• 日本の蘇生が世界を救う


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    陰謀論とかDSとか、被害者になりたい意見が目立つ昨今ですが、いま日本は、目先の欲望ではなく、人々の愛によってもたらされる豊かで平和な社会という、夢のようなことを現実にする新たな変化が起こりつつあります。どんなときにも朗らかに希望を持って生きること。ゆるぎない確信を持って前にすすむこと。未来はそこからはじめて開かれていくのだと思います。負け犬になってはだめです。

    20210608 縄文時代の暮らし
    画像出所=http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/jomon/souki.html
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    昔は結婚が早くて、だいたい17歳くらいで最初の子が生まれたりしていました。
    残念なことに、その子が幼児のうちに亡くなるということが多くあったため、はっきりとした跡継ぎが生まれるのが、だいたい平均したら20歳くらいであったといわれています。

    すると、100歳まで生きたら5世代を見ることになります。
     自分(100歳)
     子 ( 80歳)
     孫 ( 60歳)(まご)
     曾孫( 40歳)(ひまご)
     玄孫( 20歳)(やしゃご)
     来孫(  0歳)(きしゃご)
    です。ひとつの可能性として、ここまでを見ることができる可能性がある、ということです。
    もう少し言うと、120歳まで長生きしたら、七世代目にあたる崑孫(こんそん)を見ることができるかもしれません。

    逆に、この七世代というのを、上に向かって観ていくと、次のようになります。
     初代 自分(0歳)
     先代 父 (20歳)
     3代 祖父(40歳)
     4代 曾祖父(60歳)
     5代 高祖父(80歳)
     6代 高祖父の父(100歳)
     7代 高祖父の祖父(120歳)

    祖父から孫までが100年。
    その孫がお爺ちゃん、お婆ちゃんになるまでが200年。

    幕末にペリーがやってきたのが1853年で、いまから168年前のことです。
    戊辰戦争で白虎隊が自決したのが1868年で、わずか149年前です。

    幕末から近代史の時代は、いまの私たちからすると、現代日本や現代世界とは、全然違った、まるで全近代的な古い大昔のことのように思えるかもしれませんが、いまの70歳代の人達からすれば、父や祖父が、まさにその時代を生きて実体験していた、ついこの間の出来事であるわけです。



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  • 義烈空挺隊物語


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    戦後76年、反日であることを国是とした日本が、再び誇りある日本に生まれ変わるためには、まだまだ長い年月がかかるのかもしれません。
    あきらめず、毎日コツコツと、それを積み重ねていく。
    ウソは100万回重ねてもウソです。
    けれど、真実はひとつです。
    奥山隊長他、英霊のみなさまに心からの感謝を捧げ、黙祷したいと思います。

    奥山道郎義烈空挺隊大尉
    奥山道郎陸軍大尉



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    小名木善行です。

    今日ご紹介する義烈空挺隊は、戦後、長く「消された歴史」になっていたものです。
    ほんの一部の人にしか知られていない、他の多くの日本人は、まったく知らずに過ごしてきた事実です。
    あたかも「なかったこと」にされてきた歴史ですし、実は、12年前に当ブログでこのことを取り上げたときには、「ねずがまた嘘をでっちあげている」などと書かれもしました。

    けれど、末尾に動画でご紹介しますが、奥山道郎隊長の肉声もいまに残っていますし、記録も明確にあるのです。
    だから、これは実際にあった出来事です。

    ちなみに義烈空挺隊の奥山隊長は、いわゆる「しょうゆ顔」です。
    けっして男前というわけではないかもしれません(奥山隊長ごめんなさい、笑)。
    彼は、ぽっちゃりして、丸めがねをかけ、顔が大きくて肩幅が狭く見える、ごくあたりまえのどこにでもいる、日頃は静かで、ユーモアのある普通の日本人です。

    けれど、見た目はボンボンでも、その魂に堂々たる武士道精神が宿っているのが日本男子です。
    その精神は、いまも日本男子の魂に、しっかりと刻まれています。
    メディアや学校教育でどんなに歪められても、時が来れば自然と目覚める。
    なぜなら、それは後天的な刷り込みではなく、日本男子の魂に刻まれた記憶だからです。

    私は、奥山隊長以下、散華されたすべての英霊に、心からの感謝を捧げたいと思います。
    そして、自分もまた日本男子でありたいと思うひとりです。

    写真は奥山隊長です。
    お写真で見ると、ぎゅっと真一文字に結んだ口元、大きなあご、そして小さな目と、その全身から浮かぶ、まるでほとばしるような熱い命の炎を感じられます。


