• 乃木大将をマサダ砦の戦いから考える


    8月14日(土)に靖國神社昇殿参拝を行います。
    受付開始は13時から。靖國神社参集殿正面入口前です。お志のある方、どなたでも参加可です。皆様のご参加をお待ちします。
    詳細は → https://nezu3344.com/blog-entry-4963.html

    幼年時代の裕仁親王殿下は、御進講にやってきた乃木大将に、「院長閣下は、どこか遠いところへ行かれるのですか?」とお尋ねになられました。それを聞いた瞬間、乃木閣下は、顔を滂沱の涙で濡らしたそうです。そして翌日、乃木閣下は奥様の静子とともに明治天皇のお側に旅立たれました。享年六十二歳でした。

    20210724 乃木大将
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    十九 マサダ砦と旅順要塞・・・乃木希典

    ▼乃木大将
     乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将は、明治日本を代表する日本の陸軍軍人で、日露戦争における旅順要塞戦(りょじゅんようさいせん)を勝利に導き、幼年時代の昭和天皇の教育係をお勤めになられた方でもあります。東京港区の乃木坂の名前の由来も乃木将軍からいただいています。

     長州藩の武家の出で、生まれは江戸にある藩の上屋敷(かみやしき)でした。幼名は「無人(なきと)」と言いましたが、虚弱で泣き虫だったため近所の子らから「泣き人(と)」とあだ名されました。そんな我が子に、ある冬の朝、無人少年がひとこと「寒い」と言ったことから、父は彼を井戸端(いどばた)に連れていき、冷水を浴びせました。戦前の国定教科書に載っていた話です。乃木大将がまだ七歳だったときのことでした。その父は藩の跡目(あとめ)相続紛争に巻き込まれて閉門(へいもん)減俸(げんぽう)処分となって国に帰らされるのですが、故郷に帰って元服しても無人少年は、相変わらず泣き虫であったといいます。それでも無人少年は、学者になることを志(こころざ)して、家を出て藩校の明倫館(めいりんかん)に入り、一生懸命に努力して剣術も目録伝授の腕前にまで上達しました。

     そして明治維新の戊辰戦争を戦い、明治新政府の陸軍教官となり、明治四年に名を「希典(まれすけ)」と改めています。そして福岡の秋月藩の反乱、西南戦争を戦ったあと、薩摩藩医の娘であった静子と結婚しています。その後日清戦争では、当時の旅順要塞を一日で陥落させるという武功をあげ、戦後処理で台湾が日本の領土に編入されたときに三代目の台湾総督となり、明治三十七年《一九〇四年》、日露戦争の勃発(ぼっぱつ)により、第三軍の司令官《大将》として戦地に赴任(ふにん)しています。

     乃木大将は、戦前戦中までは、我が国の子たちの「尊敬する人物」で、常にベスト3に入っていた人物です。けれど戦後司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」が、乃木大将が担当した日露戦争の旅順要塞戦《日清戦争のときの旅順要塞戦とは異なる》において、およそ四ヶ月半の戦いで勝利はしたものの一万五千を越える戦死者を出したことから、乃木大将は歴史上稀(まれ)に見る無能な将軍とのレッテルが張られて、今日(こんにち)に至っています。
     しかし旅順要塞戦は、小説が規程(きてい)したような、生易(なまやさ)しい戦いではなかったのです。

    ▼要塞戦のおそろしさ
     要塞(ようさい)は、戦略上重要な拠点を確保するために築く恒久的な軍事建造物です。高度な耐久性と防御力を有し、まさに難攻不落に築城することから、「陣地」と区別して「要塞」と呼ばれます。もちろん「城」とも異なります。城は行政機能を持つけれど、「要塞」はそれを持たないからです。
     築かれる場所は戦略的要衝(ようしょう)でから、当然そこは激戦地となります。

    「セヴァストポリ要塞」という有名な要塞があります。ここは黒海の北側に面し、アゾフ海と分かつ戦略上の要衝地です。この要塞は、安政元年《一八五四年》から安政三年《一八五六年》に行われた「クリミア戦争」と、昭和十六年《一九四一年》からはじまる第二次世界大戦と、二度に渡る大激戦が行われています。

     まず「クリミア戦争」ですが、この戦争はヨーロッパでは、ナポレオン後に起こった第二次世界大戦に匹敵する大戦争とされています。なにしろフランス、大英帝国、オスマン帝国、サルデーニャ王国と、とロシアが戦い、戦火は、ドナウ川周辺、クリミア半島、からカムチャツカ半島にまで及んだのです。そしてこの戦争で最大の激戦が行われたのが「セヴァストポリ要塞戦」でした。

     当時、ロシアの黒海艦隊は、セヴァストポリを根拠地としていました。当時の戦闘艦隊は蒸気船です。海に出れば無敵の艦隊でも、港に停泊したら次に出航するまで、釜を焚(た)いてエンジンが暖まるまで、ものすごく時間がかかりました。また当時の大砲にはジャイロスコープが付いていませんから、揺れる船からの砲撃は命中しにくい。けれど陸上からの砲撃は正確です。つまりロシアの黒海艦隊は、稼働中は超強力だけれど、停泊中に攻められたら、あっという間に艦隊が全滅してしまう危険があったのです。そこでこの艦隊を守るためにロシアが築いたのが、難攻不落のセヴァストポリ要塞でした。

     セヴァストポリ要塞は、要塞そのものがあらゆる砲撃に耐えうる堅牢な造(つく)りであることに加え、周囲に数千のトーチカがはりめぐらされ、万一敵がそのトーチカ群を突破して要塞に達したとしても、要塞内部にに二重の堀がめぐらされ、その掘には、上向きの槍を連ねた落とし穴まで用意されていました。しかも要塞内部は迷路状になっていて、迷路に迷った敵兵は、壁から繰り出される銃弾で、全滅させられるようになっていました。つまり、セバストポリは、難攻不落の要塞だったのです。

     安政元年《一八五四年》十月十七日に、英・仏・オスマン帝国の連合軍十七万五千が襲いかかりました。ロシアの要塞守備隊は八万五千です。背後に海を控えていることから、ロシア守備隊は後背から補給を得ることができましたし、ロシアの黒海艦隊も、敵に向かって艦砲射撃を繰り返すことができました。これに対し連合軍は、砲撃と歩兵突撃によって、トーチカをひとつひとつ奪い、徐々に要塞に迫りました。

     そして戦いは、ほぼ一年にわたって続きました。最終的に要塞が落ちたとき、連合軍側の死者は十二万八千名、ロシア側の死者十万二千です。両軍合わせて、なんと二十三万人の死者が出ています。繰り返しますが、要塞ひとつに二十三万人です。青年期の男たち二十三万人の死というのは、百万都市ひとつの壊滅に等しい。要塞戦というのは、それほどまでに過酷なものなのです。

