• 部下たち二千人の命を守った警部・・・廣枝音右衛門物語


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    「吾等の今日あるは、あのとき、隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと
    よろしく称讃し、この大恩は孫々に至るも忘却することなく
    報恩感謝の誠を捧げて慰霊せん」

    20210830 廣枝音右衛門
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9E%9D%E9%9F%B3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    もう随分と前から、警察官のことをマッポとかポリ公とか言って、やたらに警察官を敵視するような、おかしな文化(といえるかどうかもあやしい)もどきが日本に蔓延しています。
    もちろん刑事ドラマなどで、真面目な警察官は相変わらず人気だし、警察24時のようなドキュメンタリーも高視聴率です。
    けれど、その一方で、私達の生活や治安を守ってくれていて、そのために日々訓練を欠かさない警察官を、なにゆえにか敵視する人たちがいて、それは日本だけでなく米国においても(主に民主党支持層を中心に)同様の思想を持つ人達がいて、なぜか警察官の給料さえも支払いを拒否しようとしているといいます。
    実におかしな話だと思います。

    台湾は、いまでも戦前戦中までの日本の文化を色濃く保っているところがある国(あえて”国”といいます)ですが、なかでも台湾の高砂族のあいだでは、警察官は、いまでも地域の守り神のようにして慕われています。
    これは、戦前戦中までの日本の警察官が、エリート中のエリートであったこと、もともと明治に現行の警察制度が始まったとき、警察官になったのが旧士族(武士)であった人たちであったことに起因します。

    高級警察官僚は別ですが、現場の警察官は、まさに元武士でしたから、強いし、優しいし、筋道を通すし、不正不義を一切許さないし、教養があるし、子どもたちにやさしいし、だから派出所に住み込みで勤務する駐在さんは、町や村で、ある意味一番信頼される存在でもありました。

    そんな次第でしたから、戦前に警官になるのは、現代の東大に合格するよりむずかしいとさえ言われていました。
    このことは日本領だった台湾も同じで、台湾における警察官は、それだけ名誉ある職業であり、人々から尊敬されてもいたのです。
    私はそういう社会こそ、健全な社会であると思います。

    さて、その台湾で、いまでも「神」として祀られている警察官がいます。
    名を「廣枝音右衛門(広枝音右衛門)」といいます。

    廣枝音右衛門は、明治38年に神奈川県小田原市で生まれ、逗子の開成中学、日本大学予科へと進み、昭和3年、23歳のときに、佐倉歩兵第57連隊に入隊して陸軍軍曹になりました。
    そして任期満了で除隊したあと、湯河原の小学校教員などを勤め、昭和5年、台湾にわたって、なんと当時、競争率100倍という超難関の台湾総督府の巡査を受験して合格、台湾警察の巡査となり、台湾・新竹州勤務となりました。

    この時代の台湾警察は、治安活動だけでなく、台湾の人々を「内地の日本人と同等の教育、文化水準に引き上げる」という行政上の役割も担っていました。

    昭和17年5月、廣枝音右衛門は、警部に昇進し、新竹州竹南の郡政主任となり、大東亜戦争の戦線拡大にともなって台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊・総指揮官を拝命しました。
    海軍巡査隊は、昭和18年12月8日、高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラに向かいました。

    マニラでは厳しい訓練の日々が続きました。
    音右衛門は、隊長として常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けました。

    そんな廣枝隊長を部下たちは、とても慕いました。
    なにせ人柄が良い。真面目で、思いやりがある。

    巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援でした。
    戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ市近郊に米軍が上陸してきました。
    米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況に至りました。

    海軍巡査隊にも、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給されました。
    それは、「この棒地雷を手に敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」という意味の支給でした。

    音右衛門にも家族がいました。
    台湾に、妻と3人の子たちがいました。

    音右衛門は苦慮したうえで、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行いました。

    翌日、整列した二千人の部下たちを前に、言いました。

    「諸君。
     諸君らは、
     よく国のために戦ってきてくれた。
     しかし君たちは、
     軍の命令通り
     犬死することはない。
     なぜなら祖国台湾に、
     諸君らの帰りを
     心から願っている
     家族が待っているからだ。
     私は日本人だ。
     だから責任はすべて私がとる。
     全員、米軍の捕虜になろうとも
     生きて帰ってくれ」

    二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きました。
    音右衛門の気持ちが痛いほどわかったからです。

    音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入りました。
    そして拳銃をみずからの頭に向けると、頭部を2発撃って、自決しました。
    昭和20年2月23日午後3時頃のことでした。
    廣枝音右衛門、享年40才でした。

    音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。
    この恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくって、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、廣枝音右衛門隊長を祀りました。

    さらに廣枝隊長から受けた恩義を末永く語り継ぐべく、茨城県取手市の弘経寺に広枝隊長の「顕彰碑」を寄進し健立しています。

    弘経寺 広枝隊長 顕彰碑
    弘経寺広枝隊長顕彰碑


    以下は、その「顕彰碑」に彫られた文です。

    「泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
     時に2月24日なり
     その最後たるよく凡人のなしえざるところ。

     せんなるかな戦後台湾は外国となりたるも
     この義挙により生還するを得た数百の部下達は

     吾等の今日あるは、
     あのとき、隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと

     よろしく称讃し、この大恩は孫々に至るも忘却することなく
     報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと

     昭和51年9月26日隊長ゆかりの地、
     霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り、
     盛大なる英魂安置式を行う。

     この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し、
     相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝え
     その遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す

       元台湾新竹州警友会」

    昭和58年5月、小隊長をつとめた劉維添(りゅういてん)氏は、かつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れました。
    そこで彼は、隊長終焉の地の土を集めると、茨城県取手市に住む、ふみ未亡人に、その土を手渡しました。
    (ふみさん平成元年2月、76歳で永眠)
     
    こうして廣枝音右衛門は、獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって台湾・権化堂に祭られました。

    自らの命に代えて、二千人の部下の命を守ったz廣枝音右衛門。
    こうした歴史を、私たち日本人は、これからもしっかりと語り継いでいきたいと思います。


    ※この記事は2010年1月3日の記事のリニューアル再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    8月はどうしても戦争の話ばかりになります。
    今回のお話も、先の戦争にからんで、毎年アップしているお話です。
    私達は、いま平和な日本にいますし、戦後世代としていちども戦争の惨禍を経験しないで生きてくることができました。
    けれど過去にどのようなことがあったのか。
    そのことを私達は決してわすれてはいけないと思うのです。
    このお話は、何度ご紹介しても長春駅前での三人の女性の死のところで、涙でパソコンの画面が見えなくなってしまいます。そんなお話です。

    満洲時代の長春駅
    20200305 長春駅
    画像出所=https://aucfree.com/items/p716623530
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    最初にこの物語をブログでご紹介したのは2011年のことです。
    すると不思議なことにネット上で、
    「この話は嘘っぱちだ」
    「ただの作り話にすぎない」
    などといった批判が相次いで起こりました。

    私自身は、もちろんその時代に居合わせたわけではありませんし、被害に遭われてお亡くなりになられた看護婦の方々と直接お会いしたわけでもなければ、その場を見てきたわけでもありません。
    ですからどこまでが史実で、どこまでが創作なのかはわかりません。

    ただこのような物語があり、そしてその短くも悲しい生涯を惜しんで、さいたま市の青葉霊苑に慰霊塔が建てられていることは事実です。
    そしてその慰霊塔には、いまもご遺族の方々等による献花が絶えずに続いています。
    そのさいたま市の霊園にある慰霊塔が、上にあります「青葉慈蔵尊」です。

    お地蔵さんならば普通は「地蔵」と書くところを、その像は「慈蔵」と書いています。
    そこに語り継がなければならない何かがあると私は思います。

    同様のケースは、他にも多々あったものと思われます。
    実際にはもっと悲惨な現実がたくさんあったのが事実です。
    そしてこの物語には、伝えなければならない大切なものがぎっしりと詰まっているように思います。

    本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいた2011年3月の記事のリニューアルです。
    また、物語のご紹介に際して「看護婦」という用語を用います。
    いまでは「看護師」と呼びますが、ほんの何十年か前までは「看護婦」という呼び名が普通だったからです。

     *

    お地蔵さんの建立には、堀喜身子(ほりきみこ)さんという元看護婦の婦長さんだった方が深く関係しています。
    掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが大好きな女の子でした。

    彼女は昭和11(1936)年に女学校を出ると、すぐ満洲に渡り、満洲赤十字看護婦養成所に入所しました。
    そこで甲種看護婦三年の過程を修め、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰って樺太庁立病院の看護婦になっています。

    昭和14(1939)年の春、彼女は医師の堀正次と結婚しました。
    結婚して1年目の春、堀喜身子さんのもとに、召集令状がやってきました。
    令状を受けた一週間後には、彼女は単身で、任地の香港第一救護所に出発しています。

    まもなく彼女の任地は上海に移り、次いで満洲国牡丹江、さらにソ連との国境に近い虎林(こりん)の野戦病院へと移りました。
    野戦病院には、他に48名の看護婦がいました。

    虎林の病院に勤務して半年ほど経ったとき、その野戦病院に夫の正次(まさつぐ)も令状を受けてやってきました。
    二人は医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療を続けました。
    そしてこの病院勤務の頃に、長男の静夫(しずお)さん、長女槇子(まきこ)さんの二人の子宝にも恵まれました。

    終戦間近となった昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って満洲に攻め込んできました。
    それは厳しい戦いでした。
    虎林の野戦病院の患者は全員、長春に移ることが上から決定されました。

    患者のうちの70余名は伝染病の重患であったために、動かすことができません。
    そこで野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんと重患者が残ることになりました。
    掘喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に長春に向かう組に配属になりました。
    二人は、これが今生の別れとなりました。

     *

    虎林を出発した病院の一行は牡丹江(ぼたんこう)を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に長春にたどり着きました。
    そしてここで終戦の玉音放送を聴きました。

    日をおかず長春はソ連軍に占領されました。
    ソ連軍は、看護婦や将校夫人や女子児童76名を合宿所に入れました。

    そこで身上調査が行われました。
    調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は「長春第八病院に勤務せよ」との命令を受けました。

    月給はひとり200円でした。
    34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合って、一緒に収容されている兵隊さんの家族を養う費用にアテました。
    物価はあがる一方でした。
    生活は苦しくなるばかりでした。
    堀喜美子さんの体も次第に痩せ細って行きました。

    昭和21(1946)年春、第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
    内容は、
    「看護婦の応援を要請。
     期間一か月。
     月給300円」
    というものでした。

    いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどしないだろう。
    ましてソ連陸軍の発令による公的な「命令書」です。
    堀婦長は一抹の不安はおぼえながらも引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも一番のしっかり者の
    大島花枝看護婦と、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てるの3名の看護婦を選びました。

    出発の日、堀婦長は三人に、
    「決して無理はしないように」
    と言い聞かせました。

    大島花江看護婦は元気いっぱいの笑顔で、
    「婦長、心配はいりません。
     敗戦国であっても、
     世界の赤十字を背負う看護婦として、
     堂々と働いてきます!」
    と答えました。

    「大島さん、
     細井さんと大塚さんのことも
     お願いね」
    と気遣う婦長に、細井、大塚両名は、
    「あら、大塚さんばっかり。
     私たちはいつまでたっても
     一人前じゃないようだわ」
    「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
    と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いました。

    堀婦長は出発する3名にきちんと制服(当時は看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
    そして制服の右腕に赤十字の腕章を付けさせました。
    どこからどうみても「赤十字の看護婦」であることがひとめでわかるようにしたのです。

    こうして白羽の矢をたてられた三名は元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。

    ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々の部屋を与えられました。
    部屋は個室でベットもありました。
    大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって個室はまさに夢のような部屋でした。

    やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院からまた3名の追加の命令書がきました。
    日本側は、
     荒川静子、
     三戸はるみ、
     沢田八重
    の3名を第二回の後続としてソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りました。

    もうまもなく最初の三名が交代して帰ってくる。
    誰もがそう思っていました。

    ところが最初の3人は帰ってきません。
    やがてさらに一か月が経過しました。
    するとまた3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされました。

    堀婦長は心配になりました。
    そして引率者の平尾軍医に、命令を断るように談判しました。

    一か月という約束で看護婦を送っているのです。
    最初の3名が行ってから、もう3か月経過しています。
    2回目の看護婦が行ってからも2か月です。
    にも関わらず、誰も帰してもらっていない。
    おかしいのではありませんか?。
    向こうが約束を反故にしているのです。
    普通ならそんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできないことです。
    しかも6名とも行ったきり音信不通です。

    けれど相手はソ連軍です。
    命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員殺されてしまう危険があります。
    病院としては命令に背くことはできない。

    やむなく、
     井出きみ子、
     澤本かなえ、
     後藤よし子
    の3名が送り出されることになりました。

    仏の顔も三度までといいます。
    4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
    先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう決意を固めていた矢先、
    また一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ました。
    今度もまた
    「3名の看護婦を出せ」
    というものです。

    なんという厚顔無恥。
    残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他22名です。
    その中から4度目の3名を選出しなければなりません。
    堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがっていました。

     *

    その日の夜、堀婦長は次に向かう3名を呼びました。
    明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するようにと伝えるように言い聞かせました。

    その日の夜のことです。
    すっかり夜も更けたころ病院のドアをたたく音がしました。
    「こんな時間になにごとだろう・・・・」
    堀婦長が玄関の戸を小さく開けました。
    すると髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、
    「婦長・・・」
    とつぶやきながらドサリと倒れこんできました。

    みればなんと最初に出発した大島看護婦でした。
    たいへんな重体です。
    もはや意識さえも危うい。
    全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創があります。
    裸足の足は血だらけです。
    全身に鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷があります。
    脈拍にも結滞がありました。

    なにがあったのか。
    堀婦長は、とっさに
    「そうだ。
     こうまでしてここに来なければ
     ならなかったのには、
     理由があるに違いない。
     その理由を聞かなければ」
    と思い立ちました。
    そして、
    「花江さん!、
     大島さん!
     目を開けて!」
    と、大島看護婦を揺(ゆ)り動かしました。

    重体の患者です。
    ふつうなら揺り動かすなんて絶対にありえないことです。
    他の看護婦が
    「婦長!
     そんなことをしたら
     花江さんが!」
    と悲鳴をあげました。

    けれど堀婦長は毅然と言いました。
    「あなたたちは黙って!
     花江さんは助からない。
     花江さんの死を
     無駄にしてはいけない!」
    と声を荒げました。

    大島看護婦が目を覚ましました。
    そして語りました。

    「婦長。
     私たちはソ連軍の病院に看護婦として
     頼まれて行った筈ですのに、
     あちらでは看護婦の仕事を
     させられているのではありません。
     行ったその日から、
     ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。

     半日たらずで
     私たちは半狂乱になってしまいました。
     約束が違う!と泣いても叫んでも、
     ぶっても蹴っても、
     野獣のような相手に通じません。
     泣き疲れて寝入り、
     新しい相手にまた犯されて暴れ、
     その繰り返しが来る日も来る日も
     続いたのです。

     食事をした覚えもなく、
     何日目だったか、
     空腹に目を覚まし、
     枕元に置かれていた
     パンにかじりつき、
     そこではじめて
     事の重大さに気が付き・・

     それからひとりで泣きました。
     涙があとからあとから続き、
     自分の犯された体を見ては、
     また悔しくて泣きました。

     たったひとりの部屋で、
     母の名を呼び、
     どうせ届かないと知りながら、
     助けを求めて叫び続けました。
     そしてどんなにしても、
     どうにもならないことが
     わかってきたのです。

     やがておぼろげながら、
     一緒に来た二人も
     同じようにされていることが
     わかりました。

     ほとんど毎晩のように
     三人か四人の赤毛の大男に
     もてあそばれながら、
     身の不運に泣きました。

     何度も逃げようとして、
     その都度、
     手ひどい仕打ちにあい、
     どうにもならないことが
     わかりました。

     記憶が次第に薄れ、
     時の経過も定かではなくなった頃、
     赤毛の鬼たちの言動で、
     第八病院の看護婦の
     同僚たちが
     次々と送られて
     きていることを知って、
     無性に腹が立ち、
     同時に我にかえりました。

     これは大変なことになる。
     なんとかしなければ、
     みんなが赤鬼の生贄になる。
     そんなことを許してはならない。
     そうだ、
     たとえ殺されても、
     絶対に逃げ帰って
     婦長さんに
     ひとこと知らせなければ・・・

     赤鬼に汚された
     体にも命にも
     いまさら何の未練も
     ありませんでした。

     私は二重三重の
     歩哨の目を逃れ、
     鉄条網の下を、
     鉄の針で服が破れ、
     肉が引き裂かれる
     痛みを感じながら
     潜り抜けて、
     逃げました。

     後ろでソ連兵の叫び声と
     銃の音を聞きながら、
     無我夢中で逃げてきました。

     婦長さん。
     もう、人を
     送っては
     なりません・・・・」

    そこまで話して大島花江看護婦はこときれました。

    なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
    蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、
    彼女はここまで逃れてきたのです。

    病室内に、
    「はなえさん・・・」
    「大島さん・・・」
    という看護婦たちの涙の声がこだましました。
    こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は堀婦長の腕の中で息をひきとりました。

    どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
    大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
    あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼(いた)みました。

    翌日の日曜日の午後、遺体は満洲のしきたりにならって土葬で手厚く葬られました。
    彼女の髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置しました。
    花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
    すべて懐(なつ)かしくて楽しかった内地(ないち)の話ばかりでした。

    翌日、堀婦長が出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。
    張さんは日本の陸軍士官学校を卒業した人です。
    張さんはひどく怒っていました。
    看護婦たちがだれも出勤していないのです。
    こんなことは前代未聞です。

    「変ですね~」
    と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間はっとしました。
    そして3階の看護婦たちの宿所に走りました。

    いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
    それが今朝はシーンと静まり返って、もの音一つしません。
    堀婦長の胸にズシリと重たいものがのしかかりました。

    宿所の戸を開けました。
    お線香の匂いがただよっていました。
    内側の障子が閉まっていました。
    婦長が障子を開けました。

    部屋の中央に小さなテーブルがありました。
    テーブルの上には大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。
    そしてその周囲に、きれいに並んだ22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。

    机の上に遺書がありました。

    「22名の私たちが、
     自分の手で
     生命を断ちますこと、
     軍医部長はじめ
     婦長にも
     さぞかしご迷惑のことと、
     深くお詫びを申し上げます。

     私たちは、
     敗れたとはいえ、
     かつての敵国人に
     犯されるよりは
     死を選びます。

     たとえ生命はなくなりましても、
     私どもの魂は
     永久に満洲の地に止まり、
     日本が再び
     この地に帰ってくる時、
     ご案内をいたします。

     その意味からも、
     私どものなきがらは、
     土葬にして、
     この満洲の土にしてください。」

    遺書の終わりには、22名の名前がそれぞれの手で記されていました。
    遺体は、制服制帽の正装。
    顔には薄化粧。
    両ひざはしっかりと結ばれ一糸乱れぬ姿でした。

    その中でたったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
    26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の意志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、
    最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
    畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。

    現場には、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
    婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難し、事のてんまつを訴え、泣き崩れました。

    これには彼らもしばらくは無言のままで、事態の重大さがわかったようでした。
    この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、
    「ソ連の命令として
     伝えられることで
     納得のいかないことがあれば、
     24時間以内に
     ゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に
     必ず問い合わせること」

    「日本の女性とソ連兵が、
     ジープあるいは
     その他の車に
     同乗してはならない」
    という通達が日本人の宿舎にまわってきました。

    22名は死ぬ前に全員が身辺をきれいに整理整頓していました。
    彼女たちが「土葬」を遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。

    「それではあまりに
     22名の看護婦たちが
     かわいそうだ。
     火葬にしたうえで
     分骨し、
     故郷の両親に
     届けてあげれるように
     しようじゃないですか」
    と、張さんが、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。

    日本が負けて立場が変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
    張さんは
    「せめてこれまで
     朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、
     これがささやかな供養ですから」
    と述べてくれました。

     *

    こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。
    その四十九日のときのことです。
    張さんが亡くなられた看護婦さんたちにせめてお饅頭でも作ってあげたら?と、饅頭を作る材料費を出してくれたのです。

    そこで堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
    そこは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。

    堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから噂話を耳にしました。
    長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きているというのです。
    場所は張春市内にあるミナカイデパートの跡で、地下のダンスホールにソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が
    生きてダンサーをしているというのです。

    堀婦長は矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに向かいました。
    ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人、働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、コリアン、チャイニーズでした。

    入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて入室を拒みました。
    どうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょうか。
    入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろといいました。

