• 従軍看護婦の道を開いた17歳の覚悟の人生


    日本はLGBTがどうのこうのというような、怪しげな国ではなかったのです。
    男も女も、それぞれの場所で皆が一生懸命に国を築き、担ってきたのです。

    岩崎ユキ
    岩崎ゆき



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    日本をかっこよく!

    以下は昨年刊行した『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』に掲載した文です。
    きっと何かを感じていただけるものと思います。

    ▼日清戦争

    日清戦争で出征した我軍の将士は総計三十万人です。
    この戦争で広島の宇品(うじな)港では、軍船がひっきりなしに往来することになりました。
    なぜなら大陸はコレラ、赤痢、疱瘡(ほうそう)その他の伝染病の温床だったからです。
    このため7月20日には、広島城の西側の広島衛戍(えいじゅ)病院も戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されました。

    戦争に医師に看護士は付きものです。
    けれど戦いは男がするものですから、我が国では古来、戦場に出向くのは医師も看護師も、すべて男とされてきました《もちろん一部巴御前のような例外もありますが、あくまで一般的な国策としては、ということです》。

    ところが西洋では、たとえば米国では米国独立戦争《一七七五年》の際に、すでに女性看護師が活躍しています。
    日本でも明治10年に博愛社が設立され、これが明治21年にジュネーブ条約加盟に伴って日本赤十字社と改称され、そこで女性看護士の育成が行われていましたが、女性が戦場や軍病院に看護士として採用されることは一切ありませんでした。

    日清戦争は、明治日本にとって、初の国をあげての国際戦でした。
    君民一体となって断固不条理を粉砕する。
    だからこのとき日本赤十字社から「女性も看護役として軍で採用してもらいたい」という要請が出されました。
    陸軍はこれを固辞しました。
    二つの理由からです。

    ひとつは予算の問題です。
    当時の日本はまだまだ貧しく、軍にも十分な予算がありません。
    軍病院に女性看護師が採用となると、男たちとは別に着替えの場所や寝所、あるいは風呂トイレに至るまで、すべて男性用と女性用を別々に作らなければなりません。
    それだけ余計にコストがかかります。
    けれどそれだけでは「国をあげての戦いに何を言われるのか!」と逆に突っ込まれてしまいそうです。

    理由の二つ目は風紀の問題とされました。
    戦地において立派な戦功を立てた名誉の戦傷病者が、女性の看護を受けて万一風紀上の悪評でも立てられようものなら、せっかくの武功が台無しになる。
    名誉が損(そこ)なわれる、というわけです。

    実はこのことは、大変に日本的な発想です。
    我が国は聖徳太子の十七条憲法の時代から続く明察功過(めいさつこうか)《第十一条》によって、事件や事故を未然に防ぐことが人の上に立つ者の仕事とされてきた国柄を持ちます。
    この場合も同様です。
    万にひとつも不名誉な事態が起これば、上位者もまた責任を取ることになります。
    当時の感覚としては、責任とは自分がとるものであって、人や上司から四の五のと言われてからとるものではない。
    だからそうなれば、戦(いくさ)に集中しなければならないはずの軍の将校たちが、余計なことにまで気を配らなければならなくなる。
    なぜなら事件や事故は、それが「起きてからでは遅い」からです。

    このような理由から軍病院への女性看護婦採用を固辞してきた日本陸軍でしたが、そうはいっても看護ということになると、仏頂面(ぶっちょうづら)で少々患者の扱いが乱暴な男性より、笑顔でやさしく接してくれる女性の方が、兵士にとっても有り難いものです。

    そこで陸軍の石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医総監が、「風紀上の問題は私が全責任を負う」と明言して、ようやく試みとして少数の女性看護婦を広島の軍病院で採用することになりました。
    ただし条件付きです。
    女性は40歳以上であること。
    そして樺山資紀(かばやますけのり)海軍軍令部長婦人、仁礼景範(にれいかげのり)海軍中将夫人らが看護婦たちと起居(ききょ)をともにし、また看護婦らの安全を図り、また夫人らも一緒に看護活動に当たりました。
    ここにはNHK大河ドラマで有名になった『八重の桜』(平成25年放映)の新島八重(にいじまやえ)も赴任(ふにん)しています。

    ▼岩崎ユキの遺書

    こうして半年が経つと、現場で女性看護婦が大変評判が良い。
    しかも大陸での疫病(えきびょう)感染によって、患者の数は急増しました。
    それがどれだけたいへんな事態であったか。
    日清戦争における我が軍の死者は13,311人です。このうちなんと11,894人が疫病感染による病死です。
    なんと戦死者の九割が疫病死だったのです。
    広島の軍病院には、こうした疫病感染者の兵士たちが連日運び込まれました。
    感染病棟は患者で溢れかえりました。とても看護の人手が足りません。

    そこで篤志看護(とくしかんご)婦人会の若い女性が「看護婦の助手」として広島陸軍予備病院に送られました。
    その中に日本赤十字社の京都支部から派遣された、もうすぐ十七歳になる「岩崎ユキ」がいました。
    明治二十七年十一月七日のことでした。
    そして彼女は、伝染病棟付となって勤務中、チフスに感染して死亡しました。
    発症は明治二十八年四月八日、亡くなったのが同月二十五日のことでした。

    彼女の荷物の中に、遺書が見つかりました。
    そこには次のように書かれていました。

     ***

    お父さま、お母さま、
    ユキは大変な名誉を得ました。
    家門の誉れとでも申しましょうか。
    天皇陛下にユキの命を喜んで捧げる時が来たのであります。
    数百名の応召試験の中から、ユキはついに抜擢されて、戦地にまでも行けるかも知れないのであります。
    ユキは喜びの絶頂に達しております。
    死はもとより覚悟の上であります。

    私の勤務は救護上で一番恐れられる伝染病患者の看護に従事すると云う最も大役を命ぜられたのであります。
    もちろん予防事項については充分の教えは受けております。
    しかし強烈あくなき黴菌(ばいきん)を取り扱うのでありますから、ユキは不幸にして何時(いつ)感染しないとも限りません。

    しかしお父さまお母さま、考えても御覧下さい。
    思えば思う程この任務を命ぜられたのは名誉の至りかと存じます。
    それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の苦戦地に闘うのと同じであるからであります。
    戦いは既にたけなわであります。
    恐ろしい病魔に犯されて今明日も知れぬと云う兵隊さん達が続々病院に運ばれて来ます。
    そして一刻も早く癒して再び戦地へ出して呉(く)れろと譫言(うわごと)にまで怒鳴っております。
    この声を眼のあたりに聞いては伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち消し飛んでしまいます。
    早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。
    感激と申しましょうか。
    ユキは泣けて来て仕方がありません。

    今日で私の病室からは十五人もの兵士達が死んで行きました。
    身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな眠りであります。
    また、中には絶叫する兵士達もありました。
    『死は残念だぞ!
     だが死んでも護国の鬼となって
     外敵を打たずに済ますものか』
    と苦痛を忘れて死んでいったのです。

    あるいは突然
    『天皇陛下万歳!』
    と叫ぶので慌てて患者に近寄りますと、そのまま息が絶えていた兵士達もありました。

    しかも誰一人として故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで逝(い)った者はありません。
    恐らく腹の中では飛び立つほどに故郷の空が懐かしかったでありましょう。
    ただそれを口にしなかっただけと思われます。
    故郷の人達は、彼の凱旋を、どんなにか指折り数えて待っていたことでありましょう。

    悲しみと感激の中に、私はただ夢中で激務に耐えております。
    数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるのでありますが、ユキの頭脳にはこうした悲壮な光景が深く深く焼きついていて、寝ては夢、醒めては幻に見て、片時たりとも心の落ちつく暇(いとま)がありません。

    昨日人の嘆きは今日の我が身に振りかかる世のならいとか申しまして、我が身たりとも、何時(いつ)如何(いか)なる針のような油断からでも病魔に斃(たお)されてしまうかも解(わか)らないのであります。
    しかしユキは厳格なお父さまの教育を受けた娘であります。
    決して死の刹那(せつな)に直面しても見苦しい光景などは残さない覚悟でおります。
    多くの兵士達の示して呉(く)れた勇ましい教訓通りにやってのける決心であります。
    決してお嘆きになってはいけませぬ。
    男子が御国のために名誉の戦死をしたと同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。

     ***

    岩崎ユキは、明治10年12月23日生まれで、明治27年10月10日に、日本赤十字社京都支部に採用になりました。
    看護婦として軍に召集(しょうしゅう)されたのが同年11月4日です。
    はじめ救護団に編入されましたが、11月7日には感染病棟である広島陸軍予備病院第三分院付きとなっています。

    彼女に腸チフスの発症が確認されたのは、勤務開始からわずか五カ月後。
    明治28年4月8日です。
    そして17日後の4月25日に亡くなりました。
    昭和4年4月13日、靖國神社合祀(ごうし)。

    岩崎ユキの遺書は石黒軍医総監の元に渡り、その後、昭憲(しょうけん)皇后陛下のお涙を催(もよお)させ給(たも)うことになりました。
    女性であっても、ここまでの覚悟をして病院に赴(おもむ)いている。
    岩崎ユキのこの手紙がきっかけとなり、看護婦の崇高な職務が国民の間に浸透していきました。
    そして陸軍が正式に女性看護師を採用したのは、この25年後の大正8年、そして陸軍の養成看護婦は、先の大戦中の昭和19年のことです。

    日清戦争当時、広島予備病院のほか各地の予備病院にも日本赤十字社救護看護婦が配置されました。
    また赤十字社の病院船である博愛丸(はくあいまる)、弘済丸(こうさいまる)はもちろん、他の臨時の病院船にも、また海軍病院にも看護婦が配属されました。
    そしてこれら女性看護師の登用が、いずれも良い結果を収め、風紀上に一点の悪評も起こらず首尾よく日清戦争は終わりを告げました。
    そしてこれまで全く軍の医療施設に女性看護婦が配置されなかったものが、極めて短期間にその数を増やし、日本赤十字社救護看護婦たちは、その後、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争にそれぞれ出征して戦傷病者の看護に大きな貢献をするに至るのです。
    その背景には、若干17歳だった岩崎ユキの覚悟と死があったのです。

    日本は、男だけでなく、女も勇敢に戦い、そうすることで我が国は列強の植民地とならずに、独立自尊を保ち続けたのです。
    私たちはそんな曽祖父母、祖父母、父母たちのおかげで、世界に五百年続いた植民地支配という収奪を終わらせ、今の命を、そして社会をいただいています。



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  • なにくそ!という負けない心


    「なにくそ」という言葉は、漢字では「何苦礎」と書くのだそうです。どのような苦であっても、それを礎(いしづえ)にすることで乗り越えていくという、これは決意です。前向きなのです。
    ストレスと言われるようになりましたが、もともと日本語にストレスという言葉はありません。我が国では、その言葉に近いものを「試練」と呼んでいたのです。
    少し考えたら誰にでもわかります。ストレスは圧力であり受動的です。試練はそれを乗り越えようとする力で能動的です。
    我々日本人は、ちょっとやそっとではくじけたりしないのです。「何苦礎」の精神は、そこにあります。

    20190228 早川徳次
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    「なにくそ」という言葉は、漢字では「何苦礎」と書くのだそうです。
    どのような苦であっても、それを礎(いしづえ)にすることで乗り越えていくという、これは決意です。
    前向きなのです。

    ストレスと言われるようになりましたが、もともと日本語にストレスという言葉はありません。
    我が国では、その言葉に近いものを「試練」と呼んでいたのです。

    少し考えたら誰にでもわかります。
    ストレスは圧力であり受動的です。
    試練はそれを乗り越えようとする力で能動的です。

    我々日本人は、ちょっとやそっとではくじけたりしないのです。
    「何苦礎」の精神は、そこにあります。

    この言葉を、字義通りに実践して人生の成功をおさめた人に、シャープの創業者の早川徳次(はやかわとくじ)がいます。
    シャープの本社は大阪にありますが、もともとはこの会社の創業は東京でした。
    早川徳次自身、生まれも育ちも東京日本橋です。

    彼の生家は商家でしたが、家業が衰退してしまい、母も病気になってしまったため、彼はなんと二歳半で、出野という家に養子に出されています。
    出野家の養母は徳次少年を非常に可愛がってくれましたが、その養母が徳次が五歳のときに亡くなります。

    次に出野家に入ってきた後妻がとんでもない「伝説の女性」で、まだ子供だった徳次を殴る蹴るはあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落として放置したりもしたそうです。
    泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけて半死半生、もちろん全身糞まみれの徳次少年を、後妻は眼を吊上げて井戸端(いどばた)に引きずると、厳寒の中で罵声とともに冷たい井戸水を浴びせ続けたそうです。
    近所の人たちは、あきれはててものもいえなかったといいます。

    そんな日々ですから、徳次少年は、食事もしばしば与えられません。
    それどころか「お前に勉強なんか贅沢だ、働け!」とばかりに、小学校も二年で中退させられてしまいました。

    あまりの酷(むご)さに、みかねた近所の井上さんという盲目の女行者(おんなぎょうじゃ)が、徳次少年の手を引いて飾り職人の家に丁稚奉公に連れて行ってくれました。
    井上さんは修験道の信仰をされていた女性ですが、徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたそうです。

    この一言は重いものです。
    よそのおばさんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じたということだからです。
    それほどまでに徳次少年は、つらい毎日を送っていたのです。

