば、大きな問題です。
    なぜなら対馬藩は、島の田畑に限りがあるため、基本的に海洋からの漁労収入と、日本本土および朝鮮との交易が藩の財政と民政の柱です。
    ですから対馬藩は、領海内での漁業操業の安定化のために徳川幕府と李氏朝鮮の和解を願いました。

    一方、李氏朝鮮は、慶長の役のあと、ようやく明軍の脅威が去り、国情が安定してきた李氏朝鮮は、対馬藩に対して、日本が朝鮮征伐の謝罪をし、捕虜を帰すなら、国交を開いても良いともちかけました。
    いつもの朝鮮の自尊肥大なのですが、言うことをきかなければ武器を持たない対馬の漁民に対して危害を加え、対馬に軍を出すというのですから、放置できない。
    対馬の人たちには、元寇の際の苦い思い出があります。
    皆殺しにされ、女達は強姦され、裸にして軍船に吊るされたのです。

    こうした李氏朝鮮の意向に、対馬藩がどれだけ困ったかは、想像に難くないのですが、当時の日本では、李氏朝鮮を「国」としてさえ認識していません。
    日本人は、民のために国があると考えますが、当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮という明と通じた暴力団が、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域です。
    当時、全世界の鉄砲の半数を保持し、世界最強の軍事大国となっていた日本にとって、そうした朝鮮半島の暴力団との交流は、「外交」の名にさえ値しないと考えられていたのです。
    これは正しい認識というべきです。

    そうはいっても、対馬藩にとっては、相手が暴力団のようなものだからこそ困るのです。
    やむをえず対馬藩主の宗義成は、朝鮮出兵とは無関係の藩内の罪人たちの喉を水銀で潰して声を出せないようにしたうえで、「半島人捕虜」として、李氏朝鮮に差し出しました。

    李氏朝鮮側も、形式が整っていれば「日本が捕虜を帰した」と公式には発表できるため、事実を知りながらこれを黙認して捕虜(実は罪人)たちを受け取りました。
    李氏朝鮮の要求に従ったわけですから、これでひと安心、となるはずでした。

    ところが、ひとつ要求が通ると、ますます増長して要求をエスカレートするのが、古来変わらぬ彼らの特徴です。
    今度は、日本の徳川幕府に、「国書をもって朝鮮征伐行為を謝罪せよ」と言ってきたのです。
    日本にしてみれば、戦いの相手は、あくまでも明国であって、半島は明国の出先機関という認識です。

    困りきった対馬藩(宗家)は、慶長10(1605)年、日本の謝罪国書を勝手に偽造し、李氏朝鮮に提出しました。
    とんでもない、というご意見もあろうかと思いますが、李氏朝鮮は、日本の謝罪さえあれば、それ以上、ことを荒立てることなく、対馬藩の領海への侵害もしないと約束したのです。

    このことは、平成10(1998)年の日韓共同宣言のときの日韓外交と酷似しています。
    このとき日韓共同宣言をまとめたのは、当時外務大臣だった高村正彦氏(衆議院議員、現・自民党副総裁)ですが、氏はこのとき、金大中韓国大統領(当時)から、
    「一度謝れば韓国は二度と従軍慰安婦のことは言わない」と説得され、
    「痛切な反省と心からのおわび」
    を共同宣言に盛り込みました。

    その結果何が起こったかといえば、ひとたび日本政府から「反省とお詫び」を引き出すや、韓国は手のひらを返したように、今度はこの共同宣言をネタにして、慰安婦問題を日韓関係のカードに使い、賠償を要求し、韓国への巨額の財政援助をゴリ押しし、さらに世界中で、日本が半島人をセックス奴隷にしたと宣伝してまわっています。

    日本人の感性では、「綸言汗の如し」といって、ひとたび口に出したなら、それを守るのが信義の道ですが、半島人にはそうした考えはありません。
    ケモノと同じで、「いま」が満足できれば、真実などはどうでもいいのです。
    ケモノにとって約束は、その場限りの言い逃れにすぎないのです。

    実際に、朝鮮半島に渡り、そうした半島人の習性を、日常的に目の当たりにしていた慶長・元和・寛永の頃の日本は、ですからそうした半島人の体質、政情を体験的に熟知しています。
    ですから、家康も、秀忠も、家光も、李氏朝鮮の言い分など、まるで頭から相手にしていません。

    一方対馬藩では、藩主の宗義成の「お詫び文」の偽造に対して、家老の柳川調興(やながわしげおき)が、三代将軍徳川家光に、「嘘はいけない」と藩主の宗義成を告訴しました。
    柳川調興というのは、たいへんな教養人で、China語、Korea語にもよく通じ、古今の書物にも精通する人物です。
    それだけに藩主の二枚舌外交は許せなかったのでしょう。

    江戸幕府内でも、幕府の官僚の一部は、柳川氏の意見を、もっともなことだと評価したようです。
    そこで江戸幕府では、家光の命で、江戸城大広間に、江戸にいた全国の大名を全員総登城させました。
    そして将軍家光の前で、対馬藩主の宗義成と、対馬藩家老の柳川調興を直接対決させました。

    理は、柳川調興にあります。
    嘘はいけないからです。
    まして国書の偽造など、もってのほかです。

    ところが、その場にいた全国大名の総意と、将軍の家光の判断は同じでした。
    結論は、
    「藩主宗義成にお咎めなし」
    というものです。
    そして家老の柳川調興は津軽に流罪になりました。

    なぜでしょうか。
    なぜ嘘はイケナイと言った柳川調興が罰せられ、偽書を書いた宗義成が無罪とされたのでしょうか。
    このことを、私達はしっかりと考えなければならないと思います。

    現実に朝鮮出兵をしてきた全国の大名たちからすれば、民を人として扱わず、民に対して暴虐と貪りの限りを尽くし、平気で奪い、殺し、その肉を食らう李氏朝鮮の一族は、まさに獣であり、国の名に値しないものです。
    獣に対して自己防衛のために偽書を送り、対馬藩の民衆の安寧を図るのは、たびたび熊に襲われる村人たちが、熊に偽の餌を与えて、熊からの被害を食い止めようとするのと同じです。
    つまり、宗義成の行動は、藩主として当然の行いであり、李朝を「人の王朝」と考える家老の柳川調興のほうが、むしろ現実をわきまえない「曲学阿世の徒」であり、その曲学に基づいて藩主を告訴するなど、もっての外だと考えられたのです。
    だから、柳川調興は遠島流罪となったのです。

    江戸の武家社会では、この事件を
    「柳川一件」
    といって、幕末から明治にかけても、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓とされました。

    要するに簡単に言うと、どんなに勉強ができて通訳ができたとしても、「民を靖(やす)んじる」という施政の本義を失っては、国民の生活を守ることはできないし、そういうことでは人の上に立つ武士は勤まらない。
    どんなに学問ができて、良い大学を出ようが、いくら一見して正しげな理屈を言おうが、
    「国を靖んじ民の安寧を離れては、
     曲学阿世の徒でしかない」
    ということによって、この事件を「武家のいましめ」としてきたのです。

    もっとも対馬藩では、この事件で漢籍、朝鮮語に通じた柳川調興がいなくなり、朝鮮と直接交渉ができる通訳がいなくなってしまったため、藩主の宗義成は、幕府に泣きついて京都五山の僧の中から漢文に通じた碩学を派遣してもらい、ようやく外交ができる体制を整えています。

    さて、こうした対馬藩宗家の努力もあって、李氏朝鮮からは、江戸時代を通じて、都合12回、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、来日しています。
    そして最終回の12回目が、上に述べた対馬差し止めとなった通信使です。

    初回が慶長12(1607)年で、最終回が江戸後期の文化8(1811)年です。
    当初の3回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされていますが、以降の9回は、いずれも、新将軍就任の祝賀のための来日です。

    その朝鮮通信使の第11回目、おおむね朝鮮通信使が、制度として定着していた宝暦14(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。

    このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
    その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を詳細に書き遺しているのです。
    これが「日東壮遊歌」で、本にもなっています。
    希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時の半島人官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。

    そこに次のように書かれています。
    〜〜〜〜〜〜〜
    ●1764年1月22日 大阪

    100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
    大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装だ。
    この贅沢さは異常だ。
    都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。

    Chinaの伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
    世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
    ソウルの繁華街の1万倍の発展だ。

    北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。
    穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
    そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
    嘆かわしく、恨めしい。


    ●1764年1月28日 京都

    街の繁栄では大阪には及ばない。
    しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
    山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
    この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
    悔しい。

    「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
    悔しい。
    この犬のような倭人を全て掃討したい。
    この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。


    ●1764年2月3日 名古屋

    街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
    自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。
    中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
    朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。

    人々の美しさも最高だ。
    特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?
    「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、
    美しさを失うだろう。

    (帰路にて)
    名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
    我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。


    ●1764年2月16日 江戸(東京)

    左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
    山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
    楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。

    全てが大阪や京都より三倍は優っている。
    この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
    女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
    〜〜〜〜〜〜

    これが来日した朝鮮使節の実際の感想です。

    この感想が、いまから248年前の半島人の日本を見た感想であり、その感想は、当時来日した半島人にとっても、現代日本に来る半島人にとっても、ほとんど変わりがない、ということは注目に値します。

    そして、自分たちが思っていた「我が国が一番」という認識(認知)と、実際に自分の目で見たときの認識(認知)が、あまりにも不一致(不協和)だったとき、本来なら人は他国に倣って自分たちも進化しよう、進歩しようと考えるのがあるべき普通の姿です。
    これを「認知不協和」というのですが、普通はこうした認知不協和は、自国の文化の発展に大きく寄与するものです。

    ところがその認知不協和が、なぜか「嫉妬」になってしまうのが、半島の特徴で、
    実際、金仁謙の上の文にも、
    「悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。
     この土地を朝鮮の領土にして、
     朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。」
    と、考えられない不逞な思考に走っている様子が描かれています。

    感情は、とかく低レベルであればあるほど、激しくなります。
    足を踏んだ、踏まない、言葉遣いが気に食わない、肩がぶつかった、ガンを飛ばされた等々です。
    人は、とかく次元の低い感情であればあるほど、過激に走る。

    そういう斜めにしか物事を見れなくなった認知的不協和症状の相手に対しては、関わりをもたないことが、最良の防衛策です。
    相手にせず、関わらず、近寄らない。
    そうすることで、彼らが経済的にも社会的にも追いつめられれば、自然と、反省の息吹も芽生えるというものです。

    さて、その朝鮮通信使ですが、おもしろい絵があります。
    京都大学が所蔵している「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」の絵です。

    鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節
    鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節


    この絵は、朝鮮通信使が鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵です。
    ご覧いただくとわかります通り、白昼堂々の往来で、朝鮮通信使一行が、日本人の町民からニワトリを強奪し、騒ぎになっている様子がみてとれます。

    場所は辻の中央です。
    ニワトリを奪おうとする朝鮮通信使たち、そうはさせじともみ合う町人たち、足下には明らかに日本人と見られる町民が倒れています。
    通信使を押さえつけようとする町民、ニワトリを奪い取って、別な通信使に渡そうとしている半島人、そうとうな騒ぎであり、乱闘があったことが伺えます。

    日本では、官が民の所有物、たとえばニワトリなどを勝手に泥棒するなどということは、まず考えられないことです。
    なぜなら、官は民のためにあるというのが、官民両方の「常識」だからです。
    けれどそれは、あくまで「日本の常識」であって、「朝鮮の常識」ではありません。

    では、朝鮮ではどうだったのか。
    それについては、明治初期に、日中韓を旅行した英国人女性イザベラ・バードの朝鮮紀行に詳しく紹介されています。

    〜〜〜〜〜〜
    彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつかんで隠してしまう。
    伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。
    従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
    (イザベラ・バード「朝鮮紀行」P133~P137)
    〜〜〜〜〜〜

    要するに1392年から1910年まで、500年続いた李氏朝鮮では、支配階層である貴族(両班)が、庶民(白丁)からニワトリや卵を勝手に奪うのは、支配者としての「当然の権利」であったのです。

    ニワトリや卵だけではありません。
    魚も、食べ物も、穀物も、女性も、欲しいものがあれば、勝手に奪う。
    目の前にアベックがいて、その相手の女性が気に入れば、その場で平気で奪う。
    幼子を連れた若い母親がいて、その母親が気に入れば、その場で蹂躙する。

    日本では「官は民のためにある」が常識ですが、朝鮮半島ではあくまで「民は官のためにある」のです。
    上下関係が何よりも優先する。
    上に立つ者は、下のものをどれだけ犠牲にしても構わない。
    それがあたりまえの常識です。
    それが、朝鮮流儒教です。
    彼の国の常識です。

    この傾向は、いまでも続いています。
    日本では子供に「思いやりのある立派な大人になれ」と教えます。
    けれど、朝鮮では「とにもかくにも人の上に立て」と教えます。

    下になったら、何もかも奪われる。
    だから、どんな卑怯な手を使ってでも上に立った者が勝ちというのが、彼の国の古来変わらぬ常識だからです。
    日本とは、根底にある「常識」が異なるのです。

    同じくイザベラバードの朝鮮紀行に、次の一節もあります。
    〜〜〜〜〜〜
    高級官僚や両班はお付きの行列を連れ、
    行政官の屋敷に泊まり、贅沢な食事をとる。
    快適とはほど遠い宿屋に泊まり、
    村の食べ物をとらなければならないはめに追いこまれたとしても、
    すべて最上のものが選ばれ、
    それに対して代金は支払われない。
    (同上P168)
    〜〜〜〜〜〜

    下々の者が、それによって飢え死にするようなことがあったとしても、官僚は我関せず、なのです。
    自分がその場で贅沢ができればそれで良いと考える。
    日本人にはあり得ない感性です。

    そういう一行が、朝鮮通信使として日本に来たのです。
    宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれた。
    朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといいます。

    そしてそのことは、何も18世紀の大昔のことばかりではありません。

    昨今の対馬には韓国人観光客が大勢やってくるけれど、例えばタクシーで、降りるときにカネを払わずに走って逃げていく。
    あるいは、料金を払っても、その支払いの際に、五百円玉とそっくりの五百ウォン(価値は十分の一)を混ぜてくる。
    その場で気づいて、注意しても、何事か大声で喚き散らして、泣き寝入りさせられてしまう。

