• 何もかも捨てた先にあるもの


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    何もかも捨てた先にある本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
    これが大事だよ、という教えが『古事記』に書かれています。

    「寒中禊会」神田明神
    20220910 禊
    画像出所=https://www.sankei.com/photo/story/news/150110/sty1501100014-n1.html
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    100点でなければてほんと?!
    得ることが幸せってほんと?

    そんなことを『古事記』を通じて考えてみたいと思います。
    先に答えを申し上げますと、それらは戦後の刷り込みにすぎない。

    大祓詞に「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓しましき」という言葉があります。
    『古事記』にそのまま載っている言葉です。

    「禊(みそぎ)祓(はら)い」というのは、
    「禊(みそぎ)」が「身を削ぐ」、つまりあらゆる欲を捨てること。
    「祓(はら)い」が「払い」で、汚れを落とすこと、といわれます。

    この言葉が出るのは、イザナギ神が黄泉の国から戻ったシーンで、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に戻られたイザナギ神は、そこでまず「禊(みそぎ)」をされます。
    どのようなことをされ、どのような欲が捨てられたのか。
    『古事記』は次のように書いています。

    まず、杖、帯、囊(ふくろ)、衣、 褌(ふんどし)、冠(かんむり)、 左手の手纒(たまき)、右手の手纒を次々に投げ捨てられました。
    すると、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)や、道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)など、ここで12柱の神様がお生まれになっています。

    その生まれた神々の名前をみると、衝立船戸は様々な障害物、道之長乳歯は長い道のり、時量師はすごした時間、和豆良比能宇斯は様々な患(わずら)い、道俣は道の分かれ目、飽咋之宇斯神は飽食、奧疎は疎(うと)んじてきたこと、奧津那芸佐は心の平穏と思っていたこと、奧津甲斐弁羅はやり甲斐と思っていたこと、辺疎はそれらの周囲のこと、辺津那芸佐は周囲の平穏、辺津甲斐弁羅は周囲の取り替えです。
    要するに、身の回りのすべてを投げ捨てられたという意味です。

    さらに中の瀬に潜ってすすがれることで、八十禍津(さまざまな禍(わざわ)い)、大禍津(おおきな禍い)、それらの禍いを治そうとされたときの、神直毘(神々による立て直し)、大直毘(おおいなる立て直し)、伊豆能売(それらによって起きたこと)を捨てられます。

    それだけではなく、水の中に深く潜って底津綿津見(そこつわたつみ)、底筒之男(なかつつのを)、つまり深層心理まで潜ってその中にあるすべてを捨てられ、水の中では中津綿津見(なかつわたつみ)、中筒之男(なかつつのを)、つまり中層意識にあるすべてを捨てられ、水の上では上津綿津見(うわつわたつみ)、筒之男命(うはつつを)、すなわち表層意識にあるすべてを捨てられます。

    要するに、何もかも全部、深層心理にまでをも捨て去られるのです。

    そこまでされたとき、左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から建速須佐之男命がお生まれになられたとあります。

    西洋のディープステイトと呼ばれる大金持ちさんたちがそうですが、一生かかっても使い切れないほどのお金を持ち、この世のありとあらゆる贅沢を独占していながら、さらにもっと彼らは欲しがっています。
    彼らにとっては、得ることが、幸せなのかもしれません。

    けれど日本では、神話の昔から、身を削ぎ、穢(けがれ)を祓いなさいと教えます。
    そして身を削ぐ(禊)は、イザナギの大神さえも、それまでに身に着けたすべてを捨て、さらに深層心理にまで立ち入って、あらゆるものを捨てています。
    そしてそのときに、かけがえのない最高神を得られています。

    つまり、かけがえのない最高のものは、何もかも捨てた先にある、ということです。

    このことは、まずは、得るために努力が必要であるということでもあります。
    若いうちから壮年期に至るまでは、あらゆるものを手に入れるために、精一杯の努力を重ねる。
    それは必要なことだというのです。

    けれど、そうした努力の果てに、すべてを捨てる。
    いちばん大切なものは、そうして「何もかも捨てた先にある」のだと『古事記』は書いているわけです。

    このことを「元々本々(もともとをもととす)」といいます。
    何もかも捨てた先にあるのは、もともとある大切なことだというのです。

    人として生まれ、いま生きているということは、生まれたときの母の愛、育ててくれた父の愛によります。
    我々は愛によって、いまこうして生かされています。
    あらためてその自覚を得たとき、世界が変わる。

    あるいは、何もかも捨てたとき、最後に残るのは「人」であり「仲間たち」であるのかもしれません。
    あるいはそれは、もしかしたら「知識」や「知恵」なのかもしれない。

    何もかも捨てた先にあるものは、人によって違います。
    けれど、その「先にある」本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
    これが大事だよ、というのが『古事記』の教えかもしれません。


    ※この記事は2022年9月の記事の再掲です。
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    その原点というのは、笑顔で活発で、明るくて元気いっぱいの姿です。
    またそこから立ち上がっていこうよ。
    また新たに出発して行こうよ。
    いつだって、何度だって、やり直すのさ、
    そう言って白い歯を見せて笑っている
    そういった、底抜けの陽気さが、日本人の原点であり、これを象徴した神様が、創生の4番目の神様であるウマシアシカビヒコヂの神です。

    可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこじのみこと)を御祭神とする浮島神社《愛媛県東温市》
    20210510 浮島神社
    画像出所=http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=4816
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    我が国の神話に登場する創生の神々の中に、ウマシアシカビヒコヂノカミという神様がおいでになります。
    お名前は、
    古事記では、 宇摩志阿斯訶備比古遅神、
    日本書紀では 可美葦牙彦舅尊
    と表記されます。(読みはどちらも同じです)

    古事記では、はじめに天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神がお生まれになられたあと、
    「次に国(くに)稚(わか)くして
     浮かべる脂(あぶら)のごとく、
     クラゲのようにただよえるとき、
     葦牙(あしかび)のごとく
     萌えあがるものに成る神の名は
     宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)。
     この神の名は音(こえ)を以(もち)いる」

    と書かれています。
    (原文:
     次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時(流字以上十字以音)
     如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神(此神名以音)

    ここでは宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)の名は、「音(こえ)を以(もち)いる」と書かれていますから、用いられている漢字には何の意味もなく、単に神様のお名前が「ウマシアシカビヒコヂノカミ」ですよ、と述べていることになります。

    意味は
     うまし  美しくて立派
     あしかび 葦(あし)の新芽
     ひこぢ  立派な男性

    そこから「ウマシアシカビヒコヂの神」の名は、
    「成長の早い葦(あし)の新芽のように、
     美しくて立派な男性の神様」という意味であるとわかります。

    ところが古事記の文章は、このすぐ後に、
    「次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)
     この二柱の神もまた
     独神(ひとりがみ)と成(な)りまして
     身に隠しましきなり。

    《原文:
     次天之常立神(訓常云登許、訓立云多知)。
     此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也》

    と書いています。

    「独神(ひとりがみ)」というのは、性別のない神様とも言われますが、正確には、夫婦の組としてでなく単独で成った神のことを表します。
    では、男女一対の神を何というかというと、
    「双神(ならびかみ)」、もしくは偶神(たぐひかみ)などと呼びます。

    つまり「ウマシアシカビヒコヂの神」は、美しくて立派な男性の神様であって、独身の神様であった・・・というわけです。
    次の天之常立神(あめのとこたちのかみ)も、ご夫婦で天に常に立たれた神様はなく、おひとりで天に立たれたのだ、というわけです。


    一方、日本書紀では、本文に「ウマシアシカビヒコヂの神」は登場しません。
    混沌としたなかに、最初の神様であられる国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生られたときの表現として、次のように述べられています。

    このときあめと つちのなか    于時天地之中
    あしかびのごと なりますは    生一物状如葦牙
    すなはちかみと なりたまひては  便化為神
    くにのとこたち みこととまをす  号国常立尊

    ここでいう葦牙(あしかび)は、意味としては「葦(あし)の新芽」のことであり、若々しく、エネルギーに満ち溢れた存在として国常立尊が生られたと記しているわけです。
    つまり「ウマシアシカビヒコヂの神」は、状態として「葦の新芽である葦牙(あしかび)のようなエネルギーに満ち溢れた芽」として描かれているだけで、それ自体を独立した神としては描いていません。

    ただし日本書紀は、「一書曰(あるふみにいわく)」として、ここに別伝を6書伝え、このうちの3書で「ウマシアシカビヒコヂの神」を次のように紹介しています。

    1 あるふみに いはくには     一書曰
      いにしへの くにわかくして   古國稚
      ちもわかきとき なほたとへれば 地稚之時譬猶
      うかべるあぶら うごきただよふ 譬猶浮膏而漂蕩
      このときくにの なかにうまれる 于時國中生物
      あしかびのごと ぬきいでて   狀如葦牙之抽出也
      よりてうまれて かみとなります 因此有化生之神
      うましあしかび ひこぢのかみ  號可美葦牙彥舅尊
      つぎにはくにの とこたちのかみ 次國常立尊

