• 山上憶良の貧窮問答歌


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    ものごとには常識というものがあります。中央から派遣された筑紫の国司の山上憶良が、「私の治世で筑紫の民衆がこんなに貧しくなりました」などという馬鹿げた長歌など、詠むわけがないのです。そこに気がつけば、時代背景から、この歌に詠まれた貧困に追い落とされた民衆が、どこの国の人たちのことであるのかは、誰でもすぐに気がつけることです。


    20221214 貧窮問答歌
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    山上憶良の『貧窮問答歌』は、『万葉集』の巻五に載録されている長歌です。
    上の絵にもありますが、おそらくみなさんも一度は、
    「この歌は律令体制下の民衆の貧窮ぶりと
     里長による苛酷な税の取り立ての様子を
     写実的に歌った万葉集の有名な歌です」

    などと、教わったことがあろうかと思います。

    日教組系の教師になりますと、この『貧窮問答歌』を子供たちに全文暗誦させることまでしていた教師もあると聞きます。
    要するに、日本が昔、どれだけ庶民からひどい搾取をしていたかの、これが証拠だから暗記しろ!というわけです。
    実は、私も、暗記させられた組です。
    ところが不思議なことに、古典の成績は決して悪くはなかったのですが、この暗記だけはまったくできない。
    結局テストでは、その問題だけ白紙答案で、学年順位を下げた遠い記憶があります。

    ところが、いまあらためてこの歌を読み返してみると、どうにも不思議なことがあるのです。
    というのは、まず、この歌が成立したのは、山上憶良が筑前の国司をしていた天平3〜5年(731〜733)頃のことです。
    筑前(いまの福岡県)の国司ということは、筑前の全行政に責任を追う者であるということです。
    そして民衆が貧しい生活を強いられているとするならば、その責任は当然、全責任を負う国司の責任問題となります。
    筑前の国司が、わざわざ、「ウチの国はこんなに庶民が貧乏です」と自慢するかのような歌を読むでしょうか。
    またそのような歌を万葉集が掲載するでしょうか。

    国司というのは、中央から派遣された、いまでいう県知事です。
    戦後の体制の中にあっては、県知事は、その県の人達が選挙によって選ぶとされていますが、戦前までは、古代王朝時代に倣って、中央からの派遣でした。

    江戸時代においては、地方の総責任者である大名は、参勤交代で年替わりで江戸詰めでしたし、大名同士で、血縁関係を結ぶなどしていましたから、全国のお殿様たちは互いによく知る間柄でした。
    どうしてこのような、県知事同士が互いに顔見知りの親しい関係であることが求められたかというと、そこに大きな理由があります。

    日本が「災害大国」だからです。
    万一、自国全域が何らかの災害や凶作で食糧不足に陥った場合、豊作となった他国から、お米を融通してもらわなければならないし、またその逆もあるわけです。
    畿内が凶作でも、関東が豊作なら、関東からお米をまわす。
    関東が凶作で、畿内が豊作なら、畿内からお米を融通してもらう。
    日本全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように、そうやって互いに助け合うことができる体制を、社会的な仕組みとして保持しておかなければ、我が国では人が生き残ることができないのです。
    そしてこのことは「日本全国天下万民がひとつ屋根の下で暮らす家族のようになって」と述べられた神武天皇の日本建国の詔に記されたことでもあります。

    ♪トントントンガラリっと隣組〜〜
    という発想は、何も隣近所のことだけでなく、大名同士、国司同士で、国を越え地域を越えて助け合いを行なう。
    それこそ、災害列島で生き抜く、生活の知恵であり、日本の知恵であったわけです。

    国司は、税を取りますが、払う側からしてみれば、凶作などのいざというときには、自分たちが払った何倍ものお米を支給してもらえることになるのです。
    その意味では、国司というのは、災害対策保険事務所の所長さんみたいなものといえるかもしれません。

    国司たちは、青年期までを中央で過ごします。
    そして成人すると、国司の助手として地方勤務になり、長じて国司を拝任します。
    つまり、全国の国司同士は、互いによく知る間柄であるわけです。
    こうした人間関係が、いざというときに、どれだけ多くの人の命を救うことになるか。

    災害は、凶作だけでなく、地震や津波、水害、土砂災害、大火災など、多岐にわたります。
    そして被災すれば、復興に莫大な費用と人手がかかるし、復興するまでの民衆の食の確保は、本当に大切な課題といえるのです。

    「そうしなければ、日本列島では生きていくことができない」
    このことは、我が国の歴史を考える上において、とても大切なことです。

    では『貧窮問答歌』を読んでみます。
    わかりやすいように、現代語に訳したものを、先に掲げます。

    *****
    『貧窮問答歌』山上憶良 万葉集巻五

    風交(ま)じりの雨が降る夜や、
    雨交じりの雪が降る夜は
    どうしようもなく寒いので
    塩をなめながら
    糟湯酒(かすゆざけ)をすすり、
    咳をしながら鼻をすする。

    少しはえているヒゲをなでて
    自分より優れた者はいないだろうと
    うぬぼれているが

    寒くて仕方ないので
    麻の襖(ふすま)紙をひっかぶり
    麻衣を重ね着しても
    やっぱり夜は寒い

    俺より貧しい人の父母は
    腹をすかせてこごえ
    妻子は泣いているだろうに

    こういう時、あなたはどのように暮らしているのか。

    天地は広いというけれど
    私には狭い。
    太陽や月は明るいというけれど
    我々のためには照ってはくれない。

    他の人もみなそうなんだろうか
    それとも我々だけなのだろうか

    人として生まれ
    人並みに働いているのに
    綿も入っていない
    海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけ

    つぶれかかった家
    曲がった家の中に
    地面に直接藁(わら)を敷いて

    父母は枕の方に
    妻子は足の方に
    私を囲むようにして
    嘆き悲しんでいる

    かまどには火の気がなく
    米を炊く器にはクモの巣がはり
    飯を炊くことも忘れてしまったようだ

    ぬえ鳥のようにかぼそい声を出していると
    短いものの端を切るとでも言うように
    鞭(ムチ)を持った里長の声が
    寝床にまで聞こえる

    こんなにもどうしようもないものなのか
    世の中というものは。
    この世の中はつらく
    身もやせるように
    耐えられないと思うけれど,
    鳥ではないから
    飛んで行ってしまうこともできないのだ


    *******

    ご一読しておわかりいただけるように、あまりに悲惨な民衆の姿が描かれています。
    その民衆は、いったいどこの国の民衆なのでしょうか。

    従来説では、これは「筑前の民衆の生活を描いたものだ」というのが定説です。
    しかし山上憶良は、筑前の国司です。
    つまり筑前の民衆の生活について、全責任を担った筑前の長です。

    その筑前守が、「俺の国の民衆は、こんなに貧窮しているのだ」と、自慢気に歌を遺すでしょうか。
    それでは筑前の国司が、自分の責任を全うできていない、自分は国司として能無しであるということを、世間にアピールするようなものです。
    果たして、筑前の国司ともあろう人が、そのようなことをするでしょうか。

    さらに不思議があります。
    歌の中に、

    「つぶれかかった家
     曲がった家の中に
     地面に直接藁(わら)を敷いて」

    という描写が出てきます。
    原文は「布勢伊保能 麻宜伊保 乃内尓 直土尓 藁解敷而」です。

    地面に直接ワラを敷いているというくらいですから、稲作はしているわけです。
    (稲作がなければ、ワラもありません)
    そして稲作をするなら、普通、家屋は高床式になります。
    なぜなら、水田は水を引くため、地面に穴を掘る竪穴式住居では、床に水が染み出してしまうからです。

    不思議はまだあります。
    「つぶれかかった家、曲がった家」とありますが、日本は地震が頻発する国です。
    つまり「つぶれかかった家、曲がった家」では、生活できないのです。
    また、高床式住居の場合、柱や梁(はり)が、しっかりしていないと、地震のときに家屋が簡単に倒壊してしまうのです。
    ですから古来、日本の家屋は、たいへんにしっかりしたつくりをするのがならわしです。
    そして「しっかりした家屋」は、各家族では建てるのも維持するのも大変だから、古民家も大家族で住むように設計され、建造されてきたのです。
    これが災害列島で住む人々の知恵です。

    「いや、そんなことはない。これは筑前の都市部の民衆の話だ。都市部ならつぶれかかった家、曲がった家もあり得るだろう」という方がいるかもしれません。
    けれど我が国は、仁徳天皇が「民のカマドの煙」を見て、税の免除をされるような国柄なのです。
    民衆がカマドの煙どころか、「米を炊く器にはクモの巣がはり」というような状況を、一介の国司が招いたとするならば、それこそ責任問題になることです。

    加えて『貧窮問答歌』に出てくる人物は、どうやら庶民ではないらしい。
    なぜならその人は、「ヒゲをなでながら自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれ、俺より貧しい人がいる」人であるわけです。
    つまり最下層の人というわけでもない。様子からすると、貴族階級の人のようにも思えます。
    ところがそういう人であっても、竪穴式のつぶれかかって曲がった家に住んでいるわけです。

    これって筑前国のことなのでしょうか。
    そもそも日本のことなのでしょうか。

    山上憶良の時代のすぐ前には、半島で百済救援の戦いがあり、また白村江事件で日本人の若い兵隊さんたちが大量に殺されるという事件もありました。
    そしてこの歌が詠まれた時代の、わずか60年前には、高句麗が滅亡し、半島は新羅によって統一されています。

    筑前には、ご承知の通り大宰府があります。
    大宰府という名称は、「おおいに辛い(厳しい)府」という名前です。
    この時代の日本は、渤海国との日本海交易も盛んに行っていますが、渤海国との交易のための港には大宰府など設置されていません。
    単に国司のいる国府が、その交易管理にあたっていただけです。

    それがどうして筑前だけが「辛い府」なのかというと、そこが新羅や唐の国という敵性国家との窓口にあたる場所であったからです。
    唐や新羅への警戒から、日本は都を奈良盆地から近江に移したくらいですから、大宰府がいかに国防上の重要拠点とみなされていたかは明白です。
    しかも、大陸も半島も、伝染病の宝庫といえるところです。
    ですから、出入りする船も、厳しく監督しなければ、病原菌を日本に持ち込まれたらたいへんなのです。

    山上憶良は、その大宰府の長官であった大伴旅人とも親しい間柄でした。
    そしてこの時代、かつては倭国の一部であった半島南部が、新たに半島を統一した新羅によって、きわめて過酷な取り立てと圧政が行われていたことは、歴史の事実です。

    そうした背景を考えれば、この『貧窮問答歌』に歌われている民衆の姿というのは、かつては倭人の一部であった半島の人々の姿であると見るのが正解といえるのではないでしょうか。
    つまり、山上憶良は、政治ひとつで、あるいは国の体制ひとつで、ここまで民衆の生活が犠牲になるのだということを、この『貧窮問答歌』であらわしたのではないでしょうか。

