• なにくそ!という負けない心


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    近年では、やたらにストレスと言われるようになりましたが、もともと日本語にストレスという言葉はありません。
    我が国では、それに近いものを「試練」と呼びました。
    ストレスは圧力であり受動的ですが、試練はそれを乗り越えようとする能動的な力です。
    我々日本人は、ちょっとやそっとではくじけたりしないのです。
    それが「なにくそ!」の精神です。

    20190228 早川徳次
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    「なにくそ」という言葉は、漢字では「何苦礎」と書くのだそうです。
    「どのような苦であっても、それを礎(いしづえ)にする」という意味・・・というより、これは決意です。

    近年では、やたらにストレスと言われるようになりましたが、もともと日本語にストレスという言葉はありません。
    我が国では、それに近いものを「試練」と呼びました。

    ストレスは圧力であり受動的ですが、試練はそれを乗り越えようとする能動的な力です。
    我々日本人は、ちょっとやそっとではくじけたりしないのです。
    それが「なにくそ!」の精神です。

    この言葉を、字義通りに実践して人生の成功をおさめた人に、シャープの創業者の早川徳次(はやかわとくじ)がいます。
    シャープの本社は大阪にありますが、もともとはこの会社の創業は東京でした。
    早川徳次自身、生まれも育ちも東京日本橋です。

    彼の生家は商家でしたが、家業が衰退してしまい、母も病気になってしまったため、彼はなんと二歳半で、出野という家に養子に出されています。
    出野家の養母は徳次少年を非常に可愛がってくれましたが、その養母が徳次が五歳のときに亡くなります。

    次に出野家に入ってきた後妻がとんでもない「伝説の女性」で、まだ子供だった徳次を殴る蹴るはあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落として放置したりもしたそうです。
    泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけて半死半生、もちろん全身糞まみれの徳次少年を、後妻は眼を吊上げて井戸端(いどばた)に引きずると、厳寒の中で罵声とともに冷たい井戸水を浴びせ続けたそうです。
    近所の人たちは、あきれはててものもいえなかったといいます。

    そんな日々ですから、徳次少年は、食事もしばしば与えられません。
    それどころか「お前に勉強なんか贅沢だ、働け!」とばかりに、小学校も二年で中退させられてしまいました。

    あまりの酷(むご)さに、みかねた近所の井上さんという盲目の女行者(おんなぎょうじゃ)が、徳次少年の手を引いて飾り職人の家に丁稚奉公に連れて行ってくれました。
    井上さんは修験道の信仰をされていた女性ですが、徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたそうです。

    この一言は重いものです。
    よそのおばさんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じたということだからです。
    それほどまでに徳次少年は、つらい毎日を送っていたのです。

    徳次が連れて行かれたかざり職人の家は、男っ気のある親方の下(もと)に、何人かの職人がいる店でした。
    そこで徳次は十八歳まで飾り金物の丁稚(でっち)職人として奉公しました。

    しかし徳次が一生懸命働いた稼いだ給金は、給料日のあとにその後妻がやってきて、毎月全額持って行ってしまいます。
    ですから徳次には遊んだり自分のモノを買ったりするお金が一銭もありませんでした。
    徳次は遊びにも行かず、ただひたすら黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込みました。
    仕事に打ち込んでいる時間だけが、彼にとっての幸せな時間だったからです。

    明治四十四(1911)年のことです。
    十八歳になった徳次は、ズボンのベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明しました。
    いまでも広く使われているバックルです。
    徳次はこの発明で新案特許を取り、十九歳で独立しました。

    その届け出のための必要書類を準備しているとき、徳次ははじめて自分が出野家の養子であったこと、そして自分の両親がとうに死んでいたことを知りました。
    そして実の兄である早川政治と対面しました。
    彼はその兄と、「早川兄弟社」を設立しました。
    そして「徳尾錠」の製造販売を開始しました。

    独立資金は五十円でした。
    このうちの十円は兄弟でお金を出し合いました。
    四十円は借金しました。
    徳次が考案した商品を作り、兄が販売を担当しました。
    苦しい財務からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、大ヒット商品となりました。
    事業も順調に拡大していきました。

    次に徳次が発明したのが、二十二歳のときでした。
    独創的な芯の繰出し装置付きシャープペンシルです。
    棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できます。
    この現象を応用しました。
    これがいまも広く使われているシャープペンシルの事始めです。

    大正四(1915)年、徳次は、このシャープペンシルに「早川式繰出鉛筆」という名前を付けて特許を出願しました。
    最初は、軸をひねって芯を出す機構の特徴から「プロペリングペンシル」という名前を付けて売り出しました。
    のちにこの商品は「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と名付けられ、この名前が詰まって生まれた言葉が「シャープペンシル」です。
    この名前はさらに詰まって、ついには会社の名前にまでなりました。
    それがいまの世界的の大手家電メーカー「シャープ」の社名の由来です。

    しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪いものでした。
    おかげで当初は全く売れません。
    それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けていました。
    「徳尾錠」の成功があったから、その利益でなんとかやりくりできたのです。
    もし「徳尾錠」がなければ、「早川式繰出鉛筆」はそのまま挫折してしまっていたかもしれません。

    ところがこの時代、意外に思うかもしれませんが、日本の東京・銀座は、まるでニューヨークのマンハッタン並みの国際都市でした。
    徳次の「シャープペンシル」は、なんと欧米人の間でたいへんな人気となり、ついには西洋でも大人気商品になりました。

    日本人は今も昔も洋物が好きです。おかげでシャープペンシルは日本でも売れ始めました。
    徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で会社の規模を拡大しました。
    さらに当時としては先駆的な試みである「流れ作業方式」を導入することで、製品の生産効率を格段に高めました。
    こうして「早川兄弟社」は、大正十二(1923)年には、従業員二百名を抱える中堅企業に成長しました。
    「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったのです。

    ところが、徳次は激務がたたって過労で倒れてしまいます。
    それは29歳のときのことでした。
    このときは当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをするのですが、徳次は、ようやく病から抜け出せたその翌年、30歳のときに、関東大震災(大正十二年)に遭遇してしまうのです。
    徳次自身は、震災で九死に一生を得るのですが、苦労を共にしてきた愛する妻と、二人の子を亡くしてしまいました。

    会社も、工場も、焼けて失(な)くなりました。
    借金だけが残りました。
    さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣いたそうです。
    死のうとすら思いました。
    しかし生き残った社員たちが彼を励ましてくれました。

    徳次は、借金の返済のために、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却しました。
    それでもまだ借金が残りました。
    たまらず徳治は夜逃げすることにしました。
    夜逃げのとき、社員たちがその手伝いをしてくれたそうです。
    申し訳ない気持ちで一杯になりました。

    徳次は大阪に逃げました。
    手元に残ったいくばくかのお金で、大正十三(1924)年、「早川金属工業研究所」の屋号で、日本文房具の下請けとしてシャープペンシルを製造する仕事を個人ではじめました。
    人生のやり直しをはじめた徳次のもとには、たびたび債権者が押し掛けました。

    いまのように法的な取立行為の規制などない時代です。
    借金取りは、徳治にありとあらゆる屈辱を与えました。
    新たに雇った従業員の前で、脅され、殴られ、罵られ、辱められる。
    債権者たちは、ありとあらゆる恥辱を徳治に与え続けました。
    死にたくなりました。

    徳治は思いました。
    それが「なにくそ!」です。
    彼は青く闘志を燃やしました。
    自分で作った人生のツケなのです。
    お金はすぐにはどうにもならないけれど、自分で作ったツケは、カタチを変えてでもなんとかして世間にお返ししよう。
    そう思い返しては、仕事に打ち込む徳治に、それでも借金取りは容赦なく屈辱を与え続けました。

    ある日、失意のどん底に陥(おちい)った徳次は、ふらふらと、まるで夢遊病者のように大阪の街を徘徊(はいかい)していました。
    そのとき彼は心斎橋で、アメリカから輸入されたばかりの鉱石ラジオの展示を見ました。
    徳次の胸に火がつきました。
    「どうしても作りたい」

    徳次は一心不乱に鉱石ラジオを研究しました。
    そして一年後、ようやく国産第一号の鉱石ラジオを発売しました。

    鉱石ラジオは、方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信するラジオです。
    真空管ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。
    昔よく学習雑誌の付録についてきた「ゲルマニウム・ラジオ」よりも古くて性能が劣ります。
    アンプ(増幅器)が登場するよりも、ずっと前の時代のことです。
    音声信号も微弱です。
    ですから音はヘッドホンで聞きました。

    この頃、日本でもラジオ放送が始まろうとしていました。
    ラジオ放送が開始されればラジオが売れる。
    これは楽しみな出来事でした。
    大正十三年六月一日、会社に社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信しました。
    レシーバーから細々とアナウンサーの声が聞こえました。
    従業員みんなが抱き合って喜んでくれました。

    NHKのラジオ放送の開始に伴い、ラジオは爆発的に売れました。
    昭和四(1929)には、鉱石ラジオに替わる新技術の「交流式真空管ラジオ」を発売しました。
    以後、相次ぐ新製品の開発で、
    「ラジオはシャープ」
    の名を不動のものにしていきました。

    昭和四年、ブラックマンデーに始まる世界大恐慌が起きました。
    日本も明治以降で最大のデフレにおちいりました。
    町には失業者があふれました。
    徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用しました。
    また借金苦にあえぐ社員への援助もしました。

    徳次には東京で、自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目がありました。
    だからこそ、彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けました。

    ラジオの普及と共に業績は拡大しました。
    「早川金属工業研究所」は、戦時中の昭和十七(1942)年に株式会社になりました。

    早川徳次は晩年、色紙を求められると必ず、「なにくそ」と書きました。
    どんなに苦しくても、いじめられても、馬鹿にされても、傷つけられても、どんなに心を折られるような出来事があっても、絶対に負けない、くじけないで、「なにくそ」と踏ん張る。頑張る。
    それが徳次にとって、パンドラの箱に最後に残った「希望(ドリーム)」でした。

    世の中には、幸せに、とんとん拍子に、何の苦労もなく我儘を通しながら生涯をまっとうする人もいます。
    ずっとエリートで、安定して良い人生を送る人もいます。
    けれど、とんでもない苦労を背負う人もいます。
    人はそれを「不幸」と言います。
    けれど早坂徳治さんの生涯をたどるとき、「それは本当に不幸であったのだろうか」と考えてしまいます。

    耐え難い重荷を背負うから、人は成長するのです。
    それが「試練」です。
    「試練」だから「なにくそ!」と踏ん張る。頑張る。
    その「なにくそ!」と踏ん張ることが、魂のスイッチです。

    苦難や苦痛は、かならず「身近なところに起きるもの」です。
    体の悩み、仕事の苦痛、すべて自分自身や、自分の身の回りで起きます。
    自分とはかけ離れた事柄に、人は悩むことはありません。
    あたりまえといってしまえばそれまでですが、伊勢の修養団の寺岡賢講師はこのことについて、
    「だから神様は乗り越えることができる試練しか与えないのです」
    と述べられておいででした。
    その通りだと思います。

    徳川家康も「人生は重き荷を背負いて坂道を昇るが如し」と述べました。
    その「重荷」はかならず「身近」なことにあり、その「重荷」が魂のスイッチなら、武漢コロナ問題は、ただの「耐え難い苦痛」ではなく、日本を成長させるための、日本人の魂のスイッチです。

    終戦後の日本は、モノ不足でした。
    だから当時の人たちは、モノを得るために必死で働きました。
    そして小さくても楽しい我が家(マイホーム)を建て、「いつかはクラウン」を人生の目標にしました。

