• 日本武術の始祖としての建御雷神のお話


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    日本武術は、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
    そしてそれは、いわゆる世界の格闘技とは、まったく一線を画する凄みのある世界です。

    建御雷神
    20220922 建御雷神
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    先般刊行した拙著『日本武人史』から、「武術の始まり、建御雷神」をご紹介してみようと思います。

    タケミカヅチノカミは、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と書かれます。
    葦原の中つ国、つまり地上の国を大いなる国に育てあげた大国主神に、
    「天照大御神(あまてらすおほみかみ)、
     高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(も)ちて
     問(と)ひに使之(つか)はせり。
     汝(いまし)の宇志波祁流(うしはける)
     この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、
     我(わ)が御子(みこ)の所知(し)らす国(くに)と
     言依(ことよ)さし賜(たま)ひき。
     故(ゆゑ)に汝(いまし)の心(こころ)は奈何(いかに)」
    と国譲りを迫った神様です。

     古事記では、このとき建御雷神は、
    「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き放ち、
     その剣を逆さまに波の上に刺し立てると、
     その剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)をかいて
     大国主神に問い迫った」
    と記述しています。

     日本書紀は少しだけ違っていて、
    「十握剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、
     その剣を地面にさかさまに植えるかのように突き立てて、
     その切っ先の上に堂々と座る」
    と書いています。古事記は「海の波の上」、日本書紀は「地面」に剣を突き立てたとしているのですが、両者とも、その切っ先の上に大胡座をかいて座ったというところは一致しています。

     神々の技(わざ)ですから、もちろん本当に剣の切っ先の上に座られたのかもしれません。ですが普通には、現実的に、そのようなことは奇術でもなければ、まずありえないことです。そんなことは、記紀が書かれた古代においても、誰もがわかることです。ということは、これは、別な何かを象徴した記述であるということです。
     大国主神の側は、大軍を擁する大いなる国です。そこへ乗り込んだ建御雷神は、いきなり国王であった大国主神に直談判をしています。もちろん高天原からの使いですから、直接国王に面会が可能であったとしても、それでも「剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)」というのは、ありえない描写です。

     この点について、日本書紀は、経津主神(ふつぬしのかみ)と、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜を先に述べています。

     ▼経津主神(ふつぬしのかみ)の系譜
    【祖父】磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)
    【父母】磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)
    【本人】経津主神(ふつぬしのかみ)

    ▼武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜
    【曾祖父】稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
    【祖父】 甕速日神(みかはやひのかみ)、
    【父】  熯速日神(ひのはやひのかみ)
    【本人】 武甕槌神(たけみかづちのかみ)

    ここで祖父や父として書かれている神々は、古事記では、いずれも火の神が生まれることでイザナミが亡くなったときに、夫のイザナギが子の火の神を斬り、このときに飛び散った血から生まれた神として登場している神々です。古事記は、親子というよりも兄弟の神であるかのような記述になっているのですが、日本書紀では親子関係です。
     登場する神々は、いずれも剣に関係する神々です。
    磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)は、岩さえも根っこから斬り裂くという御神刀を意味する御神名です。
    子の磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)は、それだけ鋭利な剛剣を筒に入れる、すなわち鞘(さや)に収めている状態を示します。
    そこから生まれた経津主神(ふつぬしのかみ)は、日本書紀に登場する神(古事記には登場しない)ですが、後に香取(かとり)神宮(千葉県香取市)の御祭神となる神様です。
    別名を、香取神、香取大明神、香取さまといいます。

     一方、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は鹿島神宮の御祭神です。香取神宮と鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置しています。そしてこの両神は、我が国の古来の武神です。流派はそれぞれ鹿島神流、香取神道流といいます。いずれも我が国武術の正統な系譜であり、とりわけ香取神道流は、現存する我が国最古の武術流儀といわれています。いずれも最低でも二千年、もしかしたら数千年もしくは万年の単位の歴史を持つ武術流儀です。
     二千年前なら弥生時代、数千年前なら縄文時代の中期です。縄文時代には、人を殺める文化がなかったのですが、それでも集団においては正義が行われなくてはなりません。最近の研究では、縄文時代中期には青銅器、弥生時代には、すでに鉄器が使われていたことがわかっていますから、そうした古い時代から、なんらかの刀剣類が用いられていた可能性は否定できません。

     武術というのは、普通なら、体躯が大きくて力の強い者が有利です。早い話、どんなに強くても、武術を知らない大人と小学生では、大人が勝ちます。当然のことながら、小柄な小学生が、力の強くて大きな大人に勝つためには、なんらかの工夫がいります。こうして武術が工夫されます。
     工夫は、一朝一夕に完成するものではありません。天才的技能を持った人が現れ、その技能が伝承され、さらに世代を重ねるごとに技術が工夫され、それが何百年、何千年と蓄積されることで、信じられないような武術になっていきます。
     残念ながら、海外の諸国には、そうした武術の伝承がありません。世界中どこの国にも、その歴史において偉大な武術家は何人も現れたことでしょう。伝承も工夫もされたことでしょう。けれど、それらは長くても数百年のうちにすべて滅んでいます。なぜなら国が滅び、その都度、皆殺しが行われているからです。とりわけ強い武術流派は、新政権にとっては恐怖そのものですから、皆殺しどころか、その一族全員が殺されています。つまりこの世から消滅しているわけです。チャイナがそうですし、西欧でも同じです。米国には「マーシャルアーツ(martial arts)」と呼ばれる軍隊格闘技がありますが、マーシャル・アーツという言葉は、実は日本語の「武芸」を英訳した言葉です。文字通り「武の」(martial)「芸」(arts)です。

     ところが日本の武術は、何千年もの昔から工夫され、伝承されてきた武術が、いずれも途切れることなく、世代を越えて磨かれ、工夫されてきた歴史を持ちます。とりわけ歴史の中には、何人もの天才としか言いようのない武術家が現れ、技術がさらに工夫されました。また武者修行といって、一定の練達者が、遠く離れた他流派の道場に学びの旅をして技術交換をして、さらに技能を高めるといったこともさかんに行われました。
     こうして数百年、数千年と磨かれ続けてきたのが、実は日本の古来の武術です。
     よく中国武術を古いものと勘違いしておいでの方がいますが、中国武術もまた、実は日本の武術が大陸に渡って成立したものだという意見があります。

     それにしても、たった二人で、大軍を要する大国主神に直談判するというのは、これは大変なことです。もちろん中つ国は敵地ではありませんが、それでも何十、何百という軍勢を前にしての談判ですから、そこで圧倒的な武術が示されたのでしょう。このことが、「切っ先の上に大胡座をかいて座った」という描写に集約されているのではないかと思います。

     さらにその後に行われた建御雷神と、大国主神の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いの描写は、我が国古来の武術の姿を垣間見せるものになっています。
    相手となる建御名方神は、千人が引いてやっと動くような大きな岩をひょいと持ってやってたとあります。これは建御名方神が、相当な力持ちであったことを意味します。
    そして、
    「ワシの国に来て、こっそり話をするのは誰だ!」と問い、「ワシと力比べをしようではないか」と申し出ると、「まずはワシが先にお主の腕を掴んでみよう」と、建御雷神の手を取る。
    すると建御雷神の手が、一瞬にして氷柱のような剣に変わり、建御名方神が恐れをなして引き下がったとあります。

    今度は建御雷神が、
    「お前の手を取ろう」と提案して手をとると、その瞬間、建御名方神は、まるで葦の束でも放り投げるかのように、飛ばされてしまいます。飛ばされた建御名方神が逃げると、それを遠く諏訪まで追って行って降参させています。

     古事記のこの描写は、後に武術を意味する古語で「手乞(てごい)」と呼ばれるようになります。手乞は「我が国の相撲(すもう)のはじまり」とも言われますが、力と技のぶつかりあいである相撲よりも、これもまた日本の古武術をそのまま紹介しているものと言うことができます。なぜなら日本の古武術では、相手に触れられれば、触れられた場所がそのまま凶器のようになり、また、相手に触れれば、その触れた部位を、そのまま相手の急所のようにしてしまうからです。
     アニメの「北斗の拳」では、「経絡秘孔をピンポイントで突く」といった描写がなされていますが、それはアニメやマンガのなかでの話です。実践で動く相手を対象に、ピンポイントでツボを突くというのは、現実にはよほどの練達者でも難しいものです。ですから日本の古武術では、相手に触れたその場所を秘孔にしてしまいます。また、相手に触れられれば、その瞬間に触れられたところを凶器に変えてしまいます。そして、気がつけば、遠くに投げ飛ばされてしまいます。
     これは、実際に体験した人でなければなかなかわからないことかもしれません。が、実際に、腕が、手が、鋭利な剣となり、また相手をまるで紙人形でも倒すかのように、投げ飛ばしてしまうのです。

     記紀が書かれたのは、いまから1300年前です。建御雷神の戦いは、まるで魔法のような武術によって建御雷神が勝利した物語ですが、古事記が書かれた1300年前には、すでにこうした、まるで魔法のような武術が実際に存在していたことを示しています。そしてその武術は、現代もなお、実在しています。

     ひとつ経験談(体験談)をお話します。それはある古流の武術家の先生の道場を訪問したときのことです。先生から抜身の真剣を渡され、「この刀で私に打ちかかって来なさい」というのです。
    いくらなんでも真剣ではこちらが怖いので、「では木刀で」ということになったのですが、全力で大上段から先生に面打ちを仕掛けて来いというのです。
    これは恐ろしいことです。下手をすれば先生に大怪我をさせかねない。
    だから遠慮したのですが、
    「構わないから全力で打ちかかってきなさい」と、こうおっしゃる。

     そこまで言われるなら、相手は先生なのだしと腹を決めて、言われた通りに全力で上段から先生に面を打ち込むことになりました。
    先生は防具すら付けていません。
    手に木刀も持っていません。
    つまり何も持っていません。
    だから真剣白刃取りのようなことをするのかな、と思いながら、面を打ち込みました。
     自慢するわけではありませんが、私も(学生時代のことですが)多少の心得はあります。
    面打ちの速さには、多少の自信もあります。そこで(本当は怖かったけれど)丸腰の先生に向かい、すり足で距離を詰めながら「エイッ」と木刀を振り下ろそうとしました。
     ところがその瞬間、筆者は凍りついてしまいました。

    先生が腰をすこしかがめて、手刀を突き出したのです。それは、ただ手刀を、顔の少し前に突き出しただけです。手刀は確実に私の喉元をうかがっていました。
     その結果何が起こったのかというと、振り下ろそうとした私の木刀が停まりました。そして身動きがつかなくなりました。どうしてよいかわからず、そのまま固まってしまったのです。
     その固まった私から、先生は悠々と木刀を取り上げました。
     気がつけば木刀を打ち込もうとした私は、刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけとなっていました。
     その姿勢のまま木刀を取り上げられ、その姿勢のまま固まっていました。
     この間、ほんの一瞬のことです。
     そしてこれが日本古来の武術の凄みだと理解しました。

     何が起こったのかは、いまだによくわかりません。ひとつの理解は、肉体を使って木刀を振り下ろそうとした私は、霊(ひ)を抜かれてしまったのかもしれないということです。人は霊(ひ)の乗り物です。霊(ひ)を抜かれると、肉体の動きは停止してしまいます。そして肉体が停止しているから、先生は悠々と、固まっている私から木刀を奪い取った。その間、私の肉体は、ただ固まっているだけった・・・・ということかもしれません。

     これは筆者が実際に体験したことですが、そこには、スポーツ化した現代武道とはまったく異なる、日本古来の伝統的武術がありました。
    そしてその武術は、こうして経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
     そしてそれは、いわゆる世界の格闘技とは、まったく一線を画する凄みのある世界です。


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    なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。
    「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。
    イザナギ、イザナミの時代から、男女は対等。
    それが日本の文化です。

    20200919 和柄
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    いまから800年あまりの昔のことです。
    ある日ひとりの女性が、歌会(うたかい)に招かれました。
    歌会は、摂政右大臣が私邸で開催したものでした。
    並み居る朝廷の高官たちが、ズラリと顔を揃えていました。

    その日の歌のテーマは「旅宿逢恋」でした。
    順番がめぐってきたときに、その女性は持参した一首の歌を披露(ひろう)しました。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき
    (なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
     みをつくしてや こひわたるべき)

    女性の恋の歌にしてはめずらしく、末尾が「べき」という明確な意思を示した命令口調の歌です。
    そして一聞すると、この歌は、ただ恋に命をかけるかのような歌になっています。

    ところが、よくよく聴いてみると、この歌は
    「仮寝と刈り根」、
    「一夜と人の世」、
    「身を尽くしと海路を示す澪標(みをつくし)」
    などと掛詞(かけことば)を多用しています。
    しかも「一夜をともにした女性」というのは、難波江の女性です。

    この時代の難波江は遊女街でした。
    つまりこの歌は、売春を職業とする遊女の「一夜の恋」を詠んだような歌です。
    ところがこの歌を詠んだ女性は、摂政藤原忠通(ふじわらただみち)の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子様付きの女官長(これを別当(べっとう)と言います)です。
    いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理部長の女性です。

    そのような高貴な女性が、遊女の恋の歌を詠む・・・。

    「ハテ、どのような意味が込められているのだろうか」

    和歌というのは、万感の思いを、わずか31文字の中に封じる芸術です。
    詠み手は、その万感の思いを31文字に封じるし、読み手(和歌を聞く側)は、その31文字から、詠み手が何を言いたいのかを読み取ります。これを「察し」と言います。

    当時の高官たちというのは、そうした察する文化に長けた人たちであり、幼い頃からそのための訓練を和歌を通じて学びましたから、歌が披露されたあと、しばしの沈黙の中で、その場に居合わせた貴族の高官たちは、この歌の意図を察しました。

    すると、その場が、凍(こおり)りついてしまったのです。
    並み居る高官たちが、皆、うつむいて言葉を発することもできない。
    何も言えなくなってしまったのです。

    いったいどういうことだったのでしょうか。

    実は、歌を詠んだ女性の上司である皇嘉門院(こうかもんいん)は、第75代崇徳(すとく)天皇の皇后であられた方です。
    崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に御即位されました。
    そして十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子様を皇后に迎えました。
    この聖子様が、後の皇嘉門院様です。

    お二方はとても仲のおよろしいご夫妻であったと伝えられています。
    けれど、残念なことに子宝に恵まれませんでした。
    こうなると困るのが、聖子様の父の藤原忠通(ふじわらのただみち)です。

    藤原氏の権力の源は、「国家最高権威としての天皇の外戚である」ことにあります。
    つまり子がなくて、別な藤原氏以外の一族の娘との間に生まれた子が次の天皇になれば、その瞬間に藤原氏は代々続いた権力の座から追われることになってしまうことになるのです。

    そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫りました。
    そして天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまいます。
    ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしまわます。

    困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇に就けました。
    ところがこのとき、後白河天皇はすでに29歳です。当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
    ものごとの善悪が十分にわかる年齢になっているわけです。

