• 身分や地位、家柄などよりも前に、誰もが同じ人間と考えてきた日本


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    終戦後のことです。
    戦犯として収容され、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接した中将がいました。
    君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。


    20210123 醍醐忠重
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%BF%A0%E9%87%8D
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    このお話は、これからも何度でも再アップしていこうと思っています。
    日本人としての生き方の根幹があると思うからです。

    昔のことです。
    お公家さん出身の海軍中将がいました。
    名を、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将といいます。
    終戦当時、日本海軍の第六艦隊司令長官だった方です。

    第六艦隊というのは潜水艦の艦隊です。
    この醍醐陸軍中将という人の生きざまを通じて、我が国の貴族というものが、どのような人たちであったのか。
    いまいちど考えてみたいと思います。

    醍醐中将は、明治二十四(1891)年、名門貴族の醍醐家の嫡男としてお生まれになりました。
    醍醐家というのは、旧侯爵家です。れっきとした華族のご出身です。
    華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
    けれど醍醐中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人でした。

    醍醐中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めています。
    けれど醍醐中将がまだ八歳の頃に他界されました。
    母も相次いでお亡くなりになり、醍醐忠重は、孤児となって一條家にひきとられました。

    子供の頃の醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
    そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
    とても強かったそうです。

    明治四十二(1900)年に、海軍兵学校に、第四十期生として入校しました。
    入校時の成績は、百五十名中、百二十六番だったそうです。
    それが入学後の猛勉強で、卒業時には百四十四名中、十七番になっていました。
    たいへんな努力家であったということです。

    兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐中将は、「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、上品で服装もきちんとしていた。酒を飲んでも少しも乱れることはなく、謹厳で、しかも謙譲な奴だった」そうです。

    昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
    卒業すれば、その日から高級士官になるからです。
    けれど醍醐中将は現場勤務を選択しました。

    海軍では、はじめ巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になりました。
    そして大正六(1917)年に、初の潜水艦勤務に就きました。
    このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生を決定づけました。

    当時大尉だった醍醐のもとに、練習艦隊参謀にという内示があったけれど、彼は断りました。
    醍醐中将は、生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

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  • 大塩平八郎の檄文


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    先日、大塩平八郎の檄文を倭塾でご紹介したのですが、みなさん、スクリーンに映し出されたその檄文(現代語訳したもの)を、そのまま写メされていました。
    大塩平八郎の檄文は、それほどまでに、現代にそのまま適合する内容だったのです。

    大塩平八郎の檄文
    20200719 大塩平八郎の檄文
    画像出所=https://twitter.com/shishinosenzi/status/923116798496489472/photo/1
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    小名木善行です。

    大塩平八郎といえば、学校で「大塩平八郎の乱」として習う人なので、ご存知の方も多いかと思います。
    天保8(1837)年、彼は大阪で飢饉にあえぐ民衆を救おうと蹶起(けっき)し、破れて自決しています。

    この蹶起の際に、彼は「檄文」をしたためています。
    この檄文は、彼の人柄を示す実に見事な書で、また内容もたいへん立派であることから、彼の死後も書写の手本となって全国に広がりました。
    そして、彼の思想と行動は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らへと受け継がれ、黒船来航という外圧が起こった際に、いっきに全国運動となって幕末動乱から、明治維新へとつながります。

    下に掲載しますが、この檄文の内容は、いまの米国大統領戦にも、まったく同じことがあてはまるでしょうし、また日本の政治にもあてはまることではないかと思います。
    是非、ご一読賜りたいと思います。

    先日、大塩平八郎の檄文を倭塾でご紹介したのですが、みなさん、スクリーンに映し出されたその檄文(現代語訳したもの)を、そのまま写メされていました。
    大塩平八郎の檄文は、それほどまでに、現代にそのまま適合する内容だったのです。

    大塩平八郎の乱は、明治維新の30年前のできごとです。
    檄文、乱、といえば、三島由紀夫の自決が昭和45(1970)年でした。
    はやいもので、あれからもう半世紀が経過しています。
    しかしコロナショックは、いま日本を目覚めさせようとしています。