     二度目のセヴァストポリ要塞戦は、クリミア戦争の八十七年後の昭和十七年《一九四二年》六月、ナチス・ドイツと、ソビエト連邦との戦いとして行われました。ソ連はセヴァストポリ要塞を、当時考えられるあらゆる方法を用いて、世界最強の要塞として防備を厚くしていました。そこにナチス・ドイツのクリミア半島の制圧を任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる第十一軍がやってきました。

     エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥という人は、第二次世界大戦における世界の陸将の中で、最も有能な将帥の一人として知られている人です。彼は西方電撃戦の立案者でもあり、クリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、スターリングラード攻防戦後に優位に立ったソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させている人物です。また総統のヒットラーに対してもはっきりと意見を開陳する数少ない将軍であり、その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、タイム誌でも醜悪な顔に描かれることなく、常に毅然とした顔で表紙を飾り「我らの最も恐るべき敵」と評された、そういう人物です。その世界の陸将のなかでもとびきり優秀とされるマンシュタイン元帥が、ナチス・ドイツの超精鋭である第十一軍を率いて、セヴァストポリ要塞を囲んだのです。

     囲を受けたソ連軍は、セヴァストポリの防衛のため、黒海艦隊から海軍陸戦隊をケルチ半島に上陸させる。ソ連上陸部隊は、クリミア半島東端のケルチにいたドイツ歩兵師団を包囲し、これに対して猛攻撃を加える。放置しておいたらケルチ歩兵師団は全滅し、セヴァストポリ包囲隊は、退路を断たれてしまうからと、マンシュタイン元帥は、セヴァストポリの包囲を解いて反撃に出る《トラッペンヤクト作戦》。ソ連軍は両側を海に挟まれた細長い地形を利用し、何重もの防衛線をひいて、これを阻止する。八か月もの長きにわたって続いたこの戦いで、ソ連は十七万の兵士を失いましたが、それでもここまでは通常の陸戦であり、セヴァストポリ要塞戦の前哨戦でしかなかったのです。

     昭和十七年《一九四七年》六月七日、ドイツ軍は再びセヴァストポリを包囲します。これを待ち構えたソ連軍は、要塞の守備のために多数の巨大砲塔を要塞北面の据え付けて待ち構えていました。この砲塔は戦艦の主砲を陸上に設置したもので、地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられており、しかも周囲にはトーチカ群が設けられており、いっさいの敵を寄せ付けないつくりとなっていました。砲弾の威力は、要するに艦砲射撃そのもので、人間の背より高い巨大な炸裂弾(さくれつだん)が、ドイツ軍に雨のように降り注ぎました。しかも海上からの砲撃と異なり、固定した陸上からの砲撃は、狙いが正確です。離れて包囲すれば巨大砲弾にやられ、近づいて爆破しようとすれば、群がるトーチカ群からの機銃攻撃によって射殺される。

     マンシュタイン元帥は、近隣から新旧・大小問わず千三百門もの大砲をかき集めて猛砲撃を加えます。さらにドイツ本国から八十cmの「列車砲(れっしゃほう)グスタフ」を持ち込む。グスタフは鉄道のレールの上に設置する直径八十センチ、口径四〇センチの巨大砲で、最大射程四十七キロです。列車砲ですから旋回できないという問題はあるけれど、マンシュタインは鉄道のレールそのものをゆるやかにカーブさせることで、射角を確保しています。

     戦艦から取り外した主砲を陸上に備え付けた「巨大砲」対「グスタフ列車砲」の戦い。巨大砲弾が飛び交う砲撃船で、砲塔の移動が可能なドイツ列車砲が、次第に威力を発揮します。マンシュタイン元帥は、グスタフ砲で開けた突破口から、短射程の砲を突入させてトーチカを破壊、そこに歩兵を突入させるという方法で、しらみつぶしにひとつひとつの敵陣地を撃破します。さらにロケット砲によるトーチカ攻撃、さらには急降下爆撃機による空襲も加え、周辺のソ連巨大砲塔軍に戦いを挑みます。この攻撃はまる五日間も続き、これによってマンシュタインの第十一軍は、セヴァストポリ要塞北面のソ連軍陣地を全て破壊します。

     そしていよいよセヴァストポリ要塞に迫る。戦うこと二週間、セヴァストポリ要塞は陥落しました。この戦いに、ナチス・ドイツが投入した兵力は三十五万人以上です。そして戦死者は、この戦いだけで十万人以上です。三十五万人を投入して、兵の三分の一が死亡したのです。要塞戦というものは、それほどまでに過酷なものなのです。

     もうひとつ、忘れてはならない要塞戦をご紹介します。フランスの「ベルダンの戦い」です。
     この戦いは、第一次世界大戦の最中の大正五年《一九一六年》二月二十一日に始まり、両軍合わせて七十万人以上の死者を出した戦いです。戦ったのはナチスになる以前のドイツ帝国軍とフランス軍です。

     ドイツ帝国軍は重砲八百八門、野砲三百門でベルダン要塞に猛烈な砲撃を加えました。午前七時から始まったこの砲撃は、午後四時まで、まる十時間も続けられました。それが一箇所の要塞に向けて行われたのです。

     そして正面から歩兵が突撃しました。通常、歩兵部隊の突撃は、敵前百メートルの位地から行います。ところが、このときのドイツ帝国軍は、これを五百メートルの位地から行いました。さらに横方向からも蚕食的な攻撃を行う。これにより、翌日にはドイツ軍はフランス軍第一陣地の三拠点を奪い、翌日には隣接する両翼の二拠点を奪い、四日目には第二陣地を突破し隣接する数拠点を占領しました。そして第三陣地の一部であるドォーモン堡塁(ほるい)を占領する。

     初戦の敗退に危機感を抱いたフランス軍は、二十二日、第二線師団を招いて逐次(ちくじ)第一線師団と交代(こうたい)させ、新鋭部隊でドイツ軍に対抗します。さらにベテランのペタン将軍を招いて戦意を向上させ、徹底抗戦を図ります。両軍はミューズ川をはさんで激しい争奪戦を行いました。六月七日、ついにドイツ帝国軍がヴォー堡塁を占領するけれど、増援にやってきた英国軍がドイツ軍の背後をうかがうようになる。

     八月にはいると、フランス軍が反転攻勢に出て、十月二十四日と十二月十五日の総攻撃で、フランスは、ドォーモン堡塁とヴォー堡塁などの失地を回復します。

     このベルダンの戦いにおける死者は、フランス軍三十六万二千人、ドイツ軍三十三万六千人、合わせて六十九万八千人です。近代戦における要塞戦というものは、かくもすさまじい戦いなのです。