    天皇が未成年の幼い子供であれば、藤原氏が摂政となることで、事実上、権威と権力の両方を併せ持つことができます。
    何もかもが思いのままになる。
    ところが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原氏は権威を手放したことになってしまう。
    加えて、3歳で皇位に就き、しかも強引に退位を迫られたのは、後白河天皇の実兄の崇徳上皇です。
    表面上はともかく、すくなくとも崇徳上皇が、藤原忠通のことをよく思ってはいないであろうことは、容易に察しがつきます。

    そしてこのことが意味することは重大です。
    もしも、崇徳上皇と後白河天皇のご兄弟が手を結べば、500年続いた藤原氏の栄華は、そこで終わりになる可能性があるからです。

    間の悪いことに、我が国では天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇になれば、上皇は藤原忠通、つまり摂政関白太政大臣よりも政治的に上位の権力者となります。
    つまり崇徳上皇が、事実上の国家最高権力者となるのです。
    その国家最高の政治権力と、国家の柱であり中心核でもある国家最高権威としての天皇が、ご兄弟で手を結べば、藤原の一族は、代々続いた藤原の一族の栄華を失う。

    藤原忠通の、そういう心配がわかるから、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないで、日々歌会などを催していましたし、忠道の娘である上皇后の皇嘉門院を崇徳上皇はとても愛していらされたのです。
    つまり、できるだけ事を荒立てないように、日々、配慮していたのです。

    けれど、そうして崇徳上皇が政治に無関心を装えば装うほど、忠道には、それが裏で何かを画策しているかのように見えてしまう。
    人間、ひとたび疑心暗鬼の虫が宿ると、そこから逃れられなくなるのです。

    そしてついに藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じて、「崇徳上皇に謀叛の兆しあり」という、あらぬ疑いをでっちあげて、武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にするという暴挙に出ます。
    これが保元の乱(1156年)です。
    こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流されました。
    上皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残られたのです。

    政治の争いは、世の争いを招きます。
    朝廷内の権力闘争のために、武力が用いられたということは、紛争の解決手段は、それまでの話し合いではなく、強引に武力による解決を図ることが肯定されたことを意味します。
    それはつまり、「話し合い」よりも「武力」が優先する社会であることを、国の政治がみずから認めたことを意味します。

    中央の乱れは、世間の乱れを誘います。
    こうして世の中は、「力さえあれば何をやっても許される」という、鎧を着た武者が、むき出しの大薙刀を持って市中を闊歩する時代へと動いていくのです。

    世は乱れ、貴族たちが優雅に歌会などを開いている間にも、都をはじめ巷(ちまた)では、殺し合いが平然と起こるようになりました。
    そんな折に、右大臣の私邸で歌会が催され、聖子様が皇后時代からずっと付き従い、聖子様が剃髪して皇嘉門院となられてからも、ずっと付き従っている元皇后陛下付きの女官長であり、いまは「皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)と呼ばれている女性が歌会に招かれたのです。

    彼女は持参した歌を披露しました。
    歌は、意訳すると次のような意味になります。

    「難波の港に住む遊女であっても、
     短い一夜限りの逢瀬でも
     一生忘れられない恋をすることがあると聞き及びます。
     しかし朝廷の高官というのは、
     一夜どころか、
     神代の昔から天皇を中心とし、
     民を思って先祖代々すごしてきました。
     けれど、
     そのありがたさを、その御恩を、
     たった一夜の『保元の乱』によって、
     すべてお忘れになってしまわれたのでしょうか。
     父祖の築いた平和と繁栄のために、
     危険を顧みず
     身を尽くしてでも平和を守ることが、
     公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか」

    歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いていますので、ここでは省略します。
    ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき

    と歌を披露したことで、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
    なぜなら、堂々と叩きつけられた皇嘉門院別当のその歌の内容が、あまりに正論であり、その正論の前にその場にいた貴族高官たちの誰もが、ひとことも反論できるものがなかったからです。
    歌は正論であり、否定することはできません。
    さりとて、認めれば、自分たちがアホのやくたたずであることを認めることになってしまう。
    だから、できることといったら、ただうつむく以外なかったのです。

    皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
    このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあります。
    しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院様に及ぶかもしれない。

    おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
    「この歌の出詠は、
     あくまで私の独断で
     いたしたものとします。
     皇嘉門院様には
     決して咎が及ばないようにいたします」
    と、事前に許可を得ていたことでしょう。

    そして別当からこの申し出を聞き、許可した皇嘉門院も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。

    つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
    そういう戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。

    なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
    挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。

    「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
    日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。

    イザナギ、イザナミの時代から、男女は対等。
    それが日本の文化です。

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  • 古事記に学ぶ何もかも捨てた先にあるもの


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    9月10日(土)13時半から倭塾を開催します。
    今回のテーマは「政治と宗教を考える」です。
    場所や参加方法などの詳細は↓こちら↓
    https://www.facebook.com/events/588469902181665/
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    何もかも捨てた先にあるものは、人によって違います。
    けれど、その「先にある」本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
    これが大事だよ、というのが『古事記』の教えかもしれません。

    「寒中禊会」神田明神
    20220910 禊
    画像出所=https://www.sankei.com/photo/story/news/150110/sty1501100014-n1.html
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    100点でなければてほんと?!
    得ることが幸せってほんと?

    そんなことを『古事記』を通じて考えてみたいと思います。
    先に答えを申し上げますと、それらは戦後の刷り込みにすぎない。

    大祓詞に「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓しましき」という言葉があります。
    『古事記』にそのまま載っている言葉です。

    「禊(みそぎ)祓(はら)い」というのは、
    「禊(みそぎ)」が「身を削ぐ」、つまりあらゆる欲を捨てること。
    「祓(はら)い」が「払い」で、汚れを落とすこと、といわれます。

    この言葉が出るのは、イザナギ神が黄泉の国から戻ったシーンで、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に戻られたイザナギ神は、そこでまず「禊(みそぎ)」をされます。
    どのようなことをされ、どのような欲が捨てられたのか。
    『古事記』は次のように書いています。

    まず、杖、帯、囊(ふくろ)、衣、 褌(ふんどし)、冠(かんむり)、 左手の手纒(たまき)、右手の手纒を次々に投げ捨てられました。
    すると、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)や、道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)など、ここで12柱の神様がお生まれになっています。

    その生まれた神々の名前をみると、衝立船戸は様々な障害物、道之長乳歯は長い道のり、時量師はすごした時間、和豆良比能宇斯は様々な患(わずら)い、道俣は道の分かれ目、飽咋之宇斯神は飽食、奧疎は疎(うと)んじてきたこと、奧津那芸佐は心の平穏と思っていたこと、奧津甲斐弁羅はやり甲斐と思っていたこと、辺疎はそれらの周囲のこと、辺津那芸佐は周囲の平穏、辺津甲斐弁羅は周囲の取り替えです。
    要するに、身の回りのすべてを投げ捨てられたという意味です。

    さらに中の瀬に潜ってすすがれることで、八十禍津(さまざまな禍(わざわ)い)、大禍津(おおきな禍い)、それらの禍いを治そうとされたときの、神直毘(神々による立て直し)、大直毘(おおいなる立て直し)、伊豆能売(それらによって起きたこと)を捨てられます。

    それだけではなく、水の中に深く潜って底津綿津見(そこつわたつみ)、底筒之男(なかつつのを)、つまり深層心理まで潜ってその中にあるすべてを捨てられ、水の中では中津綿津見(なかつわたつみ)、中筒之男(なかつつのを)、つまり中層意識にあるすべてを捨てられ、水の上では上津綿津見(うわつわたつみ)、筒之男命(うはつつを)、すなわち表層意識にあるすべてを捨てられます。

    要するに、何もかも全部、深層心理にまでをも捨て去られるのです。

    そこまでされたとき、左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から建速須佐之男命がお生まれになられたとあります。

    西洋のディープステイトと呼ばれる大金持ちさんたちがそうですが、一生かかっても使い切れないほどのお金を持ち、この世のありとあらゆる贅沢を独占していながら、さらにもっと彼らは欲しがっています。
    彼らにとっては、得ることが、幸せなのかもしれません。

    けれど日本では、神話の昔から、身を削ぎ、穢(けがれ)を祓いなさいと教えます。
    そして身を削ぐ(禊)は、イザナギの大神さえも、それまでに身に着けたすべてを捨て、さらに深層心理にまで立ち入って、あらゆるものを捨てています。
    そしてそのときに、かけがえのない最高神を得られています。

    つまり、かけがえのない最高のものは、何もかも捨てた先にある、ということです。

    このことは、まずは、得るために努力が必要であるということでもあります。
    若いうちから壮年期に至るまでは、あらゆるものを手に入れるために、精一杯の努力を重ねる。
    それは必要なことだというのです。

    けれど、そうした努力の果てに、すべてを捨てる。
    いちばん大切なものは、そうして「何もかも捨てた先にある」のだと『古事記』は書いているわけです。

    このことを「元々本々(もともとをもととす)」といいます。
    何もかも捨てた先にあるのは、もともとある大切なことだというのです。

    人として生まれ、いま生きているということは、生まれたときの母の愛、育ててくれた父の愛によります。
    我々は愛によって、いまこうして生かされています。
    あらためてその自覚を得たとき、世界が変わる。

    あるいは、何もかも捨てたとき、最後に残るのは「人」であり「仲間たち」であるのかもしれません。
    あるいはそれは、もしかしたら「知識」や「知恵」なのかもしれない。

    何もかも捨てた先にあるものは、人によって違います。
    けれど、その「先にある」本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
    これが大事だよ、というのが『古事記』の教えかもしれません。

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  • 苦労が育てた和泉式部の魂の歌


      ───────────────
    本日、倭塾を開催します。7月17日(日)13時半から。場所は富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
    テーマは「我が国のアイデンティティと日本の政治」です。

      ───────────────

    百人一首に登場する百人の歌人のなかで「誰か一人好きな歌人は?」と聞かれたら、迷わずいの一番にお答えするのが和泉式部(いずみしきぶ)です。
    たぶん、同じ思いを持つ方は多いと思います。
    そしておそらく古今の歴史上、最高の歌人といえば、和泉式部を置いて他にない。
    そして、その和泉式部が、なぜそれほどまでの和歌を詠むことができるようになったのかといえば、もちろん才能もあったでしょうけれど、それ以上に彼女が本当に苦労したから。
    親も教育も人を育てるものですが、本当に人が育つのは、その人にとっての苦労です。
    そして苦労を、ストレスとするのではなく、試練とすることで、人が苦労を乗り越えて成長の糧(かて)にしてきたのが日本の文化です。さらにいうと、そんな苦労を乗り越えた先に、さらにすべてを捨て去る。
    何もかも失った先に、本当にたいせつなことに人は出会うことができると、そのように考えられてきたのです。
    ここに、古くて長い歴史を持ち、ひとりひとりを大切にしてきた日本文化の根幹があります。

    20170420 百人一首塾 和泉式部_th
    画像出所=http://blog-imgs-102.fc2.com/n/e/z/nezu621/20170421102809a89.jpg
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
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    和泉式部は平安日記文学の代表『和泉式部日記』でも有名な女性です。
    和漢に通じ平安時代を代表する女流文学者である和泉式部が、晩年、自らの死を前にして詠んだ歌が百人一首に収蔵されています。

     あらざらむこの世のほかの思ひ出に
     いまひとたびの 逢ふこともがな

    歌の意味は、
    「私はもう長くはいきていない(在らざらん)ことでしょう。
     けれどこの世の最後の思い出に、
     今一度あなたに逢いたいです」
    というものです。
    この時代の「逢ふ」は、男女が関係するという意味がありますから、ここでの「もう一度逢いたい」は、「あの人にもう一度逢いたい、抱かれたい」という意味が込められます。
    ストレートにも思える愛情表現です。

    それだけなら、「ああ、そういう思いもあるのだなあ」という程度の話にしかならないかもしれません。
    なかには「だから和泉式部はエッチな女性だったのだ」などと、下品な論評をしている先生もいます。
    和歌に少しでも興味を持ってもらおうという気持ちからだとお察ししますが、そこまで品を落とさなくても、和泉式部は、ちゃんと解説したら、誰もが感動する歌です。

    この歌で和泉式部は「あなたに逢いたい、抱かれたい」と歌っているわけですが、ところがこの歌を詠んだときの和泉式部は出家して尼さんになっていたのです。
    尼さんというのは、色恋を含めて俗世のすべてを捨てて御仏に仕える人です。
    そしてこの歌を詠んだとき、和泉式部は、すでに余命幾ばくもなく、相手の男性は、もしかすると既にお亡くなりになっている男性なのです。

    この歌は『後拾遺集』に掲載されているのですが、詞書(ことばがき)には次のように記されています。

    「心地(ここち)
     例ならずはべりけるころ、
     人のもとにつかはしける。」

    病に侵され、余命いくばくもない、あと何日かしたら自分は死ぬのだとわかったとき、彼女は自らの思いを歌に託して、親しい女友達にこの歌を送りました。
    誰に送ったのかはわかりません。
    おそらく誰にも言えないような本音を語れる数少ない親しい同性の友達に渡したのであろうとされています。
    ではいったい和泉式部は、何を思ってこのような歌を最後にのこしたのでしょうか。

    少女時代の和泉式部は、歌も漢詩もよくでき、字も美しく、将来を嘱望される「とてもよくできた女の子」であったと伝えられています。
    美人でかわいらしくて愛嬌があって、しかも勉強がよくできて、字もきれいで頭の良い。
    振り返ってみれば、みなさんにも小学校時代の同級生に、そんな子が身近にもいたのではないでしょうか。
    そんな彼女は、いつの日か自分のもとに美しい王子様があらわれて、きっと幸せな結婚をするのだと夢見る少女でもありました。

    けれど現実の人生というのは、意外と「しょぼい」ものです。
    二十歳になった彼女は、平凡な男性である橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚して、一女をもうけるのですが、漢学や和学の話を夫にしても、夫はそういう学問の話についてこれないのです。
    大好きな学問の話をしても、夫にはまるで通じない。

    彼女は夫とともに、任地である和泉国(いまの堺、岸和田市のあたり)に赴任するのですが(そのことがきっかけで、彼女は和泉式部と呼ばれるようになりました)、彼女の結婚生活は、必ずしも夢見ていた理想の生活ではなかったようです。
    任期が終わり、ようやく夫婦で再び都に舞い戻ってきた時、彼女は子を連れて、夫と別居してしまいます。

    ところがそんな彼女の前に、こんどは本物のプリンスが現れてしまうのです。
    それが冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(ためたかしんのう)です。
    「ソウル・メイト」というのかもしれません。
    二人はまさに「ひと目あったその日から」熱愛におちいってしまうのです。

    けれど和泉式部には、別居しているとはいえ夫がいます。子もいます。
    和泉式部の父親の越前守大江雅致(おおえまさむね)は、娘のこの交際に激怒しました。
    我が娘は人妻であり子もいながら、冷泉天皇の皇子と関係してしまったのです。

    「たいへんなことをしてくれた!」
    怒った父は、和泉式部に為尊親王(ためたかしんのう)と別れるよう説得します。
    しかし愛一色に染まってしまった和泉式部には、もはや殿下と別れるなど考えられないことです。
    思いあまった父は娘の和泉式部を勘当してしまいます。
    この時代、親子の縁を切られるということは、親から死んでしまえと言われるのと同じくらい重たい出来事です。