    スーパーでは、並んでいるバナナを、カネも払わずにその場で食べてしまう。
    店員が気づかなければそのまま金を払わずに立ち去る。

    コンビニでは、5、6人の集団でやってきて、一人が支払いをしている間に他の者が万引きする。
    若い女性客は陳列棚の口紅をその場で使って元の棚に戻すので、売り物にならなくなる。
    料理屋には、食べ物を持ち込み、注文しない。

    旅館では、シャンプー、リンス、タオルから、トイレットペーパー、果は部屋に据え置きのテレビまで、残らず持ち去ってしまう。
    部屋や建物を汚し、フロントやエレベーターなどの公共スペースで、平気で大小の用をたす。
    部屋の中で何をするのか、便臭が激しく(日本人女性を騙して部屋に連れ込み、スカトロ行為をしているというウワサあり)、部屋に臭いが付く。
    支払いの段階になってクレームをつけて値切る。

    浴場施設では、湯船の中で平気で石鹸を使い、体を洗う。
    日本人客が嫌がって来なくなり、廃業した温泉もある、等々。
    これが近年の対馬で、実際に起こっていることです。

    山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
    〜〜〜〜〜〜
    通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
    出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
    食事に難癖をつけて、
    魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、
    予定外の行動を希望し、
    拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあった。
    〜〜〜〜〜〜

    実は、上に紹介した金仁謙が来日したときの第11回朝鮮通信使の帰り際、ひとつの事件が起こっています。
    明和元(1764)年4月6日のできごとです。

    この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出したのです。
    通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者が、これを咎め、
    「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と、悪口を言いました。

    このとき、朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗にこのときとばかり、
    「あなたは日本人のことをそのように言うが、あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を、勝手に持ち帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返したのです。

    すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然火病を起こして怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えました。

    鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場です。
    だからその場では、我慢しました。
    けれど、下級武士とはいえ、武士は武士です。

    杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
    思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首し、切腹しました。

    よく、朝鮮使節をさして、「日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」と書いている教科書などがありますが、残念ながら鶏泥棒の文化や技術が、日本に伝承されたという記録はありません。
    つまり、朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実は、まったくありません。

    当時の朝鮮からの日本の輸入物は、半島人参と、China産の生糸と絹織物です。
    他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
    当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたのです。
    ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培(芋は収穫が早い)して、多くの人が助かったという話から、通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培したといいます。

    鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
    ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
    ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。

    ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さばかりする。
    一回の通信使でやってくるのは、だいたい450人くらいの団体です。
    そのうちの100人の水夫が大阪に留まり、350人が、徒歩で江戸向かっています。
    釜山を出発してから、半年くらいの滞在です。
    さらに、朝鮮通信使には、対馬藩から800人の護衛の武士が同行しています。

    800人の警護がいてさえ、朝鮮通信使は、あちこちで問題を起こしたのです。
    幕府は、この朝鮮通信使のために、毎度100万両の予算を計上しています。
    それだけの接待をしたのです。

    けれど、彼ら朝鮮通信使たちは、風呂にはいる習慣がないから臭い。
    日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあるのに、路上で大小の用をたす。
    朝になると、350人が一斉に、往来の路上で大用をたすことを考えてみてください。
    どれだけ迷惑なことか。

    けれど、街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、歓迎のための踊りや祭りなども企画し、実行しています。
    負の面もたくさんあったけれど、それでも歓迎をする。
    楽しかった思い出を、たいせつにする。
    それが日本人です。

    朝鮮通信使の経路


    そうそう、最後にひとつ。
    朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
    表向きは、あくまで、無事な航海を願ってのことです。

    けれど、本音は、
    「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
    というものであったともいわれています。

    隣人と仲良くする、常に仲良くしたい、というのは、日本人の変わらぬ習性です。
    けれど、まともな人たちなら、そうやって仲良く暮らすことはとても大切なことだけれど、まともでない人たちまでごっちゃにするのは、国民の生活そのものを破壊する原因となります。

    冒頭に掲げた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。
    幕府は、30年に一度の朝鮮通信使の行列のために、莫大な予算を計上して、通信使たちの行列を荘厳しました。
    けれどそれは、あくまで30年に一度のイベント毎だったからです。
    逆にいえば、それだけのおもてなしはするけれど、それ以外には「半島人は来るな!」ということなのです。

    私は、ChinaやKoreaについて、限定的な鎖国を実施せよ、国内にいる在日外国人の通名を廃止せよ、という立場をとり、国政にそのはたらきかけをしていますが、これは民の生活の安全と安穏を保つための、最低限の国の使命であると思っています。

    ※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。

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    20180812 快傑ハリマオ
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    谷豊
    谷豊


    谷豊は、明治44年(1911)、理髪店を営む父、谷浦吉の長男として生まれました。
    豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住しました。
    美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる街です。

    けれど豊は、大正5年(1916)、5歳のとき、ひとり日本に帰国しました。
    「教育は日本で受けさせたい」という親の意向からです。
    祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学しました。

    小学校を卒業した豊は、大正13年(1924)、再びマレーシアへ戻りました。
    マレーでは、友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたりして、楽しい青春を過ごしています。
    当時の豊少年は、天性の運動神経と気の強さもあいまって、喧嘩がものすごく強かったそうです。
    そのため、豊のまわりには、いつもたくさんの仲間たちが集まっていました。
    そして19歳のとき、マレー人のワンシティさんと結婚して、イスラム教に改宗しました。

    昭和6年(1931)、20歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国しました。
    ところが身長が足りない。
    それで、「丙種合格」となりました。

    我が国の徴兵検査は、甲乙丙丁戊の5段階評価です。
    軍人として採用になるのは、身体頑健性格良好成績優秀な甲種合格者です。
    乙種は不採用です。
    ただし、どうしても軍人になりたいと志願する者は、抽選で合格にしてもらえることもあります。
    丙種合格というのは、字面こそ「合格」とありますが、身体上に欠陥あり、とされた者であり、現役の兵として採用できないが、国民兵役には適する(つまり内地で補助的な任務なら可能)ということであって、要するにひとことでいえば、不合格ということです。

    豊は、運動神経・学力性格は良好だったのですが、身長が足りないということで、不合格となりました。
    愛国心が強く、もとより健康で、喧嘩も強かった豊にとって、このことはかなりのショックでした。

    兵役に就けなかった豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになるのですが、その後、福岡市内の鉄工所に就職しました。
    この頃の豊は、毎晩のように美野島や柳町の飲み屋街に出かけていました。
    飲んでは喧嘩をするのです。

    喧嘩の相手は、決まって自分よりも大柄な相手だったそうです。
    豊は、小柄で細いから、相手は舐めてかかります。
    ところが豊は、そこをサッと相手の懐に飛び込んで、得意のボクシングで、相手の腹や顎を強打しました。
    たいていの相手はこれで一瞬でノックアウトされたそうです。

    博多には気になる女性もいたそうです。
    さらに豊は、当時自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払っています。
    そのお金をどうしたかというと、なんとまるごと貧しい家庭の友人に恵んでいます。
    気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
    豊のまわりには、いつも友人が集まっていたといいます。

    ちょうど、その頃、マレーシアでは、在マレーのChineseたちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
    Chineseの気質というのは、戦前も戦後も変わりません。
    我が強く、上下と支配による収奪と人間性の否定という社会的ストレスに常にさらされているChineseたちは、上(政府)から動員がかかると、そのエネルギーを集団で暴発させます。
    China国民党は、近隣諸国にいるChineseたちのこうしたエネルギーを、反日活動のために利用したのです。

    動員されたChineseたちは、マレーで暴徒集団となって日本人を襲いました。
    各所で、日本人の営む商店や家屋が襲われ、金品が奪われ、男はなぶり殺され、女性たちは強姦されました。

    昭和7年(1932)11月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も、Chineseの暴徒たちによる襲撃を受けました。
    襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝していたのです。
    要するに谷家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹しかいませんでした。

    この日、母親はたまたま出かけていて留守でした。
    弟は英語学校に行っていました。
    家は、たまたま病気で寝込んでいた妹のシズコひとりでした。

    Chineseたちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、あわてて近所の歯医者さんの家に駆け込んでいます。
    そしてChineseの暴徒たちが、手に「生首」をぶら下げて歩いて行く様子を、歯医者さんの家の窓から目撃しています。

    暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たもの。
    それは、荒らされて血まみれとなった室内と、首をねじ切られた妹の惨殺死体でした。
    Chineseのこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
    いまでもウイグルやチベット、法輪功等に関して同様の集団による暴行が公然と行われています。

    このときも、Chineseの暴徒たちは、妹の首を持ち去り、まるでサッカーボールのように、蹴り転がしていたそうです。
    その首は、伝記によれば「ねじ切られていた」といいます。
    どんなにしたら人間、そこまで残酷になれるのか。
    小説などで人の持つ残虐性がテーマになることが間々ありますが、そうした創作さえも色を失うほどに、実際にあった出来事はあまりにもひどい。
    夜になって、繁樹と隣家の歯科医が、妹の生首を奪還してきてくれました。
    そして泣きながら首と胴を縫い合わせてくれました。

    あまりのことに、事件後母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
    当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない時代です。
    日本にいて何も知らなかった豊は、帰国した母親から、この事件の顛末を聞きました。

    このときの豊の気持ちは、察して余りあります。
    大切な妹を、大好きな可愛い妹を、自分のいないときに異国の地で、生きたまま首をねじ切られたのです。
    どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。救うことができなかった、助けてやることができなかった。
    悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。

    豊は、復讐を誓い、血を冷たく冷やしました。
    そして昭和9年(1934)7月、単身マレーシアへ向かいました。

    マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みました。
    店はたいそう繁盛したそうです。
    豊は床屋業を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めました。
    妹を殺したChineseは、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、その後消息不明になっていたのです。

    なぜ?と思うかもしれません。
    この時期、マレー経済は、Chineseの華僑たちが牛耳っていたのです。
    そしてマレーという国の形がどうあれ、ChineseたちはChineseの理屈で動きます。
    簡単にいえば、事の善悪に関わりなく、カネで裁判結果はどのようにでもなったのです。

    欧米は、いわゆる「契約社会」です。
    結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づきます。
    民間同士の関係も契約関係です。

    Chineseは「人治社会」です。
    「人治社会」というのは、どちらが上か、どちらが得かという支配と利害だけで物事が動く社会であるということです。

    日本は「相互信頼社会」です。
    嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされます。
    悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、判決には従容と従います。
    それは我々が日本人であり、日本の社会の歴史や伝統がそのようにさせているのです。

    さて、マレーで床屋を営んだ頃の豊は、この時21歳でした。
    豊は当時のマレーの統治者である英国官憲に強く抗議しました。
    無罪とは何事か。
    事実関係はちゃんと調べたのか。
    犯人の居場所を教えろ等々。

    しかし、しつこく食い下がる豊は、逆に不審者とみなされて投獄されています。
    出所後、ツテをたどって日本の政府関係者にも陳情しました。
    けれど誰も取り合ってくれませんでした。

    味方が居ないことを知った谷豊はひとり復讐を決意しました。
    そうしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて姿を消しました。

    それからしばらくすると、マレーに、英国人とChineseの事務所だけを襲う盗賊が出没し始めました。
    最初の事件は昭和12年(1937)、トレンガヌ州政府土地局が襲われた事件です。
    ここでは土地証文や債券、手形など時価3万ドルが盗まれました。
    ただし人的被害者はいません。

    次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
    白人の経営する金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれました。
    手口は同じでした。
    ここでもやはり人の殺傷はまったくありませんでした。

    同様の犯行は、次々と続きました。
    裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
    そしてその金品が付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。

    マレー人たちは大喜びしました。
    そしてこの盗賊は、いつしかマレー人たちの間で、「ハリマオ」と呼ばれるようになりました。
    ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。

    やがてハリマオを頂点とする盗賊団は、Chinese華僑の豪邸や商店も標的にするようになりました。
    殺しはしません。
    しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行いました。

    幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語がとても堪能でした。
    そのためハリマオ盗賊団のマレー人の新しい部下などは、ハリマオが日本人であるということさえ、まったく気付かなかったそうです。

    昭和16年(1941)4月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されました。
    神本利男(かもととしお)が現れたのは、ちょうど豊がバタニの刑務所にはいっていたときのことです。
    神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもちました。

    神本利男さんという人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと顔立ちが似ています。
    神本利男(かもととしお)
    神本利男


    色男でもの静かです。
    けれど固い信念の人です。
    もともと警察官だったのだそうです。

    満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得て警察官を退官し、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で三年間修行を積みました。
    そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となりました。

    当時、満洲道教会で葛月潭老士といえば、超大物です。
    葛月潭老師の門下となることができた日本人は、神本さんと大馬賊として有名な小日向白朗の二人だけです。
    神本さんは、それだけ優秀な人物だったということです。

    さて、大東亜戦争開戦が近づいた頃に、バンコクに駐在していた特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
    当時はChina事変の最中でもあります。
    Chinaでは蒋介石が国民党を率いてChina各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていました。

    日本軍は、蒋介石を追い込み、China各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡してChinaとビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
    その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込んでいました。

    Chinaは無政府状態で、全土で略奪や暴行が日常的に行われていました。
    農地は荒らされ、家畜は殺される。
    これでは庶民は食えません。
    食えなくなった庶民は「日本軍怖し」とデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まりました。
    なぜならそこに食料があるからです。
    こうして蒋介石軍の人数が増える。
    国民党軍の勢力が盛り返す。

    この悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければなりません。
    そのためには、日本は軍をマレーからビルマに北上させて援蒋ルートを遮断しなければなりません。
    そこで特務機関の田村大佐が考案したのが、
    「マレー国内に日本軍と連携して行動を共にしてくれる仲間を作る」
    という作戦です。
    そしてこの作戦の実行のために選ばれたのが神本さんでした。

    神本さんは、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよいと考えました。
    そしてマレー半島を南下し、道教のネットワークを使って、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めると、タイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼しました。

    このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだそうです。
    「違う!、お前は日本人だ」という神本さんに、豊は複雑な胸中を語りました。
    妹の殺害事件で、日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われたのです。
    やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
    盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
    しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難する。
    「俺は、日本から見捨てられたんだ」
    と豊は語りました。