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  • 「ひふみ」のお話し


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    大切なことは、もとからある日本文化を取り戻し、日本人としての自覚と自信を取り戻すこと。
    そのための重要な要素が、日本人の日本人による日本人のための日本的文化性です。
    これが原点になるからです。いわばルネッサンス運動です。
    そして原点に日本の要素が回復されるとどうなるか。
    こたえは、日本人のハートに「希望とぬくもり」がもたらされます。
    混迷の時代に、もっとも大切にななものが、このハートの「希望とぬくもり」です。

    20201231 宝船
    画像出所=https://illust8.com/contents/11809
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    小名木善行です。

    日本て、かっこいいです。
    数詞だってかっこいい。

    「いち、にぃ、さん・・・」の他に、「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や、ここ、とぉ」という数詞があります。
    ところがこの数詞、昔から算術にはまったく使われません。
    「1+2」を、「ひぃたすみぃ」とは言いませんよね。
    計算するときは、昔も今も「いちたすに」です。

    では、そんな計算に使わない(使えない)数詞が、どうして使われ続けたのか。
    昔は、幼い子どもがお父さんとお風呂に入って、
    「とうちゃん、もうお風呂出ていい?」
    「よし!じゃあ、とぉまで数えたら、出ていいぞ」
    「はい。わかった。
     ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ〜〜〜〜」
    なんて会話が普通にあったものです。
    イメージ的には、鬼滅の刃の竈門炭治郎が幼稚園児くらいだった頃には、必ずそんな会話が、これは全国のあらゆる家庭で繰り返されてきました。

    つまり「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ」という数詞は、幼い子が、「いち、にぃ、さん」より先に教えられていたのです。
    ここで不思議なことがあります。
    それは
    「どうして昔の日本では、
     計算するときに役に立たない数詞が、
     計算に役立つ数詞よりも先に教えられていたのか?」
    という疑問です。

    実はここに日本の秘密があります。
    数詞と書いて「かぞえことば」と訓読みするのですが、その数詞には、二通りの意味があったのです。
    ひとつは、いまでも計算に使う「いち、にぃ、さん」です。
    これは算術に使う「数詞(すうし)」です。

    もうひとつは、「ひ、ふ、み」です。
    これは、日本人としての道徳観や文化の本質を伝えるために使う数詞(かぞえことば)です。
    日本語の最大の特徴である「一字一音一義」を伝えるものであったのです。
    言い換えれば、文化を「「かぞえことば」で学んだのです。

    そしてこの根幹にあるのが、いちばんはじめにある「ひ、ふ、み」です。
    これは霊主体従(れいしゅたいじゅう)を表します。
    「ひ」が霊(ひ)、「ふ」が生、「み」が身です。
    ですから「ひふみ」は「霊生身」で、霊(ひ)《魂のこと》から身が生まれることを表します。

    人が霊を持たず、人には身しかなく、死んで身が滅んだら、すべてがおしまい、というのなら、人は我が身の贅沢だけのために生きることになります。
    そのためには、他人を踏み台にしたり犠牲にしてもいっこうに構わないし、仕事は人が見ているときにだけやって、監督がいなくなったら、サボタージュがあたりまえになります。
    それは、魂の概念を持たない、まるでどこかの国の人達と同じです。

    ところが日本人は、魂《霊(ひ)》という概念を持ちます。
    たとえ肉体は乞食をすることがあっても、自分の霊《霊(ひ)》だけは決して穢さない。
    なぜなら、身は今生限りのものですが、霊(ひ)の記憶、魂の記憶は、来世にまで影響を与えるからです。

    さらにいうと、仏教では死んだ人の魂は、極楽浄土へと旅立ちますが、日本の縄文以来の神道では、死んだ家族の魂は、その家の守り神になります。
    つまり、自分で自分の霊(ひ)《魂》を穢してしまったら、それは子や孫、そして末代にまで影響を及ぼしてしまう。
    そうであれば、たとえ人が見ていないときにでも、しっかりと行きなければならないし、他人を踏み台にしてはいけない。
    人をたすけ、人とともに共同し、協力しあって、自分たちみんなとともに、未来への希望を築いていく。
    それが「積小為大」です。
    小さなことの積み重ねが、偉大な事を成すのです。



