• 日本初のコンタクトレンズ 水谷豊博士


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    授かるためには、この瞬間にどこまでも誠実であろうとする姿勢こそが求められる・・というのが古事記の教えです。
    ここは水谷博士の誠実とともに、私達がいまを生きるうえにおいても大切な事柄だと思います。
    そこから外れると天罰を受けます。

    20190921 水谷豊博士
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    小名木善行です。

    コンタクトレンズをお使いの方は多いと思いますが、実はコンタクトの歴史はけっこう古くて、記録にあるのは1801年、日本では江戸の中期で、ちょうど高田屋嘉兵衛が択捉島(えとろふとう)の開拓をした頃、英国の物理学者トマス・ヤングがコンタクトレンズの実験を行っています。

    トマス・ヤングといえば、弾性体力学の基本定数ヤング率を発見したり、エネルギー (energy) という物理用語を最初に用いてその概念を導入、あるいはピアノの調律法のヤング音律を考案したり、エジプトの象形文字の解読なども手がけたりたりした、ひとことでいえば、まさに天才と呼べる人です。

    名称のコンタクトの方は、少し遅れて、ドイツの生理学者のフィックの甥が名付けた「Kontaktbrille」からきています。
    そしてそのフィックが、明治20(1887)年に、ガラス製のコンタクトレンズを作成しています。

    もっともこのころのコンタクトは、まだ度はありません。
    度がつけられるようになったのは、昭和11(1937)年ですから、ほんの最近のことです。

    日本では、昭和24(1949)年に、名古屋大学病院の水谷豊博士が、日本初の臨床実験を行っています。
    水谷豊博士というのは、愛知県名古屋市出身の方で、生まれは大正2(1913)年です。
    もともと眼科医の家庭に生まれ育ったのですが、三男の末っ子だったため、後に水谷家の養子となりました。

    幼いころからとても勉強好きな子で、40度の熱があっても、教科書を話さなかったといいます。
    そして地元の旧制第八高等学校を経て、名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)を卒業し、大学の付属病院の眼科医になりました.

    さて、昭和24(1949)年、まだ戦後の焼け野原からようやく復興の兆しが見え始めたくらいの頃、この年の11月に、水谷医師のもとに、ひとりの高校生とその母親が訪れました。
    高校生を診察してみると、右眼、左眼ともに視力は0.1に満たない。
    病名は「円錐角膜」と診断されました。

    「円錐角膜」は、眼球の角膜の中心部が円錐状に突起してしまう病気で、物が変型して見えたり、二重に見えたり、眩しく見えたりする病気です。
    人種によらず1万人に1人くらいの発症率の病気です。
    この病気は、角膜そのものの異常ですから、通常の近視と違って、メガネでは矯正できません。

    水谷医師は、処方に困ったのだけれど、「成績も落ち、神経質になっている。家庭も暗くなっている。」という親子の悲痛な訴えに、ドイツの医学書に、ガラス製のコンタクトレンズで円錐角膜の患者の視力が矯正できたという記事があったことを思い出します。
    そして「似た物を作ってみましょう」と返答をしたのです。

    水谷博士は、コンタクトレンズの材料として、当時出回り始めていたプラスチックを使うことを思い付きました。
    プラスチックならガラスのように割れることもなく安全性が高いからです。

    ちょうどこの頃、アメリカでプラスチック製のコンタクトレンズが作られ始めていたのだけれど、戦争直後でまだ占領下にあった時代です。
    そんな情報は水谷医師のもとには届きません。

    水谷医師は、知り合いの歯医者に相談して、プラスチック製の義歯を作る技術を教えてもらいました。
    これは、型を取ってプラスチックを成形する技術です。
    そして毎日の勤務を終えた後、自宅の台所で100度近い熱湯を使ってプラスチックを成形し、レンズを切り出す作業に悪戦苦闘します。

    この時代、戦災で目をやられた人は多く、眼科医にかかる患者の数もものすごく多かった。
    しかも、眼科医といえば、極度に神経を使う仕事です。
    通常の勤務だけでも、そうとう疲れるものです。

    それを水谷医師は、たったひとりの高校生の患者のために、夜な夜な睡眠時間を削って、コンタクトレンズの試作をし続けたのです。

    36歳の医師とはいえ、終戦直後の決して栄養状態の良くない時期のことです。
    毎日大学病院を訪れるたくさんの患者を相手にしながら、たった一人の患者のために睡眠時間を削ってする日々は、大学病院側からすれば、決して望ましい姿とはいえません。

