• 生まれ変わって幸せに・・・武田勝頼の妻


      ◆◆ニュース◆◆
    本日倭塾開催11月27日(土)13時半 タワーホール船堀
     https://www.facebook.com/events/819411838658553
    ○最新刊『金融経済の裏側』11月24日発売。
    ○最新刊庶民の日本史11月15日発売。


    戦いに敗れて討たれて失われるは我が身の因果でございましょう。
    めぐりあう敵は、もしかすると愛の逢瀬のようなものかもしれませんわ。
    敵を討った仇さえも、ご恩のひとつと感謝して念仏を唱えましょう。
    そうすれば、次の世に、きっと二人仲良く生まれ変わることもできることでしょう。

    20211127 武田勝頼の妻
    画像出所=https://rekijin.com/?p=30522
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!予約受付中
     

     武田勝頼の妻の名は伝わっていません。北条氏康の六女であったことから、武田家では北条夫人と呼ばれていました。天正一〇年(一五八二)三月、織田信長が大軍で武田氏に攻めこんだ時、武田の旧臣たちが勝頼に背いたので、勝頼は百騎ばかりで城から落ちのびました。それは、夫人もようやく荷(に)付(つけ)馬(うま)に乗って、侍女らはみんなワラジを履(は)いての逃避行でした。城には敵が攻め入り火煙が天をおおっていました。

     勝頼たち一行は、天目山(てんもくざん)に遁(のが)れました。けれどそこにも、秋山摂津守が叛(そむ)いて火砲を発して襲ってきたので、鶴背のほとりの田野というところに隠れました。敵兵が潮(うしお)のように湧き出て攻めてきました。勝頼は夫人に告げました。
    「武田の運命は今日を限りとなりました。おまえは伴(とも)をつけて、小田原の実家に送り届けよう。年来のおまえの情(なさ)けには深く感謝している。甲府からどんな便りがあったとしても、おまえは小田原で心安く過ごしなさい」

    夫人が答えました。
    「おかしなことを聞くものです。たまたま同じ木陰(こかげ)に宿ることさえ他生の縁と申すではありませんか。わけても7年。あなたと夫婦の契(ちぎり)を結び、今こうして危機に遭ったからといって、早々に離別されて小田原へ帰るならば、妾(わらわ)の名がけがれましょう。ただ夫婦は、死生を同じうすべし」

    夫人は老女を振り返り、
    「この年月は、子ができないことばかり嘆(なげ)いて神仏に祈っていましたが、今はむしろ良かったのかもと思えます。たとえ子がなくても小田原は跡(あと)弔(とむら)い給うべし(小田原はきっと弔ってくださることでしょう)」
     故郷への手紙には、
    「女の身なればとて、北条早雲、北条氏康より代々弓矢の家に生まれ、ふがいなき死をせしといわれんも恥ずかし。妾(わらわ)はここにて自害せりと申せ」

    手紙の上巻に髪の毛を切り巻き添え、

     黒髪の みだれたる世を はてしなき
     おもひに契(ちぎ)る 露(つゆ)の玉の緒

    と詠ぜられました。そして敵軍、乱れ入り、一族郎党ことごとく討たれていく時、夫人は声高く念仏を唱えて自害しました。老女もともに殉死しました。勝頼も自害して、武田の一門はこうして滅亡しました。

    「跡弔い給うべし」という言葉は、お能の「敦(あつ)盛(もり)」の中に登場する言葉で、次のように展開されます。

     討たれて失(う)せし身の因果
     めぐり逢ふ敵(てき) 討(う)たんとするに
     仇(あだ)をば恩に 法事の念仏 弔(とむら)はば
     終(つい)には共に 生まるべき
     同じは蓮(はす)の 蓮生法師
     そは敵にては なかりけり
     跡(あと)弔(とむら)ひて 賜(たま)び給(たま)へ
     跡弔ひて 賜び給へ

    現代語にすると次のようになります。

     戦いに敗れて討たれて失われるは我が身の因果でございましょう。
     めぐりあう敵は、もしかすると愛の逢瀬のようなものかもしれませんわ。
     敵を討った仇さえも、ご恩のひとつと感謝して念仏を唱えましょう。
     そうすれば、次の世に、きっと二人仲良く生まれ変わることもできることでしょう。
     互いに同じ蓮の根につながる魂でございます。
     敵も味方もありませぬ。
     どうか、あとの弔いを頼みますね。

    「めぐり逢ふ敵」に、男女の逢瀬を意味する「逢ふ」という字が使われているので、「めぐりあう敵は、愛の逢瀬のようなもの」と訳させていただきましたが、語感としては、これが最も正しい訳であろうと思います。たとえ自分の命を失うことがあっても、そこに愛を見出す。これこそが日本的な価値観といえます。
     死ねば魂が肉体から離れ去ります。だからこれを「逝去(せいきょ)」といいます。「逝」という字は、「折」がバラバラになることを意味し、「辶」が進むことを意味します。肉体と魂がバラバラに離れて去って行くから「逝去」です。魂の行く先は、時間に縛られた低次元の世界から、時間を超越した高次元の世界です。勝頼の妻の辞世の歌は、そういう理解の上に成り立っています。
     歌にある「玉の緒」というのは、魂の緒のことです。魂は紐で肉体とつながっていると考えられていましたから、玉の緒が離れることは、死を意味します。露と消える玉の緒であっても、ひとつの思いは消えることはない。その消えない思いというのが、「夫である勝頼と今生では乱れた黒髪のような乱世を生きることに成ってしまったけれど、きっと来世には平和な時代に生まれて、一緒に仲良く、長く一緒に暮らしましょうね」という句になっています。
     そして「黒髪の乱れる」は、和泉式部の歌から本歌取りです。失っても失っても、それでも一途に愛する想いを大切にするところで使われる語です。
     「玉の緒」は式子内親王の歌から本歌取りしています。たとえ露と消えて死んでしまっても、大切なものを護り通して行きたいという想いがこめられた語です。

     この時、勝頼の妻、わずか十九歳です。今から四百年も昔の戦国時代。現代日本人の感覚としては、戦国時代というのは、有史以来最も国が荒れた時代とされますが、そんな時代にあってなお、若い女性がこれだけ高い教養を持ち、そして男も女も純粋に必死で生きていたのです。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    《倭塾の日程》
    2121年11月27日(土)13:30 第88回倭塾(於:タワーホール船堀研修室)
     https://www.facebook.com/events/819411838658553
    2022年1月22日(土)13:30 第89回倭塾(於:東大島文化センター第一研修室)
     https://www.facebook.com/events/1516355935411730
    2022年2月23日(水・祝)13:00〜16:30 第89回倭塾 タワーホール船堀4F401号室
     https://www.facebook.com/events/579487736653084


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                   

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 元の大帝国に敢然と立ち向かった北条時宗


      ◆◆ニュース◆◆
    ○次回倭塾11月27日(土)13時半 タワーホール船堀にて開講
     https://www.facebook.com/events/819411838658553
    ○最新刊『金融経済の裏側』11月24日発売。予約受付中
    ○最新刊庶民の日本史11月15日発売。予約受付中
    ○とら子先生との共演。
     11月23日の新嘗祭記念の特別講演(参加費無料です)
     https://ec.homoeopathy.ac/product/2821


    元寇に際して日本が戦うことを選択しなかったなら、元の大軍は、易々と日本上陸を果たしていたことでしょう。そして上陸していたならば、彼らは台風で船団ごと壊滅することもなかったことでしょう。つまり、明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた、ということです。これは少し考えたら、誰にでも理解できることだろうと思います。
    その意味での神風は、このとき断固戦うことを選択した北条時宗の決断そのものであったのではないでしょうか。

    20211125 北条時宗
    画像出所=https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2021/06/15/159939
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!予約受付中
     

    「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉を続けていました。
     そしてその間に元の大軍によって侵略され、国をなくしてしまいました」と、日本に禅宗を伝えた宋の僧侶の蘭渓道隆が言いました。また蘭渓道隆の後継者である無学祖元も言いました。
    「莫煩悩(ばくぼんのう)です」
    これは「あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさい」という意味です。こうして幕府の執権、北条時宗の意思は固まりました。そしてついに執権の命令が鎌倉御家人たちに下りました。
    「蒙古軍を制圧せよ!」

     東北地方の山間部に、「モッコ」という言葉があります。「モッコ」というのは、ふるくから“この世の中で一番怖いもの”とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」だそうです。その「モッコ」は、実は蒙古のことだといわれています。元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれています。それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代の恐怖のできごとだったのです。

     一二六八年、高麗の使いによって元の大帝国の皇帝フビライからの書簡が九州の太宰府にもたらされました。そこには次のように書いてありました。

    「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。
     昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。まして大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。例えば私が皇帝になってからも、高麗が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。
     高麗は私の東の領土である。しかし日本は、昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?
    日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝える。
     これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている。日本も我々を父と思うことである。このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。
    日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。
     至元3年8月(1266年・文永3年)」

     相互に仲良くしようといいならが、日本が一通の国書を送らないとささいなことでケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、さらに元の帝国を父と思えと都合のいいことを云いながら、その一方で「言うことを聞かないのなら軍を送るぞ」と脅かしています。
     ちなみにこの書簡をフビライが書いたのは一二六六年でしたが、その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまでに、なんと二年が経過しています。どこで書簡が停滞していたかというと、高麗です。元の属国となっていた高麗は、蒙古と日本が戦争になると兵員や食糧を負担しなければなりません。高麗が「どうしよう・・・」と国内であれこれ議論やっている間に、二年が経過していたわけです。
     書簡が、いよいよ大宰府にもたらされると、太宰府はこの書簡を朝廷に転送しました。転送された朝廷もまた、書簡を見てびっくりし、連日閣議を重ねたあげく、鎌倉幕府に蒙古襲来に備えよと命じました。「命じた」だけでした。大国である元の侵攻を前に、具体策などなにもなかったのです。

     フビライの書簡が鎌倉に転送されたとき、幕府の執権の北条時宗は、若干18歳で執権の座に就いたばかりでした。幕府内では、連日会議が開かれましたが、主戦派と穏健派に分かれて結論はでませんでした。時宗もこの時点では、まだ執権に就いたばかり。幕府の意向が固まるまでは、どうにも結論を出せずにいました。

