• 児童虐待の原点


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    縄文時代の遺跡など


    2010/03/28の産経新聞一面の「古典個展」、立命館大学教授加地伸行氏のコラムからの紹介です。
    加地氏は、昨今の児童虐待について述べておられます。

    ~~~~~~~~~~~

    (前略)
    あの子たちの恐怖の毎日を思うと、救うことのできなかった私ども大人の罪は重い。

    これらの事件を特殊個別的なものとすることは、私にはできない。

    戦後教育、わけても義務教育において、東北アジアにおける死生観の<私たちの生命は、祖先以来の生命の連続として存在する>という儒教的伝統をほとんど教えてこなかったことに根本的原因があると私は思っている。

    戦後教育の柱は、個人主義の涵養にあった。

    しかし、自律的にして自立的な個人主義者を生むことはできず、個人主義者とは以て非なる利己主義者をひたすら生み出すばかりであった。

    欧米人が個人主義教育を可能にし実現してきたのは、ともすれば個人主義の自律からはずれようとする人間に対して、それを許さぬ抑止力として、唯一最高絶対神を置いていたからである。

    それに対し、われわれには個人主義という思想はなかった、

    東北アジア流に自律してきた。
    それが可能であったのは、われわれ凡人への抑止力として、それぞれの祖先を置いたからである。

    「御先祖さまが許さぬ」という、われわれの抑止力はかつては生きていたのである。
    それは儒教的な死生観なのであるが、今日では、日本仏教の中に融合されている。

    戦後教育においては、祖先という抑止力を教えてこなかったため、抑止力なき個人主義教育からは、ただ利己主義者を生み出すのみとなった。

    そういう利己主義者が頼るのは金銭だけである。
    祖先も、祖先以来の生命の連続の大切さ、厳粛さも分からない。

    ひたすら求めるのは日本国憲法の「婚姻は両性の合意のみに基づく」夫婦の幸せだけであり、子を虐待し<殺人>して恥じぬ人間の屑が生まれてきたのだ。

    ~~~~~~~~~~~

    以下は、日心会のMLでkiyoppyさんが投稿された文章です。

    ~~~~~~~~~~~

    ほぼ全文の紹介になってしまったが、わたしはどうしてもこの名文を紹介せずにはいられなかった。

    わたし自身も、この幼児や児童の虐待死事件についてははらわたが煮えくり返るような思いでいました。
    人のすることとはとても思えぬ異常な事件がまるで日常茶飯事のようにニュースで取り上げられている。
    いったい、この国はどうなってしまったのかと。

    手前味噌になりますが、以前にこの幼児虐待をテーマに短編小説を書いたことがあります。
    ある幼児の虐待死事件を知ったときから、どうしても書かずにはおられなかった。

    わたしは、加地氏のように丁重に幼子を悼むことはできなかった。
    しかし、少なくとも今のわたしの気持ちとしてはこの児への弔いになったのではないかという気がしています。

    それにしても、流石というか、加地氏の明晰な頭脳がなぜこのような悲惨な事件が起こるのかについて見事に解析してくれた。

    やはり、今の教育のあり方が日本を斯くも無残な姿にしてしまっているのです。
    学校教育と家庭における教育、この二つがともに本来の日本人を育てるべき教育から大きく逸脱してしまった。

    さて、原因は明らかになったわけです。

    わたしたちはこの歪んだ日本人をだめにする教育に意義を唱え、たとえ一歩ずつの緩やかな歩みであっても真の日本人の在り様を目指す教育を進めていきましょう。

    ~~~~~~~~~~~~

    ボクもまったく同感です。

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    「日教組に教育されている子供達の現状」


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  • 【拡散希望】「これから、子ども手当でどれぐらい費用かかるか試算します」…菅直人財務相


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    菅直人国家戦略居眠り大臣
    菅直人国家戦略居眠り大臣


    「これから、子ども手当でどれぐらい費用かかるか試算します」…菅直人財務相

    ★結果次第で見直し?6月までに子ども手当試算

    菅財務相は23日の閣議後の記者会見で、政府が6月までに行う2011~13年度の歳出と歳入の見通しを示す「中期財政フレーム」の取りまとめにあたり、子ども手当の支給額や財源などを試算する考えを示した。菅財務相は「マニフェスト(政権公約)通りに実行すればどのぐらいの費用がかかるか、逆にそれが難しいとなった時に、例えばどのぐらいであれば税との関係がどうなるかなどを想定して試算する」と語った。
    民主党は10年度は月1万3000円を支給する子ども手当について、11年度からは月2万6000円に引き上げると公約している。満額支給には約2兆5000億円の新たな財源が必要になることから、試算の結果によっては見直し論議につながる可能性がある。

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100323-00000456-yom-pol

    は? これから? まだだったの? 本当に?

    国民は怒れ!!!
    国民は怒れ!!!
    国民は怒れ!!!


    ※ちなみに↑のyahooヘッドラインニュースは、なぜかこの記事表示後、しばらくてし消されてしまっています!

    ■ 子ども手当法案の問題点総まとめ

    【丸川無双】2010/3/17 参・本会議 自由民主党 丸川珠代議員
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm10058173
    子ども手当法案の問題点が浮き彫りで分かりやすく、また、特に外国人への支給に対する日本国民の怒りが的確に表現されています。

    2010/3/10 衆議院厚労委・棚橋初代無双(自由民主党・改革クラブ)
    1 http://www.nicovideo.jp/watch/sm9979035
    2 http://www.nicovideo.jp/watch/sm9979150
    3 http://www.nicovideo.jp/watch/sm9979264

    日本の民主主義の終焉2010/3/12子ども手当法案強行採決
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm9998438

    全質疑
    2010/3/12田村議員質疑打ち切り強行採決!1/3
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm9999578

    2010/3/16衆院本会議 子ども手当反対意見・田村憲久
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm10047029

    三重県松坂市長が 「天下の愚策」 と明言した子ども手当法案
    3月9日厚生労働委員会、山中光茂(参考人 三重県松阪市長)
    http://www.youtube.com/watch?v=PIOzyIlGO5Q&feature=player_embedded
    http://www.youtube.com/watch?v=nMIRryI3o1k">http://www.youtube.com/watch?v=nMIRryI3o1k


    情報弱者の御近所の主婦、会社の同僚、お友達を怒らせましょう!!


    「民主党は まだ試算もしていないのに子ども手当を出すらしいよ」
    「不足分は、増税とか借金でするらしいよ」
    「なんで日本人のお金で海外のの子供を面倒みないといけないの?」

    日本中が大騒ぎになれば、子ども手当を止めれる!
    平和ボケ 情報弱者もお金のことなら、話を聞いてくれる!
    平和ボケ 情報弱者を怒らせよう!!

    ~~~~~~~~~~~

    本件に関連し、日心会MLにある会員さんが書いてくれたことです。
     ↓↓↓
    ~~~~~~~~~~~

    今日、用事で市役所に行ったら「外国人登録」の窓口がものすごい人数の人達が待ってて、これはもしや子供手当の請求者達なのか!と思い、その中の日本語が話せる方に「通訳の方ですか」と話しかけました。

    そしたら留学生の人達の一団でした。

    私「子供手当の事ご存じですか?」

    「はい、学校で聞きました」って、いや外国の方が悪いんじゃない。
    日本の政治家が悪いんだが、大学もなにも懇切丁寧に、母国に残して来た子供にもでるなんて教えてるんじゃねぇ~よ(心の声が思わず…)

    タイの真面目そうな若者達だったが、彼らはきっと不正な養子なんてしないと思うが、いやそう願いたいのだが、何故か複雑な気持ちになりました。

    参政権にしても子供手当にしても、野放図に与える事で、日本人と、外国人とで変な対立が生じるんじゃないかと感じました。

    ~~~~~~~~~~~

    「これから、子ども手当でどれぐらい費用かかるか試算します」なんて、いまさらトボケタこと言ってんじゃない!!と怒った方
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    【子供手当て驚愕の真実】


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  • 在日朝鮮人


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    李氏朝鮮時代の南大門
    李氏朝鮮南大門


    日心会のMLのなかで、asahi.com のなかの My Town 山口 で紹介された「外国籍 残る不平等 【山口と半島(中)】という記事について議論になりました。

    ちょっとおもしろいのでご紹介します。

    ~~~~~~~~~~
    外国籍 残る不平等 【山口と半島(中)】
    2010年03月22日
    http://mytown.asahi.com/yamaguchi/news.php?k_id=36000001003230006

    「外国籍の人は教員になれない」。美祢市出身で横浜市立高校で国語の教員をしている李智子(リ・チジャ)さん(40)は高校時代の担任の言葉が忘れられない。

    在日3世。小学4年で宇部市に移り、高校まで同市内の公立校に日本人と同じように通った。

    「人に教えること、人とかかわることが好きだった」と、小学生のころから教員にあこがれていたという。しかし、実力ではなく、出自で道が閉ざされることに「そんなのおかしい」と思ったことを覚えている。

    実際、多くの県で1991年までは教員採用試験の受験資格すらなかった。
    それでも大学で教員免許を取り、県内や大阪などの中学や高校の臨時講師を転々としながら「山口で先生をしたい」と思い続けた。

    2003年、33歳で受けた県教委の教員採用試験は不合格。年齢制限で再受験はできず、05年合格した横浜市で正式に採用され、最初は中学校に勤務した。

    本名を名乗るようになったのは、横浜市で教員に採用される前年、大阪で臨時講師をしていたときのこと。

    「昔から自分の歴史に誇りを持ちたい」と思う一方で、生い立ちを隠したい気持ちもあったが、外国籍教員が多い大阪の地域性にも背中を押されたという。

    日常的に使っていた通称名は外国人登録証明書から削除した。
    「本名を名乗るのは、『私はこういう人間です』と初めから主張すること。名乗らないのとは全然違う」。

    昨年、横浜市の中学で初めて担任を受け持った生徒の卒業式でチマ・チョゴリを着た。

    「この年にもなって恥ずかしかったけれど、自分を理解してほしいという思いだった。私たちは日本に生まれて日本で生きるしかないんだから」

    戦後、在日コリアンを巡る法的な地位や権利は時勢に大きく揺さぶられてきた。

    日韓併合で「日本国民」とされたが、1952年、サンフランシスコ講和条約発効で国籍を失い、明確な在留資格のない扱いに。

    その後は段階的に在留が認められたが、将来にわたって日本に住む権利が正式に保証されたのは91年、出入国管理特例法が成立してからだ。

    世代交代で定住が進むにつれて、在日コリアンの権利も拡大した。教員で言えば、国籍条項で受験資格自体なかった県が多かったが、91年、文部省(当時)が「期限を付さない常勤講師」として外国人教員の採用を認め、門戸を広げた。

    現在の李さんも肩書は常勤講師だ。給与や休暇などの待遇は「教諭」と同じというが、校長や教頭、主任などの管理職にはなれないという限界もある。所属する全国在日外国人教育研究協議会では不平等を訴え、制度の改正を求めている。

    民主党は今国会で永住外国人へ参政権を付与する法案の提出を検討している。

    しかし県内を始め、全国の地方議会で法案に反対したり、慎重な姿勢を求めたりする動きが広がっている。

    李さんは「納税の義務は負いながら、税金をどう使ってほしいか表明する選挙に参加できないのはひどい」と考える。
    「帰化すればいいという意見もあるが、それでは問題の解決にならない。出自などではなく、その人がそのままの自然体で認められるのが理想の社会」だと話す。

    ~~~~~~~~~~

    なんか、怖い…

    皆さん…どう思いますか?