    幕末から明治初期にかけての李氏朝鮮の様子は、たくさんの写真が伝えられています。

    20191206 李氏朝鮮時代


    「我が国を絶対にこのような国にしてはいけない!」
    その固い決意と信念あればこそ、山上憶良は、あえてこの『貧窮問答歌』を詠んだのではないでしょうか。

    『貧窮問答歌』には、短歌が一首付属しています。
    その短歌です。

     世間(よのなか)を
     う(憂)しとやさしと
     おも(思)へども
     飛び立ちかねつ
     鳥にしあらねば


    半島と筑前の間には、海峡があります。
    船便が禁止されていれば、倭国へと移動する手段もありません。
    だから「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。
    これで意味がすっきりと通ります。

    せっかくなので、もうひとつ。
    万葉集の巻20に、次の歌があります。

    韓衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
    読み:からころも すそにとりつき なくこらを おきてそきぬや おもなしにして
    原文:可良己呂武 須宗尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎怒也 意母奈之尓志弖

    この歌もまた、中央朝廷が防人を強制動員していたため、母を失い、父と幼い子だけで生活しているのに、無理やり兵として強制徴用される悲劇を詠んだ歌であると解説されています。
    半分正解、半分大間違いです。

    原文の「可良己呂武(からころむ)」は、「韓衣(からころも)」のことであるというのは研究成果で間違いのないことですが、現代の国分学会ないし学校教育では、これは「単なる枕詞で意味がない」としています。
    果たしてそうでしょうか。
    和歌は短い言葉の中に万感を込めます。
    無駄な言葉はないのです。

    日本は大家族制で、長男が家を継ぎますので、次男以下が防人として徴用されます。
    この歌に詠まれているのは、どうみてもその大家族を崩壊させられた家の様子です。
    しかも兵の服装が「韓衣(からころも)」だというのです。
    ということは、どうみても、これは以前は倭国の一部であった半島南部の様子とわかります。
    しかも母のことを「オモ」と詠んでいます。
    これは韓国語の「オモニ(母)」と同音です。

    要するに、もともとは大家族制だった半島南部の元倭国の住民たちが、いまでは新羅の支配下となり、家族を皆殺しにされ、ようやく生き残った男性と幼子の小さな家族さえも、男性が無理やり子から引き離されて徴兵される。
    このような非道がまかり通っていることを俺たちは許すことはできないし、また日本がそのような国に汚鮮されることも決して許すことはできないという、これは防人たちの決意の歌であると読むことができます。

    それを初句の「からころも」を「枕詞だから意味がない」、「オモ」とあるのは日本語の母のことであると強弁し、あくまで中央朝廷が非道な存在であったかのように歌の意味を歪めて子どもたちに教育する。
    とんでもないことです。


    ※この記事は2019年12月の記事に大幅に補記を加えたものです。
    日本をかっこよく!

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    日本の教育は、さまざまな分野に子どもたちが日本を嫌いになるような仕掛けがされています。誰もが日本に生まれ、日本人として生きることができることに感謝の気持ちを持てるようになる。そういう教育を取り戻す。


    20190330 東京書籍・図説国語_伊勢
    東京書籍・図説国語より
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    百人一首の19番に、伊勢の和歌があります。
    意味がわかると、ものすごく深い和歌なので、何度でもご紹介したいと思います。

     難波潟 短き蘆の ふしの間も
     逢はでこの世を過ぐしてよとや
    (なにはかたみしかきあしのふしのまもあはてこのよをすくしてよとや)

    ねず式で現代語に訳すと、次のようになります。
    「大阪湾の干潟にある蘆(あし)の茎の
     節と節の間くらいの短い時間さえ
     逢わないでこの世を過ごすことなんて
     できないとおっしゃったのは
     あなたですよ」

    なにやらちょっと攻撃的なような感じもしますが、一般な解釈は、
    「難波潟に生える蘆の節と節の間のように
     短い時間でさえも、あなたにお逢いできずに
     この世を過ごせというのでしょうか」
    (東京書籍・図説国語、冒頭の図)というものです。

    まるで女性である伊勢が、あたかも上目遣いで男性に媚びているような解釈ですが、多くの解説書がこのような解釈をしています。
    けれど歌の背景をよくよく調べていくと、この歌の意味はまるで違うものだということがわかります。

    伊勢は平安前期の女流歌人です。
    そして、その後の平安中期を代表する和泉式部や紫式部、清少納言などの女流歌人たちに、たいへん大きな影響を与えた女性でもあります。
    伊勢がいたからその後の平安女流歌人たちの興隆があったといってもよいのです。
    それほどまでに伊勢の存在は偉大だったのです。
    その伊勢が「上目遣いに男に媚びて」と、そのような解釈自体、本来成り立たないのです。

    伊勢は従五位上・藤原継蔭(つぐかげ)の娘です。
    父が伊勢守であったことから、伊勢と呼ばれるようになりました。
    十代で優秀さが認められて、宇多天皇の中宮(ちゅうぐう、天皇の妻のこと)藤原温子(ふじわらのあつこ)のもとに仕えるようになるのですが、その藤原温子は、時の権力者である藤原基経(ふじわらのもとつね)の長女です。

    藤原基経は、我が国初の「関白」となった、たいへんな実力者です。
    その娘の温子の弟が、貴公子でありイケメンの藤原仲平(ふじわらのなかひら)です。
    温子と仲平は仲の良い姉弟だったそうで、仲平はよく姉の温子のもとに出入りしていました。

    そして仲平は、姉のもとで働く同じ年頃の伊勢をみそめます。
    二人は互いに大熱愛におちいります。
    二人はともにまだ十代、しかも互いに初めての相手です。
    どれだけ熱く燃えたことか。

    「もう蘆の茎の節と節の間のような短い時間さえ
     お前なしで生きていくことなんて考えられないよ」
    「うれしいわ。ずっと愛してくださいませ」

    ところがその仲平が、熱愛のさなかに、別な女性と結婚してしまいます。

    この時代、何より重要視されたのが、家の存続です。
    そもそも給料の概念さえも、いまとまったく違います。
    現代日本では給料は働く人、個人に支払われますが、我が国では、ほんの少し前まで、給料は家(世帯)に支払われるものだったのです。
    もちろん平安時代も同じです。

    ですから偉い人であればあるほど、何より家を維持することが求められました。
    時の最高権力者であった父の藤原基経からしてみれば、次男とはいえ、たかが国司ふぜいの娘を嫁にするわけにはいかないのです。
    しかるべき身分の女性を妻にしなければ、家格の釣り合いが取れない。

    この「家格の釣り合い」についても、すこし説明が必要です。
    給料(所得)が家に払われるということは、家の財務の管理は、すべて嫁の管理になります。
    嫁になった女性が、夫の稼ぎの全部の管理をするのです。
    そして我が国は、権限と責任は常にセットにしてきた国柄を持ちます。

    嫁が家計全部の管理を行うということは、万一、その嫁に不実があった場合、嫁の実家がその全責任を負うのです。
    財産管理の一切を委ねるのですから、その保証が必要なことはいうまでもありません。
    ですから、嫁となる女性は、その後見人となる実家が、主家の家計に万一のことがあったときに、これを保証できるだけの財力が求められたのです。
    だから「家格の釣り合い」が必要だったのです。

    十代の仲平には、最高権力者である父の命令を拒むことはできません。
    こうして仲平は、熱愛のさなかに、高い身分の家柄の善子(よしこ)と結婚するのです。
    これはいたしかたないことです。

    けれど女性の伊勢にしてみれば、これは大ショックです。
    ましてこの頃の伊勢は、まだ十代の後半です。
    十代の女性の熱い思いは一途です。
    けれどその相手の男性が別な女性と結婚してしまった。

    傷心の伊勢は、その頃父が大和に国司として赴任していたので、中宮温子におひまをいただいて、都を捨てて父のいる大和に去りました。
    その大和で伊勢が詠んだ歌があります。

     忘れなむ世にもこしぢの帰山
     いつはた人に逢はむとすらむ

    現代語訳すると
    「もう忘れてしまおう。あの人とのことは、もう峠を越えたんだから・・・」
    伊勢の悲しい気持ちが、そのまま伝わってきます。

    けれどもあまりに優秀な女官である伊勢を、世間は放ってはおけません。
    一年ほど経ったある日、中宮温子から伊勢のもとに、
    「再び都に戻って出仕するように」
    とお呼びがかかるのです。

    中宮温子は、ほんとうにやさしい、思いやりのある女性です。
    弟の仲平と伊勢のこともちゃんと知っています。
    それでも、
    「あなたのように才能のある女性が、
     大和などでくすぶっていてはいけません。
     もう一度私のところに出仕しなさい。
     あなたはもっとずっと活躍できる女性です」
    と宮中に呼んでくださったのです。

    中宮からの直接のお声掛かりとなれば、伊勢に断ることはできません。
    伊勢は、再び都に戻って温子のもとに出仕します。
    もともと頭もいいし美人だし気立てもよい、才色兼備の女性です。
    都にあって伊勢は、各種の歌会でもひっぱりだこになるし、頼まれて屏風歌(びょうぶうた)を書いたりもしています。
    要するに宮中にあって、とても輝く存在となるのです。

    そんなある日、宇多天皇が、伊勢の家で見事に咲いていると評判の、女郎花(をみなえし)の献上を命じました。
    それを知った仲平が、伊勢に歌を贈るのです。
    その歌は、
    「一度お会いしませんか?」
    というものでした。

    このとき仲平は、すでに左大臣になっています。
    左大臣というのは、朝廷で太政大臣に次ぐ位(くらい)です。
    すでに仲平は、強大な権力を手にする男になっていたのです。

    そんな強大な権力者である左大臣の仲平が「お会いしませんか?」というのは、お伺いではありません。
    権力の強大さを考えたら、これは命令です。

    和歌には和歌でお返しするのが礼儀です。
    伊勢は仲平に歌を送りました。

     をみなへし 折りも折らずも いにしへを
     さらにかくべき ものならなくに

    現代語にすると、
    「女郎花(おみなえし)の花は、
     折っても折らなくても、
     昔のことを思い出させる花ではありませんわ。
     私は今更あなたのことを心にかけてなどいないし、
     これを機会に昔を懐かしむ気持ちもありません」

    キッパリしたものです。
    相手がどのような政治権力者であっても、あたしはもう逢わないと決めたのです。
    二人は別々の人生を歩くと決めたのです。
    だからあたしには、あなたがどんなに昔を懐かしく思おうと、私にその気はまったくありません、というわけです。

    男性の私には、仲平の気持ちがわかる気がします。
    仲平の人生は順風満帆を絵に描いたような人生です。
    15歳で元服していますが、このときの加冠は、宇多天皇が直々に行ってくれています。
    19歳で昇殿して殿上人となり、後に左大臣にまで昇格しているのです。
    大手一部上場企業に例えれば、最初から出世コースで58歳で専務取締役になったようなものです。
    けれどそんな仲平にとって、『五番街のマリーへ』の歌詞じゃないけれど、若い頃に真剣に愛した伊勢に「悲しい思いをさせた、それだけが気がかり」なのです。