     しびれをきらしたフビライは、高麗に日本への使者の派遣を命じました。ところが高麗は、天候が悪いの海が荒れたのと理屈をつけて途中で帰ってしまったかと思えば、今度は日本と蒙古が通交するようにすすめたりと、まるでらちがあきません。
     怒ったフビライは、四度目(日本には二度目)の使者として漢族の趙良弼に六千人の兵を持たせて高麗へと向かわせました。わずか六千の兵ですが、そのために高麗は彼らのための食べ物を提供しなければならず、これを民間から強引に調達したため、高麗の民衆は草や木を食べて飢えをしのいだと記録されています。高麗の国力や知るべしです。
     太宰府に着いた趙良弼は「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言い放ち、日本側の返事を待ちました。ところが待てど暮せど返事がない。滞在四カ月に及んだ趙良弼はいったん高麗に戻り、再び日本にやってきて太宰府で一年を過ごしました。この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」と褒めたそうです。

     こうして最初の使いから六年経った一二七四年一月、フビライは高麗に、日本遠征のための造船を命じました。高麗はそのための人夫三万五千人と食糧・材料の木材を出すことになりました。このため労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり、ここでもまた、飢えて死ぬ人が多くいたと記録されています。
     それでも高麗は、わずか十ヶ月の間に大型船三百艘、中型船三百艘、給水用の小型船三百艘、あわせて九百艘の船を造りました。ところが、このときに造船された船は、すべて頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式の船でした。

     一二七四年十月三日、モンゴル兵六千、高麗兵二万四千、合計三万の兵を乗せた船が高麗の合浦を出発しました。そして十月五日には対馬、十四日には壱岐を襲いました。島民の数は、当時おそらく数千人です。いきなり襲ってきた三万の兵にかなうはずもなく、対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれて吊るされました。

     モンゴルと高麗の軍は、十九日に博多湾に集結しました。そして十月二十日、筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津に上陸を開始しました。ところが一夜明けると、高麗の船が全部消えていました。博多湾を埋め尽くしていた高麗船が一艘もいないのです。このときの模様を日本側の記録である八幡愚童記は、「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いています。
     なぜ消えてしまったのでしょう。壱岐対馬では、非武装の住民を、圧倒的な戦力を持つモンゴル軍が一方的に襲撃しました。けれど博多湾では、北九州地域の武士たちが、果敢に彼らに挑みました。圧倒的な多勢に無勢でしたが、モンゴル側が、奴隷兵たちに雲霞のように大量の矢を射掛けさせる戦法であったのに対し、日本側は彼らの指揮官を、一撃必殺の弓矢で正確に射るという戦法でした。奴隷兵による戦闘は、指揮官が倒れると奴隷兵たちは戦意を失って逃散します。要するに、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外にも日本側が武器を持って戦を挑み、これによって指揮官たちを失ったモンゴル兵たちが、慌てて船で逃げ帰ってしまったのでした。

     このときの模様について、高麗の歴史書である「東国通鑑」は、夜半に大暴風雨があり、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書いています。しかし、これはどうやら意外な抵抗を受けて逃げ帰ったモンゴル軍が、本国である元に報告する際に、記録を捏造したというのが、最近の通説です。ここまでが文永の役です。

     これに対し、ほんとうに神風が吹いたのが、その七年後に起った一二八一年の弘安の役です。
     文永の役のあと、

     文永の役の翌一二七五年四月十五日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を届けました。「文永の役は蒙古の恐ろしさを知らせるのが目的であったから早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送る。降参するなら今のうちだよ」という趣旨です。
     戦うべきか、降伏すべきか。幕府の執権北条時宗は悩みに悩みました。そしてこのとき日頃尊敬する蘭渓道隆から受けた教えが冒頭の言葉です。断固戦う決意を固めた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行五名全員を処刑し、見せしめとして首をさらしました。北条時宗は、こうすることで国内世論を、開戦やむなしに固めたのです。
     ところが問題が起きました。使者を全員殺してしまったので、肝心の元の側は、使者が死んだとわからない。いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌年六月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。
     北条時宗は、この周福一行を博多で斬り捨てました。ただし今度はひとりだけは逃して元に戻しました。
     杜世忠と周福が首を刎ねられたとを知った元は激怒し、「日本を伐つべし」の大号令が発せられます。

     一方、北条時宗は、全国にいる鎌倉御家人たちを博多に派遣し、さらに博多に防塁を築かせました。この工事への参加に、時宗は一切の反論を認めなかったといいます。
     一二八一年(弘安四年)、元は范文虎を総大将とする十四万の大軍を博多に差し向けました。対する日本側の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人。武士だけなら、おそらく1万人です。兵力でいえば、日本側は十四倍の敵を迎え撃つことになったのです。
     日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦いました。一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁に阻まれて、侵攻できない。戦線が膠着状態となり、運命の七月一日がやってきました。旧暦の七月一日は、いまの新暦なら八月十六日頃です。
     この日、北九州方面を、大暴風雨が襲いました。港を埋めつくしていた四千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されました。なんといっても船は手抜きの高麗船です。嵐の前にどうにもならない。
     翌朝、嵐がおさまると、博多湾は船の残骸と無数の死体で埋め尽くされていました。当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。
     「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き残しています。つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができたほどであったといことです。
     同史によれば、生存兵一万九三七九人。士官や将官などの上級軍人の死亡率が七~八割、一般兵士の死亡は九割に至りました。
     すっかり戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げました。港には、置き去りにされた元の兵士が多数残りました。残されたモンゴル兵(主に高麗兵)たちは、ただ残されただけですから、食べ物がありません。そこで彼らは民家を襲い、食料を奪い、住民を惨殺しました。日本側の御家人たちは、そんなモンゴル兵たちを探し出し、次々と倒して行きました。この残党狩りは七月七日まで続いたといいます。
     今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っています。これらは当時のモンゴル軍兵士の首を埋めた場所です。日本は、遺体を丁重に埋葬し、供養としていまなお、踊り念仏が毎年行われています。
     また断固戦うことを選択した北条時宗は、このときに亡くなった幕府の御家人たちや、モンゴル兵たちの供養のために鎌倉に円覚寺を建てて、この寺を臨済宗円覚寺派の大本山とし、自身もこの寺への埋葬されました。敵味方を問わず、戦いが終われば御仏としてちゃんと供養する。これもまた日本の武士道精神です。
     
     最後にひとつ。もし弘安の役で日本が戦うことを選択しなかったなら、元の大軍は、易々と日本上陸を果たしていたことでしょう。そして上陸していたならば、彼らは台風で船団ごと壊滅することもなかったことでしょう。つまり、明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた、ということです。これは少し考えたら、誰にでも理解できることだろうと思います。
     日本を守ってくれた北条時宗、そして鎌倉武士団に、わたしたちは深く感謝すべきだと思うのです。そして、本当の意味での神風は、このとき断固戦うことを選択した北条時宗の決断そのものであったのではないでしょうか。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    《倭塾の日程》
    2121年11月27日(土)13:30 第88回倭塾(於:タワーホール船堀研修室)
     https://www.facebook.com/events/819411838658553
    2022年1月22日(土)13:30 第89回倭塾(於:東大島文化センター第一研修室)
     https://www.facebook.com/events/1516355935411730
    2022年2月23日(水・祝)13:00〜16:30 第89回倭塾 タワーホール船堀4F401号室
     https://www.facebook.com/events/579487736653084


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                   

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 天祐は常に身を律して待つべし


      ◆◆ニュース◆◆
    ○次回倭塾11月27日(土)13時半 タワーホール船堀にて開講
     https://www.facebook.com/events/819411838658553
    ○最新刊『金融経済の裏側』11月24日発売。予約受付中
    ○最新刊庶民の日本史11月15日発売。予約受付中
    ○とら子先生との共演。
     11月23日の新嘗祭記念の特別講演(参加費無料です)
     https://ec.homoeopathy.ac/product/2821


    今、混迷の時代にあって、どこの企業も商店も、これまでのマネジメントが、まったく通用しなくなっていることをご実感されているものと思います。
    そんな時こそ、原点です。
    製品やサービスを通じて、いかにお客様とのコミニュケーションを図るのか。
    いかに社内のみんなで理想を共有するか。
    このことを花王の創業社長の長瀬富郎から学んでみたいと思います。

    20211111 長瀬富郎
    画像出所=https://diamond.jp/articles/-/51509
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!予約受付中
     

    天祐は常に身を律して待つべし

    長瀬富郎(ながせとみろう)は、花王の創業者です。
    小学校を出ただけで世に出て働いて、若くして支店長にまで大抜擢されながら、妙なプライドを持ったがゆえに失敗して、丸裸になってしまう。
    そこから立ち上がり、身を律して生きることを学び、国産初の高給石鹸という新しいジャンルを切り開き、世界に冠たる花王を築き上げた人です。

    その長瀬富郎が、亡くなる前に残した言葉があります。
    それが、次の言葉です。

     人ハ幸運ナラザレバ
     非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ
     運ハ即チ天祐ナリ
     天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ

    現代語に訳すと、
     人は幸運でなければ、立身は困難である。
     幸運とは、天のたすけである。
     天のたすけを得るには、
     常に身を律して待ちなさい。
    となります。

    実は、最近のドラマや邦画などで、どうしても許せないのが、ここです。
    天佑というのは、天の助けのことを言いますが、その点の助けを得るには、やはり、どこまでも「道ヲ正シテ待ツベシ」だと思うのです。
    ところが、最近のドラマや邦画でよくあるのは、身を律して厳しく精進した結果、勝利を得たり何かに成功するのではなく、いってみれば集団性のない不良が成功を得るという物語の展開が、ゴリ押しされているように思えます。
    これは「ありえないこと」です。

    何をするにも、身を律して真面目に取り組むから、良い結果が出るのです。
    不良のことを、昔は「斜めの人」と言いましたが、体が斜めなら、影も斜めなのです。
    そして体が斜めで、その斜めの状態を「良い状態」と規定するなら、世の中の真っ直ぐなものが、全部、斜めに見えてしまいます。
    そして、それは、間違った見方であり、決して成功など覚束ないものであると断言することができます。

    何をするにも、どんなことにも、多くの人の支えがあるのです。
    その支えに、感謝の気持ちを持つところに、天佑が巡ってくるのです。

    もちろん、そうでないケースもあります。
    しかし、何の感謝もない、斜めの心しかない者であれば、一時的には成功があるように見えても、どこかの国の大統領のように、何かの拍子に、やはり斜めの人たちに糾弾され、地位を失うことになるのです。

    長瀬富郎


    長瀬富郎は、文久3(1863)年、美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市)に生まれました。
    12歳で小学校を卒業した富郎は、親戚の塩問屋兼荒物雑貨商「若松屋」に奉公に入りました。
    相当努力したのでしょう。
    なんと若干17歳で、もう、下呂支店を任されるまでに信頼されています。

    若い時にこうして信頼され、支店長まで経験させられると、おかしなもので人間、ある種の自信過剰になってしまうものです。
    富郎は、明治18(1885)年、23歳で店を辞めてしまいます。

