• 日清戦争の開戦に学ぶ・・・友愛精神の嘘


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    平壌の戦い
    平壌の戦い


    今日は日清戦争のお話をしてみようかと思います。

    日清戦争のお話というと、日本と清国の戦い、くらいはみなさんご存知だと思うのですが、実は、この戦争の糸をひいた原因は、朝鮮半島にあった。

    そういうと、「ん? 日本が朝鮮を侵略することの利権か?」と思う方もいるかもしれません。

    残念ながら違います。この時点では、日本は韓半島になんの利権も、持っていません。

    お話の発端として、1890年頃からの半島を見てみたいと思います。

    約400年続いた李氏朝鮮は、冊法体制(さくほうたいせい)といって、中国の臣下の国でした。

    この李氏朝鮮末期の1870年頃、国王高宗に、閔妃(みんぴ)という人物がいた。またの名を明成皇后ともいいます。

    当時の国王高宗は、いわゆる色事の好きな人物で、政務などほったらかし。

    多数の宮女や妓生相手に漁色や酒におぼれ、楽しい毎日(?)を送っています。

    政務をおろそかにしていたことから、次第に、政治の実権は、皇后である閔妃に移っていく。

    閔妃は、政治の実権者として、彼女の一族を積極的に重職に登用したほか、積極的な開国政策をとり、1876年(明治9年)、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結します。

    そして日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化などを行った。

    ところが、彼女の関心が日本の指導による新式軍隊に移ると、従来の清式の旧軍隊は放置されてしまいます。
    放置された旧軍隊の兵士たちには、賃金も払われず、食事の配給もない。

    期待の星である日本の指導による新式軍隊には、豊富な食料と給料、放置された旧軍隊には、飢えと苦しみ。。。

    当然のことながら、旧軍隊内には、新式軍隊に対する不満が募ります。

    1882年、旧式軍隊は、閔妃暗殺をもくろんで反乱をおこします(壬午軍乱)。

    このとき、多くの閔妃派要人と数十名の日本人が殺されます。日本大使館も焼き討ちされた。

    事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りにして、いち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱のもとに逃げ込みます。

    困るのは、朝鮮を属国として軍を派遣していた清と、朝鮮に頼まれて近代化軍の指導をしていた日本です。

    どちらが反乱鎮圧を陳圧するかで揉めてしまう。

    だけど、日本は、朝鮮は清の冊封国だからという理由で、清軍に反乱の鎮圧を委ねます。当然ですよね。

    ところが、建前で動く日本をみた閔妃一派は、こりゃ日本は頼みにならない、と一方的に考えます。
    軍の威力にモノを言わせる清という国ほうが、頼もしく思えたのでしょう。

    閔妃は、さっさと親日開化政策を、親清復古政策に転換してしまいます。まぁ、勝手なものです。

    この事件で、日本は、大使館を焼かれただけでなく、請われて派遣していた日本の軍の指導官らや、その配偶者、子どもたちを無残に殺されます。どんな風に殺害されたかの詳細は、いまではほとんどわかりませんが、ボクのブログで通州事件や、尼港事件、和夫一家殺害事件をお読みになられた方なら、それがどんなに悲惨なものだったか、およその想像はつくものと思います。

    日本は当然、朝鮮に対して、日本人被害者への補償、大使館の損害等への補償を要求しました。
    同時に、以後の日本大使館の警備のために、若干の日本兵の漢城駐留などを朝鮮との交渉の中で取り決めます。これは当然のことです。ひどいめにあわされたのですからね。

    結局そのために、朝鮮には、日本と、袁世凱率いる清軍の両軍が軍を駐屯させることになった。

    一方、朝鮮の民衆の暮らしはあいかわらず貧困のどん底にありました。

    その朝鮮の隣には、ひとりひとりの庶民の生活が改善し、どんどん近代化し、進歩し、国民が豊かになっていく日本という国がある。

    福澤諭吉(慶応大学創始者)や、大隈重信(早稲田大学創始者)らとの親交を深めた朝鮮の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら、理想に燃える韓国人は、このままではいけないという思いを深くします。

    彼らは、閔氏一族が贅沢三昧をする中、国王である高宗のいわば「一本釣り」を計画します。

    そして、外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない朝鮮国王高宗も、彼らの理想に燃えた近代化政策の実行を快諾する。


    1884年12月、金玉均らは、クーデターを実行します。

    金玉均らは「郵政局」の開庁祝賀パーティーで、会場から少し離れたところに放火を行い、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃し、朝鮮の高宗国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。

