• ライト兄弟より早く飛行機を飛ばした日本人・・・二宮忠八


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    二宮忠八
    二宮忠八



    4月29日は昭和の日。この日は昭和天皇のお誕生日であります。

    ちなみに明治天皇のお誕生日が11月3日。
    明治天皇が10月31日。
    今上天皇が12月23日です。


    そして4月29日は「飛行機の日」でもあります。

    飛行機といえば、ライト兄弟が有名ですが、ライト兄弟が人類初の有人飛行を実現したのは、明治36(1903)年12月17日です。4月ではありません。

    ではなぜ4月29日が飛行機の日なのか。
    今日は、このことを書いてみたいと思います。


    ちなみに、ライト兄弟が、ノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズで、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で、飛ばした飛行機は、最初のフライトが、わずか12秒です。

    4度目の飛行で、59秒、260メートルの飛行が行われた。

    下の写真は、そのときの実写版で、飛行機を操縦しているのが弟のオーヴィル、横にいるのが兄のウィルバーです。

    ライト兄弟
    ライト兄弟


    ところが実は、ライト兄弟よりも12年も前に、飛行機を飛ばしていた人がいるのです。

    日本人です。
    二宮忠八(にのみやちゅうはち)という人です。

    その二宮忠八が、香川県の丸亀練兵場で、わずか10メートルではあるけれど、日本初のプロペラ飛行実験を成功させたのが、明治24(1891)年4月29日、つまり4月29日なのです。

    ちなみに、二宮忠八は、翌日には、なんと36メートルの飛行に成功しています。

    その飛行機は有人ではありません。
    模型と言った方がいいかもしれない。
    しかし、これが人類初の動力飛行実験の成功であったことは、疑いのない事実です。


    二宮忠八は、慶応2(1866)年の生まれですから、このとき25歳の青年です。

    もともと忠八は、伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)の生まれの方です。
    かなり富裕な家の生まれだったそうです。

    しかし、父親が事業で失敗し、さらに二人の兄が遊女に狂って家計が傾いたところに、父親が急死してしまう。

    残された家族を養うため、忠八は、なんと12歳で、一家を支えるために、町の雑貨店に奉公に出ています。

    忠八は、無類の凧(たこ)好きだったそうです。

    いろいろな凧(たこ)を考案し、工夫した忠八の凧は、とてもよく飛んだ。
    この凧は「忠八凧」と呼ばれて、たいそう人気を博したそうです。


    明治20(1887)年になると、忠八は21歳で徴兵されます。
    そして、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。

    入隊2年後のことです。

    野外演習の帰り道、木陰で昼食をとっていると、霧の中からカラスが飛んできた。
    残飯の米粒を求めてやってきたのです。

    よく見かける光景といえば、光景です。

    カラスは、翼を広げ、羽ばたかずに、すべるように舞い降りてくる。
    そして飛び立つときには、何度か大きく羽をあおると、谷底からの上昇気流でサァ~と舞い上がる。

    この様子を見た忠八は、天啓を得ます。

    向かい風を翼で受け止めたら、空気抵抗で空を飛ぶことができる!

    固定翼による飛行原理の発見です。

    そして一年後、ついに「カラス型飛行器」を完成させます。

    カラス型模型飛行器
    カラス型模型飛行器


    明治24(1891)年4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場で、忠八は、自作のカラス型飛行器の飛行実験を行ないます。

    練兵場の仲間たちがみんな見に来た。

    この頃、忠八は、練兵場にある精神科の軍病院に勤務していました。
    その忠八が、飛行機の動力源に選んだのが、なんと医療用聴診器のゴム管です。

    そのゴム管につながった4枚羽根のプロペラが回転する。
    風が起き、飛行機が舞いあがるという仕組みです。

    凧は、糸を人が引っ張って空に浮かべます。
    しかし動力飛行機は、自分の力で、空に舞います。


    忠八が、プロペラを回して、ゴムを巻きます。

    いっぱいに巻いたところで、カラス型飛行機は、そっと地面に置かれる。

    まだ誰も飛んだことのない有人飛行に向けて、忠八の夢いっぱいに乗せた飛行機が、いよいよ練兵場の地面に置かれます。

    忠八が手を離す。

    プロペラが勢いよく回転し、多くの人が見守る中を、カラス型飛行器は、約3メートル助走します。

    そして、フワリと空に舞い上がった。

    ぐ~んと高度を上げた飛行機は、10メートルほど飛んで、草むらに着地します。


    成功です。

    な~んだ。ただのゴム飛行機じゃないかと侮るなかれ!
    人類を宇宙に飛ばすロケットだって、最初の一号機は、ロケット花火程度の小さなモノからの出発です。

    見守る人も忠八も、飛行機が自走して空に舞ったことに大喜びします。
    忠八は、何度も飛行器を飛ばし、翌日には飛距離を30メートルに伸ばした。


    自信をつけた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手します。

    いろいろ研究した。
    有人飛行の研究のために、忠八は、鳥類の体型を詳細に調べるだけでなく、鳥や昆虫、トビウオから、天女や天狗などにいたるまで、およそ「空を飛ぶもの」ならなんでも調べた。