    辞めて何をしたかというと、それまでに貯めたお金150円を元手に、上京して米相場を貼ったのです。
    いまなら、だいたい200万円くらいのお金です。
    元手を増やして、商売でもやろうと思ったのでしょう。
    ところがこれが、大失敗で、富郎は無一文になってしまうのです。

    富郎が偉いところは、この失敗を教訓として、以後、とにかく
    「堅実に生きる」
    この一語を終生の誓いにし、それを守り通したことです。

    ちなみに人は一般に「自分の成功と、他人の失敗からしか学ばない」のだそうで、だから、たった一度の成功体験に縋ってギャンブルにのめり込んだりするのだそうです。
    「明治の気骨」と言うのは、こういう「失敗から学べる」ことを言うのかもしれません。

    金を失った富郎は、日本橋馬喰町の和洋小間物商「伊能商店」に就職します。
    この頃の日本橋馬喰町は、舶来品の専門問屋街で、マッチ、靴、洋傘、帽子、コーヒーなどが、ひかり輝くような高級輸入品として売られていました。

    なかでも人気だったのが「石鹸」でした。
    もともと石鹸は、安土桃山時代に「しゃぼん」の名で日本に入ってきたもので、このことは慶長元(1596)年8月の石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状で確認できます。
    もっともその時代から江戸時代まで、石鹸は超高級品で、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことです。

    もっとも安土桃山時代にやってきたスペイン人たちが、なによりも驚いたのが日本人の清潔さだったそうで、日本人はそれまで訪れたアジアの国々ともまったく違っていて、毎日風呂に入り、灰汁や米ぬか、豆の粉末をお湯で溶いたものなどを泡立て、へちまの筋や手ぬぐいなどで体をこすって入浴する。
    人も町も清潔なことに、たいへんな驚きをみせています。

    ちなみにスペインのイザベラ女王といえば、コロンブスの新大陸発見(1492年)のスポンサーとなった女王として有名ですが、この女王の自慢が、「生涯に二度、風呂に入った」ということだったそうです。
    「生涯で二度」です。
    一回目が生まれたとき。
    二度目は、結婚するときです。
    イギリス女王、のエリザベス一世は、無敵艦隊でスペインを凌(しの)ぎ、世界一の文化の高さを誇った人ですが、この女王の自慢が、三か月に一度しか風呂に入らないこと。

    これは宗教上の理由で、肉体は汚れたものだからキレイにすることはイケナイコトとされたという背景があったようです。
    肉食で風呂に入らなければ、よほどにおったのではないかと心配になりますが、ヨーロッパは空気が乾燥しているので、香水を付けるだけであまり臭いとは感じられなくなったようです。

    これに対し日本は高温多湿ですから、風呂にでもはいってさっぱりしなければ、体がベトベトしてどうしようもない。
    お湯につかったり、沐浴したり、だから古代から日本人は風呂好きでした。
    ついでにいうと、韓国には近代になって日本が統治するまで風呂も入浴の習慣もありません。

    明治時代になって鎖国が解かれると、黒船の時代で海運力が増大し、また、西欧列強が東亜諸国にまで進出していた関係で、石鹸を輸入するのも、遠くヨーロッパから運んでくるのと違い、東亜の植民地化された近隣諸国から運んでくるだけでしたので、石鹸の値段が安くなったのです。
    おかげで、またたく間に石鹸が庶民の間に浸透しています。

    もっとも、そうはいっても輸入モノです。
    爆発的な人気だけれど値段が高い。

    そこで明治三年には大阪と京都に官営の石鹸工場が建設され、民間でも明治六年に横浜で和製石鹸の製造が始まったのですが、この石鹸の出来はイマイチでした。
    原料となるヤシ油や苛性ソーダ、香料の入手が困難だったためで、結局国産品は洗濯石鹸くらいにしか使えなかったのです。

    長瀬富郎は、ここに眼をつけました。
    奉公先の荒物屋「若松屋」を一年あまりで退職すると、郷里に戻って資金を工面し、明治20(1887)年に、馬喰町の裏通りに間口二間(3m60cm)で「長瀬商店」を開いて、石鹸の卸売を始めたのです。

    このとき富郎、24歳です。
    商売は順調で、馬喰町の升屋旅館の三女なかとも結婚もし、商いは文房具、帽子、ゴム製品などにも広がって行き、一年後には表通りに店を構えるまでに発展しました。
    富郎のおもしろいのは、この時すでに複式簿記による詳細な損益計算書も発行していることです。
    とかく信用はこうした金銭に対するまじめさから生まれる。

    長瀬商店の主要品目は、アメリカ製の石鹸です。
    仕入れれば売れました。
    ところが、これがなかなか入手できない。
    一方で国産石鹸は粗悪で、納品しても苦情がきて返品されてしまう。
    当時は返品は問屋が、かぶったのです。

    富郎はここに目をつけました。
    良質な石鹸を作ることができれば、それこそ右から左に売れるのではないかと考えたのです。

    時を同じくして、国産石鹸の仕入先メーカーから、石鹸職人の村田亀太郎が退職しました。
    富郎は、亀太郎に、長瀬商店専属で石鹸をつくらないかともちかけます。
    そして友人で薬剤師の瀬戸末吉に分析の基礎を習いながら、亀太郎と二人で石鹸の原料や香料を調合に没頭します。

    完成までは一年半かかりました。
    ついに絶対の自信作の石鹸が完成しました。
    かねてお世話になっていた高峰壌吉博士(ジアスターゼを発見した世界的化学者)にも分析結果を書いてもらいました。
    製品はろう紙で包み、分析結果の紙を添え、さらに自分で描いた「花王」月のマークの図案を印刷した上質紙で、ひとつひとつの石鹸を丁寧に巻きました。
    そして桐箱に三個づつを入れ、一箱35銭で売りだしたのです。

    当時、アメリカ製の高級石鹸ですら、1ダースで28銭でした。
    つまり三個で35銭というのは、飛びぬけて高価です。
    富郎は、自信作の石鹸を、高級舶来品のようなブランド商品として売り出そうとしたのです。

    狙いは当たりました。
    桐箱入り花王石鹸が、贈答用に重宝されたのです。

    富郎はさらに、高級ブランド品販売に際しての景品にも着目します。
    石鹸を売るために、風呂敷、うちわなどを配布した。
    さらに宣伝には、全国の新聞に積極的に広告を掲載しました。
    鉄道沿線にある野立看板による広告も、花王が最初です。
    鉄道網が全国に広がり、野立看板は、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に広がります。

    また、劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布などもしています。
    高級品にして粗利率を高めた分、宣伝費を多くかけたのです。

    そして石鹸の大当たりから、薬剤師の瀬戸の指導のもとで、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始しました。
    ちなみに富郎は、明治の末期(明治41年)には、広告に、稀代の美人芸妓とされた萬龍を起用しています。
    この萬龍という女性は、赤坂の芸子で、日露戦争の際に、出征兵士のために慰問用絵葉書で大人気を博し、明治41(1908)年には、文芸倶楽部誌の「日本百美人」投票で一位になった女性です。

    萬龍を起用した花王石鹸のポスター(明治41年)
    萬龍01


    萬龍の写真
    萬龍02


    富郎は、花王石鹸の成功を受けて、明治33年には、化粧水「二八水」も発売しました。
    この頃、花王石鹸の成功を真似て、偽物の「香王石鹸」なるものが出回りました。
    ところが富郎のすごいところは、「花王」だけでなく、事前に「香王石鹸」でも商標登録をとっていたのです。おかげで富郎が勝訴。
    偽物を撃退しています。

    明治28(1895)年には、花王石鹸は4.4万ダース、金額にして3万円を売り上げました。
    明治29年には、東京・向島に新工場を建設。
    明治40年には、売上10万円を突破。

    しかし、富郎は、それまでの過労が重なり、明治43年には床につくようになり、明治44(1911)年に、48歳の若さで、この世を去ります。

    亡くなる直前、長瀬富郎は、長瀬商店を合資会社長瀬商会に改組しています。
    合資会社長瀬商会が、花王石鹸株式会社に改組したのは、富郎没後の大正14年のこと。
    現在の社名「花王株式会社」に社名が変わったのは、昭和60年のことです。

    自分が儲かれば良いというのではなく、どうしたらより多くの人々に喜んでいただけるのか。
    そのことを一途に追求した、血を吐くような努力と精進の人生が、花王の創業者長瀬富郎の創業精神です。
    長瀬富郎は、過労のために48歳の若さでこの世を去りました。
    けれど、その創業精神は受け継がれ、儲かっている会社を貶めて奪って横取りして経営者だけが利益を掠め取る会社とはまったく対局に位置する自立した企業として花王は、次々と創意工夫を重ねた新製品を世に送り出した会社だったのです。

    花王という会社が大企業になれたのも、創業社長の命まで縮めてしまうほどの「不断の努力」と「知恵」と「人の和」にあったのだと思います。
    最近は、その花王の経営陣が、日本人のような顔をして日本語を話すけれど日本人ではない集団に乗っ取られ、すっかり社風が変わってしまったと言われています。
    けれど、もともとの花王は、常に身を正しながら、すこしでも消費者に喜んでもらえる製品を、全社一丸となって作っていこうと努力する会社でした。

    世の中には、「◯の法則」と呼ばれるものがあるのだそうです。
    その法則によれば、「◯流」に染まれば、一時的には成功が見られるかもしれないけれど、長い目で見れば、そういう会社は、必ず馬脚を表わし、失脚する。
    なぜなら、そこにあるのは、常に「自分さえよければ」という身勝手という名です。

    創業社長の命まで縮めてしまうほどの「不断の努力」と「知恵」と「人の和」。
    花王に限らず、それこそが、世界に冠たる成長を成すことができた日本企業の原点です。

    けれど、それだけでは、長瀬富郎を学んだことにはなりません。
    よく考えていただきたいのです。
    長瀬富郎は、何のために努力をしたのでしょうか。
    その努力の方向は、どこを向いたものであったのでしょうか。

    長瀬富郎は、製品を通じて、お客様とのコミュニケーションを図ろうとしていたということに、お気づきいただけたでしょうか。
    西洋風のマネジメントは、計画、組織、統制、効率を言います。
    けれど、そこで言われていることには、支配と隷属の関係しかありません。

    長瀬富郎の事業は、製品の開発から、広告宣伝に至るまで、一貫して社員や顧客との理想の共有であり、喜びの共有です。
    これを文化と言います。

    文化を作れるのは思想です。
    その思想の元になるのが歴史です。
    だから、神話は文化です。

    商売とは、価値を創造するものです。
    創造とは差別化であり、それは新たな文化を作ることです。
    長瀬富郎は、石鹸という文化を創造し、これを使うコミュを築造しました。

