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古事記は、愛する者を護るため、民衆を護るために、何が必要なのかを優先して考え、行動せよ教えてくれています。 「俺のため」では、誰もついてこないのです。誰も助けられないし、助けてもくれないのです。 私たちは、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」ではなく、 「未来にも、安全な食事を、みんなとともにすることができる」 そういう時代を拓くべきなのです。 それが日本の神々の御神意です。
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大国主神の像(出雲大社)

画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 大国主は国の譲渡の条件として、
「私の住処(すみか)として、
大地の底まで宮柱が届き、
高天原まで千木が高くそびえ立つほどの、
大きく立派な神殿を建ててください。
そうすれば私はそこに隠れましょう」
と申し出ています。
そのことでご創建されたのが出雲大社(いずもおおやしろ)です。
出雲大社も伊勢神宮と同様、いつご創建されたのか、その年月はわかりません。
それは、
「わからないくらい古い昔に建てられた」
ということです。
さて、その国譲り神話は、
わが国が国家という大きな単位においても、戦(いくさ)ではなく話し合いで事態を解決する精神や、
敗れた側を皆殺しにしたりするのではなく、相手の名誉を讃え尊重し顕彰するという日本的心の教えとして紹介されることが多いです。
けれども実はもうひとつの大切な教えがあります。
そこで大国主神話を簡単に振り返ってみますと、はじめに大国主神は、因幡で怪我をした白ウサギを助けたとう物語があります。
有名な因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)の神話です。
怪我をして困っているウサギを、大国主神が助けたというお話です。
古事記では、大国主神のこの頃のお名前、つまり若いころのお名前を「大穴牟遅(おおなむち)」と書いていますが、ここでは、わかりやすさを優先して、すべて大国主神で統一して書きます。
大国主神は困っているウサギを助けただけでなく、ウサギの治療まで行っています。
つまりこの頃の大国主神は、
弱い者を助けるやさしさと、
医療の知識を持った青年
として描かれています。
ウサギを助けたあとには、隣国の八上比売(やがみひめ)という美女と結婚しています。
つまりそれは、
女性からも好かれる良い青年であった
ということです。
皆様の同級生にも人一倍勉強ができてスポーツも万能という非の打ち所のない優秀な生徒がおいでになったことと思います。それと同じです。
大国主神は、ウサギを助ける直前まで、八十もいる兄たちの荷物を全部ひとりで背負って運んでいます。
それは、相当な量の荷物であったろうと想像できます。
それだけの荷物を背負って運べたということは、ものすごい体力の持ち主でもあったわけです。
ということは、背も高かったのかもしれません。
しかも大国主神は、母からもとても愛されています。
ところが、このように、「人柄が良くて頭も良くて美男子で力持ち」というのは、いわゆる「目立つ」存在です。
いつの時代も同じです。
目立つ者はイジメられます。
大国主神もまた、兄たちからよってたかってイジメを受けます。
ちなみにここで少し解説を加えます。
古い昔においては、村は全員血縁関係者です。
ですから、村の若者は全員、兄弟とみなされました。
同じ親から生まれたということではなく、同じ祖先を持つ一族の兄弟という意味です。
さて、八十もいる兄たちの荷物を全部背負ったということは、普通に考えれば、「背負わされていた」ということです。
つまり、バカにされ、下にみられていたわけです。
ところが、そんなバカにしていた弟が、目当てにしていた八上比売と結ばれるのです。
古来、
「男の嫉妬と女の恨みほど恐ろしいものはない」
といいます。
そして男の嫉妬は、必ず暴力的な仕打ちに発展します。
昨今、ネットいじめなどが話題になったりしていますが、そういうことは何もいまにはじまったことではないのです。
実際、大国主神も、死の危険に遭うほどの酷いイジメにさらされます。