    ・・・・・・・・・・・・

    2010/03/25 09:17

    随分、勝手なことを公におっしゃっているのですね。
    この方には、

    「外国人が、日本で、日本人と同等あるいは日本人以上の権利を持つことは、外国人にとっては、『理想』かもしれませんが、日本人には理想どころか、デメリットが大きすぎます。

    生徒の卒業式に教師の立場にある人が、「自分をわかってほしい」からチマチョゴリを着るなんて、ますます理解に苦しみます。日本の学校では黒い服で生徒を送るのが普通です。
    どうぞ、ご自分の国で、理想の国、未来を担う若者を指導し管理職になってくださいな。

    念の為に言っておきますが、朝鮮人だから、管理職になれないのでは、ありません、あなたが、外国人だからなのですよ。」

    とお伝えしたいですね。


    ・・・・・・・・・・・・

    2010/03/25 09:59

    外国人はどの国においても来訪者であって、定住者ではない。何世代もその国に住んでいるからといっても、その国を愛し、守り、命をかけられなければ、その国に住み続ける資格はない。追放すべきである。
    この状態で何世代も続けば、人工的に少数民族を生み出す事になる。

    本題
    その人個人の素質に惚れ込み校長に据えて指導してもらうとかは特例であって、外国籍の者などが制度として、日本の国の元である政治・行政・治安・教育・情報などの管理部門に入るなどは、外国籍に日本国を乗っ取られかねない。現に日本国の動向に影響の大きいテレビ局は乗っ取られているとの話もある位だ。むしろ一般職でも制限すべきだ。

    制度は必ずといってよいくらい悪用する者が現れる。
    なれないのは可哀相とか、同情しますとかの感情や、不公平とか差別しているなどで訴えるのだろうが、キッチリと区別しないといけない。

    外国人参政権問題の別口から攻め込んでいるようにも通じるこの記事は、不快感以上に悪しき意図を感じずにはいられない。

    ・・・・・・・・・・・・・

    2010/03/25 11:10

    教師になりたいならいくらでも手はあるのです。
    まず民族の誇り云々を言いたいなら朝鮮学校の教師になればいい。
    わざわざ日本の学校で教鞭を取ろうとするのは、例によって相互理解という理念を盾にしているのでしょう。

    その場合でも公立ではなく私立を選べばいいはずです。
    人に教え、人と係わることが好きならば、十二分に満足できるでしょう。

    わざわざ日本の地方公務員という制約の多い組織の一員となって個人的な欲求を満足させる必要はないですね。

    本来は認められない教員に採用され、実際に教職願望は満たされているにも係わらず、更に要求を拡大させる。
    これを見る限り、在日朝鮮人が朝鮮籍のまま日本人と同等以上の権利を獲得するために総連民潭が展開してきた利権運動の尖兵役としか思えません。

    上でも皆さんおっしゃってますが、日本の公立学校は日本人の子弟に日本人としての教育を施す場所です。国民では無い者の個人的欲求を無制限に満たすために日本国の税金を使うことはできないのです。
    将来、校長教頭職を目指したいなら、帰化するか自分の国に戻って人材育成に努めてください。

    横浜市も在日の多い場所です。その在日教員が勤める学校は在日子弟の多い場所かもしれません。
    需要があって供給されたとしても、在日と自治体との相当の癒着もあるのでしょうね。

    ・・・・・・・・・・・・・

    2010/03/25 13:30

    今の日本の法律では、永住権のある外国人の配偶者、その子どもは、永住権を得ることが出来ます。
    そしてそのまた子孫も永住権を自動的に得ることが出来ます。
    そしてまたその子孫も・・・と代々外国籍のまま日本に住むことが出来ます。
    そして、その数の制限はありません。

    これは、私が厚生労働省に電話をして聞いた話です。

    そして、毎年その数は増えています。
    移民受け入れをしなくとも、日本に外国籍のまま住める人は増えているのです。
    その数を制限したり、日本に同化してもらう方向で行かなければ、このような問題は、もっと増えていくのではないでしょうか。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    2010/03/25 20:48

    日本の社会を恨み不満を持つなど言語道断。
    恨むなら日本に移り住んだ先祖を恨めと言いたい。

    「日本に生まれ日本で育ち何も変わらないが国籍だけ違う。」
    『だから解って!』とか言われてもそれは個人の我がままでしかない。

    日本を愛してこの国に忠誠を誓うなら帰化すればよい。悲しいかな、帰化条件のハードルは非常に低い。(これは決して望まないが)

    祖国に誇りを感じ、血を誇るなら祖国へ帰ればよい。
    在日には厳しい差別があるだろうが日本のせいではない。在日朝鮮人は祖国から棄民政策で捨てられたのだから。

    「どちらもいやだ。朝鮮人として日本で日本人と同じ待遇で大きな顔で生きていたい。」などというようなことはあり得ない。

    ましてや社会保障は在日のほうが日本人よりはるかに優遇され我々日本人がそのために税金を納めているという実態だ。

    我らは敗戦国だから我慢しなくてはならないなどという理論を持ちだす人も居るが大きな間違いだ。
    祖国の政策を直視せず反日を改めない限り我が国で大きな顔はさせない。

    先ず民団や総連を解体し、従軍慰安婦などと戯言を言っている犯罪者を同胞の責任でやめさせてから言いたいことを言えば良い。

    このようにして在日朝鮮人はコミュニティを広げ日本国内に自分たちの住みやすいリトル朝鮮を作りたいだけのことだ。
    その先にあるものは反日の自治区が日本中に出来るだけのこと。

    北朝鮮が崩壊すれば北鮮人と韓国政府の融和政策に不満を持つ南鮮人が日本になだれ込む。
    法整備の無い我が国は鮮人に食い散らかされることは目に見えている。

    いま国難が目の前にあるのに一切の妥協は許すべきではない。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    2010/03/25 23:57

    一字一句、全てが私の思う処と同じです!
    正に「国難」です!
    できることを、とにかくやりましょう!

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    2010/03/26 17:12

    お久しぶりです。

    日系アメリカ人を見よ。
    彼等は自分の立場をわきまえ、断腸の思いで
    祖国に敵対してもアメリカに根を下ろす途を選択し
    新たな母国のために命を張った。

    しかるに、この朝鮮人の身勝手はどうか。
    皇室、日の丸に敬意を表し、いざとなれば日本のために命をはる覚悟がないのなら
    さっさと朝鮮半島に引き揚げるべきで、帰化などもってのほかだ。

    ・・・・・・・・・・・・・

    2010/03/27 22:51

    出自で差別されたと言う認識は、見当違いです。

    じゃんけんで、パーがグーに勝つのは決め事。何故グーでパーに勝てないのと言っているようなもの。

    人に教える職業に就きたければ方法はいろいろあると思います。
    安定した身分で教員になりたければ話は別ですが。

    差別されたと言う思いがあることに同情はしますが、制度が理不尽だと言う主張は身勝手だと思います。

    韓国や、民潭、朝総の日本、日本人に対する現状を考えると、朝鮮系の人が日本の公教育に携わるなんてとんでも無い話です。

    でもおぞましい現実があるわけですね。
    現実に私の子供が朝鮮系の韓国人に教えられるなんてことになれば、断固反対、抗議します。

    ~~~~~~~~~~~~~~

    みなさんは、どう思われますか?

    【参考記事】
    拡散希望:「朝鮮進駐軍の非道を忘れるな」
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html

    在日朝鮮人は「警戒」を「差別」にすり替える
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-526.html

    関東大震災の記録
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-742.html

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  • 天狗党の乱


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    天狗党の乱
    天狗党の乱


    明治維新を4年後に控えた元治元(1864)年3月27日(新暦5月2日)、茨城県の筑波山で水戸藩の志士達62名が挙兵しました。
    彼らは自らを「天狗党(てんぐとう)」と称し、「尊王攘夷」を旗としました。
    水戸藩は、尾張、紀伊と並ぶ、徳川御三家のひとつです。
    尊王攘夷と聞けば、薩長土肥の幕府と敵対した勢力というイメージを持つ方が多いですが、実は、尊王攘夷の火の手は、徳川側、それも御三家の水戸藩からあがったのです。

    天狗党を名乗った彼らは、筑波山から日光東照宮を目指して進軍しました。
    途中、栃木県の太平山に登り、山頂にある大平山神社に参拝しました。
    大平山神社は、国を太平に治め、社会を平和に導き、家内の安全を守り、商業を繁栄に導き、人々を守護する祈願成就の神様がご鎮座あそばしている神社です。
    そして、大平山から、彼らは四方に檄文を飛ばしました。

    東照大権現(徳川家康)と、大平山の参拝を終え、旧暦の5月末に筑波に戻ってきたとき、天狗党は、総勢1400名の大部隊となっていました。
    大盛況です。天狗党幹部は「真の尊攘ここに結す!」と喜びました。

    ところが、兵の増加はそのまま兵糧(食)と寝所(住)と金子(銭)の手配の増加を生みます。
    このため彼らは、軍用金調達と称して、豪商や豪農のもとに向かいました。
    財貨や食糧を調達するためです。
    そして従わない者や反抗的な態度をする者を問答無用で一刀両断に斬り捨てました。
    それを「正義のため」としました。
    けれど民衆は、次第に彼らを恐ろしい、ただの暴徒としか見なくなったのです。

    天狗党は、京を目指して進軍しました。
    進軍しながら、商家を襲いました。
    結果、天狗党は、幕府による追討の軍勢に追われるようになります。
    そして越前新保(福井県敦賀市)で、説得に応じて素直に投降しました。

    大人しく投稿した天狗党に、幕府は厳罰をもって臨みました。
    352名が死罪、137名を遠島です。
    たいへんな処罰です。江戸全期を通じて最大規模です。
    安政の大獄ですら、死罪はわずか8名です。

    不思議なことに、これだけ大きな乱であった天狗党の乱について、最近の歴史物語や教科書では、まず触れられることがありません。
    おかしな話です。
    尊王攘夷が、親藩である徳川御三家から出て、その御三家の志士達が江戸期最大の懲罰を受けているのです。
    これだけの事件について、何も書かれないことの方がおかしく思えます。

    この事件をきっかけに、薩長や他の尊王攘夷の志士たちは、幕府の大量処刑を目の当たりにすることで、危機感を募らせ、その後、互いの主義主張の細部を越えて、大同団結を図るようになりました。
    そして時代は一気に倒幕へと向かいました。

    水戸・天狗党はなぜ生まれ、いかに滅んだのか。
    江戸時代の思想言論界をリードした水戸藩が、なぜその後、明治政府にひとりの高官も送り出すことができなかったのか。

    水戸天狗党の足跡を追ってみたいと思います。

    ~~~~~~~~~~

    水戸学(みとがく)といえば、ご存知・水戸黄門の水戸光圀(みつくに)が編纂を始めた「大日本史」にはじまる体系的学問で(前期水戸学)、その教科書は、全国の藩校の教科書に採用され、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらしたものです。

    水戸学は、もともとは日本史の修史事業です。
    しかし寛政3(1791)年に、藤田幽谷(ふじたゆうこく)が「正名論」を出してから、単なる歴史研究ではなく「歴史に基づき具体的に行動する」実学としての動きが加速しました(後期水戸学)。