    部屋でひとり待っていると、ガチャリと音がして扉が開きました。
    肌もあらわで派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。

    「ふ、婦長・・・」
    「婦長さん!!」

    「みんな・・・」

    堀婦長にも彼女たちにも言葉はありませんでした。
    互いに会うことができた。
    それだけで涙があふれました。

    しばらくして落ち着くと堀婦長は言いました。
    「大島さんがね・・・」
    「知っています。
     同僚たち22名が
     集団自決したことも
     聞いています。」
    「だったら、
     こんなところにいないで、
     早く帰ってきなさい!!」
    「・・・・」
    「あなた達の気持ちは、
     痛いほどわかるわ。
     だけど帰ってきてくれなかったら、
     救いようがないじゃないの」

    8名の看護婦たちは婦長の言葉にうつむいたままでした。
    堀婦長は気付きました。
    眉を細く引き口紅を赤くしたひとりひとりの顔は以前の看護婦に違いないのです。
    しかし8人ともまるで生気がありません。
    それどころか目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえしています。

    堀婦長は心を鬼にして言いました。
    「どうして黙っているの?
     どうして返事をしないの?
     そう、
     あなた達は、
     そういうことが
     好きでやっているのね」

    ひとりが答えました。

    「婦長さん、
     そんなにあたしたちのことを
     思っていてくださるのなら、
     お話します。

     私たちは、
     ソ連軍の病院に行った
     その日から、
     毎晩7、8人の
     ソ連の将校に犯されたのです。
     そして気づいてみたら、
     梅毒にかかっていました。

     私たちも看護婦です。
     いまではそれが、
     だいぶ悪くなっているのが
     わかります。

     もう私たちはダメなのです。
     もう・・・
     みなさんのところに帰っても
     仕方ないのです。

     仮に幸運に恵まれて
     日本に帰れる日が来たとしても、
     こんな体では
     日本の土は踏めません。
     この性病が
     どれほど恐ろしいものか、
     十二分に知っています。

     だから、
     だから私たちは、
     梅毒をうつしたソ連人に、
     逆にうつして
     復讐しているのです。

     今はもう、
     歩くのにも
     痛みを感じるようになりました。
     ですから
     ひとりでも多くのソ連人に
     うつしてやるつもりで
     頑張って・・・」

    もう何も受け付けない。
    もう何を言っても彼女たちには通じない。
    彼女たちを覆っているのは、もはや完全な孤独と排他と虚無しかない。
    彼女たちの言葉を聞いた堀婦長は、流れる涙で何も言えなくなりました。

    私が人選した。
    責任は私にあるのだ。
    彼女たちが負った傷の深さ過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定どころか、何の助言さえもしてあげれないわ。
    堀婦長はただ自分の無力さに悔(くや)し涙が止まらないまま、この日さいごは気まずい雰囲気で部屋を後にしました。

    「でも、このままでは
     済まさないわ。
     なんとしても彼女たちを
     助けなければ!!」

    堀婦長はその日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り梅毒の薬を持ち出しました。
    そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいました。

    通されたのは、昨日と同じ部屋でした。
    女ばかり9人が、そこに集まりました。
    婦長はせいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。

    「みんな!
     今日はお薬を
     持ってきてあげたわ。
     みんなの分、
     たくさん持ってきたよ。

     あなたたちはまだ若いわ。
     復讐する気持ちはわかるけど、
     それでは際限がない。
     それより、
     この薬を飲んで、
     一日も早く体を治そうよ。
     そして気持ちを立て直して、
     生きることを目標に
     努力しようよ!」

    「婦長さんのお心は
     ありがたいです。
     だけど婦長さん。
     そのお薬は
     日本人が作ったものです。
     そんな貴重なものは、
     私たちには使えません。
     私たちのことは、
     もういいんです。
     本当に、
     もういいんです・・・・」

    「そんなことを言ってはダメ!
     お願いだからあきらめないで!
     お薬、ここに置いていくわね。
     それじゃ、帰るわね・・・」

    「婦長さん。
     そんなに私たちの気持ちが
     わからないのなら、
     わかるようにしてあげます。」

    彼女の中のひとりがそう言ってスカートをたくしあげて自分の性器を露出しました。
    梅毒は性器全体に水泡ができてそこがただれて膿が出ます。
    さらに尿道口も膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐っていきます。
    広げた足の間には典型的な梅毒の症状がありました。
    あまりにむごい姿でした。
    もはや手遅れかもしれない。
    けれど病気は弱気になったら負けです。

    堀婦長はきっぱりと彼女たちに言いました。
    「この程度なら、
     時間はかかるけど、
     必ず治ります!
     根気よ!
     薬は十分あるのだから、
     あなた達も、
     絶対に良くなるんだという
     強い気持ちで治療するのっ!
     いいわね!」

    「治らない、
     治りっこないなんて、
     勝手な思い込みはやめなさい!
     もう商売はしてはダメよ。
     良くなるのよ。
     毎日お互いに
     声をかけあって、
     手抜きしないで
     治療するの。
     いいわね!」

    こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持って治療を受けると約束してくれました。
    薬の調達は容易ではありません。
    ただでさえ日本人の医師や看護婦が扱える量は少ないのです。

    それでも堀婦長は彼女たちを助けたい一心で薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に薬を届けに通い続けました。
    お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日いちにちと軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。

    このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続きました。
    そしてまる2年越しの交流の中で堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいして
    より深い愛情を持つようになっていきました。

    「一緒に日本に帰ろうね」

    その言葉を彼女たちにどれほどかけたでしょう。
    けれど敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活が待っているはずもありません。
    それでもみんなと仲良くしながら、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
    みんな私が面倒みてあげるんだ。
    堀婦長はそう固く決意していたのです。

     *

    昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできました。
    長春にいる在留邦人に帰国命令が出たというのです。

    「その日の午後7時に
     汽車が出るから、
     一週間分の食料持参で
     南新京駅に集合するように」

    急な話です。
    「時間がないわ。
     あの娘たちに
     知らせなくちゃ」

    堀婦長は二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。
    「みんな一緒に日本に帰れるんだ」
    走りながら堀婦長の目には涙が浮かびました。

    ダンスホールに着きました。
    彼女たちに面会を求めました。
    「午後7時に南新京駅に集まるように」
    と話しました。

    「わーい、帰国命令だ。
     良かったぁ~!!」
    彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。
    ほんとうにうれしそうでした。

    「きっと来てくれるわね?」

    「婦長さん、
     ありがとうございます。
     7時までには準備して、
     必ず参ります」

    「必ずよ!
     準備をして、
     必ず来るのよ!」

    婦長もうれしくてたまりません。
    みんな一緒に帰れる。
    こだわりはあることでしょう。
    ないはずなんてない。
    「だけど私がなんとしてでも
     彼女たちを立ち直らせてみせるわ。
     絶対に立ち直らせてみせる!」

    堀婦長は子供たちと身支度を整えました。
    心配でたまらず集合時間の2時間も前に南新京駅に行きました。
    そこで彼女たちを待ちました。

    まさか・・・とは思いました。
    でも彼女たちは
    「時間までには行きます」
    と約束してくれました。

    「その言葉を信じよう。
     きっと来てくれるわ。」

    貨車が到着しました。
    長春にいた日本人たちが、
    続々と貨車に乗り込み始めました。
    堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。

    そろそろ出発の時間になりました。
    来ないかもしれない・・・そう思った時です。
    「婦長さ~ん!!」
    と明るい声がしました。

    どこにいたのか意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。
    三人とも、とっても嬉しそうな顔をしていました。

    「こっちよ~~、早く~~!」
    「あとの娘たちは?」

    「大丈夫です。
     あとから来ます。
     それより、これ、
     食糧のたしにしてください。」

    「ええっ!こんなにたくさん?!
     こんなことしたら
     あなた達が困るじゃないの」

    「いいんですよ、婦長さん。
     私たちの分は、
     あとからくる娘たちが
     持ってきます。
     だから、これ、みなさんで。
     それから、
     ほんの少しですけれど、
     何かに使ってください。」

    「何なの?」

    「アハハ、あとでですよぉ~。
     じゃあ、あたしたち、
     澤本さんたちを探してきますね」

    「わかったわ。
     でも、もう
     あまり時間がないから、
     早くしてね。急ぐのよ」

    「はいっ!」

    そのとき振り向いた、彼女たち3人の笑顔を堀婦長は生涯決して忘れない。
    忘れようがないです。
    三人ともとても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような明るくてさわやかな笑顔だったのです。

    堀婦長が彼女たちが戻ると安心して貨車に乗る順番の列に並んだときです。

    バン、バンと2発の銃声がしました。
    そしてすこし遅れて、バンと3発目の銃声が響きました。
    列車への乗車を待っている
    日本人たちが騒ぎ始めました。

    「おいっ!自殺だ」
    「若い女3人みたいだ」

    「!」

    三人とも即死でした。
    後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。
    申し合わせてのことでしょう。
    細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。

    頭部からはまだ血が流れていました。

    「わかる。
     わかるわ。
     あなたたち、
     こうするほかなかったのね。
     ごめんね。
     ごめんね。ごめんね。
     はやく気が付いてあげれなくて。
     もう、なにもかも忘れて、
     楽になってね。
     今度生まれてくるときにはね、
     絶対に、
     絶対に、
     絶対に、もっとずっと強い
     運を持って生まれてくるのよ・・・・・」

    「お母さん、お母さん!」
    子供たちの叫ぶ声で我にかえり堀婦長は汽車に乗りました。

    結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。
    このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。
    ひとりはソ連将校が連れ帰ったという噂でした。

     *

    引き揚げ列車は南下していきました。
    それぞれの悲劇と過酷な過去から逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。
    こうして堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。

    親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。
    戦争に負けた。
    それだけのことで人の心が変わりました。

    それまでの日本は、国全体が家族のような国家でした。
    人々が地域ぐるみ家族ぐるみで助け合い支えあって生きることがあたりまえの社会でした。

    終戦によって180度変わりました。
    人の情けがなくなりました。
    支えあうという考えも人々から失われていました。

    堀喜身子婦長はソ連に抑留されている夫の正次氏の故郷である山口県に向かいました。
    かつての日本社会では、いったん嫁に入ったら夫の家の家族と考えられていました。
    だから自分の生家に帰ろうとは思わない。
    終戦までそれがあたりまえでした。

    ところが親子で夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)は
    「引揚者は、家に入れられない」
    といいました。
    敷居の中にさえ入れてくれませんでした。

    当時いろいろな噂があったのです。
    引揚者の女性は穢れているとかです。
    堀喜身子さんは看護婦であることが幸いし、引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。
    けれど、
    「世間体がある、
     何があったかなんて
     わかりゃあしない」
    と姑は納得してくれませんでした。

    はるばる山口まで来て自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれた堀さんは、二人の子供の手をひきながら堀家の菩提寺を訪ねました。

    ご住職に事情を話すと、
    「わかりました」
    と、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を菩提寺の墓所で預かっていただくことができました。
    堀さんは、ようやく肩の荷を少しだけおろすことができた気がしました。

    翌日、親子は堀さんの母の住む北海道の帯広に向かいました。
    帯広では幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。

    けれど終戦直後です。
    未曽有の食糧難の時代です。
    勤務の制約もあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても末っ子の槇子まで養うことができません。
    涙ながらに因果を含めて、大事な娘を親戚の家に預かってもらいました。

    苦しい生活を送りながらも、堀元婦長の脳裏を片時も離れないもの、それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨のことでした。
    年長者でも26歳、年少者はまだ21歳の若い女性たちでした。

    年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。
    するとこの日、彼女たちが堀婦長のまわりにやってきました。
    そして言うのです。
    「婦長さん、紫の数珠をくださいな」

    紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとです。
    その日、張春の第八病院にモンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。
    妊婦でした。
    難産でした。

    助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
    すでに重体でした。
    もはや妊婦の生命は難しい状態でした。
    あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。

    その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
    けれど出産で妊婦は瀕死になりました。

    そこから二日三晩婦長と看護婦たち、みんなで献身的に看護をしました。
    それは
    「なんとかして
     命だけでも助けてほしい」
    と何度も哀願するご家族たちが、
    「ここまでやってくれるのか」
    と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。

    妊婦は一命をとりとめました。
    一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老人がいました。
    妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価した高僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。

    その紫の数珠は紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
    見た目もとても美しいのですが、それだけではなくひとつひとつの珠に内部が透ける細工が施してありました。
    透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれていました。

    その日からお数珠は看護婦たちの憧れの的になりました。
    やまとなでしことはいえ若い娘たちです。
    美しい宝珠に興味津々でした。
    婦長は何度も彼女たちにせがまれて何度も見せてあげていたのです。

    ある日、婦長はみんなに、
    「いっそのこと、
     数珠の紐を切って、
     みんなで分けようか?」
    と提案しました。
    このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。

    彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。
    「私の命に代えても、
     みんなの遺骨は、
     必ず日本に連れて帰る。
     日本に帰ったら
     必ず地蔵菩薩を造って、
     みんなをお祀りする。
     その地蔵菩薩の手に、
     この紫の数珠を
     きっとかけてあげるね。」

    けれどまだ地蔵菩薩はありません。
    彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ無縁仏にちかい形で置かれたままです。

    婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。
    「ごめんね。
     いまの私には
     どうすることもできない。
     でもきっと、必ず、
     お地蔵さんを造って
     お祀りする。
     だからもう少し
     待っていてね・・・。」

    どうすることもできない境遇です。
    そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれました。
    帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から夫の正次が戦死したとの公報があったと知らせが届きました。
    こうなると北海道にいる堀婦長にとって遠い山口県とはご縁が遠くなります。

    「なんとかしなければ」と
    思う堀婦長の心に23名のご遺骨のことは重い負担となり続けました。

    なにもしないでいるわけにいかない。
    堀婦長はあちこち手立てを講じました。
    元の上官であった平尾軍医と手紙で連絡をとり、
    二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。

    そして堀婦長から平尾元軍医にあて毎月送金することにしました。
    たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつの日か必ず地蔵菩薩を建てられる。

    そうと決まると月給は少しでも高いにこしたことはありません。
    堀元婦長は、給料の良い職場を求めて静岡県の清水市にある病院に就職しました。

     *

    戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありません。
    なかでも謡曲や浪花節はとても人気が高くて、
    この時代に広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。

    その春日井梅鶯の弟子に、将来を嘱望された
    「若梅鶯」という浪曲師がいました。
    その若梅鶯が熱海で口演をしたときのことです。

    旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなり言いました。

    「いやあ、すごいものですねえ。
     満洲の長春で、
     ソ連軍の横暴に抗議して、
     22人もの看護婦が
     集団自決したんだそうですよ。
     終戦の翌年のことだけどね・・・」

    若梅鶯は旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。
    読みながら、若梅鶯は全身に鳥肌がたちました。

    「こんな酷いことが
     こんな辛いことが
     あったのか・・・」

    若梅鶯こと松岡寛さんは敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
    その樺太でソ連軍による殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに知らされていたのです。
    だから長春の看護婦たちの話も他人事には思えませんでした。

    松岡さんは一座の者に堀婦長の居場所を探させました。
    するとなんと熱海からほど近い清水に堀婦長がいることがわかりました。

    その日のうちに松岡さんは清水へと向かいました。
    堀元婦長の勤務する病院で面談を申し込みました。
    そして地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出ました。

    けれど堀元婦長はあっさりと断りました。
    ただお金があればいいというものではない。
    そんな思いが婦長の心にあったからです。

    けれど松岡氏も真剣でした。
    「ならば、
     自分は浪曲家です。
     この語り継ぐべきこの悲話を、
     大切に伝えて行きたい。
     ぜひそうさせてください」

    松岡さんの真摯な態度に堀婦長の心は動きました。
    終戦から復員にかけての混乱の中で亡くなった看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
    浪曲家である松岡氏が物語にしてこれを全国で口演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。

    堀婦長は当時の様子を松岡氏に話しました。
    松岡さんは誠実でまじめな人でした。
    堀元婦長から聞いた話を、従軍看護婦集団自殺の物語として浪曲に仕立てました。

    そしてこの物語を語るために世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座を離れて、無冠の松岡寛として、白衣の天使たちの悲話の語り部として後半の人生を生き抜く決意をしました。

    いくら人気浪曲師の一番弟子とはいっても独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンと同じです。
    なんのツブシもきかない。
    ラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、
    名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。

    終戦の悲話が直体験として日本中に数多くあった時代です。
    白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずはありません。
    松岡さんの口演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。

    その松岡師匠は、浪曲の中で必ず
    「皆様の中で
     心当たりの方は
     いらっしゃいませんか?」
    と問いかけてくれました。

    三年余りの口演によって、実に23名中、19名の身元が判明したのです。
    19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができました。

    松岡氏がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀婦長は、自分の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへと毎月少なからぬ積立金の送金を続けていました。

    その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立をと思って元上司に電話をしました。
    すると、元上司は
    「それなら前にもお話した
     群馬県邑楽郡大泉村に
     建てましたよ」
    という。

    群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満洲へ向かう前に厳しい訓練を受けたところです。
    彼女たちにとって出会いとゆかりの場です。

    そこにお地蔵さんが建った。
    ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。

    ちょうど彼女たちが亡くなってから7周忌にあたる年でした。

    堀元婦長は松岡師匠にこの話を伝えました。
    松岡師匠もたいへんに喜んでくれて、
    「それなら私が見に行ってみましょう」
    と請けあってくれました。

    師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。
    地番を探してその場所に行きました。
    そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。
    何もありません。
    役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。

    堀元婦長にその話をすると、どうしたことだろうということになって、元上司に問い合わせをすることになりました。

    すると、よんどころない事情でお金を遣いこんでしまったというのです
    思い当たることはありました。
    その上司の奥さんが結核で入院していたのです。

    間が抜けていたといえばそれまでのことです。
    汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。

    その同じ年、埼玉県大宮市に山下奉文将軍の元副官で陸軍大尉だった吉田亀治さんという方が自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を開園しました。
    昭和27年11月のことです。

    そしてそこに沖縄戦の司令官である牛島中将の墓を設け、
    さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司によって鎮座式も行なわれました。

    青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の口演がありました。
    演目はもちろん
    「満洲白衣天使集団自決」です。

    この口演の際、吉田亀治さんは松岡師匠から直接、
    「堀元婦長は存命で、
     いまも看護婦たちの
     身元を探している。
     命日になると、
     亡くなった看護婦たちが
     寄ってきて、
     お地蔵さんの建立をせがむ」
    などの話を聴きました。

    吉田亀治さんは松岡師匠を介して堀元婦長に面会しました。
    そして、地蔵尊の制作と青葉園へのご安置を引き受けてくれたのです。

    埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれた亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
    なにやらすくなからぬ因縁さえ感じます。
    資金は、すべて吉田氏が引き受けてくれました。

    こうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための
    「青葉慈蔵尊」が建立されました。

    地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれました。

    (五十音順)
    荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
    看護婦長 堀喜身子

    【後日談】
    夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となりました。

    ~~~~~~~~~~~~~

    以上が、満洲従軍看護婦の物語です。

    この物語は、何度ご紹介しても長春駅前での三人の女性の死のところでは、不覚にも涙でパソコンの画面が見えなくなってしまいます。
    お地蔵さんが建立されている青葉園は、さいたま市にあって、その中央に「青葉慈蔵尊」があります。
    何度か献花に行かせていただきました。
    また村田春樹先生をはじめ、いまも毎年、ゆかりの人たちが集って慰霊祭を行っています。

    美しい公園墓地です。
    牛島中将のお墓もあり、敷地内には戦争の祈念館もあります。
    お近くの方は一度お出かけになってみられたらいかがでしょうか。

    国家が崩壊したとき、どのようなことが起こるのか。
    国というものが、いかに国民にとって大切なものなのか。
    本稿を経由して、少しでもお感じいただけたら幸いに思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
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    『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人第三巻』は、戦争をテーマにしています。
    その三巻から、「北海道を守った占守島の戦い」をご紹介します。
    毎年この時期に掲載しているものです。
    こうした旧軍人さんの果敢な戦いがあって、いま北海道は日本の領土です。
    さもなくば北海道は戦後「北方領土」と呼ばれてロシアの占有下に置かれていたことでしょう。
    歴史を知ることは、私達が守らなければならないものは何かを学ぶことです。

    20190819 占守島
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    ──────────
    士魂部隊、池田聯隊長
    ──────────

     作家の司馬遼太郎は、昭和の軍人に対しては批判的な小説家として知られています。
    特に自身が戦車隊員だったときの衝撃的な体験により、戦車隊のことは必ずしもよくは書いていません。
    その司馬遼太郎が、戦車学校校長だった池田末男少将に対してだけは、たいへんに尊敬する人物として著書の中で紹介しています。