     そして、ソ連のスターリンが、ご紹介した「セヴァストポリ要塞を六つ合わせたほどの堅牢な要塞」と評したのが、旅順要塞だったのです。乃木大将はそんな旅順要塞を、わずか五万の兵力、一万五千の損耗で制圧したのです。これは世界の陸戦史上、ありえない戦闘だったのです。日本国内の戦後の小説がどうあれ、世界の陸戦史では、乃木大将は、間違いなく世界の陸戦史に残る名将なのです。

     乃木大将の功績は、ただ戦いの勝利にとどまりません。旅順要塞の降伏調印式に際して、破れた側のロシア側の将軍ステッセルに帯剣(たいけん)を許して、将軍の名誉の保持を図りました。さらに一万五千の死者を追悼するために、全国の神社に「忠魂碑 希典」と書いた石碑を寄贈し、さらに石碑の後ろ側にはその地元で日露戦争で戦没した兵士たちの名を、全員刻(きざ)まれました。さらに乃木大将は、自費で戦傷によって腕を失った兵のためにと、たいへんな義手をこしらえられています。

     実は乃木大将ご自身が戦傷者でした。左目は事情あって幼い頃に失っていましたが、激しい戦闘で片腕、片足に銃創を負い、不自由な体となっていました。その乃木将軍は日露戦争のあと、
    「私は片手、片足が残っているからまだ良い。食事もできるし、タバコも吸える。けれど戦争で両手を失った者は、一服の清涼剤としてのタバコも吸えぬのは、あまりに可愛そうだ」と、ご自分の年金を担保に入れてお金をつくり、ご自身で試行錯誤の上、ついに、モノを掴んだり、持ち上げたり、食事やタバコまで吸うことができ、字や絵も描ける、そんな、まさに夢のような義手を完成させて、腕を失った元部下たちに無償で配っています。

     このようなことを申し上げると、現代の最先端の医学でさえ困難なのに、そのような大昔に、そんなすごい義手などできるわけがない、とみなさんは思われると思います。筆者も最初に話を聞いたときは、そう思いました。ところがそのレプリカが、東京九段下の「しょうけい館」にあるという。そして「本当かウソか、ご自分で実際にやって試して御覧なさい」というので、その「乃木式義手」を実際に装着させていただきました。するとどうでしょう。豆はつまめる。モノは持てる。そしてなんと、字や絵まで、付けた直後から書けてしまうのです。これには驚きました。

     現代の最先端の義手は、筋電義手(きんでんぎしゅ)といって、コンピューター制御によって、卵をつかんだり、握手をするまでは可能です。けれど、文字を書いたり「タバコを吸ったり」といった、微細な動きは、まだできていないのです。それを何と、百年以上もの昔に、しかも私費で作って配布していたのです。

     原理は非常に簡単で、竹製のヘビのおもちゃの要領で左右には曲がるけど、上下には曲がらないという仕様を、上腕を動かすことで実現し、字を書いたり、豆を掴(つか)んだりすることができるようにしています。これを機能式義手と言います。そして機能式の義手や義足は、いまではパラリンピックの選手たちが用いています。それらの義手義足は、見た目は健常者の姿と違いますが、健常者以上のパワーを発揮することができるような仕様になっています。

     開発した乃木大将は、特段その道の専門家ではありません。では、どうして乃木大将にそのようなことができたのかといえば、戦いで傷ついた部下たちに「タバコの一服が吸えるようにしてあげたい」という、あたたかな愛情があるがゆえのことです。幼い頃、泣き虫のイジメられっ子だったがゆえに、乃木大将は逆に大人になったとき、弱い者、傷ついた者の気持ちがわかる大将軍となったのです。

    ▼院長閣下はどこか遠いところへ行かれるのですか?

     大正元年《1912年》、学習院の院長となっていた乃木希典は、明治天皇の御大葬の前々日、願い出て参内し、まだ幼年だった昭和天皇《当時は裕仁親王殿下(ひろひとしんのうでんか)》に、大切なところに朱点をした山鹿素行(やまがそこう)の『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』の御講義をなさいました。

     乃木のただならぬ気迫と様子に、裕仁親王殿下は、
    「院長閣下は、どこか遠いところへ行かれるのですか?」とお尋ねになられました。
    それを聞いた瞬間、乃木閣下は、顔を滂沱の涙で濡らしたそうです。そして翌日、乃木閣下は奥様の静子とともに明治天皇のお側に旅立たれました。

    享年六十二歳でした。


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    20200401 日本書紀
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  • 二万のユダヤ人と北海道を救った樋口季一郎陸軍中将


    8月14日(土)に靖國神社昇殿参拝を行います。
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    北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島(しゅむしゅとう)を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。

    20191121 晩年の樋口季一郎



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

     樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で二万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の五百万の人口を守った昭和の名将です。

    ▼樋口季一郎中将

     樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は明治二十一年《一八八八年》年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋(かいせんどんや)で、大地主の奥濱久八(おくはまきゅうはち)の長男として生まれました。ところが廻船問屋は明治になって蒸気船に押されて衰退(すいたい)。家業が衰退に向かった結果、十一歳のときに両親が離婚。母・まつの実家に引き取られてすごしました。
     樋口季一郎は優秀な子でした。三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、十八歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正七年《一九一八年》には陸軍大学を卒業しています。卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。

     ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。大正十四年《一九二五年》に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。

     昭和十二年《一九三七年》八月、樋口季一郎は関東軍に特務機関長として赴任しました。ここで同年十二月に、ハルビンで内科医をしていたハルビンユダヤ人協会の会長のアブラハム・カウフマン博士《一八八五〜一九七一》の訪問を受けました。カウフマン博士は、
    「ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催をしたいから許可してほしい」と申し出ました。ドイツが猛然と力を発揮していた時代です。けれど樋口季一郎は、これを即決で許可しています。

     十二月二十六日、第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。ゲストとして招待された樋口季一郎は、次の演説を行いました。
    「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何(いづ)れの場所においても『祖国なる土(つち)』を持たぬ。如何(いか)に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人がその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比(ひ)し、劣(おと)ることなき才能と天分(てんぶん)を持っていることは歴史がそれを立証している。
     然(しか)るに文明の花、文化の香り高かるべき二十世紀の今日(こんにち)、世界の一隅(いちぐう)おいて、キシネフのポグロム《注》が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心(ちゅうしん)悲しむものである。
     ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞(どうほう)であるべき人々を追放するという。それを何処(いずこ)へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示(めいじ)し、あらかじめそれを準備すべきてある。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃(やいば)を加えざる虐殺(ぎゃくさつ)に等(ひと)しい。私は個人として、心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
    会場は、万雷の拍手に包まれました。

