• 熟田津に船乗りせむと月待ば


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    北斗神拳二千年の歴史なんてアニメの言葉がありますが、日本の歴史は二千年どころが万年の歴史です。
    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。

    20200612 にぎたづに
    画像出所=http://thetimes.seesaa.net/article/442478330.html
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     熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待(つきまて)ば
     潮(しほ)もかなひぬ 今はこぎいでな


    この歌は百済有事による朝鮮出兵に際して、額田王が詠んだ歌として、学校の教科書でも数多く紹介されている歌です。
    万葉集を代表する一首といえるかもしれないし、美人と言われる額田王を代表する和歌ともいえるかもしれない。
    歌の解釈にあたっては、初句の「熟田津(にぎたづ)」がどこの場所なのかが議論になったりもします。
    それほどまでに有名な和歌といえます。

    けれど、そうした見方は、実は、この歌の本質を見誤らせようとするものでしかありません。
    どういうことかというと、この歌の原文は次のように書かれています。

    【歌】熟田津尓 船乗世武登 月待者
       潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

    【補記】右検山上憶良大夫 類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇 大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬 寅御船西征始就于海路 庚戌 御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧昔日猶存之物。当時忽起感愛之情所以因製歌詠為之 哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首。


    現代語訳すると次のようになります。
    特に「補記」のところが重要です。

    【歌】
    熟田津尓   篝火の焚かれた田んぼのわきの船着き場に
    船乗世武登  出征の乗船のために兵士たちが集まっている
    月待者    出発の午前二時の月が上るのを待っていると
    潮毛可奈比沼 潮の按配も兵たちの支度もいまは整った
    今者許藝乞菜 さあ、いま漕ぎ出そう

    【補記】
    右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林(るいしゅかりん)で検(しらべ)てみると、この歌は第三十七代斉明天皇が詠まれた歌であって、このたびの伊予の宿所が、かつて夫である第三十四代舒明天皇とご一緒に行幸された昔日(せきじつ)のままであることに感愛の情を起されて、哀傷されて詠まれた歌であると書かれています。つまりこの歌は、本当は斉明天皇が詠まれた御製で、額田王の歌は他に四首があります。


    要するにこの歌は、実は女性の天皇であられる第37代斉明天皇(さいめいてんのう)が読まれた御製だと万葉集に補記されているのです。
    つまり本当は、額田王が詠んだ歌ではないと書かれています。
    しかもこの歌は「出征兵士を送る歌」のような勇壮な歌ではなく、「哀傷歌(かなしみの歌)」であると書かれています。

    「熟田津」とは、田んぼの中にある水路の横で炊かれた松明(たいまつ)のことを言いますが、その歌われた場所は、今の四国・松山の道後温泉のあたりであったとされています。

    昔日(せきじつ)のある日、後に皇極天皇となられた宝皇后(たからのおほきさき)は、夫の舒明天皇(じょめいてんのう)とともに、(おそらく)道後温泉に湯治(とうじ)にやってきたのです。
    そのときは、まさに平和な旅で、大勢の女官たちらとともに、明るく皆で笑い合いながらの楽しい旅であったし、地元の人たちにも本当によくしていただくことができた。
    誰もが平和で豊かな日々を満喫できた、行楽の旅であったわけです。
    そしてそれは夫の生前の、楽しい思い出のひとつでもありました。

    ところがいまこうして同じ場所に立ちながら、自分は大勢の若者たちを、戦地に送り出さなければならない。
    あの平穏な日々が崩れ去り、若者たちを苦しい戦場へと向かわせなければならないのです。
    もちろん戦いは勝利を期してのものでしょう。
    けれども、たとえ戦いに勝ったとしても、大勢の若者たちが傷つき、あるいは命を失い、その家族の者たちにとってもつらい日々が待っているのです。

    それはあまりに哀しいことです。
    だからこの歌は、哀傷歌とされているのです。

    けれど、時は出征のときです。
    若者たちの心を鼓舞しなければならないことも十分に承知しています。
    だから皇極天皇は、そばにいる、日頃から信頼している額田王に、
    「この歌は、おまえが詠んだことにしておくれ」
    と、この歌をそっと手渡したのです。

    これが日本の国柄です。
    平和を愛し、戦いを望まず、日々の平穏をこそ幸せと想う。
    そして「私が詠んだ」という「俺が私が」という精神ではなくて、どこまでも信頼のもとに自分自身を無にする。
    そのような陛下を、ずっと古代からいただき続けているのが日本です。

    この歌が詠まれた「後岡本宮馭宇天皇七年」というのは、斉明天皇7年、つまり西暦661年のことです。
    いまから1359年の昔です。
    日本人の心、そして天皇の大御心は、1400年前の昔も今も、ずっと変わっていないのです。

    ちなみに初句の「にぎたづに」は、大和言葉で読むならば、「にぎ」は一霊四魂(いちれいしこん)の「和御魂(にぎみたま)」をも意味します。
    和御魂(にぎみたま)は、親しみ交わる力です。
    本来なら、親しみ交わるべき他国に、いまこうして戦いのために出征しなければならない。
    そのことの哀しさもまた、この歌に重ねられているのです。

    ずっと後の世になりますが、第一次世界大戦は、ヨーロッパが激戦地となりました。
    このため、ヨーロッパの重工業が途絶え、その分の注文が、同程度の技術を持つ日本に殺到しました。
    日本は未曾有の大好景気となり、モダンガール、モダンボーイが街を歩く、まさに大正デモクラシーとなりました。

    戦争が終わったのが1918年の出来事です。
    ところがその5年後の1923年には関東大震災が起こり、日本の首都圏の産業が壊滅。
    さらに凶作が続いて東北地方で飢饉が起こり、たまりかねた陸軍の青年将校たちが226事件を起こしたのが1936年。
    そしてその翌1937年には、通州事件が起こり、支那事変が勃発しています。
    日本国内は戦時体制となり、現代の原宿を歩いていてもまったくおかしくないような最先端のファッションに身を包んだモダンガールたちは、モンペに防空頭巾姿、男たちが国民服になるまで、第一次世界大戦からわずか20年です。

    そして終戦直後には、住むに家なく、食うものもなし、それどころか着るものもない、という状況に至りました。
    けれどそのわずか19年後には、日本は東京オリンピックを開催しています。

    20年という歳月は、天国を地獄に、地獄を天国に変えることができる歳月でもあります。
    そして時代が変わるときは、またたくまに世の中が動いていく。
    コロナショックで、まさにいま、日本は激動の時代にあります。

    けれど、どんなときでも、陛下の大御心を思い、勇気を持って前に進むとき、そこに本来の日本人の姿があります。
    それは、勝つとか負けるとかいうこと以上に、私たち日本人にとって大切なものです。

    またご皇室の内部に問題がある云々とも、一切関係ないことです。
    そもそも問題点というのは、いつの時代にあっても、どのような場所であっても、どのような人であっても、たとえご皇室であっても、そこにあるのが人である以上、必ずあるものです。
    問題が起きているということは、物事が動いているということであって、むしろ問題が何もないなら、それは物事が動いていない、つまり生きた人間がそこにいないということです。

    ご皇室内部の問題は、ご皇室に委ねればよいのです。
    外野があれこれ言うべきことではない。
    名誉欲、経済欲に駆られたどっかのアホがご皇室内部に入り込むような事態は、いまも昔も繰り返しあったのです。
    けれど歴代天皇のご事績はゆるぎなく歴史に燦然と輝いています。

    北斗神拳二千年の歴史なんてアニメの言葉がありますが、日本の歴史は二千年どころが万年の歴史です。
    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。
    日本人なら日本を信じる、ご皇室を信じ抜くことです。
    すくなくとも、自分はそのようにしています。

    吉田松陰が水戸藩郷士、堀江克之助に送った書です。

    「天照の神勅に、
     『日嗣之隆興 天壞無窮』と有之候所、
     神勅相違なければ日本は未だ亡びず。
     日本未だ亡びざれば、
     正気重て発生の時は必ずある也。
     只今の時勢に頓着するは
     神勅を疑の罪軽からざる也」

    《現代語訳》
    天照大御神のご神勅(しんちょく)に、「日嗣(ひつぎ)の隆興(さかえ)まさむこと、天壞(あめつち)とともに無窮(きはまりなかる)べし」とあります。そしてご神勅の通り、日本はいまだ滅んでいません。
    日本がいまだ滅んでいないなら、日本が正気を取り戻すときが必ずやってきます。
    ただいまの時事問題に頓着(とんちゃく)して、簡単に日本が滅びると言うのは、ご神勅を疑うというたいへん重い罪です。

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    ※この記事は2020年6月の記事のリニューアルです。
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  • 天智天皇・天武天皇・額田王の三角関係説を斬る


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    今回のお話の要点は表題の通りです。
万葉集をちゃんと読めば、ぜんぜん三角関係などではないことがわかります。
思うに、日本を取り戻すためには、日本人が日本文化をもっとちゃんと知る必要があるように思います。
    日本人から誇りを奪い、日本人であることをむしろ恥じるようにしていくことは、実は明治からはじまり、戦後にはとても大きな影響力を持つようになりました。そのために学者さんたちまで動員されました。
しかし、百万遍唱えても嘘は嘘です。一片の真実は、一瞬でそれまで蓄積された嘘を吹き飛ばす力があります。
日本の文化は、日本の近隣国の人たちが思うような残酷軽薄な文化ではありません。

    center>20200613 額田王
    画像出所=https://www.jvcmusic.co.jp/-/News/A026554/6.html
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    天智天皇・天武天皇・額田王といえば、戦後、美しい女性の額田王をめぐって何やら三角関係にあって、あたかもこれが原因で壬申の乱が起こったかのように宣伝されました。
    このような下劣な説がまかり通るようになったのは、明治期に正岡子規らが「文明開化の時代なのだから、古典和歌からもっと自由になろうよ」という運動を興すに際し、古典和歌は決して高尚なものとはいえないという、ひとつの見方を示したことがそもそものきっかけです。

    明治の国文学界は、江戸時代まであった日本文化の全否定から始まっています。
    具体例としてわかりやすいものをひとつ挙げます。
    「バンカラ」という言葉です。
    これは「南蛮カラー」という言葉が詰まって生まれた明治の造語です。

    それまで(江戸時代まで)の日本では、弟子は師匠の前では必ず道を開け、正座して低頭するというのがあたりまえの常識でした。
    先達から教えを受けるのです。
    頭を下げるのがあたりまえです。

    ところが明治に入ると、こうした日本古来の師匠と弟子の関係を、主に学問の府である大学を中心に崩壊させようという動きが加速しました。
    それが「バンカラ」です。
    「師匠と弟子?
     ざけんな!
     俺たちは南蛮カラーだ!」
    というのが、時代の流行となったわけです。

    それでも昭和初期までは、各家庭は大家族制だったし、江戸時代に教育を受けたお年寄りたちがまだ生存していましたから、かろうじて日本人としての矜持が保たれていたのですが、最先端となるべき学会、とりわけ文系の学会は、ただ日本文化を称賛しながら破壊するという、不可思議なロジックにはまり込んでいきました。

    さらに戦後は、こうした、いわばひとつのゆがみから見た日本文化そのものを否定する風潮に乗っかった、まともな学者が公職追放された後の学会の主流的思想となり、さらに近年では、そうした歪みのなかで力を握って教授職にまで上り詰めた、日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話しながら日本人ではないという、やっかいな人達によって、さらに大きく歪められるようになっていったといえます。

    この歪みによって、近年ではまともな時代劇や歴史ドキュメンタリー番組さえも作れなくなりました。
    例えを数え上げればきりがありませんが、今回はその中で、天智天皇・天武天皇・額田王に焦点をあててみたいと思います。