    徳次が連れて行かれたかざり職人の家は、男っ気のある親方の下(もと)に、何人かの職人がいる店でした。
    そこで徳次は十八歳まで飾り金物の丁稚(でっち)職人として奉公しました。

    しかし徳次が一生懸命働いた稼いだ給金は、給料日のあとにその後妻がやってきて、毎月全額持って行ってしまいます。
    ですから徳次には遊んだり自分のモノを買ったりするお金が一銭もありませんでした。
    徳次は遊びにも行かず、ただひたすら黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込みました。
    仕事に打ち込んでいる時間だけが、彼にとっての幸せな時間だったからです。

    明治四十四(1911)年のことです。
    十八歳になった徳次は、ズボンのベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明しました。
    いまでも広く使われているバックルです。
    徳次はこの発明で新案特許を取り、十九歳で独立しました。

    その届け出のための必要書類を準備しているとき、徳次ははじめて自分が出野家の養子であったこと、そして自分の両親がとうに死んでいたことを知りました。
    そして実の兄である早川政治と対面しました。
    彼はその兄と、「早川兄弟社」を設立しました。
    そして「徳尾錠」の製造販売を開始しました。

    独立資金は五十円でした。
    このうちの十円は兄弟でお金を出し合いました。
    四十円は借金しました。
    徳次が考案した商品を作り、兄が販売を担当しました。
    苦しい財務からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、大ヒット商品となりました。
    事業も順調に拡大していきました。

    次に徳次が発明したのが、二十二歳のときでした。
    独創的な芯の繰出し装置付きシャープペンシルです。
    棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できます。
    この現象を応用しました。
    これがいまも広く使われているシャープペンシルの事始めです。

    大正四(1915)年、徳次は、このシャープペンシルに「早川式繰出鉛筆」という名前を付けて特許を出願しました。
    最初は、軸をひねって芯を出す機構の特徴から「プロペリングペンシル」という名前を付けて売り出しました。
    のちにこの商品は「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と名付けられ、この名前が詰まって生まれた言葉が「シャープペンシル」です。
    この名前はさらに詰まって、ついには会社の名前にまでなりました。
    それがいまの世界的の大手家電メーカー「シャープ」の社名の由来です。

    しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪いものでした。
    おかげで当初は全く売れません。
    それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けていました。
    「徳尾錠」の成功があったから、その利益でなんとかやりくりできたのです。
    もし「徳尾錠」がなければ、「早川式繰出鉛筆」はそのまま挫折してしまっていたかもしれません。

    ところがこの時代、意外に思うかもしれませんが、日本の東京・銀座は、まるでニューヨークのマンハッタン並みの国際都市でした。
    徳次の「シャープペンシル」は、なんと欧米人の間でたいへんな人気となり、ついには西洋でも大人気商品になりました。

    日本人は今も昔も洋物が好きです。おかげでシャープペンシルは日本でも売れ始めました。
    徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で会社の規模を拡大しました。
    さらに当時としては先駆的な試みである「流れ作業方式」を導入することで、製品の生産効率を格段に高めました。
    こうして「早川兄弟社」は、大正十二(1923)年には、従業員二百名を抱える中堅企業に成長しました。
    「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったのです。

    ところが、徳次は激務がたたって過労で倒れてしまいます。
    それは29歳のときのことでした。
    このときは当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをするのですが、徳次は、ようやく病から抜け出せたその翌年、30歳のときに、関東大震災(大正十二年)に遭遇してしまうのです。
    徳次自身は、震災で九死に一生を得るのですが、苦労を共にしてきた愛する妻と、二人の子を亡くしてしまいました。

    会社も、工場も、焼けて失(な)くなりました。
    借金だけが残りました。
    さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣いたそうです。
    死のうとすら思いました。
    しかし生き残った社員たちが彼を励ましてくれました。

    徳次は、借金の返済のために、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却しました。
    それでもまだ借金が残りました。
    たまらず徳治は夜逃げすることにしました。
    夜逃げのとき、社員たちがその手伝いをしてくれたそうです。
    申し訳ない気持ちで一杯になりました。

    徳次は大阪に逃げました。
    手元に残ったいくばくかのお金で、大正十三(1924)年、「早川金属工業研究所」の屋号で、日本文房具の下請けとしてシャープペンシルを製造する仕事を個人ではじめました。
    人生のやり直しをはじめた徳次のもとには、たびたび債権者が押し掛けました。

    いまのように法的な取立行為の規制などない時代です。
    借金取りは、徳治にありとあらゆる屈辱を与えました。
    新たに雇った従業員の前で、脅され、殴られ、罵られ、辱められる。
    債権者たちは、ありとあらゆる恥辱を徳治に与え続けました。
    死にたくなりました。

    徳治は思いました。
    それが「なにくそ!」です。
    彼は青く闘志を燃やしました。
    自分で作った人生のツケなのです。
    お金はすぐにはどうにもならないけれど、自分で作ったツケは、カタチを変えてでもなんとかして世間にお返ししよう。
    そう思い返しては、仕事に打ち込む徳治に、それでも借金取りは容赦なく屈辱を与え続けました。

    ある日、失意のどん底に陥(おちい)った徳次は、ふらふらと、まるで夢遊病者のように大阪の街を徘徊(はいかい)していました。
    そのとき彼は心斎橋で、アメリカから輸入されたばかりの鉱石ラジオの展示を見ました。
    徳次の胸に火がつきました。
    「どうしても作りたい」

    徳次は一心不乱に鉱石ラジオを研究しました。
    そして一年後、ようやく国産第一号の鉱石ラジオを発売しました。

    鉱石ラジオは、方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信するラジオです。
    真空管ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。
    昔よく学習雑誌の付録についてきた「ゲルマニウム・ラジオ」よりも古くて性能が劣ります。
    アンプ(増幅器)が登場するよりも、ずっと前の時代のことです。
    音声信号も微弱です。
    ですから音はヘッドホンで聞きました。

    この頃、日本でもラジオ放送が始まろうとしていました。
    ラジオ放送が開始されればラジオが売れる。
    これは楽しみな出来事でした。
    大正十三年六月一日、会社に社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信しました。
    レシーバーから細々とアナウンサーの声が聞こえました。
    従業員みんなが抱き合って喜んでくれました。

    NHKのラジオ放送の開始に伴い、ラジオは爆発的に売れました。
    昭和四(1929)には、鉱石ラジオに替わる新技術の「交流式真空管ラジオ」を発売しました。
    以後、相次ぐ新製品の開発で、
    「ラジオはシャープ」
    の名を不動のものにしていきました。

    昭和四年、ブラックマンデーに始まる世界大恐慌が起きました。
    日本も明治以降で最大のデフレにおちいりました。
    町には失業者があふれました。
    徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用しました。
    また借金苦にあえぐ社員への援助もしました。

    徳次には東京で、自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目がありました。
    だからこそ、彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けました。

    ラジオの普及と共に業績は拡大しました。
    「早川金属工業研究所」は、戦時中の昭和十七(1942)年に株式会社になりました。

    早川徳次は晩年、色紙を求められると必ず、「なにくそ」と書きました。
    どんなに苦しくても、いじめられても、馬鹿にされても、傷つけられても、どんなに心を折られるような出来事があっても、絶対に負けない、くじけないで、「なにくそ」と踏ん張る。頑張る。
    それが徳次にとって、パンドラの箱に最後に残った「希望(ドリーム)」でした。

    世の中には、幸せに、とんとん拍子に、何の苦労もなく我儘を通しながら生涯をまっとうする人もいます。
    ずっとエリートで、安定して良い人生を送る人もいます。
    けれど、とんでもない苦労を背負う人もいます。
    人はそれを「不幸」と言います。
    けれど早坂徳治さんの生涯をたどるとき、「それは本当に不幸であったのだろうか」と考えてしまいます。

    耐え難い重荷を背負うから、人は成長するのです。
    それが「試練」です。
    「試練」だから「なにくそ!」と踏ん張る。頑張る。
    その「なにくそ!」と踏ん張ることが、魂のスイッチです。

    苦難や苦痛は、かならず「身近なところに起きるもの」です。
    体の悩み、仕事の苦痛、すべて自分自身や、自分の身の回りで起きます。
    自分とはかけ離れた事柄に、人は悩むことはありません。
    あたりまえといってしまえばそれまでですが、伊勢の修養団の寺岡賢講師はこのことについて、
    「だから神様は乗り越えることができる試練しか与えないのです」
    と述べられておいででした。
    その通りだと思います。

    徳川家康も「人生は重き荷を背負いて坂道を昇るが如し」と述べました。
    その「重荷」はかならず「身近」なことにあり、その「重荷」が魂のスイッチなら、武漢コロナ問題は、ただの「耐え難い苦痛」ではなく、日本を成長させるための、日本人の魂のスイッチです。

    終戦後の日本は、モノ不足でした。
    だから当時の人たちは、モノを得るために必死で働きました。
    そして小さくても楽しい我が家(マイホーム)を建て、「いつかはクラウン」を人生の目標にしました。

    ところがバブルが崩壊し、日本は30年におよぶデフレ不況の時代となりました。
    デフレというのは、人間の体で言ったら、貧血のことです。
    人間は、血液の3分の1を失うと死んでしまうそうですが、おそらくこの30年の不況で、それに近いくらいの血液を失いました。
    そして武漢コロナの影響で、もはや失われた血液は、まさにその3分の1に至ろうとしています。

    この状況下ならば、日本人一人あたり10万円と言わず、ひとりあたり300万円を支給しでも、インフレにはなりません。
    インフレは血液量が多すぎる状態ですが、日本では失われた血液を単に補給するだけのことにしかならないからです。
    ひとりあたり300万円なら、4人家族なら1200万円です。
    新車を買い、海外旅行にでかけ、あるいは家のローンを前倒しで返済し、あるいは子供の塾にお金をかけ、あるいは高額なテレビを買うなど、これなら日本経済はまたたく間に復活、蘇生します。

    けれど、実際に政府にできることは、ひとりあたり10万円です。
    これでは経済の活性化ではなく、ただのお見舞金です。
    それでインフレ懸念が〜と言う人がいます。
    あるいは、必要ないという人もいます。ただのバカです。

    実行できない政府によって、一時的には日本は、未曾有の不況状態になります。
    これは関東大震災と世界恐慌がダブルでやってきた頃と同じです。
    一時的には、日本経済は壊滅状況に近い状態になるかもしれない。

    けれど、それでも人は生きるし、生き残ります。
    日本人は、どんなときでも、「なにくそ!」とがんばってきました。
    なぜなら日本人には、どんなときにも「よろこびあふれる楽しいクニ」を求める心があるからです。

    本文中に、「徳次には東京で自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目があった」と書かせていただきました。
    「だからこそ彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けた」とも書かせていただきました。

    中高年にもなれば、おそらく誰もが「心に負い目」を持っています。
    お伊勢様に参拝させていただいたとき、ご先祖にまで栄誉をくださる祝詞をあげていただき、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
    こんな自分には、あまりにももったいないと思いました。
    けれどそのとき、あるイメージのようなものが、頭の中にひびいてきました。
    それは言葉にすれば、「人生のツケをその相手の方にお返しすることはできなくても、形を変えて世の中にお返しするのです」というものでした。

    徳次は、東京で最後まで支えてくれた社員たちにお返しをすることは、最後までできませんでした。
    けれど徳次は、その分、大阪で世の中のために頑張り抜きました。

    なんど倒れても、なにくそ!とまた立ち上がる。
    折れても折れても、それでもまた立ち上がる。
    それこそが、日本人の生き方なのではないかと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

    ※この物語は、2010年以来、毎年、だいたいこの時期にアップしているものです。
    日本をまもろう!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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    小名木善行です。

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    世界で最も有名な日本人女性は誰でしょうか。
    実はその答えが、クーデンホーフ光子(みつこ)です。

    パリにあるメイクアップやスキンケア、フレグランスの老舗メーカーのゲラン社(Guerlain)が販売する香水に、「ミツコ(MITSOUKO)」という製品があります。
    世界中で人気を博している香水です。
    この「ミツコ」について、ゲラン社のHPに次の記述があります。

    *******
    1919年、
    ヨーロッパが日本ブームの真っ只中にあり、
    極東の文化が人々を魅了していた時代。
    ジャック・ゲランは新しく創作した香りを
    「ミツコ」と名付けました。
    それは小説『ラ・バタイユ』のヒロインの名。
    慎ましやかでありながら、
    強い意志を秘めた女性をイメージした香りです。
    *******

    そしてこの「慎ましやかでありながら強い意志を秘めた女性」という言葉こそ、世界の人々が憧れる日本女性のイメージとなりました。

    ちなみに文中にある小説の『ラ・バタイユ』は、日本語に訳したら「戦闘」です。
    この小説は、クロード・ファレールが1909年に出版したものです。
    1905年の日露戦争が題材で、映画化もされています。
    その映画のヒロインの名前が「ミツコ」です。

    実はこの「ミツコ」、有名なハンフリー・ボガートと、イングリッド・バーグマンの名作映画「カサブランカ」にも登場しています。
    本人ではありませんが、その次男の息子が重要な登場人物となっています。
    「カサブランカ」は、アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)が、昔の恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)と、偶然の再会をはたすという映画ですけれど、このときイルザの夫でナチへの抵抗運動の革命家である夫ラズロのモデルが、実は、ミツコの次男のリヒャルトです。
    ラズロ役のポール・ヘンリードは、リヒャルトに顔立ちが似ているということで起用されでいます。