    ところがバブルが崩壊し、日本は30年におよぶデフレ不況の時代となりました。
    デフレというのは、人間の体で言ったら、貧血のことです。
    人間は、血液の3分の1を失うと死んでしまうそうですが、おそらくこの30年の不況で、それに近いくらいの血液を失いました。
    そして武漢コロナの影響で、もはや失われた血液は、まさにその3分の1に至ろうとしています。

    この状況下ならば、日本人一人あたり10万円と言わず、ひとりあたり300万円を支給しでも、インフレにはなりません。
    インフレは血液量が多すぎる状態ですが、日本では失われた血液を単に補給するだけのことにしかならないからです。
    ひとりあたり300万円なら、4人家族なら1200万円です。
    新車を買い、海外旅行にでかけ、あるいは家のローンを前倒しで返済し、あるいは子供の塾にお金をかけ、あるいは高額なテレビを買うなど、これなら日本経済はまたたく間に復活、蘇生します。

    けれど、実際に政府にできることは、ひとりあたり10万円です。
    これでは経済の活性化ではなく、ただのお見舞金です。
    それでインフレ懸念が〜と言う人がいます。
    あるいは、必要ないという人もいます。ただのバカです。

    実行できない政府によって、一時的には日本は、未曾有の不況状態になります。
    これは関東大震災と世界恐慌がダブルでやってきた頃と同じです。
    一時的には、日本経済は壊滅状況に近い状態になるかもしれない。

    けれど、それでも人は生きるし、生き残ります。
    日本人は、どんなときでも、「なにくそ!」とがんばってきました。
    なぜなら日本人には、どんなときにも「よろこびあふれる楽しいクニ」を求める心があるからです。

    本文中に、「徳次には東京で自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目があった」と書かせていただきました。
    「だからこそ彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けた」とも書かせていただきました。

    中高年にもなれば、おそらく誰もが「心に負い目」を持っています。
    お伊勢様に参拝させていただいたとき、ご先祖にまで栄誉をくださる祝詞をあげていただき、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
    こんな自分には、あまりにももったいないと思いました。
    けれどそのとき、あるイメージのようなものが、頭の中にひびいてきました。
    それは言葉にすれば、「人生のツケをその相手の方にお返しすることはできなくても、形を変えて世の中にお返しするのです」というものでした。

    徳次は、東京で最後まで支えてくれた社員たちにお返しをすることは、最後までできませんでした。
    けれど徳次は、その分、大阪で世の中のために頑張り抜きました。

    なんど倒れても、なにくそ!とまた立ち上がる。
    折れても折れても、それでもまた立ち上がる。
    それこそが、日本人の生き方なのではないかと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

    ※この物語は、2010年以来、毎年、だいたいこの時期にアップしているものです。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 軍神広瀬中佐


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    「軍神」という言葉を軍国主義と決めつける、そういう対立的闘争的価値観では、そこに何の「学び」もありません。
    そもそも日本には、もともと「対立」という概念すらありません。
    「対立」は、もともと英語の「confrontation」を幕末に翻訳した翻訳語です。
    漢字の「対立」という熟語は、江戸時代の昔からありましたが、読みはこれで「ならびたつ」です。意味が違うのです。

    戦前、広瀬中佐が日本人の誇りであり「軍神」とされて、広瀬中佐の歌が文部省唱歌に採用なったのも、部下の命をこそ第一に考える日本の武人の姿こそ、武人の模範と考えられたからです。

    広瀬武夫中佐
    広瀬武夫中佐



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    広瀬中佐について、学んでみたいと思います。

    東京駅からJR中央線に乗ると、停車駅は、東京→神田→お茶ノ水→四谷→新宿です。
    ところが昭和の初めごろまで、神田駅とお茶ノ水駅との間に「国鉄・万世橋駅」という駅がありました。
    いま、その駅のホームは、あらためて開放されて、商業施設になっています。

    もともと江戸時代には、神田界隈は武家屋敷街でしたが、明治にはいって、あたりに洋服生地を扱う問屋街が形成されました。
    昔は服地は、各地の小売店さんの店子さんたちや、行商の小売りの商人さんたちが、問屋街に買付にきました。
    買い付けて仕入れた着物は、昔は宅配のトラックなんてありませんから、店子さんたちが背負子(しょいこ)でおぶったのです。
    木でできた箱などに、肩に当たる部分を広く編んで作った縄や布でショルダーベルトと肩パットにして、背中におぶって運んだわけです。
    その背負子(しょいこ)のことを、別名で連雀(れんじゃく)といい、連雀はそのままで行商人のことを指す言葉でもありました。

    背負子
    (手前の人の背負っているのが背負子(しょいこ)です)


    いまでも、古い城下町などには、連雀町とか連尺町とかいう町名が残っていたりしますが、そこにはかつて、問屋街があり、そこには背負子(しょいこ)を背負った行商人さんたちなどが、軒を連ねる問屋さんに、まるでスズメ(雀)が連なるように次々と飛び込んで、商品を仕入れ、それを背負子に入れて背負い、また次のお店へと移っていったりしていたわけです。

    その様子が、まるでスズメが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、地上に落ちている餌をついばむ姿に似ているということで、そのあたり一帯は、連雀町と呼ばれました。
    連雀(れんじゃく)は、連尺(れんじゃく)とも書きますが、そういう往時の姿が、まるで目に浮かぶような楽しい町名が、昨今では次々に「何々市中央一丁目」のように、無機質な名前に変えられています。
    町名変更には、それぞれ事情があるものとは思いますが、どの地名にも、その地名にまつわる歴史があるものです。とても残念に思います。

    さて、明治の維新後、天皇が江戸に行幸されて、江戸は東京と名前が変わりました。
    これを「東京奠都(てんと)」と言います。
    「遷都(せんと)」ではなく、「奠都(てんと)」です。
    遷都は都が移されることを言います。
    奠都は、京都と東京都が、どちらも首都であることを意味します。
    この東京奠都は、いまに至るも法的に変更されていませんから、実はいまでも我が国は、京都と東京都が、どちらも都であり首都です。

    さて、江戸時代に武家屋敷街であった万世橋界隈は、明治にはいってから、武家がなくなり、廃藩置県が行われて藩がなくなり、江戸にあった諸藩の藩邸も、参勤交代がなくなって不要になり、武家屋敷は取り壊されて、そこに新たに問屋さんたちが進出しました。
    そして、万世橋界隈は、衣類問屋街に生まれ変わり、連雀町と呼ばれる町に生まれ変わりました。

    人が集まるところには、自然とサービス業も進出してきます。
    ですから神田界隈には、飲食店もたくさんできました。
    そして落語や講談や浪曲などが行われる寄席もできました。
    その寄席は、後年には映像を映し出して、弁士が音声の代わりをつとめる無声映画館に変化しました。
    そのあたりは今「神田食味街」となっています。

    明治中頃に、立川~新宿間に「甲武鉄道」という私鉄が開業しました。
    いまのJR中央線です。
    その「甲武鉄道」が利便性を求めて新宿から次第に伸びて、明治45(1912)年に始発駅が神田まで伸びました。
    そしてこのときに開業したのが、万世橋駅です。

    ところがこの万世橋駅、大正12(1923)年の関東大震災で、駅舎が消失してしまいました。
    その後簡素な駅舎が再建されたのですが、神田駅や秋葉原駅が近くに出来たことで、乗降客が減少し、昭和18(1943)年には、中央線が神田駅に延長、次いで東京駅に線路が延長されたことで、万世橋駅はその役割を終えて廃止となりました。

    取り壊した万是橋駅の資材は、戦時中の物資不足もあって、京浜東北線の新子安駅に流用されたのですが、駅舎がレンガ作りの立派な建物であったため、そのまま取り壊されずに生き残り、関東大震災や東京大空襲にも耐えて、
    ついに2013年9月、JR東日本の商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として、旧駅舎の階段などをそのままに、地上2階の商業施設としてオープンしました。

    私はまだ行ったことはないのですが、かつての駅のホームが展望カフェデッキになったとやらで、窓越しに行きかう中央線の上り・下りの電車が間近に見られるのだとか。
    そのうち機会があったら、是非、そこでお茶でもしてみたいと思います。

    前置きが長くなりましたが、実はこの万世橋駅、往年の駅前広場には、戦前には軍神・広瀬武夫中佐と、杉野孫七曹長の立派な銅像(明治43(1910)年建立)がおかれていました。

    万世橋駅前の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像
    (実に立派な銅像が建っていたことがわかります)
    広瀬中佐の銅像


    広瀬中佐は、軍神と呼ばれた日露戦争の英雄です。
    どこの国でも、軍の英雄は、国をあげて讃えていますが、日本では、戦後にGHQの指示によって、全部撤去されました。
    かつての軍人の銅像で残ったのは、実は、大山巌陸軍大将だけです。
    なぜ大山巌元帥の銅像が残ったかというと、自身も陸軍士官である連合軍最高司令官のマッカーサーが、個人的に大山巌元帥をたいへん尊敬していたからなのだそうです。
    万世橋駅が商業施設として復活したのなら、せっかくですから広瀬中佐と杉野曹長の銅像も、いつの日か日本が正気を取り戻したあと、きっと復活するものと信じています。

    軍神・広瀬中佐は、日露戦争の旅順港閉塞作戦における閉塞船福井丸の艦長だった方です。
    彼は、撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けようとして、ひとり船内を捜索し、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受けて戦死されました。
    そして明治以降、初の「軍神」となられました。

    広瀬武夫中佐
    広瀬武夫中佐


    広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年生まれの岡藩(大分県竹田市)藩の出身です。
    岡藩というのは、織田信長と豊臣秀吉に仕えた中川清秀の家系です。
    関ヶ原で徳川方につき、以降、一度の転封もなく、廃藩置県まで、この地で存続しました。

    広瀬武夫は、幼少時に母親が亡くなったため、お婆ちゃんに育てられたそうです。
    明治にはいり、西南戦争で家が焼失したため、一家は飛騨の高山へ引っ越しました。

    小学校を卒業した広瀬中佐は、地元で小学校の教師などをしていたのですが、猛勉強して、明治18(1885)年には、17歳で海軍兵学校に入学しています。

    広瀬中佐の海軍兵学校入学時の成績は19番だったそうです。
    卒業時の成績は80人中64番ということですから、決して成績の良い方ではなかったようです。
    そのかわり彼は、柔道を講道館に学び、有段者紅白戦では、五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。

    海軍兵学校時代の広瀬中佐に逸話があります。
    彼は大運動会のマラソンのとき、左足が骨膜炎で、左足切断を宣告されるまで至りながら、見事完走しているのです。
    まさにド根性です。

    卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、見習い士官になりました。
    その訓練の途中、中佐を含む50名程度の海軍見習い士官が、駿河(静岡県)の清水港に上陸しました。
    そこで彼らは、侠客・清水次郎長親分を訪ねています。

    やってきた一同をジロリと見渡した次郎長親分は、
    「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」と、一同をけしかけました。
    このあたりが、親分の意地の悪いところです。
    そうやってけしかけて、男を探そうとする。

    そうと知った広瀬は、前に出て、
    「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやる。びっくりするな!」と、いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴り出したのです。

    これには次郎長も感心し「なるほど、お前さんは男らしい」と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。

    広瀬中佐は、明治27(1894)年、26歳で日清戦争に従軍しています。
    武功あって、翌年には大尉に昇進する。

    このとき、清国から捕獲した軍艦「鎮遠」の移送を担当しました。
    広瀬中佐は、艦内清掃で「清掃というものは一番汚いところからやるものだ」と言って、先頭切って便所掃除からはじめたそうです。

    なにせ清国の船の便所です。
    相当汚かったであろうことは容易に想像できます。
    普通なら、ちょっと近寄りたくない場所です。
    しかも当時は、いまのようなトイレ用洗剤なんて便利なものはありません。
    水と雑巾でこびり着いた汚れを落とします。

