つらいことがあっても、かなしいことがあっても、凹んでも、 それでも清陽な心を失わない。 それが人間です。 だから、人はあたたかい。 そう信じて、希望をもって中今(なかいま)を生きるとき、道は必ず開けてくる。 |

画像出所=https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/Z5ZoK
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日本書紀の冒頭に「清陽」という文字が見られます。
このように書いて「すみてあきらか」と読みます。
「清(きよ)い」ことは大切です。
だから、体のよごれを落とすためにお風呂に入ることが大切なように、魂のけがれを払うために神社に参拝したり、お祓いをしてもらったりすることもまた、とても大切なことです。
けれど、
日本書紀は、それだけではダメだ、と書いています。
どういうことかというと、もうひとつ、
「陽」でなければダメだ、と書いているのです。
「陽」という字は、このようにかいて「あきらか」と読み下しますが、さらに「あかるい、ほがから」といった意味を持ちます。
つまり日本書紀は、清らかであるだけでなく、公明正大であること、そしてほがらかであること、陽気であることが大事だと書いているのです。
どこに書かれているのかというと、それが、日本書紀のいちばんはじめです。
いまはお正月、年のはじめです。
そこで、この該当箇所を、皆様とご一緒に読んでみたいと思います。
できれば、声に出してお読みいただくと、なお実感がわかるかと思います。
いにしへの 古
あめつちいまだ わかれずに 天地未剖
かげあきらかも わかれずに 陰陽不分
とりのこのごと こんとんの 渾沌如鶏子
ひろがるうみに きざしあり 溟涬而含牙
すみてあきらか なるものは 及其清陽者
うすくたなびき あめとなり 薄靡而為天
おもくてにごり たるものは 重濁者
つつひてつちと なりにけり 淹滞而為地
くはしきたへは ひろがりて 精妙之合博易
おもくにごるは かたまりがたし 重濁之凝竭難
ゆへにさきには あめがなり 故天先成而
のちにはつちが さだまりぬ 地後定
しかるののちに かみなかになる 然後神聖生其中焉
ゆへにいはくは かひびくの 故曰開闢之
はじめくにつち うかぶのは 初洲壞浮漂
うをのみずにて あそぶがごとし 譬猶游魚之浮水上也
このときあめと つちのなか 于時天地之中
あしかびのごと なりますは 生一物状如葦牙
すなはちかみと なりたまひ 便化為神
くにのとこたち みこととまをす 号国常立尊
つぎにはくにの さつちのみこと 次国狭槌尊
つぎにとよくむ ぬのみこと 次豊斟渟尊
このみはしらの かみさまは 凡三神矣
あめのみちにて ひとりなす 乾道独化
ゆゑにすめれる をとことなれり 所以成此純男
《現代語訳》
大昔、天地がまだ分かれていなくて、陰陽もまた分かれていない混沌としたなかに、ほのかな兆(きざ)しがありました。その兆(きざ)しの中の清陽(すみてあきら)かなものが薄くたなびいて天となり、重くて濁(にご)っているものが、停滞して地(つち)になりました。美しく言いようもなく優れたものは広がりやすく、重くて濁ったものは固まりにくかったため、先に天が生まれ、後に地が定まりました。
その後に、神聖なるものがあらわれました。これが天地開闢(てんちかいびゃく)のはじめです。この天地開闢のとき、はじめに州(す)が浮かび漂いました。それはまるで、魚が水の上で遊んでいるかのような様子でした。そしてこの天地の中に、葦(あし)のようにスクスクと育つものがありました。それはついには神となりたまいて、国之常立尊(くにのとこたちのみこと)と号しました。次には国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次には豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)がお生まれになりました。
この三柱の神様は、乾道(あめのみち)に独りで化(な)られた神様です。ですからこの三柱の神様は、純男(すめれるをとこ)の神と申します。