    2 あるふみに いはくには     一書曰
      あめつちの まじるとき     天地混成之時
      はじめにかみの ひとありき   始有神人焉
      うましあしかび ひこじとまをす 號可美葦牙彥舅尊
      つぎにはくにの そこたちのかみ 次國底立尊

    3 あるふみに いはくには     一書曰
      あめつちの はじめにるもの   天地初判有物
      わかきあしかび そらになる   若葦牙生於空中
      よりてはかみと なりまして   因此化神
      あめのとこたち みこととまをす 號天常立尊
      つぎにはうまし あしかびひこじ 次可美葦牙彥舅尊
      またあるものは わかきあぶらの 又有物若浮膏
      そらにうかびて なるかみは   生於空中因此化神
      くにのとこたつ みこととまをす 號國常立尊

    いずれもはじめに混沌があり、その混沌の中に、若い葦の芽のような活き活きとした萌芽が生まれ、そこから偉大な神がお生まれになったといった表現になります。
    このことは具体的に「ウマシアシカビヒコヂの神」という御神名を記述していない他の3書も同じで、いずれも葦牙、あるいは

    ここに古代の人々の、「ウマシアシカビヒコヂの神」への思いが伺えます。
    それは、
    我々の出発点は、単に混沌とした天地というのではなく、そこに現れた、溌溂(はつらつ)として生気のあふれた、元気いっぱいの若さにある、ということです。

    最初の神様が、けっしてしかめっ面であったり、威張っていたり、あるいは気取っていたり、おすまししていたのではなく、溌溂とした若さや、活発さにあるということは、我々の祖先は、神々を、明るく、元気いっぱいで、生命力にあふれた、そして愛情にあふれた存在と考えていた、ということです。

    このことを象徴しているのが、「ウマシアシカビヒコヂの神」であり、漢字で書けば「可美葦牙彥舅尊」である、ということなのです。

    これは、とってもありがたいことだと思います。
    人は誰しも、失敗したり、へこんだり、落ち込んだり、あるいは卑屈に歪んだりもするものです。
    けれど、万物のはじまりのときに、最初にあらわれた神様は、とにもかくにも明るくて元気いっぱいの中から生まれたのだ、というのです。

    だったら、困ったときには原点に帰る。
    その原点というのは、笑顔で活発で、明るくて元気いっぱいの姿です。

    またそこから立ち上がっていこうよ。
    また新たに出発して行こうよ。
    いつだって、何度だって、やり直すのさ、
    そう言って白い歯を見せて笑っている
    そういった、底抜けの陽気さが、日本人の原点です。


    ※この記事は2021年5月の記事のリニューアルです。
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  • 下照姫(したてるひめ)と天若日子(あめのわかひこ)の愛の物語


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    世の中には、どうしようもない本物の悪党もいますが、日本人は悪党でさえも、日本人としての矜持を持っていた。そんなことを彷彿(ほうふつ)させる記述をしています。
    これは民度が高くなければ、決して実現できない国家の姿です。

    小灘一紀『下照比売命』
    20211031 下照比売命
    画像出所=http://nota.jp/group/kansaibeijou/?20150214020632.html
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    古事記の国譲り神話に、高天原から派遣された天若日子(あめのわかひこ)が、神罰によってお亡くなりになるシーンがあります。
    このときちょっと不思議なお話が書かれています。
    全文になると難しくなるので、できるだけやさしく、また短く要約してみます。


    高天原(たかあまのはら)から、天孫降臨のための前振りとして葦原中国(あしはらのなかつくに)派遣された天若日子(あめのわかひこ)は、その報告が充分でなくて高天原の高木神から「仕事をしていないのではないか」と疑われてしまいます。
    高木神は、「もし天若日子が悪意なら、この矢によって罰を当てよ」(あくまで意訳です)と、高天原から矢を放ちます。
    その矢は天若日子の胸に刺さり、天若日子は亡くなってしまいます。

    天若日子の妻の下照姫(したてるひめ)です。
    彼女は葦原中国の大王である大国主神の娘です。
    天を照らすのが天照大御神、だから地上(下の国)を照らす立派な女性になってほしいという大国主神の願いが、この下照姫という御名に込められています。

    下照姫は夫の死を悲しみ、その哭(な)く声は風とともに響いて高天原まで聞こえました。
    泣き声で天若日子の死を知った天若日子の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)とその妻子(つまり母と兄妹)たちは、高天原から中つ国まで降りて来ると、下照姫とともに嘆(なげ)き悲しんで、天若日子の亡くなったところに喪屋(もや)を建てて、八日八夜、葬儀を行いました。

    そんな葬儀のときに、阿遅志貴高日子根神(あちしきたかひこねのかみ)が、天若日子を弔(とむら)いにやってきます。
    すると天若日子のご両親や妻の下照姫たちが、
    「我が子は死ななかった。
     我が君は死んでなかった!!」
    と、みんなで阿遅志貴高日子根神の手足に取りついて涙するのです。

    古事記はここで、「天若日子と阿遅志貴高日子根神の二柱の神の容姿がたいへんよく似ていたから間違えたのだ」と書いています(原文:其過所以者、此二柱神之容姿、甚能相似、故是以過也)。

    ところが阿遅志貴高日子根神(あちしきたかひこねのかみ)は、これにおおいに怒り、
    「我は愛(うるは)しい友だからこそ弔(とむら)いに来たのだ。
     なにゆえに吾(あ)を穢(きたな)き死人に比べるのか!!」
    と云うと、腰に佩(は)いた十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて喪屋を切り伏せ、バラバラになった喪屋を足で蹴散らして、そのまま忿(いか)って飛び去ってしまわれます。

    そして古事記は、このあと次のように述べています。
    この事件があった場所は、美濃国の藍見河の河上の喪山です。
    そして上にある十掬剣(とつかのつるぎ)の名は、大量(おほはかり)で、またの名を神度剣(かむどのつるぎ)といいます。

    こうして阿遅志貴高日子根神が、忿(おこ)って飛び去ったとき、高比売命(たかひめのみこと=下照姫)は、その御名をあきらかにしようと思われ、その思いを歌に託されました。

     あめなるや おとたなはたの
     阿米那流夜 淤登多那婆多能
    (天上界においでになる若い機織り娘が首に架けている首飾り)

     うなかせる たまのみすまる
     宇那賀世流 多麻能美須麻流
    (その首飾りの 緒で貫いた宝玉は)

     みすまるに あなたまはや
     美須麻流邇 阿那陀麻波夜
    (緒ひもで貫いた 宝玉は)

     みたに ふたわたらす
     美多邇 布多和多良須
    (二つの美しい御谷(みたに)を渡る)

     あちしきたかひこねのかみそや
     阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也
    (阿治志貴高日子根神だったのです)

    そして古事記は、
    「この歌は夷振(ひなふり)といい、
     いまも楽器とともに演奏されている歌です」
    と、この物語を〆ています。

    さて、実はこの歌が、この物語の種明かしをしています。
    歌の中に「二つの美しい谷を渡る(美多邇 布多和多良須)」とあります。
    天上界とは、高天原のことです。
    その天上界のひとつの宝玉が二つに渡るというのは、
    1 天若日子が高天原と中つ国を渡る神であるということと、
    2 天若日子の魂と阿遅志貴高日子根神が、同じひとつの魂である
    という二つの意味が掛けられています。

    そしてその名が「阿治志貴高日子根神」です。
    なぜか物語に出てくる「阿遅志貴高日子根神」の「阿遅(あち)」が、歌では「阿治(あち)」と字が替わっています。

    「阿遅志貴高日子根神」は、下照姫の兄だというのですから、そうであれば大国主神話の子です。
    そしてこの時代、妻のことを妹(いも)、夫が婿殿であれば兄(あに)と呼ばれました。
    つまり婚姻は、互いに身内となったということだからです。

    そして「阿遅志貴高日子根神」という名をよく見ると、
    「志貴」は貴い志
    「日子根」は、日が天照大御神をあらわしますから、天照大御神の子孫(子)を根とするというお名前になっています。
    つまり「阿遅志貴高日子根神」は、天照大御神の血筋ですと名前に書いてあるのです。
    そして「阿遅」は「遅れてやってきた」という意味です。

    葬儀のとき、その阿遅志貴高日子根神がやってきました。
    すると天若日子の父とその妻らは、皆、泣きながら、「我が子は死んでなかった」、「我が君は死んでなかった」と言って、手足に取りついて泣きました。
    なぜかというと、その阿遅志貴高日子根神が、亡くなった天若日子とそっくりだったからです。

    そして歌は、「玉を緒で貫き、二つの美しい御谷(みたに)を渡る」と詠んでいます。
    そしてその玉の緒は、天上界で紡がれたものであるとあります。
    天若日子は、天上界である高天原で生まれた神です。
    その御魂が緒でつながっているということは、「死んでない」ということです。
    その死んでない天若日子が、「阿治志貴高日子根神ぞ」と詠んでいます。