    ちなみにこの映画の企画のとき、配給元のワーナーは、当初、主演をハンフリー・ボガードではなく、若き日のロナルド・レーガンにする予定だったのだそうです。
    そうなっていたら、世界の歴史はまた別なものになっていたかもしれませんね。

    実在の「ミツコ」の日本名は「青山ミツ」といいました。
    そして東京青山の青山通りや、青山霊園なども、実は「ミツコ」が関わっています。
    そこで「ミツコ」がどういう女性であったのか、歴史を振り返ってみたいと思います。
    時計の針を、131年ほど巻き戻します。

     *

    明治25(1892)年のことです。
    オーストリアハンガリー帝国から、外交官ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(はくしゃく)が日本に赴任してきました。
    ところが伯爵、冬の寒い日に、乗っていた馬ともども凍った道で滑って転倒して大怪我をしてしまいます。
    このとき伯爵の勤務する大使館に雇われていたミツコが、伯爵を献身的に看病したことから、二人は恋に陥りました。

    二人は結婚を望みますが、当時の日本は、外国人との結婚は、彼らにあてがわれた「現地妻」という認識が強かった時代です。
    というか、そういうケースの方が現実問題として多かったのです。
    「どうしても」と結婚を望むミツコは、親から勘当されてしまいます。

    当時の日本人女性にとって、親子の縁を切られるというのは、ありえないほど辛いことです。
    ハインリヒ伯爵は、なんとかご両親に納得いただこうと、かなりの犠牲を払ったといわれ、そのため後年、光子は日本に帰国しなかったといわれています。
    それほどまでに、二人は大熱愛だったわけです。

    反対したミツコの父は、青山喜八(きはち)といいます。
    喜八はこの頃、骨董道楽が昂じて大借金を重ね、本家から勘当された身の上でした。
    ところが、娘のミツコにハインリヒ伯爵が結婚を申し込み、そのために結納金として、かなりのお金を喜八に渡したのです。

    おかげで、喜八は一夜にして大金持ちになりました。
    そして自分が生きている間に、都内の霊園に、バカでかい自分のお墓を作りました。
    このお墓があまりに大きかったことから話題を誘い、その霊園に向かう道が、青山さんのお墓のある霊園に向かう道として「青山通り」、ついにはその霊園の名前までいつしか「青山墓地」と呼ばれるようになりました。

    翌、明治26(1893)年、ミツコはハインリヒ伯爵と正式に結婚しました。
    ちなみにこれが実は、日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号です。

    この時代、日清戦争が翌1894年ですから、まだまだ日本は極東の貧乏な小国とみなされていた時代です。
    そしてミツコは、そんな日本の、しかも平民の出身の女性です。
    一方、ハインリッヒ伯爵は、当時のヨーロッパにあって、伝統あるオーストリアハンガリー帝国の高級貴族です。
    まるでシンデレラか、ポカホンタスのようなことが現実になったわけです。

    この結婚に際しハインリッヒ伯爵は、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えたそうです。
    「もし、わが妻に対して、
     ヨーロッパ女性に対すると
     同等の取り扱い以外を示す者には、
     何人を問わず、
     ピストルによる決闘を挑む。」

    実に立派な男です。

    ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように日記に記しています。
    「決闘は一回も行われなかった。
     だれも彼も
     この新しいオーストリアの外交官夫人の
     優美と作法に魅了された。
     外交団全体が
     彼女に対して尊敬の念を示した。」

    グーテンホーフミツコ02


    ミツコは当時の日本人女性としては長身です。
    しかも美人で日本舞踊の素養があったことから、立ち振る舞いが非常に優美だったのです。
    それにしても上の写真、洋装もよくお似合いになります。
    お二人は、東京で、長男ハンス光太郎、次男リヒャルト栄次郎の2人の子をもうけました。

    明治29(1896)年、ハインリッヒ伯爵は足かけ5年に及ぶ日本滞在を終えて、帰国することになりました。
    このとき、お正月の宮中参賀に、お二人は招かれました。
    このときミツコは、皇后陛下から次のようなお言葉を賜わりました。

    「遠い異国に住もうとなれば、
     いろいろ楽しいこともあろうが
     また、随分と悲しいこと
     つらいこともあろう。
     しかしどんな場合にも
     日本人の誇りを忘れないように。
     宮廷衣装は、
     裳を踏んで転んだりすることがあるから
     気をつけたがよろしい」

    なんとミツコをやさしく気遣い、思いやりにあふれたお言葉なのでしょう。
    そしてこのお言葉は、ミツコのヨーロッパでの生活に勇気を与えした。

    ハインリッヒ伯爵の家はボヘミアとハンガリーにまたがる広大な領地をもつ伯爵家です。
    二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着きました。
    夫ハインリッヒは、父が他界したことから、外交官生活から退き、一族の長となって、大地主の貴族として領地の管理に専念することになったのです。

    ロンスペルク城
    ロンスペルク城


    上の写真がそのロンスペルク城ですが、それにしても、すごいお城です。
    ところが、夫の一族のひとたちは、東洋の未開国から連れられてきたアジア人女性に冷たい目を向けました。
    光子の着こなしや立ち居振る舞いという末梢的なことを、チクリチクリとあてこすったのだそうです。
    いまふうにいうなら、イジメです。
    いつの時代も、どこの国でも、人の社会は同じです。

    ミツコも、そんな陰湿なイジメがつらく、何度も日本に逃げ帰ろうと思ったそうです。
    しかし、そんなときにミツコを支えたのが、まさに
    「日本人の誇りを忘れないように」
    という皇后陛下のお言葉でした。

    ミツコは「裳を踏んで転んだりすることのないように」という一見些末な注意が、貴族社会で生きていく上で、いかに大切なことか、身にしみて分かったと、後年述懐しています。

    不思議なことなのですが、日本で(これは日本に限らないことなのかもしれないけれど)神様に通じるような人の言葉というのは、不思議とこのように未来を予見したり、心を救うもとになったりすることがあります。
    世の中に偶然はないといいますが、やはり神々というのはおいでになる。そんな気がします。

    二人は、その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子宝に恵まれました。
    夫のハインリヒは、子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じました。

    子供達への教育については、もちろん光子も納得したことです。
    けれど多忙な夫以外に、心を打ち明けられる人がいない光子は、この頃、強烈なホームシックにかかります。
    いまのように飛行機でひとっ飛びという時代ではありません。

    夫のハインリヒも日本への里帰りを計画してくれたのですが、当時は船旅です。
    アフリカ大陸の南端の希望峰をまわり、インド洋を延々と航海して、日本まで渡るわけです。
    それは、まる半年がかりの旅です。
    そんなに長い間、幼い子供たちを放置することはできません。

    夫婦仲は良かったけれど、問題もありました。
    充分な教育を受けた夫と、骨董屋の娘で尋常小学校を出ただけの妻では、まるで教育レベルが違ったのです。

    ある日のことです。
    子供が教科書を開いて自習していたとき、
    「お母様、これは何でしたっけ」と聞きました。
    ところが光子には答えられない。

    「これではいけない」と光子は思ったそうです。
    ヨーロッパ人の母なら当然心得ている事を自分が知らないでは済まされない。
    そこで光子は、自分も家庭教師について、子供より先に勉強して、子供から何を聞かれても答えられるようにしておくことにしたそうです。

    次男のリヒャルトは、自伝でこう回想しています。
    「母は一家の主婦としてよりも、
     むしろ女学生の生活を送っていて、
     算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、
     フランス語、歴史、および地理を学んでいた。
     その外に、母はヨーロッパ風に座し、
     食事をとり、洋服を着て、
     ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを
     学ばなければならなかった。」

    それは、寝る時間を削ってまでして行う勉強でした。
    立派な母親となるために勉強に打ち込むミツコの姿は、子どもたちの心に深い影響を与えています。
    子は親の背中を見て育つといいますが、こういう光子の態度は、本当に立派だと思います。

    実際、考えてみれば、親がひとつも本も読まない、勉強もしていない、そんな姿見たことない、なんていう状況下で、子供に「勉強しなさい」と言ったところで説得力はありません。
    東大出の政治家のお子様が、やはり東大に入るということはよくある話です。
    それもそのはず。
    親が本を読み、勉強している姿を子供たちは幼い頃から見ているのです。
    親の部屋に入れば、そこには山のように読み終わった本がある。
    数々の洋書もある。

    そのような環境で育てば、やはり子も優秀になるのであろうかと思います。
    是非、お子様やお孫さんのいらっしゃるご家庭では、ねずさんの本を大人が率先して読まれると良い。
    って、これはただの宣伝です(笑)。

    自伝を残している次男のリヒャルトは、実は、いまのEU(ヨーロッパ連合)実現に向けて、終生たゆみない研究と運動を続けた人です。
    そして彼の理想は、いま、欧州連合EUとして立派に実っています。

    明治38(1905)年に日露戦争に日本が勝利すると、欧州においての日本の国際的地位は劇的に高まりました。
    そしてこのことは、光子への偏見も和げました。
    東洋の未開の蛮族たちの小国の娘ではなく、西欧人と対等な堂々たる大国の女性に変化したのです。

    こうしたことは、実は国際社会においては、とっても大切なことです。
    日本が馬鹿にされ、貶められいていては、海外にいる日本人は個人の資質がいかなるものであったとしても、馬鹿にされ、みくびられるのです。

    慰安婦を性奴隷にしただとか、ChinaやKoreaを侵略しただとか、あるいはそれらの地で非道な振る舞いを繰り返していただとか、そういうデタラメが吹聴され、日本が貶められれば、海外にいる立場の弱い人、とりわけ女性や子供達に、そのしわ寄せが行きます。
    現に、「日本人になど産まれたくなかった」、「お母さん、外で絶対に日本語を使わないで」と泣く日本人の子らがいるのです。
    これこそ政治の問題です。
    日本に住む日本人が誇りを失うことが、結果として同胞の心を傷つけ、それが子供達の心なら将来にむけて取り返しのつかない傷を負わせているのです。
    まるで他人ごとのように「日本人なんて」とニヤニヤしながら語るテレビの評論家さんたちは、そういうことへの責任など、まるで感じない無責任な人達と断じたいと思います。

    日露戦争における日本の勝利によって、あらためて立場が強化された光子ですが、残念なことに、翌明治39年5月に、夫ハインリヒが心臓発作で急死してしまいます。
    わずか14年の夫婦生活でした。

    異国に一人残された光子は、今まで二人で築いてきた世界が足もとから崩れ去っていくような気がしたそうです。
    わかる気がします。

    けれど、光子に、悲しみに浸っているひまは与えられません。
    夫は遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、いっさいの財産を光子に贈り、子どもたちの後見も光子に託されるべし、と書き残していたのです。

    広大な領土と厖大(ぼうだい)な財産です。
    その一切の管理を、
    「未開国から来た一女性に任せるなどとんでもない」
    「日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものか」
    と、ミツコは親戚一同から糾弾されてしまうのです。

    しかしこのとき、ミツコは断固として言いきったそうです。
    「これからは自分でいたします。
     どうぞよろしくご指導願います」

    日本女性がこのような任につくには不適当だと、ミツコは裁判まで起こされています。
    しかしミツコは、弁護士を雇い、何年もかけて、とうとう訴えを退けています。
    覚悟というのは、そういうものです。

    問題は他にもありました。
    遺産を相続したということは、その経営も受け継いだということです。
    ミツコは、法律や簿記、農業経営などを、必死で勉強することで、領地財産の管理を自ら立派にこなしました。
    馬鹿では勤まらないのです。

    さらに亡夫の精神に沿って、立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児にも打ち込みました。
    このとき、長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳でした。
    表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙しい毎日を送っていたミツコも、望郷の念はやむことがありません。
    それでも、「日本に帰ることは子どもたちが成年に達するまであきらめよう」と心に誓いました。

    光子は、ときおり日本の着物を着て、ひとりで何時間も鏡の前に座ることがあったそうです。
    それは、望郷の念に駆られて、ひとり涙を流していたときだったのかもしれません。

    次男のリヒャルトは、後年、
    「そんなときの母が、最も美しく見えた」と回顧録に書いています。
    リヒャルトが部屋にはいってきたとき、きっと光子は息子に澄んだやさしい笑顔を向けたのでしょう。
    悲しみを知るものは、やさしさを身につけることができるからです。

    光子は、涙を我が子に見せなかったそうです。
    そんな光子の気持ちを思うと、こちらが泣けてきます。

    光子は、正座して毛筆で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通は出していたそうです。

     年老ひて髪は真白くなりつれど
     今なほ思ふなつかしのふるさと

    これは、光子の老年になってからの和歌です。
    「私が死んだ時は、日の丸の国旗で包んでもらいたい」
    それが、光子の遺言でした。

    大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まりました。
    このとき、オーストリアハンガリー帝国と日本は敵国になりました。
    両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦当時はヒステリックな反日感情が沸き上がりました。

    ウィーンにいた日本人の外交官や留学生などは、みな国外退去しました。
    光子は、広大なオーストリアハンガリー帝国に、ただ一人残る日本人となりました。

    日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに威圧されていたので、日本の連戦連勝に国中がわき上がっていたものです。
    ですから仲間の貴族や領民たちは、次々と光子のもとにお祝いにかけつけてくれました。
    けれど今度は敵国です。
    人々は警戒の目を向ける。