     池田少将は愛知県豊橋市出身の方です。日本の戦車戦の理論(機動戦理論)を構築し「戦車隊の神様」と呼ばれていました。
    戦車学校教官当時には「戦車隊教練規定」という教程を編纂し、同校校長に就任しています。

    昭和20(1945)年1月、戦車学校校長から戦車第十一聯隊長に転任しました。
    漢字で縦に「十一」と書くと「士」の字に見えることから、いつしかその戦車隊は「士魂部隊」と呼ばれるようになっていました。
    士魂部隊は精鋭の集まりでした。

    そして終戦のとき、士魂部隊は北海道の沖合に浮かぶ千島列島の最北端「占守島」にいました。
    池田隊長は豪放磊落かつ温和な性格です。
    部下の誰もが池田隊長のことを心から信頼していました。

    こんなエピソードがあります。
    占守島は、夏場でも気温が十五度を上回ることがありません。
    日中は濃霧に覆われ、冬場は気温が零下30度に下がります。雪は電信柱が埋まるほど積もり、風速30メートルもの猛吹雪が吹き荒れることもあります。

    その身を切るような寒さの占守島で、池田隊長は絶対に自分の下着を部下に洗わせなかったそうです。
    全部自分で冷たい水に手を入れて洗濯していました。
    本来なら洗濯は、当番兵の仕事です。
    申し訳なさそうにしている当番兵に、池田隊長はこう言ったそうです。
    「お前はオレに仕えているのか?
     国に仕えているんだろう?」

    ──────────
    国籍不明の大軍、上陸を開始
    ──────────

    昭和20(一九四五)年8月15日は終戦の日です。
    多くの方が、この日をもって戦争は終わり、各地での戦いにも終止符が打たれたと思っています。
    しかし、それは違います。
    終戦で日本軍が武装解除したあとも、実はいくつかの地域で戦闘が行われているのです。
    そのひとつが、占守島です。

    8月17日、重要書類を焼却し、翌日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一聯隊本部で池田聯隊長を囲み、酒を酌み交わしました。
    池田聯隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら陽気な酒盛りになるのですが、この日だけは、しんみりとした雰囲気につつまれていました。

    彼はまだ若い木下弥一郎少尉に、
    「木下、十五日以降、俺は廃人になった。
     お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

    酒の席も解散になり、みんな早々に床につきました。
    軍隊は朝が早いのです。
    そして隊員たちが寝しずまった、深夜一時のことです。

    占守島の隣、幌筵島(ほろむしろとう)にある第九一師団本部から、突然、占守島北端の国端岬一帯に、国籍不明の上陸用舟艇が接近し、数千の兵員が強襲上陸してきたとの報が飛び込んできます。
    武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸はありません。
    ということは、あきらかに武力による侵略行為です。

    東浜海岸の竹田浜に展開していた部隊は、二個小隊(約80名)だけです。
    彼らは岬の洞窟にあった野戦砲二門で、上陸してくる敵に向かって砲撃を開始します。
    しかし武装解除をしている最中の襲撃です。
    日本軍陣地は隙間だらけで、やすやすと上陸した敵兵は霧にまぎれて島の奥へと進入を試みます。
    占守島北部の四嶺山にいた二八二大隊本部は、敵上陸の一報を受けると、すぐに全部隊を戦闘配置につかせます。

    この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
    深夜、しかも夏場の濃霧の時期です。
    視界が不十分ななか、二八二大隊は上陸した敵兵を迎え撃つとともに第二段の上陸にそなえます。

    最初の上陸は敵の先遣隊でした。
    3時30分、こんどは敵の主力が上陸を開始します。
    上陸と開始に、対岸のカムチャツカ半島の突端にあるロパトカ岬から砲撃をしてきました。
    これで、敵が誰なのかがはっきりとしました。
    ソ連です。

    このとき来襲したソ連軍は、約一個師団。
    上陸部隊八千数百名、艦艇五十四隻からなる大部隊だったのです。

    こういうとき、ものをいうのが日頃の訓練です。
    日本軍は、霧で見えない敵に向かって、人馬殺傷用の榴弾をこめてメクラ撃ちしました。
    そして敵の輸送艦三隻、上陸用舟艇十三隻を撃沈しています。
    そのなかには、敵指揮官が乗る舟艇も含まれていたため、敵軍団を一時、無統制状態に陥らせます。

    それでも敵は八千数百名なのです。
    竹田浜で応戦をしていた日本軍は、わずか六百名です。
    敵は多数の死傷者を出しながらも、続々と後続部隊を上陸させてきます。
    そして内陸部に侵攻を開始し、二八二大隊本部が守る四嶺山へと迫っていきました。

    ──────────
    女子工員を避難させよ
    ──────────
    当初、報告を聞いた第九一師団参謀長は、国籍不明といってもアメリカ軍だと思っていました。
    8月12日にアメリカ軍が千島列島に砲撃を加えていたからです。
    それが相手がソ連と分かったときは、びっくりしたそうです。
    参謀長は、軍使が来たのだけれど、何かの手違いで戦闘に発展したのかとも考えましたが、時間が時間ですし、加えて何千という兵力です。
    これはもう、ただ事ではありません。

    第九一師団長、堤不夾貴中将は直ちに迎撃命令を発します。
    「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

    占守島南端に司令部を置く第七三旅団は、北の要衝・大観台に二八三大隊を急行させ、司令部とともに他の全部隊を島の北部に移動し、ただちに交戦を開始しました。

    幌筵島の第七四旅団も増援部隊を占守島に送ります。
    第五方面軍司令官樋口季一郎中将は、濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊八機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせました。

    師団本部は迎撃作戦と同時に、ある計画を立てました。
    実は占守島には、日魯漁業の缶詰工場があり、二千五百名の民間人がそこで働いていました。
    戦時中、莫大な量の糧食を日本は外地に補給していました。
    なかでもこの占守島で生産される魚類の缶詰は、貴重なタンパク源として、外地で戦う日本の軍人にとってなくてはならないものでした。
    そしてその工場の従業員の中には、約四百名の若い女子工員が含まれていたのです。

    「このままでは、
     女子工員たちは必ずソ連軍に陵辱される。
     なんとしてもあの娘たちを
     北海道へ送り返さなければならない」

    師団長は戦闘中の女子工員避難計画を決断します。
    ソ連航空機による爆撃が続く中、第九一師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして、爆撃機を追い払いました。
    敵上陸部隊にも集中砲撃をあびせます。
    海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けにするためです。

    そしてこの隙に、島にあった二十数隻の漁船に、日魯の女子工員たちを分乗させ、港から北海道に向けて出港させました。

    ──────────
    この危機にあたり白虎隊とならん
    ──────────
    一方、敵上陸の一報を受けた池田聯隊長は、天神山の南三キロに本部を置く戦車第四中隊を、先遣隊として竹田浜に急行させます。
    午前2時30分のことです。
    この部隊が島の北部に近く、偵察に適した軽戦車を配備していたからです。

    同時に池田聯隊長は、各所に分散していた戦車中隊に命令を下達し、天神山に集合させます。
    このとき戦車聯隊は、戦車の武装を分解中だったのです。
    つまり、すぐには出撃できない状態にありました。
    それでも総員が必死で武装を取り付け、直ちに天神山に集合しました。

    部隊が集合すると、池田聯隊長は各中隊長、小隊長を集め、作戦の打ち合わせを始めました。
    そこへ、先遣隊の第四中隊が戻り、前線の状況が伝えられます。
    「敵は竹田浜に自走砲や重火器を揚陸中なるも、
     戦車はなし。
     上陸した敵は二手に分かれ、
     一方は大観台に展開する二八三大隊と交戦中。
     一方は四嶺山を包囲し二八二大隊は孤立している模様」

    池田聯隊長は全隊員の前で訓示します。
    「諸士、ついに起つときが来た。
     諸士はこの危機にあたり、
     決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如くこの場は隠忍自重し、
     後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙げよ」

    このとき不思議なことが起こりました。
    濃霧が突然、さっと薄れたのです。
    そして、その場にいた全員が見たのです。

    それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たち全員が、挙手している姿でした。
    士魂部隊は、全員、白虎隊となることを選択したのです。

    池田聯隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。
    そして、大声で言いました。
    「上陸軍をひとり残さず、
     海に叩き落とすまで奮闘せよ!」

    若い木下弥一郎少尉は、池田聯隊長のそばにいました。
    しかし、定員オーバーで戦車の中に入れません。
    池田聯隊長は、木下少尉に命じました。

    「木下、
     お前は旅団司令部の杉野さんのところへ
     連絡将校として行っておれ」

    戦車学校時代から池田聯隊長とずっと一緒だった木下少尉は、にわかに離れがたく、そのときぐずぐずしていたそうです。
    すると池田隊長は、
    「早く行け!」と怒鳴りました。

    そして走り出した戦車から上半身を出すと、振り返って言いました。
    「木下、お前は助かれよ。
     命を捨てるなよ」
    これが、木下少尉が見た池田隊長の最後の姿でした。

    「天与の好機逸すべからず。
     各隊長は部下の結集を待つことなく、
     準備のできたものから余に続くべし!」

    午前5時30分、聯隊は前進を開始し、島の北端に近い大観台を過ぎました。
    午前6時20分、聯隊は二八二大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出しました。
    そこにはすでにソ連軍の一個中隊、約二百名が山を越えてきていました。

    池田聯隊長は、これを突破して四嶺山頂に進出する決心をし、師団、旅団の両司令部に打電します。
    「池田聯隊は四嶺山の麓にあり、
     士気旺盛なり。
     〇六五〇、
     池田聯隊はこれより敵中に突撃せんとす。
     祖国の弥栄と平和を祈る」

    そして午前6時50分、池田聯隊長が日章旗を振り下ろすのを合図に、士魂戦聯隊は四嶺山に向けて進撃を開始します。
    敵の機関銃、迫撃砲がいっせいに火を噴き、銃弾が横殴りの雨のように降り注ぎました。
    濃霧で敵が見えず、敵の発射光だけが頼りでした。
    四嶺山の南斜面を駆け上がりながら、砲弾を撃ちまくり、車載銃は蟻のようにはい出てくるソ連兵を次々になぎ倒していきました。

    これを見た二八二大隊は、高射砲の援護射撃を繰り出します。
    敵も四嶺山に総攻撃をしかけ、四嶺山一帯で激戦が繰り広げられました。
    被弾した戦車からひとりの将校が飛び出すと、軍刀を抜き、何人かのソ連兵を切り倒したあと、壮絶な最期を遂げました。

    そしてマレーで名を馳せた丹生少佐が敵弾に倒れました。
    そのとき池田聯隊長は、にわかに縄を出して丹生少佐の遺体を自分の戦車の後部に縛りつけたそうです。
    池田聯隊長は丹生少佐ととても親しくしていたのです。

    池田聯隊長は砲塔の上に上半身を露出させたまま日章旗を振り続け、なおも全軍に前進を命じていました。
    死角が多い戦車にとって、濃霧は非常に不利な条件です。
    本来なら戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるのです。
    しかし急な出動です。
    協力できる歩兵はいません。

    戦車隊とソ連歩兵の肉弾戦は、およそ四十分にわたって繰り広げられました。

    ──────────
    総力をもって敵を殲滅せよ
    ──────────
    7時30分、南側の敵を殲滅し山頂に到達しました。
    霧が薄くなってきた山頂から見下ろすと、四嶺山の北東約五百メートルのところに、敵歩兵の大軍が陣を構えています。

    7時50分、池田聯隊長は、「丹生、貴様も戦場に連れてってやるからな」と言うと、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じました。
    約四十両の戦車です。
    その戦車隊が、池田隊長の指揮のもと、一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。
    その姿は、さながら運用教範の実演の如く、見事な隊形だったそうです。
    さすがは戦車隊の神様。
    さすがは士魂部隊。

    いったんは混乱し、潰走しかけたソ連軍ですが、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、約百挺の一三ミリ対戦車ライフルと、四門の四五ミリ対戦車砲を、士魂部隊正面に結集させ、激しい反撃をはじめました。

    装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、一台、そしてまた一台と沈黙していきます。
    友軍の戦車が炎上するなか、それでも士魂部隊は、下り坂に車体を弾ませながら、敵陣に向け前進を続けます。
    戦車砲は休む間もなく火を噴き、装填が間に合わないときは敵兵をキャタピラで踏みつけていきます。
    天蓋から顔を出そうものなら、敵弾が一気に集中するため、搭載銃は使えません。

    四嶺山の二八二大隊も、全火力で士魂部隊を援護します。
    さらに大観台の二八三大隊も駆けつけソ連軍陣地に襲いかかります。

    士魂部隊の獅子奮迅の戦いで、ソ連軍はついに竹田浜方面に撤退したのです。
    この戦いで、士魂部隊の戦車二十七両が大破。
    そして池田隊長以下、96名が戦死しました。

    池田聯隊長車は山頂で前進を命じてから約三十分後、対戦車砲を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し、擱坐(かくざ)炎上したのです。
    しかし池田隊長の戦車は、炎上しながらも、しばらく前進しました。
    その姿は、まるで死しても前進を止めない隊長の魂が、戦車に乗り移ったかのようだったそうです。

    この戦闘の間、ロパトカ岬から砲撃をしてきた敵長距離砲に対し、重砲隊の坂口第二砲兵隊長は、九六式一五センチ加農砲わずか一門で応射、なんとこれを制圧してしまいます。
    このカノン砲は、射程二十六キロメートルの当時の最新兵器でした。
    霧が薄くなってきたため、敵長距離砲の火薬庫が爆破炎上するのが見えたそうです。

    この正確な砲撃ひとつとっても、日ごろの日本軍の訓練がどれだけ厳しかったかを窺い知ることができます。
    もしこのとき、敵の長距離砲が制圧できなければ、占守島守備隊に、もっと大きな被害が出ていたことでしょう。

    ──────────
    日本の勝利とソ連の思惑
    ──────────
    占守島守備隊は、上陸して来たソ連の大軍を北の海岸付近に押し返しました。それどころか、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めていたのです。
    ところが8月21日、島に第五方面軍司令部から停戦命令が届きました。
    第九一師団は、ソ連軍の攻撃がまだ続いている中で軍使を派遣しました。
    そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させたのです。

    死傷者はソ連軍三千名、日本軍七百名。
    日本軍は占守島を守り抜いたのです。
    そして、この戦いが日本軍が勝利した最後の戦いになりました。

    守備隊のもとに、日魯の女子工員たちが「全員無事に北海道に着いた」との電報が届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。
    そのときの守備隊のみなさんの喜びはいかばかりだったでしょう。

    しかし占守島にいた日本人約二万五千名は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員が逮捕されました。
    そしてシベリアに連行されました。

    シベリアに着いたとき、人数は五千名に減っていました。
    途中で、理由なく殺されたからです。
    生き残ってシベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約一割が亡くなりました。

    ところで、なぜソ連は、終戦の三日後になって占守島への上陸を強行したのでしょうか。
    ソ連は、ヤルタ会談で秘密協定を結び、アメリカとイギリスから千島列島はソ連領にするという言質を得ていました。
    しかしソ連はそうやすやすとアメリカとイギリスが、千島列島をソ連に引き渡すとは考えていませんでした。
    ですからソ連は、力ずくで千島列島を占領してしまおうと考えたわけです。
    日本が降伏したあとであっても、占領という既成事実さえ作ってしまえば、あとはどうにでもなります。

    ソ連は、占守島は一日で占領する計画でした。
    小さな島なのです。
    一日あれば十分と考えるのも無理はありません。

    ところが占守島の日本の守備隊は、そうした彼らの目論見を見事に粉砕しました。
    ソ連軍を殲滅しかけただけでなく、彼らを「一週間にわたり」、海岸に釘づけにしたのです。
    実は、この「一週間」が、北海道の命運を決定付けました。
    ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、アメリカ軍が北海道進駐を完了させたのです。

    ソ連はその後、アメリカに対して「北海道の分割統治の要求」を行っています。
    これはソ連は千島列島を占領したあと、一気に北海道まで侵攻し、領有しようとする意図があったということを、明確に示しています。

    占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。
    が、あとの祭りでした。
    もし彼女たちがいち早く島を出ることができなかったらと考えると、そら恐ろしく感じます。

    実際、ソ連が満州国に攻め込んできたとき、満州北部ではまさに地獄絵図が展開されました。
    尼港事件や通州事件をはるかに凌ぐ規模の虐殺、陵辱が行われたのです。
    世界の常識は日本の常識とは異なります。
    戦いに勝てば、負けた側の財産や女性を略奪し蹂躙し尽くす。
    それが強制徴用された兵士たちへの報酬であり、それが世界の常識です。
    日本国内とは違うのです。

    ──────────
    池田聯隊長の言葉
    ──────────
    当時のソ連政府機関紙『イズベスチャ』は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
    「占守島の戦いは、
     満州、朝鮮における戦闘より、
     はるかに損害は甚大であった。
     8月19日はソ連人民の悲しみの日であり喪の日である」
    ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しました。

    もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、日魯の女子工員四百名はソ連兵に陵辱されるままになっていたであろうし、ソ連の計画どおり、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は朝鮮半島と同様、北日本と、南日本に分断されていたことでしょう。

    逆にもし占守島守備隊が第五方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれません。

    不思議なことがあります。
    この占守島守備隊の活躍について、戦後の教科書は一切ふれていません。
    まるであたかも「なかったこと」にしているかのようです。

    まれに占守島の戦いについて書いているものでも、この戦いを「無駄な戦い」「戦死者は犬死に」と一蹴しています。
    実に不思議です。
    それが同じ日本人の言う言葉なのでしょうか。
    私には、そういう人たちの感性がまったく理解できません。

    占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。
    私たちは戦争で貴重な命を捧げられ、祖国を守るために立派に散っていかれた英霊たちに、あらためて感謝を捧げるとともに、彼らに恥じない日本の建設をしていかなければならないのではないでしょうか。

     諸士、ついに起つときが来た。
     諸士はこの危機にあたり、
     決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如くこの場は隠忍自重し、
     後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。

    池田聯隊長が士魂戦車聯隊の隊員たちへ向けたこの言葉が、私には、平成の世に生きる現代日本人への檄文に思えるのです。

    *****


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  • シッタン河畔に全滅した日赤新和歌山班ー従軍看護婦の悲劇


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    日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。
    このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人に及びます。
    戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
    その中から今日は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

    20150625 ユリ
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    小名木善行です。

    日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。
    このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
    戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
    その中から今日は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

    日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
    班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
    彼女たちは、編成完了とともに、ただちに和歌山を出発し、海路でシンガポールまで行き、そこから陸路でマレー半島を北上して、ビルマ(現ミャンマー)の山中にあるプローム県パウンデーに設置された第百十八兵站病院に配属となりました。

    この病院は、病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。
    新和歌山班の看護婦達は、着任したその日から、補助看護婦たちと手をとりあって、日夜医療業務に励んだのです。

    けれどもこの時期から、戦況は日に日に悪化していきました。
    翌昭和19年4月、病院長の笠原軍医中佐が転勤となり、後任として、松村長義軍医少佐が着任しました。
    戦況の情況を憂慮した松村病院長は、4月26日、重症患者330名を30両のトラックに乗せて、南にあるラングーン(現ヤンゴン)に後送しました。
    重症患者たちは、そこからさらに数隻の船に乗って海路モールメンの病院に収容されています。

    一方、残った看護婦ら約300人と、患者たち約800人は、二日後の4月28日、護衛部隊のないまま、徒歩でペグー山脈を目指しました。
    このとき、日赤新和歌山救護班の看護婦たちは、全員カーキ色の開襟シャツにモンペを穿き、胸には赤十字のブローチを付け、頭は三角巾でしばり、足にはズックを履いていました。

    20150625 日赤新和歌山班


    患者たちのなかで、自立歩行が困難な者は、牛車に乗せたのですが、悪路のため、牛車は舌を噛み切りそうなほどの揺れでした。
    病院部隊の一行は、ペグーの山中でいったん集結し、第54師団との合流を待ちました。
    けれど、一週間待機しても、師団は現れません。
    松村病院長は、患者たちとともに、軍隊の護衛のないまま、マンダレー街道を突破してモールメンに向かうことを決意しました。
    このとき、ビルマ人の補助看護婦たちは、全員、そこからそれぞれの故郷に帰らせています。

    このモールメンに向かう途中のことを、病院付けだった堀江政太郎曹長が手記に書いています。

     *

    我々がパウンデーを出発したのは、私の記憶によれば26日の未明だった。
    この日もどんよりとした、いまにも降ってきそうな、うっとうしい朝だった。
    ペグー山系に入ると同時に、連日の雨で、泥には多くの将兵、入院患者が悩まされた。

