• 日心会チラシ「楠木正成と七生報国」


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    日心会チラシ


    実はいま、日心会では、過去のねずきちブログのエントリーから、日本の心をつたえる良い話を抜出し、これをあちこちに紙で、お届けできるように準備を進めています。

    ブログはある意味「私的な日記」なので、少々の字句の間違いや表記や文法の違い、あるいは年号の間違いなどは許容範囲にあるといわれていますが(すみません、ねずきちブログはホント、誤字が多い;;;)、紙媒体で、しかも「会」としてこれを発行するとなると、そうはいきません。
    きちんとした編集作業が必要になります。

    そこで、日心会の皆さんにお願いして、文法や字句、史実の確認等を行っていただき、きちんとした編集作業を行ったうえで、紙媒体として印刷するようにしています。

    また、標題の下には要約を入れ、さらに段落ごとに小見出もつけ、改行場所なども工夫して、文章の加工をしていただいています。

    やってみるとわかるのですが、この編集作業というのは、非常に繊細で時間のかかる仕事です。
    しかし、こういう地道な作業がなくしては、紙にして対外的に出すことはできません。
    ご協力いただいているみなさんには、この場をお借りして深く御礼申し上げたいと思います。

    紙の全体のデザインは、本職のデザイナーのislandさんにお願いしました。
    編集の総責は、やはりプロのやまねこさん。
    そして編集に際しては、kazuママさん、うまし太郎さん、bbさん、桜文鳥さん、ke-goさん、自転車屋さん、かめぞうさん、マサキさん、ぴのさんにお願いさせていたいだいています。

    以下にご紹介するのは、そうして、みんなのちからでできた最初の第一版「楠木正成と七生報国」の本文です。

    文章が非常にわかりやすく仕上がっていると思います。

    ちなみに楠木正成といえば、戦前は、いまでいう坂本竜馬と同じくらい人気があって、だれもが知っていた人物です。

    水戸黄門が世に蘇らせた風雲児でもあります。

    いまの日本人に、きっと「なにか」を感じさせてくれる物語だと思います。

    ~~~~~~~~~~
    【題名】楠木正成と七生報国

    【サブタイトル】
     死して日本精神を残した猛将

    【要約】
    敵をして「勇士とはこの様な者を申すべき」と言わしめた楠木正成。大義を貫き、戦死を覚悟で逍遥と戦場に赴く姿は「忠臣の鑑」「日本人の鑑」として讃えられました。吉田松陰、真木保臣、坂本龍馬など多くの志士たちが、正成の墓に参り、明治の新しい国づくりに大きく貢献したといいます。多くの先人や英霊たちが敬愛した正成の足跡を物語の中に追い、いま私たちが忘れかけている日本人の誇り、日本人の魂とは何なのかを考えてみます。

    【本文】

    ●わずか六年間の物語

     楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内(かわち)の武将です。
     鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降は「大楠公(だいなんこう」と称されました。
     しかし、正成の出自について、正確なことは何も分かっていません。日本史上、非常に有名でありながら、これほど出自が謎に包まれた人物も珍しいと言われています。

     歴史的に確かなのは、元弘元(一三三一)年の挙兵から、建武三(一三三六)年の自刃まで、わずか六年ほどの間の物語にすぎないのです。

    ●天皇の蜂起に応えた知謀の将

     時は鎌倉時代末期。すでに幕府の実権は、北条氏の手に握られていました。政治は混迷を極め、腐敗や横領が蔓延し、幕府の権威も失墜していました。
     民は重税に苦しみ、世の秩序も乱れに乱れていたといいます。
     これを見かねた後醍醐(ごだいご)天皇は、幕府打倒を企てますが、二回も計画が漏れて失敗してしまいます。

     元弘元(一三三一)年、二度目の失敗のあと身の危険を感じた後醍醐天皇は、準備も整わないまま急遽(きゅうきょ)、三種の神器をもって挙兵します。そして
    幕府に不満をもつ諸国の武将や豪族などに蜂起(ほうき)を呼び掛けました。
     しかし、世が乱れているとはいえ、まだまだ幕府軍の力は強大です。
     世の武家や豪族たちは、世の中の乱れを憂いながらも、倒幕となると恐れをなしてしまいます。

    皇居前広場に建つ楠木正成像
    皇居前広場に建つ楠木正成像


     倒幕の旗印を掲げた後醍醐天皇のもとへ駆けつけた数少ない武将の中に、楠木正成がいました。
     後醍醐天皇は、正成に質問します。
    「勝てる見込みはあるのか?」
     正成は答えます。
    「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑(いど)んでも勝ち目はありません。しかし、知謀(ちぼう)を尽くし策略をめぐらせば勝機は必ず生じます」
     その後、正成は居城の赤坂城で、後醍醐天皇は京都の笠置(かさぎ)山で幕府軍と戦います。

    ●奇策に奇策を重ねた赤坂城の戦い

     正成の兵力はわずかに五百余り。これに対し、幕府は数万の討伐(とうばつ)軍を差し向けます。
     鎧兜(よろいかぶと)に身を包んだ重武装の幕府軍に対し、正成軍の兵は、まるで野武士の集団。兜もなく、上半身が裸の者までいました。
     そのため幕府軍の兵たちは、正成軍をなめてかかり、武功をあせるあまり、我れ先にと山城の斜面を勝手に登り始めたのです。
     兵が斜面を埋めた瞬間、ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れ出しました。府兵の頭上に岩や大木が地響きをあげて転がってきたのです。
     この初戦だけで、幕府側は七百名も兵を失います。

     その後も正成軍は、藁人形(わらにんぎょう)であざむく、熱湯をかける、熱した糞尿を頭からかける(まさに焼け糞をかけた)など、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄し
    ました。
     一対一で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲や奇策で戦ったのです。
     やむなく幕府軍は、力押しをやめて、いったん兵を引き、城を包囲して持久戦に持ち込みました。

     山城にとどまる正成軍の食料は、二十日で底をつきました。そこに、京都で後醍醐天皇が捕らえられたという急報が入りました。
     正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出し、行方をくらまします。
     幕府側の武将たちは、誰もが「正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した」と考えます。そして、「敵ながら立派な最期だった」と言い合いました。
     これが、有名な「赤坂城の戦い」です。
     このように従来の価値観で動かず、型に収まらない発想と行動力が、正成の正成たる由縁で、後世、特に江戸期に楠木正成は大人気となります。

    ●良将は戦わずして勝つ

     赤坂城の戦いの翌、元弘二(正慶元)年十一月、自刃したはずの楠木正成が再度、挙兵します。
     これに対し、幕府は最強とされる精鋭部隊を差し向けました。
     このとき正成側の兵力数は、幕府軍の四倍もありました。なぜか、正成軍は謎の撤退をします。
     幕府の精鋭部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領しました。
    ところが夜になると、天王寺は何万という「かがり火」に包囲され、兵士たちは緊張で一睡もできないまま朝を迎えます。
     しかし、夜が明けても正成軍に動く気配はありません。次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲しました。
    「正成の大軍は、いつ攻撃してくるのか……」
    四日目、精神的にまた肉体的に疲労の極致に達した幕府軍は、ついに天王寺から撤退しました。
     実は、この「かがり火」、正成が近隣の農民五千人を集めて、焚き火をしていただけだったのです。
    正成軍は一人の戦死者を出すことなく勝利します。

    ●諸葛公を彷彿とさせる天才的戦略

     翌、正慶二(一三三三)年二月。幕府は八万騎の大征伐軍を編成し、目の上のタンコブである正成追討を図ります。
     迎え撃つ楠木正成の軍団は、わずか千人。
     正成は赤坂城の背後の山上に築いた要害、千早城に篭城します。
     幕府軍は正成の奇策を警戒するあまり、城に近づくことができません。神出鬼没の相手には、やはり二年前の赤坂城と同様、兵糧攻めが一番と、千早城を取り囲みます。
     ところが、今回は勝手が違いました。
     なまじ八万もの大軍であるがゆえに、先に兵糧の底がついたのは、包囲している幕府軍のほうだったのです。
     正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民たちと連携して叩き、敵の食糧を断つというものでした。
     いわば、千早城そのものを囮(おとり)にするという、前代未聞の作戦だったわけです。
     山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、三カ月たってもピンピンしていました。
     やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになります。

    ●鎌倉幕府滅亡の引き金となる

     八万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わりました。

    「幕府軍、恐れるに足らず」
     これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始めます。
    ついには幕府内部からも、足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)などの源氏直系の大物豪族たちが公然と反旗を翻(ひるがえ)し始めました。
     足利尊氏は、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とし、新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条高時(ほうじょうたかとき)を菩提寺である東勝寺で自害させたのです。

     千早城をはじめとした正成の奮戦は、鎌倉幕府の権威を決定的に失墜させ、諸国の武将に倒幕の機運が到来したことを知らしめました。結果、百四十年続いた鎌倉幕府は滅亡します。
     そういう意味で正成の功績は、尊氏や義貞以上と言っていいかもしれません。
     同年六月、楠木正成は、後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋(がいせん)の先陣を務めます。

     ちなみに、赤坂城、千早城の合戦の後日、正成は、敵と味方の戦没者を弔うために、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行ないました。
     正成は敵の戦没者の供養塔に「敵」という文字を使いませんでした。代わりに「寄手(よせて・攻撃側)」という文字を使ったのです。
     そして、寄手の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくしました。

    千早赤阪村営墓地の一角に残る「寄手塚」
    千早赤阪村営墓地の一角に残る「寄手塚」


     味方の勝利におぼれ、敵のことなどいっこうに顧みない戦国武将が多い中で、こうした正成の誠実な人柄は、際立っています。この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。

    ●味方に通じない「正成の義」

     翌、建武元(一三三四)年。後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートします。
     楠木正成は土豪出身でありながら、河内、和泉の守護に任命されました。
     後醍醐天皇は、天皇主導の下で戦のない世の中を築こうという理想のもとに、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くしました。
     また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課しました。
     朝廷の力を回復するためとはいえ、こうした性急な改革は諸国の武将の反発を呼び、建武二(一三三五)年十一月、足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵します。
     京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕(きたばたけあきいえ)家ら天皇方の武将が迎え撃ち、尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走します。

     しかし正成は、この勝利を単純に喜ばなかったといいます。
     なぜなら、逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わり、一緒に去っていったからです。
    「天皇方の武士が、ここまで尊氏を慕っている……」
     新政権から人々の心が離反している現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷へ向かい、後醍醐天皇に、涙ながらに進言します。
    「どうか尊氏と和睦(わぼく)して下さい」
     ところが、公家たちにはこれが通じません。
    「なぜ勝利した我らが、尊氏めに和睦を求めねばごじゃらぬのか。不思議なことを申すものよ」
     正成は公家たちに嘲笑され、罵倒(ばとう)されます。

    ●「正成存命無益なり」

     建武三(一三三六)年四月。いったん九州に疎開したあと、多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始します。
     後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ・現、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
     「討伐」といっても、今や尊氏側の方が大軍勢です。正面からぶつかって、勝てるものではありません。
     楠木正成は、次のように進言します。
    「私は河内に帰って兵を集め、淀の河口を塞いで敵の水軍を足留めします。帝は比叡山に移ってください。京の都に尊氏軍を誘い込んで兵糧を使い切らせ、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」
     これに対し公家たちは「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」と反対し、案を却下します。
     有事と平時の区別がつかなかったのです。

     失意の中、楠木正成は、湊川に向かって出陣します。このときすでに、天皇の求心力は無きに等しい状況でした。
     尊氏軍三万五千に対し、正成軍はたったの七百です。戦力差は何と五十倍です。正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。

