• シコロの木


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    キハダの木(別名シコロの木)
    シコロの木


    キハダという木(ミカン科)があります。
    日本全土で、どこでもみることができる木です。

    樹高は10m~15m程度で、20m以上になるものもあります。

    樹皮からコルク質を取り除いて乾燥させると、生薬の黄檗(おうばく、黄柏)になります。
    黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用があります。
    主に健胃整腸剤として用いられますが、強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられるそうです。

    これは、薬用のほか染料の材料としても用いられます。
    キハダは黄檗色(きはだいろ)ともよばれる鮮やかな黄色の染料で、黄色に染め上げる以外に赤や緑色の下染めにも利用されます。

    なかでも、紅花を用いた染物の下染めに用いられるのが代表的で、紅花特有の鮮紅色を一層引き立てるのに役立つのだそうです。

    キハダは木目がはっきりしているため、家具材などにも使用されます。

    つまり、キハダは、とっても役に立つ“木”です。

    そのキハダの木のことを、アイヌ語で“シケレペニ(sikerpeni)”といいます。
    北海道に住むようになった人々は、これを日本語流に“シコロの木”と呼びました。

    このシコロの木が、とても多くの人々の人命を救助したことがありました。


    明治45(1912)年3月19日のことです。

    北海道の札幌市の西側、積丹半島の東側にある古平町で、衝撃的な海難事故が起きました。

    前日からの激しい風と大波で、古平湾に避難していた第二出羽丸(500トン)のいかり網が切れ、強風にあおられて厳島神社下の浅瀬に乗り上げてしまったのです。

    船には、漁師や乗組員合わせて180人が乗っていました。

    警察や消防を始め、町の人々が駆けつけ全力で救助にあたりますが、激しい風雨と大波で、船体は傾き、寒さのなかで乗員の生命も危険な状態になってしまいます。

    そこで救助隊は、陸と船の間にロープを張り渡してかごをつるし、それを使って乗員を船から助けようとします。
     
    船からロープを結んだ木樽を岸に流して、これを陸で受け取る。

    しかし木樽は、波に洗われ、なかなか岸に届きません。

    時間だけが、刻々と過ぎてゆく。

    乗員の生命は、ますます危険な状況に晒されます。

    もはや一刻の猶予もならない。

    すると、そのときです。

    カネコの一郎というひとりの若者が海に飛び込みます。

    一郎は、荒れる海を泳いで、ロープを拾い上げた。

    岸辺のみんなは、さっそく拾い上げたロープに、さらに太いロープを結び付け、船と裏山の崖っぷちに生えていたシコロの大木との間に張ることに成功しました。

    そしてロープに竹かごをつり下げ、人を乗せて船に乗っていた人を次々と救助したのです。

    途中で波にたたかれて振り落とされるということもありました。

    雪どけの冷たい海、激しい波のなかでの勇敢な救助活動と懸命な看護。

    乗員は、全員、無事に救出されます。

    ロープにかごをつり乗員を救助する
    シコロの木02


    このニュースは海に生きる者の勇気を示す美談として広く報道されました。

    当時の報道は、こうした美談も積極的に報道したのですね。(現代とは大違い?)

    やがて時が移り、昭和59(1984)年12月。

    古平町の港町町内会に、函館に住む佐藤亀治さんという人から、1通の手紙が届きます。

    佐藤さんは、第二出羽丸海難のときに自分の母親も無事救助されたということで、町内会を通じて神社に何回も寄付金を送ってくれていたのです。
    そして手紙は、記念碑建設についての依頼でした。

    海難当時、母親のツルさんは二十歳でした。
    ツルさんは、町民の必死の救助活動により九死に一生を得て、懸命の看護をによって一命をとりとめたことをつねに家族に語り、感謝の気持ちを終生忘れなかったそうです。

    「その母も今は亡くなり、自分も役所(函館港湾事務所)を退職するので、この際せめてもの恩返しをしたい」

    それが佐藤さんの手紙でした。

    港町町内会では、横川幸男神社委員長を中心にこの計画を進めることになりました。
    建てる場所は、海を見渡せる事故とゆかりのある厳島神社境内とし、記念碑の形なども協議して決められました。

    記念碑は遭難者救出の主役となったシコロの木にちなんで、「シコロの碑」と命名されました。

    題字は小樽海上保安部の伊美克巳部長が揮毫されました。

    除幕式は、昭和60(1985)年9月16日。
    厳島神社例祭の前日に畑澤町長や港町町内会、その他関係者多数が出席して行われ、その席上で佐藤亀治さんは

    「今は亡き母親の供養と、73年前、必死に救助にあたっていただいた古平町民に感謝します」とご挨拶されました。

    ところで、シコロの木はその後どうなったのでしょう。シコロの木について沢江町の山条カズさんが、幼い頃の思い出を次のように話しています。

    「子どものころ、そのシコロの木のあたりで遊んだことがありましたが、その木は倒れてしまって、根は腐ったまま残っていました。
    ふた抱えくらいもある大きな木でした。
    また磯の掘割りに死体が上がったそうで、そこでは泳ぐな、と父にいわれた記憶があります」

    実は、遭難事故のあった後、シコロの大木の木肌をけずり「人命救助の木」と書き入れられていましたが、そこから腐れが入って倒れてしまったのです。

    しばらくはそのままでしたが、昭和50年ごろになって由緒あるこの木を、このまま腐らせてしまうのはしのびないということで、残っていた根元を掘り起こし、厳島神社のなかに保存しておいたそうですが、残念ながら痛みがひどくなって処分されてしまい、今は何も残っていません。

    その後、「二代目シコロの木を植えては・・・」という話が持ち上がり、平成5年に記念碑の後に植えられたのが現在のシコロの木なのだそうです。
    (以上、出典北海道古平町ホームページより)


    キハダ(シコロ)はとっても、人々の役にたつ木です。

    そして多くの人命を救ったシコロの木は、倒れてしまいました。

    しかし、人々の心の中にあった感謝の思いは、二代目シコロの木となって、いまでもみんなの心の支えとなっています。

    人種差別撤廃を主張し、世界を相手に戦った日本は倒れてしまったけれど、人々の心の中に、正しく堂々と生きようとする気持ちがある限り、日はかならず、また昇る、とねずきちは思っています。

    ちょうどシコロの木のように。

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    日本の台湾統治の真実


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  • 飴を買う幽霊


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    子供を背負う母親 F.ベアト
    子供を背負う女性


    上の写真は、前にご紹介した江戸から明治にかけての日本の写真を撮り続けた英国人写真家 F.ベアトの写真です。「子供を背負う母親」と題されています。

    写真のお子さんは、紋付きの晴れ着姿です。
    たぶん祝い事のときのお写真なのでしょうね。
    母親も長着に羽織で、ちょぴり誇らしげです。
    なんだかこの写真、じっと眺めていると、すごく幸せな気持ちになってしまうのですが・・・

    いまも昔も変わらないのが、母のやさしさ、暖かさ、母の愛情です。
    そして心から愛情を注がれて育った子は、やはり愛情深く、しっかりと母親を守る子に育つといいます。
    それはきっと愛情って連鎖するものだからだと思います。
    子殺しなどが起こる現代日本よりも、昔の日本のほうが、もしかしたらいまよりもっともっと愛情豊かな国だったのかもしれません。

    そういえば、先日ご紹介したイザベラ・バードの本にも、こんな文章がありました。
    もちろん日本のことです。
    「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。
     子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、
     子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、
     いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行く。
     子どもがいないといつもつまらなそうである。」

