• 大伴家持と紫陽花(あじさい)の花


    ひとりひとりの人間には、小さなことしかできないかもしれないけれど、みんなが力を合わせることによって、大きな働きをすることができる。みんなで大輪の紫陽花を咲かせる。
    それが日本人です。


    20210702 アジサイ
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hydrangea_of_Shimoda_%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%98%E3%81%95%E3%81%84_(2630826953).jpg
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    梅雨の季節といえばアジサイです。
    アジサイは、梅雨の間に七色に色を変えます。
    後に季節の風物詩になりますが、万葉の時代には、あちこちで咲いていたにも関わらず、アジサイを詠んだ歌は二首しかありません。
    そのひとつをご紹介してみたいと思います。

    そのひとつが、大伴家持の次の歌です。

    【万葉集4巻773】
    こととはぬ   (事不問
    きもあじさいの (木尚味狭藍
    もろとらの   (諸苐等之
    ねりのむらとに (練乃村戸二
    あざむききたる (所詐来

    一般の訓読は、
    「事(こと)とはぬ、木(き)すら紫陽花(あじさゐ)諸苐(もろと)らし、練(ねり)の村戸(むらと)に詐(あざむ)かえけり」
    というもので、訳は、
    「物事を問わない木や、色が七色に変わるアジサイの花のように、
     諸々(もろもろ)の弟たちが練り上げた策略に
     騙(だま)されてしまいましたよ」
    といった意味の歌だとされます。

    これですと、あたかもアジサイの花が七色に花色を変えることから、
    「うまいことを言われて、すっかり騙されてしまったぜ」と詠んでいるかのようなイメージになります。
    けれどこの歌は、もともと「恋の結果」ではなく、これから始まる恋への「恋文」として詠まれた歌です。

    どういうことかというと、後に従三位中納言に栄達する大伴家持(おほとものやかもち)がまだ若い頃のことです。
    後に妻に迎えることになる大伴坂上大嬢(おほとものさかのうえのおほひめ)に、家持は恋文として和歌を5首贈りました。
    この歌は、そのなかの一首です。

    しかし果たして、これから女性を口説こうというときに、果たして「私はあんたに騙された。女なんて詐欺師みたいなものだ」なんて歌を贈るでしょうか。

    ものごとには常識というものがあります。
    ちょっと頭を働かせて考えたら、上の解釈がおかしいことは、誰にだってわかることです。

    歌の原文をもういちど御覧ください。
    大伴家持は「諸苐等(もろとら)」と書いています。
    「弟」ではなく、
    竹カンムリの「苐」です。

    「苐」という字は、弟(おとうと)を意味する字ではなくて、草木の「新芽」を意味する漢字です。
    そうであれば「諸苐等」は、「もろもろの新芽たち」といった意味になります。

    また「練乃村戸二( ねりのむらとに)」の「練」という字は、「良いものを選び出す(引き出す)」という意味を持つ漢字です。
    そうであれば「練乃村戸二」は、「村の戸から、最高に良いものを選びました」といった意味になります。

    問題は最後の句の「所詐来(あざむききたる )」で、「詐」という字は、作った言葉を意味する漢字で、そこから「言葉を作って来た→言葉をつくした」という意味になります。

    こうして歌に使われている漢字をもとに、歌を再解釈すると、この歌の意味は次のようになります。

    ******
    古代において、我が皇軍の最高司令官であった大伴家持が、最愛の女性を妻に迎えようとして詠んだ歌。
     様々な種類の木々や、
     七色に花色を変えるアジサイの新芽。
     その中から私は
     最高に良い女(ひと)を選びました。
     だからいま、
     言葉をつくして歌をお贈りします」

    大伴家持は、こうして想いを歌に託し、見事、意中の女性を射止めて、妻に迎えました。

    ******

    歌の解釈は、様々あって良いと思います。
    けれど、詞書(ことばがき)に、意中の女性にプロポーズのために贈った歌なのだと、ちゃんと書いてあるのですから、それはそのようにちゃんと解釈すべきと思います。

    万葉集の歌は、すべて漢字で記されています。
    それらの歌は、漢字を単に万葉仮名として用いているものもあれば、大和言葉に漢字の持つ意味を重ねることで、重層的に複雑な思いを表現しようとした文化の香り高い文字の使い方をしている歌もあります。

    そしてこした官製和歌集を編纂することで、わが国は、わが国を殺し合いによる権力闘争の国ではなく、教育と文化の国にしていこう、という明確な強い意志のもとに万葉集を世に出しています。

    なぜそのようなことを言うのかって?
    当然です。
    書かれたものには、すべて書いた目的があるからです。

    さて、紫陽花(あじさい)は、花の色が梅雨の間に七色に変わります。
    様々な色合いを見せる。
    とりわけ花の新芽は、上の写真にもあるように、さまざまな色合いを私達にみせてくれます。

    古代の大伴氏といえば、天皇側近の豪族の中の大豪族です。
    その跡取り息子であった若き日の大伴家持は、常に最高を求める人であったそうです。
    そしてその大伴家持が、わが国の古代における軍の最高司令長官となり、我が皇軍は当時の世界にあって、世界最高の装備と、世界最高の教練を受けた、世界最強の防人(さきもり)となました。

    歌の解釈もいろいろあります。
    「いろいろある」ということ自体は、とても良いことです。
    なぜなら、100人いれば100人とも金太郎飴のようにみんな同じ解釈しかしないというのは、全体主義でありファシズムであるからです。

    極左から極右まで、様々な思想が許容される。
    それはとても良いことです。

    しかし、それらは、すべて、紫陽花の新芽と同じです。
    咲いてみれば、ひとつの幹から出た、同じ株の花なのです。
    だから、本当は全部でひとつです。
    ひとつひとつもひとつであり、全部合わさったものもひとつなのです。
    つまりこの世の全部はつながっている。
    情緒として、あるいは情感として、それを理解できるかどうかが、実は日本人かどうかの境目なのだそうです。
    わからない人のことを、外人と言います。
    外人とは、単に言葉や肌の色が違うとか、国籍が違うとかいうことだけではないのです。
    日本人としての情感を持つかどうかが、日本人かどうかの境目なのです。
    そして日本人なら、全部でひとつ、ということが、いつの日か必ず腑に落ちるものです。

    体の細胞と同じです。
    ひとつひとつの細胞は、ほんのちょっとずつの役割しか果たすことができないけれど、でも、みんなでまとまることで、皮膚になったり、内臓になったり、さざまな大きな働きをすることができる。
    細胞のひとつにだって、もしかしたら、様々な考え方をもっているかもしれない。
    けれど、つねに、みんなで一緒になって自分の役割を遂げて、一生を終わっていきます。

    ひとりひとりの人間には、小さなことしかできないかもしれない。
    けれど、みんなが力を合わせることによって、人は、大きな働きをすることができます。
    それが、二宮尊徳の言う「積小為大」です。

    みんなが集まって大輪の紫陽花を咲かせるのです。
    なぜならわたしたちは日本人だからです。


    ※この記事は2021年7月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
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  • 大伴家持と児嶋の教養


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    日本が諸外国がそうであったように、女性をただの物として扱うような社会なら、大伴旅人のような武門の長である高官がこのように「娘子の歌に涙を流した」などという歌が生まれるはありえないのです。

    20210629 巫女さん
    画像出所=https://www.ac-illust.com/main/search_result.php?word=%E5%B7%AB%E5%A5%B3
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    日本をかっこよく!

    拙著の『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』から、大伴旅人(おほとものたびと)と、児嶋という若い女性の問答歌をご紹介したいと思います。
    きっと、何かを感じていただけるものと思います。

    (お時間のない方は、途中を飛ばして、最後にある「四 鑑賞」だけをお読みいただけると良いと思います。)

     ***

    巻六‐〇九六五〜九六八 児嶋と大伴旅人
    大夫と念へる吾や水茎の 水城の上に涙拭はむ


    四首の歌をまとめてご紹介になります。
    この中で特に有名なのは968の
    「大夫(ますらを)と
     念(おも)へる吾(われ)や
     水茎(みなくき)の
     水城(みづき)の上(うへ)に
     涙(なみだ)拭(のこ)はむ」
    でしょうか。

    日頃男らしくありたいと思い、そのように自分を制してきた私が、思わず涙を流してしまうというこの歌は、男心のやさしさを表す歌として、多くの人に愛されてきと解説されています。
    しかしこの四首の歌を通じて、私達が学ばなければならないことは、すこし別なところにあるのではないでしょうか。

    一 原文と一般的な読み下しと解釈
    (原文)
    【題詞】冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首
    965 凡有者 左毛右毛将為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞
    966 倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈
    右大宰帥大伴卿 兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中 有遊行女婦 其字曰児嶋也 於是娘子傷此易別 嘆彼難会 拭涕自吟振袖之歌
    【題詞】大納言大伴卿和歌二首
    967 日本道乃 吉備乃児嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香裳
    968 大夫跡 念在吾哉 水茎之 水城之上尓 泣将拭


    《一般的な読み》
    【題詞】
    天平二年冬十二月に太宰帥大伴卿の京に上りしに娘子(をとめ)の作れる歌二首
    【娘子(をとめ)の歌】

    965 凡(おほ)ならば
       かもかもせむを
       恐(かしこ)みと
       振り痛(た)き袖を
       忍びてあるかも

    966 大和道(やまとぢ)は
       雲(くも)隠(かく)りたり
       然(しか)れども
       余(あ)が振る袖を
       なめしと思ふな

    【補記】
    右は太宰帥大伴卿、大納言兼任のため京(みやこ)に向ひて上道(かみだち)す。
    此の日、馬を水城(みずき)に駐(とど)めて府家(ふか)を顧(かへり)み望(のぞ)む。
    このとき卿を送る府吏(ふり)の中に遊行女婦(うかれめ)あり。
    其の字(あざな)を児嶋と曰(い)ふ。

    ここに娘子(をとめ)、この別れの易(やす)きを傷(いた)み、その会ひの難(かた)きを嘆き、涕(なみだ)を拭(のご)ひて、自ら袖を振りこの歌を吟(うた)ふ。

    【題詞】大納言大伴卿の和(こた)ふる歌二首
    【大伴旅人の歌】

    967 大和道(やまとぢ)の
       吉備(きび)の児嶋(こしま)を
       過ぎて行かば
       筑紫(つくし)の子嶋(こじま)
       思ほえむかも

    968 大夫(ますらを)と
       念(おも)へる吾(われ)や
       水茎(みなくき)の
       水城(みづき)の上(うへ)に
       涙(なみだ)拭(のこ)はむ