    天保8(1837)年には、大阪で陽明学者の大塩平八郎が乱をおこしました。
    大塩平八郎の主張は、ひとことでいえば、「将軍就任のお祝いするという形式にとらわれ、民の飢えを見過ごすとは何事か!何のためのご政道であるか!」ということです。

    この事件を機に、水戸藩第九代藩主・徳川斉昭は、陽明学への傾斜をいっそう深めまています。
    斉昭は、文理融合・文武両道を強く説きました。
    内心では大塩平八郎を支持していたのであろうと思われます。

    こうした藩公の意向を受けて、水戸藩では藤田幽谷の子、藤田東湖(ふじたとうご)が、日本の建国神話を基に「道徳」を説き、そこから日本固有の秩序を説きました。
    「尊王攘夷」という言葉は、その著作「弘道館述義」の中で、はじめて出た言葉です。

    そして藤田東湖は「尊王攘夷」の言葉のあとに、「神儒一致、文武合併」という言葉を続けています。

     尊王攘夷
     神儒一致
     文武合併

    天皇を尊崇したてまつり、神道と儒学(陽明学)を一致させ、文武合併して夷敵を打ち払い、伝統ある日本文化を保持せよ、というのがその趣旨です。

    こうした水戸思想界の動きとは裏腹に、黒船に惧れをなした幕府は、安政5(1858)年「日米修好通商条約」を、締結しました。
    朝廷の意向を無視して、外国と勝手に条約を結んだのです。
    しかも内容は著しく米国に有利で、日本の国益を損ねました。

    朝廷はこれに激怒したといいます。
    そして水戸藩に孝明天皇の密勅を差し向け、公武合体と攘夷を命じました。
    これを「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」といいます。

    幕府にしてみれば、これはたいへんなことです。
    天皇が幕府首脳陣を飛び越えて、直接水戸藩に密勅を出したのです。
    ウワサを聞いた大老井伊直弼ら幕府首脳は、密勅が倒幕を画策するものであると危惧し、水戸藩に勅書の幕府への引渡しを命じるとともに、「安政の大獄」を行って国内の尊王攘夷派の大弾圧を行いました。

    一方、幕府から勅書返還命令をもらった水戸藩は、藩論が真二つに割れてしまいます。
    穏健派といわれる人たちは、ひたすら幕府に恭順の意を表し、密勅をおとなしく幕府に引き渡そうという。
    尊王攘夷派のひとたちは「勅令こそ守るべし!」と唱える。

    水戸の学問である水戸学は、尊王です。
    なによりも天皇のお言葉を大事にする。
    ですから道理からいえば、尊王攘夷派の言うことが正しいとなります。
    けれど現実論として、それを行えば、幕府と対立することになり、藩公にも責任が及ぶのです。

    「思想」をとるか「現実」をとるか。
    水戸藩は、まさに板挟みとなったのです。

    若侍達は純粋です。
    ですから「思想」に忠実であろうとします。
    言を左右にして、ひたすら幕府にのみ気を使う年寄りたちの姿は、奸族(かんぞく)であり、ヒヒ爺いにしかみえない。

    現実派の爺様たちにしてみれば、思想よりも藩が大事です。
    藩あっての言論なのです。
    そして藩の最大の使命は、藩内の民衆の安寧です。

    噛み合ない両者は、激高し、斬り合いになるところまで過熱します。
    そして結論がでないまま、翌年、朝廷から「やっぱり先の密勅は返してほしい」返納の勅が出されます。
    とりあえずは、水戸藩内はほっと一息です。
    ようやく朝廷へ直接返納することで藩論も統一された。

    しかし、もし万一、返納する密書が途中で幕府に奪われたら、これはたいへんです。
    下手をすれば、水戸藩はおとりつぶしとなる。
    すくなくとも水戸藩の責任は重く追及され、藩公徳川斉昭は引責となり、藩内の尊王攘夷論者は、最大の庇護者を失うことになります。

    これに危機感を募らせた水戸藩士・高橋多一郎らは、覚悟を決め、藩を脱藩し、長岡(現・茨城県東茨城郡茨城町)に集結して、同志・農民など数百人集めました。
    そして長岡宿に、「大日本至大至忠楠公招魂表」と書かれた札を立て、道行く人々の荷物検問を実施したのです。
    江戸への勅書搬入を阻止しようとしたのです。

    慌てた水戸藩の重役たちは、安政の大獄の後、謹慎中となっていた前藩主の徳川斉昭に事情を説明し、斉昭から直接「返納の阻止は天意に反する」と、彼らを説得してもらいます。
    尊敬する斉昭公からの説得で、高橋多一郎らは、検問所を解散しています。

    しかし検問を解散したからとて、尊王攘夷の目的が達成されたわけではありません。すでに横浜などには、多数の外人が上陸し、駐屯しているのです。
    しかも、高橋多一郎らは、すでに藩を脱藩した身となっています。

    彼らは、数日後(安政7(1860)年3月3日)江戸へ出ます。
    そして薩摩藩士と共謀して、尊王攘夷派の弾圧を行う大老井伊直弼を桜田門で暗殺しました(桜田門外の変)。
    さらに竹内百太郎ら水戸を脱藩した浪士37人が、江戸の薩摩藩邸に駆け込み、「我ら、薩摩とともに攘夷の先鋒とならん」という意見書を提出したのです。
    ところが薩摩藩は彼らを拘留し、翌年7月まで勾留したあと、彼らを水戸藩邸に引渡してしまいます。

    9月になると、水戸藩尊王攘夷派の残党のうち、横浜における外国人襲撃(攘夷)を計画する大津彦五郎らが玉造に集合し、隊伍を組んで近隣から金や兵糧を勝手に徴収しはじめます。

    幕府は、関東東北諸藩に命じて騒動に備えるとともに、水戸藩にも攘夷派の解散説得を命じました。
    水戸藩は、尊王攘夷派の信望が厚い武田耕雲斎を藩政に復職させ、彼らの説得にあたらせました。

    日ごろ武田耕雲斎を尊敬していた大津彦五郎らは、素直に解散を承諾します。
    水戸藩は、彼らを捕縛し、獄につなぐ。そして大津ら一党は、次々と獄死させられてしまうのです。

    ちなみに、このとき、一味の中から、上手に捕縛を逃れて逃走した者がいます。
    それが「下村継次」です。
    聞いたことのない名前と思われるかと思います。
    後の新撰組初代組長芹沢鴨です。

    藩の教えに従って、純粋な思いから立ちあがった仲間に対して、藩の対応は何だ!
    武士としての名誉(切腹)も与えず、獄舎内で飢え死にさせる。それが藩の仕打ちか!
    かくなるうえは、我ら自身の手で、攘夷を実現しなければならぬ。

    危機感を強めた水戸の尊攘の志士たちは、文久元(1861)年5月、江戸・東禅寺の英国公使館を襲撃し、館員・警備兵を殺害ししたす。

    当然、英国から幕府に対して厳重な抗議が出ます。
    幕府は、翌月(6月)には、水戸藩に命じ、尊攘派藩士の謹慎を命じる。
    水戸藩は、尊攘派の志士たちを問答無用で投獄します。

    上級藩士なら格別、下級藩士にとって、投獄はそのまま「死」を意味します。
    やむなく彼らは次々と脱藩する。
    そして、文久2(1862)年1月には、江戸城坂下門外で老中安藤信正を襲撃し、負傷させます。

    水戸の脱藩浪士たちが幕府の弾圧に危機感を募らせる一方で、文久2(1862)年夏、薩摩藩公・島津久光の政略によって、尊攘派である水戸の一橋慶喜、越前福井藩・松平春嶽が幕政に復帰しました。
    そして松平春嶽は、将軍家茂に「京へ上洛し、朝廷にこれまでの失政を陳謝せよ」と奏上したのです。
    それまでの二度に渡る勅使によって、幕府も勅命実行の確約(条約破棄+攘夷)を避けられないところまで追い詰められていたのです。

    将軍上洛に先立っては、将軍の後見職にあたる一橋慶喜が先に入京すると決まりました。
    慶喜は、実家の水戸藩に上洛の警護を命じます。
    ようやく、尊攘派のリーダーが、幕政の表舞台に登場できたのです。
    水戸藩に残っていた尊攘派の面々は、こぞってこの上洛に志願しました。

    文久2(1863)年12月、一橋慶喜が江戸を出立します。
    そして9日後、水戸藩主徳川慶篤らも家臣団を連れて江戸を出る。

    家臣団の中には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、尊王攘夷派の主導者たちがまじりました。
    彼らは京において、長州藩士桂小五郎、久坂玄瑞、その他京都に集う志士達と交流を重ね、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとして行きます。
    藤田東湖は、長州藩と図り、東西で一斉に挙兵して幕府に攘夷を迫ろうと計画しています。

    これは時期尚早として武田耕雲斎が諌めて未遂に終わりました。
    けれど藤田東湖の子の藤田小四郎は、「なぜ父上は折角のチャンスを棒に振るのか!」と聞き入れない。
    かくなるうえは、私たちだけででも、攘夷決行を行います!と、ひとり水戸に帰ってしまいます。

    そして、藤田小四郎が、元治元(1864)年3月27日に、同志62名とともに、筑波山に登って結成したのが、「天狗党」だったわけです。

    ちなみにこのとき藤田小四郎は、まだ23歳です。
    そこで天狗党総帥に、水戸町奉行・田丸稲之右衛門(たまるいなのえもん)を迎えました。

    天狗党は、みんなで力を合わせ、亡くなった水戸藩前藩主の徳川斉昭の神輿を作り、これを軍の中心としました。
    自分たちは斉昭の素志を継ぐという意思表明です。
    そして日光を占拠して諸藩を説き、幕府にも建議して、天皇の意思である攘夷を実行させようと決しました。

    そして向かった先が日光だったわけです。
    けれど彼らの行動は、日光奉行によって阻止されました。
    やむなく、大平山にこもって四方に激を飛ばす。
    彼らのもとには、宇都宮藩等から浪士が続々と集結しました。
    こうして天狗党は、総勢1400名にのぼる大部隊となったわけです。

    冒頭に書きましたように、これだけの熱い仲間が集まった!
    天狗党首脳部は、「真の尊攘ここに結す!」と狂喜します。

    しかし、兵の増加はそのまま兵糧(食)と寝所(住)と金子(銭)の手配の増加を生みます。
    彼らは軍用金と称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を奪いました。
    天狗党内部には、こうした暴挙に異論を唱える者もいました。
    けれど、血気にはやった襲撃派は、そうした穏健派を「みせしめ」として問答無用の一刀両断に処しました。

    これによって天狗党の内部には、強い結束が生まれます。
    けれど、民衆からは、ただの「暴徒」とみられるようになります。
    そして「暴徒」に対抗するため、近隣には自衛組織なども作られています。

    それだけではありません。便乗者まで出始めたのです。
    ただの泥棒や、強盗団が、偽の天狗党を名乗って、商家や豪農を襲うという事件が頻発したのです。
    水戸藩とその近隣は騒然とした混乱状態に陥いってしまう。

    この頃、天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎が水戸藩にやってきて、天狗党に入党しています。
    清河八郎は、後に芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司らを率いて、新撰組の前身となる浪士組を結成する男です。
    しかし尊王攘夷の理想に燃える彼は、狂乱ともいえる天狗党の状況に失望し、さっさと大平山を降りてしまっています。

