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まぁ、このブログ、話が大東亜戦争にいったり、日清戦争にいったり、あっちこっちしていますが、今日は、幕末です^^;
幕末のころ、神戸の三宮で起こった事件が、またの名を神戸事件です。
この事件は、神戸開港早々の明治元年正月11日に起りました。
鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府は、備前(岡山)藩に、大阪界隈の警備出向を命じます。
このころ、幕府の大阪町奉行がいなくなってしまい、関西地区は、いわば無政府状態となって、治安が悪化していたのです。
そこで出向してきた備前藩の家中、日置帯刀の従兵らが、兵庫での昼食のために神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人水兵が、その行列を横ぎった。
英人水兵らは、この横断が無礼な行為であり、日本では違法にあたるなんて知らない。
おまけに言語が通じない。
前衛の備前兵が、横断をそれを制するつもりで、槍をあげて威嚇したのだけれど、一人の英人は、ナイフを執ってそれに抵抗する態度を示した。
備前侍も武士です。
警護の滝善三郎が前に出て、たちまちのうちに一人を斬り捨て、一人に重傷を負わせた。
報告を聞いた英国は、この事態を重く見て、すぐに陸戦隊を神戸に上陸させ、同地にあった外国人居留区(当時造成中)を軍事的に占領します。
さらに、英国陸戦隊は神戸の通行を封鎖。
そして大阪湾内にあった諸藩の艦船6隻をすべて抑留します。
こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにと、かねて神戸村の臨時取締役から各外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったののだけれど、残念なことにその意味は徹底していなかった。
英国兵の上陸に、神戸の町の人々は、騒然とします。
なにせ街が、外国人によって封鎖され、占拠された。
発足したばかりの明治新政府にとっても、これは外国を敵に回しかねない緊急事態です。
この時期、明治新政府といったって、まだまだ諸外国には何の信用もない。
なにせ鳥羽伏見の戦いに勝ったばかりの状態です。関東には無傷の幕府が残っている。
幕府の鎖国政策に対し、新政府は、開国の方向を確定するのが第一だと聞いてはいても、各国公使らはにわかにこれを信用するわけにいきません。
一方、明治新政府にしてみれば、三宮事件は、新政府の誠意と実力を示し、諸外国の信用を身につけるための試金石です。
なんとかしなきゃなんない。
さりとて、武士の誉れの道を外すわけにもいかない。
新政府は、島津修理太夫、毛利長門守、細川越中守、浅野安芸守、松平大蔵大輔、それに山内容堂などの連署で、朝廷に建議。各国公使あてに詫書を出すことにします。
詫書は、陸奥陽之助(後の陸奥宗光)が使者になり、英国領事パークスの元に届けられた。
書面には、
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朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申し訳ない。
今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動の所為のないようきっと申し渡して置く。
今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。
このたびの儀は、備前家来日置帯刀に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に“切腹”を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった。
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というものです。伊達宗城の花押まである。
しかし、おさまらないのは英国代表のバークスです。
新政府の外国事務掛として神戸にいた伊藤博文は、バークスに善三郎の助命を求めたのだけれど、バークスの怒りは収まらない。
バークスは、
「切腹は、日本武士の名誉であると聞く。
本件は犯罪であり、名誉の死であってはならない。
今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」
と反論します。
兵庫の永福寺での処刑の日がやってきます。
パークスはふたりの書記官を立ち会わせます。
日本側からは、伊藤俊介、他一名のものが立ち会った。
処刑は、作法通りの“切腹”となった。
切腹した滝善三郎は、風采も卑しくなく、世が世なら、滝善三郎は無礼な外人を打ち懲らしたものとして、むしろお褒めにも預かるべき武士です。
彼は死に臨んでも堂々とし、従容として腹を裂いた。
切腹のあまりの荘厳さと、滝善三郎の堂々とした態度に、英国人立会人は、気圧され、その模様を、詳細にバークスに報告します。
そして、迅速かつ筋道を立てた誠意ある対応と、武士の名誉を守る(切腹)について、頑としてこれを曲げない新政府の態度、そして備前藩士、滝善三郎の従容とした立派な最期に、バークスの心は動きます。
こうした一連の事件に対する新政府の対応は、最初の日英の外交的危機を脱しただけでなく、かえって新政府の実力と、英国との友好関係を深めようとしている姿勢を明確に証明することになった。
また、ひとりの日本武士の切腹に堂々とした態度は、英国人バークスをして、新政府を全面的な支援に向かわせることになります。
そして、英国の完全な後ろ盾を得た明治政府は、この後、幕府方を追い詰め、維新を完成させて行きます。
外交は、国と国とのつながりであるとともに、人と人とのつながりでもあります。
そして相手の言い分を聞くだけではなく、断固としてこちらの文化や伝統を主張し、これを守り抜くという姿勢が大事であることを、三宮事件は私たちに教えてくれているのではないかと思います。
なにも、ねつ造史観まで受け入れて、特ア国のいいなりになることが外交ではありません。
そんな安易なことで相互の国際関係が良好になるなどというのは、とんでもない間違いです。
この事件で切腹して果てた滝善三郎の辞世の句は
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きのふみし 夢は今更引かへて
神戸が宇良に 名をやあげなむ
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「名をやあげなん」と詠んだ善三郎の辞世の句には、命をかけて名誉を守ることの誉れが謳われています。
そして靖国に祭られている200万の先の大戦の英霊たちもまた、命をかけてこの国の誇りと名誉を守り抜いた。
私たちの先人たちは、こうしてまさに命がけでこの国の伝統と誇りを守り抜いたのです。
いまを生きる私たちは、そうやって日本を守り抜いてくださった先人達のおかげで、いま、こうして息をしている。
その先人達への感謝の心を、いまこそ日本人は思い出すべきときにきているのではないかと思います。
日本人は先人達への感謝の心を忘れるな!と思う方、
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