• 昭憲皇太后の御逸事


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    第104回倭塾は、10月21日(土曜日)13時半開講です。場所は東京・富岡八幡宮の婚儀殿2Fです。
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    日本に国籍があれば日本人ではありません。
    どこまでもご皇室とともにあるという自覚。
    これを持つ人が日本人であると、強く申し上げたいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

    20191011 昭憲皇太后
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%86%B2%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E
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    日本に希望の火を灯す!

    昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、明治天皇の皇后であられた方です。
    黒船来航の3年前の嘉永3年の生まれ。
    一条忠香公の第三女で、旧名を一条美子といいます。
    欧州の王侯貴族・貴婦人と対等に付き合える日本人女性の育成のために、近代女子教育を振興され、また社会事業や国産の奨励等に尽力された御方でもあります。

    この昭憲皇太后について、昭和13年初版発行、大阪府学務部編『女子鑑』「坤の巻」1〜22ページに、御逸事が掲載されてます。
    原文は、旧仮名遣いですので、いつものようにねず式に現代語訳しています。
    ただ、なにぶんご皇室にまつわるお話ですので、できるだけ旧文に近くしました。
    むつかしい漢字などは、ふりかなとともに、意味も一緒に掲載しています。

    是非、ご一読いただけたらと思います。

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    大阪府学務部『女子鑑』昭和13年初版発行「坤の巻」
    「昭憲皇太后の御逸事」


    明治天皇が大業をお遂(と)げになられたことは、天皇の大御稜威(おほみいつ・偉大で神聖であられること)によることはいうまでもありません。
    けれど他にもいろいろな原因があり、わけても昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の御内助の功の力が大きなものであったと伝えられています。

    その昭憲皇太后は、きわめて下情に通じておいでになられる方でした。
    そして民に御同情が深いことは、まことに恐れ入るほどであったと伝えられています。
    それは生まれついてのものもあったでしょうけれど、御幼少時の御庭訓(ごていくん)や御修養の影響も少なくなかったといわれています。

    明治23年のことです。
    皇太后が大和に行啓されたとき、吉野の山で眺望の良い景色をご覧になられました。
    その後、山をお下りになられて、田原本のある寺院に設けられた御座所(ござしょ)でご休憩になられたときのことを、お供の香川皇后宮大夫(こうごうぐうしき・お付きの女性事務官)が話しています。
    昭憲皇太后は、次のように述べられたそうです。

    「自分は京都で一条家に居た子供の頃の記憶です。
     父が邸(やしき)の隅に物見をこしらえるようにと
     御用人(ごようにん)に言いつけられました。

     用人は、
     『そのような物見などというものは、
      卑(いや)しい者が
      することでございます』と言う。

     父は、
     『いや決してそうではない。
      自分の子供たちの教育のためにするのです。
      我々はいま、このような幸せをもって
      大きな邸宅の奥深くに住まっているが、
      国民がいかなる生業(なりわい)をし、
      いかなる生活(くらし)をしているか
      ということを直接見せておかないと、
      子供たちの将来のために悪い』

     このようにおっしゃられたので、
     用人はかしこまって、
     さっそく物見をこしらえました。

     ところがちょうど向かいに染物業をする者がいて、
     染め物を高い物干しに干します。
     それが物見からよく見えました。

     そこでは親も子も、
     老いたる者も若きも一家皆で働いています。
     父はそれを指して、
     『かくのごとき生業を持っている者は、
      孜々(しし・熱心に努め励むさま)として
      勤(つと)めている。

      汝等(おまえたち)も
      安逸(あんいつ・何もせずにぶらぶら暮らすこと)を
      貪(むさぼ)ってはならぬ。
      しっかり勉強し、
      しっかり働かねばならぬ』

     ということを言い聞かされました。
     いま吉野の山から広々と展望して、
     幼き頃、あの物見から見たときの
     父の教訓が思い出されました」
    と仰せになられたということです。

    ▼御幼少時の御聡明と御講学

    昭憲皇太后がまだ一条家に坐(ま)しました頃、最初は富貴姫(ふうきひめ)といい、後に壽栄姫(ひさえひめ)と名を改められました。
    一男三女の御兄妹中、一番の御末にあらせられましたが、幼い頃から御発明で、なんとなく御同胞の方々よりも、一段優れていらっしゃるようであったといいます。
    御父君の忠香公も同様に思召(おぼしめ)られたようで、壽栄姫の教養にはことに力を注がれたと、貫名右近(ぬきなうこん)の家の言い伝えとして残っています。

    貫名右近が一条家に仕えたのは、壽栄姫が御7歳のときでした。
    当時、忠香公の御弟の建通卿が久我家を嗣(つ)いだのですが、その家の士に、有名な儒者の春日潜庵(かすがせんあん)がいました。

    忠香公は、日頃からこれを羨(うらや)んでおいでになられていたのですが、たまたま阿波出身の儒者の貫名海屋が下賀茂に家塾を開いているのを聞かれ、これを招いて家士にしようとされたのですが、海屋は老齢であるからという理由でこれを辞し、その養子の右近を薦(すす)めました。
    忠香公は承諾して、海屋を家士とし、姫君たちの師とし、みずからも折にふれて経世済民の書などの講義を聴かれたそうです。

    右近が初めて一条家に仕えたとき、忠香公は姫君らを集めて、今日からこの人を師とすると告げられ、まず右近に盃を賜ったところ、いちばん幼少の壽栄姫が立って酌(しゃく)をされたので、右近はこの態度を見て、後年御夙慧(しゅくけい・幼いころよから賢いこと)の一証として、このときのことを家人に物語ったといいます。
    右近は、主として論語、女四書などを講じて姫君たちの御教育に任じました。
    皇太后の漢学の御素養の因(よ)るところは、ここにあったといいます。

    ※女四書=女性のための教訓書として4種を集めたもの。江戸前期の辻原元甫(つじはらげんぽ)が、『女誡(じよかい)・後漢の曹大家著、『女孝経』唐の陳邈(ちんばく)の妻、鄭(てい)氏著)、『女論語』唐の宋若莘(そうじやくしん)著、『内訓』明の永楽帝の仁孝文皇后著の四書を和訳した。

    貫名右近は、壽栄姫を御教導するにあたって、女子の徳育の要所として、まず女四書を選び、かたわらに他の書に及びました。
    その頃の女四書は、得難き珍書となっていましたが、加賀の金沢の前田家がこれを翻刻(ほんこく)していました。
    それを海屋の助言で、金沢から取り寄せて御用(おもち)いになったのだそうです。

    これについても、ひとつの御逸話があります。
    その女四書には訓点(返り点など)があったのですが、壽栄姫君は、かえって目障りで了解をさまたげるから、返り点ない本を得たいと仰せられたといいます。
    漢文の御素養を窺(うかが)うべき御逸話です。

    後年、細川潤次郎が元老院議官に奉職していたとき、同僚の副羽美静から聞いた話だと言って、女子高等師範学校で行われた終身講話のなかにも、次の一節があります。

    「皇太后は常に女四書という書を御覧あそばされるものと見えて、御側(おそば)に伺候(しこう)する人々に向かって女四書に斯々然々(かくかくしかじか)のことがあるなどと仰せられることが折々ありました。
    そこで自分はところどころを詮索(せんさく)したけれど、東京の書肆(しょし・出版社や書店のこと)にこれを持っている人がいません。
    加賀の金沢に版本があるとの話を聞いて、ただちに注文して、ようやく手に入れることができました。
    自分もこの書を見たことがなかったので、金沢出身の友人に依頼してその一部を得ました。
    こうしてその本を一読したところ、その女誡(じょかい)は単行本があるので、記憶していたのですが、その他は初めて見るものばかりでした。」

