• 奇跡の将軍・樋口季一郎陸軍中将に学ぶ


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    樋口季一郎のことを、「旧軍の関係者であるから評価すべきではない」という人がいました。
    旧軍の関係者であろうがなかろうが、立派な行為は、しっかりと学ぶべきものです。


    晩年の樋口季一郎元陸軍中将
    20191121 晩年の樋口季一郎
    画像出所=https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20190125-OYT8T50003/3/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


    樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で2万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の500万の人口を守った昭和の名将です。

    1 樋口季一郎中将

    樋口季一郎は明治21(1888)年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋で、大地主の奥濱久八の元に長男として生まれました。
    ところが廻船問屋は、明治になって蒸気船に押されて衰退。
    家業が衰退に向かった結果、11歳のときには両親が離婚。
    母・まつの実家に引き取られてすごしました。

    樋口季一郎は優秀な子でした。
    三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正7(1918)年、陸軍大学を卒業しています。
    卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。

    ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。
    このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。

    またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。
    大正14(1925)年に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。
    下の動画にもご出演いただいている樋口季一郎のお孫さんの隆一氏は、日本を代表する音楽学者のひとりですが、これもまた樋口季一郎の血筋のなせるわざなのかもと思ったりします。



    20191006 ねずラジ
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  • 日本初のコンタクトレンズ 水谷豊博士


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    知恵も知識も神々からの授かりものです。
    授かるためには、この瞬間にどこまでも誠実であろうとする姿勢こそが求められる・・というのが古事記の教えです。
    ここは水谷博士の誠実とともに、私達がいまを生きるうえにおいても大切な事柄だと思います。
    そこから外れると天罰を受けます。


    20190921 水谷豊博士
    画像出所=http://mazba.com/5014/
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    コンタクトレンズをお使いの方は多いと思いますが、実はコンタクトの歴史はけっこう古くて、記録にあるのは1801年、日本では江戸の中期で、ちょうど高田屋嘉兵衛が択捉島(えとろふとう)の開拓をした頃、英国の物理学者トマス・ヤングがコンタクトレンズの実験を行っています。

    トマス・ヤングといえば、弾性体力学の基本定数ヤング率を発見したり、エネルギー (energy) という物理用語を最初に用いてその概念を導入、あるいはピアノの調律法のヤング音律を考案したり、エジプトの象形文字の解読なども手がけたりたりした、ひとことでいえば、まさに天才と呼べる人です。

    名称のコンタクトの方は、少し遅れて、ドイツの生理学者のフィックの甥が名付けた「Kontaktbrille」からきています。
    そしてそのフィックが、明治20(1887)年に、ガラス製のコンタクトレンズを作成しています。

    もっともこのころのコンタクトは、まだ度はありません。
    度がつけられるようになったのは、昭和11(1937)年ですから、ほんの最近のことです。

    日本では、昭和24(1949)年に、名古屋大学病院の水谷豊博士が、日本初の臨床実験を行っています。
    水谷豊博士というのは、愛知県名古屋市出身の方で、生まれは大正2(1913)年です。
    もともと眼科医の家庭に生まれ育ったのですが、三男の末っ子だったため、後に水谷家の養子となりました。

    幼いころからとても勉強好きな子で、40度の熱があっても、教科書を話さなかったといいます。
    そして地元の旧制第八高等学校を経て、名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)を卒業し、大学の付属病院の眼科医になりました。



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    20190317 MARTH



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  • 戦わざれば亡国、戦うもまた亡国 永野修身元帥


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    戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。
    けれど戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が身も心も永遠に国を失うことになります。
    もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。
    そうすれば私たちの子孫が、必ず再起しあるいは三起する。


    20181122 永野修身
    画像出所=https://the-liberty.com/article.php?item_id=14764
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    この記事も、2011年以来、毎年この時期に掲載しているものです。
    この記事がもとになって、実は以前、ある女性とお会いしました。
    その女性は、戦後、高名な父のために、学校では教師から、職場でも上司からさんざんなイジメにあわれたそうです。
    だから「父を恨みました」とおっしゃっていました。
    けれど職場を定年退職後に、海自の皆様からたくさんの励ましをいただき、そしてある日、ねずブロのこの記事にであわれたのだそうです。
    そして、父がどのような思いで開戦の決断に至ったかを知ったとき、滂沱の涙が止まらなかったそうです。

    特に近現代史においては、このブログからそれぞれの直接のご子孫の方から、お手紙やメールをいただいたり、あるいは直接お会いすることになったりすることがあります。
    ブロガー冥利に尽きる瞬間です。
     
     *

    戦時中の元帥(げんすい)で海軍大将、第二十四代聯合艦隊(れんごうかんたい)長官、第三十八代海軍大臣、第十六代海軍軍令部(ぐんれいぶ)総長という「海軍の三長官全てを経験」した唯一の軍人が永野修身元帥です。