    「阿遅(あち)」が、歌では「阿治(あち)」に替わっています。
    はじめの「阿遅」は、葬儀に遅れて(葬儀が始まってから)やってきたということです。
    あとの「阿治」は、間違いを整えようとしたということです。
    「治」には、間違いを整えるという意味があるからです。

    「治」が間違いが整えられたという意味なら、後年、天若日子は嫌疑が晴れて、再び下照毘売と幸せに暮らしたということを意味します。
    だから下照姫のお名前も、ここで高比売(たかひめ)と変わっています。
    夫が「志貴(貴い志)」なら、妻は「高」です。
    二神揃って、高い貴い志を遂げられたという意味になります。

    つまり、天若日子は、生きていたのです。
    天照大御神のもとで、高天原の統治を行う高木神に疑いをかけられて矢を射られた天若日子は、自分は死んだことにして世から身を隠したのでしょう。
    ところが自分の葬儀の様子を見に行くと、父母兄妹から愛する妻まで悲しみに暮れている。
    とりわけ愛する妻が涙している様子は、遠目に見ていてもあまりにしのびない。

    そこで喪屋の隙間から妻に「おい、俺だ」とこっそり声をかけたのです。
    このときの妻の下照姫の喜びは、想像するにあまりあります。
    なにしろ「死んだ」と言われながら、ご遺体さえもないままに、葬儀を営んでいたのです。
    「きっとどこかで生きているに違いない」という思いと、愛する夫が帰らぬ人となったのだという悲しみと、その両面から打ちのめされていたところに、物陰から夫が現れる。
    おもわずびっくりして「あなた!!」と声をあげたら、そこにいる天若日子の両親もそれに気づいて、みんなで天若日子を取り囲んで、「良かった、良かった」と涙するわけです。

    けれども表向きは天若日子は死んだことになっているのです。
    生きていたとわかれば、再び追っ手に襲われることになる。
    だから天若日子は、
    「俺は葬儀に遅れてやってきた(阿遅)志の高い(志貴)高天原の天照大御神の末裔(高日子根)の神だ」
    と、別人を装うわけです。
    そして喪屋を蹴散らし、祭壇を壊して、去っていく。

    下照姫は後日、歌を詠みます。
    その歌は、
     あちしきたかひこねのかみそや
     阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也
    (阿治志貴高日子根神だったのです)

    さらに古事記は、この歌の中で「阿遅」を「阿治」と書くことによって、天若日子への嫌疑が間違いであったこと、そしてその間違いが整えられる(なおされる)ことを強く希望していることを明らかにしています。

    そしてその結果がどうなったのかというと、
    「この歌は夷振(ひなぶり)なり(原文:此歌者夷振也)」
    と書いています。
    夷振(ひなぶり)というのは、楽器とともに演奏される歌謡のことです。
    そして天若日子と下照姫の愛の物語は、その後も長く歌い継がれたのです。

    表向きは言えないことを、歌に託して真実を伝えるといった取り組みは、幕末ころまでよく行われたことです。
    坂本龍馬が紀州藩に持ち船を沈められたとき、紀州が金を払わないと揶揄(やゆ)する歌を流行らせたり、高杉晋作もまた、幕府を揶揄する小唄を作って流行らせたりしています。
    その昔も同じで、流行歌(はやりうた)にして、これを広げて言えないメッセージを伝える。
    こうしたことは、かつての日本ではよく行われてきたことです。

    「阿遅」と「阿治」、その違いを歌にした下照姫の歌は、当然、高天原にも聞こえたことでしょう。
    そして天若日子への嫌疑が晴れたことは、下照姫が「高比売命」となったことに明らかです。
    なぜなら下界を意味する「下照」が、高天原を意味する「高」に替わったのです。
    つまり、高天原出身の天若日子の妻として、正式に認められたということです。

    常識的に考えて、天若日子への処罰を取り消すことは、高天原の高木神にはできません。
    矢に当たったことは、神々の意思であり、これをくつがえせば、高天原が神々の意思を軽んじたことになってしまうからです。

    けれど、阿治志貴高日子根神と下照姫が二人仲良く余生をまっとうすることまでは、高天原にも否定できません。
    つまり、二人はこの事件の後、仲睦まじく余生をまっとうしたということになるのです。

    物語のあった場所は、美濃国の藍見河の河上の喪山(原文:此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也)です。
    場所には二説あり、
     現在の岐阜県美濃市御手洗にある天王山と長良川のこととするもの
     岐阜県不破郡垂井町にある喪山とするものがあります。

    ここでひとつの疑問が起こります。
    この物語は出雲神話で、大国主神は出雲(いまの島根県)に在あります。
    ところがその娘の下照姫は、結婚した夫が亡くなったとき、美濃国(いまの岐阜県)で葬儀を行っているのです。
    これはどういうことを意味しているのでしょうか。

    昔の人には常識であったことが、現代では非常識になっているものというものがよくあります。
    まして日本の神話の場合、そこに描かれた世界観は、2〜4万年もの昔までさかのぼるものです。
    万年の単位となれば、地形も違えば気温気候も現代とは異なります。

    そして高天原というのは、これをこの世の他の神々の世界としたのは、江戸時代の本居宣長です。
    それまでは、高天原は地上にあった国であるとされ、その所在地も北は北海道から南は沖縄まで、全国随所に、その所在地が散らばっていました。

    散らばっている理由は、江戸時代まではわからなかったことなのですが、現代では、万年から千年の単位となると、その間に気候が著しく変動したことが学問的に解明されています。
    そして数千年の昔なら、それは縄文時代ですが、縄文時代後期の日本列島全域の人口がおよそ26万人。
    中期以前ならおよそ10万人程度であったことも判明しています。

    日本列島全体で、人口が10万〜26万人なのです。
    土地の所有権も、県の境界線もなかった時代です。
    しかもいまのようなヒートテックはないし、エアコンによる冷暖房もありません。
    当然のことながら、人々は寒冷化すれば南へと向かうし、温暖化すれば住みよい北へと向かいます。
    つまり、高天原は、時代とともに移動していたし、移動していたことが、全国各地に「ここに高天原があった」という場所がある結果になっていると考えられるのです。

    そして、美濃国の北側にあるのが、旧行政区分の飛騨国です。
    飛騨(ひだ)は、いまでこそ飛騨と書きますが、もともとは「日高見国(ひだかみのくに)」と呼ばれた地です。
    『大祓詞』にも「大倭日高見国」として、その用語は出てきます。
    漢字は、後から当てられたものですから、もともとの大和言葉では「ひたかみの国」、「ひ」は天照大御神、「たかみ」は、高所で天照大御神のお姿を見ることですから、「日高見国」は、高天原に近い場所、高天原を見ることができる高所、もっというなら、天照大御神にお目にかかることができる気高い場所という意味の言葉とわかります。

    そしてこの物語が、飛騨に高天原があった時代とするならば、大国主神話がその娘を嫁がせた場所は、その高天原により近い場所、つまり美濃国であったとして、物語が自然につながるのです。

    要するに、天照大御神直系の天若日子と、大国主神の娘の下照姫は、事件後、美濃国で二人、幸せに暮らしたのです。

    このように『古事記』は、たとえ罪人としてお亡くなりになった方であっても、ただ悪人だった、裏切り者だったと軽んずるのではなく、「結果として謀反人になってしまったけれど、真剣な愛に生きたという良い面もあり、また妻に心から愛された男であった」ということを、ちゃんと書いています。
    そしてそのことが歌となり、永く語り継がれているとも書いています。

    どんなに良くしてもらっても、戦いに破れたら手のひらを返したように、彫像までつくって通行人に唾をはきかけることを強要する国もあります。
    けれど『古事記』は、どこまでも、人の愛を尊重しています。
    それが日本のこころです。

    そして人の愛を尊重する、あるいは活きる、ないしは認められる社会というものは、たいへんに民度が高い社会です。
    民度が低く、誰もが自分の利益ばかりを追求するような国では、「咎人であってもその愛を尊重」するなどという甘いことは言ってられないからです。
    すこしでも甘い顔をしたら、すぐに民がつけあがって、自分の利益だけを声高に主張し、我儘を押し通そうとする。
    ですからそのような民を持つ国では、政府は厳罰主義で、一片の情のカケラもない苛斂誅求の辛き政府にならざるをえません。
    これは福沢諭吉が説いていることでもあります。

    そしてそのような国では、政府が民の民度を信じる姿勢を見せれば見せるほど、民衆はつけあがり、一部の者だけが利権を貪り、その利権を貪る者が、心が貧しくなった民衆を扇動して、より一層、愚かな貪りをし抜くようなになります。
    悲しいことですが、そのような国においては、政府が民を人間と思ってはいけない。