    《注》キシナウのポグロムとは一九〇三年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。

    ▼オトポール事件
     それから三カ月も経たないうちに起きたのが「オトポール事件」です。
     昭和十三年《一九三八年》三月、ソ連と満州国の国境付近の、気温がマイナス二〇度にもなる極寒のオトポール駅に、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らは着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出した人々でした。旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にありました。
     満州国外交部は、ドイツに遠慮して彼等の入国を拒否しました。これを救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎でした。

     オトポール事件については、樋口季一郎の回想録に詳しく書かれています。
    「満州国(まんしゅうこく)は門戸(もんこ)を閉じた。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯(たむ)ろしている。もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら《ユダヤ難民》の進退は極(きわ)めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも、彼らの通過を許している。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業(ばんみんあんきょらくごう)』を呼号(こごう)する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか」

     この当時、日本は日独防共協定を結んでいましたが、ドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象にしていました。つまり日本がユダヤ人を保護すれば、ドイツはこれを外交上の問題とすることは明らかな状況でした。樋口季一郎はこれを「政治上の問題」ではなく「人道上の問題」とすることで、ユダヤ人を保護しました。

     南満州鉄道の総裁だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、樋口に相談されて直ちに救援列車の出動を命じました。オトポールに近い南満州鉄道の満州里駅は、ハルピンから九百キロ後方にありました。このため列車の本数が少なく臨時列車の派遣が必要であったためです。

     三月十二日、ハルピン駅に最初の列車が到着しました。ハルピン在住のユダヤ人たちがこれを出迎えました。
    彼らは同胞の救出をことのほか喜びました。この特別臨時列車はその後、合わせて十三本運行されました。救われたユダヤ難民は約二万人と伝えられています。救われたユダヤ難民たちは上海に、あるいはアメリカへと旅立って行きました。

     樋口季一郎のこうした対応は、当然ながら外交問題に発展しました。樋口季一郎は一市民ではありません。関東軍の将軍です。ドイツのリッべントロップ外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送りました。
    「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携が日に濃厚を加えつつあることは欣快(きんかい)とするところである。然(しか)るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将(当時)が、ドイツの国策を批判し誹謗(ひぼう)しつつありと。もし然(しか)りとすれば、日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請(こ)う。速(すみ)やかに善処(ぜんしょ)ありたし」

     これに対して樋口季一郎は次の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送しています。
    「私の行為は決して間違っていない。法治国家として当然のことをしたまでである。満州国は日本の属国ではない。ましてドイツの属国でもない。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」

     関東軍司令部に出頭を命じられた樋口季一郎は、参謀総長だった東条英機に会いました。
    「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?」
    そう聞く樋口季一郎に、東条英機は樋口季一郎の意見を全面的に受け入れる決断をしました。

     オトポール事件は、日本国内の新聞では記事になっていません。樋口季一郎の家族でさえ、その死後に事態を知っています。このときの樋口季一郎の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは著作の中で次のように述べています。
    「樋口は世界で最も公正な人物の一人である。
     そしてユダヤ人にとっての真の友人である。」

    ▼キスカ島撤退
     昭和十八年《一九四三年》、北方軍司令官として札幌にいた樋口季一郎は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還(きかん)させるべく大本営(だいほんえい)に談判(だんぱん)し、奇跡(きせき)の撤退(てったい)を成功させました。

     キスカ島は北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。島には日本側の守備隊六千名が残留していました。二ヶ月前には、キスカ島よりも手前にあるアッツ島で、島の守備隊二、六五〇名が玉砕(ぎょくさい)したばかりでした。
     樋口季一郎は木村昌福(きむらまさとみ)海軍中将にはかり、キスカ島守備隊の撤退作戦を行いました。これを「ケ号作戦」といいます。ちなみに、「ケ」というのは、日本軍が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「ケ」は「乾坤一擲(けんこんいってき)」という意味です。

     キスカ撤退作戦は、最初、潜水艦で行われました。この時点で日本海軍は、ソロモン方面の作戦で多数の駆逐艦を失っていたため、これ以上の艦の損耗(そんもう)を避(さ)けたかったのです。
     昭和十八年《一九四三年》六月、十五隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約八百名が後送されました。また守備隊には、弾薬百二十五トン、糧食百トンを輸送することに成功しました。しかし潜水艦が米軍の哨戒網(しょうかいもう)に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦で、「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦では、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」を失なっています。

     成果の割に、損害が多いのです。あまりに効率が悪い。このままでは、全軍の撤退は不可能です。樋口季一郎は、海上に深い霧がかかる7月中に、艦船で撤退作戦を実行するよう、木村海軍中将にはかりました。八月になると霧がなくなり、撤退作戦は不可能になるからです。

     キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があります。制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機がありました。ただ、この当時はまだ目視飛行の時代です。濃霧が発生していれば空襲の危険を避けることができる可能性が増えます。そしてこの頃にはまだ、濃霧の中で空襲をかけることができる航空機は、世界中どこにもなかった時代でした。樋口季一郎は、そこに一縷(いちる)の望みを賭けたのです。こうして二度にわたる潜水艦作戦は打ち切られ、キスカは水上艦艇による第二次撤退作戦となりました。

     七月十日、アムチトカ島五百海里圏外に集結した撤収部隊は、一路キスカ島へ向かいました。Xデーは十二日と決めてありました。
     全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまいました。全艦、いったん突入を断念する。近海の濃霧に隠れて、決行予定日を十三日に変更しました。

     しかし十三日、十四日、十五日と霧が晴れ、突入は断念せざるを得なくなりました。やむなく木村海軍少将は、十五日午前八時二〇分、一旦突入を諦(あきら)めて帰投(きとう)命令を発しています。燃料が底を尽きはじめてしまったからです。
    「帰れば、また来られるからな」
    それが、このときの木村中将の言葉でした。こうして撤収部隊は、十八日に一旦幌筵(ほろむしろ)の基地に帰投しました。

     手ぶらで根拠地に帰ってきた木村海軍少将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、「何故、突入しなかったか!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」と、帰投した木村海軍少将に轟々(ごうごう)たる非難が浴びせられました。「腰ぬけ!」とまで罵(ののし)られました。更迭(こうてつ)の話も出ました。しかし樋口季一郎は、
    「この作戦は、木村でなければならぬ」と、これを一蹴(いっしゅう)しています。

     あと半月で八月になります。八月にはもう霧が出ません。霧が晴れれば、米軍のキスカ攻撃が始まります。そうなれば、キスカの撤収作戦はありえず、キスカ島守備隊は全滅を免(まぬが)れません。一方で、この地域に備蓄していた海軍の重油も底を尽き始めていました。作戦はあと一度きりしか行えない。