    昔はお寺の門前坂というと、たいてい飴(あめ)屋さんがあったものです。
    その飴屋さんに、閉店間際、ひとりの哀しげな女性が飴を買いに来た。

    1文で、アメ1個。
    女性は毎日アメを買いにきます。
    6日目の夜、女性は、

    「これでもう銭がないのです。
     今夜が最後です。もう来られなくなります」

    と、寂しそうに一文銭を置いて、店を出て行ったそうです。

    どうしたのだろう・・・
    主人は不審に思って、こっそり後をつけました。
    すると女性はお寺の境内を抜け、墓地に入って行くと、埋葬されたばかりの新しい墓の前でふっと消えてしまいます。

    (これはなにかあるに違いない。)

    そう思った飴屋さんは、翌朝、お寺の住職や役人に立ち会ってもらって、墓を掘り返してみました。
    すると、棺の中で女性の亡骸にしっかりと抱かれた元気な男の赤ん坊が飴をしゃぶっていました。
    亡くなった妊婦が埋葬後に赤ん坊を産んでいたのです。
    棺の中に入れておいた六文の銭は使い果たされて無くなっていたそうです・・・

    昔は、埋葬時に6文の銭を棺に入れたのです。
    これは、六道銭といって三途の川の渡り賃なのだそうです。

    若い母親が、幽霊になってまで我が子を案じ、飴を買うという話はとても感動的です。

    このお話は、小泉八雲の「怪談」で紹介されている「飴を買う幽霊」というお話です。
    小泉八雲といえば、有名なのが「耳なし芳一」「むじな」「ろくろ首」「雪女」等々の作品があります。
    これらのお話は、「怪談」という本にまとめられ、流暢な文章に載せて全世界に紹介されました。

    小泉八雲は、ギリシャ生まれのアイルランド人作家です。
    彼は、深く日本を愛し、日本人の持つ深い精神性を持った民話を、英文の小説にまとめて、ついには日本に帰化して日本人となった方です。

    小泉八雲と妻の小泉セツ
    小泉八雲と妻小泉セツ


    実は昨日、日心会のMLで、せいちゃんさんが次のような投稿をしてくだいました。

    <以下、引用します>-----------------

    せいちゃんです。

    靖国神社のとなりに、みなさんもよくご存知の遊就館があります。
    遊就館では、数多くの英霊の方々が残された遺品を見学できます。

    その中でも私の印象に残ったのは、中国から日本の家族へ送られた葉書です。
    この葉書は、日本に残した家族への想いが綴られています。

    私が考えたのは、

    「はて? 戦後、我々が受けてきた教育では、
     兵士たちは、戦陣訓や軍人勅諭などにより、
     “お国のために命を捧げろ!と国に教育された!”
     と教えられた。
     あたかも洗脳された狂気の人々のように教えられた。
     しかし、はたして何者かに洗脳され自我を失ったような人間が、
     『遠い家族を想った心温かい手紙』
     など書くのだろうか?
     今でいえば新興宗教に洗脳された信者は、
     離れた家族に心温かい手紙をみんな書いているのだろうか?
     ということです。
     一言で「国を守る」というけど、もっと具体的に言えば
     「父を、母を、兄弟を、姉妹を、子供を、友を、
     恩人を、恋人を、さらに生まれ育った町、山、川、海を守る。
     それが叶うなら自分ひとりの命が散ろうとも、それも結構じゃないか」
     というような気持ちだったんじゃないかなぁ・・・と感じました。
     「死」が怖くないわけじゃない。
     だけど自分が生き残って、
     自分が守りたい人々を守りきれなかったことのほうが、もっと怖い。
     そんな気持ちを、今の自分に重ねたら「売国勢力」への
     抗議活動や知識を深めようと勉強するのも結局、
     「自分の守りたい人々や故郷」を守るためなんだな・・・
     なんて想いました。

    <引用おわり>-------------------

    靖国神社の遊就館、江田島の海軍兵学校、知覧の特攻記念館などに行くと、戦時中に亡くなられた日本の将兵たちの手紙を見ることができます。
    そこには、父母への感謝、我が子への心配り、恩師への感謝、妻や恋人への熱い想いが、一文字、一文字、ものすごく丁寧な字で書かれているのを見ることができます。

    半分も見ないうちに、もうボロボロに泣いてしまいます。
    ときどきね、その文字のインクがにじんでいるものもあります。
    そういう手紙はきっと、書きながら、亡くなられた兵隊さんも泣いていたんだなぁと感じます。
    涙をポロポロ流して、その涙が手紙の文字のインクの上に落ちたものだとわかるんです。

    そりゃあね、見たら泣けますよ。
    泣かない奴なんて、そんな奴は、人間じゃないとすら思います。
    「戦前は命が非常に軽かった」などと、わけ知り顔で言う人がいます。
    ボクはとんでもないことだと思う。
    いまも昔も、人は人です。血流せば、痛みも感じる。誰だって命は惜しい。
    あたりまえです。

    しかし、「自分が生き残って、自分が守りたい人々を守りきれなかったら」
    そんなのは絶対につらいです。絶対に嫌です。
    愛する人を守るために、愛する人を守りたいから、自分にとってかけがえのない人たちだから。
    だから何があっても守り抜きたい。

    だからこそ、230万の英霊たちは、祖国に命を捧げ、散っていかれた。そう思います。

    父母兄弟や子や、孫や、恋人や妻が生きる明日の未来を信じて。
    日本は戦後、経済的にはものすごく発展することができました。
    普通に働いてさえいさえすれば、世界中のおいしいものだって食べれるようになった。
    最近のお米なんて、むかし子供のころ食べていた配給米などと比べると、めちゃめちゃ贅沢でおいしいです。

    でもね、飽食の時代に生まれたからといって、残され、生かされた自分たちが、自分たちを守って散って行かれた英霊たちへの恩をわすれ、感謝せず、親兄弟や子や孫を守るという意志を持たないというのはいかがなものか。

    小泉八雲は、1894(明治27)年に、熊本で「極東の将来」と題する講演を行っています。
    そこで小泉八雲は、次のように述べています。

     ***
    諸君は動物学で、絶滅した動物について読んだことがあるであろう。
    かつて、敵を恐れる必要がないほど強く、また暑さ・寒さ・干ばつなどによって滅ぼされることのないほど恵まれた、驚くべき動物がこの地球上に存在した。

    この中には、ただ生存価格が高くつくだけのために消滅したものがいたことは確かである。
    地球が彼等を養えない時が来たのである。それで肉体だけに関する限り、人間も動物と同じような運命を辿るだろう。
    生活費が余りにも高いというだけの理由で、滅亡する民族が出てくる可能性がある。

    私は日本の貧困はその強みであるという固い信念をあえて述べたい。
    裕福は将来、弱体化する原因になりうる。

    日本の場合には、危険性があると考える。
    古来からの、簡素な、健全な、自然な、節度ある、誠実な生活方法を捨て去る危険性がある。

    私は日本がその質素さを保ち続ける間は強いが、もし舶来の贅沢志向を取り入れるとすれば衰退して行くと考える。

    極東の賢人である孔子、孟子、ブッダは誰も皆、「贅沢を避けて、ごく普通の楽しみと知的娯楽に必要なもので満足することこそ、民の強さと幸せのために重要である」と説いた。

    将来、日本が偉大な国になるかどうかは、すなわち素朴、善良、質素なものを愛して、生活での無用な贅沢と浪費を嫌悪する心を、いかにして持ち続けるかどうかにかかっているのだと申し上げたい。 
     ***

    現代日本は、飽食の時代にあるといわれて久しいです。
    食べ物が豊かであるということは、決して悪いことではない。
    しかし、豊かであることに埋没し、日本がその精神性を失うことは、種の絶滅を促すと、八雲は警告しているのです。
    日本は精神性を失ってはならない。
    そう思います。