    つまり長瀬富郎が築いたのは、石鹸という商品ではなく、その商品を通じた価値の創造であり、差別化であり、新たな文化の創造であったのです。

    今、混迷の時代にあって、どこの企業も商店も、これまでのマネジメントが、まったく通用しなくなっていることをご実感されているものと思います。
    そんな時こそ、原点です。
    製品やサービスを通じて、いかにお客様とのコミニュケーションを図るのか。
    いかに社内のみんなで理想を共有するか。

    その答えは、シラス国に元から備わる文化にあります。


    ※この記事は2010年5月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    《倭塾の日程》
    2121年11月27日(土)13:30 第88回倭塾(於:タワーホール船堀研修室)
     https://www.facebook.com/events/819411838658553
    2022年1月22日(土)13:30 第89回倭塾(於:東大島文化センター第一研修室)
     https://www.facebook.com/events/1516355935411730
    2022年2月23日(水・祝)13:00〜16:30 第89回倭塾 タワーホール船堀4F401号室
     https://www.facebook.com/events/579487736653084


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                   

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 日本初のコンタクトレンズ 水谷豊博士


    ◆◆ニュース◆◆
    新刊『日本建国史』発売中。
    https://amzn.to/2LuOGgX

    Amazonベストセラー1位(古代日本史)


    知恵も知識も神々からの授かりものです。
    授かるためには、この瞬間にどこまでも誠実であろうとする姿勢こそが求められる・・というのが古事記の教えです。
    ここは水谷博士の誠実とともに、私達がいまを生きるうえにおいても大切な事柄だと思います。
    そこから外れると天罰を受けます。

    20190921 水谷豊博士
    画像出所=http://mazba.com/5014/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    コンタクトレンズをお使いの方は多いと思いますが、実はコンタクトの歴史はけっこう古くて、記録にあるのは1801年、日本では江戸の中期で、ちょうど高田屋嘉兵衛が択捉島(えとろふとう)の開拓をした頃、英国の物理学者トマス・ヤングがコンタクトレンズの実験を行っています。

    トマス・ヤングといえば、弾性体力学の基本定数ヤング率を発見したり、エネルギー (energy) という物理用語を最初に用いてその概念を導入、あるいはピアノの調律法のヤング音律を考案したり、エジプトの象形文字の解読なども手がけたりたりした、ひとことでいえば、まさに天才と呼べる人です。

    名称のコンタクトの方は、少し遅れて、ドイツの生理学者のフィックの甥が名付けた「Kontaktbrille」からきています。
    そしてそのフィックが、明治20(1887)年に、ガラス製のコンタクトレンズを作成しています。

    もっともこのころのコンタクトは、まだ度はありません。
    度がつけられるようになったのは、昭和11(1937)年ですから、ほんの最近のことです。

    日本では、昭和24(1949)年に、名古屋大学病院の水谷豊博士が、日本初の臨床実験を行っています。
    水谷豊博士というのは、愛知県名古屋市出身の方で、生まれは大正2(1913)年です。
    もともと眼科医の家庭に生まれ育ったのですが、三男の末っ子だったため、後に水谷家の養子となりました。

    幼いころからとても勉強好きな子で、40度の熱があっても、教科書を話さなかったといいます。
    そして地元の旧制第八高等学校を経て、名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)を卒業し、大学の付属病院の眼科医になりました.

    さて、昭和24(1949)年、まだ戦後の焼け野原からようやく復興の兆しが見え始めたくらいの頃、この年の11月に、水谷医師のもとに、ひとりの高校生とその母親が訪れました。
    高校生を診察してみると、右眼、左眼ともに視力は0.1に満たない。
    病名は「円錐角膜」と診断されました。

    「円錐角膜」は、眼球の角膜の中心部が円錐状に突起してしまう病気で、物が変型して見えたり、二重に見えたり、眩しく見えたりする病気です。
    人種によらず1万人に1人くらいの発症率の病気です。
    この病気は、角膜そのものの異常ですから、通常の近視と違って、メガネでは矯正できません。

    水谷医師は、処方に困ったのだけれど、「成績も落ち、神経質になっている。家庭も暗くなっている。」という親子の悲痛な訴えに、ドイツの医学書に、ガラス製のコンタクトレンズで円錐角膜の患者の視力が矯正できたという記事があったことを思い出します。
    そして「似た物を作ってみましょう」と返答をしたのです。

    水谷博士は、コンタクトレンズの材料として、当時出回り始めていたプラスチックを使うことを思い付きました。
    プラスチックならガラスのように割れることもなく安全性が高いからです。

    ちょうどこの頃、アメリカでプラスチック製のコンタクトレンズが作られ始めていたのだけれど、戦争直後でまだ占領下にあった時代です。
    そんな情報は水谷医師のもとには届きません。

    水谷医師は、知り合いの歯医者に相談して、プラスチック製の義歯を作る技術を教えてもらいました。
    これは、型を取ってプラスチックを成形する技術です。
    そして毎日の勤務を終えた後、自宅の台所で100度近い熱湯を使ってプラスチックを成形し、レンズを切り出す作業に悪戦苦闘します。

    この時代、戦災で目をやられた人は多く、眼科医にかかる患者の数もものすごく多かった。
    しかも、眼科医といえば、極度に神経を使う仕事です。
    通常の勤務だけでも、そうとう疲れるものです。

    それを水谷医師は、たったひとりの高校生の患者のために、夜な夜な睡眠時間を削って、コンタクトレンズの試作をし続けたのです。

    36歳の医師とはいえ、終戦直後の決して栄養状態の良くない時期のことです。
    毎日大学病院を訪れるたくさんの患者を相手にしながら、たった一人の患者のために睡眠時間を削ってする日々は、大学病院側からすれば、決して望ましい姿とはいえません。

    水谷医師は、大学病院を辞めて眼科医を開業し、日中、患者の手当をしながら、それでも毎夜、コンタクトレンズの作成に心血を注ぎました。
    そして1年半が経った昭和26(1951)年の春、ようやくコンタクトレンズが完成したのです。

    水谷医師は、軽い麻酔をかけながら、患者の高校生に約束通りコンタクトレンズを装着させました。
    矯正された視力は、なんと右眼0.9、左眼0.4という驚きの結果となりました。
    患者が視力検査表を暗記しているのではないかと疑ったほどだったそうです。
    これが、日本で最初にコンタクトレンズが完成した瞬間でした。

    コンタクトレンズの最初の使用者となったこの高校生は、後に公務員となって無事に暮らし、後年、テレビ番組「トリビアの泉」に出演した際に、「目の前が明るくなり、感動した」とコメントしています。

    その後、水谷医師は、昭和33(1958)年に、兄の加藤春雄と組んで、コンタクトレンズメーカーである「合名会社日本コンタクトレンズ研究所(株式会社日本コンタクトレンズ、略称:ニチコン)」を創業しました。
    そして以後、コンタクトレンズの普及に努めるとともに、酸素透過性レンズや角膜疾患用レンズの開発などの改良を進め、コンタクトレンズの発展に貢献しました。

    水谷豊博士は、昭和50(1975)年には、日本医師会最高優功賞を受賞、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれるようになり、平成3(1991)年、78歳で永眠されました。

    いま、たくさんの方が、コンタクトレンズのお世話になっていますが、そのコンタクトレンズには、たったひとりの高校生のために、夜な夜な心血を注いで戦った、ひとりの青年医師の心の戦いがありました。

    どんな成功も、はじめの一歩は必ず
    「誰かのために」
    から始まります。
    それ以外にも「論点ずらし」をはじめの一歩にした国や民族もありますが、千里の道も、はじめの一歩の踏み出す方向が、ほんのすこしでもズレていたら、千里先には大きな過ちが待っているものです。
    だからこそ、はじめの一歩は、「誰かのために」という誠意と努力から始めなければならないし、「誰かのために」であるから、その先に成功があるのだと思います。

    そして成功のために、かならず付いて回るのが、その前にある苦労です。
    そしてその苦労が追い詰められたものであればあるほど、あきらめずに頑張り抜いた先に、大きな成功があります。
    なぜ成功するのかといえば、その苦労が誰かひとりのために役立とうという誠実と誠意に基づくからです。
    誰かひとりに役立つものであるならば、それが千人にひとり、万人にひとりに対して役立つものでしかなかったとしても、いずれは必ず多くの人々に受け入れられ、役立っていくことができるのです。

    どこまでも誠意誠実をつらぬくこと。
    それが嘘偽りのない正しい選択であれば、必ず神仏はみていてくださる。
    そんな昔から言われていることを、水谷博士のコンタクトレンズはあらためて教えてくれています。

    一方、たいへん残念なことに、水谷博士が創業した株式会社日本コンタクトレンズは、2016年に倒産してしまいました。
    その後、民事再生の手続きを取りましたが、結局昨年(2018年)5月に破産に至りました。
    原因は、使い捨てタイプのコンタクトレンズの普及に出遅れてシェアを失ったことによるといわれていますが、それは表層的な見方ではないかと思います。

    水谷博士の行った誠意誠実は、どこまでもひとりのために役立とう、困っている人をなんとかしようということにありました。
    それが企業化していき、コンタクトレンズの市場の広がりとともに業容が拡大し、いつのまにか売上が目的となり、誠意誠実が、個々の社員のなかにはあっても、企業としてはやや失われていった。
    もっと人々に役立つためには。
    もっと利用者に喜ばれるためには。
    もっと顧客に安心して利用していただくためには。
    そういった、企業としての原点を失った(関係者の方、ごめんなさい)ところに、失敗の本質があったのではなかったかという気がします。

    過去の栄光にしがみついても、結果が出ることはありません。
    未来の夢ばかりを追っても、良い結果は生みません。
    いま、この瞬間に、どれだけ誠意をこめて、多くの人によろこばれる仕事をするのか。

    知恵も知識も神々からの授かりものです。
    授かるためには、この瞬間にどこまでも誠実であろうとする姿勢こそが求められる・・というのが古事記の教えです。
    ここは水谷博士の誠実とともに、私達がいまを生きるうえにおいても大切な事柄だと思います。
    そこから外れると天罰を受けます。
    水谷博士と、その後のコンタクト社は、そのことを教えてくれているのではないでしょうか。