    「今度の戦は、必ず我が軍が敗れるでしょう。民の心で計れば、それは明白です。
     かつて、民の心は天皇と通じていました。
     しかしこの度、私が軍を起こそうとしても、親類や一族の者すら賛成してはくれませんでした。
     いま民の心は天皇から離れています。
     ならば私は生きていても仕方ありません。今度の戦いで、真っ先に命を落とそうと思います(正成存命無益なり、最前に命を落すべし)」

     彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈りました。

    ●死ぬときの一念「七生報国」

     五月二十五日。湊川で両軍は激突します。
     海岸に陣をひいた新田軍は、海と陸から挟まれ、あっという間に総崩れとなりました。
     そのため正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいる始末です。
    もはや、戦力の差は歴然としています。誰の目にも、勝敗は明らかでした。
     尊氏は、何とかして正成の命を助けようと、再三降伏勧告をします。しかし、正成軍は鬼気迫る攻撃を繰り返します。
     このままでは自軍の損失も増える一方です。
     尊氏はついに一斉攻撃を命じました。
     多勢に無勢。六時間におよぶ戦いで、正成軍はわずか七十三人になってしまいます。

     最期をさとった正成は、生き残った部下とともに民家に入ります。そして弟、正季(まさすえ)に問いかけました。
    「人は死ぬときの一念で転生が決まるという。お前は何を願うか」
    「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」
     正季は答えました。
    「自分も思いは同じだ。いつかこの本望を達しよう」
     そう兄弟で誓い合うと、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。
     このとき誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国(しちちょうほうこく)」です。
     正成の首は、一時、京都六条河原に晒(さら)されましたが、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、故郷の親族へ丁重に送り届けられました。
     尊氏側の記録『梅松論(ばいしょうろん)』には、敵将である正成の死を同情的に記しています。
    「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」

    ●主君に忠誠を捧げた人間の鑑(かがみ)

     尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、足利軍と戦った正成を「逆賊」として扱いました。
     正成は朝敵の汚名を着せられたのです。
     たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇のために殉じた正成を礼賛することはタブー視されていました。

     その楠木正成を、再び世に出したのが水戸黄門で有名な徳川光圀(みつくに)です。
     元禄五(一六九二)年、徳川光圀は正成の忠義を称え、立派な墓碑を建立しました。それまで正成の墓は、碑石も建てられていない荒れた状態だったそうです。
     新しく建てられた墓碑には、光圀直筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が彫られています。

    兵庫県湊川神社にある楠木正成の墓碑
    兵庫県湊川神社にある楠木正成の墓碑


     光圀は、「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑(かがみ)であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と、正成の名誉回復に努めました。
     明治五(一八七二)年には、明治天皇の命により湊川神社が創建され、正成の忠義は、国中に響きわたりました。

    ●もの言わぬ英霊たちの魂

     楠木正成は、大東亜戦争を戦い抜いた日本軍の将兵に「皇国の最大の英雄」として慕われました。
     人間魚雷「回天(かいてん)」出撃の際には、正成の軍旗に記されていた文字「非理法権天」と書いたのぼりが掲げられ、その本体には楠木一族が用いていた紋所、「菊水」が描かれました。
    「非理法権天」というのは、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味で、「人は天道に従って行動すべきである」という教えです。

     人を思いやり、和をもって貴しとなす日本という国の文化や伝統、そして誇り。
     たとえ相手が自分より数十倍上回っていても、勇猛果敢に戦いに臨む精神。
    日本人としての誇りと精神を守るため、「七生報国」を合言葉に散華された二百四六万の英霊たち。
     私たちには、もの言わぬ英霊たちの魂に耳を傾け、英霊たちに恥じない日本の国を、後世に残していく義務があるのではないでしょうか。

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    楠木正成


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  • ニホンミツバチの勇気ある行動


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    日本ミツバチ
    日本ミツバチ


    日本には古くから日本ミツバチがいるのですが、日本で養蜂に使われているのは、明治以降導入されたイタリア種を中心とした西洋ミツバチです。

    なぜ西洋ミツバチかというと、日本ミツバチは環境が変わると巣を捨てて移動してしまう。神経質で養蜂には向かないからなのだそうです。

    そこで養蜂には、西洋ミツバチが使われます。
    日本ミツバチと比べると、西洋ミツバチは、すこし体が大きくて、色も黄色っぽいです。逆に日本ミツバチは、小柄で色も黒っぽい。

    養蜂場では、たくさんの西洋ミツバチが飼われます。
    しかし不思議なことに、西洋ミツバチは、日本ではまったく野生化しません。

    しないというより、できないのです。

    ミツバチの天敵は、スズメバチです。
    スズメバチは、ミツバチの巣に飛来し、巣の前でホバリング(停止飛行)をしながら、帰巣する働き蜂を捕らえます。

    そして付近の木の枝などに後肢で逆さまにぶら下がり、ミツバチの頭部、羽、足、腹部を大腮(おおさい:エラのこと)で切り落とし、胸部だけを肉だんご状にまるめて巣へ持ち帰えります。幼虫の餌にするのです。

    ハチの攻撃方法といえば、相手にぶつかり、瞬間に敵に毒針を突き刺すのがよく知られています。
    ミツバチの毒針は、逆トゲがついているので、その針は相手の体内に残ります。

    ところがスズメバチの毒針は、逆トゲがないので、毒のある限り何度でも相手を突き刺すことができます。
    しかも、毒液をお尻から相手にまき散らします。

    この毒液は、警報フェロモンの働きを持っています。
    ニオイに釣られて大勢の仲間がやってきます。

    そうして大量にやってきたスズメバチは、ミツバチを捕食し、巣を壊滅させます。

    ですから、養蜂場を逃げ出した西洋ミツバチが、自然巣を作っても、スズメバチに襲われて、すぐに絶滅してしまうのです。

    飼育している西洋ミツバチでも、スズメバチに襲われると1日くらいで全部殺されてしまうといいます。

    西洋ミツバチにとって、スズメバチはそれだけの脅威なのです。


    ところが日本ミツバチは、世界で唯一、スズメバチを撃退します。

    お尻の毒針を使うのではありません。
    集団でスズメバチにとりつき、熱死させるのです。

    日本ミツバチは、スズメバチが巣に近づくと、集団で出迎えて、腹部を高く持ち上げて一斉に左右に激しく羽を振る行動を起こします。

    この行動によって、スズメバチは一匹の日本ミツバチに的を絞れなくなり、また巣門の前で落ち着いて待ち伏せできなくなってしまいます。

    そうやってまずは、スズメバチを追い払う。

    さらにスズメバチが巣に近づくと、日本ミツバチは集団でズズメバチにとりつき、瞬く間に直径5㎝ほどの「蜂球」をつくります。

    数秒の出来事です。
    日本ミツバチは、「蜂球」の中に、スズメバチを閉じ込めます。

    「蜂球」の中では、内部の温度が急激に上昇します。4分以内で46℃以上に達する。

    そして約20分間、45℃前後の高温が維持され、ゆっくりと蜂群の中心部の温度(約34℃)レベルまで下降し、その後、温度は外気温レベルまで急激に下がります。

    あとには、大きなスズメバチの死体が一つと、複数の小さなミツバチの死体が残されます。

    スズメバチが動かなくなって数分経ったころ、ミツバチたちは「蜂球」を離れ、巣へ戻っていきます。

    これは、日本ミツバチとスズメバチの上限致死温度の違いによる戦い方です。

    日本ミツバチの上限致死温度が、50℃であるのに対し、スズメバチは45~47℃で、死に至ります。
    そのわずかな致死温度の違いを利用して、日本ミツバチは巣を守るのです。

    被害で言えば、ミツバチの方が圧倒的に多いです。

    しかし日本ミツバチは、自らの「命」をかけて、巣を守ります。

    そして、仲間たちの死体を後にし、ミツバチたちは何事もなかったかのように、自らの仕事に戻っていきます。

    これは、世界で唯一、日本ミツバチだけが考案した戦い方です。

     君が代は
     千代に八千代に
     さざれ石の
     巌となりて
     苔のむすまで

    さざれ石というのは、ちいさな小石がまとまってできた岩石です。
    ひとりひとりは非力でも、みんなで協力して、巣(国)を守る。

    ミツバチだってやっているのです。

    ましてわれわれ人間です。
    日本人が日本を守らなくて、いったい誰が日本を守るのか。


    ちにみにスズメバチは、巣の近くで動く黒い物体に対して非常に敏感に反応することが知られています。
    白や黄色、銀色に対する反応は弱く、ほとんど攻撃しません。

    なぜスズメバチが、黒いものを攻撃するのかというと、人間をターゲットにしたものだとする説が有力なのだそうです。

    スズメバチを食用にする習慣は世界各地にあります。
    なかでもChinaの雲南省は、ズメバチ食の本場として知られ、膨大な量のスズメバチの幼虫が巣ごと食用として市場に出回ります。

    要するにスズメバチは、Chinaで長い年月、人間に捕食される中で、最強の天敵を、髪の黒いChineseを攻撃する修正を身につけたのです。
    おかげで、同じく髪の黒い日本人まで、スズメバチのターゲットにされている。

    スズメバチは、外敵から巣を守るために,人が巣に近づくと次のような警戒や威嚇の行動をとります。

    1 相手の周りをまとわりつくように飛び回る。
    2 相手に狙いをつけて空中で停止(ホバリング)する。
    3 あごをかみ合わせて”かちかち”という音をたてる。

    森にいて、スズメバチが、まわりを警戒するように飛び始めたら要注意です。
    さらにホバリングをはじめたら、明確に「敵」として認識されたことになる。

    この場合、スズメバチを横に払う動作をすると、スズメバチはお尻から警戒フェロモンを分泌しはじめます。
    そうなると、仲間が次々とやってくる。

    スズメバチにホバリングされたら、姿勢を低くして、ゆっくりと後ろに下がり、距離を置いて、その場を立ち去るようにしましょう^^b

    ソレニシテモ シナハ コウイウメンデモ ハタメイワクナ・・・

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  • 二・二六事件に思う


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    渡辺錠太郎陸軍教育総監
    渡辺錠太郎陸軍教育総監


    先日、埼玉県の狭山が丘高校に、名物校長として名高い小川義男校長先生を訪ねさせていただきました。

    小川校長といえば、ベストセラー「あらすじで読むシリーズ」などでご存じの方も多いと思います。カリスマ校長として教育界では知らない人のない人物ですが、このブログでは、「人間を矮小化してはならない」という記事で、小川校長の書かれた一文をご紹介させていただきました。
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-641.html

    小川校長の素晴らしい人格に、まさに感服したことに加え、驚いたのが、生徒たちの礼儀正しさ。

    いちおう我々は「先生に案内されて廊下を歩く中年のおじさん達」だったのですが、その我々に、行きかう生徒たちが、みんな明るく元気の良い声で「こんにちは」と声をかけてくる。実にすがすがしい。

    たまたま外に出たときに、片足にギブスをはめて松葉づえをついている生徒がいたのですが、小川校長は、「○○君、君の足の具合はどうかね?」とやさしく声をかけておられた。

    全校生徒の顔と名前をちゃんと一致しておられる校長に、ますます感服した次第です。

    学校というのは、教師や校長の一念によって、かくも校風というものが違うものかと、関心したのですが、忘れてならない学校のひとつに、「ノートルダム清心学園」という私学があります。

