• 二万のユダヤ人と北海道を救った樋口季一郎陸軍中将


    8月14日(土)に靖國神社昇殿参拝を行います。
    受付開始は13時から。靖國神社参集殿正面入口前です。お志のある方、どなたでも参加可です。皆様のご参加をお待ちします。
    詳細は → https://nezu3344.com/blog-entry-4963.html

    北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島(しゅむしゅとう)を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。

    20191121 晩年の樋口季一郎



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    小名木善行です。

     樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で二万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の五百万の人口を守った昭和の名将です。

    ▼樋口季一郎中将

     樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は明治二十一年《一八八八年》年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋(かいせんどんや)で、大地主の奥濱久八(おくはまきゅうはち)の長男として生まれました。ところが廻船問屋は明治になって蒸気船に押されて衰退(すいたい)。家業が衰退に向かった結果、十一歳のときに両親が離婚。母・まつの実家に引き取られてすごしました。
     樋口季一郎は優秀な子でした。三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、十八歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正七年《一九一八年》には陸軍大学を卒業しています。卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。

     ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。大正十四年《一九二五年》に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。

     昭和十二年《一九三七年》八月、樋口季一郎は関東軍に特務機関長として赴任しました。ここで同年十二月に、ハルビンで内科医をしていたハルビンユダヤ人協会の会長のアブラハム・カウフマン博士《一八八五〜一九七一》の訪問を受けました。カウフマン博士は、
    「ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催をしたいから許可してほしい」と申し出ました。ドイツが猛然と力を発揮していた時代です。けれど樋口季一郎は、これを即決で許可しています。

     十二月二十六日、第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。ゲストとして招待された樋口季一郎は、次の演説を行いました。
    「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何(いづ)れの場所においても『祖国なる土(つち)』を持たぬ。如何(いか)に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人がその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比(ひ)し、劣(おと)ることなき才能と天分(てんぶん)を持っていることは歴史がそれを立証している。
     然(しか)るに文明の花、文化の香り高かるべき二十世紀の今日(こんにち)、世界の一隅(いちぐう)おいて、キシネフのポグロム《注》が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心(ちゅうしん)悲しむものである。
     ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞(どうほう)であるべき人々を追放するという。それを何処(いずこ)へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示(めいじ)し、あらかじめそれを準備すべきてある。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃(やいば)を加えざる虐殺(ぎゃくさつ)に等(ひと)しい。私は個人として、心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
    会場は、万雷の拍手に包まれました。

    《注》キシナウのポグロムとは一九〇三年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。

    ▼オトポール事件
     それから三カ月も経たないうちに起きたのが「オトポール事件」です。
     昭和十三年《一九三八年》三月、ソ連と満州国の国境付近の、気温がマイナス二〇度にもなる極寒のオトポール駅に、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らは着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出した人々でした。旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にありました。
     満州国外交部は、ドイツに遠慮して彼等の入国を拒否しました。これを救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎でした。

     オトポール事件については、樋口季一郎の回想録に詳しく書かれています。
    「満州国(まんしゅうこく)は門戸(もんこ)を閉じた。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯(たむ)ろしている。もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら《ユダヤ難民》の進退は極(きわ)めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも、彼らの通過を許している。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業(ばんみんあんきょらくごう)』を呼号(こごう)する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか」

     この当時、日本は日独防共協定を結んでいましたが、ドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象にしていました。つまり日本がユダヤ人を保護すれば、ドイツはこれを外交上の問題とすることは明らかな状況でした。樋口季一郎はこれを「政治上の問題」ではなく「人道上の問題」とすることで、ユダヤ人を保護しました。

     南満州鉄道の総裁だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、樋口に相談されて直ちに救援列車の出動を命じました。オトポールに近い南満州鉄道の満州里駅は、ハルピンから九百キロ後方にありました。このため列車の本数が少なく臨時列車の派遣が必要であったためです。

     三月十二日、ハルピン駅に最初の列車が到着しました。ハルピン在住のユダヤ人たちがこれを出迎えました。
    彼らは同胞の救出をことのほか喜びました。この特別臨時列車はその後、合わせて十三本運行されました。救われたユダヤ難民は約二万人と伝えられています。救われたユダヤ難民たちは上海に、あるいはアメリカへと旅立って行きました。

     樋口季一郎のこうした対応は、当然ながら外交問題に発展しました。樋口季一郎は一市民ではありません。関東軍の将軍です。ドイツのリッべントロップ外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送りました。
    「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携が日に濃厚を加えつつあることは欣快(きんかい)とするところである。然(しか)るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将(当時)が、ドイツの国策を批判し誹謗(ひぼう)しつつありと。もし然(しか)りとすれば、日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請(こ)う。速(すみ)やかに善処(ぜんしょ)ありたし」

     これに対して樋口季一郎は次の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送しています。
    「私の行為は決して間違っていない。法治国家として当然のことをしたまでである。満州国は日本の属国ではない。ましてドイツの属国でもない。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」

     関東軍司令部に出頭を命じられた樋口季一郎は、参謀総長だった東条英機に会いました。
    「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?」
    そう聞く樋口季一郎に、東条英機は樋口季一郎の意見を全面的に受け入れる決断をしました。

     オトポール事件は、日本国内の新聞では記事になっていません。樋口季一郎の家族でさえ、その死後に事態を知っています。このときの樋口季一郎の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは著作の中で次のように述べています。
    「樋口は世界で最も公正な人物の一人である。
     そしてユダヤ人にとっての真の友人である。」

    ▼キスカ島撤退
     昭和十八年《一九四三年》、北方軍司令官として札幌にいた樋口季一郎は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還(きかん)させるべく大本営(だいほんえい)に談判(だんぱん)し、奇跡(きせき)の撤退(てったい)を成功させました。

     キスカ島は北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。島には日本側の守備隊六千名が残留していました。二ヶ月前には、キスカ島よりも手前にあるアッツ島で、島の守備隊二、六五〇名が玉砕(ぎょくさい)したばかりでした。
     樋口季一郎は木村昌福(きむらまさとみ)海軍中将にはかり、キスカ島守備隊の撤退作戦を行いました。これを「ケ号作戦」といいます。ちなみに、「ケ」というのは、日本軍が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「ケ」は「乾坤一擲(けんこんいってき)」という意味です。

     キスカ撤退作戦は、最初、潜水艦で行われました。この時点で日本海軍は、ソロモン方面の作戦で多数の駆逐艦を失っていたため、これ以上の艦の損耗(そんもう)を避(さ)けたかったのです。
     昭和十八年《一九四三年》六月、十五隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約八百名が後送されました。また守備隊には、弾薬百二十五トン、糧食百トンを輸送することに成功しました。しかし潜水艦が米軍の哨戒網(しょうかいもう)に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦で、「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦では、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」を失なっています。

     成果の割に、損害が多いのです。あまりに効率が悪い。このままでは、全軍の撤退は不可能です。樋口季一郎は、海上に深い霧がかかる7月中に、艦船で撤退作戦を実行するよう、木村海軍中将にはかりました。八月になると霧がなくなり、撤退作戦は不可能になるからです。

     キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があります。制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機がありました。ただ、この当時はまだ目視飛行の時代です。濃霧が発生していれば空襲の危険を避けることができる可能性が増えます。そしてこの頃にはまだ、濃霧の中で空襲をかけることができる航空機は、世界中どこにもなかった時代でした。樋口季一郎は、そこに一縷(いちる)の望みを賭けたのです。こうして二度にわたる潜水艦作戦は打ち切られ、キスカは水上艦艇による第二次撤退作戦となりました。

     七月十日、アムチトカ島五百海里圏外に集結した撤収部隊は、一路キスカ島へ向かいました。Xデーは十二日と決めてありました。
     全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまいました。全艦、いったん突入を断念する。近海の濃霧に隠れて、決行予定日を十三日に変更しました。