    李承晩は、朝鮮戦争のときに自国民を片端から虐殺しました。
    朝鮮戦争による南朝鮮の死者は、北に殺された人の数より、自国の軍隊に殺された人の数のほうが圧倒的に多かったとも言われています。
    そしてそのことの罪を問う声は、いまだに国の内外からひとつもあがっていません。
    毛沢東も、1億人以上の自国民を殺したと言われています。
    けれど彼もその国、その民族にとっては「偉大な英雄」です。

    李承晩にしても毛沢東にしても、それぞれその本人にとっては、ある意味幸せで充実した生涯であったかもしれません。
    しかし、そうした人をリーダーに仰ぎ、そうした人の持つ政府によって虐殺されたり収奪されたり、あるいはかろうじて生き残っても、極貧生活を余儀なくされる国民、あるいは民衆にとって、その時代は幸せな時代であったということができるのでしょうか。

    なにより大切なこと。
    それは誰もが豊かに安心して安全に暮らせる。
    そういう社会の建設です。
    そしてそういう社会であり、民族であればこそ、たとえ咎を受けたとしても、その夫を愛する妻の想いとその心が大切に尊重され、歌にまでなって、永く讃えられたのではないでしょうか。

    冒頭にある小灘一紀(こなだいっき)画伯の絵は、その下照姫(下照比売)です。
    小灘一紀画伯は、古事記を題材に様々な絵を書き、展示会等を通じて古事記の普及に携わっておいでの境港ご出身の洋画家です。
    どの絵も、とても美しい絵です。


    ※この記事は2016年8月の記事を大幅リニューアルしたものです。
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  • 巴御前(ともえごぜん)


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    https://in.renaissance-sk.jp/skrss_2211_sk3?cap=onagi
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    巴御前は、ただ一騎で、敵に向かって馬を走らせました。
    やってきた敵は、武蔵国で評判の力自慢の大男、御田(みた)の八郎師重と、これに従う三十騎です。
    八郎師重というのは、いまで言うなら、まるでプロレスラーのような巨漢。しかも鎧を着て、槍を手にしています。
    ドドドと音を立てて駆けてくる、その八郎師重に、巴御前は正面からまっすぐに馬を走らせました。
    そして正面衝突しそうになった瞬間、巴御前は敵の槍を跳ね除け、そのまま馬の上から、馬上の八郎師重に飛びかかりました。

    絹本著色 『巴御前出陣図』 東京国立博物館所蔵
    20230113 巴御前
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    巴(ともえ)御前といえば、朝日将軍木曽義仲(源義仲)の妻であり、剛勇無双な女性として有名です。

    平家物語は、巴御前について次のように描写しています。

    「巴は色白く髪長く、
     容顔まことに優れたり。
     ありがたき強弓精兵、
     馬の上、徒立ち、打物持っては
     鬼にも神にもあはうどいう
     一人当千の兵者(つわもの)なり。
     究極の荒馬乗り、悪所落し、
     軍といへば、札よき鎧着せ
     大太刀、強弓持たせて、
     まづ一方の大将には向けられけり。
     度々の高名、肩並ぶる者なし。
     されば今度も、
     多くの者ども落ち行き討たれける中に
     七騎がうちまで、
     巴は討たれざりけり」

    現代語訳すると次のようになります。

    巴御前は、色白で髪が長く、容姿がたいへんに優れた女性でした。
    比類のない強弓を引くことができる武人で、
    騎馬の上にあっても、徒歩であっても、
    刀を持っては、鬼が来ようと神が来ようと相手にしてしまおうという、
    ひとりで千人の敵兵にも当たろうという武者(つわもの)でした。
    極めてすぐれた荒馬乗りで、難所であっても駆け下り、
    ひとたび合戦となれば、上品な鎧(よろい)を着て、
    大太刀、強弓を手にして、一軍の大将として活躍し、
    たびたびの武功は、肩を並べる者がないほどでした。
    ですから、この度の合戦(治承・寿永の乱)にあって、
    多くの者共が敗走し討たれた中にあって、
    わずか七騎になるまで、巴御前は討たれずに生き残っていました。

    倶利伽羅峠の戦いで、あちらで四、五百騎、こちらで二、三百騎と戦い、駆け破って行くうちに、ついに、総大将の木曽義仲を含めて、わずか五騎になってしまいました。

    寿永3年(1184年)1月20日、木曽義仲は、愛する巴御前に言いました。
    「ワシは、ここで討ち死にしようと思っている。
     もし人手にかかれば自害する。
     だがな、この木曽殿が最後の戦いに、
     女連れであったなどと言われたくない。
     だがな、巴(ともえ)
     お前は女だ。
     どこへでも行け。
     行って落ち延びよ」

    愛する夫は、自分が死んでも、私を生かそうとしてくれている。
    そうと察した巴御前は、
    「よい敵がいれば、最期の戦いをしてお見せしましょう」
    と、死ぬ覚悟を示しました。

    そんな会話をしてとどまっているところに、敵が三十騎ほどで攻めて来ました。
    「では、殿、
     おさらばでございます。
     殿はこのまま、
     先にお進みなさいませ。」
    そう言い残すと巴御前は、ただ一騎で、敵に向かって馬を走らせました。
    やってきた敵は、武蔵国で評判の力自慢の大男、御田(みた)の八郎師重と、これに従う三十騎です。
    八郎師重というのは、いまで言うなら、まるでプロレスラーのような巨漢。しかも鎧を着て、槍を手にしています。

    ドドドと音を立てて駆けてくる、その八郎師重に、巴御前は正面からまっすぐに馬を走らせました。
    そして正面衝突しそうになった瞬間、巴御前は敵の槍を跳ね除け、そのまま馬の上から、馬上の八郎師重に飛びかかりました。

    強いと言っても、八郎に比べれば、はるかに小柄な巴御前です。
    けれど馬の勢いに乗って斜めに飛びかかった巴御前に、八郎は態勢を崩して巴御前とともに落馬します。
    その、馬から落ちて地面に落ちるまでの、わずかな空きに、巴御前は八郎の兜(かぶと)を持ち上げると、そのまま八郎の首を斬り落としました。
    まるで鬼神のような早業でした。

    あまりの巴御前の強さに恐怖した八郎の部下たちは、恐怖して、馬を返して潰走します。
    後には、首を失った八郎の遺体と、巴御前ひとりが残されていました。

    他に誰もない。
    峠は、シンと静まり返っていました。

    愛する夫も去っていった。
    おそらく、数刻の後には、その夫も死ぬことであろう。
    巴御前は、ひとしずくの涙を袖で拭うと、鎧を脱ぎ捨てました。
    そして、ひとり、どこかへと去って行きました。

    その後の巴御前の行方は、諸説あってわかりません。
    滋賀の大津の義仲寺は、巴御前が義仲の菩提を弔って庵を結んだことがはじまりとの伝承があり、
    また長野県の木曽、富山県の南砺市、富山県小矢部市、新潟県上越市、神奈川県小田原市や横須賀市にも、巴御前の終焉の地とされるところがあります。

    古来、女性の「好き」と、男性の「好き」は意味が異なるといいます。
    男性の「好き」は、「手に入れる」、「手に入れたものを護る」という行動に結びつきます。
    けれども女性の「好き」は、自分にあるすべてで対象を抱きしめる。
    このことは、父性と母性の違いと考えるとわかりやすいかもしれません。

    そのように考えると、もしかすると甲冑を脱いだ巴御前は、平服のまま木曽義仲の後を追ったのかもしれません。
    巴御前と別れたあとの木曽義仲は、麾下の今井兼平と二名で粟津の松原まで駆けます。
    そして自害する場所を求めてあたりを徘徊したところ、馬の足が深田に取られて身動きがつかなくなってしまう。
    そこに追いついた敵方が、義仲に矢を射る。
    矢は木曽義仲の顔面に命中し、義仲はここで絶命します。
    そしてこれを見た兼平も、その場で自害しました。

    義仲の首は追手に刎ねられて持ち去られました。
    巴御前がその現場に到着したときには、おそらく木曽義仲が首のない遺体となってからのことであったろうと思います。
    変わり果てた夫の姿を見て、巴御前は、その遺体の埋葬をしたのか、それとも遺体から形見をとって、いずこへと立ち去ったのか。

    その後の巴御前の消息について、『平家物語』は不明としているのですが、『源平盛衰記』は、このあと源頼朝によって鎌倉に招かれ、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだとしています。
    鎌倉内部の政権争いによって起きた和田合戦によって和田義盛が討ち死にした後は、越中国の福光の石黒氏の元に身を寄せ、その後、出家して尼僧となり、91歳で生涯を終えた記述しています。
    ただこの説は、年代が合わないという指摘もあり、事実は遥としてわかりません。

    お能の演目の「巴」では、巴御前の御霊(みたま)が、愛する木曽義仲と最期をともにできなかったことから、この世をさまよう様子が描かれ、そんな巴御前の御霊と出会った旅の僧の読経によって成仏するという筋書きになっています。