    それでも落ちない汚れは、普通は竹べらなどを使います。
    ところがこのとき、艦内に竹べらがありませんでした。
    広瀬中佐は、ためらう部下たちを尻目に、汚れを爪で擦り落としはじめました。
    そうやって彼は、部下に模範を示したのです。

    トイレというところは、汚れる場所だからこそ、率先してきれいにする。
    栴檀は双葉より芳しといいますが、広瀬中佐は、若くして模範といえる人であったのだと思います。

    明治30(1897)年、広瀬中佐は、ロシアに駐在武官として赴任しました。
    明治33(1900)年には、少佐に昇進します。

    明治24(1901)年1月のことです。
    武官としてロシアのサンクト・ペテルブルクに滞在していた広瀬中佐は、かねてより親しくしていたロシアの海軍少将ウラジミール・コヴァレフスキー氏の晩さん会に招待されました。

    そこには大男のロシアの将校たちが大勢集まっていました。
    そんな中で広瀬中佐は、少将から「日本の武道の達人」と紹介されました。
    「ならやってみせてみろ」というのが、西洋式です。
    腕自慢のロシア将校が広瀬に挑もうとしました。

    広瀬中佐は平然と「日本の柔術というものは、そんなものではありません。私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」と、大男の右手をとりました。
    当時のロシア人の平均身長は、190cmくらいです。
    広瀬中佐は、日本人としては大柄な方で、160cmくらいです。

    広瀬中佐は、大男が腰を下ろそうとした瞬間、「エイッ!」とばかり、大男を投げ飛ばしました。
    それは一本背負いだったのか、はたまた大外刈りだったのか。
    詳細は伝わっていませんが、見事な投げ技だったようです。
    床に腰をぶつけた大男は、腰をさすりながら、おどけて「日本の柔術コワイコワイ」と言ったそうです。
    これに部屋中が湧きました。

    相手の虚をつくその機転、自分よりはるかに体の大きな男を投げつける武勇、そして相手を投げ飛ばしながらも、相手が頭部に怪我をしないよう、きちんと養生するやさしさ。
    一同は、「ヒロセ君に乾杯!」と、歓声をあげました。

    この事件がきっかとなって、広瀬中佐はぺテスブルグで、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えはじめました。
    世の中というのはおもしろいもので、このことがきっかけとなって、ロシア内に柔道が普及しました。
    そして日本とロシアとの国交がなくなったあとも柔道は残り、後にロシアがソ連となったあと、これが軍隊用格闘技「コンバット・サンボ」という名前の格闘技に発展します。
    サンボは、いまではロシア発のオリンピック種目です。
    そして勝負は「Ippon(一本)」で、決まります。

    ちなみにロシアの現大統領のプーチン氏は、大の柔道好きとして知られますが、そのきっかけも、おおもとをたどれば、広瀬中佐に行き当たるわけです。

    この広瀬中佐が、ロシア将校を投げ飛ばしたとき、その部屋にいたコヴァレフスキー少将の次女のアリアズナは、一部始終を目撃していました。

    アリアズナという娘は、肌は抜けるように白く、目はキラキラかがやき褐色、髪は亜麻色で、とても頭が良く、優雅で気品にあふれ、しかも子供のように無邪気で快活で明るい娘であったそうです。
    いまでもそうですが、ロシアの女性たちというのは、若い頃はまるで妖精のように美しいです。
    まして、当時のロシア貴族の娘さんとなれば、その美しさは計り知れない。

    投げ飛ばし事件のあった翌日、アリアズナは、広瀬中佐のアパートを訪ねたそうです。
    もちろん貴族であり、ロシア高官の娘さんですから、たくさんの従者をしたがえての訪問です。

    このとき広瀬中佐は、軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていたそうです。
    そしてその図面を、アリアズナに見せながら、
    「これは戦艦アサヒです」と、ロシア語で解説したそうです。
    「アサヒとは、朝のぼる時の太陽のことです。朝の太陽のように清らかで、若々しく、力づよいという心をこめているのです。
    私は去年4月にイギリスで完成したばかりのこの船に乗りました。おそらく世界で一番新式な一番大きな軍艦でしょう。私の国はこういう艦を6隻も持っているのですよ。」

    若い広瀬中佐の嬉しそうに目を輝かせる様子が、まるで目に浮かぶようです。

    アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ・・・
    中佐は、それぞれの艦の名前を言い、その意味をアリアズナに説明しました。

    「美しい名前です。日本は美しい国だから、日本人はみな美しいものを愛しているんです!」
    「どんなに堅牢な新式の大軍艦にも、われわれは日本人は、連想をかぎりなく刺激する詩のように美しいひびきをもった名前をあたえます。アサギリ、ユウギリ、ハルサメ、ムラサメ、シノノメ・・・ほらね。」
    「力は強い。しかし心はやさしい。姿はうつくしい。これが我々日本人の理想像なんです!」

    強くてハンサムで、エキゾチックでまじめで立派な武官で、しかも広瀬中佐は独身です。
    アリアズナは中佐にすっかり恋心を抱いてしまいました。

    すこし付け足しますと、使命感を持った男というのは、同性の目からみても、実にかっこいいものです。
    顔立ちや人相の問題ではなく、全身から漂う真っ直ぐなオーラのようなもの自体が輝きます。
    とりわけ広瀬中佐の語る言葉や行為は、すべて「祖国を愛する」という愛情から発しています。
    それは信念でもあります。
    そして信念を持つ男は、輝きます。

    アリアズナには、セルゲイという海軍少尉の兄がいたそうです。
    兄の縁故で、彼女のまわりには、貴族出身のロシア海軍の若い士官たちがいつも群がっていたそうです。
    なかでもドミートリ・ミハイロフ大尉ははっきりとアリアズナに好意を示していて、彼女の心を捉えようとしていました。

    ところがそのアリアズナは、貴族の御令嬢です。
    厳重なしつけを受け、物腰は優雅で美しく、しかもエカテリーナ女帝がつくった貴族女学校を優秀な成績で卒業した才媛です。
    そんなプライドの高いアリアズナにとって、ミハイロフらは、どうしても物足りなさを感じたのだそうです。
    そこに広瀬という男らしさくて、ロマンあふれる男が舞い込んだのです。

    彼女は広瀬に強い好意を寄せました。
    ところが、実は、ロシア貴族が外国人、それも東洋人に恋するなどということは、本来はありえないことでもあったのです。

    というのは、帝政ロシアというのは、もともとはノルウェーのバイキング族による王朝です。
    ロシアというのは、もともとはスラブ族の住む土地でした。
    ところがある日、そこにバイキングたちがやってきて、勝手に国をこしらえました。
    要するに外来征服王朝で、それが帝政ロシアのロマノフ王朝です。

    ですからロシアという国名にしても、語源となっている「Russ」は、「漕ぐ人」という意味です。
    ロシアは内陸国なのに、どうして「漕ぐ人」なのかといえば、もともとはバイキング族だからです。
    そのロシア王朝の王族や貴族たちは、ですから地域にいるスラブ族に対して、ものすごく選民意識が強かった人たちです。
    言葉も、スラブ語ではありません。
    公用語は、フランス語です。
    いまのロシア語は、そのロシアなまりのフランス語に、スラブ語が混ざってできたものです。

    そんな具合ですから、結婚するにしても、スラブ系の人たちとは、決して血を混ぜない。
    お相手は、わざわざ同じくバイキングのフランスやノルウエーから連れて来たくらいだったのです。

    それだけの選民意識の強い国柄にありながら、アリアズナが広瀬中佐に恋をしたということは、当時の日本人が、人種の垣根や、西洋貴族の選民意識を超えるだけの魅力を持った、輝く人たちだったことを意味しています。

    そんなある日広瀬は、ミハイロフ大尉から、アリアズナが広瀬に好意を寄せていると知らされます。
    広瀬は、びっくりする。
    でも、広瀬も、次第に彼女に心を寄せていきます。
    ふたりは度々逢って、いろいろな話をしました。
    話だけです。
    それだけで、二人の心はときめきましたが、その広瀬中佐は、あくまでアリアズナを、まるで妹をいたわるような気持ちで接していたそうです。指一本触れない。

    このことは、性に対してきわめて厳格だった日本の陸海軍の伝統に基づきます。
    性の処理は、遊郭などの専用施設で済ませればよく、そこが内地であれ外地であれ、現地の女性に対しては、絶対に関係を持たない。
    関係すれば、たとえそれが結婚を前提としたお付き合いであったとしても、強姦罪に問われ軍法会議に処せられて本国に送還になり、故郷に帰っても、強姦魔と世間から一生嘲(あざけ)られることになる。
    それが、帝国軍人というものであるというのが、明治の初めから変わらぬ日本の軍人精神です。
    けれど、惹かれる気持ちは、日々つのる。

    そんな広瀬中佐に、明治35(1902)年、帰国命令が出ます。
    祖国日本が、ロシアを仮想敵国とみなす事態となったのです。

    いよいよサンクト・ペテルブルグを出発する日、アリアズナは広瀬に小型の銀側時計を渡しました。
    時計には、「A」と文字が彫ってありました。
    アリアズナのA、Amor(愛)の「A」です。
    時計の鎖には彼女の写真のはいったロケットもついていました。

    二人は、からなず再び逢おうと誓い合いました。
    しかし、その日が二人には永遠の別れとなりました。

    実は、この広瀬中佐とアリアズナの恋物語は、中佐の死後も長く世に伏せられていました。
    中佐の死後20年ほどたった頃、広瀬中佐と同時期にペテルブルグに駐在した加藤寛治大尉が、広瀬とアリアズナの交際を知り尽くしていて、大正13(1924)年に加藤が第二艦隊司令長官として旗艦「金剛」に座乗して大阪湾から伊勢湾にむかって航海中、同乗した大阪朝日新聞の記者大江素天に、「もう話してもいいころだろうから」といって、克明に語ったことで明らかになったものです。
    広瀬中佐の恋物語は、同紙に5日間にわたって連載され、大反響となりました。

    下の絵は、広瀬武夫が義理の姉である春江に、絵葉書で示した恋人アリアズナの面影です。
    きっとこの絵のイメージとアリアズナの面影が、どこか重なるところがあったのでしょう。
    美しい女性です。

    アリアズナ


    明治37(1904)年2月、東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
    それは、旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦でした。

    作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は、
    「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」と作戦に反対しました。
    実は広瀬中佐と秋山参謀は同じ歳です。
    ただ事情があって海軍兵学校では、広瀬中佐が秋山参謀より二級上にいました。

    海軍軍令部諜報課員として着任した頃、二人は東京・麻布霞町で、同じ下宿に住んでいました。
    その下宿の向かいの屋敷のお手伝いさんの談話が残っていて、
    「広瀬さんという人は武張ったかんじだけど、話をしてみるとやさしくて近づきやすかった。秋山さんはその逆だった」そうです。

    この二人が、会議で意見が対立しました。
    あくまでも閉塞作戦に反対する秋山参謀、断固実施すべしとする広瀬中佐。

    会議は、広瀬中佐の、「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない。」というひとことで、ついに旅順港閉塞作戦は実施と決まりました。

    しかし第一回の閉塞作戦は失敗してしまう。
    第二回の作戦は、明治27(1904)年3月27日に実施されました。
    投入された艦は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の四隻です。
    そして「福井丸」に、広瀬中佐が艦長として搭乗しました。

    実行の三日前、秋山真之が旗艦三笠から、福井丸の広瀬中佐のもとに出向きました。
    秋山参謀は、友でもある広瀬に「敵の砲撃が激しくなったら、必ず引き返せ」と迫りました。
    作戦はもちろん成功させたい。
    しかし、友を決して死なせたくなかったからです。