    水谷医師は、大学病院を辞めて眼科医を開業し、日中、患者の手当をしながら、それでも毎夜、コンタクトレンズの作成に心血を注ぎました。
    そして1年半が経った昭和26(1951)年の春、ようやくコンタクトレンズが完成したのです。

    水谷医師は、軽い麻酔をかけながら、患者の高校生に約束通りコンタクトレンズを装着させました。
    矯正された視力は、なんと右眼0.9、左眼0.4という驚きの結果となりました。
    患者が視力検査表を暗記しているのではないかと疑ったほどだったそうです。
    これが、日本で最初にコンタクトレンズが完成した瞬間でした。

    コンタクトレンズの最初の使用者となったこの高校生は、後に公務員となって無事に暮らし、後年、テレビ番組「トリビアの泉」に出演した際に、「目の前が明るくなり、感動した」とコメントしています。

    その後、水谷医師は、昭和33(1958)年に、兄の加藤春雄と組んで、コンタクトレンズメーカーである「合名会社日本コンタクトレンズ研究所(株式会社日本コンタクトレンズ、略称:ニチコン)」を創業しました。
    そして以後、コンタクトレンズの普及に努めるとともに、酸素透過性レンズや角膜疾患用レンズの開発などの改良を進め、コンタクトレンズの発展に貢献しました。

    水谷豊博士は、昭和50(1975)年には、日本医師会最高優功賞を受賞、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれるようになり、平成3(1991)年、78歳で永眠されました。

    いま、たくさんの方が、コンタクトレンズのお世話になっていますが、そのコンタクトレンズには、たったひとりの高校生のために、夜な夜な心血を注いで戦った、ひとりの青年医師の心の戦いがありました。

    どんな成功も、はじめの一歩は必ず
    「誰かのために」
    から始まります。
    それ以外にも「論点ずらし」をはじめの一歩にした国や民族もありますが、千里の道も、はじめの一歩の踏み出す方向が、ほんのすこしでもズレていたら、千里先には大きな過ちが待っているものです。
    だからこそ、はじめの一歩は、「誰かのために」という誠意と努力から始めなければならないし、「誰かのために」であるから、その先に成功があるのだと思います。

    そして成功のために、かならず付いて回るのが、その前にある苦労です。
    そしてその苦労が追い詰められたものであればあるほど、あきらめずに頑張り抜いた先に、大きな成功があります。
    なぜ成功するのかといえば、その苦労が誰かひとりのために役立とうという誠実と誠意に基づくからです。
    誰かひとりに役立つものであるならば、それが千人にひとり、万人にひとりに対して役立つものでしかなかったとしても、いずれは必ず多くの人々に受け入れられ、役立っていくことができるのです。

    どこまでも誠意誠実をつらぬくこと。
    それが嘘偽りのない正しい選択であれば、必ず神仏はみていてくださる。
    そんな昔から言われていることを、水谷博士のコンタクトレンズはあらためて教えてくれています。

    一方、たいへん残念なことに、水谷博士が創業した株式会社日本コンタクトレンズは、2016年に倒産してしまいました。
    その後、民事再生の手続きを取りましたが、結局昨年(2018年)5月に破産に至りました。
    原因は、使い捨てタイプのコンタクトレンズの普及に出遅れてシェアを失ったことによるといわれていますが、それは表層的な見方ではないかと思います。

    水谷博士の行った誠意誠実は、どこまでもひとりのために役立とう、困っている人をなんとかしようということにありました。
    それが企業化していき、コンタクトレンズの市場の広がりとともに業容が拡大し、いつのまにか売上が目的となり、誠意誠実が、個々の社員のなかにはあっても、企業としてはやや失われていった。
    もっと人々に役立つためには。
    もっと利用者に喜ばれるためには。
    もっと顧客に安心して利用していただくためには。
    そういった、企業としての原点を失った(関係者の方、ごめんなさい)ところに、失敗の本質があったのではなかったかという気がします。

    過去の栄光にしがみついても、結果が出ることはありません。
    未来の夢ばかりを追っても、良い結果は生みません。
    いま、この瞬間に、どれだけ誠意をこめて、多くの人によろこばれる仕事をするのか。