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  • 公正な世界を目指して戦った日本


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    デュボイス


    W・E・B・デュボイス(William Edward Burghardt DuBois)という人がいます。
    米国人で、1868年にマサチューセッツ州で生まれ、1963年にお亡くなりになりました。

    このデュボイスという人は、米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人です。

    アメリカ合衆国の公民権運動指導者、汎アフリカ主義、ブラック・ナショナリズムの先駆者、全米黒人地位向上協会の創立者でもあります。

    昭和11年(1936)年のことです。

    彼は、満洲に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在し、「ピッツバーグ・クリア」紙に、「忘れがたい経験」と題したコラムを連載しました。

    以下はそのとき掲載された彼の体験談です。

    デュボイスはある日、東京の帝国ホテルでフロントで勘定を払っていました。

    そこに“いかにも典型的なアメリカ白人女性”が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込みます。

    ところが、ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせず、デュボイスへの対応を続けた。

    勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いた。

    フロント係の毅然とした態度に、デュボイスは、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感したといいます。


    彼は言います。

    「母国アメリカではけっして歓迎されることのない一個人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
    日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が、「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」ことを、心から理解してくれているのだ。」


    さらにこの旅でデュボイスは、日本人と中国人との違いを悟ったといいます。

    それは上海での出来事でした。

    デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、その場をどくように言ったそうです。

    すると、中国人の大人たちはみな、あわてて道をあけた。

    これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。

    デュボイスは語ります。

    「上海・・・この世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか白人の国によって支配され、統治されている。
    それに対して日本は、有色人種による、有色人種の、有色人種のための国である。」


    大東亜戦争が始まると、米黒人社会の世論は割れていきます。

    「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」
    「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」

    という意見もあれば、

    「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」という意見もあった。


    デュボイスは、大東亜戦争を“人種戦争”と捉え、はっきりと次のように語ります。

    「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはずだ。」


    黒人たちは、白人が日本人を

    「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」
    「イエロー・モンキー(黄色い猿)」
    「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」

    などと、必ずそこにイエローの文字を入れて形容することに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけます。


    当時のアメリカ政府は、日本兵は“残虐な未開人である”というイメージを広めようとやっきになっていた。

    それに対し彼は「ピッツバーグ・クリア」紙で次のように語ります。

    「ビスマーク沖での海戦で、アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした」

    「本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差別に殺した」

    「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万という人間が一瞬にして殺された。これを残忍と言わずして、何を残忍と言おう」

    「軍隊の中で差別に苦しめられていた黒人兵が白人のために、同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由は、なにもない」

    「ある白人指揮官は、黒人部隊の95%は戦う気力がまったくない、と判断を下している。黒人兵の間では、やりきれない気持ちが次のようなジョークがある。

    “墓石にはこう刻んでくれ。
    白人を守ろうと、
    黄色人種と戦って
    命を落とした黒人
    ここに眠る”と。」


    彼は、大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも強制収容所に入れられたことについて、米黒人社会は、非常に大きな衝撃を受けたといいます。

    第一に、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいである。

    第二に、アメリカの市民権を持っている日系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある、という点。


    そして彼は、11万5千人もの日系人が、一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過ごすというのかと語り、ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストとともに、全米黒人向上協会に呼びかけ、次のような決議文を提出します。

    「われわれは、人種や肌の色によって差別され、アメリカ人としての当然の権利を侵害されることに断固として反対していかねばならない。」


    大東亜戦争終戦の後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、温かく迎えます。

    彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれたのです。


    第一次世界大戦が終結した1919年、パリで講和会議が行われました。

    このパリ講和会議は、第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことがないために「国際連盟」を創設しようという会議でもあった。

    このとき、米国の黒人たちが最大の注目したのが日本でした。


    日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲て、講和会議に参加したのです。


    日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄ります。

    このとき「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、との嘆願書を、日本の使節団に出します。

    米国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願をしているのです。



    「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。」

    これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。

    人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたのです。


    パリ講和会議で、日本の“人種差別撤廃法案”は16カ国中、11カ国の賛成票を得ながら、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられます。

    全米の黒人たちは、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動を続発させます。


    そもそもアメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、日露戦争の時です。

    白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、果敢な戦いを挑んだのです。


    冒頭にご紹介したデュボイスは、白人による支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国として、日本を支持しました。

    日本が勝てば、やがて“アジア人のためのアジア”を声高に叫ぶ日が来るだろう。
    それは、自分たち黒人の母なる大地であるアフリカに同じような声がこだまする前兆となる、と考えたのです。

    そしてその考えは、全米黒人教会の意思にもなります。

    黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載します。

    「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。

    事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。

    有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。

    長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。」


    そして、日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、という白人優位の近代史の神話を事実として否定してみせたのです。


    当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。

    「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。

    同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を患者は得ることができるのだから。」


    1923年の関東大震災では、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書します。

    それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。

    「たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか。」


    同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきます。

    万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。

    「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。

    なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます。


    1936年、イタリアがエチオピアを侵略します。

    アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しようとします。
    アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、アメリカの黒人たちの心を動かしたのです。

    「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、

    「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけにはいかない」
    「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」

    と明言したことを伝えています。


    また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じました。

    そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。

    これは実現には至らなかったものの、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠でもりました。

    シカゴ・ディフェンダー紙は、

    「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じています。


    「20世紀の日本人-アメリカ黒人の日本人観」の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけています。

    「歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、心から理解してもらえるはずである。」


    パリ講和会議における日本の提案は、当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾であったといえます。

    国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって得ていた欧米資本家や貴族たちにとって、植民地を失うということは、すなわち国家の崩壊であり、資産家たちの破産を意味するものでもあったのです。

    それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、彼らにとって、どうしても許すことのできない相手でした。

    日本をなんとかして封じ込めなければならない・・・そのことは彼らにとっての意思となっていきます。

    逆に日本はどうかというと、なにも国際的地位向上のために人種差別を主張したわけではない。

    そんな奢りや高慢は、当時の日本にはまったくない。

    そのことは、現代、いまだって同じです。

    いまでも貧しい国、衛生面で問題のある国、法的整備が遅れている国、学校のない国に、日本人はふつうに出かけ、援助し、協力し、互いの発展を願って活動している。

    ねずきちだってね、ほんの少しだけど、ある貧しい国ではわずか50万円で小学校がひとつ作れると聞いて、なけなしのお金を寄付しましたよ。

    飢えに苦しんでいる国、病気で苦しんでいる国があるって聞けば、コンビニの店頭で釣銭での寄付だって、多くの日本人が、自分だって決して生活楽じゃないけど、ふつうにやっている。

    決して年収の高くない普段、フリーターの青年たちが、ボランティアで実際に海外に出かけ、教育や農業、医療の支援活動をやっている。

    そのことは戦前も、現代もなにも変わりがないのです。

    日本人はなにも変わっていない。

    驕りがなく、謙虚に、互いの発展を願う。ひとりひとりの日本人の中にあるそうしたやさしい気持ちは、戦前も、戦後のいまも、なにひとつかわっていないのです。

    日本の主張した“人種差別撤廃”の主張は、単にイエローである日本人自身が欧米と対等につきあえること願ったものだし、貧しく、差別された人々に対し、“四方の海はみなはらから”なのだから、普通に対等の関係を構築しようとしたにすぎない。


    そしてそのことが、大東亜戦争で日本本土まで焼け野原にするという事態を招いたけれど、日本が命がけで戦ったことによって、世界の被植民地国家は、いまやことごとく独立し、自国の繁栄を謳歌するようになった。

    だからねずきちは言うのです。

    日本は戦争に勝ったのだと。

    戦争というものが、国家の目的を達成するための究極の政治的手段とするならば“四方の海、まなはらから”、“世界は一家(八紘一宇)”と主張した日本は、十分すぎるくらいにその戦争目的を達成した。