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  • 帰巣本能と伝書鳩のお話


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    ギリシャのポリス(都市国家)間では、競技会(いまのオリンピック)の覇者について、鳩の足に赤いリボンを結び付けて故郷に勝利と栄光を伝えたのだそうで、ローマ帝国の時代になると通信手段として広く普及、そしてジンギスカンも、カエサルも、ナポレオンも、戦いの状況報告に伝書鳩を使っていました。

    鳩魂塔



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    小名木善行です。

    まず、一文をご紹介します。
    かつての国民学校小学校4年生の國語の教科書に載っていた文です。
    原文のままではなく、ねず式で現代語訳しています。

    *****
    『小さな伝令使』
    国民学校小学校4年 國語十二より

    昭和6年12月31日の夕暮に、大石橋守備隊の鳩舎(きゅうしゃ)へ、血に染まった一羽の鳩(はと)が、飛んで来た。
    取扱兵が、すぐ抱き上げて足の番号を見ると、四日前に、錦州(きんしゅう)へ向けて出発したわが軍が、連れて行つた鳩であった。
    信書管は血にまみれ、身には重い傷を負って、息もたえだえであった。

    錦州へ向かったわが軍は、30日、突然、敵の大軍に出会って、激しく戦った。
    早くこのことを、大石橋守備隊へ知らせようとしたが、電信も電話も、敵のために壊されたので、通信は、ただ鳩に頼る他はなかった。

    通信紙を詰めたアルミニュームの管を、鳩の右の足に取り付けた兵は、しばらく鳩の体に頬を擦りつけて、途中の無事を祈った。
    小さな伝令使は、胸をふるわせながら、可愛い目で空を見上げていた。

    戦の真最中に、鳩は空高く舞いあがった。
    二三回、上空に輪を描いて飛んでいたが、すぐ方向を見定めて、矢のように飛んで行った。

    寒い夕空をものともせず、南東をさして高く飛んでいた鳩は、ふと、鷹の一群を見たので、すばやく低空に移った。
    すると、今度は敵軍に見つけられて、一斉射撃を受けた。
    一弾は、鳩の左の足を奪い、一弾は、その腹部を貫いた。
    この重い傷にも屈しないで、鳩はなおしばらく飛び続けていたが、とうとうたまりかねて、とある木の枝に止った。

    ちょうどその時、附近にいたわが兵士が、これを見つけた。
    捕まえようとして手を差し伸べると、鳩は、また翼をひろげて飛びあがった。
    飛び去つたあとの木の枝には、かわいそうにも、赤い血がついていた。

    弱りきったこの小さな伝令使は、その夜、どこで休んだことであろう。
    明くる日になって、やつと、大石橋の自分の鳩舎にたどり着いたのである。

    大石橋守備隊では、さつそく信書管を取り外して、手厚く看護したが、任務を果して気がゆるんだのか、鳩は、取扱兵の手に抱かれたまま、冷たくなってしまった。

    ******



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  • 源義経チンギス・ハーン説と学問の自由


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    歴史学は、ただ考古学的、あるいは文献史学的に明らかになった事実だけを扱う学問分野ではありません。
    歴史学は、そうして明らかになった事実をつないで、ひとつの論理的かつ客観的、そして再現可能性が極大になる歴史ストーリーを組み立てる学問です。
    そういう視点から、筆者は個人的に源義経ジンギスカン説を支持しています(笑)

    源義経とチンギス・ハーン
    年齢は違いますが、顔の特徴(ヒゲの生え方、眼光、耳の形など)が似ているような・・・
    着物、右前だし・・・



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    小名木善行です。

    全国の神社などにある能楽堂。
    その能楽堂を見ますと、必ず壁に描かれているのが、松と笹です。

    松は、切り立った岩場のような過酷な場所にも生息し、また冬の深い雪の中にあっても、緑の葉を散らせません。そして笹は、どんなに強い台風のような大風が来ても、風にそよぐばかりで、決して倒れたり折れたりしません。
    細身でありながらも、しっかりとした茎(くき)に、節(ふし)を持ち、しなやかに、しなって決して折れません。

    ですから笹は、源氏の紋章です。
    これを「源氏笹(げんじざさ)」と言います。
    その笹はイネ科の植物で、その生息北限はおおむね北緯40度くらいまでで、寒帯に属する北方遊牧民の生活圏には生えません。

    ところがその寒帯にあって、「源氏笹を王の紋章」にした遊牧民のボスがいました。
    それがチンギス・ハーンです。
    不思議なことに、チンギス・ハーンは、中東商人の質問に答えて、出身地は「ニロンのキョト村」と答えたという記録があります。