    知恵も知識も神々からの授かりものです。
    授かるためには、この瞬間にどこまでも誠実であろうとする姿勢こそが求められる・・というのが古事記の教えです。
    ここは水谷博士の誠実とともに、私達がいまを生きるうえにおいても大切な事柄だと思います。
    そこから外れると天罰を受けます。
    水谷博士と、その後のコンタクト社は、そのことを教えてくれているのではないでしょうか。

    ※参考:日本で最初のコンタクトレンズの話
    http://www.nipponcl.co.jp/comp/co03.html


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    20190922 水戸光圀
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    水戸黄門様は、本名が徳川光圀(みつくに)で、徳川御三家のひとつである水戸藩の第二代藩主です。
    水戸光圀で有名なのが「大日本史」の編纂の開始です。
    水戸藩では、この事業が藩の事業となり、藩の思想を形成し、これがために水戸藩は幕末動乱の先駆けになりました。
    なぜ、「大日本史」が幕末動乱の先駆けとなったかといえば、「大日本史」を形成する根本思想が「尊王思想」に基づいていたからです。

    水戸光圀といえば、天下の副将軍さえも勤めた人であり、徳川幕府の開祖であり東照宮として神としてまで祀られている徳川家康の孫です。
    まさに徳川家直系、将軍直下の人物です。
    天下の副将軍であり、徳川御三家の一角をなす水戸徳川家の藩主でもあります。
    そして彼が生きた時代は、まさに徳川全盛の世を築こうという時代です。

    そのような時代に生きながら、なぜ光圀は、将軍ではなく、天皇の歴史を中核とした「大日本史」を編纂したのか。
    さらには、どうして水戸に藩を持ったのか。

    徳川幕府の威信は、単に徳川家の武力や財力によるものではないからです。
    幕府というのは、朝廷の出先機関であり、将軍職も天皇から与えられるものです。
    つまり将軍は天皇の部下です。
    つまり幕府の将軍という地位と、その地位がもたらす権力は、天皇の権威によって授けられたものです。

    そしてわが国は、天下万民も領土も、そのすべては天皇が所有者です。
    これを天皇の大御宝(おほみたから)と言います。
    幕府は、その大御宝を守る立場にあります。
    すなわち「民こそ大事」です。

    水戸徳川家が、「大日本史」の編纂を通じてこのことを明らかにしていくことは、徳川の治政を固め、定着させ、さらに国を富ませ、諸国を靖んじる最大かつ最良の道です。
    「大日本史」が「儒学」に基づくという人がいます。残念ながら違います。
    なるほど「大日本史」は、「儒学」の影響は受けていますが、上下関係の大切さや学問することの大切さを学ぶために儒学を借りているだけで、そこにある根本思想は「神道」にあります。

    そしてそうした日本の歴史を明らかにしていくために、光圀が選んだ場所が水戸でした。
    いまは茨城県になっています。
    なぜ茨城なのか。
    理由があります。
    茨城県の日立が、当時は高天原のあった場所とされていたのです。

    このことは、後になって、超長期の気象状況の変化から、高天原の所在地は時代とともに北に行ったり南に下ったりと、様々に位置を変えていることが明らかになるのですが、光圀が行きた時代には日立から水戸にかけての地域がかつての高天原であったとされたのです。

    さて、こうした神道に基づく光圀のもとには、全国からいわゆる「高僧」がたくさん尋ねてきました。
    神道に基づく「大日本史」の編纂は、ある意味、仏教界にとっては脅威でもあったからです。

    光圀は、宗旨宗派に関わらず、諌言にやってくるいわゆる名僧、高僧と呼ばれる人たちに、毎回、必ず会い、教えを乞いました。
    時間を割いて会い、彼らの説く道について、謙虚に教えを受けました。

    ところが光圀は、高僧たちの話にはしっかりと耳を傾けるのだけれど、「大日本史」編纂事業は、まったく辞めよとしません。
    徳川の政策が、それによって万一仏教排斥に向かったら一大事です。
    なにせかつて権勢をふるった仏教界は、秀吉から家康の時代に、武力を奪われたばかりなのです。

    危機感を覚えた仏教界からは、全国でも名だたる名僧たちが続々と光圀のもとに派遣されました。
    こうして水戸の城下に天下の高僧たちが大集合したとき、光圀は高僧たちを全員、城内に招きました。
    そして彼らとしばし歓談したのち、
    「日頃より貴僧方より
     素晴らしいお話を
     伺わせていただいています。
     今日はそのお返しに
     珍しいものを
     ご覧にいれたいと思う」
    と言って、庭に面した座敷の襖(ふすま)を部下に命じて開けさせました。