イジメられるということは、イジメという不条理に、「戦う術(すべ)を持っていない」ということです。
現代のイジメも同様で、学校や教育の専門家などは、
むやみに喧嘩したらいけない。
人を怪我させてはいけない。
戦いは避けなければならない。
などと教えます。
なるほどそれらは人の世の良心の発露です。
けれど物事には裏表があります。
抵抗しないとわかれば、嵩(かさ)にかかってその人や国家を、イジメ苛(さいな)み苦しめて自己の利益を図る者というのは、いつの世にも必ずいるのです。
それは、相手を嫌いだからとか、嫌な奴だからではありません。
軽くみているからです。
別な言い方をすれば、舐められているのです。
さらに、悪いことに人には人を支配することを喜びがあります。
イジメをしている側は、イジメる相手に対して「悪いことをしている」という罪悪感がありません。
支配することを、むしろ正義と思っている場合さえあるくらいです。
さて、大国主神は優秀な若者として描かれています。
イジメをうけるくらい、頭が良くて美男子で力持ちで優秀なのです。
けれど、それだけでは「大いなる国の主」にはなれません。
何が不足しているのでしょうか。
優秀な人はこの世にたくさんいます。
けれど人の上に立つリーダーとなれるのは「限られたひとり」です。
その違いとなるものが、次の展開で明かされていきます。
あまりに酷いイジメを受けた大国主神は、根の堅州国にいる須佐之男命を訊ねて行きます。
その途中で須佐之男命の娘の須勢理比売(すせりひめ)と出会い、恋に落ちます。
ところが須勢理比売が父の須佐之男命(すさのおのみこと)に夫となるべき彼を紹介すると、大国主神話の事情を聞いた須佐之男命は、黙って大国主神を「蛇の部屋」に閉じ込めてしまうのです。
その部屋は夜になると毒蛇がウヨウヨと出てくる部屋です。
そのままでは大国主神は蛇に噛み殺されて死んでしまいます。
このことを知った須勢理比売は、大国主神が部屋に入る前にヒレと呼ばれる肩衣を手渡します。
そして蛇が出てきたら、蛇に向かってそのヒレを振るようにと話します。
夜中に蛇がウヨウヨと出てきます。
大国主神が言われた通りヒレを振ると、蛇が退散していきましたので、大国主神はその後、ぐっすりよく眠れたと古事記は書いています。
蛇の部屋から無事に出てきた大国主神を、須佐之男命は、こんどは「ムカデの部屋」に入れます。
そこでも大国主神は、ヒレを使って無事によく寝ることができました。
次に「蜂の部屋」にも入れられましたが、そこでも大国主神は、ヒレを使って無事によく寝ることができたと古事記は書いています。
しかし、です。
ただヒレを振るだけで、蛇や蜂やムカデが退散してくれるものなのでしょうか。
疑問を持ったまま、物語の続きを読んでみます。
三つの部屋をクリアした大国主神を、今度は須佐之男命は野原に誘います。
そして鏑矢を野の真ん中に撃ちこむと、それを拾ってくるように大国主神に命じます。
大国主神がそのとおりにすると、須佐之男命は野の周囲から火を放ちます。
大国主神話は、周囲を紅蓮の炎に巻かれてしまいます。
するとそこに小さな野ネズミが現れます。
そして「ここを足で踏みつけろ」と言うのでその通りにしますと、そこに大きな穴がポッカリと空き、穴に入ると炎は大国主神の頭上を通り過ぎて行き、大国主神話は助かります。
このあと大国主神は須勢理比売を連れて根の堅州国を出て、八十神たちを退治し、さらに八千矛神(やちほこのかみ)となり、さらに周辺の国々を平らげて、大いなる国の主となったというのです。
八千矛神という名は、ものすごくたくさんの槍を持った兵を持つ、大軍の将という意味です。
そして大国主という名前は、まさに大いなる国の主という意味です。
大国主神の国は、東亜全体を包み込むような大国です。
つまり大国主神は、東亜の超大国の大王となったのです。
古事記は、この物語で、いったい何を伝えようとしたのでしょうか。
根の堅州国での出来事もそうです。
何を意味しているのでしょうか。
ぐっすり眠ることが出世の糸口なのでしょうか。
穴に隠れて危険をやり過ごすことが、リーダーの条件なのでしょうか。
これは日本の古典文学に共通していることなのですが、ただ表面上に書かれていることだけを読んでも、意味はわかりません。
短い言葉の中に、どのような意味があるのかを察しながら読むことで、その真意が伝わるように書かれているのが、日本の古典文学の特徴です。
そして「真意」は、古事記においては「神意」です。