    この書は、すべて婦人の金科玉条(きんかぎょくじょう)なのですが、とりわけ内訓は仁孝帝の后(きさき)の文皇后のお作りになったもので、皇太后の御熟読あらせられた御用意の程も拝察し奉ることができる。
    そもそも皇太后の御盛徳は、もとより御天禀(てんびん・天から授かった生まれつきの資質)のしからしめるところであることは言うまでもないことですが、平素に御心を御修養の上に注がせ給うた御ためであるのでしょう。
    女四書も、その御修徳の御助けになったものであろうと思われます。

    ▼主上に対する御礼儀

    昭憲皇太后が明治天皇に御仕えあそばされた御態度は、実に御貞淑で、万代にあって日本婦人の亀鑑とあおぎ奉るべきものです。
    ことに御謙徳の極めて厚くましましたことは、御歌のなかにもよく伺われ、とくに注意すべきことは、明治天皇に御仕えあそばされては、明らかに君臣の礼を執っておられたということです。

    主上の御前に御出ましになるときは、御褥(しとね)をお敷きになられず、絨毯(じゅうたん)のようなものの敷いてあるところに御座りあそばし、明治天皇が「褥を」を仰せになられてはじめて御敷きあそばすというふうであったと承(うけたまわ)ります。

    皇太后には、晩年、御弱くて、沼津や葉山等に御避暑御避寒にいらっしゃられましたが、そこに勅使が参ると、いつでも座布団を除けて、両手をついて御話をお聴きになり、また御話あそばられました。
    そうして御用向きが終わって、普通の御話になって、はじめて元の座布団に御坐りになられました。
    しかしその後でも、話が一度(ひとたび)主上のことに及べば、またいつでも座布団を除けて両手をついて御話になられたということが、伊藤公の直話にも見えています。

    御寝に就かせられるときにも、宮中から、聖上、ただいま御機嫌よく御寝(ぎょしん)との電話があるまでは、幾時になるまでも、御正座あらせられたということです。

    ▼御食事は必ず主上と共にし給う

    両陛下の御食事は、いく晩とも常の御座所の二の間で、椅子とテーブルに御差向いで召し上がられました。
    もっとも差し向かいとはいっても、皇太后は真正面ではなく、御遠慮あそばされて、少し左り手にお寄りになったといいます。

    午餐(ごさん)は正午というお定めでしたが、国事御多端のときなど、主上の表御在所からの入御(じゅぎょ)が午後の1時となり、ときとしては2時に及ぶこともあったのだけれど、皇太后は必ず主上をお待ちになりました。
    はなはだしきは3時に及んだこともあり、あまりの畏(かしこ)さに近侍の者が、何かちょっとした品でも差し上げようとしても御聴(き)き入れにならず、必ず主上の入御まで御待ちあそばされたとのことです。

    ▼旅館にても主上御寝の御間を敬せられる

    静岡に大東館という旅館があり、日清戦争の際に、東京に還幸啓(かんこうけい)のおり、ここに御泊(と)まりになられたのですが、明治天皇には御一泊あそばされて、先に還幸(かんこう)され、あとから皇太后が御泊まりになりました。
    旅館ですから、そうそうたくさんの部屋があるわけではありません。
    そこで皇太后には、先に明治天皇が用(もち)いられた御部屋に御案内申し上げたところ、皇太后は、
    「主上はどの御座敷(おざしき)であられたか」と御尋(たず)ねになられたので、
    「天皇陛下もこの御座敷に御寝(ぎょしん)あそばされましたので、
     皇后陛下にもまた、ここを御用いますように」
    と申し上げると、皇太后はおいに恐縮あそばされて、
    「主上の御寝あそばしたところに
     自分が寝(やす)むということは
     おそれおおいから、
     他の室(しつ)に更(か)えてもらいたい」
    とおおせられ、侍従が非常に恐縮して、段々申し上げたけれど、どうしても御聴き入れになられず、とうとう次の間に御寝(やす)みになられました。

    皇太后は常にこういう御心持(こころもち)がおありになられたので、何かことがあれば、直(ただ)ちにそれがあらわれました。
    このように、主上に対して、非常に御恭順(きょうじゅん)であらせられたことが、すべての点において拝せられました。

    ▼主上の上を深く思し召される

    主上が北越御巡幸(じゅんこう)の年は非常に暑くて、赤坂御所の内でさえも30度を越える温度になりました。
    奉仕の人々も、みな口々に暑さに堪えがたいことを申しあっていたのですが、皇太后は
    「お上のことを考えると誠に畏(おそ)れ多い。
     慣れない地にお出ましになられて、
     今頃はどうしていらっしゃることかしら。
     それを想うとここにこうして居ることさえ
     もったいない気がいたします」
    とて、御自身はついにひとことだに暑いと仰せにはなりませんでした。

    その頃の御歌に、

     大宮の うちにありても あつき日を
     いかなる山か 君はこゆらむ

    という歌があります。
    また明治11年、主上北越御巡幸の御不在中にあそばされた御歌に、

     はつかりを まつとはなしに この秋は
     こしぢの空の ながめられつつ

    すなわち世の中の人は風流に雁(かり)の音を待つかもしれないけれど、自分はただ主上の早く御還(かえ)りあそばされることを望んで、あちらの空ばかり眺められるという麗しい御歌です。

     夢さめて みふねの上を 思うかな
     舞子の浜の 波のさわぎに

     日和(ひより)待つ みふねのうちや いかならむ
     霧たちわたる 荒波の上に

    これは明治24年大和に行啓(ぎょうけい)あそばされ、それより舞子の浜にお回りになられたとき、おりしも御船に召して、呉、佐世保の鎮守府へ行幸あそばれた主上の御上を思召しての御歌です。
    皇太后の聖上に対したてまつっての御親愛の深さをうかがいまつることができます。

    ▼主上を御迎えの際、雨中に傘を用いたまわず

    ある年の秋、皇太后には、主上とともに赤坂御所の萩の御茶屋に行啓あらせられました。
    ここは元、紀州家の屋敷の跡で、池のほとりに萩の花が枝もたわわに咲き乱れているさまは、ことのほか風情がありました。

    この日の行幸啓は、皇太后の方が御先着あらせられ、御茶屋の軒先に御佇(たたず)みになられて、主上の御着輦(ちゃくれん・手車で御到着されること)を御待ちあそばされました。
    おりしも秋のことで、にわかに空模様が変わり、吹ききたる冷ややかな風とともに、はらはらと時雨が降ってきました。

    この有様に、女官たちはおどろいて、ただちに雨傘を取ってまいり、これを開いて皇太后の御後からかざしまいらせたところ、微笑まれて、
    「それには及ばぬ」
    との御諚(ごじょう・主君の命令のこと)でした。

    女官たちも少時、躊躇(ちゅうちょ)しているうちに、雲足早く通り過ぎて、まもなく晴れたのですが、しばらくすると、またもやはらはらと降って来たので、女官たちは再びいそいで御傘をかざしかけました。
    皇太后は、いよいよ声を高く、
    「差し控えよ。主上の御成りぞよ」
    と仰せられ、そぼ降る時雨にもおかまいなく、濡れそぼちながら、つつましやかに鳳輦(ほうれん・天皇が用いる輿(こし))を御待ちあそばされました。