     しかし十三日、十四日、十五日と霧が晴れ、突入は断念せざるを得なくなりました。やむなく木村海軍少将は、十五日午前八時二〇分、一旦突入を諦(あきら)めて帰投(きとう)命令を発しています。燃料が底を尽きはじめてしまったからです。
    「帰れば、また来られるからな」
    それが、このときの木村中将の言葉でした。こうして撤収部隊は、十八日に一旦幌筵(ほろむしろ)の基地に帰投しました。

     手ぶらで根拠地に帰ってきた木村海軍少将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、「何故、突入しなかったか!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」と、帰投した木村海軍少将に轟々(ごうごう)たる非難が浴びせられました。「腰ぬけ!」とまで罵(ののし)られました。更迭(こうてつ)の話も出ました。しかし樋口季一郎は、
    「この作戦は、木村でなければならぬ」と、これを一蹴(いっしゅう)しています。

     あと半月で八月になります。八月にはもう霧が出ません。霧が晴れれば、米軍のキスカ攻撃が始まります。そうなれば、キスカの撤収作戦はありえず、キスカ島守備隊は全滅を免(まぬが)れません。一方で、この地域に備蓄していた海軍の重油も底を尽き始めていました。作戦はあと一度きりしか行えない。

     帰投して四日目の七月二十二日、幌筵島(ほろむしろとう)の気象台から、「七月二十五日以降、キスカ島周辺に濃霧発生」との予報がはいりました。最後のチャンスがやってきたのです。木村海軍少将は予報を聞くと同時に、全艦隊に出撃命令を発しました。
     ところが期待の霧が、あまりに濃い。出航が各艦まちまちになったうえ、洋上で三日後の七月二十五日には、「国後(くなしり)」を除く艦隊がいったん集結できたのですが、翌二十六日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如(とつじょ)出現して、「阿武隈(あぶくま)」の左舷(さげん)中部に衝突(しょうとつ)してしまいます。この混乱で「初霜(はつしも)」の艦首が「若葉」右舷に衝突。弾(はず)みで艦尾が「長波(ながなみ)」左舷に接触してしまう。損傷が酷(ひど)かった「若葉」は、艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまいます。

     残った船で、キスカ近郊で待機した七月二十八日、艦隊の気象班が、「翌二十九日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」と予報しました。
    「全艦突入せよ」
    木村海軍少将が命じました。

     艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿ってゆっくり進みました。七月二十九日正午、艦隊はキスカ湾に到達しました。濃霧です。湾内では、座礁や衝突の危険もありました。ところがこのとき、神風が起きました。一陣の風が吹いて、湾内の濃霧をきれいに吹き飛ばしてくれたのです。
     十三時四十分、晴空のもとで艦隊は投錨し、待ち構えていたキスカ島守備隊員五千二百名の収容にとりかかりました。持っている小銃は、全部投棄させました。身軽にして輸送行動を速めるためです。そしてなんと、わずか五十五分という驚異のスピードで、全員を艦内に収容し、収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させて、直ちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱しました。

     艦隊が湾を離れた直後、キスカ湾は、ふたたび深い霧に包みこまれました。それは、まさに神が降ってきたとしかいいようがない収容作戦でした。こうして七月三十一日、無事、全艦、幌筵に帰投しています。


    ▼占守島(しゅむしゅとう)の戦い
     昭和二十年《一九四五年》八月十八日。陛下の玉音放送(ぎょくおんほうそう)の三日後のことです。北海道占領を目的として、ソ連軍が突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。その兵力、およそ八千。同時にスターリンは、千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。

     司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、濃霧の中隊員に訓示しました。
    「諸士、ついに立つときが来た。
     諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如く、この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙(あ)げよ」

     八月二十二日まで続いた戦いの結果、ソ連は三千人もの死傷者を出して敗退しました。一日占守島を占領する計画も水疱(すいほう)に帰しました。大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。

     こうして北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。




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    20190705 靖国神社



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    小名木善行です。

    毎年恒例の8月終戦の日の靖国神社昇殿参拝を行います。
    英霊に感謝を捧げ、御魂の安からんことを皆様とご一緒にお祈りしたいと思います。


    これまで8月15日に行ってきたのですが、
    近年の傾向として15日が昇殿参拝も、ものすごく混むため、
    今年は1日前倒しで8月14日(土)に行います。
    日付のお間違えのないようにしてください。
    15日より、落ち着いてしっかり参拝できるものと思います。

    どなたでも参加できます。
    英霊に敬意を、そして感謝を捧げましょう。

    例年の15日より、一日早い14日の参拝ですので、多少、人数も例年より少なくなると思います。
    そのぶん、皆様とともに、落ち着いて参拝できるものと思います。

    なお、14日は、靖國神社で英霊に捧げる様々な催し(祭祀)があります。
    このため15日同様、英霊の皆さまが靖国に集われます。
    また、神社側の行事のため、一般の昇殿参拝が可能な時間帯があまりありません。
    ですので、この昇殿参拝は、たいへん貴重な参拝になるものと思います。

    主催は「日本の心をつたえる会」です。
    受付も、参集殿の下足箱も、その名前で出ていますので、お間違えのないようにお願いします。



    1 内容   靖国神社昇殿参拝

    2 日時   2021年8月14日(土曜日)
      受付時間 13:00〜13:20
           ※参集殿入り口に受付を設けます。
            受付を済まされてから、
            参集殿内にお入りください。
      昇殿参拝 13:30〜
      終了   14:30(予定)

    2 場 所 靖國神社・参集殿
      所在地 〒102-8246 東京都千代田区九段北3丁目1−1

    3 集合・受付
      13:00から参集殿入口前で受付を行います。
      受付を済まされてから、建物内にお入りください。
      玉串料も、その場でお支払いをお願いします。
      受付は13:20までにお済ましくださるようお願いします。

    4 玉串料 お一人様3000円
      お子様同伴の場合は、お子様は無料。
      ご夫婦でご参加の場合は、お二人合わせて3000円です。

      ※毎年玉串料は、全員の分を合計した金額に
       主催が追加金額を加えて万円単位にして
       靖國神社に英霊への感謝の心を込めて
       全額納めさせていただいています。

    5 事前申し込み
      Facebookをご利用の方は、↓からお申し込みください
      https://www.facebook.com/events/361554295637085

    6 参拝後の懇親会はありません。





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  • 通州事件(2) Sさんの体験談


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    昨日に引き続き通州事件です。たいへんに衝撃的な内容ですが、まだお読み出ない方は、是非ご一読なさってください。
    なお、たいへんに残酷な描写が出てまいりますので、この記事は18禁とさせていただきます。
    昨日の記事に、この通州事件を報じた新聞の写真を掲載しましたが、この事件はフィクションではありません。
    現実にあった事件であり、人類史上稀(まれ)なる残酷な事件であり、当記事はその実体験者の経験談です。

    政治が歪(ゆが)み、民度が落ちると、人はここまで残酷な仕打ちをするのです。
    我々は平和を願い、人々が豊かに安全に安心して暮らせる社会を目指します。
    しかし、私たちがそのように思い行動しても、この記事に書かれたような残酷を平気でする人たちがいることもまた事実です。
    だからこそ私たちは国を持ち、国として私達の平和と安全を護るのです。
    そのために軍があり、そのためにこそ男は生きるのです。

    だから怒れというのではありません。仮にこの事件が日本で起き、日本人が日本にいる外国人に同様の振る舞いをしたならば、おそらくその国の人達はヒステリックに日本人を皆殺しにせよ!と喚き散らしたことでしょう。
    けれどこの事件が起きたとき、わが国では、事件の詳報が盛んに報道されましたが、わが国の中華街では、いままでと変わらぬ平和で豊かな日常が展開されていました。

    そういう民度を大切にしたいと思うのです。
    怒りにまかせて、異常行動へと走るのではなく、私たちは、冷静に私たちの国柄を、そして文化をしっかりと取り戻し、世界に冠たる同義的で平和な国家を築いていく。
    通州事件で犠牲となった方々の、それが真の思いであると思いますし、その冷静さこそが、日本をかっこ良く!なのだと思います。

    ※当記事はおよそ3万字の長編で、読了におよそ40分程度を要します。

    20200715 現在の通州区
    画像出所=https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kokunai/kokusaikouryu/Tongzhou.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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    ※本日の記事は18禁です。
    18歳未満の方と女性の方はお読みにならないでください。