    《一般的な解釈》
    【題詞】
    天平二年(730)冬十二月に太宰の長官の大伴旅人が京の都に上ったときにおとめが作った歌二首
    【娘子(をとめ)の歌】
    965 普通の平凡な人ならどうともしますが、恐れ多かろうと、振りたい袖もこらえています。
    966 大和路(やまとぢ)は雲に隠れています。それなのに私が振る袖を無礼だとは思わないでください。

    【補記】
    右は太宰府の長官の大伴旅人卿が、大納言を兼任することになって、京の都に向かって帰途についた。
    この日、馬を水城(みずき)に駐(とど)めて太宰府の館(やかた)を振り返って見た。
    そのとき卿を見送る太宰府の官人たちにまじって、遊行女婦(うかれめ)がいた。その名を児嶋(こじま)という。
    そのおとめは、別れが易(やす)くて、また会うことが困難なことを悲しんで、涙を拭きつつ、みずからこの袖振る歌を口ずさんだ。

    【題詞】大納言大伴卿が和(こた)えて詠んだ歌二首
    【大伴旅人の歌】
    967 大和道の吉備(きび)の児島(こじま)を過ぎて行くときに、筑紫(つくし)の子島(こじま)を念(おも)い出すだろう
    968 ますらおと思う私が、水茎の水城の上で涙をふくことか


    二 再解釈と鑑賞

     この時代の遊行女婦(うかれめ)という言葉は、後にこれが詰まって「遊女(ゆうじょ・あそびめ)」という言葉になりました。
    けれども後の世の「遊女」と、この時代の「遊行女婦」では、その意味がかなり異なります。
    なぜならこの時代の「遊行」は、鎮魂や招魂のための歌舞のことをいうからです。また「舞」は神々との対話のためのものでした。

     これは神話に依拠しています。
    もともと遊行の事始めの神様が天宇受売(あめのうずめ)神で、天の受売(うずめ)というご神名は、天照大御神の側近にあって天照大御神のお言葉を下々に伝え、また下々の声を天照大御神に取り次ぐお役目のことです。
    ですから「受け売り=受売(うずめ)」です。
    実際、天宇受売神は、天の石屋戸神話においても、天照大御神の御下問に、直接御返事をなされています。
    そしてその天宇受売神は、この天の石屋戸の前で舞を披露した神様でもありました。

     天宇受売神の舞というと、あたかもヌードダンスのようなものであるかように紹介しているものを見受けますが、古事記の原文は「裳(も)の紐を女陰(ほと)に垂らして踊った」と書かれているだけです。
    裳は袴(はかま)のようなものですから、今風に言えば、ハカマの紐を前に垂らして、その紐を揺らしながら踊ったということであって、どこにも淫らな裸踊りとは書いてありません。

     そしてこの天宇受売神は、天孫降臨のときに迩々芸命(ににぎのみこと)と共に高天原から地上に降り立ち、地上において国津神(くにつかみ)の猿田彦と結婚して「猿女君(さるめのきみ)」と名前を変えています。
    これが我が国の女性が結婚して苗字が変わる事初(ことはじ)めです。そして猿女君の舞踊は、猿楽(さるがく)と呼ばれて、その後の宮中舞踊や神楽舞、農村神楽舞などとして発展し、この猿楽から能楽や歌舞伎が生まれています。

     歌の読みや意味は、一般的なものとあまり変わりはありません。
    読みについてはできるだけ七五読みすべきとの考えから、多少、変えて鑑賞したものを次に掲げます。
    ただ、歌の意味については、一般的なものですと、少々言葉足らずのところがあると思われますので、すこし詳しく考えてみたいと思います。


    《歌の読み》
    【題詞】
    ふゆじゅうにがつ(冬十二月)おほみこともち(太宰)のそち(帥)のおほとも(大伴)のきみ(卿)みやこ(京)にのぼりしとき いらつめ(娘子)のつくれるうた にしゅ
    冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首

    【娘子(をとめ)の歌】
    965
     おほならば    凡有者   私が普通の人であれば
     さもうもせむを   左毛右毛将為乎 袖を左右に振って
     かしこみと    恐跡      かしこみながら
     ふりたきそてを   振痛袖乎    痛いほど袖を振りたいところです
     しのびてあるかも 忍而有香聞   でもそれをこらえています

    966
     やまとちは   倭道者    都(みやこ)への道は
     くもにかくれり 雲隠有    雲に隠れた遠くまで続きます
     しかれども   雖然     それだけに
     あかふるそてを 余振袖乎   私が振る袖を
     むれとおもふな  無礼登母布奈 決して無礼とは思わないでくださいませ

    【補記】
    みぎのおほみこともちのつかさ(太宰府)のおほとも(大伴)のきみ(卿)、おほひものもうす(大納言)のにんをかねて みやこ(京)にむかひのぼるみち
     右大宰帥大伴卿 兼任大納言向京上道
    このひ うまをみずきにとめて つかさのいへ(府家)をかへりのぞむ
     此日馬駐水城顧望府家
    このとき きょうをおくるふりのなかに うかれめあり
     于時送卿府吏之中 有遊行女婦
    なをこじまといふ
     其字曰児嶋也
    ここにおひて いらつめ(娘子) わか(別)れのやす(易)きをいた(傷)み
     於是娘子傷此易別 
    あう(会)のかた(難)きをなげ(嘆)き
     嘆彼難会 拭涕自吟振袖之歌
    なみだ(涕)をぬぐひ おのがそでをふるのうた
     嘆彼難会 拭涕自吟振袖之歌

    【題詞】
    おほひものもうす(大納言)のおほとも(大伴)のきみ(卿)、こた(和)ふるのうた(歌)にしゅ(二首)
     大納言大伴卿和歌二首

    【大伴旅人の歌】
    967
     やまとちの   日本道乃   日本男児の行く道です
     きびのこしまを 吉備乃児嶋乎 これから吉備の国の児嶋郡も通ります
     すぎゆかは   過而行者   そのときはきっと
     つくしのこしま 筑紫乃子嶋  筑紫で小さな肩を震わせた
     おもほゆかも  所念香裳 児嶋 おまえのことを心に刻んで思い出すよ。

    968
     ますらをと   大夫跡   日頃から男らしくありたいと
     おもへるわれや 念在吾哉  ずっと思ってきた私だけれど
     みつくきの   水茎之   こうして歌を贈ろうと筆を持ち
     みずきのうえに  水城之上尓 水城の上に立ちながら
     なみたのこはむ  泣将拭   流れる涙を止めることができません。

    三 用語解説
    【題詞】
     『冬十二月」・・・天平二年の十二月。新暦だと七三一年一月。
     『大宰帥大伴卿上京」・・・太宰府の長官だった大伴旅人卿が、このとき大納言に昇進し、その辞令を受けるために京の都に上京しました。
    【娘子(をとめ)の歌】
    965
    『凡有者(おほならは)』・・・私が平凡な普通の人であるならば
    『左毛右毛(さもうも)』・・・左も右もですが、我が国では古来、ひ(左)が上、み(右)が下という概念があります。「ひ」は「霊・魂」であり、「み」は「身」です。何ごとも霊が上、身が下です。こうした概念は「ひぃふぅみぃよぉ」の数詞で、幼い頃から親から教えられたものです。「ひ」は霊であり日(太陽)です。「ふ」は生(ふ)です。「み」は身です。身は霊(日)から生まれると考えられてきたのです。
    『恐跡(かしこみと)』・・・おそれおおいので
    『振痛袖乎(ふりたきそてを)』・・・お別れのために手を振ることを、袖を振ると述べています。
    『忍而有香聞(しのびてあるかも)』・・・この場合の「しのぶ」は我慢すること。

    966
    『倭道者(やまとちは)』・・・都へと向かう道は。
    『雲隠有(くもにかくれり)』・・・都へと向かうために遠く離れることを、雲に隠れるように見えなくなると表現しています。有は「くもにかくれし」など「し」と読むのが一般ですが、「有」は「し」とも読み、この場合は「くもにかくれり」の方が、全体に美しくなると思います。
    『余振袖乎(あかふるそでを)』・・・余は、もともと柄のついた刃物の象形です。刃物は魔(ま)や膿(うみ)を取り除くことに用いられることから「とりのぞく」意味が派生しました。娘子がここで自分のことを「余」と述べているのは、いつ取り除かれても(追い出されても)いいような自分という意味で、「とるにたりない自分が」と述べています。「袖を振る」は、お別れに去っていく人に手を振る様子です。
    『無礼登母布奈(むれとおもふな)』・・・「無礼と思うな」といった意味です。私がお別れに、去っていく大伴卿に手を振ることを、決して無礼とは思わないでくださいというわけです。無礼は、一般には「なめし」と詠まれますが、それですと「なめしとおもふな」で八文字になります。むしろ「むれ(無礼)とおもふな」の方が自然ですし、字数も七文字におさまります。

    【補記】
    『右大宰帥大伴卿 兼任大納言向京上道』・・・題詞の追加でこのときの上京が大納言兼任の昇進のためのものであったことが明かされています。
    『此日馬駐水城顧望府家』・・・この日、馬を水城(みずき)(※1)に駐(とど)めて太宰府の館(やかた)を振り返って見たということです。
    (※1)水城(みずき)は外濠を持った土塁で、白村江の敗戦後、唐軍が日本本土に攻め込んでくる計画があり、これに対する本土防衛ラインとして建設されました。ちなみにこの外寇(がいこう)の脅威を、「唐と新羅の連合軍による」と表記するものが多いですが、新羅に新羅単独で日本に攻め込むだけの実力があるならば、新羅は単独で日本に攻め込んだことでしょう。それがなかったのは新羅には単独で日本に攻め込むだけの実力がなかったということです。一方唐は、白村江の戦いのあと、吐蕃(とばん)(後のチベット)との大非川の戦い(670年)に十万の大軍を向かわせながら吐蕃の四十万の大軍の前に大敗し、その方面が忙しくなったことから、日本への侵攻は実現しませんでした。
    『于時』・・・このとき
    『送卿府吏之中有(きょうをおくるふりのなかに)』・・・大伴旅人を見送る大宰府の職員たちにまじって。

    『遊行女婦其字曰児嶋也(うかれめあり なをこじまといふ)』・・・遊行女婦(うかれめ)は前出。その女性の名前が「児嶋(こじま)」です。
    『於是娘子傷此易別嘆彼難会』・・・別れが易(やす)くて、また会うことが困難かもしれないと。
    『拭涕』・・・涙をぬぐう。
    『自吟振袖之歌』・・・みずからこの袖振る歌を口ずさんだ。

    【題詞】
    『大納言大伴卿和歌二首』・・・このでの「和」は、和(こた)えてと読みますが、ただ答えただけではなくて、なごやかに歌で答えたといったニュアンスになろうと思います。