    かくて程なく着御あらせられたので、親しく御迎えあそばされ、御同列しずしずと御茶屋へ入らせられました。

    ▼主上の御看護のため御帯を解かせ給わず

    明治45年の夏、主上の御悩(ごのう・貴人の病気を敬っていう語)に際しては、御寝食をも御忘れになって、ひたすら御看護あそばされました。

    御疲労のあまり、万一御体(おからだ)に御障(さわ)りがあってはと、近侍から時々御休息を御進言申し上げても、お聞きあそばされないで、あいかわらず御介抱に御心身の限りをつくさせられ、その後、主上の御悩さらに重(かさね)らせ給うに及んでは、曽て(かつて)一度も御帯(おび)を解かせたまわず、連日連夜御病床に近侍あそばされ、御自身の御命を、主上の玉体に代え奉らんことを、天地神明に御祈願あらせられました。

    しかるに悲しくも、ついに主上の崩御をみそなわせられて、爾来(じらい)、御心地すぐれさせ給わず、過度の御疲労と、御悲嘆の積りが、御不予のもとともなって、主上が神去りました明治45年の7月30日からかぞえて、ちょうど1年9ヶ月目の大正3年4月11日、溘焉(こうえん・にわかのこと)として御後を追わせたもうたのは、畏(かしこ)くもまた、おいたわしい極みです。

    ▼雨漏に民家をしのばせ給う

    ある年、皇太后にはすくなからず御不例で、箱根に御転地あそばされました。
    ちょうど梅雨の頃でしたが、その御道筋で、たいそう荒れ果てた民家を御覧あそばされて、かかる藁葺(わらぶき)の家にも、住めば住まれるものか、まことに気の毒であるとの御意を御洩らしあそばされました。

    ところがその晩、御宿に御泊まりになられると、非常な風雨で御座所に近いところまで雨漏りがして、しかも風があおり、雨の飛沫が吹き込んできます。
    御供の人は恐縮して、風雨を防ぐために屏風かなにかを持ってこさせようなどと騒ぐと、皇太后には、これを御制しになられて、
    「この暴風雨では
     どうにも仕方がありません。
     雨漏りがしたとか、
     風が吹き込むなどというと
     この宿をしたものが
     どんなに心配するか知れません。
     雨漏りがしたら
     そこらにある
     自分の持ってきた瓶(かめ)なり、何なり置いて
     朝になってから
     そっと片付けておけばよいだろう。
     今日、あの沿道で見た民家は
     今頃はもしや倒れてはすまいか。
     かく考えると
     これだけの雨漏りや風の吹込むくらいは
     なんでもない」
    とて、御諭(さと)しになったということです。
    何事においても、このように御恵み深くあらせられました。

    ▼御小袖の袖を裁たせ給わず

    皇太后が何事にもよく御気付かれ、かつ御思いやり深い御方であったという一例として、下田歌子女史は、次の一文を謹話(きんわ)しました。

    「あるとき私は、
     ひとかど好い思いつきをした心算(つもり)で、
     古い女官の御方に申し上げました。
     それは御袿衣(うちかけ)の下に召します
     お内衣(ないえ)は(只今はお小袖と申していますが)
     白羽二重(しろはぶたえ)で、
     元禄紬(げんろくつむぎ)の極袖の短いもので、
     たいてい一尺一寸五分くらいのものであります。
     それを御袿衣の下に御召しになります。
     ところが冬になりますと、
     お小袖が二枚ですから、お袖が重くなる。
     それを私共がおたたみ申し上げますと、
     縫い込みがたいへんに多い。

     そこで古い女官の方に、
     『皇后様の御召し物は、
      たくさんなお縫い込みがあらせられますね。
      半分ほどもお縫い込みがございます。
      すこしお召しになれば、
      直に下にお下げになるものを、
      どうしてあんなに
      お縫い込みになるのでございましょうか。
      いくら御肩がお凝(こ)りになるというのに
      まことにおそれ多いことでございます。
      いくら御慣例だからと申しても
      御尊体(そんたい)には代えられません。
      お許しを得て、
      あの縫い込みを少なくするようにしたら
      いかがでございましょう」
     と申しますと、なるほどそれもおおきにそうだと
     その女官の方も仰ったのでしたが、
     あとになってその方の仰るには、
     『どうもおそれ入ったもので、
      あの通りお許しを願うように
      申し上げましたところ、
      皇后様には
     《自分もそれを知らないことはないけれど、
      あれはあのままにしておくがよい。
      ただしせっかく親切に申してくれるのであるゆえ、
      軽くなるように袖の先には
      綿を入れぬようにしたらよろしかろうと思う。
      自分が少しの間着て女官たちに下げると、
      女官たちはこれを着古して
      また局(つぼね)で召し使う女中どもに
      つかわすであろう。
      聞くところによれば、
      お下がりは袖の長いものでないと
      衣服として再び役に立たぬよしである。
      羽二重は地質の弱いものであるから、
      こうして縫込みを多くしておけば
      順々に下げても、
      まだなかなかそのまま衣服として
      用いられるであろうから、
      やはり小袖は元のように長く裁(た)って
      縫い込んでおくように》』
     と仰せられたということで、
     実に何事も御承知あそばして、
     しかも下々のために御不便を忍ばせられる御心には、
     私共おそれいった次第でございます。」と。

    ▼老人をいたわらせ給う

    皇太后は沼津に行啓あらせられるごとに、必ず御用邸付近の高齢者に多額の御菓子料を賜りました。
    最後の行啓の折にも、70歳以上の者866人に対して賜物がありました。
    そのなか、最高齢の107歳になる野田サトという老婆に対しては、ことのほか御いたわりになられ、御用邸に召されて、かれかれとありがたい御言葉をたまわられたので、サト女が感涙を流すと、これを御手づから御ぬぐいくだされたとの御事です。

    御用邸付近の者共は、それゆえ毎年の行啓を心から鶴首(かくしゅ)して御待ちもうしあげ、歓呼して奉迎し、御機嫌のうるわしきを拝しては、心から悦んでいました。

    されば大正3年、突然御不例にならせられるや、所在の各町村明は、期せずして神社に請願をこめ、御平癒を祈り、神符を捧げて御用邸に参向(さんこう)しました。
    これらの村民は、いずれも一所懸命であったために、御用邸の御混雑もはばからず参向したのであって、一面から申せば失体のようなのですが、御上からは民草の熱誠を御喜納のうえ、幾百人というこの人々にいちいち御菓子を賜りました。

    しかるに皇太后には、ついにおかくれあそばされ給うたので、これらの人々の失望慟哭(どうこく)のさまは、たとえるに物もなかったといいます。
    ことにかの107歳のサト女は、狂気のごとくに泣き悲しんだというのも、もっともなことでありました。

    ▼敵兵にまで義手義足を賜う

    明治27〜8年の戦役(日清戦争のこと)のときに、皇太后には石黒忠悳(いしぐろただのり)氏を御前に召され、
    「戦役で負傷した者の中に、
     手足を失った者も多くあって
     嘸(さぞかし)困難するであろう。
     いかにせば、その困難を減ずるか」
    との御下問があったので、義手義足を付ける方法のあることを御答え申し上げたところ、日ならずして、
    「該(がい)負傷者には、皇后陛下から
     義手義足を賜るによって
     陸軍省において、
     その制作方法を取り計らうように」
    ということの趣が達せられました。

    しかるにこの手足を失った傷者のなかには、敵兵も混ざっていることであるから、それはいかがいたしましょうかという趣(おもむき)を、石黒氏から香川皇后宮太夫を経て御伺い申し上げると、
    「もとより敵兵にも下し賜る」
    とのことで、一視同仁(いっしどうじん)の厚い御情から、敵国の負傷者までが、この恩沢(おんたく)に浴することができました。