    こうして天狗党は、民衆や攘夷の志士、あるいは諸藩の支持を失ないました。
    思想はともかく、「暴徒行為」に対し、幕府は天狗党追討令を出します。
    そして常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。
    水戸藩もこれに応じ、市川三左衛門らに命じて追討軍を編成しています。

    元治元(1864)年7月7日、天狗党討伐のための諸藩連合軍は、茨城県下妻市にある多宝院に集結しました。
    ところがこれを知った天狗党は、その日のうちに多宝院に夜討ちをかけ、諸藩軍を潰走させてしまいます。
    なんといっても、文武両道に秀でた尊王攘夷の志士たちなのです。
    並みの正規軍では敵わない。

    敗走した水戸藩士の市川らは、水戸へ逃げ帰ると何を血迷ったか水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火をしたり、家人を斬殺するなどの暴挙に出ます。
    要するに腹いせ、報復です。

    これにはさしもの天狗党の志士たちもまいります。
    もともと親兄弟を大切にする、理知的な若者たちなのです。
    身内虐待の情報には、黙っていれない。

    天狗党は割れ、約500名が離別します。

    残った天狗党は、危機感を募らせ、奸族市川を討つべし!と、水戸城へ攻め込みます。
    しかし城砦戦には、兵力が足りない。
    天狗党は、たちまち敗退し、那珂湊の近くまで退却する。

    水戸藩の城そのものが、戦乱になったのです。たいへんな問題です。
    京にいた水戸藩主・徳川慶篤は、幕命を受け、天狗党による内乱鎮静のため宍戸藩主松平頼徳を名代にたてて水戸へ向かいました。

    松平頼徳一行が水戸城に到着する。
    けれど、藩公の一行の中に、武田耕雲斎や榊原新左衛門ら尊攘派がいることを理由に、市川三左衛門は、一行の入城を拒絶してしまうのです。
    これまたとんでもない話です。
    藩主の命を受けてやってきた者たちを、部下が城に入れないとゴネているのです。

    「殿のご命令である。開門をせよ!」と迫るけれど、市川は門を開けない。
    逆に殺気立った市川らは、抗戦の構えさえ見せたのです。

    宍戸藩主松平頼徳らは、やむなく兵を退いて、水戸に近い那珂湊に布陣しました。
    すると、おもしろいものですね。そこに天狗党の一隊が駆けつけて、藩主頼徳方に加勢すると申し出たのです。
    頼徳にしてみれば、そもそもは天狗党鎮圧のために赴いたのです。
    それに天狗党が味方するというのは変な話です。
    けれど水戸藩の城を奪われているのです。取り返すには味方が多いに越したことはない。
    しかも天狗党の一行は、頭もキレ、腕も立つものばかりです。

    ついに、松平頼徳は水戸城に立て篭もる市川らと開戦に及びました。
    しかし、城です。そうやすやすとは落ちない。
    松平頼徳は、補給と戦闘の休息のため、いったん那珂湊まで兵を引きます。

    これをみた市川は、松平頼徳が、天狗党に寝返ったと幕府に讒言したのです。
    幕府は、びっくりして頼徳討伐軍を組織してしまう。

    松平頼徳らが布陣する那珂湊に、今度は幕府から派遣された田沼意尊を将とする部隊が到着します。
    松平頼徳らが、当然味方の援軍がきたと思って喜んでいると、いつの間にか水戸城から出てきた市川らがそこに合流し、那珂湊を包囲したのです。

    「そんなバカな!」
    元治元(1864)年10月5日、松平頼徳は、「かくなるうえは、ワシが幕府に真意を伝えてくる」と、ひとり田沼方の幕軍に交渉に赴きました。
    しかし、まともに話されたら、あとがなくなる市川は、さっさと松平頼徳を逮捕し、水戸城に連れ帰ります。
    松平頼徳は、かりにも宍戸藩の藩主です。大名です。
    にもかかわらず、市川は松平頼徳を切腹させてしまいます。

    大将を失った松平勢千人余りは、幕府に投降しました。
    そして幕府軍の田沼意尊も、ようやく事態の真意を理解しました。
    けれど、事情を勘違いして味方を敵に、敵を味方にし、さらに大名を切腹にまで追い込んだとあれば、田沼意尊は責任を免れません。

    田沼は身の安全のために、強硬手段に打って出ました。
    投降した頼徳の手勢すべてを全員捕縛し、佐倉藩や古河藩などに預けた後、数ヶ月後に全員、切腹を命じたり、断首したりして全員を殺害してしまったのです。

    せっかく松平頼徳軍と合流できたと思って喜んでいた天狗党は、松平頼徳逮捕の報に接し、一時的に大混乱に陥ったのですが、現実に活動してきて、武装を解くことの恐ろしさを知っている天狗党は、松平頼徳軍に同行していた水戸藩尊攘派の重鎮、武田耕雲斎らを連れて、那珂港を脱出し、水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に落ちました。
    このとき、天狗党、約千人です。

    そして大子村で、あらためて天狗党の総裁として、水戸藩尊攘派の重鎮・武田耕雲斎を仰ぎました。
    この武田耕雲斎こそ、元銚子市長で日本体操を28年ぶりにオリンピックの金メダルに輝かせた、つくる会の元副会長、岡野俊昭先生の曾祖父です。

    天狗党の総裁に就任した武田耕雲斎は「最期の一戦を仕掛け、討ち死にしよう」と主張しました。
    しかし天狗党の開始からすべてを見てきている藤田小四郎は、これに反対し、「かくなるうえは、京都に上り一橋慶喜殿を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えよう」と生き残る道を提案します。

    また、ここでの軍議で武田耕雲斎は、「天狗党は、以前、町に放火するなどして民衆の反感を買ったことを反省し、以後一切の略奪・殺戮を堅く禁じる」と軍規を定めています。

    そして天狗党の一行は、11月1日、茨城から京都に向かって出発しました。
    ルートは、下野、上野、信濃、美濃、中山道を約二ヶ月の行軍です。
    このときの道中の天狗党は、実に堂々とし、軍律もきちんと守られ、宿代等の支払いもきちんとしたため、街道筋の民衆から、たいへんな好意をもって迎え入れられています。

    しかし幕府からみれば、彼らは逆臣でした。
    「中仙道・東海道・北国筋にある諸藩は速やかに天狗党を討伐し、全員捕らえよ!」
    幕命に従い、元治元(1864)年11月16日には、上州下仁田で、まず高崎藩が天狗党を追撃しました。

    激闘の末、高崎藩は、死者36名を出して敗走します(下仁田戦争)。
    このときの天狗党側死者は、わずか4名です。
    いかに武田耕雲斎の軍略が優秀であったかがわかります。

    徳川270年の太平です。
    多くの武士たちは、戦いからは縁遠い生活をしています。
    それでも、優秀な軍略家を迎えることで、集団は虎の威力を発揮できるのです。

    11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠で、高島藩・松本藩連合軍と、昼から夕暮れ時まで交戦しました。
    天狗党、連合軍とも15名前後の死者を出しました。
    けれど、ここでも、天狗党が勝利しています(和田嶺合戦)。

    あまりの天狗党の強さに、他の諸藩は、天狗党の通行を、こっそりと見逃します。
    天狗党が間道や裏道を通ってくれさえすれば、藩の面目も立ち、戦闘による被害もなくて済むのです。
    むしろ軍用金を献納して天狗党を通してくれた藩すらありました。

    天狗党一行は中山道を進み、美濃鵜沼宿付近まで到達します。
    しかしそこには、彦根藩、大垣藩、桑名藩、尾張藩、犬山藩の大軍が陣を敷き、天狗党を待ち受けていたのです。

    これは手ごわいです。これら諸藩は戦国以来の強兵を持って鳴る藩です。しかも大軍です。
    さしもの天狗党も、これら強藩兵を相手に戦いを挑むのは困難と判断し、中山道を迂回して、北陸道から京を目指そうとします。

    しかし時は最早12月、寒気は厳しく、積雪の峠を越えるのは至難を極めます。
    なかでも北国街道にある大野藩は、天狗党に宿舎や食糧を与えないように民家を全て焼き払い、一種の兵糧攻めのような戦術をとってきました。
    天狗党は雪の中で露営せざるを得なくなり、苦しい行軍を余儀なくします。

    このとき62歳になっていた天狗党総大将・武田耕雲斎は、次の歌を詠んで、冬将軍に苦しめられている心情を吐露しています。

     雨あられ 
     矢玉のなかは いとはねど
     進みかねたる 駒が嶺の雪

    八甲田山のような、死の雪中行軍によって、疲労困ぱいしながら、天狗党は12月11日、ようやく越前新保村まで到達しました。
    そこには、加賀藩の軍勢が天狗党を待ちうけていたのです。

    武田耕雲斎は、天狗党上洛趣旨を加賀藩軍に伝え、進路を開けてくれるよう申し出ました。
    ところが、加賀藩からは意外な返事をもらいます。

    「我々は、一橋公の命令によって陣を張っている。無理に通るというのならば、一戦もやむなし」

    天狗党の上京は、そもそも一橋慶喜公を奉じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることが目的です。
    すべての鍵は、一橋慶喜なのです。
    その一橋慶喜公が、自分たちへの討伐隊を編成した?!

    兵たちは、雪中行軍で疲労困憊しています。
    武田耕雲斎は、ここで進退窮まったことを知ります。
    そして加賀藩に降伏し、武装解除に応じました。
    武田耕雲斎は、このとき最後の願いとして、加賀藩の軍監・永原甚七郎に一橋慶喜公へ天狗党一同の陳情書を渡してくれるように頼みました。

    抵抗せず、嘆願をしようとする天狗党に、心を打たれた永原ら加賀藩側は、彼らの勤皇の志を知り、同情し、これを承知します。

    逮捕された天狗党833名は、三つの寺に預けられました。
    加賀藩は、命を落して武士道を貫こうとした彼らの姿勢を高く評価し、彼らを丁重に扱いました。

    しかし年が明け、天狗党討伐から処分まで幕府から一任された若年寄の田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると、その情況は一変したのです。

    彼等を武士としてではなく、天狗党を罪人として扱い、捕縛したのみならず、蝦夷から運ばれてくる肥料用のにしんなどの魚を入れておく蔵に彼らを閉じ込め、厳しく取り調べを行ないました。

    そして、罪状を決定すると、斬首350名、遠島137名、追放187名という厳しい処分をなし、さらに津軽海岸で斬首した武田耕雲斎・田丸稲之衛門・藤田小四郎・山国兵部(天狗党の軍師)ら四名の首を、塩漬けにして故郷の水戸に送り、さらし首にしたのです。