    【大伴旅人の歌】
    967
    『日本道乃(やまとちの)』・・・966では倭道(やまとぢ)と書いていたものを、ここでは読みは同じでも「日本道(やまとぢ)」と書いています。
    倭国を改めて日本という国号は大伴旅人よりも前の時代にすでに外交文書にも表記されていますが、ここであえて「日本道」と書いたのは、ただ大和に向かう道というだけでなく、
    「ひのもとにある正々堂々とした男の道」
    という語感が伴っているものであろうと思います。
     
    『吉備乃児嶋乎(きびのこしまを)』・・・吉備の国は、現在の広島県東部から兵庫県西部、それに現在の香川県の島しょ部までを含む広大なエリアで、九州から京の都に向かうには、必ず通る道となります。
    一読すれば、吉備の国にある島しょ部ということになりますが、あえて吉備と言ったのには、
    「吉(よ)いことを備(そな)える」から、児嶋(こじま)という名の女性の才能を褒める意図もあったのであろうと思われます。

    『筑紫乃子嶋(つくしのこしま)』・・・ここでは女性の児嶋のことを、意図して「子嶋」と呼んでいます。
    小さな肩をふるわせて別れを惜しむ女性の姿を小嶋と書くことによって、その女性の肩の肉がないことを彷彿させ、これによって児嶋が、未婚の若い女性であることまでも読み取れるように工夫されています。

    『所念香裳(おもほゆかも)』・・・ただ「思う」や「想う」ではなく、「念(おも)ふ」としています。念という字は、大切な心臓をすっぽりと覆った象形で、たいせつなことを心に含み、いつも思うことを意味します。

    968
    『大夫跡(ますらをと)』・・・太夫は三位以上の重職を示す言葉で、ふつうはこれで「たゆう」と読みますが、続く「跡」を「あと、みち」などと読むと、意味が通じなくなります。そこでここは一般に「ますらをと」と読むとされています。「ますらを」とは、心身ともに人並みすぐれた強い男子のことです。
    『念在吾哉(おもへるわれや)』・・・大伴旅人は武門の家柄ですから、日頃から「ますらを」でありたいと生きてきたということ。

    『水茎之水城之上尓(みつくきの)』・・・水茎(みづくき)は、源氏物語の夕霧に「涙のみづくきに先立つ心地(ここち)」という記述があり、筆のことを指すようです。次の歌を返そうと、筆を出したけれど、涙をこらえる児嶋気持ちがいたくひびいて、筆を持つ手と、いま立っている防塁の水城(みづき)の上に、涙がこぼれる、といった意味になります。

    以上から、この文を現代語に意訳してみます。

    【題詞】
    天平二年の十二月(新暦の731年1月)、太宰府(おほみこともちのつかさ)の長官であった大伴旅人の卿(きみ)が、大納言昇進の辞令を受けるために京の都に上京することになりました。このときにある娘子(いらつめ)が詠んだ二首の歌です。

    【娘子(をとめ)の歌】
    965
    もし私がうかれめではなくて普通の女なら、おもいきり袖を左右に振って、それはとってもおそれおおいことですけれど、もう、痛いほど袖を振りたいところです。でもそれをじっとこらえているのです。

    966
    大伴旅人様の都(みやこ)への道が、雲に隠れた遠くまで続いているのだとしても、私が振る袖を決して無礼などと思わず、どうかご無事でお帰りくださいませ。

    【補記】
    実はこの二首の歌は、太宰府の長官の大伴旅人卿が、大納言に兼任で任官を受けて京の都に向かおうとされたときの歌です。大伴卿は、太宰府の門を出たあと、馬を水城のところに駐(と)めて、大宰府を振り返りました。すると大宰府の門前で大伴卿を見送る人々の中に、遊行女婦(うかれめ)と呼ばれる旅の神事のための舞踊家の女性がありました。名前を児嶋(こじま)といいます。その女性は、大伴卿への恩顧から、卿とのお別れがあまりに簡単であることを痛んで、涙をぬぐいながら袖を振っていました。これを見た大伴卿は、その娘の歌に和やかに答えて、次の二首の歌を詠まれました。

    【大伴旅人の歌】
    967
    別れは惜しいが旅立ちは日本男児の行く道です。そういえば、旅の途中で吉備の国の児嶋郡を通ります。そのときはきっと、この筑紫で小さな肩を震わせて泣いていた児嶋、おまえのことを心に刻んで思い出すよ。

    968
    私はね、日頃から男らしくありたいとずっと思ってきました。日本男児は泣くものではない。そう思い続けてきました。けれどね、その私がいま、こうして君に歌を返そうと筆を持って水城の上に立ちながら、流れる涙を止めることができないでいます。


    四 鑑賞

     大伴旅人と児嶋という女性のこの歌の応酬が、そのまま旅人と児嶋が深い関係で云々と妄想するのは、いささか不謹慎であろうかと思います。すこし話は変わりますが、戦前戦中に兵隊さんたちの間で歌われていた兵隊節に『ズンドコ節』がります。大変人気のあった曲で、その後、ドリフターズがこの唄のリメイクを出したりしていましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。

    1 汽車の窓から手をにぎり
      送ってくれた人よりも
      ホームの陰で泣いていた
      可愛いあの娘(こ)が忘らりょか
      トコズンドコ ズンドコ

    2 花は桜木人は武士
      語ってくれた人よりも
      港のすみで泣いていた
      可愛いあの娘が目に浮かぶ
      トコズンドコ ズンドコ

    3 元気でいるかと言う便り
      送ってくれた人よりも
      涙のにじむ筆のあと
      いとしいあの娘が忘られぬ
      トコズンドコ ズンドコ

     万葉集にあるこの大伴旅人と児嶋という女性の歌は、まさにこの唄と同じ日本男児の心を歌っているといえるのではないでしょうか。
    ズンドコ節に唄われたホームの影や港の隅で泣いていたり、涙のにじむ筆跡の手紙を書いてくれた女性と、送られた兵隊さんは、別に深い仲とばかりは限りません。
    むしろ惹かれ合っていたかどうかさえもわからない。
    けれど、いざ遠方に出仕(しゅっし)となったとき、そっと涙を拭いてくれている。そんな女性を、心の底からいじらしいと思う男心。
    それはお互いの思いやりの心であり、人を愛する日本人の心といえるのではないでしょうか。

     この歌の応酬のときの大伴旅人は、最愛の妻を亡くしてまだ日も浅いときです。もちろん側女を何人おいても構わない時代のことではありますが、すくなくともこの歌の応酬から、大伴旅人と児嶋との間に、深い関係は私には感じられません。

    むしろ旅の神楽芸人として、みんなを楽しませてくれた美しい女性が、まったくそんなに深く話したことも接したことさえもなかったのに、歌まで詠んで、涙を流して自分を見送ってくれた。その歌二首を水城のあたりで届けられた大伴旅人は、その歌を見ることもなく、そのまま伴の者に渡すだけでもよかったはずです。
    ところが大伴旅人は、贈られた、一般女性のその歌を、わざわざ読み、行列を停めて、筆を手にして、お返しの歌をそれも贈られた歌と同じ二首、丁寧に詠んで児嶋に返しています。

    もし大伴旅人とこの女性との間に何らかの関係があるのなら、その女性のために私的に行列を停めれば、同行する徒士たちの反感や怒りを買うことになります。
    これから都に上る長い旅路なのです。このことを考えれば、むしろ大伴旅人とこの女性との間にはなにもなかったと考えるほうが妥当です。

     そのうえで大伴旅人は、身分の上下や職業の貴賤などにいっさい関わらず、ひとりひとりを人として慈(いつく)しみ、その気持や思いをしっかりと受け止めていくことこそが人の上に立つ者の使命であり在り方であると思っていたに違いありません。
    だからこそ大伴旅人は、一介の、それも地元の人間でもない女性からの歌に、わざわざ行列を停めて、歌を返しているのです。

    我が国は天皇の知らす国です。
    これは、名もない民草(たみくさ)のひとりひとりを、すべて天皇の「おほみたから」とするという国の形です。
    身分はそれを実現するために与えられたものです。
    その意識が、大伴旅人の心のなかにしっかりと根をおろしていたのです。

     一方、児嶋は旅芸人の女性です。
    けれど彼女は、娘子というからには若い女性なのでしょうけれど、実に思いやりのある心地よい歌を二首、しかも漢字で書いて詠み、しかもその歌を高官である大伴旅人に贈っています。

    この歌は、この時代(八世紀)の女性が、ちゃんと字が書けて、高い教養を身につけていたことを示しています。
    百年前といわず、いまでも世界には「女性は文字を覚える必要はない」などとしている国や民族もあります。
    西洋では18世紀でも大都市のの識字率が男女合わせての10%内外であったという説もあります。
    まして女性の識字率となれば1%にも満たなかったのが世界の歴史です。
    そんな世界にあって日本で途方もない昔に、旅芸人の女性であっても、歌を読み書きできるだけの教養を備えていたのです。
    これこそわが国の誇りといえることではないでしょうか。

     万葉集にあるこうした庶民の歌が、「そのほとんどは貴族階級の創作だ」という説を唱えている人もいます。
    私は違うと思います。
    なぜならたとえばこの四首の歌の応酬を見ても明らかな通り、そもそも大伴旅人は、武門の家柄なのです。
    そして軍というものが、ただ単に武力を頼む武骨で乱暴な男たちだけの世界だというのなら、その最前線である太宰府の長官もまた、武威と豪腕を誇る勇ましい男であることを宣伝すべきなのです。

    ところがこの歌では、大伴旅人は、ひとりの見送りの、それこそあまり親しくもない女性の歌に、涙を流して歌を詠んでいます。
    そういうことが堂々と公(おおやけ)の記録に残せるのは、日頃から、民草の側に高い民度があり、上に立つ人の思いやりや、温かみのある人の心を素直に受け入れることができるだけの素養が備わっており、それが、ごくあたりまえの常識になっていなければ、できないことです。

    もし庶民に歌を読む素養などまったくありえないことであり、しかも女性がただの物として扱われるような社会なら、大伴旅人のような武門の長である高官がこのように「娘子の歌に涙を流した」などという歌を読めば、「うちの大将は色ボケの嘘つきだ」と、兵たちから侮(あなど)られます。
    庶民は馬鹿ではないのです。
    しかも防人たちというのは、ある意味、気の荒い武骨者の集まりなのです。
    その防人たちに侮られることは、大宰の帥として、失格を意味します。
    まして大納言に昇進など、決してありえないことです。

     そしてもうひとつ、我が国にあった文化的特徴を申し上げたいと思います。
    それは我が国では「歌という文化を通じることで、一般の庶民が高官と直接やりとりができるというシステムが整っていた」ということです。

    実はこのことは、すこし大げさに聞こえるかもしれませんが、実はこのことが、近年のインターネットの普及による組織の階層構造の変化によく似ているところがあるのです。
    私などが若い頃は、大きな組織で、現場の平社員が、社長や専務、あるいは本社の部長といった高位高官に、何か物申すなど、まずあり得ないことでしたが、近年ではメールの発達によって、社長が直接全社員に一斉メールをしたり、あるいは一般社員が直接社長にメールを送るといったことが、ごく普通に起きるようになりました。

    あるいは政府の閣僚や国会議員、あるいは著名人等にメールして、直接返事をもらったりしたご経験をお持ちの方もおいでかもしれません。

    ところが我が国では、なんと古代や中世において、貴族や高官と直接対話をすることが、歌を通じて行われていたのです。
    もちろん政治上の意思決定は、あくまでもオフィシャルな機構を通じなければなりません。
    けれども人の思いや心は、庶民であれ、貴族高官であれ、まったく同じであるという認識が我が国には確立されていたのです。
    このことは世界の歴史を考える上において実に画期的なことと言えます。

    そしてそうしたことが、日常的に行われていたという背景の上に、この歌の応酬が成り立っています。
    素晴らしい歌の応酬だと思います。


    日本をおもしろく!