    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    昨日に引き続き通州事件です。
    犠牲となられた方々に深く哀悼の意をささげたいと思います。

    調寛雅著「天皇さまが泣いてござった」から、「Sさんの悲劇」の転載をさせていただきます。
    Sさんは実際に通州事件を体験なさった日本人女性で、佐々木テンさんと言います。
    当時Sさんはチャイニーズ男性の妻となり、チャイニーズとして通州で働いていました。
    その目の前で事件は起こりました。
    文中にはありませんが、この旦那さんのチャイニーズは、もともとチャイナのスパイであったといわれています。

    事件後、あまりのショックに離婚したSさんは、陸軍の取調べ後、担当した士官がたいへんに同情してくれ、当時陛下との関係の深かった因通寺のご住職である調寛雅(しらべかんが)氏に、Sさんを預けました。
    そこで彼女が語った事実を、ご住職が後に本にしてご出版されています。

    本からの転載にあたっては、徳島の保守さんが、因通寺のご許可をいただいて本から文字起こしをし、ネット上にあげてくださいました。また私の拡散にあたっては、徳島の保守さんからお寺にご承認をいただいています。

    たいへんに衝撃的な内容ですが、まだお読み出ない方は、是非ご一読なさってください。
    なお、たいへんに残酷な描写が出てまいりますので、この記事は18禁とさせていただきました。


    【Sさんの体験談】

    私は大分の山の奥に産まれたんです。

    すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
    それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

    そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
    小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

    それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんというチャイニーズと出会ったのです。

    このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
    大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

    私は最初は冗談と思っていたので、
    「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

    そのときは全く驚きました。
    冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

    でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
    「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
    それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
    それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

    それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

    チャイナの人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

    でも、無事結婚式が終わりますと、すぐにチャイナに帰るというのです。
    でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。

    自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

    それで仕方ありません。
    私はTさんに従ってその年の三月にチャイナに渡りました。

    長い船旅でしたが、チャイナに着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

    私はチャイナ語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

    そのうち片言混じりではあったけれどチャイナ語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

    通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いてチャイニーズもとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

    通州事件の惨劇02
    通州事件04


    それは昭和九年の初め頃だったのです。

    Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、チャイニーズも日本人に対して大変親切だったのです。

    しかしこのチャイニーズの人達の本当の心はなかなかわかりません。
    今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

    通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

    私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

    私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、チャイニーズの服装に替えておったのです。

    すっかりチャイナの服装が身につきチャイナの言葉も大分慣れてきていました。
    それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

    遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
    日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

    私がチャイニーズの服装をしているのでチャイニーズと思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
    そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

    そして、商売の方もうまく行くようになりました。
    Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
    だから買う人にとってはとても便利なんです。

    Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
    Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

    この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
    私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

    ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、チャイナと日本は戦争をする。

    そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

    私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

    それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

    そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
    何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
    Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

    そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

    只、コリアンの人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口をチャイナの人達に言いふらしているのです。

    私が日本人であるということを知らないコリアンは、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にしてコリアンを奴隷にしていると申すのです。

    そして日本は今度はチャイナを領土にしてチャイニーズを奴隷にすると申すのです。
    だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
    いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

    私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙ってコリアンの言うことを聞いておりました。

    そこへTさんが帰って来てコリアンから日本の悪口を一杯聞きました。
    するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

    するとそのコリアンは顔色を変えて叫びました。
    日本人じゃないコリアンだ、コリアンは必ず日本に復讐すると申すのです。
    そして安重根という人の話を語りました。
    伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
    我々もチャイニーズと一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

    私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
    なんと怖いことを言うコリアンだろう。
    こんなコリアンがいると大変なことになるなあと思いました。

    Tさんは黙ってこのコリアンの言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

    こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
    でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

    私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

    私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

    道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

    目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
    私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。

    日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

    そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

    大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

    この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍がチャイナを立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

    その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

    行商に歩いていると日本人に出会います。
    私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

    すると日本人が通った後ろ姿を見ながらコリアンが、
    「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」とチャイニーズ達に言うのです。

    最初の頃はチャイニーズ達もコリアン達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回もコリアンがこんなことを繰り返して言うと、チャイニーズ達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

    特に保安隊の軍人さん達がこのコリアンと同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

    私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

    それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

    それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうしたチャイニーズ達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

    それはチャイナのあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

    私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうしたチャイニーズ達の動き、コリアン達の動きがあることを書きました。

    そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
    この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

    これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

    こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

    これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

    でも何も変わったことはありません。
    これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
    このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

    昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

    そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、チャイナ軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

    日に日に日本に対する感情は悪くなり、チャイニーズ達の間で、
    「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

    その当時のよく言われた言葉に、
    「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのはチャイナだ」という言葉でした。

    私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

    チャイナの子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔をチャイナが滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

    こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
    しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

    そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
    私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

    三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
    私はびっくりしました。

    それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いやチャイナという国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

    しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本ではチャイナ撃つべし、チャイニーズは敵だという声が充満していたそうです。

    そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
    「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

    それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
    何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

    来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

    でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

    しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

    そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

    日本人の居住区にもよく行きました。
    この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
    そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

    私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
    でもTさんはそれを許しません。

    それで日本人の居留区日本人と話すときもチャイナ語で話さなくてはならないのです。
    チャイナ語で話していると日本の人はやはり私をチャイニーズとして扱うのです。
    このときはとても悲しかったのです。

    それとチャイニーズとして日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人がチャイニーズに対して優越感を持っているのです。
    ということはチャイニーズに対して侮蔑感を持っていたということです。

    相手がチャイニーズだから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くのチャイニーズが言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

    だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
    このことが大変悲しかったのです。

    私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいるチャイニーズに対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

    でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

    こうした日本人の傲りとチャイニーズの怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

    Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
    それだけにこの通州のチャイニーズの日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

    一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
    「困った、困った、こんなに日本人とチャイニーズの心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
    と言うのです。

    そしてチャイニーズの心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていたコリアンがあまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

    いやむしろチャイニーズの日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくるとコリアン達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
    それと共にあの当時はコリアンで日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、コリアン達も考えるようになって来たのかも知れません。

    しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

    Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
    今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

    そして「危ない」「危ない」と申すのです。

    それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、チャイニーズが殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

    六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
    だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

    そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、チャイナの国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

    それが七月になると、
    「日本人皆殺し」
    「日本人は人間じゃない」
    「人間でない日本人は殺してしまえ」
    というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

    鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

    そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

    チャイニーズ達が大騒ぎをしているのです。

    何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍がチャイナ軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したのでチャイニーズ達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

    私はびっくりしました。
    そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

    でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

    こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

    この頃でした。

    上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
    済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

    蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

    この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
    私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

    この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
    どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

    通州事件の惨劇03
    通州事件03


    七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

    突然私はTさんに烈しく起こされました。
    大変なことが起こったようだ。
    早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

    Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
    町には一杯人が出ておりました。

    そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

    でもまだ辺りは薄暗いのです。
    何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

    只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
    私はTさんと一緒に逃げながら、
    「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。

    でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
    私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

    それが八時を過ぎる頃になると、チャイニーズ達が、
    「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

    突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
    最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

    私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
    もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

    それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
    そして、
    「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
    と私を抱きしめるのです。

    それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
    私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
    ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

    そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

    それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
    私はTさんと結婚してチャイニーズになっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

    でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

    それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
    それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

    八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

    誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
    私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

    そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
    何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

    私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

    そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
    只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
    Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

    日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
    それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
    何か生臭い匂いがするのです。
    血の匂いです。
    人間の血の匂いがして来るのです。

    しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
    沢山のチャイニーズが道路の傍らに立っております。
    そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
    いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

    そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
    十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

    その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
    そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

    その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
    体はぶるぶると震えておりました。

    その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
    そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