    高僧たちが、何が出て来るのかと期待していると、そこには汚い身なりの男が地面に曳き出されていました。
    隣には、刀を持ったお侍(さむらい)が立っています。

    「これは先般、
     当藩で盗みを働いた
     男でござる。
     いまから打ち首に
     いたすところにござる」

    そういうと光圀は、庭に降り、自ら刀を受け取ると、「覚悟は良いか」と囚人に声をかけ、大きく刀を振りかぶりました。
    そして「エイッ」と、刀を囚人の首めがけて振り下ろしました。

    あわや首が刎(は)ねられるとみた瞬間、光圀は、その刀を囚人の首筋一重のところで停めました。
    狙いがうまく定まらなかったのでしょうか。

    再び刀を振りかぶると、囚人の首をめがけて、裂帛(れっぱく)の気合いとともに、振り下ろしました。
    けれど光圀は、また刀を首筋のところで停めてしまいます。

    三度目、またあらためて、刀を振りかぶり、振り降ろしました。
    けれど今度も首筋一枚のところで刀を停めてしまいます。

    どうしたのでしょうか。

    光圀は、刀を隣にいる武士に預けると、静かに
    「この者を釈放してやれ」
    と命じました。
    そして厳しい顔をして座敷にもどってきました。

    光圀は言いました。
    「貴僧らは日頃、
     人の命は重いと解きながら、
     なぜいま黙って
     見ておいでだった?」

    そしてさらに強い口調で続けました。

    「盗みを働いたくらいで、
     人の命を奪おうとする私を、
     なぜ貴僧らは停めようとされなかったのか!」

    部屋にいた高僧たちは、ただ黙ってうなだれるより他なく、そのまま退散する他ありませんでした。
    首を刎(は)ねられそうになった囚人は、死の恐怖を味わい、そして二度と盗みを働かないと約束して放免されました。

    「人の命は重い」・・それは大切な教えです。
    けれどその教えを、身を以て実践していくのが、まさに実学であり、現実の政治というものです。
    そして古来我が国では、天皇に政治権力者を与えられた者たちが、いかに民を靖(やす)んじるかという明確な目的をもって、様々な取組みをしてきました。

    それは机上の学問ではなく、また、口先や頭の中だけの理論ではありません。
    現実の利害の衝突や、現実の治安、現実の対立がある中で、天皇からの預かりものである民衆をいかに靖んじるかという、現実のご政道です。

    仏を大事にする。
    目に見えないものを大切にする。
    それはもちろん大切なことです。
    水戸光圀も、仏教を排斥するどころか、たいへんにこれを保護しました。
    徳川家を興隆させたのも、天海僧正という立派な仏教の高僧がいたからです。

    けれど、それらはいずれも、たとえ権力者の前であっても、どこまでも民を大切にするという根幹の大御心に直結しなければ、何の意味もないのです。
    光圀はそのことを身を以て示したのが、上にご紹介した逸話です。
    これは実話だと言われています。

    テレビドラマの水戸黄門は、フィクションです。
    水戸光圀は、なるほど諸国を旅していますが、助さん角さんと越後の縮緬問屋のご隠居さんを装っての旅はしていません。

    けれど、江戸時代の数多くの演劇、あるいは戦前戦後の映画やドラマなどで、広く黄門様が愛された、それがなぜ水戸のご老公様だったのかといえば、水戸のご老公が、徳川御三家の一角をなす立場にあってなお、我が国本来の国のカタチである「天皇とおおみたから」をどこまでも大切にし、そのことを藩の学問にまで昇華し、さらにはそれを徳川の治政の根幹にしようとしたことによります。

    世界中、どこの国でも、民衆は特定の豪族や権力者の私有民です。
    私有民ということは、私物です。
    私物ですから殺そうが、奪おうが、それは豪族や権力者の勝手です。

    けれど、そうではなくて、民衆こそ国の宝だということを、身を以て実現していく。
    それはある意味、血みどろの戦いです。
    なぜなら世の中には常に、「権力を持てば、人を私物化できる」と勘違いする者が必ず出るからです。