    それでも和泉式部は、為尊親王を愛しました。
    まさに全身全霊を込めて為尊親王を愛したのです。
    為尊親王も和泉式部に夢中でした。
    為尊親王には知性もあり、教養もあります。
    和泉式部は誰より美しく、しかも教養にあふれています。
    二人は、互いの会話も楽しくて仕方がない。

    してはいけない恋、禁断の恋、不倫の恋だということはわかっています。
    けれど、だからこそ、いけない恋は、麻薬のように人を狂わせ、夢中にさせます。
    逢ってはいけないと思うほど逢いたい。
    周囲の反対が強いほど、互いを意識し、求めあう。
    そういうことは、世の中によくあるようです。

    結局、和泉式部は離婚しました。
    そして為尊親王と暮らしはじめました。
    二人の愛は永遠に続くと互いに信じきっていました。
    ところが、その為尊親王殿下が、弱冠二十六歳でお亡くなりになってしまうのです。

    心の底から愛し、周囲の反対を押し切ってまで夢中になった彼が死んでしまう。
    何もかも捨てて和泉式部は為尊親王に自分を捧げていたのに、その彼が亡くなってしまう。
    和泉式部は、どうしたら良いのでしょう。

    悲嘆に暮れる和泉式部の前に、為尊親王の弟の帥宮(そちのみや)敦道親王(あつみちしんのう)が現れます。
    帥宮(そちのみや)は、とてもやさしく、兄の葬儀のときにも、まるで消えてしまいそうになっている和泉式部をみかねて、なんとかして彼女を元気付け、力づけ、彼女が再び生きる気力を取り戻してくれるように彼女を励ましてくれました。
    殯(もがり)の間も悲しみに暮れる和泉式部をなぐさめ、ずっとそばに寄り添ってくれたようです。

    自分も尊敬していた兄が愛した女性なのです。
    その女性が、見る陰もなく、やつれ果てて悲しみに沈んでいる。
    これを放っておくことができるほど、帥宮は冷たい男ではありません。

    帥宮は、和泉式部を気遣い、一度、和泉式部のもとに訪ねて行って、兄貴のために線香をあげたいと彼女に何度も歌を贈っています。
    けれど和泉式部にしてみれば、それはとってもありがたいお申し出ではあるけれど、いくら弟君とはいっても、相手は男性です。家に上げるのは気がとがめるし、まして愛した男性は為尊親王です。

    ですから和泉式部は、帥宮の来訪をお断りしました。
    けれどそうはいっても相手は宮様です。何度もお断りするのは、あまりにも失礼です。

    ある日彼女は、帥宮が自宅にお越しになることを承諾します。
    帥宮は、約束通り和泉式部を訪ねました。
    和泉式部を元気づけようとする帥宮は、兄の子供時代の楽しい思い出などを和泉式部に語ってくれたようです。
    兄は、二人にとって、共通の思い出の人です。二人の会話は弾みました。だって愛する為尊親王の、自分の知らない少年時代の思い出をお話してくださるのですもの。
    もっと聞きたいと思うのは、ごく自然ななりゆきです。

    気がつけば、もう夜中になっていました。
    そして、二人は、関係をもってしまいます。

    やさしい帥宮との出会いは、彼女に再び生きる気力を与えます。
    けれど彼女の心には葛藤があります。
    自分が愛したのは、兄の為尊親王なのです。
    いま自分を愛してくださっているのは、弟の帥宮です。
    その葛藤の半年を綴った日記が、有名な『和泉式部日記』です。

    彼女は、一生懸命に帥宮を愛しました。
    それは葛藤はあったけれど、帥宮のやさしさに包まれた、幸せな日々でした。
    ところが、その帥宮が、わずか二十七歳の若さで亡くなってしまうのです。

    和泉式部はどうしたらよいのでしょう。
    何もかも神は奪い去ってしまう。
    和泉式部の心中は察して余りがあります。
    和泉式部は、いまでいう引きこもりのような状態になってしまいます。

    そんな和泉式部を見かねたのが、一条天皇の中宮であられた藤原彰子(ふじわらのしょうし)です。
    彼女は兄弟の御子二人に愛された女性です。
    しかも和漢に通じた才媛です。
    引きこもらせておくのは、あまりに惜しい逸材です。

    中宮は、和泉式部の才を惜しまれ、彼女を自分の手元で宮中の仕事ができるように取りはからってくれます。
    これはとてもありがたいことです。
    和泉式部は、彰子のもとで働きました。
    それは、とっても誠実で、まじめなお勤めでした。

    けれど宮中の、それも女性ばかりの社会です。
    周囲の女性たちの和泉式部を見る視線はとても冷たい。
    紫式部が、和泉式部のことを次のように書いています。
    「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。
     されど和泉はけしからぬ方こそあれ」
    歌や書き物の才能は認めるけれど、人品行状が怪しからんというのです。

    せっかく中宮の好意で出仕させていただいた和泉式部ですが、周囲の視線は刺すように冷たいものでした。
    それでも和泉式部は中宮の好意を無にしないように、一生懸命勤めを果たしました。そしていつしか十年の歳月が経ちました。

    ある日、中宮のもとに、和泉式部をどうしても妻にもらい受けたいという男性が現れました。
    五十歳を過ぎで武勇で名の知られた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)です。
    和泉式部は、このときすでに三十代半ばです。
    当時の感覚としては、とっくに婚期を逸しています。
    「それでもよい」
    と藤原保昌は言いました。
    彼女の過去も全部知った上で、彼女を妻に迎えたいと言ってきてくれたのです。

    藤原保昌という人は、どちらかというと男性にはモテるけれど、女性にはトンと縁がない、そんな無骨者であったようです。
    けれど男らしいやさしさを持つ男でもあります。
    年齢も五十の坂を超え、人格にも深みと包容力が生まれています。
    人格識見身分とも、申し分のない人物です。
    つまり、これは良縁です。
    和泉式部は、世話になった中宮彰子の勧めもあり、藤原保昌と結婚します。

    藤原保昌は、男からみても、信頼出来る良い男です。
    人間としても完成された大人であったし、なにより和泉式部を心から愛してくれていたようです。
    二人の間には、ほどなくして男の子が生れます。
    夫の藤原保昌は、二人の間に出来た子も、和泉式部の連れ子の娘も、わけへだてなく愛してくれました。

    けれど和泉式部の心の中には、いまだに亡くなった為尊親王や帥宮がいます。
    ときに昔を思い出し、ひとり涙に暮れる日もあったようです。
    そんなとき藤原保昌は、すべてをわかって何も言わずに、黙って和泉式部の肩をそっと抱いてくれる、そんな夫でした。
    すべてをわかったうえで、夫は和泉式部を心から愛したのです。

    「そういう夫のやさしさに、自分もしっかりと答えていきたい」

    和泉式部は、一生懸命になって夫の藤原保昌を愛そうとしました。
    一番好きだった人には死なれてしまったし、次に現れたプリンスも亡くなってしまった。
    けれどいまの夫の藤原保昌は、そんな自分を、そして大切な我が子二人を心から愛してくれている。
    人として、そういう夫の気持ちにしっかりと応えて行くことが、いまの自分のつとめなのだ、和泉式部は、そう自分に言い聞かせていたようです。

    けれど、そう思えば思うほど、為尊親王や帥宮の面影が、ふとしたはずみに浮かんでは消えます。
    そうなると涙がとまらない。
    そんなとき彼女は、誰にも見つからないように、ひとりでひそかに泣きました。
    夫の保昌は、そんな彼女にちゃんと気づいていました。
    そして、知っていて、そんな彼女をやさしく包み込んでくれました。

    しかし、だからこそ彼女は自分の心が赦せない。
    夫のやさしさが、とっても残酷に感じてしまう。
    そんなとき、夫の保昌はいったいどうしたら良いのでしょう。

     ある日、保昌は、
    「妻をひとりにしておいてあげよう」
    と、しばらく家を空けて実家に帰ってしまいます。
    それは夫の妻を思いやる、男としてのやさしさです。
    けれどそのことが和泉式部には、夫に見捨てられてしまったように感じられてしまいます。
    そこで和泉式部は、縁結びの神様として有名な貴船神社にお参りに行きます。
    その参拝の帰りに、和泉式部が詠んだ歌があります。

     もの思へば 沢の蛍も 我が身より
     あくがれいづる 魂かとぞみる

    この歌には和泉式部の詞書があります。
    そこには次のように書いてあります。

     男に忘られて侍りける頃、
     貴船にまゐりて、
     御手洗川にほたるの
     飛び侍りけるを見て詠める

    和泉式部は、夫のおもいやりを、自分が夫に忘れられたと思えてしまったのです。
    だから貴船神社にお参りをしました。
    その帰り道、暗くなった神社の麓に流れる御手洗川に、たくさんのホタルが飛んでいる姿を見て、自分の魂も、もうこの肉体から離れて(死んで)あのホタルとなって、何も考えずに自由に飛び回りたい、そんな歌です。

    ところがこの歌を詠んだとき、和泉式部の頭の中に、貴船の神様の声がこだまします。
    その声を、和泉式部は歌にして書き留めています。

     奥山に たぎりておつる 滝つ瀬の
     たまちるばかり 物な思ひそ

    貴船神社の御神体は、神社の奥にある滝です。
    その滝が「たぎり落ちる」ように魂が散る、つまり毎日、多くの人がお亡くなりになっています。
    要約すると神様の声は、次のようになります。

     貴船神社の奥にある山で、
     たぎり落ちている滝の瀬のように、
     おまえは魂が散ることばかりを
     思っておるのか?
     人は、いつかは死ぬものじゃ。
     毎日、滝のように多くの人が
     様々な事由で亡くなっていることを
     お前も存じておろう。
     人は生きれば、いずれは死ぬのじゃ。
     おまえはまだ生きている。
     生きているじゃないか。
     生きていればこそ
     ものも思えるのじゃ。
     なのになぜお前は
     魂の散ることばかりを思うのじゃ。

    和泉式部は、夫のとの間にできた男の子が元服したのを機会に、そのやさしい夫である藤原保昌から逃げるように、夫に無断で、尼寺に入ってしまいます。
    彼女はそのとき、すでに四十七〜八歳となっていたようです(正確な年齢はわからない)。

    寺の性空上人は、和泉式部が髪をまるめたとき、自分が着ていた墨染めの袈裟衣を和泉式部に渡してくれました。そして、
    「この墨染の衣のように、すべてを墨に流して御仏にすがりなさい」
    と仰しゃいました。
    彼女も、その衣を着ることで、現世の欲望を絶ち、仏僧として余生を過ごそうと決意しました。

    こうして和泉式部は京都の誠心寺というお寺に入りました。
    この寺の初代住職が和泉式部です。
    ところが住職となって間もなく、彼女は不治の病に倒れてしまうのです。
    医師の見立てでは、あと二〜三日の命ということでした。
    そうと知った彼女は、病の床で、最後の歌を詠みました。
    それが冒頭の、

     あらざらむこの世のほかの思ひ出に
     いまひとたびの 逢ふこともがな

    です。
    彼女はその歌を、親しい友に託しました。
    人生の最後に、和泉式部が「もう一度逢いたい、そのあたたかな胸に抱かれたい」と詠んだ相手が誰だったのかはわかりません。

    彼女は亡くなりました。
    和泉式部は生前にたくさんの歌を遺しました。
    彼女の歌で、特に秀逸とされるのは哀傷歌といって、為尊親王がお亡くなりになったときに、その悲嘆の気持ちを詠んだ歌の数々とされています。

    けれど小倉百人一首の選者の藤原定家は、和泉式部を代表する歌として、彼女の晩年の最後のこの歌を選びました。
    歌に使われる文字は、たったの三十一文字です。
    そして、その歌にある表面上の意味は、たんに「もう一度逢いしたい」というものです。
    けれど、そのたった三十一文字の短い言葉の後ろに、ひとりの女性の生きた時代と、その人生の広大なドラマがあります。人の生きた証が、そこに込められているのです。

    戦前から戦中にかけて、学校の授業で古典和歌を学ぶときは、教師がこのようなお話をしてくれました。
    だから、生徒たちは誰もが、和歌に夢中になりました。
    そして日本人としてのやさしさや思いやりの心を身につけました。
    学校の授業は、単に知識を詰め込むだけのものではなく、そこに感動がありました。
    だから子供たちは、片道何キロもの道を歩いて毎日登校したし、田植えなどで親から学校を休むように言われると、泣いて学校に行けないことを悔しがったし、友達からその日の授業のノートを見せてもらい、先生のお話を友達に再現してもらったりしていました。
    そんな教育を、取り戻したいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

    さて、今日は「ここだけのお話」を書いてみたいと思います。
    謎解きのひとつの答えです。

     あらざらむこの世のほかの思ひ出に
     いまひとたびの 逢ふこともがな

    歌の意味は、「私はもう長くはいきていない(在らざらん)ことでしょう。けれどこの世の最後の思い出に、今一度、あなたに逢いたい」というものです。
    「逢」という字は、ただ会うのではなく、逢いたい、抱かれたいという意味が込められます。
    「では、和泉式部が最後に逢いたいと思ったそのお相手は、
     はたして、
     最初の夫の橘道貞でしょうか。
     為尊親王殿下でしょうか。
     それとも
     弟君の敦道親王殿下でしょうか。
     はたまた最後の夫である
     藤原保昌でしょうか。」

    というのが、実は私の講義などでは決まり文句(笑)で、そのお答えはこれまで示してきていません。
    ずいぶんと長い前置きになってしまいましたが、私なりの答えを書いてみたいと思います。
    もちろん、その答えが「正しい」ものであるかどうかは、わかりません。
    どこまでも答えは、和泉式部の心の中です。みなさまが、どのように思われるかは、それぞれ自由です。

    さて、その解答ですが、私はやはり歌の中にその解答を見出すべきであろうと思います。
    もういちど歌をよく見てみます。

     あらざらむ
      (私はもうこの世に居ないでしょう)
     この世のほかの
      (つまり「あの世」での)
     おもひでに
      (想い出の人に)
     いまひとたびの
      (もういちど)
     逢ふこともがな
      (逢えるといいなあ)

    このように読むことができます。
    最後にある「もがな」は、願望を表す終助詞で、「・・・になればいいなあ」といった感覚を表す言葉です。

    自分の死を目前にした和泉式部が、死ぬ前に逢いたいと詠んでいるのではなくて、実は、死んだ後に、あの世で誰かに「もう一度逢いたいなあ」と詠んでいるわけです。
    あの世での再会ですから、そのお相手は、和泉式部よりも先にお亡くなりになっている方であろうと思います。
    ということは、和泉式部があの世で逢いたいと詠んでいるお相手は、為尊親王か、弟君の敦道親王のどちらかです。

    もちろん、「あの世に行く前に思い出の人に」と解釈することもできます。
    そうなると、最初の夫の橘道貞か、最後の夫の藤原保昌、あるいはもっと別な男性(たとえば性空上人など)ということになります。
    しかしその解釈は、私は「ない」と思います。