    そんな中で光子は、長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、赤十字に奉仕しました。
    黒い瞳の光子やその娘たちの甲斐甲斐しい看護に、人々は好感を抱きました。

    さらにこのとき、光子は領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大量の馬鈴薯(ばれいしょ、じゃがいものこと)を栽培しています。
    そして収穫した馬鈴薯を、借り切った貨車に詰め込み、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にまで運びました。
    前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士達は食糧難に悩まされていたのです。
    そんな光子の姿に兵士達は、「生き身の女神さまのご来臨だ」と、塹壕の中で銃を置いて、光子を拝んだといいます。

    敵国の女性でありながら、神様とまで慕われる。
    ほんとうにすごいことです。
    光子の馬鈴薯作りは終戦まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だっています。

    大正7(1918)年に戦争が終わったとき、次男のリヒャルトが13歳も年上の女優イダ・ローランと結婚すると言い出しました。
    光子は反対しました。

    するとリヒャルトは家を飛び出してしまいました。
    飛び出したリヒャルトは、「汎ヨーロッパ主義」という本を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となりました。
    長男ハンスも平民のユダヤ人女性リリと結婚し、ピクシーという女児をもうけて家を去りました。

    実は光子は、子供たちに日本風の躾(しつけ)をしていました。
    その躾があまりに厳しかったために、成長した子供たちが光子のもとを去っていったという説もあるくらいです。
    その光子の躾について、こんな話があります。

    子らが学校に行くようになると、友達との間でそれぞれの家の躾の様子などを話し合います。
    ヨーロッパの貴族の家庭では、どこのご家庭でも、子供への躾は厳格です。
    ほとんどの日本人なら、西洋貴族の家庭内における躾の厳格さは、おそらく常識的な知識であろうと思います。

    ところが、リヒャルトは、そんな貴族の子弟たちと話し合った時、どの家よりも光子の躾が厳しかったと自伝に書いています。

    ここは、たいせつなポイントです。
    光子は日本では貧乏長屋に住む平民の娘です。
    親も、事業で失敗する等、決して安定した家庭環境にあったわけではありません。
    ところがそんな家庭内で躾を受けた光子が、ヨーロッパの高級貴族の家庭で、自分が子供の頃に受けた躾を、そのまま普通に子に行ったら、それが厳しいと評判のヨーロッパの貴族の、どの家庭の躾よりも厳しいものであったというのです。
    つまり、平民であっても、当時(明治の頃)の日本の家庭内の躾は、それだけ厳しかったのです。

    相当左翼の人でも、明治の日本人が「強い気骨を持っていた」ということは認めています。
    けれど、そうした「明治の気骨」は、実は、それだけ厳しい躾を、どこのご家庭でも行っていた結果です。
    現代日本人に欠けているもの、あるいは現代日本人が忘れている根幹が、この「気骨」であるように思います。
    そして「気骨」は、教育によって形成される。
    これもまた大切なポイントであると思います。

    さて、子供たちが次々と去っていく光子に、追い打ちをかけたのは、第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊でした。
    この敗戦によって、クーデンホーフ=カレルギー家も、過半の財産を失ってしまいます。

    光子は、大正14(1925)年に、脳溢血で倒れました。
    なんとか一命はとりとめたものの、右半身不随となりました。
    以後の光子は、ウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガに介護してもらいながら、静養の日々をすごしました。

    この頃の光子の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことだったそうです。

    昭和16(1941)年8月、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら67歳の生涯を閉じました。
    渡欧して45年、結局、光子は一度も祖国の土を踏むことはありませんでした。

    さて、光子のもとを飛び出した子供たちですが、本人たちが母の厳しい躾を嫌がった割には、彼らは光子の日本式の厳しい躾と教育によって、全員、それぞれ立派な大人に成長しました。
    なかでも東京で生まれた次男の「リヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」は、その著作で「欧州統合」を主張し、先ほども書いた“EU”の概念を打ち立てています。

    第一次大戦後、「民族独立」のスローガンの中で、オーストリア・ハンガリー帝国は分断され、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが新国家として独立し、ポーランドやルーマニアにも領土を割譲されて、解体されてしまいました。
    大戦で疲弊した上に、28もの国がアメリカの2/3ほどの面積でひしめき合ったのです。

    民族対立の火種を抱えたままでは、いずれヨーロッパに再び大戦が起こり、世界の平和が脅かされます。
    ならば、逆に欧州は統一した連邦国家となるべきではないか。
    リヒャルトのこの大胆な提案と思想は、敵対と対立、対立と闘争という概念を煽られ、それしか知らなかった当時の欧州において、日本的な「和の精神」をもたらそうとしたものです。
    そして、リヒャルトの母が日本人であるという事実に、さまざまな新聞が当時、光子に新しい名称を贈りました。

    その一例を示すと、
    「欧州連合案の母」
    「欧州合衆国案の母」
    「パン・ヨーロッパの母」等々です。

    リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロッパの政治思想に大きな影響を与え、第2次大戦後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、そして現在のヨーロッパ連合(EU)に至っています。

    リヒャルトは母・光子についてこう述べています。

    「彼女の生涯を決定した要素は
     3つの理想、すなわち、
      名誉
      義務
      美しさ
     であった。
     ミツコは自分に課された運命を、
     最初から終わりまで、
     誇りをもって、
     品位を保ちつつ、
     かつ優しい心で甘受していたのである。」

    名誉と義務と美しさと、誇りある品位。
    これらは日本人が日本人であるがゆえの美質です。
    そしてそれは、世界が求める万国共通の美質でもあります。

    「名誉と義務と美しさと品位」
    そんな日本を取り戻したいと思います。


    それにしても・・・
    幕末から明治にかけての一介の長屋住まいの町民の娘の子供の頃の躾(しつけ)が、西欧貴族社会のどの家庭の躾よりも厳しかったという事実。
    そしてそんな日本は、西欧社会の日本に渡航してくるような当時のVIPたちからみて、「日本人ほど子供を可愛がる国はない。日本の子供たちは実に伸び伸びしている」と言わせた事実。
    このことが示す意味は、とても大きいと思います。

    昨今では、子供たちにガマンすることを教えません。
    たとえば逆上がりができなければ、「できる子もあるし、できない子もある」と放置されます。
    けれど私たちが子供の頃までは、できなければ、できるまでやらされました。
    放課後に残ってでもやらされました。

    狼に育てられた子供は、狼のままで人に戻ることはありません。
    人は、人として躾(しつ)けられて、はじめて人になります。
    人としての躾のない者は、人ではなく「人の皮をかぶったケモノ」です。
    現代日本人は、いま国をあげてケモノつくりに励んでいます。

    教育は人を育むものです。
    本来の日本の教育を、しっかりと取り戻したいものです。


    ※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    第4回菊池寛賞を受賞した本で、その中で二木可南子さんという実在の女性が紹介されています。
    現代文に訳してご紹介します。
    あとに私の所感を書いてみたいと思います。
    きっと何かを感じていただけると思います。

    ーーーーーーーーーーー
    彼女は、日本が降伏した昭和20年当時、数え年20歳でした。
    東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とともに、シンガポールの医薬部隊に配属されていました。

    可南子さんの父、二木忠亮氏は、はイギリスのロンドンで個人商店を営んでいました。
    そのため可南子さんはロンドン生まれのロンドン育ちです。
    もちろん英語はペラペラです。

    ある日、可南子さんの母がロンドンで亡くなり、父は娘を連れて日本に帰国しました。
    やがて戦争が始まり、父は徴用され、大尉相当官として英語通訳を命ぜられ、マレー半島の攻略軍に配属されました。
    娘の可南子さんも徴用されました。
    可南子さんは「父のいるシンガポールへ行きたい」と条件をつけたのが聞き入れられ、医薬部隊に配属されました。

    医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と、薬剤の中佐と主計少佐などが6人、そして徴用の技術者が600人いました。
    女性は可南子さんを含めて4人です。
    いずれも英語が書けてタイプが打てる女性です。
    ことにロンドン生まれの可南子さんの英語は格調が高かったそうです。

    終戦を迎えたとき、このシンガポール医薬部には、イギリス人が部局の接取にくることになりました。
    医薬部としては、接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも、英語が堪能でタイプの打てる4人の日本人女性は、いてもらいたい人たちです。

    しかし接収に来るイギリス人が、すべて敬虔で紳士的とは限りません。
    乱暴狼藉をはたらかれる危険はじゅうぶんにあります。
    結局ひとりひとり説得することとし、可南子さんには軍医官があたりました。

    軍医官は勇気を奮ってこう言いました。
    「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」
    「喜んで残留いたします。」軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんはそう答えました。

    軍医官「え?」
    可南子「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」
    軍医官「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」

    可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていたのです。
    「ええ、ですから残留を喜びます。父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。父は消息が絶える少し前に言いました。『父子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね。もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』」
    軍医官「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。お願いします。」
    可南子「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき父がそう言いました。」

    軍医官「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのですか・・・・。
    二木さん、もう一つ。
    人すべてが善意を持っていはいない。忌まわしい心を持つものもいます。
    僕は、いや僕たちは、あなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために、死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」

    可南子「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」
    襟の下からチラリと見えたのは青酸カリでした。
    軍医官は、唇をかみ締めて嗚咽を耐えました。ついに咳を一つしました。
    それは咳ではなく押し殺したしのび泣きでした。

    可南子さんは続けました。
    「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。」
    当時、終戦で復員する日本人を狙って、乱暴をはたらき、その女性が死んでもなお恥ずかしめをあたえられるという事件が実際にあったのです。

    9月1日キング・エドワード病院にイギリスのハリス軍医中佐が、イギリスの300名の武装兵とともにやってきました。
    4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見ていました。
    ハリス中佐と老紳士が印象的でした。
    老紳士は、医学博士のグリーン氏です。

    彼は穏やかなまなざしで言いました。
    「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。皆さんはそうさせてくれますか」とにこっと笑いました。

    ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見されました。
    グリーン博士は激しく怒りました。
    「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい。」

    可南子さんは、軍医の意を受けて発言しました。
    芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟の数々、新田義貞が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼を切り妖魔をはらった刀などの伝説等々。
    日本の言葉で昼行灯という言葉があります。
    これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいいます。
    マレー人の言葉では、白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいいます。
    「人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずです」とユーモアを交えて可南子さんは説きました。

    苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうにしました。
    グリーン博士は、時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞いました。
    グリーン博士はロンドン生まれだったのです。

    可南子が席につくと、グリーン博士は言いました。
    「発見された日本刀は直ちに捨てます。日本刀を捨てたものの追求はやりません。」

    軍医たちは語りあいました。
    「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。あいつが上村美保江さんに失礼なことを言ったのさ。
    すると彼女は、『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうだ。そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」

    「それはね、可南子さんが教えたんだ。降伏直後、3人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。だけど、その3人は、イギリス人の将校に階段で会えば、どうぞお先に道を譲るけど、可南子さんは決して譲らないね。
    僕は何度も見ているよ。あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。
    国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね。」

    グリーン博士がかくも寛大だったのには、昭和17(1942)年イギリス軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士も捕虜になった経験があったからです。
    監獄はひどかったが、やがて日本軍が、敵と味方を一つに視て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞きました。
    そして、たびたび監獄に来て、私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈ってくれた何人かの日本人もいました。

    グリーン博士は、「自分たちが生き延びたのはこのお蔭です。いつの日か報いたい」と語り合っていました。
    「わたしは、チャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。わたしはこれに答えなければならない。」

    雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、後任としてカンニング博士がくることになった。
    ある日、カンニング博士が着任しました。
    前日に可南子さんは、タイプした残留60人の日本人の名簿を博士に提出しました。

    グリーン博士はその名簿を読み上げました。
    「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」
    「Oh! フタキ。フタキですね。」
    「そうです。カンニング博士」
    「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」

    まもなく二木可南子さんが呼ばれて部屋に入ってきた。
    カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視しました。
    「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」と可南子さんは毅然として言いました。
    「あっ、おかけください」
    「ぶしつけに見つめて大変失礼しました。私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。タダスケ・フタキを知りませんか?」

    可南子さんの心は胸打ちました。けれど声に変化はいささかもありません。
    「私の父です。」
    「OH!」
    「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」
    「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です!」
    「父です、確かに。」
    可南子さんの頬が赤く染まりました。

    「あなたはあの人の娘か。」
    「父をご存じですか?」
    「忘れるものですか。」
    「父は生きていますか?」
    「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」
    カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります」とささやきました。

    カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていたのです。
    200名の捕虜はそこから連れ出されて、タイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされました。
    その時の捕虜係通訳が二木でした。

    二木は、捕虜の辛苦をます生活の中で、献身的につくしました。
    病人やけが人、衰弱者があるごとに二木はできるかぎりのことをしました。
    捕虜たちは二木を、神の使徒ではないかと噂しあっていました。
    二木は長期間捕虜達と一緒だったけれど、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知りませんでした。

    カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会したが一向にわかりませんでした。

    激しい雷雨が去ったある日、カンニング博士が、「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」と言った。
    可南子さんが姿を見せると
    「カナコ、お父さんは生きていたよ! 妻から電話で知らせてきた。 グリーン博士も電話で知らせてくれた!」