    神本は静かに言いました。
    「まもなく、この半島は戦場になる。
     私はマレーをマレー人の手に戻したいと思っている。
     そのためには君の力が必要だ。
     マレー半島はこれまで、
     白人によって四百年間もの間、
     支配され続けてきた。
     反政府運動はバラバラにされ、
     すべて鎮圧されてきた。
     だがな谷君、
     日本軍に現地人が協力してくれるなら、
     日本は必ず英軍を駆逐して
     マレーの植民地支配を終わらせる。
     それは必ずできる。」

    「谷君、小金を奪えば盗賊だ。
     しかし国を奪えば英雄だ」

    このとき豊は、神本の人としての魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたそうです。
    さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本が、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせたのです。

    豊は決心しました。
    「わかりました。
     あなたについていきます!」

    この頃のハリマオ団の実数は約300名でしたが、一般には「配下3千名の大盗賊団」と噂されていました。
    そう思われるくらい豊はメンバーを選りすぐりの者で構成していました。
    どういうことかというと、配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったのです。
    実際、豊の部下達は、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したりなど、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていました。

    神本の説得に応じた豊のもとに、藤原機関から多額の軍資金が提供されました。
    ところが豊は、受け取った軍資金を、まるごと近隣の村人たちのために使っています。

    昭和16年(1941)、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定して、マレー北部のタイ国境から30キロ南にある小さな集落、ジットラに、防禦要塞を建設しました。
    その要塞までの道筋がジットラ・ラインで、英国のシンガポール防衛のための軍事施設群です。

    そしてジットラには、強力な要塞が築かれました。
    これら陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透しました。
    一党は、同じく防御陣地建設に狩り出されたマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜きました。
    さらにトーチカの場所や地形などを詳しく調査し、精密な地図を作って日本軍に送りました。

    完成したジットラ要塞について英国軍は、
    「いかなる攻撃でも三ヵ月は持ちこたえる」
    と豪語していました。
    設計図通りなら、そうです。
    しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜き工事でスカスカで、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
    いざ戦端が開かれると、わずか二日でジットラ要塞は堕ちてしまいました。
    谷豊のハリマオ団の見事な工作と調査の賜物であったことはいうまでもありません。

    英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画という作戦も進めていました。
    これは英軍の精鋭部隊が、密かに国境を越えて日本軍がやってくるのを待ち伏せて一気に日本軍のせん滅を図るという作戦です。
    この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れていました。
    日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしています。

    この作戦にも明らかなように、「大東亜戦争は日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
    英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に準備万端整えて、手ぐすねひいて日本が軍事行動を起こすのを待ち構えていたのです。
    むしろ戦争を避けるために当時必死の努力を重ねていたのは日本の方です。

    昭和16年12月の大東亜戦争開戦からちょうど1ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会いました。
    藤原はそのときのことを著書「F機関」に次のように書いています。
    すこし引用します。

    *******
    「なに!。谷君が待っているのか。
     おれも会いたかった。どこだ谷君は」
    私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
    数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。

    私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
    「谷君。藤原だよ。
     よいところで会ったなあ。
     御苦労。御苦労。
     ほんとうに御苦労だった」
    と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
    谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。

    私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
    「いいえ。大したことはありません。
     ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は
     一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。
     それから山づたいに
     英軍の背後に出て参りましたが、
     日本軍の進撃が余りに早いので
     遅れがちになって
     思う存分働けなかったのが残念です。
     この付近では英軍の電線を切ったり、
     ゴム林の中に潜んでいる
     マレイ人に宣伝したり致しましたが、
     日本軍のために
     どれだけお役に立てたことでしょうか」

    「君のこのたびの働きは、
     戦場に闘っている将校や、
     兵にも優る功績なんだよ」
    というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、

    「有り難うございます。
     豊は一生懸命働きます。
     私の命は死んでも惜しくない命です。
     機関長の部下となり、
     立派な日本男児になって死ねるなら、
     これ以上の本望はございません」
    としみじみ述懐した。
    (『F機関』176〜177頁)
    ********

    藤原岩市参謀
    藤原岩市参謀


    マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊のつらすぎる過去を知っています。
    どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘いました。
    しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。

    初めての対面からおよそ一週間経った頃、藤原参謀のもとに、
    「谷豊がマラリアを再発し危篤です」
    という報せが届きました。
    藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時、豊をジョホールバルの陸軍病院に移すよう命じました。

    藤原は語ります。
    「一人として大切でない部下はいない。
     しかし、わけてハリマオは、
     同君の数奇な過去の運命と、
     このたびの悲壮な御奉公とを思うと、
     何としても病気で殺したくなかった。
     敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。
     けれども病死させたのではあきらめきれない。
     私は無理なことを神本氏に命じた。
     『絶対に病死させるな』と」
    (同247頁)

    シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞いました。

    ********
    私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。
    見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
    「充分な働きが出来ないうちに、
     こんな病気になってしまって
     申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
    私は、
    「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。
     お母さんのお手紙を読んでもらったか。
     よかったね」
    というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。
    両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
    私は更に、
    「谷君。
     今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、
     病気が治ったら、
     軍政監部の官吏に起用してもらうことに
     話が決まったぞ」と伝えると、
    ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
    「私が! 谷が! 
     日本の官吏さんになれますんですか。
     官吏さんに!」
    と叫ぶようにいった。

    ハリマオの余りの喜びに、
    むしろ私が驚き入った。
    (同269頁)
    *********

    官吏というのは、今の国家公務員のことです。
    盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。

    開戦の一ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。
    日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

    「お母さん。
     豊の長い間の不幸をお許し下さい。
     豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで
     御安否を心配しております。
     お母さん。
     日本と英国の間は近いうちに
     戦争が始まるかも知れないほどに
     緊張しております。
     豊は日本軍参謀本部田村大佐や
     藤原少佐の命令を受けて、
     大事な使命を帯びて
     日本のために働くこととなりました。
     お母さん喜んで下さい。
     豊は真の日本男児として更生し、
     祖国のために
     一身を捧げるときが参りました。
     豊は近いうちに
     単身英軍の中に入って行って
     マレイ人を味方に思う存分働きます。
     生きて再びお目にかかる機会も、
     またお手紙を差し上げる機会も
     ないと思います。
     お母さん。
     豊が死ぬ前に
     たった一言、
     『いままでの親不幸を許す、
      お国のためにしっかり働け』
     とお励まし下さい。
     お母さん。
     どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
     そしてお母さん。
     長く長くお達者にお暮らし下さい。
    ********

    谷豊とその家族


    昭和17年3月17日、谷豊は永眠しました。
    享年30歳でした。
    臨終を見守っていた配下のマレー人が、このとき日本軍に求めたのは、たった二枚の白い布だけだったそうです。
    それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでした。
    豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されました。

    藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていました。
    そこで豊の訃報を受け取りました。

    「北部マライの虎として
     泣く子も恐れさせた彼は、
     マライの戦雲が急を告げるころ、
     翻然発心して
     純誠な愛国の志士に還った。
     彼は私の厳命を遵守した。
     彼は勿論その部下も、
     私腹を肥やすことも、
     一物の略奪も、
     現住民に対する一回の暴行も
     犯すことがなかった。」
    (前掲書)

    近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
    その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。

    「イギリス軍も日本軍も
     武器ではマレーシアの心を
     捉えられなかった。
     心を捉えたのは、
     マレーを愛した
     一人の日本人だった」

    写真は、豊の家族の写真です。左端が豊。左から三番目が亡くなられた妹さんです。
    谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。

    ※この記事は2009年12月の記事のリニューアルです。

    日本をかっこよく!
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    小名木善行です。

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    1 従軍看護婦

    従軍看護婦(じゅうぐんかんごふ)というのは、軍に随伴して野戦病院などに勤務して医療活動を行う女性看護婦人のことをいいます。
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    このときナイチンゲールは、38名の女性看護婦らを率いて前線に向かい、たいへんな成果をあげています。

    それ以前にも18世紀の後半から、米国では世界に先駆けて女性看護婦が活躍してきた歴史を持つなどといった記述をしているものもありますが、女性が戦地で看護婦を行うことは、もともとは文化の進んだ国では行われていなかったことでした。

    平時の市中における医療施設で女性が看護にあたったり、あるいは医療を行ったりということは、ごく普通にありましたし、たとえば古い時代の英国では、医療は女性が行うものとされていました。
    その女性は、遠目にもわかるように、黒い衣装に、先の尖った山高帽子をかぶりましたが、それが後年、英国を征服したキリスト教徒によって、魔女とされたりしています。

    ただ、女性が医療や看護を行うのは、あくまで平時、もしくは市中の医療施設であって、戦場やその前線における医療は、古い時代には男性医師と男性の補助者だけがこれにあたるとされていました。
    生物学的には、男は戦って死ぬために生きているのであり、女は子を産むことで子孫を絶やさないために生きているとされているのだそうですが、その男たちの戦いの戦場に女性が入り込めば、危険極まりないわけです。

    戦場は、死ぬ人もいれば、ケガや病気で倒れる人もいます。
    ですから医療も看護も不可欠です。
    そのこと自体は、たとえば日本の戦国時代の戦でも変わりはありません。

    では戦国時代の戦での医療はどうなっていたのでしょうか。
    これは戦国時代も、その後の戊辰戦争の時代も同じですが、医師も看護助手も随伴するのが、常でした。
    ただし、医師も看護助手も、全員、男性です。
    女性は同行させることはありませんでした。

    理由は簡単で、戦場で名誉の戦いをしようという武士たちが、戦地において女性問題を起こせば、故郷(クニ)にいる親兄弟や親戚一同に、「女にだらしのない男」として大恥をかかせることになるし、そんなことで勇敢に戦った武士の名誉が削がれるようなことがあってはならないからです。

    好きな男性に声をかけられたり触れられたりすれば嬉しいけれど、嫌いな男性に声をかけられたり触れられたりするのは、蕁麻疹が出るほど嫌だという女性心理は、今も昔も変わりません。
    ややこしいのは、好きな男性であっても、触れられたことにびっくりすれば、思わず泣き出してしまうというのも古来変わらぬ女心ですし、交際していた男性であっても、ある瞬間から嫌いになったら声が聞こえるだけで蕁麻疹が出る(笑)というのも、これまた古来変わらぬ女心です。
    そういう微妙な心理の変化は、男性には理解不能ですし、そんなことで困惑して肝心の戦に身が入らないのでは、困ったことでは済まされない大事となります。
    それならば、いっそ戦場には女性は伴わない方がはるかに安全というわけで、医療も看護も、戦場ではそれらはすべて男性の役割となっていたのです。

    ちなみに嘘のような本当の話ですが、昔のお侍さんは、戦場で刀傷を受けても気合で流血を止めることができたのだそうで、これを応用したのが有名な筑波のガマの油売りだそうです。
    ほんとうに「エイッ」と気合を入れると、傷口がふさがり出血も止まるのだそうで、そのうえであとから傷口を縫い合わせたのだそうです。
    それも自分でできるところは、自分で縫ったといいますから、たいしたものです。

    明治に入って、洋式軍隊ができたときも、これは同じで、ですから日本軍では、軍医も軍医の助手も、全員がもともとは男性でした。
    ところが日清戦争の折に、洋式にならって、日本赤十字から陸軍に女性看護婦が派遣されました。

    それでもこの当時はまだ女性看護婦たちは危険の大きな大陸には派遣されず、大本営のあった広島に設置された軍病院(主に大陸で伝染病に罹患した患者が収容された)だけでの看護をしています。
    そこには主に大陸で感染症に罹患した患者が収容されていたのですが、それでも4名の伝染病罹患による殉職者を出しています。
    このときのひとりが岩崎ゆきで、わずか17歳の乙女の覚悟と死が高く評価されるに至ることになります。
    岩崎ゆきと従軍看護婦のはじまり
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3545.html

    また、このときの日赤の従軍看護婦たちが叙勲され、これら一連のことを当時のメディアが従軍看護婦の「壮挙」として讃えたことから女性従軍看護婦の積極的登用が行われるようになり、続く日露戦争では、2160名もの女性看護婦が従軍するようになりました。
    しかしこの段階でも、まだ女性看護婦は内地勤務であって、国外に出ることはなかったのですが、それでも大陸からの感染症に罹患して39名が病死しています。

    ちなみに感染症罹患は、大陸での戦いでは本当に酷いもので、とにかく内地と違って水が汚い。
    当時の大陸では、農民が城塞都市内の糞尿を桶に入れてもらってきて農業をしたのですが、日本のように、それを発酵させて肥料に用いるということをしない。
    そのまま畑に撒いて、女性が裸足でそれを土に混ぜるというのが普通で、出来上がった作物を都市部に運ぶ際の桶は、糞尿を運んだ際に用いた桶をそのまま洗わずに(水がないから洗えない)用いるのがあたりまえでした。

    また城塞都市内で糞尿を壺に入れる(壺に糞尿をする)のは、限られた一部の金持ちだけで、城塞内に住む一般庶民は、路上で下の用をするのが普通で、これを犬が食べて、その犬をまた人間が食べるといったことが普通に行われていました(ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』)。

    そのような劣悪な衛生環境でしたから、どこもかしこも、何もかもバイ菌だらけであったわけで、日清日露以来、我軍が大陸に出兵することは、要するに兵を劣悪な環境下に置くことにもなったわけですから、感染症に罹患する兵が極めて多かったし、内地に運んでそれを治療しても、その治療中に大切な女性看護婦がやはり感染症に罹患して死亡するという悲しい出来事も多々発生したわけです。

    日本は、日露戦争、第一次世界大戦以降、シベリア出兵、日華事変と、大陸への出兵を余儀なくされましたが、こうなると細菌性の感染症対策が極めて重要になるわけで、そのために置かれたのが「関東軍防疫給水部本部」です。
    人は水を飲まなければ死んでしまいますが、その水の衛生をいかに保つか、感染症からいかに兵や住民を護るかは、当時にあっては、死活問題ともいえる重大事だったわけです。