    急坂は滑る。何回転んだことか。
    やっと平地になったと思ったら、今度は泥沼化し、思うように歩けない。
    スネまでも埋まり、軍靴の底を剥がした者もだいぶいた様だった。

    こんなときに、ある入院患者が大腿部切断で、松葉杖をついて懸命についてきていたが、元気な我々でさえ、泥沼に軍靴を取られて歩けないくらいなのに、この患者は、土中に深くめり込んだ杖を抜くのに必死だった。
    見かねて、
    「おい頑張れよ」と励ますと、「ハイッ!」と返事はしていたが、おそらく内地には帰っていないであろう。
    (中略)

    雨の中をペグー山系にさしかかると、牛車の通行は不可能となり、(具合の悪かった看護婦の小上さんは腰に紐を付けて前からひっぱり、二人が脇から支え、ひとりが後ろから押し上げるという難行軍にみるみる衰弱し、5月9日に同僚らの見守る涙のうちに、病没した。

     *

    5月18日、やっとのことでペグー山中を踏破した一行は、マンダレー街道を密かに横切り、シッタン河の東方のワダン村に終結しました。
    ところがその日の午後4時頃、突然、銃撃を浴びます。
    銃を撃っていたのは、英国人兵たちでした。
    引きつった顔や、銃を撃つ手の動きまで見えるほどの至近距離でした。
    英国人達は、自動小銃や戦車砲を撃ちこんできました。

    このとき松村病院長は、白刀を振りかざして英国軍めがけて突進し、これに軍医、衛生兵らが続きました。
    突進した全員が還らぬ人となるなか、その隙に、患者たちと看護婦たちは、村外れの田んぼに隠れました。
    けれどこのとき、23名いた彼女たちは、18名に減ってしまいました。
    5名は、この銃撃で還らぬ人となったのです。

    せっかく田んぼに隠れたのも束の間、空から爆音が聞こえてきました。
    このままでは敵に見つかってしまいます。
    中尾敏子婦長は、とっさの判断で一行を前方の芦の原っぱへと走らせました。
    けれどこのとき、婦長の一団と、児玉よし子副婦長の一団と、二つに別れてしまいました。

    原っぱへと走る途中で、森下千代子さんが右肘を撃たれて重症を負いました。
    中尾婦長は同行の男性に手榴弾で皆を殺してくれるように頼みました。
    男性は、ためらいました。婦長は言いました。
    「御国のため、敵に辱めを受ける前に潔く自決しましょう。捕虜になんかなりなさるな」
    言い終わらないうちに、婦長は腹部を撃たれました。
    まもなく出血多量で苦しい息となり、小さくて低いけれど、はっきりと「天皇陛下万歳」と唱えて絶命しました。

    敵は草むらから、さかんに撃ってきました。
    石橋澄子さんは、左大腿部を撃たれて意識を失い、池田八重さんも撃たれて死亡、狩野重子さん、原すみ枝さん、田中君代さんの三人は、腰のベルトを外し、首にまきつけて自決しました。
    中原忠子さんは、そばにいた男性と飛び出していって行方不明となりました。

    芦の原っぱの向こうはシッタン川でした。
    一部はビルマ人の小舟に乗せてもらうことができましたが、このとき山入貞子さんと、射場房子さんの二名が濁流にのまれてしまいました。
    出発当時男女合わせて30名いた救護班は、川を渡り終えたときには6名に減っていました。

    一行は、まる4日、山の中をさまよいました。
    看護婦達は、疲労と空腹のため一歩も歩けなくなり、山の上に座り込んでしまいました。
    「拳銃でひとおもいに殺して!」と言いました。
    もちろん男性たちは、彼女たちを殺すことなどできません。
    彼らは、彼女たちを山に残したまま、進むしかありませんでした。

    この戦闘のあと、英国軍には、10名の看護婦が保護されました。
    松山越子さん、西浦春江さん、肘に重症を受けた森下千代子さん、山本日出子さん、大腿部を撃たれた石橋澄子さんの5人は、まもなくインドに送られて、日本人抑留所で赤十字看護婦として勤務させられ、昭和21年7月に日本に復員することができました。

    児玉よし子さんと丸沢定美さんの二人は、ラングーンの英国軍の収容所の中で、隠し持っていた青酸カリをあおって自決しました。

    そのときの様子を、同じ収容所にいた田中博厚参謀が手記に残しています。

     *

    この監獄で白衣の天使が二人自決しました。
    敗走千里の途中、トングー付近の野戦病院に、最後まで将兵を看護していた白衣の天使のなか二人は、不幸にも逃げ遅れ、白衣も汚れてヨレヨレのまま、この監獄に収容されました。

    血に飢えた肉にかつえた英兵達は、5,6人も寄り集まり、身体検査と称して、神の使いの乙女たちの下着まで剥ぎ取って、卑しい貪婪(どんらん)の瞳で見据えるのです。
    これが2日も続いたその夜、乙女たちは隠し持っていた青酸カリで、神の御国へと旅立って行きました。

    遺書には、切々と英人の暴虐を訴え、このままでは、いつどんな目に遭うやらわからない。
    野戦病院で、母の名を呼びながら死んでいった年若い兵隊さんの後を追って、私は天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです。
    一生涯・・・短い20年の生涯でしたが、清く美しく生きられたことを、せめてもの慰めにします。
    ただ、もういちどお父さんに会えなかったのが心残りです、と結んでありました。

    *****

    ひとつ、はっきりさせておかなければならないことがあります。
    それは、日本以外の諸国では、程度の差こそあれ「軍と暴徒とヤクザは同じもの」だ、ということです。

    日本では、古来、軍人は規律を守り、どこまでも民のために戦うという姿勢が貫かれています。
    なぜなら、日本では、民は、敵味方関係なく天皇の「おおみたから」であり、その「おおみたから」を護るためにこそ武人は存在している、という自覚があるからです。
    これは日本人にとっては、まさに骨肉に染み込んだ自覚です。

    けれども、諸外国では、「軍と暴徒とヤクザは同じもの」です。
    程度の差はあります。
    まさに鬼畜そのもののソ連やChinaやKorea兵もあれば、ある程度は規律の保たれた英米のような軍もあります。
    けれど、その英米ですら、あきらかに女とわかる、あきらかに看護婦と傷病兵の一団とわかりながら、平気で銃撃を加え、捕まえた女性たちに恥辱を与えています。

    歴史、伝統が違うのです。
    そのことは、当ブログの過去記事「国民国家と三十年戦争」で、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』を紹介していますので、ご一読いただければと思います。

    人類史を振り返れば、戦いは現実に「ある」のです。
    多くの人々は、いつの時代にあっても平和を願っていますが、それでも戦争は、現実にあるのです。
    そして一昨日の根本博陸軍中将のお話に書かせていただきましたが、「武装がなければ女子供が蹂躙される」のです。
    だからこそ、そうならないように武装する。
    これが世界の現実なのです。

    良いとか悪いとかの問題ではないのです。
    「蹂躙されない」
    そのためには、現実の問題として武装が必要だし、その武装は世界最強の武装でなければならないし、一国だけで守りきれない危険を避けるためには、諸外国と軍事同盟を結んで集団的自衛権を行使しなければならないのです。

    そしてこういう過去の事実を知れば、国を護ることがどれだけ大事なことなのか、安保法案反対が、いかに世迷いごとなのかをご理解いただけようかと思います。


    今日の記事・・・冒頭の写真は、本来なら、この事件の犠牲となられた看護婦さん達の写真(二段目に掲載)を冒頭にもってくるべきだったのかもしれません。
    けれど、季節の花の白い百合にしました。
    白百合の花言葉は「純潔」「威厳」です。
    まさに白衣の天使たちそのものです。慰霊の意味をこめて冒頭は白百合にしました。
    彼女たち、生まれ変わって今生では、きっとお幸せな人生をお過ごしのことと信じたいです。


    参考図書:永田竜太郎著『紅染めし―従軍看護婦の手記』(1977年)


    ※この記事は2015年6月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    逆です。
    日本の歴史は、調べれば調べるほど、真実を知れば知るほど、誇りが持てる歴史です。
    私達の祖先や先輩たちは、そういう生き方をしてきたからです。

    20200815 バックナー大将
    20200815 バックナー大将
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BBB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2
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    小名木善行です。

    昨日、沖縄戦での高級参謀であった八原博通大佐のことをご紹介しましたが、その中で沖縄戦の米陸軍司令官のサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア(Simon Bolivar Buckner, Jr.)大将について触れさせていただきました。
    そこで今回は、米沖縄戦の司令官であったバックナー大将と、そのバックナー大将を射止めた石原大尉のことをお話したいと思います。

    大東亜戦争における沖縄戦は、米軍側では「アイスバーグ(氷山)作戦」と呼ばれるものです。
    もともとは、日本の大本営が読んだ通り、米軍は台湾攻略計画の「コーズウェイ(堤防)作戦」を策定していたのです。
    ところがフィリピン進攻の成功によって、日米の戦力格差が格段に開いたと確信した米軍は、台湾攻略作戦を棚上して、沖縄作戦の展開を決めた。
    これが、昭和19(1944)年10月3日の出来事です。

    この日、米統合参謀本部は、沖縄作戦の立案を太平洋地域総司令部に指示します。
    太平洋地域総司令官は、米海軍のニミッツ元帥です。

    ニミッツ元帥は、10月25日には、沖縄攻略のための「アイスバーグ作戦計画」を策定し、さらに翌昭和20(1945)年1月6日には、作戦概要を各部隊に通達しました。
    この計画は、実際に沖縄戦が始まる3月下旬までに何度も微調整され、おかげで作戦計画の細部に至るまで精巧なものとなります。

    そして米陸海空軍統合作戦計画として完成した「アイスバーグ作戦」で、ニミッツ元帥の総指揮官のもと、参加兵力、54万8000人、軍艦318隻、特務艦船1139隻という大部隊による沖縄上陸作戦が展開されたのです。

    欧州戦線を含めて、これだけ大規模な作戦は、世界史上まれな大作戦です。
    沖縄の日本軍守備隊は、充分な装備もないまま、これだけの兵力を迎え討つことになったのです。

    米軍の最前線に立つ沖縄本島の上陸部隊は、米国第10軍の18万2000人です。
    指揮官は、サイモン・B・バックナー・ジュニア(Simon Bolivar Buckner, Jr)陸軍中将です。

    バックナー大将は、南北戦争で、南軍の将軍であったサイモン・B・バックナーの息子です。
    米国陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、アラスカ軍司令官としてアリューシャン戦線に従軍。その後、士官学校教官を経て、沖縄戦で上陸作戦の指揮官を委ねられています。

    沖縄本島での戦いは、4月1日から6月22日まで、82日の激しい戦いでした。
    この戦いの中、沖縄県民を救うために、本土からは約1900機の特攻機が出撃しています。
    特攻隊の攻撃に対して、米海軍は、新開発の近接信管をもって対抗しました。

    近接信管というのは、5インチ高角砲から発射される対空用の高射砲に用いられるもので、砲弾を中心に半径15メートルに電波が発射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に炸裂するようになっていました。
    弾が当たらなくても、近くに特攻機が来ただけで、飛行機にダメージを与えて撃墜してしまうのです。

    そんな近接信管による砲弾を、まるで弾で幕を張るかのように撃ちまくられているなかを、若い日本の特攻兵は突入を敢行したのです。
    特攻機は、この時代、すでにオクタン価の高いまともなガソリンを搭載できなくなっています。
    粗悪なガソリンで飛行場を飛び立っても、敵地に着く前にエンジンがオーバーヒートする。
    整備に整備を重ねても、質の劣化したガソリンでは、飛行機の本来の性能もままならない。
    それでも彼らは、力の出ない飛行機に250キロもの大きな爆弾を積んで、夜間、目視だけで敵のレーダー網をかいくぐって敵艦隊に接近し、特攻攻撃を行いました。

    米軍は、何十キロも手前で、すでにレーダーで何機が、高度何千メートルでやってきたのか、正確に把握しています。
    そして大量の戦闘機で迎撃をする。
    特攻機は、飛来する数十機の米軍戦闘機の出迎えを、重たい爆弾を抱えながらふりきり、ようやく目視で確認した敵艦に向かって突撃する。

    敵艦からは、近接信管による砲弾が飛んでくる。
    近くで炸裂した砲弾は、爆弾に仕掛けられた無数の鉄片とともに、特攻機と搭乗員に多大なダメージを与える。
    大怪我をし、血まみれになった状態で、飛行機の体制をなんとか立て直し、特攻機は敵艦に向かう。

    武力の乏しい、敵輸送艦を狙うなら、まだたやすいのかもしれません。
    しかしこれだけ厳しい状態の中の特攻でありながら、彼ら特攻兵たちは、敵の軍艦や、空母といった軍用艦に対してだけ、攻撃を行っています。
    武器を持たない敵への攻撃はしない。
    それが日本の特攻隊員たちの武士道だからです。

    特攻兵の活動について、
    「当時の特攻機はほとんど撃墜され、
     実際に体当たりできた飛行機はなく、
     特攻は犬死にそのものだった」
    という人がいます。

    これは違います。
    申し訳ないが、そのことは、敵将のニミッツの一言がすべて証明しています。
    沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、18万人の地上軍を指揮する陸軍のバックナー陸軍中将に、次のような異例の申し入れをしたのです。
    これは、米軍の戦時記録に、明確に残されている出来事です。

    「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。
     5日以内に第一線が動き始めなければ、
     貴官の更迭を求める。」

    特攻機の攻撃が、何の成果もない犬死にだったとするなら、このニミッツ提督の言葉は、いったいどのように説明したらよいのでしょうか。

    米軍の公式記録によれば、日本側の特攻攻撃により、米軍の軍艦34隻が沈没し、米軍の空母、戦艦368隻が重大な損傷を受けています。
    特攻に飛び立った飛行機は1900機です。
    おおむね4~5機の編隊で敵地に向かって飛んでいます。
    攻撃回数を、1900÷5=380回とするなら、402隻の船に損傷を与えたという事実は、ほぼ全隊が、特攻攻撃で一定の成果をあげたということになります。
    これは簡単な算数の問題です。
    それを「なんの成果もなかった」だと言いきるなら、それは歴史を述べているのではなく、意図的に歴史を捻じ曲げる政治的発言をしていることになるのではないでしょうか。

    大東亜戦争における米軍の記録では、その場で轟沈したもののみが沈没、重大な損傷を受けて、2~3日後に沈んだ船は、記録上は損傷という扱いとなっていることは、いまでは誰もが知る事実です。
    その意味からも、日本の特攻攻撃が米軍からみて、いかに恐怖であったか理解できようと思います。

    また米軍の被害は、
     軍艦34隻が沈没
     空母、戦艦368隻が重大な損傷
    というものです。
    そのどこにも「輸送艦」の文字がありません。

    戦闘の勝敗だけを言うなら、敵に対するダメージは、ある意味、戦艦や空母よりも、輸送艦を叩いた方が、敵のダメージは大きいのです。
    防御力が乏しく、食料、砲弾、ガソリン、兵員を満載した輸送艦を撃沈すれば、敵の戦力の消耗は計り知れない。
    実際、日本軍の輸送船団は、南方戦線において数限りなく沈められています。

    しかし日本は、敵がどれほど強大であったとしても、こちらがどんなに寡兵であったとしても、どんなに不利な状況にあったとしても、防御力に乏しい敵輸送艦隊への攻撃をしていません。
    それが日本の武士の戦いというものだったのです。

    18万人の米軍の沖縄上陸部隊を指揮したバックナー大将は、果敢に沖縄戦を戦い、ついに5月24日には、日本軍の司令部のあった首里を制圧しました。
    日本軍の第32軍司令部は、南部島尻地区への撤退し、5月27日には津嘉山、30日には、さらに本島南端の摩文仁(まぶに)高地にまで、撤退しています。
    この時点で、第32軍は、戦力の80パーセントを消耗していました。

    そして、八重瀬岳方面の日本軍守備隊の独立混成第44旅団も、6月14日には全滅しています。
    第62師団も、米軍の摩文仁高地進出を防ぐために全力反撃を実施して、6月15日、残存兵力の大半を失う。
    6月17日には、喜屋武地区の第24師団も、師団としての組織的抵抗が不能になっています。

    こうした状況の中、6月18日午後1時15分頃、摩文仁高地の眞栄田の最前線の戦闘視察中のバックナー大将が、砲弾の破片を胸に受けて亡くなりました。
    受けた砲弾は、榴弾砲です。
    最初の一発目が、中将の立っていたところから2メートルほどのところにある大きな岩に命中し、このときに飛ばされたサンゴが中将の胸を貫きました。

    海兵師団のサーキシャー2等兵が、バックナー大将に駆け寄りました。
    中将は、開口一番、「皆は大丈夫か?」と聞いたそうです。
    サーキシャー2等兵は、
    「将軍、大丈夫ですか、
     しっかりして下さい。
     あなたの家に帰りましょう」
    と励ましました。

    バックナー大将は、それを聞いて、力強く立ち上がろうとして、そのまま、どうと倒れる。
    息は15分間ほどはあったけれど、結局、亡くなられてしまいます。
    後に、日本側守備隊の牛島中将も亡くなっていますが、両軍の最高司令官が共に戦死するというのは、第二次世界大戦を通じて、極めて稀な出来事です。

    このバックナー大将の死については、狙撃されたのだという説が、後年、日本国内で出ていますが、これは誤報です。
    現に、このとき榴弾砲を撃った人物が生き延びています。
    榴弾砲を放ったのは、当時、野戦重砲兵第一連隊中隊長だった石原正一郎大尉です。

    部隊が位置していたのは、この丘から北に1300メートルほど離れた(当日車のメーターで測定)地点で、大砲を2門、草木で隠して敵がくるのを待っていました。
    そこに、米軍のジープがやってきました。
    敵が降り立ったのを見届け、砲弾を放ちました。

    現地で大砲のあった場所から、バックナー大将の倒れた地点を眺めると、2000メートルくらい離れているように見えます。
    これだけの距離で、よくぞ命中させることができたものだと、驚きます。

    バックナー大将は、死後、沖縄に埋葬されますが、戦後、故郷に改葬されています。
    そして、戦争が終わって9年目の、昭和29(1954)年、大将を追贈されています。

    一方、榴弾砲を撃った石原氏は沖縄戦を、生き残りました。
    そして、自分が放った砲弾が、バックナー大将を戦死させたことを、戦後になって知ります。
    石原さんは、良心の呵責に悩み続けたそうです。

    世間では、あれは自分は狙撃したんだという者まで現れて、腹立たしいところもあったけれど、いまさら名乗り出るわけにも行かない。
    結局、石原正一郎元陸軍大尉が、事実を明らかにしたのは、平成14(2002)年になってからのことです。

    まさに、バックナー大将が亡くなったのと同じ、6月18日の琉球新報に、その記事があります。

    ~~~~~~~~~~~~~~~
    【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん(東京在住) 】
    (2002年6月18日 琉球新報)

    1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー大将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。
    57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が、中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

    石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。
    昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まってい る」との報告を受けた。
    「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は8発。すべて4キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」 と振り返る。

    これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。

    しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも
    「日本軍の砲弾が観 測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。

    使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。
    現在、靖国神社境内に展示されている。

    これまで事実を公にしてこなかったが、
    「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。

    昭和60(1985)年には、中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。
    「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。

    またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。
    体調を崩す2年前まで、44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。

    「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

    「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」
    と力を込めて語る石原さん。
    今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。
    ~~~~~~~~~~~~~

    石原さんの所属した野戦重砲兵第一連隊は、連隊長山根忠大佐以下739名が、戦没されています。
    石原正一郎さんは、その連隊のわずかな生存者のうちの一人です。

    この記事を見たドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)さんは、この記事を見て、石原氏の存在を知ります。
    そして石原氏に会い、
    「バックナーのご家族は、
     貴方を恨んだりはしないから、
     家族あてに手紙を書いてみたらどうか。
     手紙は、私が届けます」
    と話しました。

    こうして上原氏は、石原氏が書いた手紙と、英訳した文章をバクナーの息子さんに渡しました。
    バックナーの息子さんは、

    「そういうことは僕は一切気にしていません。
     知らせてくれて有難うと伝えてください」
    とおっしゃられたそうです。
    さすがは、南北戦争の勇者の将軍の家柄です。

    戦場では、お互いが死力を尽くして戦ったのです。
    バックナー大将の息子さんは、そこのことを知って、
    「気にしていないから」
    とメッセージを下さったのです。

    時はすこし前後するけれど、昭和43(1968)年に、日本軍守備隊第32軍の総大将だった牛島満大将の奥さんと、バックナー大将の奥さんが、沖縄の摩文仁を訪れています。