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  • 紫陽花(あじさい)の花


    ひとりひとりの人間には、小さなことしかできないかもしれないけれど、みんなが力を合わせることによって、そして最高の働きをすることによって、人は、大きな働きをすることができる。
    そして、みんなで大輪の紫陽花を咲かせる。
    それが日本であり、私達は、そんな日本に生まれた日本人であるということを学ぶ、万葉集の和歌をひとつご紹介します。

    20210702 アジサイ
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hydrangea_of_Shimoda_%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%98%E3%81%95%E3%81%84_(2630826953).jpg
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    梅雨の季節といえばアジサイです。
    アジサイは、梅雨の間に七色に色を変えます。
    後に季節の風物詩になりますが、万葉の時代には、あちこちで咲いていたにも関わらず、アジサイを詠んだ歌は二首しかありません。
    そのひとつをご紹介してみたいと思います。

    そのひとつが、大伴家持の次の歌です。

    【万葉集4巻773】
    こととはぬ (事不問
    きもあじさいの (木尚味狭藍
    もろとらの (諸苐等之
    ねりのむらとに (練乃村戸二
    あざむききたる (所詐来

    一般の訓読は、
    「事(こと)とはぬ、木(き)すら紫陽花(あじさゐ)諸苐(もろと)らし、練(ねり)の村戸(むらと)に詐(あざむ)かえけり」
    というもので、訳は、
    「物事を問わない木や、色が七色に変わるアジサイの花のように、
     諸々(もろもろ)の弟たちが練り上げた策略に
     騙(だま)されてしまいましたよ」
    といった意味の歌だとされます。

    これですと、あたかもアジサイの花が七色に花色を変えることから、
    「うまいことを言われて、すっかり騙されてしまったぜ」と詠んでいるかのようなイメージになります。
    けれどこの歌は、もともと「恋の結果」ではなく、これから始まる恋への「恋文」として詠まれた歌です。

    どういうことかというと、後に従三位中納言に栄達する大伴家持(おほとものやかもち)がまだ若い頃のことです。
    後に妻に迎えることになる大伴坂上大嬢(おほとものさかのうえのおほひめ)に、家持は恋文として和歌を5首贈りました。
    この歌は、そのなかの一首です。

    しかし果たして、これから女性を口説こうというときに、果たして「私はあんたに騙された。女なんて詐欺師みたいなものだ」なんて歌を贈るでしょうか。
    詠むでしょうか。
    ものごとには常識というものがあります。
    ちょっと頭を働かせて考えたら、上の解釈がおかしいことは、誰にだってわかることです。

    歌の原文をもういちど御覧ください。
    大伴家持は「諸苐等(もろとら)」と書いています。
    「弟」ではなく、
    竹カンムリの「苐」です。

    「苐」という字は、弟(おとうと)を意味する字ではなくて、草木の「新芽」を意味する漢字です。
    そうであれば「諸苐等」は、「もろもろの新芽たち」といった意味になります。

    また「練乃村戸二( ねりのむらとに)」の「練」という字は、「良いものを選び出す(引き出す)」という意味を持つ漢字です。
    そうであれば「練乃村戸二」は、「村の戸から、最高に良いものを選びました」といった意味になります。

    問題は最後の句の「所詐来(あざむききたる )」で、「詐」という字は、作った言葉を意味する漢字で、そこから「言葉を作って来た→言葉をつくした」という意味になります。

    こうして歌に使われている漢字をもとに、歌を再解釈すると、この歌の意味は次のようになります。

    ******
    古代において、我が皇軍の最高司令官であった大伴家持が、最愛の女性を妻に迎えようとして詠んだ歌。
     様々な種類の木々や、
     七色に花色を変えるアジサイの新芽。
     その中から私は
     最高に良い女(ひと)を選びました。
     だからいま、
     言葉をつくして歌をお贈りします」

    大伴家持は、こうして想いを歌に託し、見事、意中の女性を射止めて、妻に迎えました。

    ******

    歌の解釈は、様々あって良いと思います。
    けれど、詞書(ことばがき)に、意中の女性にプロポーズのために贈った歌なのだと、ちゃんと書いてあるのですから、それはそのようにちゃんと解釈すべきと思います。

    万葉集の歌は、すべて漢字で記されています。
    それらの歌は、漢字を単に万葉仮名として用いているものもあれば、大和言葉に漢字の持つ意味を重ねることで、重層的に複雑な思いを表現しようとした文化の香り高い文字の使い方をしている歌もあります。

    そしてこした官製和歌集を編纂することで、わが国は、わが国を殺し合いによる権力闘争の国ではなく、教育と文化の国にしていこう、という明確な強い意志のもとに万葉集を世に出しています。

    なぜそのようなことを言うのかって?
    当然です。
    書かれたものには、すべて書いた目的があるからです。

    さて、紫陽花(あじさい)は、花の色が梅雨の間に七色に変わります。
    様々な色合いを見せる。
    とりわけ花の新芽は、上の写真にもあるように、さまざまな色合いを私達にみせてくれます。

    古代の大伴氏といえば、天皇側近の豪族の中の大豪族です。
    その跡取り息子であった若き日の大伴家持は、常に最高を求める人であったのだそうです。
    そしてその大伴家持が、わが国の古代における軍の最高司令長官となり、我が皇軍は当時の世界にあって、世界最高の装備と、世界最高の教練を受けた、世界最強の防人(さきもり)となました。

    歌の解釈もいろいろあります。
    「いろいろある」ということ自体は、それはとても良いことです。
    なぜなら、100人いれば、100人とも金太郎飴のようにみんな同じ解釈しかしないというのは、全体主義でありファシズムであるからです。

    極左から極右まで、様々な思想が許容される。
    それはとても良いことです。

    しかし、それらは、すべて、紫陽花の新芽と同じです。
    咲いてみれば、ひとつの幹から出た、同じ株の花なのです。
    だから、ひとつになるときは、本気でひとつになる。
    ひとつになって国を護る。
    それができるかどうかで、日本人なのか、日本に住む外人(外人というのは人の外と書きます)なのかが決まります。

    体の細胞と同じです。
    ひとつひとつの細胞は、ほんのちょっとずつの役割しか果たすことができないけれど、でも、みんなでまとまることで、皮膚になったり、内臓になったり、さざまな大きな働きをすることができる。
    細胞のひとつにだって、もしかしたら、様々な考え方をもっているかもしれない。
    けれど、つねに、みんなで一緒になって自分の役割を遂げて、一生を終わっていきます。

    ひとりひとりの人間には、小さなことしかできないかもしれない。
    けれど、みんなが力を合わせることによって、人は、大きな働きをすることができます。
    そして、みんなで大輪の紫陽花を咲かせるのです。
    なぜならここは、わたしたちの祖国だからです。


    ※この記事は2021年7月の記事を大幅にリニューアルしたものです。

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  • 天智天皇・天武天皇・額田王は、いわゆる三角関係ではない


      ◆◆ニュース◆◆
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     11月23日の新嘗祭記念の特別講演(参加費無料です)
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    今回のお話の要点は表題の通りです。
万葉集をちゃんと読めば、ぜんぜん三角関係などではない。
思うに、日本を取り戻すためには、日本人が日本文化をもっとちゃんと知る必要があるように思います。
    日本人から誇りを奪い、日本人であることをむしろ恥じるようにしていく。
そうしたことが明治からはじまり、戦後にはとても大きな影響力を持つようになりました。
そのために学者さんたちまで動員されました。
しかし、百万遍唱えても嘘は嘘です。
一片の真実は、一瞬でそれまで蓄積された嘘を吹き飛ばす力があります。
なぜならそれが真実だからです。
日本は永遠に不滅です。

    20200613 額田王
    画像出所=https://www.jvcmusic.co.jp/-/News/A026554/6.html
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    天智天皇・天武天皇・額田王といえば、戦後、美しい女性の額田王をめぐって何やら三角関係にあって、あたかもこれが原因で壬申の乱が起こったかのように宣伝されました。
    このような下劣な説がまかり通るようになったのは、明治期に正岡子規らが「文明開化の時代なのだから、古典和歌からもっと自由になろうよ」という運動を興すに際し、古典和歌は決して高尚なものとはいえないという、ひとつの見方を示したことがそもそものきっかけです。
    明治の文学界は、江戸期の文化否定から始まったわけです。

    その、いわばひとつのゆがみから見た古典和歌への認識が、戦後、こんどは日本文化そのものが否定されるという風潮に乗っかって、日本の歴史をさらに歪めるという酷い考え方が、まともな学者が公職追放された後の学会の主流になり、さらに近年では、そうした歪みのなかで力を握って教授職にまで上り詰めた、日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話しながら日本人ではないという、やっかいな人達によって、さらに大きく歪められるようになりました。

    この歪みによって、近年ではまともな時代劇や歴史ドキュメンタリー番組さえも作れなくなりました。
    例えを数え上げればきりがありませんが、今回はその中で、天智天皇・天武天皇・額田王に焦点をあててみたいと思います。

    この三人の関係が、巷間、どのように言われているのかを、図式的に述べると、
    「乙巳の変で蘇我入鹿を殺害して権力の実権を握った中大兄皇子(なかのおほえのおうじ)は、ついに天皇の地位にのぼって天智天皇を名乗った。
     弟の大海人皇子(おおあまのみこ)は、美しい女性の額田王(ぬかたのおほきみ)と結婚して一女(十市皇女(とほちのひめみこ)を得ていたが、兄の天智天皇はその額田王を見初めると、娘の鸕野讚良皇女(うののさらのひめみこ)を強引に大海人皇子に嫁がせ、代わりに額田王を自分の妻妾にした。
     このことに恨みを抱いた大海人皇子は、兄の天智天皇が崩御すると、すぐに兵を起こして兄の子である大友皇子(おほとものみこ)を攻め、ついに天下をとって皇位に就き、天武天皇を名乗った。」