    この三人の関係が、巷間、どのように言われているのかを、図式的に述べると、
    「乙巳の変で蘇我入鹿を殺害して権力の実権を握った中大兄皇子(なかのおほえのおうじ)は、ついに天皇の地位にのぼって天智天皇を名乗った。
     弟の大海人皇子(おおあまのみこ)は、美しい女性の額田王(ぬかたのおほきみ)と結婚して一女(十市皇女(とほちのひめみこ)を得ていたが、兄の天智天皇はその額田王を見初めると、娘の鸕野讚良皇女(うののさらのひめみこ)を強引に大海人皇子に嫁がせ、代わりに額田王を自分の妻妾にした。
     このことに恨みを抱いた大海人皇子は、兄の天智天皇が崩御すると、すぐに兵を起こして兄の子である大友皇子(おほとものみこ)を攻め、ついに天下をとって皇位に就き、天武天皇を名乗った。」

    と、要するに天智天皇と天武天皇の兄弟は、美しい額田王をめぐって三角関係にあったのだというわけです。
    そしてこのことが近年ではさらに誇張されて、天智天皇と天武天皇は実は兄弟ではなかったのではないかとか、天武天皇というのは実は半島人で、権力の亡者となった生粋の日本人の天智天皇を滅ぼして、朝鮮王朝を日本に築いたのだとか、もうこうなると、言いたい放題扱いになっています。

    日本は言論の自由の国ですから、基本的に何を言おうが自由といってしまえばそれまでです。
    しかし世の中には、言っていいことと悪いことがあるものです。
    いかなる場合であったとしても、「ならぬものはならぬ」のです。
    ところが、そういうと「価値観の強制である」などと、これまた見当違いの議論が出てきます。

    そもそも論点をすり替えて、まるで静謐と安穏を重んじる寝室で、布団やフスマをバンバンとやかましく叩くようなふるまい《これを昔から「栲衾(たくぶすま)」と言って、新羅の枕詞に使われていました》を繰り返すのは、どこかの国の人の、古来変わらぬ特徴です。

    拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』にも書きましたが、そもそもこの天智天皇・天武天皇・額田王の関係について、そのような三角関係があったという記述は、我が国の正史である日本書紀にはありません。
    ではなぜこの三人が三角関係にあったように言われたのかというと、実は『万葉集』にあるこの三人の歌が、その事実を示しているのだと言われています。

    どういうことかというと『万葉集』に、まず白村江の戦いの5年後に天智天皇が開催した遊猟会において、
    (1)額田王が詠んだ歌
       あかねさす むらさき野行き 標野(しめの)行き
    野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
    という歌があるわけです。
    そして続けて大海人皇子《後の天武天皇》が、
    (2)むらさきの にほへる妹を にくあらば
       人嬬(ひとつま)ゆへに 吾(われ)恋めやも
    と詠む。

    つまり額田王が、
    「あたしはいまはもう天智天皇の妻になったのに、
     元のダンナの大海人皇子さまが、
     あんなに露骨に向こうから手を振ってらっしゃる。
     そんなことをしたら
     野守に見られてしまうではありませんか。
     いやん♪」
    と歌を詠み、これを受けて元のダンナの大海人皇子が
    「美しく香る紫草のようなおまえのことを憎くさえ思えるのは
     人妻になってしまったおまえのことを、
     俺はいつまでも愛しているからだよ」
    と、歌を返したというわけです。

    まるで昔流行った、アラン・ドロンとダリダの『あまい囁き』みたいです。
    『あまい囁き』は、その後金井克子と野沢那智が和訳を出して、これまた大ヒットしました。下にパロディ版の動画を貼っておきます。うまくできていて思わず笑いました。
    だいたいこの曲を聞くと、男の方に石をぶつけたくなる。
    この点は、うちのかみさんと意見がいつも一致します(笑)。

    話が脱線してしまいましたが、そもそも日本人はもっと誠実なものです。

    さらに天智天皇が中大兄皇子時代に、まさにその三角関係のもとになったとされる歌が次の歌です。
    (3)高山(たかやま)は 
       雲根火(うねび)おほしと
       耳梨(みみなし)とあい争いき
       神代より かくにあるらし
       古(いにしえ)も しかにこそあれ
       嬬(つま)を相挌(あいかく)
       良きと思ほす

    要するに、大和三山の畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)は、神代から香久山(かぐやま)をめぐって三角関係で争ってきたというが、自分《中大兄皇子》もまた妻(額田王)をめぐって弟の大海人皇子と争っている。これもまた良いではないか、という歌だというのです。
    弟の妻を横取りしようと歌を詠み、最後は「それもまた良いではないか」って、志村けんのバカ殿様ではないのです。

    さらに次の歌もあります。
    これは弟の妻から、天智天皇の妻となった額田王が、天智天皇が今宵やってくることに胸を膨らませて詠んだとされている歌です。
    (4)君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾 動かし秋の風吹く

    あなたを待ってドキドキしていたら、秋の風がすだれをうごかしましたわ、というわけです。
    これで決定打で、つまりもともと大海人皇子の妻だった額田王は、ついに自分を奪い取った天智天皇を愛するようになった・・・日本人の女性はかくもふしだらなものらしい・・・というわけです。

    申し上げますが、これらの解釈は、妄想に妄想を重ねただけであって、まったくのデタラメです。

    まず(1)と(2)の遊猟会のときの歌は、万葉集に「天智天皇の弟と、諸豪族、および内臣および群臣たちがことごとく天皇に同行した」と書かれています。
    白村江の敗戦から5年。
    朝廷の総力をあげて、国内の復興と国土防衛に全力をあげて勤めてきたのです。

    それがようやく一定のレベルに達したことから、5年目にしてやっと、朝廷の職員たちのお楽しみ会として蒲生野での遊猟会が催されたのです。
    そして(1)(2)の歌は、どちらもその遊猟会の後の直会(なおらい)、つまり懇親会の席で披露された歌です。
    だから、歌が発表された席には、群臣百卿が全部そろっています。

    果たしてそのような席で、「見られちゃうわよ、いやん♪」などという歌や、人の上に立ち、その時点における政治上の最高権力者となっていた大海人皇子が、女々しく引きずるような歌を披露するでしょうか。ましてその日は、勇壮な遊猟会の日であり、その後に行われた懇親会の場なのです。

    では(1)(2)の歌は、本当はどのような歌なのでしょうか。
    原文から意味を解読してみます。

    (1)
    《原文》茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
    《意味》
    アカネ草で染めるように天下に指し示められたバラバラな世を立て直す力を、地方豪族たちも見て大君の指導《袖振り》を受け入れていくことでしょう。

    解読のポイントは、「むらさきの逝き、しめの行き」と、「いく」という語の漢字が「逝」と「行」とに使い分けれられていることです。
    この遊猟会が行われたのは6月のことであり、茜草の開花は秋です。
    ですからここではアカネ草の美しい花を詠んでいるのではなく、アカネ草があかね色の染料として用いられることをモチーフにしているとわかります。

    そして「逝」は、「折」の部分がバラバラに引き離すこと、「辶」が立ち止まることを意味する漢字です。
    「武」は「たける」で、正しくすることを意味しますから、漢字で書かれた意味を考えれば「武良前野逝」は、「以前に正しいこと、良いことをしようとして、結果としてバラバラになってしまった国内情勢」のことを述べているとわかります。

    その国内情勢に、天皇が「標野行」、つまり進むべき道を示して行かれたのです。
    そのことを「野守」、すなわち一時はバラバラになってしまった地方豪族たちも、「君之袖布流」つまり天智天皇の指揮(袖振り)のもとで、再び君民一体の国柄がこの5年で出来上がりました、と額田王は詠んでいるわけです。

    額田王は、単に美しい才女というだけでなく、この当時にあって神に通じる霊力を持つ女性とされた人です。
    その女性が、今日の遊猟会を祝い、またこの5年間の国の建て直しの天皇以下群臣の辛苦をねぎらって、「アカネ指す」とこの歌を詠んでいるのです。

    そしてこの歌を受けて、額田王の夫の大海人皇子が、歌をつなげます。
    それが(2)です。
    ちなみにこの時代、天皇は国家最高権威であって、政治権力者ではありません。
    そしてこの時代において国家最高の政治権力者の地位にあったのが大海人皇子です。

    (2)
    《原文》紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓  吾戀目八方
    《意味》
    この季節に咲き始めるムラサキ草のように美しく、いつまでも大切な女性たちが歳を重ねてもいつまでも守られる国を守り抜くために、私(大海人皇子)も、政治に専念して日々努力を重ねています。しかしこのたびは、神に通じる力を持つ美しい花のような女性である私の妻が、私のもつれた目配りをも、すっきりと見通してくれました。

    ここで「戀(恋)」という字が使われているから、恋愛感情を詠んだ歌だと短絡的な思考をすると、歌の意味を読み間違えます。
    この時代の「戀」という字は、言葉の糸がもつれてからみあってどうにもならないような状態や気持ちのことを言います。
    現実の政治は、日々、さまざまな糸がもつれ合った複雑なものです。
    そして国家最高の政治権力者であれば、四方八方の周囲の様々な意見に常に気を配らなければなりません。

    要するに、霊力を持つ妻が「天智天皇の指揮のもと、国内情勢は必ず良い方向に安定します」と詠んだ、その歌を受けて、夫の大海人皇子は、
    「女性たちがいつまでも安全に安心して暮らせる国の姿を守り抜くために、これからもしっかりと日々の業務に邁進していきます」と決意を述べているわけです。

    天智天皇が中大兄皇子時代に、まさにその三角関係を歌ったとする(3)の歌も同じです。
    この歌は、上に述べた本歌だけでなく、反歌がセットになっています。
    意訳すると次のようになります。
    (3)
    【本歌】高山波雲根火雄男志等耳梨与相諍競伎神代如此尓有良之
    古昔母然尓有許曽虚蝉嬬乎相挌良思吉
     雲の起こる雄々しい高い山のふもとで、
     誰もが豊かになろうと志を持って競い合って栄えてきたのだぞ。
     神代からずっとそうしてきたのだぞ。
     母なる古い昔にかさねがさね神に祈ってきたように、
     これからも神に仕える巫女とともに祈りを捧げていくのだ。

    【反歌】高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美国波良
     豊かな恵みを与えてくれる大和三山の山の高きに、
     天皇がおさめられている豊かな国を立ち見しにやってきた。

    この時代、実は梨の栽培ができるようになったのです。
    大和三山は、もともと火山灰土の山のため、もともとは斜面が単なる荒れ地でした。
    ところが梨の栽培技術が開発されたことで、その斜面が梨畑として活用されるようになったわけです。
    その梨畑を視察に行幸された天皇が、民間の努力を寿ぎ、さらに一層の精進を願って、神とつながる巫女たちともに、しっかりとこれからも豊作を祈願していきますよ、とこの歌は読まれているのです。

    全然、三角関係だの、他人の妻を欲しがったとかいう歌ではありません。
    そもそも歌にある「相格」は現代用語の「相対」と同意味の言葉です。
    また「嬬」という字は「需」が雨乞いをするヒゲを生やした祈祷師を意味する字です。
    儒教の「儒」はニンベンですが、これは儒教の開祖の孔子が、もともと祈祷師の家の息子だったことに由来します。
    ここではそれが女偏ですので、神に仕える女性の祈祷師を表します。
    配偶者の場合は 「妻」であって「嬬」ではありません。

    (4)の額田王が天智天皇を待ちわびたという歌も、意味がぜんぜん違います。

    「君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹」
    が原文ですが、「君待登」の君は天智天皇です。そして部下が天皇のもとにお伺いすることを「登る」と言います。男性が女性のもとに通うことを「登る」とは言いません。

    要するに額田王のもとに、天皇からの呼び出しがあり、天皇の額田王への用事といえば、霊力のある額田王を通じて何らかの御神託を得ようとするものであるわけですから、当然額田王は、仕度を整えて禁裏に登ることになります。
    古来、女性の仕度は男性と違って時間がかかります。
    急ぎの用事と呼ばれていれば、まさに「戀」のように気を揉むことになる。