    男の愛は責任です。
    なんとかして伊勢を幸せにしてあげたい。
    そしていまの俺には財力がある。
    伊勢の幸せを実現できる実力がある。
    だから変な欲望ではなく、ただ会って、食事でもして、あのこぼれ落ちるような笑顔を見せてもらって、彼女に何か望みがあるのなら、どんなことでもかなえてあげたい。

    「おまえを真剣に愛したひとりの男として、
     おまえへの愛の責任をまっとうしたい」
    それは独りの女性を心から愛した「男の想い」です。

    けれど伊勢は女性です。
    赤の他人、別な人、異なる人生、関係ない他人と、もう決めたのです。

    そして、このときに伊勢が詠んだのが、冒頭の和歌です。

    この和歌には、伊勢集に、詞書(ことばがき)があります。
    次のように書かれています。
    「秋の頃うたて人の物言ひけるに」

    「秋の頃」というのは、まさに女郎花(おみなえし)の花が咲く頃です。
    「うたて人」というのは、嫌な奴とか、大嫌いな奴、気味の悪い奴、不愉快な奴といった意味の言葉です。
    伊勢は、左大臣である仲平を「ただの嫌な奴」と書いているのです。
    そしてその詞書に続く歌が冒頭の、

     難波潟 短き蘆の ふしの間も
     逢はでこの世を 過ぐしてよとや

    です。
    「難波の干潟にある葦にある節と節の間くらいの短い時間さえ
     おまえと逢わずにいられようか。
     ずっと一緒だよ、とおっしゃったのは、あなたですよ・・・」

    要するに伊勢は、自分を裏切った(と感じた)仲平が、たとえ左大臣という政治上の要職者にまで出世し、巨大な権力と財力を得るようになったとしても、許すことが出来ないと詠んでいるのです。

    でも本当にそうなのでしょうか。
    あれほど愛した仲平を、伊勢は、ただ許せない、嫌いだと、それだけなのでしょうか。

    すでに仲平には「をみなへし折りも折らずもいにしへを・・」と和歌で返事を書いているのです。
    にもかかわらず、わざわざ「うたて人の物言ひけるに」とこの歌を残したのは、
    「揺れる想いに自分なりのけじめをつけようとした」のではないでしょうか。

    というわけで、この和歌の勉強会をしたとき、参加いただいた女性陣に、伊勢の思いを聞いてみました。

    「男だけじゃないわ。女だって引きずるわ」
    「女としてというより、人としてのプライドの問題じゃない?」
    「もしかすると伊勢は、仲平の気持ちを試したかったのかも」
    「でも、別れたのにまた言いよってくる男って軽すぎない?」
    「伊勢は人として成長したんじゃないかな。別れはつらいけどさ、心に区切りをつけたんじゃないかしら」
    「それって、あんときの私じゃないわよ!ってこと?」
    「そうそう(笑)」
    「でもさあ、そこまで人を好きになれるって、うらやましいわあ」・・・・
    ものすごい盛り上がりになりました。

    さて、その後の伊勢の人生です。
    やがて伊勢は宇多天皇の寵を得て、皇子の行明親王を産み、伊勢の御息所(みやすどころ)と呼ばれるようになりました。
    御息所と呼ばれるのは、宇多天皇にとって、数ある妻(当時は一夫多妻制です)の中で、伊勢のもとが一番くつろくという意味です。

    ところがせっかく授かった皇子は、五歳(八歳とする説あり)で夭折(ようせい)してしまいます。
    悲しんだ宇多天皇は皇位を譲位され、落飾して出家されてしまわれました。
    そして伊勢がお世話になった中宮温子も薨去(こうきょ)されました。

    憂いに沈む伊勢は、この頃三〇歳を過ぎていたけれど、宇多院(もとの宇多天皇)の第四皇子である敦慶親王(25歳)から求婚され、結ばれて女児・中務(なかつかさ)を生んでいます。
    中務は、立派な女流歌人として、生涯をまっとうします。

    伊勢の歌は、古今集に23首、後撰集に72首、拾遺集に25首が入集し、勅撰入集歌は合計185首に及びます。
    これは歴代女流歌人中、最多です。
    そして伊勢の家集の『伊勢集』にある物語風の自伝は、後の『和泉式部日記』などに強い影響を与え、また伊勢の活躍とその歌は、後年の中世女流歌人たちに、ものすごく大きな影響を与えました。

    百人一首で、伊勢の歌の前後を見ますと、
    17番 在原業平(輝かしい王朝文化)ちはやぶる神代も聞かず竜田川
    18番 藤原敏行(身分差と恋の葛藤)住の江の岸に寄る波よるさへや 
    19番 伊勢  (・・・・) 難波潟短き蘆のふしの間も
    20番 元良親王(心と権力の葛藤) わびぬれば今はたおなじ難波なる
    21番 素性法師(兵士に捧げる祈り)今来むといひしばかりに長月の
    という流れの中に、伊勢の歌が配置されています。

    伊勢のところの(・・・・)には、どのような言葉が入るでしょうか。
    筆者はここに(権力から祈りへ)という言葉を入れたいと思います。

    伊勢はもともとは、関白藤原基経、左大臣仲平らといった政治権力の中枢にいた女性です。
    けれど仲平との別れを経て、祈りの世界の住人である宇多天皇やその子の敦慶親王と結ばれて子をなしているからです。
    このことは伊勢が、「権力の世界」から「祈りの世界」へと、生きる世界を昇華させていったことを示しています。

    そしてその伊勢の心の成長を、百人一首の選者の藤原定家は、国家統治を権力ではなく、祈りの世界において神々と接触される天皇をこそ国家の頂点とあおぐ形(これを古語でシラス(知らす、Shirasu)と言います)へと昇華させ、完成させていった日本の統治の形に重ねたのではないでしょうか。

    いまも天皇は国民の安寧を日々祈られる祈りの御存在です。
    伊勢の和歌は、我が国が天皇のシラス国であり、天皇のもとに老若男女を問わず、すべての人が「おほみたから」とされてきたことを象徴する歌です。
    言い換えれば伊勢の歌は、究極の民主主義を謳歌する歌です。
    そして伊勢の歌は、
    哀しいまでの女性の勁(つよ)さをあらわした歌でもあるのです。

    学校で、百人一首を教えるときに、せっかくこれだけの意味のある和歌なのに、これを単に
    「上目遣いで男性に媚びた和歌だ」とか、「男性への恨みの歌だ」と教えるのはいかがなものでしょうか。
    百人一首が好きだという方はたくさんいます。
    けれど、せっかくの素晴らしい歌の数々が、誤った解釈(誤ったで語弊があるなら、上辺だけの軽い解釈)で歌の意味が損ねられてしまっては、和歌を学ぶ意味がないのでは、と思います。

    日本の教育が貶められているのは、歴史だけではありません。
    国文学も、地理も、国語も、文系分野は、さまざまなところで日本を貶め、子どもたちが日本を嫌いになるような仕掛けがされています。
    そうした反日教育が改められ、誰もが日本に生まれ、日本人として生きることができることに感謝の気持ちを持てるようになる。
    そういう教育を取り戻すのは、私達民衆の力です。

    ※この記事は、拙著『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』の文を大幅に加筆したものです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 熟田津に船乗りせむと月待ば


    時は出征のときです。若者たちの心を鼓舞しなければならないことも十分に承知しています。だから皇極天皇は、そばにいる、日頃から信頼する額田王に、「この歌は、おまえが詠んだことにしておくれ」と、この歌をそっと手渡されたのです。

    20231117 月



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     熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待(つきまて)ば
     潮(しほ)もかなひぬ 今はこぎいでな


    この歌は百済有事による朝鮮出兵に際して、額田王が詠んだ歌として、学校の教科書でも数多く紹介されている歌です。
    万葉集を代表する一首といえるかもしれないし、美人と言われる額田王を代表する和歌ともいえるかもしれない。
    歌の解釈にあたっては、初句の「熟田津(にぎたづ)」がどこの場所なのかが議論になったりもします。
    それほどまでに有名な和歌といえます。

    けれど、そうした見方は、実は、この歌の本質を見誤らせようとするものでしかありません。
    どういうことかというと、この歌の原文は次のように書かれています。

    【歌】熟田津尓 船乗世武登 月待者
       潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

    【補記】右検山上憶良大夫 類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇 大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬 寅御船西征始就于海路 庚戌 御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧昔日猶存之物。当時忽起感愛之情所以因製歌詠為之 哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首。


    現代語訳すると次のようになります。
    特に「補記」のところが重要です。

    【歌】
    熟田津尓   篝火の焚かれた田んぼのわきの船着き場に
    船乗世武登  出征の乗船のために兵士たちが集まっている
    月待者    出発の午前二時の月が上るのを待っていると
    潮毛可奈比沼 潮の按配も兵たちの支度もいまは整った
    今者許藝乞菜 さあ、いま漕ぎ出そう

    【補記】
    右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林(るいしゅかりん)で検(しらべ)てみると、この歌は第三十七代斉明天皇が詠まれた歌であって、このたびの伊予の宿所が、かつて夫である第三十四代舒明天皇とご一緒に行幸された昔日(せきじつ)のままであることに感愛の情を起されて、哀傷されて詠まれた歌であると書かれています。つまりこの歌は、本当は斉明天皇が詠まれた御製で、額田王の歌は他に四首があります。


    要するにこの歌は、実は女性の天皇であられる第37代斉明天皇(さいめいてんのう)が読まれた御製だと万葉集に補記されているのです。
    つまり本当は、額田王が詠んだ歌ではないと書かれています。
    しかもこの歌は「出征兵士を送る歌」のような勇壮な歌ではなく、「哀傷歌(かなしみの歌)」であると書かれています。

    「熟田津」とは、田んぼの中にある水路の横で炊かれた松明(たいまつ)のことを言いますが、その歌われた場所は、今の四国・松山の道後温泉のあたりであったとされています。

    昔日(せきじつ)のある日、後に皇極天皇となられた宝皇后(たからのおほきさき)は、夫の舒明天皇(じょめいてんのう)とともに、(おそらく)道後温泉に湯治(とうじ)にやってきたのです。
    そのときは、まさに平和な旅で、大勢の女官たちらとともに、明るく皆で笑い合いながらの楽しい旅であったし、地元の人たちにも本当によくしていただくことができた。
    誰もが平和で豊かな日々を満喫できた、行楽の旅であったわけです。
    そしてそれは夫の生前の、楽しい思い出のひとつでもありました。