    だから日本は勝ったのです。

    しかし残念なことに、日本は戦争目的を達成しながら、本土を焼け野原にした恐怖から、萎縮し、ストックホルム症候群に罹患してしまった。

    そして2009年8月の選挙では、ついに発狂してしまった。

    ちなみにね、ひとこと付け加えるならば、“四方の海、みなはらから”とか“世界は一家(八紘一宇)”という思想は、言葉でいえば“友愛精神”と呼べるかもしれない。

    しかしそれは、現・鳩ポッポ総理がいうような、他に迎合し、卑屈になるような行動を言うのでは断じてない。

    大切なことは、最大の善は、悪に見えることもあり、最大の悪は、常に善の顔をしてやってくるということ。

    誇り高い正義の天使はときに恐怖の羅刹に見え、卑屈で酷薄で残忍な悪魔は常に友愛を説く天使の姿を装ってやってくる、ということです。

    いまの鳩ポッポ政権の姿は、戦前でいえば、自分ひとりの利益のために周囲の列強に媚を売り、家のカネを持ち出して彼らに献金し、自国民や本当に困っている多くの国々を黙殺しようとする卑怯者の説く“友愛”です。

    これは“友愛”でもなんでもない。単なる“迎合”であり“裏切り”、“背信”である。

    そういう者を尊敬する国家などないし、尊敬する国民もどこにもいないと、ねずきちは思います。

    かつて全米の黒人から、同じ有色人種として敬われ、尊敬されていた日本人。

    そんな日本人が、今ふたたび、その尊厳と親愛の念を取り戻せることを、ねずきちは心から祈って止まないのです。


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    今日は、日本の心をつたえる会のメーリングリストで、「鷲」様からいただいた投稿をご紹介します。

    題名は、

    「人間を矮小化してはならない」

    というものです。

    ねずきちは、この文を読んで、おもわず目頭が熱くなりました。

    MLに参加されていない方も、是非、ご一読していただきたく、転載します。

    ------------------------------

    こんにちは、「鷲」です。

    元自衛官として思い入れのある文章なので転載させていただきます。

    埼玉県の私立狭山ヶ丘高校の校長先生が、校内紙に掲載された文章ですが、転載については学校事務局に電話で許可をいただいております。

    10年ほど前になりますが、長男の高校進学を控えて、学校説明会に付き添ったおり、この小川義男校長先生のお話を拝聴する機会を得ました。

    本当に素晴らしい教育者です!

    では、以下に掲載します。
    **************

    先日、狭山市の柏原地区に自衛隊の訓練用ジェット機が墜落しました。

    たまたま私は、寺田先生と共に、あの近くを走っていましたので、立ち寄ることにしました。

    すでに付近は閉鎖されていて、近くまで行くことはできませんでしたが、それほど遠くないあたりに、白煙の立ち上るのが見えました。

    見上げると、どのような状態であったものか、高圧線がかなり広範囲にわたって切断されています。

    高圧線は、あの太くて丈夫な電線ですから、切れるときはぷつんと切れそうなものですが、多数の細い線の集まりからできているらしく、ぼさぼさに切れています。
    何ヶ所にもわたって、長くぼさぼさになった高圧線が鉄塔からぶら下がっている様は、まさに鬼気迫るものがありました。

    聞くと、操縦していた二人は助からなかったそうです。

    二佐と三佐と言いますから、相当地位の高いパイロットだと言えます。

    二人とも脱出を試みたのですが、高度が足りなく、パラシュート半開きの状態で地面に激突し命を失った模様です。


    以前、現在防衛大学の学生である本校の卒業生が、防大合格後航空コースを選ぶと言うのを聞いて、私がとめたことがあります。

    「あんな危ないものに乗るな」と。

    彼の答えはこうでした。

    「先生、戦闘機は旅客機より安全なのです。万一の場合脱出装置が付いており、座席ごと空中に打ち出されるのですから」と。


    その安全な戦闘機に乗りながら、この二人の高級将校は、何故死ななくてはならなかったのでしょうか。


    それは、彼らが十分な高度での脱出を、自ら選ばなかったからです。


    おそらく、もう百メートル上空で脱出装置を作動させていれば、彼らは確実に自らの命を救うことができたでしょう。

    47歳と48歳と言いますから、家族に取りかけがえもなく尊い父親であったでしょう。

    それなのに、何故彼らはあえて死をえらんだのでしょうか。



    実は、あの墜落現場である入間川の河川敷は、その近くに家屋や学校が密集している場所なのです。

    柏原の高級住宅地は、手を伸ばせば届くような近距離ですし、柏原小、中学校、西武文理高等学校もすぐそばです。


    百メートル上空で脱出すれば、彼らは確実に助かったでしょうが、その場合残された機体が民家や学校に激突する危険がありました。

    彼らは、助からないことを覚悟した上で、高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近しました。

    そうして、他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性に賭けて脱出装置を作動させたのです。



    死の瞬間、彼らの脳裏をよぎったものは、家族の顔でしょうか。
    それとも民家や学校を巻き添えにせずに済んだと言う安堵感でしょうか。


    他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神のなんと崇高なことでしょう。


    皆さんはどうですか。

    このような英雄的死を選ぶことができますか。


    私は、おそらく皆さんも同じコースを選ぶと思います。


    私も必ずそうするでしょう。

    実は、人間は、神の手によって、そのように作られているのです。



    人間はすべてエゴイストであるというふうに、人間を矮小化(ワイショウカ)、つまり実存以上に小さく、卑しいものに貶(オトシメ)めようとする文化が今日専ら(モッパラ)です。

    しかし、そうではありません。

    人間は本来、気高く偉大なものなのです。


    火災の際の消防士の動きを見てご覧なさい。
    逃げ遅れている人があると知れば、彼らは自らの危険を忘れて猛火の中に飛び込んでいくではありませんか。

    母は我が子の為に、父は家族の為に命を投げ出して戦います。

    これが人間の本当の姿なのです。


    その愛の対象を、家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を我々は英雄と呼ぶのです。


    あのジェット機は、西武文理高等学校の上を飛んで河川敷に飛び込んでいったと、佐藤校長はパイロットの犠牲的精神に感動しつつ語っておられました。


    しかし、新聞は、この将校たちの崇高な精神に対して、一言半句(イチゴンハンク)のほめ言葉をも発しておりません。


    彼らは、ただもう自衛隊が、「また、事故を起こした」と騒ぎ立てるばかりなのです。



    防衛庁長官の言動も我慢がなりません。

    彼は、事故を陳謝することのみに終始していました。

    その言葉には、死者に対するいたわりの心が少しもありません。


    防衛庁の責任者が陳謝することは、それはもう当然です。
    国民に対してばかりか、大切な隊員の命をも失ったのですから。

    しかし、陳謝の折りに、大臣はせめて一言、「以上の通り大変申し訳ないが、隊員が、国民の生命、財産を守るため、自らの命を犠牲にしたことは分かってやって頂きたい。
    自衛隊に反発を抱かれる方もあるかも知れないが、私に取り彼らは可愛い部下なので、このことを付け加えさせてもらいたい。」くらいのことが言えなかったのでしょうか。


    隊員は命を捨てて国民を守っているのに、自らの政治生命ばかり大切にする最近の政治家の精神的貧しさがここには集中的に表れています。
    まことに残念なことであると思います。


    このような政治家、マスメディアが、人間の矮小化をさらに加速し、英雄なき国家、エゴイストのひしめく国家を作り出しているのです。


    人は、他人のために尽くすときに最大の生き甲斐を感ずる生き物です。

    他人のために生きることは、各人にとり、自己実現にほかならないのです。

    国家や社会に取り、有用な人物になるために皆さんは学んでいます。

    そのような人材を育てたいと思うからこそ、私も全力を尽くしているのです。

    受験勉強で、精神的に参ることもあるでしょうが、これは自分のためではなく、公(オオヤケ)のためである、そう思ったとき、また新しいエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。

    受験勉強に燃える三年生に、連帯の握手を!

