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四国・徳島県鳴門市といえば、鳴門の渦潮で有名なところです。
この鳴門市は、ベートーベンの第九交響曲の街としても有名です。
鳴門市では、毎年6月1日が「第九の日」とされ、6月の第一日曜日には盛大な演奏会が開催されている。
なぜ第九なのかというと、この地に、ドイツ兵の俘虜収容所が置かれたことがきっかけになっている。
そして朝敵の汚名を着せられた会津藩出身の松江豊寿大佐がいた。
彼は、幼年学校・士官学校を経て長州閥の強い陸軍に進んだ松江は、繰り返し「敗藩の悲哀」を味わってきたといいます。
あまりのことに、上官に抗議して軍法会議にかけられたことも。
その松江大佐に、鳴門市に置かれた板東俘虜収容所長の任務が与えられたのが、大正3(1914)年のことです。
この年、第一次世界大戦が勃発します。
日本は同盟国だったイギリスの要請を受け、同年8月、ドイツに宣戦布告した。
そして10月にはミクロネシア水域のドイツ領南洋諸島を占領。
さらに77日間に及ぶ激闘の末、11月に中国山東省の港湾都市でドイツ領だった、青島(ちんたお)を陥落させます。
このとき俘虜として収容されたのが、ドイツ兵とオーストリア兵、合わせて4,627人。
日本は、彼らを日本国内にある戦時俘虜収容所に収容します。
そして完成したばかりの鳴門市の板東俘虜収容所には、953名のドイツ兵俘虜が送られた。
「世界のどこに、バンドーのようなラーゲルがあったでしょうか。世界のどこに、マツエ大佐のようなラーゲル・コマンダーがいたでしょうか」
板東収容所ばかりでなく、第二次世界大戦時のシベリアでも俘虜生活を送った経験を持つドイツ人元俘虜パウル・クライの言葉です。
ドイツ兵俘虜たちは、遠い異国の地で4年半を超える抑留生活を過ごしました。
そこで出会ったのが、松江豊寿大佐だった。
松江大佐は所長着任後、収容所近くの官舎に住み、毎日1kmほどの道のりを、ゆっくりと馬で通勤していたそうです。
地元の人々があいさつすると、馬上からひとりひとりにていねいに返礼していたとか。
彼の口ぐせは「武士の情け」だったのだそうです。
そして敗者や弱者への人道的な姿勢を決して崩すことがなかった。
こうした松江所長の信念を、地域の人々も素直に受けとめた。
地元では、収容所のドイツ兵俘虜兵士たちを「ドイツさん、ドイツさん」と呼んで、家族のように親しく接する風潮が広がっていったといいます。
捕らわれの身であったドイツ兵たちも、比較的自由な生活が許されていた。
そして地域住民との間に自然と交流が深まり、ドイツ式の牧場経営、パン、バター、チーズの製法、印刷技法、園芸栽培、土木建設などなそ、ドイツのすぐれた技術や数多くの新しい西欧文化などが地元に紹介され、友情の輪が広がった。
しかし、そうは言っても、ドイツ兵達にとって、俘虜生活には心の不安がつきまとう。
沈みがちな俘虜たちの心の支えとして、大正6年、「ドイツ沿岸砲兵隊オーケストラ」が結成されます。
こうして彼らドイツ兵は、帰国まで計34回、月平均1回の割合で公開演奏を行い、大正7年6月1日には、80人の地元合唱団の賛助出演を得て、俘虜収容所施設内で、壮大なベートーヴェンの第九を第四楽章まで全曲演奏した。
さらに、松江所長は、収容所の前に2,300㎡もの土地を借り受け、そこに農園と、スポーツ施設を作った。
ドイツ兵たちは早速、そこをテニスコートやサッカー場にした。
ここには、ホッケーやシュラークバル(ドイツ式野球)、ファウストバル(こぶしだけで行うドイツ式バレー)のコートなども作られた。
さらになんと、所内には、有料のボーリング場やビリアード場まで作られた。
ドイツ式ボーリングは、木製のボールを使って9本のピンを倒す「九柱戯」といわれるものですが、人気が高く、その収益はスペイン風邪の際も義捐金として活用された。
そして当時の姿をいまだに止めているものに、「船本牧舎」と「ドイツ橋」がある。
「船本牧舎」は牛と豚を飼育し、乳製品やハム、ソーセージなどの製造技術を伝えるために作られた煉瓦立ての畜舎で、クラウスニッツァーなどの指導のもとで5ヶ月かけて建てられました。
その2階は一時賀川豊彦の日曜学校として使われたこともありましたが、現在も鳴門市ドイツ村公園の南側にその姿を望むことができる。
ドイツ兵たちは、大麻比古神社の裏手の谷に10もの橋を作った。
初めは町の要望で住民の往き来のために作り出したのだけれど、この橋が現在も「メガネ橋」と「ドイツ橋」の2つが残っている。
ドイツ橋
ドイツ橋は、2003年に県の文化財に指定されています。
この橋は、195トンもの石を積み上げて作られているのだけれど、一切セメントが使われてない。そして100年近く経った今でも微動だにしていないのですが、それは石組みの巧みさばかりでなく、河床の処理が丁寧になされているからなのだそうです。
そしてね、この橋作りには、当初応分の報酬が払われるはずだったのだけれど、俘虜に金を払うことの是非について論議が起きて、結局は無償となった。
それに対してドイツ兵のが言ったそうです。
「松江大佐が、我々俘虜に創造の喜びと働く意欲を駆り立ててくれたことこそが最大の報酬だ」
立派な人というのは、周囲までも次々に立派な人にしていくものなのですね。
反対に、汚職や金にまみれ、献金疑惑や故人献金などを平然と行い、なんの釈明もしない半端なリーダーのもとでは、国旗を2つに切り裂くなどという野蛮な行為が平然と行われる。
日本は、日本人としての正しい心を、取り戻さなければならない時期に、もうそろそろきている、ねずきちにはそんなふうに思えます。
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学生時代(1990)ペギー葉山