    こうした光圀哲学は、水戸藩の歴史となり、伝統となり、血肉となりました。
    幕末近くに生きた藤田東湖(ふじたとうご)は、その「回天詩」の中で、次のように謳い上げました。

    ========
    苟明大義正人心
    (いみじくも大義を明らかにし人心を正せば)
    皇道奚患不興起
    (皇道なんぞ興起(こうき)せざるを憂えん)
    斯心奮発誓神明
    (この心奮発して神明(しんめい)に 誓う)
    古人云斃而後已
    (古人いう、斃(たお)れて後にやむと)
    ========

    意訳すれば、
    「大義を明らかにし、人心を正し、
     皇道を打ち立てなければ、
     我が国は滅んでしまう。
     ならば自分は、
     自分の心を奮い起こして
     八百万の神々に、
     我が身命を惜しまずと誓う。
     昔の人は『斃(たお)れて後(のち)やむ』と言った。
     自分も斃れるまで皇道を打ち立て、守り抜こう」
    といった意味になります。

    どこまでも皇道を打ち立て護りぬく。
    それが日本の、日本人の根源的な生き様なのであろうと思います。
    水戸光圀の精神は、こうして水戸藩に息づき、そして幕末動乱期の精神的支柱となっていったのです。

    私たち日本人は、いまあらためて、ご皇室のありがたさへの感謝の心を呼び覚ますべきだと思います。
    それは戦いのためとか、右傾化とか、そのようなものとはまったく異なります。
    人々が私有物や私有民とされない国、そういう国を、私たちの祖先は、守り、育み、育て、私たち後生の人に遺してくださっている。

    私たちは、そのたいせつな日本の姿を、やはり後生に遺す使命を担っていると思います。


    ※この記事は2013年9月の記事のリニューアルです。
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    モンゴロイドという言葉は、18世紀のドイツの人類学者のヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)が考案したものです。
    彼はコーカサス(黒海とカスピ海にはさまれた平原)出身の白い肌を持つコーカソイド(白人種)が、最も美しくてすべての人類の基本形であるとしました。
    そして他の人種はコーカソイドが「退化した」ヒトモドキにすぎないとし、なかでもモンゴロイドは、13世紀にモンゴルの大軍がモンゴル平原からヨーロッパに攻め込んできたから、モンゴルのゴビ砂漠のあたりを根城にする人々という意味でネーミングしています。
    つまりモンゴロイド説は、実は人類の始祖とか万年の昔とは何の関係もない名称です。

    20180917 大昔の海岸線

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    我々日本人が「モンゴロイド」であるという言い方には、非常に抵抗があります。
    なぜなら「モンゴロイド」という言葉は、18世紀のドイツの人類学者のヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)が、様々な人種のなかで、コーカサス(黒海とカスピ海にはさまれた平原)出身の白い肌を持つコーカソイド(白人種)こそが、最も美しくて、すべての人類の基本形であって、他の人種はコーカソイドが「退化した」ヒトモドキにすぎないということを述べるために造った造語だからです。

    このときブルーメンバッハは、世界の人種を古くからの言い伝えにある五色人の分類を模倣して、人種を5種類に分けています。それが、
    ・コーカソイド(白人種)
    ・モンゴロイド(黄色人種)
    ・エチオピカ(黒人種・ニグロイド)
    ・アメリカ―ナ(赤色人種・アメリカインディアン)
    ・マライカ(茶色人種・マレー人)
    で、アメリカーナも、マライカもかなり怪しい分類ですが、とりわけ「モンゴロイド」は、単にモンゴルの大軍がモンゴル平原からヨーロッパに攻め込んできたから付けられた名前にすぎません。

    要するに「モンゴロイド」というのは13〜14世紀の支配者たちのことを言ってるのですから、人類の起源とは何の関係もないものです。

    ところが、どういうわけか日本では、その「モンゴロイド」が黄色人種、なかでも日本人の源流であって、その「モンゴロイド」たち、つまりモンゴル帝國のモンゴル人が、北方が陸続きだった2万年ほど前に日本列島にやってきて、同じく南方から来た海洋族と混血していまの日本人になったと、多くの人が信じ込まされています。