ここでの答えはすこし考えたらわかります。
はじめに蛇の部屋とあります。
蛇は手も足もありません。
つまり蛇が意味しているのは、手も足も出ない状況であり、それが数えきれないくらいウヨウヨと襲ってくるという過酷な状況とわかります。
そのままなら最早死ぬしかないくらい危険な状況です。
かような危機に陥ったとき、リーダーはどのように対処したら良いのでしょうか。
この答えを得るときに、「ヒレ」にこだわると解釈を間違えます。
この問題提起に際して古事記は「ヒレを振った」と書いています。
ヒレとは女性の肩衣、つまり現代風に言ったらショールのことです。
神々の時代のことですから、もちろん魔除けのショール、蛇避けのショールがあっても、不思議ではありませんが、ここではもうすこし現実的に考えてみたいと思います。
すくなくとも、振ったのが「御札」や「神札」ではなく、ショールであったということは、振るのは、ショールでなくても、タオルでもハンカチでも良いわけです。
このように考えますと、問題解決の方法は、ヒレという小道具にあるわけではないとわかります。
けれど大国主神は、疑いなくショールを振っています。
なぜかといえば、須勢理比売を愛し、信頼しているからです。
つまり手も足もでないような苦境に至った時、何を判断の根拠に据えて行動すべきなのかといえば、それは、
「愛する者を護ろうとする心」と、
「愛する者を信頼する心」
であり、それを判断と行動の根幹にしなさいと、古事記は伝えていると読むことができます。
人の上に立つリーダーは、自分ひとりでなんでもできるわけではありません。
そしてリーダーのもとには、手も足もでないような過酷な状況が、いつでも何度でも繰り返し襲ってくるものです。
そういうときに古事記は、
「どうしようもなく困ったときは、
あなたが愛する者を護るためにどうすればよいのか、
あなたを愛する者を信頼し、
愛する者の声をよく聞いて決めなさい」
と教えてくれています。
ムカデも同じです。
ムカデは蛇と違い、今度は足がたくさんあります。
つまり選択肢がたくさんありすぎて、どれを選択したらよいかわからない状況です。
そのとき何を根拠に、何を根幹に据えて行動すべきかといえば、これまた答えは、
「愛する者を信頼する心」と
「愛する者のもとへと絶対に帰ろうとする心と行動」
です。
小中学生に「君は将来何になりたいのですか」と聞けば、その選択肢はまさに多様です。
子供には、何にだってなれるチャンスがあります。
けれど将来何になりたのかを、ただの夢として答えさせるのではなく、自分が将来何をしたら愛する者を護り抜くことができるかと考える。
その答えが、「志」です。
「ボクはトラックの運転手になりたい!」なら、ただの夢です。
「ボクは父ちゃんの家業のトラックの運転をして迅速な物流の役に立ち、多くの人々に幸せを届け、大好きな母ちゃんや妹を護るんだい!」となれば、それは「志」です。
夢は自分だけのものですから、はかなく消えても自分だけのことです。
けれど志は、愛する人を支え、護ります。
蜂も同じです。
蜂は刺されたら痛いです。
心身に痛みを受けたとき、何をもとにその痛みから立ち上がるか。
答えは、愛する者を護るために、できること、必要なこと、しなければならないことをすることです。
似たような状況と対処方法について述べたものに、孟子の『告子下・第十五』があります。
*
故に天の将に大任を是の人に降さんとするや 故天将降大任於是人也
必ず先づその心志(しんし)を苦しめ 必先苦其心志
その筋骨を労し 労其筋骨
その体膚(たいひ)を餓やし 餓其体膚
その身が行ところを空乏せしめ 空乏其身
行ひ為すところを払乱せしむ 行仏乱其所爲所
心を動かし性を忍ぶを以って 以動心忍性
その能はざる所を曽益せしむる所以なり 曽増其所不能
詩はまだまだ続きますが、ここまでを現代語に訳すと次のようになります。
神々が、その人に何らかの使命を与えようとするときは
必ず、先にその人を苦しめます。
どのように苦しめるかというと、
その人の心を苦しめ
志が挫折するような事態を起こし
過剰な肉体労働を強い
体力を使い果たさせ
餓えに苦しませ
その身を極貧にまで追い落し
その人の行おうとすることに
ことごとく反する事態を招き起こします。
神々はなぜそのようなことをするのでしょう。
それは、
その人の心を鍛え
その人を忍耐強くし
できないことを
できるようにさせるためです。