    日露戦争のときにも、また同様の御沙汰(さた)で、香川皇后宮太夫がかしこみて、その旨を陸海軍両大臣に通牒(つうちょう)したから、両大臣はそれぞれ思し召しを伝達して、その取扱方を規定したけれど、このときもまた、敵国捕虜にまで及ばされたので、いずれもその御仁徳に感じ、涙ながらに拝受したということです。

    ▼義手義足修繕のことを仰せだされる

    明治35年5月27日、皇太后には東京慈恵病院へ行啓あらせられ、石黒忠悳氏に拝謁を仰せ付けられたときに、香川皇后宮太夫が御そばにいて、
    「石黒は近来久しく拝謁いたしませんで」
    と申し上げたために、皇太后より御言葉をも賜りました。

    そこでその翌日、右の御礼を申し上げられたしとの依頼に、香川子爵方へ参ったとき、子爵が申されるには、
    「いや、貴君にお聞かせ申し上げねばならない
     おそれおおいことがある。
     先ごろ、陛下が特に仰せられるには、
     『人は年齢によって
      身体の肥瘠(ひせき・肥えたり痩せたりすること)の程も変わり、
      また屈曲の度も変わるものなのですから、
      先に27〜8年の戦役によって手や足を亡くして
      義手義足を与えられた民も、
      もはや67ヶ月の星霜を経て、
      肥瘠屈曲の変わりによって、
      それらの義手義足もすでに
      不適になった者もあるであろうし、
      また破損した者もあるであろう。
      よく取り調べて、
      その不適をなったものを新しくし、
      破損したものは修補(しゅうほ)して
      取らせるように』
     との仰せがあって、
     やがてその取り調べ並びに修補のことを
     陸軍大臣に御達しになりました。
     そしてこれに要する諸費用は、
     特に御内帑(ないとう・皇室の金蔵のこと)より
     下し賜りました。
     もともとこの義手義足を
     内外軍人の負傷した者に賜った最初には、
     貴君は時の野戦衛生長官として
     このことについては親しく御前で
     申し上げたことがあるので、
     今日、このことを拝承(はいしょう)されたら、
     さぞ喜ばれるであろうと思って
     特にお話するのです。」

    と言われたので、石黒氏は、このことを拝承し、ただただ涙にくれるばかりで、しばらくの間は何の答えも出なかったといいます。
    そもそも戦地において、手足を失った者に、皇后陛下から義手義足を賜ったということは、わが朝はもとより、外国にもその例を聞かないことですし、いわんや敵軍の負傷者にまでもこれを賜ったというがごときは、なおさらのことです。

    況(まし)て去るものは日に疎(うと)しとの諺(ことわざ)の通り、親しい付き合いの者でも、別れて二年となり、三年と隔(へだ)たれば、しばらく遠々(とうとう・長らく行き来がないこと)しくなって、ついには思い出さないようにまでなるのが常なのに、6〜7年も前に義手義足を下し賜った者の身の上を思いめぐらし給うとは、母の愛子におけるよりも、なお深い思し召しと申し奉(たてまつ)るべきことです。

    ことに九重(こののえ)の内に坐(ま)します御身でありながら、義手義足は年齢による肥痩の変化と共に替えなければならないこと、また常に用いて居ると数年ならずして破損し、修理を要することまでも、思し召し付かせ給う御聡明のほどには、ただただ恐懼(きょうく・おそれかしこまること)し奉るのほかはありません。


    【大阪府学務部『女子鑑』昭和13年初版発行「坤」の巻1〜22ページ一より】

    *********

    最後にねずからひとこと。
    日本に国籍があれば日本人ではありません。
    どこまでもご皇室とともにあるという自覚。
    これを持つ人が日本人であると、強く申し上げたいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。


    ※この記事は2019年10月の記事の再掲です。
    日本をかっこよく!

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  • 天皇による親任と天皇の御譲位の制度


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    たいせつなことを書きます。
    天皇による国務大臣その他への親任のことと、天皇のご譲位のことです。
    この2つは相互に関連しています。
    そしてこのことに加えて天皇が終身制となることによって、日本では政治権力の暴走への最後の歯止めが効かなくなってしまったのです。

    20160628 天皇皇后両陛下2



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    たいせつなことを書きます。
    天皇による国務大臣その他への親任のことと、天皇のご譲位のことです。
    この2つは相互に関連しています。

    まず親任(しんにん)です。
    わかりやすいように、内閣総理大臣を例にとります。

    内閣総理大臣は、戦後の日本国憲法下では、政権与党第一党の党主が務めることになっています。
    ただし、政権与党第一党の党首になっただけではダメで、天皇による親任を経て、はじめて総理としての権限を持つことになります
    これは、会社でいえば、内示と任命の関係になります。
    あたりまえのことですが、部長の内示を受けただけでは、部長としての印鑑の効力はありません。
    何月何日をもって○○部長に任命する、という正式な辞令が出て、はじめてその人は部長としての権限の行使をすることができます。
    その辞令に相当するのが、天皇による親任式です。

    この親任という制度は、古代の律令時代にまでさかのぼります。
    太政大臣にしても、左大臣、右大臣にしても、天皇によって親任されて、はじめてその権力の行使が可能になりました。

    では、天皇による親任とはどのようなものかというと、天皇は天照大御神から続く霊(ひ)の存在です。
    ですからこのことを天津日嗣(あまつひつぎ)といいます。
    日嗣(ひつぎ)の日(ひ)は、霊(ひ)でもあり、天照大御神から連綿と続く万世一系の霊(ひ)を受け嗣(つ)ぐという意味です。

    ですから、天津日嗣による親任は、そのまま神々の御意思としての親任になります。
    わかりやすくいえば、その人が内閣総理大臣や太政大臣に任命されるのは、それは神々の御意思に基づくとされたわけです。

    けれど、現実には、その任命は人が行うわけです。
    天皇であっても、所詮は人間です。
    ですから、あたりまえのことですが、間違いもあります。

    太政大臣に任命したのは良いけれど、真面目な人だと思って任命したら、実はとんでもない人間で、私腹を肥やすことばかり考えていて、まったく民生を見ようとしない・・・などといったことも、現実には起こり得るわけです。

    けれど、任命は、神の意思、天皇による親任であったわけです。
    これには誰も苦情を言えない。

    そこで登場するのが、天皇の御譲位です。
    現天皇が任命した太政大臣であっても、次の天皇が誰を太政大臣に任命するかは、次の天皇次第なのです。
    これが権力の暴走へのブレーキになります。
    また、天皇から親任を受けた者への緊張、プレッシャーになります。
    ちゃんと真面目に仕事をしないと、天皇が御譲位されて、次の天皇が自分を指名してくれるかどうかは、誰にもわからないからです。

    これが江戸時代まで続いた我が国の形の根幹です。

    ところが明治時代に生まれた大日本帝国憲法は、この形を強引に変形し、天皇を終身制にしてしまいました。
    すると、天皇が崩御されるまで、政治権力者は、すきなように政治ができてしまうわけです。
    内閣総理大臣であれば、任期が満了するか、本人が辞任するか、本人が逝去でもしない限り、就任中に好き放題な政治ができてしまうわけです。
    この仕組は、戦後の日本国憲法も同じです。

    つまり天皇が終身制となることによって、日本では政治権力の暴走への最後の歯止めが効かなくなってしまったわけです。

    現上皇陛下(平成の天皇)は、さんざんご苦労の上、やっと明治以降、初の御譲位を実現されました。
    しかしこれはとても大切なことです。
    御譲位は、天皇ご自身の御意思によって、本当は、もっとかんたんに行うことができるようにすべきことなのです。


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     みほとけの
     教へ まもりて すくすくと
     生い育つべき 子らに幸あれ

    20181229 掛川西高校に行幸する昭和天皇
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    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    昭和20年8月の終戦後のことです。
    日本は未曾有の食料危機となりました。
    物価も高騰しました。
    食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。
    不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。

    それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。
    その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がりました。
    きっかけとなったのが「昭和天皇の全国行幸」です。

    そこで昭和24年5月に行われた佐賀県行幸のときのお話しを書いてみたいと思います。きっと何かを感じていただけるものと思います。

    昭和天皇の行幸は、昭和21年の神奈川県を皮切りに、昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
    全行程は3万3000km、総日数は165日です。

    実はこれはたいへんなことです。
    そもそも陛下の日常は、我々平民と違って休日がありません。
    一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。
    そうしたお忙しい日々を割いて、昭和天皇は、全国行幸をなさいました。

    この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。

    「この戦争によって祖先からの領土を失い、
     国民の多くの生命を失い、
     たいへんな災厄を受けました。
     この際、わたしとしては、
     どうすればいいのかと考え、
     また退位も考えました。

     しかし、よくよく考えた末、
     この際は全国を隈なく歩いて、
     国民を慰め、励まし、
     また復興のために立ちあがらせる為の
     勇気を与えることが責任と思う。」

    当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観を失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
    しかも、たいへんな食料不足です。
    物価は日々高騰していました。

    お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
    嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。
    まるで無政府状態といえるようなたいへんな状況だったのです。

    そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
    そんなときに陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。

    未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするために何が必要か。

    いまの世の中なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、あの時代に陛下が選択されたのは、全国民の真心を喚起するということでした。

    国民の一人ひとりが、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
    ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がる。
    そのために陛下は、
    「全国を隈なく歩いて、
     国民を慰め、
     励まし、
     また復興のために
     立ちあがらせる為の
     勇気を与え」
    ようと全国を回られたのです。

    ところが共産主義に感化された一部の人々は、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けました。
    そんな中での陛下の行幸のご様子を、佐賀のケースで見てみようと思うのです。

    陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
    この日陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある「因通寺」というお寺に行幸されています。
    因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。

    その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦没者に対して詠まれた次の二首です。

     やすらかに
     眠れとぞ思う きみのため
     いのち捧げし ますらをのとも

     なぐさめん
     ことのはもがな たたかいの
     にはを偲びて すぐすやからを

    陛下は、このことをいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。
    また終戦後には因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。

    陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。
    道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいました。

    その町道の一角には、ある左翼系の男が麦畑を作っていました。
    この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して
    「ここで休んでください、
     ここで腰を下ろしてください」
    などと集まった方々に声をかけていました。

    朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。
    群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
    誰が音頭をとったというものではありません。
    群衆の自然の発露として、この声があがりました。

    御料車が停車しますと、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
    一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、そのあとから陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。
    その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました。

    陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。
    その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。

    ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
    その陛下が、いま、目の前におわすのです。
    言い表すことのできないほどの感動が群衆を包み込みました。

    お車を停められたところから、因通寺の門まで約700メートルです。
    その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていました。
    そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

    町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープもありません。
    陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。
    そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
    その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。

    陛下が寺の山門に到着されました。
    山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
    その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。

    そうです。石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
    陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。

    陛下が足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。

    そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。
    寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。

    図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。

    「本日ここに、90万県民が
     久しくお待ち申し上げておりました
     天皇陛下を目の当たりに・・・・」

    そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいました。
    知事だって日本人です。
    明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。
    知事は陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。

    するとそのとき入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、
    「落ち着いて、落ち着いて」
    と申されました。
    すると不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

    この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所についてご説明申し上げることになっていました。

    自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。
    自分はあんなことがあってはいけない、
    そう強く自分に言い聞かせた住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ました。
    そして書いてある奏上文を読み上げました。

    「本日ここに一天万乗の大君を
     この山深き古寺にお迎え申し上げ、
     感激これにすぎたるものはありません」

    住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。
    ところがここまで読み上げたところで、知事の胸にググっと熱いものが突き上げてきました。

    引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが
    一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。

    意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
    けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまいました。
    ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
    どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

    そのとき誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。
    入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。

    このときのことを住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。

    こうしたことは外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
    外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。

    駐日大使というと、長い方で6~7年、短い方でも2~3年の滞在ですが、帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をするとき、ほとんどの駐日大使が
    「日本を去るに忍びない、
     日本には陛下がおいでになり、
     陛下とお別れをすることが
     とても悲しい」と申されるそうです。

    この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかります。
    陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべて、言葉を詰まらせるのです。
    特に大使夫人などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。

    こうしたことは、その大使が王国であろうと共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。
    むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示される。

    さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、
    羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上しました。
    この奏上が終わると、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。

    「親を失った子供達は大変可哀想である。
     人の心のやさしさが
     子供達を救うことができると思う。
     預かっているたくさんの仏の子供達が、
     立派な人になるよう、
     心から希望します」
    と住職に申されました。
    住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままなりませんでした。

    この挨拶のあと陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。
    孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

    ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。
    昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っていました。

    すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
    頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
    それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられました。

    そして陛下はひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。
    「どこから?」
    「満州から帰りました」
    「北朝鮮から帰りました。」
    すると陛下は、この子供らに
    「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。そして、
    「おいくつ?」
    「七つです」
    「五つです」と子供達が答える。
    すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
    「立派にね、元気にね」
    とおっしゃる。

    陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
    この「立派にね、元気にね」の言葉には、
    「おまえたちは、
     遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどから
     この日本に帰ってきたが、
     お父さん、お母さんがいないことは、
     さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
     けれど今こうして寮で立派に日本人として
     育ててもらっていることは、
     たいへん良かったことであるし、
     私も嬉しい。
     これからは、
     今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、
     立派な日本人になっておくれ。
     元気で大きくなってくれることを
     私は心から願っているよ」
    というお心が込められているのです。
    そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

    陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から
    「さようなら、さようなら」
    とごく自然に声がでるのです。
    すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に
    「さようならね、さようならね」
    と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

    次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っていました。
    その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に
    「大切に病を治すように希望します」と申されました。
    鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
    「誠心誠意万全を尽くします」
    と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

    こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。
    この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。

    それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
    この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。
    入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせました。
    重苦しい時間が流れました。

    ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に近づかれました。
    そしてやさしいというより静かなお声で、
    「お父さん?お母さん?」
    とお尋ねになったのです。

    一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわかりません。
    けれど陛下の目は、一点を見つめています。
    そこには、三人の女の子の真ん中の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
    陛下はその二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

    女の子が答えました。
    「はい。これは父と母の位牌です」

    これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
    「どこで?」とお尋ねになられました。
    「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
     母は引揚途中で病のために亡くなりました」
    この子は、よどむことなく答えました。

    すると陛下は
    「おひとりで?」とお尋ねになる。
    父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

    「いいえ、奉天からコロ島までは
     日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
     船に乗ったら船のおじさんたちが
     親切にしてくださいました。
     佐世保の引揚援護局には、
     ここの先生が迎えにきてくださいました」

    この子がそう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
    そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
    「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。

    しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は
    「いいえ、淋しいことはありません。
     私は仏の子です。
     仏の子は、
     亡くなったお父さんともお母さんとも、
     お浄土に行ったら、
     きっとまたあうことができるのです。

     お父さんに会いたいと思うとき、
     お母さんに会いたいと思うとき、
     私は御仏さまの前に座ります。
     そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
     そっとお母さんの名前を呼びます。

     するとお父さんもお母さんも、
     私のそばにやってきて、
     私を抱いてくれます。
     だから私は淋しいことはありません。
     私は仏の子供です。」

    こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
    この子も、じっと陛下を見上げていました。
    陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしました。

    そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
    部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、
    右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