    幼稚園から小中学校、高校、大学、大学院まで一貫した教育施設を持つマンモス学校です。
    この学校の建学の理念は、「どんなにつらい境遇にあっても、それを与えられた十字架の一つとして受け止め、笑顔で自分の花を咲かせる」というものです。

    そして、この学校の理事長が、渡辺和子さんです。

    渡辺和子さんは、昭和2(1927)年のお生まれです。

    9歳のとき、昭和11(1936)年2月26日に、父親を亡くしています。

    そうです。二・二六事件で、杉並区上荻窪の自邸で殺害された陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎、その人です。

    渡辺大将は、愛知県小牧市のご出身です。
    煙草店を営んでいた和田武右衛門の長男として生まれます。
    家が貧しかったために、小学校さえも中退しています。

    19歳で農家の渡辺庄兵衛の養子となった渡辺は、「俺は勉強して医者になるんだ」と、陸軍に看護卒として入営した。
    当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたのです。

    小学校さえ満足に出ていないのに、独学で毎日熱心に勉強をする渡辺青年の姿をみた中隊長は、渡辺に陸軍士官学校の受験を勧めます。

    21歳のとき、渡辺は陸軍士官学校に第八期生として入学します。
    そして29歳で陸軍大学を卒業した時には、なんと首席です。

    陸大を卒業した渡辺は、歩兵第36連隊中隊長に任官し、翌年、日露戦争に出征します。
    そして帰国後、大本営参謀となった渡辺は、翌年には元老山縣有朋の副官に任ぜられる。
    41歳で歩兵第三連隊付きとなった渡辺は、その後、軍事研究のためにドイツへ留学、ドイツ大使館付武官補佐官、オランダ公使館武官などを歴任したあと、大正9年まで、欧州に滞在しています。

    「海外の軍事情勢に精通し、平素給料の大半を洋書の購入に費やすほどの勉強家で学者軍人と呼ばれたほどの人であった」と陸大52期の桑原嶽さんが著書「市ヶ谷台に学んだ人々」に書いています。

    昭和10(1935)年7月、渡辺錠太郎は、陸軍教育総監に就任します。

    そしてその翌年の2月26日、二・二六事件が起こります。

    東京市四谷区仲町3丁目(現:東京都新宿区)の内大臣斎藤實を襲撃した青年将校の一行は、途中二手に分かれ、高橋太郎少尉と安田優少尉率いる兵三十名が、軽機4、小銃10、拳銃若干を持って、赤坂離宮前から軍用トラックに乗り込んで、杉並区上荻窪の渡辺邸に向かいます。

    午前6時、渡辺邸到着。

    渡辺邸の正面入り口には、牛込憲兵分隊から派遣されて警護に当たっていた憲兵伍長及び憲兵上等兵がいたのだけれど、青年将校らは、これに機銃で対抗。警護兵二名を殺害します。

    その間に裏口から回った一隊が、屋内に侵入。
    すると、そこに渡辺錠太郎大将の妻すず子婦人がいた。

    安田少尉「閣下に面会したい。案内してください」

    すず子夫人「どこの軍隊ですか。襟章からみると歩三ですね(一緒に参加した高橋 太郎少尉は歩兵三連隊第一中隊・46期、後に死刑)。
    帝国軍人が土足で家に上がるとは無礼でしょう。
    それが軍隊の命令ですか。
    主人は休んでおります。お帰りください」

    安田少尉「私どもは渡辺閣下の軍隊ではない。
    天皇陛下の軍隊である。どいてください」

    すず子夫人は、立ちはだかったままそこをどかなかったそうです。

    このとき、渡辺和子は、まだ9歳の少女です。

    両親と一緒に寝ているところに、襲撃に気づいた両親が起き上がる。渡辺大将が咄嗟の判断で、和子を部屋の隅の机の下に逃がし、その間にすず子婦人が、裏にまわっていた。

    銃殺された渡辺錠太郎大将
    銃殺された渡辺


    安田少尉らは、すず子夫人を突き飛ばし、渡辺大将の寝所に向かいます。

    そして襖(ふすま)を開けると、いきなり軽機関銃で渡辺を撃ちます。

    渡辺大将は、横になりながらこれに拳銃で応戦。

    襲撃隊は、その渡辺大将の足を狙って、軽機を発射します。

    軽機に狙い撃ちされた渡辺の片足は、骨と皮だけになる。

    それでも応射をする渡辺に、襲撃隊は全身十数カ所に傷を負い、体には銃弾43発が撃ち込まれ、さらに、二刀を浴びて、こときれます。

    この一部始終を、わずか9歳の渡辺和子さんが、すぐ近くで見ていた。


    和子さんの証言です。
    ~~~~~~~~~~~~~
    彼等は機関銃を据えて父に向って射ち出したのです。

    父は横ばいになりながら、ピストルで防戦したと記憶しております。

    彼等はまず、父の脚をねらったように思います。
    父が動けないようにするためでしょう。

    私には、しかしまだ、何が、何のために起ったのか、よくわかりませんでした。

    それで、自分の身をかがめて、時々顔を出して見ていました。

    ふっと気がつくと、機関銃の音がやんでいました。

    彼等はそれから父に斬りつけたのです。

    みんながいなくなったあとに、父、渡辺錠太郎が、片手にピストルを持ったまま、畳の上によこたわっていました。

    ~~~~~~~~~~~~~~

    和子さんはそれから血の海の中で、父の死体にとりすがり「お父様、お父様」と二、三回声をかけたそうです。

    そして母を呼んだ。

    ふたたび和子の証言です。
    ~~~~~~~~~~~~~~
    お父様が、お父様が、と叫びながら、私は部屋の中を歩きまわっていました。

    私は泣いていたと思います。

    天井まで、父の肉が飛んでいたのや、雪が深かったのや、雪の中に点々と赤い血が落ちていたのを憶えています。
    ~~~~~~~~~~~~~~


    渡辺錠太郎大将の長女政子さん(当時33歳)の証言です。
    ~~~~~~~~~~~~
    母は両手をひろげ、兵たちが父の寝室へ行くことをさえぎったのでございます。

    ところが、そのさえぎりもきかず、縁側づたいに父の寝室のほうへ回り、そこに機関銃を据えて、撃ったのでした。

    父の体に当ったタマの数は四十三発。

    肉片が天じょうにまでとびちり、それはむごい仕打ちでございました。

    右フクラハギの肉は、機関銃の夕マでとぱされてなくなり、顔から肩にかけてはとどめのカタナ傷が二つ。

    後頭部にはやはりとどめのピストルの一発がうちこまれ、穴があいておりました。
     
    机のカゲにかくれた和子は、さぞかし、こわかっただろうと思います。
    まだオカッパの少女でございましたが、そのオカッパ頭を押さえて、伏せていたそうでございます。

    そのとき、机をブチ抜いて通って行ったタマが一発ございまして、その穴のあいた机は、いまも父の家にございますが、妹の話では、オカッパ頭をかすめて行くのがわかったそうでございます。

    もし、もう少しそれておれば、妹も死んでいるところでございました。

    なにしろ、狭い家でごぎいますから、家中璧といわず天じょうといわず夕マの跡だらけで、本当にむごいことをしていくと思ったものでございました。

    それに皮肉なことにはあの軽機関銃の採用は、父がその必要性をはげしく説き、それが入れられて日本の軍隊でも使うことになったものでございますよ。

    父は第一次世界大戦をオランダで見て、戦後ドイツの日本大使館にいたのですが、武器の発達をつぶさに見て、帰国後、その採用かたを具申したのでございます。

    ところが、当時の風潮は軍縮時代でございましてね。
    これを言ったため、父は参謀本部におれなくなり、静岡の連隊から満洲へとばされたものでした。

    自分が採用方を言った軽機関銃に自分がやられる。

    それも機関銃というのは、外で使うべき武器なのに、それをあの将兵たちは十メートルもはなれていない部屋の中で使い父を撃ったのです。

    それと三十名の将兵の中に歩兵三連隊の兵がまじっていましたが、ここは父がいた部隊で、そのエリ章を見たときは、さぞかし父も無念であったろうと思います。

    母はエリ章を見たとき、わが目を疑い、Chinaの兵隊がきたのかと錯覚さえ起したそうでございます。

    将兵たちが引きあげて行った庭の雪の上にも血の跡が残されており、それを見たときは私は一体、このさき、日本はどうなるかとそんなことばかり思っていました。

    母も明治の女といいますか、軍人の妻ですもの。
    とり乱したりはいたしませんでしたねえ。
    ただ、ボウ然の一語でございました。

    午前中に検死がすまされ、父の遺体はホウ帯巻きにされましたが、二月二十八日に密葬、三月二十六日に葬儀をいたしました。

    それにしましても、機関銃で四十三発もうったうえ、とどめの刀きずまで残し…。

    数日経って「兵に告ぐ」という告が出たとき、やっと、私たちの不安はいくらか停まったのでございました。

    ~~~~~~~~~~~

    事件の生々しい情況が伝わってきます。

    二・二六事件の背景については、松本清張が「 昭和史発掘(8)」の中で次のように書いています。

    ~~~~~~~~~~~
    農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和6年と昭和9年に大凶作があって深刻化した。

    農家は蓄えの米を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。

    農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。

    そして青年将校らは考えた。
    結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。
    ~~~~~~~~~~~

    昨今、過去の歴史について、いろいろ脚色がなされ、なにやら二・二六事件の若手青年将校たちは右翼であったかの如くに言われている節があります。

    しかし、当時若手に流行していた考え方は、ご皇室尊崇ではなく、マルクス・レーニン主義による階級闘争主義です。

    つまり、軍の内部にさえ、コミュニスト(共産主義者)的思想がまん延していた。

    資本主義者が貧民を作っているのだから、貧民は決起し、資本主義者を殺してもよい。
    敵対する者、自分たちと異なる階級(上とか下)の者に対してなら、なにをしても許されるというのが、共産主義です。
    共産主義革命の実現のためには、対抗勢力は抹殺せよ・・・これが階級闘争主義です。


    これに対し、二・二六事件の青年将校たちに対して陛下から戒厳司令部によって下された訓告は、以下のものです。

    ~~~~~~~~~~~
    下士官兵ニ告グ

    一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
    二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
    三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ泣イテオルゾ

    2月29日 戒厳司令部
    ~~~~~~~~~~~

    陛下の大御心は、血なまぐさいクーデターをのぞんでいません。
    文中に明らかな通り、父母兄弟との関わりを大切にせよ、という。

    人は決してひとりで生きているのではない。
    父母兄弟がいて、自分がある。
    その父母兄弟を泣かすことがあってはならない。

    これが大和人、すなわち「和」の考え方です。

    ふたたび、和子さんの証言を掲載します。

    ~~~~~~~~~~~~
    私は、父を殺した人に対しては、憎しみを持ってはおりません。

    けれども、直接手を下さないで、彼等を繰っていた人が憎いと思います。

    ただ、父を殺した人達について云えば、男なら男らしく勝負をなさったらどうか。

    父の脚を撃ってまず動けなくし、それから磯関銃というのは、あまりに残忍です。

    父を殺すのに、少しは礼儀というものを知っていてほしかったと思います。
    ~~~~~~~~~~~~

    陰で操っていた人というのは、コミュニスト達です。

    日本人なら、正々堂々、男らしく勝負せよ、と和子さんは語っておられます。

    日本人は常に正々堂々。親兄弟を大切にし、和と礼を尊ぶ。

    そして「「どんなにつらい境遇にあっても、それを与えられた十字架の一つとして受け止め、笑顔で自分の花を咲かせる」、それが日本人だと、ボクは思います。

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  • 世界に誇る縄文文化


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    縄文対弥生
    縄文対弥生


    2005年の夏休みの頃のことです。
    国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。
    上は、そのときのポスターの写真です。
    実は、この写真、縄文人、弥生人に現代人が扮しているのですが、服装や装飾品、髪型に加えて、モデルの顔立ち、体型などまで、非常にしっかりとした時代考証に基づいて、写真に収まっているものです。

    ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
     縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
     縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
     縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
    縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間なのです。

    ヨーロッパなどでは、だいたい一万年前くらまでを旧石器時代、一万年から三千年くらいまえの時代を新石器時代などと呼びます。
    ですから日本の縄文時代というは、欧州やChinaにおける旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化の時代ということができます。

    冒頭の縄文時代の女性像は、その長い縄文時代のなかで、一万二千年から五千年前の鳥浜貝塚遺跡からの出土品などをベースに復元されたものです。
    鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡です。

    鳥浜貝塚遺跡は、福井県若狭町にあります。
    丘陵の先端部にあり、現在の地表面より3~7メートル下に埋まっていた遺跡です。
    海抜ゼロメートル以下の低湿地遺跡で、河床の下で、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、いわば密閉されていた遺跡です。
    第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。

    第四次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されました。九本歯の短い飾り櫛で、実に美しい漆塗りが施されています。

    赤色漆塗クシ(鳥浜貝塚遺跡)
    縄文時代前期、日本最古の櫛とされている
    赤色漆塗クシ


    「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述がありますが、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくるとともに、それだけ良好な保存状態であったことを示しています。

    さらに、赤色漆を全面に塗った上から、黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩土器など、当時の高い技術による品が数多く見つかりました。
    発見された遺品の中からは、編み物も数多く見つかり、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかにされました。
    これを復元して見せてくれているのが、冒頭の国立科学博物館の写真なのです。

    縄文時代というと、なにやら、髭(ひげ)もじゃらで髪(かみ)はボサボサ、鹿の毛皮をかぶって下半身丸出しの原始人の姿などを想像してしまいますが、どうやらこれは大嘘です。
    こうした考え方は、「文明文化はChinaから朝鮮半島を経由して日本に渡ってきた」のだから、「日本文明は大化の改新(645年)以降に始まった」のであり、「それ以前には日本には文明はなかった」・・・すなわりChinaが親、朝鮮が兄、日本はおとんぼ、という歴史認識から生まれた、いわば政治的な創作です。

    ここでもう一度、冒頭の縄文女性像に登場していただきます。

    縄文女性


    冒頭の写真でも明らかですが、縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。
    耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかも彫刻付きです。
    耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。
    腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。
    展示品は古くてくたびれているけれど、これが新品だったら、そのまま現代社会でも立派に通用する装飾品です。

    また服装は、布製で、極彩色の美しい模様が描かれています。
    このデザインを復元したスタッフは、縄文人のこの服装が「そのまま原宿あたりの町を歩いても、なんら違和感がない」と述べています。
    おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しいです。

    特定のシャーマンの女性だけが、ガチャガチャに着飾っていた、というのではありません。
    出土品の数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、特定の、たとえばシャーマンだけががカラフルな装飾品をまとっていたとは言い難いのです。
    つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。
    女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということです。

    しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。
    植物採取や狩猟のための道具はあっても、人を殺すための武器、たとえば長い柄のついたハンマーのようなものが、ありません。もちろん刀剣や槍の類もないのです。
    女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。

    おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。
    男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。
    女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。

    ちなみに、日本の縄文期の遺跡は、数千か所発掘されていますが、諸外国に見られるような、頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、肋骨に槍の穂先が挟まっているような遺体は、いまだ発見されていません。
    つまり縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。

    日本では、そういう時代が二万年近く続いたのです。
    これはすごいことです。

    日本人は平和を愛する民族です。
    戦いよりも和を好む。
    そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれません。

    弥生時代にはいると、服装も土器もシンプルなものになり、刀などの武器や鎧を着た武者の人形なども出土しています。
    女性たちが美しく着飾れるというのは、平和な世の中のある意味、象徴的なできごとといえるかもしれません。
    なぜなら戦乱の世の中では、のんびりと凝った装身具を身にまとったり作ったりするだけの余裕がない。
    ガチャガチャした女性の装身具は、敵から逃げるのには不都合です。

    縄文人たちがどこから来たのかということについては、最近の遺伝子の研究で、ずいぶん明らかにされています。

    Gm遺伝子の分布
    (クリックすると大きくなります)
    Gm遺伝子の分布


    上の図をみると明らかなのですが、Gm遺伝子の中で、afb1b3遺伝子というものがあります。図の赤の遺伝子です。
    これは抗マラリア遺伝子で、この遺伝子を持っているとマラリアにやられない。
    戦時中、日本の将兵の多くが南方戦線でマラリアにやられましたが、現地の人がなんともないのに、日本人がずいぶんやられた背景には、こうした抗体を持つ遺伝子を持っているかどうかがファクターになっていました。

    また、図をみるとab3st遺伝子(図の黄色の部分)を日本人は多く持つのに対し、朝鮮人やChineseにはそれが少ないです。
    つまり、彼らは日本人とは同種ではないということです
    むしろ、日本人とそっくりの遺伝子を持っているのは、バイカル湖のほとりあたりの人たちなど、中国の辺境部の人たちです。

    このことが示すことはひとつしかありません。
    それは、もともと中国から日本にかけて、同じDNAを持つ人々が住んでいたけれど、中国の内乱による殺し合いによって、中国や朝鮮半島の人種は、まったく異なる人達に代わってしまったということ。
    そして日本や中国の辺境部には、そうした争いを嫌った人たちの遺伝子が残ったということです。

    もうひとつ大切なファクターがあります。
    気温の変化です。
    過去35000年の気温変化をみると、一万八千年前~二万年前に極寒期があり、現在より気温が7~8℃低かったことが知られています。

    過去35000年の気温変化
    過去35000年の気温変化


    このときの海水面は現在より120~140m低かったのだそうです。
    海峡深度との比較から、北海道は宗谷海峡、間宮海峡がシベリアとかなりの期間繋がっていたし、いまある大陸棚は、おおむね海上に出ていました。

    ちなみに日本の南側・・・屋久島~奄美大島間は深度千メートルあるので、繋がっていません。
    津軽海峡と対馬海峡西水道(=朝鮮海峡)も、つながっていたとは言い難い。こちらは水深150Mほどなので、微妙といえば微妙なのですが、完全な陸続きとは言い難いようです。

    さらに日本人と似た遺伝子を持つ人達は、地球気温の寒冷化の時代に一部の人たちはベーリング海峡を越えて、北米大陸に移住したようです。
    そうです。
    アメリカインデアンの先祖です。

    縄文土器の伝播
    縄文土器の伝播


    非常におもしろいのが、長崎県の対馬越高遺跡で発掘された七千年前の土器(上図右)と、神奈川県大和市で発掘された一万二千年まえの土器です。
    模様が酷似していますが、神奈川の土器の方が五千年も古いです。
    要するに、日本の縄文文化はChinaから朝鮮半島を経由して入ってきたものではないということです。

    その朝鮮半島では一万二千年前から七千年前にかけての遺跡が、まったく発見されていません。
    これは実に不思議なことで、一万二千年前から七千年前までの五千年間、朝鮮半島からは人間が住んだ痕跡が消えているのです。
    なにもない。ヒトの気配が、朝鮮半島からまるでなくなるのです。

    朝鮮半島の一万二千年以上前の遺跡・・・つまり旧石器時代の遺跡なら、50ヵ所程度発見されています。七千年前以降の遺跡なら、数多く発見されています。
    要するに朝鮮半島には、旧石器時代の遺跡自体の数がほどんどなく、しかも一万二千年前から七千年前までの五千年間、遺跡の空白期間がある。
    そしてその期間を通じて、日本には、数多くの遺跡が発掘されています。

    朝鮮半島で、遺跡がなくなる五千年間、そこでいったい何があったのかは、まさに「神のみぞ知る」こととされています。
    ただ、おもうにこれは人々が火を使い、山を禿げ山にしてしまったせいなのではないかと思います。
    山はきれいな水を生み、様々な生命を育みます。
    その山を禿げ山にしてしまうと、山の貯水能力は失われ、そこは荒涼とした荒れ地になります。
    緑がなければ人は住めないのです。

    朝鮮半島でふたたび遺跡が現れる七千年前、なにが起こったのかというと、鹿児島県沖の薩摩硫黄島のあたりの鬼界カルデラ火山の大噴火が起こっています。
    世にいう、アカホヤの大噴火です。

    この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トンです。
    噴出量の対数をもちいた噴火マグニチュードMで規模を表現すると8.1です。
    火山灰は、遠く関東地方にまで達します。
    これは日本における最大の火山爆発です。
    アカホヤ噴火のあと、カルデラ破局噴火は、日本に起こってません。

    その噴火で、アカホヤ火山灰と呼ばれる膨大な火山灰が遠く東北地方まで降っています。
    当然、南九州の生態系は破壊され、ヒトの住めるところではなくなってしまいます。
    とりわけ火山による噴煙は、多くのガラス分を含みます。
    これを吸い込むと、肺や気管にガラスが刺さり、人口が激減します。
    そして農地は火山灰によって破壊されます。
    そしてこの頃から、西北九州を中心に新たな漁労文化の遺跡が多数出土しています。

    生態系が破壊され、土地が火山灰に覆われて植物体系が破壊された中では、人々が生き残ろうとすれば、漁労に頼らざるをえない。実にわかりやすい話です。
    必然的に漁業は、それまでの沿岸漁業から、大型魚(マグロ、サワラ、シイラ、サメ)を対象にした、外洋性の大規模漁業のニーズが高まります。

    大型魚を釣るには当然大型の釣り針が必要です。
    そしてまさにこの時代に合わせたかのように、九州西北部と朝鮮半島東南部に、5~10cmの大型の釣り針が出土しています。
    同じ遺跡から、幾何学文様をもつ縄文式土器が出土していますから、これは同じ縄文文化圏の人たちの遺跡であることがわかります。
    しかも土器は、模様の共通性だけでなく、土器の生地の製法にも共通性が認められます。
    祭りの道具と考えられる貝殻製の面も、韓国東三洞貝塚と縄文中期の熊本県有明海沿岸でそっくりな面が出土しています。

    こうしてみると、次のようなストーリーが読み取れるようになります。
    1 アカホヤ火山灰の打撃の少なかった西北九州には、九州南部・中部からの避難民が押し寄せた。
    2 急激な人口増加は、それまでの西北九州の果類、芋類といった植物食をベースにし、タンパク質の供給を魚に求める、補完的な小規模漁業では、食の供給を不足させた。
    3 そこで、食を補うためにみんなで協力して漁業資源の獲得に乗り出し、漁のために遠く朝鮮半島にまで人々が進出した。
    遺跡の出土品と年代は、そうした流れを如実に物語っています。

    ちなみに、西北九州や朝鮮半島で大型の釣り針が発掘されたのと同じ時代というのは、Chinaはまだ黄河文明が始まる前です。
    長江文明といわれる浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)が発掘されています。
    河姆渡遺跡なら、約七千年前の遺跡ですから、時代的にはほぼ同じ時期にあたります。
    ここでは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。