    保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

    そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

    チャイナでも七月と言えば夏です。暑いです。
    薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

    すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
    娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

    しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

    娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
    学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

    そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

    学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
    そして下着を取ってしまいました。

    娘さんは「助けてー」と叫びました。

    と、そのときです。

    一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
    そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

    恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

    すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

    何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
    頭が割られたのです。

    でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
    保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

    娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
    この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

    パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

    そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
    服が破けます。
    肌が出ます。
    血が流れます。
    そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

    そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
    血がパーッと飛び散ります。

    その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

    腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
    それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
    又腹を突きます。
    胸を突きます。
    何回も何回も突き刺すのです。

    沢山のチャイニーズが見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
    この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

    その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
    暴虐無惨と申しましょうか。
    あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

    この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

    この娘さんは既に全裸になされております。
    そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

    その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
    そして陵辱をはじめようとするのです。

    チャイニーズとは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

    ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
    どうしても陵辱がうまく行かないのです。

    すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

    そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

    こんな姿を見ながらその近くに何名ものチャイニーズがいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

    ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
    私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

    私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
    目をしっかりつぶっておりました。

    するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
    私は思わずびっくりして目を開きました。

    するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
    何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
    その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
    見てはいけない。
    見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

    ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
    それから剣で首を切り落としたのです。

    その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
    投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
    若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

    そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
    しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

    そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

    私は立っていることが出来ない程疲れていました。
    そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

    この残虐行為をじっと見つめていたのです。
    腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
    そしてその首はないのです。

    何とも異様な光景です。
    想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

    ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
    そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

    私はハッと自分にかえりました。
    すると何か私の胃が急に痛み出しました。
    吐き気を催したのです。

    道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
    Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

    でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

    私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
    怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

    私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

    私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

    私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

    若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

    しかしチャイニーズのTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
    だから黙って通してくれたと思います。

    日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
    殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

    あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

    私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

    そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
    十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

    そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

    痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
    とても人間のすることではありません。

    悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、チャイナの学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
    いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

    日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識はチャイニーズにとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることがチャイニーズの常識だったのかと初めてわかりました。

    集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
    そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

    チャイナでは老人は大切にしなさいと言われておりますが、このチャイナの学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

    この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

    十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

    こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

    そしてそれだけではなかったのです。

    学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
    そして勿論裸足にしております。

    その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

    そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
    この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

    でも倒れることは出来ません。

    外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
    学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

    私は思わずTさんにしがみつきました。
    Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

    そして私の耳元でそっと囁くのです。
    「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

    勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

    そして私とTさんの周囲には何人ものチャイニーズ達がいました。
    そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
    氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

    兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般のチャイニーズは全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

    しかしようもまあこんなに沢山チャイニーズが集まったものだなあと思いました。
    そして沢山集まったチャイニーズ達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

    勿論これはいろんなことを言えば同じチャイニーズではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

    これも又異様のこととしか言いようがありません。

    こんな沢山集まっているチャイニーズ達が少しづつ移動しているのです。
    この沢山の人の中には男もいます。
    女もいます。
    私もそのチャイニーズ達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

    日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

    旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
    日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

    二人とも真っ青な顔色でした。
    一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

    しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
    可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
    どうしてやることも出来ないのです。
    言葉すらかけてやることが出来ないのです。

    二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
    頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
    いやその一部からは出血さえしております。
    髪はバラバラに乱れているのです。
    とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

    その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

    女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
    左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

    しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
    只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

    そしてそこにバッタリ倒れたのです。

    すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
    そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

    この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
    すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

    私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
    その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

    私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

    そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

    そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

    そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

    人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

    それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

    一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

    そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
    何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

    私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

    それがチャイナの悪獣どもが充分満足したのでしょう。

    何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

    さすがに見ていた多くのチャイニーズ達がウォーという唸るような声を出しました。
    この多くのチャイニーズの唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

    そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
    恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

    しかしこれを見ていたチャイニーズ達はどうすることも出来ないのです。
    私もTさんもどうすることも出来ないのです。

    もうこんなところにはいたくない。
    家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

    そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
    沢山の日本人が殺されています。

    いやまだ殺され続けているのです。
    あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

    そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
    私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
    耳を覆ってみても聞こえるのです。

    又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

    旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
    一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

    するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

    お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

    お婆さんは仰向けに倒れました。
    学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

    誰も見ていません。
    私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

    そして、「くやしい」と申すのです。
    「かたきをとって」とも言うのです。

    私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
    「いちぞう、いちぞう」
    と人の名を呼びます。

    きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
    私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

    するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
    そして息が止まったのです。

    私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

    そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

    Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

    するとチャイニーズも沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

    そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
    それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

    何とその女の人はお腹が大きいのです。
    七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

    学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

    この女の人は何もしゃべれないのです。
    恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

    ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
    歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

    学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
    そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

    兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
    妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっているチャイニーズ達の間にも拡がっておりました。

    とそのときです。
    一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

    そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

    これで事態が一変しました。
    若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

    学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

    するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
    そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

    学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
    すると今度はそこにいたチャイナ国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

    私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
    しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

    七名も八名ものチャイナの兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

    ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
    私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

    ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

    するとどうでしょう。
    この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
    この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

    でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
    この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

    日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
    日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

    これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
    日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

    それでもチャイナの兵隊や学生達は乱暴を続けております。
    そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

    それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
    私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
    これはもう人間の行為ではありません。
    悪魔の行為です。
    悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

    頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
    このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

    目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
    そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

    縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
    ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

    人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
    十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

    私はTさんにすがりついたままです。
    何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

    地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

    そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

    そしてそれだけではありません。
    別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

    一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
    このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

    その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
    残った腸の細切れを見物していたチャイニーズの方へ二つか三つ投げて来ました。
    そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

    しかし見ていたチャイニーズの中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

    この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
    野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

    そんな人間でない連中のやることに、流石にチャイニーズ達は同調することは出来ませんでした。
    まだ見物しているチャイニーズ達は人間を忘れてはいなかったのです。

    そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

    この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
    出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

    そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
    学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

    とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
    フラフラと立ち上がりました。

    そして一生懸命逃げようとしたのです。
    見ていたチャイニーズ達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

    このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
    妊婦はバッタリ倒れたのです。

    すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
    するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

    しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
    国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

    私は何をするのだろうかと思いました。
    そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

    だがチャイニーズの兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
    剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

    赤い血がパーッと飛び散りました。
    私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

    実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

    妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

    お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

    そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
    片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

    ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
    赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

    あまりの無惨さに集まっていたチャイニーズ達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人のチャイニーズが新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

    こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

    「日本人が処刑されるぞー」

    と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
    しかしそれはチャイナの学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

    私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

    このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんがチャイニーズであったということです。
    そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちはチャイニーズの嫁さんだから私もチャイニーズだと思い込んでいたのです。

    そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私もチャイニーズだと思うようになっていました。
    そして早く本当のチャイニーズになりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

    そしてこの一、二年の間はチャイナ語も充分話せるようになって、誰が見ても私はチャイニーズだったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私をチャイニーズとしか見ていないのです。
    それでチャイナのいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

    それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方をチャイニーズによって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
    それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

    それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはりチャイニーズです。
    私の心は通じておりません。

    そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはりチャイニーズですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

    家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
    それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

    そこには兵隊や学生でないチャイニーズが既に何十名か集まっていました。
    そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

    ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
    保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

    集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
    恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

    何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
    そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

    すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
    するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

    私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
    五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

    みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
    そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

    引き金に手をかけたらそれが最期です。
    何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

    そのときです。
    日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

    するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
    その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

    バタバタと日本の人が倒れて行きます。
    機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

    そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
    このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

    しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
    そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

    兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
    只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

    五十数名の日本人は皆倒れているのです。
    その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

    ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
    何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

    保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

    こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
    全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

    するとどうでしょう。

    見物しておったチャイニーズ達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
    何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

    これは一体どういうことでしょう。
    私には全然わかりません。

    只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

    もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
    私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