    「関東軍防疫給水部本部」は、当時にあって世界最大かつ最新の防疫研究機関です。
    年間の研究費予算は、当時世界屈指の名門大学であった東京大学(いまでは世界的には二流大学に落ちていると言われています)とほぼ同じ年間200万円(昭和17年度)の研究費が与えられていました。
    そして3千人をこえる職員が日夜研究に励み、世界的な特許もいくつも取得する研究成果をあげていたのです。
    そしてその研究成果は、終戦時にGHQに摂取され、この成果によって、大躍進したのが、いま世界的な大手薬品メーカーとなっている米国製薬会社です。
    そして研究成果をすべて奪われた「関東軍防疫給水部本部」の通称名が「満州第731部隊」です。

    まさに悪の権化のように言われている「関東軍防疫給水部」ですが、罹患者を内地に運んで厳格な衛生管理を施していながら、女性看護婦が次々と感染して死んだのです。
    大陸へは国際条約(北京議定書)によって出兵はしなければならない。
    けれど感染症罹患は極力防ぎたい。
    そのあたりまえのことに、真剣に取り組んだかつての日本と、その機関が、あたかも悪魔の部隊のように声高に言われて続けてきたというのが、戦後の日本のある種の狂気であったといえると思います。

    さて従軍看護婦ですが、昭和12年に日華事変が勃発すると、外地における医局の看護師の数が重大な不足という事態を迎えるようになりました。
    そこで苦肉の策として、内地から女性看護婦を大陸に送り出すようになります。

    そしてこの結果、終戦までの8年の間に、延べ3万5千名もの女性看護婦が従軍して外地に赴任するようになるわけです。
    そしてこのうちの1120名が戦没して、いま靖国神社に祀られています。

    なかでも戦況の厳しくなってきた南方戦線では、軍とともにジャングルの中を逃げ回り、食べるものさえないなか、最後には自決してお亡くなりになった看護婦も大勢います。
    また、戦争終結後には、北満において、ソ連軍やChina兵によって酷い目に遭わされた看護婦も多く、やっとのことで、内地に向けて帰還しようとしているところを、半島で強姦や生殺しなど、およそ鬼畜さえも目をそむけたくなるような酷い目に遭わされた看護婦も大勢いると聞いています。
    またこのことは、軍の看護婦のみならず、産婦人科等のためにと大陸に渡った産婆さんや、その助手、あるいは女医たちまでも、酷い仕打ちを受けることになりました。

    日本人の感覚からすれば、ひどいことをしたから、力関係が変わったときに酷い目に遭わされた、つまり事前に日本人の側が大陸や半島の人々にひどいことをしたのではないかなどと、つい勘ぐってしまいがちなのですが、事実はまったく異なります。
    力関係において鬼畜が上位に立てば、鬼畜はそれまでの恩義をすべて仇で返します。
    あたりまえのことです。
    鬼畜に恩義という概念はないのです。
    それが世界の現実であること、すくなくとも、そんな事実が、ほんの6〜70年前に実際に起こっていたのだということを、私達現代日本人は、子や孫のために自覚する必要があります。

    2 青葉慈蔵尊の物語について、

    私の書いた満洲従軍看護婦哀歌の物語について、いまなお、アップするたびに、私を糾弾する文章を書く人がいると聞いています。
    読む気もしないし、誰がどのような考え方をしようが自由なので、放置していますが、ただひとつ、批判も感想のうちですので、それ自体は良いのですが、内容ではなく私個人への人格攻撃になっているのは、残念なことです。
    どんなに正しいと信じることであったとしても、「正しいことをするなら何をしても許される」と考えるのは、左翼思考です。

    世の中には、◯か☓かの二種類しかないのではなくて、0と100の間には1〜99までの多様な考えや思考があるのです。
    これを正しい正しくないでいうならば、88の正しさを持つ人でも12は間違っていることになりますし、98間違っている人であっても、ひとつくらいは正しいこともあったりするということです。
    要は、世の中には完璧などないのですから、0や100しか求めないのであれば、世間を狭くするしかなくなることは、誰でも知っている常識です。

    逆にいえば、自分がどんなに正しくありたいと願ったとしても、必ず間違いはどこかにあるし、どんなにすごい先生であっても、やはりたくさんの間違いがあるのです。
    したがって我々凡人は、世の中に正しいことを10しか持たない人もいれば、80ある人もあるという前提の中で、それぞれの先生方からすこしでも良いところを吸収して、自分が成長していくしかない。
    その先生の間違いの部分をあげつらって、責め立てたところでなんの益にもならないし、そういうことをする人を、多くの世間の常識人は信用しない。

    不思議なことに、保守を自称する人の中の一部には、このような簡単な常識さえ持たず、やたらに他の同じ保守系の人を攻め立てる人がいるようです。
    しかし、そういうことでは、自分が偉くなったように錯覚することはできるかもしれませんが、世間の多くの人は、むしろそれを粘着性の性格異常者としかみなしません。
    日本を取り戻そうという闘士が、粘着性の性格異常では、世間はついてきません。

    またさらに我が国では古来、正しいことをするためならどんな非道をしても許されるという思考はありません。
    武士が非道をただし、正しい行いを通すためにと刃傷に及べば、たとえどんな理由や正論があったとしても、みずから腹を斬らなければならないとされてきたのが日本です。

    そして、多くの人に目覚めてもらうことが日本を取り戻すということであるならば、そこにおける行動は、正義を振りかざしながら何の責任も負わない無責任な正義ではなく、むしろ0と100の人以外の、1〜99の人々にとって、愛と喜びと幸せと美しさを及ぼすものでなければならないと私は思います。

    言いたいことは以上です。

    最後に、青葉慈蔵尊に祀られた従軍看護婦の皆様、また従軍看護婦として散華された皆様のご冥福を心からお祈り申し上げたいと思います。

    お読みいただき、ありがとうございました。

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  • 祖国遥か


    このお話は、何度ご紹介しても長春駅前での三人の女性の死のところで、涙でパソコンの画面が見えなくなってしまいます。そんなお話です。
    およそ18000字あります。
    読了におよそ30分です。

    満洲時代の長春駅
    20200305 長春駅
    画像出所=https://aucfree.com/items/p716623530
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
       

    最初にこの物語をブログでご紹介したのは2011年のことです。
    すると不思議なことにネット上で、
    「この話は嘘っぱちだ」
    「ただの作り話にすぎない」
    などといった批判が相次いで起こりました。

    私自身は、もちろんその時代に居合わせたわけではありませんし、被害に遭われてお亡くなりになられた看護婦の方々と直接お会いしたわけでもなければ、その場を見てきたわけでもありません。
    ですからどこまでが史実で、どこまでが創作なのかはわかりません。

    ただこのような物語があり、そしてその短くも悲しい生涯を惜しんで、さいたま市の青葉霊苑に慰霊塔が建てられていることは事実です。
    そしてその慰霊塔には、いまもご遺族の方々等による献花が絶えずに続いています。
    そのさいたま市の霊園にある慰霊塔が、上にあります「青葉慈蔵尊」です。

    お地蔵さんならば普通は「地蔵」と書くところを、その像は「慈蔵」と書いています。
    そこに語り継がなければならない何かがあると私は思います。

    同様のケースは、他にも多々あったものと思われます。
    実際にはもっと悲惨な現実がたくさんあったのが事実です。
    そしてこの物語には、伝えなければならない大切なものがぎっしりと詰まっているように思います。

    本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいた2011年3月の記事のリニューアルです。
    また、物語のご紹介に際して「看護婦」という用語を用います。
    いまでは「看護師」と呼びますが、ほんの何十年か前までは「看護婦」という呼び名が普通だったからです。

     *

    お地蔵さんの建立には、堀喜身子(ほりきみこ)さんという元看護婦の婦長さんだった方が深く関係しています。
    掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが大好きな女の子でした。

    彼女は昭和11(1936)年に女学校を出ると、すぐ満洲に渡り、満洲赤十字看護婦養成所に入所しました。
    そこで甲種看護婦三年の過程を修め、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰って樺太庁立病院の看護婦になっています。

    昭和14(1939)年の春、彼女は医師の堀正次と結婚しました。
    結婚して1年目の春、堀喜身子さんのもとに、召集令状がやってきました。
    令状を受けた一週間後には、彼女は単身で、任地の香港第一救護所に出発しています。

    まもなく彼女の任地は上海に移り、次いで満洲国牡丹江、さらにソ連との国境に近い虎林(こりん)の野戦病院へと移りました。
    野戦病院には、他に48名の看護婦がいました。

    虎林の病院に勤務して半年ほど経ったとき、その野戦病院に夫の正次(まさつぐ)も令状を受けてやってきました。
    二人は医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療を続けました。
    そしてこの病院勤務の頃に、長男の静夫(しずお)さん、長女槇子(まきこ)さんの二人の子宝にも恵まれました。

    終戦間近となった昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って満洲に攻め込んできました。
    それは厳しい戦いでした。
    虎林の野戦病院の患者は全員、長春に移ることが上から決定されました。

    患者のうちの70余名は伝染病の重患であったために、動かすことができません。
    そこで野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんと重患者が残ることになりました。
    掘喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に長春に向かう組に配属になりました。
    二人は、これが今生の別れとなりました。

     *

    虎林を出発した病院の一行は牡丹江(ぼたんこう)を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に長春にたどり着きました。
    そしてここで終戦の玉音放送を聴きました。

    日をおかず長春はソ連軍に占領されました。
    ソ連軍は、看護婦や将校夫人や女子児童76名を合宿所に入れました。

    そこで身上調査が行われました。
    調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は「長春第八病院に勤務せよ」との命令を受けました。

    月給はひとり200円でした。
    34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合って、一緒に収容されている兵隊さんの家族を養う費用にアテました。
    物価はあがる一方でした。
    生活は苦しくなるばかりでした。
    堀喜美子さんの体も次第に痩せ細って行きました。

    昭和21(1946)年春、第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
    内容は、
    「看護婦の応援を要請。
     期間一か月。
     月給300円」
    というものでした。

    いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどしないだろう。
    ましてソ連陸軍の発令による公的な「命令書」です。
    堀婦長は一抹の不安はおぼえながらも引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも一番のしっかり者の
    大島花枝看護婦と、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てるの3名の看護婦を選びました。

    出発の日、堀婦長は三人に、
    「決して無理はしないように」
    と言い聞かせました。

    大島花江看護婦は元気いっぱいの笑顔で、
    「婦長、心配はいりません。
     敗戦国であっても、
     世界の赤十字を背負う看護婦として、
     堂々と働いてきます!」
    と答えました。

    「大島さん、
     細井さんと大塚さんのことも
     お願いね」
    と気遣う婦長に、細井、大塚両名は、
    「あら、大塚さんばっかり。
     私たちはいつまでたっても
     一人前じゃないようだわ」
    「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
    と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いました。

    堀婦長は出発する3名にきちんと制服(当時は看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
    そして制服の右腕に赤十字の腕章を付けさせました。
    どこからどうみても「赤十字の看護婦」であることがひとめでわかるようにしたのです。

    こうして白羽の矢をたてられた三名は元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。

    ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々の部屋を与えられました。
    部屋は個室でベットもありました。
    大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって個室はまさに夢のような部屋でした。

    やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院からまた3名の追加の命令書がきました。
    日本側は、
     荒川静子、
     三戸はるみ、
     沢田八重
    の3名を第二回の後続としてソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りました。

    もうまもなく最初の三名が交代して帰ってくる。
    誰もがそう思っていました。

    ところが最初の3人は帰ってきません。
    やがてさらに一か月が経過しました。
    するとまた3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされました。

    堀婦長は心配になりました。
    そして引率者の平尾軍医に、命令を断るように談判しました。

    一か月という約束で看護婦を送っているのです。
    最初の3名が行ってから、もう3か月経過しています。
    2回目の看護婦が行ってからも2か月です。
    にも関わらず、誰も帰してもらっていない。
    おかしいのではありませんか?。
    向こうが約束を反故にしているのです。
    普通ならそんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできないことです。
    しかも6名とも行ったきり音信不通です。

    けれど相手はソ連軍です。
    命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員殺されてしまう危険があります。
    病院としては命令に背くことはできない。

    やむなく、
     井出きみ子、
     澤本かなえ、
     後藤よし子
    の3名が送り出されることになりました。

    仏の顔も三度までといいます。
    4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
    先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう決意を固めていた矢先、
    また一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ました。
    今度もまた
    「3名の看護婦を出せ」
    というものです。

    なんという厚顔無恥。
    残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他22名です。
    その中から4度目の3名を選出しなければなりません。
    堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがっていました。

     *

    その日の夜、堀婦長は次に向かう3名を呼びました。
    明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するようにと伝えるように言い聞かせました。

    その日の夜のことです。
    すっかり夜も更けたころ病院のドアをたたく音がしました。
    「こんな時間になにごとだろう・・・・」
    堀婦長が玄関の戸を小さく開けました。
    すると髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、
    「婦長・・・」
    とつぶやきながらドサリと倒れこんできました。

    みればなんと最初に出発した大島看護婦でした。
    たいへんな重体です。
    もはや意識さえも危うい。
    全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創があります。
    裸足の足は血だらけです。
    全身に鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷があります。
    脈拍にも結滞がありました。

    なにがあったのか。
    堀婦長は、とっさに
    「そうだ。
     こうまでしてここに来なければ
     ならなかったのには、
     理由があるに違いない。
     その理由を聞かなければ」
    と思い立ちました。
    そして、
    「花江さん!、
     大島さん!
     目を開けて!」
    と、大島看護婦を揺(ゆ)り動かしました。

    重体の患者です。
    ふつうなら揺り動かすなんて絶対にありえないことです。
    他の看護婦が
    「婦長!
     そんなことをしたら
     花江さんが!」
    と悲鳴をあげました。

    けれど堀婦長は毅然と言いました。
    「あなたたちは黙って!
     花江さんは助からない。
     花江さんの死を
     無駄にしてはいけない!」
    と声を荒げました。

    大島看護婦が目を覚ましました。
    そして語りました。

    「婦長。
     私たちはソ連軍の病院に看護婦として
     頼まれて行った筈ですのに、
     あちらでは看護婦の仕事を
     させられているのではありません。
     行ったその日から、
     ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。

     半日たらずで
     私たちは半狂乱になってしまいました。
     約束が違う!と泣いても叫んでも、
     ぶっても蹴っても、
     野獣のような相手に通じません。
     泣き疲れて寝入り、
     新しい相手にまた犯されて暴れ、
     その繰り返しが来る日も来る日も
     続いたのです。