    と、要するに天智天皇と天武天皇の兄弟は、美しい額田王をめぐって三角関係にあったのだというわけです。
    そしてこのことが近年ではさらに誇張されて、天智天皇と天武天皇は実は兄弟ではなかったのではないかとか、天武天皇というのは実は半島人で、権力の亡者となった生粋の日本人の天智天皇を滅ぼして、朝鮮王朝を日本に築いたのだとか、もうこうなると、言いたい放題扱いになっています。

    日本は言論の自由の国ですから、基本的に何を言おうが自由といってしまえばそれまでですが、しかし世の中には、言っていいことと悪いことがあるものです。
    いかなる場合であったとしても、「ならぬものはならぬ」のです。
    ところが、そういうと「価値観の強制である」などと、これまた見当違いの議論が出てくる。

    そもそも論点をすり替えて、まるで静謐と安穏を重んじる寝室で、布団やフスマをバンバンとやかましく叩くようなふるまい《これを昔から「栲衾(たくぶすま)」と言って、新羅の枕詞に使われていました》を繰り返すのは、どこかの国の人の、古来変わらぬ特徴です。

    拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』にも書きましたが、そもそもこの天智天皇・天武天皇・額田王の関係について、そのような三角関係があったという記述は、我が国の正史である日本書紀にはありません。
    ではなぜこの三人が三角関係にあったように言われたのかというと、実は『万葉集』にあるこの三人の歌が、その事実を示しているのだと言われています。

    どういうことかというと『万葉集』に、まず白村江の戦いの5年後に天智天皇が開催した遊猟会において、
    (1)額田王が詠んだ歌
       あかねさす むらさき野行き 標野(しめの)行き
    野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
    という歌があるわけです。
    そして続けて大海人皇子《後の天武天皇》が、
    (2)むらさきの にほへる妹を にくあらば
       人嬬(ひとつま)ゆへに 吾(われ)恋めやも
    と詠む。

    つまり額田王が、
    「あたしはいまはもう天智天皇の妻になったのに、
     元のダンナの大海人皇子さまが、
     あんなに露骨に向こうから手を振ってらっしゃる。
     そんなことをしたら
     野守に見られてしまうではありませんか。
     いやん♪」
    と歌を詠み、これを受けて元のダンナの大海人皇子が
    「美しく香る紫草のようなおまえのことを憎くさえ思えるのは
     人妻になってしまったおまえのことを、
     俺はいつまでも愛しているからだよ」
    と、歌を返したというわけです。

    まるで昔流行った、アラン・ドロンとダリダの『あまい囁き』みたいです。
    『あまい囁き』は、その後金井克子と野沢那智が和訳を出して、これまた大ヒットしました。下にパロディ版の動画を貼っておきます。うまくできていて思わず笑いました。
    だいたいこの曲を聞くと、男の方に石をぶつけたくなる。
    この点は、うちのかみさんと意見がいつも一致します(笑)。

    話が脱線してしまいましたが、そもそも日本人はもっと誠実なものです。

    さらに天智天皇が中大兄皇子時代に、まさにその三角関係のもとになったとされる歌が次の歌です。
    (3)高山(たかやま)は 
       雲根火(うねび)おほしと
       耳梨(みみなし)とあい争いき
       神代より かくにあるらし
       古(いにしえ)も しかにこそあれ
       嬬(つま)を相挌(あいかく)
       良きと思ほす

    要するに、大和三山の畝傍山(うねびやま)と耳成山(みみなしやま)は、神代から香久山(かぐやま)をめぐって三角関係で争ってきたというが、自分《中大兄皇子》もまた妻(額田王)をめぐって弟の大海人皇子と争っている。これもまた良いではないか、という歌だというのです。
    弟の妻を横取りしようと歌を詠み、最後は「それもまた良いではないか」って、志村けんのバカ殿様ではないのです。

    さらに次の歌もあります。
    これは弟の妻から、天智天皇の妻となった額田王が、天智天皇が今宵やってくることに胸を膨らませて詠んだとされている歌です。
    (4)君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾 動かし秋の風吹く

    あなたを待ってドキドキしていたら、秋の風がすだれをうごかしましたわ、というわけです。
    これで決定打で、つまりもともと大海人皇子の妻だった額田王は、ついに自分を奪い取った天智天皇を愛するようになった・・・日本人の女性はかくもふしだらなものらしい・・・というわけです。

    申し上げますが、これらの解釈は、妄想に妄想を重ねただけであって、まったくのデタラメです。

    まず(1)と(2)の遊猟会のときの歌は、万葉集に「天智天皇の弟と、諸豪族、および内臣および群臣たちがことごとく天皇に同行した」と書かれています。
    白村江の敗戦から5年。
    朝廷の総力をあげて、国内の復興と国土防衛に全力をあげて勤めてきたのです。

    それがようやく一定のレベルに達したことから、5年目にしてやっと、朝廷の職員たちのお楽しみ会として蒲生野での遊猟会が催されたのです。
    そして(1)(2)の歌は、どちらもその遊猟会の後の直会(なおらい)、つまり懇親会の席で披露された歌です。
    だから、歌が発表された席には、群臣百卿が全部そろっています。

    果たしてそのような席で、「見られちゃうわよ、いやん♪」などという歌や、人の上に立ち、その時点における政治上の最高権力者となっていた大海人皇子が、女々しく引きずるような歌を披露するでしょうか。ましてその日は、勇壮な遊猟会の日であり、その後に行われた懇親会の場なのです。

    では(1)(2)の歌は、本当はどのような歌なのでしょうか。
    原文から意味を解読してみます。

    (1)
    《原文》茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
    《意味》
    アカネ草で染めるように天下に指し示められたバラバラな世を立て直す力を、地方豪族たちも見て大君の指導《袖振り》を受け入れていくことでしょう。

    解読のポイントは、「むらさきの逝き、しめの行き」と、「いく」という語の漢字が「逝」と「行」とに使い分けれられていることです。
    この遊猟会が行われたのは6月のことであり、茜草の開花は秋です。
    ですからここではアカネ草の美しい花を詠んでいるのではなく、アカネ草があかね色の染料として用いられることをモチーフにしているとわかります。

    そして「逝」は、「折」の部分がバラバラに引き離すこと、「辶」が立ち止まることを意味する漢字です。
    「武」は「たける」で、正しくすることを意味しますから、漢字で書かれた意味を考えれば「武良前野逝」は、「以前に正しいこと、良いことをしようとして、結果としてバラバラになってしまった国内情勢」のことを述べているとわかります。

    その国内情勢に、天皇が「標野行」、つまり進むべき道を示して行かれたのです。
    そのことを「野守」、すなわち一時はバラバラになってしまった地方豪族たちも、「君之袖布流」つまり天智天皇の指揮(袖振り)のもとで、再び君民一体の国柄がこの5年で出来上がりました、と額田王は詠んでいるわけです。

    額田王は、単に美しい才女というだけでなく、この当時にあって神に通じる霊力を持つ女性とされた人です。
    その女性が、今日の遊猟会を祝い、またこの5年間の国の建て直しの天皇以下群臣の辛苦をねぎらって、「アカネ指す」とこの歌を詠んでいるのです。

    そしてこの歌を受けて、額田王の夫の大海人皇子が、歌をつなげます。
    それが(2)です。
    ちなみにこの時代、天皇は国家最高権威であって、政治権力者ではありません。
    そしてこの時代において国家最高の政治権力者の地位にあったのが大海人皇子です。

    (2)
    《原文》紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓  吾戀目八方
    《意味》
    この季節に咲き始めるムラサキ草のように美しく、いつまでも大切な女性たちが歳を重ねてもいつまでも守られる国を守り抜くために、私(大海人皇子)も、政治に専念して日々努力を重ねています。しかしこのたびは、神に通じる力を持つ美しい花のような女性である私の妻が、私のもつれた目配りをも、すっきりと見通してくれました。

    ここで「戀(恋)」という字が使われているから、恋愛感情を詠んだ歌だと短絡的な思考をすると、歌の意味を読み間違えます。
    この時代の「戀」という字は、言葉の糸がもつれてからみあってどうにもならないような状態や気持ちのことを言います。
    現実の政治は、日々、さまざまな糸がもつれ合った複雑なものです。
    そして国家最高の政治権力者であれば、四方八方の周囲の様々な意見に常に気を配らなければなりません。

    要するに、霊力を持つ妻が「天智天皇の指揮のもと、国内情勢は必ず良い方向に安定します」と詠んだ、その歌を受けて、夫の大海人皇子は、
    「女性たちがいつまでも安全に安心して暮らせる国の姿を守り抜くために、これからもしっかりと日々の業務に邁進していきます」と決意を述べているわけです。

    天智天皇が中大兄皇子時代に、まさにその三角関係を歌ったとする(3)の歌も同じです。
    この歌は、上に述べた本歌だけでなく、反歌がセットになっています。
    意訳すると次のようになります。
    (3)
    【本歌】高山波雲根火雄男志等耳梨与相諍競伎神代如此尓有良之
    古昔母然尓有許曽虚蝉嬬乎相挌良思吉
     雲の起こる雄々しい高い山のふもとで、
     誰もが豊かになろうと志を持って競い合って栄えてきたのだぞ。
     神代からずっとそうしてきたのだぞ。
     母なる古い昔にかさねがさね神に祈ってきたように、
     これからも神に仕える巫女とともに祈りを捧げていくのだ。

    【反歌】高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美国波良
     豊かな恵みを与えてくれる大和三山の山の高きに、
     天皇がおさめられている豊かな国を立ち見しにやってきた。

    この時代、実は梨の栽培ができるようになったのです。
    大和三山は、もともと火山灰土の山のため、もともとは斜面が単なる荒れ地でした。
    ところが梨の栽培技術が開発されたことで、その斜面が梨畑として活用されるようになったわけです。
    その梨畑を視察に行幸された天皇が、民間の努力を寿ぎ、さらに一層の精進を願って、神とつながる巫女たちともに、しっかりとこれからも豊作を祈願していきますよ、とこの歌は読まれているのです。

    全然、三角関係だの、他人の妻を欲しがったとかいう歌ではありません。
    そもそも歌にある「相格」は現代用語の「相対」と同意味の言葉です。
    また「嬬」という字は「需」が雨乞いをするヒゲを生やした祈祷師を意味する字です。
    儒教の「儒」はニンベンですが、これは儒教の開祖の孔子が、もともと祈祷師の家の息子だったことに由来します。
    ここではそれが女偏ですので、神に仕える女性の祈祷師を表します。
    配偶者の場合は 「妻」であって「嬬」ではありません。