    ※参考:日本で最初のコンタクトレンズの話
    http://www.nipponcl.co.jp/comp/co03.html


    ※この記事は2011年9月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

     最新刊
     

    《塾・講演等の日程》
    どなたでもご参加いただけます。
    2121年 9月18日(土)13:30 第86回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
      https://www.facebook.com/events/453891059222691
    2121年10月16日(土)13:30 第87回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
      https://www.facebook.com/events/353975019698439
    2121年11月27日(土)13:30 第88回倭塾(於:タワーホール船堀研修室)
      https://www.facebook.com/events/819411838658553


    20200401 日本書紀
    ◆ニュース◆
    最新刊『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』2020/9/19発売。
    『[復刻版]初等科国語 [高学年版]』絶賛発売中!!
    『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』絶賛発売中!!
    『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』絶賛発売中。


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                 

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 乃木大将をマサダ砦の戦いから考える


    8月14日(土)に靖國神社昇殿参拝を行います。
    受付開始は13時から。靖國神社参集殿正面入口前です。お志のある方、どなたでも参加可です。皆様のご参加をお待ちします。
    詳細は → https://nezu3344.com/blog-entry-4963.html

    幼年時代の裕仁親王殿下は、御進講にやってきた乃木大将に、「院長閣下は、どこか遠いところへ行かれるのですか?」とお尋ねになられました。それを聞いた瞬間、乃木閣下は、顔を滂沱の涙で濡らしたそうです。そして翌日、乃木閣下は奥様の静子とともに明治天皇のお側に旅立たれました。享年六十二歳でした。

    20210724 乃木大将
    画像出所=https://yamato81.hatenablog.jp/entry/2015/04/03/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    十九 マサダ砦と旅順要塞・・・乃木希典

    ▼乃木大将
     乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将は、明治日本を代表する日本の陸軍軍人で、日露戦争における旅順要塞戦(りょじゅんようさいせん)を勝利に導き、幼年時代の昭和天皇の教育係をお勤めになられた方でもあります。東京港区の乃木坂の名前の由来も乃木将軍からいただいています。

     長州藩の武家の出で、生まれは江戸にある藩の上屋敷(かみやしき)でした。幼名は「無人(なきと)」と言いましたが、虚弱で泣き虫だったため近所の子らから「泣き人(と)」とあだ名されました。そんな我が子に、ある冬の朝、無人少年がひとこと「寒い」と言ったことから、父は彼を井戸端(いどばた)に連れていき、冷水を浴びせました。戦前の国定教科書に載っていた話です。乃木大将がまだ七歳だったときのことでした。その父は藩の跡目(あとめ)相続紛争に巻き込まれて閉門(へいもん)減俸(げんぽう)処分となって国に帰らされるのですが、故郷に帰って元服しても無人少年は、相変わらず泣き虫であったといいます。それでも無人少年は、学者になることを志(こころざ)して、家を出て藩校の明倫館(めいりんかん)に入り、一生懸命に努力して剣術も目録伝授の腕前にまで上達しました。

     そして明治維新の戊辰戦争を戦い、明治新政府の陸軍教官となり、明治四年に名を「希典(まれすけ)」と改めています。そして福岡の秋月藩の反乱、西南戦争を戦ったあと、薩摩藩医の娘であった静子と結婚しています。その後日清戦争では、当時の旅順要塞を一日で陥落させるという武功をあげ、戦後処理で台湾が日本の領土に編入されたときに三代目の台湾総督となり、明治三十七年《一九〇四年》、日露戦争の勃発(ぼっぱつ)により、第三軍の司令官《大将》として戦地に赴任(ふにん)しています。

     乃木大将は、戦前戦中までは、我が国の子たちの「尊敬する人物」で、常にベスト3に入っていた人物です。けれど戦後司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」が、乃木大将が担当した日露戦争の旅順要塞戦《日清戦争のときの旅順要塞戦とは異なる》において、およそ四ヶ月半の戦いで勝利はしたものの一万五千を越える戦死者を出したことから、乃木大将は歴史上稀(まれ)に見る無能な将軍とのレッテルが張られて、今日(こんにち)に至っています。
     しかし旅順要塞戦は、小説が規程(きてい)したような、生易(なまやさ)しい戦いではなかったのです。

    ▼要塞戦のおそろしさ
     要塞(ようさい)は、戦略上重要な拠点を確保するために築く恒久的な軍事建造物です。高度な耐久性と防御力を有し、まさに難攻不落に築城することから、「陣地」と区別して「要塞」と呼ばれます。もちろん「城」とも異なります。城は行政機能を持つけれど、「要塞」はそれを持たないからです。
     築かれる場所は戦略的要衝(ようしょう)でから、当然そこは激戦地となります。

    「セヴァストポリ要塞」という有名な要塞があります。ここは黒海の北側に面し、アゾフ海と分かつ戦略上の要衝地です。この要塞は、安政元年《一八五四年》から安政三年《一八五六年》に行われた「クリミア戦争」と、昭和十六年《一九四一年》からはじまる第二次世界大戦と、二度に渡る大激戦が行われています。

     まず「クリミア戦争」ですが、この戦争はヨーロッパでは、ナポレオン後に起こった第二次世界大戦に匹敵する大戦争とされています。なにしろフランス、大英帝国、オスマン帝国、サルデーニャ王国と、とロシアが戦い、戦火は、ドナウ川周辺、クリミア半島、からカムチャツカ半島にまで及んだのです。そしてこの戦争で最大の激戦が行われたのが「セヴァストポリ要塞戦」でした。

     当時、ロシアの黒海艦隊は、セヴァストポリを根拠地としていました。当時の戦闘艦隊は蒸気船です。海に出れば無敵の艦隊でも、港に停泊したら次に出航するまで、釜を焚(た)いてエンジンが暖まるまで、ものすごく時間がかかりました。また当時の大砲にはジャイロスコープが付いていませんから、揺れる船からの砲撃は命中しにくい。けれど陸上からの砲撃は正確です。つまりロシアの黒海艦隊は、稼働中は超強力だけれど、停泊中に攻められたら、あっという間に艦隊が全滅してしまう危険があったのです。そこでこの艦隊を守るためにロシアが築いたのが、難攻不落のセヴァストポリ要塞でした。

     セヴァストポリ要塞は、要塞そのものがあらゆる砲撃に耐えうる堅牢な造(つく)りであることに加え、周囲に数千のトーチカがはりめぐらされ、万一敵がそのトーチカ群を突破して要塞に達したとしても、要塞内部にに二重の堀がめぐらされ、その掘には、上向きの槍を連ねた落とし穴まで用意されていました。しかも要塞内部は迷路状になっていて、迷路に迷った敵兵は、壁から繰り出される銃弾で、全滅させられるようになっていました。つまり、セバストポリは、難攻不落の要塞だったのです。

     安政元年《一八五四年》十月十七日に、英・仏・オスマン帝国の連合軍十七万五千が襲いかかりました。ロシアの要塞守備隊は八万五千です。背後に海を控えていることから、ロシア守備隊は後背から補給を得ることができましたし、ロシアの黒海艦隊も、敵に向かって艦砲射撃を繰り返すことができました。これに対し連合軍は、砲撃と歩兵突撃によって、トーチカをひとつひとつ奪い、徐々に要塞に迫りました。

     そして戦いは、ほぼ一年にわたって続きました。最終的に要塞が落ちたとき、連合軍側の死者は十二万八千名、ロシア側の死者十万二千です。両軍合わせて、なんと二十三万人の死者が出ています。繰り返しますが、要塞ひとつに二十三万人です。青年期の男たち二十三万人の死というのは、百万都市ひとつの壊滅に等しい。要塞戦というのは、それほどまでに過酷なものなのです。

     二度目のセヴァストポリ要塞戦は、クリミア戦争の八十七年後の昭和十七年《一九四二年》六月、ナチス・ドイツと、ソビエト連邦との戦いとして行われました。ソ連はセヴァストポリ要塞を、当時考えられるあらゆる方法を用いて、世界最強の要塞として防備を厚くしていました。そこにナチス・ドイツのクリミア半島の制圧を任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる第十一軍がやってきました。

     エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥という人は、第二次世界大戦における世界の陸将の中で、最も有能な将帥の一人として知られている人です。彼は西方電撃戦の立案者でもあり、クリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、スターリングラード攻防戦後に優位に立ったソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させている人物です。また総統のヒットラーに対してもはっきりと意見を開陳する数少ない将軍であり、その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、タイム誌でも醜悪な顔に描かれることなく、常に毅然とした顔で表紙を飾り「我らの最も恐るべき敵」と評された、そういう人物です。その世界の陸将のなかでもとびきり優秀とされるマンシュタイン元帥が、ナチス・ドイツの超精鋭である第十一軍を率いて、セヴァストポリ要塞を囲んだのです。

     囲を受けたソ連軍は、セヴァストポリの防衛のため、黒海艦隊から海軍陸戦隊をケルチ半島に上陸させる。ソ連上陸部隊は、クリミア半島東端のケルチにいたドイツ歩兵師団を包囲し、これに対して猛攻撃を加える。放置しておいたらケルチ歩兵師団は全滅し、セヴァストポリ包囲隊は、退路を断たれてしまうからと、マンシュタイン元帥は、セヴァストポリの包囲を解いて反撃に出る《トラッペンヤクト作戦》。ソ連軍は両側を海に挟まれた細長い地形を利用し、何重もの防衛線をひいて、これを阻止する。八か月もの長きにわたって続いたこの戦いで、ソ連は十七万の兵士を失いましたが、それでもここまでは通常の陸戦であり、セヴァストポリ要塞戦の前哨戦でしかなかったのです。

     昭和十七年《一九四七年》六月七日、ドイツ軍は再びセヴァストポリを包囲します。これを待ち構えたソ連軍は、要塞の守備のために多数の巨大砲塔を要塞北面の据え付けて待ち構えていました。この砲塔は戦艦の主砲を陸上に設置したもので、地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられており、しかも周囲にはトーチカ群が設けられており、いっさいの敵を寄せ付けないつくりとなっていました。砲弾の威力は、要するに艦砲射撃そのもので、人間の背より高い巨大な炸裂弾(さくれつだん)が、ドイツ軍に雨のように降り注ぎました。しかも海上からの砲撃と異なり、固定した陸上からの砲撃は、狙いが正確です。離れて包囲すれば巨大砲弾にやられ、近づいて爆破しようとすれば、群がるトーチカ群からの機銃攻撃によって射殺される。

     マンシュタイン元帥は、近隣から新旧・大小問わず千三百門もの大砲をかき集めて猛砲撃を加えます。さらにドイツ本国から八十cmの「列車砲(れっしゃほう)グスタフ」を持ち込む。グスタフは鉄道のレールの上に設置する直径八十センチ、口径四〇センチの巨大砲で、最大射程四十七キロです。列車砲ですから旋回できないという問題はあるけれど、マンシュタインは鉄道のレールそのものをゆるやかにカーブさせることで、射角を確保しています。