    そのときの可南子さんの深い微笑みを、後でカンニング博士は、
    「東洋の神秘の花」
    とたたえたそうです。

    「カナコ、お父様はフィリピンにいた。アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」
    これを聞いて可南子さんの眼に涙があふれてきました。
    可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。

     たおやかにやまとなでしこ咲きにけり
     りんと気高くたじろぎもせず

    ーーーーーーーーーーー

    なんとなく、最近の日本人は、かつての日本人が、ものすごい勢いで海外に出ていたことを忘れてしまっているような気がします。
    朝鮮半島はもとより、ハワイ、ブラジル、Korea半島、China、満州、千島列島、樺太、モンゴル、中央アジア、東南アジア諸国、ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ等々、それら外地に、普通の日本の民間人、それも特別な商社マンとかそういう人ではなしに、普通の日本人が、多数出かけて行って、観光ではなく、その国で暮らしていました。

    いまでは、海外にでかける日本人は、バブルの頃は普通のOLさんが世界中に観光旅行やバカンスにでかけていましたけれど、平成にはいってからは、日本人の外地での活動は、商社マンや留学生、ごく一部の観光地、観光客に限られてしまっているかのようです。

    ちなみに昭和初期頃の日本円の為替相場は、1ドル1円くらいです。
    これはいまでいったら、1ドル100円だったわけで、円はそれだけ強い通貨だったのです。
    当時、海外にでかけるのは、まだ旅客機は発達していませんでしたから、その多くは船旅です。
    そして船でロンドンにでかけ、ロンドンで生活していたのが、二木さんの家だったわけです。

    話の中に、二木さんの父親が、私費まで投じて英国人捕虜たちのために、いろいろな便宜を図っていたという記述が出てきますが、これも二木さんが軍規を無視して、あるいは上官に逆らってそれをしていたということではないことにも、注意が必要です。

    戦時中の日本は、日本人自身が満足に食べれないほど極端に物資が不足していました。
    ですから官営で支給される食事などの物資は、必ずしも贅沢に慣れた英国人たちに満足のいくものではありません。
    そのことがわかるから、当時の兵隊さんたちが、みんなでお金を出し合って、英語のわかる二木さんを通じて、捕虜たちのために、できる限りの手当をしていたのです。

    それが英国人捕虜から見ると、二木さんの慈愛に見えた、ということです。
    実際には、その裏側に、二木さんと一緒にいた連隊や大隊のみんなの好意があったのです。
    いかにも日本人らしいじゃないですか。

    日本が戦争に負けたとき、可南子さんは「愛国心は勝利のときだけのものではない」と、自ら残留を希望しました。
    辛い時は、自分だけが辛いわけではない。みんなも辛い。
    ならば、自分も一緒になって、その辛さのなかに身を置こうというのも、当時の日本人の、あたりまえの姿勢でもありました。
    ロンドン生まれのロンドン育ちの可南子さんにも、やはりそういう日本人としての血が流れていたということを、この一文は物語っています。

    そういう可南子さんに、軍医官は、「自分は人間として最善をつくすために死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です」と話しました。
    ここも、大切なポイントだと思います。
    軍医官にとって、可南子さんは、ひとりの部下です。
    自分の彼女でもなんでもありません。
    同じ職場のスタッフでしかない。
    上下と支配の関係でいえば、勤務医の下にいる看護師でもない、ただの通訳のひとりにすぎません。
    けれど、その女性ために、軍医官は、「万一のときは、自分は人間として最善を尽くして死にます」と覚悟を決めています。
    しかも、「それが自分に確約できる全てです」とまで述べています。

    ここにも、かつて日本にあった職場の姿が明確に現れています。
    西洋においても、ChinaやKoreaにおいても、部下は上司の私物です。
    部下は自分が助かるためにこそある。

    ですから南京城攻略戦のときも、蒋介石は日本軍が攻めてくるとわかったときに、いの一番でそこから逃げ出していますし、マッカーサーも開戦初期に日本軍がフィリピンに上陸したとき、やはりいの一番にフィリピンから逃げ出しています。
    そして最高指揮官が「逃げた」ことについて、どこからも苦情もなければ、責任の追求もありません。
    なぜなら、それが彼らにとっての常識だからです。

    ところが日本では違います。
    たとえ軍隊であっても、そのなかの医局であっても、役割分担としての上下はもちろんあります。
    けれど、人としてはどこまでも対等というのが、日本人の考え方です。
    だからこそ、軍医官は、自分の彼女でもない、ただのひとりの部下のために、自分の命を進んで投げ出そうと言っています。
    部下の可南子さんは、陛下の「おおみたから」であり、親御さんから預かっているかけがえのない大切な存在なのです。

    一方で、可南子さんも「いいえ、もしそういうことがあれば、私はこれを飲みます」と青酸カリを見せています。
    このことは、「ですからどうぞ軍医様は、私のことをお気遣いなくお逃げください」と言っているのです。
    我が身を殺してでも、周囲の人を助けようとする。
    こういう展開は、極限の事態に追い込まれたときに日本人が見せる「魂の特質」といえると思います。

    ただしこのとき可南子さんは、ひとつだけ軍医にお願いをしています。
    「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたい」というのです。

    この時代、外地に散っていた日本人について、終戦後の復員が行われた時代ですが、特に満州方面から朝鮮半島を経由して帰ろうとした日本人の民間人の婦女子を狙って、数々の暴行が行わていました。
    このことは、特に朝鮮人の蛮行として紹介されることが多いのですが、実はそればかりではありません。

    当時の世界の戦争において、勝った側の兵士等が、負けた側の国の女性たちを、負けた側の男性たちが見ている前で強姦する。これは当時の世界における常識であり、もっというなら義務でもありました。
    義務というと、びっくりされる方もおいでかもしれませんが、中世から近世において、民族同士の戦いというのは、民族がある限り続くわけです。
    ですから血を混ぜてしまう。そのために女性を強姦し孕ませる。そうして混血児を生む。
    血が混じれば戦いがなくなる、というわけです。

    そうした伝統が20世紀になってもまだ残っていたわけです。
    ですからドイツのベルリンが陥落したとき、ベルリンの女性たちは、年齢に関わりなく8割が強姦されたといわれています。
    敗ける、ということは、そういうことだったのです。
    同じことは、ベトナム戦争で韓国兵が徹底して行っています。

    聞きたくないことだと思いますが、事実の理解のためにもうひとつ申し上げると、負けた側の国の女性たちを、夫や父親の見ている前で強姦する。
    銃を突きつけられ、あるいは半殺しにされた状態で、自分の恋人や妻や娘が目の前で強姦されると、男たちは完全に抵抗力を奪われるのだそうです。
    そしてそれをやった連中に対して、二度と逆らわなくなる。人類史に残るそれが現実です。
    言いたくはないですが、戦後の混乱期に、白昼堂々街のそこここで三国人を自称した在日朝鮮人たちが、日本人の婦女子への暴行を働きました。
    そのことの結果が、いまに残る在日の横暴に対して日本政府がまるで及び腰になっている、ひとつの理由であるのかもしれません。
    けれど、悪は悪なのです。しかも日本は彼らを保護しさえすれ、彼らを虐めたことは一度もありません。
    むしろ二度と蹂躙されないよう、私達は新しい未来を築いていかなければならないのです。

    さらにいうと、可南子さんが自分の遺体を辱められないように焼いてくれと申し出ていますが、これは斜め上の半島国の伝統芸です。
    屍姦と言って、死体を強姦する。
    常軌を逸していますが、これまた彼の国の伝統です。
    終戦後復員してくる途中で、多くの日本人女性が、こういう辱めを受けました。
    そしてそんな情報を、当時まだ二十歳そこそこであった可南子さんも、これを「知っていた」ということなのです。
    人の皮をかぶったケダモノ、という言葉がありますが、そういう人種が世界にはあるのだ、ということについて、私達は、決して無防備でいたらいけないと思います。

    英国人の兵隊が女性に下品な口をきいたとき、可南子さんは「汝は警備隊員か侵略隊員か」(原文のまま)と言い放ちました。階段の道すらも譲らない。
    当時は、イエローは家畜以下の存在でしかないとされた世界です。
    英国人兵士と比べれば、可南子さんの身長は、150cmくらい。
    英国人兵士は、平均身長190cm以上です。
    その大柄な英国人の将校が、前からやってきて、小柄な可南子さんが、道さえ譲らす凛として胸を張り、道さえも譲らない。
    現代日本人よ、その凛々しい姿を見よ、と言いたくなります。

    このことを、彼女が、英国生まれの英国育ちでレディファーストの国に育った、彼女における特殊な事情がそうさせたのである、といった人がいましたが、違います。
    戦いに勝ったとか、負けたとか、戦勝国だとか敗戦国だとか、白人だとか有色人種だとか、男とか女とか関係ない。戦いが終われば、ひとりの人間であり、人間である以上、人として対等だ、というのが日本人の日本人としての考え方です。
    その日本人としての誇りがあればこそ、彼女は堂々と、英国人将校に道を譲れと迫ったのです。
    「紳士なら、そうするのがあたりまえでしょ?」ということです。

    そうした気丈さに心打たれたからこそ、英国人の将校が、可南子さんのために、真剣になって父親を探してくれるわけです。
    父親が見つかった知らせを受けたときの可南子さんの微笑みを、博士は
    「東洋の神秘の花」
    と讃えています。わかる気がします。

    当時のことです。捕虜の日本人女性は化粧などしていません。スッピンです。
    けれど、命の輝きというか、人格からにじみ出る美しさというのは、下手な化粧などよりも、はるかに気高く美しいのです。
    実は、この「生命の輝き」こそが日本美です。
    そしてその「生命の輝き」は、整形では決して出すことができないものです。


    さて、この物語には後日談があります。

    ある日、グリーン博士が、
    「帰還の目処がついた、昭和21(1946)年の桜の花咲く頃に、あなたがたは日本に帰れるでしょう」とうれしい知らせを告げにきたとき、ちょっと気になることを言ったのです。

    「ジェロンの収容所にいる日本人諸君が、ある英国人に不満をもっているそうですね。そういう話を聞いていますか?」
    「いえ、聞いていません」
    「私も確実には知らないのですから、今の話は取り消します。」

    実は、こういう話なのです。

    ジェロン収容所はシンガポールから5マイル離れたところにありました。
    日本への復員船が3隻あったのだけれど、輸送指揮官の少佐が男だけ乗せて、女性の乗船を許さなかったのです。
    その後、暴風雨が吹く季節風が吹く時期となり、帰還船は停まってしまいました。

    そこで日本人女性たちから怨嗟の声が起こったのです。
    それに残った男どもが声を合わせるから、不満はますます大きくなりました。
    3月下旬にやっと1隻入ったのですが、このときもやはり女性の乗船は許されません。
    少佐に対する怨嗟の声は、ますます高まりました。

    やっと次の引き上げ船がタンジョン・バガーの大桟橋に入ってきたとき、ようやく女性たちと子供全員の乗船が許されました。
    女性たちは満腔の不満を胸いっぱいにして乗船してきました。

    するとその英国人の少佐がお別れにきてこんなことを話したのです。
    「皆さんは私を怨んでいたそうですね。でも私は皆さんに少しでも楽に日本で帰れることのほうが、私は大切だったのです。私は船が入選するたびに検分しました。そして一番気になるところを見に行きました。
    この船には婦人用のトイレを心して作ってあります。
    これならば、ほかのところもよいだろうと思いました。
    私は戦時用の輸送船にあなたがたをおしこめて、不快な不自由な思いをさせたくなかったのです。」

    女性たちの顔から恨みや不満の表情が消え、感謝の表情に変わりました。
    そしてその船が桟橋を離れる時、少佐へのせめての感謝のしるしにと、どこからともなく「蛍の光」が歌われ、歌声は60人ほどの女性たちの声で唱和されたのです。

    英国兵たちは、いついつまでもその船の影が見えなくなるまで見送っていたそうです。
    この英国人少佐の日本人復員女性にたいする対応は、彼の意識の中に、二木可南子さんによる、日本人女性に対する畏敬の念があったからだといわれています。

    たったひとりの日本人女性の毅然とした態度と行動が、勝者である英国人将校の心を変え、多くの日本人女性を救ったのです。
    このことも、私たち戦後の日本を生きる者が忘れていけないエピソードではないかと思います。

    さて、では二木可南子さんの、この凛とした姿勢は、彼女が英国在住経験があったからなのでしょうか。
    違うと思います。
    なぜなら、海外におけるこうした凛とした日本人女性の姿は、他にも数多く伝えられているからです。

    古来、我が国では、神様と直接対話できるのは、女性だけに与えられた特権と考えられてきました。
    ですから、神社のお神楽でも、女性の巫女さんが舞うお神楽は、すべて「神に捧げる舞」です。
    男性が舞うお神楽もありますが、それらはすべて「観客に、その神様のことを説明するための舞」です。
    お雛様のひな壇は、最上段に天皇皇后両陛下がおわしますが、その下の段は三人官女で女性、次の段が五人囃子で童子。
    男性最高位の左大臣、右大臣は、その下の段です。
    なぜなら神に通じる主上と対話できるのは、女性だけに与えられた特権だからです。

    どうしてそのような思想になったのかと言うと、縄文以来の万年の単位で続いてきた我が国は、古い昔から魂を持った子を生むことができる女性のみが、神から直接に魂を授かることに偉大な神聖を見出してきたからだといわれています。
    そしてこのことを裏付けたのが、神話に登場する最高神であり女性神である天照大御神であり、またその天照大御神と直接対話することを役目とする天宇受売命(あめのうずめのみこと)です。