    Chinaが春秋戦国時代を迎えるのは、いまから三千年の昔です。秦の誕生にしてもいまから二千二百年前です。

    さて、ここからはねずきちの勝手な想像です。
    実は、以下の筋書きは、いまの日本ではタブーとされている説なのかもしれません。
    なぜかというと、日本文化はChinaから朝鮮半島を経由して日本に来たという前提にたった議論でないと、教科書に載せてもらえない。
    しかし、そういう先入観をとりはらって遺跡を見てみると、実はまったく別なストーリーが見えてきます。

    すこし重複しますが、整理してみます。
    まず、いまから一万八千年ほど前に、地球の気温がいまより-8度下がりました。
    当然、北極や南極の氷の量が増えた。海面が低下した。
    海面の高さは、いまより140Mも低くなります。

    海底の深度からみて、シベリアと樺太、北海道、本州、四国、九州は、それぞれ地続きになります。
    一方、琉球列島は、深度1000Mなので、海のまま。
    朝鮮半島と日本の間は、深度150Mなので、微妙というか、陸続きではなかった可能性が高い。

    地球気温の急速な低下で、バイカル湖付近にいた旧石器人の一部が、樺太を経由して日本に流れてきます。
    このことは、Gm遺伝子の構造からみて、100%間違いない。
    日本に流れてきた彼らは、土器を使う縄文文化を形成します。青森県の大平山元遺跡には16500年前の土器が出土している。

    日本に住む縄文人たちの人口は、徐々に増え、二万人程度が、本州を中心に分布します。
    その縄文人たちには、武器がない。
    その代り、彼らは、彫刻や装飾を好み、日々工夫して美しい土器や飾りを作ります。
    要するに働きものだった。
    いろいろ工夫し、漆のカンザシなども作るようになった。

    古来、凝った装飾品を作るのは、たいてい男性の仕事です。
    そして女性たちは、その装飾品を身に付けた。

    武器を持たず、労働を好み、自然の恵みと和を大切にして生活する日本人の気質は、こうした縄文人によって、形成されたとみることができようかと思います。
    なにせ、縄文時代は、一万八千年前から一千年前まで一万七千年も続くのです。

    争いよりも和を好む。女性や美に対して造詣が深い。そして先祖とのつながりを大切にする。
    縄文人のこの気質は、日本人の気質そのものです。

    一方、朝鮮半島では、いまから一万二千年前から七千年前までの五千年の間、人の姿が絶えて見えません。遺跡がない。
    一万二千年以上昔の遺跡も、せいぜい50か所。日本の5000か所の100分の1です。
    ともあれ、五千年の間、朝鮮半島には人が住んだ形跡がない。
    それは疫病が流行ったためなのか、核爆発でも起こったのか、理由はわかりません。
    とにかく人がいなくなった。

    ちなみにボクは、この五千年というのは、樹木が原因だったのではないかと思っています。

    どういうことかというと、木は、燃料にされます。
    つまり、火をおこすのに使われる。
    で、そのために木を切ると、そのあとなかなか生えてこない。
    とりわけ、禿山になると、洪水の原因になって、平野部に人が住めなくなるし、いったん禿山になった山は、こんどはなかなか木が生えなくなります。

    実際、日本でも、大東亜戦争のとき、戦争のため、森林の30%が喪失しています。
    それは人が資源として木を伐採したということもありますし、爆撃で焼失したという側面もあった。
    ともあれ、3割の森林資源を日本は失っています。
    それを、昭和天皇が先頭をきって、植林を行い、そのおかげで日本の森林は、昔ながらの緑をとどめることになった。

    ただ、そのとき、早く育つスギを中心に植えたため、スギが生育した昭和の終わりごろには、戦前にはなかったスギ花粉症が大流行することになりました。
    要するに、樹木(森林)は、伐採したら植林しなければ木は生えてこない。

    おそらく日本でも、縄文時代に庶民が一般的に使う食器として陶器が作られたということは、相当数の木が伐採されている。
    日々の食事のためにも、樹木の伐採はあったでしょう。
    そしてそのままでは、日本も山々は禿山になり、山が禿山になったら、山が雨水を蓄積できなくなるから、平野部は洪水に侵される。

    世界中、それが原因で砂漠化しています。
    たとえば、エデンの園というのは、サウジアラビアの真ん中あたりに実在したといわれていますが、緑豊かだったはずのエデンは、人類が火を使う(火=赤=リンゴ)ことによって、砂漠化し、そこはいまだに荒涼とした砂漠のままです。
    つまり、朝鮮半島でも同じことがおこったのではないか。

    12000年前まで半島に住んでいた人々は、火を使い、そのために半島の山々が禿山となり、平野部に洪水が起こり人が住めなくなった。
    緑がないから、狩猟も採取もできない。
    平野部は洪水に侵されて、農作物もできない。
    つまり、人が住めなくなった。

    逆に日本は、日本中に数万カ所ある縄文時代の遺跡に、それぞれ庶民の使う道具としての土器が出土していることを考えると、縄文人たちは、相当数の木を伐採しながらも、同時に植林事業をみんなで力を合わせて行っていた。
    そうでなければ、いかに温帯とはいえ、木々の育つには何年もかかることを考えると、植林しなければ、砂漠化した可能性の方が高いのです。

    植林を行った縄文人と、行わなかった半島人。
    その違いが、もしかすると五千年の遺跡不在と、人々が豊かに暮らした日本の縄文期の違いになったのではないか。
    そんなふうに思います。

    さて、そんな中で、いまから七千年前に鹿児島沖で大噴火が起こります。
    屋久島近くの海中で起こったアカホヤ噴火です。
    この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トンです。
    噴出量の対数をもちいた噴火マグニチュードMで規模を表現すると8.1です。
    火山灰は、遠く関東地方にまで達します。

    これが日本での最大の火山爆発です。
    アカホヤ噴火のあと、カルデラ破局噴火は日本に起こってません。

    この大噴火で、おそらく南九州の人々は、大打撃を被った。
    野山は火山灰に覆われ、もはや狩猟生活は営めない。
    生き残った彼らは、九州北部に流れます。

    これによって、九州北部の人たちは、いきなり人口が増えた。
    こうなると食料が足りません。
    彼らは、食糧事情のため、近海漁業から、徐々に遠洋漁業に向かいます。
    そして、遠く朝鮮半島東部(日本海側)にまで進出し、一部の人はそこに住みつくようになります。

    なにせ、この時代に、同じ作りの大型の釣り針や同じ製法の土器が、九州と朝鮮半島東側(日本海側)で発掘されているのです。そして日本側の出土品の方が、すこし時代が古い。
    朝鮮半島東側(日本海側)に住みついた人々は、やはりそこでも、日本の縄文文化の伝統に従い、武器を持たず、平和な暮らしを続けます。
    平和は、人口の増加をもたらします。

    朝鮮半島の東海岸(日本海側)に住みだした人々は、人口の増加とともに、一部が半島の西側(東シナ海側)に住み始めます。
    そうして朝鮮半島では、半島の日本海側の人々が新羅族、東シナ海側の人々が百済族を名乗った。

    ちょうとこの頃、Chinaは、春秋戦国時代を迎えています。
    世が乱れ、戦乱が相次いだのは、史書に明らかなとおりです。

    戦乱は、対人用武器を育てます。
    東シナ海を漁場にする百済は、Chinaに近かった分、Chinaの武具を比較的早期に取り入れます。
    武器を持つと、強くなった気になれる。
    働かなくても、人から食い物を奪うことができる・・・ろくでもないことを覚えたものです。

    朝鮮半島西側の百済の人は、東海岸の新羅の人々を度々襲います。
    新羅の人は、もともとの日本人(縄文人)ですから、対人武器を持たない。

    ニコニコしているところを襲われ、食い物や女を奪われます。
    対抗するために新羅族も武装します。
    百済と新羅は、この後、ずっと争いが続きますが、ついには新羅族が百済族を滅ぼしています。(しかしそれは7世紀になってからのできごとです)。

    五千年近く続いた新羅族と百済族の争い。このことは、新羅の百済の、現代にいまなお続く仲の悪さとなって表れています。
    武器を持った百済人は、海を経て日本にもやってきます。

    ただ、当時の船ですから、人数が乗れない。
    新羅は陸続きだから襲うことができたけれど、日本には船で行くから少人数です。
    これでは戦いにならない。
    少人数でやってきたから、せいぜい武器を自慢するくらいしか能がない。

    縄文人は、新しいモノ好きです。
    なんにでもすぐに興味を持つ。
    縄文人は、もたらされた武器をみて、大喜びします。

    そしてさらに工夫を凝らして、より使いやすいモノに改良する。
    鉄砲が伝来して40年で、日本が世界最多の鉄砲所持国になったようなものです。

    中にはこれに対抗するために、武術を鍛えた人々もいました。薩摩のクマソ一族などはその典型であったかもしれません。
    自衛、防衛のために工夫を凝らし、絶対に負けない腕力を、みんなで協力して作り上げた。

    人々が武器を持つようになったことで、縄文人の文化は一変します。

    とりわけ渡来人たちは、衣装も軽衣装で、装飾品も少ない。
    要するに、戦いに明け暮れる文化、社会構造のもとでは、凝りに凝った土器や装飾品を作る余裕がなくなり、衣類も逃げやすく動きやすい簡素なものが喜ばれたのです。

    簡単に言ったら、武器を持ってる→強そう!→かっこいい→真似したい・・・で、服装がシンプルになり、土器もシンプルで合理的なものになった。
    弥生時代の始まりです。

    ちなみに、未婚の女性は、自分とすこしでも遠い遺伝子を持った男性を好むという傾向があるのだそうです。
    これは遺伝子の遠い人との間で子を作った方が、優秀な子孫を残せる可能性が高い(反対に近い遺伝子を持った人が相手だと近親婚となり奇形が生まれやすい)からなのだそうです。
    つまり、渡来人たちは、けっこうモテた。

    いまでも、少女マンガの主人公たちは、男も女も白人顔です。
    いがいと韓流ブームなどというものも、より遺伝子の遠い男性を選ぼうとする女性の本能からきているのかもしれません。

    で、古代日本では、引き目かぎ鼻・・・つまり渡来人型の容姿が、高貴な美の象徴とされた。
    すくなくとも絵に描かれた高貴な人は、みんな引き目かぎ鼻のキツネ顔に描かれています。
    実際に美人だったかどうかは別として、要するに洋モノ(当時で言ったら渡来モノ)が、高貴とされた。

    それが絵画におけるキツネ顔や、土器における弥生顔となって普及します。
    時代がずっとさがって、足利時代の応仁の乱あたりになっても、高貴な武士や貴族は、引き目かぎ鼻でキツネ顔に描かれています。
    反対に、火事場泥棒をしている連中は、どんぐりまなこに、四角い顔、つまり縄文顔に描かれている。

    現代の漫画では、かっこいい役は、西洋顔、悪役は東洋顔に描かれる傾向がありますが、ようするに、大昔の絵画でも、実際に美人であったかどうかは別として、渡来顔が高貴、地元顔が、下品顔とし描かれた。
    ただ、だからといって、キツネ顔の渡来人が政権を取ったようにいうのは間違いです。
    現代社会の漫画で、かっこいい主役たちが西洋顔をしているからといって、日本の内閣が西洋人というわけではない。

    弥生期にはいった日本には、Chinaの春秋戦国の血なまぐさいウワサ話や、朝鮮半島における新羅と百済の諍(いさか)いについての情報ももたらされたことでしょう。
    日本人は、日本人々の生活を守るため、国を統一する必要にせまられた。
    みんなで武器を持ち、みんなで国を守るという思考が生まれた。