    いまを去ること840年前、戦乱の世に生まれ、愛に生きた美しい女武者がいました。
    巴御前のみやびで艶やかで一途な姿は、いまなお多くの人々によって語り継がれています。


    ※この記事は2022年1月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
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  • 海神の宮殿のもうひとつの解釈


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    10月23日13:30より富岡八幡宮婚儀殿で第95回倭塾を開催します。
     詳細は↓で。
    https://www.facebook.com/events/1041364216516794
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡とされていて、忽然と村人たちが消えた村とされていますが、急激な気温の低下によって、そこに住んでいた海神の一族が、村を捨て、今度はその時代にとても暖かかった沖縄に住んで、そこを竜の宮、竜宮と呼ぶようになったのかもしれません。

    20210218 三内丸山遺跡



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    今使われている「琉球」という名は、十四世紀後半の明の時代に、明の皇帝が琉球三山時代に沖縄にあった3つの王朝(琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王)の冊封を明が認めたときに、明への冊封国の証として「氵」が「王偏」に置き換えられて「琉球」となったものです。

    それ以前のチャイナでは、沖縄のことを「流求」と書いていました。
    これもまた証拠があって、『隋書巻81列伝第46東夷伝』にに「流求國」とあります。
    ちなみに沖縄がチャイナの史書に登場するのは、これが初出になります。

    誰でも知っていることですが、古代のチャイナでは、周辺諸国を蛮族と呼び、ろくでもない漢字を当てるのが常でした。
    ですから、その「流求」という字もまた、意図的に貶めようとして用いられた当て字です。
    ただ、そうはいっても彼らが漢字の当て字をしようとするとき、必ず行うのが、発音、つまり音(こえ)だけは、似た発音になるようにする。

    そこで記紀に、似た発音の土地があるかと探してみると、これがあります。
    「竜宮」です。
    つまり、我々大和民族が、竜宮と認識していたところを、チャイナは勝手に流求と書き、朝貢したら、もったいをつけて琉球にしたわけです。
    そんな漢字をいまだにありがたがって使っている日本人もまたお人好し以外の何者でもない。
    その意味で、個人的には、これからは琉球は、日本式に「竜宮」と表記すべきではないかと思っています。

    ところで日本列島は、というより地球気温そのものがそうなのですが、千年の単位で図ると、上昇期があったり、気温の下降期があったりします。
    その温度差は、直近の1万年だけでも、年間平均気温が現在よりも−8℃から+2℃まで、つまり10℃も違います。
    (それ以前の10万年くらいのスパンでみると、気温差はもっと大きくなります)

    このことは、戦前から昭和30年代くらいまで、日本列島がとっても寒くて、日本海側などでは、平野部でも冬になると2階の窓から出入りしなければならないほどの大雪が降ったのに、いまでは4〜50センチ程度しか積もらなくなったことでも明らかですし、夏場でも、一昔前まではラジオで「今日は30度を超える猛暑です」なんて放送していたものが、いまでは40℃を越す猛暑になったりしていることでも明らかなことです。

    歴史を振り返れば、いまから6千年前には、いまよりも年間平均気温が2℃も高く、この時期には日本列島の西日本一帯は熱帯雨林でしたし、青森あたりが、いまの鹿児島のような温暖な気候でした。
    逆に3000年ほど前は、いまより年平均気温が2℃低く、この頃は東日本はいまの樺太北部のような亜寒帯で、東京あたりでも、冬には零下40℃くらいになる、寒い時期であったとされています。

    日本人は、もともと海洋族で、海で魚を捕り、貝を拾って食べていたことは縄文時代の遺跡から明らかになっていますし、葦舟に乗って、外洋をどこまでも航海する、航海術に長けた民族であったことも近年では明らかになりつつあります。
    そして漁労を中心とする海洋族であれば、海水温の変化によって、収穫する魚が北へ移動すれば、住居も北へと移動させる。
    南へ移動すれば、住居もまた南へ移動させていたと考えられます。

    とにかく日本列島全体で、12万人くらいしか人口がなかったのが縄文時代です。
    土地の所有権で揉める心配はないのですから、その時時の気象環境で、最も住みよいところに住めばよかったわけです。

    そしてこのことに記紀を重ね合わせると、おもしろいことがわかります。

    先程、琉球は竜宮であると書きました。
    そして竜宮におわされたのが、海神(わたつみのおほかみ)です。

    その海神の宮殿について、日本書紀がおもしろい記述をしているのです。
    引用します。

    ここにかごすて  いでしとき 於是棄籠遊行
    わたつみかみの  みやいたる 忽至海神之宮
    そのみやちてふ  ととのひて 其宮也雉堞整頓
    たかどののうへ  かがやきぬ 臺宇玲瓏


    >《現代語訳》
     塩土老翁(しおつちのおきな)に作ってもらった籠(かご)に乗ってしばらくして岸辺に着いた山幸彦が、籠を捨てて歩くと、たちまち海神(わたつみのかみ)の神殿に到着しました。
    その神殿は、高々とした土壁《これを雉(たかがき)といいます》の上に、立派な垣根(かきね)《堞(ひめがき)》が、きちんと手入れされていて《頓》、周囲を見渡すように建てられた高い建物《臺(うてな)》は、燦々(さんさん)と輝いていました。


    現代語訳をお読みいただくとわかりますが、海神(わたつみのかみ)の宮殿の様子がかなり細かく描写されています。
    原文で
    「其宮也雉堞整頓臺宇玲瓏門前有一井」
    とあるなかの「雉(ち)」という字は、高さ9メートルほどの土塀(どべい)のことを言います。
    石垣ではありません。
    土を盛り上げた塀のことです。
    つまり、堤防に近いイメージです。

    その土塀の上に「堞(ひめがき)」があります。
    これは垣根(かきね)のことで、簡単にイメージするなら盛土した堤防の上に植樹がされている情景です。

    その「堞(ひめがき)」が、きちんとえられていて、しかもたいへん手入れが行き届いている《頓》と描写しています。

    さらに塀の内側には、周囲を見渡すように建てられた高い建物である「臺(うてな)」があります。
    「臺(うてな)」というのは今風にいえばタワーのことです。

    そしてそのタワーが「玲瓏(れいろう)」とあります。
    これは「美しく光り輝いている」という意味の言葉です。
    これはひとつには、そのタワーが太陽の光を浴びて燦然(さんぜん)と輝いていると書いているようにも見えますが、もうひとつ、そのタワー自体が光を発しているという意味とも受け取ることができます。
    つまり、灯台です。

    そして、実際にこの情景にそっくりな遺跡があります。
    それが三内丸山遺跡です。

    三内丸山遺跡には、六本柱の巨柱がありますが、この柱は2度の傾斜を付けて建てられていたことがわかっています。
    この2度の傾斜というのは、現代の東京スカイツリーや、全国にある灯台の建築と同じです。
    わずかにハの字型に傾斜を付けることによって、塔の倒壊を防いでいるのです。

    そしてその六本柱の居中の近くには、壮大な建築物があり、この巨柱の周囲は、ゆるやかな傾斜になっていて低地へと接続しています。

    その低地の部分ですが、縄文時代には、海であったと推測されています。
    いまの青森市のあたりは、沖積平野で、川の土砂の堆積と、海水面の低下によって平野となったものです。
    昔は、平野部は概ね海で、三内丸山遺跡は、その海に面した村落であったわけです。

    その海の宮に、山幸彦が「潮の流れに乗って船で」やってきます。
    黒潮は、対馬海峡から日本列島沿いに北上して青森に至り、太平洋へと抜けていきます。
    そして昔は日本海側が経済の中心地ですから、海流を考えれば、三内丸山遺跡にやってきたとしてもおかしくはないのです。

    しかも、「臺」のような建築物の遺跡は、すくなくとも現代においては三内丸山遺跡でしか見つかっていません。
    もしそれが、日本書紀にある「臺宇玲瓏」であるとするならば、実は三内丸山遺跡こそが、海神(わたつみのかみ)の宮殿跡であったということになります。

    三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡とされていて、忽然と村人たちが消えた村とされていますが、急激な気温の低下によって、そこに住んでいた海神の一族が、村を捨て、今度はその時代にとても暖かかった沖縄に住んで、そこを竜の宮、竜宮と呼ぶようになったのかもしれません。

    ちなみに、沖縄という呼称は、初出が淡海三船が記した鑑真の伝記の『唐大和上東征伝』(779年)で、この書の中で鑑真らが、島民に
    「ここは何処か」
    との問うたとき、島民が
    「阿児奈波(あこなは)」と答えたところから来ています。
    いまでは、実際には、沖縄の方言で「「阿児奈波(あこなは)」は、「私の名は」といった意味であったことであろうと言われています。