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  • コンゴに学ぶ


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    コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。
    ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。

    コンゴ民主共和国



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    いまの話題は、どちらかといえば大統領 選挙に絡む今後(こんご)のお話なのでしょうけれど、どうも筆者はへそ曲がりなので、そうではない方の「コンゴ」のお話をしてみたいと思います。

    このお話を最初にねずブロに書いたのは2013年5月のことです。
    以来、毎年1回はこのお話を掲載しています。
    なぜなら、自分たちの手で国を守ることの大切さが、世界史の中でコンゴを学ぶことで明らかになるからです。
    米国の今後は、なるほどこれからの日本に多大な影響を与えることと思います。

    けれど、他人の影響ばかりを気にしていても仕方がないのです。
    大切なことは、「自分がどう生きるか」です。
    それが国家であれば、「自分たちが自分たちの国をどうしていかなければならないのか」です。

    中東からアフリカ一帯の諸国は、あまり日本人にはなじみがないところかもしれません。
    けれど、これまでヨーロッパ諸国がそれら地域に介入し、現地でどのようなことがあったのか。
    それを知る意味で、1996以降のわずか19年で、600万人が亡くなったコンゴは、そのひとつの典型といえるところかもしれません。

    「ザイール」という国名を聞いたことがある方も多いかと思います。
    昭和46(1971)年にルワンダの支援を受けたコンゴの反政府勢力が打ち立てた国で、その後も内乱と戦闘が相次ぎ、平成9(1997)年5月に、再び国名が「コンゴ」になりました。

    コンゴは実は、15世紀の終わり頃まで、この国はコンゴ王国として、王制のもとに各部族が統一され、近隣諸国とさかんな交易も行われる、平和でたいへんに栄えた国だったのです。
    それがなぜ、いまだに内乱の中にあるのか。
    実はそこに植民地支配の恐ろしさがあります。

     ***

    はじめにコンゴに、西洋人たちやってきたのは、1482年のことです。
    ポルトガル人がやってきました。
    同じ時期、少し遅れて日本にもポルトガル人がやってきました。
    「鉄砲伝来」で、1543年(1542年という説もあり)のことです。
    コンゴにポルトガル人がやってきた、わずか60年後です。

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  • だけども僕はやる・・・中田厚仁さん


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    「だけども僕はやる。
     この世の中に、
     誰かがやらなければならないことがあるとき、
     僕は、
     その誰かになりたい。」

    カンボジアで活躍したありし日の中田厚仁さん
    カンボジアで活躍したありし日の中田厚仁さん



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    中田厚仁(なかたあつひと)さんのことを書こうと思います。
    昭和43(1968)年1月生まれですから、生きていれば今年53歳です。

    中田さんは、平成5年4月8日に、カンボジアで選挙監視員として活動中に、何者かから至近距離で2発撃たれました。
    銃弾は、一発が左側頭後部から左目にかけて貫通し、彼は「I am dying.(私は死んでいきます)」という言葉を最期に、25歳の若い命を散らせました。

    当時のカンボジアは、20年もの内戦が続き、全土に1千万発ものチャイナ製の地雷が埋められていました。
    日本の宇野宗佑外務大臣の努力で、カンボジアの停戦に関する国際会議が日本で開かれ、カンボジアに停戦と和平、そして国民の意思を尊重した総選挙が実施されることになったのが、平成2(1990)年のことです。

    日本で、他国の戦闘行為をめぐる国際会議が開催されたのは、実は、これが戦後初のことです。
    これは日本が、世界で初めて国際社会から独立国として承認されたことを意味し、その功績によって宇野宗佑氏は、内閣総理大臣に就任しています。
    ところが「指3本事件」という軽薄な下ネタで、彼は世間の笑いものにされ、わずか2週間で総理の職を辞しています。

    カンボジアの平和に、世界でもっとも大きな功績を持った宇野氏は、そのカンボジアの内紛に乗じて粗悪品の地雷を売って金儲けをしている中共政府からみたら、大敵でした。
    失脚はそのための報復工作だったと言われています。
    このあたりの事情については、当ブログの過去記事、
    ≪アンコール遺跡とカンボジア≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-691.html
    に詳しいので、そちらをご参照ください。