    私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

    その近水槽の近くに池がありました。
    その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

    あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人ものチャイニーズがいるのでそれは出来ません。
    若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外のチャイニーズ達はおかしく思うに違いありません。

    国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どのチャイニーズが日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

    そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいるチャイニーズ達からあの人はおかしいではないかと思われる。
    Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

    それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

    そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
    殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

    そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
    国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

    そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
    ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

    そして首を前の方に突き出させたのです。
    そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

    この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
    これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

    この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
    この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

    するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
    二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

    合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
    四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

    そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
    四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

    池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
    全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

    私はもうたまりません。
    Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

    そして見たくはなかったけど池を見ました。
    真っ赤な池です。
    その池に蓮の花が一輪咲いていました。

    その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

    Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
    Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

    しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人もチャイニーズだなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

    昼過ぎでした。

    日本の飛行機が一機飛んで来ました。
    日本軍が来たと誰かが叫びました。

    ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
    それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

    悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
    その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

    実際に日本軍が来たのは翌日でした。
    でも日本軍が来たというだけで逃げ出すチャイナ兵。

    とても戦争したら太刀打ち出来ないチャイナ兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
    このときチャイニーズに殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

    私は今回の事件を通してチャイニーズがいよいよ嫌いになりました。
    私はチャイニーズの嫁になっているけどチャイニーズが嫌いになりました。

    こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

    でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
    今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

    そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。


    ********

    以上が「Sさんの体験談」の全文です。
    冒頭にも書きましたが、この文は佐賀県因通寺の住職であった調寛雅(しらべかんが)氏(2007年没)が書かれた『天皇さまが泣いてござった』からの転載です。

    2011年にブログ「徳島の保守」の皆様が、因通寺と連絡をとり、この文をネット上で公開する許可をいただきました。
    そして何回かにわたって掲載されたものを、「徳島の保守」のみなさまからご連絡をいただいて、当ブログに転載させていただきました。
    以後、毎年この時期に、再掲させていただいています。

    通州事件は、戦後、まったく消された歴史のようになっていたのですが、いまでは
    『通州の奇跡 凶弾の中を生き抜いた母と娘』皿木喜久著
    『通州事件 目撃者の証言』藤岡信勝著
    『慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件』加藤康男著
    など、さまざまな書籍が出されるようになりました。

    また「一般社団法人新しい歴史教科書をつくる会」によって、「昭和12年学会」などが構成され、通州事件を含む昭和12年の情況について、詳しく調査する活動なども行われるようになりました。

    一方、チャイナ共産党は、この通州事件を歴史から抹消するため、現在の北京市通州区自体を抜本的に作り変えて、いまでは往年の面影のまったくない超近代都市に生まれ変わっています。(冒頭の写真)
    都合の悪い歴史は消す。
    彼の国は徹底しています。

    通州事件をこうして振り返るのには理由があります。

    この通州事件の後に、第二次上海事件が起こっていますが、もしこのとき上海に日本海軍の陸戦隊の2千名がいなければ、このとき政情の不安定になっていたチャイナから日本に帰国するために上海に集まっていた日本人およそ3万人余が、通州の惨劇の二の舞になったであろうこと。
    通州で行われた惨劇は、そのままチベットに人民解放軍が攻め込んだ時の惨劇となったこと。
    いまなお、ウイグルに対して、この通州事件の惨劇が継続的に行われていること。

    そしてもし日本が、国防をこのままおろそかにするのであれば、今度は日本全土が通州事件の惨劇と同じ惨劇の対象になる可能性が濃厚にあるということです。

    最後にひとつ付け加えます。
    それは、通州でこれだけの惨劇があり、そのことが新聞で日本国内にも報道された時、横浜や神戸などにある中華街は、まったくいつもと変わらぬ日常があったことです。
    もし仮に、日本で通州事件のような事件がチャイニーズに対して起こったならば、チャイナは全土をあげて日本に対して怒りの報復をすることでしょうし、チャイナにいる日本人は、ことごとく虐殺の対象となることでしょう。
    けれど、日本では、そのようなことは起こり得ないし、だれひとり、起こそうと言う者さえもいない。
    このことは、とても重要なことだと思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 通州事件(1)経緯と概要


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    「日本がチャイナを侵略した」という人がいます。けれど歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチでチャイナに軍を派遣していたのです。それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。
    通州事件などの一連の事実を振り返る時、つくづく「世界は大金持ちの個人の利害得失で動く」ことを思い知らされます。
    ごく一部の人の金儲けと贅沢のために、一般の民衆が国籍を問わず、財を奪われ、虐殺される。
    民衆は人でなく、ただの家畜でしかなく、実際そのように屠殺までされる。
    だからこそいま、日本のシラスという概念が世界に必要とされてきているのです。

    通州事件の新聞報道
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    小名木善行です。

    この記事は、昨年の今日もアップさせていただいた記事です。
    「通州事件(つうしゅうじけん)」は、とてもつらい話です。
    しかし知っておかなければならない事実です。
    そしてこのことは、日本人のみならず、世界が知らなければならないことです。
    そこで今日明日の二回にわたり、通州事件を特集します。
    今回の記事は、通州事件の歴史認識としては、新説になります。

    ねずブロで通州事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことです。
    当時この事件について知る人は、ごく限られた人たちだけであったようで、当時はありもしないねつ造を書いたとか、でっちあげだとか、差別主義者であるとか、さまざまに中傷を受けたものです。
    あげく、私の人格否定論まで飛び出す始末で、その反響のすさまじさに驚きました。

    けれど、事実は事実です。
    いまでは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっていますが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、まだまだもっと多くの人に拡散し、常識化していかなければならないことだと思います。

    通州事件が起こったのは、昭和12(1937)年7月29日です。

    この事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起きています。
    半月前の7月7日にあったのが盧溝橋事件です。
    そしてこの事件に、チャイナ共産党が深く関与していたことは、歴史における公知の事実です。

    もともと共産主義は、世界革命を標榜しています。
    それは世界をクレムリンの支配下に置くというものです。
    そのために「コミンテルン(Communist International)」ができ、彼らはロシア皇帝を殺害し、ドイツのプロイセン皇帝を追い払い、ヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

    ところが欧州の各国は手強い。
    なぜ手強いかといえば、欧州各国は巨大な富を持っているからです。
    なぜ富を持っているかといえば、彼らはすでに地球上の8割を植民地として支配していた。

    そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアを、まず共産党の支配下に置こうというのが、コミンテルンの戦略となりました。
    そのためにまず混迷が続くチャイナを共産主義化する。
    これは、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定したことです。

    この決定に基づき、コミンテルンは大量の工作員をチャイナに送り込みました。
    そして毛沢東率いるチャイナ共産党に巨額の経費を与え、チャイナの共産主義化の促進を図ったのです。
    このことは現代を考える上においても、とても重要です。
    民度が低ければ、カネだけでいくらでも人を自在に動かすことができるということを歴史が証明しているからです。
    個人的にカネが儲かるなら、人を殺すこともいとわない。
    そういう社会であれば、カネでいくらでも人を買収し、動かすことができるのです。

    一方、民度が低くても宗教上の戒律のある国や社会では、カネだけで人を動かすことができません。
    欧米がそうで、この場合は、巨額のカネによる買収と女の二つが用いられます。
    宗教上の戒律を下半身は容易に破ることができるからです。

    旧ソ連が、ヨーロッパや対米工作のためにとスワローと呼ばれる性的工作の集団を用いたこと、いまの中共が同様の方法で欧米の政財界の取り込みを図っていることなどが、まさにこの手法によります。
    さらに悲惨なことに、この下半身には幼児売買も含まれます。

    では昨今の日本はどうでしょうか。
    昨今の日本は、女性や幼児を使わなくても、カネだけでいくらでも買収ができるのだそうです。
    ということは、いまの日本の民度は、昭和10〜12年当時の混乱していたチャイナと同じレベルの民度しかないということになります。
    これではあまりに英霊となったご先祖たちに申し訳ないのではないでしょうか。