    天狗党の物語は以上です。
    藤田小四郎の辞世の句があります。

     かねてより
     おもひそめにし 真心を
     けふ大君に つげてうれしき

    日本を護る。その真心からの行動を、今日わたしは死んで、亡くなられた主君の前藩主・徳川斉昭に報告にまいることをうれしく思います。

    もうひとつあります。

     さく梅は 
     風にはかなく ちるとても
     にほひは 君が 袖にうつして

    自分の命は果てるとも、その志はきっと誰かが受け継いでくれるに違いない。
    私心を捨てた藤田小四郎の、死の直前の心情です。

    武田耕雲斎の辞世です。

     討つもはた
     討たれるもはた 哀れなり
     同じ日本の乱れとおもえば

    水戸藩は、藩内の尊王攘夷派と穏健派との諍(いさか)いによって、藩論が二分し、互いに殺し合うという状況を招きました。

    そして腕が立ち、頭も切れる優秀な人材が、天狗党の乱によって、ことごとく死んでしまいました。
    このため、明治維新の先駆けとなった水戸藩からは、明治政府の高官は、ほとんど出していません。
    国が疲弊してしまったのかもしれません。

    天狗党の乱は、黒船来航によって、幕府が売国政権となったことに対する純粋な憂国の想いを社会にぶつけた兵乱でした。
    昨今では、明治維新は、坂本竜馬の薩長同盟が原点のような印象操作がまかりとおっているけれど、実際には、こうした水戸藩士の純粋な愛国の情と決起が、まず先駆けとしてあったのです。

    それともうひとつ、天狗党の乱から学べることとして、これは実は、
    「天誅組に学ぶ、尊王攘華、尊王攘韓」http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-817.htmlの記事のテーマのひとつでもあったのですが、

    「陛下は、いつの場合でも決して無秩序な暴行を望んでいない」ということです。
    天誅組も、天狗党も、まさしく日本人の誇りであると思っています。
    日本男児たるもの、先駆けとして死を賭して戦うという姿勢は常に持っていたいと思うからです。

    なるほど、暴行行為もありました。
    けれどこの頃孝明天皇は、幕府に対して再三尊王攘夷を勧奨しているのだけれど、攘夷のために無秩序な暴行行為が起こると、その都度、尊王攘夷を引っ込めておいでになられます。

    陛下の大御心は、常に日本という大家族の安寧を願い、「正しい」からと無秩序な暴力は決して許されなかった。
    どこかの国のような、愛国無罪は日本にはないのです。

    陛下は「武力」を否定しているわけではありません。
    しかし無秩序な「暴力」と、秩序だった「武力行使」とは、まるで違います。
    そのことを私たちはあらためて、歴史から学ばなければならないのだと思います。

    尊王攘夷の先駆けとなった水戸藩は、藩論が真二つに別れ、守旧派が、尊攘派を粛清しようとしました。
    これは無秩序な暴力です。

    そのために危機感を募らせた尊攘派は、藩の庇護を得ずに戦わざるを得なくなり、兵糧や金子を自分たちだけで工面せざるを得なくなった。その結果、民家が襲われました。
    この時点で、天狗党は「暴力集団」となりました。

    成田闘争や、東大安田講堂事件、あさま山荘事件等で、闘争を行った左翼の人たちには、それなりに主張もあったろうし、正義や、正義を証明するための理論もあったかもしれません。
    しかしそれらは、ただの暴力闘争になった時点で、終わっています。

    いま日本は、反日主義者によって乗っ取られるという危機に瀕しています。
    わたしたちはそういう蛮行から日本を、家族を護るために、立ちあがり、戦わなくてはなりません。
    もちろん街宣もある。もちろん集会もある。もちろんネット拡散もある。もちろんメディアを駆使した戦いもあることでしょう。
    はらわたが煮えくりかえるような思もあります。
    けれど、日本を護ろうとする者は、どこまでも「無秩序な暴力集団」となってはいけない。

    保守系の街宣デモは、どこぞの国や左翼系のものとちがい、やはりキチンと秩序だった行動をしています。
    これは誰かから言われたということでなく、自然とそのようになっている。
    なぜなら、それが歴史に学んだ日本人の姿だからです。
    どこかの国の反日デモとは、格が違うのです。

    天狗党の乱に見られるように、世の中が変わろうとするときは、まさに「討つもはた 討たれるもはた 哀れなり
     同じ日本の乱れとおもえば」の混乱が起こります。
    邪が正義となり、正義が邪となり、それが二転三転を繰り返します。
    初期の活動家たちは、悪党呼ばわりされ、名誉を削がれ、世を追われるかもしれません。

    けれど、そうした積み重ねが時代を変える。時代を築く。そう思います。

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    石原莞爾
    石原莞爾09


    3月24日の記事「貧農史観のウソ」へのotamaさんのコメントで、「森羅万象の歴史家」というサイトの記事をご紹介いただきました。

    非常に内容のある文章だと思いますので、それを転載します。

    <↓引用>------------------
    http://oncon.seesaa.net/article/124934958.html

    藤本治毅(元陸軍憲兵大佐)著石原莞爾の101~102頁に満州事変時の強姦事件について次のように記述されている。

    昭和七年九月十五日、日本は満州国の独立を正式に承認し「日満議定書」の調印をも了した。事変当初、軍司令官以下が奉天に乗り込んできたときである。
    奉天駐屯の歩兵第二十九連隊の一上等兵が、中国婦人を姦した一件が軍司令部に聞こえてきた。

    連隊幹部はもとより、軍司令部内においてさえも、兵馬倥偬の間の出来事であるから、大目に見ようという意見があった。だが烈火の怒りを示したのは莞爾で、

    「聖戦の前途を汚す悪鬼である」

    とて、最も厳重な処分を要求して譲らなかった。
    平田連隊長もその正論に屈し、これを最大限の降等処分に付した。
    ために全軍将兵粛として声をのんだのである。


    ところがこのことがはしなくも敵側に伝わり、後日馬占山がチチハルを捨てて退却するに際しては、

    「日本軍がきたら城門を開いておけ。
     そして各自平常の業務に服しておってよろしい。
     張海鵬の軍(関東軍の友軍)が来たら、
     城門を固く閉ざして各々自衛の処置をとり、
     強姦、略奪に対処せよ」

    と、住民に布告して立ち去ったという。


    満州事変のとき日本軍将兵が犯した強姦件数は一件だったという話は、我が国の敗戦を契機に軽度の反日的日本人に転向した石射猪太郎の「外交官の一生」にも出てくるので、おそらく強姦事件は殆どなかったのだろう。

    ここで我々戦後世代が留意しなければいけないことは、日本軍の強姦の定義である。
    山本七平氏の「私の中の日本軍」88頁によれば、日本軍には和姦という概念が存在せず、住民と情を通じて問題になれば、すべて強姦事件であって、軍の慰安所以外の性行為はすべて違法であったという。

    つまり信用できる日本側の戦史資料の中で日本の軍人が語る日本軍将兵の犯した「強姦事件」には、将兵が戦地や占領地の女性と恋に落ち情を通じて性交に及んだ場合を含むのである。

    前述の「石原莞爾」の巻末に収録されている辰巳栄一の回想録によると、ロンドンを訪れた石原が各国の武官に対して満州の復興状況を説明し、

    「近頃満州の娘さん達が日本軍の若い兵士にラブするものが多くて、部隊長は閉口している」と結び、会場の人々を大いに笑わせたそうだが、部隊長は軍紀上ほんとうに困っていたのだろう。


    思うに、日本軍の強姦の定義は広く厳しいが、これは、加害者である将兵には

    「合意があった」

    という言い逃れを許さず、被害者である女性には

    「合意はなかった」

    ことを証明する義務を課さず、

    合意の有無を調査する煩雑な手間を省いて軍法会議を迅速に進め軍紀を維持するためには、まことに適切であった。


    もしサンフランシスコ講和条約の発効と同時に、政府と議会がGHQの占領基本法の一つである占領憲法を廃棄し、徴兵制度を復活させていれば、大東亜戦争に参戦して生き抜いた軍人から戦後世代の多くの一般国民へ、軍隊や戦争の本当の話が伝わり、朝日新聞や日教組は、容易には反日デマを国民に信じ込ませることはできなかったろうに…。


    戦前世代が消えていく今後、我々歴史学徒が相当がんばらないと、戦後世代は1945年9月2日以前の日本を理解できなくなり、朝日ら左翼勢力は国民の無知に付け込み、彼らの赤い邪悪な政治目的のために、現在よりも大々的に大東亜戦争史を悪用してくるかもしれない…。


    盧溝橋事件から敗戦に至るまでChina戦線で日本軍将兵が犯した強姦事件の総数を調査する能力と意思は、所長にはない。

    ただ中華民国の軍事代表として満州をソ連から接収するために苦労した董彦平中将が、ソ連軍の掠奪暴行を目の当たりにして大いに憤激し、回顧録「ソ連軍の満州進駐」に、

    「いやしくも社会主義を標榜するほどの国家が帝国主義に圧迫され続けて今ようやく解放の日を迎えたばかりの同盟国の人民に対し、残酷かつ非人道的な凌辱、掠奪をやってのける軍隊の行動を容認するということが凡そ想像されることだろうか。

    日本帝国主義は東北同胞を奴隷のごとくコキ使ったが、彼等の軍隊(註、日本軍)は掠奪をしたり、婦女を強姦したりするような事例は、そうざらにはなかった」

    と書き記している。

    これは「南京大虐殺」が虚構である証拠の一つであろう。


    1931年から1945年まで数百万の日本軍が外地に展開したにもかかわらず、ベトナム戦争に参戦した韓国軍とは違い、強姦混血児という国際問題を戦後に残さなかったのだから、おそらく日本軍将兵が犯した純然たる狭義の強姦事件は、極めて少なかったのだろう。

    韓国はベトナム戦争に参戦した際、韓国軍兵士による現地ベトナム人女性への買春やレイプなどの暴力行為を適正に統制しなかったために、多くの混血児が生まれた。その人数は現在1万人以上存在しているという。

    現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は、行われていない。
    そしてネット界の韓国ウオッチャーは知っているように、現在の韓国も世界的に悪名高い強姦大国である。
    日本のマスゴミが韓国に肩入れするのは厚顔無恥な同類を憐れんでいるのか。


    かつてChineseは洗城(城内レイプ略奪し放題)、屠城(城内みな殺し)という風習を持っていた。そして現在の共産中国も、チベット族やウイグル族を大虐殺している人道に対する犯罪大国である。

    韓国人と中国人が語る日本軍の残虐行為とは彼ら自身の素性と歴史を語っていると、我々は考えるべきである。


    日本は中韓とは相容れない異文異種である。

    我々はこのことを肝に銘じ、日本の女性を守るために、何としても東アジア共同体なる愚劣な構想を潰し、新脱亜論を実現しなければなるまい。

    今上陛下が皇太子として昭和五十年二月にネパール国王の戴冠式に参列された際、イギリス首席随員のマウント・バッテン元帥から、

    「過ぐる戦争中、私が東南亜連合軍総司令官として、インド・ビルマ戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう」

    と日本軍将兵を激賞する丁重な賛辞を捧呈された(世界から見た大東亜戦争)。


    インパール作戦が終末を迎えんとしていた昭和十九年五月十一日、Chinaの雲南方面から、蒋介石の信任厚い衛立煌大将率いる中華民国軍の雲南遠征軍十九万六千人が怒江を渡り、文字通り雲霞のごとくビルマ東部国境付近に押し寄せ、六月二日に四万八千人の中国軍が拉孟城を包囲し、六月二十六日に四万九千人の中国軍が騰越城を重囲下に置いた。