    牛島大将の奥さんは、バックナー大将が戦死された眞栄田の丘も訪れ、中将のご冥福をお祈りされています。
    そして、バックナー大将の奥さんもまた、牛島大将が自決した摩文仁の司令部壕を訪れ、祈りを捧げられています。
    そしてお二人とも、
    「砲兵山吹之塔」に参拝されています。

    「砲兵山吹之塔」というのは、昭和41年(1966年)6月22日に、石原さんの寄贈により建立されたもので、野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根部隊長以下739柱、および、配属鉄血勤皇隊員12柱が祀られているものです。

    そして、石原さんは、建立された年から、毎年欠かさずこの広場で年6月22日に催される慰霊祭に出席されています。

    「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん
    (昭和63年撮影)
    「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん


    石原さんは、バックナー大将を倒した榴弾砲まで、戦後、米軍から譲り受け、これを靖国神社に奉納されました。
    実は、このバックナー大将の死が、沖縄戦に大きな影を落としています。

    バックナー大将は、前線を視察にたちながら、日本軍の統制のとれた戦いぶり、すくなくとも緒戦において、物量も兵力も圧倒的な米軍を完全に釘づけにした抜群の戦闘手腕に、牛島中将に対しても深い敬愛の情を持つようになったといわれています。

    そこで彼は、急遽、在米日系人の沖縄出身者を投降の説得役として呼び寄せ、また、自ら筆をとって牛島中将に降伏勧告文を送ったのです。

    気がつけば、牛島中将ととバクナー中将は、共に同じ年齢、同じ階級です。
    そして、ふたりとも、陸軍士官学校の校長経験者です。
    兵科も、歩兵出身です。
    そして戦いは、双方とも果敢です。

    バックナー大将は、そうしたことから、牛島中将に強い親近感を感じていたのです。
    そのバックナー大将の投稿勧告文です。

    ~~~~~~~~~~~~
    第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ

    牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。

    貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。
    私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。

    然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。
    この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。

    私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。

    明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。
    貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。

    昭和20年6月11日
    米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バックナー
    ~~~~~~~~~~~

    皮肉なことに、バックナー大将の投降勧告文書は、牛島中将が受け取る前に、バクナーが爆死してしまい、両軍の和解はできずに終わってしまいました。
    戦争は、人類のもっとも汚ない面だけれど、ときに、人のもっとも美しい姿も見せてくれます。

    私たちは、二度と、悲惨な戦争はしてはならないと思います。
    けれど、だからといって、当時、戦わざるを得なかった状況で、果敢に戦った日米両軍の兵士たちを貶めるというのは、これは、人としてあってはならないことだと思います。

    両軍が勇敢に戦った、その事実は事実として認めたところに、バックナー大将の奥さんや、息子さんたちのように、真の友情が芽生えるのではないか。
    それは、戦いもしないで、日本が敗れた後に、突然戦勝国民を自称したような人や国には、決してわからないことであろうと思います。
    なぜならそこに「ファクト(事実)」がないからです。

    「嘘も百回言ったら本当になる」という人がいますが、それは希望的観測にすぎません。
    百回言おうが、千回言おうが、嘘は嘘です。
    たったひとつの真実の前に、嘘はもろくも崩壊するのです。

    日本の歴史は恥ずべき歴史だと言う人がいます。
    逆です。
    日本の歴史は、調べれば調べるほど、真実を知れば知るほど、誇りが持てる歴史です。
    私達の祖先や先輩たちは、そういう生き方をしてきたのです。


    ※この記事は、2010年10月26日の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    「沖縄における日本軍は、
     まことに優秀な計画と善謀をもって、
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    沖縄戦において、日本守備隊は、実に勇敢に戦ったのです。
    そしてこの沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。

    20200815 あゝひめゆりの塔
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    しかも現代は超限戦の時代です。
    情報分野から政治経済、コンピューターネットワーク、ありとあらゆるものが戦争の対象です。

    我が子を守るためなら、アゲハチョウでさえ、身を犠牲にしてでも闘います。
    これは生き物の本能であろうと思います。
    そういう心と行動を失った者は、もはや人の皮をかぶった獣どころか、生き物ですらないといえます。
    昆虫にも及ばない、ゾンビです。
    私は、常に人でありたいと願うものです。

    「あゝひめゆりの塔」で描かれている大東亜戦争における沖縄戦は、昭和20(1945)年3月26日から6月23日にかけて行われた大規模な戦闘です。
    日本の守備隊   11万6400名に対し、
    米軍が投じた兵力は54万8000人。

    日本の5倍の戦力であることに加えて、米軍の使用した銃弾の数は270万発、砲弾が6万発、手榴弾39万発、機関銃弾3000万発です。
    まさに圧倒的な火力です。
    これによって日本の将兵は9万4000名、民間人も同じく9万4000名がお亡くなりになりました。

    「あゝひめゆりの塔」は、その中で、戦傷者の手当をするために野戦病院(といっても洞穴です)に勤務していた女子中学生(いまでいう高校1年生)の少女たちの物語です。
    国際法によれば、軍隊が攻撃して良いのは、制服を着て鉄兜をかぶり、手に銃を持った兵に限るとされています。
    野戦病院や、婦女子に対する銃撃は、戦時国際法上、あってはならないことです。

    戦場は狂気の世界だからという人もいます。
    当時の日本軍は、この戦時国際法を常に遵守して行動していましたが、米軍がそうではなかったことには、別な理由があります。
    米軍に限らず、当時の世界では、イエローは人として認識されなかったのです。
    現代の常識と、当時の常識は異なります。

    このようなことを書くと、日本軍もチャイナで民間人を殺戮したではないかと言う人がいます。
    その一例としてあげられるのが、重慶への空爆ですが、日本軍が民間人への虐殺をしたというのは、中共の宣伝工作にすぎません。
    日本側は、あくまで重慶の国民党の軍事施設のみを狙って、ピンポイントで空爆を行っています。
    理由は簡単です。
    めくらうちできるほど、日本には砲弾に余裕がなかったし、日本は戦時国際法を守って戦っていたからです。

    一方、こうした戦時国際法を逆手にとったのが当時のチャイナ兵で、軍服を脱ぎ、民間人のフリをして街に入り込み、いきなり銃を乱射して日本兵を殺すということが広く行われました。
    これを便衣兵と言いますが、このことが効果があったのは、
    (1) 日本が軍服を着ていない者への攻撃をしてはいけないという戦時国際法を遵守していたこと。
    (2) チャイナ側がそうした(ある意味義理堅い)日本軍の行動をよく知っていたからこそ意図的に便衣兵が用いられた。
    という二つの理由からです。
    逆に言えば、それだけ日本がしっかりと戦時国際法を守っていたということの証明です。

    さて話が脱線しましたが、「あゝひめゆりの塔」に描かれた沖縄戦については、当時の米軍の従軍記者の戦況報道に、次の一文があります。

    「現在少将ホッジ麾下の第24兵団の
     進撃速度は1日2百メートルにとどまり、
     7日頃からは、
     日夜日本軍重砲兵の猛射を浴びて苦戦の連続だ。

     8日朝、アメリカ軍は要地赤色高地に向かって、
     戦車5台を先頭に突入、
     地雷原を突破前進したが、
     日本軍は焼夷弾をもって戦車を攻撃、
     さらに銃剣をきらめかせて突撃を開始した。

     この戦闘の結果、アメリカ軍は戦車3両を喪失、
     同高地を放棄しなければならなかった。

     牧港と東海岸の和宇慶を結ぶ線には
     日本軍の一連の陣地がある。

     欧州戦の体験者はこれを評して、
     巧緻かつ構想豊かであると同時に
     これまで見たいかなる陣地よりも
     見事に組織されていると慨嘆した。」

    映画「あゝひめゆりの塔」では、一方的に日本側の守備隊がやりこめられたかのような描写がされています。
    左系の人たちが「戦争=馬鹿げた悲惨」だけを強調しようと作成した映画だけに、それは仕方がないことかとも思いますが、現実には、沖縄の守備隊は、実に巧妙かつ勇敢に、圧倒的な火力を持つ米軍と闘いました。
    事実というのは、いくら偽装して隠そうとしても隠しきれない。
    かならずどこかに真実が見え隠れします。
    実際、米軍側の報道には、日本軍の頑強な抵抗に直面した米軍が、4月いっぱいかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかったことが、事実として遺されているわけです。

    さらにいうと、日本の軍があまりに近距離で激戦を挑んだため、米軍では沖縄戦全体で2万6000人もの兵士が、戦闘神経症にかかって戦列を離れています。
    さらに地上での激戦のために、米海軍の機動部隊は、上陸軍の補給と支援、およびその補給艦隊の援護のために、沖縄近海に密集して長く留まらざるを得ず、そこには相次ぐ特攻隊による攻撃が加えられました。

    特攻は、4月1日から6月22日まで、82日続いた沖縄戦に、本土から約1900機の出撃です。
    そして米軍の軍艦34隻を沈没させ、
    空母、戦艦368隻に重大な損傷を与えました。

    このため、沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、地上軍指揮官バックナー陸軍中将に、
    「米海軍は一日1.5隻の割合で艦船を失っている。
     5日以内に第一線が動き始めなければ、
     貴官の更迭を求める」
    と、極めて異例の申入れをしています。

    特攻攻撃について、左系の人たちは「戦果が乏しく意味のない犬死だった」と主張しますが、そうであるならばこのニミッツ提督の言葉は、いったいどのように解釈したら良いのでしょうか。

    繰り返しますが、特攻に飛び立った飛行機は1900機です。
    特攻機は、おおむね5機の編隊で敵地に向かって飛んでいます。
    攻撃回数を、1900÷5=380回とするなら、402隻の船に損傷を与えたという事実は、ほぼ全隊が一定の成果をあげたということです。
    これは簡単な算数の問題です。
    それを「なんの成果もなかった」だと言いきるのは、歴史に客観性を失ない、歴史を政治にすり替えた暴論でしかありません。

    また、米軍側の特攻による被害の中に、「輸送艦」の文字が見当たりません。
    戦闘の勝敗だけを言うなら、敵に対するダメージは、戦艦や空母よりも、輸送艦を叩いた方が、敵のダメージは大きいのです。
    防御力が乏しく、食料、砲弾、ガソリン、兵員を満載した輸送艦を撃沈すれば、敵の戦力がいちじるしく消耗するからです。

    しかし日本は、敵がどれほど強大であったとしても、こちらがどんなに寡兵であったとしても、どんなに不利な状況にあったとしても、防御力に乏しい敵輸送艦隊への攻撃をしなかったのです。
    それが日本の武士の戦いというものだったのです。

    ついでに申し上げると、有名なガダルカナルの戦いにおける一木支隊の餓死による全滅は、日本からガ島に食料などを運ぶ輸送船団が攻撃を受けて沈没したことによります。
    これが何度も繰り返されるため、結果として輸送船を送ることができない。
    それで一木支隊は食糧不足におちいって餓死しています。
    ただし、ガダルカナルは熱帯の島です。
    そして島中に、バナナやヤシの木が生えています。
    つまり食料が豊富な島なのです。
    けれどそれら果物は、現地の人達の重要な食料源となっていました。
    そして日本の兵隊さんたちは、誰一人、その現地の人達の食べ物を(目の前にたくさん稔っているのに)、採って食べようとしなかったのです。
    だから餓死しました。
    たとえ餓死することがあっても、他人のものを盗って食べるようなことはしない。
    それが日本の軍人さんであり、私達の父や祖父の若き日の姿であったのです。

    沖縄戦に話を戻します。
    ニミッツ提督に言われた側のバックナー陸軍中将(戦後「大将」が追贈)も、沖縄摩文仁(まぶに)高地での戦闘の最中、日本軍の砲弾を受けて亡くなっています。

    摩文仁高地というのは、沖縄戦の日本軍最高司令部があったところです。
    この時点で日本側の第32軍は、戦力の80パーセントを消耗していました。
    そして、八重瀬岳方面の日本軍守備隊の独立混成第44旅団も、6月14日には全滅しました。
    第62師団も、米軍の摩文仁高地進出を防ぐために全力反撃を実施して、6月15日、残存兵力の大半を失っています。
    6月17日には、喜屋武地区の第24師団も、師団としての組織的抵抗が不能になっていました。

    こうした状況の中、6月18日午後1時15分頃、摩文仁高地の眞栄田の最前線の戦闘視察中のバックナー中将が、砲弾の破片を胸に受けて亡くなったのです。
    摩文仁高地での戦いは、もはや軍としての体をなしていないほどに、痛めつけられた日本守備隊が、最後の抵抗戦をしていたところです。
    そこで、敵将を倒しているのです。
    米国の軍史上で、最高司令官が戦死したのは、このバックナー中将だけなのだそうです。
    このバックナー中将については、心に残るお話がありますので、それは明日の記事にします。

    さて、米軍の陸軍戦史は、沖縄戦について、次のように記しています。
    「沖縄における日本軍は、
     まことに優秀な計画と善謀をもって、
     わが進攻に立ち向かった。」

    沖縄戦において、日本守備隊は、実に勇敢に戦ったのです。
    そしてこの沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、今日、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。

    八原博通大佐は、鳥取県米子市で、明治35(1902)年、町役場の公務員の子として生まれています。
    彼は、地元の米子中学校(現米子東高校)を卒業したあと、大正12(1923)年、陸軍士官学校を卒業し、最年少で陸軍大学校に入校。
    昭和4(1929)年に優等(五位)で卒業し、恩賜の軍刀を拝領しています。

    そしてその年に陸軍省に入省した八原は、昭和8(1933)年から昭和10年まで、約2年、米国陸軍の隊附士官として米国に駐在しています。
    いわば陸軍きっての米国通だったわけです。

    そして大東亜戦争がはじまると、第十五軍参謀としてビルマ攻略作戦を担当し、大勝利を飾った後、昭和19(1944)年3月、沖縄防衛を担う第三二軍の作戦担当の高級参謀に就任しています。
    彼は、第三二軍の司令官であった牛島満中将を補佐し、米軍の来襲に備えて、沖縄県民の本土への疎開と、軍による沖縄持久戦を提案しました。

    米国通の八原は、沖縄の珊瑚に囲まれた地形や、そこここにある洞窟を利用し、最初から長期持久戦を行うことによって、米軍に長く大量の出血を強いることで、必ずや米国内に厭戦気分が起き、和平上、日本の立場を有利にできると考え、これを第三二軍の方針としたのです。

    ところが、沖縄戦の前に沖縄県知事だった泉守紀は、これを承認しない。
    沖縄県民の本土への疎開を拒否するのです。

    当時、沖縄の空に度々来襲する敵爆撃機の空爆に恐怖した泉知事は、沖縄県民の命を盾にして、自分だけが沖縄県知事の任を解かれ、本土に復帰できるよう工作をしていたのです。
    当時の県知事は、いまのような各地での公選制ではなく、中央からの派遣です。
    自分が本土に逃げたいだけの平和主義者泉守紀は、軍の方針にことごとく盾つき、ついには沖縄県民の疎開すら拒否してしまったのです。

    しかも、大本営は敵情判断の中で、米軍は沖縄より先に台湾への侵攻を図ると考え、第三二軍から、主力の一個師団を台湾に引き抜いてしまいます。
    かくなるうえは、残る兵力と、逆に民間人の協力をもって、沖縄を守るしかない。
    本来は、戦場に訓練されていない民間人がいたら、軍の行動には足手まといなのです。

    しかし疎開できないならできないで、逆に協力をお願いするしかない。
    これは当然の、自然な判断ですし、当時、沖縄の人々は、むしろ積極的にこれに呼応しています。

    あたりまえです。
    誰だって、いざとなったら女房子供を守りたい。
    そのためにできる協力は惜しまない。

    八原参謀は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難させた後、島に残った民間人を戦闘地から外れた島北部に疎開させたうえで、青壮年男子2万人を動員して、島内での陣地構築を進めました。
    これが、珊瑚を利用した、地下壕になります。

    昭和20(1945)年4月1日、米軍の上陸部隊が沖縄本島中部の渡久地海岸に来襲しました。
    戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、砲艦117という、気の遠くなるような大艦隊です。
    そしてその日のうちに、艦砲弾4万5千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発という、史上かつてない猛砲撃をはじめました。
    艦砲弾というのは、ひとことで言ったらドラム缶を縦に三本積み上げたくらいの、どでかい爆弾です。
    そんなものを、雨あられのように、沖縄本土に降らせたわけです。

    事前の猛爆撃のあと、午前8時には千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到しました。
    幅、わずか11キロの海岸に、4個師団(約6万人ほど)もの大兵力が一度に上陸したのです。
    これだけの大がかりな上陸作戦は、さすがの米軍でも初めての経験です。

    通常なら、ここで上陸をしようとする米軍と、日本の守備隊との間で、猛烈な戦闘が行われます。
    硫黄島では上陸直後に日本軍の猛砲撃を浴びて、米軍は大損害を被っている。
    その記憶も新しい状況下での上陸作戦だったのです。

    ところが日本軍は何の抵抗もしない。
    しーんと静まり帰っています。
    弾の一発も飛んで来ない。

    米軍は「これはエイプリル・フールではないか」と、逆に疑ったそうです。
    無血上陸を果たした米軍の将兵は、
    「沖縄の日本軍最高司令官は偉大なる戦術家か、
     そうでなければ、大馬鹿者である」と語り合ったそうです。

    けれども、沖縄戦の作戦を立てたのは、八原大佐です。
    彼は地味だけれど、確実に成功する戦術を重視する戦術家です。
    米軍をよく知る八原大佐は、沖縄に進攻する米軍の膨大な火力と、真正面からぶつかっても勝ち目がないことをよく知っていたのです。
    兵力の違い、火力の違いから、いずれ日本軍は米軍に敗れる。
    そのこともよくわかっていました。

    だから勝つためには、少々かっこは悪いかもしれないが、穴に籠り、とにもかくにも持久戦を戦い続ける、米軍に多大な戦傷を負わせ続ける、そういう作戦を立てたのです。

    そうすることで米国内世論は、必ず厭戦に動く。
    米国をよく知る八原大佐ならではの作戦です。
    硫黄島の栗林中将も、同じく米国派遣経験を持ち、同じ戦法をとっています。

    沖縄本島は、南半分は分厚いサンゴの岩盤に覆われています。
    そこには、たくさんの天然洞窟がある。
    そこに地下壕陣地を作り、米軍に抵抗する。
    正面衝突はしない。
    あくまで持久戦(ゲリラ戦と言った方がわかりやすいかもしれない)に徹する。
    それが八原大佐が建てた作戦です。

    八原大佐の読みは的中しました。
    米軍の火力にものをいわせた猛爆にも、ぶ厚いサンゴの岩盤は、びくともしません。
    米軍による沖縄をまるで月面のような穴だらけにした砲撃作戦に対し、日本の沖縄守備隊の兵力は、この時点で完璧に温存されたのです。

    そして上陸した米軍が、徐々に洞窟に近づくと、洞窟内から機関銃や小銃を抱えた兵が、稜線や斜面に築かれた陣地に行き、そこから的確な射撃を加える。
    その後ろからは、迫撃砲や臼砲で敵兵に集中砲火を浴びせる。

    米軍は、日本兵からの銃撃を前にして次々と斃され、やむなく無線で海上の戦艦や航空部隊に応援を頼み、日本側の陣地に対して艦砲射撃や空爆を加えました。

    ところが、その頃には、日本兵はとっくにひきあげている。
    米軍は、無人となった場所に猛爆を加えるだけで、日本側に何の損傷も与えられない。
    そしてふたたび進撃を開始すると、どこからともなく日本兵が現われて、米兵に対しピンポイントで銃撃を加える。

    みるみるうちに米軍側に死傷者が続出していきました。
    とにかく日本兵の銃撃は良く当たるのです。
    しかも、驚くほど近くからの銃撃です。

    戦闘というと、なんだか数時間からときにまる一日中、銃撃合戦が繰り広げられるようなイメージを持つ人が多いです。
    しかし実際の個々の戦闘は、数分から十数分で終わるものです。
    接近戦で1時間も撃ち合いが続くようなことは、近代戦ではまずありません。
    銃撃による恐怖に、人間の神経は、そんなに耐えれるものではないのです。

    その銃弾の音がすると、米兵が一瞬にしてバタバタと倒れる。
    米軍が反撃に出ると、そこには日本兵は、もういない。

    日本軍の装備は、三八式歩兵銃です。
    軍における銃というのは、その国の軍に対する考え方をよく現します。
    三八式歩兵銃は、古い銃で、軽機銃のような連射はできません。
    しかし命中率が高く、殺傷力が高い。
    弾が当たると、相手は確実に、あっという間に苦しまずに死にます。
    武士の情けです。
    一発で相手を苦しまずに逝かせる。
    これが三八式歩兵銃です。

