• 回天の志


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    回天
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    今回も日心会のメーリングリスト(ML)からの転載です。

    「鷲」さんから、山口県周南市大津島の「回天記念館」のお話をいただきました。

    とての感動的なお話です。

    「鷲」さんは、元自衛官の方です。

    かつて岩国基地で勤務した経験があるのだそうで、そのその当時、若い隊員たちを引率して、この施設を訪れたことがあるのだそうです。

    この時、一人の女性隊員の方が

    「今まで修学旅行や研修で、いろいろな所を訪れましたが、この記念館に来れたことは、今までの経験の中で一番の経験です。」

    と涙を流しながら話してくれたことを思い出しながらの投稿です。

    --------------------------------

    【回天の志】

    ~戦友たちが何のために自分の命を捧げたのか、
         是非とも今の若者に理解してほしい~


    1.「嫌だと思うものは、遠慮なく申し出ろ」

    竹林博ら、第13期甲種飛行予科練習生100人が山口県周防灘の入り江に浮かぶ大津島に着いたのは、昭和19(1944)年9月21日だった。

    食料などの積み卸しを終えると、「海軍大臣の許可なき者出入を禁ず」と書かれた建物の中に入った。

    中は薄暗く、目をこらすと直系1メートル、全長15メートルほどの円筒形の黒い塊があった。そばに立っていた板倉少佐が言った。

    「これが貴様たちが乗る一人乗りの人間魚雷である。
    もちろん、一度出発したら、絶対に帰ってくることはできない。
    よく見て、そんなつもりではなかったと思うもの、俺は嫌だと思うものは、遠慮なく申し出ろ。
    俺が責任を持って原隊に帰してやる」


    竹林は、今にも爆発しそうな黒い塊に震えを感じた。

    人間魚雷「回天」の開発者・黒木博司大尉(殉職後、少佐に昇進)は、わずか2週間前に回天の訓練中の事故で、殉職していた。

    黒木少佐の殉職はショックだったが、それ以上に、後に続くんだと奮起した。
    それは私だけではなかった。

    当時、大津島にいた隊員はみんな、生の執着よりも、今の戦況では自分の命を投げ出さねばならないと心に決めていた。



    2.「後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように」

    甲種飛行予科練習生はパイロットを大量養成するために採用された満15歳から20歳未満の若者たちだ。竹林は札幌生まれの当時19歳で、大空への夢を抱いて、応募、入隊し、茨城
    県の土浦海軍航空隊で学んでいた。

    一月ほど前の8月28日朝、突然、偵察専修者約1500名に非常招集がかかった。
    集合場所の大格納庫は、白い練習衣に白い艦内帽をかぶった練習生であふれた。

    猛暑の中、出入り口や窓が閉ざされて、息がつまるような熱気の中、練習生たちは直立不動のまま、指令の言葉に耳を傾けた。

    「残念なことだが、前線将兵の奮戦にもかかわらず、一日一日と敵の反撃の波は強く打ち寄せている。
    サイパンが陥(お)ち、ラバウルに孤立した海軍航空隊すら、十分補給もできない現状である・・・

    そして今、この窮状にこたえて、敵撃滅の新兵器が考案された。

    否、もう試作を終え、米海軍に一大反撃を展開する日も近い。

    殉国の熱情に燃える諸子の中から、この兵器に乗って参加したい者があったら、後に紙を配るから、分隊名、名前を書いた上、熱望は二重丸を、どちらでもよい者はただの丸を書いて分隊長に提出しろ。

    ただし、最後に言っておくが、この兵器は生還を期するという考えは抜きにして製作されたものであるから、後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように。」



