• マッカーサーが称賛した武士道の人


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    陸軍大将 今村均氏
    今村均陸軍大将


    武士道は、日本精神そのものです。
    なぜなら日本における「武」は「たける」ものだからです。
    「たける」は「竹る」で、混沌としたものを整えたり、物事を真っ直ぐにする意味を持ちます。

    1950年、一艘の船が横浜港を出港しました。
    その船に乗ったある人物を称えて、マッカーサーは、
    「日本に来て以来、はじめて真の武士道に触れた思いだ」
    と述べました。

    その人物が今村均陸軍大将です。
    当時彼は俘虜虐待の最高責任者ということで、オーストラリアの戦犯裁判で禁固10年の判決を受けていました。
    もちろん真っ赤な濡れ衣です。

    日本の軍人により、インド人、中国人、インドネシア人への虐待が問題にされたのですが、その内容は日本軍で平常に行なわれていたビンタ(平手打ち)でした。
    日本の兵隊が、理由もなくビンタをすることはありません。
    ビンタというのは、打たれる側は、痛いが、怪我をすることはありません。
    そしてビンタは、打つ側も、痛いものです。

    ビンタは、体罰ではあるけれど、打つ側も痛みを感じて打つ。
    心で泣いて打つのです。
    日本では、ビンタは、そういうものだと考えられていました。

    ところが戦勝気分に浮かれる豪・中は、これを復讐裁判の好材料にしました。
    自らの非を棚にあげ、ビンタを打った日本の将兵69名を逮捕し、戦争裁判に狩り出して、次々と死刑を宣告しようとしたのです。
    戦争裁判は、裁判の名を借りた一種の復讐劇でしかないものでした。

    ラバウルの第八方面司令官(ラバウルの最高司令官)だった元陸軍大将は、オーストラリア軍司令部に何度も足を運び、次のように主張しました。
    「インド人、中国人などは、
     そもそも戦争俘虜ではない。
     日本軍が雇った外国人労働者であり、
     彼らへの虐待があったにせよ、
     それを一般俘虜と同列に
     連合軍が裁くのは不当である。
     それでもどうしても裁くのであれば、
     監督指導の位置にいた
     最高司令官の自分を責めるべきであって、
     個々の将兵を裁くべきでない。」


    あまりの今村の正論と熱意に、ついにオーストラリア軍が根負けして、今村元陸軍大将を捕虜収容所に入所させることにしました。
    このとき今村元陸軍大将は、
    「戦争裁判は戦闘であり、作戦である。
     これは勝たなければならない」

    と述べています。
    そして「ひとりでも多く救う」という目標に向かって、思い付く限りの手を打って戦いました。

    今村元陸軍大将は方面軍最高司令官であり、オーストラリア軍は、はなから死刑にすることを前提に、裁判をすすめようとしました。
    しかし、オランダ軍は、ついに今村を死刑にすることができませんでした。
    今村の軍政時代を知るインドネシア人が次々に証言台に立ち、有罪の不当性を訴えたからです。
    結局今村は、懲役10年の刑になりました。

    逸話があります。

    今村が死刑にされると思ったインドネシアの独立運動家・スカルノ(後の大統領)が、密かに今村元陸軍大将の収容所を訪れ、脱出を勧めたのだそうです。
    スカルノは今村元陸軍大将の軍政下で色々と親切にしてもらった恩義に報いようとしたのです。
    ところが、今村元陸軍大将はきっぱりと断っています。

    戦犯の中には冤罪で死刑判決を受けた者もいるから、その将である自分だけが一人逃げるわけにはいかない、というのが理由だったそうです。

    では、その今村の現地での統治がどのようなものであったのか。
    これもまた記録に明らかとなっています。

    今村陸軍大将は、昭和17年(1947年)、ジャワ島統治の最高司令官として赴任しました。
    彼が第一にしたのは、民心の安定でした。
    それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見ることができます。

    1 日本人とインドネシア人は同祖同族である
    2 日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
    3 同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する