    ところがそうして仕度をしているときに、「簾(すだれ)を動かして秋風が吹いた」のです。
    秋風というのは、涼しくて良い風のことを言います。
    つまり吉兆です。

    これは昔の日本人の思考と、現代日本人の思考の大きな違いなのですが、今の人は「会ってから結果を出す」のが常識と思い込んでいますが、昔の人は「会う前に結果を出す」のが常識でした。
    わかりやすくいうと、いまでは武道もスポーツの一種になってしまって、試合の結果は「やってみなければわからない」ものとなっていますが、昔はそうではなくて、「試合で向き合ったときには、もう勝負がついている」ものであったのです。
    ここが日本古来の武道と、スポーツの違いです。

    この歌も同じで、天皇から何を聴かれるのか、それはおそらくは政治向きのことであろうけれど、家を出る前にすでに吉兆を意味する風が吹いたということは、ここで結論が出ているということなのです。

    要するにまとめると、天智天皇・天武天皇・額田王の三角関係説というのは、万葉集にある歌を間違って解釈していることが原因の俗説にすぎません。
    詠まれた歌をちゃんと読み解けば、その内容は、まさに尊敬と敬愛、そして国をひとつにまとめていこうとする誠実の歌の数々にほかならないのです。

    日本を取り戻すためには、日本人が日本文化を知る必要があります。
    そして日本文化を知ろうとするとき、先人たちへの限りない尊敬と敬愛の念を持って、教えを乞えば、いまは亡き先人たちは、大喜びでその真実の扉を開けてくれます。
    逆に、自分たち現代人の方が進んでいるのだ、過去の先人たちは遅れていたのだなどという傲慢な姿勢で古典に臨めば、先人たちはその真意を教えてくださるどころか、見向きもしてくれなくなります。
    つまり、何も得させてもらえなくなるのです。

    そもそも、七百年もすれば、日本人は全員血がまじります。
    天智天皇や天武天皇らは7世紀の人物です。
    いまから1400年も昔の人です。
    ということはつまり、いま生きている私達の体を構成しているDNAの何万分の1かには、男性であれば天智天皇、天武天皇のDNAが、女性であれば天才歌人とされた額田王のDNAが、現代日本人全員の中にしっかりと入っている、ということです。

    ということは、天智天皇や天武天皇を否定することは、自分自身を否定することということになります。
    これを自虐史観といいます。
    歴史を虐め、国を虐め、結果として自分を虐めているのです。
    教師が生徒たちに、そうやって虐めを正しい行いとして教育すれば、子供達は虐めることが正しいことだと勘違いします。
    こうして虐めの問題が社会問題となります。
    あたりまえの帰結です。

    そして自虐の反対語は自愛です。
    古典や歴史に愛を見出すことは、そのまま歴史を愛し、国を愛し、自分を愛することに繋がります。
    これこそが、いま求められる新しい教育の形です。

    今回のお話の要点は表題の通りです。
万葉集をちゃんと読めば、ぜんぜん三角関係などではないことがわかります。
思うに、日本を取り戻すためには、日本人が日本文化をもっとちゃんと知る必要があるように思います。
    日本人から誇りを奪い、日本人であることをむしろ恥じるようにしていくことは、実は明治からはじまり、戦後にはとても大きな影響力を持つようになりました。そのために学者さんたちまで動員されました。
しかし、百万遍唱えても嘘は嘘です。一片の真実は、一瞬でそれまで蓄積された嘘を吹き飛ばす力があります。
日本の文化は、日本の近隣国の人たちが思うような残酷軽薄な文化ではありません。


    ※この記事は2021年11月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
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  • 百人一首と察する文化


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    古来、男性は、支配と闘争の生き物です。
    一方、女性は、受容と愛情の生き物です。
    この両者の考え方や行動は、互いに相容れない別物です。

    そして歴史を通じて、世界は男性原理で動いてきました。
    武力による支配、競争社会、いわば弱肉強食の世の中を築くのは男性原理です。

    では、大弐三位のような、女性が輝く時代というのは、どのような時代なのでしょうか。
    それは、支配と闘争の男性原理ではなく、受容と愛情がたいせつにされる社会です。
    なんと日本は、千年もの昔に、そんな社会を築いて来たのです。

    20221011 ガーベラ
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    小倉百人一首は、平安末期から鎌倉時代初期を生きた藤原定家の作になるもので、各歌には順番が付してあります。
    最初の歌が第38代天智天皇、いちばん最後が順徳院です。
    名前は順徳院となっていますが、天皇を退位されたあとに院となられたものです。もとは第84代順徳天皇です。

    天智天皇のご治世が668年2〜672年、順徳天皇のご在位が1210〜1221年です。
    つまり百人一首は、ただ単に百人の歌人の百首の歌を並べただけではなくて、実は、天皇にはじまり、天皇に終わっている。
    つまり最初の歌である天智天皇に始まるおよそ五百年の天皇のシラス統治の興亡を、百人の歌人の百首の歌を用いて、天皇と貴族と民衆、つまり皇臣民の五百年の歴史を叙情詩として描いた作品です。

    天智天皇は、皇太子時代に大化の改新を行い、その後に天皇にご即位されました。
    このときの取り組みによって、我が国は同じ時代の世界に例をみない平和と安定の国家を形成しています。
    ところがその500年後の平安末期、政界の争いに武力が介入するという事件(保元の乱)が起こり、ここから平和な時代が音を立てて崩れていきます。
    そして時代は鎌倉の武家政権へと進みました。

    編者の藤原定家は、平安時代が崩れていく動乱期を生きた政治家であり、歌人です。
    彼は晩年最後の作品として、500年の平和と繁栄がなぜ生まれ、その繁栄によって何がもたらされ、そしてなぜ崩れていったのかを、百人の百首の歌で、これを表現した。それが百人一首です。
    だから「百人百首」ではなく、「百人一首」です。百人の百首の歌ぜんぶで、一首の歌、つまり抒情詩にしたのです。

    詩文学で歴史を描くには、叙事詩と抒情詩の二つの方法があります。
    叙事詩は、事件や人物など具体的な事実を用いて歴史を記述します。
    抒情詩は、当事者の心の動きを用いて歴史を記述します。

    現代の歴史学は、もっぱら叙事によって記述されますが、人間の世界のあらゆるできごとは、人や人々の心の動きによって形成されます。
    その意味では、抒情的な描き方のほうが、もしかすると「正しい」「伝わる」ものなのかもしれません。

    ただ、日本の文化は「引き算の文化」です。
    西洋のように、一から十まで事細かに記述するということをしません。
    必要最低限の手がかりだけ与えるから、あとは自分の頭で考えなさいというのが、日本文化です。
    そして和歌は、その最たるものです。

    ですから百人一首に掲載された和歌を、通り一遍の表面上に書かれていることだけを意訳しても、意味はわかりません。
    わかったとしても、せいぜい近年の演歌や艶歌、浪花節にしか見えません。

    そこで万葉集や古今和歌集などの古い歌集では、詞書(ことばがき)といって、歌の前後に、その歌が詠まれたシチューションなどを掲載しています。
    読み手は、それらを手がかりに、歌の真意を読み解くわけです。

    百人一首の場合、そのような詞書はありません。
    出典となった個々の歌が掲載された歌集には詞書があっても、百人一首では、それらは省略してあります。
    その代わり百人一首は、歌に順番の番号と、歌人の名前をそれぞれに付しています。

    たとえば、大学頭であった大江匡房(おほえのまさふさ)は、「前権中納言匡房」としてあります。
    単に大江匡房と名前が書いてあるだけなら、それは個人的な歌です。
    けれど「前権中納言匡房」と、職名を付してあるなら、その歌は仕事上の、仕事に関係した歌ということになります。
    着流し姿の普段着の言葉と、裃(かみしも)を付けたオフィシャルな言葉では、伝えるものが違うのです。

    73番歌にある大江匡房の歌は、次のように記述されています。

     七拾参 前権中納言匡房
     高砂の尾の上の桜咲きにけり
     外山のかすみ立たずもあらなむ

    歌の表面上の意味は、「尾根の上に桜が咲いた。山にかかる霞よ、じゃまだからどいてくれい」といった意味になります。
    ところが大江匡房は、後三条天皇のもとで延久の善政を実行し、朝廷の腐敗を改善し、遠く青森までを朝廷の傘下に組み込んだ人物です。
    つまり、シラス統治によって、遠く青森県の民衆も、天皇の「おほみたから」とした人物です。
    これにより民衆は、豪族たちによる私的支配を受けなくても良くなったのです。
    それは民衆が人として生まれ、人として生きるために、絶対に不可欠なことです。
    つまり、東北地方まで、人が人として生きれるようになったことを意味します。
    その一方で、大江匡房は、宮中の貴族たちの財産や権力を、かなり削っています。

    つまりこの歌の真意は、
    「シラス国を取り戻すために改革をしているのだから、
     並居る高官のみなさん、
     あまり口出しをしないでくださいな」
    といったことを伝えようとした歌だとわかります。

    百人一首の49番に、大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶのあそん)の歌があります。

     御垣守 衛士のたく火の 夜は燃え
     昼は消えつつ ものをこそ思へ

    この歌を現代の多くの解説書が「恋の歌」だと解説しています。
    「御垣守の衛士たちが焚く篝火(かがりび)のように、
     私の恋心は、夜は炎のように燃えるけれど、
     昼間は消えてしまう。
     いったいどうしちゃったんだろうね」
    といった解説がなされています。

    恋心が、夜燃えるは結構な話です。
    しかし、昼間消えてしまうのはちょっと困りものです。
    どうしてそんな下品な歌が、名歌といえるのでしょうか。

    そもそもこの歌を詠んだ大中臣能宣朝臣は、神祇官の大副であった人です。
    神祇官というのは、天皇直下にあって、太政官と並ぶ大きなお役所です。
    しかも伊勢神宮の祭主でもあった人です。
    要するに神官であり、しかもたいへんな大物です。
    そのような人物が、職名で、「私の恋心は〜」とだけしか言いたいことはなかったのでしょうか。

    歌にある「御垣守」は、今でいうなら皇宮警察官です。
    いまは給料をもらう公務員ですが、江戸時代までは、皇居の警備を行う衛士(えじ)は、各藩が勤めました。
    幕末の蛤御門の変(禁門の変)は、京都御所の西側の門を守る会津藩と、長州藩が激突した事件ですが、このとき蛤御門の警固をしていた会津藩は、朝廷から給料をもらって警固をしていたわけではありません。

    江戸時代を通じて、京都御所の警固は、各藩が持ち回りで行っていましたが、その警固のための費用(京都までの旅費、宿泊費、食費、警固期間中の藩士たちの給料の一切は、それぞれの藩が持ち出しです。
    それよりももっと古い、源平時代には、源氏と平氏が交代で禁門の警固に当たっていました。
    これまた経費一切は、それぞれの持ち出しです。
    ちなみに禁門というのは、天皇の御所のことを、神聖にして侵してはいけないということから禁裏(きんり)と呼びますが、そこから御所にある全ての門が「禁門」と呼ばれています。

    武士が台頭してからは、もっぱら禁門の警固は武士たちが行うようになったのですが、その武士が登場するよりも古い時代はというと、全国から皇居に勤労奉仕に集まる一般の庶民が、御所の警固にあたりました。
    その人々も、旅費、交通費、宿泊費、食費等は全て自前です。
    自分のお金で上京し、勤労奉仕をしていたのです。

    そんな勤労奉仕団の人々は、女性はいまと同じで御所の清掃活動、男性は門番を任せられました。
    日頃は農家や漁業をしているおじさんやお兄さんたちが、禁門の衛士を任せられるのです。
    これはとっても名誉で嬉しいことでした。
    だから彼らは、一晩中篝火(かがりび)を絶やさないし、寝ずに番をするし、昼間はもちろん篝火は消すけれど、雨が降っても雪が降っても、直立不動の姿勢を崩しませんでした。