    日本に公使館警備用の軍を派遣してもらい、朝鮮国王を保護するとともに、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、という計画です。

    そして彼らは、計画を実行する。

    放火は失敗したけれど、計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害。

    金玉均・朴泳孝・徐載弼ら新政府樹立を宣言します。

    そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明します。

    そしてその日のうちに、

    (1) 朝鮮国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主とする。
    (2) 清国に対して朝貢の礼を廃止する。
    (3) 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃止する。
    (4) 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる。

    などの 革命政策を発表します。

    ところがこれを知った袁世凱率いる清軍は、革命派のたてこもる王宮を攻撃します。
    これによって、クーデター一派は、壊滅しちゃう。

    からくも危機を脱した金玉均らは日本へ亡命するのだけど、朝鮮からの刺客が恐ろしい。

    とりわけ、袁世凱ら清軍によって、三親等までの近親者全員が、いかにもシナ・朝鮮風の極めて残虐な方法で、全員が殺された金玉均らは、日本各地を転々とした後、上海に渡るのだけど、結局、閔妃の放った刺客によって暗殺されてしまいます。

    ちなみに金玉均らの遺体は、朝鮮半島に移送された後、五体を引き裂かれ、身体の各部を各地で腐るまで晒されたとか。残酷な話です。


    このクーデターのとき、高宗国王から依頼をうけた現地の日本軍は、王宮の警備にあたっていた。そして日本の将兵30名は、袁世凱率いる清軍によって全員殺害されてしまいます。
    それもかなり酷い殺され方をしている。(亡くなられた将兵の方々は、いまなお靖国に祭られています。)


    事件の翌年(1885年)4月、伊藤博文全権大使とする日本は、中国・天津で、清の李鴻章と会談します。
    そして、亡くなった日本の将兵に対する賠償は放棄するから、お互い、もう朝鮮半島から撤兵しようともちかけます。
    いつまでも、互いに怨恨を引きずっていたら、両国のためにならないからです。

    そして、天津会談の結果、日清両国は、朝鮮から兵を引き上げた。なんと以後10年間もの間、朝鮮には、外国軍隊の駐留がなくなったのです。


    いっときの平和を手にした朝鮮人たちは、日本人の民間人による指導なども得て、産業を活性化。1990年代になると、なんと朝鮮から日本への輸出は、当時の朝鮮の輸出総額の90%以上、また日本からの物品の輸入は50%を占めるようになったといいます。

    つまり、たいへんな対日貿易収支が、猛烈な黒字になった。
    韓国経済はいっきに成長する。


    一方、1900年に発生した清の義和団事件の混乱収拾を名目に満州へ侵攻したロシアは、この年、満州全土を占領下に置き、満洲の植民地化を既定事実化しようとします。

    これに対し、日英米が断固抗議。仕方なくロシアは撤兵を約束するのですが、ロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わない。
    それどころか、なんと駐留軍の増強を図った。

    ロシアの満州占領が、自国の権益と衝突すると考えたイギリスは、1902年に日英同盟を締結し、日本と連携してロシアの南下をくいとめようとします。

    1903年4月21日に行われた京都・無鄰庵での「無鄰菴会議」でも、伊藤博文、桂太郎、山形有朋、小村寿太郎らは、
    「満州問題に対しては、我に於て露國の優越権を認めよう」とまで宣言しています。


    いっぽう、冒頭に登場した閔妃です。

    閔妃は、贅沢三昧の生活を送りながら、もっと贅沢をしたいからと、満州を勢力下においたロシアに、朝鮮半島ある鍾城・鏡源の鉱山採掘権や、朝鮮北部の森林伐採権、関税権などを次々に売り渡してしまいます。

    そりゃあ、閔妃の一族は大儲けしたでしょう。
    だけど、儲ける連中がいる一方で、半島の貧富の差はますます広がってくる。

    急激な対日貿易の黒字は、朝鮮半島の経済力を増したけれど、同時に、半島内のインフレを招き、貧富の差を増大させた。
    米や大豆の値段が高騰し、貧しい朝鮮庶民の生活は圧迫された。


    1894年5月、朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者とする甲午農民戦争(東学党の乱)が起きます。

    東学党一味は、民生改善を求めて、農民一揆をおこし、5月末までに、羅道全州を占領してしまう。日本でいったら一向一揆みたいなものかもしれない。


    6月1日、朝鮮政府は清に派兵を要請します。

    清軍の陳圧行動の中、当時、日本との貿易がさかんだった朝鮮には多くの日本人がいましたし、前の騒動で、日本人が婦女子まで虐殺された事実もあり、やむなく日本は6月10日になって、海軍陸戦隊400名(たった400名です)と大鳥圭介公使を漢城に派遣しました。