    **************

    私がもっとも感動したのは、「私は、おそらく皆さんも同じコースを選ぶと思います」の部分です。

    こんな校長先生が居られるなら、まだまだ日本も希望が持てますね。

    ------------------------------

    以上が、鷲さんの投稿です。

    「人間は本来、気高く偉大なもの」

    「母は我が子の為に、父は家族の為に命を投げ出して戦います。これが人間の本当の姿なのです。その愛の対象を、家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を我々は英雄と呼ぶのです。」

    野生の動物だって、母親は我が子を守るために、自分よりはるかに強大な敵に、牙を剥いて立ち向かいます。

    犬は、飼い主が襲われそうになると、自分よりはるかに体のおおきな人間や動物に向かって、命がけで戦いを挑みます。飼い主を「友」あるいは「親」とすれば、犬は、その友のために命を賭けて戦います。

    昆虫の蜂は、巣という彼らにとっての国家を守るために、女王蜂や子を守って、働き蜂が集団で敵に戦いを挑みます。最近の研究では、蜂は、その飛び方のコースが、蜂同士の言語(またはコミュニケーション道具)となっていることがわかってきました。
    一回でも敵を刺した蜂は死にます。それでも蜂たちは、敵と戦うのです。

    どこの国に行っても、民族のために戦った先人は、英雄です。
    国民をあげて、国家をあげて彼らを称え、彼らの勇気を学びます。


    野生の動物だって、犬だって、昆虫だって、どこの国だって、守るべきもののために、いざというときは戦うのです。


    そうして戦い、散っていった英霊を、平気で恥ずかしめ、貶め、彼らのおかげでいまの生を受けていながらそれに対する感謝の思いすらない。

    そのような国は、おそらく人類の歴史始まって以来、あるいは地上の生命が始まって以来、おそらく現代日本くらいなものです。

    上の文章で紹介されたお二人に関し、鷲さんが、続けて文章を書いておられます。

    -------------------------------

    「ベテランのお二人は、最低安全高度については熟知されていた筈ですから、二人とも『自分が助かるため』に脱出装置を使われたとは思えないのですが・・・・」

    自衛隊パイロットへのインタビュー記事でしたか、こんな記述を読んだことがあります。

    もし住宅密集地の上空でエマージェンシーに遭遇したら、どうするのかとの質問に対するパイロット氏の答えはこうでした。

    『被害を最小限にとどめるため、最後まで操縦を続ける覚悟はあります』

    と言い切った上で、

    『ただ、最後の瞬間に、わずかでも時間があれば、脱出装置は作動させます。
    そうしないと、脱出装置を整備した整備員に、要らぬ心配をかけますから』

    とのことでした。
     

    産経新聞2000.8.3朝刊から「自衛隊半世紀」と題する特集記事が始まっており、プロローグとしてこの事故が取り上げられています。その冒頭で、

    “なぜ、航空自衛隊のパイロットは「ベイル・アウト(緊急脱出)」を二回叫んだのだろうか。”
    と、記しています。

    「パイロットはベイル・アウトを通報した後、13秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいた。」

    この13秒は、まさに上記の

    『被害を最小限にとどめるため、最後まで操縦を続ける覚悟はあります』

    に合致します。
    そして、

    『ただ、最後の瞬間に、わずかでも時間があれば、脱出装置は作動させます。
    そうしないと、脱出装置を整備した整備員に、要らぬ心配をかけますから』

    を、完璧に実現しています。



    もう20年以上前になるでしょうか??

    浜松で航空自衛隊アクロバットチームのブルーインパルスの5番機が、市街地に墜落する事故を起こしたことがあります。

    駐車場に墜落して、幸い市民への人的被害は避けられたのですが、当時のメディアで「もしも人家に墜落したら。。。。云々」と報道されておりました。

    しかし、私は信じています。


    あの墜落地点を上空から観察したら!!!


    墜落機を操縦していたのは一般大学出身の高嶋1等空尉でした。


    引き起こし高度が不足して、地上への激突が避けられないと判断した彼の頭にあったのは、


    「空き地だ!空き地!!!」


    それしか無かったはずです!!!!


    入間で墜落した「T-33」と違い、高嶋1尉が操縦していた「T-2」には、十分安全に脱出できる射出座席が装備されていました。


    人家を避けることができたと判断した瞬間、おそらく彼は

    「整備員よすまん!時間がないんだ」

    と、心でさけんだのではないでしょうか。

    ----------------------------

    この文に、 事件を目撃したhigurashiさんがコメントをつけてくださいました。

    ----------------------------

    浜松のブルーインパルスは当日、会場で見ていました。

    一緒にいた幼い弟がぐずったので一瞬目を離したときに、ドーンという凄い音と、周囲の歓声が悲鳴に変わったのでとても怖かった。

    当時はまだ小学生で、状況が飲み込めませんでしたが、上から5機のブルーインパルスが降下してきて百合のように下で開いて上昇する演技の途中で、白(だったと思う)い色の煙を引いていた1機だけがそのまま落ちてしまった。

    当日の会場はブルーインパルスを見るお客さんが一杯でした。

    周囲は住宅地で、ホンダの工場や、自動車のディーラーなどもあり、一歩間違えば大惨事でした。

    何が起きたのか分からない状態でおろおろして家族を探し、場内アナウンスに従って会場を後にしました。

    現場にいただけに、

    「よかった、こっちに来てたら家族みんな死んでたもんね。」

    とほっとしたのですが、偶然空き地に落ちたかのように報道されたため、それ以上のことは考えもしませんでした。

    高嶋1尉に心から感謝します。

    --------------------------------

    いかがでしたか?

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    会津若松城
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    以下をお読みなるとわかります^^b


    以下は、日本の心をつたえる会のMLに、鷲さんが投稿された記事の転載です。

    鷲さんは、この記事を) 国際派日本人養成講座のメルマガでお知りになられたそうです。

    -------------------------------

    「人物探訪:コロネル・シバ」
    ~義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍
    の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦~

    ■1.唐突な日英同盟締結の背景■

    ちょうど100年前の明治35(1902)年1月30日、日英同盟が成立した。
    同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。
    マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。
    マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。
    それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

    イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。
    その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

    ■2.義和団の地鳴り■

    明治28(1885)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。
    三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。
    イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

    こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。
    呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

    明治33(1900)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。
    北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。
    日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

    6月4日、北京-天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。
    北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
    すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

    ■3.籠城計画■

    北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
    6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

    日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。
    柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
    日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。
    さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。

    柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

    ■4.義和団の来襲■

    6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。
    救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。
    外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

    13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
    おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
    しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
    14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。
    凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

    15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。
    しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
    困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。
    粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。
    柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

    この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。
    この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。
    欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。
    また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

    ■6.清国軍も攻撃開始■

    6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。
    抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

    20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。

    最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

    北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。
    少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

    区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。

    ■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ■

    王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

    数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。
    その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。
    しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。
    公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

    この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
    彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。
    ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。

    この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。
    睡眠時間は3,4時間。
    大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。
    総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。
    イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

    6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。
    多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
    弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
    午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。
    敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
    この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

    イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

    王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。
    王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・

    日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。
    日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
    わがイギリス水兵がこれにつづく。
    しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

    ■8.安藤大尉の奮戦■

    王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。
    アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。
    そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。

    イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
    最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

    安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。
    つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。
    館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。
    安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

    後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

    戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

    当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。

    日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
    籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
    人だけである。

    ■9.コロネル・シバ■

    救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。
    総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。
    その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。
    籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

    14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。
    その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。
    冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。
    武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

    北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

    柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

    柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

    柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。
    その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。
    柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。
    (文責:伊勢雅臣)
    国際派日本人養成講座
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm

    --------------------------------
    柴五郎中佐
    柴五郎中佐


    義和団事件というのは、清国の権力者だった西太后が、首都・北京在住の外国人を人質にとって、諸外国に宣戦布告した事件です。
    この事件で、北京の公使館区域は、清国正規軍と、義和団の暴徒によって包囲・攻撃を受けました。
    そして、4000人以上の外国人たちが百日間の籠城を強いられたのです。

    この時、北京に公使館を開いていたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米10カ国と日本でした。

    各国の艦隊は、救援のために北京へと向かおうとするけれど、途中、清国軍に行く手をはばまれて退却。
    8月に入ってようやくたどり着いた連合国の援軍の半数は、日本軍だった。

    籠城戦を戦い抜いた柴五郎中佐は、万延元年5月3日(1860年6月21日)会津藩士(280石)柴佐多蔵の五男として生まれた方です。

    藩校日新館、青森県庁給仕を経て、明治6(1873)年3月、陸軍幼年学校に入校しました。
    明治10(1877)年)5月に陸軍士官学校に進み、明治13(1880)年12月、陸軍士官学校を卒業。
    同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいます。

    そして柴中佐だけでなく、日本兵のひとりひとりが皆、勇敢だった。

    本文に出てくるP・フレミングの「北京籠城」によると、あるイギリス人の義勇兵はとても人間業とは思えない光景を見たと言って、こう語っています。

    「隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。
    真赤な血が飛び散った。
    しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。
    『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた」

    「また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。
    彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。
    しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた」

    「長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。
    中には発狂寸前の人もいた。
    だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった」

    阪神大震災のときにも、自分のことよりも、人のことを優先する姿がそこここで見られたといいます。日本人はいまも昔も日本人なのですね^^ 

    また救出に向かった日本派遣軍の司令官福島安正少将旗下の師団も、ずば抜けて勇敢に戦い、連合軍将兵の舌を巻かせたといいます。

    このため事件後も、北京に住む中国人の一般市民は、日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきたといいます。
    日清戦争での日本軍将兵の規律ある行動は、広く言い伝えられ、まだ忘れられていなかったのです。

    庶民を苦しめてなんとも思わない施政者と、庶民の平和と安定と保護を第一に考える日本人兵士。北京の一般市民が、そのどちらを頼りに思ったかは、火を見るよりも明らかなことです。
    ところが、昨今のシナでは、むしろ義和団側を勇敢な戦士と称えている。
    これなども、施政者によって歴史が歪められているいい例といえます。 

    そして、連合軍の攻撃が成功し北京が解放された後にも、柴中佐は、抜群の民政と治安維持を行います。
    清国兵と義和団の暴徒を追い払ったものの、暴力や略奪者が横行する北京において、いち早く治安を回復したのは「日本軍占領区域」でした。

    そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶たず、町は日に日に繁昌した。
    日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らは、容赦なく捕えて厳罰に処したのです。また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵だった)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出した。

    それだけではありません。
    柴中佐と福島少将は、清国政府の国益を守るためにも奮闘した。
    清国皇族で実力者の慶親王に「一刻も早く北京に戻り、列国と交渉を始めなければ、清国はその存立が危ない」と使者を送っているのです。

    案の定、この北京攻略戦には一兵も参加しなかったドイツが、続々と大兵を送り込み、その兵たちは北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しはじめた。そういう時代だったのです。

    混乱に乗じて全満州を制圧したロシアは、中国を丸ごと手中にしようと、慶親王の誘拐を計画する。
    これにはイギリス公使マクドナルドがいちはやく情報をキャッチし、柴中佐らと協力して、慶親王の安全を確保してことなきを得ています。

    また、事件後、清国と連合国のあいだでは、延々と賠償会議が続いた。
    この時、最大の賠償金を吹っかけたのがロシア、一番少なかったのが我が日本で5000万円です。イギリスが日本の5倍(ただし、出兵数の比で見ると日本の次に低額)、戦後になってドッとやってきたドイツはイギリスの2倍、わずかな兵を出しただけのフランスも我が国の2倍(出兵数の比で日本の100倍)を要求しています。  

    義和団の乱に乗じて、自分の政治権力の強化をはかった西太后は高い代償を払うことになりました。
    不平等条約や租借地を無くしたいのなら、それが条約で決められたものである以上、我が国のように「条約改正」に努力するほかありません。
    なぜなら、それが国際社会のルールだからです。  
    たとえ国母であるという圧倒的な清国内の政治的地位があったとしても、いかがわしい新興宗教団体と手を握り、暴徒を挑発して他国の公使館を攻めるなどという行為は、いかなる時代にあっても許されるべきことではない。

    この事件を通して、我が国は国際社会での地位を大いに高めました。

    明治35(1902)年、大英帝国イギリスは『栄光ある孤立』をやめ、我が国と対等な「日英同盟」を結びます。

    これは画期的なことです。世界は驚愕した。

    なぜなら、それまでどこの国とも軍事同盟を結ぶことを拒否してきた誇りある大英帝国が、有色人種の日本と対等な同盟を結んだのです。

    東洋の貧乏国であった日本は、このときついに、世界の一等国と肩を並べることになったのです。

    ところで、この義和団事件については「北京の55日」という有名な映画になっているのをご存知でしょうか。

    北京の55日
    北京の55日


    この映画では、主演のチャールトン・ヘストンが、アメリカ軍将校として大活躍するのですが、実は、この主役の現実のモデルが柴五郎中佐です。

    昔、「北京の55日」を観て感動した、あなた!
    チャールトン・ヘストンの大活躍は、日本人がモデルなのですぞ!(笑)

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    55 Days At Peking" Movie 1963 ending


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  • 戸籍について考える


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    戸籍法


    日本における戸籍制度の歴史は古く、大和朝廷時代にはすでに直轄領の一部で行われたいたとされています。

    これが日本の国法として全国に拡散されたのが孝徳天皇の治世である大化2年(646年)1月に発令された大化の改新です。

    大化の改新の要点は次の4つです。昔、歴史の授業で習ったのを覚えている方も多いのではないかと思います。

    1.公地公民制
    豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して、田地や民はすべて天皇のものとする。

    2.国郡制
    今まであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備する。

    3.班田収授法
    戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。

    4.租・庸・調
    公民に税や労役を負担させる。

    この大化の改新によって全国的に作られたのが「庚午年籍(こうごねんじゃく)」とよばれる「戸籍(へのふみた)」で、6年ごとに更新されました。

    大化の改新によって定まったこの国のカタチは、その後約550年にわたる奈良・平安時代の治世を築きます。

    平安時代というのは、実に不思議な治世です。

    まず、天皇は軍隊を持っていない。警察もない。

    それでも、平安時代は平安なまま400年近く続いています。

    誰も反乱を起こさない。
    だから、それを鎮圧するための軍隊の必要がない。

    京都の町で悪いことをする人はめったにいない。
    だから警察もない。

    何百年間も、それで平和だった。

    そしてその間、支配者側の天皇や公家たちが何をしていたかというと、文化をつくっていた。
    歌を詠んだり、物語を書いたり、絵を描いたりしていた。

    そして、それらを娘に仕込み、その娘が、他国(地方豪族)へ嫁ぎ、地方豪族はありがたがって進物をして娘たちをもらい受け、娘たちから文化を学んだ。

    地方豪族と中央貴族が縁戚でつながっているから、反乱など起きない。

    全国の住民は戸籍で把握され、地縁、血縁社会の中で、争いを好まない相互信頼社会を築いた。
    中世の世界が、常に戦争と略奪に明け暮れたことを考えたら、これはすごいことです。