    3.「日本が敗れ、米兵が上陸してくると家族はどうなるのか」

    竹林は躊躇しなかった。用紙が配られると即座に二重丸を書き、その上に「絶対」に2文字を付け加えた。

    旗色は本当に悪いのだ。
    もし、日本が敗れ、米兵が上陸してくると家族はどうなるのか。

    家屋は焼き払われ、家族や親類、隣近所の人たちも、全員、殺されてしまうのではないか。

    こうした気持ちはほとんどの者に共通していた。

    9割以上の練習生が二重丸を書き、中には血判を押して提出する者もあった。

    翌日、100人が選ばれた。最も重要な選考基準は、後顧の憂いがないかどうか、すなわち兄弟の多い者ということだった。

    竹林は兄が一人いるだけだったが、攻撃精神旺盛ということで選ばれた。

    洩れた熱望者の中には、「どうして自分は落ちたのか」と分隊長に激しく詰め寄る者もいた。



    4.「俺たちもすぐに行くから靖国神社で待っていてくれ」

    大津島に着いても、回天の操縦訓練はすぐには始まらなかった。

    訓練用の回天が3基しかなかったからだ。出撃が決まった順に、訓練が行われた。

    竹林らには、その順番が回ってこず、毎朝6時半に起床してからは、回天の機構や整備の座学、調整場での整備の手伝いを中心に過ごした。

    夕方からは搭乗訓練の後の研究会が開かれ、搭乗訓練をしていない竹林らも傍聴した。
    研究会では階級に関係なく激しい議論が行われ、深更に及ぶことも希ではなかった。

    大津島に赴任して、約1カ月経った10月半ば、第一次回天特攻隊「菊水隊」が出陣した。

    3隻の潜水艦に各4基の回天を搭載、合計12名の搭乗員が出陣した。
    西太平洋のカロリン諸島に集結する機動部隊へ奇襲をかけるためだった。

    12名の搭乗員は、母艦の艦橋や回天の上から、抜き放った軍刀をかざして、万歳を叫びながら、出撃していった。

    竹林らも大歓声で見送った。

    12月末には、竹林らと一緒に来た二人の搭乗員が、第2次回天特攻隊「金剛隊」としてグアム島を目指して出撃した。

    「俺たちもすぐに行くから靖国神社で待っていてくれ」

    そう言いつつも、竹林は涙が出て仕方なかった。

    回天搭乗員=大津島訓練基地での記念写真
    回天搭乗員


    5.「真っ暗な道をヘッドライトをつけずに車を操縦するようなもの」

    翌年3月、ようやく竹林にも訓練開始の命令が出た。
    覚悟していたとはいえ、操縦席に腰を下ろし、ハッチを閉めた瞬間、すさまじい孤独と恐怖が襲った。

    回天の操縦は、例えて言えば、真っ暗な道をヘッドライトをつけずに車を操縦するようなもの
    だという。

    しかも、電動縦舵機のスイッチを入れ、発信準備が整うまで、19もの動作があり、これを正確に順序通りに行わないと、発信しないばかりか、途中で酸素爆発を起こす危険があった。

    1回の訓練は1時間から1時間半。ストップウォッチだけを頼りに、速度と航行時間から自分の位置を推定し、地図に記入しながら進む。

    海軍兵学校出身で、同じく回天搭乗員となった小灘利春は、こう述べている。

    「軍部に強制されて」「人間魚雷の操縦席に無理やり押し込まれる」、ひどいのになると「殴りつけて特攻をやらせた」と書く者がいるが、そのような性格の兵器では毛頭
    ない。
    そんなことで操縦できる回天ではないし、まして命中できる筈がないではないか。

    回天は搭乗員が『自分自身』で乗り込み、自分の意思で突撃するものである。」



    6.「早く発進させてください」

    昭和20(1945)年7月14日、竹林ら6人の搭乗員は、伊号53潜水艦に乗り込み、沖縄とフィリピンの中間海域を目指して出撃した。
    すでに沖縄は敵の手に落ちており、そこに九州上陸のための人員や兵器が集積されつつあった。
    その輸送路を遮断することが目的だった。