     食事をした覚えもなく、
     何日目だったか、
     空腹に目を覚まし、
     枕元に置かれていた
     パンにかじりつき、
     そこではじめて
     事の重大さに気が付き・・

     それからひとりで泣きました。
     涙があとからあとから続き、
     自分の犯された体を見ては、
     また悔しくて泣きました。

     たったひとりの部屋で、
     母の名を呼び、
     どうせ届かないと知りながら、
     助けを求めて叫び続けました。
     そしてどんなにしても、
     どうにもならないことが
     わかってきたのです。

     やがておぼろげながら、
     一緒に来た二人も
     同じようにされていることが
     わかりました。

     ほとんど毎晩のように
     三人か四人の赤毛の大男に
     もてあそばれながら、
     身の不運に泣きました。

     何度も逃げようとして、
     その都度、
     手ひどい仕打ちにあい、
     どうにもならないことが
     わかりました。

     記憶が次第に薄れ、
     時の経過も定かではなくなった頃、
     赤毛の鬼たちの言動で、
     第八病院の看護婦の
     同僚たちが
     次々と送られて
     きていることを知って、
     無性に腹が立ち、
     同時に我にかえりました。

     これは大変なことになる。
     なんとかしなければ、
     みんなが赤鬼の生贄になる。
     そんなことを許してはならない。
     そうだ、
     たとえ殺されても、
     絶対に逃げ帰って
     婦長さんに
     ひとこと知らせなければ・・・

     赤鬼に汚された
     体にも命にも
     いまさら何の未練も
     ありませんでした。

     私は二重三重の
     歩哨の目を逃れ、
     鉄条網の下を、
     鉄の針で服が破れ、
     肉が引き裂かれる
     痛みを感じながら
     潜り抜けて、
     逃げました。

     後ろでソ連兵の叫び声と
     銃の音を聞きながら、
     無我夢中で逃げてきました。

     婦長さん。
     もう、人を
     送っては
     なりません・・・・」

    そこまで話して大島花江看護婦はこときれました。

    なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
    蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、
    彼女はここまで逃れてきたのです。

    病室内に、
    「はなえさん・・・」
    「大島さん・・・」
    という看護婦たちの涙の声がこだましました。
    こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は堀婦長の腕の中で息をひきとりました。

    どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
    大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
    あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼(いた)みました。

    翌日の日曜日の午後、遺体は満洲のしきたりにならって土葬で手厚く葬られました。
    彼女の髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置しました。
    花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
    すべて懐(なつ)かしくて楽しかった内地(ないち)の話ばかりでした。

    翌日、堀婦長が出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。
    張さんは日本の陸軍士官学校を卒業した人です。
    張さんはひどく怒っていました。
    看護婦たちがだれも出勤していないのです。
    こんなことは前代未聞です。

    「変ですね~」
    と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間はっとしました。
    そして3階の看護婦たちの宿所に走りました。

    いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
    それが今朝はシーンと静まり返って、もの音一つしません。
    堀婦長の胸にズシリと重たいものがのしかかりました。

    宿所の戸を開けました。
    お線香の匂いがただよっていました。
    内側の障子が閉まっていました。
    婦長が障子を開けました。

    部屋の中央に小さなテーブルがありました。
    テーブルの上には大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。
    そしてその周囲に、きれいに並んだ22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。

    机の上に遺書がありました。

    「22名の私たちが、
     自分の手で
     生命を断ちますこと、
     軍医部長はじめ
     婦長にも
     さぞかしご迷惑のことと、
     深くお詫びを申し上げます。

     私たちは、
     敗れたとはいえ、
     かつての敵国人に
     犯されるよりは
     死を選びます。

     たとえ生命はなくなりましても、
     私どもの魂は
     永久に満洲の地に止まり、
     日本が再び
     この地に帰ってくる時、
     ご案内をいたします。

     その意味からも、
     私どものなきがらは、
     土葬にして、
     この満洲の土にしてください。」

    遺書の終わりには、22名の名前がそれぞれの手で記されていました。
    遺体は、制服制帽の正装。
    顔には薄化粧。
    両ひざはしっかりと結ばれ一糸乱れぬ姿でした。

    その中でたったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
    26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の意志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、
    最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
    畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。

    現場には、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
    婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難し、事のてんまつを訴え、泣き崩れました。

    これには彼らもしばらくは無言のままで、事態の重大さがわかったようでした。
    この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、
    「ソ連の命令として
     伝えられることで
     納得のいかないことがあれば、
     24時間以内に
     ゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に
     必ず問い合わせること」

    「日本の女性とソ連兵が、
     ジープあるいは
     その他の車に
     同乗してはならない」
    という通達が日本人の宿舎にまわってきました。

    22名は死ぬ前に全員が身辺をきれいに整理整頓していました。
    彼女たちが「土葬」を遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。

    「それではあまりに
     22名の看護婦たちが
     かわいそうだ。
     火葬にしたうえで
     分骨し、
     故郷の両親に
     届けてあげれるように
     しようじゃないですか」
    と、張さんが、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。

    日本が負けて立場が変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
    張さんは
    「せめてこれまで
     朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、
     これがささやかな供養ですから」
    と述べてくれました。

     *

    こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。
    その四十九日のときのことです。
    張さんが亡くなられた看護婦さんたちにせめてお饅頭でも作ってあげたら?と、饅頭を作る材料費を出してくれたのです。

    そこで堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
    そこは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。

    堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから噂話を耳にしました。
    長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きているというのです。
    場所は張春市内にあるミナカイデパートの跡で、地下のダンスホールにソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が
    生きてダンサーをしているというのです。

    堀婦長は矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに向かいました。
    ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人、働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、コリアン、チャイニーズでした。

    入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて入室を拒みました。
    どうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょうか。
    入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろといいました。

    部屋でひとり待っていると、ガチャリと音がして扉が開きました。
    肌もあらわで派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。

    「ふ、婦長・・・」
    「婦長さん!!」

    「みんな・・・」

    堀婦長にも彼女たちにも言葉はありませんでした。
    互いに会うことができた。
    それだけで涙があふれました。

    しばらくして落ち着くと堀婦長は言いました。
    「大島さんがね・・・」
    「知っています。
     同僚たち22名が
     集団自決したことも
     聞いています。」
    「だったら、
     こんなところにいないで、
     早く帰ってきなさい!!」
    「・・・・」
    「あなた達の気持ちは、
     痛いほどわかるわ。
     だけど帰ってきてくれなかったら、
     救いようがないじゃないの」

    8名の看護婦たちは婦長の言葉にうつむいたままでした。
    堀婦長は気付きました。
    眉を細く引き口紅を赤くしたひとりひとりの顔は以前の看護婦に違いないのです。
    しかし8人ともまるで生気がありません。
    それどころか目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえしています。

    堀婦長は心を鬼にして言いました。
    「どうして黙っているの?
     どうして返事をしないの?
     そう、
     あなた達は、
     そういうことが
     好きでやっているのね」

    ひとりが答えました。

    「婦長さん、
     そんなにあたしたちのことを
     思っていてくださるのなら、
     お話します。

     私たちは、
     ソ連軍の病院に行った
     その日から、
     毎晩7、8人の
     ソ連の将校に犯されたのです。
     そして気づいてみたら、
     梅毒にかかっていました。

     私たちも看護婦です。
     いまではそれが、
     だいぶ悪くなっているのが
     わかります。

     もう私たちはダメなのです。
     もう・・・
     みなさんのところに帰っても
     仕方ないのです。

     仮に幸運に恵まれて
     日本に帰れる日が来たとしても、
     こんな体では
     日本の土は踏めません。
     この性病が
     どれほど恐ろしいものか、
     十二分に知っています。

     だから、
     だから私たちは、
     梅毒をうつしたソ連人に、
     逆にうつして
     復讐しているのです。

     今はもう、
     歩くのにも
     痛みを感じるようになりました。
     ですから
     ひとりでも多くのソ連人に
     うつしてやるつもりで
     頑張って・・・」

    もう何も受け付けない。
    もう何を言っても彼女たちには通じない。
    彼女たちを覆っているのは、もはや完全な孤独と排他と虚無しかない。
    彼女たちの言葉を聞いた堀婦長は、流れる涙で何も言えなくなりました。

    私が人選した。
    責任は私にあるのだ。
    彼女たちが負った傷の深さ過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定どころか、何の助言さえもしてあげれないわ。
    堀婦長はただ自分の無力さに悔(くや)し涙が止まらないまま、この日さいごは気まずい雰囲気で部屋を後にしました。

    「でも、このままでは
     済まさないわ。
     なんとしても彼女たちを
     助けなければ!!」

    堀婦長はその日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り梅毒の薬を持ち出しました。
    そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいました。

    通されたのは、昨日と同じ部屋でした。
    女ばかり9人が、そこに集まりました。
    婦長はせいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。

    「みんな!
     今日はお薬を
     持ってきてあげたわ。
     みんなの分、
     たくさん持ってきたよ。

     あなたたちはまだ若いわ。
     復讐する気持ちはわかるけど、
     それでは際限がない。
     それより、
     この薬を飲んで、
     一日も早く体を治そうよ。
     そして気持ちを立て直して、
     生きることを目標に
     努力しようよ!」

    「婦長さんのお心は
     ありがたいです。
     だけど婦長さん。
     そのお薬は
     日本人が作ったものです。
     そんな貴重なものは、
     私たちには使えません。
     私たちのことは、
     もういいんです。
     本当に、
     もういいんです・・・・」

    「そんなことを言ってはダメ!
     お願いだからあきらめないで!
     お薬、ここに置いていくわね。
     それじゃ、帰るわね・・・」

    「婦長さん。
     そんなに私たちの気持ちが
     わからないのなら、
     わかるようにしてあげます。」

    彼女の中のひとりがそう言ってスカートをたくしあげて自分の性器を露出しました。
    梅毒は性器全体に水泡ができてそこがただれて膿が出ます。
    さらに尿道口も膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐っていきます。
    広げた足の間には典型的な梅毒の症状がありました。
    あまりにむごい姿でした。
    もはや手遅れかもしれない。
    けれど病気は弱気になったら負けです。

    堀婦長はきっぱりと彼女たちに言いました。
    「この程度なら、
     時間はかかるけど、
     必ず治ります!
     根気よ!
     薬は十分あるのだから、
     あなた達も、
     絶対に良くなるんだという
     強い気持ちで治療するのっ!
     いいわね!」

    「治らない、
     治りっこないなんて、
     勝手な思い込みはやめなさい!
     もう商売はしてはダメよ。
     良くなるのよ。
     毎日お互いに
     声をかけあって、
     手抜きしないで
     治療するの。
     いいわね!」

    こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持って治療を受けると約束してくれました。
    薬の調達は容易ではありません。
    ただでさえ日本人の医師や看護婦が扱える量は少ないのです。

    それでも堀婦長は彼女たちを助けたい一心で薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に薬を届けに通い続けました。
    お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日いちにちと軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。

    このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続きました。
    そしてまる2年越しの交流の中で堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいして
    より深い愛情を持つようになっていきました。

    「一緒に日本に帰ろうね」

    その言葉を彼女たちにどれほどかけたでしょう。
    けれど敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活が待っているはずもありません。
    それでもみんなと仲良くしながら、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
    みんな私が面倒みてあげるんだ。
    堀婦長はそう固く決意していたのです。

     *

    昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできました。
    長春にいる在留邦人に帰国命令が出たというのです。

    「その日の午後7時に
     汽車が出るから、
     一週間分の食料持参で
     南新京駅に集合するように」

    急な話です。
    「時間がないわ。
     あの娘たちに
     知らせなくちゃ」

    堀婦長は二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。
    「みんな一緒に日本に帰れるんだ」
    走りながら堀婦長の目には涙が浮かびました。

    ダンスホールに着きました。
    彼女たちに面会を求めました。
    「午後7時に南新京駅に集まるように」
    と話しました。

    「わーい、帰国命令だ。
     良かったぁ~!!」
    彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。
    ほんとうにうれしそうでした。

    「きっと来てくれるわね?」

    「婦長さん、
     ありがとうございます。
     7時までには準備して、
     必ず参ります」

    「必ずよ!
     準備をして、
     必ず来るのよ!」

    婦長もうれしくてたまりません。
    みんな一緒に帰れる。
    こだわりはあることでしょう。
    ないはずなんてない。
    「だけど私がなんとしてでも
     彼女たちを立ち直らせてみせるわ。
     絶対に立ち直らせてみせる!」

    堀婦長は子供たちと身支度を整えました。
    心配でたまらず集合時間の2時間も前に南新京駅に行きました。
    そこで彼女たちを待ちました。

    まさか・・・とは思いました。
    でも彼女たちは
    「時間までには行きます」
    と約束してくれました。

    「その言葉を信じよう。
     きっと来てくれるわ。」

    貨車が到着しました。
    長春にいた日本人たちが、
    続々と貨車に乗り込み始めました。
    堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。

    そろそろ出発の時間になりました。
    来ないかもしれない・・・そう思った時です。
    「婦長さ~ん!!」
    と明るい声がしました。

    どこにいたのか意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。
    三人とも、とっても嬉しそうな顔をしていました。

    「こっちよ~~、早く~~!」
    「あとの娘たちは?」

    「大丈夫です。
     あとから来ます。
     それより、これ、
     食糧のたしにしてください。」

    「ええっ!こんなにたくさん?!
     こんなことしたら
     あなた達が困るじゃないの」

    「いいんですよ、婦長さん。
     私たちの分は、
     あとからくる娘たちが
     持ってきます。
     だから、これ、みなさんで。
     それから、
     ほんの少しですけれど、
     何かに使ってください。」

    「何なの?」

    「アハハ、あとでですよぉ~。
     じゃあ、あたしたち、
     澤本さんたちを探してきますね」

    「わかったわ。
     でも、もう
     あまり時間がないから、
     早くしてね。急ぐのよ」

    「はいっ!」

    そのとき振り向いた、彼女たち3人の笑顔を堀婦長は生涯決して忘れない。
    忘れようがないです。
    三人ともとても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような明るくてさわやかな笑顔だったのです。

    堀婦長が彼女たちが戻ると安心して貨車に乗る順番の列に並んだときです。

    バン、バンと2発の銃声がしました。
    そしてすこし遅れて、バンと3発目の銃声が響きました。
    列車への乗車を待っている
    日本人たちが騒ぎ始めました。