    これに対して雲南遠征軍を迎撃する我が軍は第五十六師団の一個師団約一万一千人のみ、拉孟守備隊は千二百八十人、騰越守備隊は二千二十五名に過ぎなかった。

    だが両守備隊は、米軍式装備と巨大な物量を誇る中国軍に対して鬼神のごとく奮戦し、拉孟守備隊は九月七日まで、騰越守備隊は九月十四日まで、一歩も引かずに陣地を死守し敵軍のビルマ侵入を阻止した末に壮絶な玉砕を遂げた。

    この間にビルマ東部の要衝ナンカンの築城を終えた我が第二師団が密かに東進し第五十六師団と合流、九月三日、約三十万人に膨れ上がった雲南遠征軍に対し総反撃の火蓋を切り、拉孟騰越の両城を救い出せなかったとはいえ、雲南遠征軍に戦死傷者約六万三千人の大損害を与え、中国軍のビルマ侵攻作戦を頓挫させたのである。

    この「断作戦」における我が軍の損害は戦死傷者七千三百人、我が第二、五十六師団は十五倍の敵に挑み、我が軍の九倍の損害を敵に与えたのである。

    蒋介石は日本軍の恐るべき戦闘力に驚嘆し、全軍に以下の特別布告を発し(菊と龍―祖国への栄光の戦い)、拉孟騰越を死守した日本軍人精神に

    「東洋民族の誇り」

    という最大級の賛辞を送ったのである。

    「全軍将兵に与う。戦局の動向はわれに有利に展開しつつあり。勝利の栄光は前途に輝いているものの、その道に到達するまではまだなお遠しといえる。

    各方面の戦績を見るに、予の期待にそむくもの多し。
    諸兵、ビルマの日本軍を範とせよ。拉孟において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。
    それに比し、わが軍の戦績の、いかに見劣りすることか。予は遺憾にたえざるものなり。

    将兵一同、一層士気を昂揚し、訓練に励み、戦法を考案し、困難辛苦に耐え、強敵打倒の大目的を達成せんことを望むものである」


    また東京裁判却下未提出弁護側資料集に収められた中国側の資料によれば、China戦線の日本軍各部隊は作戦終了後には、必ず付近の敵味方の戦死体を回収し、中国軍に攻撃される危険を冒してまで両軍戦死者の丁重なる慰霊祭を行った上で根拠地に引き揚げており、これを知った蒋介石は、この高潔なる武士道精神こそ寡(少数)をもって中国軍の大軍を撃破する日本軍の戦闘力の根源なり、と賞賛し、味方の戦死者に対する慰霊祭すらも行わない中国軍将官を

    「汝らは日本軍を見て慙愧の念に耐えずや」と叱責したのである。

    蒋介石にとって日本軍は中華民国軍の模範であった。

    だからこそ蒋介石は台湾に落ち延びた後、彼の敵であり又友でもあった元China派遣軍総司令官の岡村寧次元大将に救援を求め、大将から派遣されてきた元日本軍将校から成る軍事顧問団「白団」の指導を受け、米軍式教育を改めて日本軍式教育をもって中華民国軍を再建したのである。

    中国共産党および朝日と毎日が宣伝する日本軍の蛮行が事実なら、蒋介石がかつての敵であった日本軍将校の指導を仰ぐものか!

    ~~~~~~~~~~
    http://oncon.seesaa.net/article/125071014.html

    所長が思うに、我が国の大東亜戦争は失敗の連続であったが、それらの中には叡智あふれる軍事、外交、内政が少なからずあった。

    日本の大人がそれらを子供を教え、子供が「ああっ惜しかった!」と我が事のように悔しがるようになってこそ、日本の子供は日本国を愛おしく思い、過去の教訓を未来に生かせるようになるのだろう。

    <↑引用おわり>------------------------

    ≪日本軍最強伝説≫

    (1) 兵士1人が日本刀1本で100人以上斬り殺せるほどの戦闘能力と有り余る予備の日本刀を持ち、
    (2) 銃剣と単発銃のみで80万人以上殺すなど、原爆以上の破壊力を持つ携行兵器を誇り、
    (3) 各植民地で無駄に現地人を殺してまわるほど武器弾薬が余っていて、
    (4) 320万人もの現地労働者を動員し、そのうち100万人が死ぬほどの労働条件でも反乱を起こさせないほどの統率能力を使って、
    (5) 国境地帯に計19ヶ所、4700kmにおよぶ要塞および1700kmもの地下要塞を作るほどの労働力を動員し、
    (6) その工事後1万人を生き埋めにしたり、揚子江の川幅を2m以下にしたり、するほどの高い土木技術を持ち、
    (7) 沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が出せるほど命令系統がしっかりしていて、
    (8) 当時オランダ領だったインドネシアにも開戦前から日本軍用の慰安婦を送り込むほど先見性があり、
    (9) 日本兵の数を上回るほどの従軍慰安婦を一日に一人あたり何十人も暴行するほど体力と食料があって、
    (10) AVが無かった時代にも関わらず慰安婦に顔射するほど独創性に富み、
    (11) 韓国で文化施設はもちろん一般家庭にある辞書から料理本に至るまで処分してまわるほど暇で、
    (12) 保護するために植民地ではなく「併合」したにも関わらず、韓国の運気を捻じ曲げるために、山の頂上に鉄杭を埋め込むほど風水に明るく、
    (13) 韓国の優れた建築施設・街・鉄道を全て接収することなく破壊し尽くした上、新たに日本のダメな建築物に建て替えるほど資材と資財が有り余っていて、
    (14) 当時の朝鮮の人口のおよそ半数近くを日本へピストン輸送するほど燃料と船舶が豊富で、
    (15) 中国で家々に火を放ちまくり無駄に虐殺した民間人の死体を一カ所に集めてたっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり、
    (16) 人間の脂肪から、航空燃料を作れるほど錬金術に長け、
    (17) わずか70万人の関東軍で戦闘の合間に20万人もの中国人慰安婦を満足させるほど絶倫で、
    (18) 広く険しい中国大陸を大軍勢で移動していたにも関わらず、各地区の兵士や民間人が逃げる暇も無い程のスピードで動き回るなど金メダル級の運動能力を誇り、
    (19) 山東省で広島+長崎の核2発分の犠牲者数を超える42万人を殺戮するほどの細菌兵器を保有し、
    (20) 田舎から都市部まで全ての街道を余す所無く隅々まで破壊し尽くし、さらに人気の無い山の奥深くでさえ草一本残さず毟り取る程の根気と几帳面さを兼ね揃え、
    (21) 11歳が戦場で暴れ回るほど若い内から逞しく、
    (22) 終戦後になぜか意味の無い強制連行を行いまくるほどの軍備と余裕があり、
    (23) 圧倒的科学力を誇る朝鮮の反日勢力になぜか圧勝するほど運がよく、
    (24) 朝鮮人を殺しまくりながら人口を2倍にするという魔術を持ち、
    (25) 敗戦国でありながらGHQを手玉にとって朝鮮戦争を起こすようコントロールするほど政治力と外交能力に長け、
    (26) 中国での最初の慰安所「大一サロン」にはハイテクエアコンを完備させ、
    (27) 半世紀以上放置されても使用出来る毒ガスを作れるほどの科学力を誇り、
    (28) 金の掛かる化学兵器砲弾を200万発も生産して中国全土に埋め、
    (29) もともと無い記憶を奪えるという摩訶不思議な技術を持っていた

    大日本帝国が敗戦したことは、人類史上最大のミステリー!!

    ~~~~~~~~~~~

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    オランダの悲劇―「多文化共生社会」がもたらしたもの・・・虐殺・暴行


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  • 不自惜身命・・・小原竹五郎と江崎邦助


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    江崎邦助巡査
    江崎邦助巡査


    以前、「4日間の恩義を100年経っても忘れない日本」という記事で、コレラに感染した患者を背負い、自身も感染して亡くなった警神、増田敬太郎巡査をご紹介させていただきました。
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-603.html

    増田巡査の事件があったのは、明治28(1895)年のことですが、実はコレラは幕末から明治にかけて大流行した伝染病で、明治12(1879)年、明治19(1886)年にも猛威をふるっています。

    コレラというのは、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症です。
    潜伏期間は2~3日で、早ければ数時間で、突然お腹がごろごろ鳴って水のような下痢がはじまり、1日に20~30回もトイレに駆け込むことになります。

    そして体温が34度台にも下がり、下痢による急速な脱水症状が出て、血圧が低下、筋肉が痙攣し、体は虚脱状態となって死亡します。

    死亡時、極度の脱水によって皮膚が乾燥して、顔じゅうしわだらけの老人様の顔になります。

    致死率は、75~80%にも及びます。
    (ちなみに現在は、適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントになります。)

    さてそのコレラが大流行したときの事件を2つご紹介します。

    どちらも三河(愛知県)豊橋市のお話です。


    明治12(1879)年8月9日付けの「多聞山日別雑記」に、次のような記載があります。

    「コレラ病流行。下地舟町辺コロコロ死スル者有」

    人々は感染をおそれて、病死者に触れることを嫌います。
    そりゃそうです。誰だって死にたくない。

    なので、町中の人がコロコロ亡くなっているのに、ご遺体の運搬もできない。
    片づけられない。これではますます危険です。

    町の用係であった大口喜六という人が、運搬役を募るのですが、誰も応じません。
    そのとき、町内の嫌われ者であった暴れん坊の小原竹五郎が立ち上がります。

    結局竹五郎は、コレラに感染して命を落としてしまうのだけれど、その当時の模様を、大口喜六の子で、衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六氏が書き残していますのでご紹介します。
    (文語なので、ねずきちが口語に訳しています)

    ~~~~~~~~~~~~

    「小原竹五郎」

    明治十二年の夏のことです。
    私の郷里の豊橋に、コレラが流行しました。

    私の住所である船町にも数名の患者が出ます。
    しかし、伝染力が強いので、誰も遺体の運搬をしてくれません。

    当時、私の父は、町の用係を勤めていたのですが、その頃の用係は、後の戸長に相当するもので、町内のあらゆる世話を行っていました。

    その頃、町に小原竹五郎という者がいました。

    竹五郎は、いつも酒を飲んでは暴れまくる乱暴者です。
    町の人たちは、彼のことを「オボ竹」と言って、たいそう嫌っていました。

    その竹五郎が、この非常事態に際して、父の勧誘に応じて決然と立ちあがり、進んで遺体の運搬夫の役を買って出てくれました。

    彼の動作は勇敢で、見るものをして驚嘆させました。

    しかし竹五郎は、ついに自分もコレラに感染してしまいます。

    初代渥美郡長だった中村道太氏は、当時はまだ豊橋にお住まいだったのだけれど、深く竹五郎の侠気に感じ、自ら竹五郎を病床にお見舞いされた。

    私の父もしばしば石塚の庚申堂の一隅にあった竹五郎の床を見舞ったのですが、その甲斐なく、竹五郎はついに還らぬ人となります。

    竹五郎の死後、明治15(1898)年6月20日に、竹五郎の墓が建設されます。

    このとき中村氏は、自ら筆を揮って、その墓標に
    「奇特者小原竹五郎之墓」と大書されました。

    それは幅40cm、高さ1m50cmくらいの石柱なのですが、その側面には碑文が刻まれ、今猶ほ龍拈寺の墓地内に現存しています。

    ~~~~~~~~~~~~

    どんなに大酒のみの暴れん坊でも、いざとなったら町の人たちのために一肌もふた肌も脱ぐ。
    そしてそのことを地域の総主がちゃんと慈しむ。

    先日、出光興産の初代社長、出光佐三氏の「大家族主義」の記事を書きましたが(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-827.html)、当時の日本では、竹五郎のお話などを読むと、当時の日本は、地域もひとつの「家族」という意識にあったということがよくわかります。