    冗談じゃありません。
    2万年前の地形と、13〜14世紀のモンゴル帝国が一緒くたになっているのですから、これはもう暴論を通り越して、ほとんどお笑い草です。

    日本列島に住む人の歴史は、そのようなものよりも、もっとずっと古いものです。
    島根県の砂原遺跡からは、12万年前の旧石器時代の石器が出土していますし、長野県飯田市の竹佐中原遺跡から発掘調査された800点余りの遺物からは、3万数千年前〜5万年前のものであることが確認されています。
    しかもこのなかには、舟を使わないと往来できない伊豆諸島の神津島でしか産出しない黒曜石が発見されています。
    つまり3万8千年前の日本には、船で神津島まで往来する技術があったということです。

    そして3万年前には、群馬県みどり市の岩宿遺跡から磨製石器が出土しています。
    その日本における磨製石器は、3万年前のものだけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、同年、千葉県の三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。
    その中で、長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、竹佐中原遺跡の石器同様、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

    世界の歴史のなかで、いわゆる神話と呼ばれるものは、おおむね磨製石器の登場と期を一つにするとされます。
    なぜなら、時間のかかる磨製石器をつくるためには、村落共同体における社会的分業が行われなければならず、そのためには順番として、まず村落共同体を維持する物語が必要だからです。
    つまり、自分たちがどこからきて、どのような文化を持つのかは、共同体の維持に欠かせないのです。

    逆にいえば、神話を失うということは、共同体を失うということにつながるということです。
    このことは、神話に限らず、民族の歴史を失ったり、あるいは改ざんされて貶められたりすると、その民族は崩壊していくということを意味します。
    それだけに歴史や神話は、実は私達の生活に欠かせないものだし、国家という共同体を保持するにあたっての重要事なのです。

    さて日本列島の海岸線ですが、4万年前には、海水面がいまよりも80メートルほど低く、おおむね台湾と朝鮮半島を直線で結ぶラインが海岸線となっていました。
    それが2万5千年ほど前になると、海水面がいまより140メートルほど下がり、日本列島は北と南で大陸と陸続きになっています。
    日本海は、おおきな塩水湖となり、朝鮮海峡にはいまの朝鮮半島と日本との間に、わずかばかりの水路で隔てられているだけの状態となります。
    そして台湾は完全に大陸の一部となり、台湾から長崎を結ぶラインが、いわゆる海岸線となっていました。
    トップの図はネットから拾ったものですが、うまくまとまっていると思います。

    1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、縄文遺跡というのは、そのほぼすべてが貝塚を持ちます。
    そこから貝を拾って食べていたということがわかるわけで、人は食べなければ生きていくことができませんから、要するに、大昔の人々は、概ね沿岸沿いに住んでいたであろうということがわかります。
    すくなくとも、ゴビ砂漠の真ん中よりは、沿岸部の方が、人が原始生活を営むには適しています。

    それに寒冷化が進めば、土地の所有なんてないのですから、いまよりももっとずっと南にその多くが生息したであろうということができます。
    ところが温暖化が進むと、それまで住んでいた土地が、海に沈んでしまう。
    人魚じゃあるまいし、人は海中では生活できませんから、当然、陸が後退すれば、それに従って、人々の生活の場も、後退していきます。

    6千年前の最温暖期には、日本列島のいまの平野部はほぼ水没して海の中です。
    北海道さえも、石狩平野は海の中で、北海道が2つに分かれていましたし、九州、四国、中国地区は、いまの山間部が海上に露出しているだけで、ほかは海の底です。

    要するに日本列島には、万年の単位の歴史があるわけで、そうであれば、現代の海岸線だけを見て歴史を考えても、まともな結論は出ないということです。

    ちなみに、モンゴロイドといえば、赤ちゃんの蒙古斑がありますが、日本人の場合、ほぼ100%近く、この蒙古斑が出ます。
    黒人にもありますが、肌全体が黒いので見分けがつきにくい。
    黄色人種では、現代モンゴル人でも8割くらいには蒙古斑が出るのですが、出ない人も2割ほどあります。
    仮にもし蒙古斑が、古代から続く東洋系民族の特徴であるとするならば、もしかすると日本人は、そんな古代の東洋人の特徴を最も多く残す民族であるのかもしれません。

    そういう意味では、モンゴロイドという名前よりも、ジャポノイドとでも名付けたほうが、実態に合っているように思います。


    ※この記事は2018年9月の記事の再掲です。
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    この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。
    公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。
    だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれています。

    20210925 小倉山二尊院
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    小名木善行です。