    そう考えてみると、古代の「東征」も、日本が海外からの軍圧に対抗するため、一緒に戦おうよ、一緒に武装していこうよ、という、戦いというより、一種の啓蒙活動であったようにすら思えてきます。
    実際、戦いなら、相手を何人殺したとか、全滅させたとかいう話が、記紀にでてきてもよさそうなものですが、そうした話がまったくない。

    おそらく、東征というのは、かっこよく完全武装した団体で隣村に行き、外国が攻めてきたらやばいから、あんたらも、仲間になって、俺たちと一緒にブソウしようぜ、みたいなかなり牧歌的なものだった可能性がある。

    いろいろ書いていますが、要するになにが言いたいのかというと、約二万年にわたって、武器すら持たず、牧歌的で平和な暮らしを築いてきた日本(このことは間違いのない事実です)に、Chinaから朝鮮半島を経由してやってきたのは、実は「武器文化=人殺し文化」、すなわち「恐怖の文化」だった。

    クチ裂け女の噂話じゃないけれど、恐怖というのは、それなりに強い文化的伝播力を持ちます。
    女たちや生活を守らなければならないと考えた縄文人たちは、新たに武装し、弥生文化を開いた。
    つまり、古来、Chinaからはいってくる文化には、ロクなものがなかったといえないか、ということです。

    儒学や朱子学、陽明学、漢詩のようなものは、それなりに価値を持ったけれど、Chinaかぶれが日本に招いたのは、武器にかぶれて働かない傾き者に、盗っ人、強姦、権勢欲。
    仏教はよかったけれど、乱暴者の僧兵を招いて都を移さなければならなくなったし、China事変や、満洲では、日本人がさんざひどい目に遭わされている。

    朝鮮半島について言えば、Chinaから武器を輸入して、男が武器をもてあそぶようになった百済族と、古代のまま男が武器を持たないで働くことを重視して平穏な生活を望む新羅族とでは、その生き方に根本的な違いが生まれた。
    最初のうちは、Chinaにかぶれて武器を持った百済が半島で勢力を持ちます。
    しかし、あまりの乱暴狼藉についに怒った新羅族は、百済に戦いを挑むようになる。

    一方、武器を持った百済族の一部は、日本にもやってきます。
    男が鋤(すき)や鍬(くわ)よりも武器を選ぶ百済族と、やはり武器を持たない大和の縄文族。
    やむなく大和縄文族も、武器をもって立ち上がった。
    そして国力を増すために、全国を統一し、朝廷を建てた。

    もともと働き者の大和族です。
    輸入した青銅武器に工夫を凝らし、また戦い方にも工夫を凝らした。
    気がつくと、熊襲族など、むちゃくちゃ強い部族が誕生した。

    その後、新羅族は、Chinaかぶれの百済族を滅ぼします。
    滅ぼされた百済からは、たくさんの渡来人が日本にやってきた。

    まぁ、大昔のことなので、実際のところはわかりません。
    ただ、思うに、「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の教えは、そのまま古代の縄文日本から延々と伝わる日本の伝統の根幹だったのではないかと思うのです。

    男が武器より労働に生き甲斐を見出すという日本的性格も、やはり日本人の縄文時代から長く続いてすでにDNAに刻まれた伝統なのかもしれません。
    そして日本という国の乱れは、常に「Chinaかぶれ」があらわれることから起こる。

    文化は、Chinaに始まり朝鮮半島を経由して日本に流れてきたという説があります。
    トインビーの説など、その典型です。

    しかし、なるほど武器や仏教伝来に関しては、そういうことがいえるかもしれないけれど、すくなくとも遺跡を見る限り、Chinaよりも日本の文明開化の方がはるかに速い。
    朝鮮半島など、約五千年の空白時代すらあるのです。

    日本には、男性が武器を持たず、女性たちが美しく着飾り、和をもって貴しとする人々の和の文化がもともとあり、そうした大和人のDNAは、現代にまでしっかりと受け継がれている。

    Chinaや朝鮮から伝播したのは、人殺しのための武器と、争いごと、盗っ人や強姦魔など、これまた、いまも昔もなんらかわらない。

    以上の日本文化発祥説ともいうべきものは、ねずきちの勝手な想像です。ただし根拠はあります。
    文明東進説(Chinaに起こった文明が半島を経由して日本にもたらされたとする説)を、いったん白紙にしてみると、むしろ文明西進説(日本に起こった文明が、半島やChinaに伝播して古代文明が花開いた)で説明した方が、はるかに合理的な説明がつく。

    ただ、いいたいのは、日本は、一国一文明の国であり、縄文の昔(ヨーロッパでいったら旧石器時代の昔)から、男が武器より、もっぱら加工や工作、あるいは労働を重視し、女性たちが美しく着飾り、のびのびと安心して生きれる文化と生活があった、といえようかと思います。

    古代も、中世も、昔も、現在も、日本は平和で高い文化意識を持った民なのです。
    そんな日本を、私たちの世代で壊してしまうということだけは、絶対にしてはならないことだと、ねずきちは強く思うのです。

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    姫神: 縄文海流~風の縄文Ⅲ
    三内丸山遺跡 (青森県)、 積丹半島 (北海道)。縄文語とは縄文時代に使われていたであろう言葉を指します。文字を持たなかったため確定ではありませんが、崎山教授の学説によると縄文人の言葉は北方と南方から伝わった言語が混合して形づくら れ、詳細な検証と現存する古語の記録を参考に推測されています。縄文人は自然と一体になって生活していたと思われます。



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  • カナダの悲劇 中国移民に占拠されたバンクーバー


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    池袋チャイナタウンで出されている犬肉の前菜
    犬肉の前菜


    以下は日心会MLからの引用です。

    ~~~~~~~~~~
    【カナダの悲劇 中国移民に占拠されたバンクーバー】

    【投稿者:Tさん】
    正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
    http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3745.html#comment
    超芸術と摩損
    http://blog.goo.ne.jp/publicult/e/f4f0b0377e00cecb18f2d101716c8e20

    かつて日本人商社マンに駐在希望地を聞けば必ずベストスリーに入ったカナダのバンクーバー。
    温暖で風光明媚なこの土地が、中国人移民を受け入れたばかりに、大変なことに。

    パンクーパー市に周辺都市リッチモンドやバーナビー市などを含めた地域は「グレーター・バンクーバー」と呼ばれる。人口は約二百十三万人。
    そのうち約四十万人が中国系移民だ。

    なかでもリッチモンド市は人口の半数かそれ以上を中国系が占めている。
    すでに街の看板は中国語がメインで、英語の方が小さい。

    元日系スーパー「ヤオハン」の買い物客や、フードコートで軽食を取る人たちの九九パーセントが中国系という有様だ。

    ところが、五輪バブルが吹き荒れたこの数年は、「中華料理店が香港系から上海系、北京系に移りつつある」と言われ、中国大陸からの移民が幅を利かせている。

    そして、彼らが来たことで、かつて商社マンの駐在希望地の上位に必ず入っていた、バンクーバーの街が大変貌を遂げた。

    「交通事故が増えた」

    そう顔をしかめるのは、三十年近くリッチモンドに暮らす日本人。最近起きた事件について話してくれた。

    「中国で贈収賄の容疑をかけられ、大金を抱えてリッチモンドに逃げ込んできた中国人親子がいます。
    ボンクラ息子はBMWを買ってもらい、同じような中国人の仲間と、夜中にカーレースをやり、途中で、警察官をひき殺してしまったんです。
    これまで、平和で安全だった街が……と、住人らは少なからずショックを受けました」

    中国系の移民たちは、免許証は賄賂を渡して買うものだと思っているから、交通ルールを覚えようとすらしないのだという。

    「運転が荒いので、すぐ中国系だと分かる。急にUターンするからそれを阻止するため、大通りの真ん中に花壇ができたほどです」(地元住民)

    ぶつけられでもしたら、もっと大変。

    「一族郎党、現場にいなかった人間までが目撃者として警察に出頭し、まことしやかにウソ証言をする」(同前)

    公営プールでも近年、シャワールームが大混雑するようになった。原因は中国系の「入浴」。

    「石鹸、シャンプー&リンス、歯磨きセットを持参し、素っ裸のまま体をゴシゴシ荒い、歯をガシガシ磨くんです。

    後ろに長蛇の列ができてもおかまいなし。白人系の人が、『いい加減にして!』と怒鳴っても、しらんぷりです」(バンクーバー在住の日本人)

    トイレ問題も浮上。

    あるビルのトイレに貼られたポスターは、便座の上に靴のまましゃがんで用を足しているイラストと、その上に大きなバッテン印が。

    「中国人は洋式トイレで用が足せないらしく、便座の上にまたがってやるから、便座に靴跡が残るんです。さらに、水洗の習慣がないので、流さないから、トイレが異様に汚くなる」(ビル管理会社関係者)

     最近は、かつての「出稼ぎ」移民とは異なる、「投資移民」が目立つようになっている。とすれば一定の財産を持った富裕層も増えているはずだが、「衣食足って礼節を知る」とはいかないようだ。

    ここ数年、偽造の紙幣やカードが使われる事件も多発し、偽札鑑定機を導入したともいう。

    彼らの流入で、確かにカナダ経済は活性化した。特に不動産はバブルを引き起こし、〇二年から昨年末までの五年間は、カナダ有史以来の未曾有の上昇率を記録。平均二倍以上に跳ね上がっている。

    しかし、副作用も大きかった。それは、街並みが変化し、汚くなったということだけではない。民主主義国家であるカナダでは、市民権を獲得しさえすれば、政治の世界にも口出しできるからだ。

    バンクーバー島の南端、ビクトリア市の市長は中国系、リッチモンド市の地元有力議員も中国系で、国政にもかかわっている。

    「中国語なまりのすごい英語でも、選挙に勝てる。数の論理に愕然とした」(白人系カナディアンを夫に持つ日本人女性)

    また、某メーカーの日本人女性社長はこう警鐘を鳴らす。

    「日本人は順法精神があり、その国のルールを守る反面、『政治はお上に任せればいい』という考えで参加しない。
    中国系はそうではない。
    やりたい放題やっておいて、自分たちがマジョリティになると、こんどは自分たちに都合のいいルールを決めて、押し付ける。
    いまや人数も増えており、同じ利益に向かって団結するため、カナダ社会の影響力も増している」

    そのいい例が、あるマンションのオーナー組合に起きた異変だ。

    このマンションは毎月の共益費だけで千ドル(約十万円)を越える高級マンションで、もともと、白人系富裕層が主な住民だった。

    「そこに中国系住民が入ってきたのですが、ゴミを踊り場に雑然と放り出したり、外からの美観を考えて、窓は白いカーテンかブラインドと決められていたのに、勝手に真っ赤なカーテンを下げたりして、組合で問題になっていました。

    しかし、彼らは聞く耳を持たなかった。

    それが、どんどん中国系住民が増えた結果、ある日、オーナー組合の過半数を抑えてしまい、マンションの内規を変えてしまったのです。

    共益費はカット、それまでいた管理人もクビ。

    たまりかねて、白人系の住民は出て行ってしまった」(前出・大手不動産仲介業者)


    同じことが、政治レベルでも起きる可能性がある。

    「中国系議員は、金持ち優遇政策を考えているだけ。
    自分みたいな庶民には、だから関係ない」

    こう語るのは、日本で映像カメラマンとして数年間働いた後に「パスポートを求め」てカナダへ移民した北京出身の中国人。

    数の論理でムリを押し通す中国人のやり方は、一党独裁の中国にいたときには通用しなかったのに、民主主義の発達したカナダに来れば、まかり通ってしまう。

    北京五輪と二〇一〇年の上海万博を無事に成功させてあげることで、中国が先進国の仲間入りを果たし、日本にとっても付き合いやすい相手になる――そんなノンキなことを主張していたメディアもあるが、それは、あまりにトンチンカンな願望ではないか。