     戦艦から取り外した主砲を陸上に備え付けた「巨大砲」対「グスタフ列車砲」の戦い。巨大砲弾が飛び交う砲撃船で、砲塔の移動が可能なドイツ列車砲が、次第に威力を発揮します。マンシュタイン元帥は、グスタフ砲で開けた突破口から、短射程の砲を突入させてトーチカを破壊、そこに歩兵を突入させるという方法で、しらみつぶしにひとつひとつの敵陣地を撃破します。さらにロケット砲によるトーチカ攻撃、さらには急降下爆撃機による空襲も加え、周辺のソ連巨大砲塔軍に戦いを挑みます。この攻撃はまる五日間も続き、これによってマンシュタインの第十一軍は、セヴァストポリ要塞北面のソ連軍陣地を全て破壊します。

     そしていよいよセヴァストポリ要塞に迫る。戦うこと二週間、セヴァストポリ要塞は陥落しました。この戦いに、ナチス・ドイツが投入した兵力は三十五万人以上です。そして戦死者は、この戦いだけで十万人以上です。三十五万人を投入して、兵の三分の一が死亡したのです。要塞戦というものは、それほどまでに過酷なものなのです。

     もうひとつ、忘れてはならない要塞戦をご紹介します。フランスの「ベルダンの戦い」です。
     この戦いは、第一次世界大戦の最中の大正五年《一九一六年》二月二十一日に始まり、両軍合わせて七十万人以上の死者を出した戦いです。戦ったのはナチスになる以前のドイツ帝国軍とフランス軍です。

     ドイツ帝国軍は重砲八百八門、野砲三百門でベルダン要塞に猛烈な砲撃を加えました。午前七時から始まったこの砲撃は、午後四時まで、まる十時間も続けられました。それが一箇所の要塞に向けて行われたのです。

     そして正面から歩兵が突撃しました。通常、歩兵部隊の突撃は、敵前百メートルの位地から行います。ところが、このときのドイツ帝国軍は、これを五百メートルの位地から行いました。さらに横方向からも蚕食的な攻撃を行う。これにより、翌日にはドイツ軍はフランス軍第一陣地の三拠点を奪い、翌日には隣接する両翼の二拠点を奪い、四日目には第二陣地を突破し隣接する数拠点を占領しました。そして第三陣地の一部であるドォーモン堡塁(ほるい)を占領する。

     初戦の敗退に危機感を抱いたフランス軍は、二十二日、第二線師団を招いて逐次(ちくじ)第一線師団と交代(こうたい)させ、新鋭部隊でドイツ軍に対抗します。さらにベテランのペタン将軍を招いて戦意を向上させ、徹底抗戦を図ります。両軍はミューズ川をはさんで激しい争奪戦を行いました。六月七日、ついにドイツ帝国軍がヴォー堡塁を占領するけれど、増援にやってきた英国軍がドイツ軍の背後をうかがうようになる。

     八月にはいると、フランス軍が反転攻勢に出て、十月二十四日と十二月十五日の総攻撃で、フランスは、ドォーモン堡塁とヴォー堡塁などの失地を回復します。

     このベルダンの戦いにおける死者は、フランス軍三十六万二千人、ドイツ軍三十三万六千人、合わせて六十九万八千人です。近代戦における要塞戦というものは、かくもすさまじい戦いなのです。

     そして、ソ連のスターリンが、ご紹介した「セヴァストポリ要塞を六つ合わせたほどの堅牢な要塞」と評したのが、旅順要塞だったのです。乃木大将はそんな旅順要塞を、わずか五万の兵力、一万五千の損耗で制圧したのです。これは世界の陸戦史上、ありえない戦闘だったのです。日本国内の戦後の小説がどうあれ、世界の陸戦史では、乃木大将は、間違いなく世界の陸戦史に残る名将なのです。

     乃木大将の功績は、ただ戦いの勝利にとどまりません。旅順要塞の降伏調印式に際して、破れた側のロシア側の将軍ステッセルに帯剣(たいけん)を許して、将軍の名誉の保持を図りました。さらに一万五千の死者を追悼するために、全国の神社に「忠魂碑 希典」と書いた石碑を寄贈し、さらに石碑の後ろ側にはその地元で日露戦争で戦没した兵士たちの名を、全員刻(きざ)まれました。さらに乃木大将は、自費で戦傷によって腕を失った兵のためにと、たいへんな義手をこしらえられています。

     実は乃木大将ご自身が戦傷者でした。左目は事情あって幼い頃に失っていましたが、激しい戦闘で片腕、片足に銃創を負い、不自由な体となっていました。その乃木将軍は日露戦争のあと、
    「私は片手、片足が残っているからまだ良い。食事もできるし、タバコも吸える。けれど戦争で両手を失った者は、一服の清涼剤としてのタバコも吸えぬのは、あまりに可愛そうだ」と、ご自分の年金を担保に入れてお金をつくり、ご自身で試行錯誤の上、ついに、モノを掴んだり、持ち上げたり、食事やタバコまで吸うことができ、字や絵も描ける、そんな、まさに夢のような義手を完成させて、腕を失った元部下たちに無償で配っています。

     このようなことを申し上げると、現代の最先端の医学でさえ困難なのに、そのような大昔に、そんなすごい義手などできるわけがない、とみなさんは思われると思います。筆者も最初に話を聞いたときは、そう思いました。ところがそのレプリカが、東京九段下の「しょうけい館」にあるという。そして「本当かウソか、ご自分で実際にやって試して御覧なさい」というので、その「乃木式義手」を実際に装着させていただきました。するとどうでしょう。豆はつまめる。モノは持てる。そしてなんと、字や絵まで、付けた直後から書けてしまうのです。これには驚きました。

     現代の最先端の義手は、筋電義手(きんでんぎしゅ)といって、コンピューター制御によって、卵をつかんだり、握手をするまでは可能です。けれど、文字を書いたり「タバコを吸ったり」といった、微細な動きは、まだできていないのです。それを何と、百年以上もの昔に、しかも私費で作って配布していたのです。

     原理は非常に簡単で、竹製のヘビのおもちゃの要領で左右には曲がるけど、上下には曲がらないという仕様を、上腕を動かすことで実現し、字を書いたり、豆を掴(つか)んだりすることができるようにしています。これを機能式義手と言います。そして機能式の義手や義足は、いまではパラリンピックの選手たちが用いています。それらの義手義足は、見た目は健常者の姿と違いますが、健常者以上のパワーを発揮することができるような仕様になっています。

     開発した乃木大将は、特段その道の専門家ではありません。では、どうして乃木大将にそのようなことができたのかといえば、戦いで傷ついた部下たちに「タバコの一服が吸えるようにしてあげたい」という、あたたかな愛情があるがゆえのことです。幼い頃、泣き虫のイジメられっ子だったがゆえに、乃木大将は逆に大人になったとき、弱い者、傷ついた者の気持ちがわかる大将軍となったのです。

    ▼院長閣下はどこか遠いところへ行かれるのですか?

     大正元年《1912年》、学習院の院長となっていた乃木希典は、明治天皇の御大葬の前々日、願い出て参内し、まだ幼年だった昭和天皇《当時は裕仁親王殿下(ひろひとしんのうでんか)》に、大切なところに朱点をした山鹿素行(やまがそこう)の『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』の御講義をなさいました。

     乃木のただならぬ気迫と様子に、裕仁親王殿下は、
    「院長閣下は、どこか遠いところへ行かれるのですか?」とお尋ねになられました。
    それを聞いた瞬間、乃木閣下は、顔を滂沱の涙で濡らしたそうです。そして翌日、乃木閣下は奥様の静子とともに明治天皇のお側に旅立たれました。

    享年六十二歳でした。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    nezu3344@gmail.com

     最新刊
     

    《塾・講演等の日程》
    どなたでもご参加いただけます。
    第82回倭塾 4月17日(土)13時〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第83回倭塾 5月23日(日)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第84回倭塾 6月26日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第85回倭塾 7月17日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    靖国神社昇殿参拝 8月14日(土)14:00 靖国神社参集殿
    第86回倭塾 9月18日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿



    20200401 日本書紀
    ◆ニュース◆
    最新刊『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』2020/9/19発売。
    『[復刻版]初等科国語 [高学年版]』絶賛発売中!!
    『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』絶賛発売中!!
    『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』絶賛発売中。


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                 

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 二万のユダヤ人と北海道を救った樋口季一郎陸軍中将


    8月14日(土)に靖國神社昇殿参拝を行います。
    受付開始は13時から。靖國神社参集殿正面入口前です。お志のある方、どなたでも参加可です。皆様のご参加をお待ちします。
    詳細は → https://nezu3344.com/blog-entry-4963.html

    北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島(しゅむしゅとう)を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。

    20191121 晩年の樋口季一郎



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

     樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で二万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の五百万の人口を守った昭和の名将です。

    ▼樋口季一郎中将

     樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は明治二十一年《一八八八年》年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋(かいせんどんや)で、大地主の奥濱久八(おくはまきゅうはち)の長男として生まれました。ところが廻船問屋は明治になって蒸気船に押されて衰退(すいたい)。家業が衰退に向かった結果、十一歳のときに両親が離婚。母・まつの実家に引き取られてすごしました。
     樋口季一郎は優秀な子でした。三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、十八歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正七年《一九一八年》には陸軍大学を卒業しています。卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。

     ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。大正十四年《一九二五年》に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。

     昭和十二年《一九三七年》八月、樋口季一郎は関東軍に特務機関長として赴任しました。ここで同年十二月に、ハルビンで内科医をしていたハルビンユダヤ人協会の会長のアブラハム・カウフマン博士《一八八五〜一九七一》の訪問を受けました。カウフマン博士は、
    「ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催をしたいから許可してほしい」と申し出ました。ドイツが猛然と力を発揮していた時代です。けれど樋口季一郎は、これを即決で許可しています。

     十二月二十六日、第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。ゲストとして招待された樋口季一郎は、次の演説を行いました。
    「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何(いづ)れの場所においても『祖国なる土(つち)』を持たぬ。如何(いか)に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人がその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比(ひ)し、劣(おと)ることなき才能と天分(てんぶん)を持っていることは歴史がそれを立証している。
     然(しか)るに文明の花、文化の香り高かるべき二十世紀の今日(こんにち)、世界の一隅(いちぐう)おいて、キシネフのポグロム《注》が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心(ちゅうしん)悲しむものである。
     ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞(どうほう)であるべき人々を追放するという。それを何処(いずこ)へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示(めいじ)し、あらかじめそれを準備すべきてある。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃(やいば)を加えざる虐殺(ぎゃくさつ)に等(ひと)しい。私は個人として、心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
    会場は、万雷の拍手に包まれました。