    「おいっ!自殺だ」
    「若い女3人みたいだ」

    「!」

    三人とも即死でした。
    後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。
    申し合わせてのことでしょう。
    細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。

    頭部からはまだ血が流れていました。

    「わかる。
     わかるわ。
     あなたたち、
     こうするほかなかったのね。
     ごめんね。
     ごめんね。ごめんね。
     はやく気が付いてあげれなくて。
     もう、なにもかも忘れて、
     楽になってね。
     今度生まれてくるときにはね、
     絶対に、
     絶対に、
     絶対に、もっとずっと強い
     運を持って生まれてくるのよ・・・・・」

    「お母さん、お母さん!」
    子供たちの叫ぶ声で我にかえり堀婦長は汽車に乗りました。

    結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。
    このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。
    ひとりはソ連将校が連れ帰ったという噂でした。

     *

    引き揚げ列車は南下していきました。
    それぞれの悲劇と過酷な過去から逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。
    こうして堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。

    親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。
    戦争に負けた。
    それだけのことで人の心が変わりました。

    それまでの日本は、国全体が家族のような国家でした。
    人々が地域ぐるみ家族ぐるみで助け合い支えあって生きることがあたりまえの社会でした。

    終戦によって180度変わりました。
    人の情けがなくなりました。
    支えあうという考えも人々から失われていました。

    堀喜身子婦長はソ連に抑留されている夫の正次氏の故郷である山口県に向かいました。
    かつての日本社会では、いったん嫁に入ったら夫の家の家族と考えられていました。
    だから自分の生家に帰ろうとは思わない。
    終戦までそれがあたりまえでした。

    ところが親子で夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)は
    「引揚者は、家に入れられない」
    といいました。
    敷居の中にさえ入れてくれませんでした。

    当時いろいろな噂があったのです。
    引揚者の女性は穢れているとかです。
    堀喜身子さんは看護婦であることが幸いし、引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。
    けれど、
    「世間体がある、
     何があったかなんて
     わかりゃあしない」
    と姑は納得してくれませんでした。

    はるばる山口まで来て自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれた堀さんは、二人の子供の手をひきながら堀家の菩提寺を訪ねました。

    ご住職に事情を話すと、
    「わかりました」
    と、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を菩提寺の墓所で預かっていただくことができました。
    堀さんは、ようやく肩の荷を少しだけおろすことができた気がしました。

    翌日、親子は堀さんの母の住む北海道の帯広に向かいました。
    帯広では幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。

    けれど終戦直後です。
    未曽有の食糧難の時代です。
    勤務の制約もあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても末っ子の槇子まで養うことができません。
    涙ながらに因果を含めて、大事な娘を親戚の家に預かってもらいました。

    苦しい生活を送りながらも、堀元婦長の脳裏を片時も離れないもの、それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨のことでした。
    年長者でも26歳、年少者はまだ21歳の若い女性たちでした。

    年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。
    するとこの日、彼女たちが堀婦長のまわりにやってきました。
    そして言うのです。
    「婦長さん、紫の数珠をくださいな」

    紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとです。
    その日、張春の第八病院にモンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。
    妊婦でした。
    難産でした。

    助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
    すでに重体でした。
    もはや妊婦の生命は難しい状態でした。
    あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。

    その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
    けれど出産で妊婦は瀕死になりました。

    そこから二日三晩婦長と看護婦たち、みんなで献身的に看護をしました。
    それは
    「なんとかして
     命だけでも助けてほしい」
    と何度も哀願するご家族たちが、
    「ここまでやってくれるのか」
    と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。

    妊婦は一命をとりとめました。
    一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老人がいました。
    妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価した高僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。

    その紫の数珠は紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
    見た目もとても美しいのですが、それだけではなくひとつひとつの珠に内部が透ける細工が施してありました。
    透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれていました。

    その日からお数珠は看護婦たちの憧れの的になりました。
    やまとなでしことはいえ若い娘たちです。
    美しい宝珠に興味津々でした。
    婦長は何度も彼女たちにせがまれて何度も見せてあげていたのです。

    ある日、婦長はみんなに、
    「いっそのこと、
     数珠の紐を切って、
     みんなで分けようか?」
    と提案しました。
    このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。

    彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。
    「私の命に代えても、
     みんなの遺骨は、
     必ず日本に連れて帰る。
     日本に帰ったら
     必ず地蔵菩薩を造って、
     みんなをお祀りする。
     その地蔵菩薩の手に、
     この紫の数珠を
     きっとかけてあげるね。」

    けれどまだ地蔵菩薩はありません。
    彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ無縁仏にちかい形で置かれたままです。

    婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。
    「ごめんね。
     いまの私には
     どうすることもできない。
     でもきっと、必ず、
     お地蔵さんを造って
     お祀りする。
     だからもう少し
     待っていてね・・・。」

    どうすることもできない境遇です。
    そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれました。
    帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から夫の正次が戦死したとの公報があったと知らせが届きました。
    こうなると北海道にいる堀婦長にとって遠い山口県とはご縁が遠くなります。

    「なんとかしなければ」と
    思う堀婦長の心に23名のご遺骨のことは重い負担となり続けました。

    なにもしないでいるわけにいかない。
    堀婦長はあちこち手立てを講じました。
    元の上官であった平尾軍医と手紙で連絡をとり、
    二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。

    そして堀婦長から平尾元軍医にあて毎月送金することにしました。
    たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつの日か必ず地蔵菩薩を建てられる。

    そうと決まると月給は少しでも高いにこしたことはありません。
    堀元婦長は、給料の良い職場を求めて静岡県の清水市にある病院に就職しました。

     *

    戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありません。
    なかでも謡曲や浪花節はとても人気が高くて、
    この時代に広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。

    その春日井梅鶯の弟子に、将来を嘱望された
    「若梅鶯」という浪曲師がいました。
    その若梅鶯が熱海で口演をしたときのことです。

    旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなり言いました。

    「いやあ、すごいものですねえ。
     満洲の長春で、
     ソ連軍の横暴に抗議して、
     22人もの看護婦が
     集団自決したんだそうですよ。
     終戦の翌年のことだけどね・・・」

    若梅鶯は旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。
    読みながら、若梅鶯は全身に鳥肌がたちました。

    「こんな酷いことが
     こんな辛いことが
     あったのか・・・」

    若梅鶯こと松岡寛さんは敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
    その樺太でソ連軍による殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに知らされていたのです。
    だから長春の看護婦たちの話も他人事には思えませんでした。

    松岡さんは一座の者に堀婦長の居場所を探させました。
    するとなんと熱海からほど近い清水に堀婦長がいることがわかりました。

    その日のうちに松岡さんは清水へと向かいました。
    堀元婦長の勤務する病院で面談を申し込みました。
    そして地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出ました。

    けれど堀元婦長はあっさりと断りました。
    ただお金があればいいというものではない。
    そんな思いが婦長の心にあったからです。

    けれど松岡氏も真剣でした。
    「ならば、
     自分は浪曲家です。
     この語り継ぐべきこの悲話を、
     大切に伝えて行きたい。
     ぜひそうさせてください」

    松岡さんの真摯な態度に堀婦長の心は動きました。
    終戦から復員にかけての混乱の中で亡くなった看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
    浪曲家である松岡氏が物語にしてこれを全国で口演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。

    堀婦長は当時の様子を松岡氏に話しました。
    松岡さんは誠実でまじめな人でした。
    堀元婦長から聞いた話を、従軍看護婦集団自殺の物語として浪曲に仕立てました。

    そしてこの物語を語るために世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座を離れて、無冠の松岡寛として、白衣の天使たちの悲話の語り部として後半の人生を生き抜く決意をしました。

    いくら人気浪曲師の一番弟子とはいっても独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンと同じです。
    なんのツブシもきかない。
    ラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、
    名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。

    終戦の悲話が直体験として日本中に数多くあった時代です。
    白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずはありません。
    松岡さんの口演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。

    その松岡師匠は、浪曲の中で必ず
    「皆様の中で
     心当たりの方は
     いらっしゃいませんか?」
    と問いかけてくれました。

    三年余りの口演によって、実に23名中、19名の身元が判明したのです。
    19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができました。

    松岡氏がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀婦長は、自分の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへと毎月少なからぬ積立金の送金を続けていました。

    その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立をと思って元上司に電話をしました。
    すると、元上司は
    「それなら前にもお話した
     群馬県邑楽郡大泉村に
     建てましたよ」
    という。

    群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満洲へ向かう前に厳しい訓練を受けたところです。
    彼女たちにとって出会いとゆかりの場です。

    そこにお地蔵さんが建った。
    ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。

    ちょうど彼女たちが亡くなってから7周忌にあたる年でした。

    堀元婦長は松岡師匠にこの話を伝えました。
    松岡師匠もたいへんに喜んでくれて、
    「それなら私が見に行ってみましょう」
    と請けあってくれました。

    師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。
    地番を探してその場所に行きました。
    そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。
    何もありません。
    役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。

    堀元婦長にその話をすると、どうしたことだろうということになって、元上司に問い合わせをすることになりました。

    すると、よんどころない事情でお金を遣いこんでしまったというのです
    思い当たることはありました。
    その上司の奥さんが結核で入院していたのです。

    間が抜けていたといえばそれまでのことです。
    汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。

    その同じ年、埼玉県大宮市に山下奉文将軍の元副官で陸軍大尉だった吉田亀治さんという方が自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を開園しました。
    昭和27年11月のことです。

    そしてそこに沖縄戦の司令官である牛島中将の墓を設け、
    さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司によって鎮座式も行なわれました。

    青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の口演がありました。
    演目はもちろん
    「満洲白衣天使集団自決」です。

    この口演の際、吉田亀治さんは松岡師匠から直接、
    「堀元婦長は存命で、
     いまも看護婦たちの
     身元を探している。
     命日になると、
     亡くなった看護婦たちが
     寄ってきて、
     お地蔵さんの建立をせがむ」
    などの話を聴きました。

    吉田亀治さんは松岡師匠を介して堀元婦長に面会しました。
    そして、地蔵尊の制作と青葉園へのご安置を引き受けてくれたのです。

    埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれた亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
    なにやらすくなからぬ因縁さえ感じます。
    資金は、すべて吉田氏が引き受けてくれました。

    こうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための
    「青葉慈蔵尊」が建立されました。

    地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれました。

    (五十音順)
    荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
    看護婦長 堀喜身子

    【後日談】
    夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となりました。

    ~~~~~~~~~~~~~

    以上が、満洲従軍看護婦の物語です。

    この物語は、何度ご紹介しても長春駅前での三人の女性の死のところでは、不覚にも涙でパソコンの画面が見えなくなってしまいます。
    お地蔵さんが建立されている青葉園は、さいたま市にあって、その中央に「青葉慈蔵尊」があります。
    何度か献花に行かせていただきました。
    また村田春樹先生をはじめ、いまも毎年、ゆかりの人たちが集って慰霊祭を行っています。

    美しい公園墓地です。
    牛島中将のお墓もあり、敷地内には戦争の祈念館もあります。
    お近くの方は一度お出かけになってみられたらいかがでしょうか。

    国家が崩壊したとき、どのようなことが起こるのか。
    国というものが、いかに国民にとって大切なものなのか。
    本稿を経由して、少しでもお感じいただけたら幸いに思います。

    それと最後に一点だけ。
    この事件が起きたときのロシアは、ソ連だった時代です。
    よくごっちゃにする方がおいでになりますが、ソ連とロシアは違います。

    ソ連は共産主義国です。
    そして共産主義は、支配層を絶対視させます。
    すると上の命令次第で、下はいくらでも残酷になる。
    このことは、国民性とか歴史伝統文化とはまったく関係ありません。
    共産主義という狂気の持つ本質が虐殺主義でしかないという現実を、まず注視すべきです。

    ですから共産主義になる前の帝政ロシア、ソ連崩壊後に成立したロシア共和国は、ソ連とは異なります。
    いまの帝政ロシアは虐殺主義の国ではなかったし、いまのロシアもまた同じです。
    ソ連時代のソ連兵、あるいは同時代の共産パルチザンの悪質さは、人類史的にも、まさに異常行動です。

    ちなみに共産パルチザンは、ロシア人だけにあったものではなく、チャイニーズにもいたし、コリアンにもいました。
    そして戦後の焼け野原の日本に大量に入り込んだのが、コリアン系の共産パルチザンです。
    彼らは、単なる破壊主義です。
    自分さえ良ければ、自分以外のすべてに破壊活動を繰り広げます。
    集団だけではありません。
    個人についても、個人を破壊しようとします。

    そしてそういう連中が天下をとったとき、民衆の側に何が起こるのかというお話が、今回のこの「祖国遥か」のお話です。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 今日はひめゆり学徒隊が解散した日


    沖縄のひめゆり学徒隊のように、女子高生がふたたび同じ悲哀を味わうようなことがあっては絶対になりません。
    そのための責任は、いまを生きる私達にあります。
    しかし現代日本は、また別な形で未成年の女子たちが受難の時代になっているともいわれています。
    このままで良いのでしょうか。
    私達ひとりひとりにできることは小さいかもしれないけれど、二度と再び未成年の女の子たちに悲惨を与えてはならない。
    それこそ今を生きる大人たちが解決しなければならない事柄です。
    少なくとも、女生徒たちに「お前たちは生き残るのだ」と言って死んでいった我軍の兵士たちのうほうが、悲惨を見ても何もしないでいる現代日本人よりも、何十倍も真人間だったといえるのではないでしょうか。

    20180617 ひめゆり
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    6月18日は、沖縄戦で、ひめゆり学徒隊が解散となった日です。
    いまからたったの73年前、昭和20年の出来事です。
    トップの画像は、美しく咲くヒメユリです。
    お亡くなりになった彼女たちの仲間たち全員の御魂に、ひめゆりを捧げたいと思います。

    ひめゆり学徒隊は、沖縄戦で看護婦として前線に立ち、その悲劇を描いた映画『ひめゆりの塔』が大ヒットとなりました。それが昭和28(1953)年のことです。
    津島恵子さん主演で、当時倒産の危機にあった東映の経営を一挙に好転させた映画としても知られています。
    あまりのヒットから、昭和43(1968)年には、吉永小百合主演のリメイク版『あゝひめゆりの塔』が公開され、平成7(1995)年にも沢口靖子さん主演で映画化されました。