    6月11日には、清軍と朝鮮政府は、一揆軍の弊政改革案を受け入れ、暴動を鎮圧させます。

    ところが暴動は鎮圧されたはずなのに、翌12日に、清は、牙山に陸軍を上陸させる。

    日本は、6月15日、大島公使が、清に対し、半島の平和のために、両軍が半島から撤兵すること、ならびに、朝鮮の内政改革については、日清共同で平和りに進めたらどうかと、進言した。

    日清両軍がいなかったことで、朝鮮の経済は成長したのです。
    だから、朝鮮のために、また両軍とも撤退しようよ、というわけです。

    しかし、朝鮮をあくまで属国扱いしている清は、この日本の提案に、なかなかウンといわない。

    そこで大鳥行使は、朝鮮の王に、6月20日、「朝鮮から、清も日本も撤退してほしいと交渉したらどうか」と、申し向けます。

    ところが、7月にはいると、牙山の清軍は、ますます増強され、7月20日ごろには、4165名の陸戦隊が上陸してしまう。

    さらに7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦「秋津洲」「吉野」と「浪速」が、会合予定だった巡洋艦「武蔵」と「八重山」を捜していたところ、突然、海上にあらわれた清国巡洋艦の「済遠」と「広乙」が、21cm砲で、日本の巡洋艦を砲撃してきた。

    一方的に撃ってこられたら、反撃しないわけにはいかないです。

    数分間、互いに砲撃を交わした後の午前7時50分、日本海軍の応戦の前に、「済遠」と「広乙」は逃亡を開始した。

    そこで日本の「秋津洲」は「広乙」を、
    「吉野」と「浪速」は大きいほうの「済遠」を追った。

    「広乙」は追い詰められて座礁。

    「吉野」と「浪速」は「済遠」を追ったのだけど、「済遠」は国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図るなんてことを繰り返した。

    そして海上にあった清国軍艦「操江」と「高陞」(英国商船旗を掲揚)のもとに逃げ込んでしまいます。

    日本の「浪速」は、一時攻撃と追跡をやめ、清国軍艦「操江」らと押し問答をするのだけど、その隙に、「済遠」はさっさと逃走してしまう。

    「吉野」の最高速度は23ノット。「済遠」は15ノット。なので「吉野」のほうが、断然、船足が速いです。

    「済遠」は逃げながらも2門の21cm砲で砲撃してくる。

    「吉野」はジグザグ航法で、敵の弾を避けながら追跡するのだけど、「吉野」の砲門は15cm。あきらかに分が悪い。

    それでも「吉野」は、「済遠」を2500mまで追い詰めた。

    すると「済遠」は面舵をとって船を浅瀬へと船を向かわせた。

    「済遠」はドイツ製巡洋艦で2,300tで、喫水は4.67 m。
    「吉野」はイギリス製の4,216tで、喫水は5.18mです。

    浅瀬に逃げられたらどうしようもない。
    「吉野」は、追撃を中止し、「済遠」は逃げてしまいます。

    一方、「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞」に停船を命じ、臨検を行おうとするのだけれど、「高陞」は停戦命令に従わない。

    やむなく「浪速」は、「高陞号」を撃沈したうえで、「高陞」に乗っていた英国人船員ら3人と、清国兵50名を救助し、捕虜とした。

    この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無。

    清は「広乙」が座礁、「高陞」が撃沈。

    ちなみに「吉野」が追撃を中止した「済遠」は、なぜか清の発表では「大破」とされています。日本によって一方的に攻撃されたと発表。逃げたはずなのに変な話です。

    この戦いのあと、英国商船旗を掲揚していた「高陞」を撃沈されたことで、イギリス国内で、日本に対する反感が沸き起こるのだけれど、日本の「高陞」攻撃は、完全に国際法に沿ったものだったことが報道されると、英国世論は、沈静化します。紳士の国ですね。


    この海戦の2日後の7月25日、朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山に上陸していた清国軍を撃退してほしいという要請が出されます。
    やらなければ、半島にいる日本人に何をされるかわからない。
    やむなく日本は、翌7月29日に第9歩兵旅団によって牙城に立てこもる清軍を攻撃する。