    《注》キシナウのポグロムとは一九〇三年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。

    ▼オトポール事件
     それから三カ月も経たないうちに起きたのが「オトポール事件」です。
     昭和十三年《一九三八年》三月、ソ連と満州国の国境付近の、気温がマイナス二〇度にもなる極寒のオトポール駅に、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らは着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出した人々でした。旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にありました。
     満州国外交部は、ドイツに遠慮して彼等の入国を拒否しました。これを救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎でした。

     オトポール事件については、樋口季一郎の回想録に詳しく書かれています。
    「満州国(まんしゅうこく)は門戸(もんこ)を閉じた。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯(たむ)ろしている。もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら《ユダヤ難民》の進退は極(きわ)めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも、彼らの通過を許している。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業(ばんみんあんきょらくごう)』を呼号(こごう)する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか」

     この当時、日本は日独防共協定を結んでいましたが、ドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象にしていました。つまり日本がユダヤ人を保護すれば、ドイツはこれを外交上の問題とすることは明らかな状況でした。樋口季一郎はこれを「政治上の問題」ではなく「人道上の問題」とすることで、ユダヤ人を保護しました。

     南満州鉄道の総裁だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、樋口に相談されて直ちに救援列車の出動を命じました。オトポールに近い南満州鉄道の満州里駅は、ハルピンから九百キロ後方にありました。このため列車の本数が少なく臨時列車の派遣が必要であったためです。

     三月十二日、ハルピン駅に最初の列車が到着しました。ハルピン在住のユダヤ人たちがこれを出迎えました。
    彼らは同胞の救出をことのほか喜びました。この特別臨時列車はその後、合わせて十三本運行されました。救われたユダヤ難民は約二万人と伝えられています。救われたユダヤ難民たちは上海に、あるいはアメリカへと旅立って行きました。

     樋口季一郎のこうした対応は、当然ながら外交問題に発展しました。樋口季一郎は一市民ではありません。関東軍の将軍です。ドイツのリッべントロップ外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送りました。
    「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携が日に濃厚を加えつつあることは欣快(きんかい)とするところである。然(しか)るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将(当時)が、ドイツの国策を批判し誹謗(ひぼう)しつつありと。もし然(しか)りとすれば、日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請(こ)う。速(すみ)やかに善処(ぜんしょ)ありたし」

     これに対して樋口季一郎は次の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送しています。
    「私の行為は決して間違っていない。法治国家として当然のことをしたまでである。満州国は日本の属国ではない。ましてドイツの属国でもない。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」

     関東軍司令部に出頭を命じられた樋口季一郎は、参謀総長だった東条英機に会いました。
    「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?」
    そう聞く樋口季一郎に、東条英機は樋口季一郎の意見を全面的に受け入れる決断をしました。

     オトポール事件は、日本国内の新聞では記事になっていません。樋口季一郎の家族でさえ、その死後に事態を知っています。このときの樋口季一郎の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは著作の中で次のように述べています。
    「樋口は世界で最も公正な人物の一人である。
     そしてユダヤ人にとっての真の友人である。」

    ▼キスカ島撤退
     昭和十八年《一九四三年》、北方軍司令官として札幌にいた樋口季一郎は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還(きかん)させるべく大本営(だいほんえい)に談判(だんぱん)し、奇跡(きせき)の撤退(てったい)を成功させました。

     キスカ島は北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。島には日本側の守備隊六千名が残留していました。二ヶ月前には、キスカ島よりも手前にあるアッツ島で、島の守備隊二、六五〇名が玉砕(ぎょくさい)したばかりでした。
     樋口季一郎は木村昌福(きむらまさとみ)海軍中将にはかり、キスカ島守備隊の撤退作戦を行いました。これを「ケ号作戦」といいます。ちなみに、「ケ」というのは、日本軍が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「ケ」は「乾坤一擲(けんこんいってき)」という意味です。

     キスカ撤退作戦は、最初、潜水艦で行われました。この時点で日本海軍は、ソロモン方面の作戦で多数の駆逐艦を失っていたため、これ以上の艦の損耗(そんもう)を避(さ)けたかったのです。
     昭和十八年《一九四三年》六月、十五隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約八百名が後送されました。また守備隊には、弾薬百二十五トン、糧食百トンを輸送することに成功しました。しかし潜水艦が米軍の哨戒網(しょうかいもう)に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦で、「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦では、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」を失なっています。

     成果の割に、損害が多いのです。あまりに効率が悪い。このままでは、全軍の撤退は不可能です。樋口季一郎は、海上に深い霧がかかる7月中に、艦船で撤退作戦を実行するよう、木村海軍中将にはかりました。八月になると霧がなくなり、撤退作戦は不可能になるからです。

     キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があります。制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機がありました。ただ、この当時はまだ目視飛行の時代です。濃霧が発生していれば空襲の危険を避けることができる可能性が増えます。そしてこの頃にはまだ、濃霧の中で空襲をかけることができる航空機は、世界中どこにもなかった時代でした。樋口季一郎は、そこに一縷(いちる)の望みを賭けたのです。こうして二度にわたる潜水艦作戦は打ち切られ、キスカは水上艦艇による第二次撤退作戦となりました。

     七月十日、アムチトカ島五百海里圏外に集結した撤収部隊は、一路キスカ島へ向かいました。Xデーは十二日と決めてありました。
     全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまいました。全艦、いったん突入を断念する。近海の濃霧に隠れて、決行予定日を十三日に変更しました。

     しかし十三日、十四日、十五日と霧が晴れ、突入は断念せざるを得なくなりました。やむなく木村海軍少将は、十五日午前八時二〇分、一旦突入を諦(あきら)めて帰投(きとう)命令を発しています。燃料が底を尽きはじめてしまったからです。
    「帰れば、また来られるからな」
    それが、このときの木村中将の言葉でした。こうして撤収部隊は、十八日に一旦幌筵(ほろむしろ)の基地に帰投しました。

     手ぶらで根拠地に帰ってきた木村海軍少将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、「何故、突入しなかったか!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」と、帰投した木村海軍少将に轟々(ごうごう)たる非難が浴びせられました。「腰ぬけ!」とまで罵(ののし)られました。更迭(こうてつ)の話も出ました。しかし樋口季一郎は、
    「この作戦は、木村でなければならぬ」と、これを一蹴(いっしゅう)しています。

     あと半月で八月になります。八月にはもう霧が出ません。霧が晴れれば、米軍のキスカ攻撃が始まります。そうなれば、キスカの撤収作戦はありえず、キスカ島守備隊は全滅を免(まぬが)れません。一方で、この地域に備蓄していた海軍の重油も底を尽き始めていました。作戦はあと一度きりしか行えない。

     帰投して四日目の七月二十二日、幌筵島(ほろむしろとう)の気象台から、「七月二十五日以降、キスカ島周辺に濃霧発生」との予報がはいりました。最後のチャンスがやってきたのです。木村海軍少将は予報を聞くと同時に、全艦隊に出撃命令を発しました。
     ところが期待の霧が、あまりに濃い。出航が各艦まちまちになったうえ、洋上で三日後の七月二十五日には、「国後(くなしり)」を除く艦隊がいったん集結できたのですが、翌二十六日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如(とつじょ)出現して、「阿武隈(あぶくま)」の左舷(さげん)中部に衝突(しょうとつ)してしまいます。この混乱で「初霜(はつしも)」の艦首が「若葉」右舷に衝突。弾(はず)みで艦尾が「長波(ながなみ)」左舷に接触してしまう。損傷が酷(ひど)かった「若葉」は、艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまいます。

     残った船で、キスカ近郊で待機した七月二十八日、艦隊の気象班が、「翌二十九日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」と予報しました。
    「全艦突入せよ」
    木村海軍少将が命じました。

     艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿ってゆっくり進みました。七月二十九日正午、艦隊はキスカ湾に到達しました。濃霧です。湾内では、座礁や衝突の危険もありました。ところがこのとき、神風が起きました。一陣の風が吹いて、湾内の濃霧をきれいに吹き飛ばしてくれたのです。
     十三時四十分、晴空のもとで艦隊は投錨し、待ち構えていたキスカ島守備隊員五千二百名の収容にとりかかりました。持っている小銃は、全部投棄させました。身軽にして輸送行動を速めるためです。そしてなんと、わずか五十五分という驚異のスピードで、全員を艦内に収容し、収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させて、直ちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱しました。

     艦隊が湾を離れた直後、キスカ湾は、ふたたび深い霧に包みこまれました。それは、まさに神が降ってきたとしかいいようがない収容作戦でした。こうして七月三十一日、無事、全艦、幌筵に帰投しています。


    ▼占守島(しゅむしゅとう)の戦い
     昭和二十年《一九四五年》八月十八日。陛下の玉音放送(ぎょくおんほうそう)の三日後のことです。北海道占領を目的として、ソ連軍が突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。その兵力、およそ八千。同時にスターリンは、千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。

     司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、濃霧の中隊員に訓示しました。
    「諸士、ついに立つときが来た。
     諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如く、この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙(あ)げよ」

     八月二十二日まで続いた戦いの結果、ソ連は三千人もの死傷者を出して敗退しました。一日占守島を占領する計画も水疱(すいほう)に帰しました。大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。

     こうして北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。




    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    nezu3344@gmail.com

     最新刊
     

    《塾・講演等の日程》
    どなたでもご参加いただけます。
    第82回倭塾 4月17日(土)13時〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第83回倭塾 5月23日(日)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第84回倭塾 6月26日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第85回倭塾 7月17日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    靖国神社昇殿参拝 8月14日(土)14:00 靖国神社参集殿
    第86回倭塾 9月18日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿



    20200401 日本書紀
    ◆ニュース◆
    最新刊『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』2020/9/19発売。
    『[復刻版]初等科国語 [高学年版]』絶賛発売中!!
    『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』絶賛発売中!!
    『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』絶賛発売中。


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                 

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 会津藩の中野竹子と瓜生岩子の生涯


    ◆◆ニュース◆◆
    新刊『日本建国史』発売中。
    https://amzn.to/2LuOGgX

    Amazonベストセラー1位(古代日本史)


    戊辰戦争で伝習隊を率いて、最後の最後まで転戦した大鳥圭介。
    戦乱の中で二十二歳の若い命を散らせた中野竹子。その姉の首を掻ききった十六歳の妹の優子。
    会津の戦いで傷ついた兵士の介抱をし、さらに会津の教育再生と福祉に生涯を捧げた瓜生岩子。
    こうした存在が生まれた背景には、やはり当時の徳の高い教育があったのではないかと思います。