    神道では、なくなった方は、その家の守り神になります。
    その守り神となったご先祖と直接対話できるのは、その家を代表する女性です。
    だから世帯を取り仕切る女性のことを「カミさん」といいます。

    西洋では女性は、イブの時代から、男性(夫)によって支配されることが人類女性としての原罪ですが、我が国では女性は神の代理です。
    だから責任があります。
    その責任の自覚が、我が国の女性をして、古来、凛とした女性を育てたのだと思うし、だからこそ世界最古の女流文学も女性の手によって書かれたし、現代につながる日本の形もまた、女性の天皇である持統天皇によって築かれています。

    女性を礼賛するために申し上げているのではありません。
    力の強さなら、男性の勝ちです。
    世界中、どこの国においもて、どの民族においても、歴史を通じて権力とは、すなわち「力」でした。
    けれど、我が国では、その「力」を超える存在を思想としてつくりだすことによって、人々が豊かに安全に安心して暮らせる社会を実現する努力が、歴史を通じて築いてきました。

    では、その「力」を超える存在とは何かといえば、それは「権威」です。
    そして権威というものは、その国における古くて長い歴史伝統文化によってのみ育まれます。
    なぜなら、古いということが、正しいということの証明となるからです。
    政変によって、毎度、すべてが根底から否定される社会では、こうした「古いという権威」が育ちません。
    そして「権威」がそだたなければ、もっぱら、「力」によって支配することしかできなくなります。
    そして「力」の行使は、さらに大きな「力」がやってきたときに、倒され、否定されます。

    どんな理不尽でも、力があれば許されるというのでは、決して人類社会に平和と安定をもたらされることはありません。
    そしてその力を理知的に抑えるものが、何が正しく、何が間違っているのかということを明確にする価値観です。
    そして価値観は、「古い」ということが価値になります。

    「力よりも正しいことがある」という信念が日本文化の根幹です。
    だから男性の持つ「力」を凌駕することができる「正義」は女性のものとされてきました。
    そして日本人女性は、多くの国の人々から、
    「日本人女性は凛としている」とみられていたのです。


    ※この記事は2009年2月の記事をリニューアルしたものです。
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    生きることを大切思うからこそ、どんなにつらくても苦しくても、戦って戦って戦い抜いてくれたのではないでしょうか。
    故郷を愛するからこそ、いまを生きている私たちの命を大切に思うから苦しくても戦い、散って行かれた人も、生き残った人も、その重荷を背負い続けたのではないでしょうか。

    玉井浅一司令
    玉井浅一
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    小名木善行です。

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    玉井浅一司令は、最初の特攻隊である敷島隊に出撃を命じたマニラ基地の副長だった人です。
    明治35(1902)年、愛媛県松山市のお生まれで、愛媛県の松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)を卒業しました。
    松山東高は、甲子園でも有名ですが、愛媛県屈指の難関校でもあります。
    夏目漱石の「坊っちゃん」の舞台となった学校です。

    昭和19(1044)年10月17日のことです。
    マニラの海軍飛行隊基地に大西瀧治郎中将が着任しました。
    基地の司令は、山本栄司令です。

    この日、たまたま他の基地に出張していた山本司令は、大西長官が着任されるということで、急きょマニラ基地に飛行機で帰還したのですが、この飛行機が着陸に失敗し、山本司令は足を骨折して緊急入院してしまったのです。
    そこで副長の玉井浅一大佐が、基地の一切を任せられることになりました。

    大西中将は、玉井副長以下、基地の幹部を集めました。
    その会議の席で、
    「戦況を打開するためには、
     栗田艦隊のレイテ突入を
     成功させねばならない。
     そのためには
     零戦に250キロ爆弾を抱かせて
     体当たりをさせるほかに
     確実な攻撃法はない」と語りました。

    戦艦や空母を撃沈させてしまえるほどの大量の爆薬を積んで、体当たりするのです。
    成功すれば敵に大ダメージを与えることができます。
    しかしそれをやった者は、絶対に帰還することはできません。

    会議室には重苦しい沈黙が流れました。
    玉井副長は、大西に猶予を願い、先任飛行隊長を伴って室外へ出ました。
    「司令からすべてを任された自分としては、
     長官に同意したいと考える。」
    玉井の言葉に、指宿先任飛行隊長も、
    「副長のご意見どおりです」と従いました。

    次に、では誰にその指揮官を命ずるか、です。
    玉井副長は、最も優秀なパイロットである
    関行男大尉を指名しました。

    10月25日、関行男大尉率いる敷島隊の5名は、米軍空母セント・ローに突入し、特攻に成功し、艦を撃沈させました。
    作戦は成功でした。
    けれど隊の全員は、還らぬ人となりました。

    この成功のあと、特攻機は次々と出撃しました。
    かれらを送りだした玉井中佐は、昭和20(1945)年2月、台湾の二〇五空司令に転じました。

    ある日のことです。
    特攻出撃した部下の杉田貞雄二等飛行兵曹が、敵に会えずに帰頭しました。
    ところが抱えている爆弾の投棄の装置が空中で故障して、爆弾の投棄ができない。
    爆弾は安全弁を外してあります。
    着陸のショックで自爆する危険がありました。

    玉井司令は着陸を命じました。
    それは、運を天に任せてのことでした。
    着陸は成功しました。

    玉井司令はすぐに飛び出しました。
    まっすぐに飛行機に走ると、
    「爆装のまま
     指揮所の真上を飛ぶとは、
     この馬鹿もん」と、
    厳しい顔で杉田を一喝しました。

    しかし玉井司令は、すぐに両手を広げて杉田を抱え、
    「よかった、よかった。
     無事でよかった」
    と涙を流しました。

    ある日、今中博一飛曹らが呼ばれ、玉井司令と一緒に近くの丘に登りました。
    玉井司令はなぜか周辺の小枝を集めるように命じました。
    何をするのかと見ていると、玉井司令は小枝に火をつけ、ポケットから白い紙包みを取り出して広げました。

    その包みには、一片の頭蓋骨がはいっていました。
    一緒にいたみんなは、それが離陸に失敗して亡くなった部下のものとわかりました。

    玉井は無言のまま、その骨を焼きました。
    焼き終えると玉井司令は、
    「家族が待っておられるから、
     送ってあげたいと思ってね」
    と誰にともなくポツンと語りました。
    それは日頃厳しい玉井司令の、優しい姿でした。

    戦争が終わりました。
    昭和22年の猛暑の日のことです。
    玉井元司令は愛媛県の関行男大尉の実家に、大尉の母のサカエさんを訪ねました。

    玉井司元司令は、関大尉の母に両手をついて深く頭を下げると、次のように言ったそうです。
    「自己弁護になりますが、
     簡単に死ねない定めに
     なっている人間もいます。
     私は若いころ
     空母の艦首に激突しました。
     ですから散華された部下たちの、
     張りつめた恐ろしさは、
     少しはわかる気がします。
     せめてお経をあげて
     部下たちの冥福を
     祈らせてください。
     祈っても
     罪が軽くなるわけじゃありませんが。」

    玉井さんは、戦後、日蓮宗の僧侶になりました。
    そして海岸で平たい小石を集め、そこに亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えました。
    そしてお亡くなりになるその日まで、彼らの供養を続けました。

    玉井僧侶は、また貧しかった当時の地域住民のためにと、無料で戒名を書き与えました。
    また、真冬でも氷の張った冷たい水で、水垢離(みずごり)を取り続けました。
    長女の敏恵さんご夫妻は、そんな玉井さんの姿を見て、あえて命を縮めているようにしか見えなかったそうです。

    昭和39(1964)年5月、広島の海軍兵学校で、戦没者の慰霊祭が行われました。
    このとき日蓮宗の導師として、枢遵院日覚氏が、役僧二人をともなって着座しました。
    戦友たちは、その導師が玉井浅一さんであることに気付きました。

    玉井さんの前には、軍艦旗をバックに物故者一同の白木の位牌が並んでいました。
    位牌に書かれたひとつひとつの戒名は、玉井さんが、沐浴(もくよく)をして、丹精込めて、何日もかけて書き込んだものでした。

    読経がはじまると、豊かな声量と心底から湧きあがる玉井さんの経を読む声は、参会者の胸を打ちました。
    来場していた遺族や戦友たち全員が、いつのまにか頭を垂れ、滂沱の涙を流していました。
    会場に鳴咽がひびきました。
    導師の読経と遺族の心がひとつに溶け合いました。

    その年の暮れ、玉井浅一さんは、62年の生涯を閉じました。

    終戦後、責任を取って自害した人もたくさんいます。
    亡くなるその日まで、ずっと重い十字架を背負って生きた人もいます。
    生き残られた方々は、先に亡くなった戦友や部下たちのために、遺骨収集を続けられたり、慰霊碑を建てられたり、靖国への寄進をされたりしてこられました。

    靖國神社や、全国の護国寺には、そうして戦争を生き残られた方々が寄進された慰霊碑が立ち並んでいます。
    愛知の三ケ根山には、その慰霊碑が、まさに立ち並んでいます。
    全国の護国神社にも、それはあります。

    それら慰霊の碑は、単にそこにあるのでありません。
    戦後を、重たい十字架を背負って生きてきた勇敢な戦士が、戦い散って行った今は亡き戦友のためにと、彼らの勇気を、思いを、情熱を、生きた証(あかし)を、貧しい生活をきりつめながら、生き残ったみんなで力を合わせて石碑にして残したのです。

    日本は縄文以来二万年の時を、死者とともに生きた国です。
    死者を大切にするということは、過去と歴史を大切にし、いまを生きる人たちを大切にし、未来の子供たちを大切にするという心です。

    戦時中、ひたむきに国を愛し、祖国を愛し、故郷を愛し、人種や民族の垣根を越えて人々が平和に暮らせる日を夢に願い、真心で戦った人たちがいました。
    そして戦後には、一緒に戦って亡くなった戦友を、部下を、生涯にわたって大切に生きた人たちがいました。

    一方で、昨今、よくテレビにでるある大学教授は、
    「もしどこかの国が攻めて来たら」という問いに対して、
    「抵抗しないでみんな死ねばいいんですよ。
     そして歴史の中で、
     あのあたりに戦わずに死滅した
     日本という国と民族があったのだという
     記憶が残ればいいんですよ」
    としらっと話していました。

    そうなのでしょうか。
    生きることを大切思うからこそ、どんなにつらくても苦しくても、戦って戦って戦い抜いてくれたのではないでしょうか。
    故郷を愛するからこそ、いまを生きている私たちの命を大切に思うから苦しくても戦い、散って行かれた人も、生き残った人も、その重荷を背負い続けたのではないでしょうか。

    散華された戦友たちを、大切に思いながら、鬼籍にはいられた先輩たちがいます。
    そういう先輩達の前で、
    「みんな死ねばいいんですよ」という言葉は、人の心を持った人の言う言葉なのでしょうか。

    大昔から日本で言われて続けていることがあります。
    人は「魂が本体で、肉体はその乗り物である」ということです。
    魂の状態ですと、霊体ですから、したいことははなんでもできてしまうのだそうです。
    けれど、それだと訓練にならない。
    ですから、私たちが決まったルールのもとでスポーツをするように、霊体は肉体という重みを持ってこの世の中で訓練をするのだそうです。

    何のための訓練かといえば、それは神となるため、あるいは魂の成長のため。
    ですから、より神に近い魂は、より厳しい過酷な時代と肉体に生まれてくるのだそうです。

    そのように信じられていたから、江戸時代では、身障者の方は、より位の高い霊を持っている人として大切に扱われたりしました。
    ただし、大切にというのは、何もさせないで甘やかすということではなくて、厳しい訓練に協力するという形であったのだそうです。
    このように見た時、先のあの厳しい大戦を担って生まれてきた魂は、もしかすると安閑とした現代を生きる人よりも、より位の高い霊を持った人たちであったといえるかもしれません。

    けれど、いまを生きている人たちには、また別な使命があるように思います。
    それは、安閑とした平和の中にあって、私たちの国が、また私たち自身が、日本を取り戻し、魂を高めていくという、これもまた訓練なのではないかという気がします。

    かつて、勇敢に戦った人たちがいました。
    その重荷を背負って、立派に生きた人たちがいました。
    私たちは、その重荷を、いまあらためてかみしめ、日本人としての魂を取り戻していくべきときにきているように思います。


    ※この記事は2009年12月の記事をリニューアルしたものです。
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  • 臼田畏齋(うすだ いさい)と人の幸せ


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     人は、身体や目の色を弁じたり、耳で聞く声で審査したり、そのことを口に出したり、舌で味わったり、手足で運動したりします。それらすべてが『天の神々の命ずる所』です。
     何事も神々の命(みこと)によります。我々が、自らの意のままにその命(みこと)を私用するならば、それは汚穢にまみれることと同じことです。誰もが天の徳を備ええいると知れば、天の命(みこと)を畏れざるをえません。
     暗闇にあっても、天の目を逃れることはできません。それは役人の十手(じゅって)より厳しいものです。もし天徳を蔑(ないがしろ)にし、それを穢(けが)すなら、いずれ天誅を免れることはできなくなります。
     神のまにまに、そして日々の行動や仕事などを通じて、常に人々の幸せを願い続けることのみが、大切なことなのではないでしょうか。