    チンギス・ハーンが、源義経ではないかという説を唱えたのは、有名なシーボルトです。理由は、義経が死んだとされる1189年(文治5年)以降、チンギス・ハーンが突然、歴史の舞台に躍り出ていること。
    また、チンギス・ハーンが得意としていた長弓は中国やモンゴルにそれまで存在しなかった日本独特の武器であること。

    また、大正時代に大ベストセラーになった小谷部全一郎著の『成吉思汗ハ源義経也』によると、
    チンギス・ハーンの別名が「クロー」であり、これは義経の官職であった「九郎判官」に似ていること。
    モンゴル帝国の「元」は「源」と同じ音であること。
    蒙古は猛虎と同じ音であること。
    「ハーン」という称号自体が、日本語の「○○の守(かみ)」と音が似ていること。(カミがカーンになり、ハーンとも発音された)
    チンギス・ハーンが1206年に大王に即位したとき、九本の白旗が掲げられたこと(白旗は源氏の旗、九本は、九郎判官を表している可能性がある)
    などがあげられています。


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  • 静御前と安達清常のお話(総集編)


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    800年以上も昔の女性ですが、いまもなお、多くの日本人から愛され続けている静御前。
    義経との愛の日々。
    悲しい吉野のお山での別れ。
    満開の桜の下で行った、たったひとりでの女の戦い。
    彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
    敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せた北条政子。
    頼朝の深い思いを察して、人としての道を貫いた安達清常。
    我が子を信じぬいた実母の磯禅尼。
    静御前の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないものであることを教えてくれます。

    静御前《上村松園画》
    20180105 静御前



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    小名木善行です。

    拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人第二巻』、『日本建国史』でもご紹介した静御前と安達清常のお話です。
    およそ1万字(読了におよそ30分)の長文ですが、お時間のある方には是非、お読みいただきたいものです。
    特にラストのところは、深い感動があると思います。

    ─────────
    流転の旅と吉野山中の別れ
    ─────────
    よく時代劇などで、大奥のお女中たちなどが、忍び込んだ曲者に気がついて、薙刀を持って頭に鉢巻を絞め、
    「曲者でございます。お出会えそうらえ」などといって廊下をバタバタと走る姿などが描かれます。
    武家の娘といえば、まさに薙刀が定番だったわけですが、なぜ、江戸時代の武家の娘さんたちが薙刀を習ったかというと、実は、静御前への憧れからきていたといわれています。

    静御前といえばいまでいうダンサーである白拍子だった人であり、源義経とのロマンスが有名ですが、同時に彼女は当時の世を代表する薙刀の名手でもあったのです。
    武家の女性たちにとって、まさに静御前は永遠の憧れだったし、だからこそ、彼女たちは静御前に倣って、薙刀を学んだのです。おそらく静御前は、日本史上もっとも多くの女性から愛され続けた女性であろうと思います。

    実は、この薙刀、たいへん強力な武器です。相当腕の立つ剣道の達人でも、女性の扱う薙刀の前に、手も無くやられてしまうことがあります。
    そういう意味では、江戸の武士たちは、もっとも強力な武器をむしろ女性たちに与え、自分たちはそれより弱い、大小二本の刀を腰に差していたともいえるわけです。

    ちなみに大小の刀二本を差したのには、理由があります。
    大刀は、もちろん相手を斬るためです。
    そして小刀は、その責任をとって自らの腹を切るためのものとされていました。
    武士は斬捨御免だったなどと言われますが、実は、人を斬れば、自分も責任をとって腹を切る。
    それが武士の覚悟というものでした。

    さて、静御前は飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせることができた「神に届く舞」を踊れる白拍子として、後白河法皇から「都一」のお墨付きをいただいた女性です。
    この神事のとき、後白河法皇の側にいた源義経は、静御前のあまりの美しさに心を打たれ、その場で御前を妻に娶ることを願い出ました。以来二人はずっと寝起きをともにします。

    けれど京の都で雅な生活をする義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝に疎まれ、ついに京を追われてしまいます。
    京を出た義経一行は、尼崎から船に乗って九州を目指すのですが、暴風雨に遭って船が難破してしまい、一行は散り散りになってしまいます。

    嵐の中でも、決して手を離さなかった義経と静御前は、一夜開けて芦屋の里に漂着します。
    九州落ちが不可能となったため、生き残った弁慶や源有綱、堀景光らと一緒に、陸路で大和へと向かいます。目指すは奥州平泉です。

    大和の吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。
    そこからは、大峰山の山越え路です。
    ところが問題がありました。大峰山は神聖な山で、女人禁制なのです。
    女の身の静御前は立ち入ることができません。
    やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。