    どうしてそこまでするのかって?
    あたりまえです。
    一庶民である自分たちが、権力からの一方的な支配を受けない、奴隷とならないで、それどころか豊かに安心して安全に暮らすことができているのは、天子様(天皇のこと)が自分たち庶民を「おほみたから」としてくれているからなのです。
    海外の歴史などを知れば、なおのこと、その日本のありがたさがわかる。
    そういうことを一般の庶民の誰もが常識として知っていたのです。

    これはとても大切なことです。
    実際日本では、上古の昔から、庶民たちが自分の費用で京の都まで旅をすることができたし、このときに女性であっても途中で盗賊に襲われる心配をすることなく、安心して旅をすることができたのです。
    だからこそ、京の都で天皇の存在のありがたさに感謝して、何日も宿泊したり食事をしたりしながら、禁門の警固や皇居の清掃作業などをよろこんで行っていたのです。
    ここにシラス統治の完成された姿があります。

    大中臣能宣朝臣は、だから「そういう庶民の姿を、自分たち貴族、政治を預かる者たちは、しっかりと認識しようではないか」とこの歌に詠んでいるのです。
    そしてこのことがわかるように、百人一首の編者の藤原定家は、歌に大中臣能宣朝臣と、職位を付しているのです。

    「私の恋心は夜しか燃えない」などと次元の低い意味でしか捉えることができないのは、日本人の劣化以外のなにものでもありません。

    7世紀の天智天皇が行った大化の改新は、古くからの日本の形である天皇のシラス統治を復活させようとしたものです。
    その統治のありがたさが、一般庶民の間にも広く浸透し、民衆がまさに平和と繁栄と豊かさと安全を享受できた、平安中期の心得が、この歌に描かれているのです。

    大中臣能宣朝臣は、十世紀に生きた人です。同時代を生きた有名人としては、美人で名高い藤原道綱の母や、紫式部、清少納言、和泉式部らがいます。
    シラス統治が完成の域に近づいた時代は、まさに女性たちが輝く時代でもあったのです。

    女性が輝くという時代は、世が戦乱の渦に呑まれていたり、あるいは女性たちが貞操の危機に晒される暴力が支配する世とは、まさに対極にある時代です。
    そしてそれこそがシラス国の目指す平和な社会です。

    この大中臣能宣朝臣の歌は、百人一首の四十九番に置かれた歌です。
    百人一首は冒頭の数首の歌で和歌そのものの醍醐味や味わい方を示したあと、一番歌の天智天皇にはじまるシラス国が形成され、完成されていく様子を、ひとつづの歌で描き出しています。
    そして中盤、五十三番歌から六十二番まで、中に一首、大納言公任の歌が五十五番にありますが、これを除いて九首連続で女流歌人の歌を配置しています。
    そこに、美人で名高い藤原道綱の母から、和泉式部、紫式部、清少納言など、中世の日本を代表する女流歌人たちの歌が並んでいます。

    いかに女性が輝いたのかということを、百人一首58番の大弐三位(だいにのさんみ)から学んでみたいと思います。
    大弐三位は、紫式部の娘です。
    十六歳のときに母が他界してしまうのですが、たいへん美しく、また才能に恵まれた女性で、まさにキャリアウーマンとして大成した女性です。
    生涯にたくさんの歌を遺していて、勅撰集には三十七首が入集しているのですが、藤原定家はその中から、次の歌を百人一首に入れました。

     有馬山猪名の篠原風吹けば
     いでそよ人を忘れやはする
    (ありまやま ゐなのささはら かせふけは いてそよひとを わすれやはする)

    単純に現代語に訳すと、
    「有馬山の近くにある猪名(いな)にある笹原に風が吹くとき、
     どうして私があなたのことを忘れるのでしょうか」
    といったものになります。
    けれどこれだけでは、何を歌っているのかさっぱりわかりません。

    この歌は『後拾遺集』(七〇九)に詞書があります。
    そこに「かれがれなる男の、おぼつかなくなど言ひたりけるによめる」とあります。
    どういう意味かというと、離れ離れになってしばらく逢わないでいた彼が「おぼつかなく」、つまり「私のことを忘れたのではないですか」などと気弱な手紙を書いてきたので、「忘れていませんよ」と歌にして送ったというのです。

    ちなみに有馬山と聞けば有馬温泉が思い浮かびますが、有馬温泉は日本三古湯のひとつです。
    六三一年に舒明天皇が湯治のために三カ月間滞在したという記録が『日本書紀』にあります。
    平安時代『日本書紀』は貴族たちの定番の歴史教科書でしたから、有馬山といえば有馬温泉、有馬温泉といえば舒明天皇の湯治、つまり「癒し」を連想させるものでした。

    歌の冒頭に「有馬山」があるということは、大弐三位に手紙をよこした彼は、癒しを求めたことがわかります。
    その彼が大弐三位に、
    「あなたがどのように思っているのか、不安で心配です」
    という手紙を書いたわけです。

    そこで大弐三位は、「有馬山」で彼の気持ちに理解を示し、「猪名の」は「否の」でもありますから、彼の心配に「否」と答えています。
    そして下の句では、
    「どうして私があなたを忘れるでしょうか。
     忘れるはずがありません」
    と念押しをしています。

    母を失いながらも、大弐三位は明るく自信に満ちた女性に育ちます。
    しかも母が名士の仲間入りをしてくれたおかげで、その恩恵を十二分に受けています。
    そんな大弐三位に対しては、貴人すらも気弱に「私のことをお忘れでは?」と問わなければならないほどだったことが、この歌を通してわかります。
    彼女はまばゆいほどの光彩を放つ女性だったのです。

    しかも大弐三位の魅力は、彼女自身が輝く存在でありながら、この歌のように細やかに相手の気持ちを思いやる優しさと、豊かな感受性を持っていたところです。
    おそらく手紙を出した男性は、不安で一杯だったことでしょう。
    そのことを、ちゃんと察しているのです。

    しかも、ここで大弐三位は、まったく相手の男性に媚びていません。
    堂々と対等に、しかも爽やかな清涼感で歌を返しています。

    大弐三位は、母の紫式部の後を継いで一条彰子に仕え、その後、関白藤原道兼の次男兼隆と結婚して一女をもうけています。
    そしてのちには、第七十代後冷泉天皇となる親仁(ちかひと)親王がお生まれになられたときに、その乳母に任ぜられています。
    乳母というのは、皇子の母親がわりとなって子育てをする、たいへん重要なお役目です。
    その後、典侍(ないしのすけ)に任じられ、女房として最高の従三位まで栄達しています。
    どれだけ優秀な女性であったかということです。

    大弐三位は三十六歳のとき太宰府長官の高階成章(たかしなのなりあき)と再婚し、夫の成章が大宰大弐に就任し、本人も従三位に昇叙したことから大弐三位と呼ばれるようになりました。
    要するに大弐三位という名は、夫婦揃って高級官僚で、今風にいえば、まさにキャリアウーマンとして大成した女性だったことを示しています。

    当時の女性が全部が全部、大弐三位のように優秀で栄達できたとはいいません。
    いつの時代でも、男性の不条理に泣かされた女性も数多くいたことでしょう。
    けれど同時に、大弐三位のような溌剌と輝く女性が、平安中期に生きていたこともまた事実であろうと思うのです。

    11世紀という時代にあって、世界の中でそのようなことを現実化できたのは、世界広しといえども日本だけです。
    そしてそのことは、当時の日本が、平和で豊かで誰もが安全に安心して生きることができる世の中であったことを証明しています。

    古来、男性は、支配と闘争の生き物です。
    一方、女性は、受容と愛情の生き物です。
    この両者の考え方や行動は、互いに相容れない別物です。

    そして歴史を通じて、世界は男性原理で動いてきました。
    武力による支配、競争社会、いわば弱肉強食の世の中を築くのは男性原理です。

    では、大弐三位のような、女性が輝く時代というのは、どのような時代なのでしょうか。
    それは、支配と闘争の男性原理ではなく、受容と愛情がたいせつにされる社会です。
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    先般刊行した拙著『日本武人史』から、「武術の始まり、建御雷神」をご紹介してみようと思います。

    タケミカヅチノカミは、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と書かれます。
    葦原の中つ国、つまり地上の国を大いなる国に育てあげた大国主神に、
    「天照大御神(あまてらすおほみかみ)、
     高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(も)ちて
     問(と)ひに使之(つか)はせり。
     汝(いまし)の宇志波祁流(うしはける)
     この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、
     我(わ)が御子(みこ)の所知(し)らす国(くに)と
     言依(ことよ)さし賜(たま)ひき。
     故(ゆゑ)に汝(いまし)の心(こころ)は奈何(いかに)」
    と国譲りを迫った神様です。

     古事記では、このとき建御雷神は、
    「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き放ち、
     その剣を逆さまに波の上に刺し立てると、
     その剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)をかいて
     大国主神に問い迫った」
    と記述しています。

     日本書紀は少しだけ違っていて、
    「十握剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、
     その剣を地面にさかさまに植えるかのように突き立てて、
     その切っ先の上に堂々と座る」
    と書いています。古事記は「海の波の上」、日本書紀は「地面」に剣を突き立てたとしているのですが、両者とも、その切っ先の上に大胡座をかいて座ったというところは一致しています。

     神々の技(わざ)ですから、もちろん本当に剣の切っ先の上に座られたのかもしれません。ですが普通には、現実的に、そのようなことは奇術でもなければ、まずありえないことです。そんなことは、記紀が書かれた古代においても、誰もがわかることです。ということは、これは、別な何かを象徴した記述であるということです。
     大国主神の側は、大軍を擁する大いなる国です。そこへ乗り込んだ建御雷神は、いきなり国王であった大国主神に直談判をしています。もちろん高天原からの使いですから、直接国王に面会が可能であったとしても、それでも「剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)」というのは、ありえない描写です。

     この点について、日本書紀は、経津主神(ふつぬしのかみ)と、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜を先に述べています。

     ▼経津主神(ふつぬしのかみ)の系譜
    【祖父】磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)
    【父母】磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)
    【本人】経津主神(ふつぬしのかみ)

    ▼武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜
    【曾祖父】稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
    【祖父】 甕速日神(みかはやひのかみ)、
    【父】  熯速日神(ひのはやひのかみ)
    【本人】 武甕槌神(たけみかづちのかみ)

    ここで祖父や父として書かれている神々は、古事記では、いずれも火の神が生まれることでイザナミが亡くなったときに、夫のイザナギが子の火の神を斬り、このときに飛び散った血から生まれた神として登場している神々です。古事記は、親子というよりも兄弟の神であるかのような記述になっているのですが、日本書紀では親子関係です。
     登場する神々は、いずれも剣に関係する神々です。
    磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)は、岩さえも根っこから斬り裂くという御神刀を意味する御神名です。
    子の磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)は、それだけ鋭利な剛剣を筒に入れる、すなわち鞘(さや)に収めている状態を示します。
    そこから生まれた経津主神(ふつぬしのかみ)は、日本書紀に登場する神(古事記には登場しない)ですが、後に香取(かとり)神宮(千葉県香取市)の御祭神となる神様です。
    別名を、香取神、香取大明神、香取さまといいます。

     一方、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は鹿島神宮の御祭神です。香取神宮と鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置しています。そしてこの両神は、我が国の古来の武神です。流派はそれぞれ鹿島神流、香取神道流といいます。いずれも我が国武術の正統な系譜であり、とりわけ香取神道流は、現存する我が国最古の武術流儀といわれています。いずれも最低でも二千年、もしかしたら数千年もしくは万年の単位の歴史を持つ武術流儀です。
     二千年前なら弥生時代、数千年前なら縄文時代の中期です。縄文時代には、人を殺める文化がなかったのですが、それでも集団においては正義が行われなくてはなりません。最近の研究では、縄文時代中期には青銅器、弥生時代には、すでに鉄器が使われていたことがわかっていますから、そうした古い時代から、なんらかの刀剣類が用いられていた可能性は否定できません。