つまりひとことでいうなら孟子は、神は、これと見込んだ人にあらゆる厳しい試練を与える。
それは「その人の心を鍛え、忍耐強くし、できないことをできるようにさせるため」なのだから、「我慢しなさい」と教えています。
要するに孟子の教えは受動的です。
ところが古事記に書かれた大国主神神話は、その成立はおそらく孟子よりも何千年も昔のことでありながら、教えているのは、たいへんに能動的です。
困難に直面したときは、むしろ積極的に
「愛する者を護るにはどうすれば良いか」を考え、
「愛する者と【ともに】たちあがれ!」
と説いているのです。
大国主神は優秀だけれど、イジメを受けました。
現代社会にも、イジメ問題があります。
イジメによって命の危険にまで追いつめられてしまう方もたくさんいます。
若者の自殺者数は、もはや国の戦争状態と同じ程の死者を毎年出すに至っています。
そんな過酷なイジメを受けている若者や子供たちに、
「それは天が大任を君に与えようとしているのだから我慢しなさい」というのでは、立つ瀬がありません。
なぜなら、それは反撃してはいけない、それは暴力になる、だからただ我慢しなさいということだからです。
だったら、我慢できない子や若者はどうしたら良いのでしょう。
「場」から逃げるか、この「世」から逃げる(自殺する)しかない。
それは最悪の選択というものです。
古事記が書いているのは、そうではなくて、
「愛する者を護るために、あなたならどうするのか」
「愛する人とともに考え、たちあがりなさい」と説いています。
イジメを受けて困っている子、悩んでいる若者に、
「君にとっていちばん大切な人は誰?
その大切な人のために、
君は、どうしたら良い?
大切な人を、どうすれば守れる?
大切な人と一緒に考えてみようよ。
君はひとりじゃないんだよ。
君のことを大切に思ってくれている人がいる。
どうしたらよいか、その人とともに考えてみようよ。
その人を守るために君ができることを考えてみようよ」
と問いかけています。
ひとりじゃないのです。
ここで、イジメられた側が、イジメた相手に「このやろー!」と殴りかかれ、反撃せよと説いているのではないことにも注意が必要です。
イジメられた者が、イジメた者に殴りかかって怪我をさせれば、今度は世間の同情はイジメていた側に集まり、気がつけば、イジメられていたA君が「イジメの加害者」、もともと酷いイジメを繰り返していたB君が、「A君によるイジメの被害者」に、またたく間に逆転してしまうのです。
これでは結局馬鹿を見るのは、イジメめられていたA君です。
なぜそのようなことになってしまうかといえば、A君が、このとき「自分がイジメられているという窮地から逃れるために【自分のために】喧嘩する」からです。
古事記はそうではなく、
「愛する者を護るために愛する者とともに立ち向かえ」と説いているのです。
ひとりで戦うのではなく、愛する者と【ともに】立ち向かうのです。
古事記のこの段は、大国主神と須勢理姫が、力を合わせて蛇やムカデや蜂に立ち向かっています。
夜中にそれらがゾロゾロと出てきたら、そりゃあ恐怖です。
恐ろしいです。怖いです。
けれど勇気を持って、大国主神はヒレを振りました。
その勇気は、須勢理毘売を愛する心から生まれました。
ヒレは、大国主神を愛する須勢理姫からの愛の象徴です。
大国主神は、愛によって支えられ、愛とともにたちむかい、蛇やムカデや蜂を撃退したのです。
そしてその蛇やムカデや蜂は、スサノオから与えられた薫陶です。
古事記はここでスサノオを「大神」と記述しています。
大神とは強大な存在です。
その強大な存在から与えられる恐怖に、大国主神は須勢理姫の愛とともに勇気をもってたちむかい、恐怖を撃退したのです。
イジメを受けたからといって、独りで立ち向かうだけなら、どちらがイジメの被害者かさえも、結果は曖昧になってしまうかもしれません。
あるいは、そこで打ち負かされれば、ますますイジメはエスカレートしてしまうかもしれません。
けれど、みんなで立ち上がる。
その勇気は、愛によってもたらされるものです。
愛によって【ともに】たちあがることで、手も足も出ない恐怖や、たくさんの選択肢という煩悩や、心身の痛みを乗り越えることができる。
それをすることが、「優秀な若者」と、「大いなる国の主」になる者の違いであるということを、古事記は書いています。
企業経営も同じです。
会社の経営者であれば、本当に手も足もでないような苦境や、たくさんの選択肢の中での迷いや葛藤、あるいは心身にたとえようのない痛みを誰しも感じた経験を持つものです。