    旅順港閉塞戦
    旅順港閉塞戦


    いよいよ決行の日となりました。
    3月27日未明、まずは先鋒の千代丸が、旅順湾入り口に向かいました。
    ところが、近づいたところをロシアの哨戒艇に発見されてしまい、サーチライトを浴びます。
    照明に照らされた千代丸に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
    集中砲火を受けた千代丸は、湾の入り口の南東、海岸から100メートルの地点に沈んでしまいます。
    作戦失敗です。

    次鋒は弥彦丸でした。
    弥彦丸は、湾の入り口手前まで近づきますが、猛烈な砲火を浴び、旅順港の入り口に対して、縦に沈んでしまいます。失敗です。
    続けて猛烈な砲火の中、副将の米山丸が湾の入り口に進み、弥彦丸と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
    これで港の入り口は、ようやく半分がふさがりました。
    けれど、まだ閉塞は実現していません。

    「なにがなんでも、湾を塞がねばならぬ」
    旅順港にいるロシア太平洋艦隊の戦力は、日本海軍とほぼイーブンです。
    しかし大西洋からは、世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきています。
    もし、旅順にいるロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊が合流したら、日本の海軍力とは雲泥の差が出てしまう。
    そうなれば、日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍はせん滅させられてしまうのです。

    広瀬は、最後の福井丸を駆って旅順港の入り口に向かいました。
    残り半分をどうしても塞がねばならないからです。

    敵のサーチライトを浴びました。
    丘から砲弾が矢のように飛んできます。
    福井丸は、ようやく湾の入り口に到達しました。

    福井丸は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとります。
    あとすこし、あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
    あとすこし、あとすこしです。

    ところがそのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、福井丸の船首に命中しました。
    その一撃で、福井丸の船首は、こなごなに、吹き飛ばされてしまいます。
    福井丸は、船首から海に沈み始めます。

    艦の操船不能。
    もはやこれまで。

    広瀬は、砲弾が飛んでくるのとは反対側、左舷の救命ボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
    ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。

    「俺が捜すっ!」
    広瀬中佐は、ひとり上甲板に戻りました。
    敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
    丘に近いのです。銃弾も飛んできます。
    る砲弾も飛来する。

    艦は浸水し、沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
    艦の沈没の際の渦に巻き込まれたら命はありません。
    しかも船は爆破して旅順港封鎖のために沈めなければならないのです。
    杉野の命はもうあきらめなければならない。
    普通ならそう決断しなければならないところです。

    けれど広瀬中佐は違いました。
    これまで、厳しい訓練に耐え、寝食を共にしてきた可愛い部下です。
    決して死なせるわけにはいかない。
    無事に連れて帰りたい。
    広瀬中佐は、必死に杉野兵曹をさがしました。

    「杉野~!、
     杉野はいいるか~!!、
     杉野はどこだ~!!」

    一説によれば、彼は艦内をくまなく、三度にわたって探したといいます。
    しかし杉野上等兵曹は見つかりませんでした。
    やむなく広瀬中佐は、福井丸が海にのみ込まれようとする、ぎりぎりにボートに乗り移りました。

    そしてボートが、六挺身ほど離れたころで、福井丸の爆薬に点火しました。
    半ば沈んだ福井丸が大爆発を起こします。
    海が明るくなる。

    福井丸の爆発によって、救命艇が、敵の前にさらけ出されました。
    そこをめがけて、敵弾が飛んで来きました。
    場所は湾の入り口のすぐそばです。

    広瀬中佐は、他の乗組員に、
    「頭を下げろ!」
    と大声で命令し、自分も頭を低くしました。

    けれど、広瀬中佐は艦長です。
    そしてこの作戦の指揮官でもあります。
    戦況を、きちんと見届けて確認しなければなりません。
    それが艦長である広瀬中佐の責任です。
    ですから広瀬中佐は銃弾の中で顔をあげました。

    そのとき広瀬中佐の頭部に敵の銃弾が命中しました。
    中佐の頭が吹き飛びました。
    身体が海中に落ちました。

    「艦長~~!!
     艦長~~!!」

    日ごろから広瀬中佐を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。

    その模様を、朝日艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には、「頭部に撃たる海中に墜落」と書かれています。
    また明治天皇紀には「一片の肉塊を残して海中に墜落」と書かれています。

    広瀬中佐が敵弾の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめたそうです。
    その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示されます。

    広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
    遺体はロシア軍によって埋葬されました。
    広瀬武夫柱、享年36歳でした。

    広瀬中佐は、翌日、一階級昇進によって中佐になりました。
    そして、日本初の「軍神」となりました。


    さて、ここまでが「軍神・広瀬中佐」の物語です。
    戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
    しかし、ここまでの物語を読んで、みなさんは何をお感じになったでしょうか。
    「軍神・広瀬中佐」は、戦争好きで、人殺しの象徴でしょうか。

    違います。
    部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にして部下の姿を追い求めた。
    そういう広瀬中佐の、日ごろからの人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気が、多くの人々に、愛され、尊敬されたのです。
    だからこそ、広瀬中佐は「軍神」とされたのです。

    歴史は、後世に生きる私たちが「学ぶ」ためにあります。
    日ごろから正々堂々と清々しく生き、危険や苦難に際しても部下への気遣いを忘れない。
    そういうことを「学ぶ」ことこそが、歴史を学ぶ意義でもあります。
    なぜなら歴史はアイデンティティを育成するものだからです。

    「軍神」という言葉を軍国主義と決めつける、そういう対立的闘争的価値観では、そこに何の「学び」もありません。
    そもそも日本には、もともと「対立」という概念すらありません。
    「対立」は、もともと英語の「confrontation」を幕末に翻訳した翻訳語です。
    漢字の「対立」という熟語は、江戸時代の昔からありましたが、読みはこれで「ならびたつ」です。意味が違うのです。

    戦前、広瀬中佐が日本人の誇りであり「軍神」とされて、広瀬中佐の歌が文部省唱歌に採用なったのも、部下の命をこそ第一に考える日本の武人の姿こそ、武人の模範と考えられたからです。
    そういうことを知り、学ぶことこそ、やれ軍国主義だ、人殺しだとゴタクを並べるよりも、はるかに大切なことです。

    世界の国々は、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。
    「自由の国」アメリカでも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えていいます。
    硫黄島で戦った兵士たちも、銅像にして讃えています。

    その硫黄島は、アメリカ領ではありません。
    直接に自国を守るのではなくても、外国との戦いに勇んだ軍人が誇りなのです。

    国防だけではありません。
    永世中立国スイスは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んだスイス傭兵たちの武勲と節操をライオン像に託して残しています。
    戦って生きても、その戦いで死んでも、その栄誉は語り継ぐのが世界の国々の常識です。

    日本だけがそれを止めました。
    その結果、子どもたちは自分の国を誇ることを知らず、その子どもたちが長じて、国軍の長であることを知らず世界に恥をさらす政治家に育ちました。

    そのようなことで良いのでしょうか。
    日本を取り戻す。
    それは、日本人が日本人としての価値観と誇りを取り戻す事でもあるのです。

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2014年2月の記事のリニューアルです。
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    水雷部隊出身者といえば、このブログでもご紹介した終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎もまた水雷屋の出身です。
    そして水雷屋といえば、忘れてならないのが、佐藤康夫大佐(戦死後二階級特進して中将)です。

    佐藤康夫海軍中将
    佐藤康夫中将



    佐藤海軍中将は、もともと神奈川県の牧野村で代々医師の家系で、幕末、徳川さんが江戸城を空け渡して駿河(静岡)に移ったとき、一緒に静岡に移ろうとしたのですが、着いたときには、もはや町が満杯で、住めるところがない。
    そこでやむなく、母方の祖父を頼って江戸に戻り、小学校にあがる直前まで小石川で過ごしたあと、住まいを得て静岡に引っ越しています。
    このため小学校は駿河城址二の丸あとの学校で、お堀を隔てた向こう側に静岡連隊の練兵場がありました。

    そこでは毎日勇ましい訓練が行われていました。
    その姿が実にかっこよくて、練兵をみて育った佐藤少年は、いつか軍人になろうと決意したそうです。
    静岡中学(いまの静岡県立静岡高校)に進学した佐藤は、そこで猛勉強をして、海軍兵学校に入学しました。

    兵学校時代の佐藤中将に、おもしろい逸話があります。
    佐藤中将は、成績はパッとしないのですが、柔道がとてつもなく強かったのだそうです。
    太めの短躯で、まるでクマが歩くように、のっしのっしと歩いたのですが、運動会では棒倒しが大好きで、真っ先駆けて突進し、これは同期生から本気で恐れられるほどで、おかげでついたあだ名が「ブルドック」です。

    ところが海軍士官候補生でありながら、水泳はからっきしだめで、こちらはまるでブルドックが溺れているようにしか見えなかったそうです。
    体が太いのだからよく浮きそうなものだけれど、ぜんぜんダメで、海軍にいながら、陸では向かうところ敵なしなのだけれど、水にはいると、からっきし泳げない。
    佐藤のこういうところが、実にかわいくて、実にみんなに好かれたそうです。

    そのくせ頑張り屋で、冬でも毛布を用いずに、シーツ一枚で寝たし、休暇になると鎌倉の円覚寺に行って座禅を組みました。
    日ごろから豪放磊落で、大酒のみで、ひとたび血がたぎれば猛烈果敢に突進する。
    その一方で、静かな禅を好む。
    大酒といえば、佐藤は任官してからも、一行動を終えて泊地に入ると、その夕食時から酒を飲みはじめ、翌日の夕方近くまで、じつに二十四時間近くも、眠りもせずに飲みつづけたなんて逸話も残されています。

    任官した佐藤中将は、もっぱら水雷艇を歩み、水雷長、駆逐艦長、駆逐隊司令と進みました。
    「水雷ほどいいものはない。
     おれは水雷に入って
     本当に良かったと思っている」
    というのが、佐藤中将の口癖だったそうです。

    後年、佐藤中将に仕えた海軍兵学校66期生の西野恒郎氏が、当時の佐藤中将について、次のように書いています。
    「この時期、私が仕えた司令は
     後にガタルカナル進攻作戦で二階級特進して
     中将になられた佐藤康夫司令でした。
     『俺は若い頃、
      司令官の五藤存知大佐から、
      頭脳雑駁にして勇敢なり』
      と考課表に書かれたよ」
     と大笑する豪傑でした。
     
     静岡育ちの佐藤司令は、宴会では必ず
     『♪仁義すごろく丁半賭けて~』
     と「旅笠道中」を調子外れに歌いだすので、
     いたずらざかりの少尉の私が
     『今日は私が歌います』と言って先に歌いだすと
     満足そうに聞かれていました。

     あるとき司令は、
     『航海士、君は俺が何故この歌を歌うか知っているか』
     と突然聞いてきました。

     『知りません』と答えると、
     『何時か米国と戦争が始まる。
      今度の戦争は無傷ではすまない。
      戦争がはじまったら
      俺は駆逐艦を率いて、
      やるかやられるか
      敵艦に向かって突っ込み
      魚雷を打ち込む、
      博徒が丁半かけるようにな』
     と決意に満ちた表情で言われました。

     先輩佐藤司令は、酒席の間にも
     戦いへの準備をしていたのです。」

    太っちょで、丸々とした童顔。
    佐藤は、何ごとも「信を相手の腹中におく」という人柄で、まさに戦国武将の風格が感じられた人だったそうです。
    戦闘の最中、至近距離で敵弾が飛んでくると、緊張のあまり大小便をチビル奴も出るのですが、佐藤司令の顔を見ると、常にかすかな笑みを浮かべて敵の陣地を見据えて微動だにしない。
    佐藤司令の姿を目にするだけで、乗員は勇気百倍だったそうです。