    ところがいまこうして同じ場所に立ちながら、自分は大勢の若者たちを、戦地に送り出さなければならない。
    あの平穏な日々が崩れ去り、若者たちを苦しい戦場へと向かわせなければならないのです。
    もちろん戦いは勝利を期してのものでしょう。
    けれども、たとえ戦いに勝ったとしても、大勢の若者たちが傷つき、あるいは命を失い、その家族の者たちにとってもつらい日々が待っているのです。

    それはあまりに哀しいことです。
    だからこの歌は、哀傷歌とされているのです。

    けれど、時は出征のときです。
    若者たちの心を鼓舞しなければならないことも十分に承知しています。
    だから皇極天皇は、そばにいる、日頃から信頼している額田王に、
    「この歌は、おまえが詠んだことにしておくれ」
    と、この歌をそっと手渡したのです。

    これが日本の国柄です。
    平和を愛し、戦いを望まず、日々の平穏をこそ幸せと想う。
    そして「私が詠んだ」という「俺が私が」という精神ではなくて、どこまでも信頼のもとに自分自身を無にする。
    そのような陛下を、ずっと古代からいただき続けているのが日本です。

    この歌が詠まれた「後岡本宮馭宇天皇七年」というのは、斉明天皇7年、つまり西暦661年のことです。
    いまから1359年の昔です。
    日本人の心、そして天皇の大御心は、1400年前の昔も今も、ずっと変わっていないのです。

    ちなみに初句の「にぎたづに」は、大和言葉で読むならば、「にぎ」は一霊四魂(いちれいしこん)の「和御魂(にぎみたま)」をも意味します。
    和御魂(にぎみたま)は、親しみ交わる力です。
    本来なら、親しみ交わるべき他国に、いまこうして戦いのために出征しなければならない。
    そのことの哀しさもまた、この歌に重ねられているのです。

    ずっと後の世になりますが、第一次世界大戦は、ヨーロッパが激戦地となりました。
    このため、ヨーロッパの重工業が途絶え、その分の注文が、同程度の技術を持つ日本に殺到しました。
    日本は未曾有の大好景気となり、モダンガール、モダンボーイが街を歩く、まさに大正デモクラシーとなりました。

    戦争が終わったのが1918年の出来事です。
    ところがその5年後の1923年には関東大震災が起こり、日本の首都圏の産業が壊滅。
    さらに凶作が続いて東北地方で飢饉が起こり、たまりかねた陸軍の青年将校たちが226事件を起こしたのが1936年。
    そしてその翌1937年には、通州事件が起こり、支那事変が勃発しています。
    日本国内は戦時体制となり、現代の原宿を歩いていてもまったくおかしくないような最先端のファッションに身を包んだモダンガールたちは、モンペに防空頭巾姿、男たちが国民服になるまで、第一次世界大戦からわずか20年です。

    そして終戦直後には、住むに家なく、食うものもなし、それどころか着るものもない、という状況に至りました。
    けれどそのわずか19年後には、日本は東京オリンピックを開催しています。

    20年という歳月は、天国を地獄に、地獄を天国に変えることができる歳月でもあります。
    そして時代が変わるときは、またたくまに世の中が動いていく。
    コロナショックで、まさにいま、日本は激動の時代にあります。

    けれど、どんなときでも、陛下の大御心を思い、勇気を持って前に進むとき、そこに本来の日本人の姿があります。
    それは、勝つとか負けるとかいうこと以上に、私たち日本人にとって大切なものです。

    またご皇室の内部に問題がある云々とも、一切関係ないことです。
    そもそも問題点というのは、いつの時代にあっても、どのような場所であっても、どのような人であっても、たとえご皇室であっても、そこにあるのが人である以上、必ずあるものです。
    問題が起きているということは、物事が動いているということであって、むしろ問題が何もないなら、それは物事が動いていない、つまり生きた人間がそこにいないということです。

    ご皇室内部の問題は、ご皇室に委ねればよいのです。
    外野があれこれ言うべきことではない。
    名誉欲、経済欲に駆られたどっかのアホがご皇室内部に入り込むような事態は、いまも昔も繰り返しあったのです。
    けれど歴代天皇のご事績はゆるぎなく歴史に燦然と輝いています。

    北斗神拳二千年の歴史なんてアニメの言葉がありますが、日本の歴史は二千年どころが万年の歴史です。
    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。
    日本人なら日本を信じる、ご皇室を信じ抜くことです。
    すくなくとも、自分はそのようにしています。

    吉田松陰が水戸藩郷士、堀江克之助に送った書です。

    「天照の神勅に、
     『日嗣之隆興 天壞無窮』と有之候所、
     神勅相違なければ日本は未だ亡びず。
     日本未だ亡びざれば、
     正気重て発生の時は必ずある也。
     只今の時勢に頓着するは
     神勅を疑の罪軽からざる也」

    《現代語訳》
    天照大御神のご神勅(しんちょく)に、「日嗣(ひつぎ)の隆興(さかえ)まさむこと、天壞(あめつち)とともに無窮(きはまりなかる)べし」とあります。そしてご神勅の通り、日本はいまだ滅んでいません。
    日本がいまだ滅んでいないなら、日本が正気を取り戻すときが必ずやってきます。
    ただいまの時事問題に頓着(とんちゃく)して、簡単に日本が滅びると言うのは、ご神勅を疑うというたいへん重い罪です。

    『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
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    ※この記事は2020年6月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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  • 君が代


    君が代を否定する人たちは、
     日本の伝統を知らない(教養がない)、
     平和を守る気持ちがない(好戦的)、
     人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)
    残念な人たちです。

    20231029 君が代



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    日本に希望の火を灯す!

    明治維新の頃のことです。
    横浜の英国大使館の護衛部隊の軍楽長に、ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)という人がいました。
    フェントンは、薩摩藩の青年たちに吹奏楽団の指導をしていました。
    これが「薩摩軍楽隊」で、日本初の吹奏楽団です。

    当時の日本では、楽器といえば琴や三味線、和太鼓、和笛、他には雅楽で使われる笙(しょう)に篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)などくらいです。
    そこに西洋の吹奏楽を教えるのですから、フェントンは言葉も通じないし、さぞかしご苦労だったことと思います。

    ちなみにこの「薩摩軍楽隊」は、フェントンの指導によって明治元年(1871年)には「日本海軍軍楽隊」へと発展して、現在に至っています。
    海上自衛隊の音楽隊といえば、歌姫の三宅由佳莉(みやけ ゆかり)さんや、二代目の中川麻梨子さんが有名ですが、(ちなみに陸自の鶫 真衣(つぐみ まい)さんも素敵です)、そうした現代の歌姫の活躍も、もとをたどせば英国人フェントンの指導があったわけです。

    そのフェントンが、明治2年(1872年)10月、大山巌に会ったとき、次のように進言したことが伝えられています。
    「明治新政府には、なにか儀礼音楽が必要です。
     何かふさわしい曲を選んだらいかがでしょう?」

    「なるほど」とうなづいた大山巌は、数人と相談して、平素自分が愛唱している薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、作曲をフェントンに頼みました。
    ちなみにこの歌の歌詞は次のようになっています。
    「めでたやな 
     君が恵みは久方(ひさかた)の
     光り長閑(のどけ)き春の日に
     不老の門を立出(たちい)でて
     四方(よも)の景色をながむれば
     峰の小松に雛鶴(ひなづる)棲(す)みて
     谷の小川に亀遊ぶ
     君が代は千代に八千代にさざれ石
     巌(いはを)となりて苔のむすまで・・・」

    この歌は、当時の薩摩藩で、おめでたい席でいつも歌われた謡曲だったそうです。
    そこでフェントンは、このなかの「君が代〜」の部分だけを取り出して、そこに作曲を施します。
    ところが、これがイマイチ評判が悪い。
    アイルランド民謡ぽくて、どうにも日本的でないのです。
    このときの曲は、いまYoutubeで聞くことができます。
    → https://youtu.be/nwro06_tLZw?si=xYSypc6-RA776I2t

    そこで1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村祐庸(なかむらすけつね)が、「君が代」の楽譜を改訂したいとする上申書を海軍軍務局長宛に提出しました。

    ジョン W.フェントンと中村祐庸(すけつね)
    ジョン W.フェントンと中村裕庸


    その上申書には、次のように書かれていました。

    「(西洋諸国において)
     聘門往来(へいもんおうらい)などの
     盛儀大典あるときは、
     各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、
     以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、
     その君主の威厳を発揮するの礼款において
     欠くべからざるの典となせり」

    偉いなと思うのは、フェントンです。
    曲変更の上申書が出されたということは、フェントンの作曲が否定されたも同じです。
    では、フェントンがこのとき怒ったかというと、それが違うのです。
    むしろフェントンも、曲調の変更に積極的に同意してくれたといいます。
    フェントンは、日本に住み、日本人と接することで、日本人の思いやりの心を学んだのかもしれません。

    ようやく1880年(明治13年)、明治政府は、宮内省雅樂課に委嘱して、君が代の新たな作曲に乗り出します。
    そして宮内省の奥好義の作品が選ばれることになりました。
    その奥好義の旋律に、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作しました。
    さらにこの曲を、国歌なのだから、もっと荘厳しようと提案し、実行してくれたのが、当時当時音楽教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。

    つまり君が代の旋律は、いわばイギリス、ドイツ、日本の合作なんですね。
    最初から、国際色豊かに作られているのです。

    そんな「君が代」に、次のようなエピソードがあります。
    山田耕作といえば、ペチカ、赤とんぼ、この道などの有名な文部省唱歌の作曲家として有名ですが、そんな山田耕作がドイツに留学していた若い頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをはじめたのだそうです。
    そしてこのとき第一位に選ばれたのが、日本の「君が代」だったそうです。


    さて「君が代」の歌詞です。
    君が代の歌詞は、古く、平安時代の延喜5年(905年)に醍醐天皇の勅命によって編纂された『古今和歌集』の『巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として、掲載された歌です。
    万葉集から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めた歌集で、このときのカナ序文を書いたのが紀貫之です。

    清少納言の『枕草子』には、『古今和歌集』集を暗唱することが、平安中期の貴族にとって教養とみなされたとも書かれています。
    そして君が代は、その後に編纂された、『新撰和歌集』にも、『和漢朗詠集』にも掲載されてます。

    ここが実はすごいのです。
    なにがすごいかというと、『古今和歌集』に掲載されたときの「君が代」は、歌い出しが「我が君は」となっていたのです。
    ここでいう「我が君は」の「君」は、天皇を指します。
    つまりもともとは天皇を称える賀歌だったのです。
    ところがその後に続く『新撰和歌集』も『和漢朗詠集』も、いずれも同じく「君が代」を賀歌の筆頭歌としていながら、その歌い出しが現代と同じ「君が代は」に変わっているのです。

    このことが意味することは重要です。
    近年においても、たとえば軍歌の「同期の桜」が、
     貴様と俺とは同期の桜
     同じ【航空隊の・兵学校の】庭に咲く
    などと、一部が変えられて歌い継がれていますが、このように替え歌が行われるということは、それだけその歌が一般的に広く流通したことを意味します。