     帰投して四日目の七月二十二日、幌筵島(ほろむしろとう)の気象台から、「七月二十五日以降、キスカ島周辺に濃霧発生」との予報がはいりました。最後のチャンスがやってきたのです。木村海軍少将は予報を聞くと同時に、全艦隊に出撃命令を発しました。
     ところが期待の霧が、あまりに濃い。出航が各艦まちまちになったうえ、洋上で三日後の七月二十五日には、「国後(くなしり)」を除く艦隊がいったん集結できたのですが、翌二十六日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如(とつじょ)出現して、「阿武隈(あぶくま)」の左舷(さげん)中部に衝突(しょうとつ)してしまいます。この混乱で「初霜(はつしも)」の艦首が「若葉」右舷に衝突。弾(はず)みで艦尾が「長波(ながなみ)」左舷に接触してしまう。損傷が酷(ひど)かった「若葉」は、艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまいます。

     残った船で、キスカ近郊で待機した七月二十八日、艦隊の気象班が、「翌二十九日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」と予報しました。
    「全艦突入せよ」
    木村海軍少将が命じました。

     艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿ってゆっくり進みました。七月二十九日正午、艦隊はキスカ湾に到達しました。濃霧です。湾内では、座礁や衝突の危険もありました。ところがこのとき、神風が起きました。一陣の風が吹いて、湾内の濃霧をきれいに吹き飛ばしてくれたのです。
     十三時四十分、晴空のもとで艦隊は投錨し、待ち構えていたキスカ島守備隊員五千二百名の収容にとりかかりました。持っている小銃は、全部投棄させました。身軽にして輸送行動を速めるためです。そしてなんと、わずか五十五分という驚異のスピードで、全員を艦内に収容し、収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させて、直ちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱しました。

     艦隊が湾を離れた直後、キスカ湾は、ふたたび深い霧に包みこまれました。それは、まさに神が降ってきたとしかいいようがない収容作戦でした。こうして七月三十一日、無事、全艦、幌筵に帰投しています。


    ▼占守島(しゅむしゅとう)の戦い
     昭和二十年《一九四五年》八月十八日。陛下の玉音放送(ぎょくおんほうそう)の三日後のことです。北海道占領を目的として、ソ連軍が突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。その兵力、およそ八千。同時にスターリンは、千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。

     司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、濃霧の中隊員に訓示しました。
    「諸士、ついに立つときが来た。
     諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如く、この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙(あ)げよ」

     八月二十二日まで続いた戦いの結果、ソ連は三千人もの死傷者を出して敗退しました。一日占守島を占領する計画も水疱(すいほう)に帰しました。大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。

     こうして北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。




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    戦乱の中で二十二歳の若い命を散らせた中野竹子。その姉の首を掻ききった十六歳の妹の優子。
    会津の戦いで傷ついた兵士の介抱をし、さらに会津の教育再生と福祉に生涯を捧げた瓜生岩子。
    こうした存在が生まれた背景には、やはり当時の徳の高い教育があったのではないかと思います。

    20210722 中野竹子
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     慶応四年《一八六八年》、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いにより戊辰(ぼしん)戦争が勃発(ぼっぱつ)しました。八月二〇日、会津(あいず)城下を目指した新政府軍は、待ち受ける会津藩の裏をかいて藩境(はんざかい)の母成峠(ぼなりとうげ)から侵攻し、激戦「母成峠の戦い」が行われました。会津藩は、新政府軍が表街道に主力を配備、裏街道にあたる母成峠には、戊辰戦争の初期から転戦してきている播磨(はりま)の赤穂藩(あこうはん)出身の大鳥圭介(おおとりけいすけ)率(ひき)いる伝習隊(でんしゅうたい)を中心とした七〇〇のみを配置していたのです。板垣退助率いる新政府軍の主力部隊二千が殺到しました。

     峠(とうげ)の下で行われた前哨戦(ぜんしょうせん)では、新政府軍の銃撃の前に会津藩兵が潰走(かいそう)するけれど、大鳥圭介率いる戦い慣れた伝習隊と新撰組が戦いを白兵戦(はくへいせん)にもちこみ、新政府軍を敗退させています。

     翌日早朝、濃霧の中を新政府軍は、本体と右翼隊にわかれて峠を目指しました。大鳥圭介は兵力を縦深の陣地に配備し、新政府軍の本体を峠の坂道に誘い込んで白兵戦で新政府軍本体に壊滅的な打撃を与えました。ところがそこに新政府軍が右翼から銃撃を開始する。数にまさる新政府軍本体は、この側面攻撃で勢いを巻き返します。夕方頃にはほぼ勝敗が決し、峠は新政府軍に制圧されてしまう。

     潰走した伝習隊の生き残りたちは、猪苗城(いなわしろじょう)に撤退(てったい)します。しかし城代の高橋権大夫(たかはしごんだゆう)は、少数で小城(こじろ)を護(まも)るより、若松城で殿をお守りするのだと、城に火を放って若松へ向かいます。伝習隊はこれを援け、道中に火を放って敵の進軍を遅らせました。

     八月二十三日、会津藩若松城下に敵侵入の早鐘が鳴り響きました。この日、中野竹子(なかのたけこ)《二十二歳)は、妹の優子《十六歳》らとともに若松城に駆(か)けつました。しかしすでに城門は閉ざされ、彼女たちは入城させてもらえません。そこへ藩主松平容保公の姉、照姫様が会津坂下の法界寺においでになるとの報がもたらされました。

    「照姫様をお守りしなければ!」
    日ごろ鍛錬(たんれん)を重ねた薙刀(なぎなた)道場の娘たちです。竹子らは、娘たちだけでその場で「娘子隊(じょうしたい)」を結成します。すでに彼女たちは、各々の意思で、頭髪を短く切り、頭には白羽二重の鉢巻きをしていました。中野竹子の着物は青みがかった縮緬(ちりめん)、妹の優子は紫の縮緬、依田(よだ)まき子は浅黄(あさぎ)の着物、その妹の菊子は縦縞の入った小豆色(あずきいろ)の縮緬、岡村すま子は鼠(ねずみ)がかった黒の着物で、それぞれが袴(はかま)を付け、腰に大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を手にしていました。

     娘子隊二十余名は、会津坂下の法界寺に向かいます。ようやく寺に着いたが照姫様はいない。やむなく法界寺に宿泊した娘子隊一行は、翌日朝、会津坂下守備隊の家老の萱野権兵衛(かやのごんべい)に「従軍したい」と申し出ました。いくら薙刀の遣(つか)い手の女子(おなご)たちといっても、敵《新政府軍》は銃で武装しています。萱野権兵衛は、
    「ならん!、絶対にならん!、お前たちは城へ帰れ!」と拒否しました。けれど中野竹子らは去ろうとしません。
    「参戦のご許可がいただけないのであれば、この場で自刃します」という。やむなく萱野権兵衛は、翌日になって彼女達を最後尾の衝鋒隊(しょうほうたい)に配属しました。