    そんな佐藤司令の日ごろの楽しみはタバコで、毎日二百本入りのチェリーの大函を買ってくる。
    それで足らない日もあったそうで、佐藤司令の右手はヤニで黄色くなっていたそうです。
    加えて、大飯食いで、甘いお菓子も大好き。
    そこに置いてあれば、どんな菓子でもぼりぼり平らげてしまったそうです。

    肥満体で、大酒のみで、大のタバコ好きで、大飯食いで、甘党。
    どう考えても不養生を絵に描いたような毎日ですが、佐藤の健康はまるで「巌」で、血圧も糖尿もまったく心配がない。
    内臓も頑丈で、あるといえば足の水虫くらいで、これには軍医長殿も舌をまいたといいます。

    のちにガダルカナルの補給や撤収で全軍が苦労した頃、制空権を奪われた危険極まりないガ島往復任務で、これを三回もやると、たいていの士官は眼がくぼみ、頬が尖って異相となり、体重も激減して、血尿が出て、ひどいときは神経衰弱になったりしたのですが、佐藤司令はガ島往復を12回もやって顔色ひとつ変わらない。
    むしろ以前より太り、これには誰もが驚いたそうです。

    佐藤司令は、上海事変、China事変といく度も戦いましたが、大東亜戦争だけでも、何と27回もの激しい海戦に参加しています。

    昭和17年2月27日のスラバヤ沖海戦のときの出来事です。
    米英蘭巡洋艦5、駆逐艦9の大艦隊と、西村祥治少将率いる駆逐艦6隻との間で艦隊戦が行われました。
    14対6の戦いです。
    どうみても日本側に勝ち目がないような戦いでした。

    両軍が、1万7000メートルに迫る。
    まず「神通」が砲撃を開始します。
    米英蘭艦隊も撃ち返してきます。
    米英の艦隊は、各艦の砲撃効果識別のために、砲弾に染料を使用していましたから、轟音とともに、巨大な赤や青や黄の水柱があちこちに立ちます。

    西村少将の第四水雷戦隊はさらに突っ込んで、今度は魚雷を立てつづけに撃つけれど、これがなかなかあたらない。
    しばらく激しい砲雷撃戦がつづいたが、そのうち「羽黒」の一弾が英巡エクゼターに命中しました。
    さらに魚雷がオランダ駆逐艦にも命中する。
    轟沈です。

    大混乱に陥った米英蘭の艦隊は、全軍退避を始めました。
    追撃する日本艦隊。
    当時の駆逐艦は、距離7500メートルまで接近して、魚雷を発射して反転するというのが海戦のセオリーです。
    あんまり近づきすぎると、敵弾の餌食になるからです。

    ところが佐藤康夫司令が指揮する第九駆逐隊の「朝雲」と「峯雲」は、7500メートルを超えてさらに全速で突っ込んで行きます。
    敵弾がすさまじい勢いで、艦の両舷で炸裂し、轟音とともに水しぶきをあげます。
    「朝雲」の艦橋では、水雷長が気が気でありません。
    「司令、もう撃ちましょう」という。
    佐藤司令は前方をぐっと睨んだまま、
    「まだ、まだッ」と答える。

    こんな言い合いが二、三度くり返されたそうです。
    それでも佐藤司令は発射を許可しない。
    たまりかねた岩橋透艦長が、
    「司令、他の隊は反転しました。
     当隊も反転したらいかがでしょうか」
    と進言すると、佐藤司令は、
    「艦長ッ、うしろなど見るなッ、前へ!」
    ものすごい剣幕です。
    あまりの気迫に、岩橋艦長は思わず首をすくめてしまう。

    二艦は、並列して走る単縦陣です。
    東方へ逃走する米英蘭艦隊に、距離4000メートルになった。
    海上4000メートルというのは、感覚的には25メートルプールの向こう側の人を撃つ感覚です。
    もう目の鼻の先です。

    その頃には、追撃してくるのが日本側のたった二隻の駆逐艦であることに、敵艦隊も気づきます。
    敵は反転攻勢に出る。
    多勢に無勢なんてもんじゃありません。
    反転攻勢に出られたら、袋叩きです。

    そのとき佐藤司令が
    「発射はじめッ」と号令しました。
    満を持した「朝雲」と「峯雲」が、いっせいに魚雷を発射します。

    日ごろの訓練の賜物です。
    この距離では、日本軍水雷艇の魚雷攻撃は、まさに百発百中です。
    放った魚雷は、英国の旗艦マーブルヘッドに命中。
    轟音とともにマーブルヘッドは、なんとわずか7分で沈没してしまう。

    これを見た英国駆逐艦「エンカウンター」と「エレクトラ」が捨て身の反撃に出てきます。
    なんと距離3000メートルです。
    この距離で双方は砲撃戦になりました。
    ところが「朝雲」と「峯雲」は、なおも全速力で近づいてくる。
    近づきながら砲撃をしてくる。
    そのおそろしさに、「エンカウンター」が反転離脱します。
    「エレクトラ」が単艦になる。
    その「エレクトラ」の缶室に砲弾が命中する。

    けれど敵艦も、ただ黙ってやられているわけではありません。
    「エレクトラ」は航行不能となりながらも砲撃を行い、その一発が「朝雲」の機械室に命中します。
    「朝雲」は電源故障を起こし電源が止まってしまう。
    電源が停まると、主砲が動きません。

    佐藤司令がすぐさま命令します。
    「砲は人力で操作ッ、
     砲撃を続行せよッ」
    落ちた電源の修復に必死になっていた砲撃隊は、佐藤の命令で、まるで目を覚ましたように人力による砲撃を開始しました。
    「朝雲」の照準砲撃が再開されます。

    さらに「峯雲」が、一撃必中の砲撃を加える。
    そして、ついに「エレクトラ」も撃沈してしまいます。

    この戦闘は3時間に及ぶものでした。
    敵に大損害を与えた佐藤は、午後8時になって、悠々と現場を引き上げます。
    にくいばかりの豪胆さです。

    全軍司令であった高木惣吉少将は、当時を振り返って次のように述べています。
    「この突撃戦のとき、
     巡洋艦は1万7千メートルくらい。
     駆逐艦もせいぜい8千~1万メートルくらいから
     酸素魚雷を発射していたのです。
     ところが佐藤司令だけは、
     第九駆逐隊をひきいて、
     勇敢に敵に向かって突進してゆく。
     艦長が敵の集中射撃を心配すると彼は、
     『艦長、戦場ではうしろなんか見るな』
     とたしなめ、
     友隊の射程距離の半分の
     四千メートルに迫って魚雷を発射し、
     悠々と引き上げてきました。
     敵の被害の大半は、
     この佐藤司令の働きによるものです。」

    ちなみに、この戦いによって、英重巡洋艦「エクゼター」と「エンカウンター(1,350トン)が轟沈し、この両艦の艦長を含む約450人の英海軍将兵が漂流の身となったとき、日本の駆逐艦「雷(いかづち)」の工藤俊作艦長がその全員を救助しています。
    そのときのお話が、
    ≪エクゼターとエンカウンター・・・日本の武士道精神≫です。
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-532.html
    よろしかったら、是非、ご一読を。

    佐藤司令の駆逐艦隊は、戦局厳しいガダルカナル島への輸送作戦の任務に就きました。
    佐藤司令は、日誌に次のように記しています。
    「難局に
     男冥加と突入す
     なるもならぬも
     神に任せて」

    制空権を奪われ、まる裸で輸送任務を負うのです。
    輸送船は非武装です。
    国際法上は、攻撃禁止となっている。
    だから日本側が米英艦隊の輸送船を攻撃したという記録は、誤射を除いてほとんどありません。

    ところが、日本の輸送船は、武装していない船だけに、米英から格好の標的にされました。
    やむをえず日本は、戦闘船である駆逐艦で輸送任務を行うようになったのです。
    敵軍がうようよいる中でのガ島への輸送作戦です。

    ただでさえ小型の駆逐艦は、積荷を艦一杯に積むと、重量がかさんで、軽快な戦闘行動がとれない。
    船が重たければ、敵が来たら逃げ切れないし、戦闘中の乗員の艦内通行にも支障が出ます。
    ですからすこしでも船を軽くするため、積荷を減らすように何かと文句を言う艦もあったそうです。
    ところが佐藤司令は出撃前、
    「おい、もっと積むものはないか」
    と逆に催促をしてまで、めいっぱい積荷を積みこみました。

    当時、船が深夜にガ島に着いて、積荷を降ろしていると、かならず敵機が襲来しました。
    すると佐藤司令は、まっ先に司令の乗艦の探照灯をつけるように命じたそうです。
    真っ暗闇の中で、煌々(こうこう)とライトを点けるのです。
    敵爆撃機に、まさに撃ってくださいと、いわんばかりです。
    当然、敵機が群がり寄ってきます。
    これを友軍の他艦とともに、狙いすましてはたき落とす。
    敵が逃げてく。

    肉を切らせて骨を断つといいますが、射撃場の標的になるようなものです。
    普通の神経でできるようなことではありません。
    まさに、佐藤司令ならではの豪胆な作戦です。

    昭和17年11月、第三次ソロモソ海戦を戦い、2回も感状を受けた佐藤は、休暇を得て静岡の自宅に帰ります。
    彼には、年老いた母と、妻と4人の子供がいました。
    ほんの数日の家族との団欒でした。
    そしてこの休暇が、佐藤と家族との永久(とわ)の別れになりました。

    昭和17年8月、大本営はガダルカナル島奪回作戦を命じます。
    しかし、すでに制空権を失った日本側に、ガ島での勝機はなく、
    「糧食は9月13、14日で食い尽くし、
     一粒の米もなく、
     全員絶食の状態で5~6日行軍し、
     檳榔(びんろう、ヤシの一種)樹の若芽が唯一の食糧であった」
    という、状況でした。

    これについて、たまに大本営はまったく補給を無視した無謀な作戦をやったなどというおバカな歴史家がいますが、とんでもないことです。
    輸送船を襲われたのです。
    それでも当時の海軍は、命がけで輸送任務を遂行しました。
    そしてそのために、多くの船と将兵が犠牲になりました。
    ガ島輸送作戦が、我が国「駆逐艦の墓場」とさえ言われたのは、そのためです。

    ガ島に上陸した日本軍の兵隊さんたちは、結果、2万を超す将兵が餓死することになりました。
    けれど、ひとつ気づいていただきたいのです。
    食料輸送がなかったから、彼らは飢えて死んだのです。
    しかしガダルカナルは熱帯の島です。
    食料の宝庫ともいえる島なのです。
    つまり現地のものを食べれば、飢えて死ぬことなどなかったのです。
    ところが実際には、餓死しました。
    これがどういうことかというと、現地の食べ物は、現地の人々のものであって、我々日本人は、それらを勝手に採って食べてはいけないと考え、行動したということです。

    ガ島からごくわずかに生還された方々が、戦友の死を悼むのは当然です。
    まして餓死です。
    悔しくて悲しくて、どうにもならない気持ちに駆られるのはあたりまえのことです。
    けれどそれを聞いた一般の人が、軍が無謀な戦いをしたからだと、無茶な結論に誘導することは、いかがなものかと思います。
    その前に、自分たちは戦いのために来たのであって、現地の人達に、たとえバナナ一本たりとも盗んだり食べたりして迷惑をかけることがあってはならないということを、当然のこととして結果、飢えて死んでいった先輩たちの武士の心得をこそ、私達は学ぶべきだと思います。