     武術というのは、普通なら、体躯が大きくて力の強い者が有利です。早い話、どんなに強くても、武術を知らない大人と小学生では、大人が勝ちます。当然のことながら、小柄な小学生が、力の強くて大きな大人に勝つためには、なんらかの工夫がいります。こうして武術が工夫されます。
     工夫は、一朝一夕に完成するものではありません。天才的技能を持った人が現れ、その技能が伝承され、さらに世代を重ねるごとに技術が工夫され、それが何百年、何千年と蓄積されることで、信じられないような武術になっていきます。
     残念ながら、海外の諸国には、そうした武術の伝承がありません。世界中どこの国にも、その歴史において偉大な武術家は何人も現れたことでしょう。伝承も工夫もされたことでしょう。けれど、それらは長くても数百年のうちにすべて滅んでいます。なぜなら国が滅び、その都度、皆殺しが行われているからです。とりわけ強い武術流派は、新政権にとっては恐怖そのものですから、皆殺しどころか、その一族全員が殺されています。つまりこの世から消滅しているわけです。チャイナがそうですし、西欧でも同じです。米国には「マーシャルアーツ(martial arts)」と呼ばれる軍隊格闘技がありますが、マーシャル・アーツという言葉は、実は日本語の「武芸」を英訳した言葉です。文字通り「武の」(martial)「芸」(arts)です。

     ところが日本の武術は、何千年もの昔から工夫され、伝承されてきた武術が、いずれも途切れることなく、世代を越えて磨かれ、工夫されてきた歴史を持ちます。とりわけ歴史の中には、何人もの天才としか言いようのない武術家が現れ、技術がさらに工夫されました。また武者修行といって、一定の練達者が、遠く離れた他流派の道場に学びの旅をして技術交換をして、さらに技能を高めるといったこともさかんに行われました。
     こうして数百年、数千年と磨かれ続けてきたのが、実は日本の古来の武術です。
     よく中国武術を古いものと勘違いしておいでの方がいますが、中国武術もまた、実は日本の武術が大陸に渡って成立したものだという意見があります。

     それにしても、たった二人で、大軍を要する大国主神に直談判するというのは、これは大変なことです。もちろん中つ国は敵地ではありませんが、それでも何十、何百という軍勢を前にしての談判ですから、そこで圧倒的な武術が示されたのでしょう。このことが、「切っ先の上に大胡座をかいて座った」という描写に集約されているのではないかと思います。

     さらにその後に行われた建御雷神と、大国主神の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いの描写は、我が国古来の武術の姿を垣間見せるものになっています。
    相手となる建御名方神は、千人が引いてやっと動くような大きな岩をひょいと持ってやってたとあります。これは建御名方神が、相当な力持ちであったことを意味します。
    そして、
    「ワシの国に来て、こっそり話をするのは誰だ!」と問い、「ワシと力比べをしようではないか」と申し出ると、「まずはワシが先にお主の腕を掴んでみよう」と、建御雷神の手を取る。
    すると建御雷神の手が、一瞬にして氷柱のような剣に変わり、建御名方神が恐れをなして引き下がったとあります。

    今度は建御雷神が、
    「お前の手を取ろう」と提案して手をとると、その瞬間、建御名方神は、まるで葦の束でも放り投げるかのように、飛ばされてしまいます。飛ばされた建御名方神が逃げると、それを遠く諏訪まで追って行って降参させています。

     古事記のこの描写は、後に武術を意味する古語で「手乞(てごい)」と呼ばれるようになります。手乞は「我が国の相撲(すもう)のはじまり」とも言われますが、力と技のぶつかりあいである相撲よりも、これもまた日本の古武術をそのまま紹介しているものと言うことができます。なぜなら日本の古武術では、相手に触れられれば、触れられた場所がそのまま凶器のようになり、また、相手に触れれば、その触れた部位を、そのまま相手の急所のようにしてしまうからです。
     アニメの「北斗の拳」では、「経絡秘孔をピンポイントで突く」といった描写がなされていますが、それはアニメやマンガのなかでの話です。実践で動く相手を対象に、ピンポイントでツボを突くというのは、現実にはよほどの練達者でも難しいものです。ですから日本の古武術では、相手に触れたその場所を秘孔にしてしまいます。また、相手に触れられれば、その瞬間に触れられたところを凶器に変えてしまいます。そして、気がつけば、遠くに投げ飛ばされてしまいます。
     これは、実際に体験した人でなければなかなかわからないことかもしれません。が、実際に、腕が、手が、鋭利な剣となり、また相手をまるで紙人形でも倒すかのように、投げ飛ばしてしまうのです。

     記紀が書かれたのは、いまから1300年前です。建御雷神の戦いは、まるで魔法のような武術によって建御雷神が勝利した物語ですが、古事記が書かれた1300年前には、すでにこうした、まるで魔法のような武術が実際に存在していたことを示しています。そしてその武術は、現代もなお、実在しています。

     ひとつ経験談(体験談)をお話します。それはある古流の武術家の先生の道場を訪問したときのことです。先生から抜身の真剣を渡され、「この刀で私に打ちかかって来なさい」というのです。
    いくらなんでも真剣ではこちらが怖いので、「では木刀で」ということになったのですが、全力で大上段から先生に面打ちを仕掛けて来いというのです。
    これは恐ろしいことです。下手をすれば先生に大怪我をさせかねない。
    だから遠慮したのですが、
    「構わないから全力で打ちかかってきなさい」と、こうおっしゃる。

     そこまで言われるなら、相手は先生なのだしと腹を決めて、言われた通りに全力で上段から先生に面を打ち込むことになりました。
    先生は防具すら付けていません。
    手に木刀も持っていません。
    つまり何も持っていません。
    だから真剣白刃取りのようなことをするのかな、と思いながら、面を打ち込みました。
     自慢するわけではありませんが、私も(学生時代のことですが)多少の心得はあります。
    面打ちの速さには、多少の自信もあります。そこで(本当は怖かったけれど)丸腰の先生に向かい、すり足で距離を詰めながら「エイッ」と木刀を振り下ろそうとしました。
     ところがその瞬間、筆者は凍りついてしまいました。

    先生が腰をすこしかがめて、手刀を突き出したのです。それは、ただ手刀を、顔の少し前に突き出しただけです。手刀は確実に私の喉元をうかがっていました。
     その結果何が起こったのかというと、振り下ろそうとした私の木刀が停まりました。そして身動きがつかなくなりました。どうしてよいかわからず、そのまま固まってしまったのです。
     その固まった私から、先生は悠々と木刀を取り上げました。
     気がつけば木刀を打ち込もうとした私は、刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけとなっていました。
     その姿勢のまま木刀を取り上げられ、その姿勢のまま固まっていました。
     この間、ほんの一瞬のことです。
     そしてこれが日本古来の武術の凄みだと理解しました。

     何が起こったのかは、いまだによくわかりません。ひとつの理解は、肉体を使って木刀を振り下ろそうとした私は、霊(ひ)を抜かれてしまったのかもしれないということです。人は霊(ひ)の乗り物です。霊(ひ)を抜かれると、肉体の動きは停止してしまいます。そして肉体が停止しているから、先生は悠々と、固まっている私から木刀を奪い取った。その間、私の肉体は、ただ固まっているだけった・・・・ということかもしれません。

     これは筆者が実際に体験したことですが、そこには、スポーツ化した現代武道とはまったく異なる、日本古来の伝統的武術がありました。
    そしてその武術は、こうして経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
     そしてそれは、いわゆる世界の格闘技とは、まったく一線を画する凄みのある世界です。


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    イザナギ、イザナミの時代から、男女は対等。
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    いまから800年あまりの昔のことです。
    ある日ひとりの女性が、歌会(うたかい)に招かれました。
    歌会は、摂政右大臣が私邸で開催したものでした。
    並み居る朝廷の高官たちが、ズラリと顔を揃えていました。

    その日の歌のテーマは「旅宿逢恋」でした。
    順番がめぐってきたときに、その女性は持参した一首の歌を披露(ひろう)しました。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき
    (なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
     みをつくしてや こひわたるべき)

    女性の恋の歌にしてはめずらしく、末尾が「べき」という明確な意思を示した命令口調の歌です。
    そして一聞すると、この歌は、ただ恋に命をかけるかのような歌になっています。

    ところが、よくよく聴いてみると、この歌は
    「仮寝と刈り根」、
    「一夜と人の世」、
    「身を尽くしと海路を示す澪標(みをつくし)」
    などと掛詞(かけことば)を多用しています。
    しかも「一夜をともにした女性」というのは、難波江の女性です。

    この時代の難波江は遊女街でした。
    つまりこの歌は、売春を職業とする遊女の「一夜の恋」を詠んだような歌です。
    ところがこの歌を詠んだ女性は、摂政藤原忠通(ふじわらただみち)の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子様付きの女官長(これを別当(べっとう)と言います)です。
    いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理部長の女性です。

    そのような高貴な女性が、遊女の恋の歌を詠む・・・。

    「ハテ、どのような意味が込められているのだろうか」

    和歌というのは、万感の思いを、わずか31文字の中に封じる芸術です。
    詠み手は、その万感の思いを31文字に封じるし、読み手(和歌を聞く側)は、その31文字から、詠み手が何を言いたいのかを読み取ります。これを「察し」と言います。

    当時の高官たちというのは、そうした察する文化に長けた人たちであり、幼い頃からそのための訓練を和歌を通じて学びましたから、歌が披露されたあと、しばしの沈黙の中で、その場に居合わせた貴族の高官たちは、この歌の意図を察しました。

    すると、その場が、凍(こおり)りついてしまったのです。
    並み居る高官たちが、皆、うつむいて言葉を発することもできない。
    何も言えなくなってしまったのです。

    いったいどういうことだったのでしょうか。

    実は、歌を詠んだ女性の上司である皇嘉門院(こうかもんいん)は、第75代崇徳(すとく)天皇の皇后であられた方です。
    崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に御即位されました。
    そして十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子様を皇后に迎えました。
    この聖子様が、後の皇嘉門院様です。

    お二方はとても仲のおよろしいご夫妻であったと伝えられています。
    けれど、残念なことに子宝に恵まれませんでした。
    こうなると困るのが、聖子様の父の藤原忠通(ふじわらのただみち)です。

    藤原氏の権力の源は、「国家最高権威としての天皇の外戚である」ことにあります。
    つまり子がなくて、別な藤原氏以外の一族の娘との間に生まれた子が次の天皇になれば、その瞬間に藤原氏は代々続いた権力の座から追われることになってしまうことになるのです。

    そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫りました。
    そして天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまいます。
    ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしまわます。

    困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇に就けました。
    ところがこのとき、後白河天皇はすでに29歳です。当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
    ものごとの善悪が十分にわかる年齢になっているわけです。

    天皇が未成年の幼い子供であれば、藤原氏が摂政となることで、事実上、権威と権力の両方を併せ持つことができます。
    何もかもが思いのままになる。
    ところが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原氏は権威を手放したことになってしまう。
    加えて、3歳で皇位に就き、しかも強引に退位を迫られたのは、後白河天皇の実兄の崇徳上皇です。
    表面上はともかく、すくなくとも崇徳上皇が、藤原忠通のことをよく思ってはいないであろうことは、容易に察しがつきます。

    そしてこのことが意味することは重大です。
    もしも、崇徳上皇と後白河天皇のご兄弟が手を結べば、500年続いた藤原氏の栄華は、そこで終わりになる可能性があるからです。

    間の悪いことに、我が国では天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇になれば、上皇は藤原忠通、つまり摂政関白太政大臣よりも政治的に上位の権力者となります。
    つまり崇徳上皇が、事実上の国家最高権力者となるのです。
    その国家最高の政治権力と、国家の柱であり中心核でもある国家最高権威としての天皇が、ご兄弟で手を結べば、藤原の一族は、代々続いた藤原の一族の栄華を失う。