    なぜなら、和泉式部が生きた時代には、「肉体には魂が宿る」ということがあたりまえの常識だったからです。。
    ですから和泉式部も、死ねば自分も肉体を離れて、もとの魂に戻ると考えていたであろうということは容易に想像がつきます。

    そして人の死に際しては、お迎えがあります。
    仏教では、そのお迎えは、阿弥陀如来様であったり、大日如来様、あるいは仏様であったりするわけですが、それだけではなく、先にあの世に行っている祖父母や両親、あるいは男性の場合であれば、先に逝っている戦友だったりもするわけです。

    魂の永遠を信じる和泉式部は、だから「大好きだった、想い出のあの人に、あの世で逢えたらいいなあ、きっと逢えるよね?」と詠んだと考えられるのです。
    そこには同時に、
    「逢えたらどうしよう。あの人は若いままなのに私はこんなに歳を重ねてしまった。」
    という女性らしい葛藤もあったかもしれません。

    けれど、死んで御霊となった和泉式部は、その瞬間に、もとの若くて美しいお姿です。
    そして思うのですが、和泉式部の御霊が、いよいよ肉体を離れたとき、きっとそこには、為尊親王殿下と、弟君の敦道親王殿下のお二人が、ニッコリ微笑みながら、和泉式部をお迎えに来ていたのではないでしょうか。

    「よく頑張ってきたね」と微笑む為尊親王。
    「兄貴、式部、よかったね」と二人を祝す敦道親王。
    そのとき和泉式部は涙でいっぱいになって、もうお二人のお姿が、まぶししすぎて、きっと何もみえなくなっていたことでしょう。

    その感動の中、
    「お母さん」と呼ぶ声がします。
    実は、和泉式部は、たいせつな娘の小式部内侍を、先に失っています。優秀であるがゆえに、周囲からイジメられ傷つけられた娘は、母より先に旅立っていたのです。
    和泉式部は、その娘(小式部内侍)を失ったときにも、まさに悲嘆としか言いようのない悲しみの歌を数多く残しています。
    ですから和泉式部の御霊が肉体を離れたとき、その場には、きっと娘の内侍も来ていたことと思います。
    二人の殿下との再会し、愛する娘との再会を果たした和泉式部。
    今度こそ、絶対に幸せを手放さないでね、と祈るような気持ちにさせられます。

    和泉式部の歌は、どの歌も、まるで空中を落下する水滴を、落下の途中でピタリと停めてしまうような鋭敏な美にあふれています。
    個人的には、おそらく和泉式部は、日本の歴史が生んだ、最高の女流歌人のひとりと断言できるほどと思います。

    とびきり美人で優秀で才能にあふれ、それだけに感受性が人一倍鋭かった和泉式部は、その美しさと豊かな感受性の故に、素晴らしい出会いを経験しています。
    けれど同時に、その愛を続けて二度も失い、さらに愛娘に先立たれるという悲しみを経験しています。
    苦労が人の魂を育てるのです。
    和泉式部は、女としての人生の悲しみの連鎖の中で魂を研いだのです。
    だからこそ和泉式部の歌は、千年の時を超えて褪せない虹彩(こうさい)を放つのです。

    逆にいえば、和泉式部の御霊は、そんな苦労の連続の中で、歌の才能を限界まで引き出すという苦難の道を、意図して選んでこの世に生まれてきたのかもしれません。
    そして為尊親王殿下の御霊は、そんな和泉式部の御霊の持つ願いを叶えるために、敢えて先立つという選択をしてお生まれになられて来られたのかもしれません。
    また敦道親王は、最愛の人を失うという死ぬより辛い目に遭った和泉式部の心が壊れてしまわないように、生前にしっかりと支えるためにと、生まれて来た御霊だったのかもしれません。
    そして小式部内侍は、母より先に旅立ちましたが、母の歌への想いを受け継ぎ、次の人生で、思う存分、歌人としての才能を開花させる、そんな選択をしたのかもしれません。

    実際のことはわかりませんが、私には、小式部内侍の歌風は、江戸時代の俳人の加賀の千代女の歌風と重なって見えるのです。

    男性の私としては、不器用ながら和泉式部を最後まで愛し続け、まもりとおそうとした最後の夫の藤原保昌と「逢いたい」と言ってもらいたかったという気持ちがあります。
    けれど保昌は、妻の求める幸せの半分も満たすことはできなかったかもしれないけれど、彼は式部との間に、男子を得ることができました。
    だから彼はそれで良いとしなければならなかったのかもしれません。

    ここまで書いたときに、日頃お世話になっている安田先生から、次のご指摘をいただきました。

    「最愛の人の子を生むのではなく、
     最初と最後の夫となってくれた人の子を授かる。
     これも神のお計らい=神意でしょう。
     神仏はちゃんと彼らにも救いをもたらしたのですね。」

    さきほど「苦労が人を育てる」と書きました。
    けれど、すこち違うかもしれません。
    むしろ、
    「苦労が『魂』を育てる」のです。

    『古事記』の大国主神話は、どんな苦労があっても、愛する者のために戦うとき、必ずそこに道が開けると教えてくれます。
    しかし和泉式部は、とびきりの美人で才能あふれる女性として生まれ、愛する人に身も心も捧げながら、その愛する人を幾人も失うという悲しみの人生を歩みました。
    しかしそうすることによって、彼女は魂を研(と)ぎ、千年経っても色褪せずに私達の胸を打つ歌をのこしました。
    そしてその歌が、なぜ私達の心をうつのかといえば、彼女の歌が、ただ肉体の持つ「心の歌」の域を越えて、「魂の歌」にまで昇華しているからではないでしょうか。

    だからこそ藤原定家は百人一首の編纂に際して、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に」と詠んだ和泉式部の最期の歌をこそ、百人一首に収蔵したのではないでしょうか。

    百人一首に登場する百人の歌人のなかで「誰か一人好きな歌人は?」と聞かれたら、迷わずいの一番にお答えするのが和泉式部(いずみしきぶ)です。
    たぶん、同じ思いを持つ方は多いと思います。
    そしておそらく古今の歴史上、最高の歌人といえば、和泉式部を置いて他にない。

    そして、その泉式部が、なぜそれほどまでの和歌を詠むことができるようになったのかといえば、もちろん才能もあったでしょうけれど、それ以上に彼女が本当に苦労したから。

    親も教育も人を育てるものですが、本当に人が育つのは、その人にとっての苦労です。
    そして苦労を、ストレスとするのではなく、試練とすることで、人が苦労を乗り越えて成長の糧(かて)にしてきたのが日本の文化です。さらにいうと、そんな苦労を乗り越えた先に、さらにすべてを捨て去る。

    何もかも失った先に、本当にたいせつなことに人は出会うことができると、そのように考えられてきたのです。

    ここに、古くて長い歴史を持ち、ひとりひとりを大切にしてきた日本文化の根幹があります。


    ※この記事は2017年4月の記事のリニューアルです。

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  • やすらはで 寝なましものを さ夜更けて


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    次回の倭塾開催は7月17日(日)13時半から。場所は富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
    テーマは「我が国のアイデンティティと日本の政治」です。

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    赤染衛門のこの歌は、単に、友人の代作をしたというだけではありません。
    思いやりをたいせつにすることによって、きわめて安定した社会が築かれたこと、
    そしてひとりの女性の小さな思いやりの歌が、ひとりの男をたくましく成長させ、その男の未来を開いたこと、
    そこにこそ、この歌が500年の歴史を描いた一大抒情詩としての百人一首の中盤に置かれた意味があるのだということができます。

    20170729 赤染衛門
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     やすらはで
     寝なましものを
     さ夜更けて
     かたぶくまでの
     月を見しかな


    小倉百人一首五十九番にある赤染衛門(あかぞめえもん)の歌です。
    歌を現代語訳しますと、
    「あなたが来ないとわかっていたら
     さっさとやすらいで寝てしいましたものを、
     夜が更けて、
     西に傾く月を見てしまいましたわ」
    といった意味になります。

    たいへんにわかりやすい歌で、この現代語訳は、たいていのどの本をご覧頂いても、同じ訳が書かれています。
    なぜならこの歌には、後拾遺集に詞書(ことばがき)があり、そこに次のように書いてあります。
    「中関白少将に侍りける時、
     はらからなる人に物言ひわたり侍りけり。
     頼めてまうで来ざりけるつとめて、
     女に代りてよめる」です。

    「女に代りてよめる」ですから、赤染衛門は、誰か、他の女性に代わってこの歌を書いているわけです。
    現代語に訳すと、
    「後に中関白にまで出世することになる
     藤原道隆さまが
     まだ少将だった時代に、
     自分の『はらから』
     つまり姉妹同然の女性の友達のところに
     来るといって来なかったので、
     その女性に代わって
     詠んであげた歌です」
    となります。

    それで、
    「朝まで起きて待っていたけれど、
     さっさと寝てしまえば良かったわ」と詠んでいるわけです。
    ただそこから、ただの皮肉や愚痴しか読み取らないのでは、この歌がすこしもったいないです。

    というのは、この歌は、百人一首の59番という、1番から100番までの歌の、ちょうど真ん中、つまり500年続いた日本の安定と繁栄の時代の、まさにそのピークとなった中盤を代表する、9首の女流歌人の歌の中のひとつとして、百人一首は紹介しているからです。
    つまりこの歌は、平和と繁栄の、ひとつの象徴の歌でもあるわけです。

    この歌を詠んだ赤染衛門は、清少納言よりも10歳年上、和泉式部や紫式部からみるとおよそ20歳年上にあたる先輩女性です。
    藤原氏の全盛期を築き、有名な
     この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
     欠けたることも なしと思へば
    と即興歌を詠んだ、藤原道長の妻である源倫子(みなもとのりんし)に仕えました。
    この二人の夫妻の娘が中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし)で、その彰子に仕えたのが、紫式部や和泉式部です。

    その紫式部が、赤染衛門について、紫式部日記で次のように書いています。
    「丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。
    ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。」

    現代語訳しますと、次のようになります。
    「丹波守大江匡衡の奥方(赤染衛門のこと)を、
     彰子様や道長様は匡衡衛門(くにひらえもん)と呼んでいます。
     特別高貴な生まれではありませんが、
     とても気品のある方です。
     歌人を自負して何かにつけて詠みまくるということはされませんが、
     世に知られている歌はどれも、
     何気ない折節の歌でさえ惚れ惚れとするものです。
     この方と比べると、
     上の句と下の句がちぐはぐなみっともない歌を
     詠んで得意になっている人が、
     憎らしくも可哀想に思えてきます。」
    と、どうやら紫式部の言う、「憎らしくも可哀想」な相手というのが、清少納言のことのようなのですが(和泉式部という説もあります)、そのことはさておき、人生の先輩でもあり、歌人としても和泉式部と並び称せられた赤染衛門には、次のようなエピソードもあります。

    それは息子の大江挙周が重病を患ったときのことで、これについて、「病気の原因は住吉様の祟りではないか」という人がいたのだそうです。
    神様のタタリというのもおかしな話ですが、これを聞いた赤染衛門、母として堂々と、その住吉様にお参りして次の歌を奉納しているのです。

     代わらむと祈る命はをしからで
     さてもわかれんことぞ悲しき

    重病を患う我が子に、自分が身代わりになってあげたい。我が子のためならば自分の命さえも惜しくないと、歌の意味は、私の下手な現代語訳よりも、歌そのものをお読みいただいたほうが何倍も感じるものがあろうかと思います。

    その、ある意味、堂々とした、そして我が子を愛する母の気持ちは、住吉様にもしっかりと通じ、なんと挙周の重病は完治したのだそうです。
    母の一念って、すごいものですね。

    また、後輩にあたる和泉式部が、最初の旦那である和泉守・橘道貞と離婚して都に帰ってきたときには、心配した赤染衛門が、和泉式部に歌を贈っています。

     うつろはで しばし信太(しのだ)の 森を見よ
     かへりもぞする 葛のうら風

    「信太の森」というのは和泉国を示す枕詞ですから、「信太の森を見よ」というのは、もうしばらく夫の様子を見るようにしたら?というメッセージです。
    現代語訳すると次のようになります。

     心移りせずに、しばらく様子を見らたいかが?
     葛に吹く風で葉がひるがえるように、
     旦那がひょっとしたきっかけで
     帰って来ることもあるのですよ。

    赤染衛門のやさしい気遣いが伝わってくる歌ですが、その赤染衛門は、夫である文章博士・大江匡衡(おおえのくにひら)と、いわゆる「おしどり夫婦」で、めっぽう夫婦仲が良く、そのために夫の匡衡(くにひら)とまるで異体同心だというわけで、匡衡衛門(くにひらえもん)のあだ名で呼ばれたくらいの女性です。

    だからこその、やさしい気遣いだったと思うのですが、和泉式部はこの歌に次のように返歌しています。

     秋風は すごく吹くとも 葛の葉の
     うらみがほには 見えじとぞ思ふ

    「秋」は「飽き」、「うらみ」は「恨み」と「裏見」の掛詞で、現代語訳すると、
     夫は私のことに飽きてしまったのですわ。
     そんな夫の心は、私の心に
     まるで秋の台風の風のように吹き付けるけれど
     風にひるがえる葛の葉は
     恨み顔に見えないと思いますわ。

    実はこの和泉式部の歌は、赤染衛門の別な歌

     恨むとも今は見えじと思ふこそ
     せめて辛さのあまりなりけれ

    をモチーフにしています。
    赤染衛門のこの歌は、
    「恨んでいるように見られたくないのは、とても辛いあまりのことですわ」という気持ちを詠んでいるもので、要するに、とても悲しい思いをして、思わず恨みたくなるような気持ちになっても、それでも、憎しみにまみれたような、悲しい女になどなりたくない。
    どこまでも美しい心を失いたくない。でもつらい。
    だから、せめて、外見だけでも笑顔を絶やさないでいるのですわ」
    といった心情を描いた和歌になります。

    和泉式部は、その歌をモチーフに、離婚の悲しい思いをしていても、
    「うらみがほには 見えじとぞ 思ふ」
    と詠んでいるわけです。
    「〜ぞ」というのは、断定を伴う強調で、強い気持ちを意味しています。

    まあ結局、夫と別れた和泉式部は、元のさやにおさまることなく、その後、為尊親王との深い愛へと向かい、その親王殿下の薨去によって、さらに深い悲しみを味わうことになるのですが、それはまた、別のお話。
    要するに赤染衛門は、部下や周囲の女官たちをやさしく気遣う、素晴らしい先輩でもあったわけです。

    しかも赤染衛門の教養の深さは、これまた半端なものではありません。
    なんと『栄花物語』という平安中期の、かな文字による歴史書を著しているのです。

    『栄花物語』は、宇多天皇(887年~897年在位)から堀河天皇の時代の1092年までの、15代約200年の宮中の歴史を描いた物語で、なんと全40巻という膨大な史書になっています。
    このうち、前半の正編30巻が赤染衛門の作で、藤原道長が娘たちを次々と天皇に嫁がせ、栄華を極めて亡くなるまでを描いているのですが、道長は娘たちを高官に嫁に出すことで宮中の権力を握るのですが、やはり周囲には嫉妬もあって、いろいろと言われてしまうわけです。