    さて、話を戻します。
    昭和18年2月1日から7日間、ガ島撤収作戦が行われました。
    このときガ島から救助できた将兵は、わずかに約1万3千名です。

    敵機の襲撃をうけながら、幾度となく決死の撤収作戦に従事した佐藤司令は、そのつど剛胆にして細心な指揮によって撤収作戦を成功させました。
    陸軍から、最後の一兵が乗船し終わりました、と報告をうけたときも、なお佐藤司令は陸上をいつまでも確かめることをやめなかったといいます。

    ガ島での困難な輸送、撤退作戦のほとんどに参加した佐藤は、昭和18(1943)年2月末、東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八一号作戦」の護衛任務につきます。
    この作戦は、当初から成算の見込みは、まず無い、とされた任務でした。
    不成功に終わるということは、全滅する、ということです。

    佐藤司令はラバウル出撃の前の晩、海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「野島」艦長松本亀太郎大佐と酒を酌み交わしました。
    そのとき佐藤司令は、
    「今度の作戦は危ないかもしれん。
     だがな松本、
     貴様の艦がやられたときには
     すぐに飛んでいって
     救助してやるから安心しろ」

    作戦は、米軍機による一方的な爆撃によって、輸送船団、護衛部隊ともに壊滅的な損害を被るものとなりました。
    すでに無抵抗となった輸送船団に、敵機は、さらに再来襲をかけました。
    もはやそれは戦闘と呼べるものではありません。
    屠殺です。

    第三水雷戦隊司令官木村昌福少将は、3月3日10時30分、残存艦艇に一時退避命令を下しました。
    このとき佐藤司令は、後方の第八駆逐隊の旗艦「朝潮」に座乗していました。
    「朝潮」はまだ無傷でした。
    佐藤司令は、約束を守る男です。
    作戦前に松本大佐と交わした、
    「どちらかがやられたときは
     必ず救援に駆けつける」
    という約束を守り、
    「我、野島艦長との約束有り。
     野島救援に向かう」
    との信号を発します。
    木村少将も男です。
    「佐藤ならこれをきっと成功させてくれる」と、祈るような思いでこれを許可します。

    「朝潮」は、他艦が避退に移る中、単艦で「野島」救助に向かいました。
    ようやく「野島」を見つけました。
    近くには、すでに航行不能となった「荒潮」も漂流していました。
    佐藤司令は「朝潮」を駆って、松本大佐を含めた両艦の生存者を全員救助し、付近にいた輸送船を連れて避退に移りました。

    ところが、この直後、B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機、合計54機の敵機が来襲しました。

    この攻撃で、すでに無力化していた駆逐艦、非武装の輸送船「神愛丸」「太明丸」「帝洋丸」「野島」が被弾沈没します。
    被弾し航行不能となっていた「大井川丸」、駆逐艦「荒潮」「時津風」も撃沈しました。
    これが「ダンピールの悲劇」とも呼ばれる「ビスマルク海海戦」です。
    海戦というより、屠殺そのものだった。

    米英濠の飛行機部隊は、無抵抗の救命ボートの乗員にまで、反復継続して機銃攻撃を加えました。
    このとき反撃力を持っていたのは、佐藤司令の乗船する「朝潮」だけです。
    「朝潮」は猛烈に反撃を行いました。
    けれど敵機に袋叩きにされました。
    ついに航行不能になりました。

    艦長の吉井中佐も、救助した「荒潮」の久保木艦長以下多数の将兵が「朝潮」船内で戦死していました。
    やむなく「朝潮」に、総員退艦命令が下された。
    この時、この時点でまだ生存していた松本大佐が退艦しようとしたところ、佐藤司令はまだ無事で、松本大佐を見つけて
    「早く退艦しろよ」
    と、にっこり笑ったそうです。

    松本大佐が、「司令こそ早く退艦してください」というと、
    司令は笑いながら、
    「いや、俺はもう疲れたよ。
     このへんでゆっくり休ませてもらうさ。
     さあ、貴様は早く退艦したまえ。」

    そう言って、沈みつつある「朝潮」の前甲板に、背中を向けてどっかりと座り込みました。
    松本大佐は、このとき佐藤司令の覚悟を悟ったそうです。
    松本大佐の滂沱と涙をこぼしながら、佐藤司令の背中に敬礼をすると、意を決して海に飛び込んで艦から離れました。

    しばらく泳いでから「朝潮」を振り返りました。
    沈みつつある「朝潮」が見えました。
    その前甲板で、悠然と手足を組みながら、大空を見上げてタバコを吸う、佐藤司令の姿が見えました。

    佐藤の駆逐隊司令としての海戦参加回数は27回。
    ガダルカナル島への輸送作戦参加が12回。
    挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力に定評のあった歴戦の水雷屋、佐藤康夫司令は、こうして戦死されました。
    48歳でした。
    佐藤司令は、生前の軍功に報いる形で戦死後二階級特進して海軍中将に任ぜられました。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2010年7月の記事のリニューアルです。

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     ***

    『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』より
    「職業に貴賎はないとした儒学者 松崎慊堂」

    ────────────
    ▼若き儒学者と飯盛り女の出会い
    ────────────

    ドスンと大きな音がしました。続けてガチャンとモノの割れる音。
    「てめえ、何しやんでえ」
    怒鳴られて見上げれば、そこに五人の、いかにも悪そうな町のならず者がいました。
    「おい!酒徳利が割れちまったじゃねえか。
     てめえ、このオトシマエをどうつけてくれるんでえ」

    後に松崎慊堂と名乗り、渡辺崋山や高野長英などの江戸時代後期の蘭学者を育てた儒学者が、まだ松五郎と呼ばれ、林塾の塾生だった頃のことです。

    松五郎は、熊本の農家の出身で、子供の頃は家が貧しくて寺に預けられていました。
    けれど勉強好きな子であったことから、お寺の和尚さんが、この子は学問で身を立てさせようと、十三歳で江戸に送り出してくれたのです。
    江戸では浅草の寺の住職に世話になり、寛政二(一七九〇)年に設立されたばかりの、江戸湯島の昌平坂学問所(いまの東大)に入りました。
    さらに江戸一番の儒学者である林述斎のもとで学んで、寛政六年には林塾で塾生のトップである塾生領袖になっていました。
    要するに、たいへん優秀で、かつ勉強熱心な男だったわけです。

    そんな松五郎が、ある日、歩きスマホならぬ歩きながら本を読み、考え事をしながら歩いていたときに、運悪く町のならず者たちにドスンとぶつかってしまったのです。
    「ごめんなさい」と松五郎がいくら謝っても、許してくれません。

    それどころか、酔ったならず者たちは、
    「酒代を出せ!」と大金を迫ってきました。
    けれど書生でしかない松五郎は、
    「そんな大金はありません」と謝ることしかできません。
    ならず者たちは、ますます激昂して脅しをかけてきました。

    その様子を、すぐ近くで旅籠の飯盛り女をしていた、おすみという女性がみとがめました。
    そしてならず者たちに近づくと、
    「あんたたち、よってたかって何やってんのさ」と間に割って入りました。

    「なんでえ、おすみかよ。
     すっこんでな。
     それともおめえが酒代を払うとでもいうのかい」
    「ああ、いいともさ。
     お幾らなんだい」
    「しめて六両でもいただこうか」

    おすみさんは、なんと、彼らが要求した金額をその場で全額立て替えて支払いました。
    松五郎は恐縮してしまいます。

    「必ずお金は返します。
     しかしいまはお金がありません。
     分割にしてください」

    ところが話を聞けば、月二分の生活費でやりくりしているといいます。
    いまでいったら、月三万円です。
    着ているものもみすぼらしいし、そんな少ない生活費から払うというのだから、おすみは同情して、
    「分かりました。
     じゃあね、あたいが月二分をあんたに払ってあげるよ。
     それをあたいに届けてちょうだいな」

    それからのこと、毎月毎月、おすみから松五郎のもとにお金が届けられました。
    頂いているうえに、届けてもらうのは申し訳ないからと、途中からは松五郎が自分でもらいに行きました。

    月日がたったある月のこと。
    今月に限って松五郎が現れません。
    松五郎の住む長屋に行っても不在です。
    それっきり松五郎から音沙汰がなくなりました。

    おすみは、周りの女性たちから、
    「バカねえ。
     あんた、
     騙されたのよ」
    と言われてしまいます。

    言われてみれば松五郎は日本を代表する私塾の塾生です。
    おすみは宿場の飯盛り女です。
    飯盛り女というのは要するに、私的売春婦です。
    あまりにも身分が違う。

    それから数ヶ月が経ちました。
    ある日、おすみが住む宿屋に、立派な身なりをしたお侍さんが、大きな駕籠に乗ってやって来ました。
    そして宿屋の主人に、
    「おすみさんはいますか?」とたずねました。

    呼ばれて奥から出てきたおすみは驚きました。
    あのみすぼらしかった松五郎が、見違えるような立派な姿で、そこに立っているではありませんか。
    松五郎は、懐から六両のお金を出しました。

    「いままでお世話になりました。
     これはお借りしたお金です」
    そう言って、おすみにお金を渡しました。

    「ようやく塾を卒業し、
     掛川藩に教授として召し抱えになりました。
     これから掛川に向かいます。
     いままで本当にお世話になりました。
     ありがとうございました」

    そしておすみに、こう言いました。

    「あなたさえよければ、
     私の妻になってください」

    その後、二人はめでたく祝言をあげました。

    まるで、リチャード・ギアが主演したハリウッド映画『愛と青春の旅立ち』のようなストーリーですが、こちらは実話です。

    大事なことが二つあります。
    ひとつは、掛川藩にお抱えになったばかりの松五郎が、売春婦であるおすみを妻に迎えているという点です。
    もし日本人が、売春婦を卑しい職業と考えていたのなら、松五郎がおすみを妻にすることはありえません。
    これから藩の若侍たちに学問を教える人物が、卑しい職業の女性を嫁にするなど許されることではないからです。

    ところが掛川藩は、松五郎の妻のことを全く問題にしていません。
    それどころか藩の重要な任務となった朝鮮通信使の通訳兼交渉役にさえ、松五郎を抜擢しています。
    つまり職業による差別意識を、昔の日本人は持っていなかったということです。

    そしてもうひとつの大事なことは、おすみが宿屋の売春婦でありながら、松五郎に仕送りしたり、ならず者にからまれてカツアゲされたときに、そのお金を代払いしている点です。
    よく戦後の時代劇などで、売春婦たちが子供の頃に女衒によって連れてこられ、売春宿の主人に借金漬けにされて、年季があけるまで無理やり働かされたという設定がなされています。
    要するに、これが噓だということです。

    女衒に買われてきたのは事実です。
    もちろん仕事ですから、つらいこともあったでしょう。
    けれど真面目に勤め上げれば、彼女たちは経済的には実に豊かになれたのです。
    当時の売春婦というのは、十七歳から二十二歳くらいまでしか働かせてもらえません。
    それ以降は、それまでに貯めたお金で、自分で小さなお店を開いたりしました。
    売春婦たちには、それくらいの稼ぎと経済的余裕があったのです。

    幼い頃から雇い入れ、申し訳ないけれど商売に使わせていただく。
    その代わりに、彼女たちが一生食うに困らないだけの貯えと、教養と技能を、しっかりと身につけさせてきたのが、日本の風俗の伝統です。

    なぜなら、商売以上に、人を大事にしたのです。
    それが、私たちの日本の伝統であり、それができたのは、権力者の上位に、天皇というありがたい存在がいるため、権力者は天皇の民である私たち民衆を私物化することができないという国のカタチ(構造)があったからです。

    後に松五郎は、松崎慊堂と改名し、日本を代表する学者になりました。
    当時は、学者は大勢の塾生を家に住み込みませて、学問を授けました。
    そんな若い書生たちを、おすみはよく面倒をみました。