    よく「軍人は戦争好き」などという人がいますが、バカが言うことです。
    あたりまえのことですが、そのような好戦的な人物には、たとえ軍人とはいえ、人が誰もついていきませんし、そのような人物はそもそも出世できません。

    軍人は、戦いが始まれば、真っ先に死ぬ可能性が高い人たちなのです。
    その軍人たちには、妻もあれば子もいるのです。
    そして目の前で戦友に死なれた悲しみを背負うのです。
    諸外国のことは知りませんが、日本では古来、武人や軍人ほど戦いの厳しさを知って戦いの回避を願わない人はいなかったのです。

    我が国の歴史の中で、昭和16年(1941年)にはじまる大東亜戦争は、たいへん大きな重みを持った事件です。
    その大東亜戦争がいよいよ開戦という方向に向かったとき、終始一貫して戦争に反対したのが、当時海軍の軍令部長だった永野修身元帥です。
    彼は太平洋まで出て米国と直接対決するという案に、「あまりにも博打すぎる」と、猛反対をし続けています。

    最終的には、山本五十六らが「太平洋に出て行くという作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職する」と永野に詰め寄り、結果とし永野も折れました。
    けれど永野元帥は、むしろ南方資源地帯の確保と、本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦でいくべきとの考えでした。



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    20190317 MARTH


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  • 根本博陸軍中将(北支と台湾を救った戦神)


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    根本中将とこれに従う武人たちの働きは、蒙古で四万の邦人の命を救い、北支では三十五万人の邦人の生命を守り、金門島にあっては廈門(アモイ)二十万と、台湾一千万の命を守ったのです。そして自らはそうした功績を一切誇ることも語ることもなく、一人の老人としてその生涯を閉じています。これが鍛え上げられた昭和の陸軍士官の姿です。


    20190726 根本博
    画像出所=https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12396826806.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
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    根本博中将は終戦のときには駐蒙軍司令官としてモンゴルにいました。
    終戦後にソ連の機械化旅団がそこに攻めて来ました。
    このとき根本中将はソ連軍に軍使を出して二日間の攻撃猶予を願っています。
    四万人近い在留邦人がいたからです。

    ところがソ連軍は聞き入れません。
    一方で軍司令部からは根本中将のもとに「戦争が終わっているので即時停戦、武装解除」の命令が来ていました。

    このとき根本中将は、
    「民間人を守るのが軍人の仕事である。
     その民間人保護の確たる見通しがない状態で
     武装解除には応じられない。
     理由の如何を問わず、
     陣地に侵入するソ軍は断乎これを撃滅すべし。
     責任は一切司令官が負う」

    との命令を発しています。

    根本中将旗下の将兵の士気は高く、二〇日午後及び夜間のソ蒙軍の攻撃を反撃して撃退、二十一日には各方向から一部陣地内に突入したソ蒙軍と白兵戦を交えてソ蒙軍を撤退させています。
    そしてこの日の夕方には、張家口に集まった邦人全員の引揚げを完了させています。
    戦いに先立って、根本中将は居留民避難のための列車を手配をしていたのです。
    しかも各駅にはあらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運ばれ、避難民たちが衣食に困ることがないようにしていました。

    当時、張家口から脱出した二十五歳(当時)だった早坂さよ子さんの体験談には次のように記載されています。
    「張家口はソ連邦が近いので
     ソ連兵が迫ってくるという話に戦々恐々とし、
     五歳の女子と生後一〇カ月の乳飲み子を連れてとにかく、
     なんとか日本に帰らねばと思いました。
     駅に着きますと貨物用の無蓋車が
     何両も連なって待っており、
     集まった居留民は皆それに乗り込みました。

     張家口から天津まで普通でしたら
     列車で七時間位の距離だと思いますが、
     三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
     列車は万里の長城にそって走るので、
     長城の上の要所々々に
     日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、
     皆で手を振り、
     兵隊さんたち、無事に日本に帰ってと祈りました。」


    同じ時期、他の地域では、在留邦人が女子供ばかりのところを襲撃されて皆殺しにされたり、ソ蒙軍の兵士から暴行を受け、あるいは地元民に襲撃されて所持品から着衣まで奪われたりした情況からすれば、張家口からの邦人避難民が「手を振りました」とは、もちろん難民としてのご苦労や不自由はあったろうけれど、いかにもみやびなことです。
    そしてこれができたのは、間違いなく軍の将帥としての根本中将の断固たる意思と、その将を信頼して勇敢に戦った兵士たちの活躍でした。



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  • Koreaがひた隠しにしたい日本人・目賀田種太郎とは


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    反日をあおるKoreaや、日本にいるKoreanたちにとって、目賀田種太郎の名前は消してしまわなければならない名前です。
    目賀田種太郎の功績が知れれば、日本が行ったことを善政として認めざるを得なくなるからです。