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  • 涙の内坂峠


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    命は、たったひとつしかない、たいせつな、かけがえのないものです。
    けれどみんなのために役に立つこと。そのために自分の命を使うこと。それは間違ったことなのでしょうか。
    鬼塚道雄さんは、バスを止めようとして、若い命を散らせました。
    それは「自分の命を粗末にした」ということなのでしょうか。

    木炭バス
    20200713 木炭バス
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    ◆◆◆本文◆◆◆

    終戦後、まだ間もない昭和22(1947)年9月1日午前8時頃のことです。
    長崎市の北側の山中にある打坂峠(うちさかとおうげ)の急な坂道を、大瀬戸発長崎行きの木炭バスが、満員の乗客を乗せて登っていました。

    この頃の打坂峠は、舗装などされいていないデコボコ道です。
    道は狭くてくねくね曲がり、道路勾配は20%もありました。

    いまの道路構造令では第20条で、道路勾配は最大12%以下と定められています。
    勾配5%の坂が20メートルもあったら、もはや坂の向こうはみえないくらいの急な坂です。
    それが勾配20%です。
    どれだけ急な怖い坂だったか伺われます。

    その木炭バスが坂の半ばに差し掛かったとき、突然エンジンが停まってしまいました。
    運転手は直ぐにブレーキを踏みました。
    ところがブレーキが利きません。
    サイドブレーキも利かない。
    エンジンもかからない。

    上り坂の途中です。
    バスがバックで坂を転げ落ちないよう、運転手はギアを前進に入れようとしました。
    ところが前進ギアも入らない。
    あとでわかったことですが、ギアそのものが壊れてしまっていたのです。

    上り坂でいったん停止したバスは、ズルズルと坂道を後退し始めました。
    運転手はバスを止めようと必死に操作しましたが、バスはドンドンうしろに下がって行きます。
    急な坂道です。
    しかも曲がりくねっています。
    乗客は30人あまりです。

    このままでは大惨事になると思った運転手は、車掌をしていた鬼塚道男(おにづかみちお、当時21歳)さんに向かって、
    「鬼塚!直ぐに降りろ!
     石ころでん棒きれでん、
     なんでんよかけん車の下に敷け!」
    と叫びました。

    声を聞くやいなや、鬼塚車掌はバスから飛び降りました。
    そして近くにあるものを片っ端から車輪の後ろに置きました。
    ところが急な下り坂で加速がついたバスの車輪は、木片を弾き飛ばし、乗り越え、石を粉々に砕(くだ)いて、後退してしまいます。

    乗客たちには、なすすべもありません。
    「こいは、もう、おしまいばい!」
    乗客全員が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まりました。
    すぐ後ろは、高さ20メートルの険しい崖でした。

    あとすこしで、大事故になるところでした。
    運転手も乗客も、みんなほっとしました。

    運転手はバスから降りました。
    そして、
    「鬼塚!どこに、おっとか!」
    と声をかけました。

    けれど返事がありません。
    乗客たちも、降りてきました。
    そしてひとりの乗客が、
    「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」
    と指差しました。

    車輪の下に、鬼塚車掌がいました。
    彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いでいたのでした。

     *

    朝の10時過ぎ、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込んできました。
    時津営業所の高峰貞介さんは、すぐにトラックに飛び乗り、大急ぎで現場に駆けつけました。

    バスは、落ちてはいませんでした。
    崖、ギリギリのところで止まっていました。
    バスの外に運転手はいました。
    真っ青な顔をしていました。
    必死になってジャッキで、バスの車体を持ち上げていました。

     *

    高峰貞介さんは後に事故の様子と鬼塚さんについて次のように語っています。
    =======
    たしか、朝の10時少し過ぎだったですたい。
    自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちとるばい、早よう行ってくれんか」って、駆け込んで来たとです。
    木炭のトラックの火ばおこしてイリイリしてかけつけると、バスは崖のギリギリのところで止まっとったとです。

    もうお客はだれもおらんで、運転手が一人、真っ青か顔ばしてジャッキで車体を持ち上げとったですたい。
    「道男が飛び込んで輪止めになったばい。道男、道男」って涙流しとったです。

    当時の打坂峠は胸をつくような坂がくねくねと曲がっとりましたけん、わしら地獄坂と呼んどったです。
    自分で輪止めにならんばいかんと思うたとじゃなかでしょうか。
    丸うなって飛び込んで。

    道雄の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。
    背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。

    十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて。
    9月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。

    その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たとです。
    道男君は、おとなしかよか男じゃったですたい。
    木炭ばおこして準備するのは、みんな車掌の仕事ですけん、きつか仕事です。
    うまいことエンジンがかかればよかが、なかなかそげんコツは覚えられん。
    よう怒られとりました。

    それでもススだらけの顔で口ごたえひとつせんで、運転手の言うことばハイ、ハイって聞いとったです。
    ばってん、そげん死に方ばしたって聞いた時には、おとなしか男が、まことに肝っ玉は太かって思ったもんですたい。
    =======

    鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。
    この事故が起こった昭和22年のことです。
    日本はまだ敗戦の虚脱状態にありました。
    長崎は、原爆被害のあとで、病院通いをする人たちがたくさんいた頃です。
    闇市への買い出し、市内の病院に被爆(ひばく)したお子さんを連れて行く母親、そういう30人あまり乗客でした。
    その乗客たちの命と引き換えに、鬼塚さんは若い命を閉じました。

    みんな生きるだけで精一杯の時代でした。
    原爆が落ちて日もない。
    他人のことなんかかまってる余裕なんてなかった、そんな時代でした。

    それでも乗客たちはみんな、口々に身代わりになってくれた鬼塚車掌さんや、たすけてくれたバス会社の人たちにお礼を述べました。
    けれど、物資が不自由な時代です。
    誰も何もしてあげることは出来ませんでした。

    鬼塚道雄車掌(当時21歳)
    鬼塚道雄車掌


    それから26年が経った昭和48年のことです。
    新聞の投書欄に、そのときの乗客だった方が、感謝の思いを綴った記事が載りました。
    その記事を、たまたま長崎自動車(長崎バス)の社長が眼にしました。

    社長は、その日の内に緊急の役員会を招集しました。
    「私が発起人になる。浄財を集めて、鬼塚さんを供養する記念碑を造ろう!」

    こうして一年後、事故が起きた打坂に、記念碑とお地蔵さんが建てられました。

    救命地蔵(長崎市打坂)
    救命地蔵


    以降毎年、鬼塚車掌の命日となった9月1日に、長崎自動車では社長以下、幹部社員が地蔵の前で供養を行っています。
    また、近くにある時津幼稚園の年長組みの園児たちも、毎年地蔵尊にお参りして、花を手向けて小さな手を合わせています。

    時津幼稚園の山口理事長は、「近年、子供の犯罪が問題化しており、園児達に小さい頃から命の尊さを感じとって貰いたい」と鬼塚車掌の話を子供たちにして園児達の地蔵尊へのお参りを実施しているそうです。

    ******

    このお話は、長崎の教育委員会からパンフレット等で紹介され、また、ネット上でも
    伝えたいふるさとの100話』でも紹介されています。

    命は、たったひとつしかない、たいせつな、かけがえのないものです。
    けれどみんなのために役に立つこと。
    そのために自分の命を使うこと。
    それは間違ったことなのでしょうか。

    鬼塚道雄さんは、バスを止めようとして、若い命を散らせました。
    それは「自分の命を粗末にした」ということなのでしょうか。

    鬼塚さんの勇気のおかげで、30人の乗客乗員の命が救われました。
    あと数メートルで、バスが崖から転落するとわかったとき、鬼塚さんにはきっと他に選択肢がなかったのだろうと思います。
    そのときに、自分の命を優先するか、乗客の命を優先するか。

    そういうとき、バスが転落して乗客もろとも運転手までお亡くなりになっても、自分だけが先にバスから降りていたことを奇貨として、ひとりだけ助かる道を選ぶ人や民族や国もあります。
    けれどひとついえることは、戦前の軍人さんも、鬼塚さんのような民間人も、そして東日本大震災のときの被災地の皆さんも、限界ギリギリの状態になったとき、自分の命を犠牲にしてでも同胞の命を助けようとして、お亡くなりになっています。