    このとき動員された女学生(いまでいう女子高生)は、ひめゆり学徒隊だけではありません。
    他にも
     白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
     ずゐせん学徒隊(県立首里高女)
     積徳学徒隊(私立積徳高女)
     梯梧学徒隊(私立昭和高女)
     なごらん学徒隊(県立第三高女)
    などがあり、そのすべてが看護婦隊として従軍しています。

    もちろん、それぞれの学徒隊ごとに碑が建てられているのですが、映画の影響もあってか、沖縄県糸満市にある『ひめゆりの塔』の慰霊碑には、いつも献花が絶えないものの、他の女生徒たちの碑には、あまり訪れる人もなく閑散としています。
    とても残念なことに思います。

    ひめゆり隊の女学生たち
    ひめゆり学徒隊


    ひめゆり学徒隊は、昭和20(1945)年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員されました。
    戦場における負傷兵の看護のために動員されたのです。

    戦争には戦時国際法があります。
    その戦時国際法に従うなら、たとえ敵軍であっても医療施設や医療従事者への攻撃はしてはなりません。
    すれば明らかな戦時国際法違反であり、実施者は「戦争犯罪者」として国際法で裁かれなければなりません。
    ですから本来なら、沖縄の女学生達の看護婦隊は、もちろん戦場ですから安全とまではいえないものの、被害はあってはならないものでした。
    しかし米軍は、容赦なくそれら医療施設や従事者に対しても攻撃を加えました。
    この攻撃で、医局にいた彼女たち240名のうち、117名が死亡してしまいます。

    彼女たちに解散命令が出されたのが6月18日です。
    この時点で、すでに沖縄の日本軍は、ほぼ壊滅していました。
    単なる民間人となっていた彼女たちに、当時の米軍は容赦なく攻撃を加えました。
    結果、解散後に彼女たちのうち、107名が死亡しています。
    結局ひめゆり学徒隊240名のうち、生き残ったのは、わずか14名だけでした。

    他の部隊はどうだったのでしょうか。

    「白梅学徒隊」は、ひめゆり隊より17日はやい、3月6日に結成されました。
    メンバー数は55名です。
    第二四師団の野戦病院で傷病者の手当についての必要な教育を受けているさなかの3月23日に米軍の猛爆撃が開始され、勉強していた病院の建物が危険ということで、彼女たちは医師や患者とともに、その日のうちに八重瀬岳の病院壕に移動しました。

    病院壕といえば聞こえは良いのですが、実態はただの「ほら穴」です。
    床も壁も天井も地面むき出しのままですし、虫も出ます。
    近くに爆弾が落ちれば、轟音とともに天井から土や石が落ちてきます。

    その洞穴に、前線で重傷を負った兵たちが運ばれてきました。
    日本軍の場合、少しでも動けるものは銃をとって戦いましたから、病院壕に運ばれてくるのは、すでに戦闘能力を失った重症者です。

    白梅学徒隊は、沖縄県立第二高等女学校の最上級生(四年生)でした。
    高等女学校の四年生というのは、いまでいう高校一年生です。
    その女生徒たちが、ほら穴で重症兵の看護、手術の手伝い、水くみ、飯炊き、排泄物の処理、傷口に沸いたウジ虫の処置、死体埋葬、伝令などを行いました。

    手術もほら穴の中です。
    爆風によってつぶされた腕や脚は、もはや切り取るしかありません。
    切り取った手足は、バケツに入れられ、それを白梅部隊の女学生が、交代で敵の爆撃のない早朝に表に捨てに行きました。
    これは聞いた話なのですが、死体よりも、生きている人から切り取った手足は、持つと重く感じるものなのだそうです。
    悲しい話です。

    4月下旬になると、負傷兵が増加し、ほら穴の入り口付近まで負傷兵であふれるようになりました。
    やむをえず5月上旬には、東風平国民学校の裏手の丘にも分院を開設して、収容しきれない患者をそこへ移しました。
    その分院にも米軍が迫ってきたため、やむなく分院を閉鎖し、もとの八重瀬岳の本院へ患者と白梅学徒隊を集合させたのですが、この分院を閉鎖するとき、歩けない負傷兵たちに青酸カリを与えて彼らを処置したのが、白梅学徒隊でした。
    彼女たちは、痛みに苦しむ患者たちの日常の世話をし、彼らと親しく会話し、生きるために彼らを励まし続けてきたのです。
    その人たちに青酸カリを渡す。
    年端もいかない彼女たちの、そのときの心の痛み、辛さ、苦しさ、哀しさ。
    想像するだけで涙を誘います。

    6月4日、八重瀬岳の本院にも敵の手が迫りました。
    このとき病院は、500名以上の重症患者の「処置」をしました。
    これもまた白梅隊の仕事でした。
    そして病院は解散となり、同日、白梅隊も解散となりました。

    このとき彼女たちは「軍と行動をともにしたい」と願い出たそうです。
    しかし死を覚悟した軍の兵士達は、彼女たちの願いを退けました。
    「自分たちは戦って死ぬ。君たちには生き残ってもらいたい。」
    それが兵士たちの願いでした。

    彼女たちは、数人ずつに別れて、南部に向かいました。
    あてなどありません。
    爆風渦巻く中、8名が途中で死亡しました。
    残った16名は、国吉(現糸満市)でほら穴を見つけ、そこに隠れました。
    そこがいま「白梅の塔」のある洞窟です。

    馬乗り攻撃


    その彼女たちの隠れていた洞窟に、6月21日、米軍が「馬乗り攻撃」を仕掛けてきました。
    「馬乗り攻撃」というのは、ほら穴の上から穴をうがち、その穴からガソリンなどの可燃物を注ぎこんで火を着ける攻撃です。
    内部は紅蓮の炎に包まれます。

    この攻撃で、壕に隠れた彼女たちのうち、6名が死亡しました。
    6月22日も同じ攻撃を受けて2名が死亡しました。
    そして後日1名も、重度の火傷のために、収容された米軍病院で死亡しています。

    ずゐせん女子学徒隊
    ずゐせん女子学徒隊2


    「ずゐせん女子学徒隊」は、沖縄県立首里高等女学校の、やはり4年生(いまの高校一年生)の61名の少女たちです。
    彼女たちは、第六二師団の野戦病院(といっても、これもほら穴(壕)です)で、休む間もなく負傷兵の看護をして働き続けました。
    まだ16歳の少女が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいたウジ虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりしたのです。

    絶え間なく落ちて来る艦砲弾の下をかいくぐり、水を汲みに行ったり、食事の支度をしました。
    4月23日、患者を収容するために壕を出た生徒1名が、砲弾の破片を受けて死亡しました。

    5月20日、敵が迫りくる中、ついにこの野戦病院も退去することになりました。
    彼女たちは歩ける負傷兵を支え、南部へと移動しました。
    そしてまる10日間、砲火の中を逃げまどい、ようやく6月1日、摩文仁村米須の石部隊の壕に到着しています。

    しかし、そこはすでに患者と兵隊でいっぱいでした。
    やむをえず患者だけを壕に収容してもらい、彼女たちは伊原の崖下の岩間に入りました。

    6月7日、その岩間が、直撃弾を受けて落盤しました。
    この落盤で、生徒一名が死亡しました。

    6月10日、軍は彼女たちに解散命令を出しました。
    しかし彼女たちは納得しなかったそうです。
    どうしても軍と行動を共にし、最後まで患者たちの面倒をみるといって聞かなかったのです。
    やむなく解散命令は、このとき、いったん撤回されています。

    6月19日、米軍の砲火が激しくなりました。
    軍は彼女たちに、
    「もはやこれまでです。
     自分たちはここに残ります。
     君達は解散するから、すこしでも遠くに逃げなさい」
    と説得しました。
    残っていれば、やってくるのは確実な死です。
    少しでも遠くに逃げれば、ほんのわずかであるにせよ、生き残れる可能性がある。
    ようやく承諾した彼女たちは、いったん壕外に出ました。
    しかし外はあまりに砲撃が激しくて、ふたたび壕に舞い戻るしかありませんでした。

    6月23日、その壕が米軍の「馬乗り攻撃」にあいました。
    壕の奥はガソリンで焼かれ、入口付近は火炎放射器で焼かれました。
    いぶり出されるようにして、生徒たちは壕外に出ました。
    そして米軍に収容されました。
    この時の馬乗り攻撃と火炎放射機で、生き残っていた生徒のうち、25名が死亡しました。

    結局、動員された61名の女生徒のうち、生き残ったのは28名だけでした。

    積徳学徒隊
    積徳学徒隊


    「積徳学徒隊」は、私立積徳高等女学校の4年生25名です。
    彼女たちも同様に、豊見城城跡の第二四師団、第二野戦病院で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などを行いました。

    彼女たちも、5月下旬には、首里の軍司令部まで米軍が迫ってきたために、真壁村糸須の自然洞窟へ撤退しました。
    このとき、彼女たちも重傷者に青酸カリで「処置」するようにと命令されたのですが、どうしても、それができなかったそうです。
    哀れに思った軍医は「処置」を取りやめました。

    しかし、6月20日には、洞窟入口に火炎放射やガス弾を投下され、病院部隊は自決を決意しました。
    小池病院長は、彼女たち積徳学徒隊に解散を命じ、
    「生き延びて、
     沖縄戦のことを
     他府県の人々に伝えてください」
    と訓辞を与え、そして自決しました。

    生徒たちは壕外に出ました。
    行く宛もなくさまよっているところを米軍に収容されています。
    その時点で、動員された25名の生徒のうち4名が死亡しています。

    生還した彼女たちは、入隊したときの気持ちを次のように語っています。
    「全く不安はなかったね。
     戦争は絶対に勝つもんだと
     信じきっていたから」
    「私たちが行かなかったら、
     誰が傷病者を世話するのって
     真剣に思っていました」
    「ただもうお国のためにという
     気持ちで一杯でした。」

    彼女たちに戦局の様子はわかりません。
    ただ爆弾が落ち、次々に運ばれてくる負傷者を必死に介護したのです。
    そして眼の前で、次々と命が失われていきました。

     *

    戦いに敗れ、蹂躙されるということは、こういうことです。
    しかし戦わなければ、もっと悲惨な運命が待ち受ける。
    抵抗しなければ殺されずに済んだなどということはないのです。

    なぜ彼女たちが、ここまで追い詰められ、この世の地獄に接しなければならなかったのでしょうか。
    戦争だったから?
    ではなぜ戦争が起こったのでしょうか。
    日本の軍部が暴走したから?
    ハルノートがあったから?
    ルーズベルトが仕掛けたから?
    なるほど戦争の原因については、諸説あります。
    しかし、どれも他国や他人の「せい」にするものばかりです。

    違うと思います。
    他人のせいにするようでは、同じことがまた起きてしまいかねません。
    私は、理由は「軍事バランスが崩れたから」であると思っています。

    日本は、平和を希求しました。
    そして大正10(1921)年のワシントン会議において、米英日の主力艦保有率を、5:5:3とする条件を飲みました。
    そしてこのとき同時に、米国の強い主張によって、20年続いた日英同盟が破棄され、新たに米英同盟がスタートしました。
    つまりこの瞬間に、「日英8:米5」だった軍事バランスが、「米英10:日3」へと変化しました。
    こうして世界の最強国の一角を占めていた日本の軍事力が弱化しました。
    軍事バランスが崩れたのです。

    10:3では、もはや日本には物理的に到底勝ち目がありません。
    弱ければ侮られる。
    それが世界の現実です。
    侮られた日本は、昭和4(1929)年の世界恐慌の際、米英で日本製品のボイコットを受けました。
    それどころか、昭和3(1928)年に誕生したばかりのChinaの蒋介石政権までも、露骨な排日運動を展開するようになりました。

    そしてあちこちで日本人が、酷い目に遭わされるようになりました。
    尼港事件が起こり、通州事件が起こり、そしてついに昭和12(1937)年には日華事変が勃発しています。
    続く昭和16(1941)年には、大東亜戦争が勃発しています。
    弱ければ、袋叩きに遭うのです。

    世界には、条約はあっても法律はありません。
    戦時国際法はあっても、法の執行機関はありません。
    あるのは、今も昔も、国家間の力関係だけです。

    いったん戦争になれば、条約はいとも簡単に破棄され、戦時国際法さえも無視されます。
    だから沖縄戦でも赤十字の旗が翻る病院施設が爆撃されたのです。
    戦時中でさえ、必死に条約を守り通したのは、世界広しといえども日本軍ぐらいなものです。

    自衛隊を持つ戦後日本は、戦後73年間、戦争をすることなく過ごしてきました。
    この73年間、まったく戦争をしなかった国は、日本とスイスくらいなものです。

    そのスイスは、永世中立を宣言している国です。
    しかしスイスは国民皆兵の国です。
    スイスと戦争をする国は、スイス政府と、その指揮下にあるスイス軍を相手取っての戦争はできません。
    スイスの760万の国民すべてを相手取って戦争をしなければならない。
    しかもスイスは国際金融の要を握っています。
    世界の大金持ちの資産の多くはスイスに預けてあるのです。
    スイスが戦乱に呑まれるということは、世界のお金持ち、つまり戦争を仕掛ける人たちが自分の財産を失うということです。
    だからスイスは戦争をしないで済んでいるのです。
    それでも国民皆兵なのです。

    では日本が戦後、戦争をしないでこれた理由は何でしょうか。
    理由は3つあります。

    ひとつは米国の核の傘に守られたことです。
    日本を攻めることは米国の核を敵にまわすことになる。

    ふたつめは終戦前までの日本が、あまりに強かったことです。
    「寝た子を起こすな」
    は、まさに世界の合い言葉です。

    みっつめが自衛隊です。
    軍事バランスでいえば、日米軍事同盟は、現時点で世界最強です。
    だから戦争が起こらなかったのです。

    あたかも憲法9条のおかげで戦争がなかったように言う人がいますが、デマです。
    日本に憲法9条があろうがなかろうが、戦争は相手があって起きるものです。
    日本を攻めようとする国には日本の法律も憲法も関係ないのです。
    あたりまえのことです。
    日米同盟がなく、憲法9条だけが存在したなら、日本はもっと早くに旧ソ連か中共に攻め滅ぼされていたかもしれません。