    これに対し、米軍が採用したM銃は、連射、速射ができます。
    いちいち弾を込める必要がないから、相当有利です。
    しかも弾の貫通性が高いので、相手は大怪我をするだけで、一発では死にません。

    少々コワイ話ですが、軍においては、味方が死んでくれた方が、負担が少ないのです。
    なぜかというと、弾が当たって、大怪我をして、生きていたら、なんとかして助けなきゃなんない。
    助けるためには、味方の兵が何人かで、怪我をしたものを後方に送ります。
    その分、戦力が落ちるのです。

    敵を苦しめ、戦力を削ぐことを目的とした銃と、
    苦しませずに確実に逝かせる銃。
    どちらを採用するかは、その国の軍の考え方によるものです。

    沖縄守備隊は、この、連射はできないけど、確実に逝かせる歩兵銃で、果敢に戦います。
    おかげで、米軍の上陸から一週間、戦いはまるで幽霊との戦いであるかのように、米軍側に死傷者が続出し、日本側の損耗はほとんどない、という状況が続きました。

    ところが、そうした八原参謀の作戦に転機が、むしろ内部から訪れています。
    大本営から、軍司令部に、米軍の上陸を許したことを咎める電報がはいったのです。
    一方で豪傑肌のT中将から、壕陣地を打って出て積極的な反撃に出るべし、との強硬な意見が出される。

    戦いは勝っている。
    まさにいまがチャンスであると、長勇中将は説きました。
    八原参謀は、腰ぬけ作戦家であるとまで言われています。

    八原参謀は、持久戦のためには兵力の温存が不可欠と、これに猛反対するけれど、最後は、肩書きがモノを言います。
    4月12日、T中将の命令で、3個大隊による米軍への夜襲が決行されたのです。

    ところが、この日出撃した3個大隊の前に立ちはだかったのは、米軍の猛砲撃で変わってしまった地形と、寸断された道路です。
    しかもあたりは真っ暗闇です。
    自分たちが、どこにいるのかさえわかりません。

    そうこうしているうちに、目標にすらたどり着いていないうちに、米軍の打ちあげた照明弾によって、急襲隊は発見されてしまいます。
    そして密集していた急襲隊は、米軍の集中砲撃を浴びました。

    結果、1個大隊が全滅。
    2個大隊も大損害を受けてしまいます。

    人命が失われただけではありません。
    持参したなけなしの火力は粉砕され、発見された味方の将兵の救助のために、後方からのめくら撃ちの砲撃を集中させざるを得ず、この撤退戦で、砲兵部隊の弾薬は大半を使い果たしてしまったのです。

    しかも、撤収後には、約2000名の負傷兵の面倒を見なければならないという苦境までも背負い込むはめになってしまった。
    日本の守備隊が、嘉数高地、首里城へと撤退したのは、こうした理由によります。

    この攻防戦でも、日本の将兵はよく善戦したけれど、隠れている森の中からいきなり銃弾が飛んでくるというゲリラ戦でなく、互いに姿を晒した状況での戦いです。
    そうなれば豊富な火力と圧倒的な兵力に加えて、艦砲射撃や、空爆、強力な戦車隊を持つ米軍の方が有利なのは自明の理です。

    5月4~5日になると、日本側は普天間付近までの戦線回復を図るため、地上では、温存していた残余の砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出しました。
    また海上からは、船舶工兵隊と海上挺進隊を海上から迂回させて逆上陸を試みました。
    しかし、この反撃戦も大打撃を受けて失敗に終わります。
    火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は、この戦いで約7000名に及んでしまうのです。

    たった一度の「元気のよい総攻撃」が、結果として無理の連鎖を生み、戦いの趨勢を一気に不利なものへと追い込んだ。
    このことは、我々日本人は、戦争の教訓として、しっかりと記憶しなければならないことだと思います。
    元気が良いことは、決して悪いことではありませんし、特に非常時においては、大方の人気を博するものでもあります。
    しかし戦いは頭脳で動くものです。
    上に立つ者ほど、冷静さが必要なのです。

    ちなみにT中将は、日頃から豪胆で鳴らす、押し出しの強い、兵の間でも人気のあった人です。
    一方、参謀の八原博通大佐は、決して美男子ではないし、小柄ですこし貧乏にさえ見える人です。
    けれど、人には役割があります。
    どんなに見た目が悪くても、その内に強烈な才能を秘めた人というのはいるものです。
    それを見極め、上手に活用するのが、将の勤めです。
    それによって戦いの帰趨が決するし、兵の命が守られるのです。

    見た目は決して立派そうではないけれど、ものすごく中身のある人というのはいるものです。
    そしておもしろいもので、天は二物を与えずといいますが、すぐれた軍略家のほとんどに共通していることは、彼らが得てして人間関係があまり上手ではないということです。
    そこを見極め、上手に活用し、戦いを勝利に導くのが、将の勤めです。

    八原博通大佐
    八原博通大佐


    やむなく日本軍は、5月30日、雨天を利用して摩文仁高地に撤退しました。
    6月6日、海軍部隊司令官の大田実少将が、海軍次官宛に有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な訣別電報を打ちます。

    そして大田実少将は、6月13日、豊見城の海軍司令部壕内で自決されました。
    八重瀬岳方面の独立混成旅団も、6月14日までに、ほぼ全滅してしました。
    そして6月17日には、残存戦力の大半を失った第32軍は、組織的抵抗がほぼ不能の状態になってしまいます。

    その第32軍の最後の模様が、八原大佐が戦後書いた「沖縄決戦―高級参謀の手記 (1972年)」という本に詳しく掲載されています。

    「6月22日の夜が明けてまもなく、
     摩文仁の部落に猛烈な期間銃声が起こり、
     三時間ばかり続くと、はたと止んだ。
     松井小隊が全滅したのだ。
     さらば松井少尉よ!

     戦車の走る音が手にとるごとく聞こえ、
     戦車砲がわが洞窟に集中砲火を浴びせてくる。
     最後を待つのみのここ洞窟内の軍司令部は
     がらんとしている。

     佐藤主計大佐は参謀長のもとに話に行き、
     変わって衛兵長の秋永中尉が私の話し相手になる。

     正午やや前、
     参謀部出口で轟然数発の爆声が起こり、
     爆煙と土砂が身辺に吹き込んできた。
     出口の近くにいた数名が、どっと私の方に退る。

     『それ! 黄燐弾だ』と、
     皆、防毒マスクを装着する。

     私は、きたな!と思ったので、
     『秋永中尉!ここは大丈夫だ。
      中央の山頂出口を固めろ!』と叫ぶ。
     声に応じて秋永は駆け出した。

     私が随感手記を便所付近に落としたのを
     探しにいった勝由が、
     息せ切って引き返し、報告した。

     『ただ今、敵に山頂を占領されました。
      敵の爆雷が、
      垂坑道から洞窟内に落下して爆発、
      参謀長室のあたりには
      死傷者がいっぱい転がっています』

     秋永中尉が駆け出してからまだ十分も経たぬのに、
     もうやられたか。
     垂坑道から敵に侵入されたのでは、一大事だ。

     まず、参謀長、軍司令官がいちばん危ない。
     そして参謀部と副官部が遮断され、
     参謀部の者は進退きわまる。

     私は蛍電灯を手にして敵を警戒しつつ、
     垂坑道上り口に歩み寄った。
     爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、
     あたり一帯、なま臭い。

     蛍電灯の弱い光で点検すると、
     上り口の付近に十数名の将兵が折り重なって倒れている。

     頂上からさらに攻撃を加えられそうな気がするので、
     十分周囲の状況を確かめたあと、
     意を決して死体を乗り越え、
     参謀長室に突進する。
     まだ絶命していないのか、
     私に踏まれた兵士が痛い!と叫んだ。

     参謀長室は、無残に吹き飛ばされていた。
     長将軍は憮然として、
     隣の牛島将軍の寝台に腰掛けておられる。

     避退した将兵は、
     両将軍を囲んで総立ちになり、
     まだ衝撃から立ち直れぬ様子である。

     蒼白な顔をした中本嬢が、
     薄暗いすみっこで、ひとりきちんと腰かけ、
     両の拳を堅く握りしめ、
     泣けてくるのをじっと押さえるかにしているのがいじらしい。

     皆の話を総合すると、
     秋永中尉は山頂に達するや、
     ただちに数名の部下衛兵とともに、
     手りゅう弾戦をまじえてことごとく倒れ、
     第二陣を承って駆け上がった池田少尉以下十数名は、
     山頂に達するに先立ち、死傷して転落し、
     さらに手持ちの手りゅう弾が爆発して、
     損害を大きくしたようだ。

     医務室を覗くと、
     負傷兵にまじって二人の女性が寝棚に横たわっている。
     身体も顔もひどくむくみ、誰やら見当がつかぬ。

     賀数軍医中尉が、黙々と小刀で腕を切開し、
     動脈をひっぱりだしている。
     青酸カリの注射でもするのであろう。

     傍の者に聞くと、与儀、崎山の両嬢ではないかという。
     嗚呼、花のかんばせ今いずこ、と嘆いてやりたい。

     私が女性の参謀部出入りを厳禁したために、
     狭くて居場所のない彼女らは、
     よく垂坑道の登り口にたたずんでいた。
     そして犠牲になったのかと思うと、
     自責の念に耐えない。
    (※与儀、崎山の両嬢は、女子学徒隊の一員)

     ついに山頂は敵のものとなった。
     敵はいつ、垂坑道から侵入するやもしれぬ。
     唯一の残された副官部出口は、
     敵に海上から制せられており、
     さらに山頂の敵から手の届くところとなった。

     容易に自決の日を示されなかった両将軍も、
     わがことすでに終われりと観ぜられたものか、
     今夜司令部将兵をもって山頂を奪還し、
     23日黎明、摩文仁部落方面に玉砕突撃を敢行、
     牛島中将、長参謀長は、
     山頂において自決するに決せられた。

     山頂奪還の攻撃部署は、
     責任者の葛野中佐に委し、
     私はふたたび死体を踏み越えて自席に帰った。

     夕刻やや過ぎて、
     司令部衛兵のひとりが泥にまみれてやってきた。

     彼は対戦車肉薄攻撃隊の一員として、
     いま摩文仁高地束麓で敵戦車を待ち伏せして、
     その二両を爆破したが、
     戦友は皆死傷したという。

     一生懸命にその詳細を報告する
     彼の態度がいじらしく、私も心から耳を傾けた。

     数国の後、軍司令官が自決するというこのとき、
     自己の任務に身体ごとぶつけた兵士の報告を聞く私は、
     えもいえぬやるせない気持ちである。

     彼の言によれば、
     参謀部出口を閉塞してくれた通信所長は、
     電信連隊本部に引き揚げる途中、戦死したそうだ。

     確報ではないが、
     混成旅団、軍砲兵隊の両司令部は、
     昨夜、総員斬り込みをしたという。
     第62師団司令部は依然頑張っているだろうか。
     もとより知る由もない。

     最後の夕飯は、暗い洞窟の
     そこここでいつもと変わりなく
     ひそやかにはじまっている。

     泥水で煮た、握り飯ひとつ。
     飲み水は、すでに一滴もない。

     地上、地下十数メートルを隔てて、
     手りゅう弾を投じあい、
     戦友相次いで斃れ、
     つい先刻まで談笑していた将兵が、
     冷たい骸(むくろ)となって横たわり、
     そして自らの死も数時間の後に迫っているというのに、
     なんという鎮静した雰囲気であろう。

     泣く者もいなければ、笑う者もない。

     思うに、皆の共通した願いは、
     この息詰まる暗黒の洞窟内から、
     一刻も早く駆け出して、
     広々とした自由な大地に立って、
     思うさま最後の呼吸をしてみたいことではないか?

     23日午前3時頃、軍司令官の命なりと呼びに来た。
     服装をただして出かける。

     牛島将軍は、略綬をつけて服装を整え、
     膝を組んでおられる。
     長将軍は、キングオブキングスの
     ひょうたん型の壺を前にして、
     すでに一杯傾けておられる。
     周囲の顔触れは昨夜と変わりない。

     私は両将軍に敬礼したが、いまや言うべき言葉はない。
     私を前にして、両将軍の間には、
     次のような会話が続けられた。

     参謀長「閣下は(昨夜)よく休まれましたね。
      (自決の)時間が切迫するのに、
       一向、起きられる様子がないので、
       実は私も、もじもじしていました」

     司令官「貴官がいびき声、
       雷の如くやらかすので、
       なかなか寝つかれなかったからだよ」

     参謀長「切腹の順序はどうしましょう。
       私がお先に失礼して、
       あの世のご案内をいたしましょうか」

     司令官「吾輩が先だよ」

     参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。
       お先に失礼しても、ご案内はできませんね」

     参謀長は、
     「西郷隆盛が城山で自決する直前、
      碁を打ちながら、別府晋介に向かい、
      『晋介どん! よか時に合図をしてくれ』
     と言ったそうだが、
     俺はキングオブキングスでも飲みながら時を待つかな」
     と笑われた。

     周囲の者は、西郷隆盛と聞いて、一斉に牛島中将を注視する。
     将軍は平素、部下から西郷さんと呼ばれていたからである。

     両将軍は、二、三、辞世ともなんともつかぬ和歌や、
     詩をもって応酬された。
     私は、はっきりと聞きとることができなかった。

     しかし、沖縄を奪取された日本は、
     帯を解かれされた女と同じもんだと、
     だじゃれを言われたのを記憶する。

     後日知った正確な辞世は、次の通りであった。

     【牛島中将】
     秋待たで
     枯れ行く島の青草も
     御国の春に よみがえらなむ

     矢弾つき
     天地もそめて 散るとても
     天駆けりつつ 御国護らむ 

    【長将軍】
     醜敵締帯南西地
     飛機満空艦圧海
     敢闘九旬一夢裡
     万骨枯尽走天外

     いよいよ時間も迫るので、
     洞窟に残った者が、皆一列になって、
     次々に将軍に最後の挨拶をする。

     平素正しいと思ったら、
     参謀相手でも殴り合いをしたきかん気の大野少佐が、
     一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、
     大本営宛、最後の電報を打ち終わった旨、報告した。

     最後までよく将兵と苦難をともにした
     平敷屋その他の女性も挨拶をする。

     参謀長の当番娘が、
     「閣下のご焼香もすまさないで
      洞窟を出て行くのは誠に申し訳ありません」
     と述べたとき、長将軍は微かに苦笑された。

     彼女たちは、他の残存の将兵とともに、
     夜の明けきらぬうちに、
     断崖の道を降りて、
     海岸の洞窟に行くことになっていた。

     参謀長当番の中塚は、
     俺はもう要らぬからと、
     貴重な水のはいった水筒を、女たちに与えた。

     軍司令は静かに寝棚から降り立たれ、
     参謀長は、軍衣を脱して、
     それに従われ、経理部長もまた後に続く。

     ロウソクの灯りを戦闘に、
     粛々と行列は出口に向かう。
     心も足も重い。

     洞窟の外に出れば、月、いまだ南海に没せず、
     浮雲の流れ早く、
     彼我の銃砲声死して天地静寂、
     暁斬り脚麓より静かに谷々を埋めて這いあがり、
     万象感激に震えるかの如くである。

     洞窟出口から約十歩のあたり、
     軍司令官は、断崖に面して死の座に着かれ、
     参謀長、経理部長、またその左側に位置を占め、
     介錯役坂口大尉がその後方に、
     私はさらに彼の左後方に立つ。

     残存の将兵は、出口に起立して、大なる瞬間を待つ。
     やや前かがみに首を伸ばして座した
     参謀長の白いワイシャツの背に、

     義勇奉公
     忠則尽命

     と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、
     暁暗にもはっきりと読める。

     私を振りかえられた長将軍は、
     世にも美しい神々しい顔で、静かに、
     「八原! 後学のために、予の最後を見よ!」
     と言われた。

     剣道五段の坂口が、
     つと長刀を振りかぶったが、
     なぜか力なくためらって、
     「まだ暗くて、手元がきまりません。
      しばらく猶予を願います」と言った。

     しかし、明るくなれば、海上の敵艦から砲撃される。
     海岸洞窟に降りるはずの将兵が動揺をしはじめた。
     ついに彼らは、将軍の許しを得て、駆け降り始めた。

     焦れる将兵に阻まれている間に、
     いちばん出口近くにおられた両将軍が立ちあがられる。

     私は遅れじと接近しようとするが、
     奔流のごとく駆け出さんとする将兵十数名が
     停止を命じられ、出口をふさいでしまった。

     ようやく彼らをかきわけ、
     出口に顔を出そうとする一刹那、
     轟然一発、銃声が起こった。

     騒然たる状況に、敵艦からの砲撃かと思ったが、
     経理部長自決の拳銃声だったのだ。

     そして今度は坂口が、
     両将軍着座の瞬間、
     手練の早業で、
     ちゅうちょなく、首をはねたのだ。

     停止させられていた将兵は、
     堰を切ったように断崖の道を走り始めた。

     高級副官、坂口大尉、私の三人は、
     出口に転がっているドラム缶に腰をおろした。
     坂口は私に「やりました!」と、
     顔面蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。

     三人は黙ったまま、ぐったりとなって、
     白々と明けゆく空を眺めていた。」

    ちなみに、この牛島中将、長参謀長の死について、元看護婦の伊波苗子氏は、次のような証言を行っています。
    「牛島司令官は、
     重傷を負って数日前から
     痛め止めの麻薬を投与されていて、
     ご自身では割腹が出来ず、
     副官の手を借りた。

     長参謀長は拳銃を持ったまま
     酒を飲みすぎ寝込んでしまったので、
     副官が引き金を引いた。」

    また、昭和32年に光文社から発行された「写真記録・太平洋戦争」では、首のない死体の写真を、牛島、長、両将軍の遺体として初公開しています。
    しかし、この写真集の現場の様子、遺体の状況等については、現場にいて戦後生き残った八原大佐その他、多くの旧軍人らによって、この遺体写真は両将軍のものではないことが確認されています。

    さらに上の八原大佐の記録は、米軍の調書における料理人ナカムタテツオの証言、映画技師水島八郎の証言とも、細部まで状況が一致しており、伊波婦人や、光文社の写真誌の内容には、間違いがあると断言できるものとなっています。

    ナカムタテツオの証言は、以下の通りです。
    「午前3時40分、牛島、長両将軍は、
     勲章付き、通常礼装着に身支度し、
     副官と全ての参謀本部将校を従え、
     静かに洞窟を抜け、狭い岩棚に出た。

     料理人ナカムタは、
     洞窟入口近くの台所に屈み、
     奇怪な儀式を見た。

     両将軍は、低い声で寸時語り合い、
     それから岩棚に敷かれた厚い座布団に
     死を表す白布がかけられた。

     牛島将軍は、長将軍を左に、
     儀式の通り座し、海に向かった。
     天皇のいる皇居の方向、
     北を向くだけの広さがなかったのである。

     部下がうやうやしく上着のボタンを外し、
     腹部を出した。

     副官坂口大尉が、
     刃先を半分白布で巻いた短刀を手にし、
     背後に立った。
     副官が短刀を牛島に渡すと、
     牛島は短刀を両手に持った。

     短刀が腹部を刺すや否や、
     副官(坂口)の刀がざっくり牛島の首を斬り、
     首の骨を分断した。
     牛島将軍は、白布に倒れ込み、死んだ。

     長将軍も同様に果てた。」

    もうひとつ、濱川昌也(はまかわまさなり)軍曹が著わした本に「私の沖縄戦記」という本があります。
    この本の中にも、やはり第32軍の最後の模様が出てきます。

    牛島、長、両将軍の最後について、長将軍は当日酔っぱらって自分で自決の銃の引き金を引くこともできず、傍にいた士官に撃ってもらったなど、さいごの最後まで勇敢に戦った32軍を貶めるような発言をする者がいる。

    けれど八原参謀の記述も、ナカムタテツオの証言も、水島八郎の証言も、そして濱川軍曹の証言も、細部までみんな一致しています。
    すくなくとも現場にいた人の証言というものは、貴重な第一級の史料であるし、それらを無視して単に想像で命をかけた戦いの模様を、ねじまげるなどということは、あってはならないことだと思います。

    そして濱川軍曹の記述からは、八原高級参謀の手記とはまた違った角度からの第32軍の最後をみてとることができます。
    すこし紹介します。

    「そのうち轟々たる地響きが聞こえ、
     前方のゆるやかな勾配になった裾野の方から
     米軍が攻撃してきた。
     その砲撃のすさまじさに、
     壕から出ることができない。