    藤原忠平の歌を通じて、我が国のカタチを考えてみたいと思います。

    京都嵐山の北側に、大堰川(おおいがわ、桂川ともいう)をはさんで「小倉山(おぐらやま)」があります。
    まるい、まるでおまんじゅうのような形をした山です。
    小倉山は古来紅葉の名所とされる山です。
    『小倉百人一首』という名称は、藤原定家がこの小倉山の山荘で「百人一首」を選歌配列したことに由来しています。

    その百人一首に、藤原忠平(880-949)が詠んだ歌があります。
     小倉山 峰の紅葉葉 心あらば
     いまひとたびの みゆき待たなむ

    (おくらやま みねのもみちは こころあらは
     いまひとたびの みゆきまたなむ)

    この歌を詠んだ藤原忠平は、後に関白太政大臣にまで栄達して藤原家繁栄の基礎をつくり、没後にその徳をたたえられて「貞信公(ていしんこう)」という謚(おくりな)を贈られた偉大な人物です。
    この歌は『拾遺集(1128番)』に掲載されていて、詞書(ことばがき)には次の紹介文があります。

    「宇多上皇が大堰川に遊ばれた際に、
     上皇が見事な小倉山の紅葉に感動して、
     『我が子である、醍醐(だいご)天皇にこの紅葉を見せたい』
     とおっしゃられたことを受け、
     藤原忠平が醍醐天皇に
     そのことを伝えるために詠んだ。」
    (原文)亭子院大井河に御幸ありて行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふにことのよし奏せむと申して。

    解説書のなかには、この歌の解釈として、直接「宇多上皇がお誘いですよ」と伝えるのではなく、むしろ紅葉を擬人化して、「待っていておくれ」と謳い上げているところに興(きょう)があると評しているものがあります。
    つまり「擬人法を使ったところに、この歌の面白さがある」としているわけです。

    しかしそれを言うなら、拾遺集よりもはるかに古い時代に成立した『古事記』のなかに、「因幡の白兎ウサギ」の物語があります。
    そこではウサギが人と会話しています。
    まさに擬人そのものです。
    つまり擬人法はもっとはるかに古い時代から我が国では普通に使われていた表現方法です。
    別に平安時代にはじめて生まれたテクニックではありません。

    実はこういう、ちょっとしたところに、こっそりと反日的な思想を忍ばせるというのが、戦後70年の日本の学会の特徴です。
    おそらくは、そのように書かれた教授も、9世紀から10世紀の半ばにかけて生きた藤原忠平の時代よりもはるか以前から日本文学に擬人法が使われていることくらい、とっくに承知のことであったことでしょう。

    けれど、現代日本の学界では、「日本の古代は平安時代まで」ということになっているわけです。
    鎌倉時代からが中世、古代の前は有史以前です。
    つまり古代というのは、ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代であって、階級とか国家がなんとなく成立していた頃だというのが、現代の学会の理解です。
    つまり平安時代は、「よくわからない時代」だというわけです。

    古代とか中世とかいう区分は、西洋史にあった区分方法で、西洋史では古代ギリシア文明の成立の時代から、5世紀の西ローマ帝国の崩壊までの時代を指します。
    西洋では、このあと、フランク王国とかビザンツ王国とかロンバルト王国とか、様々な王国が栄えては消えるという「よくわからない時代」が続き、紛争続きで文明が停滞します。
    そして弱体化した西洋諸国は、13世紀にモンゴルによって征圧されてしまう。
    西洋史では、ここまでが「中世」です。

    ところがそのモンゴルのオゴデイが死去することで、モンゴルの正統な後継国を自認する国が次々と誕生しました。
    こうして生まれたのが、いまに続く西欧諸国で、ですからそこからが西洋史では「近世」になります。
    西洋の学校で自国の歴史として習うのは、その「近世」からの歴史です。
    つまり西洋における歴史時代は、14世紀からということになります。
    モンゴルの征服、その後の自立、独立という中で、現在に続く西洋諸国は誕生し、15世紀の大航海時代からが「近代」、第2次世界大戦以降が「現代」となります。