    実は、地雷というのは、とてつもなく原始的で、人類史上もっとも劣悪な人道上許せない最低最悪の卑劣な武器と言われています。
    どういうことかというと、地雷には、人を殺すだけの威力がない。
    殺さずに、腕や足を吹っ飛ばすして、大怪我を負わせるのです。

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  • 英霊に贈る手紙


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    私達日本人は、いまの肉体だけの幸せや富のためばかりに生きる民族ではありません。
    過去から現在、そして未来へと続く時間という横軸と、お亡くなりになられて天におわず御魂と、いま我々が生きている地上社会という地、つまり天地という縦軸が交差しているところで、中今(なかいま)に生きているのが日本人です。
    そして過去からの心を未来につなぐ。
    それは何より、未来を担う子どもたちの幸せを願ってのことです。
    世の大人たちにとって、このことはとても大切なことです。

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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    もう6年前になりますが、2015年に発売された本で『英霊に贈る手紙』(青林堂)という本があります。
    散って英霊となられた方々に、ご遺族が綴ったお手紙集です。
    出版にあたり、寄せられたご遺族からのお手紙は584通にのぼったそうです。
    今回、その中から珠玉の60通のお手紙が、この本に収録されています。

    その中に、アッツ島で玉砕した山崎保代陸軍中将の娘さんのお手紙が掲載されていました(164頁)。
    山崎中将とアッツ島の玉砕のことは、当ブログの過去記事「5月29日アッツ島玉砕」でご紹介させていただきました。
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1906.html">http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1906.html

    アッツ島守備隊2,650名、その最後の玉砕戦が終わった後、累々と横たわる日本の突撃隊の遺体の先頭には、山崎中将のご遺体がありました。
    これは米軍が確認した事実です。

    山崎中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいました。
    当然のことながら、先頭はいちばん弾を受けます。
    おそらく山崎中将は、途中で何発も体に銃弾を受けたことでしょう。
    その度に、倒れられたのでしょう。
    それでも中将は、撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がって、そしてついに味方の兵が全員玉砕したときにも、山崎中将は突撃隊の先頭に這い出て、こときれていました。
    享年51歳でした。

    米軍戦史は、このときの戦いを次のように記しています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」

    そんな山崎中将以下のアッツ守備隊に向けて、昭和天皇は、
    「すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」
    と指示されました。

    アッツ守備隊は、すでに突撃し、全員お亡くなりになったあとのことです。
    杉山参謀総長が、
    「閣下、電報を打ちましても、
     残念ながらもう通じません」
    と、お答えしたところ。陛下は、
    「たしかに、その通りだ」と、うなずかれ、
    「アッツ島部隊は、最後までよく戦った。
     そういう電報を、杉山、打て」
    とおっしゃっられました。その瞬間、涙があふれて。

    山崎中将への娘さんの手紙には、中将が、家で食事をしているときにも、ふと箸を置かれ、隊に電話をかけ、
    「今夜は風も強いし寒いから十分火の用心をし、
     営倉の兵は特に寒いだろうから
     水筒に熱い湯を入れて差し入れるように」
    と、いつも兵隊さんのことを気にかけ、その親御さんの気持になって、大切にしておられた、そんな人であったエピソードが綴られています。

    昨年、靖国神社遊就館で行われた「大東亜戦争七十年展」に、その娘さんが行かれたところ、お父さんの山崎中将の遺影の下に、
    「兵の名前と顔を1ヶ月で覚え、
     ひとりひとりに声をかけてまわり、
     分け隔てなく部下に接するその人柄に、
     皆感激して奮い立った」
    と、生還された方の証言が書かれていたそうです。

    娘さんは、そんな父のエピソードを、そこではじめて知り、
    「兵隊さんを大切に思う
     お父様のお気持ちと
     そのご苦労に頭が下がりました。
     皆様のご冥福を祈りながら。
     さようなら」
    と綴られています。

    おひとりおひとりの英霊へのご遺族のお手紙。
    そのお手紙は、いまを生きるわたしたち日本人全員から、英霊の皆様に贈るべき感謝のお手紙なのではないかと思います。

