• 日本文化の源流


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    我が国の文化は、わずか数百年の底の浅い文化ではありません。
    1万7千年前の縄文の昔からずっと続いてきた文化であり、そのエッセンスです。

    20151218 紙芝居古事記
    画像出所=https://www.amazon.co.jp/dp/B00O7NLPPU/ref=as_sl_pc_qf_sp_asin_til?tag=nezu34-22&linkCode=w00&linkId=c1e7831f8c19f4a3ade8569028c350e6&creativeASIN=B00O7NLPPU
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    記紀では、神代において、自分のことを「吾(あ)」、相手のことを「汝(な)」と呼びます。

    「吾(あ)」は、上を向いて「あ」と発声したらわかりますが、内側から出て広大な宇宙とつながる音です。
    「あ」の身には、広大な宇宙とつながる「霊(ひ)」が備わっています。
    ですから「あ(自分)」は、単に自分を意味する一人称ではなく、自分のなかにある広大な神聖を意味します。

    二人称である「汝(な)」は、「核となる重要なもの」を意味します。
    たとえば「なら(奈良)」は、「神聖な(な)、場所(ら)」です。
    だから、「なら」は「みやこ」です。

    ちなみに「みやこ」の「み」は敬いを表す接頭語、「や」は「屋根のある建物」、「こ」は「米蔵」のことですから、「みやこ」は人々の生活に欠かせないお米を貯蔵し、いざ災害というときに、被災地の人たちが飢えに苦しむことがないように、しっかりと面倒を見るたいせつな場所を意味します。
    このあたりが、単に王の御在所を言う「Capital」と異なるところです。
    「Capital」の語源は「頭(caput)」で、要するに一番えらい人がいる場所を言うだけです。

    日本の文化は、王侯貴族が主役ではなく、どこまでも庶民が主役です。
    ですから庶民が豊かに安心して安全に暮らすことができるように努めるのが臣(おみ)の勤めです。
    「臣(おみ)」は、「御身(おみ)」ですから、人々の身を守るのが役割です。
    庶民の霊(ひ)を守るのは、天につながる天子様のお役目です。
    庶民が感謝を捧げることで、皇臣民がすべてつながります。

    その「あ」が、相手に向かって、「汝(な)は誰(たれ)そ」と問うとき、それは単に「あなたは誰ですか?」と聞いているのではありません。
    神聖で広大な霊(ひ)を持つ「吾(あ)」が、相手を神聖なるものと認め、名を問うています。
    それが「なはたれそ」です。
    相手の神聖を認めているのです。

    「あ(自分)」と「な(相手)」が一緒になると、「わ(和・輪)」となります。
    簡単に図式化したら、
     「あ」+「な」=「わ」
    です。

    「わ」は、たくさんあって、ひとつのものです。
    ですから、海の波は「わ」です。
    海の大神の名は「わたつみ(和多都美)の大神」です。

    また日本書紀ですと、イザナギの別名が「あわなぎ(阿和那伎)」です。
    いまあるたくさんの神聖な「あ」たちのおおもとだから、「あわ」です。
    一点から生じて、無限のあわとなるわけです。
    私たち後世を生きる、つまりイザナギ以降に生まれたすべての人々のおおもとが「あわなぎ」です。

    最新の物理学の世界では、並行宇宙(パラレルワールド)なるものが、まるで泡立つように無限にこの世界に存在し、素粒子はその泡のひとつから、別の泡へと移動することができる、と説明されているのだそうです。
    そうした最新の物理学の理論と同じことを、古事記も日本書紀も、「あわ」という一字一音一義の大和言葉で表現していたのかもしれません。

    「あわなぎ(阿和那伎)」の「あわな」は、「あ」と「な」がつながって「わ」となっているさまです。
    「き(ぎ)」は、神聖なエネルギーです。
    つまりイザナギの別名である「あわなぎ」は、
    「神聖(あ)と神聖(な)との和(わ)を結ぶ神聖なエネルギー(き)」です。
    私たちと神々とをつなぐ御存在だということです。

    ちなみにこれが「イザナギ」ですと、
    「イ」 伝える
    「サ」 おだやか
    「ナ」 神聖な
    「キ」 エネルギー
    となり、神々の神聖でおだやかなエネルギーを伝える存在といった意味になります。

    イザナミですと、「み」が「身」ですから、神々から授かった神聖でおだやかな身を、後世に伝える存在という意味になります。

    我が国の文化は、わずか数百年の底の浅い文化ではありません。
    1万7千年前の縄文の昔からずっと続いてきた文化であり、そのエッセンスです。


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  • もろともにあはれと思へ山桜  花よりほかに知る人もなし


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    辛さを知る人が自分一人しかいなかったとしても、
    たとえ、心が折れてしまったとしても、
    あの折れた山桜のように、立派に花を咲かせていく。
    行尊の歌は、そんな、人生の辛いときにこそ、心に沁みる歌です。

    前大僧正行尊(冷泉為恭による絵)
    前大僧正行尊



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    もうすぐ桜の季節です。
    盛大に春爛漫と咲き乱れる桜の花見どころの桜も素敵ですが、山中にたった一本、ひっそりと咲き乱れる桜もまた、風情があって素敵です。
    そんな山桜を歌った和歌が百人一首の中にあります。
    とっても良い歌ですので、ご紹介してみたいと思います。

     もろともにあはれと思へ山桜
     花よりほかに知る人もなし


    前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)の歌です。
    百人一首では66番歌です。
    行尊は、後に園城寺(おんじょうじ)で大僧正を勤めた人です。

    園城寺は修験道のお寺です。
    滝に打たれたり、お堂に篭ったり、山登りしたり、とにかく霊力を得るためにありとあらゆる荒行が行われる、厳しい修行のお寺です。
    行尊はその園城寺に12歳で出家して寺入りしました。
    つまり行尊は、青春の全てを園城寺での修行に費やしたのです。
    ですから若い行尊にとって、園城寺は青春の全てだったし、行尊の人生の全てでもありました。

    ところが行尊26歳のとき、その園城寺が全焼してしまいます。
    原因は放火です。
    犯人は比叡山延暦寺の僧兵でした。
    何もかも全部焼かれてしまいました。

    どうしてそのようなことになったのかというと、実は延暦寺も園城寺も、ともに天台宗ですが、延暦寺がインドからChinaを経由して渡ってきた、いわば正当派を主張する寺院であるのに対し、園城寺は天台の教えに我が国古来の神道の教えを融合させようとしたお寺であったからです。
    延暦寺を信望する一部の僧には、これがおもしろくない。
    園城寺は邪道だというのです。

    それが言論だけのことであれば問題はありません。
    しかし当時の延暦寺はたくさんの荒ぶる僧兵を抱えていました。
    なかには、信仰心が薄く、ただ暴れたいだけの修行の浅い僧もいたのです。
    そうした痴れ者が、園城寺の焼き討ちをしてしまったのです。

    なんでもそうですが、学習や修行が進んでいくと、ものごとの違いがよく見えてきます。
    より尖鋭化していくのです。
    ところがそうした時期を通り過ぎると、今度は異なると思っていたこととの相互の連関が理解できるようになります。
    つまり対立的思考を乗り越えることができるようになるのです。