    そして陛下は、
    「仏の子はお幸せね。
     これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
    そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました。

    そのときこの女の子が、小さな声で、
    「お父さん」
    と呼んだのです。
    これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。

    その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。
    東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。

    子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになられます。
    山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいました。

    その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
    「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
     そのためにみんなが悲しんでいるが、
     自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、
    遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
    遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。

    陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
    「どなたが戦死されたのか?」
    「息子でございます。
     たったひとりの息子でございました。」
    そう返事しながら、老婆は声を詰まらせました。

    「うん、うん」と頷かれながら陛下は
    「どこで戦死をされたの?」

    「ビルマでございます。
     激しい戦いだったそうですが、
     息子は最後に天皇陛下万歳と言って
     戦死をしたそうででございます。
     でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
     軍のほうからいただいた白木の箱には、
     石がひとつだけはいっていました。
     天皇陛下さま、
     息子はいまどこにいるのでしょうか。
     せめて遺骨の一本でも
     帰ってくればと思いますが、
     それはもうかなわぬことでございましょうか。
     天皇陛下さま。
     息子の命はあなたさまに差し上げております。
     息子の命のためにも、
     天皇陛下さま、長生きしてください。
     ワーン・・・・」

    そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。
    そうなのです。
    この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。
    そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

    遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
    そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。
    そこには若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていました。

    実はこの人達は、シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
    この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。

    そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して
    一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。

    そうした意図を知ってか知らずか、陛下はその一団の前で足をお止めになられました。
    そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられました。
    「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して
     大変であっただろうと思うとき、
     私の胸は痛むだけでなく、
     このような戦争があったことに対し、
     深く苦しみをともにするものであります。

     みなさんは外国において、
     いろいろと築き上げたものを
     全部失ってしまったことであるが、
     日本という国がある限り、
     再び戦争のない平和な国として
     新しい方向に進むことを希望しています。

     みなさんと共に手を携えて、
     新しい道を築き上げたいと思います。」

    陛下の長いお言葉でした。
    そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
    はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまいました。
    「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。そして、
    「天皇陛下さま。
     ありがとうございました。
     いまいただいたお言葉で、
     私の胸の中は晴れました。

     引揚げてきたときは、
     着の身着のままでした。
     外地で相当の財をなし、
     相当の生活をしておったのに、
     戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。

     生活も最低のものになった。
     ああ、戦争さえなかったら、
     こんなことにはならなかったのにと
     思ったことも何度もありました。
     そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。

     しかし苦しんでいるのは、
     私だけではなかった。
     天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、
     いま、わかりました。

     今日からは決して世の中を呪いません。
     人を恨みません。
     天皇陛下さまと一緒に、
     私も頑張ります!」
    と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。
    「こんな筈じゃなかった。
     こんな筈じゃなかった。
     俺が間違えていた。
     俺が誤っておった」
    と泣きじゃくるのです。

    すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。

    彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられました。
    それは、何も言うことのない、感動と感激の場面でした。

    いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、「また来てね」と申しました。

    すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
    「また来るよ。
     今度はお母さんと一緒にくるよ」
    と申されました。

    御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれました。
    そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。

    宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれました。

     みほとけの
     教へ まもりて すくすくと
     生い育つべき 子らに幸あれ

    お腹を空かせた者にパンを与えること、パンを得る方法を教えること以外の第三の道。それは、互いに心を通わせ、同苦し、信じあい、励まし続けることでした。
    そのことを、昭和天皇は、見事に体現してくださいました。

    敗戦のショックで打ちひしがれていた人々は、この昭和天皇行幸を境に、国土と産業の復興のために全力をあげ、日本はその後わずか15年で、東京オリンピックを開くまでに国土と産業を復興させ、そしてそこから戦後の高度経済成長を果たして、世界第2位の経済大国へと発展していきました。

    天皇の行幸は、政治権力でしょうか。それとも上下関係でしょうか。
    パンを与えたのでしょうか。パンを得る方法を教えたのでしょうか。

    違うと思います。
    それらとは明らかに一線を画する、もっとはるかに高度なものです。

    これが、天皇の「しらす」です。
    日本古来の姿です。

    お読みいただき、ありがとうございました。


    ※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」より
    このお話は2011年より毎年ご紹介しているお話です。

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 天皇のご公務と藤原忠平


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    この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。
    公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。
    だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれています。

    20210925 小倉山二尊院
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    小名木善行です。

    藤原忠平の歌を通じて、我が国のカタチを考えてみたいと思います。

    京都嵐山の北側に、大堰川(おおいがわ、桂川ともいう)をはさんで「小倉山(おぐらやま)」があります。
    まるい、まるでおまんじゅうのような形をした山です。
    小倉山は古来紅葉の名所とされる山です。
    『小倉百人一首』という名称は、藤原定家がこの小倉山の山荘で「百人一首」を選歌配列したことに由来しています。

    その百人一首に、藤原忠平(880-949)が詠んだ歌があります。
     小倉山 峰の紅葉葉 心あらば
     いまひとたびの みゆき待たなむ

    (おくらやま みねのもみちは こころあらは
     いまひとたびの みゆきまたなむ)

    この歌を詠んだ藤原忠平は、後に関白太政大臣にまで栄達して藤原家繁栄の基礎をつくり、没後にその徳をたたえられて「貞信公(ていしんこう)」という謚(おくりな)を贈られた偉大な人物です。
    この歌は『拾遺集(1128番)』に掲載されていて、詞書(ことばがき)には次の紹介文があります。

    「宇多上皇が大堰川に遊ばれた際に、
     上皇が見事な小倉山の紅葉に感動して、
     『我が子である、醍醐(だいご)天皇にこの紅葉を見せたい』
     とおっしゃられたことを受け、
     藤原忠平が醍醐天皇に
     そのことを伝えるために詠んだ。」
    (原文)亭子院大井河に御幸ありて行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふにことのよし奏せむと申して。

    解説書のなかには、この歌の解釈として、直接「宇多上皇がお誘いですよ」と伝えるのではなく、むしろ紅葉を擬人化して、「待っていておくれ」と謳い上げているところに興(きょう)があると評しているものがあります。
    つまり「擬人法を使ったところに、この歌の面白さがある」としているわけです。

    しかしそれを言うなら、拾遺集よりもはるかに古い時代に成立した『古事記』のなかに、「因幡の白兎ウサギ」の物語があります。
    そこではウサギが人と会話しています。
    まさに擬人そのものです。
    つまり擬人法はもっとはるかに古い時代から我が国では普通に使われていた表現方法です。
    別に平安時代にはじめて生まれたテクニックではありません。

    実はこういう、ちょっとしたところに、こっそりと反日的な思想を忍ばせるというのが、戦後70年の日本の学会の特徴です。
    おそらくは、そのように書かれた教授も、9世紀から10世紀の半ばにかけて生きた藤原忠平の時代よりもはるか以前から日本文学に擬人法が使われていることくらい、とっくに承知のことであったことでしょう。

    けれど、現代日本の学界では、「日本の古代は平安時代まで」ということになっているわけです。
    鎌倉時代からが中世、古代の前は有史以前です。
    つまり古代というのは、ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代であって、階級とか国家がなんとなく成立していた頃だというのが、現代の学会の理解です。
    つまり平安時代は、「よくわからない時代」だというわけです。

    古代とか中世とかいう区分は、西洋史にあった区分方法で、西洋史では古代ギリシア文明の成立の時代から、5世紀の西ローマ帝国の崩壊までの時代を指します。
    西洋では、このあと、フランク王国とかビザンツ王国とかロンバルト王国とか、様々な王国が栄えては消えるという「よくわからない時代」が続き、紛争続きで文明が停滞します。
    そして弱体化した西洋諸国は、13世紀にモンゴルによって征圧されてしまう。
    西洋史では、ここまでが「中世」です。