    私達日本人は、いまの肉体だけの幸せや富のためばかりに生きる民族ではありません。
    過去から現在、そして未来へと続く時間という横軸と、お亡くなりになられて天におわず御魂と、いま我々が生きている地上社会という地、つまり天地という縦軸が交差しているところで、中今(なかいま)に生きているのが日本人です。

    そして過去からの心を未来につなぐ。
    それは何より、未来を担う子どもたちの幸せを願ってのことです。
    世の大人たちにとって、このことはとても大切なことです。

    1冊1200円+税で、決してお高い本ではないかと思います。
    是非、一家に一冊、そしてお友達の方にも、お薦めいただければと思います。



    お読みいただき、ありがとうございました。
    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行でした。


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  • 私心と政(まつりごと)


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    「ねずラジ」は、筆者が12年にわたって書き綴ってきたブログの記事4000本の中から、選りすぐりの記事をベースに対談形式でお届けするラジオ番組です。もちろん、ただ過去記事を読み上げるだけでなく、その都度補足しながら、より理解が深まるように話しています。意外と人気で、リスナーが多いのでびっくりしています。
    詳細はこちら→https://www.ishikikaikaku.jp/nezuraji/



    一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではありません。
    そのために殿様は、世襲にして生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されました。
    食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様であったのです。

    雪の名古屋城
    20170125 雪の名古屋城
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    小名木善行です。

    劇などで、お殿様役の役者さんが、「よは満足じゃ」と語るシーンがあります。
    ここでいう「よ」とは、いったい誰のことなのでしょうか。

    現代漢字では、「余」とか「予」が充てられます。
    けれど本来は、実は「世」です。
    ただ、「世」と書くと、なんだか大上段に振りかぶった大言壮語みたいで生意気なので、すこし遠慮して「余」とか「予」を書きました。

    音はあくまで「よ」です。
    そして「よ」とは「世」のことです。

    以前にこのことを書いたときに、ムキになって、「ねずがまたウソを書いている。よ、という一人称は、漢字で予や余、世と書くのが習わしだ」などと、わかったようなことをさかんに書き立てていた人たちがいましたが、おそらく、わからない人(=心のねじ曲がった人)には、永遠にわからないことだと思います。
    そもそも日本語を、西洋的な人称という概念だけで捉えようとしていること自体が、すでに間違いです。

    なぜ「世」なのかというと、人の上に立つ者、つまり殿様は、「私」を持ってはならないとされてきたからです。
    それが日本です。
    これはとっても厳しいことです。
    殿様は、幼少期から徹底的にこのことを教育されました。
    なにしろ「私心を持ってはいけない」ということは、昔の武士たちのイロハのイの字よりも前に来る、基本中の基本だったのです。

    いまの子どもたちなら、
    「俺、これ食べたーい」とか、
    「あたし、これほしいわ」とか、
    「オイラ、これが一番いい!」などという言葉は、ごくあたりまえの日常語です。
    けれど、殿様の家庭では、これらはすべて禁語です。
    なぜなら、「俺が、私が」という言葉自体が、私心のあらわれだからです。

    このことは徹底していて、私文書の典型である日記を書くときにも「私」を示す一人称は用いてはならないとされました。
    「母が私に七草粥(ななくさがゆ)を作ってくれた。
     私はそれをとても美味しいと感じた」
    のような、完全に自分の感じたことを書く文でも、
    「母の作る七草粥は、とても美味しいものであった」
    と書くものとされました。
    「誰がそう感じたのか」は、書くものではないとされていたからです。

    これは、他の人を優先するとか、譲り合いの精神とも違います。
    私心を徹底的に排除するという思想からきているものです。
    武家において大切なことは、どこまでも世ため、人のためであり、それ以外は「ない」とされてきたのです。

    だから必要があれば、自分の腹に刃を突き立てます。
    それはとっても痛いことです。
    けれど、痛いというのは私心です。
    それが「世のため」であれば、痛いなどと言ってはいられないのです。

    領内でとても良い、おいしい大根ができた。
    それを食べてみた。
    すると本当に美味しかった。
    だから、「世の人々は満足するであろう」という意味で言う言葉が、
    「世は、満足じゃ」
    なのです。

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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