そんなとき、経営者は、その苦境をどうやって乗り越えてきたのか。
消極的に、ただ我慢しているだけでは、会社はつぶれてしまいます。
そんなときに、愛する社員たちのために、愛する妻子のために、みんなと【ともに】立ち向かってきたら、いまがあります。
苦難や苦境には、みんなの愛と、みんなの勇気で立ち向かう。
それが大いなる国のリーダーとなる者のつとめなのだと、古事記は説いているのかもしれません。
正しい行いをすれば、結果はついてくるといいます。
現実はそんな甘いものではありません。
正しい行いをし、正しく生きようとすれば、イジメに遭い、手足をもぎ取られ、あるいは煩悩の渦に飲み込まれ、しまいには心身に痛みを受ける。
それが現実です。
そうではないのです。
古事記は、愛する人とともに、勇気を持って立ち向かえと説いています。
自分ひとりの正義なら、ひとりよがりです。
けれど、愛する者を護るという「志」が伴なえば、そこに決してくじけない強さが生まれます。
古事記はさらに、野原の真ん中に打ち込んだ矢を取ってきなさいという逸話を通じ、弱い野ネズミの家族を登場させています。
野ネズミたちは、その野原を根城にして生活していたのです。
その大事な生活の拠点である野原を、自分たちの努力とはまったく関係のないことで、四方から火を付けられて焼かれてしまっています。
それでものネズミたちは、困っている大国主神を助けています。
四方を紅蓮の炎に囲まれる、つまりどうしようもない業火に焼かれる、そんな情況は、やはりリーダーとなる人なら、誰しも起こりうることです。
けれどどんなに過酷な状況であっても、その過酷な状況の中で、人を助け、必死で生き抜こうとする人々がいるのです。
リーダーであるなら、自分が業火に囲まれたということよりも、何よりまず、そうした人々のこと考えよと、古事記は教えています。
「俺が」ではないのです。
どこまでも「人々のために」です。
大国主神はとても優秀な若者です。
優秀だからイジメられました。
イジメられたからといって、ただ反撃すれば良いのでしょうか。
復讐すれば良いのでしょうか。
それは何のためでしょうか。
自分のために反撃する、自分が辛いから復讐する。
そのようなことを、古事記は一切認めていません。
そうではなくて、愛する者を護るため、民衆を護るために、何が必要なのかを優先して考え、行動せよ教えてくれています。
「俺のため」では、誰もついてこないのです。誰も助けられないし、助けてもくれないのです。
だからそういう人は、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」の世界に入り込もうとします。
けれどよく考えていただきたいのです。
「いまだけ、カネだけ、自分だけ」というなら、もっとも大きな力を持つのは、
「現に巨大な経済力を持ち、他国の通貨と両替できる紙をいくらでも発行できる人」になります。
我々は、そういう人々に、身も心も支配されることになります。
最近、その手の人達が農作物の種子の支配に次いで仕掛けているのが、昆虫食なのだそうです。
アンジェリーナ・ジョリーがタランチュラを食べている画像などが、いま世界中に出回っています。
要するに、まともな野菜や肉は、支配層が食べるから、一般人は昆虫を食え!というわけです。
いろいろな考えの人がいるでしょうが、すくなくとも私は気持ち悪いです。
まともな、新鮮で美味しいお野菜やお米を食べたい。
子や孫たちにも、新鮮で美味しいお野菜やお米を生涯食べることができるようにしてあげたい。
ならば、あらためて神話を学び、
「いまだけ、カネだけ、自分だけ」ではなく、
「未来にも、安全な食事を、みんなとともにすることができる」
そういう時代を拓くべきなのです。
それが日本の神々の御神意です。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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第96回倭塾 11/20(日)13:30〜16:30 東京都千代田区神田佐久間町2-15 秋葉原加藤ビル 6階
第97回倭塾 2023/1/21(土)13:30〜16:00 タワーホール船堀401室
第98回倭塾 2023/2/18(土)13:30〜16:00 タワーホール船堀401室