    この平安時代の平和が一度崩れて、日本人は戦国時代を約100年間経験します。

    しかし当時戦っていた武将たちは、今は非常時であり非日常であると思っていた。

    平安な時代が本来の日本の姿であって、今は仕方なく戦っている。
    それが終われば、また元に戻ると思いながら戦っていた。
    だから、互いに恨みを残さないように戦う、という日本流の戦いの作法をつくった。

    あえて「互いに恨みを残さないように戦うという日本流の戦い」と書きます。

    なぜなら、当時の世界では、こうした戦いの作法は、むしろ例外中の例外といえるからです。

    世界の戦争はそうではなかった。
    攻め込んで勝ったら、

    男は皆殺しにする。
    女は強姦し混血の子を産ませる。
    少年は捕虜に奴隷にし断種してしまう。つまり男子は一代で使い潰しにする。
    中国では賢そうな少年は生かすけれど、性器を切り取って宦官にした。

    スペインがメキシコやアルゼンチンなどに行き、ポルトガルがブラジルに行ったときも同じです。おかげでインカ文明はその片鱗さえも残っていない。

    モンゴロイドであるはずの中米の男女の遺伝子の調査をした人がいますが、現地の人々の全員がスペイン・ポルトガル人の遺伝子を持っていたそうです。

    日本は違った。相手を根絶やしにするのではなく、トップの首さえとれば、あとは仲良く互いに恨みを残さないようにした。

    そして戦国時代が秀吉によって収斂すると、秀吉はさっそく太閤検地を実施します。

    徳川の治世になると、幕府は、寺社の作成した人別帳宗門帳、あるいは過去帳で全住民の把握がなされます。これがいまでも生きていて、現代でも家系図作成などに用いられる。

    その人別帳等が、寺社奉行の管轄であったというところが徳川治世の面白いところです。

    つまり、同じ時代に生きる親せきがいて、それだけでなく、過去の系図まで、きちんと把握されている。それが寺社を通じて把握された。

    そのことで、人々は先祖を敬い、親や親戚に恥じない生き方をしようとした。そういう社会が自然に熟成された。

    なぜかというと、個人というものが、冠婚葬祭を通じ、戸籍となって、単にひとりでいきているわけではなく、過去、現在、未来にわたって綿々と命の系譜がつながっていることがキチンと社会制度として確立されていたわけです。

    このおかげで、日本は江戸300年の平和な治世を築き、日本人の精神構造を決定づけた。

    赤穂浪士の討ち入りも、浪士たちが打ち取ったのは吉良上野介の首だけ。幕府が処罰したのも、打ち入った47士だけです。大陸のように、親戚一同にいたるまで全員を皆殺しにするような文化は日本にはない。

    現在の戸籍は、文政8年(1825)年に長州藩で施行された戸籍法が元になっています。

    慶応4(1868)年、長州藩の戸籍制度を参考に京都府において戸籍仕法が行われ、民部官に庶務司戸籍地図掛(国土地理院の前身の一つ)が創設されます。

    そして1871年、民部省が廃止され、大蔵省租税寮に戸籍の管轄が移って現在に至る。

    日本の戸籍制度は、非常に歴史があるのです。

    そして、日本の戸籍制度は、平和を愛する日本という国の精神的土台を築き上げてきた。
    わたしたちは、そのことを忘れてはいけないのだと思います。

    ちなみに、日本以外で戸籍制度を持っている国は、日本の旧植民地だった韓国と台湾だけです。
    シナには“戸口制度”というものはありますが、農村・都市に分けて住民を固定するための個人登録のようなもので、日本の戸籍とは異なります。

    ヨーロッパでの身分登録制度は、個人登録が基本です。
    いってみれば、昨今、消費者金融業者や銀行が運営する個人信用情報センターの記録にちかい。

    なにが違うかというと、本籍や筆頭者がわからない。“戸”という概念がない。
    だから誰から生まれ、親戚関係がどうなっていて、過去にどのようなご先祖がいたかなど、まるでわからない。知ろうともしない。

    つまり、日本式戸籍制度と、欧米式個人登録制度とでは、新族や先祖に関する思想がまるで違うのです。

    わかりやすくいえば、たとえば銀行や消費者金融の自分個人の個人信用情報に基づいて、「自分は身内や親族に恥じない生き方をしよう」などと考える人は、おそらく誰もいないだろうし、銀行員も、自分の個人信用情報を見たお客様が、
    「私のご先祖や身内に恥じない生き方をします」などと言い出したら正気を疑う(笑)

    ところが戸籍を見ると、自分がどこで誰から生まれ、産んだ親はどこで生まれ、祖父が誰で・・・と綿々としたその家系を知ることができる。親兄弟を知ることができる。

    日本人が犯罪を犯せば、それは身内の恥であり、親戚の面汚しです。

    だから日本人は、腹が立って相手をコロシてやりたいと思っても、妻や子、親兄弟や親戚の顔を想い浮かべ、自分の行動は天に恥じない行為といえるのだろうか、などと考える。

    その結果、日本社会では、イザベラ・バードが書き残しているように、港に2万2千人も他所から来て、祭りに浮かれた3万2千の人々がいても、たった25人の警官で治安は十分保たれるという社会が過去実現していたのです。

    つまり日本では、個人は家を単位として、親族という横糸と、ご先祖という縦糸で、自分の立ち位置が把握されるという伝統的な文化がある。

    なので、昨今、民主党の一部の政治家が、戸籍制度の廃止などを検討し始めたというけれど、彼らは伝統と秩序ある日本社会を破壊しようとする恐ろしい議員たちであるとしか、ねずきちには思えないのです。

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    群青 - 谷村新司  (Kamikaze attacks in WWⅡ )


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    ウクライナの虐殺のポスター
    ウクライナの虐殺


    ねずきちがブログをはじめるきっかけになったのが、実は大阪で保守運動を展開されている大圓さんのMIXIブログです。

    ねずきちがとっても尊敬する方です。

    今日は、その大圓さんのブログからの引用です。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1288961096&owner_id=783617&org_id=1288939197

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    與へる文明、寛容な美と慈悲の文明へ
    2009年09月20日

    伊原吉之助さんの論文です。
    伊原氏のおっしゃる通りで、何も付け加えることはありません。


    【正論】「日本の再生」こそ世界を救ふ帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助
    http://sankei.jp.msn.com/economy/business/081210/biz0812100224002-n1.htm

    ■蔓延(はびこ)る賤民資本主義

    強欲資本主義が世界を横行してゐる。悪(あく)の野蠻國(やばんこく)が三つある。

    米國、ロシヤ、シナ。

    三者に共通する野蠻は、他者を際限なく貪(むさぼ)る者を野放しにしてゐる點(てん)にある。これでは、世界は修羅(しゅら)の巷(ちまた)になるほかない。

    「金儲(もう)けは悪いことですか?」と問ふた人が居た。

    悪事に決つてゐるではないか。

    それが目的なら。それがけじめを辨(わきま)へぬなら。

    給食費を拂(はら)つてゐるから、「戴(いただ)きます」「御馳走(ごちそう)様」と言ふ必要はないと言つた母親が居(ゐ)た。

    植物にせよ動物にせよ、生ある物の生命を戴いて生きることへの感謝の念が根本にあり、育てた人、調理した人への謝意も含むことを忘れた罰當(あた)りな發言(はつげん)である。