    このために道長の子供たちは、陰口を言われたりして子供心を傷つけ、結局、若くして先立たれたり、息子が出家してしまったりと、道長は父親として、ものすごく悲哀を味わうわけです。
    そしてそうした経験の中で、道長自身が人として成長していく様子が描かれています。

    つまり『栄花物語』は、ただの史書というのではなくて、ひとりの人物のヒューマンドラマにもなっているわけで、その分、たいへんに味わい深い史書となっています。
    ところが後編は、道長のような核となる人物もなく、文体も全然異なっていて、はっきりいって面白くない。
    そこでおそらく赤染衛門ではなく、別な人が、続きを書いたのであろうと言われています。

    ちなみにこの『栄花物語』、全文がかな文字で書かれています。
    完成は道長の死後(1028年)からまもない1035年ごろとされていますが、当時は男性は漢文を用いるものとされていたので、栄花物語は女性が女性に読ませるために書かれたのであろうといわれています。
    おそらく皇女となられる方々や、宮中の女官たちの教育用に書かれたのであろうと思いますが、それにしても、そういう、いわば教科書の執筆者となった女性が11世紀にいた、という事実は、これは世界史的に見ても、他にまったく例のないことで、すごいことだということができます。

    赤染衛門には、他にも
     いかに寝て
     見えしなるらむ うたたねの
     夢より後は 物をこそ思へ(新古1380)
    (どんな寝方をしたから、愛する夫が夢に出てきたのだろうと、うたたねの夢から覚めて、物思いにふけっているわ)

     思ふことなくてぞ 見まし 与謝の海の
     天の橋立 都なりせば(千載504)
    (せっかくお友達と観光名所の天の橋立にやってきたけれど、ここが都で、そばに夫がいたのなら、きっと物思いもなく存分に美しい眺めを堪能することができたでしょうに)

    といった、ほのぼのとした愛の歌をたくさんのこしています。

    けれど、ではどうして、百人一首の選者である藤原定家は、赤染衛門のこの「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」を、選歌したのでしょうか。
    そもそもこの歌は、赤染衛門が「自分のこと」ではなく、「他の女性に代わって詠んだ」歌です。
    そしてその相手は、時の権力者であり、従一位、摂政、関白、太政大臣である藤原兼家の長男の藤原道隆です。
    いわば政界のサラブレットであるわけで、そういう家に育った子というのは、幼い頃から非常に厳しい躾(しつけ)を受け、さらにある種の帝王学を身に付けるように育てられるものです。

    その道隆が、赤染衛門の「はらから」ということですから、「はらから」と呼んで良いほど親しい女性か、あるいは姉妹のもとに、お通いになるところ、残念ながら、お越しにならなかったわけです。
    お越しにならなかった理由は、職務に忙しかったためか、何かの酒席を突然おおせつかったためであったのか、その理由はわかりません。
    赤染衛門の立場からすれば、それは斟酌すべきことでもないし、最近の流行語の忖度(そんたく)をするようなことでも、またすべきことでもありません。
    ただ、明け方近くになっても、お越しにならなかった、という事実があるだけです。

    この時代は、ご存知のように通婚(かよいこん)社会でしたが、身分のある貴族の場合、男性が女性のもとに通うということは、いわゆる後の世の「夜這い」のようなイメージで考えたら大きく間違えてしまうものです。
    はじめに、男性が女性のもとに求愛の和歌を送るのですが、その和歌は、当然のことながら、男性本人が持参するわけではありません。
    男性の側の家の舎人(とねり=家人のこと)が、相手の女性の家に届けます。
    こっそりではありません。
    堂々と正面玄関から、
    「ごめんくださいませ。
     藤原の道隆様のもとからお使いに参りました○○でございます。
     ご開門願います」
    と相手の女性の家に伺います。

    女性の家も、もちろん女性の一人住まいではありません。
    家族や家人たちが、こぞって同居しています。
    女性の家の門番は、当然のことながら、家の主人に、その和歌の入った書簡を取り次ぎます。
    書簡に、いまのような「親書」という概念はありません。
    娘のもとに男性から和歌の入った書簡が届いたとなれば、主人は自分で内容を確認するか、あるいは妻(娘にとっては母)にその書簡を渡して、内容を吟味させます。
    そして、これはお受けすべき和歌だということになると、その歌を娘(本人)に渡し、返歌を作らせます。
    できあがった返歌は、道隆の使いに持たせるのですが、その間、使者となった舎人は、女性の側の家で、それなりの接待を受けます。
    とりわけ相手が藤原兼家の長男の使いとなれば、それはほとんど賓客扱いです。

    返歌が当日には間に合わないときは、後刻返歌を持参するからと、舎人には先におひねりを渡して帰します。
    娘の歌ができると、その歌は娘の家の舎人によって道隆の家に持参されます。
    この時代には、郵便もEメールもないのです。

    この間、娘の家では大騒ぎです。
    なにせ、道隆様という高貴な方がお通いになるのです。
    屋敷内はきれいに掃除され、花などが飾られ、娘はおめかしするし、道隆とともにやってくる舎人たちの宿所や食事の手配が行われます。

    こうしていよいよ道隆がやってくるわけですが、当然のことながら、道隆はひとりでやってくるわけではありません。
    牛車に揺られて、大勢の家人たちと一緒にやってきます。
    そして、道隆が娘のもとでお励みなさっている間、道隆の家人たちには食事や酒が振る舞われ、また、おやすみいただけれるように、ちゃんと手配がなされます。

    道隆様がいつお帰りになるのか。
    それは道隆様にしかわかりません。
    ですから、娘の家の家人たちも、道隆の家人たちも、基本、その間は、交替で仮眠をとったりしながら、お帰りをお待ちするわけです。

    逆に、この件のように、肝心の道隆様がなかなかやって来ないとなると、娘の家の家人たちは、全員、いつやってくるかわからない道隆様の来訪を、みんなで起きて待っているわけです。
    つまり・・・これはたいへんなことなのです。

    以上はいささか大げさなことに思えるかもしれませんが、もともと我が国では、男女の交合は、イザナキ、イザナミ以来の、神聖な、子を生むための神事です。
    神事(しんじ)は寝事(しんじ)でもあるわけですし、寝所(しんじょ)は神所(しんじょ)でもあるわけです。
    肉体の結合だけなら、昆虫や四足の動物でも行いますが、人の肉体は、御魂の乗り物です。
    つまり男女の交合は、男女の御魂を結び、新しい生命をいただく神聖な行事とされていたのです。

    そのような神事が行われるわけですから、娘の家では、もちろん道隆様の家系と結ばれれば未来が開けるということもありますが、それ以上に、神聖なこととして、父母から家人一同、しっかりと準備して、一晩中起きてお越しをお待ちするわけです。

    ところがこれが「来なかった」ということになると、それはとっても残念なことです。
    だから赤染衛門は、来ないとわかっていたのなら、みんなやすらいで寝たであろうに、夜明けまでみんなが待っていて、夜明けの月を眺めることになってしまいましたよ」と、道隆に歌を送っているわけです。

    明け方というのは、当時の宮中では、「朝廷」という言葉があるくらいで、夜明けとともに宮中への出仕を行っていたことから来ています。
    貴族たちは、太陽が水平線から覗くまでに朝廷に出仕します。
    太陽が昇ると、門が閉められ、遅刻→欠勤扱いとなります。
    この時間管理は厳しくて、たとえ皇族であっても、遅刻をすれば締め出されています。
    それだけ時間に厳しかったのです。
    ですから、夜明けになってもお越しにならないということは、完全に、その日は棒に振ったことになるわけです。

    このような背景がありますから、赤染衛門の歌は、若い道隆には、たいへんな薬となったであろうことは、容易に想像がつきます。
    大勢の舎人が関与していますから、赤染衛門の歌は、秘密の通信ではないのです。
    全部、オープンです。
    どのような歌が送られたか、何があったのかは、当時の都人(みやこびと)は全員が知るような話であったわけです。

    先程も書きましたが、道隆は、高貴な家の長男です。
    しかも少将の地位にあれば、急な用事が入ったり、断れない酒席等があって、娘のもとに訪問する予定であったものが、突然できなくなったということは、これは十分にありえることです。
    しかし、行けないなら行けないで、ちゃんと娘の家にその旨を伝える使いを出すことは、最低限のモラルです。
    なぜなら、相手の家にも迷惑をかけることになるからです。
    おそらく、道隆は、明け方近くまで、なんとかして訪問しようと心得ていたに違いありませんが、それでも結果として、「かたぶくまでの月」を見せてしまったことは、道隆の配慮の足らなさということになります。

    我が国は、天皇のもと、あらゆる階層のあらゆる人が、すべて「おほみたから」とされる国です。
    政治権力者というののは、その「おほみたから」の生活に責任を持つ人のことを言います。
    これが我が国における「皇臣民」の考え方です。
    まずは公家の側、つまり人の上に立つものから身を正せということは、これは我が国の律令にも明確にうたわれていることです。

    したがって、若き日の道隆には、この事件は、大きな薬となったであろうことは容易に察することができます。
    そして道隆は、この件で学び、おそらく生涯二度と、配慮に欠いて舎人や民を困らせることがないように生涯、心がけをされたに違いありません。
    だからこそ、藤原道隆は、若くして父の後を継ぎ、誰からも認められる正二位、摂政、関白、内大臣にまで出世し、42歳という若さで没しています。

    つまり赤染衛門のこの歌は、単に、友人の代作をしたというだけではありません。
    思いやりをたいせつにすることによって、きわめて安定した社会が築かれたこと、
    そしてひとりの女性の小さな思いやりの歌が、ひとりの男をたくましく成長させ、その男の未来を開いたこと、
    そこにこそ、この歌が500年の歴史を描いた一大抒情詩としての百人一首の中盤に置かれた意味があるのだということができます。

    人が百人いれば、百通りの考え方があります。
    そして、各人ごとに、政治的な意見の違いは、必ずあるものです。
    政治的な意見の主張は、いくらあってもそれは良いと思います。
    けれど、どんなときでも、個人攻撃は慎むべきことです。
    ましてそれが選挙戦という戦いの最中であれば、なおさらです。

    剣胆琴心。
    男子三日会わざれば刮目して見よ、です。
    どんなときでも、人を愛する心を失わない。
    それが、政治以前の、人の道であると思います。


    ※この記事は2017年7月の記事のリニューアルです。

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  • 童子教に学ぶ師弟関係の重大事


     明治政府は、明治3年から廃仏毀釈を推進し、国内から仏教を廃し、国家神道を国教にしようとしました。このため大阪住吉大社大伽藍は破壊されたし、奈良興福寺の食堂も破壊、仏塔さえも捨値で売りに出され、千葉の鋸山ではすべての五百羅漢像が破壊されたりしました。こうした一連の取り組みの中で、仏教を尊ぶ童子教は不要とされるようになり、結果として、明治以降、童子教は徐々に忘れ去られていくことになったわけです。
     以下に童子教の前文を掲載しますが、ご一読いただければ、人として何が大切なのか、また師弟関係とはどのようなものか。そして江戸時代の庶民がなぜ民度が高かったのかなどをご理解いただけるのではないかと思います。

    20161014 童子教



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    以前にもご紹介したことがあるのですが、江戸時代に寺子屋で教科書として使われた「童子教(どうしきょう)」は、現代日本人が忘れている大切なことを教えてくれています。
    それは童子教の冒頭からはじまるのですが、そこに何が書いてあるかというと、次の言葉です。

     ****
    1 夫貴人前居 夫(そ)れ貴人の前に居ては
    2 顕露不得立 顕露に立つことを得ざれ
    3 遇道路跪過 道路に遇ふては跪(ひざまづ)いて過ぎよ
    4 有召事敬承 召す事有らば敬つて承れ
    5 両手当胸向 両手を胸に当てて向へ
    6 慎不顧左右 慎みて左右を顧みざれ
    7 不問者不答 問はずんば答へず
    8 有仰者謹聞 仰せ有らば謹しんで聞け
     ****

    目上の人の前では、かしこまれ、ということです。
    「かしこむ」というのは、恐れつつしむという意味で、どこまでも厳しく目上の人を立てよ、ということです。
    よく時代劇などで、若侍たちが侃侃諤々の議論をしているところにご家老が入ってくると、全員がかしこまって、正座して礼をしますけれど、まさにあのスタイルです。

    ただし、Chinaや半島のような下卑た慎み方は必要ありません。
    一寸の虫にも五分の魂です。
    堂々と、そして規律正しく、礼をとります。それが日本式です。

    ところがいつの世においても、いくら躾(しつ)けようとしても、言うことを聞かない子供もいます。
    そんな場合にどうしたら良いのか。
    その答えも童子教は明確に述べています。

    115 不順教弟子  教へに順(したが)はざる弟子は
    116 早可返父母  早く父母に返すべし
    117 不和者擬冤  不和なる者を冤(なだ)めんと擬(ぎ)すれば
    118 成怨敵加害  怨敵(おんてき)と成つて害を加ふ
    119 順悪人不避  悪人に順(したが)ひて避(さ)けざれば
    120 緤犬如廻柱  緤(つな)げる犬の柱を廻(めぐ)るが如し
     ****

    言うことを聞かない子は、さっさと親に返しなさい。
    なだめる必要もない、です。
    けんもほろろです。

    いまどきの学校なら、教師の言うことを聞かない子でも、教育を受ける権利があるのだからと、教室に置きます。
    けっか教室そのものが崩壊する。
    昨今の大学に至っては、生徒数が足らないからと、強姦事件まで起こしたような不埒な生徒が、放校処分もされずに、そのまま大学に居座っています。
    なかには、「俺はあの事件の犯人だ」と開き直って、女学生を脅す生徒までいるくらいです。
    とんでもないことです。

    これは会社や組織においても同じで、会社や組織の風土になじもうとせず、我儘を言う社員や組織員は、要するにサッサとクビにすることが常道です。
    そうしないとどうなるのか。
    その答えも、童子教は用意しています。
    次の一文です。

     ****
    111 畜悪弟子者  悪しき弟子を畜(やしな)へば
    112 師弟堕地獄  師弟地獄に堕(を)ちるべし
     ****

    師弟ともに地獄に堕ちるのです。
    しかも面白いことに、童子教は、悪い弟子を「畜(やしな)」えば、と書いています。
    悪い弟子は、弟子でもなければ人でもない、犬畜生と同じだと書いています。

    もちろん数ある中には、教える師匠の側がろくでもないというケースもあったであろうと思います。
    けれど、そこは江戸社会です。
    江戸社会に文科省はなく、幕府や藩による寺子屋への助成金はありません。
    ろくでもない師匠のもとには生徒が集まらず、生徒が集まらなければ、その寺子屋はたちまちのうちに倒産、廃業してしまうだけのことです。
    そこは完全自由競争で、淘汰の原理が働くのです。