    このことは子供の成長にも似ています。
    小学生のうちは、自分と他人の区別があまりよくわかっていません。
    ですから「みんな仲良くするんだよ」と先生に言われれば、言葉の額面通りにみんなが仲良くすることができます。
    ところが中学生くらいになって思春期を迎えるようになると、自他の区別がつくようになり、親との共生関係から離れて同性との仲間関係を築き、異性との関わり方を学び、年齢や価値観が異なる集団での振る舞い方を学ぶことができるようになり、他者との違いが意識できるようになります。

    そしてこの時期から、より自分に近いものに、強烈な対抗心を抱いたりします。
    不良と呼ばれる子が、他校の不良にことさら対抗心を燃やしたりするのも、同じ不良というカテゴリーの中にあることが理由となるわけです。(おもしろいもので、自分とかけはなれたものには、人は対抗心を持ちません)

    それが大人になると、異なる価値観を持つ相手を容認し、かつ、そうした人たちとともに、ひとつの大きな仕事を仕上げていくことができるようになります。
    つまり人の心は、個体から、個体間の対立へ、そして共存へと発達していくわけです。

    そうした次第ですから、比叡山は立派なお寺ですし、たくさんの修行僧を抱えるお寺であるがゆえに、修行の浅い僧の一部は、身近な同じ天台でありながら、比叡山とは修行の仕方が異なる園城寺が許せなくなる。
    それが結果として、焼き討ち、という、とんでもない行動へと発展してしまったわけです。

    しかしこのことは、園城寺の修行僧たちからすれば、死活問題です。
    なぜなら、寺が焼けるということは、寺に備蓄してあった食料も焼けてしまうことを意味しているからです。
    行尊たちは、ただ焼け出されただけではなくて、その日から、着替えもなく、飯も食えない状態になったのです。

    焼け出された園城寺の僧たちは、全員で黙って、近隣に托鉢(たくはつ)に出ました。
    托鉢というのは、各家を周って寄付を募る活動です。

    こうして托鉢に出ていた若い行尊は、ある春の日に、吉野から熊野にかけての山道を歩きながら、山中で一本の山桜を見つけたのです。
    その山桜は、前年の台風で、風になぎ倒されて、折れて倒れてしまった木です。
    けれどその山桜は、折れて倒れながらも、なんと満開の桜を咲かせていたのです。

    この歌には『金葉集』(521)の詞書に、「大峰にて思ひがけず桜の花を見てよめる」とあり、二首の歌が掲載されています。

    《詞書》
    (山桜が)風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを

     折りふせて 後さへ匂ふ 山桜
     あはれ知れらん 人に見せばや

     もろともにあはれと思へ山桜
     花よりほかに知る人もなし

    深い山中で花を咲かせても、人の目にとまるわけでもないし、誰一人「きれいだね」と褒めてくれるわけでもありません。
    風雨に晒され幹が折れてもなお花を咲かせている、そんな生きようとする健気な姿も、誰も見てくれる人などいません。
    けれどそれでも、その山桜は精一杯、満開の桜を咲かせているのです。

    自分たちも、誰も見ていないところで厳しい修行に明け暮れてきました。
    誰が褒めてくれるわけでもない。
    厳しい修行を、むしろあたりまえのこととして、必死になって頑張ってきた。
    けれど、その拠点となる寺を、理不尽な暴力によって失ってしまった。

    でも、だからといって、暴力に暴力で対抗したところで、そこに残るのは、恨みの連鎖でしかありません。
    いま、自分たちに必要なことは、何もかも失ってしまったあとで、もういちど、寺を再建すること。
    愚痴や泣き言を言ってもはじまらない。
    またいちから、いつもの通りの托鉢をして出直すだけです。

    誰が同情してくれるわけでもない。
    それでも頑張る。
    それでも人の良心を信じる。
    托鉢を続ける。
    そうすることで寺を復興させる。

    だって、あの山桜だって、倒れてもめげずに立派に咲いているではないか。
    山桜にできて、俺たちにできないなどということもあるまい・・・・。

    たった一本の山桜の姿に、心を動かされた行尊は、仲間たちとともに托鉢を続け、立派に園城寺を再建します。
    そして厳しい修行を再開し、行尊は優れた法力を身につけ、白河院や待賢門院の病気平癒、物怪調伏などに次々と功績を挙げ、修験僧としての名を高めていきました。
    そして園城寺の権僧正にまで上っていくのです。

    ところが行尊67歳のとき、園城寺は再び延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちにあってしまいます。
    寺は再び全焼しました。
    このときもまた、行尊らは高齢となった体を、一介の托鉢僧にして、全国を歩き、喜捨を受け、再び寺を再建しています。

    数々の功績を残した行尊は、僧侶の世界のトップである大僧正の位を授かるにまで至りました。
    そして81歳でお亡くなりになりました。

    亡くなるその日、行尊はご本尊の阿弥陀如来に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら、目を開け、座したままの姿であの世に召されて行ったと伝えられています。
    まさに鬼神のごとき大僧正の気魄でした。

    オオヤマザクラ
    山桜0422


    園城寺、そして行尊の偉いところは、延暦寺の僧兵たちに焼き討ちに遭ったからといって、報復や復讐を考え行動するのではなく、むしろ自分たちがよりいっそう立派な修験僧になることによって、世の中に「まこと」を示そうとしたところにあります。
    誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、山桜のようにただ一途に自分の「まこと」を貫いて精進していく。
    この歌には、そんな決意さえも、しっかりと込められているのです。

    ちなみみ最近の百人一首の解説本では、どの本を見ても、
    「この歌は山中で孤独に耐える山桜に共感した歌」としか書いてありません。
    本によって表現こそさまざまですが、いずれもこの歌は「孤独や寂寥感」を詠んだ歌だとしか解説していません。
    それはそれで、ひとつの鑑賞だと思います。
    けれど、日本文化は、その奥にまた、おもしろさがある。
    その深みこそ、日本の古典文学のたのしさだと思います。

    人は、生きていれば、耐え難い理不尽に遭うことが、必ずあります。
    多くの場合、そのとき人は何もかも失います。
    それは「生きていても仕方がない」とまで思いつめてしまうほどの大事であったりもします。
    けれど、そんなときこそ、

     もろともにあはれと思へ山桜
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    辛さを知る人が自分一人しかいなかったとしても、
    たとえ、心が折れてしまったとしても、
    あの折れた山桜のように、立派に花を咲かせていく。
    行尊の歌は、そんな、人生の辛いときにこそ、心に沁みる歌なのではないかと思います。

    というよりも・・・・
    もっと簡単に言ったらこの歌は、

    「俺たちはな、
     幹が折れたって
     立派に咲くんだ。
     山桜なんかに
     負けてられっかよ!」

    と歌っています。
    それこそが日本人の心意気です。


    ※この記事は『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』の記事を再編集したものです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 人はいさ 心も知らず ふるさとは


