• 瀬名姫


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    新年最初の倭塾は、1月21日(土)13:30から江戸川区タワーホール船堀 401号室で開催です。
    参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。
    皆様のふるってのご参加をお待ちしています。

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    https://in.renaissance-sk.jp/skrss_2211_sk3?cap=onagi
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    瀬名姫は、美しく、教養の高い、今川の娘です。
    家康は、桶狭間のあと、信長の理想に共鳴し、結果として今川を裏切った形になりました。
    戦国の世では、妻子は人質です。
    ですから家康が今川を裏切ったとなれば、駿府に留め置かれた妻子が斬首となるのが、戦国の習いです。
    けれど瀬名姫の両親は、今川義元の兄弟です。
    しかもこのとき家康と瀬名姫との間には、まだ幼児の長男の信康がおり、お腹には長女の亀姫がありました。
    みなさんが、そんな瀬名姫の親であったら、どのようにするでしょう。
    なんとかして娘の命を助けたい。
    なんとかして、孫の命を助けたい。
    そのように考えるのではないでしょうか。

    NHK大河ドラマ『どうする家康』で瀬名姫を演じる有村架純さんと、西来院所蔵の瀬名姫の肖像
    瀬名姫
    画像出所=https://twitter.com/hochi_enta/status/1611091175230042113?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1611091175230042113%7Ctwgr%5E300950c3a322aa9d28017fa655ad75e290ba7788%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fasa-dora.com%2F10689%2F
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」の第一回が先日放送されました。
    歴史大河ドラマというより、エンタメとして作っている番組であって、家康をいわゆる大物として描くのではなく、普通の人の感覚で描こうとしたというコンセプトはよくわかるのですが、相変わらず日本の風景が緑のない半島の風景のようであったり、村の家がまるっきり半島式のボロ家であったりと、これはシナリオというよりもプロデューサーの趣味としかいいようのない残念な描写も多々見受けられました。
    継続して観たいかというと、答えはNOです。

    ただ、救いは、今川義元に野村萬斎さんを起用して、それなりの貫禄を出したこと、それと家康の正妻となる瀬名姫が、たいへん心音の良い美しい女性として描かれていることでした。
    近年の家康ものの多くが、これはドラマに限らず小説でもそうなのですが、瀬名姫をとんでもない悪女として描くものが多く、なかには「瀬名姫はもともとは今川義元のお手付きで、当時人質だった竹千代に、使い捨ての『お古』として押し付けられた」などいう暴論まで出る始末であったことを考えると、歴史の視点が、多少なりともまともになったことは、良いことであろうと思います。

    ちなみに瀬名姫は今川義元の姪(父の兄弟の子)であって、今川義元はそんな娘に手を出すほど餓えてなどいません。今川義元は日本人であり、当時にあって人の上に立つ実力者なのです。
    すこしは常識を働かせて考えていただきたいものと思っていたので、ここは共感でした。

    そもそも、瀬名姫は、美しく、教養の高い、今川の娘です。
    家康は、桶狭間のあと、信長の理想に共鳴し、結果として今川を裏切った形になりました。
    戦国の世では、妻子は人質です。
    ですから家康が今川を裏切ったとなれば、駿府に留め置かれた妻子が斬首となるのが、戦国の習いです。
    けれど瀬名姫の両親は、今川義元の兄弟です。
    しかもこのとき家康と瀬名姫との間には、まだ幼児の長男の信康がおり、お腹には長女の亀姫がありました。

    みなさんが、そんな瀬名姫の親であったら、どのようにするでしょう。
    なんとかして娘の命を助けたい。
    なんとかして、孫の命を助けたい。
    そのように考えるのではないでしょうか。

    このときの瀬名姫の両親もそうでした。
    だから両親は、瀬名姫母子の助命と引き換えに、自らの命を絶っています。

    けれど、そんなことになってしまった瀬名姫は、どうしたら良いのでしょう。
    これまた自分がその当事者となってお考えいただきたいことです。
    自分の夫の判断で、自分の両親が自害したのです。
    夫のことは愛している。
    我が子は可愛い。
    けれど、瀬名姫はどうしたら良いのでしょう。

    歴史は、ストーリーです。
    ですから、どうしてどうなったという筋を学ぶ学問です。
    そして歴史を学ぶとは、まさにそのストーリーから、「自分ならどうする」を考えることです。
    これは歴史上、実際にあった事件です。
    当事者の気持ちになって考えていただきたいのです。

    NHKの番組の描写が、この後どのようになっていくのかはわかりません。
    以下に先日刊行した拙著『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』に、瀬名姫のことを書いていますので、一部転載したいと思います。
    ちなみにこの本、自分の中ではこれまでの本の中の最高傑作です。

     ***

     築山御前は、徳川家康の、ただひとりの正妻です。けれど理由あって非業の死を遂げた築山御前を、晩年の家康は、
    「あのとき築山殿を、女なのだから尼にして逃してやればよかった。命まで奪うことはなかった」と、生涯悔やみ続けました。
    さらにいえば、実力大名となった家康のもとには、全国の諸大名から天下の美女たちが次々と献上されてきましたが、家康はそれら美女たちに、いっさい手を付けませんでした。
    とはいえ、武家のならいで、跡取りの男子を産まなければなりません。
    ですから家康は女性との交渉は持ちましたが、相手にするのはもっぱら領内の農家の、あまり美女とはいえない、しかも後家さんたちばかりであったと伝えられています。
    ある人が「家康殿は不思議な趣味をお持ちですなあ」と聞いたそうです。
    すると家康は、
    「美女を相手にすれば築山殿が悲しむ」と答えたそうです。
    家康は、十代で結婚し、その後にみずからの手で死なせることになった非業の妻を、生涯、愛し続けていたのです。

     築山御前は、古来、毒婦と言われ続けてきました。曰く、
    「生得無数の悪質にして嫉妬深き御人」(十八世紀に成立した『柳営婦女伝系』)
    「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(江戸中期の『武徳編年集成』)
    「唐人医師の減敬と密通し、凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)。
    といった具合です。
    近年でも家康のことを描いた小説等では、その多くが築山御前を悪女 として描いています。
    ひどいものになると、どの本とは言いませんが、
    「築山御前はもともと今川義元のお手付きで、当時人質だった竹千代に、使い捨ての『お古』を押しつけたのだ」などと書いているものもあります。
    申し訳ないけれど、築山御前は、今川義元の姪っ 子です。
    しかも今川義元は当時の世にあって、抜群の経済力を誇った男です。
    身内に手な ど出さなくても、女性に不自由は全くない。歴史上の人物を、日本人を、バカにするなと言いたくなります。

    築山御前が家康と結婚したのは、まだ家康が駿河の今川家に人質に出されているのことです。
    十六歳になった竹千代(家康の幼名)は、元服して松平元康と改名し、築山御前と結婚しました。
    築山御前の年齢はわかっていません。
    同年代だったという説もあり、かなり年上だったという説もあります。
    また、この頃の築山御前は、瀬名姫と呼ばれていました。瀬名という名は住んでいた地名から付けられた通称です。
    本名は伝わっていません。

    瀬名姫はみやびな都 風を愛する今川一門の娘であり、美人で、頭もよく、立ち振る舞いも優雅で気品がありました。
    それはまるで日本人形が生命を持ったかのような美しさであったともいいます。
    十代の家康にとって、瀬名姫は初恋の相手であったし、はじめての女性であったし、夢中になる妻でした。
    こうなることは、三河を領有して味方に付けた今川一門にとって、とても満足なことであったし、瀬名の両親も、人柄の良い家康との婚姻をとても喜んでくれたし、二人の結婚生活は、家康にとっても瀬名にとっても、夢のような幸せな日々であったといえます。

     そんな幸せに転機が訪れたのが一五六〇年の桶狭間の戦いです。
    領主の今川義元が織田信長に討たれたのです。
    桶狭間の戦いのあと、家康は三河の岡崎城に向かい、城から今川が派遣した城代を追い出すと、そのまま三河を占領しました。
    占領と書きましたが、元々岡崎城は松平の持ち城です。
    つまり家康は三河を取り戻したわけです。家康の松平家は、もとも三河の領主だったし、そもそも家康が駿河にあったのは、人質としてのことです。
    つまり家康は、桶狭間のあと、元の鞘に収まったのです。
    そして家康は、三河の安全保障のために、隣国の織田と同盟を結びました。一五六二年、家康二十歳のときのことです。

     ところがこのことは、家康の妻である瀬名姫にとっては一大事です。
    家康が今川を裏切った格好になったからです。
    このことは今川の家中で大問題になったし、今川義元の後継の今川氏真も激怒しました。
    この時点で瀬名姫の身は駿河にあります。人質として留め置かれているのです。
    このままでは、瀬名姫は今川によって捕縛され、打首になって、その首が河原に晒されるところです。
    娘の打首を防ぎ、娘の命を長らえさせようと、瀬名姫の父母は、ともに自害しました。
    他に愛する娘の命を助ける手段はなかったのです。

      瀬名は松平に嫁いだ娘です。
    今はもう松平の家の人間です。
    けれど、そうはいっても、夫の行動のために、自分の両親が自害したのです。
    現代よりも、はるかに親子の縁の濃密だった時代の出来事です。
    瀬名姫は、どれだけ悩み傷ついたことでしょう。
    夫を愛しているかと聞かれれば、「愛しています」と答えることができます。
    けれど同時にその夫の行動によって両親が自害しているのです。
    父母の死は、どれだけ瀬名姫の心を傷つけたことでしょう。
    本来なら瀬名もその場で喉を突いて死ぬはずのところです。
    瀬名がそれを思いとどまり、駿河で生きる決意をしたのは、おそらくは親の遺言によるものです。
    「お前は、松平に嫁いだのだから、
     どこまでも夫を立て、
     元康殿(家康のこと)に付いて行きなさい。
     それが嫁というものです。
     今川への忠義は、私たちがしっかりと立ててまいります」
    おそらく、そのような言葉か手紙が瀬名姫に両親のどちらかから届けられたのでしょう。
    子の幸せのためなら死ねる。
    それがこの時代の日本人の思考です。

     けれどそんな親の思いを前に、瀬名姫はどうしたらよいのでしょう。
    すでに家康との間に、長男の信康と長女亀姫が生まれています。
    その幼な子たちのためにも、瀬名姫は生きなけ ればなりません。
    瀬名姫は、誰より夫の家康と二人の子を愛しています。
    けれどその夫の 行動によって、瀬名の両親は自害したのです。
    両親は「お前は生き残れ」と言う。けれど生き残った瀬名にとって、生きることはそのまま煉獄の苦しみでもあったのです。

     結局瀬名姫は、生きて子を育てることを選択しました。
    今川家にとっても、それは三河の松平の世継ぎを人質に置くという意味で、賢い選択でした。
    だから瀬名は、そのまま今川のもとで暮らしました。
    しかし、いつの世も同じです。
    生きていれば生きていたで、今川の家中の女衆は、陰で瀬名姫のことを、
    「親まで殺しておいて本人は堂々と生きているなんて。
     ああいうのを毒婦って言うのよ、
     親不孝よねえ」などと噂します。
    悪口というものは、必ず本人の耳に入るものです。
    子のために生きなければならない瀬名姫にとって、今川での毎日は、まるで煉獄であったことでしょう。

    「このまま瀬名殿母子を今川に置いておいてはいけない。なんとか助け出さなければ」と強い思いを抱いた人物がいました。
    それが家康の家臣であった石川数正です。

    数正は、それまで捕縛してあった今川から城代として岡崎に派遣されていた鵜殿氏長・鵜殿氏次の親子と、瀬名姫母子との人質交換を今川に交渉します。
    鵜殿氏長は、今川義元の妹の孫です。
    いつの世も、孫ほどかわいいものはないものです。
    その孫への老婦の愛情を用いて、石川数正は瀬名姫母子を奪還しようとしたのです。

     石川数正は、八幡太郎義家の六男の陸奥六郎義時の三男の義基が石川姓を名乗ったことに始まる一族です。
    まさに源氏の直系として、生まれながらに武門の家に育った人物であり、豪勇無双の男です。
    駿河に赴き、この交渉を行おうとすれば、今川方は鵜殿氏長親子を取り返した上で、瀬名姫母子とともに石川数正も殺されかねない交渉事案です。
    なぜなら瀬名姫母子という人質を失えば、今川は三河を取られることになるからです。
    この交渉は、まさに石川数正だからこそ可能にできた交渉です。

     この人質交換によって、瀬名は岡崎にいる家康のもとへと帰ることができました。
    しかし瀬名にはどうしてもできないことがありました。
    いくら夫とはいえ、その夫のために両 親が死んだのです。
    瀬名は夫を愛しています。
    けれど、どんなに身を焦がすほど愛してい る夫でも、自分が夫のそばにあることは、両親への裏切りのような気がしてならないのです。

    だから岡崎城を前にしたとき、そこに夫がいるとわかっていても、瀬名はどうしても岡崎 城の門をくぐることができませんでした。
    だから瀬名は岡崎城近くの西岸寺に身を寄せました。
    ほんとうは尼にでもなりたかったのかもしれません。
    尼になれば、この世の人としては、一度死んだことになります。
    そうして御仏に仕え、両親の冥福を祈る。
    それもひとつの選択でした。

    けれど瀬名には、まだ幼い子がいるのです。
    亡くなった両親への愛と、子どもたちへの愛情。
    それに、この子たちにだけは、自分たち夫婦が味わったようなみじめな人質生活など、決して味わってほしくない。
    だから瀬名姫は、結局夫のいる岡崎城へは入らず、岡崎天満宮近くの総持尼寺近くの築山に建てられた家屋に住まいを設けました。
    ここで子らを育てる決心をしたのです。
    築山のおおもとは古墳です。
    ですからそこはいわば墓所を意味するものです。
    両親を失ない、墓所の築山に住む女性。
    こうして瀬名姫は、いつしか人々から築山御前と呼ばれるようになります。

      家康も瀬名を愛しています。
    見合い結婚だったとはいえ、今風に言うなら恋女房なのです。
    長年連れ添った仲です。
    だからそんな瀬名の気持ちは痛いほどわかる。なんとか瀬名(築山御前)には、安心して暮らして行ってもらいたい。
    自分にできることなら、何でもしてあげたい。
    けれど同時に、家康には 志 があります。
    それは「二度と戦乱の続く日本に戻してはならない」という立志です。
    そのために今川との確執を招くとわかっていながら、弾正忠の織田信長と同盟関係を結んだのです。
    これは男としての決意です。
    しかしその決意のために、妻がとんでもない苦しみに陥ることなってしまった。
    妻の苦しみは夫の苦しみです。

    瀬名はワシの顔を見るのが辛いのだろう。
    ワシも同じだ。辛い。
    ただなあ、あいつが近くに居てくれる。
    あいつにとってはそれは余計に辛いことかもしれないけれど、ワシにはあいつが必要なんじゃ。
    城の天守に登れば、瀬名の家が見える。
    それだけでいい。
    最初のうちはそう思っていました。
    けれど瀬名にとっては、家康の存在そのものが苦しみです。
    「ならば」と家康は決意します。
    「曳馬に行こう」。

     曳馬というのは、いまの静岡県浜松市から遠州森町にかけての一帯のことです。
    曳馬は 地味の肥えた土地であり、そこには天領と呼ばれる御皇室の荘園や、高級貴族の荘園がありました。
    戦国武将たちが貴族の荘園を次々に自分たちの支配下に置いて奪った時代にあって、曳馬の人たちは、断固として天領を護り抜いた義理堅い人たちです。
    それはつまり頑固者たちだということでもあります。
    そのような人たちを従わせるためには、大将自らがその地に赴任しなければならないとは、孫氏の兵法書に書かれていることです。

    家康は曳馬の高台に城を築き、あたり一帯を浜松と改名しました。
    浜松の名の由来には 様々なものがあります。
    そのなかのひとつに、万葉集に掲載された有間皇子の御歌がその理由だとするものがあります。