    そういえば、幕末の思想家、藤田東湖も、安政の地震のとき家屋が倒壊し、屋内にいた母を助けるために自分の命を失っています。
    「正しい道を生きよう。
     乞食したって、
     この魂だけは穢すものか」

    日頃からそう言って、自分の命よりも、自分は共同体の一員であると自覚して、どこまでも「みんな」を優先して生きてきたのが日本人です。

    大東亜戦争における特攻隊戦死者は、海軍4156名、陸軍1689名、その他回天、震洋、会場挺身隊、空挺隊などを加えると、特攻作戦による日本人戦没者は1万4千名をこえます。
    誰のためでもない。
    みんなを守るために、命を散らせました。
    人を守るために自分の命さえも惜しまなかった日本でした。

    日本は、そういう国であり、そういう先人たちによって支えられ、育まれてきた国です。
    その日本を守りぬくことは、世界中の宗派を越えた神々の御心なのではないかとさえ思います。
    そしてそれは、いまを生きる私達に与えられた、とっても大切な使命なのではないかと思います。


    ※このお話は2010年1月の記事をリニューアルして再掲したものです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 日清戦争と宣戦布告


    次回倭塾は7月17日(土)13時半から富岡八幡宮婚儀殿、テーマは「幻の極東共和国と古代の日本」です。
    詳細は→https://www.facebook.com/events/884676452313311


    宣戦布告文というものが、戦争の開始そのものを目的としたものではない、ということを、我々は今一度確認しておく必要があります。「宣戦布告」というのは、それがあるからはじめて戦争が始められるというものではなく、開戦ギリギリの状況下で、戦争となることを防ぐためのものでもあるのです。
    宣戦布告が、必ずしもドンパチの始まりを意味するものではないし、また国際法上必要な開戦のための要素と思い込んで思考停止におちいるようなものでもないということは、我々日本人が認識を新たにし、GHQや戦後左翼の洗脳を解く鍵でもあるのです。

    日清戦争平壌攻撃戦
    日清戦争平壌攻撃戦



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    日清戦争(明治27(1894)年8月~明治28(1895)年3月)のお話を書いてみようと思います。

    日清戦争が起きた時代というのは、我が国では、大日本帝国憲法が発布(明治22、以下同じ)され、東海道本線が全線開通し、パリで万博が開催され、そのパリではエッフェル塔が建設されて、日本ではいまはファミコンシリーズで名を馳せている任天堂が創業され、翌、明治23年には教育勅語が発布、前年の明治26年には御木本幸吉が真珠の養殖に成功した、そんな時代です。

    要するに、我が国は明治の開花以降、急速に近代化が進み、欧米列強と肩を並べる実力を身に付けつつあった時代であったわけです。
    この当時でも、おそらくは精神文化という面では、我が国の治安の良さや国民の文盲率の低さ、あるいは民度の高さといった点においては、決して欧米にひけはとらなかったものと思います。
    けれど、日本と欧米では、武力が違う。経済力が違う。
    力の差が圧倒的だったのです。

    欧米諸国の東亜進出は、いわば西欧文明による東亜文明への挑戦です。
    この挑戦に対して、東洋的中世体制では勝てない。国として生き残れない。
    そのことは、清国の阿片戦争が、如実に証明していました。
    大軍を要する清国でさえ、英国のほんの少数の海軍の前に、まるで歯がたたずに蹂躙されているのです。

    ならば、その挑戦に対して、むしろ積極的に西洋文明を取り入れ、これを我が国の血肉となし、国力を鍛え上げて欧米列強と「対等」に付き合えるだけの実力を持った日本になる。
    これが日本の理想でしたし、幕末の志士たちが夢見た坂の上の雲です。

    この「対等」という概念は、我が国においては、人々の価値観の根幹をなす日本文化最大の特徴です。
    「対等」も「平等」も、英語で書いたら同じ「イコール(Equal)」ですが、日本ではまったく別な概念として認識されています。
    運動会の駆けっこで、順位をつけたらいけないと、全員並んで一等賞にするのが「平等」です。
    俺は勉強の成績ではA君に勝てないけど、「運動会の駆けっこだったら俺が一等賞だい!」となるのが「対等」です。

    「対等」は、相手の凄さをちゃんと認めたうえで、「その代わり俺にはこれが」とします。
    自他の違いをちゃんと認識した上で、自己の存在の実現を図ろうとします。
    「平等」は、ミソもクソも一緒ですから、こうした「その代わりに」という概念がありません。

    近年、洋風にならって、男女平等論がかしましいですが、男女がどこまでも「平等」というのなら、着替えも風呂も男女は同じ部屋、同じ風呂です。
    すくなくとも、女性にそうしたことが歓迎されるとは思えません。

    そもそも男には男の良さがあり、女には女の良さがあるのです。
    男の良さと、女の良さを互いに認め合い、違いを認識し、男は男らしく、女は女らしく、互いに力を合わせて、未来を拓こうとするのが「対等」です。
    どうも最近の教育現場では、「平等」にこだわるあまり、彼我の違いをきちんと認識する「対等」という概念があまりに軽視されているように感じられてなりません。

    幕末から明治にかけての日本人が求め大切にしたのも、この「対等」です。
    欧米列強の強さは認める。
    彼我の実力にそれだけ大きな違いがあるなら、むしろ積極的に欧米の文物を学び努力して、欧米列強と「対等」に付き合える日本になろう。
    それが、幕末の志士達の夢であったし、明治の政策の根幹でもあったし、日本人の対等意識の発露であったわけです。

    「対等」は、「追いつき追い越せ」ではありません。
    あくまでも「対等」になることを望むものです。

    いまでも同じです。
    日本車は欧米市場で人気ですが、日本のメーカーは、欧米のメーカーに「追いつき、追いつき」が基本戦略です。
    決して「追いつき、追い越せ」ではありません。
    彼らとどこまでも対等に付き合い、共存していく。
    それが日本のメーカーの希望であり、姿勢です。
    つまり「対等」というのは、彼我の違いを認めるだけでなく、実は、彼我の共存共栄を希望する概念です。

    このあたりも「平等」とはまるで異なります。
    「平等」は、「平等か不平等か」という対立概念しかありません。
    ひらたくいえば、「◯◯ちゃんと一緒でなきゃヤダぁ」という幼児の我儘と同じものです。

    一緒であることが認められなければ泣き叫ぶ。
    プロ市民とか、モンスターペアレントといわれる人たちの言い分は、すくなくとも私には幼児の固執性と同じに見えます。
    しかし、世の中は「分布」です。
    そのような人たちもいるから「対等な世の中」なのです。
    全部が全部、同じ思考、同じ行動なら、それは全体主義であって、不自由で哀れな世の中です。
    いろいろな人がいて、いろいろな考えが許容されているから、幸せだし、発展もあるのです。



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  • 事実と意見と問題解決の技法


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    そうしたことの訓練のために、歴史があり、古典があります。それは現在の問題を解決し、より良い未来を啓(ひら)く知恵です。

    20210707 未来社会
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    よく言われることに、
    「根拠となる出典を示せ」というものがあります。

    大学等で論文を書く場合、この「根拠となる出典」は、論文に必ず必要になるとされています。
    これが書かれていないだけで、論文としては不適切と言われたりもします。

    なるほど、何らかの論を述べる場合に、その「根拠」は必要です。
    それがなければ、ただの「思い込み」や、「ジジイのたわごと」の域をでなくなるからです。

    問題は、その「根拠」と「出典」が並列にされている点です。
    「根拠」は、論拠となる「事実」のことを言います。
    「出典」は、多くの場合、その「事実」から導き出された論を述べたものです。
    そして「論」というのは、その人の「意見」のことです。

    意見というのは、人それぞれです。
    100人の人がいれば、100通りの意見があるのが普通です。
    あたりまえです。人それぞれ、感じ方が違うからです。

    出典となるものは、多くの場合、先に誰かが書いたもののことを言います。
    書かれたものというのは、たくさんの意見を含みます。
    あるレストランを、「おいしい」と感じて、そのように書く人もいれば、店の感じが悪いと書く人もいます。