    世界は理想で動いているのではありません。
    現実の利害で動いています。
    世界には、戦争で大儲けをする人達もいるのです。
    そういう人達は、どこでも良いから戦争が起きてくれないと、儲からないのです。

    South Koreaや中共が、ありもしない慰安婦問題や南京問題などで騒ぎたてるのは、彼らは日本に憲法9条があって、日本に何を言っても日本から刀を抜くことは現時点で絶対にないし、軍事的に自国が攻められることがないと知っているからです。

    現に、彼らは、あれだけ日本を侮りながら、日本に対する軍事行動は起こしません。
    なぜなら、戦えば負けると知っているからです。
    逆にいえば、日本が軍事面で弱くなれば、ChinaもSouth Koreaも、容赦なく日本を蹂躙します。
    竹林はるか遠くや、通州事件、そしてかつて沖縄にあった現実が、そのまま現代日本の現実になるのです。

    「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という有名な言葉を残して6月6日に自決した沖縄方面の指揮官、大田実海軍中将は、自決の直前、海軍次官宛てに電報を発しています。
    そこに女子看護隊の様子も描かれています。

    「沖縄県民の実情に関しては
     県知事より報告せらるべきも
     県には既に通信力なく
     三二軍司令部又通信の
     余力なしと認めらるるに付
     本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども
     現状を看過するに忍びず
     之に代って緊急御通知申上ぐ

     沖縄島に敵攻略を開始以来
     陸海軍方面 防衛戦闘に専念し
     県民に関しては
     殆ど顧みるに暇なかりき

     然れども本職の知れる範囲に於いては
     県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ
     残る老幼婦女子のみが相継ぐ砲爆撃に
     家屋と財産の全部を焼却せられ
     僅かに身を以て軍の作戦に
     差支えなき小防空壕に避難

     尚 砲爆撃下○○○(文字不明)
     風雨に曝されつつ
     乏しき生活に甘んじありたり

     而も若き婦人は率先軍に身を捧げ
     看護婦烹炊婦はもとより
     砲弾運び
     挺身斬込隊すら申し出るものあり

     所詮敵来たりなば老人子供は殺されべく
     婦女子は後方に運び去られて
     毒牙に供せらるべしとて
     親子生別れ
     娘を軍衛門に捨つる親あり

     看護婦に至りては軍移動に際し
     衛生兵既に出発し
     身寄りなき重症者を助けて○○(文字不明)
     真面目にして一時の感情に
     駆られたるものとは思われず

     更に軍に於いて作戦の大転換あるや
     自給自足
     夜の中に遥に遠隔地方の住民地区を
     指定せられ輸送力皆無の者
     黙々として雨中を移動するあり

     之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来
     終始一貫 勤労奉仕
     物資節約を強要せられつつ
     (一部の兎角の悪評なきにしもあらざるも)
     只管(ひたすら)日本人としての
     御奉公の誇りを胸に抱きつつ
     遂に○○○○(文字不明)与え
     ○(文字不明)ことなくして
     本戦闘の末期と沖縄島は
     実情形○○○○○○(文字不明)
     一木一草焦土と化せん
     糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂う 

     沖縄県民斯く戦へり
     県民に対し後世特別の
     御高配を賜らんことを」

    沖縄のひめゆり学徒隊のように、女子高生がふたたび同じ悲哀を味わうようなことがあっては絶対になりません。
    そのための責任は、いまを生きる私達にあります。
    しかし現代日本は、また別な形で未成年の女子たちが受難の時代になっているともいわれています。
    このままで良いのでしょうか。
    私達ひとりひとりにできることは小さいかもしれないけれど、二度と再び未成年の女の子たちに悲惨を与えてはならない。
    それこそ今を生きる大人たちが解決しなければならない事柄です。
    少なくとも、女生徒たちに「お前たちは生き残るのだ」と言って死んでいった我軍の兵士たちのうほうが、悲惨を見ても何もしないでいる現代日本人よりも、何十倍も真人間だったといえるのではないでしょうか。

    米国が世界の警察となることをあきらめ、世界からの軍事面での撤収を開始したということは、逆にいえば、日本はこれから、単独で国を守って行かなければならないということです。
    自衛権は、国でも個人でも家庭でも、誰もが等しく持っているものです。
    自衛権のない国家など、あり得ません。

    こんな簡単なことを否定する、自衛権を否定したり、あるいは半島有事の危険があっても森友しか語らない人たちがいます。
    彼らはひめゆり学徒隊をはじめとした、沖縄の少女たちに、顔向けができるのでしょうか。

    お読みいただき、ありがとうございました。

    ※この記事は2010年9月の記事をリニューアルしたものです。

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  • 呉服と着物の違いとは


    和服のことを「呉服(ごふく)」とか「着物」といいますが、どちらの言い方が正しいのでしょうか。
    実はそんなところにもおもしろい歴史があります。

    20160624 御所車



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    和服のことを「呉服(ごふく)」とか「着物」といいますが、どちらが正しいのでしょうか。
    古代の日本には文明も着るものさえなく、魏蜀呉の三国志の時代に孫権率いる「呉の国」から着衣の文化が伝わったから「呉服」なのだなどという、まことしやかな嘘がまかり通ったりしていますが、もちろんそのようなことはありません。
    日本は魏蜀呉の三国時代などよりもはるか数千年の昔から、布の衣装を着ていたことは、ちゃんと遺跡が考古学的に証明しています。

    さて、「呉」という字は、訓読みが「くる(繰る)、くれ(繰れ)」ですが、糸を繰って織った布地を使った衣服のことを、もともとの大和言葉で「くれはたおり」、または「くるはたおり」といっていたのです。
    その「はたおり」が長い時代のなかで言葉が常識化し短縮されて、「はとり」となりました。
    「はとり」は、服を織(お)る人たち、つまり「部(べ)」ですから、ここから「はとりべ」という単語が生まれ、短縮されて「はっとり」となり、この意味をあらわす漢字として「服部(はたおりべ)」が用いられるようになりました。

    そして「糸を繰って」つくった布で服を織ったもののことを「くるはた」または「くれはた」と読んだことから、後から漢字で同音の「呉(くれ)」が用いられるようになり、そこから「呉(く)れ服(はた)」と書くようになり、これを音読みして「ごふく」と呼ぶようになったわけです。
    こうして「はたおり」で作られた着物のことを「呉服(ごふく)」と呼ぶようになりました。

    そもそもChinaの「呉」の国は、孫権が打ち立てた国ですけれど、この国は西暦229年に成立し、西暦280年には西晋によって滅亡させられています。
    つまり、呉が国家を営んでいたのは、わずか51年のことでしかありません。

    そしてこの時代に、魏志倭人伝が書かれたことに明らかなように、日本(当時は倭国)は、呉とは敵対している魏とむしろ仲が良く、逆にいえば、呉は敵国の範疇ですから、この時代に日本が「呉の衣装の影響を受けた」というのは、いまいち考えにくいことなのです。

    これは現代にも通じることですが、被服などの習慣は、文化的優位性のある国や地域から、遅れた国へと伝播するものであって、その逆はありません。
    逆が起こる・・・つまり文化の遅れた国から、文化の進んだ国へと伝播するのは、スラングや暴力、隠語や売春など、風俗や暴力、つまり裏世界に関することに限られます。

    早い話、英国が七つの海を制したから、世界のビジネスマンの衣装は英国風背広とネクタイになったわけです。
    あるいは、文化的先進国とみなされた英国からやってきたツイギーがミニスカートだったから、日本中でミニスカートが流行ったのです。

    では、この時代、呉は、それだけ進んだ文化を持った偉大な国とみなされていたのでしょうか。

    そもそも魏蜀呉の三国が鼎立(ていりつ)していたころ、なぜか魏の曹操だけが、憎らしいくらいに強い宰相であり、魏は軍事大国として描かれているのは皆様御存知のとおりです。
    まさに事実はそのような状況であったのですが、魏がどうしてそんなに強かったのかというと、魏の後方には、倭国という技術大国があったからです。

    魏は、倭国との交易のために、わざわざいまの平壌に楽浪郡庁を置き、次いでいまの漢城に帯方郡という郡庁を置いています。
    理由は、倭国との交易を盛んに行うためです。
    ではそれが何のためだったのかといえば、倭人たちは質の良い鉄を作っていたからです。

    三国志の時代は、Chinaはまだ青銅器の時代です。
    その青銅器の時代に、鉄製の武器を持てば、その軍団は世界最強です。
    なにせ青銅器の盾は、鉄の剣や槍(やり)で簡単に断ち割ったり、突き通すことができたのです。
    だから曹操は強かったのです。

    そして魏と国交を持つ倭国からしてみれば、わざわざ遅れた国である呉とこの時代に付き合う理由はありませんし、呉人の衣装を「かっこいい!」と真似る必要も理由もありません。

    要するに「呉服」というのは、呉の国から渡ってきたから「呉服」というのではなくて、もともと「繰れ織(くれはた)」に「呉(くる)服」という漢字を当てただけのことで、実は呉服と呉の衣装とは、何ら関係などありません。

    ちなみに、もともとは単に機織りして作った布で出来た衣装のことを呉服と言ったのに、これが「ごふく」と呼ばれ、なんとなく海の向こうからやってきた服装のようなイメージで受け取られるようになったことには、歌舞伎が影響しています。

    江戸時代のはじめに、派手な衣装を付けた歌舞伎者たちが三国志演義の上演をして、これがたいへんな人気となったのです。
    日本人はもともと洋モノが好きなことに加えて、なにせ歌舞伎の衣装は派手で恰好いい。

    ちなみに史書である三国志と、三国志演義は実は中身はまったくの別物で、演義の方は、なるほど史書の三国志をモチーフにしているものの、桃園の誓いとか義兄弟の契りとか、いわばひと昔前の任侠ものの映画みたいなもので、義理と人情と恋と喧嘩と、弱い正義が強大な悪に最後は必ず勝つという創作ドラマです。
    そして江戸時代の初期の歌舞伎は、実は歌舞妓と「女偏」であったくらいで、出雲の阿国(おくに)の時代から、いまの宝塚劇団さながらに、女性が演じる舞台でした。

    女性歌舞妓ですから、衣装も派手だし、物語は勇壮な三国志演義です。
    関羽も張飛も、着飾った美しい女性たちが演じるわけですから、これが人気が出ないはずがありません。
    まして江戸時代にはいって世は平和となり、戦乱で壊れた建物などの建設需要が増して世はまさに好景気。
    河原に舞台小屋が建てば、そこは行列をなす客の入りようとなりました。

    役者さんたちは、まさに1日に千両稼ぐ、文字通りの千両役者となるのですが、そうなると千両箱を積み上げてでも、そんな女性の役者さんと一夜をともにしたいというおじさんも現れるわけで、いきおい風紀を乱すもととなりました。

    そこで幕府が行ったのが、女歌舞妓の禁止です。
    こうなると、女性は舞台に立てませんから、仕方がない、男性ばかりで舞台を行うようになりました。
    ところが役によっては女性役も必要になるわけです。
    そこで誕生したのが女形で、また歌舞妓も、国字で「伎」という字がわざわざ作られて、歌舞伎と書かれるようになりました。

    ちなみにこの女形、今度はご婦人方に大人気となり、歌舞伎はふたたび興隆してまたまた千両役者が登場します。
    基本、ドラマや映画のように、人が何かを演じるという舞台は、これは万国共通で人気になるものです。

    一方、出雲の阿国に代表される役者さんたちは、男女とも派手な衣装に身を包んだわけですが、これが関ヶ原以降に生まれた新たな幕府という権威に歯向かうような一種の爽快感をもって庶民感情を刺激して大ヒットします。
    同じ着物でも、役者のようなかっこいい着物、流行の最先端のモテ系の着物を扱うお店が、三国志人気にあやかっって、呉服屋を名乗るようになります。

    いまでも原宿や青山あたりに、派手な最先端のファッション店がたくさんありますが、江戸のはじめころのああいった派手系のお店が、呉服屋を名乗っていたわけです。

    要するに、呉服は、もともとは単に「繰って織った布で出来た服」を指す言葉を意味したし、着物は単に「着るもの」を意味した言葉だったのだけれど、江戸のはじめの歌舞伎と三国志演義の出しものの影響で、呉服がなんとなく、海外のモノをイメージする着物の最先端ファッションを意味する一般名詞へと変化し、これが時を経て、江戸の末期には、着物全般を意味する言葉へと変化していったわけです。

    ところが幕末から明治にかけて、西洋から男物は筒袖にももひき姿の衣装、女物はすその広がったスカートの衣装が入ってきます。
    さらに明治政府は、文明開化のために洋装を奨励しました。

    このため、従来の被服が和服、西洋風の被服が洋服と分けて呼ばれるようになったのですが、このとき、もともとあった呉服や着物という名称もそのまま生き残りました。

    さてその和服、戦後洋装化に拍車がかかったために、いまや和服は絶滅危惧種になりつつあります。
    けれど、着たらわかりますが、自然と姿勢が保たれ、また、夏の暑いときには、人は脇の下にびっしょり汗をかきますけれど、和服はそこが空いているわけです。
    やはり、高温多湿の日本の気候にあっているというか、夏、和服は意外と涼しいし、冬は温かいものです。

    ところが近年職人さんがみなさん高齢化し、実はあと30年もしないうちに、呉服の柄を書ける日本人の職人さんが絶えてしまいそうな危機にあります。

    理由のひとつが、近年の中国柄です。
    日本の職人さんに、絵柄を描いてもらうと値段が 高いのでと、Chinaに行って、Chineseの絵描きさんに柄を描いてもらう。

    ところが、やはり日本人とChineseの感性の違いで、色使や絵柄から、日本人の職人さんの描く、やさしさやすなおさが消え失せ、派手で手抜きの電飾のようなケバケバしさだけの絵柄となってしまいます。
    China柄やChina染は、伝統的な和服の控え目でいるようでいて、精緻でキメの細かな和服の熟練の美しさがなかなか出ません。

    近年、日本の伝統文化が次々と失われています。
    しかし、文化の継承、技術の継承こそが、新たな文化や技術を開くのです。
    文化も技術も持たずに、ただ目先の利益に飛びつくことが、いかに脆弱なものかは、お隣の国を見ればあまりに明らかです。


    ※このお話は2016年6月の記事のリニューアルです。

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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