    ところがそのモンゴルのオゴデイが死去することで、モンゴルの正統な後継国を自認する国が次々と誕生しました。
    こうして生まれたのが、いまに続く西欧諸国で、ですからそこからが西洋史では「近世」になります。
    西洋の学校で自国の歴史として習うのは、その「近世」からの歴史です。
    つまり西洋における歴史時代は、14世紀からということになります。
    モンゴルの征服、その後の自立、独立という中で、現在に続く西洋諸国は誕生し、15世紀の大航海時代からが「近代」、第2次世界大戦以降が「現代」となります。

    整理すると次のようになります。
    <西洋史>
     有史以前 3世紀以前。ギリシャ・エーゲ海文明以前
     古代   4〜5世紀。古代ギリシャから西ローマ帝国の滅亡まで
     中世   6〜13世紀。よくわからない王朝が続いて、ついにモンゴルに征服されるまで
     近世   14〜18世紀。モンゴルの後継国が互いに競った時代から市民革命まで。
     近代   19世紀〜。第二次世界大戦まで
     現代   第二次世界大戦以降
    ざっと、このような考え方の時代区分になっているわけです。

    東洋史というのは、主にChinaの歴史を云いますが、もとより西洋史と東洋史では、歴史についての根本的な思想が異なります。
    ですから同じ分類など、本来はあてはまるべくもないのですが、なぜかChina史(東洋史)にも、この分類が当てはめられています。
    一応簡単に、いまの学会の分類を整理すると次のようになっています。
    <東洋史>
     有史以前 紀元前。秦王朝成立以前
     古代   3世紀まで。秦王朝の成立から後漢の崩壊
     中世   3〜10世紀。三国志の時代から唐、五代十国の時代まで
     近世   10〜18世紀。宋から清朝まで
     近代   19世紀〜。辛亥革命から第二次世界大戦まで
     現代   第二次世界大戦以降

    要するに、
     Chinaの中世は3世紀、
     西洋の中世は6世紀に始まるとしているわけです。

    一方、これに対して日本の中世は、12世紀の鎌倉時代に始まるとする。
    こうすることで、日本の文明は、Chinaより900年遅れいていたのだ、としているわけです。

    しかし、古代というのが「ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代のあけぼので、階級とか国家がなんとなく成立していた時代」と定義するならば、たとえばいまのChinaも、チベットに侵攻したり、ウイグルや内モンゴルの人たちに、何をしているのか、よくわからない。
    そういう意味では、Chinaは中華人民共和国となった現代においても、その実態は「古代国」にほかなりません。
    つまり、Chinaはいまもまだ、国家としては古代の状態にあるわけです。

    一方、日本は、紀元前の大和朝廷の時代から、天皇を頂点にいただく国です。
    ということは、西洋史的な意味での分類に従うなら、紀元前7世紀の神武天皇から7世紀の皇極天皇あたりまでが古代、7世紀天智天皇以降が中世、17世紀の江戸時代が近世、明治以降が近代、大戦後が現代となります。

    箇条書きにすると以下のようになります。
     有史以前 紀元前7世紀以前。神話の時代
     古代   紀元前7〜7世紀まで。神武朝からの古代大和朝廷の時代。
     中世   7〜15世紀。大化の改新から織豊時代。
     近世   16〜18世紀。江戸時代
     近代   19世紀〜。明治維新から第二次世界大戦まで
     現代   第二次世界大戦以降

    というわけで、藤原忠平、貞信公の歌の良さが、ただの「擬人法の使用」にないというのなら、ではこの歌の本当の良さは、いったいどこにあるのでしょうか。

    詞書に書かれていることから、宇多上皇が小倉山へ紅葉見物に出かけ、そこに藤原忠平も右大臣として同行したことが伺えます。
    ここでひとつ質問です。
    「なぜ上皇が天皇より先に紅葉狩りに出かけているのでしょうか」

    答えは、「天皇(醍醐天皇)は、紅葉見物に、
    「行きたくても行けなかったから」です。

    いまでもそうですが、天皇の御公務は多忙をきわめます。
    ありがたいことに私たち一般庶民の多くは週休二日ですし、盆暮れのお休みもあります。
    年間の休日は、祭日を含めれば軽く百日を越えます。
    つまり、一年のうちの三分の一がお休みになっています。

    ところが陛下には、お休み(休日)がありません。
    一年三百六十五日、すべてが御公務です。
    公務の数は年二千回を超えます。
    一日平均、5〜6件の御公務のスケジュールがはいっているのです。
    そしてそのいずれもが、国の大事であり、なかには国運を左右する重大な用件を含みます。

    そして陛下の御公務にミスは許されません。
    風邪さえひけないし、ひいても寝込むことも許されません。
    プライバシーもありません。

    それだけの厳しい御公務を、陛下は日々こなしておいでになります。
    さらにその忙しい御公務の合間をぬって、田んぼにはいって農作業をされたり、様々な研究もされています。
    このことは醍醐天皇の昔も、昭和天皇の時代も、今上陛下の時代もなんら変わることがありません。

    それだけ多忙な御公務のなかでも、日本の心、みやびな心を失わないでいらっしゃるのが、我が国の天皇です。
    そしてその天皇は、政治権力を持っていないのです。

    現代風に分かりやすくいえば、政治権力というのは「立法」「行政」「司法」の三権です。
    これに「軍事」を加えれば、四権といえるかもしれません。
    西洋や東洋における王や皇帝は、それら三権(四権)のすべてを掌握し、直接に命令を下せる権限を持っています。

    ですからたとえば、王の目の前で、くだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいれば、王は即座にその者のクビを刎(は)ねることもできます。
    それが古来変わらぬ、王や皇帝の権力と権限です。
    社会そのものが「支配と隷属」の関係で成り立っているわけです。

    ところが我が国における天皇には、その権力、権限がありません。
    仮に、目の前でくだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいたとしても、あるいは遠回しに婚礼をお断りしているのに執拗に結婚させろと迫る変態男がいても、そういう者を処分する権限は、あくまで天皇が親任した太政大臣や関白、いまなら内閣総理大臣や国会両院議長などの政治権力者の仕事とされているのです。

    天皇ご自身が、どうしても政治権力を揮いたいと思うなら、天皇を退位しなければなりません。
    そして、天皇の下の位である上皇になれば、政治に直接介入することができます。
    上皇は、序列的に天皇の下になりますが、太政大臣よりも上位の政治権力者となるからです。

    私たち一般庶民の感覚で考えると、政治権力者のほうが忙しくて、政治権力のない天皇のほうは暇ではないか思われます。
    しかし、先に述べたように御公務は多忙ですし、この歌のなかにも天皇の忙しさが書かれているのです。

    視点を変えれば分かることですが、政治権力者である上皇は、小倉山の紅葉が見事だからと、大臣をたちを連れて秋の紅葉見物に出かける余裕があるのに対し、天皇はどれだけ紅葉が素晴らしくても、それを見に行くだけの余裕も時間もないことが、この歌から分かります。

    そして政府高官である藤原忠平は、天皇のスケジュールを調整する役割の人もあります。
    だから藤原忠平は、
    「天皇にも是非この美しい紅葉を味わっていただけれるように、
     なんとか公務を調整するから、紅葉に
     『御行幸いただくまで待っていておくれ』」
    と呼びかけているのです。