    出航10日後の7月24日、敵の大輸送船団を発見した。

    「回天戦用意! 発進用意」と大場艦長の声が艦内に響いた。

    竹林ら6人は母艦と回天を結ぶ交通筒を駆け上がって、ハッチを閉めた。

    その瞬間、竹林には「これでこの世とお別れだ」という気持ちがこみあげてきた。

    「ハッチよし」

    「電動縦舵機よし」

    「深度計よし」

    「特眼鏡よし」

    「艇内異常なし」

    回天と母艦を結ぶ電話を使って、艦長に伝える。

    だが、潜望鏡で輸送船団の動向を追う大場艦長は「距離が離れすぎた」と出撃命令をためらう。

    そこに搭乗員の一人、勝山淳中尉(20歳)の悲痛な声が電話を通じて届いた。

    勝山中尉
    勝山中尉

    勝気で純情、みなに愛される明るい士官だった


    「早く発進させてください。こんな船団はめったに出会えません。お願いです」

    誰もが固唾を呑んで待つ中で、「固縛バンドを外せ」との大場艦長の声が響いた。

    特眼鏡をのぞいていた竹林の視界が、勝山艇のスクリューが作り出す泡と吐き出す蒸気で一瞬、真っ白になった。

    泡が消えて視界が戻ると、目の前にあった回天の姿はなく、外されたバンドだけが残っていた。

    「ああ、本当に出撃していった・・・」

    それから約40分後、激しい爆発音が響いてきた。

    大場艦長は潜望鏡で黒煙が立ち上る敵艦を確認し、「大型輸送船一隻轟沈」と打電した。



    戦後の米軍側の証言では、勝山艇は間断なく投下される機雷をかいくぐり、大型輸送船の艦底を通り抜け、折り返して再度突入した。

    潜行して見えないまま襲ってくる回天は、米軍を恐怖の底に陥れた。



    7.「魂は永久に留まりて故郷の山河を同胞を守らん」

    5日後の29日、再び、十数隻の大輸送船団を発見。

    川尻勉一飛曹(17歳)が発進命令を受けた。

    「関少尉や荒川らに頑張るように言ってください。伊53潜万歳!」

    この声を最後に川尻艇が出撃。

    約1時間後に凄まじい大音響が響き、大場艦長は潜望鏡で黒煙を確認した。


    川尻は遺書に、日本男子として出撃の好機を得た喜びと、親への感謝を綴り、こう結んだ。


    「日本に如何なる危難襲うとも、必ずや護国の鬼と化して大日本帝国の盾とならん。
    身は大東亜の防波堤の一個の石として南海に消ゆるとも、魂は永久に留まりて故郷の山河
    を同胞を守らん。

     身は消えて
     姿この世になけれども
     魂残りて
     撃ちてしやまん

    ご両親、近所の方々(略)に永年の御高恩を謝しつつ喜んで死んでいきましたと呉々もよろしくお伝え下され度候」

    回天の発射
    回天の発射


    8.「伊53潜は必ず生き延びて下さい」

    回天搭乗員6人のうち、2人を失った伊53潜は、さらに索敵を続けた。

    8月4日午前零時半頃、頭上からダダーン、ダダーンという爆発音が響き、艦が叩き上げられるように激しく揺れた。

    敵の爆雷攻撃である。最新鋭の「三式探信儀」で探ると、5隻の敵艦船が爆雷を投下しているのが分かった。

    伊53潜は100メートルの深度まで急速潜行し、さらに左右への急旋回を繰り返して爆雷攻撃を避けた。

    しかし、至近距離で爆雷が炸裂するたびに、艦は激しく揺すぶられ、乗組員が床に叩きつけられた。

    主蓄電池も破損し、一切の動力が停止し、電灯も消えて真っ暗になった。

    回天搭乗員の一人、関豊興(とよおき)少尉(22歳)が司令塔に現れて、大場艦長に言った。

    「相手が駆逐艦でも不足ではありません。
    我々は回天で突入することを本望としております。
    このままでは死にきれません。
    必ず成功させます」

    この一言で大場艦長の腹が決まった。

    「回天戦、用意」。

    4人の搭乗員が、それぞれの回天に乗り込んだ。

    訓練したこともない水深からの発進である。


    「敵艦隊は必ず仕留めます。
     伊53潜は必ず生き延びて下さい。
     私の最後のお願いです。」


    電話を通して関の声が艦内に響いた。関艇が発進した。

    20分後、大爆音が轟いた。


    それを待っていたように、荒川正弘一飛曹(22歳)が電話の向こうで
    「すぐに出撃させて下さい」と言ってきた。

    「すまんが行ってくれるか」

    「はい! 行きます」

    普段は口数の少ない荒川は、一気にまくしたてた。


    「頭上の艦隊は必ず退散させます。
    これまでいろいろありがとうございました。
    伊53潜は無事に帰還して下さい。
    そして大津島で待機している仲間のためにも働いて下さい。」