    「君が代」についていえば、おそらく『古今和歌集』が編纂した頃には、その編纂のすでに何百年か前から、「君が代」が広く歌われていて、たまたま『古今和歌集』が天皇の命による勅撰和歌集であったことから、編者が賀歌の筆頭歌に、君が代を「我が君は」という歌いだしで掲載したのであろうと思われます。
    つまり、おそらくはこの時点で、すでに君が代を「君が代は」と歌い出す者もいれば、「我が君は」と歌う人もいたわけです。
    だからこそ、続く歌集では、「君が代は」と書かれているのではないでしょうか。

    そもそも大和言葉は、一字一音一義です。
    一音ごとに意味があります。
    そして「君が代」の「きみ」は、もともとは
     き=広がるエネルギー=男性=イザナキ
     み=たいせつな本質 =女性=イザナミ
    です。
    イザナキ、イザナミは、それぞれ「いざなうキ」と「いざなうミ」であり、そこから「キ」は男、「ミ」は女を表します。
    だから男性が「おきな(翁)」、女性が「おみな(嫗)」といいます。

    つまり「君が代」は、男と女の代が、千代に八千代に〜と歌われているわけで、だからこそ賀歌(お祝いの席で歌われる唄)として、広く流通していたし、それだけ一般化していたからこそ、替え歌もあった、ということになるのです。

    そして我が国における「き」と「み」の最初がイザナギとイザナミです。
    その二人から生まれたのが、天照大御神です。
    その孫がニニギノミコトであり、
    そのニニギの孫が、初代天皇となる神武天皇で、そこから今上陛下まで万世一系の天皇が続くのが日本です。
    だから「き・み」は、そのまま天皇を意味するのです。

    ちなみに天照大御神は、漢字で書いたら「天を照らす大御神」ですが、先程述べましたように大和言葉は一字一音一義です。
    するとアマテラスオホミカミとなり、
     ア=生命の広がり、広大な時空間
     マ=受容、原点
     テ=放射
     ラ=場
     ス=進行
    となり、広大な時空間のすべてを受容する原点であり、そこから放射するすべてのエネルギーの根幹の場であり、すべてのエネルギーの進むべき道を示す神、という意味になります。
    だから最高神なのです。

    そして「千代に八千代に」は、永遠です。
    「さざれ石」細かな石が固まってできた「礫(れき)岩」です。

    さざれ石
    さざれ石


    礫岩形成の順序はこうです。

    日本列島の周辺に地向斜という細長い海ができる。
    そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続ける。
    何千万年という長い間に、小石が圧力で固結して岩石となる。
    そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。
    そしてその山脈から発見されるのが、さざれ石の“礫岩”です。


    そんなにながい間、気の遠くなるような永い間、ずっとずっと君を守り抜く。
    いや、それだけじゃない。その岩に、苔がはえるまでも、ずっとずっと・・・

    この歌詞のどこが軍国主義なのでしょうか。

    戦争云々をいうなら、どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をしています。
    実際、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながっています。
    外国の国歌です。

    【中華人民共和国国家】
    立て、奴隷となるな
    血と肉もて築かむ
    よき国 われらが危機せまりぬ

    今こそ 戦うときは来ぬ
    立て立て 心合わせ敵にあたらん
    進め進め 進めよや

    なんともまぁ、血なまぐさい。
    興味のある方は、曲を検索してみてください。
    めっちゃ、勇ましい旋律にもなっています。


    【アメリカ合衆国国歌】
    見よや 朝の薄明かりに
    たそがれゆく 美空に浮かぶ
    われらが旗 星条旗を

    弾丸降る 戦いの庭に
    頭上を高く ひるがえる
    堂々たる星条旗よ
                           
    おお われらが旗のあるところ
    自由と勇気共にあり

    ちなみに戦争をいうなら、1480年(文明12年-室町時代)から、1941年の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。

    イギリス 78回
    フランス 71回
    ドイツ  23回
    日本    9回

    日本は、極端に少ないのです。
    日本はそもそも争い事を好まないのです。

    そして明治天皇の有名な御歌・・・

    四方の海
    みなはらから(同胞)と思う世に
    など波風の 立ちさわぐらむ

    「みなはらから」です。
    平和を希求し、人々が互いに争うことなく、人々が千代に八千代に栄えようとする陛下の御心が、この一首をみてもあきらかです。

    要するに、君が代を否定する人たちは、
     日本の伝統を知らない(教養がない)、
     平和を守る気持ちがない(好戦的)、
     人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)
    残念な人たちである、ということです。
    もっというなら、ただのクズだ、ということです。


    ※この記事は2009年7月の記事の再掲です。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 逢はでこの世を過ぐしてよとや


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
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    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    伊勢の和歌は、我が国が天皇のシラス国であり、天皇のもとに老若男女を問わず、すべての人が「おほみたから」とされてきたことを象徴する歌です。
    言い換えれば伊勢の歌は、究極の民主主義を謳歌する歌です。
    そして伊勢の歌は女性の勁(つよ)さをあらわした歌でもあるのです。


    20190330 東京書籍・図説国語_伊勢
    東京書籍・図説国語より
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    百人一首の19番に、伊勢の和歌があります。

     難波潟 短き蘆の ふしの間も
     逢はでこの世を過ぐしてよとや
    (なにはかたみしかきあしのふしのまもあはてこのよをすくしてよとや)

    ねず式で現代語に訳すと、次のようになります。
    「大阪湾の干潟にある蘆(あし)の茎の
     節と節の間くらいの短い時間さえ
     逢わないでこの世を過ごすことなんて
     できないとおっしゃったのは
     あなたですよ」

    なにやらちょっと攻撃的なような感じもしますが、一般な解釈は、
    「難波潟に生える蘆の節と節の間のように
     短い時間でさえも、あなたにお逢いできずに
     この世を過ごせというのでしょうか」
    (東京書籍・図説国語、冒頭の図)というものです。

    これですと、まるで女性である伊勢が、あたかも上目遣いで男性に媚びているようです。
    実際、そのような解釈を堂々と書いているものもあります。
    しかし、歌の背景をよくよく調べていくと、全然そうではないのです。

    伊勢は平安前期の女流歌人であり、その後の平安中期を代表する和泉式部や紫式部、清少納言などの女流歌人たちに、たいへん大きな影響を与えた女性です。
    伊勢がいたからその後の平安女流歌人たちの興隆があったといってもよいと言えるのです。

    伊勢は従五位上・藤原継蔭(つぐかげ)の娘です。
    父が伊勢守であったことから、伊勢と呼ばれるようになりました。
    十代で優秀さが認められて、宇多天皇の中宮(ちゅうぐう、天皇の妻のこと)藤原温子(ふじわらのあつこ)のもとに仕えるようになるのですが、その藤原温子は、時の権力者である藤原基経(ふじわらのもとつね)の長女です。

    藤原基経は、我が国初の「関白」となった人です。
    つまり、たいへんな実力者です。

    その娘の温子の弟が、貴公子でありイケメンの藤原仲平(ふじわらのなかひら)です。
    温子と仲平は仲の良い姉弟だったそうで、仲平はよく姉の温子のもとに出入りしていました。

    そして、そこで働く同じ年頃の伊勢をみそめて、二人は互いに大熱愛になるのです。
    二人はともにまだ十代ですし、互いに初めての相手です。
    どれだけ熱かったか。

    「もう蘆の茎の節と節の間のような短い時間さえ
     お前なしで生きていくことなんて考えられないよ」

    「うれしいわ。ずっと愛してくださいませね」

    みたいな会話があったかもしれません。

    ところがところが、
    その仲平が、熱愛のさなかに、別な女性と結婚してしまうのです。

    この時代、何より重要視されたのが、家の存続です。
    そもそも給料の概念さえも、いまとまったく違います。
    現代日本では給料は働く人、個人に支払われますが、我が国では、ほんの少し前まで、給料は家(世帯)に支払われるものだったのです。

    ですから偉い人であればあるほど、何より家柄を維持することが求められました。
    時の最高権力者であった父の藤原基経からしてみれば、次男の嫁とはいえ、たかが国司ふぜいの娘をあてがうわけにはいかないのです。
    しかるべき身分の女性を妻にしなければ、家格の釣り合いが取れないのです。

    同時に最高権力者である父の命令となれば、息子の仲平は拒むことはできません。
    こうして仲平は、たとえどんなに熱愛のさなかにあっても、高い身分の家柄の善子(よしこ)と結婚せよ、と言われれば、そのようにするしかなかったのです。
    これはいたしかたないことです。

    けれど女性の伊勢にしてみれば、これは大ショックです。
    ましてこの頃の伊勢は、まだ十代の後半です。
    十代の女性の熱い思いは一途そのものだったのに、相手の男性が別な女性と結婚してしまった。

    傷心の伊勢は、その頃父が大和に国司として赴任していたので、中宮温子におひまをいただいて、都を捨てて父のいる大和に去りました。
    その大和で伊勢が詠んだ歌があります。

     忘れなむ世にもこしぢの帰山
     いつはた人に逢はむとすらむ

    現代語訳すると
    「もう忘れてしまおう。あの人とのことは、もう峠を越えたんだから・・・」
    伊勢の悲しい気持ちが、そのまま伝わってくるではありませんか。

    けれどもあまりに優秀な女官である伊勢を、世間は放ってはおけません。
    一年ほど経ったある日、中宮温子から伊勢のもとに、
    「再び都に戻って出仕するように」
    とお呼び出しがかかるのです。

    中宮温子は、ほんとうにやさしい、思いやりのある女性です。
    弟の仲平と伊勢のこともちゃんと知っています。
    それでも、
    「あなたのように才能のある女性が、
     大和などでくすぶっていてはいけません。
     もう一度私のところに出仕しなさい。
     あなたはもっとずっと活躍できる女性です」
    と宮中に呼んでくださったのです。

    中宮からの直接のお声掛かりとなれば、伊勢に断ることはできません。
    伊勢は、再び都に戻って温子のもとに出仕します。
    もともと頭もいいし美人だし気立てもよい、才色兼備の女性です。
    都にあって伊勢は、各種の歌会でもひっぱりだこになるし、頼まれて屏風歌(びょうぶうた)を書いたりもしています。
    要するに宮中にあって、とても輝く存在となるのです。

    そんなある日、宇多天皇が、伊勢の家で見事に咲いていると評判の、女郎花(をみなえし)の献上を命じました。
    それを知った仲平が、伊勢に歌を贈るのです。
    その歌は、
    「一度お会いしませんか?」
    というものでした。

    このとき仲平は、すでに左大臣になっています。
    左大臣というのは、朝廷で太政大臣に次ぐ位(くらい)です。
    すでに仲平は、強大な権力を手にする男になっていたのです。