    午前2時、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死します(日本側初の戦死者)が、午前7時には、日本軍は、敵陣地を完全に制圧します。日本強いですね。


    この戦いで、日本側の死傷者は82名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出しますが、清国兵は、武器等を放棄して平壌に逃走してしまいます。

    なお、この戦いで、第21連隊の木口小平二等兵が、死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残っています。実に立派です。


    7月下旬になると、清国軍は牙山から逃げ帰った兵士と併せて、合計1万2千名の兵員を平壌に集結させます。

    日本は、あくまで開戦を避けようと、外交交渉を継続しますが、清はこれに応じない。

    やむなく日本は、けじめとして、8月1日に清国に宣戦布告文を発します。
    朝鮮の意思を尊重し、兵を引かないなら、日本は戦いますよ、という詔です。


    しかし宣戦布告しても、なかなか日本は、戦いをはじめません。
    あくまで平和的解決のため、全力を尽くします。

    ところが事態は一向に解決しません。


    やむなく日本は、1ヵ月半後の9月15日、平壌の清軍基地への攻撃を行います。

    同日午後4時40分、清軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。

    ところが、清国軍は、約束を違えて逃亡してしまいます。
    そして、同日夜に日本軍が入城する。日本の大勝利です。


    2日後、9月17日12時50分には、黄海上で、日清両艦隊が遭遇します。

    先に攻撃してきたのはこんどもまた清側からです。

    日本側は、旗艦「松島」以下12隻。
    清国艦隊は、18隻。

    敵戦力の方が大きかったのですが、日本艦隊は、果敢に戦い、清国艦5隻を撃沈、5隻を大中破、2隻を擱座させて、大勝利します。

    この海戦によって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。


    このあと、10月25日には、山形有朋率いる第一軍による鴨緑江渡河作戦で、日本軍大勝利。
    10月24日には、大山巌率いる第二軍が旅順を制圧し大勝利。

    そして日本は、1895年4月の日清講和条約まで、清軍を相手に連戦連勝していきます。


    以上が、日清戦争までの流れです。


    わたしたちは、なんとなく、「戦争というものは、施政者の都合で、ある日突然、宣戦布告によってはじまるものだ」と思っています。

    しかし事実は、日清戦争の経過にあきらかな通り、さまざまな不条理な出来事によって、世相が泥沼化していき、いつの間にか戦争戦争が起こっている。

    宣戦布告というものは、ひとつの施政上の“くぎり”にすぎないということが、おわかりいただけるのではないかと思います。

    いま日本は、反日を標榜する国家と、その反日に加担する国内勢力によって、信頼を根本とする日本の治世を、根底から破壊されようとしています。

    麻生さんは、選挙をするともしないとも、ひとことも語っていないのに、テレビをつけると、昨年の麻生総理就任以降、「選挙しない太郎攻撃」ばかりです。

    日本の底力を信じ、信頼できる国家、世界から信頼される日本を目指し、国内治世においては、筋道を立て、景気回復に死力を尽くす総理が、なぜ批判や攻撃の的とならなければならないのか。

    北朝鮮が短距離ミサイルを日本に向けて発射し、日本をターゲットとする中距離ミサイルノドンを日本に向けて発射するためのデモンストレーションを繰り返している中で、どうして国内世論やマスコミは、その事実をきちんと報道せず、国家としての対抗策を語ろうとしないのか。

    マスコミの所業は、国民に黙って隠しているから、北朝鮮産、はやくミサイルを日本に打ち込んでくださいといわんばかりにすら見えます。

    宣戦布告はまだないけれど、すでに戦争は始まっているようにすら思えます。
    てか、これはすでに戦争なのかもしれない。


    経済というものは、その基本にあるのは「信頼」です。

    企業活動にしても、売掛金や買掛金取引ができるのも、その根底に相互の信頼があるからです。

    債権債務の関係というものは、すべてその「相互信頼」が基盤になっている。

    会社勤めをしているサラリーマンにしたって、一ヶ月、ちゃんと働けば、かならず給料がもらえると信じて働いている。

    その信頼がなかったら、誰もその会社で働いたりしません。

    そうした「信頼」というものをきちんと守ろうとする日本と、信頼なんてなぁ関係ないとばかり、自己の利益ばかりを狙う閔妃のような人物。

    そして、約束しながら、それを平気で無視して都合よく兵をすすめたり、多勢に無勢をいいことに虐殺の限りをつくす不条理に対して、日本は、我慢に我慢をかさねて、それでも平和的解決の道を模索し続けていた。