     『こうなったら、敵を至近距離まで寄せつけて
      白兵戦をするしかない」
     と毛利兵長が呟く。
     『戦車だっ!』大弥上等兵が叫ぶ。
     見ると前方から三台の戦車が進撃してきた。
     先ほどから聞こえてきた轟々たる地響きは
     米軍の戦車だったのである。

     私は眼を疑った。
     摩文仁に山は、
     峨々(がが=がが. 険しくそびえ立っているさま)たる剣山で、
     たとえ連日の猛爆撃で破壊されたとはいえ勾配は急である。

     『この山に敵戦車が登ってこようとは!』
     米軍の機械化された装備を知らない我々にとっては、
     これは全くの驚きであった。

     進撃してきた米軍の戦車は、
     いったん我々の前方百メートルの地点で停止し、
     陣容を整え、歩兵を伴って再び前進を開始してきた。

     それとは別に、右前方数十メートルの地点に、
     数十人の米兵を発見した大弥上等兵は、
     『司令殿! 敵が右前方に!」』と絶叫し、
     『すぐ射撃開始を!』
     と、私の命令を求めてきた。

     私は『いや待て! 今撃つと垂直坑道口が
     敵に知られて反撃をくらい、
     洞窟内の兵が全滅する。
     しばらく待て、様子を見る』と拒否したが、
     興奮したのか命令を聞かない。
     そのまま重機の引き金に当てていた指をひいた。

     ダ・ダ・ダ・ダと重機は火を吹いたが、
     一連射(三十発)もしないうちに、
     ドカンと米軍戦車の砲撃を食らい、
     大音響とともに洞窟の一部が崩れ、
     私は一瞬眼がくらみ気を失った。

     はっと我にかえってあたりを見回すと、
     毛利兵長と大弥上等兵が血だるまになって倒れている。

     弾薬手の佐々木一等兵は、すでに虫の息だ。
     私自身は、どうやら身体は無事のようだが、
     全身に黄燐弾を浴びたらしく、
     上着に黄燐弾がしみ込み、
     燐光を放って、服はじわじわと燃え広がっていく。

     “たいへんなことになった。
     一刻も早くこの非常事態を報告せねば”
     と私は岩永軍曹と持ち場を交代して、
     転げ落ちるように垂坑道をかけ降りた。

     状況報告を聞いた高級副官は、
     垂坑道口に将校がひとりもいないことを知って、
     そばにいた衛兵長秋永中尉を殴りかからんばかりに怒鳴りつけ、
     『すぐ垂坑道に登って指揮をとれ!』と命じた。

     私は燐光を放ちながら燃え広がる上着をかなぐり捨て、
     ふたたび垂坑道口へと二、三段登りかけた途端、
     垂坑道は、またも戦車の直撃を受け、
     ふたたび大音響とともに崩れ落ち、
     ごろごろと上から転げ落ちてくる負傷兵や死体に、
     私は押しつぶされてしまった。

     時に、6月21日正午ごろである。
     かくして摩文仁陸山頂は、
     米軍によって馬乗り制圧された。

     硝煙たちこめる洞窟内に閉じ込められた将兵は、
     なすすべもなく、ただ右往左往するのみである。

     荒涼殺伐とした空気が洞窟内に満ち、
     どの将兵の顔にも
     『ああ!これで今日限りの命となった』
     と絶望と恐怖の色があふれていた。

     あまりにも早い米軍の進撃に混乱していた首脳陣も、
     そのうち落ち着きを取り戻し、
     対応策を講じ始め、
     先ず、頂上に馬乗りをしている米軍から、
     陣地を奪取するための切り込み隊を編成した。

     しかし切り込み隊は、斜面をよじ登るも、
     丘陵に達しないうちに次々と殺られていく。
     それで白昼の攻撃は無駄だと判断し、
     夜を待つことになった。

     米軍に頭上を占領された我々には、
     洞窟内でじっとしている以外、
     手の打ちようがない状態となった。

     秋風落漠として、声を発する者もなく、
     ただ散乱している戦友の骸(なきがら)を前にして、
     諦めて瞑目するほかはない。

     そのうち、静寂さに耐えかねたように、
     小川伍長が私に話しかけてきた。

     小川伍長は東京都の出身で、
     宮古島駐屯の豊部隊から、
     連絡を持って軍司令部に出張してきた下士官だが、
     原隊に復帰する術もなく、
     そのまま軍司令部付きとなり、
     衛兵要員の一員となった人である。

     『今日は21日。
      官庁の給料日で、
      ひと月のなかで一番楽しみな日だ。
      それが最悪の日となるとは!」

     続いて気を紛らすかのように、
     渋谷区役所に勤めていたころ、
     道元坂上の百軒店で飲み明かした話をしたり、
     ポケットから一枚の写真を取り出し、

     『これは私の母上の写真だ。
      父上を早く亡くした後、
      女手ひとつで
      私を一人前に育ててくれた。
      しかし私はその母上に何ら報いることなく、
      期待を裏切って親不孝の数々をしてきた。
      それが今になって悔やまれる』

     と、食い入るように写真を見つめ、
     ボロボロと涙を流していた。

     通夜のように、
     静寂なうちにあちこちで
     ひそひそと私語が交わされている中に、
     長参謀長が、隣の軍司令官に声をかけていた。

     『なあー閣下、
      沖縄の住民は、実によくやってくれた。
      日本国のどこが戦場になっても、
      これほど住民が軍に協力はしてくれなかっただろう。
      伊平屋島に“天の岩戸”があるとのことだが、
      この沖縄こそ、まさに高天原の国だ。
      この大和の国の発症に地で生涯を閉じるとは、
      実に幸せだ」

     これに対し牛島司令官は、
     静かに「ウン、ウン」と相槌をうっていた。
     そうこうしているうちに、夜になった。

     ふたたび山頂奪回のための
     切り込み隊が編成されることになり、
     全将兵は“座して死ぬよりは
     華々しく突撃して最後を飾らん”とばかりに、
     競って志願し、
     その中から選ばれた屈強な兵から、
     第一隊、第二隊、第三隊と編成されていった。

     出口は海岸側に向かっている開口部のみである。
     幸いにして、この開口部は、
     入り組んだ岩陰にあり、
     敵から発見されにくい場所にあった。

     その開口部から、第一隊、第二隊、第三隊と
     切り込み隊が斜面をよじ登り、
     夜の闇の中に吸い込まれるように進撃していく。

     見送る者誰一人として、口をきく者はなく、
     固唾をのんでその成功を祈った。

     夜襲に出かけた切り込み隊が山頂に達したと思われる頃、
     激しい銃声がおこり、しばらく続いたが、
     そのうち、ピタッと止んでしまった。

     しかし突撃を敢行した切り込み隊からは、
     ついに山頂奪回に成功したとの報告はなかった。

     山頂奪回の望みが断たれたあと、
     残された将兵は、
     突撃組と脱出組、自決組にわけられ、
     さらに突撃組が出陣するのを見送りながら、
     牛島軍司令官と長参謀長は、
     自決することと決まった。

     その最後の晩さん会で時を過ごし、
     時刻は6月21日午前0時を回るが、
     今生の別れに話はつきない。

     月はまだ西の空に輝いているが、
     東の空がほのかに白みを増してきた頃、
     軍司令官は正装に略綬を杯用し、
     参謀長は南無阿弥陀仏と筆で自筆した襦袢を着て、
     薩摩下駄をからころと響かせながら、
     洞窟の出口に設けられた切腹の座に向かった。

     洞窟内に残った将兵は、
     起立して頭を垂れて両将軍を見送る。

     介錯役は、剣道五段の坂口大尉が務めたが、
     右手を負傷していたため、
     牛島軍司令官の介錯のとき、
     ちょっと手元がくるったようだ。

     軍司令官は、
     あらかじめ青酸カリの注射を
     されていたようである。

     長参謀長の切腹は見事なもので、
     古式にのっとった作法を全うしている。

     “大将の首級は敵手に渡さず”
     ・・・敵手に渡ることを最大の恥辱とする
     日本古来の武将の習慣により、
     両将軍の首級は、当番兵の高橋兵長と、
     軍属の魚住豊明によって白木の箱に納められ、
     洞窟外の何処かに運び去られた。

     後日この二人も米軍の捕虜となり、
     ために、両将軍の首級のありかも
     米軍の知るところとなって、
     6月26日頃、米軍の手によって発掘されたとのことである。

     時に、昭和20年6月22日午前4時30分ごろである。

     すべての沖縄戦記では、
     軍司令官の最後を6月23日としているが、
     これは誤りである。
     21日正午ごろ、
     馬乗りされて山頂を米兵に占拠されている下で、
     最高司令官や参謀長が、
     のんのんと生きながらえているはずがない。」

    その場に居合わせた者にしか書くことのできない、当時の状況が、まるで目に浮かぶかのようです。

    さて、濱川軍曹らとともに、壕を脱出した八原大佐は、戦訓伝達のため民間人になりすまして移動中、7月15日、武運つたなく米軍に捕まって捕虜となりました。
    沖縄守備隊第32軍は、こうして壊滅します。

    しかし若い八原高級参謀の立てた作戦が、すくなくとも緒戦において、米軍をてこずらせたこと、および、もし持久戦を旨とする八原戦略が貫徹されていれば、もしかすると沖縄は終戦時まで持ちこたえ、ために米軍の死傷者が膨大な数に上り、米国は早々に終戦を迫られることになった可能性は、否定できない事実です。

    軍は、間違いなく、頭脳で動きます。
    血気で動くものではない。

    いま日本は崩壊寸前の状況にあるといわれています。
    しかし、その崩壊を食い止める、あるいは新しい日本を建設する戦いは、怒りや血気だけでは、足りないのです。
    そこには、頭脳がいる。
    そしてその頭脳を、もっとも効果的に活用できる将が要る。
    さらにこれを援助するスポンサーが要る。

    しかし、それらにも増して大切なことは、
    「こよなく日本を愛する思い」と、
    「築くべき日本のかたちを共通理念としての常識化していくこと」
    にあります。

    築くべき日本のかたちについての共通認識もないまま、ただ現状に不満だからと勇猛に走れば、それは一見するとかっこいいことにみえるかもしれませんが、結果として、日本のよみがえりを遅らせることにしかならない。

    ちなみにいまの若い方々は、世代によって、
     ポケベル世代(36〜45歳)
     ガラケー世代(26〜35歳)
     スマホ世代 (25歳以下)
    に区分されるのだそうです。
    そしてガラケー世代、ポケベル世代は、コミュを重視しますが、スマホ世代の若者たちは、スマホの持つ圧倒的な情報力から、多様な情報に接することが習慣づいているため、これまで戦後75年間の嘘から目覚めつつあるといわれています。

    二度と戦争の悲惨を繰り返さない。
    このことは、沖縄戦でお亡くなりになられた方々に限らず、これまでの戦争で亡くなられたすべての御魂の共通の願いです。
    正義のない、利権のためだけに武力が用いられてきたのが世界の歴史です。
    だからこそ、我々は正義のために、国の守りをきちんと固めてしっかりと自立していく。
    なぜなら日本こそ、民衆を「たから」とする国柄と歴史を持つ唯一の国だからです。


    この記事は、2010年10月17日のねずブロの記事を大幅にリニューアルした記事です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    以下の物語は、安田武、福島鋳郎著『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』に収蔵された実話です。
    原文は文語体ですが、読みやすいように、ねず式で現代語訳しています。
    原文には書いた人の記名がありますが、ここでは割愛しています。
    あまりにかわいそうだからです。

    「戦争反対、世界を平和に」、おおいに結構だと思います。
    けれど、それゆえに勇敢に戦い散って行かれた先人たち、国を守るためにその時点で真剣に悩み考え行動した先輩や父祖たちを、あとになって、ただ「負けたから」と貶め、冷静に日本を見つめなおそうとする人たちに「右翼」とか「差別主義者」とかレッテル貼りし、声高に非難し貶める行為は違うと思います。
    なぜならそのようないたずらに対立を煽る行為そのものが、争いを招き、ひいては戦乱を招くものであるからです。

    戦後生まれの私たちは昭和20年8月15日を終戦記念日と呼びます。
    終戦とは「戦いの終わり」を意味します。
    この日は日本が戦闘行為を自主的に停止した日です。
    間違えてはならないのは、「終戦=戦争の終結」ではないことです。
    現にその後の日本は占領されています。
    占領というのは戦争行為の一部です。
    つまり日本は戦闘行為を自主的に終わらせたのであって、戦争そのものはその後も続いたのです。

    では戦争の終結はいつかというと、形式的には昭和27年4月28日のサンフランシスコ条約発効の日です。
    形式的というのは、書面上はそうだということです。
    実質的には、いまだ日本には米軍基地があります。
    つまり日本への占領状態は継続しているわけで、その意味では戦争はまだ終わっていないのです。
    良い悪いではなくて、それが事実です。

    だから米軍出て行け!も違うと思います。
    いまの東亜情勢の中では、中共の軍事的横暴をかろうじて抑えているのが東亜に展開された米軍基地だからです。
    このため米軍基地のある東亜の各国では、中共のスパイたちがさかんに「米軍基地出て行け」と煽っています。
    日本もそのなかのひとつです。

    いたずらに対立を煽る。
    このことこそ戦争や虐殺や悲惨を招く最大の「政治工作」です。
    そして現実に戦争が起こり、負ければ何が起きるかといえば、女性や子供たちなど、もっとも暴力に弱い者たちにそのシワ寄せ、つまり悲惨が及びます。

    小町園の悲劇は、その現実を私たちに語りかけてくれます。
    戦争によるドンパチも悲惨を招きます。
    しかし戦争は、負けた後にもっと大きな悲惨を招きます。

    いつも思うのです。
    世界の常識は、「力こそ正義」です。
    しかし本当は、「力は正義のためにこそ用いる」のが正しい。

    正義というのは秩序のことです。
    その秩序を、いたずらに力に頼ることなく、どこまでも民衆の幸せを求めて築いてきたのが、日本の歴史です。
    そしてその日本を護ろうとして多くの血が流れ、敗戦に至りました。

    いまの日本は、力が正義の国になりつつあります。
    そしてそのことは、民衆の幸せではなく、一部の大金持ち、一握りの政治権力者たちだけの政治的経済的優位を形成します。
    現に、末端の社員と社長の給料格差は、ほんの半世紀前までは10倍、限度が20倍とされていたものが、いまではなんと10万倍が相場なのだそうです。
    あきれてしまいます。

    *********

    【小町園の悲劇】
    安田武、福島鋳郎著『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』より


    大森海岸の「小町園」と聞けば、いまの中年の御紳士方なら、ずいぶんと懐かしがる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
    戦前は、今のように、温泉マーク(注:ラブホテルのこと)が都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合にたちいたりますと、京浜国道をひと走り、大森の砂風呂へ行こうと、みなさん、よく大森海岸までお越しになったのです。

    小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きい料亭でございました。
    戦前の、落ち着いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描き出したあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。

    現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することを誰も信じていただけないのではないかとおそれています。
    けれど、小町園の柱のひとつひとつ、壁の一面一面には、日本人の娘さんの貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついているのです。



    忘れもしません。
    あれは終戦の年の、昭和20年8月22日のことでした。
    ご主人が銀座の方へお出かけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ、
    「ここがRAAの第一施設になるらしい」という噂が伝わってきました。
    女中部屋はそれを聞いて、ハチの巣をつついたような騒ぎになりました。

    私には、そのRAAというのがわかりません。
    聞いてみると、特殊施設協会とかいって、政府と警察と、それから私たち業者などが一緒になって作っているお役所で、お金は政府が一億円も出しているということでした。

    でも私たちが驚いたのは、まだ見たこともないアメリカ兵がここへ入ってくる、ということでした。
    そのRAAというのは、進駐軍を迎えてサービスをする施設だというのです。
    「それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所になるってこと?」
    みんなびっくりしました。

    その頃はまだ、パンパンという言葉はありません。
    アメリカ兵は「鬼畜米英」などと新聞に書かれ、私たちも素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を食うなどと思っていたのです。
    皆の不安も無理ありません。
    しかし、あとの騒ぎをいま振り返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ食べなかったけれど、それを同じことをした、と思わずにはいられないのです。

    RAAの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうです。
    けれどさすがに三越が承知しなかったので、大森海岸の料亭では?ということになり、うちに決まったという話でした。
    その話が伝わった翌日には、なんと大工さんが50人もやってきました。
    そして昼も夜もぶっつづけで、こわれたところや、いたんだ箇所を直しはじめました。

     *

    さあ大変です。
    いよいよアメさんがくるのが本当だとわかると、女中の中にはひまをもらって、辞めていく人もあるし、毒薬を懐にして、いざとなったらこれを飲んで死んでやるといきまく者もいます。
    私も家さえあれば、逃げて行きたいところでした。
    けれど、家は焼けて住むところがありません。
    それで、ええ、ままよ、と悪く度胸を据えてしまったのですが、その当時は、女中も、あとから来た慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がないという人が多かったのです。

    ご主人は、私たち20人ほどの女中を集めました。
    そして、
    「この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように」と訓示なさいました。
    けれど私たちは、パンティを2枚履くやら、大騒ぎでした。

     *

    いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むという、その前日のことです。
    お店の前に二台のトラックがとまりました。
    そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へぞろぞろと入ってきました。

    リーダーみたいな男の人が、RAAの腕章をしていました。
    その女の人たちが、進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかりました。
    私たちは集まって、いたましそうに、その人たちをみやりました。

    モンペをはいている人もいます。
    防空服みたいなものをつけている人もいます。
    ほとんど誰もお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかし何と言っても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘い匂いのようなものがただよっていました。

    この人たちは、みんな素人(しろうと)のひとでした。
    のちに応援にきたひとは玄人(くろうと)の人もいましたが、はじめ小町園に来た人は、みんな素人の娘さんだったのです。

    銀座の八丁目の角のところで、
    「新日本の建設に挺身する女事務員」という大看板を出して集めた人たちだったのです。
    ですから、進駐軍のサービスをするということはわかっていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかった人たちもいました。
    なかには、そのときまで生娘だった女性も、何人かまじっていたのです。

    前にちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、
    軍人の御嬢さん、
    まだ復員してこない軍人の奥さん、
    家を焼かれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。

    その30人の人たちは、もちろん、ちゃんと着物を与えられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。

    しかしその上に、何をもらわなくちゃならなかったか、その人たちは、翌日から知ったわけでした。



    8月28日には、アメリカ軍が、厚木基地に進駐してきました。

    何という早さなのでしょう。
    もうその晩には、新装をこらし、灯りをあかあかとつけたお店の前に、組み立ておもちゃみたいな自動車が停まりました。
    そこから5人の兵隊が、何かお互いにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。

    それがはじめてのお客でした。

    その人たちは、缶詰のビールを持ち、めいめい腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で、
    「ここに御嬢さんたちがいると聞いてきたが」といって、カードを通訳のひとに見せました。

    それには、お店の地図が書いてありました。
    いつの間にかRAAの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。
    主人はよろこんで、この5人の「口切り」のお客様をもてなそうとしました。
    この人たちは、靴のまま上がろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上がると広間でおとなしく持参のビールを飲みはじめました。

    広間で特別に招いた大森芸者の手踊りを見せました。
    けれど彼らはそんなものはさっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんはどこにいるのだと聞き、料理をはこぶ私たちを抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで押し倒して裾に手をいれようとしたりする兵隊もありました。(和服がめずらしかったのでしょう)

    それで私たちは、ご主人に言って、5人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。
    なにしろ、素人の娘さんたちですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。
    それをまるで赤ん坊でも抱くように、ひざの上に抱き上げて、ほおずりしたり、毛だらけの大きな手で
    「かわいい」とでも言っているのでしょう、何か言いながら、あちこち体を撫で回したりしているのを見て、私は急いで障子を閉めました。

    廊下で聞いていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。
    泣き声は女で、わめき声は男です。
    おそらく何か月もの間、殺伐な戦場で、女の肌に一度も触れないできたのでしょう。
    その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。
    物音や、声を聞いていると、女の私でさえ、変な気持ちになりました。
    もう何年もそういうことからは遠ざかっていた私ですから。

    そして、ああ、やっぱり、日本は負けたのだと、日本の娘がアメリカの兵に犯されている物音を廊下で聞きながら、はじめてそのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙が出てきました。

    5人のアメリカ兵は、その夜、12時頃までいて帰りました。
    私はタバコを1箱、チップにもらいました。
    部屋へ行ってみると、部屋中にアメリカ人の体の匂いが甘酸っぱく漂い、そのなかでRAAの娘さんが顔をおおっていました。
    素顔で体中汗でひかり、いかにも苦しそうに息をはいていました。