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    好きな女性の笑顔は、
    年配の男性にとって、
    「心の宝」であり、「心のふるさと」

    長谷寺(奈良)の梅
    20220301 長谷寺と梅
    画像出所=http://710ichibou.blog.fc2.com/blog-entry-342.html
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    そろそろ梅が咲き始めました。
    梅花といえば、最近はすっかり令和の歌「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」が有名になりましたが、筆者の好きな歌は、紀貫之です。

     人はいさ 心も知らず ふるさとは
     花ぞ昔の 香ににほひける

    この歌は、紀貫之が奈良の長谷寺に参拝したときに、近くの宿屋で詠んだ和歌です。
    長谷寺というのは、奈良・大和路にある有名な「花の寺」です。
    長谷観音とも呼ばれます。
    ご本尊の十一面観世音菩薩は、その姿を33種に変えて、求めに応じて救いの手を伸べてくださる慈悲深い菩薩様で、人々の願いを叶える慈悲深い御仏様です。
    要するに長谷寺は、願いを叶えてくれるお寺として、全国から参拝客が絶えなかったお寺です。
    しかもこの季節、梅花の名所でもありました。

    いまから千年前のこと、京の都に住む紀貫之(きのつらゆき)が、梅の季節にその長谷寺に詣でました。
    奈良に来るたび使っていた宿屋に着くと、そこの女将が、
    「あら、紀貫之様。
     お久しぶりでございますわね。
     私もずいぶんと歳をとってしまいましたが、
     このように宿は昔のままでございますわ」

    すると紀貫之は、なにやらサラサラと歌を書き、
    その歌に、入り口にあった梅の小枝を、一輪添えて女将に手渡すのです。
    そこには、
    「人はいさ心も知らずふるさとは
     花ぞ昔の香に匂ひける」
    と書かれていました。

    女将は、「あたしが歳をとって容姿が衰えたから、紀貫之様は、しばらく来なくなったの?」
    と言っているわけです。
    ところがこれに対し紀貫之は、
    「他人様のことなんて知らないよ。
     でもさ、俺にとってのふるさとは、
     変わらぬ梅花の香りと同じ
     昔のままのお前の笑顔なんだぜ」
    と、梅花を添えて詠んだわけです。

    歌の解釈は、それぞれの自由です。
    ですから多くの先生方が、この歌に詠まれた相手を、宿屋の女将であり、紀貫之は、その女将と「できていた」と解釈したりしているようです。
    けれど私は、紀貫之は、女将の笑顔の中に、都に残してきた意中の女性の笑顔を重ねたのであろうと読んでいます。

    昔は通い婚社会ですから、意中の女性というのは、妻ということになります。
    女性はいくつになっても、自分の容姿を気にします。
    けれど男性にとっては、本当は見た目の容姿より、大好きな女性の笑顔こそ心の宝です。

    近年の脳科学の研究で、性欲と愛情とでは、脳の別な場所が反応していることが確かめられたそうです。
    女性は、自分の若さや容姿の美しさをとても気にするけれど、男性にとって大切なのは、昔と変わらない、相手の女性の笑顔です。
    もちろん誰しも歳をとります。
    けれど、好きな女性の笑顔は、年配の男性にとって、「心の宝」であり、「心のふるさと」なのです。

    紀貫之の歌は、そういう大人の愛を、梅の花の香りに託して詠んだ、これまた名歌だと思います。
    この歌は、百人一首の中に選歌されています。


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  • 右大将道綱母


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    百人一首にある右大将道綱母の歌
     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る
    この歌は、ただやみくもに、寂しいと泣いている女性の姿の歌ではありません。
    強い信念をもって、女の戦いを立派に果たして行った、一人の美しい乙女の、心のつよさを詠んだ歌です。

    20170121 トンボ3
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    右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)というのは、平安中期に正二位大納言にまで昇った藤原道綱の生母のことです。
    この女性の歌が、百人一首53番にある次の歌です。

     嘆きつつ
     ひとり寝る夜の
     明くる間は
     いかに久しき
     ものとかは知る

    藤原道綱母は、衣通姫(そとおりひめ)、小野小町(おののこまち)と並ぶ、本邦三大美女のひとりです。
    ちなみに世界三大美女といえば
     クレオパトラ
     トロイヤ戦争のギリシャのヘレネ
     楊貴妃
    と言われていますが、この3人、3人ともに、あまりに美人であったために、国を傾け、城を滅ぼしてしまっています。
    だから美女のことを、傾国(けいこく)とか、傾城(けいせい)と呼びます。
    美しすぎるがゆえに、男の心を溶かし、国を傾けてしまうというわけです。

    これに対し、本邦三大美女は、いずれも外見も美しかったでしょうけれど、それ以上に心根の美しさが高く評価された美女です。
    衣通姫は、古事記に描かれた女性で、一大恋愛叙事詩の主人公となっている女性です。
    5世紀のはじめ、第19代允恭天皇の時代、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と恋におち、二人は激しく歌の応酬をするのですが、最後は遠隔地に飛ばされた木梨軽皇子のもとに行き、二人で心中しています。
    この悲恋の物語は、「ひなぶり」といって、宮中の楽舞にもなりました。

    小野小町は、これは有名です。9世紀の女性です。
    今日のお題の藤原道綱母は、10世紀の女性です。
    『蜻蛉日記(かげらふにっき)』の著者としても有名です。

    生まれは承平六年(936年)、没が長徳元年(995年)、享年は59歳であったと伝えられています。
    父は正四位下・伊勢守の藤原倫寧(ともやす)です。
    この父は、いまでいうなら、地方の税務署長を転任し続けた人で、もちろん一般世間の目でみれば、大成した人になるのですが、中央の朝廷内においては、地方回りの出世競争からは落第した、いわば下級官吏のように見られていた人でした。
    ところがその娘は、たいへんな美人であったことから、政界の実力者である藤原師輔(もろすけ)の息子の藤原兼家(かねいえ)の目にとまり、その夫人になるわけです。

    夫である藤原兼家は、他にも妻がいて、子供もいました。
    その子が後年、藤原氏の全盛時代を謳歌した藤原道長です。
    道長といえば、
     この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
     かけたることも なしと思へば
    の歌で有名ですが、この道長が文学を愛したおかげで、紫式部や和泉式部などの女流文学が花咲く時代を迎えたりしています。

    さて、このような情況の中で、兼家は道綱母を見初めるわけです。
    すでに兼家は結婚して、子供もいるとはいえ、当時は一夫多妻制ですし、子供はよく死んだのです。
    ですから家柄を維持するためには、なんとしても、男の子がほしいし、それも万一の場合の保険といったら語弊があるかもしれませんが、ある程度数をつくっておかなければならないという事情もありました。
    ですから、正妻がいても、他の女性と関係を持ちます。

    そして、通い婚社会ですから、男性が、女性の家に通いました。
    女性の家というのは、当然のことですが、その女性の両親が一緒に住んでいます。
    親は、もちろん、誰が通ってきているのか承知しています。
    道綱母の実家の両親からしてみれば、娘が兼家の子を得るということは、一門の大出世と、娘の幸せの両方をいっぺんに手に入れることになります。
    ですから、当然、娘には、「早く子を!」と願ったことと思います。