    さて時は変わって、明治19(1886)年のことです。

    この年、江崎邦助(えざきくにすけ)という巡査が、豊橋警察署田原分署(現田原警察署)勤務を命ぜられ、転勤してきます。

    江崎邦助は、文久元(1861)年の生まれですから、このとき25歳。
    三重県鳥羽市の生まれで、長じて愛知県警に就職し、明治19年には、19歳の妻「じう」と結婚しています。

    いわば新婚ホヤホヤです。

    そしてこの年、大阪で発生した伝染病のコレラは、またたくまに広がって、6月には愛知県全域にまで多数の死者を出すようになった。

    そんなある日のこと、分署長の命令で、奥郡(現田原市渥美、赤羽根一帯)を巡察していたしていた邦助は、「堀切村でコレラが発生した」との情報を聞きつけます。

    これはたいへんなことです。
    邦助は、すぐに医師を連れて現場に向かいます。

    医師の見立てにより、真性コレラであることが確認される。
    菌を退治するために、すぐに消毒をしなければなりません。

    すると村人たちは、消毒などとんでもないことだという。
    村の恥さらしだというのです。

    邦助は、医者とともに、村人たちを懸命に説得します。
    一時は石を投げつけられた。鎌を向けられた。

    三日三晩、眠らずに説得を続けた結果、ようやく村人の協力を得て、村中の消毒が行われます。

    ようやく消毒を済ませた邦助は、この事を署に報告するため、急いで堀切村を出発します。

    しかしこのとき、邦助もコレラにかかっていたのです。

    そして若見村(現田原市赤羽根町若見)まで来たときには、もう一歩も歩けなくなってしまう。

    一緒にいた医師が、人力車を呼んでくれ、帰路を急いだけれど、加治村(現田原市田原町加治)まで着いた頃には、もはや人力車に乗っていることさえままならい状態になっていた。

    なかった。この時邦助は初めて自分がコレラにかかった事を自覚した。
    勤務を命じられる。

    邦助は人力車を降り、近くの林に身を置きます。

    しばらくすると、役場の職員や妻の「じう」も現場に到着した。

    邦助は、こう言ったそうです。

    「自分が田原の街に入ったら大勢の人にコレラにうつってしまう。
    だから、もう署には帰れねえ」

    そして
    「きみたちは、私に近づくな。私に近づくとコレラに感染する」と、人を近寄らせなかった。

    しばらくして、医師や仲間の警察官が到着します。

    それでも邦助の態度は変わらない。

    仕方なく、みんなでまわりを囲むようにして、邦助を近くの小屋に運び入れます。

    妻「じう」は、
    「私がしっかり看病します。そして、きっと近いうちに、夫の元気な姿をお目にかけます」と言って、小屋の中に入って行った。

    じうは、ひとりで必死に夫・邦助の看病をします。

    翌日、邦助は、ついに還らぬ人となります。
    そして「じう」も、邦助の後を追うように、19歳の命を閉じた。

    邦助が林に残ったことで、田原の町では、コレラの罹患を最小限に抑えることができた。

    邦助が殉職した稲場を校区に持つ田原市立衣笠小学校では、いまでも毎年11月の学芸会で、六年生が「江崎巡査物語」を演じているそうです。

    江崎邦助が、村人の説得などせずに、さっさと「報告」のためと称して田原の町に帰っていたら、もしかしたら死なずに済んだのかもしれません。

    新婚ホヤホヤの若い巡査です。
    そうしたとしても、おそらくは誰も責めはしなかったでしょう。

    しかし彼は、警察官として、村人の消毒の説得のために、三日三晩も村に留まり、多くの村人の命を助け、自らの命を犠牲にした。

    そして妻じうも、結婚したての夫のために、必死の看病をして、この世を去った。

    職務のために、そして多くの人々のために、自らの身命をかえりみず。


    いまではすっかり死語になってしまった「不自惜身命」の心が、この時代の日本には、確かにあった。こんなすごいやつらがいた。

    そのことを、わたしたちはもう一度思い返して、日本再生の道を考えていきたいと思います。

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    国歌独唱/第82回選抜高校野球大会


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  • 宮古湾海戦と甲賀源吾


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    宮古湾鍬ケ崎港(岩手県)
    宮古湾鍬ケ崎港


    3月25日といえば、岩手県宮古市で、宮古湾海戦があった日です。
    その宮古湾海戦を通じて、「天命」について考えてみたいと思います。
    といっても、決してカルトみたいな話ではありません。
    やっぱり、日本というのは神国なんだなあという単なるボクの「思い」です。

    宮古湾海戦というのは、明治2(1869)年、戊辰戦争に行われた海戦です。

    慶応4(1868)年8月19日、元幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、幕府軍艦「開陽丸」を旗艦に、回天(かいてん)・蟠龍(はんりょう)・千代田形という三隻の軍艦と輸送船、計八隻で品川を脱出しました。

    「開陽丸」は、オランダ製の船体にドイツ製の大砲を備えた世界にも通用する最新鋭の軍艦で、「回天」もそれに次ぐ大きさ、これに蟠龍・千代田形を加えた榎本艦隊は、当時としては、まさに世界屈指の艦隊です。

    ていうか、日本に黒船がやってきたのが嘉永6(1853)年です。
    それからわずか15年で、日本が世界屈指の艦隊を保有する国になっていたというのもすごい話です。

    嘉永6年の黒船来航
    黒船来航


    さて、その榎本艦隊は、9月3日、仙台に到着します。
    榎本は、落城寸前となった会津若松城の会津の精鋭たちを引き取り、勇躍、蝦夷(北海道)を目指します。

    蝦夷に到着した榎本らは、またたくまに函館の五稜郭を奪い取り、明治元(1868)年12月、蝦夷共和国を誕生させた。
    ここで榎本は、日本初の「選挙による初代大統領」に就任しています。
    これまたすごい話です。この時代に大統領公選制を実現させている。

    もし彼の試みが成功していたら、もしかすると日本と蝦夷は別々な国になっていたかもしれない。
    この時代は、まだ航空機がないのです。
    ですから、海に囲まれた北海道なら、強大な海軍力を保持すれば、陸軍は少数でも、蝦夷共和国は、独立国となりえたのです。

    しかしその試みは、失敗します。

    まず、陸上で五稜郭や松前城を攻略して、共和国樹立を図っていたさなかの11月15日、江差沖に停泊中の榎本海軍の旗艦である「開陽」が、嵐のために座礁して沈没してしまったのです。
    これは痛い。
    大東亜戦争でいったら、大和と武蔵という2つの戦艦があったのに、戦う前に大和が沈没してしまったようなものです。

    開陽
    開陽


    やむなく榎本艦隊は、旗艦を「回天」に移します。
    この「回天」の艦長が、あとでご紹介する甲賀源吾です。

    この「回天」は、軍艦としての能力は、「開陽」にはるかに及ばないけれど、とにかく官庁である甲賀源吾の力量がすごい。

    榎本が幕府海軍を率いて北海道に北上したとき、「咸臨丸」の速力が遅いからと、「回天」がこれを曳航している。
    「咸臨丸」だって、福沢諭吉らを乗せて米国まで旅した船です。
    それなりの良い船なのだけれど、「回天」の能力は、はるかに「咸臨丸」を上回った。

    「咸臨丸」を曳航しているとき、銚子沖で台風がやってきます。
    甲賀は、やむなく曳綱を切った。

    回天
    回天


    いまも昔も、台風は北上します。
    つまり、榎本艦隊のルートは、まさにこの台風の進路に沿ったものとなる。
    曳綱を切られたあと、逆方向に流された「咸臨丸」は、そのまま榎本艦隊とはぐれて下田に漂着します。そこで官軍側に拿捕される。

    一方の「回天」は、なんと、暴風の真っただ中を、台風とともに北上します。
    これはすごいことです。
    そして三本のマストのうち、前と中央の二本を折られながらも、航行を続け、なんと友藩である奥羽越列藩同盟の中心地だった仙台藩の松島港に入港させている。

    艦長・甲賀源吾の采配や見事、というほかありません。

    松島港でマストの修理を済ませた「回天」は、こんどは大しけの冬の海を、単独で北上。
    気仙港では、海賊化していた旧幕府軍艦の「千秋丸」を拿捕し、これを奪っています。

    さらに箱館に到着した「回天」は、甲賀源吾艦長の指揮のもと、僚艦「蟠竜」とともに函館港の隙をうかがい、10月25日早朝に水兵を上陸させて、いっきに港湾施設と五稜郭を占領している。

    そして27日には、函館港が榎本軍に占領されたことを知らずに入港した官軍の軍艦「高雄」を急襲し、奪い取っている。

    また、松前藩との戦いでは、「回天」は、陸軍の応援をし、旗艦「開陽」が江差で座礁したときには救援に向かってもいる。

    まさに八面六臂の大活躍です。

    甲鉄
    甲鉄



    一方、強大な海軍力を持つ榎本海軍に対抗するため、官軍側は、幕府が以前、米国から購入した最新鋭の軍艦「ストーン・ウォール・ジャクソン号」を、交渉して官軍のものにしてしまいます。
    新政府軍は、この船に「甲鉄」という名前をつけた。

    「甲鉄」は、その名の通り、装甲軍艦です。
    当時最新最強だった「開陽」でさえ木造軍艦です。
    「甲鉄」は、砲数やトン数では「開陽」に劣るものの、頑強な装甲によって、絶対的な防備性を誇る。

    これなら榎本艦隊を打ち破れるかもしれない。

    新政府軍は、この「甲鉄」を旗艦に、朝陽(ちょうよう)・春日をはじめとする五隻の軍艦を揃え、これに飛龍(ひりゅう)・豊安(ほうあん)といった輸送船、さらに外国船までチャーターして、万全の態勢を整えて榎本艦隊に相対します。

    この時点で、旗艦「開陽」を失っていた榎本艦隊は、完全に分が悪い。
    陸上戦力は、多勢に無勢です。
    制海権を喪失したら、蝦夷共和国ははかない夢となってしまいます。

    これは困った。

    明治2(1869)年3月、榎本は、新政府艦隊が岩手県の宮古湾に集結したという情報を得ます。
    このままでは、戦に負けてしまう。

    榎本は、「ならば、最新鋭艦の敵艦『甲鉄』を奪ってしまえ、と考えます。
    これまたすごいことを考るものです。

    具体的には、まず、斬り込み隊を乗せた「回天」、「蟠竜」、「高雄(函館で手に入れた秋田藩の軍艦)」の三艦が、外国旗を掲げて宮古湾に侵入します。

    そこで「蟠竜」と「高雄」が「甲鉄」の両岸を挟みこむ。

    挟み込む直前に、外国旗を降ろして、日の丸を掲げる。

    そして「蟠竜」と「高雄」が、周囲にいる官軍側艦隊を砲撃し、敵艦隊の動きを封鎖している間に、「回天」を「甲鉄」に接岸させ、斬り込み隊が、乗り込んで、船を奪取する、というものです。