    このことは、日清・日露、第一次大戦、大東亜戦争と、日本が一貫して貫いてきていることです。

    そして戦後の日本にしても、約束は守る。依頼された仕事は完璧に仕上げる、そういう哲学をバカ正直に実践し、国際的信用を勝ち得、経済の復興を図ってきた。

    日本の伝統的文化は、約束を守ること・・・つまり相互信頼にその根本があります。

    しかし、「友愛」などと、耳触りのよい言葉を発しながら、その実、国を売り、国民の施政者に対する信頼をふみにじり、嘘八百で、過去の日本の先人達が必死で守りとおした信頼という文化を完全に葬り去るような輩が、日本に現れた。
    外国から売国のために受け取ったカネを、死んだ人の名義で、献金されたと帳簿につけるようなゲス野郎が堂々と日本の議員をしている。

    そんな輩には、絶対に先人達の血のにじむ努力や、本当の意味での信頼や、友愛など、まるで理解できないのではないか?

    そんなゲス野郎を、首魁にあおぐ政党など、ボクは絶対に信用したくない。

    彼が何億の蓄財をしているのかは知らないけれど、すくなくともはっきりといえるのは、ボクよりはお金持ちだし、エライ人だ(笑)。

    だけど、ボクにはほんの残りカス程度かもしれないけれど、日本人としての誇りがある。

    その誇りがある分、大金持ちのゲス野郎よりは、よっぽど豊かに生きているのだと思っています。

    約束を守り、平和を愛し、信頼を築き、互いに成長できるように気遣う日本。そして一朝事あれば、正々堂々と果敢に戦い、連戦連勝の勝利を果たす日本。

    これに対し、大言壮語するけれど、いざとなったら逃げ出してしまう。嘘八百を並べ立てる。自己の金儲けだけしか考えない。多勢に無勢で相手より絶対に強い立場にあると思ったら、ありとあらゆる非道を平気で行う。

    そんな文化と、日本の伝統ある信頼文化が、果たして融合などできるのだろうか。

    顔かたちが似ていても、まるで考え方の違う人たちと、言葉だけ友愛などと言ってみても、結局最後には、多くの血を流さなければならなくなる。

    はじめにひどい目にあうのは、きまって信義を重んじる側です。

    幸い、過去の歴史の中では、日本は最後には打ち勝ってきているけれど、でも、その間にも多くの日本人が犠牲になっている。

    いまの日本だってそうです。

    他国からの干渉や、国内の売国圧力によって、日本の多くの企業が不況にあえぎ、多くの人々が職を求めてさまよっている。

    民主党は、選挙マニフェストで、財政の緊縮を標榜しているけれど、この不況下にとんでもない話です。
    いまは内需拡大のために、財政を出動しなければならないときです。

    そのために日本は多額の国債を発行するけれど、その引き受け手の98%は、日本人です。
    つまり、国内の民間部門に眠るお金を、証書一枚で国が吸い上げ、これを流通させる。

    流通する通貨量が増えれば、お金がまわる。お金が動く。

    もちろん、通貨だけが増えたら、インフレになるけれど、これは新規の通貨の大量印刷ではない。民間部門のお金を、政府が吸い上げ、公共工事やら、中小企業への資金援助に使うということです。

    赤字国債が増えると日本は破産するなんてことをいうアホもいるけれど、それも違う。
    なぜなら、預金量が増えたからといって、倒産する銀行などないからです。

    そして日本の通貨の発行権を持っている日本国政府は、日本国内最大の金融機関でもある。

    つまり国債は、銀行にたとえれば、定期預金を確保することに等しく、たくさんの預金を集めれば、それだけ国は自由に使えるお金が増える。
    そしてそのお金が国内に流通し、景気の底上げをしてくれる。

    ふつうに考えれば、誰にでもわかることです。

    明治の日本は、富国強兵政策によって、国内に軍事産業を興し、戦艦や巡洋艦を民間部門に発注。民間は受注により大量の雇用を生み出し、また、徴兵制によっても、国内に大量の雇用を生み出した。

    結果、明治維新のころには、当時の清国と、国民ひとりあたりのGDPに大差なかった日本が、その後わずか十数年で、清国を圧倒するだけの経済基盤を築きあげる。

    日清戦争は、信頼を重んじ、必死に努力して富を得た日本と、干渉ばかりして努力をせずに事大主義に凝り固まった清国との戦争でもあった。

    そしてその結果は、最後に明らかとなった。
    もちろん日本の勝利です。

    正しい者が、最後は勝つのです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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