日清戦争における我が国の戦死者の数は、合計で1万3,311名です。 このうちの9割にあたる1万1,894名が病死です。大陸は、我が国では考えられないほど、衛生環境が劣悪だったのです。 そうしたなかにあって、戦場は、何も男ばかりの前線だけではありません。銃後の病院看護婦たちもまた、感染症という病気の最前線で戦争を戦っていたのです。 岩崎ゆきは1929年、日清戦争で亡くなった兵士とともに靖国神社に祀られています。 |

画像出所=https://www.redcross.ac.jp/about/history
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日清戦争(1894〜95年)では、日本男児の武勇伝が語られることが多いが、実は、女性も奮闘していました。
そのひとりが、日本赤十字社京都支部の看護婦だった岩崎ゆきです。
十七歳の岩崎ゆきは、数多くの候補者から選抜され、チャイナ戦線で感染症を患った兵が収容される広島陸軍予備病院に赴任しました。
戦時において、看護はもともと男性の仕事とされていました。
陸軍でも当初、予算と風紀の問題により、女性看護婦の受け入れには否定的でした。
軍人が女性問題を起こせば、軍の名誉が失墜するからです。
ただ赤十字の強い要請によって、数人の女性が受け入れられました。
岩崎ゆきはそのうちのひとりでした。
岩崎ゆきは「女性の代表」という自覚のもとに看護にあたりました。
しかし勤務開始から半年後、感染症の腸チフスにかかり、この世を去ってしまう。
彼女はどのような思いで看護にあたっていたのか。
少々長くなるが遺書を紹介したいと思います。
***
「お父さま、お母さま、
ゆきは大変な名誉を獲得いたしました。
家門の誉れとでも申しましょうか。
天皇陛下にゆきの命を喜んで捧げる時が来たのであります。
(中略)
勿論予防事項については充分の教えは受けて居ります。
しかし強烈あくなきばい菌を取扱うのでありますから、
ゆきは不幸にして何時感染しないとも限りません。
しかし、お父さま、お母さま、考えても御覧下さい。
思えば思う程この任務を命ぜられたのは
名誉の至りかと存じます。
(中略)
今日で私の病室からは十五人もの兵士達が死んで行きました。
身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな眠りであります。
また中には絶叫する兵士達もありました。
「死は残念だぞ!
だが死んでも護国の鬼となって
外敵を打たずに済ますものか」と
苦痛を忘れて死んでいったのです。
あるいは突然「天皇陛下万歳!」と叫ぶので
慌てて患者に近寄りますと、
そのまま息が絶えていた兵士達もありました。
しかも誰一人として
故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで
逝ったものはありません。
恐らく腹の中では飛び立つほどに
故郷の空が懐かしかったでありましょう。
ただそれを口にしなかっただけと思われます。
(中略)
しかしゆきは厳格なお父様の教育を受けた娘であります。
決して死の刹那に直面しても
見苦しい光景などは残さない覚悟で居ります。
多くの兵士達の示して呉れた
勇ましい教訓通りにやってのける決心であります。
決してお嘆きになってはいけませぬ。
男子が御国のために名誉の戦死をしたと
同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。
***
まるで古武士のような覚悟が伝わってきます。
岩崎ゆきは、懸念した問題も起こさず活躍したことで、その後、軍隊での女性の採用が認められるようになりました。
戦後、女性看護婦が一般化したのも、岩崎ゆきのような尊い犠牲があったためです。
日清戦争における我が国の戦死者の数は、合計で1万3,311名です。
このうちの9割にあたる1万1,894名が病死です。
大陸は、我が国では考えられないほど、衛生環境が劣悪だったのです。
そうしたなかにあって、戦場は、何も男ばかりの前線だけではありません。
銃後の病院看護婦たちもまた、感染症という病気の最前線で戦争を戦っていたのです。
岩崎ゆきは1929年、日清戦争で亡くなった兵士とともに靖国神社に祀られています。
※この記事は2015年9月の記事の要約です。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行でした。
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