    直前に旗を付け替えるという戦法は、なんだか海賊みたいに思えますが、「アボルダージュ」と呼ばれ、万国公法で認められている、れっきとした海戦戦法です。

    絶対に負けられない戦いです。
    「甲鉄」への斬り込み隊は、総指揮に新撰組土方歳三を配し、添役には相馬主計と野村利三郎が就任した。その下に、彰義隊から10名、神木隊から36名の歴戦のツワモノを揃えます。

    さらに周囲にいる艦船からの攻撃を防ぐ役の「蟠竜」「高尾」両船にも、新選組、彰義隊、遊撃隊、神木隊から、それぞれ計57名の斬り込み隊をしのばせた。


    この作戦が成功し、「甲鉄」を拿捕すれば、まさに榎本艦隊は名実ともに世界最強艦隊となります。
    そうなると、いかに官軍といえども、最早、蝦夷共和国に手出しはできません。
    そして日本は、二つに割れる。


    3月21日の夜明け前、ひそかに「回天」、「蟠竜」、「高雄」の三艦が、箱館港を出発します。

    互いを大綱で繋ぎ、一列縦隊で、一路、岩手県の宮古湾を目指す。

    ところが、ここでも榎本艦隊は「天命」に見放されてしまいます。

    出発の翌日に、なんと季節外れの大暴風雨に襲われたのです。

    嵐のために、三艦を繋いでいた大綱は切断される。
    艦隊は嵐の中を離散してしまいます。


    いまの時代のような無線などない時代です。
    大海原で離ればなれになったら、最早出会うのは至難の業です。

    24日になって、ようやく嵐がやや静まったとき、「回天」艦長甲賀源吾は、執念で「高雄」を見つけます。
    「高雄」は、嵐で機関をやられ、漂流していたのです。

    やむなく「回天」は、「高雄」を曳航します。
    修理のため宮古湾の南の山田湾(岩手県山田町)に入港した。

    その頃、「蟠竜」は互いを見失った際の取り決めに従って鮫村沖で待機しています。
    当時は無線などありません。だから連絡はとれない。
    要するに、この時点で「蟠竜」は放置されていた。


    そこへ、山田湾に停泊した二艦に、新政府軍の艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているとの情報が入ってきます。

    敵の「甲鉄」が出航してしまったら、計画は水の泡です。
    「回天」と「高尾」は、「蟠竜」との合流を諦め、二艦のみでの突入を決めた。

    「高雄」が「甲鉄」を襲撃し、「回天」が残りの艦船を牽制すると決め、いよいよ宮古湾に乗り込みます。

    決行は25日早朝、夜明け前の午前4時です。


    官軍側も、所属不明の艦船が、宮古湾沖に出現したとの情報を得ます。
    しかし、船からあがって警戒を解いていた官軍側海軍には、まるで危機感がない。

    薩摩の陸軍参謀黒田清隆が、この情報を聞きつけて、斥候を出してすぐ確認するようにと海軍に促すのだけど、陸にあがっている海軍副参謀の石井富之助は、これを受け付けない。
    だって陸には、酒が待っている。


    「回天」と「高雄」は、24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かいます。

    ところが・・・

    途中で、「高雄」が再び機関に故障を起こしてしまいます。
    両舷のエンジンのうち、ひとつが完全に動かなくなってしまった。

    こうなると、ただでさえ速度の遅い「高雄」は、さらに船速が、半分です。


    やむをえず、「甲鉄」に接舷して先制攻撃をするのは、「回天」の役目とし、あとから追いついた「高雄」が、途中で参戦して周囲の敵艦隊を砲撃するという段取りに書き換えます。


    夜明けが近づきます。
    「回天」は、宮古湾の入り口近くに到着する。
    けれど、「高尾」はやってきません。

    夜が明けて、あたりが明るくなったら、敵に発見されてしまいます。

    やむなく「回天」は、「高雄」の到着を待たず、単独で宮古湾への突入敢行を決めます。


    「回天」がアメリカ国旗を掲げて、いよいよ宮古湾にはいる。

    官軍の艦隊は、機関の火を落としています。
    夜明け前です。静かです。

    「回天」がじりじりと、「甲鉄」に近づく。

    敵はまだ気付きません。
    暴風雨で、回天の特徴であった三本のマストが二本になっていたのです。
    薄闇の中、官軍側は、それが「回天」とはわからない。

    「甲鉄」に接近した「回天」は、作戦通り米国旗を下ろし、すぐさま日の丸を掲げて、「甲鉄」に接舷します。

    ところが、船の向きを変えて「甲鉄」に並ぶように接舷したくても、時間もない。
    狭い港湾の中で、「回天」の小回りも利かない。

    やむなく「回天」は、「甲鉄」の横腹に、斜め後方から突入します。

    大きな物音がして、「回天」の船首が、「甲鉄」の船腹に突っ込んで乗り上げる。
    「回天」が上になり、「甲鉄」が下になる。
    その高低差、約三メートル。

    甲鉄に接舷する回天
    甲鉄に接舷する回天


    「甲鉄」の隣で警戒にあたっていた薩摩藩籍の「春日」が、この音で敵襲に気付き、味方に知らせるために空砲を鳴らします。

    「甲鉄」の上に、警備の兵隊たちが群がってくる。

    「甲鉄」の甲板に乗り上げた「回天」の船首からは、斬り込み隊36名が、「甲鉄」の甲板に飛び降りようとします。

    ところが、細い船首からでは乗り移る人数が限られる。

    そこへ「甲鉄」甲板上から、最新鋭の機関銃「ガトリング砲」が火を噴きます。

    「回天」甲板上では、乗り移る前に、撃たれ、倒れる兵が続出します。

    それでも、先に「甲鉄」に乗り移った土方歳三、野村利三郎ら7名は、群がる敵兵を次々に切り伏せるとともに、甲板上のガトリング砲を奪い、次々と敵をなぎ倒します。

    そこに「春日」をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も、ようやく戦闘準備を整わせ、「回天」に向かって、集中砲撃を浴びせる。

    甲賀源吾
    甲賀源吾


    「回天」の甲板上では、艦長の甲賀源吾が、「甲鉄」から逆に乗り移ろうとする敵兵を、水兵を指揮して、これを撃退し、また周囲から鉄砲や砲撃を加える敵船に対して、別な手勢を用いて、これに撃ち返し、また砲撃を加えます。

    多勢に無勢です。
    束になって飛んでくる敵の銃弾の中で、甲賀源吾は、左足と右腕を銃弾に撃ち抜かれます。

    それでも源吾は大声をあげ、ながらも甲板上で猛然と指揮をとり続ける。

    まさに八面六臂の奮迅です。

    しかし、群がる敵弾は、ついに甲賀源吾の頭(こめかみ)を撃ち貫き、彼を即死させてしまう。

    形勢不利と見た海軍奉行・荒井郁之助は、「もはやこれまで」と作戦中止を決め、斬り込み隊の回収を図ります。

    高低差三メートルの壁をよじ登って、切り込み隊が帰ろうとする。
    そこに敵の銃弾が襲いかかる。

    「甲鉄」に乗り移った野村利三郎ら5名は、撤収できず戦死してしまいます。

    「回天」に帰還できた者は、土方歳三ほか1名のみ。

    切り込み隊の回収を終えた荒井郁之助は、自ら「回天」の舵を握って「甲鉄」から船体を離し、宮古湾を離脱します。

    この間、およそ30分。


    この敗戦によって、本州・北海道間の制海権を失った榎本らは、五稜郭などへ陸戦に備えることになります。

    函館戦争の先が見えた。
    榎本にとって3月25日は、そんな日であったことかと思います。


    それにしても・・・
    もし、「回天」が突撃前に出会った船が故障した「高雄」ではなく、無傷の「蟠竜」であったなら、この宮古湾の戦いの帰趨は、まったく別な流れになっていたかもしれません。

    もしかすると、「回天」と「蟠竜」は、見事「甲鉄」を奪い、榎本海軍を興隆させ、もしかしたら日本は、蝦夷共和国と大日本帝国の二つの国になっていたかもしれない。

    また、もし、最強軍艦「開陽」が、沈没せずに生き残っていたら、榎本艦隊は、宮古湾決戦をすることなく、「回天」の天才艦長甲賀源吾もまた、生き残れたかもしれない。


    しかし歴史は、季節外れの嵐を起こし、「開陽」を沈め、「回天」「高雄」「蟠竜」の三艦を切り離し、さらに「高雄」を故障させ、「蟠竜」を孤立させた。

    もしかすると、皇国日本を守護する八百万の神々は、榎本が北海道を日本から切り離し、蝦夷共和国を打ちたてようとした段階で、彼を見捨てたのかもしれません。


    神国日本は、北海道から沖縄まで、島諸を含めてひとつの国です。

    そのひとつの国の領土を、バラバラに切り離すようなことを、日本の神々は絶対に認めない。

    そういえば、幕末期、幕府には薩長征伐のために、一時、北海道を質に入れて外国から戦費を調達しようとする動きもあったといいます。

    「たった薩長というたった二国が、この国を牛じるなどということは絶対に許せぬ」
    「北海道に、我らが理想の共和国を」

    そう祈り、大統領公選制という素晴らしい理想を掲げた榎本武楊には、「理」はあったのだろうと思います。
    そして土方歳三、甲賀源吾、野村利三郎ら諸氏も、必死の戦いをした。
    会津の兵士たち、幕軍の兵士たちは、誰もが獅子奮迅の戦いをしています。

    しかし、結果として彼らが官軍に勝てなかったのは、もしかすると「天命」を得ることができなかったからなのではないか。

    ちなみに、昨今、竹島や尖閣列島を、平気で韓国やChinaに渡してしまえという亡国のヤカラが政官界に跋扈しているとききますが、神国日本では、そういうヤカラには、決して「天」は味方しない。

    そして、どんなに努力をしても、どんなに強い経済力を身につけたとしても、古来、日本の歴史の中で、売国の奴は、最後には必ず「敗北」の二字が待っている。

    そう言いきりたいと思います。


    そうそう!!

    甲賀源吾は、遠州・掛川藩の出身です。
    そして築地の幕府軍艦教授所で学び、オランダ語、英語、数学、操船を学んだ逸材です。

    寡黙で、思慮深くありながら、度胸も座っていた。また、部下を愛し、慕われた。

    荒井郁之助は、
    「業を修むるに鋭意にして勤勉倦(う)まず。
     少なしく解せざることあれば手に巻を釋(す)てず。
     暫(しばら)くにして其事を解するに至りて止む」と、探求心の旺盛であったことを賞賛し、早世を惜しんでいます。

    宮古湾の戦いで奮戦し、31歳の若い命を散らせた甲賀源吾について、当時官軍だった東郷平八郎は「今日に至るまで、私の歎賞措く能はざる勇士なり」と書き残しています。

    さらに東郷平八郎は、彼をして「天晴れな勇士」と讃え、「回天」を操船した甲賀源吾の生涯から「意外こそ起死回生の秘訣」であることを学び、そのことが日本海海戦の勝利に繋がったと言っています。

    歴史は、学ぶもの。それが、軍神・東郷平八郎元帥の考え方です。

    そういえば、同志社大学の創立者・新島襄(にいじまじょう)も、若き日に残した和綴のノートの毛筆でオランダ語や計算式が延々書かれた片隅に、「天下英雄、甲賀源吾」という落書をしています。
    彼にとっても、甲賀源吾という逸材は、学ぶに足る人物であったのだろうと思います。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
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