     磐代(いはしろ)の 浜松が枝を 引き結び
     ま幸(さき)くあらば また還(かへ)り見む

    歌にある「枝を結ぶ」とは、大昔からのおまじないで、木の枝と枝を結ぶことで縁を結ぶ。
    もし幸運に恵まれたなら、きっとまたここに戻ってこよう、という歌です。
    家康は、浜松という名に、瀬名姫との縁を、再び取り戻したい、あの笑顔を取り戻したいとの希望を託したのかもしれません。

     家康は、嫡男の信康と、妹の亀姫、そして妻の瀬名姫を、城外の築山から岡崎城に越させました。
    いつ敵の襲撃を受けるかわからない戦国武将にとって、その妻子が、寺の脇の草庵に住んでいるのでは、いつ拉ら 致ち されたり殺されたりするかわかったものではないからです。
    家康にとって、岡崎から浜松への転進は、二重三重に意味のあることだったのです。

     その岡崎で息子の信康はすくすくと育ちました。
    九歳のときには、同じ歳の信長の長女の徳姫を妻に娶りました。
    そもそも信康という名前自体が、信長の「信」と、家康の当時の名前の元康の「康」を組み合わせた名前です

    ・・・以下続く

    『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』


    日本をかっこよく!
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  • 名将・山口多聞中将


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    みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロと流しました。
    日頃は涙など決して見せない男たちが泣いていました。

    20180604 ミッドウエー海戦
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    山口多聞中将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」として、世界中のファンを魅了している人物です。
    生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子です。れっきとした武家の家柄です。
    多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されています。
    山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。

    この出雲松平家というのは、江戸中期以降、全国の大名が年貢米に頼って藩の財政をひっ迫させた中で、唯一といっていいほど豊かだった藩でもあります。
    なぜ豊かだったかというと、実は、タタラによる製鉄事業を藩の産業として育成し、同時に藩の財政を徹底的に改革していたのです。
    おかげで寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
    つまり、非常に合理性を尊ぶ気風があった藩であったというわけです。

    この出雲松平藩の合理主義は、幕末にも活かされています。
    出雲松平藩は、徳川家の親藩です。ところがはやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の中立、独立を保ったのです。
    こうした合理性、客観性を尊ぶ家風は、山口多聞の海軍兵学校生活で、さらに磨きがかけられました。

    彼はいまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。
    入学時の成績は、150人中21番です。
    卒業時の成績は、144名中2番です。
    同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎中将がいます。

    山口多聞中将
    山口多聞中将


    旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
    卒業時の成績が生涯ついてまわります。
    戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されていますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。

    なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。
    すべてを見極めた上で、序列が決められるのです。
    ただガリ勉して学科試験の成績が良くなれば上位というものではありません。
    栴檀は双葉より芳し。
    その栴檀を、双葉から徹底的に鍛え上げていたからこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。

    昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、はき違えもいいとこです。
    いいものはいい。悪いものはわるい。
    能力には上下があるのです。
    人として対等であるということと、能力の差異は、まったく別な議論です。

    とくに軍隊は、実戦において無能な指揮官が上に立てば、部下は全滅します。
    「誰もが平等」というわけにはいかないのです。
    これは企業におけるビジネス戦争でも同じです。
    日教組の「誰もが平等」なる思想の子供たちへの強要は、教育の名を借りて役立たずの社会人を育成しているともいえます。
    そうであるなら、それは反社会的行為です。

    さて山口多聞中将は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。
    もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦です。
    軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。

    船舶や陸戦は、水平運動です。
    潜水艦は水平運動に垂直運動が加わります。
    つまり動きが上下左右の三次元行動なのです。
    ですから潜水艦の専門であった山口多聞中将にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすい媒体であったわけです。

    山口多聞中将は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。
    彼は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしていますから、米国暮らしはこれが二度目です。
    ちなみに山本五十六大将はハーバート大学で学んでいます。
    そして両者とも、駐米武官を経験した国際派となりました。
    またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。

    もともと合理主義の家系に育った山口多聞中将が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。
    その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは容易に想像がつきます。

    その山口多聞中将が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いです。
    なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
    日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%が米国からの輸入なのです。
    石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分しかありません。
    米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということになるのです。
    加えて、戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。

    日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。
    その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。
    当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが当時の現実だったのです。

    もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。
    開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなります。
    しかも日本は国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っているのです。
    つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなるのです。

    すでに、Chinaではイクサがはじまっています。
    これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させるということです。
    国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。
    ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に堂々と反対しています。

    この時期、多くの日本の軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。
    海軍だけではありません。陸軍も反対です。
    武人は合理性を尊ぶのです。
    戦いは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものです。
    戦いに敗れることは、武人にとっては即、死を意味します。
    死を恐れることはありませんが、無駄死は避けたい。
    ましてや部下をそのような戦いに用いたくない。
    それは武人であれば当然の思いです。

    ところが文人は能書きが先行します。
    平和を維持しよう、戦いはいけない、などなどです。
    客観性よりも思想が優先されるのです。
    しかも武人のように職務が「死」と隣り合わせではありません。

    実はここに明治から現代に至るまでの憲政史上の最大の弱点があります。
    とりわけ戦後は、文人しかいませんからなおさらです。
    この点江戸時代は、施政者全員が武士でしたから、全員が常に死と隣り合わせにあり、権限と責任が完全等価にあったことは注目に値することではないかと思います。

    現実に、シビリアン・コントロール(文民統制)なるものが、いかに「いかがわしい」ものであるかは、歴史が証明しています。
    「武人は戦争を起こすから、文人が制御すべし」というけれど、そんなものは虚構にすぎません。
    むしろこのことは、権限と責任の問題として捉えるべきことだからです。

    明治維新で戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。
    明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。
    ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。
    この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。
    けれど日清戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いです。
    日本は、からくも勝利し、ロシアの南下を阻止することに成功していました。
    しかし日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文人たちの無責任です。

    武人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげくChinaを蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、China事変に至らしめたものは、無責任な人道主義に基づく文人たちの「平和外交」です。

    平和を愛する「文人統制」といえば聞こえは良いですが、責任を伴わない者に権限を与えることは、結果として国民が迷惑を被るのです。

    さて、大東亜戦争開戦時、山口多聞中将は、海軍少将で第二航空戰隊司令官でした。
    日米開戦が決定すると、山口中将は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しています。
    日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならないのが軍人の使命です。

    開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。
    この頃、山口中将は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されたそうです。
    「丸」は、彼が太っていたからです。
    「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。

    山口中将は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていたし、大飯ぐらいで、体力も強かったそうです。
    それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に一切の容赦などありません。
    ほんのわずかなミスも許さない。
    当然のことです。
    150倍の国力を持つ米国と、さらに世界の85%を支配する白人国家全部を相手に日本は戦うのです。
    頭が痛い、腹が痛いなどと、甘ったれは一切許さない。

    ある日山口中将は、みなに聞こえるように、
    「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、
     ありゃいったい
     どんな感じのものなのかね」
    と言ったそうです。
    訓練生たちにはこの言葉が相当ショックだったらしく、いまも語り草になっているそうです。

    山口多門中将に訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込んだとき、全員がびっくりしたそうです。
    艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされていたのです。
    居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれていました。
    ドラム缶はむろん、一斗缶まで動員されて、ところ狭しと置いてあったのです。

    山口中将が、船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げさせたのです。
    そのため居住区まで重油の臭気が満ち、船の航行中は、船体のピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったといいます。
    それくらい大量の重油が積載されていたのです。

    なぜでしょうか。
    実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていました。
    けれど両船とも航続距離が短かいのです。
    これが第一の理由です。

    平時なら油送船を一緒に連れていけばよいだけのことです。
    然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
    けれど真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動です。
    連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定しています。

    冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
    しかも、のんびり航海していて、途中でどこかの国の船に発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
    要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのです。
    そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになってしまいます。

    ですから当初、軍令部(大本営海軍部)は、飛行機は他の空母に搭載して、この三艦は内地にとどめおくべし、と決定しました。
    けれど、これを聞いた山口少将(当時)は、烈火のごとく怒り、即座に南雲中将に面会しています。
    そして南雲中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくったのです。
    結果、山口中将の強い抗議と要望で、三空母が作戦に参加することになりました。

    なぜ山口中将は、ここまで航空機にこだわったのでしょうか。
    彼は戦争が「艦隊主義」から「航空戦の時代」に変わったことを知っていたのです。
    ここにも、先例主義でない、あくまで合理性を尊ぶ山口の個性があらわれています。

    理由の第二は、山口中将の標的は、真珠湾だけでなかった、ということです。
    真珠湾にいる米艦隊は、日本が攻めて来ることを予期し待機しています。
    だからこそ米艦隊は日米の中間点である真珠湾に艦隊を配備したのです。

    もっとも真珠湾で米艦隊が、あれだけの大きな被害を受けたのは、米国の予想をはるかに上回るものでした。
    これは日本が真珠湾で、「航空機による浅瀬での魚雷攻撃」という新戦法を、世界で初めて実用化したからです。

    真珠湾は浅い湾です。
    浅いから敵潜水艦は入れません。
    水雷艇がやってくるには、ハワイはあまりにも日本から距離がありすぎます。
    ということは真珠湾は魚雷攻撃の心配がないのです。

    そうであれば、米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけです。
    まだGPSによるピンポイントのミサイル射撃などなかった時代です。
    揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が、圧倒的に有利なのです。
    加えて、戦闘態勢をとった戦艦は、絶対に航空機には破壊できないと当時は考えられていました。
    その航空機にさえ、多数の米戦闘機部隊を配備することで、十二分に対抗できるというのが米軍、というより大統領府の考えだったのです。

    真珠湾攻撃が、米国にとって、米国の欧州戦線参戦に際して必要なことであり、あえて日本を真珠湾に誘い込もうとしたということは、近年、様々な米国の公開資料によって明らかになってきています。
    ルーズベルトの予想と政治は、あくまで真珠湾基地に日本を誘い込み、日本に攻撃をさせながら、逆にこれを徹底して撃退し、米国の強さを世界にアピールするとともに、米国内の国民世論を開戦に向かわせようとするものだったと言われています。

    ここは間違えてはいけないポイントです。
    ルーズベルトは真珠湾を日本に晒し、攻撃を受けることを待ち受けましたが、そこで日本にやられるとは、まったく予期していなかったのです。

    ところが日本は真珠湾で、米軍がまったく予期していなかった「航空機による魚雷攻撃」という、当時の世界の常識にはありえない前代未聞の戦法をとり、真珠湾の米海軍の艦船を全滅させました。
    あり得ないことが起こったのです。

    そしてそれが「ありえないこと」であったことは、戦後、まったく語られて来なかったことです。
    なぜなら、「日本に攻撃をさせるだけで、絶対に壊滅することのない真珠湾」という所期の予定がくつがえされて、真珠湾が壊滅したことを掘り下げられると、米国と日本の開戦時の関係のもたらす意味が、まるで違うものになってしまうからです。

    どういうことかというと、「日本に真珠湾を攻めさせて、その攻撃を米軍が跳ね返す」という予定が、「日本に真珠湾を攻撃されて、真珠湾基地が壊滅した」という結果を招いたことは、これは明らかなルーズベルトの失政ということになります。

    そしてもっと大事なポイントは、この真珠湾攻撃において、日本は「航空機による戦艦の壊滅」という当時の常識では考えられないほどの戦果をあげながら、真珠湾における他の周辺施設、すなわち、石油の貯蔵施設や、爆弾などの収蔵施設、あるいは非武装の米兵たちがいる兵舎などに対して、一切の攻撃をしかけていないことです。

    繰り返しになりますが、当時、「戦闘態勢をとる戦艦は、絶対に航空機では沈めることができない」というのが、世界の軍事の常識です。
    その戦艦が、真珠湾にいるのです。
    しかも日本の爆撃機を迎え撃つために十分な数の戦闘機が待機しています。

    常識で考えたらわかることですが、爆撃機というのは、重たい爆弾を腹にかかえていますから、空で軽快な行動をとることができません。速度も遅いし、小回りもきかない。
    これに対し、戦闘機は、速度も速いし、小回りも利きます。
    つまり、戦闘機からみたら、爆撃機というのは、撃ち落としのための格好のネタでしかなかったのです。

    日本が真珠湾に攻撃をしかけてくるならば、それは日本の艦隊では、海上からの陸上への攻撃となりますから、陸上にたっぷりと防衛施設を持つ米軍が、圧倒的に有利です。
    しかも戦艦は、戦闘機では沈めることはできず、やってくる爆撃機は、戦艦の持つ速射砲の餌食になる。
    加えて日本の爆撃機は、米軍の戦闘機のネタです。

    そうなれば、日本は、真珠湾の米艦隊へも攻撃をしかけるだろうけれど、いきおい、狙いは、真珠湾の基地施設、つまり石油の貯蔵庫や、爆弾などの兵器の貯蔵施設、あるいは米兵たちの兵舎になるであろうと予測がつくわけです。
    従って、これに対する守りをきっちりと固めていれば、真珠湾が壊滅することはない。
    むしろ、遠路はるばるやってくる日本軍の側が、ネタになるのです。

    当時、真珠湾に米空母がいなかったことを問題視する人もいますが、ルーズベルトの目的は、日本を追い込んで日本に真珠湾を攻撃させることにあったわけです。
    もし、そこに空母がいれば、米国は日本を攻撃に行く意思があったことになりますし、対空防衛力の弱い空母を、何も日本が来るとわかっている真珠湾においておく必要もなかったのです。あたりまえのことです。

    そして日本の攻撃は、戦艦への攻撃は航空機では無理、日本の戦艦による艦砲射撃も当たらないとなれば、日本の攻撃は爆撃機による米軍兵舎や、補給施設に限られると予想できます。
    そうであれば、米大統領府は「卑劣なジャップ」という印象を米国民に与えることができるし、その日本の攻撃を真珠湾で圧倒的な戦力で「防いだ」となれば、米軍への世間の評価は圧倒的なものとなり、欧州戦線への参戦も容易になるし、おそらく総力をあげてやってくるであろう日本海軍に大きなダメージを与えることで、東亜の攻略さえも容易になる。
    それがルーズベルトの「もくろみ」です。

    ところが、日本の攻撃は、意に反して、絶対に沈まないはずの米戦艦に向けられたものだったし、日本は真珠湾基地の米軍兵舎や補給施設には、まったく攻撃をしかけない。
    しかけないどころが、圧倒的な戦いで真珠湾の米太平洋艦隊そのものを壊滅させただけで、悠々と引き揚げてしまいました。
    ということは、日本には、米国を侵略する意思などまったくなく、誰がどうみても、日本はあくまで米国の日本への政治的干渉に対して、乾坤一擲の大槌をふるっただけ、ということになります。

    国家の行う戦争というのは、ただ武力を行使するだけの暴力事件ではありません。
    充分に計画された政治的問題解決のための手段です。
    実際、日本の意思はまさにそこにあったわけです。

    「日本に真珠湾を攻撃させて、これを完璧に防ぎきり、米軍の強さを世界にアピールし、返す刀で日本の海軍力に壊滅的打撃を与える」というルーズベルトの「もくろみ」は、完全に崩れました。
    米国の真珠湾基地は、日本の艦隊に一発の報復もできることなく、またたく間に、壊滅してしまったのです。
    しかもその攻撃は、米軍の「待ち構えていた」攻撃施設に対してだけ行われました。

    つまり、真珠湾攻撃で、日本は、米国の対日強硬戦略という政治目的を粉砕したわけです。
    そこに日本の真珠湾攻撃という政治目的があったし、そのことは日本の攻撃の仕方、引き揚げ方に明確に現れているわけです。
    ようするに日本は、真珠湾攻撃を、あくまで政治目的達成のための手段と位置づけていたということが、ここに明確になります。