    ところが、子が、できないのです。
    兼家は、相当、この道綱母を気に入っていたらしく、三日に空けず通っていたのですが、それでも子が生まれない。
    子がなければ、いつ捨てられても仕方がないというのが、側室の辛いところです。
    ですから、道綱母の立場は、その時点では、相当微妙なものがあったわけです。

    そんなときに詠まれた歌が、今日のお題の
     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る
    です。
    ざっと意味を現代語訳しますと、
    「悲しみを抱いてひとりで寝る夜の夜明けまでの間の時間がどんなに長いものか、あなたはご存知かしら」といった意味になります。

    当時の道綱母の不安を象徴している絵があります。
    それが下の絵です。

    20170121 石山寺縁起絵巻


    この絵にまつわる物語が、道綱母の書いた『蜻蛉日記』の「石山詣」にあります。
    いつものねず式で、おもいきった現代語訳をしてみます。

    「でね、その日はとっても暑い日だったのだけど、
     石山寺に十日くらい行っちゃえって思い立ってさ、
     こっそり行っちゃえって思ったから、
     兄弟にも知らせずに明け方に走って出発したんだ。

     賀茂川のほとりまできたときには、追いかけてくる人もなくて、
     有明の月がとっても明るかったけれど、道行く人もなくてね、
     河原には死人が伏せてるよなんて、前におどかされていたけど
     恐ろしいって感じることもなかった。

     栗田山あたりまできたとき、
     ずっと小走りだったからちょっと苦しくなって、
     少し休んだら涙がこぼれてきたわ。
     変な女よね。
     道行く人は、どう思ったか知らないけど、
     みんな、ただ黙って通り過ぎて行った。

     山科あたりまで来たとき、空が明るくなった。
     道行く人って、どうしてあんなに足が速いのだろう。
     みんな私のことを追い越して行く。

     午後の遅い時間になって、ようやく石山寺に着いた。
     お寺の休憩所で、横になれる設備があったので、
     行ってすこし横になったのだけど、そこでもずっと泣いていた。

     夜になって、軽食をとったあと、御堂に上った。
     悩みごとを仏さまに申しあげようとしたのだけれど、
     涙があふれて言葉にならなかった。

     本堂で泣き明かして、明け方になって下がって、すこしまどろんだ。
     そのとき、この寺のお坊さんと思しき人が、
     銚子に水を入れて持って来てね、私の右膝にかけたの。
     おどろいて、目を覚ました。
     仏は、何をおっしゃりたかったのだろうと考えていたら、
     また悲しくなった。」

    ここにある「お坊さんが右膝に水をかけた」というシーンが、上にある絵になっているわけです。
    上の文に、石山寺に行くのに、早朝、夜明け前に家を出て、午後の遅い時間になって、やっと寺に着いたという描写があります。
    京都にある道綱母の家から石山寺までは、およそ23キロの道程です。
    当時の貴族の女性ですから、わずかな供回りの人を連れて、牛車か輿に乗って石山寺に向かったのかもしれないし、あるいは徒歩であったのかもわかりません。
    いずれにせよ、23キロといえば、女性の足で休憩を入れて8〜9時間の道程です。

    では、どうして道綱母は、そんなにまでして、石山寺詣をしたのでしょうか。
    しかも文からすると、なにやら悲壮感さえも漂っています。

    実は、その石山寺、聖武天皇の勅願による天平19年のご創建で、後年、紫式部が源氏物語の執筆のために篭ったことでも有名なのですが、その御本尊は如意輪観世音菩薩です。
    この菩薩は、懐妊と安産の仏様です。
    つまり道綱母は、このとき、どうしても懐妊したくて、意を決して石山詣をしているわけです。

    では、今日のお題の歌、
     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る
    は、どのようなシチューションで詠まれた歌なのでしょうか。
    実は、そのことも、『蜻蛉日記』に書かれています。
    これまた、ねず式で現代語訳してみます。

    「九月になって夫の藤原兼家が出て行ったときにね、
     文箱があったので、ほんのてなぐさみに、その箱を開けてみた。
     そしたら中に、他の女性に贈る手紙があった。
     あさましいこととは思ったわよ。
     でも、その手紙を見てしまったの。
     だってこんなところに他の女性に渡す文があるということは、
     もう私のもとに通わないってことかもしれないって思ったの。
     
     そういえばね、十月の中頃にも、
     三夜続けてお帰りにならない日があったわ。
     そのときは彼はつれなく、
     「ちょっとしばらく(外泊を)試してみただけだよ」
     なんて言ってた。

     こないだのときは、夕方近くに
     「内裏(だいり)に用事があるから」って出ていったわ。
     あれって思ったから、家人に命じて後をつけてもらったの。
     そしたら内裏じゃなくて、町の小路に車をお停めたって。
     「やっぱり」って思った。
     とっても悲しかった。
     だからといって、なんて夫に話したら良いかも分からない。

     二、三日たったとき、明け方に門をたたく音がした。
     夫が帰ってきたと分かったわ。
     でも、気が進まなくて門を開けさせないでいた。
     そしたら例の家とおぼしきところに帰って行ったわ。

     翌朝に、このままではいけないと思って、
       なげきつつひとり寝る夜のあくるまは
      いかに久しきものとかは知る
      って、いつもよりもすこしあらたまって書いて、
     夫の寝ている枕元に飾ってあったすこし色褪せた菊に、
     この歌を挿しておいた。
     夫から返事がきたわ。

      げにやげに
      冬の夜ならぬ槙の戸も
      遅く開くはわびしかりけり

     (そのとおりだよ。
      冬の夜が明けるのを待つのはつらいものだが、
      冬の夜でもない槙の戸がなかなか開かないのも
      またつらいものだよ)
     と書かれてありました。

     それにしても、ここまで怪しいことをしておいて、
     しかも度々他の女のもとに通っているのに、
     ちょっとは内裏に本当に行ったりして
     取り繕ったりもすればまだ可愛げがあるのに、
     そんなことすらもしようとしないなんて、
     ますます不愉快な思いが、限りなく続いてしまう。」

    つまりこの歌は状況から、どうやら嫉妬を詠んだ歌のようにみえます。
    普通、嫉妬に身を焦(こ)がした女性の様子を「美しい」とは言いません。

    ところがこの歌を詠んだときの道綱母は、十八歳頃です。
    まだ子はいません。
    翌年には一人息子の道綱が誕生しているのですが、先ほども申しましたように、当時は通い婚社会です。
    そして身分ある人は、血を絶やさないために、複数の子をつくらなければなりません。
    夫の藤原兼家にしてみれば、いくら道綱母のことを愛していたとしても、子づくりのためには、他の女性のもとに通わなければならないのです。

    一方、道綱母にしてみれば、親からも「早く子を」とせっつかれています。
    ですから本人にも焦りがあります。
    兼家のことが大好きという気持ちもあります。
    だから兼家の行動は、頭では理解できるのです。
    でも、つらい。