    (4)の額田王が天智天皇を待ちわびたという歌も、意味がぜんぜん違います。

    「君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹」
    が原文ですが、「君待登」の君は天智天皇です。そして部下が天皇のもとにお伺いすることを「登る」と言います。男性が女性のもとに通うことを「登る」とは言いません。

    要するに額田王のもとに、天皇からの呼び出しがあり、天皇の額田王への用事といえば、霊力のある額田王を通じて何らかの御神託を得ようとするものであるわけですから、当然額田王は、仕度を整えて禁裏に登ることになります。
    古来、女性の仕度は男性と違って時間がかかります。
    急ぎの用事と呼ばれていれば、まさに「戀」のように気を揉むことになる。

    ところがそうして仕度をしているときに、「簾(すだれ)を動かして秋風が吹いた」のです。
    秋風というのは、涼しくて良い風のことを言います。
    つまり吉兆です。

    これは昔の日本人の思考と、現代日本人の思考の大きな違いなのですが、今の人は「会ってから結果を出す」のが常識と思い込んでいますが、昔の人は「会う前に結果を出す」のが常識でした。
    わかりやすくいうと、いまでは武道もスポーツの一種になってしまって、試合の結果は「やってみなければわからない」ものとなっていますが、昔はそうではなくて、「試合で向き合ったときには、もう勝負がついている」ものであったのです。
    ここが日本古来の武道と、スポーツの違いです。

    この歌も同じで、天皇から何を聴かれるのか、それはおそらくは政治向きのことであろうけれど、家を出る前にすでに吉兆を意味する風が吹いたということは、ここで結論が出ているということなのです。

    要するにまとめると、天智天皇・天武天皇・額田王の三角関係説というのは、万葉集にある歌を間違って解釈していることが原因の俗説にすぎません。
    詠まれた歌をちゃんと読み解けば、その内容は、まさに尊敬と敬愛、そして国をひとつにまとめていこうとする誠実の歌の数々にほかならないのです。

    日本を取り戻すためには、日本人が日本文化を知る必要があります。
    その日本文化は、日本が古い歴史を持つ国だけに、やはり同様に古い歴史を持っています。
    記紀しかり、万葉集しかり、もっとずっと後世のお能もまた然りです。
    ところがそのいずれもが、内容をものすごく歪めて伝えられています。
    しかも学者さんたちの手を経て、です。
    そのため、日本文化を取り戻そうとすれば、必ず学者さんたちが呼ばれますが、呼んで話を聞いても、よくわからない。
    コロナの有識者会議と同じです。

    今回のお話の要点は表題の通りです。
万葉集をちゃんと読めば、ぜんぜん三角関係などではない。
    
思うに、日本を取り戻すためには、日本人が日本文化をもっとちゃんと知る必要があるように思います。
    日本人から誇りを奪い、日本人であることをむしろ恥じるようにしていく。
そうしたことが明治からはじまり、戦後にはとても大きな影響力を持つようになりました。

    そのために学者さんたちまで動員されました。

    
しかし、百万遍唱えても嘘は嘘です。

    一片の真実は、一瞬でそれまで蓄積された嘘を吹き飛ばす力があります。

    なぜならそれが真実だからです。

    日本は永遠に不滅です。


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    ※この記事は2020年6月の記事の再掲です。
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  • 熟田津に船乗りせむと月待ば


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    北斗神拳二千年の歴史なんてアニメの言葉がありますが、日本の歴史は二千年どころが万年の歴史です。
    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。

    20200612 にぎたづに
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     熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待(つきまて)ば
     潮(しほ)もかなひぬ 今はこぎいでな


    この歌は百済有事による朝鮮出兵に際して、額田王が詠んだ歌として、学校の教科書でも数多く紹介されている歌です。
    万葉集を代表する一首といえるかもしれないし、美人と言われる額田王を代表する和歌ともいえるかもしれない。
    歌の解釈にあたっては、初句の「熟田津(にぎたづ)」がどこの場所なのかが議論になったりもします。
    それほどまでに有名な和歌といえます。

    けれど、そうした見方は、実は、この歌の本質を見誤らせようとするものでしかありません。
    どういうことかというと、この歌の原文は次のように書かれています。

    【歌】熟田津尓 船乗世武登 月待者
       潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

    【補記】右検山上憶良大夫 類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇 大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬 寅御船西征始就于海路 庚戌 御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧昔日猶存之物。当時忽起感愛之情所以因製歌詠為之 哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首。


    現代語訳すると次のようになります。
    特に「補記」のところが重要です。

    【歌】
    熟田津尓   篝火の焚かれた田んぼのわきの船着き場に
    船乗世武登  出征の乗船のために兵士たちが集まっている
    月待者    出発の午前二時の月が上るのを待っていると
    潮毛可奈比沼 潮の按配も兵たちの支度もいまは整った
    今者許藝乞菜 さあ、いま漕ぎ出そう

    【補記】
    右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林(るいしゅかりん)で検(しらべ)てみると、この歌は第三十七代斉明天皇が詠まれた歌であって、このたびの伊予の宿所が、かつて夫である第三十四代舒明天皇とご一緒に行幸された昔日(せきじつ)のままであることに感愛の情を起されて、哀傷されて詠まれた歌であると書かれています。つまりこの歌は、本当は斉明天皇が詠まれた御製で、額田王の歌は他に四首があります。


    要するにこの歌は、実は女性の天皇であられる第37代斉明天皇(さいめいてんのう)が読まれた御製だと万葉集に補記されているのです。
    つまり本当は、額田王が詠んだ歌ではないと書かれています。
    しかもこの歌は「出征兵士を送る歌」のような勇壮な歌ではなく、「哀傷歌(かなしみの歌)」であると書かれています。

    「熟田津」とは、田んぼの中にある水路の横で炊かれた松明(たいまつ)のことを言いますが、その歌われた場所は、今の四国・松山の道後温泉のあたりであったとされています。

    昔日(せきじつ)のある日、後に皇極天皇となられた宝皇后(たからのおほきさき)は、夫の舒明天皇(じょめいてんのう)とともに、(おそらく)道後温泉に湯治(とうじ)にやってきたのです。
    そのときは、まさに平和な旅で、大勢の女官たちらとともに、明るく皆で笑い合いながらの楽しい旅であったし、地元の人たちにも本当によくしていただくことができた。
    誰もが平和で豊かな日々を満喫できた、行楽の旅であったわけです。
    そしてそれは夫の生前の、楽しい思い出のひとつでもありました。

    ところがいまこうして同じ場所に立ちながら、自分は大勢の若者たちを、戦地に送り出さなければならない。
    あの平穏な日々が崩れ去り、若者たちを苦しい戦場へと向かわせなければならないのです。
    もちろん戦いは勝利を期してのものでしょう。
    けれども、たとえ戦いに勝ったとしても、大勢の若者たちが傷つき、あるいは命を失い、その家族の者たちにとってもつらい日々が待っているのです。

    それはあまりに哀しいことです。
    だからこの歌は、哀傷歌とされているのです。

    けれど、時は出征のときです。
    若者たちの心を鼓舞しなければならないことも十分に承知しています。
    だから皇極天皇は、そばにいる、日頃から信頼している額田王に、
    「この歌は、おまえが詠んだことにしておくれ」
    と、この歌をそっと手渡したのです。

    これが日本の国柄です。
    平和を愛し、戦いを望まず、日々の平穏をこそ幸せと想う。
    そして「私が詠んだ」という「俺が私が」という精神ではなくて、どこまでも信頼のもとに自分自身を無にする。
    そのような陛下を、ずっと古代からいただき続けているのが日本です。

    この歌が詠まれた「後岡本宮馭宇天皇七年」というのは、斉明天皇7年、つまり西暦661年のことです。
    いまから1359年の昔です。
    日本人の心、そして天皇の大御心は、1400年前の昔も今も、ずっと変わっていないのです。

    ちなみに初句の「にぎたづに」は、大和言葉で読むならば、「にぎ」は一霊四魂(いちれいしこん)の「和御魂(にぎみたま)」をも意味します。
    和御魂(にぎみたま)は、親しみ交わる力です。
    本来なら、親しみ交わるべき他国に、いまこうして戦いのために出征しなければならない。
    そのことの哀しさもまた、この歌に重ねられているのです。

    ずっと後の世になりますが、第一次世界大戦は、ヨーロッパが激戦地となりました。
    このため、ヨーロッパの重工業が途絶え、その分の注文が、同程度の技術を持つ日本に殺到しました。
    日本は未曾有の大好景気となり、モダンガール、モダンボーイが街を歩く、まさに大正デモクラシーとなりました。

    戦争が終わったのが1918年の出来事です。
    ところがその5年後の1923年には関東大震災が起こり、日本の首都圏の産業が壊滅。
    さらに凶作が続いて東北地方で飢饉が起こり、たまりかねた陸軍の青年将校たちが226事件を起こしたのが1936年。
    そしてその翌1937年には、通州事件が起こり、支那事変が勃発しています。
    日本国内は戦時体制となり、現代の原宿を歩いていてもまったくおかしくないような最先端のファッションに身を包んだモダンガールたちは、モンペに防空頭巾姿、男たちが国民服になるまで、第一次世界大戦からわずか20年です。

    そして終戦直後には、住むに家なく、食うものもなし、それどころか着るものもない、という状況に至りました。
    けれどそのわずか19年後には、日本は東京オリンピックを開催しています。

    20年という歳月は、天国を地獄に、地獄を天国に変えることができる歳月でもあります。
    そして時代が変わるときは、またたくまに世の中が動いていく。
    コロナショックで、まさにいま、日本は激動の時代にあります。

    けれど、どんなときでも、陛下の大御心を思い、勇気を持って前に進むとき、そこに本来の日本人の姿があります。
    それは、勝つとか負けるとかいうこと以上に、私たち日本人にとって大切なものです。

    また、ご皇室の内部に問題がある云々とも、一切関係ないことです。
    そもそも問題点というのは、いつの時代にあっても、どのような場所であっても、どのような人であっても、たとえご皇室であっても、そこにあるのが人である以上、必ずあるものです。
    問題が起きているということは、物事が動いているということであって、むしろ問題が何もないなら、それは物事が動いていない、つまり生きた人間がそこにいないということです。それこそたいねんなことです。

    ご皇室内部の問題は、ご皇室に委ねればよいのです。
    外野があれこれ言うべきことではない。
    名誉欲、経済欲に駆られたどっかのアホがご皇室内部に入り込むような事態は、いまも昔も繰り返しあったのです。
    けれど歴代天皇のご事績はゆるぎなく歴史に燦然と輝いています。

    北斗神拳二千年の歴史なんてアニメの言葉がありますが、日本の歴史は二千年どころが万年の歴史です。
    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。
    日本人なら日本を信じる、ご皇室を信じ抜くことです。
    すくなくとも、自分はそのようにしています。