    そして、鳥の体型にヒントを得た「カラス型」では人間の体重を支えきれないことを知ります。

    どうしたらいいのか。

    忠八は、昆虫の飛行を研究し、4枚羽根の飛行機を完成させます。
    明治26(1893)年のことです。

    この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられます。


    「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されています。
    ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。

    ただし、翼幅は2メートルです。
    有人飛行を前提にしながらも、この飛行機は、実機の縮小模型として作られた。

    飛んでくれれば、まさに、世界初の実用機となるはずの飛行機です。

    さらにこの飛行機は、人間が搭乗することを前提に、空中で飛行機の向きを上下左右など自在に操れる工夫がしてあります。

    玉虫型飛行器
    玉虫型飛行器


    いよいよ、飛行実験がはじまります。

    動力は、強力なガソリンエンジンを搭載して、といいたいところですが、なにせ当時としてはまことに高価なガソリンエンジンを買うだけの資金がありません。

    そこで、機体をゴムヒモだけで飛ばせる最大サイズで作り、烏型と同じ4枚羽の推進式プロペラを機尾で回転させます。

    そして、「玉虫型飛行器」は、
    実験で、10メートルを飛行します。


    大成功です。

    残る問題は、動力源です。

    いかんせん、ゴム紐エンジンでは、人が乗るわけにいきません。

    しかし、まだ電気すら通っていない明治の中頃のことです。
    ガソリンエンジンなんてものは、あまりに高価で、庶民が個人で買うことはできない。

    石炭を焚く蒸気機関では、重すぎて飛行機になりません。

    忠八は、飛行機は、絶対に戦場で役に立つ!と考えます。

    だから軍で、この研究を引き取ってくれないか。

    忠八は、「飛行器」の有効性とその開発計画について、必死でレポートにまとめ、有人の「玉虫型飛行器」の開発を、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申します。

    個人では資金がないのです。
    このままでは実機を作れない。
    軍が研究を採用してくれれば、発動機を入手することも可能です。

    しかし、なんど足を運んでも、長岡大佐の返事は「戦時中である」。大島旅団長も乗り気でない。

    二宮の趣味や夢物語に、軍予算をまわすわけには行かなかったのです。


    あと一歩。あとすこしで有人飛行機が完成するのです。
    発動機さえあれば。エンジンさえ買うことができれば。


    忠八は、必死に考えます。

    そして、軍の協力が得れないならば、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかない、と考えます。

    忠八は、軍を退役し、大日本製薬に入社します。
    必死で働いた。

    頑張ればその分、給金があがるのです。
    だから本気で働いた。

    忠八は、みるみる成績を挙げ、ついに明治39(1906)年には、愛媛の支社長にまで出世します。

    支社長になった忠八は、すこし時間に余裕が生まれます。
    そして、それまで、一生懸命蓄えたお金も、ようやくある程度の金額になります。

    明治40(1907)年、忠八は、精米器のための二馬力のガソリンエンジンを購入すると、再び飛行機の研究を再開した。

    ところが、せっかく購入したエンジンなのだけれど、さすがにニ馬力では、人間を乗せて飛ばすだけの推力が生まれない。力不足なのです。

    しかし、当時、徐々に入荷しつつあったオートバイ用のガソリンエンジンは、まだ高く、忠八の手は届かない。

    いろいろ考えた忠八は、ガソリンエンジンの部品を少しずつ買い集め、エンジンそのものを自作しようと考えます。

    すこしずつ器材を買い揃えはじめた。

    不思議なことに、このとき忠八が自作しようとしたエンジンは、12馬力エンジンです。
    実は、ライト兄弟の「フライヤー1号」も、12馬力エンジンです。

    そのライト兄弟ですが、いまでこそ、世界初の有人飛行として有名になっていますが、明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の有人飛行というのは、アメリカ本国内ですら、当時はまるで報道されていなかったのです。

    ライト兄弟自身が、アイディアの盗用を恐れてなかなか公開飛行を行わなかったこともありますが、地上すれすれに僅かの距離を飛んだということが、この時代には、まだ、すこし「大型の凧上げをやった」だけ、くらいにしか一般には認識されなかった。

    ようやくライト兄弟による有人飛行成功が広く世間に広まったのは、明治40年頃だといわれています。
    日本でも、初めて報じられたのは、雑誌「科学世界」の明治40(1907)年11月号です。