    藤原忠通の、そういう心配がわかるから、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないで、日々歌会などを催していましたし、忠道の娘である上皇后の皇嘉門院を崇徳上皇はとても愛していらされたのです。
    つまり、できるだけ事を荒立てないように、日々、配慮していたのです。

    けれど、そうして崇徳上皇が政治に無関心を装えば装うほど、忠道には、それが裏で何かを画策しているかのように見えてしまう。
    人間、ひとたび疑心暗鬼の虫が宿ると、そこから逃れられなくなるのです。

    そしてついに藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じて、「崇徳上皇に謀叛の兆しあり」という、あらぬ疑いをでっちあげて、武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にするという暴挙に出ます。
    これが保元の乱(1156年)です。
    こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流されました。
    上皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残られたのです。

    政治の争いは、世の争いを招きます。
    朝廷内の権力闘争のために、武力が用いられたということは、紛争の解決手段は、それまでの話し合いではなく、強引に武力による解決を図ることが肯定されたことを意味します。
    それはつまり、「話し合い」よりも「武力」が優先する社会であることを、国の政治がみずから認めたことを意味します。

    中央の乱れは、世間の乱れを誘います。
    こうして世の中は、「力さえあれば何をやっても許される」という、鎧を着た武者が、むき出しの大薙刀を持って市中を闊歩する時代へと動いていくのです。

    世は乱れ、貴族たちが優雅に歌会などを開いている間にも、都をはじめ巷(ちまた)では、殺し合いが平然と起こるようになりました。
    そんな折に、右大臣の私邸で歌会が催され、聖子様が皇后時代からずっと付き従い、聖子様が剃髪して皇嘉門院となられてからも、ずっと付き従っている元皇后陛下付きの女官長であり、いまは「皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)と呼ばれている女性が歌会に招かれたのです。

    彼女は持参した歌を披露しました。
    歌は、意訳すると次のような意味になります。

    「難波の港に住む遊女であっても、
     短い一夜限りの逢瀬でも
     一生忘れられない恋をすることがあると聞き及びます。
     しかし朝廷の高官というのは、
     一夜どころか、
     神代の昔から天皇を中心とし、
     民を思って先祖代々すごしてきました。
     けれど、
     そのありがたさを、その御恩を、
     たった一夜の『保元の乱』によって、
     すべてお忘れになってしまわれたのでしょうか。
     父祖の築いた平和と繁栄のために、
     危険を顧みず
     身を尽くしてでも平和を守ることが、
     公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか」

    歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いていますので、ここでは省略します。
    ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき

    と歌を披露したことで、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
    なぜなら、堂々と叩きつけられた皇嘉門院別当のその歌の内容が、あまりに正論であり、その正論の前にその場にいた貴族高官たちの誰もが、ひとことも反論できるものがなかったからです。
    歌は正論であり、否定することはできません。
    さりとて、認めれば、自分たちがアホのやくたたずであることを認めることになってしまう。
    だから、できることといったら、ただうつむく以外なかったのです。

    皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
    このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあります。
    しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院様に及ぶかもしれない。

    おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
    「この歌の出詠は、
     あくまで私の独断で
     いたしたものとします。
     皇嘉門院様には
     決して咎が及ばないようにいたします」
    と、事前に許可を得ていたことでしょう。

    そして別当からこの申し出を聞き、許可した皇嘉門院も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。

    つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
    そういう戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。

    なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
    挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。

    「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
    日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。

    イザナギ、イザナミの時代から、男女は対等。
    それが日本の文化です。

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    何もかも捨てた先にあるものは、人によって違います。
    けれど、その「先にある」本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
    これが大事だよ、というのが『古事記』の教えかもしれません。

    「寒中禊会」神田明神
    20220910 禊
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    100点でなければてほんと?!
    得ることが幸せってほんと?

    そんなことを『古事記』を通じて考えてみたいと思います。
    先に答えを申し上げますと、それらは戦後の刷り込みにすぎない。

    大祓詞に「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓しましき」という言葉があります。
    『古事記』にそのまま載っている言葉です。

    「禊(みそぎ)祓(はら)い」というのは、
    「禊(みそぎ)」が「身を削ぐ」、つまりあらゆる欲を捨てること。
    「祓(はら)い」が「払い」で、汚れを落とすこと、といわれます。

    この言葉が出るのは、イザナギ神が黄泉の国から戻ったシーンで、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に戻られたイザナギ神は、そこでまず「禊(みそぎ)」をされます。
    どのようなことをされ、どのような欲が捨てられたのか。
    『古事記』は次のように書いています。

    まず、杖、帯、囊(ふくろ)、衣、 褌(ふんどし)、冠(かんむり)、 左手の手纒(たまき)、右手の手纒を次々に投げ捨てられました。
    すると、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)や、道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)など、ここで12柱の神様がお生まれになっています。

    その生まれた神々の名前をみると、衝立船戸は様々な障害物、道之長乳歯は長い道のり、時量師はすごした時間、和豆良比能宇斯は様々な患(わずら)い、道俣は道の分かれ目、飽咋之宇斯神は飽食、奧疎は疎(うと)んじてきたこと、奧津那芸佐は心の平穏と思っていたこと、奧津甲斐弁羅はやり甲斐と思っていたこと、辺疎はそれらの周囲のこと、辺津那芸佐は周囲の平穏、辺津甲斐弁羅は周囲の取り替えです。
    要するに、身の回りのすべてを投げ捨てられたという意味です。

    さらに中の瀬に潜ってすすがれることで、八十禍津(さまざまな禍(わざわ)い)、大禍津(おおきな禍い)、それらの禍いを治そうとされたときの、神直毘(神々による立て直し)、大直毘(おおいなる立て直し)、伊豆能売(それらによって起きたこと)を捨てられます。

    それだけではなく、水の中に深く潜って底津綿津見(そこつわたつみ)、底筒之男(なかつつのを)、つまり深層心理まで潜ってその中にあるすべてを捨てられ、水の中では中津綿津見(なかつわたつみ)、中筒之男(なかつつのを)、つまり中層意識にあるすべてを捨てられ、水の上では上津綿津見(うわつわたつみ)、筒之男命(うはつつを)、すなわち表層意識にあるすべてを捨てられます。

    要するに、何もかも全部、深層心理にまでをも捨て去られるのです。

    そこまでされたとき、左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から建速須佐之男命がお生まれになられたとあります。

    西洋のディープステイトと呼ばれる大金持ちさんたちがそうですが、一生かかっても使い切れないほどのお金を持ち、この世のありとあらゆる贅沢を独占していながら、さらにもっと彼らは欲しがっています。
    彼らにとっては、得ることが、幸せなのかもしれません。

    けれど日本では、神話の昔から、身を削ぎ、穢(けがれ)を祓いなさいと教えます。
    そして身を削ぐ(禊)は、イザナギの大神さえも、それまでに身に着けたすべてを捨て、さらに深層心理にまで立ち入って、あらゆるものを捨てています。
    そしてそのときに、かけがえのない最高神を得られています。

    つまり、かけがえのない最高のものは、何もかも捨てた先にある、ということです。

    このことは、まずは、得るために努力が必要であるということでもあります。
    若いうちから壮年期に至るまでは、あらゆるものを手に入れるために、精一杯の努力を重ねる。
    それは必要なことだというのです。

    けれど、そうした努力の果てに、すべてを捨てる。
    いちばん大切なものは、そうして「何もかも捨てた先にある」のだと『古事記』は書いているわけです。

    このことを「元々本々(もともとをもととす)」といいます。
    何もかも捨てた先にあるのは、もともとある大切なことだというのです。

    人として生まれ、いま生きているということは、生まれたときの母の愛、育ててくれた父の愛によります。
    我々は愛によって、いまこうして生かされています。
    あらためてその自覚を得たとき、世界が変わる。

    あるいは、何もかも捨てたとき、最後に残るのは「人」であり「仲間たち」であるのかもしれません。
    あるいはそれは、もしかしたら「知識」や「知恵」なのかもしれない。

    何もかも捨てた先にあるものは、人によって違います。
    けれど、その「先にある」本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
    これが大事だよ、というのが『古事記』の教えかもしれません。

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  • 苦労が育てた和泉式部の魂の歌


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    本日、倭塾を開催します。7月17日(日)13時半から。場所は富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
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      ───────────────

    百人一首に登場する百人の歌人のなかで「誰か一人好きな歌人は?」と聞かれたら、迷わずいの一番にお答えするのが和泉式部(いずみしきぶ)です。
    たぶん、同じ思いを持つ方は多いと思います。
    そしておそらく古今の歴史上、最高の歌人といえば、和泉式部を置いて他にない。
    そして、その和泉式部が、なぜそれほどまでの和歌を詠むことができるようになったのかといえば、もちろん才能もあったでしょうけれど、それ以上に彼女が本当に苦労したから。
    親も教育も人を育てるものですが、本当に人が育つのは、その人にとっての苦労です。
    そして苦労を、ストレスとするのではなく、試練とすることで、人が苦労を乗り越えて成長の糧(かて)にしてきたのが日本の文化です。さらにいうと、そんな苦労を乗り越えた先に、さらにすべてを捨て去る。
    何もかも失った先に、本当にたいせつなことに人は出会うことができると、そのように考えられてきたのです。
    ここに、古くて長い歴史を持ち、ひとりひとりを大切にしてきた日本文化の根幹があります。

    20170420 百人一首塾 和泉式部_th
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    和泉式部は平安日記文学の代表『和泉式部日記』でも有名な女性です。
    和漢に通じ平安時代を代表する女流文学者である和泉式部が、晩年、自らの死を前にして詠んだ歌が百人一首に収蔵されています。

     あらざらむこの世のほかの思ひ出に
     いまひとたびの 逢ふこともがな

    歌の意味は、
    「私はもう長くはいきていない(在らざらん)ことでしょう。
     けれどこの世の最後の思い出に、
     今一度あなたに逢いたいです」
    というものです。
    この時代の「逢ふ」は、男女が関係するという意味がありますから、ここでの「もう一度逢いたい」は、「あの人にもう一度逢いたい、抱かれたい」という意味が込められます。
    ストレートにも思える愛情表現です。

    それだけなら、「ああ、そういう思いもあるのだなあ」という程度の話にしかならないかもしれません。
    なかには「だから和泉式部はエッチな女性だったのだ」などと、下品な論評をしている先生もいます。
    和歌に少しでも興味を持ってもらおうという気持ちからだとお察ししますが、そこまで品を落とさなくても、和泉式部は、ちゃんと解説したら、誰もが感動する歌です。

    この歌で和泉式部は「あなたに逢いたい、抱かれたい」と歌っているわけですが、ところがこの歌を詠んだときの和泉式部は出家して尼さんになっていたのです。
    尼さんというのは、色恋を含めて俗世のすべてを捨てて御仏に仕える人です。
    そしてこの歌を詠んだとき、和泉式部は、すでに余命幾ばくもなく、相手の男性は、もしかすると既にお亡くなりになっている男性なのです。

    この歌は『後拾遺集』に掲載されているのですが、詞書(ことばがき)には次のように記されています。

    「心地(ここち)
     例ならずはべりけるころ、
     人のもとにつかはしける。」

    病に侵され、余命いくばくもない、あと何日かしたら自分は死ぬのだとわかったとき、彼女は自らの思いを歌に託して、親しい女友達にこの歌を送りました。
    誰に送ったのかはわかりません。
    おそらく誰にも言えないような本音を語れる数少ない親しい同性の友達に渡したのであろうとされています。
    ではいったい和泉式部は、何を思ってこのような歌を最後にのこしたのでしょうか。

    少女時代の和泉式部は、歌も漢詩もよくでき、字も美しく、将来を嘱望される「とてもよくできた女の子」であったと伝えられています。
    美人でかわいらしくて愛嬌があって、しかも勉強がよくできて、字もきれいで頭の良い。
    振り返ってみれば、みなさんにも小学校時代の同級生に、そんな子が身近にもいたのではないでしょうか。
    そんな彼女は、いつの日か自分のもとに美しい王子様があらわれて、きっと幸せな結婚をするのだと夢見る少女でもありました。