    このやうに、日本も腐つて来た。

    責任ある地位に居ながら、税金や利權(りけん)にたかるだけで責任を果さぬ「背任横領の徒」が蔓延(はびこ)つてゐる。


    とつくの昔に占領が終つて獨立(どくりつ)した筈(はず)なのに、日本弱體(じゃくたい)化の占領政策を政府もメディアも後生大事に守つてゐるのでこんなことになつた。

    略字・漢字制限・現代假名(かな)遣(づか)ひは、戰後育ちに戰前の書物を讀(よ)ませぬための日本文化断絶(だんぜつ)策だつたのに、政府もメディアもひたすら遵守(じゅんしゅ)してゐる。

    こんな政府もメディアも「反日の元兇(げんきょう)」と言はざるを得ない。


    ■野蠻國へ退化するか

    正統を護持せずに、何で日本が日本で居られやうか。

    私は5年前の5月に「反日蔓延る不思議の國日本」を、昨年3月に「動物文明から植物文明へ轉換(てんかん)しやう」を、この欄に書いた。再讀三讀して頂きたい文章である。


    日本は元禄以降、つまり18世紀に世界最初の文明國を築いた。

    勤勉實直(じっちょく)・薄利多賣・見ず知らずの他人を信用してかかる高信用社會(かい)である。

    西歐(せいおう)が高信用社會を築くのが19世紀だ。

    ロシヤとシナは現在に到るまで、やらずぶつたくりの低信用社會の儘(まま)に留まつてゐる。

    米國は原住民も黒人も排除した「市民」だけで造つた人造共和國である。移民社會だけに、下層民を信用してゐない。

    だから大統領を選ぶのに、一般國民の直選にせず、大統領選擧人(信用ある名望家)を選ばせる間接選擧を採用して現在に到る。

    共和國(國民が市民共同體を形成し、自由で平等で友愛の間柄)と帝國(人民は雜多で不自由・不平等・差別)の二重構造なのだ。

    日本は天皇家を宗家とする家中心の安定した社會構造を持つてゐた。それを、占領軍が民法を長子相續(そうぞく)から均分相續に變(か)へた。

    それ以來、家も近隣社會も國民共同體もばらばらに分解した。そこへ慾惚(よくぼ)けと邪魔臭がりに基くやらずぶつたくりの利己主義が蔓延して、今や野蠻國に退化しつつある。


    ■みそぎによる浄化を

    占領軍に限らず、外國は日本を弱體化することによつて生延びやうとしてゐる。

    19世紀ロシヤにニヒリズムが生れて以來、人生と社會を根底から破壞するニヒリズムが世界に蔓延して來た。共産主義(レーニン主義)は、ロシヤ・ニヒリズムの嫡出子である。


    曾(かつ)て素晴しい共存共榮(きょうえい)の社會を築いた大和民族がかうまで墮落(だらく)した姿を見るにつけ、私は「死んでも死に切れぬ」思ひを禁じ得ない。

    美と崇高への獻身(けんしん)、謙虚で強くて慈愛に満ちてゐたあの立派な日本と日本國民は何處(どこ)へ行つた?

    みそぎによる浄化が必要だと思ふ。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)による國民精神の再生が不可欠だと思へてならない。それが日本だけでなく、世界をも救ふ筈である。

    幸か不幸か、目下、米國の強欲資本主義に端を發する金融危機が、世界經濟を破綻(はたん)に導きかけてゐる。

    これが、日本を含む人類の浄化に役立つかも知れない。といふより、これを契機に新しい共存共榮が出來るやうに文明を轉換すべきである。


    奪ふ文明、人間性を破壞する文明から、與へる文明へ、多元的で寛容な美と慈悲の文明へ。

    幸ひ、日本には天皇陛下が居られる。今上陛下が體現してをられる美と崇高と獻身と優しさこそ、日本を救ひ、世界を救ふ植物文明の原理である。

    日本は、慾惚けと邪魔臭がりと引籠りから脱却し、生きる歡びに目覺めるべき秋である。物的欲望は最小限に抑へ、仲間との絆(きずな)に基く聯帯(れんたい)と心の豐かさを求めるべき秋である。

    (この原稿はその趣旨から「正漢字・歴史的假名遣い」で執筆しました)

    (いはらきちのすけ)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~

    ねずきちは大圓さんにこの文章をご紹介いただき、まったくその通りだと思いました。

    その日本はいま、売国・退廃・堕落政権の誕生により、シナの属国になり果てようとしている。

    シナは共産主義の国家です。

    いま、シナではウイグル族への弾圧が問題視されていますが、これは決していまにはじまったことではない。

    下の動画を、是非、ご覧ください。

    砂絵を描いているのはセーニャ・シモノバさんというウクライナの女性芸術家です。

    24歳の彼女が描いているのは、ウクライナの愛と暴力の歴史です。

    ウクライナは、もともとはロシア発祥の地で、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれる豊穣な稔のある土地でした。そしてこの国のほとんどの国民がキリスト教徒です。

    1932年、ウクライナは残酷な共産主義政権のソ連から独立しようとしました。

    すると、独裁者スターリンに率いられたユダヤ・ボルシャベキ政権は、赤軍を送り込み、ウクライナの穀物を没収し手に入らないようにされてしまいます。

    そしてウクライナの国境を封鎖し、食糧の輸入が禁止された。
    食糧は全く入ってこず、誰もそこから逃れることはできなかった。

    その結果、口にできないほどの恐ろしいことが起こったのです。

    この人口の飢饉の2年間で、1千万人の国民と家畜たちが非人間的な苦痛の中で死んでゆきました。
    かろうじて生き残った者は、銃で撃たれて殺されました。

    さらに第二次大戦では民族の4分の1にあたる700万人の兵士が死亡。

    大戦後もソ連の内政によって400万人から1000万人が亡くなったとされています。

    その悲しみを描く、セーニャさんの砂絵に、芸術祭の審査員全員が涙している。
    ヨーロッパの人々は知っているのです。共産主義の恐ろしさをです。

    そういえば、チェルノブイリ原発事故も、ウクライナ地方です。

    似ていませんか?中共のウイグルと。

    そして共産主義に制圧された国家の国民が、どのような仕打ちをうけるのか。

    ウクライナの過去は、もしかすると民主党率いる明日の日本かもしれないのです。

    中共寄り新政権の発足
      ↓
    食糧関税自由化
      ↓
    国内農業の衰退
      ↓
    日本の国境封鎖による食料輸入の禁止
      ↓
     大飢饉
      ↓
    日本民族抹殺。

    その危機が、すぐそこまで迫ってきているのかもしれません。

    そんなことはない、とお考えの方もいるかもしれない。

    しかし、世界では現にそういうことが現実に起っているのです。

    だからこそ日本は日本の手で日本という国と日本人を守らなくてはならない。

    ねずきちはそう思うのです。

    パソコンからこの記事をお読みの方は、是非、下の動画をご覧になってください。

    素晴らしい芸術をご鑑賞いただくとともに、その芸術が伝えようとするメッセージを、どうか汲みとってください。

    Kseniya Simonova - Sand Animation


    ※携帯の方は↓のURLをクリックするとYoutubeの動画をご覧いただけます。
    http://m.youtube.com/watch?v=m3N81M38MBU&hl=ja&gl=JP&guid=ON&warned=True&client=mv-google

    ときどきテレビにでてきて、シナの政情を解説するシナ人の某がいます。
    彼が突っ込まれると必ず言うのが、

    「中国は変わってきています!」

    でもね、昨日の記事を読んだ方はお気づきと思うけれど、シナは100年前から何も変わっていないじゃありませんか?

    何があっても絶対に日本を守り抜くぞ!と思った方
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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