    吉田松陰が水戸藩郷士、堀江克之助に送った書です。

    「天照の神勅に、
     『日嗣之隆興 天壞無窮』と有之候所、
     神勅相違なければ日本は未だ亡びず。
     日本未だ亡びざれば、
     正気重て発生の時は必ずある也。
     只今の時勢に頓着するは
     神勅を疑の罪軽からざる也」

    《現代語訳》
    天照大御神のご神勅(しんちょく)に、「日嗣(ひつぎ)の隆興(さかえ)まさむこと、天壞(あめつち)とともに無窮(きはまりなかる)べし」とあります。そしてご神勅の通り、日本はいまだ滅んでいません。
    日本がいまだ滅んでいないなら、日本が正気を取り戻すときが必ずやってきます。
    ただいまの時事問題に頓着(とんちゃく)して、簡単に日本が滅びると言うのは、ご神勅を疑うというたいへん重い罪です。

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  • 万葉集巻六から笠金村(かさのかなむら)の歌


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    いち官僚にすぎなかった笠金村が、わが国の国柄を歌にしています。西洋で国家が認識されるようになったのは、なんと18世紀以降のことです。わが国では、万葉の昔の1〜8世紀に、すでに国をひとつの家や家族にたとえる、国家観が存在したのです。これは世界史的に見ても、すごいことです。

    吉野離宮(復元模型)
    20191005 吉野離宮
    画像出所=http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/15_2006_8_13_0990L.htm
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    万葉集の巻六に、笠金村(かさのかなむら)という人の長歌(ながうた)があります。
     滝の上(へ)の
     御舟(みふね)の山に
     水枝(みずゑ)指(さ)し
     四時(しじ)に主(きみ)有り
     栂(とが)の木の・・・


    笠金村という人は、元正天皇の時代から聖武天皇の時代にかけて活躍した歌人という以外、詳しい経歴等はわかっていません。
    この歌は、養老七年(723)五月の元正天皇の吉野離宮への行幸のときに詠んだ歌と題詞(ことばがき)にあります。
    行幸に同行したということですから、朝廷の舎人(とねり)のひとりだったのでしょうか。
    いまでいうなら、中央省庁の公務員のひとりであったということになるのかもしれません。

    吉野離宮は、奈良県吉野郡吉野町あたりに置かれた離宮で、天武天皇、持統天皇がたいへんに愛された離宮です。
    とりわけ持統天皇はこの離宮に御在位中から御在位後まで都合33回も行幸されています。

    長歌(ながうた)というのは、五七五七という音調が繰り返され、末尾を七七で締める歌です。
    他の万葉集の歌もそうなのですが、歌はすべて漢字で書かれています。
    読み方というのは付属していないので、後世の人が漢字をさまざまに読み下しているのですが、一般的な翻訳本では、この歌の冒頭と同じ場所の読み方を

     滝のほとりの(7字)
     三船の山に(7字)
     みず枝さし(5字)
     しじに生いたる(7字)
     とがの木の(5字)


    としていて、これ以外のところもそうなのですが、長歌の五七五七の韻律を踏襲していません。
    踏襲しなければ歌にならないので、残念ながらこれまでの訳は不十分であったかもしれない可能性があります。
    冒頭の読みは、これをねず式で修正したものです。

    はじめに題詞から反歌までの原文の全部を示すと次通りです。

    【題詞】養老七年癸亥夏五月、幸于芳野離宮時、笠朝臣金村作歌一首并短歌
    滝上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓主有 刀我乃樹能 弥継嗣尓 万代 如是二三知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴将有 国柄鹿 見欲将有 山川乎 清々 諾之神代従 定家良思母
    【反歌二首】
    毎年 如是裳見壮鹿 三吉野乃 清河内之 多芸津白浪
    山高三 白木綿花 落多芸追 滝之河内者 雖見不飽香聞


    先に一般的な解釈を示します。

    【題詞】養老七年癸亥夏五月に、芳野の離宮に幸(いでま)しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首并せて短歌
    滝のほとりの三船(みふね)の山に、みずみずしい枝を広げていっぱいに生い茂っている「とが」の木のように、つぎつぎ重ねて万代に、こうしてお治めになるであろう、このみ吉野の秋津(あきつ)の宮は、神の御心ゆえ貴いのだろうか、国柄ゆえ見飽きないのだろうか、山も川もすがすがしいので、どおりで神代以来、ここに宮を定められたらしい。
    【反歌二首】
    ・毎年来てこうして見たい。み吉野の清い河内の激しく落ちる白波を
    ・山が高くて白木綿花(しらゆうのはな)のように激しく落ちる滝の河内は、見ても飽きない


    いまひとつ納得できないのは、これでは長歌が「吉野の離宮は神秘的な場所ですね」と述べているにとどまり、反歌もただ吉野離宮は見飽きませんと述べているだけのように思えるからです。
    もしそれだけの歌というのなら、反歌はこの場合必要がなくなります。

    また原文の「滝上之」は、どうみても「滝の上」と書かれているのに、一般的な解釈は「滝のほとり」です。
    上でもほとりでも、どちらでも良いように思われるかもしれませんが、作者の意図を正確に読み取ろうとするなら、はじめの段階で違う訳にしてしまうのは、いかがなものかと思います。

    また「四時尓主有」は、これを「しじに生(お)いたる」と読み下し、意味も「つぎつぎ重ねて万代に」としていますが、もともと「四時」というのは古語で春夏秋冬の四季のことを表し、また「主」はこの場合は御神霊の宿る場所を指すと解釈できます。

    他にもいろいろとあるのですが、長くなってもいけませんので、先にこの歌の全文を再解釈した意味と、五七調に読み下した文を示します。
    個々の語が、なぜそのような意味なるかは、末尾の語釈をご参照ください。

    《意訳》
    【題詞】養老七年癸亥夏五月に、芳野の離宮に幸(いでま)しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首并せて短歌

     吉野の離宮の滝の上にある三船山には、
     光沢があってみずみずしい栂(つが)の木の枝があって、
     一年中、御神霊が宿る場所のようです。

     公であり他に侵されることのない栂(とが)の木のように、
     天皇を国家最高権威とあおぐ知らす統治は、
     千年も万年もこのまま受け継がれて行くことでしょう。

     天皇が行幸されるかぐわしい吉野の離宮は、
     神々の御心のままに貴(たっと)く、
     わが国の国柄もまたいつまでも
     見届けていたいと思う山川のすがすがしさに似ています。
     それは神代からずっと定められたものです。
    【反歌】
    ・毎年来来て見たいものですね。吉野の清い渓流の白波に。
    ・高い山の山中に、まるで白い木綿(もめん)のように流れ落ちる滝は、何度見ても飽きません。


    《再解釈した読み》
    【題詞】養老七年癸亥夏五月に、芳野の離宮に幸(いでま)しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首并せて短歌
      滝の上(へ)の
      御船(みふね・三船)の山に
      水枝(みづゑ)指(さ)し
      四時(しじ)に主(きみ)有り
      トガ(栂)の木の
      弥(や)を継嗣(つぎつぎ)に
      万代(よろづよ)の
      かくに知(し)らさむ
      御吉野(みよしの)の
      蜻蛉(あきつ)の宮は
      神柄(かむから)香(か)
      貴(たふと)くありて
      国柄(くにがら)か
      見(み)ほせは有るは
      山川(やまかは)を
      清々(すがすが)しきは
      諾(むへ)の神代(みよ)より
      定(さだ)めけらしも
    (反歌)


    このときの元正天皇の吉野行幸は、天皇が次の天皇として、実弟の子である聖武天皇をご指名されたおめでたい行幸です。
    この行幸にお供した笠金村(かさのかなむら)が皇統が万世に続くことを寿いで詠んだのが、この長歌と短歌です。
    そして万葉集の巻六は、おおむねこの聖武天皇を讃(たた)える歌で占められています。

    その第一番目にある歌が、この笠金村の歌です。
    ですからその笠金村の歌が、単に「吉野の離宮は神秘的な場所ですね、吉野離宮は見飽きませんね」と詠んでいるだけの歌というのは、巻六の意味合いからしても、ありえないのです。

    このとき行幸された元正天皇は、歴代のご皇族の女性の中でも群を抜くお美しさであったと伝えられています。
    また『続日本紀』には、元正天皇が「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されています。
    そして元正天皇の御世に『日本書紀』が完成し、また藤原不比等が養老律令の編纂を開始しています。
    偉大な、そして立派な天皇であられたのです。

    ちなみに元正天皇は、同じく女性であり母でもある元明天皇から皇位を継がれています。
    女性天皇が二代続いたわけですが、母の元明天皇は天智天皇の子であり、元正天皇は天智天皇の子の草壁皇子の子です。
    つまり元明天皇、元正天皇の、どちらも男系の天皇です。

    女性が天皇になることはありますが、なぜ男系であることが重視されてきたのかには理由があります。
    それは、わが国では古代から「人の肉体(身(み))には霊(ひ)が宿る」とされてきたことによります。
    別な言い方をすると「肉体には必ず魂が宿る」のです。
    このことを前提として、子を産むことができるのは女性だけです。
    つまり女性の「身(み)」が、赤ちゃんを産みます。
    その赤ちゃんに「霊(ひ)」を授けるのが男性の役目です。

    すこしきわどい言い方になりますが、古代の考え方の節目ですのでご容赦ください。
    男性は「たま」で「魂(たま)」をつくります。
    その「魂(たま)」を女性の胎内に挿(さ)し入れることで、赤ちゃんは魂(たま)を授(さず)かります。
    皇統は、わが国最高神の天照大御神から続く御神霊(ひ)の流れです。
    それが天皇が国家最高権威とされる最大の要素です。

    ですから皇統というのは、「身」の血統ではなくて、霊(ひ)の霊統です。
    そして霊(ひ)は男性が授けるものですから、男系であることが天照大御神からの霊統を保持することになります。
    これは皇位を継ぐ人が女性であっても構いません。
    なぜなら女性に生まれてきたとしても、男系の霊(ひ)が保持されているからです。
    これが女性天皇が歴史上に存在する理由です。

    ところがその女性が、他の家系の男性と結婚して子が生まれると、その子は天照大御神からの霊統ではなく、別な霊統の霊(ひ)を授かっていますから、天照大御神からの霊統が途切れることになります。
    これが女系天皇で、歴史上、わが国に女系天皇が誕生したことは一度もありません。

    近年ではこことの正しさが、Y遺伝子の継続ということから理論的にも証明されるようになりました。
    古代の人達は、Y遺伝子などわからない話ですが、それに変わる古代なりの理論構成がちゃんとあったわけです。

