戦略家をちゃんと使うことができる国体を築くにはどうしたらよいのか。 そこを我々は真剣に考えなければならないと思います。 保守同士の対立を、よくないという人がいますが、戦略家の発想は、対立があるなら、それをどう利用するかになります。 そういう思考が育まれ、実行できる国体を築く。 そういうことがこれから求められる時代になります。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
タイトルを読んで、何の話と思われましたでしょうか。
実は、古代朝鮮半島と、近代における日本のシベリアにおける「極東共和国」の設立案(大東亜思想)のお話です。
満洲国ができる(1932年)よりも少し前、わが国がシベリア出兵(1918年)していたことは、皆様御存知の通りと思います。
この出兵は、いまでは、第一次世界大戦における勝利国である英米仏伊加と、日本が、当時ソ連に生まれた共産革命軍によって強制的に囚われたチェコ軍を救出するための共同出兵と言われています。
ただ、早々に主役となるべき帝政ロシア軍が共産党軍によって滅ぼされてしまったために、英米仏伊加軍が、もはや護る意味無しとして、あとは、いちばん近くにある日本に、よろしく頼むと、早々に退散してしまった。
結果、日本陸軍だけがシベリアに取り残されて、シベリアの治安を護ることになる。
その一方で、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が人種の平等を高らかに主張したことで、日本は欧米諸国の、植民地に権利を持つVIPたちを敵にまわしていた。
そのことから、シベリアに残された日本は、孤軍状態におかれ、厳しい戦いを強いられることになったわけです。
このすこし前のことです。
対ロシア対策を指揮していたのが、オトポールでユダヤ人たちを救った樋口季一郎陸軍中将ですが、樋口中将はハバロフスクで、源氏笹の紋章に、漢文で何やら文書の書かれた石碑を発見しています。
当時のシベリアには多数のイエローが住んでいましたが、その上層部にごく少数のロシア人たちがいて、シベリアを勝手に領有しようとしていました。
そして共産パルチザンが、それらロシア人たちを狙い、また有色人種のイエローの民衆たちを強襲していました。
このため樋口中将は、共産パルチザンたちに書簡を送り、シベリアの地はもともとイエローの土地であること。
そして800年前に源義経一行が、北海道から樺太を経由してシベリアに入り、蒙古(猛虎)の将官を名乗って、辺り一帯を領有していた事実があること。
そのため、実際に石碑が残されていることなどを、書き送りました。
つまり「君たちには、この土地を領有する権原がない」ということを手紙にしたためて送ったわけです。
すると何が起きたかということ、その歴史的遺産である石碑に、真っ黒にコールタールが塗られてしまった。
そこでふたたび樋口中将が抗議の手紙を送ると、今度は石碑そのものが、いつのまにか取り壊されてしまったということが、樋口中将の回顧録に書かれています。
そしてこの当時の日本陸軍の考え方として、シベリアに現地の人達による「極東共和国」をつくる。
その領地は、バイカル湖から、北極海に注ぐ大河であるレナ川以東とする。
この「極東共和国」は、シベリアに住むイエロー達による自治国であり、同時に満洲あたりには、やはり満人、および当時急速に人口を増加させていた漢人たちによる、満洲国を、やはり自治国としてつくる。
また、モンゴル族の住むエリアにも、やはり日本が援助してモンゴル共和国をつくる。
そして日韓併合によって日本領となっていた朝鮮半島も、その地に住む人々による自治国をつくり、日本軍は、日本に撤収する・・・といった作戦が建てられていたといいます。
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