    一方、読みが外れて困りきったルーズベルトは、まったく異なるへ理屈を持ち出しました。
    それが「リメンバー、パールハーバー」です。
    「侵略されて反撃するのは正当な戦争行為」という、世界の常識を持ち出したのです。
    つまり後講釈です。

    そして後講釈であるからこそ、米国は、あくまで対欧州戦線参戦のために、日本を追いつめただけであったのに、結果として太平洋側にまで大きな戦力を割かなければならなくなり、多数の米国人の命を犠牲にしています。
    最近、米国内でも、こうした議論が行われるようになってきました。
    このことは、おそらく戦後世界の体制を一変させるインパクトを持つものに育っていくことと思います。
    真実は、嘘で覆い隠すことはできないのです。

    山口多聞中将は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないから、真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すべきあるという立場をとっていました。
    そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができない。

    これはまったくの正論です。
    戦争である以上、勝たなければならないのです。
    そのために必要なことを、武人として、山口中将は堂々と主張し続けていたのです。

    けれど、その山口案は、退けられてしまいました。
    それでも山口中将は、情況次第では、そこまでの攻撃をしておく必要性有りとして、ところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。

    山口多聞中将は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。
    学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。

    しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒る。
    体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない。しかもその怒りに筋が通っている。

    いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
    しかし、筋の通らないことに怒るのは、男子の美徳です。
    このことも、大切なポイントであると思います。
    日本男児は、もっと怒るべきなのです。

    さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。
    山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。

    当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。
    六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。
    そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせました。

    時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。
    十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちました。

    そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。

    待ちに待った電報でした。
    このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
    「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。
    これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。

    米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。

    ********
    攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
    日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
    この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
    ********

    実は、山口多聞中将は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。
    真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。
    このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。

    山口中将は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。
    しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。
    双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
    「南雲さんはやらんだろうな」
    とつぶやいたといいます。

    南雲大将は武人です。
    武はあくまで敵を懲らすものであり、むやみに戦線を拡大すべきものではないという、信念の人でもあります。
    ですから真珠湾での徹底した破壊はしないで、むしろ日本の圧倒的な強さを見せつけ、あとは外交によって、和平の道を探る。
    そのための道を閉ざしてはならないと考えています。

    実際、日本は真珠湾で米軍の施設を徹底破壊し、そのまま真珠湾を占領し、そこを拠点にして米本土への攻撃をしかけることもできたのです。
    それだけの軍事力は日本にあったし、米本土が焦土となる事態となるならば、それは米国としても絶対に防がなければならない事態です。
    それだけのことが「できる」ということをはっきりと示したうえで、外交によって問題の早期解決を図る。
    真珠湾攻撃の時点における日本の国家としての狙いも、まさにそこにあったのです。

    まさか、宣戦布告文書を、前の日の宴会の二日酔いで、モタモタとさぼって米国に日本の駐米大使が手交を遅らせるなどとは、誰も考えない。
    堂々と宣戦布告文書を手渡し、その直後に、日本軍の襲来を意図的に待ち受けた真珠湾が壊滅したとの報告がはいれば、それだけで、日本の外務省は、堂々と米国に対して、和平をもちかけ、それ以上の戦争を抑止することができたはずなのです。

    ところが、日本の駐米大使は、寝ぼけて宣戦布告文書の手交を遅らせました。
    それによって、日本は、「だまし討ちだ」とそしられる外交上の隙をつくり、結果として長引く大戦へと引きずり込まれてしまったわけです。

    しかし、宣戦布告文書というのは、国家間の戦争に必ず必要なものではありません。
    むしろ宣戦布告などないままに、始まるのが戦争の一般的な姿です。
    世界の歴史をみたらわかりますが、宣戦布告をしてから戦争が始まるのではなくて、宣戦布告が行われた時は、逆に戦争に至らないことの方が、世界における常識です。
    宣戦布告があれば、その戦争をはじめないために、当事者両国が真剣に努力するからです。

    もし日本が、米国と徹底戦争をするつもりならば、宣戦布告など、そもそも必要ありません。
    事実上、米国の領土、了解をどんどん侵蝕していけば良いのです。
    いまのChinaが、東シナ海や南シナ海を侵蝕しているのと同じです。
    米国の領土了解を、蚕食し、できるだけ前線基地を米本土に近づけて、米国への本土空襲を行い、米国政府を降伏させて、米国を日本の占領下におけば良いだけのことです。

    ですから戦いの政治目的がそこにあるならば、日本は真珠湾の米軍基地を配給施設まで含めて徹底的に壊滅させ、真珠湾に上陸し、そこを占領し、ハワイを日本の占領下におさめ、そこを拠点として米国本土への攻撃を加える。
    そこまでするのが、戦争というものです。
    戦いに勝つには、そこまで徹底した攻撃が必要なのです。

    ですから、戦いのプロとして、山口中将は、第二波、第三波の攻撃を進言しました。
    けれど、最終的に彼も、南雲大将の指揮に従いました。
    大将の意図することを、山口中将自身が、ちゃんとわかっていたからです。

    日本は、古来、平和を愛する民です。
    しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪います。
    そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。

    平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
    残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。
    そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。

    さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。
    海戦に先立ち、山口中将は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。

    「ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
     そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、
     空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。
     空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、
     敵機の襲来に備え、
     少なくとも三機動部隊を出撃させなければならない。」

    しかし、アリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。
    ミッドウェー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口中将は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。
    進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。

    船は魚雷でなくては沈みません。
    しかし山口中将は、攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
    だからまず陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張したのです。

    すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。
    仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。
    敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。

    しかし南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。
    これが仇になりました。
    初動対応を遅らせてしまったのです。
    敵に先手を許してしまう結果となりました。

    午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。

    7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
    「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。

    山口中将は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。
    このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
    「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。
     俺も後から行く」
    すでにこの時点で、山口中将は死を決意していたのです。

    第一次攻撃隊を発進させた山口中将は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。
    米空母をめざしたのです。
    そして進撃しながら、艦隊司令部に、
    「各損害空母には駆逐艦一を付け、
     主力部隊の方向に
     向かわしめられたく」
    と要請しました。

    この時点で、これは要請とというより命令です。
    部下が上司に命令したのです。
    カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。
    生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。

    9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。
    敵空母からは猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させています。

    10時30分、山口中将の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容しました。
    このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。
    いかに激戦であったかがわかります。

    11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達しました。
    そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させました。
    山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。

    けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。
    つまり米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。

    12時20分、山口中将は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。
    第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。
    乗員の疲労も極限に達していました。

    午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。
    敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきました。

    このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。
    「敵機来襲!」
    と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、
    敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。

    しかしそこまでででした。
    見張員が叫び声をあげたのが2時1分、
    そして2分後には4発の爆弾が「飛龍」に続けざまに命中したのです。

    最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。
    昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。
    そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。
    艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。

    このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になりました。
    しかしエンジンは動いている。
    機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。

    「飛龍」は、走りつづけました。
    しかし機関部に海水が流れ込む。
    船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。

    海面が静かな月光に照らされていました。
    海上は、夕凪で、波ひとつない静けさだったそうです。
    その洋上を「飛龍」が漂っていました。

    浸水がはじまり、艦が左に傾き始めました。
    深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
    「残念ながら、
     飛龍の運命も
     これまでと思います。
     総員退去の
     許可を求めます」
    と申し出ました。

    山口中将と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降り立ちました。
    そこはまだ火の手が回っていなかったのです。
    そこには、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。
    彼ら乗組員たちは、山口中将と加来大佐を取り巻きました。

    このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。

    「月のせいで、そんなに暗くなかった。
     艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。
     山口司令官の訣別の訓示は、
     『皆のお陰で、
      他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。
      敵空母二隻と巡洋艦一隻をやっつけた
      (と、我々はそのときそう信じていた)
      どうもありがとう。
      しかし飛龍をみて分かるとおり
      内地に帰還するだけの力ははすでにない。
      艦長と自分は
      飛龍とともに沈んで責任をとる。
      戦争はこれからだ。
      皆生き残って、
      より強い海軍を作ってもらいたい」
     と訓示した。」

    その場にいあわせた生存者全員が泣きました。
    日本男子は声をあげて泣くことをしません。
    人間、ほんとうに辛いときには、声など出して泣かないものです。
    みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロと流しました。
    日頃は涙など決して見せない男たちが泣いていました。

    そしてみんなで日本の方向を向きました。
    山口長官の音頭で、万歳をとなえました。
    そのあと、「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろし、退艦儀式を手順どおり進ませました。

    主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。
    そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。
    日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。

    そのときです。
    山口中将を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、
    「司令官!」
    と大きな涙声で叫びました。
    「何か頂く物はございませんか」
    山口中将はふり向き、こんなときでもニヤリと笑ったそうです。
    「これでも家族に届けてもらうかぁ」
    そう言って頭にかぶっていた、黒の戦闘帽を脱ぎました。

    伊藤中佐が受け取りました。
    山口中将は、
    「それをくれ」
    と、彼が腰に下げていた手ぬぐいを指さしました。
    空母が沈むとき浮き上がらぬよう、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
    でも本当は、みんながいなくなったあとに、涙をぬぐう手ぬぐいがほしかったのかもしれません。

    日付が変わった6日午前2時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されました。

    戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
    彼はこの本の中で、次のように書いています。

    「ミッドウェー海戦で
     米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、
     海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、
     陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
     そのためヨーロッパや、北アフリカで
     イギリスを助ける力が弱まり、
     (中略)
     イギリスは絶体絶命となり、
     ヒトラーがヨーロッパの勝者になった
     可能性が高くなったであろう。」

    ミッドウェー海戦は、なるほど日本の負けに終わったけれど、戦いはまさに伯仲の戦いだったのです。
    もし、このとき日本が先に米海軍の機動部隊を発見していたら、海戦は日本の勝利に終わっていました。
    戦闘が始まったとき、もし日本が陸上用爆弾を搭載したまま、敵空母を叩いていたら、日本が海戦に勝利していたことでしょう。

    いやそれ以前に、もし日本が、真珠湾で米国のハワイ軍事基地を補給基地ごと叩き、さらに敵空母を壊滅させていたら、ミッドウェーは日本の完全勝利に終わったことでしょう。
    ミッドウェーは、それほどまでに伯仲した戦いだったのです。
    山口多聞中将は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。

    享年49歳。
    そんな提督がいた帝国海軍を、私はとても誇りに思います。

    ところで戦後に秘匿された歴史の真実のひとつに、実はこの戦いで、米軍の哨戒機を、日本の哨戒機が先に発見していたという事実があります。
    米軍の哨戒機が飛んでいるということは、近くに空母がいる、米艦隊がいる、ということです。
    そのことをすぐに日本の哨戒機が、ちゃんと通報していたら、その時点で日本は先に戦闘配備を済ませ、ミッドウェーに100%の確率で勝利していたであろうといわれています。

    ところが歴史はそうは動きませんでした。
    米軍哨戒機を発見した日本機のパイロットは、その発見の報告を握りつぶしてしまったのです。
    戦後そのときのパイロットは、名前を変え、航空自衛隊の幹部になりました。
    それを見つけたある元パイロットが、本人の胸ぐらをつかんで問いただし、事実が明らかになりました。

    なぜそのときの日本のパイロットは、報告を握りつぶしたのでしょう。
    彼は帰隊したあと、米軍の哨戒機を見つけながら、それを撃ち落とさなかったことで責任を問われることが怖かったと白状したそうです。
    しかしそのために、多くの日本兵が犠牲になりました。
    そしてミッドウェーの敗戦によって、日本は制海権を失い、大東亜の敗戦に至っています。

    ときどき思うのです。
    真珠湾でもし、日本が米軍の施設の徹底した破壊を行い、そのまま真珠湾に上陸してそこを占領していたら、その後の歴史はどう変わっていたのだろうかと。
    もし、ミッドウェーで、そのパイロットが、勇気をもって早期の報告をし、日本がミッドウェーに勝っていたら、その後の歴史はどのように変化していったのだろうかと。

    神々のご意思は、人の身では計り知れないものです。
    ただ、よく言われることですが、戦前の日本はたしかにいっぱい良いところがあったし、とてもつもなく強かったけれど、どこかで日本が、あるいは多数、もしくはほんのひとにぎりの日本人に、謙虚さを欠き、他の諸国の人々を見下す弊はなかったといいきれるだろうか。

    そしてまた、もし仮に先の大戦で日本が勝っていたとするならば、そのことが日本にとっての成功体験となってしまったのではないか。
    明治維新から大東亜の終戦まで、わずか80年です。
    そのわずか80年の間に、戊辰戦争、西南戦争、佐賀の乱、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第一次上海事変、第二次上海事変、日支事変、満州事変、大東亜戦争と、日本は11回もの戦争を繰り返しています。
    その日本が先の大戦に勝利したとき、果たして戦後の70年間の平和は、日本に訪れたでしょうか。

    戦後が良いと言っているのではありません。
    戦前の良いところはたくさんあります。
    けれど、戦後の良いところもまた、たくさんあるのです。
    その良いところを組み合わせて、もっと良い未来を築いていくことが、今を生きる私達に課せられた使命だと思うのです。


    ※この記事は、2010年3月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 何度でもやります!歴史を通じて愛され続けた静御前の物語


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第96回 倭塾は、令和4年11月20日(日)13:30開講です。場所はいつもと異なり、JR新宿駅新南口近くの会場になります。映画『めぐみへの誓い』を製作した野伏翔監督の講話もあります。終了後、懇親会もあります。会場の都合で今回のみ事前申込が必要です。詳細は↓で。
    https://nezu3344.com/blog-entry-5408.html
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    毎度同じ話の再掲で恐縮ですが、歴史上の人物で「誰が好きか」と聞かれたら、迷いますけど、イチオシが静御前です。とにもかくにも美しい。そして素直。気丈。大和撫子を絵に描いたような女性です。
    ちなみに本文とは関係ないですが、個人的に義経=ジンギスカン説を取っています。ですのでその後の静御前の行方が、全国に散らばっていて本当のことがわからないのは、むしろ「そのように工作した」ということで、実は静御前は子を連れて、母の磯禅尼とともに大陸に渡って義経と暮らしたのではないかと思っています。後宮を抱える義経に嫉妬もあったでしょうし、それが静御前にとって幸せなことであったかどうかは別として、世に知られていないそんな真実があったのかもしれないと想像するところに歴史の面白さがあります。ちなみにジンギスカンの第一后は、ジンギスカンより1歳年上のボルテですが、ボルテの出身はキャト族とされています。キャトは、もしかすると京都かもしれない。またボルテはジンギスカンの「ウジン」と呼ばれましたが、これは夫人を意味します。ボルテの息子がオゴデイ、つまりモンゴル帝国の二代目皇帝です。

    上村松園「静御前」
    20180105 静御前



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
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    よく時代劇などで、大奥のお女中たちが大薙刀を手にして屋内を駆け回る姿が描写されます。江戸時代、武家の女性たちに大人気だったのが薙刀です。薙刀は初心者でも、剣道の有段者を手もなくやっつけることがでるという、実はたいへん強い武器です。そんな薙刀を江戸時代の武家の娘たちが愛した原因となったのが、白拍子であり薙刀の名手であった静御前でした。

     ある日のことです。後白河法皇に招かれて参内した静御前は、「おもてをあげよ」と言われて顔をあげました。
    「こちらに居るのがの、平家を打ち破った源義経じゃ。義経殿、こちらが都一の白拍子の静御前じゃ。静はの、舞で雨乞いができる都一の白拍子じゃ」
    「はっ」と法皇に挨拶をして顔をあげて静御前を見る源義経、
    「この御方が義経様……」と義経を見る静御前。
    ひと目会ったその日から、二人の心は固く結ばれてしまいます。

     静御前のあまりの美しさと人柄の良さに、すっかり夢中になってしまった義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝から、「すぐに鎌倉に帰るように」との矢のような催促を受けても、都を離れようとしませんでした。何度使者を送っても鎌倉に帰ろうとしない義経に、ついに頼朝は「義経謀反!」の疑いをかけ、鎌倉から捕縛の兵を派遣しました。
     頼朝が義経に「帰れ」と命じたことには理由があります。もともと源平の戦は、新田の開墾百姓であった武士たちが私田を守るための戦いです。平家も武家ではあったのですが、平清盛の時代にすっかり朝廷に取り込まれ、そうなると新田の開墾百姓である武士たちにとっては、自分たちの田が貴族の荘園に組み込まれてしまうのではないかという危機意識となったのです。ですから頼朝は都から遠く離れた鎌倉に、武家のためだけの政権を築こうとしていました。ところが平家を討ち果たした弟の義経が都にいて朝廷に組み込まれてしまったら、なんのために鎌倉で政権を築こうとしているのか、意味がなくなってしまう。兄としては、弟の義経の幸せは第一の願いとしたいところです。けれど政治的にそれを許すことはできなかったのです。

     捕縛の兵を送られたと知った義経は、兄と戦うことを選択します。岩手県にある奥州平泉まで行けば、そこで兵を整えることができる。義経は近習である弁慶らとともに、静御前を連れて船で京の都を出発します。ところが大阪湾を出たところで、船が難破してしまいます。嵐の中でもしっかりと手を握り合って離さなかった二人です。ようやく陸にたどり着いた一行は、船をあきらめ、陸路で奥州へ向かうことにしました。
     冬の寒い朝のことでした。あたり一面に雪が降り積もっていました。吉水院という僧坊から、大峰山(おおみねさん)の入り口に差し掛かった一行は、その山道の入り口に「女人禁制」の碑を見ます。大峰山は神聖な山で、女性は立ち入ることができないとされていたのです。
     誰も見ていないのだから良いではないかというのは、現代人の思考です。誰も観ていなくてもお天道様が見ている。女の身である静御前を連れたままで、ご禁制の山に入ることはできません。神仏との約束事は破ることはできない。
    「静(しづ)、ここからなら、都もさほど遠くない。
     そなたは都の生まれ。
     必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」
    静御前は、「私は義経さまの子を身ごもっています」と打ちあけました。そして、「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみました。このときの静御前は鎧をつけ大薙刀を手にした男装です。
    義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている手鏡を、そっと握らせまました。
    「静、これを私だと思って使っておくれ。
     そして私の前でもう一度、あの舞を見せておくれ」
    静御前は、山の中で舞いました。

      見るとても 嬉しくもなし ます鏡
      恋しき人の 影を止めねば

    「鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです……」
    雪の山道を登っていく義経の一行。その姿を、いつまでも見送り続ける静御前。一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いていました。文治元年(一一八五)十一月のことです。

     二名の小物を連れて山を下ると、山の裾(すそ)から、大勢が山狩りに登ってくる声が聞こえました。静御前は荷を解き、「お前たち、これまでありがとう。これは少ないけれど、とっておいておくれ」と小物たちに荷役の代金を渡しました。
    「静様、おひとりでは危のうございます」
    「鎌倉方が村人たちを動員しての山狩りです。とうてい逃げおおせるものではありませぬ。私は大丈夫です。むしろお前たちに咎(とが)がおよぶようなことがあってはなりませぬ」

     静御前は、鎌倉方に捕縛され、麓(ふもと)の村で取り調べを受けることになりました。けれど、静御前は凛(りん)として断じて口を割らない。やむなく静御前の身は、鎌倉まで護送されました。厳しい取り調べは鎌倉でも続きました。
    「義経はどこに向かったのか。どのルートで逃亡しているのか」
    何も言わない静御前に、鎌倉でもなすすべもなく、そのまま静御前は鎌倉で幽閉されました。

     年が明けて四月八日、鎌倉では、源頼朝臨席での大花見会が鶴岡八幡宮で行われることになりました。美しい桜に、美しい女性。しかも静御前は都一の舞の名手です。頼朝は静御前に、花見の席での舞の披露を命じました。「命じた」のです。けれど静御前にしてみれば、大好きな義経様の敵の前で舞わされるわけです。
    「私はもう二度と舞うまいと心に誓いました。今さら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇を理由とすることはできません。けれど義経様の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です!」
     頼朝の妻の北条政子が言いました。
    「天下の舞の名手がたまたまこの地にいるのに、その芸を見ないのは残念なこと。舞は八幡大菩薩にご奉納するものです。どのような状況であれ、神に仕える白拍子がこれを断ることはできませぬ」

     当日となりました。静御前は着替えを済ませて舞台にあがりました。会場はなみいる歴戦の鎌倉御家人たちで埋め尽くされています。その御家人たちは、夫の義経の追手たちです。静御前は舞台で一礼して扇を手にとりました。そして舞を歌いながら舞い始めました。曲目は「しんむしょう」という謡曲です。
     素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。けれど何かが足りません。続けて静御前は「君が代」を舞いました。けれどやはり、何かが足りません。ちなみに「君が代」を軍国主義ソングのように思おっしゃる方がいますが、大東亜戦争よりも八百年以上前に、静御前がこうして舞った歌でもあります。
     およそプロの歌や舞というものは、舞台に立って一声発した瞬間、あるいは舞を舞い始めた瞬間から、観客の心を惹き付けてしまうものです。ところが・・・。
    「なんだ、都一とか言いながら、この程度か?」
    「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?それとも静御前がたいしたことないのか」
    会場がざわつきました。敵将の中にたったひとりでいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭たちのうなり声のようにさえ聞こえたことでしょう。普通ならその恐怖は、手足が震えて立つことさえできなくなるほどです。
     二曲を舞い終わった静御前は、床に手をついて礼をしたまま、じっと動かなくなりました。
    「なんだ、どうしたんだ」
    会場のざわめきが大きくなりました。それでも静御前は動きません。この時、御前は何を思っていたのでしょう。遠く、離ればなれになった愛する義経の面影でしょうか。このまま殺されるかもしれない我が身のことでしょうか。
    「二度と会うことのできない義経さま。
     もうすぐ殺される我が身なら、これが生涯最後の舞になるかもしれない。
     会いたい、逢いたい、もういちど義経様に会いたい……」
     このとき静御前の脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。
    「詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて」
    (どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろうと思って)

     静御前は、ゆっくりと、本当にゆっくり立ち上がりました。なにが起こるのでしょう。それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきました。そして、しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れた時、静御前が手にした扇を、そっと広げました。そして歌い始めました。

     しずやしず しずのをだまき 繰り返し
      昔を今に なすよしもがな

     吉野山 峰の白雪 踏み分けて
      入りにし人の 跡ぞ恋しき

    「いつも私を、静、静、苧環(おだまき)の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。幸せだったあの時に戻りたいわ。吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた義経さま。あとに残されたあの時の義経さまの足跡が、今も愛(いと)しくてたまりません……」

     歌いながら、舞う。
     舞いながら歌う。
     美しい。あまりにも美しい。
     場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として声も出ません。その姿は、まさに神が舞っているかのようであったと伝えられています。

     歌の中で静御前は、紫色の苧環(おだまき)の花にたとえられました。背景となる鶴岡八幡宮は真っ赤な社殿、周囲はは桜色の満開の桜花、空には澄み切った真っ青な空に、白い雲が浮かんでいます。その中で、美しい静御前が歌い、舞う。このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。
     静御前が舞い終えました。扇子を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭(こうべ)を垂れました。会場は静まり返っています。静御前が愛する人を思って舞ったのです。どれだけ澄んだ舞だったことでしょう。どれだけ美しい舞であったことでしょう。しかも舞台は敵の武将たちのど真ん中。そこで静御前は、女一人で戦いを挑んだのです。
     この静寂を破ったのは頼朝でした。
    「ここは鶴岡八幡である。その神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきである。
     にもかかわらず、謀叛人である義経を恋する歌を歌うとは不届き至極!」
    日頃冷静な頼朝が怒りをあらわにされました。このままでは静御前は、即時捕縛されて死罪となるかもしれない。会場に緊張が走ったとき、頼朝の妻の北条政子がいいました。
    「将軍様、私には彼女の気持ちがよくわかります。
     私も同じ立場であれば、静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
    「敵将の子を生かしておけば、のちに命取りとなるであろう。
     そのことは自分が一番よく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」
    この時、静御前は義経の子を身ごもっていました。妊娠六カ月です。北条政子が言いました。
    「では、生まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」
    同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。頼朝は、これには、「ならばそのようにせよ」と言いました。

     七月二十九日、静御前は出産しました。男の子でした。その日のうちに頼朝の命を受けた安達清常(あだちきよつね)が、静御前のもとにやって来ました。お腹を痛めた、愛する人の子です。静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに子の引き渡しを拒みました。数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きました。安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。初産を終えたばかりなのです。気力も体力も限界だったことでしょう。けれど御前が寝入ったすきに、静御前の母の磯禅尼が赤子を取り上げ、安達清常に渡してしまいました。子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて殺し、遺体もそのまま海に流してしまいました。

     と、義経記に描かれた物語はここまでです。けれど我が国の古典文学には、「いちばん重要なことは隠す」というなわらしがあります。お気づきいただけましたでしょうか。実は安達清常は赤子を殺していないのです。
     安達清常は武家の「近習の道」を開いた男として知られる人物です。「近習」とは、土地持ちの御家人ではありません。また単なる「配下」《部下のこと》でもありません。上役の考えを「察して、責任を持って、自己の判断で行動する」のが「近習」です。そしてそんな近習が、土地がなくても才覚と努力で御家人となる道を開いたの最初の人物が安達清常です。

     ただ赤子を殺すだけなら、小物を派遣すれば足りるのです。けれど頼朝が、近習のなかの近習、最も信頼できる安達清常を派遣したのは、「清常なら、この問題をきちんと処理してくれる」という期待があったからです。そしてそういう人材こそが、幕府の官吏としてふさわしいとされ、そうであればなおのこと、御家人たちは、さらにもっと深く察して行動できる力量が求められるようになっていったのです。ここが他所の国と日本の武士文化の異なる大事なところです。命令されたからと言って、何の感情もなく、ただ人を殺せるような痴れ者は、鎌倉武士のなかにはひとりもいない。そう断言できるだけの武家文化を、頼朝は構築したのです。だからこそ、江戸時代に至っても、男子が戦慄する武士の模範的姿は、常に鎌倉武士とされました。

     そうした背景をもとに考えてみてください。いかなる理由があれ、生まれたばかりの赤子を殺すのはおよそ武士として恥ずべきことです。だから由比ヶ浜に流して遺体が見つからないことにしたのです。安達清常は、赤子を家に連れ帰って乳母を雇って子を育てました。そして静御前が産褥期間を終えて鎌倉を去るとき、峠で静御前を待ちました。

     坂の下の方から、静御前と、その母の磯禅尼が歩いてきました。我が子が殺された、しかも信じる母によって、我が子が奪われ殺された。そう思い込んでいる静御前です。歩いてくる姿は暗く沈み、並んだ母との間に言葉のやりとりもありません。
     坂の上で馬を降りて待つ安達清常のわきを通り過ぎようとした静御前を、清常が呼び止めました。

    「静殿、こちらを通られると思い、お待ち申しておりました」
    けれど目も合わせようとしない静御前に、清常は「おい!これへ」と馬の後ろにいる女性に声をかけました。その女性が、赤ちゃんを抱いています。
    (私の子も、生きていればこれくらいになったろうか)
    意識の片隅で、なんとなく目線を向けた静御前に、清常が声をかけます。
    「ささ、抱いてやってください。ほら、わ子や、母君ですぞ。
     静殿、ささ若君ですぞ」
    静御前には、まだ事態が飲み込めません。けれど、母というのは不思議なものです。何十人も似たような赤ちゃんがいても、わが子を瞬時に見分けます。このときの静御前もそうでした。静御前は、母を見ました。母の磯禅尼は、にこやかに微笑み、静御前を見ながら、大きくうなづきました。
     胸に抱いた赤子の重み。
    「生きていた。和子だ。生きていた!」

    赤ちゃんを抱きながら、静御前の目から大粒の涙がこぼれ落ちました。そして静御前の頭のなかで、すべてがつながりました。母の磯禅尼は、清常を武士と信じて赤子を渡したのです。祖母にとって孫というのは、我が子以上にかわいいものです。孫が殺されるとわかって他人に手渡せるような祖母は、我が日本にはひとりもいない。見れば、笑顔で立っている髭面の安達清常も、こうしてみれば清々しい良い男です。

     その後の静御前の足取りは、母の磯禅尼、生まれた子も合わせて、歴史からまったく消えています。そして何故か不思議なことに、その後の静御前ゆかりの地なるものが、全国各地にあります。その後の静御前の行方が、全国に散らばっていて本当のことがわからないのは、むしろ「そのように工作した」ということで、実は静御前は子を連れて、母の磯禅尼とともに大陸に渡ったのかもしれません。そしていまや偉大なチンギス・ハーンとなった義経と、大陸で結ばれたのかもしれません。
     けれどそれが静御前にとって幸せなことであったかまではわかりません。大陸での夫は、諸国と血を結ぶため、世界中の王族から献上された後宮の女性たちに日々、子種を授けなければなりません。それは大ハーンの勤めであったとはいえ、そんな後宮を抱える義経に嫉妬もあったことでしょう。女性である静御前にしてみれば、心中必ずしもおだやかではななかったかもしれません。

     ちなみにジンギスカンの第一后は、ジンギスカンより1歳年上のボルテです。そのボルテの出身はキャト族とされています。キャトは、もしかすると京都のことかもしれない。またボルテはジンギスカンの「ウジン」と呼ばれていたという記録があります。これは夫人を意味する単語なのだそうです。
     そのボルテの息子がオゴデイ、つまりモンゴル帝国の二代目皇帝です。なんだかありそうな話ですよね。

     ただ、静御前のことを思うとき、男女のことはあまりよくわからないのですが、どんなに巨大な富を手に入れたとしても、結ばれたいと願いつつ結ばれないことのほうが、もしかしたら幸せであったということも、世の中にはあるのかもしれませんね。

    ちなみに戦前戦中までは、この「チンギス・ハーン、日本人の源義経説」は、モンゴルの人たちにたいへん歓迎された説であったのだそうです。
    ところが近年では、そのようなことを言うと、モンゴルの人たちは逆に怒り出すそうです。

    なぜかというと、そこに文化の違いがあります。
    遊牧民族であるモンゴル人たちは、とにもかくにも「強い」ことが男性のリーダーに求められます。
    そして強ければ、何をやっても許される。そういう濃厚な文化を持っています。
    来日にした朝青龍などが、横綱になりながら、ある意味傍若無人なのも、強い者は何をやっても許されるというモンゴル族の文化が根底にあるからです。(このあたりの説は宮脇淳子先生の『モンゴル力士はなぜ嫌われるのか──日本人のためのモンゴル学』に依拠しています。ちなみに宮脇先生は義経説には反対です。)

    要するに戦前の日本は、世界的に見ても「強い国」だったから、モンゴル族から尊敬されたし、自分たちが日本人、源義経の子孫であると言われると、ものすごく彼らは喜んだのです。
    ところがモンゴル人たちからみたとき、戦後の日本は「腰抜けチキン」です。そんな腰抜けに、自分たちの祖先のチンギス・ハーンと血がつながっていたなどとは、口が裂けても言われたくない!
    と、そういうことなのです。
    我々日本人は、すこしは考えなければなりませんよね。


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  • 黒沢登幾に学ぶ日本人の生き様


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    どんなに苦しくても、笑顔でがんばる。ただしい道を行く。
    途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに生きる。
    そこに日本人の生き方があるということを、黒沢登幾から学んでみたいと思います。

    20220929 黒沢登幾
    画像出所=https://aucfree.com/items/n340394295
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    黒沢登幾(くろさわとき)という女性がいます。
    日本で最初に小学校の教師になった女性であり、また、高い志(こころざし)で、時代を動かした女性でもあります。

    「日本で最初に小学校の教師になった女性」という表現には、すこし注釈が必要かもしれません。
    明治に入ってから学制がひかれ、全国統一的な小中学校ができたのですが、実はその前の日本には、こうした全国統一的な学校制度はありませんでした。
    子供達の教育は寺子屋が担ったのですが、この寺子屋のおかげで江戸時代の日本人の識字率が9割近くもあったということは、みなさまご存知の通りです。

    もっというと、江戸時代の人たちは、草書体や行書体で書かれた筆字で、「読み」かつ「書く」ことができたのです。
    いまの私たちは、活字ばかり使用しています。
    筆で書かれた書となると、私もですが、実際のところいまでは読めない人が多いです。
    ということは江戸時代のレベルで言ったら、現代日本人の識字率は、果たして何%くらいになるのでしょうか。

    この寺子屋ですが、寺子屋の先生は「お師匠さん」と呼ばれました。
    生徒は「寺子(てらこ)」です。
    お師匠さんは、だいたい6割が男性、4割が女性でした。
    意外と女性のお師匠さんが多かったのです。

    ですから、そういう意味では、明治に入ってからの学制に基づく小学校教師でも、黒沢登幾に限らずもっとたくさんの女性教師がいてもいいように思うのですが、明治初期の一時期は、教師には、男性を多く登用しました。

    これには理由があって、武士が失業して仕事にあぶれたたため、雇用創出という意味で、男性教師を積極採用したことによります。
    つまり明治政府は、一家の大黒柱とならなければならない人に、まず仕事を与えようとしたわけです。
    ですからこれは男尊女卑などという思想的理由とはまったく異なります。
    あくまで経済的社会的な合理性のうえから、そのようにしただけのことです。

    尚、学制の布告文には、教師に男女の区別はないとしています。
    現に、公的な学校以外の私塾では、昭和初期まで女性が塾長を勤める私塾はたくさんありますし、いぜんご紹介しましたが、頭山満翁を生んだ通称「にんじん畑塾」は、まるで女侠客のような女性が塾長を勤めていました。

    さて、黒沢登幾に話をもどします。
    黒沢登幾は、文化3(1807)年12月21日に、常陸国東茨城郡錫高野村、いまでいう茨城県東茨城郡城里町で生まれました。父は、将吉、母は総子で、登幾は長女です。

    黒沢家は、もともと藤原一族の末裔で、一時は大名であったこともある家柄だったそうです。
    江戸時代を通じて代々、修験道場と子供たち向けの寺子屋を営んで生計を立てていました。

    いわば教育家庭で育った登幾は、幼いころから学問好きで、たいへんに成績もよかったそうです。
    頭が良くて男勝り(おとこまさり)の登幾は、19歳でお嫁に行き、20歳のときに長女久子、23歳で次女照子を生むのですが、登幾が24歳のときに、旦那がポックリと逝ってしまいます。
    登幾は翌年、秋の収穫を終えたところで、二人の子を連れて実家に帰っています。

    ところがその実家で、登幾の実家の父と祖父が、相次いで他界してしまいます。
    登幾は、実家の修験道士を育てる私塾と、寺子屋のあとを引き継ぎました。

    ところが、大人相手の修験道道場は、さすがに24歳の若い娘さんが師匠ということでは、なかなか、そのふさわしさというか、貫禄がありません。
    子供向けの寺子屋の方も、まだ2歳にも満たない幼い二人の子の面倒をみながらの教師です。
    現実の問題として、授業がうまくまわりません。

    そんなことから、結局登幾は修験道場も寺子屋も閉鎖せざるを得なり、やむなく行商をはじめています。
    江戸で、くしや、かんざしなどを仕入れ、これを行商して歩くのです。
    記録によると、この時代、登幾は、なんと群馬県草津の湯元温泉方面まで、重たい荷物を抱えて行商に出向いていたとあります。

    幕末から明治のはじめ頃のことです。
    もちろん、自動車も宅配もありませんから、荷物は全部背中に担いで歩くわけです。
    特に女性の場合、男性のように荷物を背負って着物の裾をまくり、足を出して歩くというわけにいきません。
    さぞかし大変であったろうと思います。

    けれど、行商のおばさんでありながらも、知的で明るい登幾は、行く先々でお客さんにめぐまれ、結局登幾は、この行商の仕事を、なんと20年以上も続けながら、子供たちを育て、母親を養っています。
    たいへん高い教養をもった女性が、20年以上も行商をしていたのです。

    嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船がやってきました。
    日本はその翌年、日米和親条約を締結しています。
    さらに大老・井伊直弼が、安政5(1858)年に、天皇の勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結しました。
    これを知った水戸藩主の徳川斉昭は激怒し、江戸城に緊急登城しました。

    この緊急登城と、将軍への緊急の面会要求のことを「不時登城」といいます。
    あってはならないことです。

    この「不時登城」で、徳川斉昭は、将軍の面前で、大老、井伊直弼を激しく面罵するのですが、井伊直弼は、かわりに徳川斉昭を「不時登城」の罪に問い、なんと「重謹慎」処分を科してしまいます。

    徳川斉昭は、仮にも徳川御3家の一角です。
    方や井伊直弼は、大老職にあるとはいえ、彦根藩主です。
    水戸藩の若手武士たちは、大挙して江戸城に押しかけ、「奸族斬るべし!」と、井伊直弼の命を奪おうとしました。
    これに対して、井伊直弼が行ったのが、勤皇派そのものを一網打尽にする「安政の大獄」です。

    このころ、登幾は茨城郡錫高野村にいました。
    そこは、れっきとした水戸藩です。
    この年、54歳になっていた登幾は、なんとかして斉昭公の謹慎解除を求め、日本国の安泰を図らなければならないと真剣に悩み、女ならばこそできる何か方法があるはずだ、と思考をこらしました。
    そして彼女は、なんと孝明天皇に、斉昭公の謹慎解除を直訴しようと思い立つのです。
    これは、捕まれば死罪です。たいへんな行為です。
    それでも、登幾は、やると決めました。

    彼女は、単身、京に向かいました。
    登幾は、決して楽な生活をしていたわけではありません。
    食うのがやっとの行商暮らしです。
    蓄えがあるわけでもありません。
    それでも彼女を動かしたもの、それは日本を守りたい、そのために斉昭公をお守りしたいという熱情です。

    京に着いた彼女は、なんとかして公家のつてを探し求め、孝明天皇に宛てて、一首の和歌を献上することに成功します。その和歌です。

     よろつ代を 照らす光の ます鏡
     さやかにうつす しづが真心

    水戸からわざわざひとりの女性が訪ねてきて、現代の世相を真心という鏡に映しています、という歌です。
    「しづが真心」は、敵将の前で舞った静御前の「しづ」の真心と、下賤の身の女性という意味での「賤(しず)」をひっかけています。
    「ます鏡」も、義経と静御前の吉野のお山の別れからきています。
    つまり「写っている光」は、誰か男性のことを言っていることは間違いありません。
    そして登幾は、わざわざ茨城から京まで出てきているのです。
    時勢からみてそれは斉昭公のことでしょう。
    その斉昭公の「光」を、民衆の真心が求めているという歌です。

    歌に込められた登幾のメッセージは明快です。
    しかもたいへんに含蓄に富んだ素晴らしい歌です。
    この歌はあっという間に公家や孝明天皇に知れ渡りました。
    けれど、お上に対する直訴は御法度です。
    その直訴を、なんと女性が、あろうことか天子様に対して行ったのです。

    ただ、見方を変えれば、ただ歌を献上しただけともとれます。
    万葉の時代から、庶民の歌を天子様が愛でる、そういう習慣は日本に確かに存在します。

    歌は、直訴か文芸か。
    直訴とすれば、磷付(はりつけ)獄門晒し首です。
    歌なら、ただの献上歌です。
    けれど、あまりにも政治的メッセージが濃厚です。

    の微妙さがある意味、たいへん高く評価され、なんと登幾のメッセージは、たしかに孝明天皇にまで届けられてしまうのです。

    登幾の行動は、幕府の目付役たちにも知れ渡たりました。
    世はまさに安政の大獄の真っただ中です。
    登幾は、幕府の役人によって大阪で捕えられました。

    そして厳しい尋問を受けました。
    斉昭謹慎解除の登幾の訴えが、登幾の単独行動ではなくて、斉昭公夫人の登美の宮の密使としての行動ではなかったかと疑われたのです。

    尋問は凄惨を極めました。
    石抱きといって、まな板のようなデコボコした台の上に正座で座らされ、重たい石を膝に乗せられるといった、拷問まで受けたようです。
    けれど、登幾は白状しない。
    白状できるはずありません。
    登美の宮と登幾は、そもそも何の面識もないのです。
    行動はあくまでも登幾の単独行動です。

    登幾は大阪でまる2か月取り調べを受けたのち、江戸に送られ、さらに厳しい尋問を受けることになりました。
    登幾は、重罪政治犯として、籐丸篭(とうまるかご:罪人を護送するための専用カゴ)に乗せられ、江戸まで護送されました。
    途中の宿場町でも街道でも、女性の重罪人をひとめ見ようと、大勢の見物者が詰め掛けました。

    ここもすこし解説が必要です。
    江戸時代というのは、ものすごく犯罪の少ない時代でした。
    幕末になって、浪士たちによる血なまぐさい事件が頻発するようになりましたが、それまで、たとえば将軍吉宗がいた享保年間など、20年に、伝馬町の牢屋に入れられた人自体がゼロです。
    なぜここまで犯罪がすくなかったかといえば、江戸時代の日本人の徳性が高かったからで、この犯罪発生割合と民度徳性には、高い相関関係があります。

    昨今の日本では、犯罪はあってあたりまえというくらい多発していますが、では日本人の民度や徳性がそれだけ下がったのかというと、東日本大震災に明らかなように、実は日本人そのものの徳性は、さほど下がっていません。
    にもかかわらず、これだけ犯罪が多発しているのは、要するに民度、徳性ともに極端に低い人たちが、日本人になりすまして、好き放題犯罪をしでかしているからといわれています。
    私たちは、この現実をしっかりと見据えなければならないと思います。

    さて、黒沢登幾の籐丸篭での江戸護送は、そういう意味で、そもそも街道筋の人たちは、籐丸篭自体、見たことがないものです。
    まして女性の犯罪者なんて、前代未聞、驚天動地の大見せ物、というわけで、見物の野次馬は、まさに押せや押せやの大盛況だったそうです。

    江戸に着いた登幾は、伝馬町の獄舎に入れられました。
    先客がたくさんいます。
    そのなかのひとりが吉田松陰です。
    河合継之助もいます。

    江戸でも登幾に対して厳しい取り調べがなされました。
    このお取り調べは、多分に政治的なもので、事実があろうがなかろうが、基本、打ち首または切腹のお沙汰を前提としたものです。

    ところが登幾は、いわゆる攘夷の志士ではありません。
    歌を詠んだだけです。
    これは幕府としても罰しにくい。

    幕府はついに、登幾の言葉を容れ、判決を言い渡します。
    判決内容は、江戸日本橋から5里4方と、常陸国(水戸藩)への立ち入り禁止、というものでした。
    つまり登幾は、江戸にも自分の家にも行けないし、帰れなくなったのです。

    江戸でかんざしを仕入れて行商して生計を得ていたのです。
    これでは、生計そのものがなりたたない。
    ひらたくいえば、死ねと宣告されたようなものです。

    やむなく登幾は、栃木県茂木町に仮住まいをするのですが、ほどなくて万延元(1860)年3月3日、井伊直弼大老が江戸城桜田門の外で、水戸浪士の襲撃を受けて亡くなります。
    桜田門は、いま警視庁が建っているあたりです。
    これで幕府内に政権交替が起こり、登幾は無罪放免となり、この年の11月、晴れて錫高野村の実家に帰っています。

    こうなると水戸藩では、単身、ミカドに直訴に及んだ登幾は、英雄です。
    女だからといって、そのままにしておくのはもったいないと、なんと登幾に、家業の寺子屋の再興話がもちかけられる。
    そして父の代には、15~6人だった門人(生徒)が、登幾が再興した寺子屋では、なんと生徒数が80名を超す大人気となりました。

    その登幾のもとに、錫高野村(すずたかのむら)の村長さんから、小学校の教師をしてくれないかともちかけられたのが、明治5(1872)年のことです。
    この年、明治新政府から新たな「学制」が発表され、全国に小学校が置かれることになったのです。

    この明治5年の「学制」は、「小学教員ハ男女ヲ論セス」です。
    つまり女性でも、教員になれるとしてあります。
    男女同権なんて、言葉さえもなかった時代ですが、明治初期においても、我が国では、教職に男女の別を設けていなかったのです。
    これは、世界でもめずらしいことだろうと思います。

    錫高野村は、登幾の寺子屋を、そのまま小学校とすると決めます。
    登幾の自宅の寺子屋が、江戸270年を経て、明治6(1873)年5月、正式に村立小学校となったのです。
    このとき登幾は68歳でした。
    その年齢で、彼女は「日本初の小学校女性教師」となったのです。

    登幾は、この学校で漢学を担当しました。
    そして一年間、ここで教職を勤めたあと、翌年、近くに小学校舎が新築されたのを機会に、高齢を理由に、学校教師を辞任しました。

    ところが・・・ここがおもしろいところです。
    登幾は辞任したはずなのに、教えを請う生徒があとをたたないのです。
    このため、一時は、公式な小学校よりも、登幾のいる私塾の方が、生徒数が多いなんていう事態まで起きています。
    結局、登幾は、明治23(1890)年、85歳の高齢で亡くなるまで、自宅の私塾で、青少年に教鞭をとり続けました。

    さて、登幾が歌を献上した孝明天皇は、明治天皇の父親です。混乱の時代の中にあって、父に素晴らしい歌を献上した黒沢登幾に、明治天皇は、毎年十石のお米を授けてくださいました。陛下は、ちゃんと見ておいでだったのです。

    さて、未成年の頃の登幾は、家運もよく、頭もよく、学問もよくできる素晴らしい才女でした。
    しかし大人になった登幾を待っていたのは、夫に先立たれ、女手一つで二人の子を育てるというたいへんな苦労でした。
    そしてさらには、登幾から教育者としての地位も奪い、20年の長きにわたって、過剰な肉体労働を強い、体力を使い果たさせ、貧乏な暮らしの中で、餓えに苦しませ、その身を極貧暮らしにまで追い落すというものでした。

    そして、意を決した京都行きでは、登幾の身柄は拘束され、拷問を受けたのみならず、籐丸篭で護送され、ようやく放免されても、家に帰らせてもらえない。老いた母の顔も見れない、娘たちにも会えないという暮らしでした。

    ところが、実に不思議なものです。
    天は、最後には、登幾に、本来の教育者としての地位を与え、しかも天子様(天皇陛下)から、直接御米をいただけるという処遇を受けるようにしています。
    なぜでしょうか。

    孟子の言葉に、「天の将に大任を是の人に降さんとするや」というものがあります。

    天の将に大任を是の人に降さんとするや
    必ず先づその心志(しんし)を苦しめ
    その筋骨を労し
    その体膚(たいひ)を餓やし
    その身を空乏し
    行ひその為すところに払乱せしむ。

    というのです。
    なぜそんなことを天がするかといえば、それは、大任を得た人が、

    心を動かし、性を忍び
    その能はざる所を曾益せしむる所以なり

    と書かれています。
    要するに、黒沢登幾は20年という長きにわたり、天から薫陶を受け続けたわけです。
    そしれそれだけの長い期間、行商人に身をやつしながらも、登幾は本来の教育者としての自覚と誇りと矜持を保ち続けたわけです。
    そして最後に天は、登幾に、我が国初の女性小学校教師という役割を、与えました。

    見えない世界のことは、私にもよくわかりません。
    ただ、ひとついえることは、天はその人に、「絶対無理!乗り越えられない!」としか思えないような厳しい試練を与えるということです。

    いまの日本には、悩んだり、苦しんだりしている人はたくさんおいでだと思います。
    黒沢登幾も、極限まで追いつめられた人でした。
    けれど、あきらめない。くじけない。

    スーパーマンや、バットマンなど、アメリカン・ヒーローは、はじめから全てを持っています。
    三国志の関羽や張飛ははじめから強く、あるいは諸葛孔明は最初から天才です。
    けれど日本のヒーローは、オオクニヌシにせよ、スサノオにせよ、アマテラスにせよ、神様自体が、最初は不完全で、いじめを受けたりしながら、様々な試練を経て、成長していきます。
    牛若丸だって、カラス天狗に訓練を受けて、そこではじめて強くなっています。

    どんなに苦しくても、笑顔でがんばる。ただしい道を行く。
    途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに生きる。
    そこに日本人の生き方があるように思います。


    ※このお話は、『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!』和と結いの心と対等意識に掲載したものです。

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  • 金門島の戦い/根本博中将


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    台湾は、チャイナ大陸の福建省から南シナ海で180kmの距離にある島国です。
    ところがその台湾について不思議なことがあります。

    そのひとつが「金門島」です。
    「金門島」はチャイナ福建省からわずか1.8kmのところに、まるでチャイナ大陸にへばりつくようにある島です。
    そこはいまも台湾の勢力圏です。

    さらにもうひとつ。
    なぜ台湾本島は、国共内戦当時、チャイナ共産党に攻められたなかったのか。
    これまた不思議なことです。

    大東亜戦争後、米英の支援を絶たれた国民党は、チャイナ各地で八路軍に敗れ続け、ついに蒋介石はチャイナ大陸を追い出されました。
    八路軍側が圧勝したからです
    にもかかわらず八路軍は、台湾本島に攻め入ることをしませんでした。
    なぜでしょうか。

    実は、ここに日本人が関係しています。
    これは戦後六〇年間、封印されていた史実です。

    チャイナで中華人民共和国が建国宣言する二ヶ月前、金門島で国民党軍と共産党軍による激烈な戦いが繰り広げられました。
    戦いは、国民党軍の完膚なきまでの完全勝利となりました。
    この戦い以降、チャイナ共産党は国民党への追いつめ作戦(攻撃)を止めました。
    だから台湾はいまも国民党政権が存続し、台湾は台湾として存続しています。

    このことは、金門島の戦いが、当時破竹の勢いだったチャイナ共産党軍に、国民党を攻める意欲さえも失わせた、ということです。
    共産党軍は、そこで何をおそれたのでしょうか。

    それが、「戦神(いくさかみ)」です。
    その国民党側に「戦神(いくさかみ)」がいたからこそ、チャイナ共産党軍は金門島ひとつを陥とすために、どれだけの兵力の損耗をするかわからないと恐怖したし、以後の台湾侵攻をあきらめたのです。

    この事実が明らかにされたのは平成二〇(2008)年のことでした。
    そして、このときの「戦神」こそ、日本陸軍の名将、根本博元陸軍中将です。

    根本陸軍中将は、明治二十四(1891)年に、二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村・現須賀川市)で生まれました。
    二本松藩は、織田信長から「米五郎左」と呼ばれて信頼された猛将丹羽長秀の直系の丹羽氏が治め、徳川将軍家への絶対の忠義を最大至上とした藩です。
    あまり知られていませんが、戊辰戦争において二本松藩は、最大の激戦と呼ばれる勇猛無比の戦いを行った藩としても知られています。

    そんな二本松に育った根本博陸軍中将は、仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校にあがり、陸軍士官学校を二十三期で卒業し、陸軍大学三十四期生として陸軍に任官、以後ずっと陸軍畑を歩み続けました。

    その根本陸軍中将がなぜ台湾の国境紛争に関わったのか。
    そこには理由があります。

    実は、終戦当時、根本陸軍中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
    八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、もちろん根本陸軍中将のもとにもたらされました。

    そして八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
    しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もありません。

    考え抜いたあげく、根本陸軍中将は、
    「民間人を守るのが軍人の仕事である。
     その民間人保護の確たる見通しがない状態で
     武装解除には応じられない」
    とし、
    「理由の如何を問わず、
     陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。
     これに対する責任は一切司令官が負う」
    と、命令を発しています。
    駐蒙軍の意識は、これによって一様に高まりました。

    八月十九日、ソ連軍とチャイナ八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
    彼らはソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきました。

    激しい戦いは三日三晩続きました。
    結果がどうなったか。
    ソ連軍が敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
    根本陸軍中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利したのです。

    さらにこの戦いに先だち、根本陸軍中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
    しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていました。

    当時、張家口から脱出した当時二十五歳だった早坂さよ子さんの体験談がのこっています。

    「張家口は
     ソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話に
     戦々恐々と致しました。
     五歳の女子と生後十ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、
     なんとか日本に帰らねばと思いました。
     駅に着きますと
     貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、
     集まった居留民は皆それに乗り込みました。
     張家口から天津迄、
     普通でしたら列車で七時間位の距離だったと思いますが、
     それから三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
     列車は「萬里の長城」にそって走るので、
     長城の上の要所々々に
     日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、
     皆で手を振りました。
     そして兵隊さん達よ、
     無事に日本に帰ってきてと祈りました」

    多くの日本人居留民の犠牲が重なった他の戦域とくらべ、なんとものどかな逃避行の手記です。
    それだけ根本軍団の手当が行き届いていたということです。

    八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は、夜陰にまぎれ、戦地から撤収しました。
    列車は全部、民間人避難のために使っていたから、軍人さんたちは徒歩で退却しました。
    途中の食料は、最早所有者のいなくなった畑のトウモロコシを生で齧(かじ)ったそうです。

    たとえどんなに苦労してでも、たとえ装備が不十分であったとしても、助けるべき者を助ける。
    そのために命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。
    強いものほど先頭に立って苦労をする。
    苦労することを厭わない。
    これがかつての帝国陸軍軍人の姿であり、私たちの若き日の父や祖父の姿です。

     *

    モンゴルでの戦闘に勝利した根本陸軍中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
    そこで根本陸軍中将は、北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
    このとき北支には、軍民合わせて三十五万人の日本人がいました。
    根本元陸軍中将は、その全部の命を預かる身となったのです。

    この頃チャイナでは、蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせ、あちこちで乱暴狼藉を働いていました。
    とりわけ日本人に対しては、あらゆる蛮行が加えられていました。
    ところが北支方面では、根本陸軍中将率いる北支軍が断固として武装を解かない。
    日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本陸軍中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでもチャイナ側を完膚なきまでに叩きのめしました。

    すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのです。
    それでも日本軍を破れない。
    次第に根本陸軍中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神(しゃんせん)」と呼ばれて恐れられるようになりました。
    どんなにチャイナの軍が頑張っても、根本陸軍中将の軍を破れないのです。
    だから、日本人の根本将軍は「戦いの神」に違いない、人は神には勝てない、そう呼ばれるようになったのです。

    昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石は、自身で直接北京に乗り込み、根本陸軍中将に面談を申し込みました。
    断る理由はありません。
    むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。

    はたして蒋介石は、
    1 根本陸軍中将率いる北支方面軍とは争わない
    2 日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする
    と約束してくれたのです。

    チャイナでは、約束というのは相手に守らせるべきもので、自分が守る気はまったくない、というのが常識です。
    ですから根本陸軍中将は、蒋介石の協力に感謝し、
    「東亜の平和のため、そして閣下のために、
     私でお役に立つことがあれば
     いつでも馳せ参じます」
    と約束しています。
    蒋介石側に約束を守らせるためには、こちらが強いというだけでなく、相手方へのメリットの提供が必要だったからです。

    会見の結果、在留邦人の帰国事業は、誰一人犠牲を出すことなく、約一年で無事全員が完了しました。
    こうして北支36万の日本人は、全員無事に日本に復員することができたのです。

    こうして全てを終えた根本陸軍中将は、昭和二十一(1946)年七月、最後の船で日本に帰国されました。

     *

    それから三年経った昭和二十四(1949)年のことです。
    チャイナでは国共内戦が激化し、戦いは共産党軍の圧倒的勝利に終わろうとしていました。

    そんな折に、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
    彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で、
    「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」
    と語りました。

    傳作義将軍は、根本陸軍中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
    そのころ、チャイナ本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていました。
    八路軍との戦いは、国民党側が敗退につぐ敗退をしていました。
    このままでは蒋介石自身も命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢でした。

    「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」
    そういう李鉎源の申し出に、根本陸軍中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだとおもいました。

    けれど、当時はGHQが日本を統治していた時代です。
    旧陸軍士官に出歩く自由はありません。
    そもそもMP(ミリタリー・ポリス)の監視付きです。
    しかも無一文。
    渡航費用もありません。

    けれどある日、根本陸軍中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に
    「釣りに行って来る」
    といい残して家を出ました。
    そしてそのまま台湾に渡航するための工作活動にはいりました。

    ちなみに昔の帝国軍人というものは、仕事のことを一切家族に言わないのが常識です。
    軍事は機密事項であるし、軍は人と人との人間関係が極めて濃厚な場所です。
    あいつは気に入らない、などとついうっかり妻に話し、聞いた妻がたまたまその相手と会ったときにしかめつらでもしたら、ただでさえ濃厚な人と人との繋がりにひびがはいる。
    昨今では「軍は命令で動くもの」とばかり思っている人が多いけれど、それ以上に、みんなが納得して動くという状態を築いていたのが帝国陸軍です。

    やらされて戦うのではないのです。
    感情面と理性面の両方で、戦いを納得していたからこそ、帝国陸軍は強かったのです。
    このことは日本人なら、誰でもすぐに納得できることだろうと思います。
    昨今のエリートさんは、人間関係を上下関係だけでしかみようとせず、命令すれば下は動くと思っている人が多いようです。
    そういうものではないのです。
    みんなが納得し、自分の意思で動くようになったときに、はじめて本当の強さが発揮できるものです。

     *

    さて台湾を行きを決意した根本陸軍中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会いました。
    明石元長は台湾で育ち、戦後は日本にいて台湾からの留学生や青年を援助していました。

    台湾に国民党がやってきて以降、彼ら国民党が、元からいる台湾人(旧日本人)を何かと差別し、いさかいが耐えないことは明石元長も承知しています。
    しかし蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭ってしまいます。
    チベット、ウイグルの悲劇は、そのまま台湾民衆の悲劇となるのです。

    明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えていました。
    そのためには、戦いの神様と呼ばれた根本陸軍中将を台湾に送り込むしかない。

    けれど終戦直後のことです。
    明石も無一文でした。
    根本陸軍中将に声をかけたはいいけれど、中将を台湾まで渡航させるための費用がない。
    当時、金策に駆け回っていた明石氏の手帳には、
    「金、一文もなし」
    と書かれています。

    明石は、資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
    根本陸軍中将は、その釣り船に乗って、昭和二十四(1949)年六月二十六日、延岡の港から台湾に向かって出港しした。
    出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻り、そのわずか四日後に過労で死んでいます。
    まだ四十二歳の若さでした。
    いまでいう過労死でした。
    どれだけご苦労されたかが偲ばれます。

     *

    根本陸軍中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
    ところが途中の海は、大しけとなりました。
    出港から四日目に船が岩礁に乗り上げ、船底に大穴をあけてしまいました。

    乗員全員で必死にバケツで海水を汲み出し、板を貼付けて応急処置し、しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、台湾に向かいました。

    そして出港から十四日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市の基隆(キールン)に到着したときは、船はボロボロ、乗っていた根本陸軍中将以下全員は、まるで浮浪者のような姿になっていました。
    これでは怪しい人と見られても不思議はありません。

    一行は全員、その場で不審な密航者として逮捕されました。
    ちなみに当時の中将の写真が残っていますが、平素どちらかというと下膨れで、どっしりとした体型の根本陸軍中将が、このときばかりは、頬がこけ、手足もガリガリに痩せ細っています。
    ご苦労がいかばかりだったか偲ばせます。

    根本陸軍中将は牢獄の中で、通訳を介して
    「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」
    と何度も主張しました。
    けれど看守達は、
    「何を寝ぼけたことをいっているのか」
    とまるで相手にしませんでした。
    まあ、身なりをみれば、当然の反応であったといえようかと思います。

    それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がりました。
    そのウワサを聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。

    鈕中将は、根本陸軍中将が北チャイナ方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
    この話を聞いたとき、鈕中将は反射的に椅子から立ち上がったそうです。
    根本陸軍中将の人格と信念を知る鈕中将は、
    「あの人なら台湾に来ることもあり得る」
    と直感したのです。

    できた人物ほど行動が早いものです。
    鈕中将はその場で車を基隆(キールン)に走らせました。

    鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本陸軍中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせました。
    根本陸軍中将らは、急に看守達の態度が変わったので、
    「いよいよ処刑か」
    と覚悟を決めたそうです。

    現れた鈕中将は、根本陸軍中将の姿をひとめ見るなり、
    「根本先生!」
    と駆け寄り、その手をしっかり握りました。
    それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきたのです。
    鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きな存在であったことか。

    根本陸軍中将らは鈕中将とともに、八月一日に台北に移動しました。
    そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。

    湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍です。
    日本語も流暢です。
    二人は、すぐに打ち解けました。

    さらに根本陸軍中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、蒋介石総統の耳にもはいりました。
    蒋介石も行動の早い人です。
    その場ですぐに根本陸軍中将に会見を求めました。

    根本陸軍中将が応接室に入ると、蒋介石は、
    「好(ハオ)、好(ハオ)、好(ハオ)、老友人」と固く手を握ったそうです。
    老友人というのは、古くからの信頼する友人という意味です。

    しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で根本陸軍中将に切り出しました。
    「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行く。
     差し支えなければ
     湯と同行して
     福建方面の状況を見てきていただきたい」
    快諾した根本陸軍中将に、蒋介石は感激して
    「ありがとう、ありがとう」と繰り返したそうです。
    これは本心からのものでした。

    実はこの会見の二ヶ月前に、国民党は上海を失っていたのです。
    上海防衛軍を指揮していたのは、湯将軍でした。
    そこへ共産党軍が殺到したのです。

    上海を失った事で、国共内戦の行方は誰の目にも明らかとなりました。
    五日前には米国務省も、
    「チャイナは共産主義者の手中にある。
     国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」
    と、公式に国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのです。

    上海を失った国民党軍にとって、チャイナ大陸での最後の足場が福建でした。
    それも、海岸沿いにある商都、厦門(アモイ)界隈だけが、国民党が守る唯一のチャイナ大陸での足がかりとなっていました。
    つまりここを失えば、国民党は完全にチャイナ本土の支配権を失い、一方で共産党軍が、一気に台湾まで攻め込んで来る。
    そうなれば、もはや蒋介石の命もない・・という追いつめられた情況にあったのです。

    福建行きを承諾した根本陸軍中将を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせました。
    いくら根本陸軍中将が恐縮して辞退しても、湯将軍はそれを許さなかったといいます。
    戦を知る湯将軍は、それだけ根本陸軍中将の実力を理解していたのです。

    昭和二十四(1949)年八月十八日、根本陸軍中将ら一行は、福建に向けて出発しました。
    根本陸軍中将は、国府軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られたチャイナ名の「林保源」を名乗りました。
    厦門(アモイ)に到着した根本陸軍中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この地は守れない」と判断しました。

    商都、厦門は、厦門湾の中にある島です。
    北、西、南の三方を大陸に面し、狭いところではわずか二キロしか離れていない。
    三方から攻撃を受ければ、厦門はあっという間に陥落してしまいます。

    さらに厦門は商業都市です。
    二〇万人もの住民が住んでいる。
    そんな場所で戦えば、当然、民間人に犠牲が出る。
    さらに戦闘になれば、軍隊だけでなく、民間人の食料も確保しなければなりません。
    つまり、二〇万食が余計にかかるのです。
    それだけの食糧の供給は不可能です。
    つまり厦門では、持久戦ができないのです。

    一方、厦門のすぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外側に位置します。
    海峡の流れが速く、これを乗り越えるためには、速度の速い船を使ってもスピードは出ません。
    つまり上陸に時間がかかる。
    しかも島の人口はわずか四万です。
    島民達は漁業やさつまいもの栽培で生計を立てています。
    島では、食料自給が可能です。
    つまり大陸との通行を遮断されたとしても、金門島を拠点にすれば長期間戦い抜けるのです。

    その日の夜、根本陸軍中将は、湯将軍に、自分の考えを話しました。
    そして「共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません」と断言しました。

    しかし湯将軍は押し黙ってしまいました。
    すでに上海を失っているのです。
    厦門を放棄すれば、共産軍は厦門を落としたと宣伝するだろう。
    そうなれば湯将軍は再び敗軍の将となり、ひいては蒋介石の信頼をも失うことになるやもしれない。

    けれど根本陸軍中将は言いました。
    「いまは台湾を守ることが、
     国民党政府を守ることです。
     そのためには戦略的に金門島を死守することが力となります。
     自分の名誉ではなく、
     台湾を守る道筋をつけることが、
     軍人としての務めではありませんか?」

    この言葉に湯将軍は決断します
    「厦門は放棄。
     金門島を死守する!」

    基本方針が固まると、さらに根本陸軍中将は作戦を深化させました。
    共産軍は海軍を持っていません。
    彼らが海峡を渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めることになるだろう。
    ジャンク船なら、海で迎え討つこともできるが、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
    ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

    根本陸軍中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を再び採用します。
    海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
    これは硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。

    根本陸軍中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示を与えてまわりました。

    十月一日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発せられると、勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に、
    「こんな小島をとるには何の造作もない、
     大兵力を送り込んで
     残党をひねり潰すだけのことだ」
    と豪語しました。

    十月半ばには金門島の対岸にある港でジャンク戦の徴発が始まりました。
    船がまとまった十月二十四日の夜です。
    そしていよいよ金門島への上陸作戦が始まりました。
    この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍二万の兵士であふれかえりました。

    彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありませんでした。
    共産軍は悠々と全員が島に上陸しました。
    そして露営陣地の構築に取りかかりました。
    そのとき・・・。
    突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。

    火の手はあっという間に広がりました。
    油を注がれた木造の小船は、次々と燃え上がりました。
    つまり、共産軍は、完全に退路を絶たれたのです。

    そして夜が明けました。

    辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。
    そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車二十一両が現れて、三十七ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかりました。

    逃げる船は既にありません。
    共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちる他ありません。

    これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
    ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。
    そしてそのまま一気に古寧頭村に追い打ちをかけようとしました。

    ところが根本陸軍中将は、これに待ったをかけました。
    「このままでは巻き添えで、
     一般の村民に被害が出る。
     村人たちが大勢殺されたら、
     今後、金門島を国民党軍の本拠として
     抵抗を続けていくことが難しくなる」

    そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させると、南側から猛攻をかけさせました。
    そのうえで、敵に逃げ道を作って北方海岸方面に後退させ、そこを砲艇による海上からの砲撃と、戦車隊による挟み撃ちで、敵を包囲殲滅するという作戦を湯将軍に提示しました。
    湯将軍は、根本陸軍中将のあまりの作戦見事さに、これをそのまま採用しました。

    十月二十六日午後三時、根本陸軍中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。
    敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退しました。
    そこにはあらかじめ、砲艇が待機していました。

    砲艇が火を吹く。
    反対側から戦車隊が迫る。
    共産党軍に逃げ場はありません。
    砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し、午後十時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏しました。

    この戦闘で共産軍の死者は一万四千、捕虜六千となりました。
    国民党軍は、怪我人を含めて三千余名の損傷でした。
    戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。

    わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が殲滅したというウワサは、あっという間に広がりました。
    これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだとも・・・。

    日本陸軍の強さは、当時、世界の常識です。
    その日本の戦神が、国民党軍のバックについた。
    それは共産軍からみれば死神以上に恐ろしいことです。

    しかも悪いことに、このときの共産党軍は、中華人民共和国の建国宣言をしたばかりでした。
    国民党に対する圧倒的勝利が連続していたから、気を良くして建国宣言したのです。
    ところがその基盤が固まらないうちに、国民党軍に完膚なきまでに叩きのめされたとなれば、共産党の威厳を損ねることになります。
    そしてこういうときの共産党のやり方は、決まっています。
    「すべてなかったことにする」です。

    こうして共産軍の進撃は完全に止まり、金門島は70余年を経た今日も、台湾領でいます。

    十月三十日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋する。湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本陸軍中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
    けれど根本陸軍中将は、
    「北支撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。
     自分はそのご恩をお返ししただけです」
    と静かに語りました。

    結局根本陸軍中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本陸軍中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。

    ただ、行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国されています。

    羽田に着いたとき、タラップを降りる根本陸軍中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
    それはあたかも、
    「ただちょいとばかり釣りに行ってただけだよ」
    といわんばかりの姿でした。

    中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出られました。
    そのときの釣り竿をずっと持っていたのです。
    どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない。
    それは根本陸軍中将の、父として、夫としての家族へのやさしさだったのかもしれません。

    奥さんや娘さんも偉いです。
    ただ出ていったときと同じ姿で、まるで出かけたその日の夕方にでも帰ってきたかのように釣り竿を手に帰宅した夫に、ただいつもと同じように「おかえりなさい」と言って、夕餉を用意し、そのまま夫が死ぬまで、
    「あなた、どこに行っていたんですか」と問うこともしませんでした。

    軍人の妻とは、そういうものと心得ていたからと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、釣り竿を持って出ていったその日から、夫は突然、行方不明になったわけです。
    奥さんはその間、子を抱えて、終戦直後という食料も衣類もない過酷な時代を、ひとりで乗り越えるしかなかった。
    さぞかしたいへんなご苦労があったものと思います。

    けれど3年経って夫が、つい今朝出ていって、まるでその日の夕方帰宅したかのように帰ってきた。
    その日も、それからのまる40年間も、奥さんは夫が死ぬまで、一度も夫に、どこに行っていたのか、何をしていたのかと尋ねることをなかったし、いない間の苦労を夫に咎めだてすることも一切なかったといいます。

    日本では古来、男女は対等です。
    どちらが上ということはありませんし、支配と被支配の関係でもありませんし、隷属の関係でも、依存関係でもありません。
    対等ということは、男女がともに精神的に「自立」しているときにはじめて成り立つものです。
    そして咎めだてしなかったということは、そこに絶対的な夫婦の信頼があったということです。

    また娘さんも同様に、父をまったくとがめることをしなかったそうです。
    つまり親子の間にも、自立と本物の「信頼」という強い絆があったのです。
    すごいことだと思います。

    いつの日か、根本博陸軍中将ご夫妻の映画ができたら良いなと思っています。
    そしてそのような映画が、上映中止に追い込まれることなく、多くの日本人の賛同を得ることができる、そのような日本にしていくことこそ、いまを生きる私たちの使命なのではないでしょうか。


    ※この記事は、2012年11月の記事のリニューアルです。
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  • 日本人の生き方 醍醐忠重海軍中将


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    醍醐忠重海軍中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
    華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
    誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
    本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。
    そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
    泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
    君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。
    醍醐忠重海軍中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。

    20160423 ヒナゲシ
    画像出所=http://arufa-7.cocolog-nifty.com/blog/cat38866123/
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    写真は、この時期によく見かけるヒナゲシの花です。
    ヒナゲシは虞美人草とも呼ばれ、花言葉はいたわり、思いやり、忍耐です。

    日本人といえば、特定の三国を除いて、世界中の人々から勤勉、親切、真面目、正直、礼儀正しい、助け合う、優しい、協力的といったイメージを持たれているようですが、その実態は、思いやりと、忍耐力にあろうかと思います。
    そこで今日は、日本人の生き方というタイトルで、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将をご紹介したいと思います。
    終戦当時日本海軍の第六艦隊司令長官だった方です。
    第六艦隊は潜水艦隊です。

    醍醐海軍中将は、明治二十四(1891)年、名門貴族の醍醐家の嫡男として生まれました。
    醍醐家は旧侯爵家です。
    れっきとした華族のご出身です。

    華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
    けれど醍醐海軍中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人でした。

    醍醐忠重海軍中将
    醍醐忠重海軍中将


    醍醐海軍中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めました。
    けれど醍醐海軍中将がまだ八歳の頃に他界しています。
    母も相次いで亡くなりました。
    醍醐忠重中将は、ですから孤児となって一條家にひきとられています。

    子供の頃の醍醐海軍中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
    そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
    とても強かったそうです。

    明治四十二(1900)年に、海軍兵学校に、第四十期生として入校しました。
    入校時の成績は、百五十名中、百二十六番です。
    それが入学後の猛勉強で、卒業時には百四十四名中、十七番になっていました。
    たいへんな努力家でもあったのです。

    兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐海軍中将は、
    「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、
     上品で服装もきちんとしていた。
     酒を飲んでも少しも乱れることはなく、
     謹厳で、しかも謙譲な奴だった」そうです。

    昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
    卒業すれば、高級士官になるからです。
    けれど醍醐海軍中将は現場勤務を選択し、巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になりました。
    そして大正六(1917)年に、初の潜水艦勤務に就きました。
    このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生を決定づけました。

    当時大尉だった醍醐海軍中将は、練習艦隊参謀にという内示があったけれど断っています。
    醍醐海軍中将は生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

    彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
    海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。
    このとき醍醐海軍中将が艦長を務める潜水艦は、たった一隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるというはなれ業をやってのけています。

    もちろん演習ですから実弾は使用していません。
    けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく全滅させられたのです。
    この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれています。

    昭和十三(1938)年、醍醐海軍中将にご皇室の侍従武官の話がもちあがりました。
    このとき彼が海軍大学校を出ていないからと反対意見があったそうです。
    しかし人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官になっています。

    当時を振り返って、入江侍従は、
    「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

    さて、戦争も末期となった昭和二十(1945)年五月のことです。
    醍醐海軍中将は第六艦隊司令長官に就任しました。
    このとき第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えました。
    潜水艦を愛し、潜水艦を知り、部下たちの心を理解する醍醐海軍中将の長官就任は、まさに艦隊全員の喜びだったのです。
    醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新されたといいます。

    この頃、第六艦隊で、作戦可能な潜水艦はたったの九隻でした。
    けれど醍醐海軍中将が司令長官となった潜水艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。
    重巡インデアナポリス撃沈。
    駆逐艦アンダーヒル撃沈。
    駆逐艦ギリガン大破。

    インデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
    そのインデアナポリスに、伊五十八潜水艦は、六本の魚雷を発射し、三本を命中させて撃沈しています。
    このことを、当時のニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の一ページ」と書いています。

    この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載していました。
    醍醐海軍中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。
    そのとき、出撃する「回天」の乗員ひとり一人と握手するとき、醍醐海軍中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
    優秀な若者を特攻させなければならないのです。
    そのことに醍醐海軍中将は深く悩んでいたのです。

    終戦直後のことです。
    艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。
    このとき第六艦隊には、かなり巨額の金が残っていたのです。
    そしてそのお金の処分が醍醐長官の決定に委されました。

    醍醐海軍中将は、
    「このお金は国家のお金です。
     ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
     何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談しました。

    鳥巣参謀は、
    「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
     本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、
     この混乱の中ではとても手が回りかねます。
     回天関係ならば全員わかっていますから」と答えました。
    醍醐海軍中将はこの方法に賛成し、即座に決定しました。

    決定は、昭和二十一(1946)(年正月から春にかけて実行に移されました。
    各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えました。遠距離でどうしても行けないところには郵送しました。

    このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
    以下にその弔辞を引用します。
    わかりやすさを優先するために、いつものねず式で、現代語に訳してみます。

    *****
    【弔辞・謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ】

    去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
    皇国は鉾(ほこ)を収めて、ポツダム宣言受諾のやむなきに至りました。
    まことに痛恨のきわみにして、何をもってこれをたとえたらよいのか、言葉もありません。
    散華されたみなさんの忠魂を思えば、哀々切々の情、胸に迫って胸が張り裂けんばかりです。

    かえりみるに、みなさんには、志を立てて海軍に入り勇躍大東亜戦争に臨んでいただきました。
    けれど戦い中途からの戦況は厳しく、そのためにみなさんは回天特別攻撃隊員となり、そして戦勢を挽回しようとしてくださいました。
    その闘魂は、まことに鬼神をも泣かしむるものです。

    みなさんは秋霜烈日の訓練に従事されました。
    ひとたび出撃するや、必死必殺の体当り攻撃をして敵艦船を轟沈する偉功を樹ててくださいました。
    そして、悠久の大義に殉じられました。
    まことにその忠烈、万世に燦然と輝くものです。

    けれど、みなさんの武勲が赫々(かくかく)たりしものであったにもかかわらず、戦い利あらず、ついに今日の悲運となりました。
    いったい誰が、今日のこの事態を予期したことでしょうか。

    私達は、みなさんの期待にそうことができませんでした。
    ですから、みなさんの忠魂を慰めることなどできかねます。
    ああ、なんと申し上げたら良いのでしょう。

    けれど、みなさんの誠忠遺烈は、万古国民の精髄です。
    必ずやみなさんの七生報国の精神は、脈々と続き、永遠に皇国を護ることでしょう。

    今、皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
    今後におけるイバラの道は、実に計り知れません。

    けれど、私達は必ずや、みなさんの特攻精神を継承し、たえがたきをたえ、忍び難きを忍び、もって新日本の建設に邁進することをお誓いします。

    願わくば、やすらかにお眠りください。
    ここに、敬弔の誠を捧げ、みなさんの英霊を慰める弔辞とします。

    元第六艦隊司令長官
    海軍中将 侯爵 醍醐忠重
    **********

    遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた人がいました。
    彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になりました。
    その話を聞いとき、鳥巣元参謀は心から喜ばれました。
    「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」
    しかしそのとき、醍醐海軍中将はすでにこの世の人ではありませんでした。

    昭和二十一(1946)年十二月のことです。
    醍醐海軍中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けました。
    そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。

    醍醐海軍中将は、昭和十八年十一月から第二十二特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのです。
    そこでポンチャナック事件に遭遇していたのです。
    ポンチャナック事件というのは、概略次のような事件です。

    昭和十八年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化させていました。
    こういう作戦は、戦時においてはあたりまえのようにあったものです。
    後方をかく乱させ、敵の戦力を削ぐために、反乱分子にカネや武器を渡して、その反抗をあおるのです。

    ある日、ポンチャナックの特別警備隊長をしていた上杉敬明大尉のもとに、副隊長の中村少尉から、ある情報がもたらされました。
    それは、十二月八日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を混ぜて、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものでした。

    報告を受けた第二十二特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令しました。
    そして調査の結果、逮捕された千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。

    しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
    そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没しています。
    つまり、逮捕した犯人を、別な島に送ることができない情況にあったのです。

    加えて日本軍の警備隊といっても、人数はたかだか百人ほどです。
    逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかわからない。
    いったん反乱が起きれば、むしろ日本側が全滅するのは目に見えています。
    そこで司令部は、四月上旬、上杉大尉に彼らの即時処刑を命じました。

    一方、終戦後のボルネオでは、逆に、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
    オランダにしてみれば、日本を追い出しさえすれば、ボルネオが手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ人を、ボルネオの人々は排除したがっていたのです。

    そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、「君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ」という、報復裁判を演出しようと企図しました。
    こうして醍醐海軍中将は、戦争終結後一年半も経ってから、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されました。

    このポンチヤナック刑務所というのがひどいところでした。
    郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになります。
    しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
    貯めた天水には、ボウフラがわきました。
    不衛生極まりない悪環境です。

    昭和四十九年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、三十年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。

    醍醐海軍中将は、昭和二十二年二月にこの刑務所に入れられました。
    刑務所の周囲には、深さ二メートルほどのドブがありました。
    そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。

    看守は、そのドブさらいを醍醐海軍中将に命じました。
    普通、これはありえないことです。
    海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
    それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものだからです。

    けれど、オランダの醍醐海軍中将に対する措置は真逆でした。
    それは、報復のためでした。
    醍醐海軍中将は、真っ暗なドブにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
    それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりもしました。
    しかし醍醐海軍中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。

    インドネシア人の看守は、ついに醍醐海軍中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
    そして、
    「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになりました。

    どのみち報復目的の一方的裁判です。
    すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
    そして十月三日、醍醐海軍中将に死刑の判決が言い渡されました。

    死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
    嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
    死刑が確定した時、通訳が醍醐海軍中将にそのことを伝えました。
    醍醐海軍中将は、
    「ありがとう。大変お世話になりました。
     オランダの裁判官の皆さんに、
     あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

    処刑は民衆の面前で行なわれました。
    処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

    「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、
     身には真っ黒の洋服を着用、
     頭にはラシャの帽子を被り、
     目かくし布はなかった。
     努めて平静の様子だった。
     刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、
     彼は国歌を歌った。
     その歌調には壮絶なものがあった。
     歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
     それが終わると、
     直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、
     全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」

    陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐海軍中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐海軍中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針の穴で次の文を書き綴りました。
    これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。
    そこには、次のように書いてあります。

    「十二月五日
     昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
     閣下は平然としておられる。
     実に立派なものだ。
     一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
     かつて侍従武官までされた人だったのに。

     十二月六日
     海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
     余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
     国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
     その声我が胸に沁む。
     天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
     予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
     予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
     閣下は私のお貸しした『生命の実相』をよくお読みになり、
     死の前日、そのお礼を申された。
     閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」

    東日本大震災の現場でも、そして目下の熊本地震の避難所でも、たいへんな暮らしの中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がたくさんいます。
    よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、
    「顔晴る」なのだそうです。

    醍醐海軍中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
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    そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
    泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
    君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。

    醍醐海軍中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。
    醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


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  • 堀内豊秋海軍大佐物語


    我が国は、事実がそのまま国民の誇りになる国です。
    ここが、事実を捏造しなければ歴史を語ることができない国と違うところです。
    神そ知る罪なき罪に果つるとも
      生き残るらむ大和魂
    白菊の香を残し死出の旅
      つはものの後我は追ふなり

    堀内豊秋海軍大佐
    20210612 堀内豊秋
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    「世界三大体操」といえば、ドイツ体操、スウェーデン体操、デンマーク体操。
    このなかのデンマーク体操を、日本にとりいれたのが、熊本出身の堀内豊秋氏(ほりうち とよあき、1900年~1948年)海軍大佐です。

    堀内豊秋海軍大佐は、第二次世界大戦後に「B級戦犯」として「処刑」された人です。
    「処刑」の理由は、「オランダ兵を公衆の面前で侮辱した」というものでした。
    享年47歳でした。

    そんな堀内海軍大佐のために、1994年、インドネシアのメナドに、地元の人たちの尽力によって堀内豊秋海軍大佐の慰霊碑が建立されました。

    慰霊碑は、メナドの知事や市長が中心となって建立したもので、インドネシアの独立50周年を祝して、堀内大佐の慰霊を兼ねて建立されたといいます。

    でも、その堀内海軍大佐が、メナドにいた期間は、わずか3ヶ月だけです。
    わずか3ヶ月で、その人柄と仁政がメナドの人に強い影響を与え、いまなお尊敬を集めているのです。

    メナド知事の言葉です。
    「堀内大佐は、落下傘降下したときに、
     オランダ兵を公衆の面前で侮辱したという理由で逮捕され、
     メナド市内の刑務所に拘留、
     最後は刑務所の向こうにある林で処刑されました。
     遺体はそばの墓地に埋葬されました。
     後に遺骨は掘り返され日本に帰りました。
     私たちは、その墓地でずっと
     堀内大佐の慰霊祭を行って来ましたが、
     こんな状態では堀内大佐に申し訳ないということで、
     このたび慰霊碑を建立し、
     慰霊祭を催すことにしました」

    堀内海軍大佐は落下傘部隊の指揮官でした。
    そして彼にもその部下にも、オランダ兵を公衆の面前で侮辱という事実はありません。
    しかし堀内海軍大佐は、その理由で部下12人が戦犯として囚われていることを知り、自分の証言で救えるならと考えて、巣鴨刑務所に出頭したのです。
    そしてインドネシアに送還され、有罪とされ、刑場では目隠しを断って潔く散って逝きました。

    堀内海軍大佐を知る現地の人々は耳を疑ったと言います。
    占領下の住民から残留嘆願されるほど慕われた誠実な人物だったからです。

    堀内海軍大佐は、世界で初めて、落下傘部隊をもって、オランダ軍基地を攻略。
    激戦の末、わずか数日でオランダ軍を降伏させた人です。

    そして戦いのあと、彼は、現地住民を非常に大切にしました。
    現地人と邦人の差別をせず、平等に取り扱い善政を敷いたのです。
    このため、住民の対日感情が非常によくなったのです。

    さらにこのとき、オランダのインドネシア傭兵捕虜も、直ちに釈放しています。

    ですからいまでも、彼の善政のおかげで、どこの村落にいっても
    「ニッポン インドネシアサマサマ(平等)」
    「ホリウチタイチョウ ジョウトウ」
    「ニッポンジョウトウ」
    といって親指を上に向け歓迎してくれます。

    日本がインドネシアに侵攻したとき、インドネシアには、医者が7万人に一人しかいませんでした。(宮元静雄氏元ジャワ派遣軍作戦参謀談 「日本の心を語る34人」明成社刊p221 元南方特別留学生でもある元バハリン・ヤヒヤ氏 インドネシア外務大臣との対談にて)。
    そのような当時の状況の中で、堀内大佐は、現地住民から無料巡回をしてほしいという要請に応えて、「責任は俺がとるから」と、先任軍医による無料巡回診療を続け、現地住民の人々に感謝されてもいます。

    堀内海軍大佐とその部隊がバリ島に移動するとき、落下傘の降下地区のガラビランとラングアン地区の住民数百人が、別れを惜しみ六十キロの道を歩いてメナドまでホリウチ部隊を見送りしてくれたという史実もあります。

    送りにきた郡長、村長、その他の村人たちが、堀内大佐との最後のお別れに近寄つてきたのです。
    大佐の白手袋の手を握る六尺のモゴットの郡長は、堪えきれなくなって司令に抱きつき、男泣きをしたそうです。
    泣きはらして目を赤くした少女が、打ったようにしゃくりあげながら司令の前で腰を二つに折って挨拶したといいます。

    三十人ほどの若者がかたまって、「司令殿がいなくなって、ランゴアンの私たちは寂しくてしかたがない」との趣旨の「堀内司令を讃える歌」を、涙を流しなから歌いました。

    大佐はこのとき、目を赤く濡らしながら、

    「別れるということは、実に辛いものですね」
    「五十のおやじに泣かれるのには実際参る。本当に嘘がないですからね」
    と、言われたそうです。

    いよいよ司令も乗船する。

    優しい勇将堀内中佐の目は、高僧の目のごとく澄んで濡れていたそうです。
    大佐は、鼻水をハンカチでかみながら、ランチのほうへ歩き出されました。

    堀内大佐の人間性を感じさせてくれる文章があります。
    久保田義麿元国立国会図書館館長が、昭和45年6月27日付け「週刊新潮」の掲示板コーナーに寄稿した文章です。

    --------------------------------------
    着任して驚いたのは、半年ほと前に進攻し、
    すでに移動していた堀内海車中佐の落下傘部隊が、
    原住民に深い愛情をもって語られていることでした。

    堀内さんといえば例の海軍体操の発案者。
    その後、念願の会見をしたときには、
    「罰を厳しくするよりは、
     罪を犯させない配慮がなにより」
    ということを話ってくれたものです。

    腰布ひとつの島の女たちに胸を覆う布を配布し、
    日本兵との事故を防いだのもそのひとつとか。
    --------------------------------------

    堀内大佐はあるとき部下の非をとがめ、こっぴどく叱りとばした後、その非は自分の不徳の致すところ、責めの一半は自分にもあると深く反省し、以後自らを戒める誓いの印として、通訳を通じて、廈門の南西に浮かぶ小島コロンスの洞窟内に下記のような文字を彫ったそうです。

    「以責人之心責己、
     以恕己之心恕人」
    (人を責むる心をもって己を責め、
     己を許す心をもって人を許す)

    堀内大佐の落下傘部隊の隊員だった坂田喜作氏は語ります。
    -----------------------------------
    昭和17年1月11日、
    いよいよ今日は降下する初陣の日だ。
    敵情不明で相当の抵抗も覚悟し、
    とにかく軽装触で敵陣に降りるという緊張は
    私だけではないと思いつつ機中の人となる。
    私の搭乗したのは司令と同じ一番機、
    一機に12名ずつ28機の編隊である。
    機中の人となってから暫くの間
    誰一人口をきく者もなかった。

    今この機中にいる落下傘の戦友は何を考え、
    何を思っているのだろう。

    私は勝利を願い、
    自分の傘をしっかりと抱えているだけだった。

    すると前方より、一個のリンゴを
    一人一口ずつかじり、
    順番に後方にと回ってきた。
    そのリソゴは司令が回したものだった。

    そのリンゴが一回りすると、
    次第に機内の緊張した空気もとけて、
    無言のうちに、隊員を信じ期待してくれている司令に、
    何も想い残すこともなく「よーし、いよいよやるぞ」という
    堅い決意がどの顔にも満ち温れた。
    司令に命を捧げた無心の顔に、
    会心の微笑みが浮かび話し声が出はじめた。

    勝利への乾杯ならぬ、
    リンゴの食べ回し乾杯で肝っ玉が座ったのだ。

    隣を飛んでいる二番機、三番機はと窓から見ると、
    同じょうに窓からこちらを見て、
    手を振ったり、大きく口を開いて話しかけたりしている。
    実に不思議な程にさわやかな機中であった。

    部隊がメナド飛行場に降下して、
    とても言葉では表現できない程の
    敵味方の凄絶な激戦の後、
    敵飛行場を占領した。

    そしてその夜は付近の田圃の中にあった一軒の民家に入り、
    通信隊の一部と本部附の人、
    そして司令とで、
    その日の戦闘状況等報告することにして、
    その準備をしていると、
    敵兵を一人捕虜にしたという報告が入った。

    その夜は、その捕虜を拘禁し翌日よく調べてみると、
    その捕虜は、そこの住民であることがわかった。

    すると司令は、早速その捕虜になった農民に、
    「お前達住民の仲間で
     私達落下傘部隊に協力してくれる人がいたら、
     私達の所に連れて来てくれないか」
    と言って、貴重な塩を与えて帰してやった。

    すると、その住民は、その後、十数人の住民を連れて来て、
    我々が占領した飛行場の整備等を
    一生懸命手伝ってくれるようになった。

    これがきっかけで、住民に驚く程の速さで宣撫が行き届き、
    飛行場に降下してより、
    一ケ月後には、住民達と一諸に演芸会を開いて共に楽しむ程になった。

    常日頃司令は、女子供には手を出すな、
    弱い者いじめをするな、
    と隊員に言っていたので、
    宣撫工作も徹底し、
    益々住民達に慕われる司令であった。
    ---------------------------------

    堀内大佐は、戦争裁判で、処刑されました。

    戦争裁判とはいっても、英米担当の裁判と異なり、オランダや中国の戦争責任追及は、理不尽とも言うべき不正がまかり通り、欺証人に依り事実を歪曲した証言や弁護人抜きの即決裁判など別に何ら珍しくもなかった。

    日本軍がメナド攻撃をしたとき、そくさくと逃げ出して後に降伏して捕虜になったオランダ軍の守備隊長がいます。
    この男は、終戦後、急に居丈高になり、自分達と違って現地で慕われていた堀内海軍大佐に報復感をいだき、卑怯にも自ら裁判官になりました。
    この卑劣なオランダ人裁判長により、堀内大佐は非公開裁判で銃殺刑に処されました。

    こんな証言もあります。

    「私は裁判長から、堀内大佐を弁護するとあなたのためによくないよ、といわれ、判決日を俟たずに帰国させられました」
    (昭和20年代後半名古屋大学の学生だった堀内大佐の遺児堀内一誠氏が東京都内に住む堀内大佐の弁護人だった井手諦一郎氏を訪ねた時の井手氏の証言)つまり裁判長自ら弁護人を脅迫し、強制送還していた。

    「とても弁護できるような状態ではなかった。
     充分な審理がおこなわれず、
     法廷が開かれた回数も極端に少なかった。
     いきなり判決が下されたような状態だった。
     弁護人として発言の余地がなかったので、
     私は、自分が何のために来たのかわからないと、
     裁判長を問いつめた。
     裁判長は一瞬詰まった様子だったが、
    『それは、被告が日本国民であるからだ』と答えた。
     これほど露骨な報復感情を込めた言い方はない。
     はじめから裁判の形をなしていなかったのだ」
    (昭和29年にたずねた緒方健一郎氏に対して井手氏の言葉)
     
    堀内大佐の死刑は、インドネシアのメナドで、オランダ軍の手によって行われました。
    オランダ軍にも、人はいます。
    堀内大佐の人柄に心打たれたオランダ軍の死刑執行部隊は、死刑執行に際して、特に儀杖兵を配して軍人に対する最高の敬意を表したといいます。
    それは、彼らのおなじオランダ人裁判官に対するささやかな抵抗であり、軍人としての誇りでもあったのです。

    堀内大佐は、死刑に際して、眼隠しを拒んでいます。

    【辞世】

    神そ知る罪なき罪に果つるとも
    生き残るらむ大和魂

    白菊の香を残し死出の旅
    つはものの後我は追ふなり


    「B、C級戦犯の合祀は問題だ!」
    「靖国神社の存在自体が問題だ!」
    「日本の戦争は全て侵略戦争だ!」
    という人たちがいます。

    その一方で、長い間、日本人を祀ってくれている、インドネシアやその他の国の人たちがいます。
    正しい史実や、日本人の立派な行いを学校で教えず、「感謝」すらしていない日本人。
    日本と戦った事実などどこにもないのに、日本と戦った英雄気取りの中(共)人や、半島人。
    世界はさまざまです。

    ただ、言えることは、我が国では、事実がそのまま国民の誇りになるということです。
    ここが、事実を捏造しなければ歴史を語ることができない国と違うところです。

    私達の祖先は、
    旧石器の十二万年前から、一万七千年前に始まる縄文時代そして、
    弥生時代、古代大和朝廷の時代、奈良平安の時代、武士の時代等々
    長い歳月を、この日本列島ですごしてきました。

    長い歳月の間には、絶滅の危機に瀕するような大災害も経験しました。
    寿命も、ほんの百年前までは、平均寿命が四十五歳くらい。
    縄文時代には二十四〜五歳だったといいます。

    そんな短い人生のなかにあっても私達の祖先は、いつの時代も、
    子や孫や、子々孫々の幸せを願って、
    できることに生涯をつくしてきました。

    だからそんな日本人の根底にあるのは、いつの時代も感謝と真面目さです。

    熊本出身の堀内豊秋海軍大佐も、熊本藩の様々な経緯があっても、なお、薩摩閥といわれる陸軍のなかにあって、燦然と輝くまごころを尽くされました。
    それは、誰のためでもない。
    後世の私達日本人の誇りのためであったということができようかと思います。

    私達もまた、子や孫や、子々孫々の幸せを願い、そのためにいまできることを誠実に真面目に感謝の気持ちをもって、これからも生きていきたいと思います。



    ※この記事は2009年6月の記事のリニューアルです。

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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