    そしてこのことが理由となって、何ごとも霊(ひ)が上、身(み)が下と考えられるようになりました。
    いまでも神社で参拝するときに二礼二拍一礼をしますが、この二拍のときには、両手を合わせたあと、右手を左手の第一関節まで少しだけ下げます。
    つまり「霊(ひ)=左」を上にします。

    理由は、参拝が「神々と、みずからの霊(ひ)との対話」だからです。
    対話するのは自分の魂である霊(ひ)ですから、霊(ひ)(左)を少し出して、身(み)(右)をすこし引くのです。
    同様に、左大臣と右大臣なら、左大臣(ひ)が上です。
    座る席は、天皇から見て左側に左大臣が座ります。
    下座から見上げると、向かって右側に左大臣が座ることになります。

    わが国は、7〜8世紀と19〜20世紀に、ともに外圧によって大きな歴史の転換期を迎えています。
    そしてこの両時代に共通しているのが、天皇を中心とした世を取り戻すということでした。
    その両方のお手本になったのが、神武天皇の御世であり、また仁徳天皇の治世でもあります。
    わが国と天皇の御存在は、切っても切り離せない深い関係によって成り立っています。
    わが国が皇国と呼ばれる、それが由縁(ゆえん)です。

    笠金村の歌も、そうした時代の背景のもとに成り立っています。
    そして、いち官僚にすぎなかった笠金村が、わが国の国柄をこうして歌にしています。
    西洋で国家が認識されるようになったのは、なんと18世紀以降のことです。
    わが国では、万葉の昔の1〜8世紀に、すでに国をひとつの家や家族にたとえる、国家観が存在したのです。
    これは世界史的に見ても、すごいことです。


    【語句の意味】
    『滝上之(たきのへの)』・・・滝の上の。この滝は吉野離宮の近くの滝と言われていますが、このあたりですと吉野町の北側に安産の滝、吉野川の上流を少し登ったところに蜻蛉の滝があります。どの滝のことかはわかりません。続く「御舟乃山」を考えれば、蜻蛉の滝か。
    『御舟乃山(みふねのやまに)』・・・奈良県吉野町樫尾にある三船山
    『水枝指(みつゑさし)』・・・光沢があってみずみずしい木の枝
    『四時尓主有(ししにきみあり)』・・・四時は古語で春夏秋冬の四季のこと。主はこの場合神霊の宿る場所をいう。
    『刀我乃樹(とかのきの)』・・・マツ科ツガ属の常緑針葉樹の栂(ツガ)の木。ツガはネズミに齧(かじ)られにくいという特徴があって、古来、建築物の敷居や鴨居などの見える場所に使われました。ここではおそらくツガが表向きに見えるところに使われる、つまり公(おおやけ)を象徴し、かつまたネズミに齧られない特徴から、決して侵されることがないことを象徴しているものと思われます。
    『弥継嗣(やをつぎつぎに)』・・・弥はあまねく行き渡るの意で、それが継承され、あとを嗣(つ)がれていく
    『万代(よろつよの)』・・・千年も万年も
    『知(しらす)』・・・知(し)らす国は古語で天皇を国家最高権威にいただくこと
    『三芳野之(みよしのの)』・・・吉野を芳野と書くことでかぐわしさを表す。
    『蜻蛉乃宮(あきつのみや)』・・・あきつのみや。出会い広がりまた集う吉野の離宮
    『神柄香(かむからか)』・・・神様の本性のままに香る
    『貴将有(たふとくありて)』・・・重要で貴い
    『国柄(くにからか)』・・・国の本性
    『見欲将有(みほせはあるは)』・・・いつまでも見ていたいと思う
    『山川乎(やまかはを)』・・・山川の
    『清々(すがすがしきは)』・・・すがすがしい
    『諾之神代従(むへのみよより)』・・・もっともなことに神代から
    『定家良思母(さためけらしも)』・・・定められたらしい

    (追記)
    この記事は『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
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    の元原稿で、本からはページの都合でカットしたお話です。

    万葉集の本では、こうした霊(ひ)のお話だけでなく、シラスの意味や、よろこびあふれる楽しい国としての豈國(あにくに)、隠身という語句の持つ大切さなど、古事記の本にも書かなかったわが国の国柄を知る上で必要なたくさんの事柄を、ことごとく記しています。
    そうすることで、この本一冊で、万葉の歌だけでなく、わが国の国柄のもととなる知識をすべて得ることがでるように工夫しています。


    ※この記事は2019年10月の記事のリニューアルです。
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    それが日本であり、私達は、そんな日本に生まれた日本人です。

    20210702 アジサイ
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hydrangea_of_Shimoda_%E4%B8%8B%E7%94%B0%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%98%E3%81%95%E3%81%84_(2630826953).jpg
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    梅雨の季節といえばアジサイです。
    アジサイの花は、梅雨の間に七色に色を変えます。
    後に季節の風物詩になりますが、万葉の時代には、あちこちで咲いていたにも関わらず、アジサイを詠んだ歌は二首しかありません。
    そのひとつをご紹介してみたいと思います。

    それが次の歌です。

    が、そんなアジサイを詠んだ歌が万葉集にあります。
    大伴家持の歌です。

    万葉集4巻773
    こととはぬ (事不問
    きもあじさいの (木尚味狭藍
    もろとらの (諸苐等之
    ねりのむらとに (練乃村戸二
    あざむききたる (所詐来

    一般の訓読は、
    「事(こと)とはぬ、木(き)すら紫陽花(あじさゐ)諸苐(もろと)らし、
     練(ねり)の村戸(むらと)に詐(あざむ)かえけり」

    というもので、
    訳は、
    「物事を問わない木や、色が七色に変わるアジサイの花のように、
     諸々(もろもろ)の弟たちが練り上げた策略に
     騙(だま)されてしまいましたよ」

    とされています。

    これですと、あたかもアジサイの花が七色に花色を変えることから、
    「うまいことを言われて、すっかり騙されてしまった」
    と詠んでいるかのようなイメージの歌になります。
    けれど、この歌は、もともと「恋文」として詠まれた歌です。

    後に従三位中納言に栄達する大伴家持(おほとものやかもち)がまだ若い頃、後に妻に迎える大伴坂上大嬢(おほとものさかのうえのおほひめ)に贈った5首の歌のなかのひとつの歌なのです。
    果たして普通に考えて、恋文に「私は詐欺師たちに騙されました」と詠むでしょうか。

    この歌をよく見ると、その「詐欺師たち」を意味している箇所を、大伴家持は「諸苐等」と書いていることに気付かされます。
    これが「諸弟等(もろとら)」、つまり「もろもろの弟ら=部下たち」を意味しているというのなら、そういう解釈もあるかもしれまえんが、使っている字は、
    「弟」ではなく、
    竹カンムリの「苐」です。

    この「苐」という字は、弟(おとうと)を意味する字ではなくて、草木の「新芽」を意味する漢字です。
    そうであれば「諸苐等」は、「もろもろの新芽たちは」といった意味になります。

    また「練乃村戸二( ねりのむらとに)」の「練」という字は、「良いものを選び出す(引き出す)」という意味を持つ漢字です。
    そうであれば「練乃村戸二」は、「村の戸から、最高に良いものを選びました」といった意味になります。

    問題は最後の句の「所詐来(あざむききたる )」で、「詐」という字は、作った言葉を意味する漢字で、そこから「言葉を作って来た→言葉をつくした」という意味になります。

    こうして歌に使われている漢字をもとに、歌を再解釈すると、この歌の意味は次のようになります。

    古代において、我が皇軍の最高司令官であった大伴家持は、
    最愛の人を妻に迎えようとしたとき、
    「様々な種類の木々や、
     七色に花色を変える
     アジサイの新芽。
     その中から私は
     最高に良い女(ひと)を選びました。
     だからいま、
     こうして言葉をつくして
     歌をお送りします」

    と想いを歌に託しました。
    そして見事、意中の女性を射止め、妻に迎えました。


    このように、この歌は、実に見事な恋歌と読むことができます。
    歌の解釈は、様々あって良いと思います。
    けれど、詞書(ことばがき)に、意中の女性にプロポーズのために贈った歌なのだと、ちゃんと書いてあるのですから、それはそのようにちゃんと解釈すべきと思います。あくまでこれは私の意見です。

    万葉集の歌は、すべて漢字で記されています。
    それらの歌は、漢字を単に万葉仮名として用いているものもあれば、大和言葉に漢字の持つ意味を重ねることで、重層的に複雑な思いを表現しようとした文化の香り高い文字の使い方をしている歌もあります。
    そしてこした官製和歌集を編纂することで、わが国は、わが国を殺し合いによる権力闘争の国ではなく、教育と文化の国にしていこう、という明確な強い意志のもとに万葉集を世に出しています。
    なぜそのようなことを言うのかって?
    当然です。
    書かれたものには、すべて書いた目的があるからです。

    さて、紫陽花(あじさい)は、花の色が梅雨の間に七色に変わります。
    様々な色合いを見せる。
    とりわけ花の新芽は、上の写真にもあるように、さまざまな色合いを私達にみせてくれます。

    古代の大伴氏といえば、天皇側近の豪族の中の大豪族です。
    その跡取り息子であった若き日の大伴家持は、こうして常に最高を求める人でもあったということです。
    そしてその大伴家持が、わが国の古代における軍の最高司令長官になることにより、我が皇軍は、当時の世界にあって、世界最高の装備と、世界最高の教練を受けた、世界最強の防人(さきもり)となり、国の護りにあたりました。

    いろいろある。
    それが良いことなのです。
    現代日本においても、極左から極右まで、様々な思想が許容される。
    だから日本は素敵なのだと、思います。

    これが、ひとつの思想、ひとつの考え方しか認められないようなことでは、全体主義です。ファシズムです。
    それでは居心地の悪い国になってしまう。
    様々な考え方の人がいて、そういう人たちが、様々に花を咲かせようと努力している。

    しかし、それらは、すべて、紫陽花の新芽だということです。
    咲いてみれば、ひとつの枝から出た、同じ紫陽花の花です。
    だから、ひとつになるときは、本気になってひとつになる。
    なぜなら私達は、みんなでひとつだからです。

    これは体の細胞と同じです。
    ひとつひとつの細胞は、ほんのちょっとずつの役割しか果たすことができないけれど、でも、みんなでまとまることで、皮膚になったり、内臓になったり、さざまな大きな働きをすることができる。
    細胞のひとつにだって、もしかしたら、様々な考え方をもっているかもしれない。
    けれど、つねに、みんなで一緒になって、細胞は自分の役割を遂げて、一生を終わっていきます。

    ひとりひとりの人間には、小さなことしかできないかもしれないけれど、みんなが力を合わせることによって、そして最高の働きをすることによって、人は、大きな働きをすることができる。
    そして、みんなで大輪の紫陽花を咲かせる。
    それが日本であり、私達は、そんな日本に生まれた日本人です。



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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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