    「ここからなら、都もさほど遠くない。これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう。そなたは都の生まれ。必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」
    それを聞いた静御前は、「私は義経さまの子を身ごもっています」と打ちあけます。
    そして、「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。
    このときの静御前は、鎧をつけ大薙刀を持っています。
    鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、泣かせる場面です。

    ここでひとこと注釈を挟みます。大峰山は、たしかに女人禁制の山です。
    しかし、義経一行は、頼朝に追われた逃避行です。
    いわば緊急避難行動中です。
    たしかに静御前は女性ですが、大峰山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。
    関所があるわけでもありません。つまり、女人禁制とはいっても、女性を連れて入ろうとすれば、いくらでも入ることができる状態でもありました。
    人が見ていなければ、見つからなければ、何をやってもいいと考えるのは、昨今の個人主義の弊害です。
    昔の日本では、人が見ていようが見ていまいが、約束事は約束事、決まりは決まりです。

    たとえどんなに愛する女性であっても、たとえ口の堅い部下しかそこにいなかったとしても、誰も見ていなくてもお天道様が見ている。そう考え、行動したのがかつての日本人です。
    だから義経は静御前に「都へ帰りなさい」と言ったのだし、御前もその義経の心中が分かるからこそ、禁制を破るより「殺してください」と頼んでいるのです。
    義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている鏡を、そっと差し出しました。

    「静よ、これを私だと思って使っておくれ。そして私の前で、もう一度、静の舞を見せておくれ」愛する人の前で、静御前は別れの舞を舞います。
    目に涙を浮かべいまにも崩れ落ちそうな心で、静御前は美しく舞う。
    それを見ながら涙する義経。
    名場面です。

    静御前が舞ったときの歌です。

     見るとても
     嬉しくもなし
     ます鏡
     恋しき人の
     影を止めねば

    「鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです......」
    義経一行は、雪の吉野山をあとにしました。その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。
    一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いています。
    文治元(一一八五)年十一月のことです。

    この月の十七日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の僧兵たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行いました。
    夜十時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけます。
    そして執行坊に連れてゆき尋問しました。
    荒ぶる僧兵たちを前にして、静御前はしっかりと顔をあげ、

    「私は九郎判官義経の妻です。私たちは、一緒にこの山に来ました。
    しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、義経様御一行は、山伏の姿をして山を越えて行かれました。
    そのとき、数多くの金銀類を私に与え、雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
    しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峰雪の中に、私を捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たの です」と述べます。

    翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいました。一方、静御前は鎌倉へと護送されます。
    鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行き先は知りません。
    知らないから答えようもありません。
    やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女が妊娠五カ月の身重であることを知ります。
    このため出産の日まで、静御前を鎌倉にとどめ置くことになりました。


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  • ひめゆり学徒隊の悲劇と現代日本人の大人としての責任


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    6月18日は、沖縄戦で、ひめゆり学徒隊が解散した日です。
    「沖縄のひめゆり学徒隊のような悲劇は、二度とあってはならない」・・・このことは、日本国民として、絶対に守り抜かなければならない大鉄則です。
    そしてそのための責任が、いまを生きる私達にあります。
    その責任の自覚が乏しい者が、ひめゆりの女生徒たちに「お前たちは生き残るのだ」と言って死んでいった皇軍兵士を非難することは、絶対にできない、許せないことであると思います。
    私達は、日本を守るために死んでいった数多くの英霊たちの意思を継ぎ、日本が二度と戦禍に巻き込まれない国になるよう、あらゆる方面から、新たな日本を築いていかなければならないのだと思います。
    そしてそれこそが、「責任は自分が感じて取るもの」という日本古来の哲学のもとに生きる、すなわち神々の御心に沿った生き方というものであろうと思います。
    なぜならわが国の神々は、そのような生き方をされてきたからです。

    ひめゆり
    ひめゆり学徒隊を含むすべての戦争犠牲者にひめゆりを捧げたいと思います。
    20180617 ひめゆり
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    6月18日は、沖縄戦で、ひめゆり学徒隊が解散した日です。
    いまからたったの76年前(昭和20年)の出来事です。

    ひめゆり学徒隊は、沖縄戦で看護婦として前線に立ちました。
    その悲劇は、映画『ひめゆりの塔』によって、広く知られるようになりました。
    最初の作品は昭和28(1953)年の津島恵子さん主演の映画でした。
    この映画は、当時倒産の危機に瀕していた東映の経営を一挙に好転させた映画としても知られています。

    そのあまりのヒットから、昭和43(1968)年には、吉永小百合主演のリメイク版『あゝひめゆりの塔』が公開されました。
    また、平成7(1995)年には、沢口靖子さん主演で映画化されてもいます。