    20190720 目賀田種太郎
    画像出所=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/529.html?cat=62
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


    韓国では、日本が統治した時代がまるで暗黒時代だったかのように子供たちを教育しています。
    そこで今日は、日本人・目賀田種太郎(めがたたねたろう)のことを書いてみたいと思います。

    目賀田種太郎は、嘉永6(1853)年といいますから、黒船来航の年に生まれています。
    もともと駿河藩士の家柄で、幼い頃から漢学を学び、英語、数学を修め、旧幕臣でありながら明治3(1870)には17歳で国費による米国留学生に選ばれているくらい、優秀な人です。

    目賀田種太郎が渡米して入学した先は、ハーバード・ロー・スクールです。
    ここはいまでも、超エリート養成学校として有名ですが、入学することもたいへんなら、卒業することはもっと大変です。
    そのハーバード・ロー・スクールを、目賀田種太郎は優秀な成績で卒業し、いったん帰国したあと、明治8(1875)年に留学生監督を命ぜられて、開成学校(現:東大)の生徒12人を連れて再渡米しています。

    5年後、帰国した目賀田は、同志らによびかけて、日本最初の私立経済法律学校を設立しました。
    これがいまの専修大学です。

    この時代、我が国で法学を教える大学は、2つしかありませんでした。
    ひとつが東大法学部、もうひとつが司法省直轄の法学校です。
    東大では英語で、法学校ではフランス語で法学を教えていました。
    目賀田種太郎は、設立した専修大学で、日本ではじめての「日本語による法学教育」を行っています。

    目賀田の大学設立は、実はこれだけにとどまりません。
    彼はそのあと、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設しています。
    ちなみに「Shall we ダンス?」で一躍有名になった社交ダンスを日本にはじめて伝えたのも目賀田種太郎です。



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  • 武人、川路聖謨(かわじとしあきら)に学ぶ


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    大事件ががあっても、口先だけでいい加減なことを言ってごまかすだけで責任をとらないどこかの国の官僚とはわけが違うのです。
    常に全力で命がけで行政を預かってきたのが、日本の官僚であり政治家です。
    そのひとつの例が、川路聖謨という人物にあります。


    20190529 川路聖謨
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


    川路聖謨(かわじとしあきら)は幕末の幕府の勘定奉行です。
    幕府の勘定奉行は、寺社奉行、町奉行と並ぶ「三奉行」のひとつです。
    彼は、勝海舟と西郷隆盛による、江戸無血開城の翌日、ピストルで自殺しました。
    遺体は、すでに作法通りに見事に自分で腹を斬ってあり、そこにサラシを固く巻いたうえで、こめかみに銃を当て、自らの命を絶っています。

    もし川路が生きていれば、明治も違ったご治世になったかもしれないと言われました。
    川路聖謨の心に常にあったのは、
    「ご政道に関わる者、
     常に「命がけ」で事にあたるべし」
    でした。



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  • 水雷艇気質と武士の戦場 佐藤康夫中将伝


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    20190225 伊勢修養団研修バナー
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    難局に
    男冥加と突入す
    なるもならぬも
    神に任せて


    駆逐艦「朝潮」
    駆逐艦朝潮


    以前働いていた会社の専務は、もともと貨物船の乗組員だった人でした。
    その専務が船員だった昭和40年代の頃のお話です。
    当時、南米に行くと、とにもかくにも日本人というだけで、大モテにモテたそうです。

    ある港にすごい美人がいて、一晩中、遊んでもらったのだけれど、お礼にとお金を渡そうとすると、どうしてもいらないという。
    仕方がないから、せめてものお礼にと、着ていたTシャツを1枚をあげてきたのだけど、どうしてだったと思う?というわけです。

    その娘さんは、大好きなおばあちゃんがいて、そのおばあちゃんが昔、若かったころ、日本人の船員さんに何度も助けられたのだそうです。
    それは明治の中ごろのことです。

    当時の東南アジアや南米の港町は、白人天国でした。
    絶対的支配階層である白人に対し、現地の人々は人間としてすら認識されなかった、そういう時代でした。
    黒人や東洋人は、魚や虫と同じで、
    「痛覚がないのだ」
    と本気で信じられていた時代です。
    ですから有色人種の男性は、ただの労働力としての家畜と同じ扱いだったし、女性もただの道具とみなされていました。

    とりわけ港町は、気の荒い白人たちが集まるところで、白クマのような毛むくじゃらの白人の大男が、大酒を飲んでは暴れまわる。
    そういうところに、海軍の軍服を小ざっぱりと着こなした、現地の人たちと同じ有色人種の日本人が、訓練航海のために港に上陸するわけです。


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    20190317 MARTH





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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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