    質の高い教育には、教師と生徒、双方の質の高さが要求されます。
    政府が助成金を出さなければやっていけないような寺子屋は、社会的存在価値がないとされたのです。
    一方、研究開発や技術開発、翻訳や医学などの最先端分野については、幕府や藩が藩校(いまの大学)にお金を出しました。

    藩校や幕府経営の昌平坂学問所のようなところは、全国から選りすぐりの子弟が集まり、切磋琢磨しました。
    そこで行われる当時に在っての最先端の学問には、幕府は惜しみなく経費を与えています。

    その一方で、初等、中等教育については、民間に一任されていました。
    民間の自由競争の中でこそ、優秀な人材は育つと考えられたのです。

    ひるがえって現代日本を見ると、初等中等教育は義務教育とされ、どんなアホでも教育を受けることが「義務」とされる一方、最先端の学問を行う大学は、数ばかり増えて、猫も杓子も大学に進学し、学問そっちのけでアルバイトに精を出すという状態になっています。
    要するに江戸時代の学問体制は、現代日本とは正反対なのです。

    ちなみに、寺子屋を追い出された生徒はどうなるかというと、町方なら、親が自分で面倒をみなければなりません。
    それが十分に目が行き届かずに、その子が不良になって町で問題を起こせば、住んでいる長屋ごと、お取り潰しです。
    これは、長屋全部がつぶされました。
    つまり、その子や親だけでなく、隣近所に住んでいる人たちから、家主にまで迷惑がかかったのです。
    それだけ厳しかったのです。

    それでもどうにもならない子は、親が子を勘当(かんどう)しました。
    勘当された子は、親という身元引受人を失いますから、どこにも就職できません。
    丁稚奉公にさえ行けない。
    するとどうなるかというと、無宿人になる他ない。
    無宿人は、野良犬や野良猫と同じ扱いですから、殺されても人の数のうちに入りません。

    武士はもっと厳しいです。
    子が藩校を追い出されたとなると、その子は武家としての跡目を継げなくなるだけでなく、追い出されるような子をもうけた親も、俸禄を減免され、身分を落とされ、程度によっては藩主の顔に泥を塗ったということで、親子共々切腹です。

    童子教が言う、「教へに順(したが)はざる弟子は早く父母に返すべし」は、だからものすごく重たい言葉であったのです。

    そうした社会は、子供たちの我儘が許される現代と比べたら、ずいぶんとやかましい世間に思えるかもしれません。
    けれど少し考えたらわかることですが、まともに生きている子供たちや親には、何の関係もない話です。

    しかも、もっというなら、かつての日本社会の厳しさも、中共や北朝鮮などの共産主義国家とくらべたら、まるで天国です。
    共産圏は密告社会ですが、反政府的言動者は密告しなければならないというだけでなく、密告をしなかった周囲者も、「密告をしなかった」という罪で、反政府主義者と同じ罪に問われます。
    共産主義社会の異常性を考えれば、むしろ反体制派に属する人の方が健全な精神の持ち主のようにも思えるのですが、仮にそうだとしても歪んだ社会体制のもとにあっては、正常なものが斜めになり、斜めのものが正常になります。

    日本社会は、かつての厳しさを取り戻すべきです。
    すくなくとも、二重国籍のスパイが国会で幅をきかせるような社会は、どうみてもまともな社会とはいえないからです。
    そしてまともな社会を取り戻すためには、まともな教育が必要なのです。

    冒頭の絵をご欄頂くと、厳しかっったはずの寺子屋で、生徒たちが明るく笑っている様子が見て取れると思います。
    厳しいから、楽しいのです。
    厳しさがあるから、明るくなれるのです。

    童子教は江戸時代の寺子屋で広く用いられた教えです。
    ところが明治に入って、これが廃止となり、以後は教育勅語に変わりました。
    理由は簡単で、童子教はたいへん良いことが書かれているのですが、仏教を尊ぶ姿勢が明確に書かれてたことによります。

    明治政府は、明治3年から廃仏毀釈を推進し、国内から仏教を廃し、国家神道を国教にしようとしました。
    このため大阪住吉大社大伽藍は破壊されたし、奈良興福寺の食堂も破壊、仏塔さえも捨値で売りに出され、千葉の鋸山ではすべての五百羅漢像が破壊されたりしました。
    こうした一連の取り組みの中で、仏教を尊ぶ童子教は不要とされるようになり、結果として、明治以降、童子教は徐々に忘れ去られていくことになったわけです。

    以下に童子教の前文を掲載しますが、ご一読いただければ、人として何が大切なのか、また師弟関係とはどのようなものか。
    そして江戸時代の庶民がなぜ民度が高かったのかなどをご理解いただけるのではないかと思います。

    *******
    童子教

    1 夫貴人前居  夫(そ)れ貴人の前に居ては
    2 顕露不得立  顕露に立つことを得ざれ
    3 遇道路跪過  道路に遇ふては跪(ひざまづ)いて過ぎよ
    4 有召事敬承  召す事有らば敬つて承れ
    5 両手当胸向  両手を胸に当てて向へ
    6 慎不顧左右  慎みて左右を顧みざれ
    7 不問者不答  問はずんば答へず
    8 有仰者謹聞  仰せ有らば謹しんで聞け

    9 三宝尽三礼  三宝には三礼を尽し
    10 神明致再拝  神明には再拝を致せ
    11 人間成一礼  人間には一礼を成せ
    12 師君可頂戴  師君には頂戴すべし
    13 過墓時則慎  墓を過ぐる時は則ち慎め
    14 過社時則下  社を過ぐる時は則ち下(を)りよ
    15 向堂塔之前  堂塔の前に向かつて
    16 不可行不浄  不浄を行ふべからず
    17 向聖教之上  聖教(しやうきやう)の上に向かつて
    18 不可致無礼  無礼を致すべからず

    19 人倫有礼者  人倫礼有れば
    20 朝廷必在法  朝廷に必ず法在り
    21 人而無礼者  人として礼無きは
    22 衆中又有過  衆中(しゆちう)又過(あやま)ち有り
    23 交衆不雑言  衆に交はりて雑言(ざうごん)せざれ
    24 事畢者速避  事畢(おは)らば速(すみやか)に避けよ

    25 触事不違朋  事に触れて朋(とも)に違(たが)へず
    26 言語不得離  言語(げんぎよ)離すことを得ざれ
    27 語多者品少  語(ことば)多き者は品少なし
    28 老狗如吠友  老いたる狗(いぬ)の友を吠(ほ)ゆる如し

    29 懈怠者食急  懈怠(けだい)は食を急ぐ
    30 痩猿如貪菓  痩せたる猿の菓(このみ)を貪る如し
    31 勇者必有危  勇む者は必ず危(あやう)き有り
    32 夏虫如入火  夏の虫の火に入(い)るが如し
    33 鈍者亦無過  鈍(にぶ)き者は又過(あやま)ち無し
    34 春鳥如遊林  春の鳥の林に遊ぶが如し

    35 人耳者附壁  人の耳は壁に付く
    36 密而勿讒言  密(かく)して讒言すること勿(なか)れ
    37 人眼者懸天  人の眼(め)は天に懸(かゝ)る
    38 隠而勿犯用  隠して犯し用ゆること勿れ
    39 車以三寸轄  車は三寸の轄(くさび)を以て
    40 遊行千里路  千里の路(みち)を遊行(ゆぎやう)す
    41 人以三寸舌  人は三寸の舌を以つて
    42 破損五尺身  五尺の身を破損す
    43 口是禍之門  口は是(これ)禍(わざはひ)の門(もん)
    44 舌是禍之根  舌は是(これ)禍(わざわひ)の根
    45 使口如鼻者  口をして鼻の如くならしめば
    46 終身敢無事  身終るまで敢へて事無し
    47 過言一出者  過言(くわごん)を一たび出(い)だす者は
    48 駟追不返舌  駟追(しつい)の舌を返さざれ

    49 白圭珠可磨  白圭の珠(たま)は磨くべし
    50 悪言玉難磨  悪言(あくげん)の玉は磨き難し
    51 禍福者無門  禍福は門に無し
    52 唯人在所招  唯(ただ)人の招く所に在り
    53 天作災可避  天の作(つく)る災は避(さ)くべし
    54 自作災難逃  自ら作(つく)る災は逃(のが)れ難し
    55 夫積善之家  夫(そ)れ積善(せきぜん)の家には
    56 必有余慶矣  必ず余慶有り
    57 亦好悪之処  又好悪の処(ところ)には
    58 必有余殃矣  必ず余殃(よわう)有り
    59 人而有陰徳  人として陰徳有れば
    60 必有陽報矣  必ず陽報有り
    61 人而有陰行  人として陰行(いんこう)有れば
    62 必有照名矣  必ず照名有り
    63 信力堅固門  信力(しんりき)堅固の門(かど)には
    64 災禍雲無起  災禍の雲起ること無し
    65 念力強盛家  念力強盛(ごうせい)の家には
    66 福祐月増光  福祐の月(つき)光(ひかり)を増す
    67 心不同如面  心の同じさらざるは面(をもて)の如し
    68 譬如水随器  譬(たと)へば水の器に随ふが如し

    69 不挽他人弓  他人の弓を挽(ひ)かざれ
    70 不騎他人馬  他人の馬に騎(の)らざれ
    71 前車之見覆  前車の覆(くつがへ)るを見ては
    72 後車之為誡  後車の誡(いましめ)とす
    73 前事之不忘  前事の忘れざるは
    74 後事之為師  後事(ごじ)の師とす
    75 善立而名流  善立ちて名流れ
    76 寵極而禍多  寵(てう)極めつて禍(わざはひ)多し

    77 人者死留名  人は死して名を留(とど)め
    78 虎者死留皮  虎は死して皮を留む
    79 治国土賢王  国土を治むる賢王(けんわう)は
    80 勿侮鰥寡矣  鰥寡(くはんくは)を侮(く)ゆることなし
    81 君子不誉人  君子の人を誉めざるは
    82 則民作怨矣  則ち民(たみ)怨(あた)と作(な)ればなり

    83 入境而問禁  境(きやう)に入つては禁(いましめ)を問へ
    84 入国而問国  国に入(い)つては国を問へ
    85 入郷而随郷  郷(ごう)に入(い)つては郷に随ひ
    86 入俗而随俗  俗に入つては俗に随へ
    87 入門先問諱  門に入つては先づ諱(いみな)を問へ
    88 為敬主人也  主人を敬(うやま)ふ為なり
    89 君所無私諱  君の所(ところ)に私の諱(いみな)無し
    90 無二尊号也  尊号二つ無ければなり

    91 愚者無遠慮  愚者は遠き慮(おもんぱかり)無し
    92 必可有近憂  必ず近き憂(うれ)ひ有るべし
    93 如用管窺天  管(くだ)を用ひて天を窺(うかが)ふが如し
    94 似用針指地  針(はり)を用ひて地を指すに似たり

    95 神明罰愚人  神明(しんめい)は愚人を罰す
    96 非殺為令懲  殺すにあらず懲(こ)らしめんが為なり
    97 師匠打弟子  師匠の弟子を打つは
    98 非悪為令能  悪(にく)むにあらず能(よ)からしめん為也
    99 生而無貴者  生れながらにして貴(たつと)き者無し
    100 習修成智徳  習ひ修(しゆ)して智徳とは成る

    101 貴者必不冨  貴(たつと)き者は必ず冨まず
    102 冨者未必貴  冨める者は未(いま)だ必ず貴からず
    103 雖冨心多欲  冨めりと雖(いへど)も心に欲多ければ
    104 是名為貧人  是(これ)を名づけて貧人(ひんじん)とす
    105 雖貧心欲足  貧なりといえども心に足るを欲せば
    106 是名為冨人  是(これ)を名づけて冨人(ふじん)とす

    107 師不訓弟子  師の弟子を訓(をし)へざるは
    108 是名為破戒  是(これ)を名づけて破戒とす
    109 師呵責弟子  師の弟子を呵責(かしやく)するは
    110 是名為持戒  是(これ)を名づけて持戒とす
    111 畜悪弟子者  悪しき弟子を畜(やしな)へば
    112 師弟堕地獄  師弟地獄に堕(を)ち
    113 養善弟子者  善き弟子を養へば
    114 師弟到仏果  師弟仏果に到る
    115 不順教弟子  教へに順(したが)はざる弟子は
    116 早可返父母  早く父母に返すべし
    117 不和者擬冤  不和なる者を冤(なだ)めんと擬(ぎ)すれば
    118 成怨敵加害  怨敵(おんてき)と成つて害を加ふ
    119 順悪人不避  悪人に順(したが)ひて避(さ)けざれば
    120 緤犬如廻柱  緤(つな)げる犬の柱を廻(めぐ)るが如し
    121 馴善人不離  善人に馴(な)れて離れざるは
    122 大船如浮海  大船の海に浮かめるが如し

    123 随順善友者  善き友に随順すれば
    124 如麻中蓬直  麻の中の蓬(よもぎ)の直(なを)きが如し
    125 親近悪友者  悪しき友に親近すれば
    126 如藪中荊曲  藪の中の荊(いばら)の曲(まが)るが如し
    127 離祖付疎師  祖に離れ疎師に付く
    128 習戒定恵業  戒定恵(かいぢやうゑ)の業(わざ)を習ひ
    129 根性雖愚鈍  根性は愚鈍と雖(いへど)も
    130 好自致学位  好めば自(おのづか)ら学位に致る
    131 一日学一字  一日に一字を学べば
    132 三百六十字  三百六十字
    133 一字当千金  一字千金に当る
    134 一点助他生  一点他生を助く
    135 一日師不疎  一日の師たりとも疎(うとん)ぜざれば
    136 况数年師乎  况(いはん)や数年の師をや

    137 師者三世契  師は三世(さんぜ)の契り
    138 祖者一世眤  祖は一世(いつせ)の眤(むつび)
    139 弟子去七尺  弟子七尺(しちしやく)を去つて
    140 師影不可踏  師の影を踏むべからず
    141 観音為師孝  観音は師孝の為に
    142 宝冠戴弥陀  宝冠に弥陀を戴(いただ)き
    143 勢至為親孝  勢至(せいし)は親孝(しんかう)の為に
    144 頭戴父母骨  頭(こうべ)に父母の骨を戴き
    145 宝瓶納白骨  宝瓶(ほうびん)に白骨を納む

    146 朝早起洗手  朝(あさ)早く起きて手を洗ひ
    147 摂意誦経巻  意(こころ)を摂して経巻を誦(じゆ)せよ
    148 夕遅寝洒足  夕(ゆふべ)には遅く寝て足を洒(あら)ひ
    149 静性案義理  性(せい)を静めて義理を案ぜよ
    150 習読不入意  習ひ読めども意(こころ)に入れざるは
    151 如酔寝閻語  酔ふて寐て閻(むつごと)を語るが如し
    152 読千巻不復  千巻(せんぐはん)を読めども復さざれば
    153 無財如臨町  財無くして町に臨むが如し