    そんな強大な権力者である左大臣の仲平が「お会いしませんか?」というのは、お伺いではありません。
    権力の強大さを考えたら、これは命令です。

    和歌には和歌でお返しするのが礼儀です。
    伊勢は仲平に歌を送りました。

     をみなへし 折りも折らずも いにしへを
     さらにかくべき ものならなくに

    現代語にすると、
    「女郎花(おみなえし)の花は、
     折っても折らなくても、
     昔のことを思い出させる花ではありませんわ。
     私は今更あなたのことを心にかけてなどいないし、
     これを機会に昔を懐かしむ気持ちもありません」

    キッパリしたものです。
    相手がどのような政治権力者であっても、あたしはもう逢わないと決めたのです。
    二人は別々の人生を歩くと決めたのです。
    だからあたしには、あなたがどんなに昔を懐かしく思おうと、私にその気はまったくありません、というわけです。

    男性の私には、仲平の気持ちがわかる気がします。
    仲平の人生は順風満帆を絵に描いたような人生です。
    15歳で元服していますが、このときの加冠は、宇多天皇が直々に行ってくれています。
    19歳で昇殿して殿上人となり、後に左大臣にまで昇格しているのです。
    大手一部上場企業に例えれば、最初から出世コースで58歳で専務取締役になったようなものです。
    けれどそんな仲平にとって、『五番街のマリーへ』の歌詞じゃないけれど、若い頃に真剣に愛した伊勢に「悲しい思いをさせた、それだけが気がかり」です。

    男の愛は責任です。
    なんとかして伊勢を幸せにしてあげたい。
    そしていまや俺は左大臣になった。
    伊勢の幸せを実現できるだけの実力だってある。
    だから変な欲望ではなく、ただ会って、食事でもして、あのこぼれ落ちるような笑顔を見せてもらって、彼女に何か望みがあるのなら、どんなことでもかなえてあげたい。
    「おまえを愛したひとりの男として、
     おまえへの愛の責任をまっとうしたい」
    それは独りの女性を心から愛した「男の想い」です。

    けれど伊勢は女性です。
    赤の他人、別な人、異なる人生、関係ない他人と、もう決めたのです。

    そして、このときに伊勢が詠んだのが、冒頭の和歌です。

    この和歌には、伊勢集に、詞書(ことばがき)があります。
    次のように書かれています。
    「秋の頃うたて人の物言ひけるに」

    「秋の頃」というのは、まさに女郎花(おみなえし)の花が咲く頃です。
    「うたて人」というのは、嫌な奴とか、大嫌いな奴、気味の悪い奴、不愉快な奴といった意味の言葉です。
    伊勢は、左大臣である仲平を、「ただの嫌な奴」と書いているのです。
    そしてその詞書に続く歌が冒頭の、

     難波潟 短き蘆の ふしの間も
     逢はでこの世を 過ぐしてよとや

    です。
    「難波の干潟にある葦にある節と節の間くらいの短い時間さえ
     おまえと逢わずにいられようか。
     ずっと一緒だよ、とおっしゃったのは、あなたですよ・・・」

    要するに伊勢は、自分を裏切った(と感じた)仲平が、たとえ左大臣という政治上の要職者にまで出世し、巨大な権力と財力を得るようになったとしても、許すことが出来ないと詠んでいるのです。

    でも本当にそうなのでしょうか。
    あれほど愛した仲平を、伊勢は、ただ許せない、嫌いだと、それだけなのでしょうか。

    すでに仲平には「をみなへし折りも折らずもいにしへを・・」と和歌で返事を書いているのです。
    にもかかわらず、わざわざ「うたて人の物言ひけるに」とこの歌を残したのは、
    「揺れる想いに自分なりのけじめをつけようとした」のではないでしょうか。

    というわけで、この和歌の勉強会をしたとき、参加いただいた女性陣に、伊勢の思いを聞いてみました。

    「男だけじゃないわ。女だって引きずるわ」
    「女としてというより、人としてのプライドの問題じゃない?」
    「もしかすると伊勢は、仲平の気持ちを試したかったのかも」
    「でも、別れたのにまた言いよってくる男って軽すぎない?」
    「伊勢は人として成長したんじゃないかな。別れはつらいけどさ、心に区切りをつけたんじゃないかしら」
    「それって、あんときの私じゃないわよ!ってこと?」
    「そうそう(笑)」
    「でもさあ、そこまで人を好きになれるって、うらやましいわあ」・・・・
    ものすごい盛り上がりになりました。

    さて、その後の伊勢の人生です。
    やがて伊勢は宇多天皇の寵を得て、皇子の行明親王を産み、伊勢の御息所(みやすどころ)と呼ばれるようになりました。
    御息所と呼ばれるのは、宇多天皇にとって、数ある妻(当時は一夫多妻制です)の中で、伊勢のもとが一番くつろくという意味です。

    ところがせっかく授かった皇子は、五歳(八歳とする説あり)で夭折(ようせい)してしまいます。
    悲しんだ宇多天皇は皇位を譲位され、落飾して出家されてしまわれました。
    そして伊勢がお世話になった中宮温子も薨去(こうきょ)されました。

    憂いに沈む伊勢は、この頃三〇歳を過ぎていたけれど、宇多院(もとの宇多天皇)の第四皇子である敦慶親王(25歳)から求婚され、結ばれて女児・中務(なかつかさ)を生んでいます。
    中務は、立派な女流歌人として、生涯をまっとうします。

    伊勢の歌は、古今集に23首、後撰集に72首、拾遺集に25首が入集し、勅撰入集歌は合計185首に及びます。
    これは歴代女流歌人中、最多です。
    そして伊勢の家集の『伊勢集』にある物語風の自伝は、後の『和泉式部日記』などに強い影響を与え、また伊勢の活躍とその歌は、後年の中世女流歌人たちに、ものすごく大きな影響を与えました。

    百人一首で、伊勢の歌の前後を見ますと、
    17番 在原業平(輝かしい王朝文化)ちはやぶる神代も聞かず竜田川
    18番 藤原敏行(身分差と恋の葛藤)住の江の岸に寄る波よるさへや 
    19番 伊勢  (・・・・) 難波潟短き蘆のふしの間も
    20番 元良親王(心と権力の葛藤) わびぬれば今はたおなじ難波なる
    21番 素性法師(兵士に捧げる祈り)今来むといひしばかりに長月の
    という流れの中に、伊勢の歌が配置されています。

    伊勢のところの(・・・・)には、どのような言葉が入るでしょうか。
    筆者はここに(権力から祈りへ)という言葉を入れたいと思います。

    伊勢はもともとは、関白藤原基経、左大臣仲平らといった政治権力の中枢にいた女性です。
    けれど仲平との別れを経て、祈りの世界の住人である宇多天皇やその子の敦慶親王と結ばれて子をなしているからです。
    このことは伊勢が、「権力の世界」から「祈りの世界」へと、生きる世界を昇華させていったことを示しています。

    そしてその伊勢の心の成長を、百人一首の選者の藤原定家は、国家統治を権力ではなく、祈りの世界において神々と接触される天皇をこそ国家の頂点とあおぐ形(これを古語でシラス(知らす、Shirasu)と言います)へと昇華させ、完成させていった日本の統治の形に重ねたのではないでしょうか。

    いまも天皇は国民の安寧を日々祈られる祈りの御存在です。
    伊勢の和歌は、我が国が天皇のシラス国であり、天皇のもとに老若男女を問わず、すべての人が「おほみたから」とされてきたことを象徴する歌です。
    言い換えれば伊勢の歌は、究極の民主主義を謳歌する歌です。

    そして伊勢の歌は、
    哀しいまでの女性の勁(つよ)さをあらわした歌でもあるのです。


    ※この記事は、拙著『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』https://amzn.to/2VbGh4f
    の文に大幅に加筆リニューアルしたものです。

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  • やすらはで 寝なましものを さ夜更けて


    百人一首にある赤染衛門の歌は、ひとりの女性の小さな思いやりが、ひとりの男をたくましく成長させ、その男の未来を開いたことを歌いあげています。そこにこの歌が百人一首の中盤に置かれた意味あります。

    20170729 赤染衛門
    画像出所=https://blogs.yahoo.co.jp/tcfhj507/19197588.html
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     やすらはで
     寝なましものを
     さ夜更けて
     かたぶくまでの
     月を見しかな


    小倉百人一首五十九番にある赤染衛門(あかぞめえもん)の歌です。
    歌を現代語訳しますと、
    「あなたが来ないとわかっていたら
     さっさとやすらいで寝てしいましたものを、
     夜が更けて、
     西に傾く月を見てしまいましたわ」
    といった意味になります。

    たいへんにわかりやすい歌で、この現代語訳は、たいていのどの本をご覧頂いても、同じ訳が書かれています。
    なぜならこの歌には、後拾遺集に詞書(ことばがき)があり、そこに次のように書いてあります。
    「中関白少将に侍りける時、
     はらからなる人に物言ひわたり侍りけり。
     頼めてまうで来ざりけるつとめて、
     女に代りてよめる」です。

    「女に代りてよめる」ですから、赤染衛門は、誰か、他の女性に代わってこの歌を書いているわけです。
    現代語に訳すと、
    「後に中関白にまで出世することになる
     藤原道隆さまが
     まだ少将だった時代に、
     自分の『はらから』
     つまり姉妹同然の女性の友達のところに
     来るといって来なかったので、
     その女性に代わって
     詠んであげた歌です」
    となります。

    それで、
    「朝まで起きて待っていたけれど、
     さっさと寝てしまえば良かったわ」と詠んでいるわけです。
    ただそこから、ただの皮肉や愚痴しか読み取らないのでは、この歌がすこしもったいないです。

    というのは、この歌は、百人一首の59番という、1番から100番までの歌の、ちょうど真ん中、つまり500年続いた日本の安定と繁栄の時代の、まさにそのピークとなった中盤を代表する、9首の女流歌人の歌の中のひとつとして、百人一首は紹介しているからです。
    つまりこの歌は、平和と繁栄の、ひとつの象徴の歌でもあるわけです。

    この歌を詠んだ赤染衛門は、清少納言よりも10歳年上、和泉式部や紫式部からみるとおよそ20歳年上にあたる先輩女性です。
    藤原氏の全盛期を築き、有名な
     この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
     欠けたることも なしと思へば
    と即興歌を詠んだ、藤原道長の妻である源倫子(みなもとのりんし)に仕えました。
    この二人の夫妻の娘が中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし)で、その彰子に仕えたのが、紫式部や和泉式部です。

    その紫式部が、赤染衛門について、紫式部日記で次のように書いています。
    「丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。
    ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。」

    現代語訳しますと、次のようになります。
    「丹波守大江匡衡の奥方(赤染衛門のこと)を、
     彰子様や道長様は匡衡衛門(くにひらえもん)と呼んでいます。
     特別高貴な生まれではありませんが、
     とても気品のある方です。
     歌人を自負して何かにつけて詠みまくるということはされませんが、
     世に知られている歌はどれも、
     何気ない折節の歌でさえ惚れ惚れとするものです。
     この方と比べると、
     上の句と下の句がちぐはぐなみっともない歌を
     詠んで得意になっている人が、
     憎らしくも可哀想に思えてきます。」
    と、どうやら紫式部の言う、「憎らしくも可哀想」な相手というのが、清少納言のことのようなのですが(和泉式部という説もあります)、そのことはさておき、人生の先輩でもあり、歌人としても和泉式部と並び称せられた赤染衛門には、次のようなエピソードもあります。