    当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。
    植民地支配を受ければ、人口の9割が死ぬ。
    人々に私有財産は認められず、男は苦役に狩り出され、女は貞操を奪われる。
    それが被植民地の常識だったのです。
    なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。

    ところが今村司令官は開口一番、「共存共栄」を唱えました。
    住民は驚きました。
    しかし今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかったのです。

    更にジャワの軍政府の施政も住民の支持を得ました。
    そこで行われたことは、たとえば、
    a. 農業改良指導
    b. 小学校の建設と、児童教育の奨励
    c. 新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
    d. 英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
    e. 5人以上の集会の自由
    f. 多方面でのインドネシア人登用
    g. インドネシア民族運動の容認
    h. インドネシア人の政治参与を容認
    i. 軍政府の下に「中央参議院」を設置
    j. 各州・特別市に「参議会」を設置
    k. ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
    l. 「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設


    これらはどう見ても、ジャワ(インドネシア)独立への「ステップ」です。
    そして現実、ジャワの日本軍政時代にインドネシア独立の段取りは全て整えられています。

    さらに、オランダ軍によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者であるスカルノやハッタら、政治犯を解放しました。
    そして彼らに資金や物資を援助し、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、オーストラリア軍が破壊した石油精製施設を復旧し、石油価格をオランダ統治時代の半額にしました。
    また略奪等を厳禁として治安の維持に努めています。

    こうした国際法の遵守、人心収攬という今村の統治は、すべて天皇の許可を得た統治要綱にもとづくものでした。

    戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたことがあります。
    このとき、今村司令官はかたくなに要求を拒んでいます。
    白木綿を取り上げたら現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという彼らの宗教心まで傷つけると考えたからです。

    軍の一部から批判を浴びたけれど、実情を視察に来た政府高官の児玉秀雄らは、
    「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」
    「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」

    などと報告し、むしろ今村司令官の軍政を賞賛する報告をしました。

    実際、今村司令官の軍政を視察するためにジャワに来た軍務局長・武藤章陸軍中将がバタビア(現在のジャカルタ)に来た時に次のように報告しています。
    「来て見れば、白人の老夫婦は夕方の公園を散歩している。
     若いアベックはカフェーのテーブルで囁いている。
     バタビアの中心街は銀座の比ではない。
     獄舎の将校たちにレクリエーションの時間が与えられ、
     囚房の深夜にも電燈の火が煌々と流れている」


    今村司令官の統治は、占領を感じさせない穏やかなものだったのです。

    しかし視察した武藤陸軍中将はこれを不適当と考えました。
    中央の意向に沿って、今村司令官に軍政改変を迫りました。
    今村の統治は「優柔不断、威厳欠如」ではないかというのです。

    しかし、数日間武藤陸軍中将と激論を交わした今村司令官は、
    「天皇の御允裁(許可)を得た改変なら服するが、
     陸軍省の感覚だけで変更を命じるなら、
     免職されるまで服従しない。
     これが自分の信念である。
     しばらく実績を見て改めて命令を待つ」

    と頑として言い張りました。

    今村司令官のジャワ統治は1年にも満たなかったけれど、いまむらの統治手法はその後も引き継がれ、戦後のインドネシアの独立運動の基礎を築きました。
    そして現在でも今村将軍はインドネシアの教科書にも掲載されているそうです。

    戦争の配色が濃くなった頃、今村司令官はラバウルの陸軍最高司令官として赴任しました。
    米軍はソロモン諸島を次々と攻略。
    すでに太平洋の島々はほとんど米軍の手に落ちていました。
    当然日本軍の南方主力基地であるラバウルも標的です。

    このとき米軍による海上封鎖によって、補給が長く続かないことを懸念した今村は、島内に大量の田畑を作る様に全軍に指導しています。
    そして自も一緒になって鍬や鋤を遣い、田畑を耕した。そして、完全な自給自足体制を築きあげました。
    また米軍の空襲、上陸に備えるため強固なる地下要塞も建設しました。