     八月二十五日、会津城下の涙橋(なみだばし)に、新政府軍《長州藩大垣藩兵》が殺到しました。近代装備と豊富な銃で攻撃してくる新政府軍に対し、守備隊は必死の突撃を繰り返しました。戦いは白刃を交える白兵戦となりました。いつのまにか彼女たちも前線に立ち、男たちに交じって奮戦していました。
     このとき、一発の銃弾が竹子の額に命中しました。額から血を吹かせて中野竹子がドウと倒れました。血が草を真っ赤に染めました。

     息も絶え絶えに竹子は、妹の優子を呼びました。そして「敵に私の首級(くび)を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼みました。十六歳の優子は、とまらない涙をぬぐいながら姉の首を打ち落としました。
     優子は、姉の首を小袖に包んで坂下まで落ち延びました。そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼みました。

     武士(もののふ)の
     猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
     数にも入らぬ我が身ながらも

    薙刀に結びつけてあった中野竹子の辞世の句です。

     竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城して戦いました。
    娘子隊は、彼女たちが自らの意思で戦いました。彼女たちは、なぜ戦ったのでしょうか。それは、自分たちの住んでいる土地に、他所の軍が攻めてきたらです。彼女たちは大切なものを守るために戦いました。鳥羽伏見をはじめ、先に戦争で亡くなった夫や兄たちを殺した連中と、自分たちの意思で戦ったのです。

     ちなみに、会津の娘子隊(じょうしたい)について、会津藩が組織的に女性まで戦わせたようにいう人がいますが、これは違います。若い娘までハナから兵団に加えるということは、会津藩が自ら兵力不足をアピールするみたいなものです。軍学的にもそんなバカなことはしない。あたりまえのことです。

     戦いは市街戦に移りました。燃え上がる炎は城下の家々を焼きました。城に撃ち込まれる大砲。傷つく兵士、血に染まり泣き叫ぶ子供たち。流れ弾丸に斃(たお)れる市井(しせい)の人々。怒号と砲声。うめき声と悲鳴。会津藩の士族は、老幼・婦女子を合わせて千百名です。対する新政府軍は、越後口から進んできた兵も含めて総数1万数千人です。市街地には死体や傷を受けた武士、民間人があふれました。

     その中を、敵味方の区別なく救助し看護する女性がいました。名を瓜生岩子(うりゅういわこ)といいました。当時三十九歳でした。
     彼女は両軍のおびただしい傷病兵を見て、放置しておくに忍びず、傷兵や窮民の介抱に努めました。
    「敵も味方もない。怪我人は怪我人です」
    その働きは新政府軍の大将板垣退助の耳にも達しました。板垣退助は岩子に会おうとするけれど、戦乱の中で、それは叶いませんでした。

     会津若松城の戦いは終わりました。敗戦によって賊軍となった会津藩士の遺体は埋葬も許されないで、町中に放置されました。生き残った者も、家を失い家族を失い、食べる者もありません。子供たちに教育も与えられない。藩校も寺子屋も、いまはありません。あれほど清潔で統制のとれていた会津が荒れ放題になっていました。
     岩子はいたたまれず、新政府の民政局に、幼年学校開設の許可を求め、新政府の民政局に日参しました。そして、せめて子供たちにキチンとした教育を受けさせたい、と嘆願(たんがん)しました。

     毎日通いました。
     半年かかりました。ある日、民政局からようやく幼年学校開設の許可を得ました。岩子は、さっそく私費を投じて校舎を完成させました。そして教師を雇い、習字、珠算などの教育をはじめました。また学校の敷地を利用して、元藩士たちに養蚕(ようさん)などの技術を教え、自力更生の道を開かせています。

     ところが二年後の明治四年《一八七一年》、小学校令発布予告によって、幼年学校は閉鎖を命ぜられてしまいました。私費を投じまでしたのに、岩子はなにもかも失ってしまったのです。。でも岩子はくじけませんでした。
     明治五年、岩子は荒廃と貧困に苦しんでいる会津の人たちを救おうと、ひとり東京に出ました。そして深川の教育養護施設の運営や、児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほどかけて学びました。
     救貧事業をするといっても、岩子自身が一文無しに近い状況でした。帰国するときには、有り金をはたいて魚の干物(ひもの)を買い、その干物を行商しながら街道を下っています。

     会津に帰った岩子は、喜多方(きたかた)の廃寺を無償で借り受け、後を絶たぬ貧窮者に手を差し延べました。こうして岩子は二百余名の孤児の母となり、後半生を社会運動に捧げました。そして岩子は、菩薩の化身とも、日本のナイチンゲールとも称讃され、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、わが国女性初の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章しました。そして明治三〇年《一八九七年》、六十八歳で生涯を閉じました。

     文中登場した大鳥圭介(おおとりけいすけ)は、赤穂(あこう)の人で、徳育を旨とする閑谷(しずたに)学校はに学び、医学と漢学を修めた人です。
     中野竹子も瓜生岩子は、会津藩の什(じゅう)教育を受けて育った女性たちです。「什」には誓ひ(掟)があって、子供たちは、毎日これを大声で復誦しました。

    一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
    一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
    一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
    一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
    一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。
    一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。
    一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
     ならぬ事はならぬものです。

     戊辰戦争で伝習隊を率いて、最後の最後まで転戦した大鳥圭介。
     戦乱の中で二十二歳の若い命を散らせた中野竹子。その姉の首を掻ききった十六歳の妹の優子。
     会津の戦いで傷ついた兵士の介抱をし、さらに会津の教育再生と福祉に生涯を捧げた瓜生岩子。
    こうした存在が生まれた背景には、やはり当時の徳の高い教育があったのではないかと思います。江戸時代の聖人中江藤樹は、教育の意義は、子供たちに道義を教え、心の曇りを取り、日々のおこないを正しくすることであると説きました。それはいまなお新しい言葉であると思います。


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    いまから400年も昔の戦国時代。現代日本人の感覚としては、戦国時代というのは、有史以来最も国が荒れた時代です。けれどそんな時代にあってなお、若い女性がこれだけ高い教養を持ち、そして男も女も純粋に、必死で生きていたのです。そうすることができたのが日本の国柄です。そんなことを武田勝頼の妻から学んでみたいと思います。

    20190904 武田勝頼の妻



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    小名木善行です。

     武田勝頼の妻の名は伝わっていません。北条氏康の6女であったことから、武田家では北条夫人と呼ばれていました。天正一〇年三月、織田信長が大軍で武田氏に攻め込んだとき、武田の旧臣たちが勝頼に背いたので、勝頼は百騎ばかりで城から落ちのびました。それは、夫人もようやく荷付馬(につけうま)に乗って、侍女らはみんなワラジを穿(は)いての逃避行でした。城には敵が攻め入り火煙が天をおおっていました。