    それは息子の大江挙周が重病を患ったときのことで、これについて、「病気の原因は住吉様の祟りではないか」という人がいたのだそうです。
    神様のタタリというのもおかしな話ですが、これを聞いた赤染衛門、母として堂々と、その住吉様にお参りして次の歌を奉納しているのです。

     代わらむと祈る命はをしからで
     さてもわかれんことぞ悲しき

    重病を患う我が子に、自分が身代わりになってあげたい。我が子のためならば自分の命さえも惜しくないと、歌の意味は、私の下手な現代語訳よりも、歌そのものをお読みいただいたほうが何倍も感じるものがあろうかと思います。

    その、ある意味、堂々とした、そして我が子を愛する母の気持ちは、住吉様にもしっかりと通じ、なんと挙周の重病は完治したのだそうです。
    母の一念って、すごいものですね。

    また、後輩にあたる和泉式部が、最初の旦那である和泉守・橘道貞と離婚して都に帰ってきたときには、心配した赤染衛門が、和泉式部に歌を贈っています。

     うつろはで しばし信太(しのだ)の 森を見よ
     かへりもぞする 葛のうら風

    「信太の森」というのは和泉国を示す枕詞ですから、「信太の森を見よ」というのは、もうしばらく夫の様子を見るようにしたら?というメッセージです。
    現代語訳すると次のようになります。

     心移りせずに、しばらく様子を見らたいかが?
     葛に吹く風で葉がひるがえるように、
     旦那がひょっとしたきっかけで
     帰って来ることもあるのですよ。

    赤染衛門のやさしい気遣いが伝わってくる歌ですが、その赤染衛門は、夫である文章博士・大江匡衡(おおえのくにひら)と、いわゆる「おしどり夫婦」で、めっぽう夫婦仲が良く、そのために夫の匡衡(くにひら)とまるで異体同心だというわけで、匡衡衛門(くにひらえもん)のあだ名で呼ばれたくらいの女性です。

    だからこその、やさしい気遣いだったと思うのですが、和泉式部はこの歌に次のように返歌しています。

     秋風は すごく吹くとも 葛の葉の
     うらみがほには 見えじとぞ思ふ

    「秋」は「飽き」、「うらみ」は「恨み」と「裏見」の掛詞で、現代語訳すると、
     夫は私のことに飽きてしまったのですわ。
     そんな夫の心は、私の心に
     まるで秋の台風の風のように吹き付けるけれど
     風にひるがえる葛の葉は
     恨み顔に見えないと思いますわ。

    実はこの和泉式部の歌は、赤染衛門の別な歌

     恨むとも今は見えじと思ふこそ
     せめて辛さのあまりなりけれ

    をモチーフにしています。
    赤染衛門のこの歌は、
    「恨んでいるように見られたくないのは、とても辛いあまりのことですわ」という気持ちを詠んでいるもので、要するに、とても悲しい思いをして、思わず恨みたくなるような気持ちになっても、それでも、憎しみにまみれたような、悲しい女になどなりたくない。
    どこまでも美しい心を失いたくない。でもつらい。
    だから、せめて、外見だけでも笑顔を絶やさないでいるのですわ」
    といった心情を描いた和歌になります。

    和泉式部は、その歌をモチーフに、離婚の悲しい思いをしていても、
    「うらみがほには 見えじとぞ 思ふ」
    と詠んでいるわけです。
    「〜ぞ」というのは、断定を伴う強調で、強い気持ちを意味しています。

    まあ結局、夫と別れた和泉式部は、元のさやにおさまることなく、その後、為尊親王との深い愛へと向かい、その親王殿下の薨去によって、さらに深い悲しみを味わうことになるのですが、それはまた、別のお話。
    要するに赤染衛門は、部下や周囲の女官たちをやさしく気遣う、素晴らしい先輩でもあったわけです。

    しかも赤染衛門の教養の深さは、これまた半端なものではありません。
    なんと『栄花物語』という平安中期の、かな文字による歴史書を著しているのです。

    『栄花物語』は、宇多天皇(887年~897年在位)から堀河天皇の時代の1092年までの、15代約200年の宮中の歴史を描いた物語で、なんと全40巻という膨大な史書になっています。
    このうち、前半の正編30巻が赤染衛門の作で、藤原道長が娘たちを次々と天皇に嫁がせ、栄華を極めて亡くなるまでを描いているのですが、道長は娘たちを高官に嫁に出すことで宮中の権力を握るのですが、やはり周囲には嫉妬もあって、いろいろと言われてしまうわけです。

    このために道長の子供たちは、陰口を言われたりして子供心を傷つけ、結局、若くして先立たれたり、息子が出家してしまったりと、道長は父親として、ものすごく悲哀を味わうわけです。
    そしてそうした経験の中で、道長自身が人として成長していく様子が描かれています。

    つまり『栄花物語』は、ただの史書というのではなくて、ひとりの人物のヒューマンドラマにもなっているわけで、その分、たいへんに味わい深い史書となっています。
    ところが後編は、道長のような核となる人物もなく、文体も全然異なっていて、はっきりいって面白くない。
    そこでおそらく赤染衛門ではなく、別な人が、続きを書いたのであろうと言われています。

    ちなみにこの『栄花物語』、全文がかな文字で書かれています。
    完成は道長の死後(1028年)からまもない1035年ごろとされていますが、当時は男性は漢文を用いるものとされていたので、栄花物語は女性が女性に読ませるために書かれたのであろうといわれています。
    おそらく皇女となられる方々や、宮中の女官たちの教育用に書かれたのであろうと思いますが、それにしても、そういう、いわば教科書の執筆者となった女性が11世紀にいた、という事実は、これは世界史的に見ても、他にまったく例のないことで、すごいことだということができます。

    赤染衛門には、他にも
     いかに寝て
     見えしなるらむ うたたねの
     夢より後は 物をこそ思へ(新古1380)
    (どんな寝方をしたから、愛する夫が夢に出てきたのだろうと、うたたねの夢から覚めて、物思いにふけっているわ)

     思ふことなくてぞ 見まし 与謝の海の
     天の橋立 都なりせば(千載504)
    (せっかくお友達と観光名所の天の橋立にやってきたけれど、ここが都で、そばに夫がいたのなら、きっと物思いもなく存分に美しい眺めを堪能することができたでしょうに)

    といった、ほのぼのとした愛の歌をたくさんのこしています。

    けれど、ではどうして、百人一首の選者である藤原定家は、赤染衛門のこの「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」を、選歌したのでしょうか。
    そもそもこの歌は、赤染衛門が「自分のこと」ではなく、「他の女性に代わって詠んだ」歌です。
    そしてその相手は、時の権力者であり、従一位、摂政、関白、太政大臣である藤原兼家の長男の藤原道隆です。
    いわば政界のサラブレットであるわけで、そういう家に育った子というのは、幼い頃から非常に厳しい躾(しつけ)を受け、さらにある種の帝王学を身に付けるように育てられるものです。

    その道隆が、赤染衛門の「はらから」ということですから、「はらから」と呼んで良いほど親しい女性か、あるいは姉妹のもとに、お通いになるところ、残念ながら、お越しにならなかったわけです。
    お越しにならなかった理由は、職務に忙しかったためか、何かの酒席を突然おおせつかったためであったのか、その理由はわかりません。
    赤染衛門の立場からすれば、それは斟酌すべきことでもないし、最近の流行語の忖度(そんたく)をするようなことでも、またすべきことでもありません。
    ただ、明け方近くになっても、お越しにならなかった、という事実があるだけです。

    この時代は、ご存知のように通婚(かよいこん)社会でしたが、身分のある貴族の場合、男性が女性のもとに通うということは、いわゆる後の世の「夜這い」のようなイメージで考えたら大きく間違えてしまうものです。
    はじめに、男性が女性のもとに求愛の和歌を送るのですが、その和歌は、当然のことながら、男性本人が持参するわけではありません。
    男性の側の家の舎人(とねり=家人のこと)が、相手の女性の家に届けます。
    こっそりではありません。
    堂々と正面玄関から、
    「ごめんくださいませ。
     藤原の道隆様のもとからお使いに参りました○○でございます。
     ご開門願います」
    と相手の女性の家に伺います。

    女性の家も、もちろん女性の一人住まいではありません。
    家族や家人たちが、こぞって同居しています。
    女性の家の門番は、当然のことながら、家の主人に、その和歌の入った書簡を取り次ぎます。
    書簡に、いまのような「親書」という概念はありません。
    娘のもとに男性から和歌の入った書簡が届いたとなれば、主人は自分で内容を確認するか、あるいは妻(娘にとっては母)にその書簡を渡して、内容を吟味させます。
    そして、これはお受けすべき和歌だということになると、その歌を娘(本人)に渡し、返歌を作らせます。
    できあがった返歌は、道隆の使いに持たせるのですが、その間、使者となった舎人は、女性の側の家で、それなりの接待を受けます。
    とりわけ相手が藤原兼家の長男の使いとなれば、それはほとんど賓客扱いです。

    返歌が当日には間に合わないときは、後刻返歌を持参するからと、舎人には先におひねりを渡して帰します。
    娘の歌ができると、その歌は娘の家の舎人によって道隆の家に持参されます。
    この時代には、郵便もEメールもないのです。

    この間、娘の家では大騒ぎです。
    なにせ、道隆様という高貴な方がお通いになるのです。
    屋敷内はきれいに掃除され、花などが飾られ、娘はおめかしするし、道隆とともにやってくる舎人たちの宿所や食事の手配が行われます。

    こうしていよいよ道隆がやってくるわけですが、当然のことながら、道隆はひとりでやってくるわけではありません。
    牛車に揺られて、大勢の家人たちと一緒にやってきます。
    そして、道隆が娘のもとでお励みなさっている間、道隆の家人たちには食事や酒が振る舞われ、また、おやすみいただけれるように、ちゃんと手配がなされます。

    道隆様がいつお帰りになるのか。
    それは道隆様にしかわかりません。
    ですから、娘の家の家人たちも、道隆の家人たちも、基本、その間は、交替で仮眠をとったりしながら、お帰りをお待ちするわけです。

    逆に、この件のように、肝心の道隆様がなかなかやって来ないとなると、娘の家の家人たちは、全員、いつやってくるかわからない道隆様の来訪を、みんなで起きて待っているわけです。
    つまり・・・これはたいへんなことなのです。