    この表記を「沖縄」にしたのは江戸中期の新井白石で、1719年の『南島誌』の中で『平家物語』に登場する「おきなわ」を「沖縄」と記したことが初出です。

    いずれにしても、はっきりといえそうなのは、日本列島、北から南まで、みんな祖先をひとつにする家族だ、ということです。
    これはとても大切なことです。


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  • 大国主神の成長神話


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    古事記は、愛する者を護るため、民衆を護るために、何が必要なのかを優先して考え、行動せよ教えてくれています。
    「俺のため」では、誰もついてこないのです。誰も助けられないし、助けてもくれないのです。
    私たちは、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」ではなく、
    「未来にも、安全な食事を、みんなとともにすることができる」
    そういう時代を拓くべきなのです。
    それが日本の神々の御神意です。

    大国主神の像(出雲大社)
    20221007 大国主神
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    大国主は国の譲渡の条件として、
    「私の住処(すみか)として、
     大地の底まで宮柱が届き、
     高天原まで千木が高くそびえ立つほどの、
     大きく立派な神殿を建ててください。
     そうすれば私はそこに隠れましょう」
    と申し出ています。

    そのことでご創建されたのが出雲大社(いずもおおやしろ)です。
    出雲大社も伊勢神宮と同様、いつご創建されたのか、その年月はわかりません。
    それは、
    「わからないくらい古い昔に建てられた」
    ということです。

    さて、その国譲り神話は、
    わが国が国家という大きな単位においても、戦(いくさ)ではなく話し合いで事態を解決する精神や、
    敗れた側を皆殺しにしたりするのではなく、相手の名誉を讃え尊重し顕彰するという日本的心の教えとして紹介されることが多いです。
    けれども実はもうひとつの大切な教えがあります。

    そこで大国主神話を簡単に振り返ってみますと、はじめに大国主神は、因幡で怪我をした白ウサギを助けたとう物語があります。
    有名な因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)の神話です。
    怪我をして困っているウサギを、大国主神が助けたというお話です。
    古事記では、大国主神のこの頃のお名前、つまり若いころのお名前を「大穴牟遅(おおなむち)」と書いていますが、ここでは、わかりやすさを優先して、すべて大国主神で統一して書きます。

    大国主神は困っているウサギを助けただけでなく、ウサギの治療まで行っています。
    つまりこの頃の大国主神は、
     弱い者を助けるやさしさと、
     医療の知識を持った青年
    として描かれています。

    ウサギを助けたあとには、隣国の八上比売(やがみひめ)という美女と結婚しています。
    つまりそれは、
     女性からも好かれる良い青年であった
    ということです。
    皆様の同級生にも人一倍勉強ができてスポーツも万能という非の打ち所のない優秀な生徒がおいでになったことと思います。それと同じです。

    大国主神は、ウサギを助ける直前まで、八十もいる兄たちの荷物を全部ひとりで背負って運んでいます。
    それは、相当な量の荷物であったろうと想像できます。
    それだけの荷物を背負って運べたということは、ものすごい体力の持ち主でもあったわけです。
    ということは、背も高かったのかもしれません。
    しかも大国主神は、母からもとても愛されています。

    ところが、このように、「人柄が良くて頭も良くて美男子で力持ち」というのは、いわゆる「目立つ」存在です。
    いつの時代も同じです。
    目立つ者はイジメられます。
    大国主神もまた、兄たちからよってたかってイジメを受けます。

    ちなみにここで少し解説を加えます。
    古い昔においては、村は全員血縁関係者です。
    ですから、村の若者は全員、兄弟とみなされました。
    同じ親から生まれたということではなく、同じ祖先を持つ一族の兄弟という意味です。

    さて、八十もいる兄たちの荷物を全部背負ったということは、普通に考えれば、「背負わされていた」ということです。
    つまり、バカにされ、下にみられていたわけです。
    ところが、そんなバカにしていた弟が、目当てにしていた八上比売と結ばれるのです。
    古来、
    「男の嫉妬と女の恨みほど恐ろしいものはない」
    といいます。

    そして男の嫉妬は、必ず暴力的な仕打ちに発展します。
    昨今、ネットいじめなどが話題になったりしていますが、そういうことは何もいまにはじまったことではないのです。
    実際、大国主神も、死の危険に遭うほどの酷いイジメにさらされます。

    イジメられるということは、イジメという不条理に、「戦う術(すべ)を持っていない」ということです。
    現代のイジメも同様で、学校や教育の専門家などは、
     むやみに喧嘩したらいけない。
     人を怪我させてはいけない。
     戦いは避けなければならない。
    などと教えます。

    なるほどそれらは人の世の良心の発露です。
    けれど物事には裏表があります。
    抵抗しないとわかれば、嵩(かさ)にかかってその人や国家を、イジメ苛(さいな)み苦しめて自己の利益を図る者というのは、いつの世にも必ずいるのです。
    それは、相手を嫌いだからとか、嫌な奴だからではありません。
    軽くみているからです。
    別な言い方をすれば、舐められているのです。

    さらに、悪いことに人には人を支配することを喜びがあります。
    イジメをしている側は、イジメる相手に対して「悪いことをしている」という罪悪感がありません。
    支配することを、むしろ正義と思っている場合さえあるくらいです。

    さて、大国主神は優秀な若者として描かれています。
    イジメをうけるくらい、頭が良くて美男子で力持ちで優秀なのです。
    けれど、それだけでは「大いなる国の主」にはなれません。

    何が不足しているのでしょうか。
    優秀な人はこの世にたくさんいます。
    けれど人の上に立つリーダーとなれるのは「限られたひとり」です。
    その違いとなるものが、次の展開で明かされていきます。

    あまりに酷いイジメを受けた大国主神は、根の堅州国にいる須佐之男命を訊ねて行きます。
    その途中で須佐之男命の娘の須勢理比売(すせりひめ)と出会い、恋に落ちます。
    ところが須勢理比売が父の須佐之男命(すさのおのみこと)に夫となるべき彼を紹介すると、大国主神話の事情を聞いた須佐之男命は、黙って大国主神を「蛇の部屋」に閉じ込めてしまうのです。

    その部屋は夜になると毒蛇がウヨウヨと出てくる部屋です。
    そのままでは大国主神は蛇に噛み殺されて死んでしまいます。
    このことを知った須勢理比売は、大国主神が部屋に入る前にヒレと呼ばれる肩衣を手渡します。
    そして蛇が出てきたら、蛇に向かってそのヒレを振るようにと話します。
    夜中に蛇がウヨウヨと出てきます。
    大国主神が言われた通りヒレを振ると、蛇が退散していきましたので、大国主神はその後、ぐっすりよく眠れたと古事記は書いています。

    蛇の部屋から無事に出てきた大国主神を、須佐之男命は、こんどは「ムカデの部屋」に入れます。
    そこでも大国主神は、ヒレを使って無事によく寝ることができました。
    次に「蜂の部屋」にも入れられましたが、そこでも大国主神は、ヒレを使って無事によく寝ることができたと古事記は書いています。

    しかし、です。
    ただヒレを振るだけで、蛇や蜂やムカデが退散してくれるものなのでしょうか。
    疑問を持ったまま、物語の続きを読んでみます。

    三つの部屋をクリアした大国主神を、今度は須佐之男命は野原に誘います。
    そして鏑矢を野の真ん中に撃ちこむと、それを拾ってくるように大国主神に命じます。
    大国主神がそのとおりにすると、須佐之男命は野の周囲から火を放ちます。
    大国主神話は、周囲を紅蓮の炎に巻かれてしまいます。

    するとそこに小さな野ネズミが現れます。
    そして「ここを足で踏みつけろ」と言うのでその通りにしますと、そこに大きな穴がポッカリと空き、穴に入ると炎は大国主神の頭上を通り過ぎて行き、大国主神話は助かります。

    このあと大国主神は須勢理比売を連れて根の堅州国を出て、八十神たちを退治し、さらに八千矛神(やちほこのかみ)となり、さらに周辺の国々を平らげて、大いなる国の主となったというのです。
    八千矛神という名は、ものすごくたくさんの槍を持った兵を持つ、大軍の将という意味です。
    そして大国主という名前は、まさに大いなる国の主という意味です。
    大国主神の国は、東亜全体を包み込むような大国です。
    つまり大国主神は、東亜の超大国の大王となったのです。

    古事記は、この物語で、いったい何を伝えようとしたのでしょうか。
    根の堅州国での出来事もそうです。
    何を意味しているのでしょうか。
    ぐっすり眠ることが出世の糸口なのでしょうか。
    穴に隠れて危険をやり過ごすことが、リーダーの条件なのでしょうか。

    これは日本の古典文学に共通していることなのですが、ただ表面上に書かれていることだけを読んでも、意味はわかりません。
    短い言葉の中に、どのような意味があるのかを察しながら読むことで、その真意が伝わるように書かれているのが、日本の古典文学の特徴です。
    そして「真意」は、古事記においては「神意」です。