    20170202 臼田畏斎
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    小名木善行です。

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    臼田畏斎(うすだ いさい)は、備前(いまの岡山県南東部)の家老だった人です。
    ところが38歳のとき、(当時の38歳というと、いまの53歳くらいの感覚かと思います)その高官である職を捨てて京に遊学しました。

    彼は都で、学問を求めてあちこちの門をくぐりました。
    けれど、どこの門をくぐっても、納得がいかない。
    組織人として、また、官僚、政治家としての実績と経験を持つ臼田畏斎にとって、ただ論をあげつらうだけの学問所は、学問の名に値するもの、納得のできるものではなかったのです。

    もっとも、門をたたいて教えを乞うといっても、実際には、それぞれの塾にひとたびは入門します。
    その都度、ばかにならない費用がかかりました。
    禄を捨てた臼田畏斎には、収入がありません。
    蓄えも底をつきだし、やむなく彼は代書屋をはじめます。

    もっとも当時の代書屋で儲かったのは、やはり色街の恋文代書らしいのですが、道を求める臼田畏斎には、そのようなことはできません。
    お堅いお役所への提出文書や、証文の書付など、仕事を選んで受けるので、なかなか収入がままなりません。
    おかげで、米が買えず、野菜だけを煮炊きしてようやく妻子を養うといった日々が続きました。

    住まいも、貧乏長屋です。
    いくら元は、雄藩の御家老であったといっても、生活状況は貧乏な庶民以下の暮らし向きでした。
    ところが、臼田畏斎に会う人は、誰も彼が貧しい生活状況にあるとは思いません。
    どうみても、毎日祇園あたりで芸者をあげて遊べるくらいのお金持ちにしかみえない。
    もちろん臼田畏斎には、そんな余裕などありませんが。

    たまたま、臼田畏斎の家に行った人がいました。
    あまりの貧乏な暮らしぶりに、驚いた彼は、臼田畏斎に食べ物などを贈ってくれたそうです。
    けれど臼田畏斎は、決して受け取ろうとしませんでした。

    そんなある日、友人が言ったそうです。
    「朋友であれば、
     財を貸借するという方法もある。
     貴兄は窮困にありながら、
     なぜ人から借りることさえしないのか。」

    臼田畏斎は笑って次のように答えたそうです。
    「まったく受けないということではありませんよ。
     もし朝晩の食事ができず、
     空腹によって外出さえもままならないということにでもなるなら、
     もちろん、好意をお受けします。
     しかし私は、貧乏はしていても、
     幸い、衣食に困り、飢えているわけではありません。
     だからあえて、お受けしないでいるだけです。」

    そんな臼田畏斎でしたから、だんだんに彼の評判は高まり、仕官の話も舞い込むようになりました。
    いまで言ったら大学教授にあたる、藩校の教授の話が舞い込んだりするようになったそうです。
    ところが臼田畏斎は、これらさえまったく受け付けません。

    目的が違うのです。
    彼は、世の真実を知り、本当の意味で人の上に立つものにとって必要な、実のある学問を求めていたのです。
    それを得るために、藩を捨て、家老職をも捨てたのです。
    それを途中であきらめて、自ら「役に立たない」と感じた儒学を、いまさら人に教えるなど、できる相談ではありません。

    臼田畏斎の住まいは貧乏長屋だったのですが、そんな長屋の人達は、病になっても、ゆっくり寝てもいられません。
    そんな窮状を見かねた臼田畏斎は、そんな長屋の某人のために、疲労回復や元気の出る薬を調合して与えました。
    いまで言ったら、アリナミンAの粉末のようなものです。
    これがものすごく効きました。

    いつのまにか臼田畏斎のこの薬は、評判が口コミで広がって、遠方からまで買いに来る人が出るようにさえなりました。
    これより後は、暮らし向きもかなり改善されたといいたいところですが、臼田畏斎は、窮民からは正規の値段をとろうとしない。
    そんな人にこそ、薬をより多く与え、
    「お金がなくても構わないよ。
     いつでもいらっしゃい」
    という態度であったのだそうです。

    そんな畏斎が3〜4人の友人と野外に遊んだとき、人が卒倒して肥溜の中に落ちてしまうというところに遭遇しました。
    友人たちも、また通行人の人々も、その様子を憐むのだけれど、糞尿の中です。
    誰もあえて近づこうとしません。
    このとき臼田畏斎は、すぐに手を肥溜めの中に差し入れて、人を救い出しました。
    その様子は、まるで不潔を感じていないかのようであったそうです。

    倒れた人は、ひさしく癲癇(てんかん)の発作を持つ人でした。
    たまたまこのとき発症して、肥溜めに落ちてしまったのです。
    もしこのとき助けてくれなければ、体は人に知られることもなく肥溜めの中で朽ち果ててしまったかもしれないと、おおいに、これを謝しました。

    また臼田畏斎は、ある日、借金の返済のためにと、金五両(いまの30万円くらい)を懐に入れて家を出たのですが、途中でこれを落としてしまったのです。
    一生懸命に探しましたが、ついにそのお金は出てきませんでした。
    奥さんは、さすがにこのとき怒ったそうです。
    ところがこのとき畏齋が言うのには、
    「楚人が弓を失えば、楚人が之を得る。
     落とす者に損があれば、
     拾う者に益ありという。
     だから惜しむ意味はないよ」
    臼田畏斎は、どこまでも政治を行う立場の人であったのです。

    あるとき、市場で魚を買った小者が、泥棒に買った魚を奪われました。
    小者は、手ぶらで帰ればその主に叱られるからと、帰ることもできず、泣いていました。
    畏齋は、これを見て、その小者に銭を与え、その小者に同じ魚を買って持ち去らせました。
    臼田畏斎は、慈愛の人であったのです。

    この時代に、中村惕斎(てきさい)という儒者がいました。
    『講学筆記二巻』を著し、また程宋学を教え、またその学問を得るための工夫を極めて詳細に説いていた人です。
    その中村惕斎が、ある日、臼田畏斎に言いました。
    「私は日頃、知識を天命として論じています。
     天は常に見ているし、天を畏るべしと論じていますが、
     いまだ天の法則を理解するには遠く及ばずにいます。」

    臼田畏齋は答えました。
    「人は、身体や目の色を弁じたり、
     耳で聞く声で審査したり、
     そのことを口に出したり、舌で味わったり、手足で運動したりします。
     それらすべてが『天の神々の命ずる所』です。
     何事も神々の命(みこと)によります。

     我々が、自らの意のままにその命(みこと)を私用するならば、
     それは汚穢にまみれることと同じことです。
     誰もが天の徳を備ええいると知れば、
     天の命(みこと)を畏れざるをえません。

     暗闇にあっても、天の目を逃れることはできません。
     それは役人の十手(じゅって)より厳しいものです。
     もし天徳を蔑(ないがしろ)にし、
     それを穢(けが)すなら、
     いずれ天誅を免れることはできなくなります。

     神のまにまに、そして日々の行動や仕事などを通じて、
     常に人々の幸せを願い続けることのみが、
     大切なことなのではないでしょうか」

    中村惕斎(てきさい)は、この説を聞いておおいに感服し、ついにこれを筆記に載せ、先賢の言として紹介しています。

    臼田畏齋は、元禄3(1690)年の夏に病に伏し、その年の10月に亡くなりました。
    享年46歳でした。
    いまで言ったら、61歳くらいの感覚です。

    名聞冥利という言葉がありますが、名声を博することや、お金持ちになることが◯◯ドリームなどといってもてはやされる世の中になりました。
    けれど、少し考えたらわかることですが、そうした成功者となれる人というのは、何十万、何百万人にひとりです。

    もちろん、誰にもその可能性はあることでしょう。
    けれど、そうなれる何十万、何百万人にひとりだけが幸せで、そうなれなかった何十万、何百万人の人は、不幸せなのでしょうか。
    それが世の中のあるべき姿なのでしょうか。

    人は誰しも、神々の命(みこと)をもって生まれてきます。
    ならば人は、せっかくこの世に生まれてきたのです。
    その人生を通じて、何を得、何を学んで人生を終えるのでしょうか。
    なんのために、自分の人生を使うのでしょうか。

    人の本体は御魂にあり、肉体はこの世の借り物ということが、大昔からの日本人の考え方です。
    借り物をいくら飾ったところで、所詮はそれは借り物でしかない。
    いずれは死をもって、借り物の肉体をお返ししなければならない日が来るのですし、
    そのときには、今生で得た一切の名聞冥利は、この世に置いて行くことになります。

    要するにそれは、いってみればレンタカーを、お金や名誉で飾り立てているようなものです。
    期日が来れば、結局は返さなければならないのです。
    もちろん、そのレンタカーに乗っている間、豊かに暮らせるように努力することも大切なことでしょう。
    けれど、ではそもそも何のためにそのレンタカーを借りたのかといえば、そこには何か目的があったはずです。
    それは、レンタカーを飾り立てることであったのでしょうか。

    臼田畏齋は、自ら家老職という名聞冥利を捨てました。
    また、自らすすんで名を売ることもしませんでした。
    そうすることで、彼は道を求めました。
    けれど、残念なことに彼は、彼自身が「実がない」と断じた儒学以上の学問を、その人生を通じて得ることができずに、この世を去りました。

    けれど彼は、その生涯を通じて、儒学にない、より高いものを得ることができたのであろうと思います。
    そしてそれこそが、彼の目指した、より高みに昇ることであったのではないかと思います。
    人は、時代の知識の中でしか生きられません。
    その時代の知識が、まだ至らないものであったとしても、それでも誠実を貫いて生きる。
    その意味では、身分を捨てたあとの彼の人生は、生活は苦しいものであったとしても、裕福な家老職にあったときよりも、いっそう輝いた人生であったのではないかと思います。


    ※この記事は2017年2月の記事の再掲です。
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  • 瀬名姫


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    https://in.renaissance-sk.jp/skrss_2211_sk3?cap=onagi
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    瀬名姫は、美しく、教養の高い、今川の娘です。
    家康は、桶狭間のあと、信長の理想に共鳴し、結果として今川を裏切った形になりました。
    戦国の世では、妻子は人質です。
    ですから家康が今川を裏切ったとなれば、駿府に留め置かれた妻子が斬首となるのが、戦国の習いです。
    けれど瀬名姫の両親は、今川義元の兄弟です。
    しかもこのとき家康と瀬名姫との間には、まだ幼児の長男の信康がおり、お腹には長女の亀姫がありました。
    みなさんが、そんな瀬名姫の親であったら、どのようにするでしょう。
    なんとかして娘の命を助けたい。
    なんとかして、孫の命を助けたい。
    そのように考えるのではないでしょうか。

    NHK大河ドラマ『どうする家康』で瀬名姫を演じる有村架純さんと、西来院所蔵の瀬名姫の肖像
    瀬名姫
    画像出所=https://twitter.com/hochi_enta/status/1611091175230042113?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1611091175230042113%7Ctwgr%5E300950c3a322aa9d28017fa655ad75e290ba7788%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fasa-dora.com%2F10689%2F
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    今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」の第一回が先日放送されました。
    歴史大河ドラマというより、エンタメとして作っている番組であって、家康をいわゆる大物として描くのではなく、普通の人の感覚で描こうとしたというコンセプトはよくわかるのですが、相変わらず日本の風景が緑のない半島の風景のようであったり、村の家がまるっきり半島式のボロ家であったりと、これはシナリオというよりもプロデューサーの趣味としかいいようのない残念な描写も多々見受けられました。
    継続して観たいかというと、答えはNOです。

    ただ、救いは、今川義元に野村萬斎さんを起用して、それなりの貫禄を出したこと、それと家康の正妻となる瀬名姫が、たいへん心音の良い美しい女性として描かれていることでした。
    近年の家康ものの多くが、これはドラマに限らず小説でもそうなのですが、瀬名姫をとんでもない悪女として描くものが多く、なかには「瀬名姫はもともとは今川義元のお手付きで、当時人質だった竹千代に、使い捨ての『お古』として押し付けられた」などいう暴論まで出る始末であったことを考えると、歴史の視点が、多少なりともまともになったことは、良いことであろうと思います。

    ちなみに瀬名姫は今川義元の姪(父の兄弟の子)であって、今川義元はそんな娘に手を出すほど餓えてなどいません。今川義元は日本人であり、当時にあって人の上に立つ実力者なのです。
    すこしは常識を働かせて考えていただきたいものと思っていたので、ここは共感でした。

    そもそも、瀬名姫は、美しく、教養の高い、今川の娘です。
    家康は、桶狭間のあと、信長の理想に共鳴し、結果として今川を裏切った形になりました。
    戦国の世では、妻子は人質です。
    ですから家康が今川を裏切ったとなれば、駿府に留め置かれた妻子が斬首となるのが、戦国の習いです。
    けれど瀬名姫の両親は、今川義元の兄弟です。
    しかもこのとき家康と瀬名姫との間には、まだ幼児の長男の信康がおり、お腹には長女の亀姫がありました。

    みなさんが、そんな瀬名姫の親であったら、どのようにするでしょう。
    なんとかして娘の命を助けたい。
    なんとかして、孫の命を助けたい。
    そのように考えるのではないでしょうか。

    このときの瀬名姫の両親もそうでした。
    だから両親は、瀬名姫母子の助命と引き換えに、自らの命を絶っています。

    けれど、そんなことになってしまった瀬名姫は、どうしたら良いのでしょう。
    これまた自分がその当事者となってお考えいただきたいことです。
    自分の夫の判断で、自分の両親が自害したのです。
    夫のことは愛している。
    我が子は可愛い。
    けれど、瀬名姫はどうしたら良いのでしょう。