    20210722 中野竹子
    画像出所=https://rekijin.com/?p=29058
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

     慶応四年《一八六八年》、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いにより戊辰(ぼしん)戦争が勃発(ぼっぱつ)しました。八月二〇日、会津(あいず)城下を目指した新政府軍は、待ち受ける会津藩の裏をかいて藩境(はんざかい)の母成峠(ぼなりとうげ)から侵攻し、激戦「母成峠の戦い」が行われました。会津藩は、新政府軍が表街道に主力を配備、裏街道にあたる母成峠には、戊辰戦争の初期から転戦してきている播磨(はりま)の赤穂藩(あこうはん)出身の大鳥圭介(おおとりけいすけ)率(ひき)いる伝習隊(でんしゅうたい)を中心とした七〇〇のみを配置していたのです。板垣退助率いる新政府軍の主力部隊二千が殺到しました。

     峠(とうげ)の下で行われた前哨戦(ぜんしょうせん)では、新政府軍の銃撃の前に会津藩兵が潰走(かいそう)するけれど、大鳥圭介率いる戦い慣れた伝習隊と新撰組が戦いを白兵戦(はくへいせん)にもちこみ、新政府軍を敗退させています。

     翌日早朝、濃霧の中を新政府軍は、本体と右翼隊にわかれて峠を目指しました。大鳥圭介は兵力を縦深の陣地に配備し、新政府軍の本体を峠の坂道に誘い込んで白兵戦で新政府軍本体に壊滅的な打撃を与えました。ところがそこに新政府軍が右翼から銃撃を開始する。数にまさる新政府軍本体は、この側面攻撃で勢いを巻き返します。夕方頃にはほぼ勝敗が決し、峠は新政府軍に制圧されてしまう。

     潰走した伝習隊の生き残りたちは、猪苗城(いなわしろじょう)に撤退(てったい)します。しかし城代の高橋権大夫(たかはしごんだゆう)は、少数で小城(こじろ)を護(まも)るより、若松城で殿をお守りするのだと、城に火を放って若松へ向かいます。伝習隊はこれを援け、道中に火を放って敵の進軍を遅らせました。

     八月二十三日、会津藩若松城下に敵侵入の早鐘が鳴り響きました。この日、中野竹子(なかのたけこ)《二十二歳)は、妹の優子《十六歳》らとともに若松城に駆(か)けつました。しかしすでに城門は閉ざされ、彼女たちは入城させてもらえません。そこへ藩主松平容保公の姉、照姫様が会津坂下の法界寺においでになるとの報がもたらされました。

    「照姫様をお守りしなければ!」
    日ごろ鍛錬(たんれん)を重ねた薙刀(なぎなた)道場の娘たちです。竹子らは、娘たちだけでその場で「娘子隊(じょうしたい)」を結成します。すでに彼女たちは、各々の意思で、頭髪を短く切り、頭には白羽二重の鉢巻きをしていました。中野竹子の着物は青みがかった縮緬(ちりめん)、妹の優子は紫の縮緬、依田(よだ)まき子は浅黄(あさぎ)の着物、その妹の菊子は縦縞の入った小豆色(あずきいろ)の縮緬、岡村すま子は鼠(ねずみ)がかった黒の着物で、それぞれが袴(はかま)を付け、腰に大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を手にしていました。

     娘子隊二十余名は、会津坂下の法界寺に向かいます。ようやく寺に着いたが照姫様はいない。やむなく法界寺に宿泊した娘子隊一行は、翌日朝、会津坂下守備隊の家老の萱野権兵衛(かやのごんべい)に「従軍したい」と申し出ました。いくら薙刀の遣(つか)い手の女子(おなご)たちといっても、敵《新政府軍》は銃で武装しています。萱野権兵衛は、
    「ならん!、絶対にならん!、お前たちは城へ帰れ!」と拒否しました。けれど中野竹子らは去ろうとしません。
    「参戦のご許可がいただけないのであれば、この場で自刃します」という。やむなく萱野権兵衛は、翌日になって彼女達を最後尾の衝鋒隊(しょうほうたい)に配属しました。

     八月二十五日、会津城下の涙橋(なみだばし)に、新政府軍《長州藩大垣藩兵》が殺到しました。近代装備と豊富な銃で攻撃してくる新政府軍に対し、守備隊は必死の突撃を繰り返しました。戦いは白刃を交える白兵戦となりました。いつのまにか彼女たちも前線に立ち、男たちに交じって奮戦していました。
     このとき、一発の銃弾が竹子の額に命中しました。額から血を吹かせて中野竹子がドウと倒れました。血が草を真っ赤に染めました。

     息も絶え絶えに竹子は、妹の優子を呼びました。そして「敵に私の首級(くび)を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼みました。十六歳の優子は、とまらない涙をぬぐいながら姉の首を打ち落としました。
     優子は、姉の首を小袖に包んで坂下まで落ち延びました。そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼みました。

     武士(もののふ)の
     猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
     数にも入らぬ我が身ながらも

    薙刀に結びつけてあった中野竹子の辞世の句です。

     竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城して戦いました。
    娘子隊は、彼女たちが自らの意思で戦いました。彼女たちは、なぜ戦ったのでしょうか。それは、自分たちの住んでいる土地に、他所の軍が攻めてきたらです。彼女たちは大切なものを守るために戦いました。鳥羽伏見をはじめ、先に戦争で亡くなった夫や兄たちを殺した連中と、自分たちの意思で戦ったのです。

     ちなみに、会津の娘子隊(じょうしたい)について、会津藩が組織的に女性まで戦わせたようにいう人がいますが、これは違います。若い娘までハナから兵団に加えるということは、会津藩が自ら兵力不足をアピールするみたいなものです。軍学的にもそんなバカなことはしない。あたりまえのことです。

     戦いは市街戦に移りました。燃え上がる炎は城下の家々を焼きました。城に撃ち込まれる大砲。傷つく兵士、血に染まり泣き叫ぶ子供たち。流れ弾丸に斃(たお)れる市井(しせい)の人々。怒号と砲声。うめき声と悲鳴。会津藩の士族は、老幼・婦女子を合わせて千百名です。対する新政府軍は、越後口から進んできた兵も含めて総数1万数千人です。市街地には死体や傷を受けた武士、民間人があふれました。

     その中を、敵味方の区別なく救助し看護する女性がいました。名を瓜生岩子(うりゅういわこ)といいました。当時三十九歳でした。
     彼女は両軍のおびただしい傷病兵を見て、放置しておくに忍びず、傷兵や窮民の介抱に努めました。
    「敵も味方もない。怪我人は怪我人です」
    その働きは新政府軍の大将板垣退助の耳にも達しました。板垣退助は岩子に会おうとするけれど、戦乱の中で、それは叶いませんでした。

     会津若松城の戦いは終わりました。敗戦によって賊軍となった会津藩士の遺体は埋葬も許されないで、町中に放置されました。生き残った者も、家を失い家族を失い、食べる者もありません。子供たちに教育も与えられない。藩校も寺子屋も、いまはありません。あれほど清潔で統制のとれていた会津が荒れ放題になっていました。
     岩子はいたたまれず、新政府の民政局に、幼年学校開設の許可を求め、新政府の民政局に日参しました。そして、せめて子供たちにキチンとした教育を受けさせたい、と嘆願(たんがん)しました。

     毎日通いました。
     半年かかりました。ある日、民政局からようやく幼年学校開設の許可を得ました。岩子は、さっそく私費を投じて校舎を完成させました。そして教師を雇い、習字、珠算などの教育をはじめました。また学校の敷地を利用して、元藩士たちに養蚕(ようさん)などの技術を教え、自力更生の道を開かせています。

     ところが二年後の明治四年《一八七一年》、小学校令発布予告によって、幼年学校は閉鎖を命ぜられてしまいました。私費を投じまでしたのに、岩子はなにもかも失ってしまったのです。。でも岩子はくじけませんでした。
     明治五年、岩子は荒廃と貧困に苦しんでいる会津の人たちを救おうと、ひとり東京に出ました。そして深川の教育養護施設の運営や、児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほどかけて学びました。
     救貧事業をするといっても、岩子自身が一文無しに近い状況でした。帰国するときには、有り金をはたいて魚の干物(ひもの)を買い、その干物を行商しながら街道を下っています。

     会津に帰った岩子は、喜多方(きたかた)の廃寺を無償で借り受け、後を絶たぬ貧窮者に手を差し延べました。こうして岩子は二百余名の孤児の母となり、後半生を社会運動に捧げました。そして岩子は、菩薩の化身とも、日本のナイチンゲールとも称讃され、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、わが国女性初の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章しました。そして明治三〇年《一八九七年》、六十八歳で生涯を閉じました。

     文中登場した大鳥圭介(おおとりけいすけ)は、赤穂(あこう)の人で、徳育を旨とする閑谷(しずたに)学校はに学び、医学と漢学を修めた人です。
     中野竹子も瓜生岩子は、会津藩の什(じゅう)教育を受けて育った女性たちです。「什」には誓ひ(掟)があって、子供たちは、毎日これを大声で復誦しました。

    一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
    一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
    一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
    一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
    一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
    一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
    一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
     ならぬ事はならぬものです。

     戊辰戦争で伝習隊を率いて、最後の最後まで転戦した大鳥圭介。
     戦乱の中で二十二歳の若い命を散らせた中野竹子。その姉の首を掻ききった十六歳の妹の優子。
     会津の戦いで傷ついた兵士の介抱をし、さらに会津の教育再生と福祉に生涯を捧げた瓜生岩子。
    こうした存在が生まれた背景には、やはり当時の徳の高い教育があったのではないかと思います。江戸時代の聖人中江藤樹は、教育の意義は、子供たちに道義を教え、心の曇りを取り、日々のおこないを正しくすることであると説きました。それはいまなお新しい言葉であると思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    nezu3344@gmail.com

     最新刊
     

    《塾・講演等の日程》
    どなたでもご参加いただけます。
    第82回倭塾 4月17日(土)13時〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第83回倭塾 5月23日(日)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第84回倭塾 6月26日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    第85回倭塾 7月17日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿
    靖国神社昇殿参拝 8月14日(土)14:00 靖国神社参集殿
    第86回倭塾 9月18日(土)13:30〜 富岡八幡宮婚儀殿



    20200401 日本書紀
    ◆ニュース◆
    最新刊『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』2020/9/19発売。
    『[復刻版]初等科国語 [高学年版]』絶賛発売中!!
    『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』絶賛発売中!!
    『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』絶賛発売中。


    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


                 

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

11 | 2021/12 | 01
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク