• 光子物語


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    第107回倭塾は、特別な倭塾として、靖国神社で開催します。倭塾終了後、正式参拝を行います。この際、篠笛の奉納も行います。また直会は事前申込が必要です。
    【詳細】 https://www.facebook.com/events/265009793237311
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    狼に育てられた子供は、狼のままで人に戻ることはありません。人は、人として躾(しつ)けられて、はじめて人になります。人とのしての躾のない者は、人ではなく「人の皮をかぶったケモノ」です。現代日本人は、いま国をあげてケモノつくりに励んでいます。教育は人を育むものです。本来の日本の教育を、しっかりと取り戻したいものです。


    クーデンホーフ光子
    クーデンホーフ光子01



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    世界で最も有名な日本人女性は誰でしょうか。
    実はその答えが、クーデンホーフ光子(みつこ)です。

    パリにあるメイクアップやスキンケア、フレグランスの老舗メーカーのゲラン社(Guerlain)が販売する香水に、「ミツコ(MITSOUKO)」という製品があります。
    世界中で人気を博している香水です。
    この「ミツコ」について、ゲラン社のHPに次の記述があります。

    *******
    1919年、
    ヨーロッパが日本ブームの真っ只中にあり、
    極東の文化が人々を魅了していた時代。
    ジャック・ゲランは新しく創作した香りを
    「ミツコ」と名付けました。
    それは小説『ラ・バタイユ』のヒロインの名。
    慎ましやかでありながら、
    強い意志を秘めた女性をイメージした香りです。
    *******

    そしてこの「慎ましやかでありながら強い意志を秘めた女性」という言葉こそ、世界の人々が憧れる日本女性のイメージとなりました。

    ちなみに文中にある小説の『ラ・バタイユ』は、日本語に訳したら「戦闘」です。
    この小説は、クロード・ファレールが1909年に出版したものです。
    1905年の日露戦争が題材で、映画化もされています。
    その映画のヒロインの名前が「ミツコ」です。

    実はこの「ミツコ」、有名なハンフリー・ボガートと、イングリッド・バーグマンの名作映画「カサブランカ」にも登場しています。
    本人ではありませんが、その次男の息子が重要な登場人物となっています。
    「カサブランカ」は、アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)が、昔の恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)と、偶然の再会をはたすという映画ですけれど、このときイルザの夫でナチへの抵抗運動の革命家である夫ラズロのモデルが、実は、ミツコの次男のリヒャルトです。
    ラズロ役のポール・ヘンリードは、リヒャルトに顔立ちが似ているということで起用されでいます。

    ちなみにこの映画の企画のとき、配給元のワーナーは、当初、主演をハンフリー・ボガードではなく、若き日のロナルド・レーガンにする予定だったのだそうです。
    そうなっていたら、世界の歴史はまた別なものになっていたかもしれませんね。

    実在の「ミツコ」の日本名は「青山ミツ」といいました。
    そして東京青山の青山通りや、青山霊園なども、実は「ミツコ」が関わっています。
    そこで「ミツコ」がどういう女性であったのか、歴史を振り返ってみたいと思います。
    時計の針を、129年ほど巻き戻します。

     *

    明治25(1892)年のことです。
    オーストリアハンガリー帝国から、外交官ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(はくしゃく)が日本に赴任してきました。
    ところが伯爵、冬の寒い日に、乗っていた馬ともども凍った道で滑って転倒して大怪我をしてしまいます。
    このとき伯爵の勤務する大使館に雇われていたミツコが、伯爵を献身的に看病したことから、二人は恋に陥りました。

    二人は結婚を望みますが、当時の日本は、外国人との結婚は、彼らにあてがわれた「現地妻」という認識が強かった時代です。
    というか、そういうケースの方が現実問題として多かったのです。
    「どうしても」と結婚を望むミツコは、親から勘当されてしまいます。

    当時の日本人女性にとって、親子の縁を切られるというのは、ありえないほど辛いことです。
    ハインリヒ伯爵は、なんとかご両親に納得いただこうと、かなりの犠牲を払ったといわれ、そのため後年、光子は日本に帰国しなかったといわれています。
    それほどまでに、二人は大熱愛だったわけです。

    反対したミツコの父は、青山喜八(きはち)といいます。
    喜八はこの頃、骨董道楽が昂じて大借金を重ね、本家から勘当された身の上でした。
    ところが、娘のミツコにハインリヒ伯爵が結婚を申し込み、そのために結納金として、かなりのお金を喜八に渡したのです。

    おかげで、喜八は一夜にして大金持ちになりました。
    そして自分が生きている間に、都内の霊園に、バカでかい自分のお墓を作りました。
    このお墓があまりに大きかったことから話題を誘い、その霊園に向かう道が、青山さんのお墓のある霊園に向かう道として「青山通り」、ついにはその霊園の名前までいつしか「青山墓地」と呼ばれるようになりました。

    翌、明治26(1893)年、ミツコはハインリヒ伯爵と正式に結婚しました。
    ちなみにこれが実は、日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号です。

    この時代、日清戦争が翌1894年ですから、まだまだ日本は極東の貧乏な小国とみなされていた時代です。
    そしてミツコは、そんな日本の、しかも平民の出身の女性です。
    一方、ハインリッヒ伯爵は、当時のヨーロッパにあって、伝統あるオーストリアハンガリー帝国の高級貴族です。
    まるでシンデレラか、ポカホンタスのようなことが現実になったわけです。

    この結婚に際しハインリッヒ伯爵は、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えたそうです。
    「もし、わが妻に対して、
     ヨーロッパ女性に対すると
     同等の取り扱い以外を示す者には、
     何人を問わず、
     ピストルによる決闘を挑む。」

    実に立派な男です。

    ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように日記に記しています。
    「決闘は一回も行われなかった。
     だれも彼も
     この新しいオーストリアの外交官夫人の
     優美と作法に魅了された。
     外交団全体が
     彼女に対して尊敬の念を示した。」

    グーテンホーフミツコ02


    ミツコは当時の日本人女性としては長身です。
    しかも美人で日本舞踊の素養があったことから、立ち振る舞いが非常に優美だったのです。
    それにしても上の写真、洋装もよくお似合いになります。
    お二人は、東京で、長男ハンス光太郎、次男リヒャルト栄次郎の2人の子をもうけました。

    明治29(1896)年、ハインリッヒ伯爵は足かけ5年に及ぶ日本滞在を終えて、帰国することになりました。
    このとき、お正月の宮中参賀に、お二人は招かれました。
    このときミツコは、皇后陛下から次のようなお言葉を賜わりました。

    「遠い異国に住もうとなれば、
     いろいろ楽しいこともあろうが
     また、随分と悲しいこと
     つらいこともあろう。
     しかしどんな場合にも
     日本人の誇りを忘れないように。
     宮廷衣装は、
     裳を踏んで転んだりすることがあるから
     気をつけたがよろしい」

    なんとミツコをやさしく気遣い、思いやりにあふれたお言葉なのでしょう。
    そしてこのお言葉は、ミツコのヨーロッパでの生活に勇気を与えした。

    ハインリッヒ伯爵の家はボヘミアとハンガリーにまたがる広大な領地をもつ伯爵家です。
    二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着きました。
    夫ハインリッヒは、父が他界したことから、外交官生活から退き、一族の長となって、大地主の貴族として領地の管理に専念することなったのです。

    ロンスペルク城
    ロンスペルク城


    上の写真がそのロンスペルク城ですが、それにしても、すごいお城です。
    ところが、夫の一族のひとたちは、東洋の未開国から連れられてきたアジア人女性に冷たい目を向けました。
    光子の着こなしや立ち居振る舞いという末梢的なことを、チクリチクリとあてこすったのだそうです。
    いまふうにいうなら、イジメです。
    いつの時代も、どこの国でも、人の社会は同じです。

    ミツコも、そんな陰湿なイジメがつらく、何度も日本に逃げ帰ろうと思ったそうです。
    しかし、そんなときにミツコを支えたのが、まさに
    「日本人の誇りを忘れないように」
    という皇后陛下のお言葉でした。

    ミツコは「裳を踏んで転んだりすることのないように」という一見些末な注意が、貴族社会で生きていく上で、いかに大切なことか、身にしみて分かったと、後年述懐しています。

    不思議なことなのですが、日本で(これは日本に限らないことなのかもしれないけれど)神様に通じるような人の言葉というのは、不思議とこのように未来を予見したり、心を救うもとになったりすることがあります。
    世の中に偶然はないといいますが、やはり神々というのはおいでになる。そんな気がします。

    二人は、その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子宝に恵まれました。
    夫のハインリヒは、子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じました。

    子供達への教育については、もちろん光子も納得したことです。
    けれど多忙な夫以外に、心を打ち明けられる人がいない光子は、この頃、強烈なホームシックにかかります。
    いまのように飛行機でひとっ飛びという時代ではありません。

    夫のハインリヒも日本への里帰りを計画してくれたのですが、当時は船旅です。
    アフリカ大陸の南端の希望峰をまわり、インド洋を延々と航海して、日本まで渡るわけです。
    それは、まる半年がかりの旅です。
    そんなに長い間、幼い子供たちを放置することはできません。

    夫婦仲は良かったけれど、問題もありました。
    充分な教育を受けた夫と、骨董屋の娘で尋常小学校を出ただけの妻では、まるで教育レベルが違ったのです。

    ある日のことです。
    子供が教科書を開いて自習していたとき、
    「お母様、これは何でしたっけ」と聞きました。
    ところが光子には答えられない。

    「これではいけない」と光子は思ったそうです。
    ヨーロッパ人の母なら当然心得ている事を自分が知らないでは済まされない。
    そこで光子は、自分も家庭教師について、子供より先に勉強して、子供から何を聞かれても答えられるようにしておくことにしたそうです。

    次男のリヒャルトは、自伝でこう回想しています。
    「母は一家の主婦としてよりも、
     むしろ女学生の生活を送っていて、
     算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、
     フランス語、歴史、および地理を学んでいた。
     その外に、母はヨーロッパ風に座し、
     食事をとり、洋服を着て、
     ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを
     学ばなければならなかった。」

    それは、寝る時間を削ってまでして行う勉強でした。
    立派な母親となるために勉強に打ち込むミツコの姿は、子どもたちの心に深い影響を与えています。
    子は親の背中を見て育つといいますが、こういう光子の態度は、本当に立派だと思います。

    実際、考えてみれば、親がひとつも本も読まない、勉強もしていない、そんな姿見たことない、なんていう状況下で、子供に「勉強しなさい」と言ったところで説得力はありません。
    東大出の政治家のお子様が、やはり東大に入るということはよくある話です。
    それもそのはず。
    親が本を読み、勉強している姿を子供たちは幼い頃から見ているのです。
    親の部屋に入れば、そこには山のように読み終わった本がある。
    数々の洋書もある。

    そのような環境で育てば、やはり子も優秀になるのであろうかと思います。
    是非、お子様やお孫さんのいらっしゃるご家庭では、ねずさんの本を大人が率先して読まれると良い。
    って、これはただの宣伝です(笑)。

    自伝を残している次男のリヒャルトは、実は、いまのEU(ヨーロッパ連合)実現に向けて、終生たゆみない研究と運動を続けた人です。
    そして彼の理想は、いま、欧州連合EUとして立派に実っています。

    明治38(1905)年に日露戦争に日本が勝利すると、欧州においての日本の国際的地位は劇的に高まりました。
    そしてこのことは、光子への偏見も和げました。
    東洋の未開の蛮族たちの小国の娘ではなく、西欧人と対等な堂々たる大国の女性に変化したのです。

    こうしたことは、実は国際社会においては、とっても大切なことです。
    日本が馬鹿にされ、貶められいていては、海外にいる日本人は個人の資質がいかなるものであったとしても、馬鹿にされ、みくびられるのです。

    慰安婦を性奴隷にしただとか、ChinaやKoreaを侵略しただとか、あるいはそれらの地で非道な振る舞いを繰り返していただとか、そういうデタラメが吹聴され、日本が貶められれば、海外にいる立場の弱い人、とりわけ女性や子供達に、そのしわ寄せが行きます。
    現に、「日本人になど産まれたくなかった」、「お母さん、外で絶対に日本語を使わないで」と泣く日本人の子らがいるのです。
    これこそ政治の問題です。
    日本に住む日本人が誇りを失うことが、結果として同胞の心を傷つけ、それが子供達の心なら将来にむけて取り返しのつかない傷を負わせているのです。
    まるで他人ごとのように「日本人なんて」とニヤニヤしながら語るテレビの評論家さんたちは、そういうことへの責任など、まるで感じない無責任な人達と断じたいと思います。

    日露戦争における日本の勝利によって、あらためて立場が強化された光子ですが、残念なことに、翌明治39年5月に、夫ハインリヒが心臓発作で急死してしまいます。
    わずか14年の夫婦生活でした。

    異国に一人残された光子は、今まで二人で築いてきた世界が足もとから崩れ去っていくような気がしたそうです。
    わかる気がします。

    けれど、光子に、悲しみに浸っているひまは与えられません。
    夫は遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、いっさいの財産を光子に贈り、子どもたちの後見も光子に託されるべし、と書き残していたのです。

    広大な領土と厖大(ぼうだい)な財産です。
    その一切の管理を、
    「未開国から来た一女性に任せるなどとんでもない」
    「日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものか」
    と、ミツコは親戚一同から糾弾されてしまうのです。

    しかしこのとき、ミツコは断固として言いきったそうです。
    「これからは自分でいたします。
     どうぞよろしくご指導願います」

    日本女性がこのような任につくには不適当だと、ミツコは裁判まで起こされています。
    しかしミツコは、弁護士を雇い、何年もかけて、とうとう訴えを退けています。
    覚悟というのは、そういうものです。

    問題は他にもありました。
    遺産を相続したということは、その経営も受け継いだということです。
    ミツコは、法律や簿記、農業経営などを、必死で勉強することで、領地財産の管理を自ら立派にこなしました。
    馬鹿では勤まらないのです。

    さらに亡夫の精神に沿って、立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児にも打ち込みました。
    このとき、長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳でした。
    表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙しい毎日を送っていたミツコも、望郷の念はやむことがありません。
    それでも、「日本に帰ることは子どもたちが成年に達するまであきらめよう」と心に誓いました。

    光子は、ときおり日本の着物を着て、ひとりで何時間も鏡の前に座ることがあったそうです。
    それは、望郷の念に駆られて、ひとり涙を流していたときだったのかもしれません。

    次男のリヒャルトは、後年、
    「そんなときの母が、最も美しく見えた」と回顧録に書いています。
    リヒャルトが部屋にはいってきたとき、きっと光子は息子に澄んだやさしい笑顔を向けたのでしょう。
    悲しみを知るものは、やさしさを身につけることができるからです。

    光子は、涙を我が子に見せなかったそうです。
    そんな光子の気持ちを思うと、こちらが泣けてきます。

    光子は、正座して毛筆で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通は出していたそうです。

     年老ひて髪は真白くなりつれど
     今なほ思ふなつかしのふるさと

    これは、光子の老年になってからの和歌です。
    「私が死んだ時は、日の丸の国旗で包んでもらいたい」
    それが、光子の遺言でした。

    大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まりました。
    このとき、オーストリアハンガリー帝国と日本は敵国になりました。
    両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦当時はヒステリックな反日感情が沸き上がりました。

    ウィーンにいた日本人の外交官や留学生などは、みな国外退去しました。
    光子は、広大なオーストリアハンガリー帝国に、ただ一人残る日本人となりました。

    日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに威圧されていたので、日本の連戦連勝に国中がわき上がっていたものです。
    ですから仲間の貴族や領民たちは、次々と光子のもとにお祝いにかけつけてくれました。
    けれど今度は敵国です。
    人々は警戒の目を向ける。

    そんな中で光子は、長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、赤十字に奉仕しました。
    黒い瞳の光子やその娘たちの甲斐甲斐しい看護に、人々は好感を抱きました。

    さらにこのとき、光子は領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大量の馬鈴薯(ばれいしょ、じゃがいものこと)を栽培しています。
    そして収穫した馬鈴薯を、借り切った貨車に詰め込み、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にまで運びました。
    前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士達は食糧難に悩まされていたのです。
    そんな光子の姿に兵士達は、「生き身の女神さまのご来臨だ」と、塹壕の中で銃を置いて、光子を拝んだといいます。

    敵国の女性でありながら、神様とまで慕われる。
    ほんとうにすごいことです。
    光子の馬鈴薯作りは終戦まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だっています。

    大正7(1918)年に戦争が終わったとき、次男のリヒャルトが13歳も年上の女優イダ・ローランと結婚すると言い出しました。
    光子は反対しました。

    するとリヒャルトは家を飛び出してしまいました。
    飛び出したリヒャルトは、「汎ヨーロッパ主義」という本を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となりました。
    長男ハンスも平民のユダヤ人女性リリと結婚し、ピクシーという女児をもうけて家を去りました。

    実は光子は、子供たちに日本風の躾(しつけ)をしていました。
    その躾があまりに厳しかったために、成長した子供たちが光子のもとを去っていったという説もあるくらいです。
    その光子の躾について、こんな話があります。

    子らが学校に行くようになると、友達との間でそれぞれの家の躾の様子などを話し合います。
    ヨーロッパの貴族の家庭では、どこのご家庭でも、子供への躾は厳格です。
    ほとんどの日本人なら、西洋貴族の家庭内における躾の厳格さは、おそらく常識的な知識であろうと思います。

    ところが、リヒャルトは、そんな貴族の子弟たちと話し合った時、どの家よりも光子の躾が厳しかったと自伝に書いています。

    ここは、たいせつなポイントです。
    光子は日本では貧乏長屋に住む平民の娘です。
    親も、事業で失敗する等、決して安定した家庭環境にあったわけではありません。
    ところがそんな家庭内で躾を受けた光子が、ヨーロッパの高級貴族の家庭で、自分が子供の頃に受けた躾を、そのまま普通に子に行ったら、それが厳しいと評判のヨーロッパの貴族の、どの家庭の躾よりも厳しいものであったというのです。
    つまり、平民であっても、当時(明治の頃)の日本の家庭内の躾は、それだけ厳しかったのです。

    相当左翼の人でも、明治の日本人が「強い気骨を持っていた」ということは認めています。
    けれど、そうした「明治の気骨」は、実は、それだけ厳しい躾を、どこのご家庭でも行っていた結果です。
    現代日本人に欠けているもの、あるいは現代日本人が忘れている根幹が、この「気骨」であるように思います。
    そして「気骨」は、教育によって形成される。
    これもまた大切なポイントであると思います。

    さて、子供たちが次々と去っていく光子に、追い打ちをかけたのは、第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊でした。
    この敗戦によって、クーデンホーフ=カレルギー家も、過半の財産を失ってしまいます。

    光子は、大正14(1925)年に、脳溢血で倒れました。
    なんとか一命はとりとめたものの、右半身不随となりました。
    以後の光子は、ウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガに介護してもらいながら、静養の日々をすごしました。

    この頃の光子の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことだったそうです。

    昭和16(1941)年8月、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら67歳の生涯を閉じました。
    渡欧して45年、結局、光子は一度も祖国の土を踏むことはありませんでした。

    さて、光子のもとを飛び出した子供たちですが、本人たちが母の厳しい躾を嫌がった割には、彼らは光子の日本式の厳しい躾と教育によって、全員、それぞれ立派な大人に成長しました。
    なかでも東京で生まれた次男の「リヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」は、その著作で「欧州統合」を主張し、先ほども書いた“EU”の概念を打ち立てています。

    第一次大戦後、「民族独立」のスローガンの中で、オーストリア・ハンガリー帝国は分断され、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが新国家として独立し、ポーランドやルーマニアにも領土を割譲されて、解体されてしまいました。
    大戦で疲弊した上に、28もの国がアメリカの2/3ほどの面積でひしめき合ったのです。

    民族対立の火種を抱えたままでは、いずれヨーロッパに再び大戦が起こり、世界の平和が脅かされます。
    ならば、逆に欧州は統一した連邦国家となるべきではないか。
    リヒャルトのこの大胆な提案と思想は、敵対と対立、対立と闘争という概念を煽られ、それしか知らなかった当時の欧州において、日本的な「和の精神」をもたらそうとしたものです。
    そして、リヒャルトの母が日本人であるという事実に、さまざまな新聞が当時、光子に新しい名称を贈りました。

    その一例を示すと、
    「欧州連合案の母」
    「欧州合衆国案の母」
    「パン・ヨーロッパの母」等々です。

    リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロッパの政治思想に大きな影響を与え、第2次大戦後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、そして現在のヨーロッパ連合(EU)に至っています。

    リヒャルトは母・光子についてこう述べています。

    「彼女の生涯を決定した要素は
     3つの理想、すなわち、
      名誉
      義務
      美しさ
     であった。
     ミツコは自分に課された運命を、
     最初から終わりまで、
     誇りをもって、
     品位を保ちつつ、
     かつ優しい心で甘受していたのである。」

    名誉と義務と美しさと、誇りある品位。
    これらは日本人が日本人であるがゆえの美質です。
    そしてそれは、世界が求める万国共通の美質でもあります。

    「名誉と義務と美しさと品位」
    そんな日本を取り戻したいと思います。


    それにしても・・・
    幕末から明治にかけての一介の長屋住まいの町民の娘の子供の頃の躾(しつけ)が、西欧貴族社会のどの家庭の躾よりも厳しかったという事実。
    そしてそんな日本は、西欧社会の日本に渡航してくるような当時のVIPたちからみて、「日本人ほど子供を可愛がる国はない。日本の子供たちは実に伸び伸びしている」と言わせた事実。
    このことが示す意味は、とても大きいと思います。

    昨今では、子供たちにガマンすることを教えません。
    たとえば逆上がりができなければ、「できる子もあるし、できない子もある」と放置されます。
    けれど私たちが子供の頃までは、できなければ、できるまでやらされました。
    放課後に残ってでもやらされました。

    狼に育てられた子供は、狼のままで人に戻ることはありません。
    人は、人として躾(しつ)けられて、はじめて人になります。
    人とのしての躾のない者は、人ではなく「人の皮をかぶったケモノ」です。
    現代日本人は、いま国をあげてケモノつくりに励んでいます。

    教育は人を育むものです。
    本来の日本の教育を、しっかりと取り戻したいものです。


    ※この記事は2009年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
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    巴御前は、ただ一騎、敵に向かって馬を走らせました。やってきた敵は、武蔵国で評判の力自慢の大男、御田(みた)の八郎師重と、これに従う三十騎でした。なかでも八郎師重というのは、いまで言うなら、まるでプロレスラーのような巨漢です。しかも鎧を着て、槍を手にしていました。ドドドと音を立てて駆けてくる、その八郎師重に向かって、巴御前は正面からまっすぐに馬を走らせました。正面衝突しそうになったその時、、巴御前は八郎師重の槍を跳ね除け、そのまま馬上から、馬上の八郎師重に飛びかかりました。


    絹本著色 『巴御前出陣図』 東京国立博物館所蔵
    20230113 巴御前
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D
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    巴(ともえ)御前といえば、朝日将軍木曽義仲(源義仲)の妻であり、剛勇無双な女性として有名です。

    平家物語は、巴御前について次のように描写しています。

    「巴は色白く髪長く、
     容顔まことに優れたり。
     ありがたき強弓精兵、
     馬の上、徒立ち、打物持っては
     鬼にも神にもあはうどいう
     一人当千の兵者(つわもの)なり。
     究極の荒馬乗り、悪所落し、
     軍といへば、札よき鎧着せ
     大太刀、強弓持たせて、
     まづ一方の大将には向けられけり。
     度々の高名、肩並ぶる者なし。
     されば今度も、
     多くの者ども落ち行き討たれける中に
     七騎がうちまで、
     巴は討たれざりけり」

    現代語訳すると次のようになります。

    巴御前は、色白で髪が長く、容姿がたいへんに優れた女性でした。
    比類のない強弓を引くことができる武人で、
    騎馬の上にあっても、徒歩であっても、
    刀を持っては、鬼が来ようと神が来ようと相手にしてしまおうという、
    ひとりで千人の敵兵にも当たろうという武者(つわもの)でした。
    極めてすぐれた荒馬乗りで、難所であっても駆け下り、
    ひとたび合戦となれば、上品な鎧(よろい)を着て、
    大太刀、強弓を手にして、一軍の大将として活躍し、
    たびたびの武功は、肩を並べる者がないほどでした。
    ですから、この度の合戦(治承・寿永の乱)にあって、
    多くの者共が敗走し討たれた中にあって、
    わずか七騎になるまで、巴御前は討たれずに生き残っていました。

    倶利伽羅峠の戦いで、あちらで四、五百騎、こちらで二、三百騎と戦い、駆け破って行くうちに、ついに、総大将の木曽義仲を含めて、わずか五騎になってしまいました。

    寿永3年(1184年)1月20日、木曽義仲は、愛する巴御前に言いました。
    「ワシは、ここで討ち死にしようと思っている。
     もし人手にかかれば自害する。
     だがな、この木曽殿が最後の戦いに、
     女連れであったなどと言われたくない。
     だがな、巴(ともえ)
     お前は女だ。
     どこへでも行け。
     行って落ち延びよ」

    愛する夫は、自分が死んでも、私を生かそうとしてくれている。
    そうと察した巴御前は、
    「よい敵がいれば、最期の戦いをしてお見せしましょう」
    と、死ぬ覚悟を示しました。

    そんな会話をしてとどまっているところに、敵が三十騎ほどで攻めて来ました。
    「では、殿、
     おさらばでございます。
     殿はこのまま、
     先にお進みなさいませ。」
    そう言い残すと巴御前は、ただ一騎で、敵に向かって馬を走らせました。
    やってきた敵は、武蔵国で評判の力自慢の大男、御田(みた)の八郎師重と、これに従う三十騎です。
    八郎師重というのは、いまで言うなら、まるでプロレスラーのような巨漢。しかも鎧を着て、槍を手にしています。

    ドドドと音を立てて駆けてくる、その八郎師重に、巴御前は正面からまっすぐに馬を走らせました。
    そして正面衝突しそうになった瞬間、巴御前は敵の槍を跳ね除け、そのまま馬の上から、馬上の八郎師重に飛びかかりました。

    強いと言っても、八郎に比べれば、はるかに小柄な巴御前です。
    けれど馬の勢いに乗って斜めに飛びかかった巴御前に、八郎は態勢を崩して巴御前とともに落馬しました。
    その、馬から落ちて地面に落ちるまでの、わずかな空きに、巴御前は八郎の兜(かぶと)を持ち上げると、そのまま八郎の首を斬り落としました。
    まるで鬼神のような早業でした。

    あまりの巴御前の強さに恐怖した八郎の部下たちは、恐怖して、馬を返して潰走します。
    後には、首を失った八郎の遺体と、巴御前ひとりが残されていました。

    他に誰もない。
    峠は、シンと静まり返っていました。

    愛する夫も去っていった。
    おそらく数刻の後には、その夫も死ぬことであろう。
    巴御前は、ひとしずくの涙を袖で拭うと、鎧を脱ぎ捨てました。
    そして、ひとり、どこかへと去って行ったとされます。

    その後の巴御前の行方は、諸説あってわかりません。
    滋賀の大津の義仲寺は、巴御前が義仲の菩提を弔って庵を結んだことがはじまりとの伝承があり、
    また長野県の木曽、富山県の南砺市、富山県小矢部市、新潟県上越市、神奈川県小田原市や横須賀市にも、巴御前の終焉の地とされるところがあります。

    古来、女性の「好き」と、男性の「好き」は意味が異なるといいます。
    男性の「好き」は、「手に入れる」、「手に入れたものを護る」という行動に結びつきます。
    けれども女性の「好き」は、自分にあるすべてで対象を抱きしめる。
    このことは、父性と母性の違いと考えるとわかりやすいかもしれません。

    そのように考えると、もしかすると甲冑を脱いだ巴御前は、平服のまま木曽義仲の後を追ったのかもしれません。
    巴御前と別れたあとの木曽義仲は、麾下の今井兼平と二名で粟津の松原まで駆けます。
    そして自害する場所を求めてあたりを徘徊したところ、馬の足が深田に取られて身動きがつかなくなってしまう。
    そこに追いついた敵方が、義仲に矢を射る。
    矢は木曽義仲の顔面に命中し、義仲はここで絶命します。
    そしてこれを見た兼平も、その場で自害しました。

    義仲の首は追手に刎ねられて持ち去られました。
    巴御前がその現場に到着したときには、おそらく木曽義仲が首のない遺体となってからのことであったろうと思います。
    変わり果てた夫の姿を見て、巴御前は、その遺体の埋葬をしたのか、それとも遺体から形見をとって、いずこへと立ち去ったのか。

    その後の巴御前の消息について、『平家物語』は不明としているのですが、『源平盛衰記』は、このあと源頼朝によって鎌倉に招かれ、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだとしています。
    鎌倉内部の政権争いによって起きた和田合戦によって和田義盛が討ち死にした後は、越中国の福光の石黒氏の元に身を寄せ、その後、出家して尼僧となり、91歳で生涯を終えた記述しています。
    ただこの説は、年代が合わないという指摘もあり、事実は遥としてわかりません。

    お能の演目の「巴」では、巴御前の御霊(みたま)が、愛する木曽義仲と最期をともにできなかったことから、この世をさまよう様子が描かれ、そんな巴御前の御霊と出会った旅の僧の読経によって成仏するという筋書きになっています。

    いまを去ること840年前、戦乱の世に生まれ、愛に生きた美しい女武者がいました。
    巴御前のみやびで艶やかで一途な姿は、いまなお多くの人々によって語り継がれています。


    ※この記事は2022年1月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
    日本をかっこよく!

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  • 「なにくそ!」という負けじ魂で「いま」を生きる


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    第105回倭塾は、11月11日(土曜日)18時半開講です。場所はいつもと異なりタワーホール船堀・2F・蓬莱の間です。
    今回のテーマは「皇室尊崇と忠臣蔵」です。
    詳細は→ https://www.facebook.com/events/243661308711871
    みなさまのお越しをお待ち申し上げます。
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    明治の実業家、早川徳治は、シャープの創業社長です。
    いじめられ続けた幼年時代、搾取され続けた少年時代。
    それでもひたすら勉強し続けた早川徳次は、社会人になってシャープペンシルを発明してこれが大ヒット。
    ところが資金調達をして工場の大幅拡張をした直後を関東大震災が襲う。支払いに窮した早川徳次は、シャープペンシルの特許権を売却して関西に夜逃げし、シャーペンの下請けをして暮らします。そこに追い立てやってくる借金取り。そんななかで大ヒットしたラジオによって、早川徳次はいまあるシャープを創業します。
    なにがあってもくじけない心。どこまでも「いま」を誠実に生きること。「いま」どんなに苦しくても、希望は「いま」の先にしかない。そんなことを教えてくれ、勇気を与えてくれるのが、早川徳次の物語です。

    20190228 早川徳次
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    日本に希望の火を灯す!

    「なにくそ」という言葉は、漢字では「何苦礎」と書くのだそうです。
    「何ごとも苦しいときにこそ基礎をつくる」という意味です。
    何もかもが停滞してしまっている昨今ですが、こういうときにこそ「なにくそ」の精神で、希望をもって建設的な日々をすごしたいものです。

    この言葉を、字義通りに実践して人生の成功をおさめた人に、シャープの創業者の早川徳次(はやかわとくじ)がいます。
    シャープの本社は大阪にありますが、もともとはこの会社の創業は東京でした。
    でも、倒産してしまうのです。
    何があったのでしょうか。

    早川徳次自身、生まれも育ちも東京日本橋です。
    彼の生家は商家でしたが、家業が衰退してしまい、母も病気になってしまったため、彼はなんと二歳半で、出野という家に養子に出されました。
    出野家の養母は徳次少年を非常に可愛がってくれましたが、その養母も徳次が五歳のときに亡くなってしまいました。

    次に出野家に入ってきた後妻がとんでもない「伝説の女性」でした。
    まだ子供だった徳次を殴る蹴るはあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落として放置したりする事件さえもありました。
    泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、このときの徳治少年は、糞尿まみれでおぼれかけていて半死半生でした。
    そんな全身糞まみれの徳次少年を、後妻は眼を吊上げて井戸端(いどばた)に引きずり、厳寒の中でありながら、罵声とともに冷たい井戸水を浴びせ続けました。
    近所の人たちは、あきれはててものもいえなかった・・・。

    そんな日々ですから、徳次少年は、食事もしばしば抜かれました。
    それどころか「お前に勉強なんか贅沢だ、働け!」とばかりに、小学校も二年で中退させられてしまっています。

    あまりの酷(むご)さに、みかねた近所の井上さんという盲目の女行者(おんなぎょうじゃ)が、徳次少年の手を引いて飾り職人の家に丁稚奉公に連れて行ってくれました。
    井上さんは修験道の信仰をされていた女性ですが、徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたそうです。

    この一言は重いものです。
    よそのおばさんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じたということだからです。
    それほどまでに徳次少年は、つらい毎日を送っていたのです。

    徳次が連れて行かれたかざり職人の家は、男っ気のある親方の下(もと)に、何人かの職人がいる店でした。
    そこで徳次は十八歳まで飾り金物の丁稚(でっち)職人として奉公しました。

    しかし徳次が一生懸命働いた稼いだ給金は、給料日のあとにその後妻がやってきて、毎月全額持って行ってしまいます。
    ですから徳次には遊んだり自分のモノを買ったりするお金が一銭もありませんでした。
    徳次は遊びにも行かず、ただひたすら黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込みました。
    仕事に打ち込んでいる時間だけが、彼にとっての幸せな時間だったからです。

    明治四十四(1911)年のことです。
    十八歳になった徳次は、ズボンのベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明しました。
    いまでも広く使われているバックルです。
    徳次はこの発明で新案特許を取り、十九歳で独立しました。

    その届け出のための必要書類を準備しているとき、徳次ははじめて自分が出野家の養子であったこと、そして自分の両親がとうに死んでいたことを知りました。
    そして実の兄である早川政治と対面しました。
    彼はその兄と、「早川兄弟社」を設立しました。
    そして「徳尾錠」の製造販売を開始しました。

    独立資金は五十円でした。
    このうちの十円は兄弟でお金を出し合いました。
    四十円は借金しました。
    徳次が考案した商品を作り、兄が販売を担当しました。
    苦しい財務からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、大ヒット商品となりました。
    事業も順調に拡大していきました。

    次に徳次が発明したのが、二十二歳のときでした。
    独創的な芯の繰出し装置付きシャープペンシルです。
    棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できます。
    この現象を応用しました。
    これがいまも広く使われているシャープペンシルの事始めです。

    大正四(1915)年、徳次は、このシャープペンシルに「早川式繰出鉛筆」という名前を付けて特許を出願しました。
    最初は、軸をひねって芯を出す機構の特徴から「プロペリングペンシル」という名前を付けて売り出しました。
    のちにこの商品は「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と名付けられ、この名前が詰まって生まれた言葉が「シャープペンシル」です。
    この名前はさらに詰まって、ついには会社の名前にまでなりました。
    それがいまの世界的の大手家電メーカー「シャープ」の社名の由来です。

    しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪いものでした。
    おかげで当初は全く売れません。
    それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けていました。
    「徳尾錠」の成功があったから、その利益でなんとかやりくりできたのです。
    もし「徳尾錠」がなければ、「早川式繰出鉛筆」はそのまま挫折してしまっていたかもしれません。

    ところがこの時代、意外に思うかもしれませんが、日本の東京・銀座は、まるでニューヨークのマンハッタン並みの国際都市でした。
    徳次の「シャープペンシル」は、なんと欧米人の間でたいへんな人気となり、ついには西洋でも大人気商品になりました。

    日本人は今も昔も洋物が好きです。おかげでシャープペンシルは日本でも売れ始めました。
    徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で会社の規模を拡大しました。
    さらに当時としては先駆的な試みである「流れ作業方式」を導入することで、製品の生産効率を格段に高めました。
    こうして「早川兄弟社」は、大正十二(1923)年には、従業員二百名を抱える中堅企業に成長しました。
    「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったのです。

    ところが、徳次は激務がたたって過労で倒れてしまいます。
    それは29歳のときのことでした。
    このときは当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをするのですが、徳次は、ようやく病から抜け出せたその翌年、30歳のときに、関東大震災(大正十二年)に遭遇してしまうのです。
    徳次自身は、震災で九死に一生を得るのですが、苦労を共にしてきた愛する妻と、二人の子を亡くしてしまいました。

    会社も、工場も、焼けて失(な)くなりました。
    借金だけが残りました。
    さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣いたそうです。
    死のうとすら思いました。
    しかし生き残った社員たちが彼を励ましてくれました。

    徳次は、借金の返済のために、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却しました。
    それでもまだ借金が残りました。
    たまらず徳治は夜逃げすることにしました。
    夜逃げのとき、社員たちがその手伝いをしてくれたそうです。
    申し訳ない気持ちで一杯になりました。

    徳次は大阪に逃げました。
    手元に残ったいくばくかのお金で、大正十三(1924)年、「早川金属工業研究所」の屋号で、日本文房具の下請けとしてシャープペンシルを製造する仕事を個人ではじめました。
    人生のやり直しをはじめた徳次のもとには、たびたび債権者が押し掛けました。

    いまのように法的な取立行為の規制などない時代です。
    借金取りは、徳治にありとあらゆる屈辱を与えました。
    新たに雇った従業員の前で、脅され、殴られ、罵られ、辱められる。
    債権者たちは、ありとあらゆる恥辱を徳治に与え続けました。
    死にたくなりました。

    徳治は思いました。
    それが「なにくそ!」でした。
    彼は青く闘志を燃やしました。
    自分で作った人生のツケなのです。
    お金はすぐにはどうにもならないけれど、自分で作ったツケは、カタチを変えてでもなんとかして世間にお返ししよう。
    そう思い返しては、仕事に打ち込む徳治に、それでも借金取りは容赦なく屈辱を与え続けました。

    ある日、失意のどん底に陥(おちい)った徳次は、ふらふらと、まるで夢遊病者のように大阪の街を徘徊(はいかい)していました。
    そのとき彼は心斎橋で、アメリカから輸入されたばかりの鉱石ラジオの展示を見ました。
    徳次の胸に火がつきました。
    「どうしても作りたい」

    徳次は一心不乱に鉱石ラジオを研究しました。
    そして一年後、ようやく国産第一号の鉱石ラジオを発売しました。

    鉱石ラジオは、方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信するラジオです。
    真空管ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。
    昔よく学習雑誌の付録についてきた「ゲルマニウム・ラジオ」よりも古くて性能が劣ります。
    アンプ(増幅器)が登場するよりも、ずっと前の時代のことです。
    音声信号も微弱です。
    ですから音はヘッドホンで聞きました。

    この頃、日本でもラジオ放送が始まろうとしていました。
    ラジオ放送が開始されればラジオが売れる。
    これは楽しみな出来事でした。
    大正十三年六月一日、会社に社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信しました。
    レシーバーから細々とアナウンサーの声が聞こえました。
    従業員みんなが抱き合って喜んでくれました。

    NHKのラジオ放送の開始に伴い、ラジオは爆発的に売れました。
    昭和四(1929)には、鉱石ラジオに替わる新技術の「交流式真空管ラジオ」を発売しました。
    以後、相次ぐ新製品の開発で、
    「ラジオはシャープ」
    の名を不動のものにしていきました。

    昭和四年、ブラックマンデーに始まる世界大恐慌が起きました。
    日本も明治以降で最大のデフレにおちいりました。
    町には失業者があふれました。
    徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用しました。
    また借金苦にあえぐ社員への援助もしました。

    徳次には東京で、自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目がありました。
    だからこそ、彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けました。

    ラジオの普及と共に業績は拡大しました。
    「早川金属工業研究所」は、戦時中の昭和十七(1942)年に株式会社になりました。

    早川徳次は晩年、色紙を求められると必ず、「なにくそ」と書きました。
    どんなに苦しくても、いじめられても、馬鹿にされても、傷つけられても、どんなに心を折られるような出来事があっても、絶対に負けない、くじけないで、「なにくそ」と踏ん張る。頑張る。
    それが徳次にとって、パンドラの箱に最後に残った「希望(ドリーム)」でした。

    世の中には、幸せに、とんとん拍子に、何の苦労もなく我儘を通しながら生涯をまっとうする人もいます。
    ずっとエリートで、安定して良い人生を送る人もいます。
    けれど、とんでもない苦労を背負う人もいます。
    人はそれを「不幸」と言います。
    けれど早坂徳治さんの生涯をたどるとき、「それは本当に不幸であったのだろうか」と考えてしまいます。

    耐え難い重荷を背負うから、人は成長するのです。
    それが「試練」です。
    「試練」だから「なにくそ!」と踏ん張る。頑張る。
    その「なにくそ!」と踏ん張ることが、魂のスイッチです。

    苦難や苦痛は、かならず「身近なところに起きるもの」です。
    体の悩み、仕事の苦痛、すべて自分自身や、自分の身の回りで起きます。
    自分とはかけ離れた事柄に、人は悩むことはありません。
    あたりまえといってしまえばそれまでですが、伊勢の修養団の寺岡賢講師はこのことについて、
    「だから神様は乗り越えることができる試練しか与えないのです」
    と述べられておいででした。
    その通りだと思います。

    徳川家康も「人生は重き荷を背負いて坂道を昇るが如し」と述べました。
    その「重荷」はかならず「身近」なことにあり、その「重荷」が魂のスイッチなら、武漢コロナ問題は、ただの「耐え難い苦痛」ではなく、日本を成長させるための、日本人の魂のスイッチです。

    終戦後の日本は、モノ不足でした。
    だから当時の人たちは、モノを得るために必死で働きました。
    そして小さくても楽しい我が家(マイホーム)を建て、「いつかはクラウン」を人生の目標にしました。

    ところがバブルが崩壊し、日本は30年におよぶデフレ不況の時代となりました。
    デフレというのは、人間の体で言ったら、貧血のことです。
    人間は、血液の3分の1を失うと死んでしまうそうですが、おそらくこの30年の不況で、それに近いくらいの血液を失いました。
    そして武漢コロナの影響で、もはや失われた血液は、まさにその3分の1に至ろうとしています。

    この状況下ならば、日本人一人あたり10万円と言わず、ひとりあたり300万円を支給しでも、インフレにはなりません。
    インフレは血液量が多すぎる状態ですが、日本では失われた血液を単に補給するだけのことにしかならないからです。
    ひとりあたり300万円なら、4人家族なら1200万円です。
    新車を買い、海外旅行にでかけ、あるいは家のローンを前倒しで返済し、あるいは子供の塾にお金をかけ、あるいは高額なテレビを買うなど、これなら日本経済はまたたく間に復活、蘇生します。

    けれど、実際に政府にできることは、ひとりあたり10万円です。
    これでは経済の活性化ではなく、ただのお見舞金です。
    それでインフレ懸念が〜と言う人がいます。
    あるいは、必要ないという人もいます。ただのバカです。

    実行できない政府によって、一時的には日本は、未曾有の不況状態になります。
    これは関東大震災と世界恐慌がダブルでやってきた頃と同じです。
    一時的には、日本経済は壊滅状況に近い状態になるかもしれない。

    けれど、それでも人は生きるし、生き残ります。
    日本人は、どんなときでも、「なにくそ!」とがんばってきました。
    なぜなら日本人には、どんなときにも「よろこびあふれる楽しいクニ」を求める心があるからです。

    本文中に、「徳次には東京で自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目があった」と書かせていただきました。
    「だからこそ彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けた」とも書かせていただきました。

    中高年にもなれば、おそらく誰もが「心に負い目」を持っています。
    お伊勢様に参拝させていただいたとき、ご先祖にまで栄誉をくださる祝詞をあげていただき、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
    こんな自分には、あまりにももったいないと思いました。
    けれどそのとき、あるイメージのようなものが、頭の中にひびいてきました。
    それは言葉にすれば、「人生のツケをその相手の方にお返しすることはできなくても、形を変えて世の中にお返しするのです」というものでした。

    徳次は、東京で最後まで支えてくれた社員たちにお返しをすることは、最後までできませんでした。
    けれど徳次は、その分、大阪で世の中のために頑張り抜きました。

    なんど倒れても、なにくそ!とまた立ち上がる。
    折れても折れても、それでもまた立ち上がる。
    それこそが、日本人の生き方です。

    早川徳治は、幼年時代にはいじめられ続け、少年時代には搾取され続けました。
    それでもグレたりしないで、ひたすら努力を重ねた徳次青年に、神々はシャープペンシルの発明というチャンスをくれました。世界初のシャーペンは大ヒットし、徳治は借金をして工場拡張をするのですが、その工場を関東大震災が襲い、ついに徳治は破産し、大阪に夜逃げしてしまいます。
    シャープペンシルの特許を売却し、自分が発明したシャーペンの下請け工場になって糊口をしのぐのですが、そんな徳治のもとに借金取りがやってきます。
    従業員の見ている前で面罵される早川徳次。
    でも「なにくそ!」と踏ん張りぬいたとき、鉱石ラジオに出会いました。
    家電メーカー・シャープの創業には、そんな早川徳次の苦労の人生があったのです。

    早川徳次の人生を振り返ってみると、ただひたすらに「いま」を誠実に生きたことがわかります。
    いかなる苦境や苦難が襲っても、「いま」を大切に生きる。
    失敗しても破産しても、夜逃げすることになっても、それでも「いま」を大切に生きる。
    絶望的な状況下にあっても、「いま」を大切に生きる。

    なぜなら、どんなに苦しくても「いま」の先にしか「未来」はないのだから。
    そんなことを教えてくれ、勇気を与えてくれるのが、早川徳次の物語です。


    ※この物語は、2010年以来、毎年掲載しているものです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 老農・石川理紀之助


    明治の気骨という言葉があります。
    気骨の原点にあるのは「公に尽くす」ことです。
    みんなのために尽くす人生。
    人生は決して自分だけのものではないということを、理紀之助は私たちに教えてくれているような気がします。

    石川理紀之助
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    日本に希望の火を灯す!

    「老農」という言葉があります。
    他に、篤農、精農、農聖、農哲などの呼び方があります。
    在来の農法を研究し、自らの体験を加えて高い農業技術を身につけて農村における農業指導をする人のことです。

    老農という言葉が使われだしたのは明治にはいってからのことです。
    江戸時代までは「農学者」とか「本草学」、あるいは「興産方産物掛」などと呼ばれていました。
    沢庵和尚が広げた「たくあん」、高野山から広まった「高野豆腐」も有名ですが、いつの時代でも、誰だって美味しいものは大好きです。
    あたりまえのことですが、食を大切にした我が国において、農業と農業指導の歴史はものすごく古いものです。

    いま学者といえば、たいてい本の虫になっている人達のことをいいます。
    このように「体を動かさないで頭だけを使うのが学者」というようになったのは、実は戦後のことです。
    それ以前は、江戸時代もそうでしたし、明治大正昭和初期までずっとそうでしたけれど、基本的に学者というのは、体を使う人達でした。
    知行合一が重視されたというだけでなく、
    「机上の学問を、自ら進んで実社会に活かしてこそ学問」
    というのが、学者の誇りとされていたのです。

    ですからたとえば幕末の適々斎塾を開いていた緒方洪庵にしても、進んで長崎まで勉強に行っているし、塾を開いてからも、自ら種痘のために、大阪各地を回って一般の人達が疱瘡に罹らないよう、種痘の普及に努めました。
    あるいはみなさまよくご存知の吉田松陰も、ただ松下村塾を開いて若者たちを教えていたのではなく、自ら率先して行動を起こしました。

    農業指導に関しても、江戸時代には農業全書を著して日本農学の祖といわれた宮崎安貞、実践的農業の書を著した大蔵永常、あるいは農業指導者として活動した佐藤信淵などにしても現場に出るという活動を、ものすごく大切にしていました。

    戦前戦中の日本の東大の国際政治の教授や、世界の民俗学の教授たちなど、世界中をまわって自分の足で各地を歩き、また地元住民と起居をともにして現地の様子をつぶさに把握し、それを本にまとめ、また生徒たちに教えていました。
    だからこそ当時の東大は世界の名門大学のひとつとされていたし、世界中から留学生たちがやってきていたのです。

    昨今の東大が、特に文系において、発展途上国の大学以下の評価しかされていないのは、まことに残念なことです。
    しかしそれは当然のことでもあるのです。
    戦後にGHQによる公職追放があって、江戸時代の昌平坂学問所以来の伝統的な行動派教授たちが追放され、その後釜に屁理屈ばかりを言って特高に捕まっていた共産主義者らが教授職に就きました。
    結果、すでに世界中で壮大な実験の結果、多数の人命を犠牲にして国家が崩壊した共産主義をいまだに信仰していたり、国を愛さないことを正義と勘違いしていたり、あるいは机にかじりついて教授間の権力闘争だけに明け暮れるような人物が、いまだに最高学府の教授陣であり続けています。
    そのような体たらくで、東大が世界の名門大学になどなり得ようはずもないのです。

    だいたいまともな書籍を焚書して、アカ系の学者が捏造した本だけを世に残し、「本も論文も引用先が明らかでなければ信頼に値しない」などと、おかしな空論が言い出されるようになったのは戦後のことです。
    それまでは、一流の学者は、自分で考え、自分で行動して得た一次情報を提供す人でした。
    当然、引用先なんてありません。
    必要に応じて引用先を明らかにすることはあっても、引用がなければ論に値しないなどというのは、頭のおかしなヘンタイの所業でしかないのです。
    引用先が大事なら、引用先の文書を読めば良いのであってそのような論は論考の名に値しないというのが一般的な考え方でした。

    そもそも論考というのは、事実と意見から成り立ちます。
    医学分野など、理系学問でも引用先の明記は必須とされていますが、それは実際の手術の術式や、発見された新たな数理や実験結果の引用であって、意見の引用ではありません。
    ところが昨今の我が国では、特に文系学問において、文献資料などに書かれた「意見」を引用しなければならないとしている。
    これはまことにおかしな理屈です。
    なぜなら文系学問というのは、本来答えのない学問だからです。

    「老農」が、我が国において貴重な存在として尊重されたのは、「老農」は、西洋的、分析的な近代農学に対して、古典的経験的な農業技術を活用した人達であり、そこに実践があったからです。
    そんな明治の「老農」のひとりに秋田県の石川理紀之助(いしかわりきのすけ)という人物がいました。

    石川理紀之助は、弘化二(1845)年、いまの秋田市金足小泉の奈良家の三男として生まれました。
    慶応元(1865)年、21歳のときに、秋田郡山田村(現昭和町豊川山田)の石川長十郎に婿養子に入ました。
    ところが理紀之助が養子にはいった石川家は、旧家だけれど借金もぐれでとても苦しい生活でした。

    理紀之助は「このままではいけない」と、近隣の農家の若者たちと語り合い、「山田村農業耕作会」を結成しました。
    そして「豊かな村づくり」を合言葉に、それまでの個人の営みとしての農業を、農民を広く組織した集団的農業に改革に乗り出したのです。
    理紀之助の取組みは、大成功を納め、彼自身も石川家の借金を数年で完済してしまっています。

    「山田村にすごいやつがいる」という噂がひろまりました。
    秋田県は理紀之助を秋田県庁の勧業課に招きました。職員にしたわけです。
    理紀之助28歳、明治五(1872)年のことでした。
    こういう試験や学歴、家柄や門閥にこだわらず、必要とあればどんどん民間から人材を登用するというのは、古くからの日本の伝統です。

    じつはこの頃、秋田県農業では腐米(くされまい)問題に頭を痛めていました。
    ただでさえ寒冷地で稲作が困難な地域です。
    そこへ稲の病気が流行ったのです。
    理紀之助は原因を追究し、収穫時の米の乾燥方法に新しい方法をあみだして、県の腐米改良指導に尽力し、功績をあげました。
    さらに理紀之助は、寒冷地に適したおいしいお米の生産の普及を目指し、明治十一(1878)年には「種子交換会」を開催しました。
    いまでも秋田で続いている「種苗交換会」のはじまりです。

    理紀之助は、こうして行政の農業指導官としての実績をあげながらも、官という上からの指導の限界を痛感しました。
    ほんらいなら、お百姓のみんなと、毎日一緒になってやらなければだめだと思うようになったのです。
    彼は、行政官としての仕事とは別に、各地の老農を結集して自主的な農事研究団体として「暦観農話連」を結成しました。明治十三(1880)年、理紀之助35歳のときです。

    このときの理紀之助の言葉があります。
    ========
    何よりも得がたいものは信頼です。
    信頼は、つつみかくさず教え合うことから生まれます。
    進歩というのは、厚い信頼でできた巣の中で育つのです。
    ========
    まさにその通りです。

    最近ではなんでもマニュアルにしたり、法律を作ったり取り締まったりしさえすればなんとかなると考える人が増えていますが、規則や決まり、ルールやマニュアルが人を育てたり進歩を導くものではありません。
    互いの厚い信頼関係こそが、人を育て進歩を育くみます。
    なぜなら人は人との関係の中でしか成長しないからです。
    人の成長がなければ、そこに進歩はない。あたりますぎるくらいあたりまえのことです。

    「暦観農話連」には、結成早々に74名の老農たちが参加しました。
    ここで大事なのは、早々に74名の「老農たち」が参加した、という点です。
    老農と呼ばれる農業の達人、あるいは農業指導者が、明治初期にたくさんいた、ということです。
    そしてそれは江戸時代にもたくさんいたし、もっといえば神話の時代から数多くの老農がたくさんいて、全国の農産物指導を担っていたのです。日本は古来、そういう国だったのです。

    暦観農話連
    暦観農話連


    その「暦観農話連」で理紀之助は、会合の都度近くのお寺や農家に泊まり、自炊しながら催しを支えました。
    夜になれば時のたつのを忘れてみんなと話し込みました。
    こうすることで理紀之助は、農業への熱い夢と情熱を、みんなと共有したのです。

    「暦観農話連」による信頼の輪と固い絆は、こうしてだんだんに広がり、明治の末にはなんと499名の会員を擁する老農集団となっていました。
    会員は秋田県にとどまらず、お隣の山形、宮城や、遠く埼玉からも仲間が集まっています。

    さらに理紀之助は、明治15(1882)年から6年にわたって、二県八郡49カ町村の「適産調(てきさんしらべ)」を実施しました。
    各地の土壌、面積、人口、戸数、生産物、自作農地と小作農地の収入、農作業、生活習慣などを総合的に調査し、調査結果とその地の農業の再建計画を作成したのです。
    このときの理紀之助のレポートは、731冊に及ぶ膨大なものです。

    適産調
    適産調


    この調査のとき、理紀之助とその仲間たちは、つねに顔を覆う白布と、葬儀料、死亡届のための戸籍謄本を身につけていました。
    旅先でいつ死んでもいいようにです。
    自分が旅先の道中で死んだ時、旅先の人に迷惑をかけてしまう。
    だからすこしでもその迷惑を減らせるようにとの配慮からです。

    実はこうした習慣は、古くから続いている日本の習慣です。
    江戸時代ですと、当時の通貨は「小判」ですが、旅をするときには、その小判を襟の中に縫い付けました。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも、襟には一両小判が縫い込んであったのです。
    一両はいまでいったら、だいたい六万円くらいです。

    明治十六(1883)年、三十九歳の時、理紀之助は役人の職を辞しました。
    そして故郷の山田村の救済のためです。

    実は明治十(1877)年ころから、米の値段が上がり出すのですが、五年後の明治十五(1882)年には、逆に米の値段が急落したのです。
    これに冷害が重なりました。
    どの農家も借金に悲鳴をあげますた。
    至るところで食べれなくなる農民が増えたのです。
    理紀之助の故郷の山田村もまた借金であえいでいました。

    「この息も絶え絶えの農村を救うにはどうしたらよいのか」
    これまで培った知識と技術をもとに農民に戻り田畑を耕し、山田村を建て直したいと、理紀之助は山田村に帰り、村人に次の提案をし「山田経済会」を発足させました。

    一 質の良い肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施し、米の収量を増やす。
    二 収量が増えた分を借金の返済にあてる。
    三 無駄遣いをやめ、暮らしに必要なものは「共同で」買う。
    四 養蚕をとりいれ副業に精を出す。
    五 仲間外れが出ないよう、助け合い、励まし合う。

    困ったときに収穫高を増やしたり副業を振興したり無駄遣いやめようというのは、昨今の国政や、会社などでもよく言われることです。
    けれど理紀之助は、さらにそこから一歩進めて、「暮らしに必要なものを共同で買う」ということを実施したのです。

    実は、収入というのは、生産高と常に等しいものです。
    生産し、働いた分が収入になるからです。
    ところが価格が急落するというのは、生産量に対して、収入が減った状態を意味します。
    収入が減ったからといって、生産量を減らしたのでは、ますます収入が減ります。

    デフレのときに、リストラして生産量を減らせば、ますます収入が減るのです。
    少し考えたら誰にでもわかるあたりまえのことですが、世の中というのは、デフレになったら生産量を減らす(=リストラ)したり、税を引き上げて、人々の減った収入からさらに収入を減らそうと考える人がいます。
    頭のおかしな人としか言いようがありません。

    これに対し、理紀之助が行ったことは、実に理にかなっています。
    デフレで生産量に対して収入が減ったのだから、みんなでお金を出し合って、もっと生産量をあげ、収入を増やそうとしたのです。

    理紀之助は「山田経済会」を発足すると、毎朝午前3時に、掛け板を打って村人を起こしました。
    そして早朝からみんなで力を合わせて農作業を行ないました。
    夜明け前の闇に、毎朝「コーン、コーン」という掛け板の音が響き渡る。村人が集まります。
    そしてみんなで農作業をする。
    山田村はこうして村人たちの努力と協力で、わずか五年で村の借金を完済してしまいます。
    その当時に、理紀之助が詠んだ歌があります。

     世にまだ生まれぬ人の耳にまで
       響き届けよ 掛け板の音

    吹雪の朝のことです。理紀之助がいつものように午前3時に打ち終えて、雪まみれになって家に入ると、妻が、「このような吹雪の朝に、掛け板を打っても誰にも聞こえないし、ましてやこの寒さでは、誰も起きて仕事をしようとはしないでしょう」と、言ったそうです。

    理紀之助は、「そうかも知れないね。でも私は、この村の人々のためだけにやっているのではないのだよ。
    ここから五百里離れたところの人々にも、また五百年後に生まれる人々にも聞こえるように打ってるんだ」
    理紀之助の志が、単に目の前のことだけではなく、遠く未来を見据えたものであったことが、この一語にあらわれています。

    毎朝3時に村民の起床を促した掛け板
    毎朝3時に村民の起床を促した掛け板


    明治三十四(1901)年、理紀之助56歳のとき、尊敬している前田正名(まえだまさな)から、九州の霧島山(きりしまやま)のふもとの開田事業の手伝いを頼まれました。
    前田正名が五百町歩の新田を開いたから、来てくれないかというのです。
    手紙にはこう書いてありました。

    ========
    私は、この開かれた新田で、新しい農村をつくろうとしている。
    そこで、あなたおよびあなたの同志数人に来てもらい、あなたたちの考える理想の村づくりをしてもらいたいと思う。
    しかし、私は開田のために、もう資金がなくなってしまった。
    なのであなた方に来てもらっても、日当も報酬も払えないし、往復の旅費も支払えない。
    だから、費用は自前で、できれば一年ぐらい滞在して指導をしてもらいたい。
    ========

    いやはやずいぶん無茶な話です。
    農業指導に秋田から九州まで来てくれ。ただし、カネはない。交通費も日当も、給金も、ぜんぶ自前で、しかも仲間を連れてきてくれ、というのです。

    理紀之助は、自分は行くにしても、仲間はついてきてくれるだろうかと悩みます。
    そして正月早々、仲間に集まってもらってじっくりと話しました。
    みんな快諾してくれました。
    そしてそれぞれが家族や親類をまわって金を工面し、不在中のことについても話し合い、大変な無理をしながらも「先生と同行して勉強したい!」と申し込んできてくれたのです。

    一行は、明治三十五(1902)年四月始めに、出発しました。
    鹿児島まで汽車で行き、ここで一泊します。翌日から馬車に乗って北上し、宮崎県北諸県郡中霧島村(現在の北諸県郡山田町)の谷頭(たにかしら)の事務所に着いたのは、4月20日の夕方でした。

    わらじを脱いで板の間に上がると、脚絆(きゃはん)(旅行時に歩きやすくするため足に巻く布)も解かずに、すぐに明日からの行動計画と自分たちの日課表を決めて、それを壁に張り付けました。
    谷頭は、桜島が噴火したとき、難を逃れてきた人々が住み着いたところです。
    一帯は霧島山の火山灰でできた台地で、樹木も十分に育たず竹林が茂っている。
    畑からは芋(いも)しかとれない。
    村には、すでにあきらめムードが漂っています。

    理紀之助は翌朝から日程表に決められた通り、午前3時に起床の掛け板を打ち鳴らしました。
    けれど誰も来ません。
    そして朝7時頃になって、みんなそれぞれの自分の畑にバラバラに出かけて行きました。

    理紀之助は村人を集め、農業振興のための方針を話そうとしました。
    ところが理紀之助は、秋田弁です。谷頭の人たちは薩摩弁、まるで言葉が通じません。
    筆談しようにも、村人たちは読み書きができない。
    しかも、自分たちがどんなに貧しくても、そういうものなのだ、とあきらめきっています。

    このとき、理紀之助は、秋田から一緒に来た仲間たちに次のように語りました。
    =======
    私たちは、まず指導しに来たのだという考えを捨てよう。
    この村の一員となりきって行動するようにするのだ。
    そしてこの村の欠点やここの人々の劣っていることを決して口にしないこと。
    欠点を直そうと思ったら、自分たちの生活や行動で気付かせるようにしていくこと。
    農業のことについて聞かれても、自分の知識や体験で断定的な話をしないようにすること。
    =======

    実は、ブータンでダショーの称号をもらった西岡京治も、台湾や朝鮮半島、満州で日本人が行ったやり方も、全部、これと同じです。
    どこまでも謙虚に、そしてみんなを交えて、みんなの合意を形成する。
    それが日本のやり方です。

    理紀之助は、仲間たちと朝にわらじをつくり、それを庄内の店に売りに行ったら十銭儲かったとか、竹かごを売って十五銭儲かった、などと村人たちに話しました。
    村人たちは、早朝に仕事をする習慣がなかったのだけれど、そんなに儲かるなら、じゃワシらもやってみようということになり、一人、二人と早朝に集う人が出てきました。

    さらに理紀之助は、夜は子供たちのために夜学を開きました。
    こうして理紀之助たちの指導が始まって二週間、村の中にほのかな希望が芽生え、明るく生き生きとした雰囲気が生まれてきます。
    早起きする人も増えて、どこの村よりも多く貯金するようになってきたのです。
    夜学の子供たちも、眼を輝かせて学問に励む。その様子は、外を歩く者が足を止めて見入るほどだったといいます。

    こうして理紀之助が前田正名と約束した6ヵ月が過ぎたとき、いよいよ谷頭を去ろうとする頃には、村のお年寄りや若者、子供たちまで全員集まって、別れを惜しんでどこまでもついてきてくれました。
    帰れといっても帰らない。
    理紀之助は、別れを惜しむ村の人たちの純情に、涙を流さずにはいられなかったそうです。

    理紀之助ら一行の、このときの心は、その後、全国の講演会で紹介され、日本の台湾や朝鮮半島、満洲での現地農業指導にそのまま活かされました。
    台湾でも、満州でも、私たちの先人達は、まったくそのようにして現地の人々と一緒に開墾をしたのです。

    その結果、台湾では米の生産高が30年で3倍以上、サトウキビの生産高は26倍、朝鮮半島ではわずか15年の間に農業生産高が2倍に増え、満洲の大豆の収穫高は14年で164倍に増えています。
    人々に笑顔が戻る。みんなが労働の喜びを共有する。
    そうして喜びをわかちあった現地の人々を漢奸狩りと称して、支那は虐殺の対象とした。人間の所業じゃありません。

    ちなみに満洲(いまの支那東北省)の耕地面積は、日本の満洲統治時代に開墾した当時のまま増えていません。
    その一方で、農業従事者の人口は約3倍に増えています。
    食えようになったからではありません。ふたたび貧困が支配しているのです。

    理紀之助は大正四(1915)年、70歳でその生涯を閉じました。
    亡くなる前の最後の仕事は、秋田県仙北郡強首村の救済事業でした。
    当時、理紀之助は、よく次のように語ったそうです。
    「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ。」

    そう言って、老いる体にムチ打って、毎朝三時に掛け板を鳴らし続ける理紀之助のもとには、多くの若者たちが馳せ参じてくれたそうです。
    「これら青年を見よ。わしらの意志をしっかり受け継いでくれている。これこそが世に残す財産だ」
    理紀之助が残した最後の言葉です。

    石川理紀之助の生涯を尋ねれば、決して豊かな暮らしをしていたわけではないし、どちらかといえば生涯富には恵まれず、貧乏な生活を送った人です。
    けれど彼の生涯は、心根の豊かさを私たちに想起してくれます。

    明治の気骨という言葉があります。
    気骨の原点にあるのは「公に尽くす」ことです。
    みんなのために尽くす人生。
    人生は決して自分だけのものではないということを、理紀之助は私たちに教えてくれているような気がします。


    ※この記事は、2010年3月の記事をリニューアルしたものです。
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  • 障害者と日本人


    障害者だからといって甘えないし、甘えさせない。
    むしろ障害があるからこそ、障害者自身は自分を磨いて凛々しく生きようとしたし、周囲もそれを温かく見守った。
    どんなに辛くても、その辛さ自体が自分を磨くことだと考えた。
    それが日本人であったのだということを、私たちは学ばなければならないのではないでしょうか。


    中村久子



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    日本に希望の火を灯す!

    昭和12(1937)年にヘレン・ケラーが来日しました。57歳のときです。
    このとき日比谷公会堂で、ヘレン・ケラーに大きな日本人形が渡されました。
    渡したのは中村久子さんという、当時41歳の女性です。

    上はそのときの写真です。
    大きくて美しい日本人形が写っています。
    みるからに、しっかりとした作りです。
    一緒に写っているのが中村久子さんです。

    写真を見て、なにか気付きませんか?
    この中村久子さんは、実は、両手両足がありません。
    一緒に写っている人形は、彼女が、クチを使って、器用に縫った人形です。

    中村久子さんは、明治30(1897)年に、岐阜県北部の高山で生まれました。
    「飛騨の高山」として有名なところです。
    冬は、深い雪に埋もれます。

    その寒さのために、彼女は2歳のときに、凍傷に罹ってしまうのです。
    最初は、左足の甲だけだったそうです。
    けれど凍傷は、次第に左手、右手、右足へと広がり、脱疽(だっそ)をひき起こします。

    脱疽というのは、体の組織が壊死(えし)していくことです。
    そして壊死した部位は、こんどは腐敗菌に感染します。
    すると人の体は、肌色ではなくて、まるで墨を塗ったみたいな真っ黒になります。
    本当に墨のように真っ黒になります。脱疽です。
    そうなっていく過程で激痛を伴ないます。

    真っ黒になったところは、すでに組織が死んでいますから、その部位は切り取らなければなりません。
    つまり手足を斬り落します。
    そうしなければ、感染部位が体全体に広がり、命が失われるからです。
    切れば、命は保たれます。けれど両手両足がなくなります。
    切らなければ、死にます。

    ご家族は、親戚まで集まって、たいへんに悩まれたそうです。
    そして幾度となく親族会議が行われ、決断がでないうちに、左手が手首からポロリと崩れて落ちてしまったのだそうです。

    結局、右手は手首から、左足は膝とかかとの中間から、右足はかかとから切断しました。
    中村久子さんが、まだ3歳になったばかりのときのことです。

    7歳の時に、父が世を去りました。
    10歳のときには、弟が亡くなりました。
    そんななかにあって、祖母と母は、久子さんを、ただ甘やかす育て方はしなかったそうです。
    おかげで、久子さんは、口をつかって器用に文字を書き、さらには編み物まで、自分でできるように育っていきました。

    大正5(1916)年、20歳になった久子さんは、地元高山を離れて上京し、横浜市などで一人暮らしを始めました。
    けれど、母と再婚した継父に、見世物小屋に「だるま娘」の名で身売りさせられてしまいます。

    見世物小屋での久子さんは、文字通り手足のないダルマ女として見せ物になりながら、手足のない体で、裁縫や編み物を見せる芸を披露しました。
    後年久子さんは、当時を振り返って、次のように語っています。
    「(障碍者だからといって)恩恵にすがって生きれば、甘えから抜け出せません。一人で生きていく。そう固く決意しておりました。」

    実際、久子さんは、生涯を通じて国による障碍者保障を受けることをしませんでした。
    そして彼女は、見せ物となって全国行脚して生計を立てながら、結婚し、二女をもうけています。

    そして昭和12(1937)年には、来日したヘレンケラーと会い、口を使って作った日本人形をヘレンケラーに贈りました。久子さん41歳のときのことでした。

    久子さんは、50歳頃から執筆や講演などの活動をはじめました。
    彼女は講演で、自身の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨まず、むしろ障碍のおかげで強く生きる機会を貰ったと語りました。
    中村久子さんの言葉です。

    「『無手無足』は、私が仏様から賜った身体です。
     この身体があることで、
     私は生かされている喜びと尊さを感じています」

    「人は肉体のみで生きているのではありません。
     人は心で生きています。」

    「人の命は、つくづく不思議なものです。
     確かなことは自分で生きているのではない、
     生かされているのだということです。
     どんなところにも必ず生かされていく道がある。
     すなわち人生に絶望なし。
     いかなる人生にも決して絶望はありません。」

    昭和43(1968)年3月19日、中村久子さんは、脳溢血のため、高山市天満町の自宅でお亡くなりになりました。享年72歳でした。

    三つのことを申上げたいと思います。

    1 自立する

    ひとつは、障碍者でありながら、自立した女性として強く生き抜いた中村久子さんという女性の強さと輝き、そして強い心です。
    辛いこと、苦しいこと、どうしようもないことを、他人のせいにし、恨み、ねたみ、そねみ、他人の足を引っ張っる。
    自分は弱者だと規定し宣伝し甘える。
    特に政治関連ですと、政治的に敵対し、他人の悪口を言って貶めることで自分自身の小さな自己満足に浸る。
    昔の人は、そういうことを良しとしませんでした。
    どんなに辛くても、苦しても、自立し、魂を磨いていく。
    男女を問わず、それが人としてあたりまえのことだという認識が社会人としての常識でした。
    それこそが誇りであり、気骨であったわけです。

    2 不自由であっても不幸ではないという気骨

    二つめは、来日したヘレンケラーが、中村久子さんに、「私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と言ったのは、単にヘレンと比較して、久子さんの傷害が重くて不幸だと言っているのではない、ということです。
    ヘレンケラーは、自分以上にたいへんな傷害を抱えながら、挫けることなく、明るく強く生きている中村久子さんを「偉大だ」と言っているのです。

    先般も書きましたが、徴兵され戦地の最前線に行ったのは、徴兵検査で「甲種合格」となった方々です。
    徴兵検査は、結果が甲乙丙丁戌の5種類でしたが、その基準を見てびっくりでした。
    現役時代の私は、柔道をやっていたし身体頑健には自信があったのですが、基準に照らしたら丙種でした。
    これは現役兵にはなれず、後方での国民兵になれるだけ、という結果です。
    では、甲種合格となる人はどういう人かというと、だいたいひとクラスに1人いるかいないか。
    つまり、級友の中で、とびっきりの健康優良児の優秀な若者しか、兵役にとってもらえなかったのです。

    そういうとびっきりの健康優良児が、兵役にとられ、30キロの背嚢を背負って何百キロも行軍し戦う。
    戦えば怪我人も出ます。
    なかには手足を失う者もでます。
    そんな不具者がどうなったかというと、治療後にいまでいうリハビリ施設にはいるのですが、そこで徹底的に厳しい訓練を受けて社会復帰したそうです。
    そういう人達の伝記が、東京・九段下の「しょうけい館」に展示されていますが、彼等が語った言葉に、愕然としました。
    そこに書かれていたのは、
    「私の人生は、不自由だったが、不幸ではなかった」

    3 見世物小屋のこと

    もうひとつ、久子さんが「見世物小屋に売られた」ということについてです。
    「売られた」というと「ひどいことをされた」と条件反射的に思うとしたら、それは戦後史観に染まっています。
    なるほど親元を離れるわけですから、さみしさもあるでしょう。
    他人の中で暮らすというのは、つらいこともあるでしょう。
    けれど、子が親元を離れ、丁稚奉公に出るというのは、どこの家庭でもあったことです。
    その丁稚に出たのが、たまたま障碍を抱えていたから見世物小屋だったということです。

    その見世物小屋は、すこし大きな縁日といえば、屋台の露天だけでなく、化け物屋敷(幽霊屋敷)などと並んで、昔は必ず出たものです。それは定番の屋台といって良いものでした。
    そして障碍を持った人の見世物小屋というのは、ただ障碍者をそこに座らせて見せるだけでは、お客さんは入りません。
    あたりまえのことです。
    そんなもの見たがる人の方が、よほどの変人です。
    むしろ、見たがる人こそ、見世者にしたいくらいです。

    見世物小屋のお客さんは、もちろん「こわいもの見たさ」に入るケースもあるでしょう。
    けれど、ただ「こわいもの」がそこにあるだけでは、お客さんは二度と来てくれないのです。

    たとえば今日のテーマの中村久子さんのようなケースでは、手足のない「だるま女」として見せ物になりました。
    そう言われて恐いもの見たさに入場したお客さんも、その興行を許可するお上も、ただ手足のない女性を見るというだけなら、お客さんたちは二度とその小屋に入らないし、お上もそんな見世物小屋は絶対に許可などしません。

    そうではなく、手足がなくても、和裁をしたり、きれいな書を書いたり、けっしてくじけず芸事を磨いて必死に生きている。
    その姿を、お客さんたちは見たのです。
    そのために見世物小屋の興行主は、障碍者だからといって決して甘やかせたりはしませんでした。
    身の回りのことは全部自分でやらせたし、両手両足がないダルマ女であっても、口にくわえた筆で、健常者でさえも及びもつかないほどの見事な書を書いたのです。

    だから見世物小屋にはいったお客さんは、そこで障碍を抱えながらも一生懸命まじめに努力して生きている姿を目の当たりにしました。
    そして次には、友達を連れてきてくれました。
    障碍があっても頑張って生きている。まして自分たちは五体満足に生まれてきているのだから、もっと一生懸命生きなければと、あらためて感じることができるからです。
    だからそこには感動がありました。
    それが「見世物」だったのです。

    つまり「見世物」にしたのは、「両手両足がない」ことを見世物にしたのではなくて、そういう障碍を抱えたひとりの女性が、両手両足がなくても立派に書を書き、裁縫をし、健常者以上の仕事をこなしている。
    その凛とした姿が「見世物」となったのです。
    ここが日本における興行の、ちょっと違うところです。

    だからお客さんも、木戸銭を払って中にはいるけれど、出るときにはその障碍者のためにと、寄付までしてくれる。
    その寄付金は、見世者になっていた障碍者だけではなく、小屋に出れないもっと重度の障碍者のために使われる。
    そうやって互いに助け合い、ともに支えあって生きる社会を築いてきたのが、私達日本人だったのです。

    綺麗ごとを言っているのではありません。
    感動がなければ、お客さんははいってくれないし、二度と来てくれないし、ましてリピーターなどないのです。あたりまえのことです。

    見世物小屋が人を見せ物にすることは、昭和50年に法律で禁じられました。
    「それは人道的ではない」ということが理由です。
    けれど、障碍者を、ただ手足が不自由だからと法で社会から隔離したり排除したりする社会と、みんながむしろ障碍者から学び、みんなの力で障碍者を支えた社会と、果たしてどちらが人道的な社会といえるのでしょうか。

    北島三郎が歌った演歌『風雪ながれ旅』のモデルになったのが、津軽三味線の高橋竹山です。
    3歳で失明し、盲目の戸田重次郎のもとで三味線を習い、門付け三味線芸人として身を立てる一方で、それだけでは飯が食えずに鍼灸師とマッサージ師の資格をとり、それでも努力を重ねて、いまでいう津軽三味線のスタイルを確立したのが高橋竹山53歳のときです。

    障害者だからといって甘えないし、甘えさせない。
    むしろ障害があるからこそ、障害者自身は自分を磨いて凛々しく生きようとしたし、周囲もそれを温かく見守った。
    どんなに辛くても、その辛さ自体が自分を磨くことだと考えた。
    それが日本人であったのだということを、私たちは学ばなければならないのではないでしょうか。

    ※この記事は2015年9月の記事の再掲です。
    日本をかっこよく!

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    近年の日本で、加藤清正を知る人が減っている現実は、日本人が「信義」を失いつつあることの、ひとつの象徴であるように思います。

    20191011 加藤清正
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    日本に希望の火を灯す!

    尋常小学修身書巻五から、加藤清正(かとう きよまさ)のお話をご紹介したいと思います。
    いくつか、たいせつなポイントがあります。
    これについては末尾に記載します。

     ***
    「信義」

    加藤清正は、豊臣秀吉と同じく尾張の人であります。
    三歳のとき、父を失い、母の手で育てられていましたが、母が秀吉の母といとこの間柄でしたから、後ろには秀吉の家に引き取られて育てられました。
    15歳のとき、一人前の武士として秀吉に仕え、たびたび軍功をたてて、次第に立派な武将となり、後には肥後(ひご)を領して秀吉の片腕となりました。

    秀吉は、その頃乱れていた国内をしずめ、さらに明国を討つために、兵を朝鮮へ出しました。
    清正は、一方の大将となって彼の地へ渡りました。

    清正の親しい友だちに、浅野長政という人がありましたが、その子の幸長(よしなが)も、朝鮮に渡って勇ましく戦っていました。
    ところがあるとき、幸長が蔚山(うるさん)の城を守っていたところへ明国の大兵(たいへい)が攻め寄せてきました。

    城中には兵が少ない上に、敵が激しく攻め立てるので、城はたちまち危なくなりました。
    そこで幸長は使いを清正のところへやって救いを求めました。

    清正の手もとには、敵の大兵に当たる程の兵力がありませんでした。
    けれども清正は、その知らせを聞くと、

    「自分が本国を発つとき、
     好長の父・長政が、
     くれぐれも幸長のことを自分に頼み、
     自分もまたその頼みを引き受けた。
     いまもし幸長を早く救わなかったら、
     自分は長政に対して面目が立たない」

    と言って、身の危険をかえりみず、部下の五百騎を引き連れて、すぐに船で出発しました。

    味方の船は、わずかに20艘ばかり。
    清正は、銀の長帽子(ながぼうし)のかぶとをつけ、長槍をひっさげ、船の舳先(へさき)に突立って部下を
    指揮し、手向かってくる数百艘の敵船を追い散らし、囲みを破って蔚山の城に入りました。
    それから幸長とここに立て篭もり、力を合わせて明国の大兵を引受け、さんざんにこれを悩ましました。

    そのうちに兵糧(ひょうろう)が尽き、飲み水もなくなって、非常に難儀をしましたが、とうとう敵を打ち破りました。

    格言「義ヲ見テ為(せ)ザルハ勇ナキナリ」


     ***

    信義に厚かった清正のエピソードですが、日本男児として、清正の行動から学ぶべきものは多いと思います。

    さて、一点目。
    文中に「明国の大兵(たいへい)が攻め寄せた」という記述があります。
    よく「秀吉の朝鮮征伐」と言いますが、これは戦いがあった場所が半島であったことを言っているのであって、秀吉の軍が戦ったのは、あくまで明国の将軍とその兵であったことを示します。
    日本が戦ったのは、あくまで明国であって、李朝ではないのです。

    そもそもこの時代、李氏朝鮮は、いわゆる国民国家ではありません。
    李朝という王朝が半島の王を名乗っていましたが、当時の李朝の王というのは、いわば暴力団の組長のようなもので、半島内できちんとした行政を行っていたわけではありません。
    李朝の王と貴族があり、それ以外の半島人は、名前もないただのケモノとして半島に生息していると同じように考えられていました。

    ですから半島では国民国家としての国民教育も行われず、そこに住む半島人も、ですから自分たちが李朝の国民であるという意識も認識もありません。
    そのような状況が半島では、およそ500年にわたって続いたのです。
    恨むなら、日本ではなく、自国の歴史にしてもらいたいものです。

    このような情況ですから、戦いが始まっても、半島人にとっては、外国人たちが自分たちの土地で勝手に戦っているという認識程度しかなかったし、まして国を守るなどという意識も認識も、まったくありません。
    従って「秀吉の朝鮮征伐」という言葉は正確なものではなく、本来なら「秀吉の明国征伐」とすべきものです。

    二点目。
    加藤清正といえば、剛の武将として知られています。
    強くて男らしくて勇ましくて人望がある。そのように見られていると思います。
    そのとおりと思います。

    けれど、もうひとつ大切なことがあります。
    それは、信義に厚い武将であった、ということです。

    およそ「強い」というなら、清正よりももっと強い武士はいたことでしょう。
    男らしいという意味では、顔立ちや立ち振舞が、清正よりももっと男らしい人もいたことでしょう。
    勇ましさというなら、清正以上に勇ましい人は、当時もいたものと思われます。
    人望という意味でも、清正以上の人はきっといたことでしょう。

    けれど、それらどんな人々よりも加藤清正が武将としていまに名を残しているのは、清正がなにより信義に厚い人であったということではないかと思います。
    信義とは、信頼のために我が生命を羊のように神に捧げることを言います。
    自分の命よりも、信義を大切にする。
    そんな清正に接した人は、きっと魂が慄(ふる)えたことでしょう。
    「この人の為なら命も要らぬ」、そう思えたことでしょう。

    「武士は己を知るもののために死す」といいます。
    それは、言葉を変えれば「信義に答える」という意味です。

    上にご紹介した修身の教科書の記述のタイトルは「信義」です。
    「信」とは、平たく言えば「約束を守ること」です。
    言ったことは守る。時間を守る。約束したことはちゃんと果たす。
    「義」とは、神に羊を捧げるように、我が生命を捧げることを言います。
    つまり約束を守ることに、我が生命を捧げることが「信義」です。

    もっと端的にいえば、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」の思想上に信義は成立しません。
    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」は、いまこの瞬間に、幸運な一部の人にだけ巨額の富をもたらします。
    けれど、富というものは、おなじひとつのパイの奪い合いです。
    誰かが得をした分だけ、誰かが損をするのです。

    けれど、みんなが豊かになる方法もあります。
    それが「信義」です。
    経済は、本来、約束を守ることによって成り立ちます。
    約束を守り続ければ信用が増し、破れば信用が失われます。

    江戸の昔、武士の借用書は、「もし期日に支払いなくば、人前でお笑いくだされても構いなく候」と記されていました。
    約束を破ったら、ただ笑われる。
    それだけの約束で、債務がきちんと履行されたのです。

    そうした背景があったからこそ、明治のはじめに超貧国だった日本は、ものの20年で世界の5大国の仲間入りをするまでになれたのです。

    逆に現代日本は30年経っても経済の成長がありません。
    なぜかといえば、信用が常に破壊され続けているからです。
    信用を守ること、期待に応えることといった日本古来の社会常識は、政治経済メディアに外国人が浸透するほどに、それらは「くさい」こととして失われ、信頼を踏みにじっても自己の利益ばかりを図ることが、あたかも社会常識でもあるかのようにもてはやされてきました。
    それで経済や社会が良い方向に向かうなど、そもそもありえない話です。

    一昔前まで、加藤清正がたいへんな人気を博したのは、多くの日本人が「信義」の大切さを自分の人生に重ねていたからにほかなりません。
    一方、近年の日本で、加藤清正を知る人が減っている現実は、日本人が「信義」を失いつつあることの、ひとつの象徴であるように思います。

    日本再生のために信義を尽くす。
    それがいま、日本人に求められているひとつの課題といえるのではないでしょうか。


    ※この記事は2019年10月の記事のリニューアルです。
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  • 特攻せず。芙蓉部隊美濃部正少佐


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    人間、我慢の分だけ、晩年、良い顔になるといいます。
    晩年の美濃部空将は、とても良いお顔です。何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。そんなふうに思えます。

    美濃部正空将
    20190930 美濃部正
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    日本に希望の火を灯す!