    けれど現実の人生というのは、意外と「しょぼい」ものです。
    二十歳になった彼女は、平凡な男性である橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚して、一女をもうけるのですが、漢学や和学の話を夫にしても、夫はそういう学問の話についてこれないのです。
    大好きな学問の話をしても、夫にはまるで通じない。

    彼女は夫とともに、任地である和泉国(いまの堺、岸和田市のあたり)に赴任するのですが(そのことがきっかけで、彼女は和泉式部と呼ばれるようになりました)、彼女の結婚生活は、必ずしも夢見ていた理想の生活ではなかったようです。
    任期が終わり、ようやく夫婦で再び都に舞い戻ってきた時、彼女は子を連れて、夫と別居してしまいます。

    ところがそんな彼女の前に、こんどは本物のプリンスが現れてしまうのです。
    それが冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(ためたかしんのう)です。
    「ソウル・メイト」というのかもしれません。
    二人はまさに「ひと目あったその日から」熱愛におちいってしまうのです。

    けれど和泉式部には、別居しているとはいえ夫がいます。子もいます。
    和泉式部の父親の越前守大江雅致(おおえまさむね)は、娘のこの交際に激怒しました。
    我が娘は人妻であり子もいながら、冷泉天皇の皇子と関係してしまったのです。

    「たいへんなことをしてくれた!」
    怒った父は、和泉式部に為尊親王(ためたかしんのう)と別れるよう説得します。
    しかし愛一色に染まってしまった和泉式部には、もはや殿下と別れるなど考えられないことです。
    思いあまった父は娘の和泉式部を勘当してしまいます。
    この時代、親子の縁を切られるということは、親から死んでしまえと言われるのと同じくらい重たい出来事です。

    それでも和泉式部は、為尊親王を愛しました。
    まさに全身全霊を込めて為尊親王を愛したのです。
    為尊親王も和泉式部に夢中でした。
    為尊親王には知性もあり、教養もあります。
    和泉式部は誰より美しく、しかも教養にあふれています。
    二人は、互いの会話も楽しくて仕方がない。

    してはいけない恋、禁断の恋、不倫の恋だということはわかっています。
    けれど、だからこそ、いけない恋は、麻薬のように人を狂わせ、夢中にさせます。
    逢ってはいけないと思うほど逢いたい。
    周囲の反対が強いほど、互いを意識し、求めあう。
    そういうことは、世の中によくあるようです。

    結局、和泉式部は離婚しました。
    そして為尊親王と暮らしはじめました。
    二人の愛は永遠に続くと互いに信じきっていました。
    ところが、その為尊親王殿下が、弱冠二十六歳でお亡くなりになってしまうのです。

    心の底から愛し、周囲の反対を押し切ってまで夢中になった彼が死んでしまう。
    何もかも捨てて和泉式部は為尊親王に自分を捧げていたのに、その彼が亡くなってしまう。
    和泉式部は、どうしたら良いのでしょう。

    悲嘆に暮れる和泉式部の前に、為尊親王の弟の帥宮(そちのみや)敦道親王(あつみちしんのう)が現れます。
    帥宮(そちのみや)は、とてもやさしく、兄の葬儀のときにも、まるで消えてしまいそうになっている和泉式部をみかねて、なんとかして彼女を元気付け、力づけ、彼女が再び生きる気力を取り戻してくれるように彼女を励ましてくれました。
    殯(もがり)の間も悲しみに暮れる和泉式部をなぐさめ、ずっとそばに寄り添ってくれたようです。

    自分も尊敬していた兄が愛した女性なのです。
    その女性が、見る陰もなく、やつれ果てて悲しみに沈んでいる。
    これを放っておくことができるほど、帥宮は冷たい男ではありません。

    帥宮は、和泉式部を気遣い、一度、和泉式部のもとに訪ねて行って、兄貴のために線香をあげたいと彼女に何度も歌を贈っています。
    けれど和泉式部にしてみれば、それはとってもありがたいお申し出ではあるけれど、いくら弟君とはいっても、相手は男性です。家に上げるのは気がとがめるし、まして愛した男性は為尊親王です。

    ですから和泉式部は、帥宮の来訪をお断りしました。
    けれどそうはいっても相手は宮様です。何度もお断りするのは、あまりにも失礼です。

    ある日彼女は、帥宮が自宅にお越しになることを承諾します。
    帥宮は、約束通り和泉式部を訪ねました。
    和泉式部を元気づけようとする帥宮は、兄の子供時代の楽しい思い出などを和泉式部に語ってくれたようです。
    兄は、二人にとって、共通の思い出の人です。二人の会話は弾みました。だって愛する為尊親王の、自分の知らない少年時代の思い出をお話してくださるのですもの。
    もっと聞きたいと思うのは、ごく自然ななりゆきです。

    気がつけば、もう夜中になっていました。
    そして、二人は、関係をもってしまいます。

    やさしい帥宮との出会いは、彼女に再び生きる気力を与えます。
    けれど彼女の心には葛藤があります。
    自分が愛したのは、兄の為尊親王なのです。
    いま自分を愛してくださっているのは、弟の帥宮です。
    その葛藤の半年を綴った日記が、有名な『和泉式部日記』です。

    彼女は、一生懸命に帥宮を愛しました。
    それは葛藤はあったけれど、帥宮のやさしさに包まれた、幸せな日々でした。
    ところが、その帥宮が、わずか二十七歳の若さで亡くなってしまうのです。

    和泉式部はどうしたらよいのでしょう。
    何もかも神は奪い去ってしまう。
    和泉式部の心中は察して余りがあります。
    和泉式部は、いまでいう引きこもりのような状態になってしまいます。

    そんな和泉式部を見かねたのが、一条天皇の中宮であられた藤原彰子(ふじわらのしょうし)です。
    彼女は兄弟の御子二人に愛された女性です。
    しかも和漢に通じた才媛です。
    引きこもらせておくのは、あまりに惜しい逸材です。

    中宮は、和泉式部の才を惜しまれ、彼女を自分の手元で宮中の仕事ができるように取りはからってくれます。
    これはとてもありがたいことです。
    和泉式部は、彰子のもとで働きました。
    それは、とっても誠実で、まじめなお勤めでした。

    けれど宮中の、それも女性ばかりの社会です。
    周囲の女性たちの和泉式部を見る視線はとても冷たい。
    紫式部が、和泉式部のことを次のように書いています。
    「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。
     されど和泉はけしからぬ方こそあれ」
    歌や書き物の才能は認めるけれど、人品行状が怪しからんというのです。

    せっかく中宮の好意で出仕させていただいた和泉式部ですが、周囲の視線は刺すように冷たいものでした。
    それでも和泉式部は中宮の好意を無にしないように、一生懸命勤めを果たしました。そしていつしか十年の歳月が経ちました。

    ある日、中宮のもとに、和泉式部をどうしても妻にもらい受けたいという男性が現れました。
    五十歳を過ぎで武勇で名の知られた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)です。
    和泉式部は、このときすでに三十代半ばです。
    当時の感覚としては、とっくに婚期を逸しています。
    「それでもよい」
    と藤原保昌は言いました。
    彼女の過去も全部知った上で、彼女を妻に迎えたいと言ってきてくれたのです。

    藤原保昌という人は、どちらかというと男性にはモテるけれど、女性にはトンと縁がない、そんな無骨者であったようです。
    けれど男らしいやさしさを持つ男でもあります。
    年齢も五十の坂を超え、人格にも深みと包容力が生まれています。
    人格識見身分とも、申し分のない人物です。
    つまり、これは良縁です。
    和泉式部は、世話になった中宮彰子の勧めもあり、藤原保昌と結婚します。

    藤原保昌は、男からみても、信頼出来る良い男です。
    人間としても完成された大人であったし、なにより和泉式部を心から愛してくれていたようです。
    二人の間には、ほどなくして男の子が生れます。
    夫の藤原保昌は、二人の間に出来た子も、和泉式部の連れ子の娘も、わけへだてなく愛してくれました。

    けれど和泉式部の心の中には、いまだに亡くなった為尊親王や帥宮がいます。
    ときに昔を思い出し、ひとり涙に暮れる日もあったようです。
    そんなとき藤原保昌は、すべてをわかって何も言わずに、黙って和泉式部の肩をそっと抱いてくれる、そんな夫でした。
    すべてをわかったうえで、夫は和泉式部を心から愛したのです。

    「そういう夫のやさしさに、自分もしっかりと答えていきたい」

    和泉式部は、一生懸命になって夫の藤原保昌を愛そうとしました。
    一番好きだった人には死なれてしまったし、次に現れたプリンスも亡くなってしまった。
    けれどいまの夫の藤原保昌は、そんな自分を、そして大切な我が子二人を心から愛してくれている。
    人として、そういう夫の気持ちにしっかりと応えて行くことが、いまの自分のつとめなのだ、和泉式部は、そう自分に言い聞かせていたようです。

    けれど、そう思えば思うほど、為尊親王や帥宮の面影が、ふとしたはずみに浮かんでは消えます。
    そうなると涙がとまらない。
    そんなとき彼女は、誰にも見つからないように、ひとりでひそかに泣きました。
    夫の保昌は、そんな彼女にちゃんと気づいていました。
    そして、知っていて、そんな彼女をやさしく包み込んでくれました。

    しかし、だからこそ彼女は自分の心が赦せない。
    夫のやさしさが、とっても残酷に感じてしまう。
    そんなとき、夫の保昌はいったいどうしたら良いのでしょう。

     ある日、保昌は、
    「妻をひとりにしておいてあげよう」
    と、しばらく家を空けて実家に帰ってしまいます。
    それは夫の妻を思いやる、男としてのやさしさです。
    けれどそのことが和泉式部には、夫に見捨てられてしまったように感じられてしまいます。
    そこで和泉式部は、縁結びの神様として有名な貴船神社にお参りに行きます。
    その参拝の帰りに、和泉式部が詠んだ歌があります。

     もの思へば 沢の蛍も 我が身より
     あくがれいづる 魂かとぞみる

    この歌には和泉式部の詞書があります。
    そこには次のように書いてあります。

     男に忘られて侍りける頃、
     貴船にまゐりて、
     御手洗川にほたるの
     飛び侍りけるを見て詠める

    和泉式部は、夫のおもいやりを、自分が夫に忘れられたと思えてしまったのです。
    だから貴船神社にお参りをしました。
    その帰り道、暗くなった神社の麓に流れる御手洗川に、たくさんのホタルが飛んでいる姿を見て、自分の魂も、もうこの肉体から離れて(死んで)あのホタルとなって、何も考えずに自由に飛び回りたい、そんな歌です。

    ところがこの歌を詠んだとき、和泉式部の頭の中に、貴船の神様の声がこだまします。
    その声を、和泉式部は歌にして書き留めています。

     奥山に たぎりておつる 滝つ瀬の
     たまちるばかり 物な思ひそ

    貴船神社の御神体は、神社の奥にある滝です。
    その滝が「たぎり落ちる」ように魂が散る、つまり毎日、多くの人がお亡くなりになっています。
    要約すると神様の声は、次のようになります。

     貴船神社の奥にある山で、
     たぎり落ちている滝の瀬のように、
     おまえは魂が散ることばかりを
     思っておるのか?
     人は、いつかは死ぬものじゃ。
     毎日、滝のように多くの人が
     様々な事由で亡くなっていることを
     お前も存じておろう。
     人は生きれば、いずれは死ぬのじゃ。
     おまえはまだ生きている。
     生きているじゃないか。
     生きていればこそ
     ものも思えるのじゃ。
     なのになぜお前は
     魂の散ることばかりを思うのじゃ。