    発進から5分後、大爆音が響いた。

    爆発した距離が近かったため、余波で伊53潜も大きく揺れた。

    イ53潜回天登乗員
    イ53潜回天登乗員
    前列:川尻一飛曹、荒川一飛曹、関少尉、大場艦長、
    佐々木参謀長、勝山中尉、高橋一飛曹、坂本一飛曹
    後列:溝口特攻長、山崎参謀、不詳、不詳、
    末広艦隊主計長、不詳、高島整備長


    9.「価値ある死を選んだ者から見ると」

    いよいよ竹林艇の番が来た。

    大場艦長と電話を通じて、やりとりをしているうちに、頭痛がして意識が遠のくのを感じた。
    「少し頭が痛みます・・・」と話したのを最後に、音信が途絶えた。

    伊53潜の艦内から竹林艇のハッチを開けると、竹林は操縦席でぐったりと意識を失っていた。

    激しい爆雷攻撃で、有毒ガスの容器が洩れ、ガス中毒となっていたのだ。

    残る坂本雅刀一飛曹の艇も酸素パイプに亀裂が入り、高圧酸素が洩れて、意識を失っていた。
    二人ともすぐに治療を受け、なんとか一命を取り留めた。

    関と荒川の決死の反撃で危機を脱した伊53潜は、広島に原爆が投下された翌日の8月7日、帰還命令を受け、12日、大津島に到着。

    3日後の15日に終戦を迎えた。

    回天特攻作戦は、昭和19(1944)年10月から、20年8月まで続けられ、89人の搭乗員が戦死し、15人が訓練中に殉職、2人が終戦時に自決した。


    竹林は、平成12(2000)年5月、北海道大学岩見沢分校で、学生たちに講演を行い、自らの特攻の体験を語った。

    学生たちの顔は竹林に釘付けになり、真剣に耳を傾けた。


    竹林はこう語っている。

    「学校で教えないから、今の学生は戦争の悲惨さや当時のことを知らなさすぎる。
    だから、私の話が新鮮に映ったのだと思う。

    戦友たちは何のために自分の命を捧げたのかを、是非とも今の若者に理解してほしい。

    最近、自殺が多いが、価値ある死を選んだ者から見ると、簡単に死を選ぶのは止めてもらいたい。
    我々には理解できないんです。

    今の日本人には、まず世のため、人のために役に立つんだという気持ちがほしい。」
    (文責:国際日本人養成講座、伊勢雅臣氏)

    ---------------------------------------

    以前にも何度も書きました。
    大東亜戦争の当時は、いまだ欧米列強による植民地支配が続いていた時代です。

    そして植民地化された国々は、人口の9割を失っていた。
    生き残った人々には、いっさいの私有財産は認められず、いっさいの学問も与えられず、ただひたすら奴隷としての生涯が残されていただけだった。

    日本は、そうした欧米列強の支配に対し、世界の有色人種で唯一、真正面から正々堂々と戦いを挑んだ。

    「なんだ、そんなこと言ったって、戦後のアメリカは日本の平民を殺したりしなかったじゃないか」という人もいるかもしれない。
    しかし、それは違う。
    原爆の投下までして徹底した殺戮をしても、ポツタム宣言を受け入れた日本をそのうえさらに追い詰めたら、日本はあくまで上陸した米軍と闘い抜き、戦争は泥沼化し、米軍の死傷者もあとを絶たなくなる。
    それを避けるためには、連合国は平和的占領政策を行う他ない。
    そう連合国側に思わせるだけの戦いを、日本が頑強に行ったことが、結果として戦後の日本人が生き残れた理由の最大のものだと、ねずきちは思うのです。

    国を護るという当時の考えは、国という形而学上の抽象化された概念を護るというものではないのです。
    父を、母を、子を、恋人を、愛する妻を、友を、そして彼らにとっての未来を生きる私たちを護るために戦って下さった。彼らは、そのために命をかけた。

    彼らが戦ってくれたからこそ、私たちはいまを生きています。

    だからこそ、ボクたちは、ボクたちを護って下さった英霊たちに、心からの感謝を捧げなければならないと、ねずきちは思うのです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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