    日本海軍に、終戦時まで大活躍した「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と呼ばれる飛行隊があります。
    この飛行隊は、NHKや、フジテレビ、テレビ東京などで、
    「特攻を拒否したヒューマニズムあふれる航空隊」
    として紹介されています。

    なるほどこの芙蓉部隊は特攻攻撃をせず、終戦時まで戦力を蓄え、果敢に米軍への攻撃活動を継続しているのですが、その隊長であり、芙蓉部隊の創設者である美濃部正(みのべただし)海軍少佐は、次のように述べてヒューマニズム説を明確に否定しています。

    「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。
     それは戦いの勝ち負けを度外視した
     戦後の迎合的統率理念にすぎません。
     当時の軍籍に身を置いた者には
     負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。
     私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり
     特攻またやむをえずと今でも考えています。
     戦いのきびしさは、
     ヒューマニズムで批判できるほど
     生易しいものではありません。
     ーーー美濃部正」


    美濃部少佐は、戦後も生き残り、航空自衛隊に身を置かれて最終は空将として後進の指導に当たられました。

    美濃部正少佐は、旧姓を太田といます。
    昭和16(1941)年11月にご結婚され、姓が美濃部と変りました。
    海軍兵学校は、第64期で、最初は水上偵察機のパイロットをされていたそうです。

    昭和18年11月に、ソロモン諸島の水上機を装備した航空隊の飛行隊長に就任し、そこで水上偵察機を利用して、夜間策敵や敵基地の夜襲を行い、大戦果をあげています。
    昭和19年1月には、水上機たった一機で敵の飛行場を爆撃し、大成功をしています。

    このあたりのことについて、すこし解説が必要かと思いますので、ちょっとだけ脱線します。

    大東亜戦争の転機となった時点について、戦後、多くの識者は、昭和17年6月の「ミッドウエー海戦」を掲げます。
    ミッドウエーでは、たしかにそれまで連戦連勝だった帝国海軍が、初といっていい大敗北を喫しましたから、そう思われても仕方がない節があるかもしれません。
    けれどミッドウエーで日本海軍が失ったのは、空母4隻と航空機285機にすぎません。
    この時点で帝国海軍には、まだまだ十分な余力がありました。

    それよりも日本が戦力を大幅に消耗したのは、実は、ミッドウエー海戦の後に行われた、ソロモン諸島の戦いです。

    この戦いは、昭和17年8月から昭和18年11月まで、1年以上に渡って行われた戦いで、日本は8万人の将兵を戦死により失い、艦船50隻、航空機1500機を喪失しました。
    もちろん米軍の側もたいへんな損害を出しており、米軍発表で戦死11000人、喪失した艦船40隻、航空機800を失っています。
    要するに、日米両軍とも大消耗戦を戦い、最終的に日本がガダルカナル等の拠点を放棄して、戦線を縮小し、撤退したのです。

    ではなぜソロモン諸島で、両軍がこれだけの大消耗戦を行ったのでしょうか。
    理由は、ひとことでいえば米軍が「戦法を切り替えた」ことにあります。
    それまでの米軍は、米海軍の機動部隊による日本統治領への進出を作戦の主体にしていました。
    ところが黄色い猿と見下していた日本側があまりに強い。
    米海軍は、空母やら艦船、あるいは航空機が次々と撃墜されたり沈没させられたりしていたのです。

    そこで米軍が考えたのが、陸上の飛行場の建設です。
    まず日本軍がやってこない後方に飛行場を建設する。
    そこから飛行機を発進させ、日本軍の基地を叩く。
    日本軍が防戦している間に、前線に米軍の飛行場を建設する。

    空母ですと、強力な日本の航空隊に空母ごと沈められてしまうため、陸上に飛行場を建設しようというわけです。
    南方の島々は、珊瑚の島だから、基本、土地が平坦です。
    そこにブルドーザーを持ち込んで、一気に木々をなぎ倒し、鉄板を敷いて滑走路にしてしまう。

    普通に私たちの現代の感覚から見ても、成田に飛行場をひとつつくるだけでも、膨大な期間を要する大工事が想像されます。
    それを彼らは一夜のうちに実現しました。
    当時の日本軍にしてみれば「まさか」の出来事であったわけです。

    陸上の滑走路は、上に枯れ葉を敷き詰めたネットを敷くことで、簡単に偽装できました。
    ですから日本軍からしてみれば、米軍の飛行機がどこから飛んでくるかわからない。
    きわめて単純でわかりやすい戦法ですが、この単純な戦法で、日本は7000機を越える航空機と、7200人のパイロットを失っています。
    ミッドウエーの比ではなかったのです。

    米軍のこの作戦で、日本は1年半後には、この地域から残存空軍をすべて撤収することになりました。
    昭和19(1944)年12月に内地に帰還した美濃部少佐は、米軍の行ったこの作戦を、日本本土を守るために逆用しようと考えます。

    彼はまず、日本本土の後方に前線攻撃のための航空機基地を構築を進言し、これを実現しました。
    本土防衛のための防空基地ではありません。
    攻撃のための基地です。
    場所は静岡県藤枝市、現在の航空自衛隊静浜基地です。

    そして昭和19年12月から、翌昭和20年1月にかけて、まず優秀なパイロットをこの基地に集めました。
    また、艦上爆撃機として生産されながら故障が多いからと放置されていた水冷式エンジン搭載の「彗星」を、この基地に集結させました。

    彗星
    彗星


    そして1月には、正式に3個飛行隊を擁する芙蓉部隊を創設し、ここを拠点に猛烈な急降下爆撃の訓練を実施しています。
    その年(昭和20年)3月、沖縄戦が始まりました。
    美濃部少佐は、芙蓉部隊の前線基地を、鹿児島県曽於市岩川町に進出させます。

    沖縄に集結した米軍機動部隊は、千機以上の航空機をもって、九州一帯から瀬戸内海方面まで、日本軍の航空戦力に爆撃を敢行し、大打撃を与えようとしました。
    日本側は、米艦隊に向けて特攻攻撃を仕掛けるとともに、新型戦闘機の「紫電改」による精鋭部隊で米軍航空隊を迎撃しました。

    特攻機は、昭和20年3月19日には、米軍大型空母フランクリン、同ワスプを急襲し、フランクリンを大破させ、戦死832人の戦果をあげ、ワスプも大破して戦死302人の大戦果をあげています。
    さらに5月11日には、米軍の誇る大型空母バンカー・ヒルも大破させました。

    この間の芙蓉部隊の戦果もめざましいものがあります。

    芙蓉部隊の進出した岩川飛行場では、まず飛行場への空襲を回避するため、使用中以外は滑走路に仮設小屋や立木を置いて偽装し、滑走路に家畜を引き入れて牧場風にしただけでなく、飛行機も木の枝などで徹底的に隠し、また到着した飛行機からはガソリンを全部抜き取って火災による損傷を最小限に抑えました。
    そして、特攻機が飛び立つと、特攻機が米軍によってレーダー補足されないよう、特攻機の進撃方向とは全然別な空域に金属片を散布して偽装し、特攻攻撃を成功に導きました。
    さらにロケット弾や、空中で爆発して爆片をまきちらす新型爆弾などを積極的に導入しました。

    こうして、
    4月6日には、嘉手納海岸周辺の米軍巡洋艦を撃沈。
    同12日には、米軍が占領した嘉手納基地を急襲して爆撃。
    同16日には、同じく嘉手納基地、読谷基地を急襲して爆弾を投下。
    同20日から26日にかけて、策敵行動をし、敵機を迎撃し、
    同27日には、北飛行場を爆撃し、中飛行場、伊江島飛行場の米軍を爆撃、慶良間で米艦隊を銃撃し、係留してあった飛行機を撃破。
    同30日には、敵夜戦機をおびき出し、燃料切れまでひっぱり回した上で、飛行場を襲撃し、敵空母を大破。

    こうして芙蓉部隊は、8月15日の終戦の前日まで、述べ630機を出撃させて莫大な戦果をあげました。
    戦果に対する損害は、わずか47機です。
    しかも終戦時点でなお50機の残存戦力を持っていました。
    芙蓉部隊は、あの物資の欠乏し、戦局厳しくなった戦争末期に、あえて特攻は行わず、人知の限りを尽くした戦法による爆撃や迎撃で、最後まで戦い抜いたのです。

    戦争が終わり、GHQによる日本人洗脳計画がスタートし、日本国内では、メディアや左翼系有識者らがこれに悪のりすることで、戦争を起こしたのは全部軍部のせいだ、特攻などは、軍部が人命軽視をしていたなによりの証拠だ、などといった論調が形成されていきました。

    (注)というより、そうした論を持つエセ学者を積極的にメディアに登場させ、出版本をベストセラーに仕立て、世論操作を行ったわけです。その間、まともなことをいう学者や論者の意見は、まるごと封殺されました。こうした上辺だけの宣伝工作は、いまでもわが国に強く影響を残しており、その結果、いまこの瞬間に世間からたかく評価されている意見(いわば流行意見)は、5年もするとことごとくメッキが剥がれて、嘘だと言われるようになりました。たった5年でメッキが剥がれるということは、少し考えたら誰にでも嘘だとわかるということです。それがわからなくなるのは、日本人が思考停止におちいり、洞察力を失ったからです。

    こうなると、俄然、注目を浴びるのが、最後まで特攻攻撃ではなく、通常攻撃にこだわって大いなる戦果をあげた芙蓉部隊の存在であり、美濃部少佐の存在です。
    メディアや左翼系学識者らは、なんとかして美濃部少佐を引っ張りだして、彼を戦時中、「人命軽視」の特攻攻撃に逆らったヒーローに仕立て上げようとしました。

    ところが、美濃部少佐は、こうした世論の流行に、いっさい妥協しませんでした。
    いくら世論だからといっても、彼は帝国軍人として育った自らの信念を曲げることをしなかったのです。

    こうして美濃部少佐は、航空自衛隊が組織されると、これに入り、最後は空将にまで登り詰めました。
    彼は次のように述べています。

    「戦前の海軍兵学校の人間教育
     及び卒後の人間関係は、
     戦後のどんな教育機関や組織より
     優れていたよ」

    美濃部空将は、日本が生んだ天才空将といえる人です。
    その彼は、自身の活躍をメディア等で語ることもなく、また何ら自慢することもなく、そして左翼の学識者や偏向メディアに踊らされることもなく、黙って後輩のパイロットを育て続けて、お亡くなりになりました。

    戦後世代の私たちは、「言わなければわからない」世代になったといわれています。
    戦後の私たちの時代の日本人は、
    「ちゃんと説明しなければわからない」
    「わからないのは、ちゃんと説明しない方が悪い」
    などと考えている風潮があります。

    黙っていたら誤解を生むだけ。
    言わなきゃわからない。
    会社の仕事もマニュアルを見なきゃわからない。
    自分はマニュアル通りにやっているのだから、それで失敗しても、それはマニュアルのせいであって、自分のせいではない・・・・。

    けれど、もともと日本にある文化は、そうではありません。
    「言わなくてもわかる」
    「見ている人は見ている」
    「言わなくてもわかるものがわからないなら、そのわからない方が、勉強が足りない」
    そう考えるのが、昔の日本人でした。

    我々の世代は、
    「そんなことは日本人にだけ通用する理屈であって、
     国際化社会では通用しない」
    といわれて育った世代です。
    ですからこのことは、世代の常識です。

    けれどほんとうにそうでしょうか。

    国宝である正倉院には、頑丈な鍵はついていません。
    そこにあるのは、紙の封印だけです。
    鍵が、ただの紙です。

    ただ紙が貼ってあるだけで、そこで誰も盗みに入ろうとしない。
    マニュアルなんてなくても、注意事項書や、警告文などなくても、良い社会は築けるのです。

    「言われなくても、そんなのはあたりまえ」
    それが日本社会だったのではないかと思うのです。
    それこそ、人類の理想といえる社会といえはしないでしょうか。

    美濃部空将は、死ぬまで自らの手柄を誇るようなことはされませんでした。
    自分が行った通常攻撃は、特攻とともに勝つための作戦として行ったにすぎないと、謙虚でした。
    その偉業を、一部の学者が特攻批判、軍隊批判の道具に利用しようとしたけれど、美濃部空将は、そんなものまるで相手にしようとしませんでした。

    そうとうストレスはあったようです。
    ですから晩年の美濃部空将は、何度か胃の潰瘍手術をしています。
    けれど、それでも「わかる人にはわかる」と、彼は弁解も説明もしていません。

    人間、我慢の分だけ、晩年、良い顔になるといいます。
    晩年の美濃部空将は、とても良いお顔です。何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。そんなふうに思えます。

    人は、良いときには、ちやほやされます。
    けれど、ひとたび落ち目になると、ボロカスに言われる。
    かつての帝国軍人さん達がそうでした。

    けれど、そうした批判や中傷、あるいは利用しようとする悪徳識者らの誘いに、美濃部空将は一切応じようとせず、「わかる人にはわかる」と、自らの使命をまっとうして、お亡くなりになりました。

    戦後世代が否定してきた昔の日本の文化が、実は、もしかしたら、ほんとうの意味で世界が必要としている普遍性を持った文化だったのかもしれません。
    本当にただしい道を最期の瞬間まで、ひとえに追求していく。
    自分をみがいていく。
    これこそが、日本人の生きざまというものであり、いまもっとも必要とされていることではないかと思います。



    ※この記事は2011年10月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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