    154 薄衣之冬夜  薄衣(はくえ)の冬の夜(よ)も
    155 忍寒通夜誦  寒を忍んで通夜(よもすがら)誦(じゆ)せよ
    156 乏食之夏日  食乏(とぼ)しきの夏の日も
    157 除飢終日習  飢(うへ)を除いて終日(ひめもす)習へ
    158 酔酒心狂乱  酒に酔(ゑ)ふて心狂乱す
    159 過食倦学文  食過ぐれば学文に倦(う)む
    160 温身増睡眠  身温(あたた)まれば睡眠(すいめん)を増す
    161 安身起懈怠  身安ければ懈怠(けだい)起る

    162 匡衡為夜学  匡衡(けいこう)は夜学の為に
    163 鑿壁招月光  壁を鑿(うが)つて月光を招き
    164 孫敬為学文  孫敬(そんけい)は学文の為に
    165 閉戸不通人  戸を閉ぢて人を通さず
    166 蘇秦為学文  蘇秦は学文の為に
    167 錐刺股不眠  錐を股(もも)に刺して眠らず
    168 俊敬為学文  俊敬(しゆんけい)は学文の為に
    169 縄懸頸不眠  縄を頸(くび)に懸(か)けて眠らず
    170 車胤好夜学  車胤(しやいん)は夜学を好んで
    171 聚蛍為燈矣  蛍を聚(あつ)めて燈(ともしび)とす
    172 宣士好夜学  宣士(せんし)は夜学を好んで
    173 積雪為燈矣  雪を積んで燈(ともしび)とす
    174 休穆入意文  休穆(きうぼく)は文に意(こころ)を入れて
    175 不知冠之落  冠(かんぶり)の落つるを知らず
    176 高鳳入意文  高鳳(こうほう)は文に意(こころ)を入れて
    177 不知麦之流  麦の流るゝを知らず
    178 劉完乍織衣  劉完(りうくはん)は衣を織り乍ら
    179 誦口書不息  口に書を誦(じゆ)して息(いこ)はず
    180 倪寛乍耕作  倪寛(げいくはん)は耕作し乍(なが)ら
    181 腰帯文不捨  腰に文を帯びて捨てず
    182 此等人者皆  此等(これら)の人は皆
    183 昼夜好学文  昼夜学文を好んで
    184 文操満国家  文操国家に満つ
    185 遂致碩学位  遂に碩学の位に致(いた)る

    186 縦磨塞振筒  縦(たと)へ塞を磨き筒を振るとも
    187 口恒誦経論  口には恒に経論を誦(じゆ)し
    188 亦削弓矧矢  又弓を削り矢を矧(は)ぐとも
    189 腰常挿文書  腰には常に文書を挿せ

    190 張儀誦新古  張儀は新古を誦(じゆ)して
    191 枯木結菓矣  枯木に菓(このみ)を結ぶ
    192 亀耄誦史記  亀耄(きほう)は史記を誦(じゆ)して
    193 古骨得膏矣  古骨に膏(あぶら)を得たり
    194 伯英九歳初  伯英は九歳にして初めて
    195 早至博士位  早く博士(はかせ)の位に至る
    196 宋吏七十初  宋吏(さうし)は七十にして初めて
    197 好学登師伝  学を好んで師伝に登る
    198 智者雖下劣  智者は下劣なりと雖(いへど)も
    199 登高台之閣  高台の閣に登る

    200 愚者雖高位  愚者は高位なりと雖(いへど)も
    201 堕奈利之底  奈利(ないり)の底に堕(お)つ
    202 智者作罪者  智者の作る罪は
    203 大不堕地獄  大いなれども地獄に堕(を)ちず
    204 愚者作罪者  愚者の作る罪は
    205 小必堕地獄  小さけれども必ず地獄に堕(を)つ

    206 愚者常懐憂  愚者は常には憂(うれい)を懐(いだ)く
    207 譬如獄中囚  たとへば獄中の囚(とらはれびと)の如し
    208 智者常歓楽  智者は常に歓楽す
    209 猶如光音天  猶(なを)光音天(くはうおんてん)の如し

    210 父恩者高山  父の恩は山より高し
    211 須弥山尚下  須弥山尚(なを)下(ひく)し
    212 母徳者深海  母の徳は海よりも深く
    213 滄溟海還浅  滄溟の海還(かへ)つて浅し
    214 白骨者父淫  白骨は父の淫
    215 赤肉者母淫  赤肉は母の淫
    216 赤白二諦和  赤白の二諦和し
    217 成五体身分  五体身分(しんぶん)と成る

    218 処胎内十月  胎内に処(しよ)すること十月(とつき)
    219 身心恒苦労  身心(しんじん)恒(つね)に苦労す
    220 生胎外数年  胎外(たいげ)に生れて数年(すねん)
    221 蒙父母養育  父母の養育を蒙(かふむ)る
    222 昼者居父膝  昼は父の膝に居て
    223 蒙摩頭多年  摩頭(まとう)を蒙(かふむ)ること多年
    224 夜者臥母懐  夜は母の懐(ふところ)に臥(ふ)して
    225 費乳味数斛  乳味を費すこと数斛(すこく)
    226 朝交于山野  朝(あした)には山野に交はつて
    227 殺蹄養妻子  蹄(ひづめ)を殺して妻子を養ひ
    228 暮臨于江海  暮(ゆふべ)には江海に臨んで
    229 漁鱗資身命  鱗(うろこ)を漁つて身命を資け

    230 為資旦暮命  旦暮の命を資(たす)からん為に
    231 日夜造悪業  日夜悪業(あくごう)を造り
    232 為嗜朝夕味  朝夕の味を嗜(たしな)まん為に
    233 多劫堕地獄  多劫(たこう)地獄に堕(を)つ
    234 戴恩不知恩  恩を戴(いたゞ)ひて恩を知らざるは
    235 如樹鳥枯枝  樹の鳥の枝を枯らすが如し
    236 蒙徳不思徳  徳を蒙(かふむ)つて徳を思はざるは
    237 如野鹿損草  野の鹿の草を損ずるが如し

    238 酉夢打其父  酉夢(ゆうむ)其の父を打てば
    239 天雷裂其身  天雷其の身を裂く
    240 班婦罵其母  班婦其の母を罵(のゝし)れば
    241 霊蛇吸其命  霊蛇其の命を吸ふ
    242 郭巨為養母  郭巨(くはくきよ)は母を養はん為に
    243 掘穴得金釜  穴を掘りて金(こがね)の釜を得たり
    244 姜詩去自婦  姜詩(きやうし)は自婦を去りて
    245 汲水得庭泉  水を汲めば庭に泉を得たり
    246 孟宗哭竹中  孟宗竹中(ちくちう)に哭(こく)すれば
    247 深雪中抜筍  深雪の中(うち)に筍(たかんな)を抜く
    248 王祥歎叩氷  王祥歎(なげ)きて氷を叩(たゝ)けば
    249 堅凍上踊魚  堅凍(けんたう)の上に魚踊る
    250 舜子養盲父  舜子盲父を養ひて
    251 涕泣開両眼  涕泣すれば両眼を開く
    252 刑渠養老母  刑渠(けいこ)老母を養ひて
    253 噛食成齢若  食を噛めば齢(よはひ)若(わか)く成る
    254 董永売一身  董永(とうゑい)一身を売りて
    255 備孝養御器  孝養の御器(ぎよき)に備ふ
    256 楊威念独母  楊威は独りの母を念(おも)つて
    257 虎前啼免害  虎の前に啼(な)きしかば害を免(まぬか)る
    258 顔烏墓負土  顔烏(がんう)墓に土を負へば
    259 烏鳥来運埋  烏鳥(うちやう)来つて運び埋(うづ)む
    260 許牧自作墓  許牧自(みづか)ら墓を作れば
    261 松柏植作墓  松柏植へて墓と作(な)る
    262 此等人者皆  此等(これら)の人は皆
    263 父母致孝養  父母に孝養を致し
    264 仏神垂憐愍  仏神(ぶつじん)の憐愍(れんみん)を垂れ
    265 所望悉成就  所望(しよまう)悉(ことごと)く成就す

    266 生死命無常  生死(せうじ)の命は無常なり
    267 早可欣涅槃  早く涅槃(ねはん)を欣(ねが)ふべし
    268 煩悩身不浄  煩悩の身は不浄なり
    269 速可求菩提  速(すみやか)に菩提を求むべし
    270 厭可厭娑婆  厭(いと)ひても厭ふべきは娑婆なり
    271 会者定離苦  会者定離(ゑしやぢやうり)の苦しみ
    272 恐可恐六道  恐れても恐るべきは六道(ろくどう)
    273 生者必滅悲  生者必滅(しやうじやひつめつ)の悲しみ
    274 寿命如蜉蝣  寿命は蜉蝣(ふゆう)の如し
    275 朝生夕死矣  朝(あした)に生れて夕(ゆうべ)に死す
    276 身体如芭蕉  身体は芭蕉の如し
    277 随風易壊矣  風に随つて壊(やぶ)れ易し
    278 綾羅錦繍者  綾羅錦繍(りやうらきんしう)は
    279 全非冥途貯  全く冥途の貯えに非(あら)ず

    280 黄金珠玉者  黄金珠玉は
    281 只一世財宝  只一世(いつせ)の財宝
    282 栄花栄耀者  栄花栄耀(えいぐわえいよう)は
    283 更非仏道資  更に仏道の資(たす)けに非(あら)ず
    284 官位寵職者  官位寵職は
    285 唯現世名聞  唯(たゞ)現世の名聞(みやうもん)

    286 致亀鶴之契  亀鶴の契りを致すも
    287 露命不消程  露命の消えざるが程は
    288 重鴛鴦之衾  鴛鴦(ゑんわう)の衾(ふすま)を重ぬるも
    289 身体不壊間  身体の壊(やぶ)れざる間(あいだ)
    290 刀利摩尼殿  刀利摩尼殿(とうりまにでん)も
    291 歎遷化無常  遷化(せんげ)無常を歎く
    292 大梵高台閣  大梵(だいぼん)高台の閣も
    293 悲火血刀苦  火血刀の苦しみを悲しむ
    294 須達之十徳  須達(しゆだつ)の十徳(じつとく)も
    295 無留於無常  無常を留(とゞ)むること無し
    296 阿育之七宝  阿育(あいく)の七宝(しつぽう)も
    297 無買於寿命  寿命を買ふこと無し
    298 月支還月威  月支(ぐわつし)の月を還せし威も
    299 被縛炎王使  炎王(ゑんわう)の使ひに縛(ばく)せらる
    300 龍帝投龍力  龍帝(りうてい)の龍(りやう)を投げし力も
    301 被打獄卒杖  獄卒の杖(つえ)に打たる

    302 人尤可行施  人尤(もつと)も施しを行ふべし
    303 布施菩提粮  布施は菩提の粮(かて)
    304 人最不惜財  人最(もつと)も財を惜しまざれ
    305 財宝菩提障  財宝は菩提の障(さは)り
    306 若人貧窮身  若(も)し人貧窮の身にて
    307 可布施無財  布施すべき財無く
    308 見他布施時  他の布施を見る時
    309 可生随喜心  随喜の心を生ずべし
    310 悲心施一人  心に悲しんで一人(いちにん)に施せば
    311 功徳如大海  功徳(くどく)大海(だいかい)の如し
    312 為己施諸人  己(おのれ)が為に諸人に施せば
    313 得報如芥子  報を得ること芥子(けし)の如し
    314 聚砂為塔人  砂(いさご)を聚(あつ)めて人塔を為す
    315 早研黄金膚  早く黄金の膚(はだへ)を研(みが)く
    316 折花供仏輩  花を折つて仏に供する輩(ともがら)は
    317 速結蓮台政  速(すみや)かに蓮台の政(はなぶさ)を結ぶ
    318 一句信受力  一句信受の力も
    319 超転輪王位  転輪王の位に超(いた)る
    320 半偈聞法徳  半偈(はんげ)聞法(もんぼう)の徳も
    321 勝三千界宝  三千界の宝にも勝(すぐ)れたり
    322 上須求仏道  上(かみ)は須(すべから)く仏道を求む
    323 中可報四恩  中は四恩を報ずべし
    324 下編及六道  下(しも)は編(あまねく)六道に及ぶ
    325 共可成仏道  共に仏道成るべし
    326 為誘引幼童  幼童を誘引せんが為に
    327 註因果道理  因果の道理を註(ちう)す
    328 出内典外典  内典外典より出でたり
    329 見者勿誹謗  見る者誹謗すること勿れ
    330 聞者不生笑  聞く者笑を生ぜざれ

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    『童子教』現代語訳

    貴い人の前では、あらわに立っていてはいけません。
    道にあっては、ひざまづいて通り過ぎるのを待ち、
    呼ばれたら、うやまって承りなさい。

    両手を胸に当てて向い、慎んで左右をかえりみて、
    問われなければ答えず、おおせがあれば、謹しんで聞きなさい。

    仏法僧の三宝には稽首(けいしゅ)、跪(き)、揖(ゆう)の三礼を尽し
    神前においては、再拝しなさい。

    人には必ず一礼をし、師匠や君主には頭をたれなさい。
    墓地を通り過ぎるときは慎み深くし、
    神社を通り過ぎるときは、乗り物を降りなさい。
    お堂や仏塔などの前に向かって不浄を行ってはなりません。
    すぐれた教えをくださる目上の人に向かって、無礼をしてはなりません。
    人には倫理と礼儀があります。国家に法があるのと同じです。

    人として礼がなければ、大勢の人前で過(あやま)ちます。
    大勢の人と交わるときには余計なことは言わず、
    ことが終わったら、すみやかに帰りましょう。

    事に触れて仲間たちとの約束を違(たが)えず
    言うこととすることが離れないようにしなさい。
    言葉の多い者は品が少ないものです。
    それは、老いた犬が、友の犬に吠(ほ)えることと同じです。

    怠けることは、急いで食べたり、痩せた猿が樹の実を貪(むさぼ)るのと同じです。
    勇む者は必ず危ない目に遭います。夏の虫が火に飛び込むのと同じです。
    むしろ、鈍(にぶ)いくらいの方が、過(あやま)ちがありません。
    それは、うららかな春の日に鳥が林に遊ぶようなものです。

    人の耳は壁に付きます。ですから密(かく)して讒言(ざんげん)してはなりません。
    人の眼(め)は天の眼と同じです。隠し犯してもからなずバレます。

    車輪は三寸のクサビで留めてあるだけですが、
    それで千里の路(みち)を走ることができます。
    けれど人は三寸の舌で、たった五尺の身を滅ぼします。

    口は禍(わざはい)の門(もん)です。
    舌は是(これ)禍(わざわひ)の根です。
    口を鼻のようにしてしまえば、身が終るまで事が起こることはありません。
    余計なことをひとたび言えば、四頭立ての馬車で追いかけても、追いつくことはできません。
    白い珠(たま)は磨けば光ります。けれど悪言(あくげん)の玉は磨くことさえできないのです。

    福も災いも、家の門にあるのではありません。
    ただ、人が招くところにあるのです。
    天が与える災難は、避けることができますが、自ら作る災難は逃れにくいものです。