    ブルーノ・マーズは、世界的人気のミュージシャンですが、彼のミュージック・:ビデオの動画をyoutubeで観ると、人気の動画は全世界で42億回も再生されています。
    https://youtu.be/OPf0YbXqDm0
    動画を御覧頂いたらわかりますが、いいねの数が1698万件、でも、良くないねが96万件あります。
    42億回再生され、世界で1698万人の人が、素晴らしい!と思ったのに、わざわざこの動画を見に来た人のなかで96万人は、良くない!と感じたのです。

    これが何を意味しているかというと、ひとことでいうなら、「意見は人それぞれ」ということです。

    意見は、単に「自分はこう思う」というものにすぎません。
    歴史でいうなら、事実と呼べるものは、「西暦1600年に関ヶ原で東軍と西軍の激しい戦いがあったことが複数の史料で確認できる」ということだけです。
    このとき、なぜ家康がこの戦いを挑んだのか。
    諸説ありますが、それらはすべて、意見です。

    あるいは幕末に動乱があったことは、様々な史料で確認できます。
    けれどこのときの争いが、「尊王攘夷派と、佐幕開国派に分かれて国論を二分した争いであった」とするものは、これは単に意見にすぎません。
    なぜなら、幕府もまた尊王であったといえるからです。(←これもまた意見です)

    もちろん、そうした意見をもとに、自分の考えを構築することもできます。
    しかし、そうやってきたけれど、問題の解決ができなくなった、あるいは、どうにも矛盾が広がってしまってきた・・・このようなことが起こります。
    要するにボタンの掛け違えです。

    家康が、権力欲しさに関ケ原の戦いを起こしたのだ、という意見が、戦後の一時期を席巻したけれど、少し考えたらわかることだけれど、当時の大名というのは、それぞれが独立採算です。
    権力に取り憑かれて頭のおかしくなった爺ぃの言うことなど、誰も聞く耳持ちません。
    それぞれが家臣を抱え、領民の幸せに責任を持っているのです。
    ジジイのたわごとにつきあっているヒマなど、あると考えるほうが、むしろ異常です。

    そうであれば、では事実はどうであったのか、この時代に、何が起きたのか、それを原点に帰って知りうるかぎりの事実を調べる。
    そうして得られた事実をもとに、歴史を再構成してみる。
    すると、従来言われてきたことと、まったく別な関ヶ原の戦いの意図が見えてきます。

    では、そのまったく別な関が原の戦いの意図は、どこかに書いてあるか、誰かが述べているのかというと、それはない。
    そうであれば、出典など出しようもない。

    ここで重要なことは、その「どこかで誰かが書いた出典」なるものが、歴史上の事実のことを言っているのではなく、事実を基に誰かが構築した意見のことを言っている、ということです。
    つまり、これは
    「他人様の意見、すでに誰かが述べた意見を論拠にしなければ、自分の意見を持ってはいけない」
    と言っているのに等しい。
    これを古い言葉で、「屋上屋を架す」といいます。

    たいせつなことは「事実」です。
    「三別抄(さんべつしょう)は高麗の正規軍で、元寇を遅らせた」と述べる人がいます。
    言っているのが、れっきとした肩書のある先生であり、そう書いた本も出ています。

    けれど、事実を調べてみると、その三別抄は、元と高麗の正規軍によって、全員逮捕され、処刑されています。
    三別抄が正規軍なら、どうして正規軍によって討伐されているのでしょうか。

    そもそも三別抄の「抄」という字は、もともとの「盗む、没収する、ひったくる」という意味の漢字です。
    つまり「三つに別れた抄」というのは、三つの強盗団、野盗団のことをいうのです。
    名前に、ちゃんとそう書いてある。

    にもかかわらず、三別抄のことと誰かが「立派に元と戦った高麗の正規軍であったのだ」と書いているから、その説に則ってでしか意見を述べることができないのでしょうか。
    あまりにも馬鹿げた主張であるとしか言いようがありません。

    根拠というのは、事実に基づく判断のことを言います。
    そもそも事実認定に不備があって、ちょっと考えただけで、誰にでも「おかしい」とわかるようなことを、論拠にしなければならない、という方が、どうかしているのです。

    もちろん、だからといって、何の根拠もなしに、デタラメを述べて良いということにはなりません。
    あくまで、認定された事実に基づいて判断する。
    そしてこのとき、事実を意見をしっかりと分けて考える。

    実はこれは、よく知られた「問題解決の技法」です。
    問題はつねに、これまのやり方から生じているわけです。
    そうであれば、それまでのやり方の延長線上には、同じ問題が必ずある、ということになります。
    だから、原点に帰って、事実だけを拾い集めて、それを問題解決のために再構成する。
    そうすることで、同じ問題が二度と起こらないようにしていく、という、古典的問題解決法です。

    戦後の日本が、日本的精神性を失ってしまっていると、よく言われます。
    そうであれば、あらためて日本的精神性を、歴史や古典に求め、それらを再解釈していく。

    当然、従来とは異なったアプローチになるし、ことなる回答が生まれます。

    その回答を、強制する気はまったくありません。
    そんな次元の低い話ではなく、
    「これまでこのように言われていたけれど、
     誰が考えても、それっておかしいよね。
     そこで事実に基づいて再考してみると、
     こういう見方もできるよね」

    というのが、ねずブロであり、私の出演している動画における主張です。

    それよりも、誰かが言っていることが真実であり、その真実以外は一切認められないという考えこそ、異常です。
    これを全体主義、ファシズムと言います。

    もちろん、そういう全体主義が好きな人もいます。
    だから、そういう人たちを否定しようとは思いません。
    でも、自分では、そうはなりたくないし、そういう人たちとは、あまりお友達になりたくない(笑)
    もっと、常に、自由でありたい。
    私はそのように思っています。

    実は、情報化社会の中で、いちばん大切なことがここにあります。
    「事実」を正確に掴み取ることです。

    たとえば、スマホを利用していると、情報を全部抜かれるという心配があります。
    事実は何かというと、クラウド上にスマホのデータが全部アップロードされるという現代の仕様にあります。
    ということは、サーバーの管理者は、それらのすべてのデータにアクセスできるわけです。
    恋人のヌード写真をこっそりスマホに入れていたら、それは(すくなくともサーバー管理者にとっては)公開情報と同じで、ぜんぶ見れてしまうのです。

    それが嫌だからと、スマホを持たないという選択もありますが、あと50年もすれば、人はその精神を、直接ネットに接続することができるようになります。
    100年もしたら、あらゆるセキュリティは無効になる。

    するとどうなるかというと、現代の感覚で言ったら、銀行口座にある残高のすべてが人類にとっての共有財産になる、ということです。
    つまり、1億円のベンツがほしいと思ったら、誰でも買える。ホームレスでも買えてしまうことになります。
    お金は使いたい放題になるのです。

    欲しいものは何でも手に入る。
    それは誰もが、そのようになるわけです。
    人は、手に入らないから欲しいと思うのです。
    手に入ると、すぐに飽きてしまう、そんなことは、昔からよく言われていることです。

    ネット上にある情報(お金も情報の内です)のすべてが、人類の共通財産になるとすると、価値あるものは、むしろお金では買えないものになっていくと考えられます。

    つまり、時代はこれから大きく変化していく。
    その変化のための道筋をどう付けるかが、これからを生きる人々にとって重要なことになるし、そのことについての積極的な議論が、現代の最先端の課題となるわけです。

    凝り固まった頭や、従来の歪み(貨幣経済も行き過ぎると歪みになります)に拘泥されず、意見に惑わされないで、しっかりと事実を見極める。
    そうしたことの訓練のために、歴史があり、古典があります。
    それは現在の問題を解決し、より良い未来を啓(ひら)く知恵です。

    こうしたことが「事実」と「意見」を混同すると、まったく見えなくなる。
    ゆめゆめ気をつけたいところです。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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