     勝頼たち一行は、天目山に遁(のが)れました。けれどそこにも、秋山摂津守が叛(そむ)いて火砲を発して襲ってきたので、鶴背のほとりに田野というところに隠れました。敵兵が潮(うしお)のように湧き出て攻めてきました。勝頼は夫人に告げました。

    「武田の運命は今日を限りとなりました。
     おまえは伴(とも)をつけて、小田原の実家に送り届けよう。
     年来のおまえの情(なさ)けには深く感謝している。
     甲府からどんな便りがあったとしても、おまえは小田原で心安く過ごしなさい」

    夫人が答えました。
    「おかしなことを聞くものです。
     たまたまおなじ木陰(こかげ)に宿ことさえ他生の縁と申すではありませんか。
     わけても7年。
     あなたと夫婦の契(ちぎり)を結び、いまこうして危機に遭ったからといって
     早々に離別されて小田原へ帰るならば、妾(わらわ)の名がけがれましょう。
     ただ夫婦は、死生をおなじうすべし」

    夫人は老女を振り返り、
    「この年月は、
     子ができないことばかり嘆(なげ)いて神仏に祈っていましたが、
     いまはむしろ良かったのかもと思えます。
     たとえ子がなくても
     小田原は跡(あと)弔(とむら)い給うべし
    (小田原はきっと弔ってくださることでしょう)」
     故郷への手紙には、
     女の身なればとて、北条早雲、北条氏康より代々弓矢の家に生まれ、
     ふがいなき死をせしといわれんも恥ずかし。
     妾(わらわ)はここにて自害せりと申せ」

    手紙の上巻に髪の毛を切り巻き添え、

     黒髪の みだれたる世を はてしなき
     おもひに契(ちぎ)る 露(つゆ)の玉の緒

    と詠ぜられました。そして敵軍、乱れ入り、一族郎党ことごとく討たれていくとき、夫人は声高く念仏を唱えて自害ししました。老女もともに殉死しました。勝頼も自害して、武田の一門はこうして滅亡しました。

    「跡弔い給うべし」という言葉は、お能の「敦盛」のなかに登場する言葉で、次のように展開されます。

     討たれて失(う)せし身の因果
     めぐり逢ふ敵(てき) 討(う)たんとするに
     仇(あだ)をば恩に 法事の念仏 弔(とむら)はば
     終(つい)には共に 生まるべき
     同じは蓮(はす)の 蓮生法師
     そは敵にては なかりけり
     跡弔(あととむら)ひて 賜(たま)び給(たま)へ
     跡弔(あととむら)ひて 賜(たま)び給(たま)へ

    現代語にすると次のようになります。
     戦いに敗れて討たれて失われる、我が身の因果
     めぐりあう敵は、愛の逢瀬のようなもの。
     その敵を討った仇さえご恩のひとつと
     感謝の念仏を唱えるならば、
     次の世では互いに仲良く生まれ変わることもできるだろう。
     互いに同じ蓮の根につながる魂ならば
     敵も味方もありません。
     どうか、あとの弔(とむら)いを頼みますね。
     どうか、あとの弔(とむら)いを頼みますね。


    「めぐり逢ふ敵」に、男女の逢瀬を意味する「逢ふ」という字が使われているので、
    「めぐりあう敵は、愛の逢瀬のようなもの」と訳させていただきましたが、語感としては、これが最も正しい訳であろうと思います。たとえ自分の命を失うことがあっても、そこに愛を見出す。これこそが日本的な価値観といえるのではないかと思います。

     昔から、位の高い魂は、時間軸を超えるといいます。我々が肉体を持って生きている三次元の世界では、時間軸は過去から未来へと一直線にしか流れませんが、もっと高次元においては、過去現在未来は、環(たまき)のようにつながっているのだそうです。これはたとえてみれば、A4版の紙のようなものです。紙を水平にして真横からみれば、それはただの直線です。けれど我々はその直線を、紙をまるめることで、自在につなげることができます。さらに紙を上から見れば、その紙の上に、無限に線を引くことができます。これが次元の違いです。

     死ねば魂が肉体から離れ去ります。だからこれを「逝去(せいきょ)」といいます。「逝」という字は、折れて進む(辶)です。つくりの「折」はバラバラになることを意味します。肉体と魂がバラバラに離れるから「逝」です。そして魂が去っていくから「逝去」です。魂が行く世界は、時間に縛られた低次元の世界から、時空を超越した高次元の神々の世界まで様々です。ですから位の高い神様は、上古の昔も、今も、未来にも存在します。勝頼の妻の辞世の歌は、そういう理解の上に成り立っています。

     歌にある「玉の緒」というのは、魂の緒のことです。魂は紐で肉体とつながっていると考えられていましたから、玉の緒が離れることは、死を意味します。露と消える玉の緒であっても、ひとつの思いは消えることはない。その消えない思いというのが、夫である勝頼と、今生では乱れた黒髪のような乱世を生きることに成ってしまったけれど、きっと来世には平和な時代に生まれて、一緒に仲良く、長く一緒に暮らしましょうね、というのが、この歌の意味です。
     そして「黒髪の乱れる」は、和泉式部の歌から本歌取り。失っても失っても、それでも一途に愛する想いを大切にするところで使われる語です。
     「玉の緒」は式子内親王の歌から本歌取りしています。たとえ露と消えて死んでしまっても、大切なものを護り通して行きたいという想いが込められた語です。

     このとき勝頼の妻、わずか19歳です。
     いまから400年も昔の戦国時代。現代日本人の感覚としては、戦国時代というのは、有史以来最も国が荒れた時代です。けれどそんな時代にあってなお、若い女性がこれだけ高い教養を持ち、そして男も女も純粋に、必死で生きていたのです。そうすることができたのが日本の国柄です。

    【出典】『女子鑑(じょしかがみ)』大阪府学務部・昭和13年刊


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  • 天秤棒で荷物を担いで270km・・・ヤマハの創業物語


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    田舎の山の中の小学校にも、古いオルガンが置いてあります。
    かつて、そのオルガンを必死で作った人がいて、それをその小学校まで歩いて運んだおじさんたちがいました。
    トラックなんてなかった時代です。みんな担いで運んだのです。そうやって子供たちに歌が届けられました。そして同じ国の同じ国民として、みんなで共通の思い出を刻んでいきました。
    その先人たちの思いや努力、歴史というものを、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当に良いことといえるのでしょうか。
    ひとつ思えるのは、子供たちから共通の思い出を奪う者、世代を超えた思い出を奪う者は、もはや教育者の名に値しないということです。すくなくとも、そうやって造ったり、運んだりしてくれた先人たちに対する感謝の気持ちは、ぜったいに忘れてはならないことだし、伝えるべきことといえるのではないでしょうか。