    さて、戦時中の沖縄で、動員された女学生(いまでいう女子高生)は、ひめゆり学徒隊だけではありません。
    他にも
     白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
     ずゐせん学徒隊(県立首里高女)
     積徳学徒隊(私立積徳高女)
     梯梧学徒隊(私立昭和高女)
     なごらん学徒隊(県立第三高女)
    などがありました。
    すべて看護婦隊としての従軍でした。

    いま沖縄には、それぞれの学徒隊ごとに碑が建てられています。
    映画の影響もあってか、沖縄県糸満市にある『ひめゆりの塔』の慰霊碑には、いつも献花が絶えません。
    けれど、他の女生徒たちの碑には、あまり訪れる人もなく閑散としています。
    とても残念なことに思います。

    ひめゆり隊の女学生たち
    ひめゆり学徒隊


    ひめゆり学徒隊は、昭和20(1945)年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から動員されました。
    戦場における負傷兵の看護のために動員されたのです。

    戦争には戦時国際法があります。
    その戦時国際法に従うなら、たとえ敵軍であっても医療施設や医療従事者への攻撃はしてはなりません。
    すれば明らかな戦時国際法違反であり、実施者は「戦争犯罪者」として国際法で裁かれなければなりません。
    ですから本来なら、沖縄の女学生達の看護婦隊は、もちろん戦場ですから安全とまではいえないものの、被害はあってはならないものでした。
    しかし米軍は、容赦なくそれら医療施設や従事者に対しても攻撃を加えました。
    この攻撃で、医局にいた彼女たち240名のうち、117名が死亡してしまいます。

    彼女たちに解散命令が出されたのが6月18日です。
    この時点で、すでに沖縄の日本軍は、ほぼ壊滅していました。
    単なる民間人となっていた彼女たちに、当時の米軍は容赦なく攻撃を加えました。
    結果、解散後に彼女たちのうち、107名が死亡しています。
    結局ひめゆり学徒隊240名のうち、生き残ったのは、わずか14名だけでした。



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  • 日本的責任と、他国の責任


    ◆次回倭塾は6月26日(土)開催です。
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    https://www.facebook.com/events/469516267509745

    ◆◆ニュース◆◆
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    Amazonベストセラー1位(古代日本史)


    罰則があるから、人を殺したり盗んだりしたらいけないのではありません。
    刑法という罰則規定があろうがなかろうが、いけないことはいけないのだし、もし、不幸にしていけない事態になってしまったのなら、お上の手をわずらわせることなく、みずから従容(しょうよう)としてその代償を支払う。
    つまり、責任は人から求められるものではなくて、自分で感じるもの。
    それが、大昔からの、日本の文化です。

    20210605 責任
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    民事上の責任とか、刑事上の責任といった言葉があります。
    法律用語としての責任は、行為の結果に対する応答のことで、借りた金を返さなければ、裁判上の手続きで民事責任を問われるし、人のものを盗めば、国家によって刑法上の責任を問われることになります。

    そうすると、何やら責任というのは、あたかも国や警察や裁判所から要求されてはじめて生まれるものであるかのような錯覚が起こりますが、実は、もともとの意味は異なります。

    たとえば漢字で書いた「責任」は、トゲを刺して貝、つまり金を取るという意味の「責」と、人が糸に巻きつけたもの、つまり持続するものを意味する「任」からできた熟語です。
    そこから、持続的に金、つまり代償を支払うことを責任と言います。

    英語ではレスポンシビリティで、レスポンスというのは「応答」のことを言いますから、一定の行為があって、これに対する応答として、責任が生じるという考え方になります。

    けれど、このような説明を聞いても、多くの日本人には、責任の意味がピンときません。
    なぜなら日本では、責任というのは他人から要求されてはじめて生まれるものではなく、みずからが自覚し、感じ取るものである、という自覚があるからです。

    そしてこのことは、神話の昔から、我が国の常識とされてきたことです。

    日本神話に、有名な天の岩戸の逸話があります。
    素戔鳴尊(すさのをのみこと)が高天原で大暴れをし、天照大御神が岩戸にお隠れになられるという神話です。
    ここで日本書紀は、天照大御神が
    「たいへんに発慍(おこ)られて、
     天石窟(あめのいわや)に入られると、
     磐戸(いわと)を閉ざして
     そのなかに幽(こも)られてしまわれた」
    《原文:由此發慍乃入于天石窟 閉磐戸而幽居焉》
    と書いています。

    実はここに重大な表現があります。
    それが、
    「発慍(おこ)る」
    という表現です。



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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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