    ここでの答えはすこし考えたらわかります。
    はじめに蛇の部屋とあります。
    蛇は手も足もありません。
    つまり蛇が意味しているのは、手も足も出ない状況であり、それが数えきれないくらいウヨウヨと襲ってくるという過酷な状況とわかります。
    そのままなら最早死ぬしかないくらい危険な状況です。
    かような危機に陥ったとき、リーダーはどのように対処したら良いのでしょうか。

    この答えを得るときに、「ヒレ」にこだわると解釈を間違えます。
    この問題提起に際して古事記は「ヒレを振った」と書いています。
    ヒレとは女性の肩衣、つまり現代風に言ったらショールのことです。
    神々の時代のことですから、もちろん魔除けのショール、蛇避けのショールがあっても、不思議ではありませんが、ここではもうすこし現実的に考えてみたいと思います。
    すくなくとも、振ったのが「御札」や「神札」ではなく、ショールであったということは、振るのは、ショールでなくても、タオルでもハンカチでも良いわけです。
    このように考えますと、問題解決の方法は、ヒレという小道具にあるわけではないとわかります。

    けれど大国主神は、疑いなくショールを振っています。
    なぜかといえば、須勢理比売を愛し、信頼しているからです。

    つまり手も足もでないような苦境に至った時、何を判断の根拠に据えて行動すべきなのかといえば、それは、
    「愛する者を護ろうとする心」と、
    「愛する者を信頼する心」
    であり、それを判断と行動の根幹にしなさいと、古事記は伝えていると読むことができます。

    人の上に立つリーダーは、自分ひとりでなんでもできるわけではありません。
    そしてリーダーのもとには、手も足もでないような過酷な状況が、いつでも何度でも繰り返し襲ってくるものです。
    そういうときに古事記は、
    「どうしようもなく困ったときは、
     あなたが愛する者を護るためにどうすればよいのか、
     あなたを愛する者を信頼し、
     愛する者の声をよく聞いて決めなさい」
    と教えてくれています。

    ムカデも同じです。
    ムカデは蛇と違い、今度は足がたくさんあります。
    つまり選択肢がたくさんありすぎて、どれを選択したらよいかわからない状況です。
    そのとき何を根拠に、何を根幹に据えて行動すべきかといえば、これまた答えは、
    「愛する者を信頼する心」と
    「愛する者のもとへと絶対に帰ろうとする心と行動」
    です。

    小中学生に「君は将来何になりたいのですか」と聞けば、その選択肢はまさに多様です。
    子供には、何にだってなれるチャンスがあります。

    けれど将来何になりたのかを、ただの夢として答えさせるのではなく、自分が将来何をしたら愛する者を護り抜くことができるかと考える。
    その答えが、「志」です。
    「ボクはトラックの運転手になりたい!」なら、ただの夢です。
    「ボクは父ちゃんの家業のトラックの運転をして迅速な物流の役に立ち、多くの人々に幸せを届け、大好きな母ちゃんや妹を護るんだい!」となれば、それは「志」です。
    夢は自分だけのものですから、はかなく消えても自分だけのことです。
    けれど志は、愛する人を支え、護ります。

    蜂も同じです。
    蜂は刺されたら痛いです。
    心身に痛みを受けたとき、何をもとにその痛みから立ち上がるか。
    答えは、愛する者を護るために、できること、必要なこと、しなければならないことをすることです。

    似たような状況と対処方法について述べたものに、孟子の『告子下・第十五』があります。

     *

    故に天の将に大任を是の人に降さんとするや 故天将降大任於是人也
    必ず先づその心志(しんし)を苦しめ    必先苦其心志
    その筋骨を労し              労其筋骨
    その体膚(たいひ)を餓やし        餓其体膚
    その身が行ところを空乏せしめ       空乏其身
    行ひ為すところを払乱せしむ        行仏乱其所爲所

    心を動かし性を忍ぶを以って        以動心忍性
    その能はざる所を曽益せしむる所以なり   曽増其所不能

    詩はまだまだ続きますが、ここまでを現代語に訳すと次のようになります。

     神々が、その人に何らかの使命を与えようとするときは
     必ず、先にその人を苦しめます。
     どのように苦しめるかというと、
     その人の心を苦しめ
     志が挫折するような事態を起こし
     過剰な肉体労働を強い
     体力を使い果たさせ
     餓えに苦しませ
     その身を極貧にまで追い落し
     その人の行おうとすることに
     ことごとく反する事態を招き起こします。
     神々はなぜそのようなことをするのでしょう。
     それは、
     その人の心を鍛え
     その人を忍耐強くし
     できないことを
     できるようにさせるためです。

    つまりひとことでいうなら孟子は、神は、これと見込んだ人にあらゆる厳しい試練を与える。
    それは「その人の心を鍛え、忍耐強くし、できないことをできるようにさせるため」なのだから、「我慢しなさい」と教えています。
    要するに孟子の教えは受動的です。

    ところが古事記に書かれた大国主神神話は、その成立はおそらく孟子よりも何千年も昔のことでありながら、教えているのは、たいへんに能動的です。
    困難に直面したときは、むしろ積極的に
    「愛する者を護るにはどうすれば良いか」を考え、
    「愛する者と【ともに】たちあがれ!」
    と説いているのです。

    大国主神は優秀だけれど、イジメを受けました。
    現代社会にも、イジメ問題があります。
    イジメによって命の危険にまで追いつめられてしまう方もたくさんいます。
    若者の自殺者数は、もはや国の戦争状態と同じ程の死者を毎年出すに至っています。

    そんな過酷なイジメを受けている若者や子供たちに、
    「それは天が大任を君に与えようとしているのだから我慢しなさい」というのでは、立つ瀬がありません。
    なぜなら、それは反撃してはいけない、それは暴力になる、だからただ我慢しなさいということだからです。
    だったら、我慢できない子や若者はどうしたら良いのでしょう。
    「場」から逃げるか、この「世」から逃げる(自殺する)しかない。
    それは最悪の選択というものです。

    古事記が書いているのは、そうではなくて、
    「愛する者を護るために、あなたならどうするのか」
    「愛する人とともに考え、たちあがりなさい」と説いています。
    イジメを受けて困っている子、悩んでいる若者に、
    「君にとっていちばん大切な人は誰?
     その大切な人のために、
     君は、どうしたら良い?
     大切な人を、どうすれば守れる?
     大切な人と一緒に考えてみようよ。
     君はひとりじゃないんだよ。
     君のことを大切に思ってくれている人がいる。
     どうしたらよいか、その人とともに考えてみようよ。
     その人を守るために君ができることを考えてみようよ」
    と問いかけています。
    ひとりじゃないのです。

    ここで、イジメられた側が、イジメた相手に「このやろー!」と殴りかかれ、反撃せよと説いているのではないことにも注意が必要です。
    イジメられた者が、イジメた者に殴りかかって怪我をさせれば、今度は世間の同情はイジメていた側に集まり、気がつけば、イジメられていたA君が「イジメの加害者」、もともと酷いイジメを繰り返していたB君が、「A君によるイジメの被害者」に、またたく間に逆転してしまうのです。
    これでは結局馬鹿を見るのは、イジメめられていたA君です。

    なぜそのようなことになってしまうかといえば、A君が、このとき「自分がイジメられているという窮地から逃れるために【自分のために】喧嘩する」からです。
    古事記はそうではなく、
    「愛する者を護るために愛する者とともに立ち向かえ」と説いているのです。
    ひとりで戦うのではなく、愛する者と【ともに】立ち向かうのです。

    古事記のこの段は、大国主神と須勢理姫が、力を合わせて蛇やムカデや蜂に立ち向かっています。
    夜中にそれらがゾロゾロと出てきたら、そりゃあ恐怖です。
    恐ろしいです。怖いです。
    けれど勇気を持って、大国主神はヒレを振りました。
    その勇気は、須勢理毘売を愛する心から生まれました。
    ヒレは、大国主神を愛する須勢理姫からの愛の象徴です。

    大国主神は、愛によって支えられ、愛とともにたちむかい、蛇やムカデや蜂を撃退したのです。

    そしてその蛇やムカデや蜂は、スサノオから与えられた薫陶です。
    古事記はここでスサノオを「大神」と記述しています。
    大神とは強大な存在です。
    その強大な存在から与えられる恐怖に、大国主神は須勢理姫の愛とともに勇気をもってたちむかい、恐怖を撃退したのです。

    イジメを受けたからといって、独りで立ち向かうだけなら、どちらがイジメの被害者かさえも、結果は曖昧になってしまうかもしれません。
    あるいは、そこで打ち負かされれば、ますますイジメはエスカレートしてしまうかもしれません。
    けれど、みんなで立ち上がる。
    その勇気は、愛によってもたらされるものです。
    愛によって【ともに】たちあがることで、手も足も出ない恐怖や、たくさんの選択肢という煩悩や、心身の痛みを乗り越えることができる。