    おそらく、忠八が、ライト兄弟のことを知ったのも、このときではなかったかと思われます。


    これはショックです。

    一説によると、このとき忠八は、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話もあります。

    実際に壊したかどうかは別として、忠八にとって、このことがとてもつらく、悔しかったであろうことは、容易に想像できることです。
    人生をかけてやってきたことの、すべてを失ったという感情にさえなったかもしれない。

    結局、忠八は、このときのショックから、飛行器の開発を取りやめてしまいます。
    そして薬の製造の仕事にうちこみ、明治42(1909)年には、マルニを創業します。


    ところでこのとき忠八が製作しようとした飛行機は、長い間重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。

    平成3年10月、有志によって、忠八の当時の設計図通りに、実機が作られます。

    なんと、この飛行機は、見事、故郷の八幡浜市の空を舞った。


    大正8(1919)年といいますから、このとき忠八は、53歳。

    明治から大正にかけての日本人の平均寿命は、44~45歳くらいだといいますから、いまの感覚でいったら、60歳くらいの社長さんという感じかもしれない。

    二宮忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会に恵まれます。

    このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がります。

    この白川義則という人、後年、陸軍航空局長を務め、最終階級は、陸軍大将になるお方です。後に関東軍司令官、上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任した人物でもある。
    タダモノではありません。

    忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にその上申があったかをすぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じます。

    すると、見事、正しい。

    なんと、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたのです。

    白川は、陸軍その他に働きかけ、大正11(1922)年に忠八を表彰します。
    さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動してくれた。

    おかげで忠八は、大正14(1925)年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、
    大正15(1926)年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、
    昭和2(1927)年には、勲六等に叙勲され、
    さらに忠八の物語は、昭和12年度から、国定教科書に掲載されます。

    このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪している。

    ちなみに、このときの長岡大佐の謝罪は、上から強制されたものではありません。
    もうとっくに軍を退役したおじいちゃんです。
    いまさら命令もない。

    彼は、自らの不明を恥じ、自らの意思で忠八に頭を下げに来た。
    これは、実に素晴らしい、男らしい振舞だと思います。

    誰だって、自分を正当化したがる。
    失敗を他人やご時世の「せい」にしたがる。
    そうやって、自らの責任から逃れようとする。

    しかし長岡大佐は、自らの非を認めた。
    自分に厳しいから、他人に対して頭を下げることができるのです。
    往々にして、他人に罪をなすりつけたがるタイプの人は、自分に甘い。

    長岡大佐は、実に立派な人であったと思います。


    飛行機は、その後、瞬く間に世界に普及します。

    ただし、初期の頃の飛行機です。
    事故も多かった。

    満足な滑走路も、飛行管制塔もない時代です。
    エンジン性能も、いまどきのエンジンのように安定したものではない。

    そのため、飛行機事故で、多くの人が命を失っいました。

    忠八は、ずっと持っていたのです。
    飛行機を作るために貯めたお金、懸賞でいただいたお金をです。

    彼は、自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われたことに、深い悲しみを覚えます。

    そして、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立し、自ら神主になった。

    そこで生涯、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に一生をそそぎます。

    忠八は、昭和11(1936)年、70歳で逝去されます。

    飛行神社
    飛行神社


    二宮忠八は、ライト兄弟のような有人飛行機を飛ばすには至っていません。

    しかし、ライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理に着想しました。

    二宮忠八が飛行機の開発にいそしんだ時代は、まだ日本に電気はありません。
    動力もままならなかった。

    そんな中で、世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。

    ちなみに、日本語の飛行器(機)というのも、二宮忠八の造語だとか。

    それに飛行機に対する愛情だけでなく、飛行機を通じて亡くなられた方々の慰霊のために、私財をなげうって神社を設立したというのも、実に立派です。


    それにしても、ライト兄弟よりもずっと前に、日本で飛行機が実際に研究され、作られていたんだって、なんだか感動です。

    そしてこのお話は、戦前の教科書にはちゃんと載ってたんですね。

    どうして教科書から消してしまったのだろう。
    こういう話って、絶対、学校で教えるべきだと思います。


    それと、天の神々が、二宮忠八ではなく、最終的にライト兄弟に世界初の有人飛行の手柄を譲ったこと。

    それについて、こんな話を聞きました。

    発明や発見というのは、その人一代限りの名誉でしかなんだよ。
    人類は、飛行機の発明で、これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
    このことは、たいへん意義深いことであると同時に、人類は、未来永劫、飛行機による殉難者を抱えることになる。

    その慰霊ができるのは、日本人である二宮忠八しかいない。

    だから神々は、忠八の手柄を、ライト兄弟に譲ったのさ。

    もしかしたら、それがほんとうなのかもしれませんね^^

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    明治時代の玉虫型飛行器 再現RC機
    (ほんとうに良く飛んでます)



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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
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『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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