    善い行いを積む家には、必ず善いことが起こります。
    悪事を積み重ねてきた家には、必ず子孫にまで災いが及びます。

    人として陰徳あれば、必ず陽報があります。
    人として陰行(いんこう)があれば、必ず照名があります。

    信じる力が堅ければ、災禍の雲が起ることはありません。
    念じる力が強い家には、必ず福祐の月の光が射し込みます。

    人の心はみんな違います。それはひとりひとりの顔が違うのと同じです。
    たとえていえば、水が器(うつわ)の形に従って形を変えるのと同じです。
    他人の弓を挽(ひ)かない。他人の馬に騎(の)らない。
    前の車が覆(くつがえ)ったことは、後に続く車の誡(いましめ)としなさい。

    忘れられない出来事は、後事(ごじ)の師です。
    善き行いが広く知られるようになり、誉められたり可愛がられるようになると、
    思わぬ禍いもやってくるものです。

    人は死して名を留(とど)め、虎は死して皮を留めます。
    国土を治める賢王(けんおう)は、身寄りがないことを悔いることはありません。
    君子が人を誉めないのは、則ち民(たみ)怨(あた)と作(な)ればなり
    境に入ってはその境の禁(いましめ)を問い
    国に入っては国を問い
    郷に入っては郷に随い
    俗に入っては俗に随い

    門(もん)に入(い)るには先(ま)づご先祖を問いなさい。
    その家の主人を敬(うやま)ふです。
    君には、私(わたくし)の諱(いみな)はありません。尊号は二つはないからです。

    愚かな者は先々のことを考えません。
    必ずいまこの瞬間の憂いしか持ちません。
    それはまるで細い管(くだ)で天を観るようなものです。
    あるいは針で地面を刺すのと同じです。

    神は愚人を罰します。殺しはしません。懲(こ)らしめるためです。
    師匠が弟子を打つのは、悪(にく)むからではありません。
    より能(よ)くしようと思うからです。

    生れながらにして貴(たっ)とい者などいません。
    習ひ修(おさ)めて、はじめて智徳と成るのです。

    貴(たっと)き者は、必ず冨みません。
    冨める者は、必ず貴くありません。
    冨んでいても、心に欲が多ければ、これを名づけて貧人(ひんじん)と言うのです。
    貧なりといえども、心に足(た)るを持てば、これを名づけて冨人(ふじん)と言うのです。

    師が厳しく弟子を訓(おし)えないのは、これを名づけて破戒です。
    師が弟子を叱るのは、これを名づけて持戒と言います。

    叱らずに悪い弟子を畜(やしな)えば、師弟ともに地獄に堕ちます。
    厳しく薫陶して善い弟子を養えば、師弟ともに仏果に到ります。

    教えに順(したが)わない弟子は、さっさと父母に返しなさい。
    不和な者を冤(なだ)めようとすれば、不満を持つ敵となって必ず害を加えるようになります。
    悪人を避けないことは、つながれた犬が柱をグルグル回るのと同じです。
    善人に近づいて離れないことは、大船が海に浮ぶのと同じです。
    善き友に随えば、麻の中に蓬(よもぎ)が生えるようなものです。
    悪しき友に親近すれば、藪(やぶ)の中で荊(いばら)に近づくようなものです。

    親元を離れ、孤高な師に付いて、
    悪を止める戒と、心の平静を得る定と、真実を悟る慧の
    三学である戒定恵(かいじょうえ)を習うのです。
    そうすれば自分の性が愚鈍であっても、
    みずから進んで学ぶことで、自(おのづか)ら学位に致ります。

    一日一字を学べば三百六十字
    一字千金に当れば来世まで助けます。
    一日の師から学ぶのであってもです。
    まして数年の師であればなおのことです。

    師は過去世・現在世・未来世の三世(さんぜ)の契りです。
    父祖は一世(いっせ)の眤(むつび)です。
    弟子は師匠の後ろに七尺(約2M)下がって、師匠の影を踏んではなりません。

    観音様は師への孝のために、冠に阿弥陀様をいただきました。
    勢至(せいし)様は親孝行のために頭上の宝瓶に父母の白骨をいただいたといわれています。
    朝(あさ)早く起きて手を洗い
    意(こころ)を込めて経を読みなさい。

    夜は遅くに寝て、足を洗い、
    心を静(しず)めて条理を考えなさい。

    習い読んでも、それを心に入れなければ、
    それは酔って寝てつまらないことを語るのと同じです。
    千巻の書を読んでも、繰り返し読むのでなければ、
    一文無しで町に出るのと同じです。

    薄衣の冬の夜も寒さを忍んで夜通しでも口誦しなさい。
    食べものが乏しい夏の日にお腹が空いても終日習いなさい。

    酒に酔って心乱れたり、食べ過ぎたりすれば、学文に倦(う)みます。
    身が温(あたた)まれば、眠気を催します。
    身が楽ならば、だるさが起きます。
    チャイナの匡衡(けいこう)という学者は、夜学のために
    壁に穴を開けて月の光で書を学び、
    同じくチャイナの孫敬(そんけい)という学者は、学問のために
    戸を閉じて人を通しませんでした。
    蘇秦という学者は、やはり学問のためにと、
    錐(キリ)を股(もも)に刺して眠気を払い、
    俊敬(しゆんけい)は学問のために縄を首に懸(か)けて眠りませんでした。
    車胤(しやいん)は夜学のために、蛍を集めて灯りにしました。
    宣士(せんし)は夜学を好んで、雪を積んで灯りにしました。
    休穆(きうぼく)は文に意(こころ)を入れていたため、
    冠が落ちたことにも気付きませんでした。
    高鳳(こうほう)は文に意(こころ)を入れていたため
    麦が流れてしまったことにも気付きませんでした。
    劉完(りうくはん)は衣を織りながら
    口に書を誦(じゅ)して息をせず、
    倪寛(げいくはん)は畑を耕しながら、腰に文を帯びて捨てませんでした。

    これらの人は皆、昼夜学問を好むことで、学問への志を国に満たしました。
    たと砦にこもり、武器を振ことになっても、
    口にはつねに経と論を誦(じゅ)し
    弓を削り矢を矧(は)ぐとも、腰には常に文書を挿しなさい。

    張儀(ちょうぎ)は新古を誦して枯木に実を結んだといいます。
    亀耄(きほう)は史記を暗唱し、老齢まで働きました。
    伯英(はくえい)は九歳で博士の位に至りました。
    宋吏(そうし)は七十にして初めて学問の師となりました。

    智者は下層の出身者でも、国家の高位に登ります。
    愚者は高い地位を得ても、地獄に堕ちます。
    愚者の作る罪は、小さくても必ず地獄に堕ちるのです。

    愚者は常には憂(うれい)をいだきます。
    それは、たとえていえば、獄中の囚人と同じです。
    智者は常に楽観です。
    それは天界と同じです。

    父の恩は山より高いものです。
    それは須弥山さえも下におくほどです。
    母の徳は海よりも深いものです。
    それは海原さえも浅く感じさせるものです。
    骨は父より、肉は母よりと思い、
    骨肉あい和して五体となります。
    胎内にいること十ヵ月
    その間、母にずっと苦労をかけ、
    生まれてから数年、今度は父母の養育をいただいています。
    昼は父の膝に居て頭を撫でられること多年、
    夜は母の懐(ふところ)に臥(ふ)してその乳をいただきました。

    けれど後には山野に交わって妻子を養い、
    海の幸をいただいて身命をたすけるため、
    暮には、命のためと称して日夜悪業を重ね
    朝夕の食のためにと無限地獄に堕ちていく。

    恩をいただいて恩を知らないのは
    樹に住む鳥が枝を枯らすようなものです。
    徳をいただいて徳を思わないのは、
    野の鹿が草を損ねるようなものです。

    夢にも父を打つならば、天雷がその身を裂きます。
    身をわかちあった母を罵(のの)しるならば、
    霊蛇がその命を吸ふことでしょう。

    チャイナの郭巨(かくきょ)は母を養うために、
    穴を掘って金(こがね)の釜を得ました。
    姜詩(きょうし)は妻とともに母によく仕え
    天より美しい湧き水をいただきました。
    孟宗は竹やぶの中で母のために哭(な)き、
    真冬の深雪の中に筍(たけのこ)を抜きました。
    王祥は、母に魚を食べさせようと氷の上に寝て
    堅い氷の下から魚を得ました。
    舜子は目の見えない父を養って天子の座をいただきました。
    刑渠(けいこ)は老いた母を養って
    食べものの毒味を行い、
    母は70歳を過ぎても30歳ほどにしかみえなかったといいます。
    董永(とうえい)は父の葬儀のために、自らの身を売りました。
    楊威は独りの母を想って虎の前に啼(な)いて害を免(まぬか)れました。
    顔烏(がんう)は墓で、烏(カラス)に助けられました。
    許牧は自ら墓を作り、松柏植へて墓としました。
    これらの人は皆、父母に孝養をし、
    仏神の憐愍(れんみん)をいただき、
    望むところを成就したという故事です。

    生死は無常です。
    早く涅槃(ねはん)を欲しても、煩悩の身は不浄です。
    すみやかに菩提を求めても、
    現実は娑婆世界です。

    愛別離苦の苦しみがあり
    恐れても六道輪回の生者必滅の悲しみがあります。
    寿命はカゲロウのようなものです。
    朝(あした)に生れて夕(ゆうべ)に死ぬのです。

    身体は葉の大きなバナナの木と同じです。
    風が吹けば破れやすい。
    刺繍を数多く施した美しい衣服は、冥途の貯えにはなりません。
    黄金珠玉は、ただ今生だけの財宝にすぎません。
    栄花栄耀は仏道の資(たす)けにはなりません。
    官位寵職も、ただ現世の名聞(みょうもん)にすぎません。
    万年千年の約束をしても、それは命のある間のこと、
    仲睦まじい夫婦も、命のある限りのことでしかありません。

    観世音菩薩は高僧の短命を嘆き、
    梵天の高台の楼閣も、火血刀の苦しみを味わいました。
    インドの長者の須達(しゅだつ)の十徳も、
    無常を留めることができず、
    アショーカ王の七宝も、寿命を買ふことはできませんでした。
    かつての大国の大月支国も、ついには消え去り、
    龍帝の龍さえ投げ飛ばす腕力も、最後には獄卒の杖に打たれるようになりました。

    人は、もっと施しなさい。
    布施は菩提の粮(かて)です。
    人は、もっと財を惜しまず、
    財宝は菩提の障(さわ)りと思い、
    貧窮の身が布施を得れば、随喜の心を生じます。
    心に悲しんで誰かに施せば、その功徳は大海と同じです。
    自分のために誰かに施しをすることは、
    それは芥子粒のようなものであったとしても、
    その芥子粒が、集まって、仏塔となるのです。
    黄金をみがき、
    花を折って仏に供養する者は
    すみやかに成仏の縁を得ることでしょう。
    一句信受の力は、王の位を超えるものです。
    半分しか理解できない聞法の徳は
    実は、三千界の宝にも勝(すぐ)れたものです。
    上が仏道を求め、
    中が四恩報じれば、
    下の功徳はあまねく六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界、天界)に及びます。
    共に仏に成る道です。

    これらは幼童を教化するために、因果の道理を注したもので、
    内外の書から書き起こしたものです。
    これを見る者は、この文を誹謗してはなりません。
    これを聞く者は、笑ってはなりません。

    *****

    ※この記事は2019年6月の記事の再掲です。

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    記紀では、神代において、自分のことを「吾(あ)」、相手のことを「汝(な)」と呼びます。

    「吾(あ)」は、上を向いて「あ」と発声したらわかりますが、内側から出て広大な宇宙とつながる音です。
    「あ」の身には、広大な宇宙とつながる「霊(ひ)」が備わっています。
    ですから「あ(自分)」は、単に自分を意味する一人称ではなく、自分のなかにある広大な神聖を意味します。

    二人称である「汝(な)」は、「核となる重要なもの」を意味します。
    たとえば「なら(奈良)」は、「神聖な(な)、場所(ら)」です。
    だから、「なら」は「みやこ」です。

    ちなみに「みやこ」の「み」は敬いを表す接頭語、「や」は「屋根のある建物」、「こ」は「米蔵」のことですから、「みやこ」は人々の生活に欠かせないお米を貯蔵し、いざ災害というときに、被災地の人たちが飢えに苦しむことがないように、しっかりと面倒を見るたいせつな場所を意味します。
    このあたりが、単に王の御在所を言う「Capital」と異なるところです。
    「Capital」の語源は「頭(caput)」で、要するに一番えらい人がいる場所を言うだけです。

    日本の文化は、王侯貴族が主役ではなく、どこまでも庶民が主役です。
    ですから庶民が豊かに安心して安全に暮らすことができるように努めるのが臣(おみ)の勤めです。
    「臣(おみ)」は、「御身(おみ)」ですから、人々の身を守るのが役割です。
    庶民の霊(ひ)を守るのは、天につながる天子様のお役目です。
    庶民が感謝を捧げることで、皇臣民がすべてつながります。

    その「あ」が、相手に向かって、「汝(な)は誰(たれ)そ」と問うとき、それは単に「あなたは誰ですか?」と聞いているのではありません。
    神聖で広大な霊(ひ)を持つ「吾(あ)」が、相手を神聖なるものと認め、名を問うています。
    それが「なはたれそ」です。
    相手の神聖を認めているのです。

    「あ(自分)」と「な(相手)」が一緒になると、「わ(和・輪)」となります。
    簡単に図式化したら、
     「あ」+「な」=「わ」
    です。

    「わ」は、たくさんあって、ひとつのものです。
    ですから、海の波は「わ」です。
    海の大神の名は「わたつみ(和多都美)の大神」です。

    また日本書紀ですと、イザナギの別名が「あわなぎ(阿和那伎)」です。
    いまあるたくさんの神聖な「あ」たちのおおもとだから、「あわ」です。
    一点から生じて、無限のあわとなるわけです。
    私たち後世を生きる、つまりイザナギ以降に生まれたすべての人々のおおもとが「あわなぎ」です。

    最新の物理学の世界では、並行宇宙(パラレルワールド)なるものが、まるで泡立つように無限にこの世界に存在し、素粒子はその泡のひとつから、別の泡へと移動することができる、と説明されているのだそうです。
    そうした最新の物理学の理論と同じことを、古事記も日本書紀も、「あわ」という一字一音一義の大和言葉で表現していたのかもしれません。

    「あわなぎ(阿和那伎)」の「あわな」は、「あ」と「な」がつながって「わ」となっているさまです。
    「き(ぎ)」は、神聖なエネルギーです。
    つまりイザナギの別名である「あわなぎ」は、
    「神聖(あ)と神聖(な)との和(わ)を結ぶ神聖なエネルギー(き)」です。
    私たちと神々とをつなぐ御存在だということです。

    ちなみにこれが「イザナギ」ですと、
    「イ」 伝える
    「サ」 おだやか
    「ナ」 神聖な
    「キ」 エネルギー
    となり、神々の神聖でおだやかなエネルギーを伝える存在といった意味になります。

    イザナミですと、「み」が「身」ですから、神々から授かった神聖でおだやかな身を、後世に伝える存在という意味になります。

    我が国の文化は、わずか数百年の底の浅い文化ではありません。
    1万7千年前の縄文の昔からずっと続いてきた文化であり、そのエッセンスです。


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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