    実際、この歌のあと、小倉山への紅葉狩りのための天皇の行幸が、毎年行われるようになりました。
    日々の公務に追われる天皇ですが、むしろ「御公務の側に小倉山までついてきてもらう」ように調整をすることで、天皇にたとえわずかな時間でも、秋の紅葉を楽しんでいただけるように、制度が変えられたのです。

    実はこの「御公務の側についてきてもらう」ということは、現代でも行われています。
    昭和天皇が戦後の焼け野原の中で、全国行幸をされたのは有名な話ですし、今上陛下も、東日本大震災などの被災地へ、たびたび行幸されています。
    そしてこうしたときには、陛下が宮中で行う事務は、近習の者が持参して、現地で陛下が実務を執り行えるようにしているのです。

    さてこの歌で、醍醐天皇に「是非とも紅葉狩りを楽しませたい」と提案したのは、父親の宇多上皇です。
    少し前まで、ご自身が天皇だった方ですから、天皇の忙しさは、まさに身をもって体感しているわけです。
    だからこそ、せめて美しい小倉山の紅葉くらいは、天皇に見せてあげたいと思ったのでしょう。
    その気持ちが痛いほど分かるからこそ藤原忠平は、天皇のスケジュールは自分がなんとかするから、
    「小倉山の紅葉よ、それまで散らずに待っていておくれ」と詠んでいるわけです。

    この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。
    公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。
    だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれているのです。


    ※この記事は2017年9月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復興のために元気に立ち上がった。
    そのきっかけとなりましたのが、「昭和天皇の全国行幸」です。


    20181229 掛川西高校に行幸する昭和天皇
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    小名木善行です。

    今年でちょうどまる10年。毎年ご紹介しているお話です。
    すでにお読みになられた方も多いかと思います。
    同じ話を何度も繰り返すのは、大切なことは何度でも読み返す必要があると思っているからです。

    クラシック音楽と同じです。
    クラシックは、同じ曲が様々な演奏家によって何百年も繰り返し演奏されますが、何度繰り返されても、飽きるということがない。
    筆者の場合、読書や映画鑑賞もそうで、良い本や良い映画は時間をおいて、繰り返し何度でも読んだり観たりします。
    そして読んだり観たりするたびに、新しい発見や気付きを得ます。
    人生を振り返ってみたとき、読書も乱読ですが、この「繰り返し」が結果として、いちばん役に立ったような気がします。

    この昭和天皇行幸のお話も、いま米国大統領選の問題から、世界の構造が激変していくという情況下において、私達にとって大切なことを教えてくれているように思います。

     *

    さて、昭和20年8月の終戦後のこと、当時の日本は未曾有の食料危機にありました。
    物価も高騰、食料の配給制度は人々の生活を賄(まかな)うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並んでいました。

    それまで、東洋平和を願い、皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、
    いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範も失なわれ、
    呆然(ぼうぜんと)と頽廃(たいはい)と恐怖と飢(う)えが人々を支配していました。

    その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復興のために元気に立ち上がった。
    そのきっかけとなりましたのが、「昭和天皇の全国行幸」です。

    物語を通じて、混迷の時代に必要なものが明らかにされていきます。
    それは次のようなものです。
     1 伝統の重さと大切さ
     2 霊(ひ)
     3 勇気とやさしさ
     4 希望とあたたかさ
    こうしたことは、現代社会では「具体性がない」とか、「役に立たない」、「何を言っているのかわからない」などと言って、無視されがちなことです。
    現代社会では、根底よりもハウツーが優先するものと考えられているからです。
    けれど、それはまやかしであると申し上げたいと思います。
    なぜなら、ハウツーを教えるものは近年多いですが、ハウツーのマニュアル通りにやれば人生の成功が手に入れることができるほど、世の中は甘くない。
    結局の所、人生を拓くには、根底となるものを大切にしながら、中今(なかいま)に生きるしかないのだし、そもそもそうした根底にあるものを大切に生きることでしか、霊(ひ)が今生に生を受けた意味をまっとうできないのだと思います。

     *

    昭和天皇の行幸は、昭和21年の神奈川県を皮切りに、昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
    全行程は3万3000km、総日数は165日です。

    実はこれはたいへんなことです。
    そもそも陛下の日常は、我々平民と違って休日がありません。
    一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。
    そうしたお忙しい日々を割いて、昭和天皇は、全国行幸(ぎょうこう)をなさいました。

    この行幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。

    「この戦争によって祖先からの領土を失い、
     国民の多くの生命を失い、
     たいへんな災厄を受けました。
     この際、わたしとしては、
     どうすればいいのかと考え、
     また退位も考えました。

     しかし、よくよく考えた末、
     この際は全国を隈なく歩いて、
     国民を慰め、励まし、
     また復興のために立ちあがらせる為の
     勇気を与えることが責任と思う。」



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  • 陛下のお言葉や御製のもたらす意味について


    陛下の御製やお言葉は、神々からのメッセージです。
    神々からの願いというのは、軽々しいものではない。
    このことは、日本人であるならば、必ず肝に銘じておくべきことであると思います。

    20200924 松に雪
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    小名木善行です。

    先日、ある先生から、昭和天皇の昭和21年の年頭の御製につていご質問をいただきました。
    質問は、
     ふりつもる深雪にたへて色かへぬ
     松ぞををしき人もかくあれ
    という御製が、命令なのか、願いなのかというものです。
    とても重要なご指摘と思いましたので、みなさまにも是非お伝えしたいと思います。

    陛下の御製というものは、前年に陛下が詠まれた御製のうち、新しい年の年頭にふさわしいと思われるものを5首、新年の賀歌として、毎年発表されるものです。
    これはいまも昔も同じです。

    ですからこの御製も、昭和20年の焼け野原となった日本において、昭和天皇がどこかで、焼け野原で踏ん張りぬく松の木をご高覧あそばされて詠まれた御製でもあろうかと御拝察いたします。

    ご指摘の「命令なのか、願いなのか」というのは、この御製の末尾にある「人もかくあれ」が問題となっています。
    古語で「〜あれ」というのは、一般には「かくありなさい」といった、いわば命令のような形で用いられる語です。
    従って、普通の一般人が「人もかくあれ」と詠んだならば、それは「人もまたそのようにありなさい」とか、「人もまたそのようにあるべきだ」といった命令になります。

    ただし、天皇の御製の場合は、これとは意味が異なります。
    なぜなら天皇は、神官のなかの大神官であらせられるからです。
    神官というのは、人の身であって、神々にもっとも近いところにおわす存在です。
    なかでも大神官となれば、人々を代表して神々と接し、あるいは神々のご意向を人々に伝える重要な役割を担います。

    従って天皇のお言葉は、すべて「祈りの言葉」であり、「願いの言葉」となります。



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    それが日本です。


    20200102 四方拝
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    新年明けましておめでとうございます。
    天皇の四方拝は、天皇が元旦の夜明け前に行われる天皇の祭祀です。
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    四方拝(しほうはい、よほうはい)は元旦に天皇が行われる祭祀です。
    戦前戦中までは、四方節(よほうせつ)とも呼ばれていました。
    元旦の、まだ夜が明けないうちに、天皇陛下が特別の祭殿に入られて神々をお招きし、祈りを捧げられる神事です。

    その祈りは、ちょっとショッキングな祈りです。
    天皇が神々に、
    「国家国民の
     ありとあらゆる厄災は、
     すべて私に先に
     お与えください」

    と祈られるからです。

    どういうことなのか、少し詳しく述べます。
    知らす国において、天皇は臣民を代表して神々と繋がる御役目です。
    その天皇が、年のはじめに神々を皇居にお招きします。
    お招きされる神々は次の通りです。



    20191006 ねずラジ
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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E-mail info@musubi-ac.com
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