    和泉式部は、夫のとの間にできた男の子が元服したのを機会に、そのやさしい夫である藤原保昌から逃げるように、夫に無断で、尼寺に入ってしまいます。
    彼女はそのとき、すでに四十七〜八歳となっていたようです(正確な年齢はわからない)。

    寺の性空上人は、和泉式部が髪をまるめたとき、自分が着ていた墨染めの袈裟衣を和泉式部に渡してくれました。そして、
    「この墨染の衣のように、すべてを墨に流して御仏にすがりなさい」
    と仰しゃいました。
    彼女も、その衣を着ることで、現世の欲望を絶ち、仏僧として余生を過ごそうと決意しました。

    こうして和泉式部は京都の誠心寺というお寺に入りました。
    この寺の初代住職が和泉式部です。
    ところが住職となって間もなく、彼女は不治の病に倒れてしまうのです。
    医師の見立てでは、あと二〜三日の命ということでした。
    そうと知った彼女は、病の床で、最後の歌を詠みました。
    それが冒頭の、

     あらざらむこの世のほかの思ひ出に
     いまひとたびの 逢ふこともがな

    です。
    彼女はその歌を、親しい友に託しました。
    人生の最後に、和泉式部が「もう一度逢いたい、そのあたたかな胸に抱かれたい」と詠んだ相手が誰だったのかはわかりません。

    彼女は亡くなりました。
    和泉式部は生前にたくさんの歌を遺しました。
    彼女の歌で、特に秀逸とされるのは哀傷歌といって、為尊親王がお亡くなりになったときに、その悲嘆の気持ちを詠んだ歌の数々とされています。

    けれど小倉百人一首の選者の藤原定家は、和泉式部を代表する歌として、彼女の晩年の最後のこの歌を選びました。
    歌に使われる文字は、たったの三十一文字です。
    そして、その歌にある表面上の意味は、たんに「もう一度逢いしたい」というものです。
    けれど、そのたった三十一文字の短い言葉の後ろに、ひとりの女性の生きた時代と、その人生の広大なドラマがあります。人の生きた証が、そこに込められているのです。

    戦前から戦中にかけて、学校の授業で古典和歌を学ぶときは、教師がこのようなお話をしてくれました。
    だから、生徒たちは誰もが、和歌に夢中になりました。
    そして日本人としてのやさしさや思いやりの心を身につけました。
    学校の授業は、単に知識を詰め込むだけのものではなく、そこに感動がありました。
    だから子供たちは、片道何キロもの道を歩いて毎日登校したし、田植えなどで親から学校を休むように言われると、泣いて学校に行けないことを悔しがったし、友達からその日の授業のノートを見せてもらい、先生のお話を友達に再現してもらったりしていました。
    そんな教育を、取り戻したいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

    さて、今日は「ここだけのお話」を書いてみたいと思います。
    謎解きのひとつの答えです。

     あらざらむこの世のほかの思ひ出に
     いまひとたびの 逢ふこともがな

    歌の意味は、「私はもう長くはいきていない(在らざらん)ことでしょう。けれどこの世の最後の思い出に、今一度、あなたに逢いたい」というものです。
    「逢」という字は、ただ会うのではなく、逢いたい、抱かれたいという意味が込められます。
    「では、和泉式部が最後に逢いたいと思ったそのお相手は、
     はたして、
     最初の夫の橘道貞でしょうか。
     為尊親王殿下でしょうか。
     それとも
     弟君の敦道親王殿下でしょうか。
     はたまた最後の夫である
     藤原保昌でしょうか。」

    というのが、実は私の講義などでは決まり文句(笑)で、そのお答えはこれまで示してきていません。
    ずいぶんと長い前置きになってしまいましたが、私なりの答えを書いてみたいと思います。
    もちろん、その答えが「正しい」ものであるかどうかは、わかりません。
    どこまでも答えは、和泉式部の心の中です。みなさまが、どのように思われるかは、それぞれ自由です。

    さて、その解答ですが、私はやはり歌の中にその解答を見出すべきであろうと思います。
    もういちど歌をよく見てみます。

     あらざらむ
      (私はもうこの世に居ないでしょう)
     この世のほかの
      (つまり「あの世」での)
     おもひでに
      (想い出の人に)
     いまひとたびの
      (もういちど)
     逢ふこともがな
      (逢えるといいなあ)

    このように読むことができます。
    最後にある「もがな」は、願望を表す終助詞で、「・・・になればいいなあ」といった感覚を表す言葉です。

    自分の死を目前にした和泉式部が、死ぬ前に逢いたいと詠んでいるのではなくて、実は、死んだ後に、あの世で誰かに「もう一度逢いたいなあ」と詠んでいるわけです。
    あの世での再会ですから、そのお相手は、和泉式部よりも先にお亡くなりになっている方であろうと思います。
    ということは、和泉式部があの世で逢いたいと詠んでいるお相手は、為尊親王か、弟君の敦道親王のどちらかです。

    もちろん、「あの世に行く前に思い出の人に」と解釈することもできます。
    そうなると、最初の夫の橘道貞か、最後の夫の藤原保昌、あるいはもっと別な男性(たとえば性空上人など)ということになります。
    しかしその解釈は、私は「ない」と思います。

    なぜなら、和泉式部が生きた時代には、「肉体には魂が宿る」ということがあたりまえの常識だったからです。。
    ですから和泉式部も、死ねば自分も肉体を離れて、もとの魂に戻ると考えていたであろうということは容易に想像がつきます。

    そして人の死に際しては、お迎えがあります。
    仏教では、そのお迎えは、阿弥陀如来様であったり、大日如来様、あるいは仏様であったりするわけですが、それだけではなく、先にあの世に行っている祖父母や両親、あるいは男性の場合であれば、先に逝っている戦友だったりもするわけです。

    魂の永遠を信じる和泉式部は、だから「大好きだった、想い出のあの人に、あの世で逢えたらいいなあ、きっと逢えるよね?」と詠んだと考えられるのです。
    そこには同時に、
    「逢えたらどうしよう。あの人は若いままなのに私はこんなに歳を重ねてしまった。」
    という女性らしい葛藤もあったかもしれません。

    けれど、死んで御霊となった和泉式部は、その瞬間に、もとの若くて美しいお姿です。
    そして思うのですが、和泉式部の御霊が、いよいよ肉体を離れたとき、きっとそこには、為尊親王殿下と、弟君の敦道親王殿下のお二人が、ニッコリ微笑みながら、和泉式部をお迎えに来ていたのではないでしょうか。

    「よく頑張ってきたね」と微笑む為尊親王。
    「兄貴、式部、よかったね」と二人を祝す敦道親王。
    そのとき和泉式部は涙でいっぱいになって、もうお二人のお姿が、まぶししすぎて、きっと何もみえなくなっていたことでしょう。

    その感動の中、
    「お母さん」と呼ぶ声がします。
    実は、和泉式部は、たいせつな娘の小式部内侍を、先に失っています。優秀であるがゆえに、周囲からイジメられ傷つけられた娘は、母より先に旅立っていたのです。
    和泉式部は、その娘(小式部内侍)を失ったときにも、まさに悲嘆としか言いようのない悲しみの歌を数多く残しています。
    ですから和泉式部の御霊が肉体を離れたとき、その場には、きっと娘の内侍も来ていたことと思います。
    二人の殿下との再会し、愛する娘との再会を果たした和泉式部。
    今度こそ、絶対に幸せを手放さないでね、と祈るような気持ちにさせられます。

    和泉式部の歌は、どの歌も、まるで空中を落下する水滴を、落下の途中でピタリと停めてしまうような鋭敏な美にあふれています。
    個人的には、おそらく和泉式部は、日本の歴史が生んだ、最高の女流歌人のひとりと断言できるほどと思います。

    とびきり美人で優秀で才能にあふれ、それだけに感受性が人一倍鋭かった和泉式部は、その美しさと豊かな感受性の故に、素晴らしい出会いを経験しています。
    けれど同時に、その愛を続けて二度も失い、さらに愛娘に先立たれるという悲しみを経験しています。
    苦労が人の魂を育てるのです。
    和泉式部は、女としての人生の悲しみの連鎖の中で魂を研いだのです。
    だからこそ和泉式部の歌は、千年の時を超えて褪せない虹彩(こうさい)を放つのです。

    逆にいえば、和泉式部の御霊は、そんな苦労の連続の中で、歌の才能を限界まで引き出すという苦難の道を、意図して選んでこの世に生まれてきたのかもしれません。
    そして為尊親王殿下の御霊は、そんな和泉式部の御霊の持つ願いを叶えるために、敢えて先立つという選択をしてお生まれになられて来られたのかもしれません。
    また敦道親王は、最愛の人を失うという死ぬより辛い目に遭った和泉式部の心が壊れてしまわないように、生前にしっかりと支えるためにと、生まれて来た御霊だったのかもしれません。
    そして小式部内侍は、母より先に旅立ちましたが、母の歌への想いを受け継ぎ、次の人生で、思う存分、歌人としての才能を開花させる、そんな選択をしたのかもしれません。

    実際のことはわかりませんが、私には、小式部内侍の歌風は、江戸時代の俳人の加賀の千代女の歌風と重なって見えるのです。

    男性の私としては、不器用ながら和泉式部を最後まで愛し続け、まもりとおそうとした最後の夫の藤原保昌と「逢いたい」と言ってもらいたかったという気持ちがあります。
    けれど保昌は、妻の求める幸せの半分も満たすことはできなかったかもしれないけれど、彼は式部との間に、男子を得ることができました。
    だから彼はそれで良いとしなければならなかったのかもしれません。

    ここまで書いたときに、日頃お世話になっている安田先生から、次のご指摘をいただきました。

    「最愛の人の子を生むのではなく、
     最初と最後の夫となってくれた人の子を授かる。
     これも神のお計らい=神意でしょう。
     神仏はちゃんと彼らにも救いをもたらしたのですね。」

    さきほど「苦労が人を育てる」と書きました。
    けれど、すこち違うかもしれません。
    むしろ、
    「苦労が『魂』を育てる」のです。

    『古事記』の大国主神話は、どんな苦労があっても、愛する者のために戦うとき、必ずそこに道が開けると教えてくれます。
    しかし和泉式部は、とびきりの美人で才能あふれる女性として生まれ、愛する人に身も心も捧げながら、その愛する人を幾人も失うという悲しみの人生を歩みました。
    しかしそうすることによって、彼女は魂を研(と)ぎ、千年経っても色褪せずに私達の胸を打つ歌をのこしました。
    そしてその歌が、なぜ私達の心をうつのかといえば、彼女の歌が、ただ肉体の持つ「心の歌」の域を越えて、「魂の歌」にまで昇華しているからではないでしょうか。

    だからこそ藤原定家は百人一首の編纂に際して、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」と詠んだ和泉式部の最期の歌をこそ、百人一首に収蔵したのではないでしょうか。

    百人一首に登場する百人の歌人のなかで「誰か一人好きな歌人は?」と聞かれたら、迷わずいの一番にお答えするのが和泉式部(いずみしきぶ)です。
    たぶん、同じ思いを持つ方は多いと思います。
    そしておそらく古今の歴史上、最高の歌人といえば、和泉式部を置いて他にない。

    そして、その泉式部が、なぜそれほどまでの和歌を詠むことができるようになったのかといえば、もちろん才能もあったでしょうけれど、それ以上に彼女が本当に苦労したから。

    親も教育も人を育てるものですが、本当に人が育つのは、その人にとっての苦労です。
    そして苦労を、ストレスとするのではなく、試練とすることで、人が苦労を乗り越えて成長の糧(かて)にしてきたのが日本の文化です。さらにいうと、そんな苦労を乗り越えた先に、さらにすべてを捨て去る。

    何もかも失った先に、本当にたいせつなことに人は出会うことができると、そのように考えられてきたのです。

    ここに、古くて長い歴史を持ち、ひとりひとりを大切にしてきた日本文化の根幹があります。


    ※この記事は2017年4月の記事のリニューアルです。

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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