    松崎慊堂の弟子に、渡辺崋山や高野長英など、江戸後期の名だたる学者たちがいます。
    そんな彼らから、おすみは母のように慕われながらこの世を去っています。

    職業に貴賤はありません。
    職業や身分より、その人物が、人として尊敬できるかどうか、人としての矜持(きょうじ)を失わずに生きているかどうか、そういうことを大切にしてきたのが日本人です。

    それが、ひとりひとりの人間を公民(皇民)として扱うという日本古来の伝統・考え方から生まれ育まれた、日本人の美質です。

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    いわゆる偉人伝ですが、マンガページも挿入することで、たいへんに読みやすい本になっています。
    トータル460ページ、束幅25ミリの大作です。
    お値段は、これで1800円+税です。

    この本で紹介するのは、以下の30名です。
    一度は名前を聞いたことがあるという有名人もあれば、初めて聞く名前もあろうかと思います。
    実は、そのこと自体が、この本の趣旨そのものです。

    西洋やチャイナの歴史は、いわゆる英雄豪傑譚です。
    英雄豪傑だけが歴史上の人物であり、その他大勢は、いわゆるモブキャラ、つまりただの背景キャラにすぎません。
    けれど日本の歴史は、万葉集がそうであるように、一般の庶民のひとりひとりが、それぞれ歴史の主役です。

    あたりまえのことですが、歴史というのは英雄豪傑だけが生きたのではありません。
    いつの、どんな時代にあっても、ひとりひとりの生きた人全員が時代の主役であり、時代の当事者です。
    我が国の歴史は、その意味において、いわゆる英雄譚ではありません。
    名もない一庶民も、時代を代表するような高位高官も、すべてが「おほみたから」であり、それぞれの時代を真剣に、真面目に、そして懸命に生きた人たちです。
    そして、そういう「ひとりひとり」を大切にしてきたのが、我が国の歴史です。

    いわゆる『代表的日本人』として有名なのは、内村鑑三(1861‐1930)の名著『代表的日本人』です。
    そちらは西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮という五人の歴史上の人物の生き方を通して日本人とは何かを考察した日本人論で、「武士道」「茶の本」と並んで、三大日本人論の一冊に数えられています。

    しかし、私は「それは違う」と思っています。
    それぞれの人物は、なるほどその時代を代表する人物であるといえるけれど、大切なことは、そのひとりひとりが、同じ時代を生きた他の多くの人との関わりの中で、懸命にあがきながら生きたということが、事実だからです。

    だから本書を書くのにあたり、「日本にはこんなにすごい偉人がいたんだよ」という記述はできるだけ避けたいと思いました。そうではなく「日本には、こんなにがんばった人たちがいたんだよ。そういうひとたちはみんな、周囲との関係の中で、信念を貫き通して生きたのだし、その信念は、どこまでもみんなのことを思い、我が身より、より多くの人々の幸せを願っての行動してきたのだよ」という点を、お伝えしていこうと思いました。

    本書は、企画が2018年3月のことになります。
    「偉人伝を書いてくれ」というのが依頼内容でした。
    ところがこの本の執筆は、まる4年越しのになりました。

    だいたい筆が早い方なので、執筆の依頼を受ければ、長くてもその後の半年くらいのうちに原稿を用意してきました。
    しかしこの本は、原稿をいくら書き直しても気に入らないのです。
    その理由がはっきりわかったのは、最近のことです。

    その理由とは、偉人伝が、いきおい英雄譚になりがちだという点です。
    こういう人物がいた。その人物はこういうことをした。だから偉かった、というのが基本的な流れです。
    それが気に入らないのです。

    どういうことかというと、その人物以外は、ただのモブキャラなのか?という疑問が、常に頭をもたげてくるのです。
    そうじゃないと思うのです。
    その時代を生きたすべての人、ひとりひとりの人のすべてが、自分を主役として生きてきたのです。
    時代とは、そうして生まれてきたのだし、歴史もまた、その時代を生きたひとりひとりの人々すべてが、全員、それぞれの人生の主役だったのです。
    むしろ、名もない、いまでは忘れ去られたかもしれない、そうしたひとりひとりの生きた人生の総合体が歴史です。
    そして、その時代を代表する人物がいたとしても、それは同じ時代に生きた、他の大勢の人々のひとつの代表にすぎない。
    そして、そういうことを極限まで大切にしてきたのが、日本という国の国柄であり、日本の歴史だと思うのです。

    ですから偉人伝を書くということになったとき、いろいろな試行錯誤の上、最終的に「これこそが偉人伝だ!」と思えたのが万葉集でした。
    万葉集は、高位高官だけでなく、一般の庶民の歌が数多く掲載された歌集です。
    そこでは、一般の庶民が、時代の主役として活き活きと活躍したことが、しっかりと掲げられています。

    そういう意味で、いま改めて出す偉人伝もまた、歴史上の著名人だけでなく、名もない一庶民が、真面目に真剣に、そして誠実に生きた、そういうことを大切にしたきた国柄が、鮮明に浮き彫りになるようにしていくことが大事と考えました。

    こうして生まれたのが、今回の新刊『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』です。

    原稿の最終チェックをしていて、途中、何度も涙を流しました。
    それだけ内容の濃い本になっていると思います。
    けれど、内容が濃いからと、読みにくかったり、むつかしかったりしては意味がありません。
    その意味で本書は、小中学生くらいであっても気楽に読むことができ、かつ、人生を変えるほどの衝撃が長く心に残る本になっています。

    ぜひ、お手元に一冊、そろえていただければと思います。

    【掲載した人物】
    1.  神武天皇
    2.  仁徳天皇
    3.  大伴部博麻
    4.  和気清麻呂
    5.  藤原定家
    6.  静御前
    7.  北条時宗
    8.  豊臣秀吉
    9.  木村重成
    10.  武田勝頼の妻
    11.  野中婉子(わかこ)
    12.  福井文右衛門
    13.  松崎慊堂(こうどう)
    14.  大塩平八郎
    15.  佐藤一斎
    16.  吉田松陰
    17.  小林虎三郎
    18.  二宮尊徳
    19.  中野竹子と瓜生岩子
    20.  坂本龍馬
    21.  岩崎ユキ
    22.  乃木希典
    23.  山本権兵衛
    24.  大山巌
    25.  戸山昭子
    26.  鈴木貫太郎
    27.  樋口季一郎
    28.  鳥濱トメ
    29.  根本清
    30.  昭和天皇


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  • 昭和の巌流島決戦・・・国井善弥


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    この事実は、米軍の間に、衝撃とともに伝えられました。
    そして米軍の間に、「日本剣道は、失うにはあまりにももったいない」という機運をもたらしました。
    そしてそのことが、後年、日本武道の復活となって、いまの剣道の存続につながります。

    国井善弥
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    戦後の一時期、GHQは、柔道や剣道、弓道などを全面的に禁止しました。
    理由は、それらが日本精神を形づくるものだから、です。

    この政策は、「3R,5D,3S」というGHQの基本方針に依拠しました。

    「3R」=Revenge, Reform, Revive
    「5D」=Disarmament, Demilitalization, Decentralization, Democracy, Deindustrialization.
    「3S」=Sports, Sex, Screen

    つまり、

    「3R」
     復讐(Revenge)の念をもって
     日本を改造(Reform)し、
     日本を米国の属国として復活(Revive)させる。

    「5D」
     武装解除(Disarmament)させ、
     以後武装させず(Demilitalization)、
     財閥を解体し(Decentralization)、
     民主化を促進し(Democracy)
     非工業化(Deindustrialization)を促進する。

    そして民衆の抵抗を削ぐため、
    「3S」
     スポーツ(Sports)を奨励し、
     セックス(Sex)を解放してみだらな風潮を促進し、
     映画(Screen)を振興する。

    要するにしっかり者の日本を解体し、スポーツ観戦に熱狂し、セックスに耽って、テレビばかりみていて親子の対話のない日本にしちまえ!という、政策ですから無茶な話です。

    武道は、英語ではマーシャル・アーツ(Martial Arts)です。
    当然GHQの武装解除項目に当てはまる。だから、終戦から3カ月目には廃止命令が出されています。

    ちょっと脱線しますが、ちなみに「非工業化」については、朝鮮戦争の勃発で、物資の補給のために日本の工業力の再生が必要となったため軌道修正されました。

    でも当時の日本の輸出用工業製品には、いまのような Made in Japan の刻印はありません。
    代わりに Made in Occupied Japan(占領された日本製)と刻印されていました。

    終戦の年の昭和20(1945)年11月6日には、GHQは学校の剣道を禁止し、翌年には、社会体育の剣道も禁止し、剣道関係者1300余名も公職追放されました。

    町道場ですら、剣道を教えているとGHQにひっぱられました。
    ひとりでこっそり稽古していても、GHQに見つかると、逮捕されました。

    いくら No. No !! It is not military training , but it is Japanese culture !! などと言っても受け付けてもらえません。

    やむをえず剣道界は、防具をフェンシングの防具そっくりに改良(?)し、竹刀も竹を細く細かく割ったものを用いて、フェンシングルールに、面、胴、小手を加えて、しない競技(撓協議)というスポーツを考案します。

    竹刀も、いまのような竹を縦に4つに割ったものではありません。
    8つに割った。
    するとどうなるかというと、当たってもぜんぜん痛くない。
    そのかわり、竹刀がすぐにバラバラになってしまうので、剣の部分に柔らかい白い布を巻きました。

    試合では、打ち込みの鋭さなどはいっさい問題にしません。
    制限時間内に、小手や面に、竹刀が何回当たったかの回数で、勝負が決まる。
    それは、ほんとに苦肉の生き残り策でした。

    それでも、練習や試合中に、打ちこみで声を出すことは禁止されました。
    声を出すのは、日本兵の突撃をイメージするからなのだそうです。
    だから終始、無言で稽古しました。

    そんな中で、なんとかして剣道を復活させようとしてGHQと交渉を重ねた国会議員がいました。
    笹森順造といいます。

    笹森順造は、青森県弘前藩士の出のキリスト教徒で、青学の学長も勤めた人です。
    戦後の片山内閣では、復員庁総裁、賠償庁長官などを歴任し、ソ連抑留者の早期返還に努力しています。
    そして自身、小野派一刀流剣術宗家の剣の使い手です。

    彼は、幾度となくGHQに掛け合いました。
    なんとしても剣道の復活を期そうとしたのです。

    「剣道は相手に怪我をさせるとか殺すための武道ではない。
     一瞬にして相手に最小限のダメージを与え、
     しかも自分が悪かったと悟らせる。
     それが、剣道です」と笹森は主張しました。

    「そんなことはない。武道は闘いに勝つためのものだ。
     Martial Arts(軍事武道)だ。
     危険なものだ。」とGHQは反論しました。

    「それは違う! 断じて違う」

    では、なにが違うのか、証明して見せろ!ということになりました。
    単に勝つだけではない。相手を懲らしめ、悔い改めさせるものだ。神の教えにも通じるそんなことが現実にできるのか証明してみせろ、というわけです。

    相手には、米海兵隊にいる、めちゃくちゃ強い銃剣術の先生が選ばれました。
    かつてその先生に、誰も勝てた者はいない。
    その者と、実際に日本の剣道家を戦わせ、いかにして悔い改めさせようと言うのか、実践してみせろ、となったのです。