    実は、そんな気持ちの日常を綴った文学が、彼女が書いた『蜻蛉日記』です。
    「かげらふにつき」と読みますが、かげろうというと、なんとなくイメージは「ウスバカゲロウ」の消えてしまいそうな、か細いイメージかと思います。
    けれど、そっちのカゲロウは、漢字で書いたら「蜉蝣」です。
    彼女の日記は、「蜻蛉」です。
    これは「かけらふ」とも読みますが、もともと、トンボのことです。
    つまり、『蜻蛉日記』は、実は「トンボ日記」なのです。

    そのトンボですが、トンボは飛行中に空中に前進だけでなく停止することができます。
    けれど、後ろには下がれない。
    そこからトンボは古来、勝ち虫と呼ばれ、何があっても前に進む、決して後ろに下がらないことの象徴として、特に武人に愛された生き物です。
    戦国武将の前田利家の兜(かぶと)は、だから黄金のトンボです。

    つまり道綱母は、
    「どんなに辛かったり悲しかったり悔しかったりして、
     泣いてばかりの日々であったとしても、
     私は絶対に後ろに引き下がらない」
    という固い決意を持っていたから、日記のタイトルを「ドンボ日記」としているのです。

    そういう意味からすると、石山詣にしても、どうしても懐妊したい。子がほしいという願いであったとわかります。
    けれど、それでも、不安がある。

    上にある石山寺縁起絵巻の絵柄で、お坊さんが道綱母の右足に水をかけていました。
    実は、その右足の膝の痛みというのは、昔から、「逃げたい、見たくない、コワイ、不安などの霊障によるものとされてきたのです。
    そこに石山寺のお坊さんが水をかけたというのですが、寝ている布団の上から水をかけたら、布団が濡れてしまいます。
    つまり、これは彼女の夢なのです。
    そして夢の中で、観世音菩薩が、お坊さんの姿になって出てこられて、右膝の痛み、つまり彼女の不安や逃げ出したいと思う気持ちを洗い流してくれたのです。

    彼女は、このあとすぐに妊娠しています。
    つまり石山寺は、見事な霊験があったわけで、これはお寺の宣伝になりますから、その様子が絵巻にまでなっているわけです。

    人であれば、誰もが不安な気持ちや、悲しい気持ちを味わうものです。
    毎日はそんな繰り返しかもしれません。
    けれど、それでも強くあろう、前向きであろうとし続けた。
    その毎日を彼女は日記として綴り、これが『蜻蛉(トンボの)日記』として世に出たのです。

    『蜻蛉日記』は、源氏物語や枕草子よりも少し前の女流文学になります。
    女流日記文学としては、これが日本最古(つまり世界最古)の文学です。
    そしてその日記は、世の多くの女性たちに勇気を与え、私も書いてみたいと思う女性たちによって、平安女流文学の花咲く時代が到来しています。

    彼女は、生まれた子をたいへんに可愛がったのでしょう。
    成人したときの彼は、すこしおっとりとした性格の子に育ったようです。
    そんな我が子に、父の兼家は宮中において、意図して出世を遅らせました。

    これは、ある意味、やむをえない措置です。
    異母兄弟の長男の道長は、嫡子ですから、当然、みるみるうちに出世させて高い地位に就けます。
    しかし、異母兄弟の次男まで同じように出世させたら、宮中を私物化していると、余計な詮索をされることになります。
    ですから、道綱は、下級役人、しかも今風に言ったら、軍隊に入れています。

    軍というところは、男たちの殿堂です。
    気の荒い男もいます。
    ですから道綱は、兵たちに侮られないようにと弓を猛特訓しました。
    そしてついには、当第一の弓の名手とまで呼ばれるようになるのです。
    そして人柄の優れた道綱のもとには、道綱のためなら死んでも良いとまで言ってくれる部下たちが集いました。
    だから寛和の変(986年)が起きた時、彼はいちはやく兵をまとめて、父の危機を救っています。

    そうなると、兼家からすれば、道綱は「俺の命を救ってくれた男だ」ということになります。
    彼を出世させ、重用しても、どこからも苦情は来なくなる。
    こうして道綱は、いっきに従三位に昇進、頭角を現し、大納言に至り、兄の道長を助けて、藤原氏の栄光の時代を築いていきます。

     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る

    この歌は、ただやみくもに、寂しいと泣いている女性の姿の歌ではありません。
    強い信念をもって、女の戦いを立派に果たして行った、一人の美しい乙女の、心のつよさを詠んだ歌です。


    ※この記事は2017年1月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    以前、赤穂浪士に対する幕府の処分のことを書いたときにも申し上げましたけれども、国の行政機構が、権威を持つ機構なのか、権力だけに頼る機構なのか、そこには雲泥の差があります。

    一般に国家の三要素は、
     1 領域(Staatsgebiet:領土、領水、領空)
     2 人民(Staatsvolk:国民、住民)
     3 権力(Staatsgewalt)
    とされていますが、この「3」の権力にある「Staats-gewalt(スターツ・ゲバルト)」は、「Staats(スターツ)が国家、「gewalt(ゲバルト)」が権力を意味します。

    「gewalt(ゲバルト)」というのは、暴力を意味する単語でもあります。
    同じドイツ語でも、権力のことを「macht(マクト)」と書くなら、それは実行力を意味することになるのですが、国家権力が「ゲバルト」であるということは、西洋では、国家そのものを、(諸説ありますが)ある種の暴力装置とみなしているといえるのかもしれません。

    要するに「権力=暴力」であるわけで、一定の領域内に住む人々を暴力で支配するというのなら、それは日本で言えば、ヤクザのシマと何ら変わりがないことになります。

    しかし我々日本人の感覚としては、暴力団の縄張りと、国家の領域は、まったく意味が異なります。
    我々日本人にとって国家機関とは、あくまで行政(治世)機構のことです。
    ですから日本人にとっての国家要素は、暴力ではなく、「民衆に対する責任ある行政を行う政府」がこれに代わります。

    ということは、日本人は政府に責任を求めていることになります。
    これは当然のことで、権力があるということは、当然、その権力の大きさに応じた責任を伴うものと考えられるからです。
    日本人にとっては、それは、ごく自然な、ごくあたりまえのです。

    少し考えたらわかることですが、権力に責任を求めるということは、上に述べた国家の三要素のうちのひとつが「暴力(権力、ゲバルト)」である社会では、成立しません。
    なぜなら、暴力を振るうことに責任を取ることなど、世の中にありえないからです。
    だから暴力というのです。

    早い話、他所の国に核爆弾を2発も落として幾十万の民衆を殺しても、そのことに責任をとった大統領は、誰もいません。
    むしろ無理やり、それを正当化してしまうのが、まさにゲバルト政府そのものであるわけです。

    チャイナの政府は、まさにそのゲバルト政府をそのまま地で行っている政府ですし、米国政府は、一応はキリスト教によって暴力が否定されるという前提を持ちながら、やはり政府そのものはパワーであり、そのパワーの最大のものが国家権力であり、その本質は、ゲバルトにあります。