    以上はいささか大げさなことに思えるかもしれませんが、もともと我が国では、男女の交合は、イザナキ、イザナミ以来の、神聖な、子を生むための神事です。
    神事(しんじ)は寝事(しんじ)でもあるわけですし、寝所(しんじょ)は神所(しんじょ)でもあるわけです。
    肉体の結合だけなら、昆虫や四足の動物でも行いますが、人の肉体は、御魂の乗り物です。
    つまり男女の交合は、男女の御魂を結び、新しい生命をいただく神聖な行事とされていたのです。

    そのような神事が行われるわけですから、娘の家では、もちろん道隆様の家系と結ばれれば未来が開けるということもありますが、それ以上に、神聖なこととして、父母から家人一同、しっかりと準備して、一晩中起きてお越しをお待ちするわけです。

    ところがこれが「来なかった」ということになると、それはとっても残念なことです。
    だから赤染衛門は、来ないとわかっていたのなら、みんなやすらいで寝たであろうに、夜明けまでみんなが待っていて、夜明けの月を眺めることになってしまいましたよ」と、道隆に歌を送っているわけです。

    明け方というのは、当時の宮中では、「朝廷」という言葉があるくらいで、夜明けとともに宮中への出仕を行っていたことから来ています。
    貴族たちは、太陽が水平線から覗くまでに朝廷に出仕します。
    太陽が昇ると、門が閉められ、遅刻→欠勤扱いとなります。
    この時間管理は厳しくて、たとえ皇族であっても、遅刻をすれば締め出されています。
    それだけ時間に厳しかったのです。
    ですから、夜明けになってもお越しにならないということは、完全に、その日は棒に振ったことになるわけです。

    このような背景がありますから、赤染衛門の歌は、若い道隆には、たいへんな薬となったであろうことは、容易に想像がつきます。
    大勢の舎人が関与していますから、赤染衛門の歌は、秘密の通信ではないのです。
    全部、オープンです。
    どのような歌が送られたか、何があったのかは、当時の都人(みやこびと)は全員が知るような話であったわけです。

    先程も書きましたが、道隆は、高貴な家の長男です。
    しかも少将の地位にあれば、急な用事が入ったり、断れない酒席等があって、娘のもとに訪問する予定であったものが、突然できなくなったということは、これは十分にありえることです。
    しかし、行けないなら行けないで、ちゃんと娘の家にその旨を伝える使いを出すことは、最低限のモラルです。
    なぜなら、相手の家にも迷惑をかけることになるからです。
    おそらく、道隆は、明け方近くまで、なんとかして訪問しようと心得ていたに違いありませんが、それでも結果として、「かたぶくまでの月」を見せてしまったことは、道隆の配慮の足らなさということになります。

    我が国は、天皇のもと、あらゆる階層のあらゆる人が、すべて「おほみたから」とされる国です。
    政治権力者というののは、その「おほみたから」の生活に責任を持つ人のことを言います。
    これが我が国における「皇臣民」の考え方です。
    まずは公家の側、つまり人の上に立つものから身を正せということは、これは我が国の律令にも明確にうたわれていることです。

    したがって、若き日の道隆には、この事件は、大きな薬となったであろうことは容易に察することができます。
    そして道隆は、この件で学び、おそらく生涯二度と、配慮に欠いて舎人や民を困らせることがないように生涯、心がけをされたに違いありません。
    だからこそ、藤原道隆は、若くして父の後を継ぎ、誰からも認められる正二位、摂政、関白、内大臣にまで出世し、42歳という若さで没しています。

    つまり赤染衛門のこの歌は、単に、友人の代作をしたというだけではありません。
    思いやりをたいせつにすることによって、きわめて安定した社会が築かれたこと、
    そしてひとりの女性の小さな思いやりの歌が、ひとりの男をたくましく成長させ、その男の未来を開いたこと、

    赤染衛門の歌は、ひとりの女性の小さな思いやりが、ひとりの男をたくましく成長させ、その男の未来を開いたことを高らかに歌いあげています。
    そこにこの歌が500年の歴史を描いた一大抒情詩としての百人一首の中盤に置かれた意味あるのです。

    ※この記事は2017年7月の記事のリニューアルです。
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    凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、そうした日本の本質がわからないような政治権力者は、「心あてに折ってしまえ(追放してしまえ)」と詠んでいます。こうした厳しさは、民衆の生活に責任を持つ政治においては、絶対に必要なことです。

    20190425 凡河内躬恒
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    百人一首の29番に凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌があります。

     心あてに折らばや折らむ
     初霜の置きまどはせる白菊の花

    (こころあてに おらはやおらむ はつしもの
     おきまとはせる しらきくのはな)


    歌を現代語訳すると、
     あてずっぽうにでも、折れるなら折ってしまおう。
     初霜が降りているのと見惑わせる白菊の花
    となります。

    凡河内躬恒は、身分は決して高くなかった人ですが、後年、藤原公任(ふじわらの きんとう)によって、三十六歌仙のひとりに選ばれました。
    紀貫之(きの つらゆき)とも親交のあった和歌の世界のエリートです。
    そしてこの凡河内躬恒は、たいへんに思慮深い、深みのある歌を多く詠む大歌人(詠み口深く思入りたる方は、又類なき者なり)と言われた人でもあります。

    ところがこの歌を正岡子規は、
    「初霜が降りたくらいで
     白菊が見えなくなるわけがないじゃないか」
    と酷評しています。
    このため多くの訳も「霜の降る寒い朝に、白菊の花を折ろうと思っても、霜か白菊か区別がつかないよ。仕方がないから、あてずっぽうに折ってしまおう」といった、あくまでも霜と白菊に限定した解釈しかなされていいないようです。

    正岡子規が指摘しているように、いくら霜が白いといっても、菊の花と霜の区別くらい、誰だって簡単に見分けがつくことです。
    では、そんな歌のどこが名歌といえるのでしょうか。

    実はこの歌を読み解く最大のキーワードは「白菊」です。
    菊の御紋は、いったいどういう人たちが用いるものでしょうか。
    わたしたちがよく知る「錦の御旗」に代表される菊の御紋は、皇室の御紋で、正式名称は「十六八重表菊」といいます。
    戦前までは、皇族になると同じ「菊の御紋」であっても花びらの数が違っていて「十四一重裏菊」の御紋になります。

    また、有栖川宮様、高松宮様、三笠宮様、常陸宮様、高円宮様、桂宮様、秋篠宮様なども、それぞれ菊の御紋をお使いになっておいでになりますが、それぞれ図案はご皇室の「十六八重表菊」とはデザインが異なるものになっています。
    ご興味のある方は、ネットなどでお調べいただいたら良いですが、要するに菊の花というのは、そのままご皇室を暗示させる用語になります。

    そして「霜(しも)」は、同じ音が「下(しも)」です。
    つまり凡河内躬恒は、たとえご皇族であったとしても、下との境目の見分けがつかないなら、手折ってしまえ!と言っているのです。
    凡河内躬恒は、日頃はとてもおだやかな人であったと伝えられています。
    けれどその穏やかな人が、この歌では実はものすごく過激な発言をしているのです。

    所有を前提とする社会では、上の人は下の人を所有(私有)しますから、下の人が上の人を批判したり、「手折ってしまえ」などと過激な発言をしたら、その時点で殺されても仕方がないことになります。
    ところが、歌がうまいとはいっても、身分は下級役人でしかない凡河内躬恒が、このような過激な発言をしても、まったく罪に問われることはない。
    つまり、この歌は、ひとつには凡河内躬恒が生きた9世紀の後半から10世紀の前半にかけての日本、つまり千年前の日本に、ちゃんと言論の自由があったことを証明しています。

    この歌の意味は、詠み手の凡河内躬恒が「白菊と霜の見分けがつかない阿呆」なのではありません。
    菊の御紋は、一般の民衆を「おほみたから」としているのです。
    ですから権力者が統治する下々の人々は、権力者から見たときに、それを「おほみたから」とするご皇室の方々と同じ位置にあるのです。
    そういうことがわからないなら、それがたとえ御皇族の方であったとしても、「手折ってしまえ」と凡河内躬恒は詠んでいるのです。

    初霜と白菊は、同じようにみえるものであっても、その本質がまるで異なるものです。
    そして民衆は「支配するもの」ではなくて、
    民衆は、天皇の「おほみたから」です。
    ところが、権力を得ようとする人や、権力に安住する人、あるいは権力を行使する人は、ややもすれば、自分よりも下の人を、自分の所有物と履き違えます。
    その区別は、実はとてもむつかしい・・つまり両者はとても似ているのです。

    言葉にすれば「シラス」と「ウシハク」の違いです。
    けれど、その違いは、権力に目がくらむと、まったく見えないものになります。
    なぜなら「シラス」も「ウシハク」も、どちらも統治の基本姿勢のことであり、「統治」という意味においては、白菊と霜の白い色のように、同じ色をしているからです。

    政治のことを、昔の人は「色物(いろもの)」と言いました。
    虹を見たらわかります。
    虹は七色と言われ、虹を見ると赤から黄色、青の色があるのがわかりますが、ではどこまでが赤で、どこから黄色になり、青になるのか、その境界線はきわめて曖昧です。
    しかし境界は曖昧でも、やっぱり赤は赤、青は青です。

    だからこそ我が国は、古来から「シラス」を統治の根本としてきました。
    けれど、いつの時代にも「ウシハク」人はいるのです。
    その違いがわからないなら、「心あてに折らばや折らむ」、
    つまり当てずっぽうでも良いから折ってしまえ(放逐してしまえ!)と凡河内躬恒は詠んでいます。

    これを我が国の高位高官の人が言ったというのなら、いささか傲慢さを感じてしまうのですけれど、身分の低い凡河内躬恒が、うたいあげたところに、この歌の凄みがあります。

    こうした文化を土台にして織りなされてきたのが、我が国の歴史です。
    そしてここでいう「我が国」というのは、神武創業以来の、あるいは縄文以来の日本という「ネイション(Nation)」のことをいいます。

    「ネイション」とは、文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団のことをいいます。
    一方で、昭和22年の日本国憲法によって形成された現代の日本国は「ステイト(State)」です。
    「ステイト」とは、国家、政府、行政組織などの政治的組織のことです。
    ですから、徳川政権であった江戸時代は、日本というネイションの下に、徳川幕府というステイトがあった時代ですし、
    明治日本は、日本というネイションの下に、大日本帝国政府というステイトが置かれた時代です。
    そして戦後の日本もまた、日本というネイションの下に、日本国政府というステイトが置かれた時代です。

    こうした構造の中にあって、我が国が「天皇によって、すべての民を大御宝とする」という概念が打ち出されていたことは、我々国民にとって、とってもありがたいことです。
    なぜなら、それは究極の民主主義のひとつの完成形であるからです。

    凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、そうした日本の本質がわからないような政治権力者は、「心あてに手折(たお)ってしまえ(追放してしまえ)」と詠んでいます。
    こうした厳しさは、民衆の生活に責任を持つ政治においては、絶対に必要なことです。


    (出典:『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』)
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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