    そのあまりの堅固さに米軍司令部も攻略を諦めています。
    そして、迂回進撃し、補給路を断ったのち、日本軍を餓死させる作戦を採用しています(飛び石作戦)。

    しかし今村司令官率いるラバウルの日本軍は、この時点で、本土からの補給無しでも十分生存可能な食料を備蓄していたので、今村司令官はじめ陸軍将兵10万は、本当に孤立し、なんの補給もなかったにも関わらず、終戦まで悠々と自活生活を続けることができたのです。
    そして戦犯として処刑された一部の者を除き、ほぼ全員が、生きて祖国に帰りつくことができました。

    漫画家の水木しげる氏は、兵役でラバウルにいたときに視察に来た今村司令官から言葉をかけられたことがあるそうです。
    その時の印象について水木しげる氏は、
    「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いています。
    (水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫)


    一方、軍人としての今村陸軍大将は、すさまじい闘将でした。
    1940(昭和15)年2月に一段落したシナ・南寧作戦では、今村は第5師団を率いて、戦死1500名、負傷3000名という大きな損害を出しながらも、50日間も南寧を守りとおしています。
    敵の蒋介石軍の兵力は、第5師団の約25倍から30倍というとほうもないものでした。
    その卓越した指揮は陸大の教材にも取り上げられていたそうです。

    また今村陸軍大将が指揮した帝国陸軍ジャワ派遣軍第16軍2個師団総勢55,000人は、ジャワ攻略戦において、真正面から敵前上陸を敢行し、2倍の兵力を擁していたオランダ軍(蘭印連合軍)を、上陸後、僅か9日にして降伏させています。

    ちなみに、大東亜戦争は、日本が米英に宣戦布告してはじめた戦争ということになっているけれど、ことオランダに関しては、逆にオランダから日本に宣戦布告しています。これは史実です。


    さて、戦後の今村元陸軍大将に話を戻します。
    今村を収容したラバウルのオランダ軍の捕虜収容所は、1950年(昭和25年)1月 閉鎖となります。
    今村は、残りの刑期を東京の巣鴨拘置所で過ごすことになりました。

    1949年(昭和24年)彼は帰国しました。
    ところが彼は、ここでも自分をマヌス島に移せと運動しました。
    マヌス島にはラバウルで刑を言い渡された部下がまだ収容されていたからです。
    いまだに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない、というのです。

    そして彼は帰国後すぐに、自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望しました。
    妻を通してマッカーサーに直訴しました。
    報告を受けたGHQ司令官のマッカーサーは、後に
    「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為
     マヌス島行きを希望していると聞き、
     日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。
     私はすぐに許可するよう命じた」

    と述べています。


    マヌサ島に到着した今村元陸軍大将を、戦犯服役者たちは大歓声で迎えました。
    彼らは今村元陸軍大将を囲んで、その夜、明け方まで語り明かしました。
    今村に手紙を書いた畠山某氏は、
    「この日の嬉しさは生涯忘れられない」
    と語っています。


    刑期満了で日本に帰国した今村元陸軍大将は、東京の自宅の一隅に建てた小屋(謹慎室)に自らを幽閉しました。
    戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、回想録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に使ったといいます。
    また援助を求めてきた元部下に対して今村元陸軍大将は出来る限りの援助をしたそうです。

    それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれています。
    その行動につけこんで元部下を騙って無心をする人間もいたが、それに対しても今村は騙されているとわかっていても敢えて拒否はしなかったそうです。


    今村均元陸軍大将の生活は、戦前戦後ともに非常に質素なものだったといいます。
    そして彼は、戦後も将としての責任をまっとうしました。
    闘いにあっては、まさに鬼神となり、平治にあっては、仁徳のある統治者でした。


    いまの世の中では、経済的な成功し、贅沢な暮しをすることだけが、なにやら人生の成功のようにされています。
    けれど、武人として、多くの民を救い、立派に責任を全うしてながら質素に生きるという人生が、かつてこの日本に厳然として存在したのです。
    そういう武士道という名の日本精神を、まさに体現した人が、この日本に、ほんの少し前まで、ちゃんと生きていたのです。

    そのことを、現代に生きる私たちはもういちど、深く噛みしめべきではないかと思います。

    今村均元陸軍大将 1968年10月4日死去 享年82歳。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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