    山葉寅楠
    山葉寅楠



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    ヤマハといえば、いまや世界のヤマハであり、楽器メーカーとしてだけではなく、自動車のエンジンやバイク、クルーザーなども作っている一大企業です。
    そのヤマハですが、社名の由来は、創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)の名字にあります。
    寅楠という名前は、南方熊楠(みなかたくまくす、植物学・民俗学者)や、横井小楠(よこいしょうなん、儒学者・政治家)、楠木正成にならって付けられたそうです。

    ヤマハの創業時の名前は「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」です。
    「風琴(ふうきん)」というのは、オルガンのことで、オルガンは「風の力で音を出す琴」と考えられていたわけです。

    さて、創業者の山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
    父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人です。

    少年時代の山葉寅楠は宮本武蔵が大好きで、16歳で二天一流の修行に出ています。
    修行というのは、二天一流を学んだ少年剣士が、全国の様々な流派の道場をめぐる旅に出ることを意味します。
    ちなみに近年、時代劇等で、この道場巡りがあたかも「道場破り」という乱暴のように語られていますが、大きな間違いです。
    他の流派の道場をめぐることで、それぞれの流派の剣さばきなどを学ぶのです。
    実際、実戦ともなれば、剣術諸派が戦場であいまみえるのです。
    だからこそ、平時においては、諸派が交流し、互いの技術を磨き合う。
    それが剣士にとっての修行の旅であったわけです。

    ところが明治維新で、武家であった家が没落。
    当時二十歳だった山葉寅楠は、なんとか家の経済を支えようと大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びました。
    ところが、学んでも肝心の仕事が、ないのです。

    彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。
    そしてある日、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。
    明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。



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  • 舩坂弘陸軍軍曹物語


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    まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘元陸軍軍曹。
    そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
    かつての日本には、こういう男がいたのです。

    「不死身の分隊長」こと舩坂弘元陸軍軍曹とクレンショー氏
    20210303 舩坂弘
    画像出所=https://www.news-postseven.com/archives/20190813_1427181.html?DETAIL
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    シルベスター・スタローンの映画「ランボー・シリーズ」は、1982年に第一作が公開されると、大ヒットシリーズとなり、なんと昨年には5作目になる『ランボー ラスト・ブラッド』が公開されました。
    たったひとりでどこまでも戦う主役のジョン・ランボーは、リアルなアメリカの英雄として描かれた映画ですが、実は日本に、ランボー顔負けの大活躍をした日本兵がいます。
    舩坂弘(ふなさか ひろし)さんと言って、大正9年生まれで、先の大戦で帝国陸軍軍曹だった人です。

    昭和19年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任しました。
    アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。
    米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとして、同年9月11日に島を襲いました。

    開戦から5日間、まず米軍は空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯(じゅうたん)爆撃を行いました。
    次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃が行われました。
    9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸しました。

    このとき、島を守っていた日本軍守備隊は、わずか1400名の中隊です。
    小さな平たい島ですから、内陸部に誘い込んでの戦いはできません。
    ですから日本側は、上陸しようとする米軍を水際で迎え撃ちました。
    このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷しました。
    けれど兵力差は15倍です。

    水際の戦いで中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けました。
    そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ろうとしたのです。
    米軍は続々と上陸してきました。
    日本側は退却し、大隊の残存戦力を島の北西の洞窟に集結させました。
    ここから先はゲリラ戦です。

    戦い3日目。
    舩坂軍曹はひん死の重傷を負っていました。
    米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
    場所は敵陣のど真ん中でした。
    味方が助けようにも、助けに来ることができる場所ではありません。
    押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂軍曹のもとに、ようやく軍医がやって来ました。



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  • 光子物語


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     狼に育てられた子供は、狼のままで人に戻ることはありません。人は、人として躾(しつ)けられて、はじめて人になります。人とのしての躾のない者は、人ではなく「人の皮をかぶったケモノ」です。現代日本人は、いま国をあげてケモノつくりに励んでいます。
     教育は人を育むものです。本来の日本の教育を、しっかりと取り戻したいものです。

    クーデンホーフ光子
    クーデンホーフ光子01



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    世界で最も有名な日本人女性は誰でしょうか。
    実はその答えが、クーデンホーフ光子(みつこ)です。

    パリにあるメイクアップやスキンケア、フレグランスの老舗メーカーのゲラン社(Guerlain)が販売する香水に、「ミツコ(MITSOUKO)」という製品があります。
    世界中で人気を博している香水です。
    この「ミツコ」について、ゲラン社のHPに次の記述があります。

    *******
    1919年、
    ヨーロッパが日本ブームの真っ只中にあり、
    極東の文化が人々を魅了していた時代。
    ジャック・ゲランは新しく創作した香りを
    「ミツコ」と名付けました。
    それは小説『ラ・バタイユ』のヒロインの名。
    慎ましやかでありながら、
    強い意志を秘めた女性をイメージした香りです。
    *******

    そしてこの「慎ましやかでありながら強い意志を秘めた女性」という言葉こそ、世界の人々が憧れる日本女性のイメージとなりました。

    ちなみに文中にある小説の『ラ・バタイユ』は、日本語に訳したら「戦闘」です。
    この小説は、クロード・ファレールが1909年に出版したものです。
    1905年の日露戦争が題材で、映画化もされています。
    その映画のヒロインの名前が「ミツコ」です。

    実はこの「ミツコ」、有名なハンフリー・ボガートと、イングリッド・バーグマンの名作映画「カサブランカ」にも登場しています。
    本人ではありませんが、その次男の息子が重要な登場人物となっています。
    「カサブランカ」は、アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)が、昔の恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)と、偶然の再会をはたすという映画ですけれど、このときイルザの夫でナチへの抵抗運動の革命家である夫ラズロのモデルが、実は、ミツコの次男のリヒャルトです。
    ラズロ役のポール・ヘンリードは、リヒャルトに顔立ちが似ているということで起用されでいます。

    ちなみにこの映画の企画のとき、配給元のワーナーは、当初、主演をハンフリー・ボガードではなく、若き日のロナルド・レーガンにする予定だったのだそうです。
    そうなっていたら、世界の歴史はまた別なものになっていたかもしれませんね。

    実在の「ミツコ」の日本名は「青山ミツ」といいました。
    そして東京青山の青山通りや、青山霊園なども、実は「ミツコ」が関わっています。
    そこで「ミツコ」がどういう女性であったのか、歴史を振り返ってみたいと思います。
    時計の針を、129年ほど巻き戻します。

     *


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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E-mail info@musubi-ac.com

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