    歴史は、ストーリーです。
    ですから、どうしてどうなったという筋を学ぶ学問です。
    そして歴史を学ぶとは、まさにそのストーリーから、「自分ならどうする」を考えることです。
    これは歴史上、実際にあった事件です。
    当事者の気持ちになって考えていただきたいのです。

    NHKの番組の描写が、この後どのようになっていくのかはわかりません。
    以下に先日刊行した拙著『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』に、瀬名姫のことを書いていますので、一部転載したいと思います。
    ちなみにこの本、自分の中ではこれまでの本の中の最高傑作です。

     ***

     築山御前は、徳川家康の、ただひとりの正妻です。けれど理由あって非業の死を遂げた築山御前を、晩年の家康は、
    「あのとき築山殿を、女なのだから尼にして逃してやればよかった。命まで奪うことはなかった」と、生涯悔やみ続けました。
    さらにいえば、実力大名となった家康のもとには、全国の諸大名から天下の美女たちが次々と献上されてきましたが、家康はそれら美女たちに、いっさい手を付けませんでした。
    とはいえ、武家のならいで、跡取りの男子を産まなければなりません。
    ですから家康は女性との交渉は持ちましたが、相手にするのはもっぱら領内の農家の、あまり美女とはいえない、しかも後家さんたちばかりであったと伝えられています。
    ある人が「家康殿は不思議な趣味をお持ちですなあ」と聞いたそうです。
    すると家康は、
    「美女を相手にすれば築山殿が悲しむ」と答えたそうです。
    家康は、十代で結婚し、その後にみずからの手で死なせることになった非業の妻を、生涯、愛し続けていたのです。

     築山御前は、古来、毒婦と言われ続けてきました。曰く、
    「生得無数の悪質にして嫉妬深き御人」(十八世紀に成立した『柳営婦女伝系』)
    「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(江戸中期の『武徳編年集成』)
    「唐人医師の減敬と密通し、凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)。
    といった具合です。
    近年でも家康のことを描いた小説等では、その多くが築山御前を悪女 として描いています。
    ひどいものになると、どの本とは言いませんが、
    「築山御前はもともと今川義元のお手付きで、当時人質だった竹千代に、使い捨ての『お古』を押しつけたのだ」などと書いているものもあります。
    申し訳ないけれど、築山御前は、今川義元の姪っ 子です。
    しかも今川義元は当時の世にあって、抜群の経済力を誇った男です。
    身内に手な ど出さなくても、女性に不自由は全くない。歴史上の人物を、日本人を、バカにするなと言いたくなります。

    築山御前が家康と結婚したのは、まだ家康が駿河の今川家に人質に出されているのことです。
    十六歳になった竹千代(家康の幼名)は、元服して松平元康と改名し、築山御前と結婚しました。
    築山御前の年齢はわかっていません。
    同年代だったという説もあり、かなり年上だったという説もあります。
    また、この頃の築山御前は、瀬名姫と呼ばれていました。瀬名という名は住んでいた地名から付けられた通称です。
    本名は伝わっていません。

    瀬名姫はみやびな都 風を愛する今川一門の娘であり、美人で、頭もよく、立ち振る舞いも優雅で気品がありました。
    それはまるで日本人形が生命を持ったかのような美しさであったともいいます。
    十代の家康にとって、瀬名姫は初恋の相手であったし、はじめての女性であったし、夢中になる妻でした。
    こうなることは、三河を領有して味方に付けた今川一門にとって、とても満足なことであったし、瀬名の両親も、人柄の良い家康との婚姻をとても喜んでくれたし、二人の結婚生活は、家康にとっても瀬名にとっても、夢のような幸せな日々であったといえます。

     そんな幸せに転機が訪れたのが一五六〇年の桶狭間の戦いです。
    領主の今川義元が織田信長に討たれたのです。
    桶狭間の戦いのあと、家康は三河の岡崎城に向かい、城から今川が派遣した城代を追い出すと、そのまま三河を占領しました。
    占領と書きましたが、元々岡崎城は松平の持ち城です。
    つまり家康は三河を取り戻したわけです。家康の松平家は、もとも三河の領主だったし、そもそも家康が駿河にあったのは、人質としてのことです。
    つまり家康は、桶狭間のあと、元の鞘に収まったのです。
    そして家康は、三河の安全保障のために、隣国の織田と同盟を結びました。一五六二年、家康二十歳のときのことです。

     ところがこのことは、家康の妻である瀬名姫にとっては一大事です。
    家康が今川を裏切った格好になったからです。
    このことは今川の家中で大問題になったし、今川義元の後継の今川氏真も激怒しました。
    この時点で瀬名姫の身は駿河にあります。人質として留め置かれているのです。
    このままでは、瀬名姫は今川によって捕縛され、打首になって、その首が河原に晒されるところです。
    娘の打首を防ぎ、娘の命を長らえさせようと、瀬名姫の父母は、ともに自害しました。
    他に愛する娘の命を助ける手段はなかったのです。

      瀬名は松平に嫁いだ娘です。
    今はもう松平の家の人間です。
    けれど、そうはいっても、夫の行動のために、自分の両親が自害したのです。
    現代よりも、はるかに親子の縁の濃密だった時代の出来事です。
    瀬名姫は、どれだけ悩み傷ついたことでしょう。
    夫を愛しているかと聞かれれば、「愛しています」と答えることができます。
    けれど同時にその夫の行動によって両親が自害しているのです。
    父母の死は、どれだけ瀬名姫の心を傷つけたことでしょう。
    本来なら瀬名もその場で喉を突いて死ぬはずのところです。
    瀬名がそれを思いとどまり、駿河で生きる決意をしたのは、おそらくは親の遺言によるものです。
    「お前は、松平に嫁いだのだから、
     どこまでも夫を立て、
     元康殿(家康のこと)に付いて行きなさい。
     それが嫁というものです。
     今川への忠義は、私たちがしっかりと立ててまいります」
    おそらく、そのような言葉か手紙が瀬名姫に両親のどちらかから届けられたのでしょう。
    子の幸せのためなら死ねる。
    それがこの時代の日本人の思考です。

     けれどそんな親の思いを前に、瀬名姫はどうしたらよいのでしょう。
    すでに家康との間に、長男の信康と長女亀姫が生まれています。
    その幼な子たちのためにも、瀬名姫は生きなけ ればなりません。
    瀬名姫は、誰より夫の家康と二人の子を愛しています。
    けれどその夫の 行動によって、瀬名の両親は自害したのです。
    両親は「お前は生き残れ」と言う。けれど生き残った瀬名にとって、生きることはそのまま煉獄の苦しみでもあったのです。

     結局瀬名姫は、生きて子を育てることを選択しました。
    今川家にとっても、それは三河の松平の世継ぎを人質に置くという意味で、賢い選択でした。
    だから瀬名は、そのまま今川のもとで暮らしました。
    しかし、いつの世も同じです。
    生きていれば生きていたで、今川の家中の女衆は、陰で瀬名姫のことを、
    「親まで殺しておいて本人は堂々と生きているなんて。
     ああいうのを毒婦って言うのよ、
     親不孝よねえ」などと噂します。
    悪口というものは、必ず本人の耳に入るものです。
    子のために生きなければならない瀬名姫にとって、今川での毎日は、まるで煉獄であったことでしょう。

    「このまま瀬名殿母子を今川に置いておいてはいけない。なんとか助け出さなければ」と強い思いを抱いた人物がいました。
    それが家康の家臣であった石川数正です。

    数正は、それまで捕縛してあった今川から城代として岡崎に派遣されていた鵜殿氏長・鵜殿氏次の親子と、瀬名姫母子との人質交換を今川に交渉します。
    鵜殿氏長は、今川義元の妹の孫です。
    いつの世も、孫ほどかわいいものはないものです。
    その孫への老婦の愛情を用いて、石川数正は瀬名姫母子を奪還しようとしたのです。

     石川数正は、八幡太郎義家の六男の陸奥六郎義時の三男の義基が石川姓を名乗ったことに始まる一族です。
    まさに源氏の直系として、生まれながらに武門の家に育った人物であり、豪勇無双の男です。
    駿河に赴き、この交渉を行おうとすれば、今川方は鵜殿氏長親子を取り返した上で、瀬名姫母子とともに石川数正も殺されかねない交渉事案です。
    なぜなら瀬名姫母子という人質を失えば、今川は三河を取られることになるからです。
    この交渉は、まさに石川数正だからこそ可能にできた交渉です。

     この人質交換によって、瀬名は岡崎にいる家康のもとへと帰ることができました。
    しかし瀬名にはどうしてもできないことがありました。
    いくら夫とはいえ、その夫のために両 親が死んだのです。
    瀬名は夫を愛しています。
    けれど、どんなに身を焦がすほど愛してい る夫でも、自分が夫のそばにあることは、両親への裏切りのような気がしてならないのです。

    だから岡崎城を前にしたとき、そこに夫がいるとわかっていても、瀬名はどうしても岡崎 城の門をくぐることができませんでした。
    だから瀬名は岡崎城近くの西岸寺に身を寄せました。
    ほんとうは尼にでもなりたかったのかもしれません。
    尼になれば、この世の人としては、一度死んだことになります。
    そうして御仏に仕え、両親の冥福を祈る。
    それもひとつの選択でした。

    けれど瀬名には、まだ幼い子がいるのです。
    亡くなった両親への愛と、子どもたちへの愛情。
    それに、この子たちにだけは、自分たち夫婦が味わったようなみじめな人質生活など、決して味わってほしくない。
    だから瀬名姫は、結局夫のいる岡崎城へは入らず、岡崎天満宮近くの総持尼寺近くの築山に建てられた家屋に住まいを設けました。
    ここで子らを育てる決心をしたのです。
    築山のおおもとは古墳です。
    ですからそこはいわば墓所を意味するものです。
    両親を失ない、墓所の築山に住む女性。
    こうして瀬名姫は、いつしか人々から築山御前と呼ばれるようになります。

      家康も瀬名を愛しています。
    見合い結婚だったとはいえ、今風に言うなら恋女房なのです。
    長年連れ添った仲です。
    だからそんな瀬名の気持ちは痛いほどわかる。なんとか瀬名(築山御前)には、安心して暮らして行ってもらいたい。
    自分にできることなら、何でもしてあげたい。
    けれど同時に、家康には 志 があります。
    それは「二度と戦乱の続く日本に戻してはならない」という立志です。
    そのために今川との確執を招くとわかっていながら、弾正忠の織田信長と同盟関係を結んだのです。
    これは男としての決意です。
    しかしその決意のために、妻がとんでもない苦しみに陥ることなってしまった。
    妻の苦しみは夫の苦しみです。

    瀬名はワシの顔を見るのが辛いのだろう。
    ワシも同じだ。辛い。
    ただなあ、あいつが近くに居てくれる。
    あいつにとってはそれは余計に辛いことかもしれないけれど、ワシにはあいつが必要なんじゃ。
    城の天守に登れば、瀬名の家が見える。
    それだけでいい。
    最初のうちはそう思っていました。
    けれど瀬名にとっては、家康の存在そのものが苦しみです。
    「ならば」と家康は決意します。
    「曳馬に行こう」。

     曳馬というのは、いまの静岡県浜松市から遠州森町にかけての一帯のことです。
    曳馬は 地味の肥えた土地であり、そこには天領と呼ばれる御皇室の荘園や、高級貴族の荘園がありました。
    戦国武将たちが貴族の荘園を次々に自分たちの支配下に置いて奪った時代にあって、曳馬の人たちは、断固として天領を護り抜いた義理堅い人たちです。
    それはつまり頑固者たちだということでもあります。
    そのような人たちを従わせるためには、大将自らがその地に赴任しなければならないとは、孫氏の兵法書に書かれていることです。

    家康は曳馬の高台に城を築き、あたり一帯を浜松と改名しました。
    浜松の名の由来には 様々なものがあります。
    そのなかのひとつに、万葉集に掲載された有間皇子の御歌がその理由だとするものがあります。

     磐代(いはしろ)の 浜松が枝を 引き結び
     ま幸(さき)くあらば また還(かへ)り見む

    歌にある「枝を結ぶ」とは、大昔からのおまじないで、木の枝と枝を結ぶことで縁を結ぶ。
    もし幸運に恵まれたなら、きっとまたここに戻ってこよう、という歌です。
    家康は、浜松という名に、瀬名姫との縁を、再び取り戻したい、あの笑顔を取り戻したいとの希望を託したのかもしれません。

     家康は、嫡男の信康と、妹の亀姫、そして妻の瀬名姫を、城外の築山から岡崎城に越させました。
    いつ敵の襲撃を受けるかわからない戦国武将にとって、その妻子が、寺の脇の草庵に住んでいるのでは、いつ拉ら 致ち されたり殺されたりするかわかったものではないからです。
    家康にとって、岡崎から浜松への転進は、二重三重に意味のあることだったのです。

     その岡崎で息子の信康はすくすくと育ちました。
    九歳のときには、同じ歳の信長の長女の徳姫を妻に娶りました。
    そもそも信康という名前自体が、信長の「信」と、家康の当時の名前の元康の「康」を組み合わせた名前です

    ・・・以下続く

    『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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