    私は個人的には寅さんが好きですが、その寅さんと売電陣営の確執の本質にあるものは、キリスト教的正義の観点と、政治的はパワーだとする主義との対立であり闘争といえます。

    ここで注意が必要なことが、「キリスト教的正義」という点です。
    正義そのものは責任を伴いません。
    正義を実現するために用いられるのがパワーなのであって、正義(ジャスティス・Justice)そのものは、責任を伴わない。
    あるのは奉仕だけです。

    この点を、古代において政治的に明確に分離したのが日本社会です。
    これはすごいことです。
    なにしろいまから1300年前に、我が国は、国家最高の存在から暴力(ゲバルト)を切り離すことに成功し、それをいまでも保っているのです。

    この、権力を持たない国家最高の存在が、国家最高権威です。
    権威はオーソリティ(Authority)と訳されますが、バワーを持たない国家最高権威を成立させるのは、これがなかなか困難なことです。

    なぜなら、パワー勝負の世の中にあって、パワーを超える存在の前に誰もがひれ伏す社会体制を実現するのです。
    できそうでできることではありません。
    実際、多くの国では、これを宗教的権威に頼ろうとして失敗しています。
    なぜ失敗したのかというと、その権力に承認を与える宗教的権威が、唯一絶対神でならなければならなかったからです。
    これはそうでなければなりません。
    なぜなら、王に権威を授ける神が、「いや、他にも神様はいるし」てなことになったら収拾がつかない。
    結局、正義を貫くためには、パワーに頼るしかなく、そのパワーの実現の方法は、ゲバルトしかなかったわけです。

    ところが日本の古代の凄みは、ここに時間という概念を持ち込んだことです。
    「古いものに価値がある」としたのです。
    そのために、神話を整理統合して日本書紀をつくり、また百年以上前からの歌を整理統合して万葉集の編纂を行いました。
    両者とも、何十年もの歳月をかけて編纂したものです。
    これは時間をかけて、全国の諸豪族の意見も入れながら、繰り返し繰り返し内容の調整を図ることで、編纂したのです。

    日本書紀は企画から完成まで、まる40年かけています。
    ということは、親の代、祖父の代からずっと編纂が続けられてきたものです。
    ようやく日の目を見ることになったとなれば、全国の誰もが歓迎します。
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    こうすることで、日本は、国家権力と国家最高権威の分離を実現しました。

    そんなことを成功させることができたのは、世界の数千年の歴史に登場する数多(あまた)の国家の中で、なんと日本、ただ一国です。
    日本人は、このことの持つ意味の重要性を、あまりに軽く見すぎています。

    日本は天皇のシラス国です。
    このことの意味を国民(臣民)の常識に取り戻すことこそ、日本が変わり、世界が変わり、そして人類社会が次元上昇するための第一歩です。


    ※この記事は2021年1月の記事の再掲です。
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    昔から「人は、本当に好きな人とは一緒になれない」といいます。
    それもまた、神々が人に与えた試練なのかもしれません。
    これをお読みの方の多くが、右近とまではいかなくても、若いころの結ばれなかった恋や、悲しい別れの思い出をお持ちであろうと思います。
    そんな恋の記憶のある方なら、このときの右近の気持ちも、敦忠の仕事一途に打ち込んだ気持ちも、きっとわかっていただけると思います。

    冷泉為恭の描いた右近



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    百人一首38番歌 右近
     忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
     人の命の 惜しくもあるかな

    右近(うこん)は、平安中期の女流歌人です。
    父親が右近衛少将だったことから、宮中では右近と呼ばれました。
    右近がまだ十代の頃、藤原敦忠という宮中の貴族と深い恋仲になりました。

    敦忠は、時の最高権力者である藤原時平の三男です。
    若い頃から楽器が得意で、その演奏は、聞く人の心をとろけさせるような妙味のある男性でした。
    楽器をよくする男性は、今も昔も女性に人気です。

    右近と敦忠は熱愛になるのだけれど、その敦忠はあるとき、第60代醍醐天皇の皇女である雅子内親王(がしないしんのう)に恋をしてしまいます。
    ところがこの頃の敦忠は、まだ身分は従五位下です。
    宮中での位が低い。
    いくら父親が大物であったとしても、息子に実力がなければ、そうそう簡単には出世はさせてもらえないことは、今も昔も同じです。

    そこで周囲の人たちは935年、雅子内親王を、京の都から伊勢神宮の斎宮(いわいのみや)に送ってしまいます。
    斎宮(いわいのみや)は、伊勢神宮において天照大御神の依代をする女性で、代々皇女から選ばれました。
    この時代の斎宮は、伊勢で500人の巫女を配下に持つ、とびきりのお役目で、当然、男性との恋愛は絶たれます。

    この時点で敦忠29歳、雅子内親王25歳です。
    「身分が違うから引き離された」
    そう思った敦忠は、
    「ならば、その身分に引き合う男に成長してみせる!」
    と決意しました。
    そして彼はその日から、仕事の鬼となりました。
    誰よりも早く登朝し、誰よりも遅くまで働き、誰よりもたくさんの仕事をこなし続けました。

    敦忠は出世しました。
    もともと頭もよく、俊才で、見栄えも良い男です。
    翌年には左近衛権中将兼播磨守に任ぜられ、939年には従四位上参議に列せられ、942年には近江権守、942年には従三位権中納言に叙せられます。

    しかし彼の仕事へのあまりに過度な執着は、彼の肉体を蝕みました。
    943年の暮には体を壊し、桜の散るころには彼は衰弱して、病の床に伏せるようになりました。

    そんな敦忠のもとに、一首の歌が届けられました。
    それは、かつての恋人である右近からのものでした。

     忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
     人の命の惜しくもあるかな

    (あなたは私のことなど、もうすっかりお忘れになっていることでしょう。
     けれど、あなたが病の床に臥せっているとうかがいました。
     どうか一日も早く、お体を回復されますように)

    この時代、歌を送られれば、歌をお返しするのが礼儀とされた時代です。
    けれど敦忠から右近へ返歌は、ついに届くことはありませんでした。
    敦忠は、返歌を詠む前に、あの世に召されてしまったのです。

    右近にとって、敦忠は、同じ宮中にありながら、すでに遠い人になっていました。
    それでも敦忠を忘れられない右近には、敦忠が雅子内親王への断ち切れない慕情から、無理に無理を重ねて仕事の鬼となっている様子がはっきりとわかっていたのです。
    「あんなに無理をしていたら、
     きっとお体にさわります」
    右近にとって敦忠への想いは、ただ遠くから見守ることしかできないものとなっていたのです。

    そうして十年の歳月が経ちました。
    そして敦忠が病の床に臥せってしまったとき、心配で心配でたまらない右近は、ある日、意を決して、敦忠に歌を送りました。
    そのときのことが大和物語に書かれています。
    たったひとことです。

    「かえしはきかず」

    つまり「返歌はなかった」のです。
    返歌を書く前に敦忠は亡くなってしまうのです。

    そんな右近の歌と、敦忠の歌は、両方とも百人一首に掲載されています。
    右近の歌は、実に真っ直ぐで一途な愛なのです。

    そうそう。この歌について、私の私塾で講義をしたとき、ある方が次のように言っていました。
    「敦忠が出世できたのは、もしかしたら右近の一途な気持ちを周りの人も知っていて、それでも一心に仕事に励むからだったのではないでしょうか。」
     なるほど!と思わず膝を打ちました。それは大いにあることだからです。狭い世間です。周囲はみんな敦忠のことも右近のことも知っています。そして雅子内親王との別れを経験した後の敦忠を、右近が一心に思っていれば、周囲は、あんなにまでして独りの女性に愛される男なら、やはり仕事の能力だけでなく、人としての魅力もある男なのだろうと考えるし、それが昂(こう)ずれば、右近の想いを断ち切ってまで仕事に打ち込む敦忠には、自然と同情が集まります。
    そしてこのことは、「そんなに一生懸命に仕事をする男なら、では出世させてやろうか」という上司たちの思いを誘うことは十分にあるからです。

    昔から「人は、本当に好きな人とは一緒になれない」といいます。
    それもまた、神々が人に与えた試練なのかもしれません。
    これをお読みの方の多くが、右近とまではいかなくても、若いころの結ばれなかった恋や、悲しい別れの思い出をお持ちであろうと思います。
    そんな恋の記憶のある方なら、このときの右近の気持ちも、敦忠の仕事一途に打ち込んだ気持ちも、きっとわかっていただけると思います。


    ※この記事は2018年12月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 赤穂浪士外伝 天野屋利兵衛は男でござる


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    「町人なれども天野屋利兵衛、
     思い見込んで頼むぞと、
     頼まれましたお方様には
     義理の二字がございます。
     これで白状したのでは
     頼まれました甲斐がない。
     天野屋利兵衛は、男でござる〜!」

    20171206 天野屋利兵衛
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    上にある絵は、以前にもご紹介したことがあるのですが、同じ役柄でも演じる役者が違うと、全然イメージが違ってしまうものだと感心します。
    天野屋利兵衛(あまのやりへい)は、赤穂浪士の物語に登場する商人です。
    実在の人物で、大阪北町の惣年寄を勤め、京都の椿寺にお墓もあります。

    もともと赤穂藩とは取引はなかったのですが、赤穂浪士の討ち入りに賛同し、早い段階から浪士たちを支援し、討ち入りに際しては槍20本を作って捕縛されています。
    このとき、自白のために拷問を受けるのですが、断固として自白を拒否し、討ち入り後になって、ようやく自白をしたことが、当時の記録に書かれています。

    このことが『仮名手本忠臣蔵』にも採り入れられ、商人でありながら口を割らずに拷問に耐え抜いて、
    「天野屋利兵衛は男でござる」
    と述べたという名セリフが、ひとつの泣かせどころになっています。

    そこで今回は(って、毎年この時期にやっていますが)、この天野屋利兵衛の物語を『仮名手本忠臣蔵』からご紹介したいと思います。
    (正確には、『仮名手本忠臣蔵』では「天河屋義平(あまかわやぎへい)として登場しますが、いまでは本名の天野屋利兵衛の方が通っていますので、以下の文も、天野屋利兵衛に統一して書き下ろします。)

     ****

    <第十段 天野屋利兵衛>

    はてさて、五代目天野屋利兵衛の時代、大きな海難事故があって、店の商売が傾いてしまったとき、助けてくれたのが藩の財政を立て直したばかりの「赤穂塩」でした。
    天野屋は「赤穂の塩」の江戸への廻船を一手にに手掛けるようになり、家業が見事に再興します。
    ところが元禄13年、赤穂のお殿様である浅野内匠頭が、江戸城内で刃傷沙汰を起こす。
    藩はお取り潰しです。
    天野屋にしてみれば、これは一大事です。

    そんなある日、天野屋のもとに元赤穂藩城代の大石内蔵助がやってきました。
    「はてさて、このたびは残念なことになられましたなあ」
    「いや、天野屋には苦労をかける。
     そこでじゃ、ひとつ頼みがあるのじゃが」
    「へい。何でございましょう」
    「内密での、刀身が短く身幅の広い刀を
     50本ばかり用意してもらえぬか」
    「・・・・・・」

    それは「もしかすると討ち入りのご覚悟で?」とは聞けません。
    聞いても答えてくれないことです。
    討ち入りは天下の御法度。
    それに協力したとなれば、天野屋利兵衛にも咎(とが)が及びます。
    (大石様は、それを気遣ってくださっている)
    そうとわかれば天野屋利兵衛、
    「わかりました。何も聞かずにお引き受けいたしましょう」
    と答えます。

    そもそも「刀身が短くて身幅の広い刀」というのは、屋内用の戦いに用いるものです。
    しかも乱戦となり、相手の人数が多いときを想定した武器です。
    屋内は屋根が低くて、柱もあります。
    ですから普通の長さの大刀では、上段からの打ち込みは天井に当たるし、横に払えば柱に刃が食い込みます。
    「槍の身幅が広い」というのは、乱戦で刀と刀が打ち合ったときに、折れない、曲がらないようにするための工夫です。
    つまり大石内蔵助は、明らかに吉良邸討ち入りを前提とした刀を求めにやってきたと、この短い会話ですべてわかってしまうのです。

    時は元禄、5代将軍綱吉の治世です。
    綱吉といえば、「生類憐れみの令」が有名です。
    この令は、天下の悪法だったとか、これによって綱吉は「犬公方」とアダ名されたと言われますが、この「生類憐れみの令」は、幕末まで幕府から何度も出されています。
    要するに、ただ犬を殺すなといっているのではなくて、犬でさえ殺してはならないのだから、まして人を殺すことなど、もってのほか、ということを御法度にしたものです。

    武士は刀を持つし、町人でも長脇差を腰に付けた時代です。
    喧嘩でその刀が抜かれれば、人の命が失われます。
    だから、一切御法度なのです。
    けれども武士は、治安を預かる身です。
    ときに応じては、刀を抜かなければなりません。
    だから武士は腰に大小二本の刀を差しました。
    一本は、正義を貫き、不条理を許さず相手を斬り伏せるため、もう一本は、その後に人を斬った責任をとって腹を切るためです。

    そういうご時世ですから、討ち入りともなれば天下の大罪です。
    この時代の堀部安兵衛の高田馬場の決闘は有名な事件ですが、仇討も御禁制でした。
    ですから他にする人がいなくなっていたから、その事件が際立ったのです。
    まして集団で主君の仇討など、絶対に認められない。
    まして幕府にしてみれば、万一大規模な刃傷沙汰が起こったとなれば、将軍は天皇から治安を預かっている総責任者です。
    つまり、事件が起これば、下手をすれば将軍の責任問題にまで発展してします。
    だから討ち入りなど、まったくもって承服できないという立場です。

    こうした時代背景にあって、天野屋利兵衛が赤穂の浪士たちの武器の調達を手伝ったとなれば、それは「共犯者」ということになります。
    当然、処罰の対象となる。
    「討ち入りとまでは知らなかった」では済まされないのです。
    つまり、天野屋の身代は、これで終わりになるかもしれない。

    しかしその天野屋利兵衛の前で、世話になった元赤穂藩城代家老が、頭を下げているのです。
    しかも天野屋利兵衛を男と見込んで秘事を打ち明けてくれている。
    考えた末、天野屋利兵衛は、内蔵助の依頼を承諾しました。

    依頼を受けた利兵衛は、取扱商品の中から、まず最高の鉄を探しました。
    調べてみると、岡山県の最北端にある西粟倉の若杉村のハガネが上質です。
    刀鍛冶職人も探しました。
    秘密が守れて、若杉村に長逗留できる職人となると限られます。
    ようやく3人の刀鍛冶職人の手配がつきました。
    さらにできあがった刀を研ぐのに用いる磨草に、播州徳久の庄から、大量の磨草を求めました。
    ヤスリも植物性のものが最良だからです。

    そして利兵衛は、湯治(とうじ)と称して刀鍛冶を連れて岡山の若杉村に入りました。
    自ら刀つくりの監督をしたのです。
    こうして刀作りに励むのですが、あまり若杉村にばかり居続けると、警戒しているお上に睨まれもします。
    ですから利兵衛は、大阪の店に戻っては、また湯治と称して岡山に出かけました。

    利兵衛があまり頻繁に湯治に出かけるため、ある日、妻のおかよが「何処の湯治場へ行かれるのですか」と尋ねました。
    これが上杉家の密偵に洩れます。
    密偵は但馬の若杉村まで行って事実を確認しました。

    ところがその密偵は、「武器製造の噂は嘘でした」と上杉家に報告します。
    密偵もまた人の子です。
    天皇のシラス国を護るために命を的にした浅野内匠頭や、赤穂藩にむしろ同情的だったのです。

    元禄15年7月、ようやく槍ができあがりました。
    問題は、その槍をどうやって運ぶかです。
    利兵衛は槍をこの地の産物である山芋に見立て、ススキ(茅)で編んだ包に入れて浪速(なにわ)まで運搬します。
    おかげで、いまでも西粟倉村のあたりは、別名「大茅(おおかや)」と呼ばれています。

    利兵衛は、山道の間道を選びながら海へ出て、そこから海路で江戸に槍を運びました。
    それは西粟倉村から224里、約900kmの旅です。
    ところが無事に内蔵助に刀を届けた利兵衛は、浪速に戻ると大阪西町奉行に逮捕されてしまうのです。
    容疑は、大量の武器製造です。

    奉行所では、注文主の名を白状せよと、天野屋利兵衛を拷問しました。
    青竹で皮膚が破れて肉が割れ、ギザギザの上に正座をして石を抱かされて向こう脛(すね)の骨が折れても、天野屋利兵衛は吐きません。
    そこで奉行所は、利兵衛の子の芳松(よしまつ)を捕らえてきて、天野屋利兵衛の目の前で芳松に対して火責めの拷問にかけると言い渡します。
    年端もいかない芳松を、真っ赤に焼けた鉄板の上で裸足で歩かせるというのです。

    我が子が火攻めにかけられる!
    目の前で可愛い我が子が恐怖に怯えています。
    天野屋利兵衛は息子に言いました。
    「芳松!、
     笑ってその鉄板(てついた)を渡っておくれ。
     私も死んで、一緒に死出の旅では、
     おまえの手をひいてあげるから!」
    「ええい、まだ言うか!」と声を荒げる役人に天野屋利兵衛は言いました。
    これがこの物語の「決め」のセリフです。

    「町人なれども天野屋利兵衛、
     思い見込んで頼むぞと、
     頼まれましたお方様には
     義理の二字がございます。

     たとえ妻子がどのような
     火責め水責めに合うとても、
     これで白状したのでは
     頼まれました甲斐がない。
     天野屋利兵衛は、男でござる〜!」

    そこに利兵衛の離縁した女房のおかよがひったてられてきました。
    利兵衛は、自分の変わり果てた姿を見たり拷問にかけられそうになっている息子を見たら、きっと女房が余計なことを喋るにちがいないと心配します。
    「お奉行さま、この女は発狂しておりまする。
     だから離縁したのでございます!」

    ところが状況を見かねたおかよが、これまでの浅野家と夫の関係をしゃべってしまいます。
    ところがこれを聞いた大阪西町奉行は、しだいにおかよが語る利兵衛の様子に心を打たれてしまうのです。
    おかよの話がいよいよ核心に触れそうになったそのとき、奉行は言います。
    「おかよと申すその方、
     利兵衛の申す通り、
     お前はすでに気が違ごうておる。
     何を言っているのかまるでわからぬ。
     取り調べはこれにて終わりに致す」
    それは、奉行に利兵衛の心が通じた瞬間でした。

    討ち入りの後、奉行は「取り調べれば忠義の邪魔」と、利兵衛を釈放します。
    利兵衛は、家督を芳松に譲り、76歳でこの世を去りました。

    大石内蔵助は、利兵衛から武器を受け取った際、涙を流しながら一片の色紙を贈りました。
    そこには、次のように書かれていました。

    「町人ながらも義に強く、
     意地を通じて侠気(おとこぎ)の
     武士も及ばぬ魂は
     亀鑑(きかん)と代々に照返す」

    亀鑑(きかん)というのは、人のおこないの手本や模範のことです。

    と、話はここで終わりなのですが、ほんのちょっとだけ、余計なことを書いておきます。
    鹿児島の高崎弥生さんは元陸軍兵士で、先の大戦が押し迫った頃、北満洲にあった石頭予備士官学校の候補生でした。
    南下するソ連軍に対し、この予備士官学校の生徒たちは、胸にダイナマイトをくくりつけてソ連製のT型戦車に飛び込んで、戦車を破壊するという、なんともすさまじい戦いを繰り広げ、高崎さんは、そのごくわずかな生き残りとなった方です。
    その高崎さんが、満洲でまだ軍に採られる前、満鉄で働いていた頃のお話です。

    高崎さんは、本業の満鉄の仕事に従事するかたわら、戦地にいる兵隊さんたちのために慰問袋をこしらえて、幾度も戦地に送っていました。
    ところが高崎さんのお名前が「弥生(やよい)」であことから、慰問袋に書いた名前で女性と間違われて礼状をもらってしまいます。

    戦地の兵隊さんを落胆させてもいけないと、女性社員に代筆を頼んで返事を書いてもらったところ、なんと今度はその人からプロポーズされてしまいます。
    どうしようかと思い悩んでいたところ、ある日、その人が思い詰めて高崎さんを訪ねてきてしまいます。

    仰天して逃げ回ったけれど、ついにとっつかまってしまう。
    仕方がないので、ご本人の前に出て、
    「高崎ヤヨイは、男でござる!」

    もちろん、この決め台詞は、赤穂浪士の天野屋利兵衛が元ネタです。
    いまとなっては笑い話かもしれないけれど、いつ死ぬかもしれない戦地の兵隊さんの真剣な気持ちと、あたたかな心のこもった慰問袋をめぐるひと騒動であったかと思います。


    ※この記事は、2015年12月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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