    それをすることが、「優秀な若者」と、「大いなる国の主」になる者の違いであるということを、古事記は書いています。

    企業経営も同じです。
    会社の経営者であれば、本当に手も足もでないような苦境や、たくさんの選択肢の中での迷いや葛藤、あるいは心身にたとえようのない痛みを誰しも感じた経験を持つものです。
    そんなとき、経営者は、その苦境をどうやって乗り越えてきたのか。

    消極的に、ただ我慢しているだけでは、会社はつぶれてしまいます。
    そんなときに、愛する社員たちのために、愛する妻子のために、みんなと【ともに】立ち向かってきたら、いまがあります。

    苦難や苦境には、みんなの愛と、みんなの勇気で立ち向かう。
    それが大いなる国のリーダーとなる者のつとめなのだと、古事記は説いているのかもしれません。

    正しい行いをすれば、結果はついてくるといいます。
    現実はそんな甘いものではありません。
    正しい行いをし、正しく生きようとすれば、イジメに遭い、手足をもぎ取られ、あるいは煩悩の渦に飲み込まれ、しまいには心身に痛みを受ける。
    それが現実です。

    そうではないのです。
    古事記は、愛する人とともに、勇気を持って立ち向かえと説いています。
    自分ひとりの正義なら、ひとりよがりです。
    けれど、愛する者を護るという「志」が伴なえば、そこに決してくじけない強さが生まれます。

    古事記はさらに、野原の真ん中に打ち込んだ矢を取ってきなさいという逸話を通じ、弱い野ネズミの家族を登場させています。
    野ネズミたちは、その野原を根城にして生活していたのです。
    その大事な生活の拠点である野原を、自分たちの努力とはまったく関係のないことで、四方から火を付けられて焼かれてしまっています。
    それでものネズミたちは、困っている大国主神を助けています。

    四方を紅蓮の炎に囲まれる、つまりどうしようもない業火に焼かれる、そんな情況は、やはりリーダーとなる人なら、誰しも起こりうることです。
    けれどどんなに過酷な状況であっても、その過酷な状況の中で、人を助け、必死で生き抜こうとする人々がいるのです。

    リーダーであるなら、自分が業火に囲まれたということよりも、何よりまず、そうした人々のこと考えよと、古事記は教えています。
    「俺が」ではないのです。
    どこまでも「人々のために」です。

    大国主神はとても優秀な若者です。
    優秀だからイジメられました。
    イジメられたからといって、ただ反撃すれば良いのでしょうか。
    復讐すれば良いのでしょうか。
    それは何のためでしょうか。
    自分のために反撃する、自分が辛いから復讐する。
    そのようなことを、古事記は一切認めていません。

    そうではなくて、愛する者を護るため、民衆を護るために、何が必要なのかを優先して考え、行動せよ教えてくれています。
    「俺のため」では、誰もついてこないのです。誰も助けられないし、助けてもくれないのです。
    だからそういう人は、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」の世界に入り込もうとします。

    けれどよく考えていただきたいのです。
    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」というなら、もっとも大きな力を持つのは、
    「現に巨大な経済力を持ち、他国の通貨と両替できる紙をいくらでも発行できる人」になります。
    我々は、そういう人々に、身も心も支配されることになります。

    最近、その手の人達が農作物の種子の支配に次いで仕掛けているのが、昆虫食なのだそうです。
    アンジェリーナ・ジョリーがタランチュラを食べている画像などが、いま世界中に出回っています。
    要するに、まともな野菜や肉は、支配層が食べるから、一般人は昆虫を食え!というわけです。

    いろいろな考えの人がいるでしょうが、すくなくとも私は気持ち悪いです。
    まともな、新鮮で美味しいお野菜やお米を食べたい。
    子や孫たちにも、新鮮で美味しいお野菜やお米を生涯食べることができるようにしてあげたい。

    ならば、あらためて神話を学び、
    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」ではなく、
    「未来にも、安全な食事を、みんなとともにすることができる」
    そういう時代を拓くべきなのです。
    それが日本の神々の御神意です。


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  • 真実への扉


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    是非、ご一緒に英霊に感謝を捧げ、護国への決意を新たにしていきたいと思います。
    詳しい内容は↓コチラ↓
    https://nezu3344.com/blog-entry-5295.html

      ───────────────

    A案B案が対立しているのなら、その中間に真実がある。
    互いに対立するのではなく、その中間にある真実を見つけていくことが、真実への扉を開くと、古事記は教えてくれています。

    20220812 天照大御神
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    古事記には、黄泉の国からお帰りになられたイザナギ大神が、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのおど)の阿波岐(あはき)原で、禊祓(みそぎはらひ)をされた後に、天照大御神、月読命、須佐之男命の三貴神をお生みになられるシーンがあります。
    イザナギ大神は、これをたいへんに喜ばれ、天照大御神に、その首に付けた玉の緒を天照大御神にお授けになられた記述があります。

    かくていざなき みことには   此時伊耶那岐命
    いたくよろこび のらさくは   大歓喜詔
    あはみこうみて うみのはて   「吾者生生子而於生終
    みつのたふとき こをえたり    得三貴子」
    かくてみくびの たまのおを   即其御首珠之玉緖
    もゆらにとりて ゆらかして   母由良迩(此四字以音下効此)取由良迦志而
    あまてるかみに たまひては   賜天照大御神而詔之
    いましみことは たかまはら   「汝命者所知高天原矣」
    ところしらせと ことよさむ   事依而賜也

    首に付けた玉の緒とは、一義的には、もちろんネックレスとしての勾玉のことですが、同時に我が国では、玉は「魂(たま)」を意味します。
    つまり「首に付けた玉」とは、イザナギ大神の魂そのものであるわけです。

    そして魂には、胎児が母体とつながるへその緒と同じく「魂の緒」があり、これが肉体とつながっています。
    つまりイザナギの大神は、娘の天照大御神に、男性神としての御霊(みたま)そのものをお授けになられたと、古事記は描写しているわけです。

    これはたいへんに重要な儀式です。
    なぜなら、大神が、その神聖の根幹である神としての御霊を、娘にお授けになられているからです。
    そしてここに、たいへん興味深い描写があります。
    それが、

     もゆらにとりて ゆらかして
    (母由良迩(此四字以音下効此)取由良迦志而)

    という描写です。
    「母由良迩(もゆらに)」には、続けて「此四字以音、下効此(この四字は音(こえ)を用いる。下はこれにならふ)」とありますから、ここは漢字そのものに意味がありません。
    ですから大和言葉で解釈することになります。

    その場合、「も」は「面(も)」です。
    「ゆら」は「万葉集の2065番に「足玉も手玉もゆらに織るはたを」という歌があり、これは物が触れ合って音が鳴ること、つまり「揺れる」ことです。
    つまり「もゆらに」は、「首につけた勾玉を、カラカラと音を立てて揺らしながら、顔から外した」という様子です。

    続く「ゆらかし」は、原文では「由良迦志」です。
    「ゆら」は上と同義です。
    「迦志(かし)」の「迦」は、釈迦という言葉があるように、「力と出会う、めぐりあう」といった意味で、
    「志」は「こころに誓う」ことを意味します。
    つまり「由良釈志(ゆらかし)」は、「揺らしながら、心の力を込めた」という意味になります。

    これはたいへん不思議な描写です。
    首から大切な魂を外して、その魂の緒紐を天照大御神様にお授けになられた・・・までは普通に理解できると思います。
    ところが、その「ものすごくたいせつな魂」を渡すときに、わざわざ、ゆらゆらと揺らしながら、天照大御神さまにお授けになっているからです。

    普通、相手にものを渡すときは、相手が受け取りやすいように、素直に渡すのが普通です。
    ところがイザナギの大神は、わざわざそれを、ゆらゆらと揺らしながら、娘に授けているのです。

    ここに大切なメッセージがあります。

    イザナギの大神の御霊(みたま)とは、「言葉では言い尽くせないほど大切なものである」ということはご理解いただけようかと思います。
    そしてその大切なものとは、実は、常に「ゆらゆらと揺れている」と古事記は伝えているのです。

    なんでもそうですが、すべてのことには「ゆらぎ」があります。
    人は、何につけても、敵か味方か、白か黒か、○か×か、陽か陰か、正しいか正しくないかなどと、ものごとを2つに分けたがります。
    その方が、はっきりするし、なんだか理知的な感じがしたりもします。

    けれど古事記は、「いちばんたいせつなものには、常に『ゆらぎ』があるのだ」と、ここで教えてくれているのです。

    白か黒かの二者択一ではなく、実は白黒どちらともつかない、グレーの部分が一番多かったりする。
    そこに真実があるのだ、と教えてくれています。

    このことは、現実世界の決断に際しても重要な意味を持ちます。
    A案とB案が対立する。
    どちらが正しいのか、激論となる。
    それが間違いのもとだ、と古事記は書いているのです。

    A案B案が対立しているのなら、その中間に真実がある。
    互いに対立するのではなく、その中間にある真実を見つけていくことが、真実への扉を開くのだ、と教えてくれているのです。


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    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

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E-mail info@musubi-ac.com
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