    聞いてみましたが、恥ずかしがって何も言いません。
    しかし、皆の話を総合してみると、彼らは思ったよりずっと親切だったそうですが、何しろ体が大きいし、はげしいので、みんなくたくたにされてしまったようでした。

    その5人の兵隊たちが満足したのも無理はありません。
    彼らは幸せだったのです。処女もその中にひとりいましたし、そうでないのも、ながい間、そううことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。
    だから、女の人も疲れてしまったのです。



    しかし、そんなのんきなのは、この晩だけでした。
    この5人は、嵐の前触れのようなものだったのです。

    翌日は、昼間から、ウワサを聞いた彼らが続々とやってきました。
    大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。
    土足でずかずか上り込み、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで追い回したりします。

    10日ほど経ったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。
    ほかにも、ポツポツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私たちからみたら、なんだか東京中の進駐軍が、みんな私たちのところへやってくる気がしました。

    ジープが前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとからあとから、兵隊たちはやってきました。
    はじめてやってきた30人の女のうち、ふたりは、最初の晩にどこかへ逃げて行きました。

    残った娘さんたちがお客をお迎えしていたのですけれど、部屋が足りません。
    まるで体格検査場みたいに広間を屏風(びょうぶ)で仕切って、そこに床を敷いて待たせ、一部屋になっているところも、兵隊たちが障子をこわしてしまったので、開けっ放しでした。
    女たちはそれを嫌がりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって面白がって口笛を吹いたり、声をかけたりして楽しんでいました。

    ひとりの男が中にはいると、あとの列が、ひとつづつ前へ進みます。
    まるで配給の順番でも待っているようでした。
    その列が廊下にあふれ、玄関に延び、ときには表の通りまで続くときもありました。

    私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間をかけまわって、用をたしました。
    気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるかわからなかったのです。
    接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、私もしまいには神経が太くなってしまって、接吻なぞ、何度もされました。
    なにしろ、右を向いても左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。

    ひどい目にあったのは、募集で集まってきた女の人でしょう。
    みんな素人の娘さんたちなのです。
    はじめての日に処女をやぶられて、一晩にひとりの男の相手をするだけでも、心が潰れるほどのことだったでしょうに、毎日、昼となく夜となく、一日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。

    素人の女ですから、要領というものを知りません。
    はげしく扱われれば、正直に女の哀しさを見せてしまいます。
    それではたまったものではありません。

    たちまち別人のようになって、食事もろくにとれず、腰の抜けた病人のようになってしまう人が多かったのです。
    どうしてこんなアシュラのようなところから、みんな逃げ出さなかったのか不思議に思うのですが、逃げようにも逃げる気力さえなくなっていたのかもしれません。
    どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。
    それを聞いていると、日本の女が、戦勝国の兵隊の蹂躙にまかせられているという気がしみじみとしました。

    それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの縮図でした。見本でした。

    私たち女中のなかからも犠牲者が出ました。
    よっちゃんという19の子は、布団部屋にはいったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかでイヤがるのを無理に輪姦されて、
    「お姉さん、あたし・・・」
    と私に泣きついてきました。

    傷口を洗ってやりましたが、裂傷を負っていました。
    「わたし、好きな人がいたの。こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!」
    そういって、翌日から慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。

    しかしこの子は、もともとそういうことが好きだったらしく、それに外人の体がめずからしく良かったのでしょう。
    復讐どころではなく、何人のお客を迎えても、鼻歌交じりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。

    一日に60人のお客をとったという女が表れたのも、その頃の話です。
    そのときは、ペイディ(ねず注:給料日)で、朝から横になったきりで、食事も寝ながらとるという調子だったそうです。
    その女性は、もうそれっきり立てなくなって、病院に送られましたが、すぐ死にました。
    精根を使い果たしたのだと思います。



    そんな毎日が続いても、お客はあとから、あとから増えるばかりで、混乱におちいってしまいました。
    女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも使い物にならなくなれば困ります。

    ご主人は、銀座のRAAに応援を求めました。
    RAAの方では、はじめの失敗に懲りて、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を、補充に30人ほどこっちへ送り込んできました。
    そしてRAAのほうに応募してくる素人の娘さんは、いったん吉原などへ送り、そこで泣いたりわめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。

    こんど来た人たちは、何といっても、そういうことには慣れている人たちですから、一晩に10人や20人のお客をとるのは平気です。

    「それでもねぇ、やっぱりなんだかヘンよ。体が違うでしょ? それに言葉は通じないし、おまけに向こうでは、女のご機嫌をとろうと思って、いろんなことをしてくるでしょ? こっちはなまじっか、そんなことされないで、早く切り上げてくれた方がいいと思うんだけど・・」
    などと、くわえタバコで、私たちに、そんなことを打ち明ける人もいるほど、なれていました。

    この人たちが来てからは、だいぶうまくいくようになり、兵隊同士のケンカや、女中の犠牲者たちも少なくなりました。

    はじめにきた30人の女の人は、その2~3か月の間に、病気になったり、気が違ったりして、半分ほどになっていました。
    しかしその半分の人も、現在ではきっとひとりも、この世に残っていないと思います。
    それほどひどかったのです。

    まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまる人たちでした。
    とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い、何も知らない娘さんたちがやったのです。
    そしてボロ布のようになって死んでいったのです。

    そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。
    お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林と続いて開業しましたので、うちへ入るお客も、自然少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。

    でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがっていくのが、私たちにもわかりました。
    若いお嬢さん風の女の人が、玄関にはいってきて、主人に「働かせてください」と頼むことがありました。
    理由を聞いてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家に帰れないから、というのでした。

    自分から、アメリカ兵に媚を売る女になっていく人も、何人かありました。
    今思うと、こうしてあの頃、東京中にパンパンなるものが生まれつつあったのですね。

    私はそれから何か月か経って、とうとうアメリカ兵のひとりに犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。

    *********


    体験談は以上です。

    昭和20(1945)年8月15日の終戦の後、RAAという組織が日本におかれました。
    進駐軍を迎えるにあたって、時の東久邇(ひがしくに)内閣が、当時のお金で一億円という巨費を投じて、昭和20(1945)年8月22日に設置した組織です。

    RAAというのは、「Recreation and Amusement Association」の略です。
    直訳すれば「レクリエーションとお楽しみ協会」です。
    現実には、日本国内におかれた国営特殊慰安婦施設です。
    ここで慰安婦は「Serving Ladies(奉仕する淑女)」と呼ばれました。
    施設名は、そのものズバリで、「Sex House」と英訳されました。

    第一号店が開設されたのは、マッカーサーが厚木飛行場に降り立った日より2日早い、昭和20(1945)年8月28日のことです。
    指定されたのは東京・品川の大森海岸の駅前の老舗料理屋であった「小町園」です。

    RAA(特殊施設協会)は、日本が進駐軍を迎えるのにあたって、日本人の一般の女性たちが性の被害に遭うことをおそれて、設置した施設でした。
    悲しいことですが「善良で清純な婦女子を守るために」やむをえない措置だったのです。

    昨年6月に、米国のメアリー・ルイーズ・ロバーツ(Mary Louise Roberts)教授(歴史学)が米仏で膨大な量の第2次大戦中の資料を研究してまとめた著作「What Soldiers Do: Sex and the American GI in World War II France(兵士らは何をしたのか:第2次世界大戦中のフランスにおける性と米兵」が出版されました。

    そこには、第二次世界大戦で南フランスのノルマンディに上陸した米兵たちが、そのノルマンディで強姦の限りをつくしたこと、当時の米誌「LIFE」がフランスを
    「快楽主義者4000万人が住む巨大な売春宿」
    と表現していたことなどが記されています。
    残念なことですが、これが現実です。

    昨今、日本のかつての軍の駐屯地付近で商売をしていた慰安婦のことが話題になります。
    はっきりといえることは、日本軍ほど、女性を大切にした軍はない、ということです。
    世界中どこの国でも戦勝した軍は、その地元の女性たちをまるで戦利品のように蹂躙しました。

    それどころか、ChinaやKoreaでは、兵になるということは、その地域、つまり「味方のいる地域の一般住民から収奪し、女とみれば強姦する権利を与えられる」ということでした。
    勝てば占領地の、どころか、武器を持たない弱い者が、まず蹂躙されたのです。
    そして古来大陸における戦争は、民族間の戦いの後、むしろ強姦によって民族の血を交わらせ、混血児をつくることが、次の戦争を防ぐために必要なこととさえ考えられていました。
    他民族を、自民族に変え、後の世の戦乱を防ぐために必要な行動とされていたのです。

    ところが日本の軍は、武士の時代から兵は、決して現地の女性たちに手を出しません。
    たまたま日本の軍の兵士が現地の女性と仲良くなり、当事者同士は本気の相思相愛で、互いに合意の上での体の関係であったとしても、結婚もしてなのにそうした関係をもてば、それは即、男性である日本兵側の「強姦事件」として厳罰に処せられました。
    しかも、そのような性の問題で軍を追われれば、郷里に帰った時、親戚一同の恥さらしです。
    親族全員が大迷惑です。

    たとえば大震災が起きます。
    被災地に軍が送られます。
    現代世界では、治安が良くなり、軍も兵も地域住民を守ることが使命と考えられるようになりましたが、ほんの近代までは、大陸では「軍がやってくる」ということは、震災後にかろうじて残ったなけなしの財産を強奪され、地元女性が強姦されるということを意味したのです。
    力さえあれば、欲しいものはなんでも手に入るという欲心の行き着く先が、そういう現実でした。

    ところが日本では、すくなくとも有史以来、多少の例外はあるものの、軍は規律正しいものという伝統があります。
    おそらく世界の歴史で、ここまで規律正しい軍は、日本だけです。
    なぜそうなったのかという答は簡単です。
    日本では、たとえいまは敵味方であっても、どちらも天子様の大御宝だからです。

    さて、都内に設置された小町園のような施設は、3カ所ありました。
    そして同様の施設は、全国に置かれました。
    そのために政府は、日本全国の都道府県に「外国駐屯慰安施設等整備要項」を出し、公娼、私娼、芸妓を中心に、慰安婦を集めました。
    それでも数が足りず、昭和20年の9月下旬には、全国紙に慰安婦の募集記事がRAAによって掲載されています。

    そこにはこう書いてあります。
    ~~~~~~~~~~
    女子事務員募集
    年齢18~25歳まで
    宿舎、被服、食糧支給
    ~~~~~~~~~~

    戦後の焼け野原で、住むところも食料も衣服さえも替えがなかった時代です。
    しかも、優秀な適齢期の男たちは、みんな戦地に行き、そこで多くが戦死し、抑留されました。
    この結果、終戦直後の日本国内の適齢期の男女比率は、男1に対して女5の割合だったのだそうです。

    加えて、国内経済は壊滅状態です。
    就職のあてなどありません。
    敗戦後二年間の失業者は600万人です。
    女性に限っていえば、まったく就職のあてなどありません。

    本文にある小町園では、三井銀行の事務員をしていた娘さん(処女だったといわれている)が、はじめての客に黒人兵をとり、気が変になって、その日のうちに京浜急行の電車に飛びこんで亡くなっています。

    横浜に設置された山下町の「互楽荘」では80人ほどの女性が集められ、小町園から4日遅れの9月1日に開業していますが、どこでどう話を聴きつけてきたのか、開業の前日に百人を超える米兵がカービン銃を突きつけて押し込み、そこにいた14人の女たちを蹂躙しました。
    翌朝、泥靴の跡も生々しい女たちが、虫の息で転がっていました。

    さらに「互楽荘」では、開業二日目、黒人兵からひどい目に遭わされたことのある女性が、別の黒人兵に嫌悪感をあらわにして相手をするのを嫌がり、それを無理やり犯そうとしたために女性が逃げ出しました。
    怒った黒人兵がそれを追い、首を絞めて殺しています。
    この事件では、MP(米軍の憲兵)が駆けつけ、逃げようとしたその黒人兵を射殺しました。

    この結果、横浜の「互楽荘」は、その日のうちに閉鎖になっています。
    世界の軍隊の中では、まだマシなほうと言われている米軍でさえ、これなのです。

    これが悪名高い中共の人民解放軍だとどうなるか。
    チベットを見ればわかります。
    チベットは、2千年の歴史のある国です。
    そこに中共軍が、チベットはChinaの固有の領土であると一方的に宣言して進駐しました。
    その結果、4500あった寺院は破壊し尽くされました。
    今ではたったの45しか残っていません。
    15万人いた僧侶は、今はたったの1400人、
    一般市民で虐殺された者は128万人です。
    国民の4人に一人が殺されました。

    チベットは敬虔な仏教国ですが、僧侶は異性との交合は禁止されていました。
    やってきた人民解放軍は、尼僧を犯し、男性の僧侶にも、尼僧への強姦を強要しました。
    男性の僧侶がこれを拒むと、手足を切り落とし、
    「信仰の力で、これをくっつけてみろ」と言って、ゲラゲラと笑ったそうです。

    そのチベットは、いまでは子供たちの教育の機会さえ奪われて、いまやチベットの文盲率は男子で60%、女子で82%です。
    これは現在進行中の話です。

    本稿で、日本政府がRAAを用意したことに嫌悪感を持たれる方も多いかと思います。
    けれど当時の政府は、より多くの国民を守るために、そういう選択をせざるを得なかったのだということを、書き添えておきます。

    つまり慰安施設を、ちゃんと用意しておかなければ、一般の婦女子が犠牲になるのです。
    それを防ぐために、慰安所を設けたのです。
    もし、政府がそれをしなければ、上に書いたような悲劇は、単にその施設内のできごとというのではなく、一般の日本人女性がどれだけの被害を受けたことか。

    日本よりすこし前に占領されたベルリンでは、街の女性が少女から老婆まで、なんと女性の8割が強姦されています。
    そういう事態を防ぐために、苦汁の選択をしたのだ、そうやってひとりでも多くの日本の婦女子を守ろうとした人たちがいたのだ、そのおかげで、日本が7年間もの占領統治を受けながら、日本人として純潔をいまだに保つことができているのだ、ということに、私たちは、あらためて思いをいたし、感謝しなければならないと思います。

    また終戦という混乱の時期にあって、国内においてさえ「小町園」のような悲劇が起こった、だから「戦争がいけないんだ」というのも、議論の飛躍です。
    なぜなら、敗戦によって占領を受けた国は、戦後70年経った今でも、「小町園の悲劇」がいまだに延々と継続しているのだ、という、この事実を見落としてはならないからです。
    先ほど述べたチベットしかり、ウイグルしかり、です。

    日本は、有色人種として植民地奴隷になる道を選ばず、自存独立のために明治以降、必死になって国を支えてきました。
    おかげで日本は、植民地にならず、日本人は奴隷にならずに済みました。
    なんの抵抗もしないで奴隷になる道を選んだのなら、いまのアジア諸国も、アフリカ諸国も、いまだ植民地のままです。
    日本人も、その他の東洋人も、生まれたその日から死ぬ日まで、一生、男はタダ働き、女は操を無視され、私有財産もプライバシーも自由もない生涯を、何百年も過ごさなければならなかったのです。

    いま、沖縄を中共にくれてやろう、などという不埒なたくらみをする連中がいます。
    いうまでもなく、反日左翼の連中です。

    選挙になると、わざわざ住民票を1000人単位で移してまで、インチキ選挙を繰り広げ、沖縄を中共に売る工作をしています。
    同時に、彼らは反日を扇動し、あおっています。

    けれど、彼らは沖縄が日本でなくなったとき、沖縄県民が受けるであろう悲劇をちゃんとわかっているのでしょうか。

    日本を外に売り渡そうなどと、ろくでもないことを考える前に、いかにして日本が往年の姿を取り戻し、住みよい日本になるかをちゃんと考えるのが、筋というものです。

    また、日本国内におけるRAAで働いた女性ですが、朝鮮半島における売春婦(慰安婦)とは決定的に異なる点が2つあります。

    日本国内のRAAは、政府の外郭団体です。
    いわば政府の機構でした。
    これに対し、朝鮮半島における慰安所施設は、Koreanの女衒が、日本軍の駐屯基地の周辺で勝手に始めた商売であったということが、まずひとつ。

    それと二つ目には、RAAの慰安婦女性たちは、宿舎、被服、食糧が支給されたただけで、給料は普通の女子事務員とほとんど変わりがありません。
    これは当時の日本政府にお金がなかったことも一因で、このため、米軍の進駐後に誕生した街の街娼(パンパン)の方が、はるかに稼ぎが良いということから、RAA職員よりもパンパンとなることを選ぶ女性が増え、この結果、RAA施設はその後、自然消滅的になくなってしまいました。

    これに対し、朝鮮半島の慰安婦たちは、日本の兵隊さんたちの月給の数十倍の給料を稼ぎ、当該女性のみならず、その女性の親戚一同までが生活状況を一変させるという状況にありました。
    また、慰安所において、小町園や互楽荘で起こったような暴力事件や死亡者が発生するということもまったく、ただの一件もなかったのです。
    このことは、事実として、歴史に止めておくべきことであろうと思います。


    もうひとつ。
    小町園での悲劇をご紹介しましたが、最初は東京銀座の三越が慰安所に充てられる予定だったという事実です。
    三越は、断固これを拒否しました。
    断った理由は、江戸時代から続く老舗の伝統を踏みにじられてなるものか、という三越の「誇り」です。
    おかげで三越は慰安所にならずに済みました。
    もし、このとき三越が、政府の要求をのんでいたら、いまごろ三越はどうなっていたでしょう。

    たとえどんな相手でも、横暴な要求は断固拒否する。
    その「誇り」と「矜持」があったおかげで、三越は、いまや世界の三越に成長しています。
    このことは、成長し未来を切り拓く力は、「常に誇りと矜持から生まれる」ということを明確に示しています。

    思えば、黒船来航以来の日本を守ったのも志士たちの「誇り」でした。
    日清、日露、大東亜戦争を戦ったのも、日本人の「誇り」でした。
    そして戦後の奇跡的とさえいえる驚異の戦後復興を成し遂げたのも、私達日本人の「誇り」でした。

    いま不況に沈む日本が失っているもの。
    それは、日本人としての「誇り」なのではないでしょうか。
    逆にいえば、日本がこれから未来に向けて成長し、発展し、より豊かな生活を取り戻すのに必要なこと。
    それこそまさに「日本人の誇り」です。

    そして「誇りを持つ」ということは、何も威張ったり、ふんぞり返ったり、他を蹂躙したりすることではない。
    日本人は、ごくごく普通に振る舞っていれば、それだけで「凄い」民族です。
    なぜなら、それだけの実績を、私たちの先人が築き上げてきてくれたからです。
    私たちいまを生きる日本人は、そのことにもういちど「感謝」の心を取り戻すべきだと、私は思います。


    ※この小町園の悲劇について書くのは、2011年3月以降、これが9回目になります。
    忘れてはならないことだと思い、毎年この時期に再掲させていただいています。
    戦時中だけでなく、戦後に犠牲になった女性たちも、実はたくさんいます。
    その方々のご冥福をお祈りするとともに、日本が二度とこうした悲劇に遭わないように努力し続けること。
    それが私たちに課せられた先人達への最大の感謝であろうと思います。
    あらためてご冥福をお祈りします。

    それともうひとつ。
    たいせつなことは、コトの正邪ではありません。
    こうした過去の歴史を、わたしたちがいかにそこから学び、現在に活かし、未来を築く礎にするかということです。
    二度と悲劇はくり返してはならない。
    そのために、日本は、強くあらねばならないと思います。


    最後に一点、たいせつなことを記します。

    よく誤解されていることですが、昔の西洋において、戦勝国の兵士たちにとっての強姦は、単に彼らの欲望のはけ口だったわけではありません。
    ベルリンを陥落させたソ連兵は、ベルリン中の女性の8割を強姦したというのは有名な話ですが、戦争において、強姦は、実は義務だったのです。
    褒美でも権利でもありません。

    国として、民族として、兵士をつかって強姦をするのです。
    昔の植民地時代には、兵士に「今日は何人レイプせよ」と、ノルマさえあったといいます。
    なぜかというと、そもそも民族と民族が敵対して戦争が起きているわけです。
    互いに血が混じれば、二度と戦争がおこらない。
    だから男は殺し、女は犯して孕(はら)ませて、混血児を生ませるのです。
    それが人類史における戦争の常識です。

    大東亜戦争が終結したとき、わたしたち日本は、そういう文化をもった国を国土に受け入れることになったわけです。
    そしてそのことを、戦前戦中の日本の施政者たちは知っていたからこそ、小町園のような施設を用意しました。
    それはまさに苦渋の選択であったのです。


    お読みいただき、ありがとうございました。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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