    ただし条件があります。

    米海兵隊の教官は、本物の剣を用いた銃剣を使います。
    もちろん対戦相手の日本人は、殺して構わない。

    日本側は、上にご紹介した竹刀競技用の柔らかな竹にやさしく布を巻いたものを使う。
    防具は着けさせない。

    「それでも良いか?」というGHQに、笹森は、もちろんOKだと答えます。

    日本側が負けたら、もはや剣道復活の見込みはありません。
    試合は、日本武道の誇りと名誉がかかった一戦です。
    絶対に勝たなければならない。

    相手の米海兵隊銃剣術教官は、銃、銃剣、徒手での格闘のすべてに通じた、海兵隊最強の男です。
    ガタイも大きい。
    喧嘩でも試合でも、これまで負けたことは一度もないという猛者です。
    当然、対戦する日本側も、剣術だけでなく、徒手でも強いことが求められます。

    この勝負、受けて立つに、誰かいるか・・・

    真剣になって考えた笹森の頭の中に、ひとりの武道家が浮かびます。
    それが、國井善弥師範でした。

    國井善弥は、鹿島神流(かしましんりゅう)の使い手です。
    鹿島神流とは、茨城県鹿嶋市にある鹿島神社に古くから伝わる「鹿島の太刀」を元とした古武術流派で、剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、手裏剣術を扱います。
    防御と攻撃は常に同時に行なわれ、剣は振りかぶらず一挙動に打つという特徴があります。

    國井善弥は、その宗家18代目で、実戦の大家です。
    これまでに、たくさんの腕に覚えのある武道家から他流試合を求められ、一度たりとも負けたことがない。
    武器を持たない柔道家や空手家、鎖鎌、大薙刀、棒術等の達人から、相手が望む通りの条件で試合を受け、全部勝っていました。
    世間は、その圧倒的な実力から「今武蔵」(昭和の宮本武蔵という意味)と呼んでいました。

    笹森は、國井善弥に、GHQ海兵隊教官との試合を依頼します。
    負ければ、國井はその場で命を失います。
    そして日本武道も、完全に破壊される。

    これはたいへんな仕事です。
    しかし、依頼を受けた國井は、二つ返事でこの試合を請けました。


    いよいよ試合当日がやってきました。
    國井が試合場にやってきます。
    なんの緊張感もありません。
    まるっきり普段通りです。
    衣服は、白の練習着です。

    米国の教官が、本物の銃剣を手にしました。
    國井が、やわらかな竹刀を手にしました。

    そして両者が、中央に歩み出ました。

    相手の海兵隊教官は、大柄です。
    手にしている銃剣も、通常のものより長くて大きい。

    試合場は緊張に包まれました。

    二人は、約3mの間合いをとって、相対しました。
    國井が、礼をして、竹刀を中段に構えようとした、そのとき、米教官は、銃剣を國井ののど元に向かって鋭く突きだしてきました。

    國井は、半歩さがってこの攻撃をかわしました。

    米教官は、そのまま突進を続けながら、銃剣を回転させて、國井の即頭部めがけて銃底を打ちつけようとしました。

    普通ならこれはかわせない攻撃です。
    カタイ銃底での即頭部殴打です。
    当たれば即死です。

    ところがその瞬間、國井は半歩前進して銃底をかわしながら、米教官の後頭部にやわらかく竹刀を当てると、そのまま教官の突進する力を利用して、教官を床に倒しました。

    教官が四つん這いになって床に手をつきます。

    國井は、そのまま教官の後頭部を、竹刀で押さえました。

    四つん這いになって、上から頭を体の内側に押さえつけられると、人間は身動きができません。

    「勝負あった!」


    すべてが一瞬の出来事でした。
    米教官は、素直に負けを認めました。
    國井は、いっさい相手と剣先を合わすことなく、敵を見事に制しました。

    それは、圧倒的な実力差でした。

    そして、剣道は、相手に怪我をさせたり殺害したりするものでなく、相手を制するものであるということも、立派に証明して見せたのです。

    しかも國井は、相手と一太刀も合わせていない。

    この事実は、米軍の間に、衝撃とともに伝えられました。
    そして米軍の間に、「日本剣道は、失うにはあまりにももったいない」という機運をもたらしました。

    そしてそのことが、後年、日本武道の復活となって、いまの剣道の存続につながります。

    ちなみに國井善弥は、道場に入門したての頃、先生からよく
    「ナニを持って来い、ナニもついでに」と指示されたそうです。

    「ナニ」と言われても、それが何かはわかりません。
    しかしこれは「相手の思っているところを察知する心眼獲得のための修業」だったのだそうです。

    先生の指示は、次第に「ナニをナニして、ナニをナニナニ」と、まさに暗号のようなものになっていったそうですが、國井は、かなりの確率で師の意思を掴むことができるようになったといいます。

    そしてこの修業が、立会いで相手の動きを事前に読みきる能力に活かされたといいます。

    この試合でも、國井は、相手の銃剣の先生の動きを事前に読んで、体の動きを捌き、相手を制しています。
    こういう動きは、長年の鍛錬の賜物です。

    おもしろいもので、日本古来の武道の、上級の練達者に倒されると、倒された側は、まったくと言ってよいほど、痛みを感じません。
    むしろ、倒れて抑え込まれていても、
    「あれ?俺はどうして倒れているのだろう?
     あれ?俺はどうして身動きができないのだろう?」
    と、キョトンとした状態になります。

    まさに柔よく剛を制すですが、相手が力が強く、攻撃の勢いが強ければ強いほど、簡単に相手が倒されてしまいます。
    まさに日本武道、恐るべしです。

    國井善弥のこの試合は、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いになぞらえて、昭和の巌流島と呼ばれました。
    これも、忘れてはならない日本の歴史のヒトコマだと思います。


    GHQから武道を守った男⁉︎ 昭和の武蔵 国井善弥


    ※この記事は2010年2月の記事のリニューアルです。
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    《倭塾の日程》
    【開催を予定しておりました1月22日(土)の倭塾は、都合により2月に延期になりました】
    2022年2月23日(水・祝)13:00〜16:30 第89回倭塾 タワーホール船堀4F401号室
     https://www.facebook.com/events/579487736653084


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    豪勇無双な武士(もののふ)として知られる我が国の武人。
    彼らは、ひとえに情を知る者たちでもありました。
    なぜなら武人といえども高い教養を持っていた。
    それこそが日本の原風景です。

    寒椿
    20180118 寒椿
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    治承8年2月のことです。
    いまでは神戸(こうべ)と呼ばれているかつての福原(ふくはら)の地でのこと。
    人馬が越えることができない鵯越(ひよどりごえ)て進んできた源義経の一行70騎、一ノ谷にあります平家の陣営の裏手にあります崖の上から、一気に平家一門に襲い掛かります。

    一方、この月のはじめに後白河法皇から源氏との和平の勧告を受けていた平家一門、戦いを避けようとして海上に浮かぶ船の上に逃れて行く。

    このとき少し遅れて船に戻ろうと、海に馬で4〜5段乗り入れていた平敦盛(たいらのあつもり)、練貫(ねりふき)に鶴を刺繍(ししゅう)した直垂(ひたたれ)に、萌黄匂の鎧(よろい)に身を包み、鍬形(すきがた)に打った兜(かぶと)の緒を締めて、黄金つくりの大刀を腰に穿(は)き、切斑(きりまだら)の矢立を背負って、滋藤(じふじ)の弓を手に持つという、美しい姿です。

    その様子を見つけたのが、源氏の猛将・熊谷直実(くまがいなおざね)、扇をあげて呼び止めると、
    「あれは大将軍(だいしょうぐん)とこそ
     見参(みまいら)せ候(そうら)へ。
     卑怯にも敵に後ろを見せさせたもうものかな。
     返させたまえ!」と声をあげた。

    このように言われ、背中を見せるは武門の恥。
    やむなく取って返した熱盛を、熊谷直実、馬の上から組み落とし、首を斬ろうと兜を上に持ちあげる。
    すると。
    そこにあったは、数え年16〜7歳(いまの15〜6歳)の美少年。
    顔には薄化粧、歯にはお歯黒を染めている。
    見れば、我が子と同じ年頃の少年です。

    直実「さてはどのような御方であるか、
       お名乗りくだされば、
       お命、お助け参らせん」
    敦盛「汝(な)は誰(たれ)そ」
    直実「物の数に入るような者ではありませぬが、
       武蔵の国の住人で、
       名を熊谷次郎直実と申す者。」
    敦盛「ならば、汝(な)には名乗るまい。
       汝がためには良い敵です。
       名乗らずとも首をとって人に問え。
       きっと私を見知る者がいるであろう。」

    これを聞いた熊谷直実、
    (さてもさすがは大将軍。
     いまこの子を討ち取るも、
     すでに勝敗あきらかなり。
     いまさら源氏が負けるというものでもない。
     我が子・小次郎が軽症を負ってもつらく思うのに、
     この殿の父が、
     我が子討(う)たれたと聞いたなら
     どれほどお嘆きなることか。
     ええい、ここはお命、お助け参らそう。」

    そのように思って後ろを振り返ると、土肥、梶原らが50騎ほどでやってくる。
    直実、こみあげる涙を抑えると、

    「貴公をお助けしたいと存ずるが、
     我軍、雲霞の如く続いています。
     もはや逃げるはかなわぬこと。
     人の手にかけられるよりは、
     我が手におかけ申して、
     後のご供養をいたしましょう」

    敦盛「ただ疾(と)く疾く、首を取りまいらせよ。」

    日頃豪勇を持って鳴るさしもの熊谷直実も、その言葉あまりにいとしく、もはやどこに刃を立ててよいかもわからない。
    それほどまでに前後不覚になってしまったけれど、さりとてそのままでいるわけにもいきません。
    やむなく、泣く泣く首を斬って落とします。

    「ああ・・・、
     弓矢を取る身ほど嫌なものはない。
     武家に生まれなければ、
     このように辛(つら)い目に遭うこともなかったろうに。
     情けなくもお討ち申したものだ」

    と、このように繰り返しながら、袖に顔を押し当てて、さめざめと泣いてしまいます。

    すこし経って直実が、鎧直垂(よろいひたたれ)を取って首を包もうとすると、錦の袋に包んだ笛が、腰に挿してありました。

    「いとしいことです。
     先だっての明け方に城の内で管弦されていたのは、
     この人たちであったのでしょう。
     いま、味方に東国の武者が何万騎あろうとも
     戦陣に笛を持ち込む人はよもやあるまい。
     貴公子は、なおもおやさしい。」

    そう言って首を義経に見せたところ、その場にいた誰もが涙を流したといいます。

    あとに聞けばその首は、平修理太夫経盛の子の太夫敦盛(あつもり)17歳とわかりました。
    くだんの笛は、笛の名手であった祖父の平忠盛が、鳥羽院から御拝領の笛で。
    経盛が受け継いだものを、敦盛が才能があるということで、お持ちになっていたという。

    その笛の名が「小枝(こえだ)」。

    これより後、熊谷直実の出家への思いはつのり、剛勇で知られた直実は、法然上人もとで出家して蓮生(れんしょう)と号して、幾つもの寺を立てて行きました。

    冒頭の写真は、寒椿です。
    寒い冬に鮮やかな紅い花を咲かせる寒椿は、室町後期に書かれたとされる『平家花揃』で、平敦盛(たいらのあつもり)に例えらました。
    花言葉は、『謙譲』そして『愛らしさ』です。

    なみいる源氏の武将たちといえば、豪勇無双な武士(もののふ)どもと思われがちです。
    けれど我が国の武人は、ひとえに情を知る者たちでもあったのです。
    なぜなら武人といえども、高い教養を持っていた。
    それこそ日本の原風景です。

    トップの写真は寒椿(かんつばき)です。
    寒い冬に鮮やかな紅い花を咲かせる寒椿は、室町後期に書かれたとされる『平家花揃』で、平敦盛(たいらのあつもり)に例えらた花でした。
    『平家物語』から、敦盛の段、続きはまたの機会といたします。


    ※この記事は2018年1月の記事のリニューアルです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
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《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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