    中国人が豊かになればそれだけ、世界中に「新しい中国」が出来、数の論理とカネの力で災厄を振りまくだけなのである。中国人の世界規模の大暴走は始まったばかりだ。


    日本でも、Chinese旅行客は、温泉の浴場で尿や糞をしている。

    また、日本においても、在日Chineseは年々増加しており、それに伴ってChineseによる犯罪が急増している。

    犯罪者収監率(2005年法務省発表・Chinese犯罪者の人口比率でChineseは日本人の14倍)

    日本人 1万人当たり  5人
    朝鮮人 1万人当たり 34人
    Chinese 1万人当たり 76人


    既に、Chineseによる犯罪が日本の治安を大きく悪化させているが、連中は大きな犯罪を犯すときには「ヒット・アンド・アウェイ」ですぐに日本を脱出するため、なかなか検挙できない。

    日本におけるChinese犯罪者集団は組織化しているうえ、日本の暴力団とも手を組むようになっているので、益々厄介になっている。


    また、元東京大学教授の酒井信彦先生は、Chineseを「史上最悪の外来生物」といい、「チベットや東トルキスタンでは、大東亜戦争における日本人戦没者を遥かに上回る比率のチベット人やウイグル人が、Chineseによって虐殺されている。

    Chinaは、日本に対する精神侵略を完了し、人口侵略を本格化させ、日本民族を抹殺しようとしている」と警告している。

    ■新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
    ●精神侵略→人口侵略→軍事侵略の流れについて
     民主主義では人口は武器

    第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
    第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
    第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
    第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
    第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
    最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」

    いま日本は、まさに「最終段階」に差し掛かろうとしている。


    【「中国城」と呼ばれる東京池袋】

    せと弘幸Blog『日本よ何処へ』
    http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52436223.html

    Chineseは勝手に入り込んで来て、自分たちの居住区を作ろうとしています。

    そして一番始末が悪いのは昔からそこに住んでいた日本人に対して、ここにチャイナタウンを作るから邪魔なら出て行けと言わんばかりの態度を取ることです。

    彼らは用意周到に動いています。

    先ずはChineseやChina在留孤児の2世・3世でなる犯罪組織のチャイナマフィアを送り込み、犯罪多発地帯の暗黒社会の出現を狙っています。

    地域住民に恐怖感を植え付け、そして追い出してそこに「中国城」を建設しようと動いているのです。このような悪辣なるChineseの野望を何としても粉砕しなければなりません。



    投稿掲示板にも次のような書き込みがありました。

    139 : Eさん(東京都):2010/02/15(月) 22:27:54.59

    地元民からの情報提供

    東京都豊島区池袋の実態。数字は嘘をつかないよ。もうすっかり池袋はというか、豊島区は犯罪の巣窟と化していて 日本人は逃げ出しているのさ。

    変わりに中国人が大挙して押し寄せてきている。

    とにか平日の日中でも中国人二人 組みで住宅街をぶらついて私道に入ったり家を覗きこんでいたりと大変なのさ。

    池袋警察署は人権団体かなんかに目を付けられているのか、まともに取り締まってくれないし。交番は廃止にするし。

    正規の外国人登録者数で、不法入国、不法滞在者はこの何倍もいるわけよ。
    もうね、泣くよ夜は怖くて。

    広報としま10月25日
     人口と世帯

    ・日本人区民人口 244580人(-23)
    ・外国人登録人口 18324人(+180)

    広報としま11月25日
     人口と世帯
    ・日本人区民人口 244606人(+26)
    ・外国人登録人口 18685人(+361)


    【投降者:Wさん 2010/02/18】
    池袋駅の北口付近などは、本当に酷い状況ですね!!

    出口階段の真ん中に、どデカイ荷物を置いて平気で話し込んでいるシナーなどが、しょっちゅう見られます。

    「邪魔なんだよ!」と言っても。。。。。。

    通じない!!!!!!!!

    ミンスの奴ら、本当にこの状況判ってるのかよ!!!!!!

    って、望んでるのか。。。。。。。。。


    【投稿者:Tさん 2010/02/19】
    15年以上もまえに、シアトルとバンクーバーに行きました。

    中国人が「人種差別するな」のプラカードを持ったデモ。
    差別 されて当然です。

    とにかく、総てにわたって汚いの一言。

    彼らが棲み付いた住宅街、商店街の汚さ。 中国人同士での妬み、内ゲバなどは日常茶飯事です。
    なにしろ、他人を騙して生きていくのが彼らの生活ですから。

    トロントも同じ状態でしょう。

    私が住むテキサスでは、ヒュース トン、ダラス、サンアントニオ~~~などなど。 

    小さい時から、日本や欧米でそれなりの教育を受けてきた者は別格ですが、それ以外は絶望的です。

    彼らの生態について、書き出したらきりがありません。 

    ~~~~~~~~~~~

    こうした情報は、政府内部において、ポッポ総理にもちゃんと伝えられています。

    ところが、ポッポ総理・・・

    「ボクちゃん、そういうことね、聞きたくないのぉ」
    と、まるで聞こうとしない・・・そうです。


    かつて、「売国奴」という言葉は、日本国内において右寄り言葉であり、そういう「差別用語」は使ってはいけない、などと言われていた時期がありました。

    しかし、あえて言います。

    「日本国内に巣食う売国奴を許すな!」

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  • 【拡散希望】子供手当が在日外国人の母国に残した子供にも出る?!


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    【拡散希望】日心会MLから、レックスさんの投稿です。

    ~~~~~~~~~~~
    【子供手当が在日外国人の母国に残した子供にも出るって】

    恥ずかしながら最近そうだと友人から聞いて唖然としてしまいました。

    それでも信じられず厚生労働省に電話で聞いたのですが、実子は当然、養子でも要件(書類など)さえ整えば貰えるそうです。

    平均月収が2万円、3万円って国もありますよね。

    少し前に聞いた時は「日本に住んでいる子供だけ」って言ってたのに…

    そういえばフィリピンパブの経営者が、従業員のフィリピン女性を健康保険に加入させて自国で出産したとして一人当たり35万円の出産還付金を請求して、総額2800万円の詐欺をしたってニュースがありましたね。

    全部、私達の税金からなんですよね。

    この件があまりにもショックで、厚生労働省の雇用均等児童家庭局の児童手当管理室に電話しちゃいました。

    で、更に詳しく聞きました。

    在住外国人は永住権を持ってなくてもOK。
    おもに一年以上在住してること。
    日本にいる在住外国人の子供は当然で、母国に残した子供もです。


    「条件は?」と聞いたら、

    ・定期的に仕送り
    ・定期的に母国に帰って会っている(別段、何か月に一回とか決まりはなし)
    ・定期的に電話、メールでもよい
    ・養子の子供でもよい・・・

    手続きは各市町村が行うそうです


    国によっては2~3万の月収で生活できる所もあるよね~

    それで子供が10人って言ったらすごいお金だよね~

    それって私達の税金だよね~

    ってねちねち聞いたら、これは暫定的で、23年度から正式になるので、その時にあまりの負担なら、在住外国人への手当は廃止になるかもしれませんって言ってましたが、そんな事できる訳ないと思います。

    ちなみに、被爆者援護法には国籍要件がないということで、韓国に住む韓国人やオランダに住むオランダ人にも被爆手当が支給されます。

    従前は通達により居住要件が必要で、日本国外に出た場合は支給打ち切りになりましたが、それは違法ということで今は支給されています。

    しかも海外からの申請も可能ということで去年海外から申請があり市役所の職員がわざわざ海外に調査に行きました。

    日本は原爆を落とされた国です。

    なぜ日本に出稼ぎに来ていた韓国人被爆者にお金を支給しなければならないのでしょうか?
    欲しけりゃ原爆を落としたアメリカか自分の国である韓国政府に要求すればいいのに、それだけは絶対にせず日本政府に要求します。

    また、左翼団体が日本政府を徹底的に批判します。

    60年以上も自国民を見殺しにしていた韓国政府を批判することはありません。

    それでも日本政府は韓国人被爆者にお金を支給し続けなければなりません。

    理由のすべてが「被爆者援護法に国籍要件がない」ということです。

    ~~~~~~~~~~~~

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    外国人参政権~オランダの悲劇


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  • 今日は竹島の日!


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    竹島
    竹島の写真


    2月22日は竹島の日です。
    みんなで、島根県に祝電または応援FAX、メールを送ろう!!

    ●祝電の送り先/2月22日必着
     〒690-8501
     島根県松江市殿町1番地
     島根県庁総務部総務課御中

    ●FAX:0852-22-5911
    ●メール:webmaster@pref.shimane.lg.jp

    そもそも竹島問題と言うのは、どういう問題なのか、ここであらためて振り返ってみたいと思います。

    下の図をみたらあきらかなのだけれど、島根県から朝鮮半島までの間には、「隠岐」→「竹島」→「鬱陵島」→「高島」があります。

    この中で人が住めるだけの広さを持っているのは、「隠岐」と「鬱陵島」だけです。「竹島」は岩礁であり、「高島」は環礁です。

    鬱陵島と竹島
    鬱陵島と竹島


    日本には、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している古地図が多数あります。
    たとえば長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(安永8(1779)年)他、です。

    これに対し、韓国が古くから「竹島」を認識していたという根拠はありません。

    朝鮮の古文献、「三国史記(1145年)」には、于山国であった「鬱陵島」が、512年に新羅に帰属したという記述はあります。
    しかし、現在の「竹島」を意味する「于山島」に関する記述はありません。

    そして古文献中にある「于山島」の記述には、その島には「多数の人々が住み、大きな竹を産する」等と書いてあります。
    「竹島」は岩礁ですから、記述の内容からして、これは明らかに「鬱陵島」です。

    韓国では、古地図に「竹島」の記載があるなどと言っていますが、その根拠となっているの「新増東国輿地勝覧」に添付された地図には、「鬱陵島」と「于山島」が別個の2つの島として記述されているけれど、そこに描かれた「于山島」は、「鬱陵島」とほぼ同じ大きさで、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置しています。つまり、全く実在しない島です。


    日本では、元和4(1618)年、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛が、米子藩主を通じて幕府から竹島への渡海免許を受け、以降、毎年「鬱陵島」に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等をしています。

    両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて竹島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行ないました。

    両家は、隠岐から鬱陵島へ漁に行く航行の目印として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として、「竹島」を利用しています。

    このことは逆にいえば、日本は、遅くとも江戸時代初期には、竹島の領有権を確立していたということを示します。

    当時、日本は、鎖国していたのです。
    もし、鬱陵島や竹島を幕府が外国領であると認識してなら、そこへの日本人の渡航は禁止されています。
    そうした措置が行われず、両島で将軍家に献上するあわびを獲っていたということは、この時点で日本が「鬱陵島」も「竹島」も、日本の領土という認識に立っていたとことを表しています。


    ところが、江戸中期の元禄5(1692)年になって、事件が持ち上がります。

    村川家が鬱陵島に行くと、多数の朝鮮人がそこで漁業を行っていた。
    困ったことだと思っていると、翌年には、大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇した。

    大谷家は、安龍福(アンヨンボク)、朴於屯(パクオドゥン)の2名を捕獲し、日本に連れ帰ります。

    当時、李氏朝鮮は、朝鮮国民の鬱陵島への渡航を禁じていたのです。
    つまり、安龍福らは、不法に我が国の領海へ侵入していた。

    本来なら、不法に入国した者は、その場で打ち首にされてもおかしくはない。

    日本人はやさしいのです。二人を鹵獲(ろかく)し、連れ帰った。

    当時、対朝鮮外交と貿易の窓口は、対馬藩が担っていました。

    対馬藩では、幕府と協議し、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求します。

    二人の命を助けただけでなく、日本側の旅費で、朝鮮まで送り届け、話し合いで問題の解決を図ろうとした。いまも昔も日本人の行動は変わりません。

    ところが、当時の朝鮮は、言を左右にしてこれに回答しないのみか、逆に欲をかいて突然「鬱陵島は、朝鮮の領土である」などと言い出した。

    対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、元禄9(1696)年1月、「鬱陵島」には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離から見ても、領土として争いをするだけの意味はない。無用の小島をめぐって隣国との好(よしみ)を失うのは得策ではない、と判断し、朝鮮との友好関係を尊重して、日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えます。

    簡単に言ったら、「鬱陵島」を朝鮮にあげることで両国の和平を図った。(竹島ではありません。「鬱陵島」を渡したのです)

    当然のことながら、幕府は、このとき「竹島」への渡航は禁止していません。
    つまり、幕府にしても朝鮮にしても、当時の認識としては、「竹島」は日本固有の領土であるという認識に立っていたことになります。


    ところが、ここでやっかいな問題が発生します。
    先に捕まった安龍福です。

    幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来します。

    あたりまえのことですが、彼は、また捕まる。

    日本は、安龍福を、再度、朝鮮に送り還します。

    朝鮮に送り帰された安龍福は、朝鮮による「鬱陵島への渡航の禁制」を犯した者として朝鮮の役人に取り調べを受けます。

    当時の李氏朝鮮の取り調べは過酷です。日本とはわけが違う。
    日本では、外交問題に発展してはいけないからと、安龍福らに、たらふく飯を食わせ、布団に寝かせて風呂も入れてやって、やさしくしたけれど、朝鮮の取り調べは、白状しなければ、全身の骨を一本ずつ折る。ムチは肉を切り裂く酷いモノが使われる。

    「なぜ鬱陵島に渡航したか」との朝鮮役人の問いに、
    拷問に恐怖した安龍福は、言うにことかいて、

    「日本に行った際、鬱陵島と竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府からもらった。
    その書簡は、対馬の藩主に奪い取られたのだ」などと、デタラメの供述をします。

    当時の朝鮮の役人がそれを朝鮮の役人が信じたかどうかは知りません。
    ただ、記録には、安龍福がそう言ったと書き残されている。

    当然のことですが、日本側の文献には安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、そのような書契を安龍福に与えたなどという記録はまったくありません。
    そもそも国の正使でもない一介の漁民に、幕府が領土を与える云々の国書を託すなど、常識で考えたってありえない。稚児にだってわかる話です。

    さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際、
    「鬱陵島には多数の日本人がいた」と述べたとされています。

    ところがこの来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことです。
    当時、大谷・村川両家とも、渡航を控えている。

    安龍福の供述は、現在の韓国の竹島に関する領有権主張の根拠の1つとして引用されています。

    しかし、安龍福に関する李氏朝鮮の官憲による文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調を受けた際の供述です。

    当時の李氏朝鮮が、取り調べに際して、およそ人間の所業かと疑うほどの拷問を課していたことはよく知られた事実です。

    安龍福が、拷問に恐怖して「アイゴー!」とばかり、デタラメな供述をしたことは想像に難くなく、実際、安龍福の供述には上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られます。

    そういうまさに「人権無視」の取り調べによってなされたいかがわしい供述さえも、竹島領有権の裏付けとしようとする現代韓国の底意地の悪さが感じられる事実です。

    ニホンアシカ  
    学名(Zalophus californianus japonicus  )
    ニホンアシカ


    竹島でニホンアシカの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことです。

    しかし、間もなくあしかは過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、明治37(1904)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注:竹島の洋名「リアンクール島」の俗称)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ています。

    日露戦争のまっただなかの時代に、ニホンアシカの絶滅を防ぎ、保護と確保の両方を一元的に管理しようとしたのです。

    中井養三郎の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取し、「竹島」を隠岐島庁の所管とすること、名称は「竹島」が適当であるとします。

    これにより、日本政府は、明治38(1905)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定め、正式に「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えます。

    この閣議決定によって、我が国は「竹島」領有を再確認したわけです。

    島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、同年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えます。これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられています。

    島根県庶第十一号
    島根県庶第十一号


    これを受けて島根県知事は、竹島を官有地台帳に登録するとともに、ニホンアシカの捕獲を許可制としています。
    ニホンアシカの捕獲は、その後、大東亜戦争開戦の昭和16(1941)年まで続けられました。

    大東亜戦争終戦後、連合国は占領下の日本に対して、政治上または行政上の権力の行使を停止すべき地域、また、漁業及び捕鯨を行ってはならない地域を指令しました。

    世にいうマッカーサー・ラインですが、その規定には、「これは領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」と記載されています。

    関連する連合国総司令部覚書(SCAPIN)の概略は以下のとおりです。

    ~~~~~~~~~~~
    【SCAPIN第677号】

    一部の地域に対し、日本国政府が政治上または行政上の権力を行使することを暫定的に停止する。

    (ロ)この指令において日本とは、日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)及び約一千の隣接諸小島であり、日本の政治上・行政上の権力を行使しうる地域に「含まない」地域には、鬱陵島や済州島、あるいは伊豆、小笠原群島等に並んで、「竹島」も含む。

    ただし、この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない。
    (ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されています。


    【SCAPIN第1033号】

    1946(昭和21)年6月、連合国は、いわゆる「マッカーサー・ライン」を規定する。

    日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならない。
    またこの島との一切の接触は許されない。

    ただしこの許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。(第5項)


    【マッカーサー・ラインの廃止】

    マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。

    韓国側は、上記SCAPINをもって、連合国は竹島を日本の領土と認めていなかったとし、韓国による竹島の領有権の根拠の1つとしていますが、いずれのSCAPINにおいても領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと「解釈してはならない」と明示されています。

    つまり、韓国の主張は、まったく的を得ていません。

    日本は、昭和26(1951)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約で、領土を確定します。

    ここでは、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定されました。

    この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しています。

    その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。

    この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答しています。

    ~~~~~~~~~~

    合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。

    ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。

    この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。」

    米国は、韓国の主張を「明確に否定」したのです。


    これには実は伏線があります。

    米軍が、昭和26(1951)年7月、爆撃訓練区域に「竹島」を指定しているのです。
    根拠となるのは、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号です。

    そして米軍は、サンフランシスコ平和条約発効直後の昭和27(1952)年7月、引き続き竹島を訓練区域として使用することを希望し、日米行政協定によって竹島は在日米軍の爆撃訓練区域のひとつとして指定しています。

    しかし、竹島周辺海域におけるあしかの捕獲、あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること、また、米軍も同年冬から竹島の爆撃訓練区域としての使用を中止していたことから、昭和28(1953)年3月には、日米合同委員会において、同島を爆撃訓練区域から削除することを決定している。

    日米行政協定によれば、日米合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関として任務を行う」とされています。

    つまり、竹島に関して日米合同委員会で協議され、かつ、在日米軍の使用する区域としての決定がなされたということは、とりもなおさず竹島が日本の領土であることを証明しているといえます。


    ところが、いちどは北朝鮮の南下によって韓国最東南端まで追い詰められ、旧帝国軍人によってようやく巻き返しができた韓国初代大統領李承晩は、「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張し、そのライン内に竹島を取り込みます。

    この結果、昭和28(1953)年3月には、韓国漁民が不法に竹島領海域に進出し、これに注意を促した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国軍によって銃撃されるという事件が発生します。

    さらに昭和29(1954)年6月には、韓国内務部が韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣します。
    そしてこの年の8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃される。

    さらに韓国は、現在も引き続き警備隊員を竹島に常駐させ、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。

    「李承晩ライン」は、公海上における違法な線引きです。
    国際法上何ら根拠がない不法占拠です。

    韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。

    そして彼らは、武力を用いて、誰がどうみても日本固有の領土といえる土地と海を、自国ものと主張し、占有しています。

    これに対し、日本は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張や、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等について、累次にわたり抗議を続けています。

    そしてこの問題の平和的手段による解決を図ろうと、昭和29(1954)年には、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所で争おうと韓国に提案しています。

    その後も、なんどとなく日本は国際司法裁判所付託を韓国に提案しているけれど、韓国はこれを拒否している。

    ここに大きな問題があります。

    「国際司法裁判所」というのは、紛争の両当事者が同裁判所で解決を求めようという合意があって初めて動き出すというものだということです。

    ですから日本が一方的に提訴を行ったとしても、韓国には裁判に応ずる義務はない。

    韓国が自主的に裁判に応じない限り、国際司法裁判所での裁判は行えないのです。

    これは、国際社会というものが、それぞれ独立した主権を持った国であるという大前提を理解しなければならない。

    昨今、地方主権だの主権在民だのという言葉が勝手に一人歩きしているけれど、主権というものは、かくほどまでに強力な権利なのです。

    領土問題(竹島)問題の解決方法は、ひとつだけ。

    すなわち、韓国が竹島をこのまま不法領有するのなら、日本は韓国に対し宣戦を布告し、韓国民を皆殺しにするぞ、という覚悟と、それを実現するに足る軍事力の裏付けを持ち、外交努力によって世界を日本の味方につけ、韓国に戦闘の援助が起こらないようにする、それだけです。

    それが現実です。

    そしてそれくらい確固たる信念を持った政治体制を持たなければ、逆にまじめに生活している日本国民が、韓国という仁義のない極道国家に呑みこまれてしまうということです。

    政治というのは、バランスです。

    右寄りに行きすぎれば、左に舵を切らなければならない。
    昨今のように、左に舵がきられすぎて、日本人の安全が脅かされるような現況下では、むしろ右寄りに極端といえるくらい大きく舵を切らなければならない。

    考えてみると、日本はロシアの南下策に対抗するために行った日清戦争で、あれだけの戦果をあげておきながら、文民統制の名のもとに、ボヤボヤしている文民のおかげで、結局最後には武人(軍)が膨大な命を捧げて日露戦争を戦わざるを得なくなった。

    国際法上、正当な権利を有して外国人租界に駐屯した日本人が、文民統制という美名のもとに、何も決めれず、なにもしなかった政府のおかげで、多くの日本人がChinaで残虐な犠牲に遭い、結局は北支事変、上海事変と最後は武人(軍)が多くの命を捧げて戦わざるを得なくなった。

    第二次上海事変など、文民たちが愚図愚図している間に、2万か所ものトーチカをChinaに作られ、結果、帝国軍人が1万人も尊い命を犠牲にせざるを得なくなった。

    日本人が、やさしくてきれいごとを主にしたい民族であるということは、たいへん誇りに思うことです。

    しかし、そういう日本人を護りぬくためには、政治はきれいごとではなく、必要なときには、素早く大きな鉄槌を下せるだけの体制がなければ、正義は守れない。

    考えてみると、江戸300年の太平は、武人統治によってもたらされています。

    日本は、文民統制は不向きな国かもしれません。
    すくなくとも、「いざというときの覚悟」を持った武人政治のほうが、「話し合い」を最終兵器と考えて、なにひとつ決めれない、なにひとつできない文民政治よりは、はるかにマシなのかもしれない。
    最近、そんなふうに思います。


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    【竹島問題】仮想敵国は日本!


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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