    整理すると次のようになります。
    <西洋史>
     有史以前 3世紀以前。ギリシャ・エーゲ海文明以前
     古代   4〜5世紀。古代ギリシャから西ローマ帝国の滅亡まで
     中世   6〜13世紀。よくわからない王朝が続いて、ついにモンゴルに征服されるまで
     近世   14〜18世紀。モンゴルの後継国が互いに競った時代から市民革命まで。
     近代   19世紀〜。第二次世界大戦まで
     現代   第二次世界大戦以降
    ざっと、このような考え方の時代区分になっているわけです。

    東洋史というのは、主にChinaの歴史を云いますが、もとより西洋史と東洋史では、歴史についての根本的な思想が異なります。
    ですから同じ分類など、本来はあてはまるべくもないのですが、なぜかChina史(東洋史)にも、この分類が当てはめられています。
    一応簡単に、いまの学会の分類を整理すると次のようになっています。
    <東洋史>
     有史以前 紀元前。秦王朝成立以前
     古代   3世紀まで。秦王朝の成立から後漢の崩壊
     中世   3〜10世紀。三国志の時代から唐、五代十国の時代まで
     近世   10〜18世紀。宋から清朝まで
     近代   19世紀〜。辛亥革命から第二次世界大戦まで
     現代   第二次世界大戦以降

    要するに、
     Chinaの中世は3世紀、
     西洋の中世は6世紀に始まるとしているわけです。

    一方、これに対して日本の中世は、12世紀の鎌倉時代に始まるとする。
    こうすることで、日本の文明は、Chinaより900年遅れいていたのだ、としているわけです。

    しかし、古代というのが「ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代のあけぼので、階級とか国家がなんとなく成立していた時代」と定義するならば、たとえばいまのChinaも、チベットに侵攻したり、ウイグルや内モンゴルの人たちに、何をしているのか、よくわからない。
    そういう意味では、Chinaは中華人民共和国となった現代においても、その実態は「古代国」にほかなりません。
    つまり、Chinaはいまもまだ、国家としては古代の状態にあるわけです。

    一方、日本は、紀元前の大和朝廷の時代から、天皇を頂点にいただく国です。
    ということは、西洋史的な意味での分類に従うなら、紀元前7世紀の神武天皇から7世紀の皇極天皇あたりまでが古代、7世紀天智天皇以降が中世、17世紀の江戸時代が近世、明治以降が近代、大戦後が現代となります。

    箇条書きにすると以下のようになります。
     有史以前 紀元前7世紀以前。神話の時代
     古代   紀元前7〜7世紀まで。神武朝からの古代大和朝廷の時代。
     中世   7〜15世紀。大化の改新から織豊時代。
     近世   16〜18世紀。江戸時代
     近代   19世紀〜。明治維新から第二次世界大戦まで
     現代   第二次世界大戦以降

    というわけで、藤原忠平、貞信公の歌の良さが、ただの「擬人法の使用」にないというのなら、ではこの歌の本当の良さは、いったいどこにあるのでしょうか。

    詞書に書かれていることから、宇多上皇が小倉山へ紅葉見物に出かけ、そこに藤原忠平も右大臣として同行したことが伺えます。
    ここでひとつ質問です。
    「なぜ上皇が天皇より先に紅葉狩りに出かけているのでしょうか」

    答えは、「天皇(醍醐天皇)は、紅葉見物に、
    「行きたくても行けなかったから」です。

    いまでもそうですが、天皇の御公務は多忙をきわめます。
    ありがたいことに私たち一般庶民の多くは週休二日ですし、盆暮れのお休みもあります。
    年間の休日は、祭日を含めれば軽く百日を越えます。
    つまり、一年のうちの三分の一がお休みになっています。

    ところが陛下には、お休み(休日)がありません。
    一年三百六十五日、すべてが御公務です。
    公務の数は年二千回を超えます。
    一日平均、5〜6件の御公務のスケジュールがはいっているのです。
    そしてそのいずれもが、国の大事であり、なかには国運を左右する重大な用件を含みます。

    そして陛下の御公務にミスは許されません。
    風邪さえひけないし、ひいても寝込むことも許されません。
    プライバシーもありません。

    それだけの厳しい御公務を、陛下は日々こなしておいでになります。
    さらにその忙しい御公務の合間をぬって、田んぼにはいって農作業をされたり、様々な研究もされています。
    このことは醍醐天皇の昔も、昭和天皇の時代も、今上陛下の時代もなんら変わることがありません。

    それだけ多忙な御公務のなかでも、日本の心、みやびな心を失わないでいらっしゃるのが、我が国の天皇です。
    そしてその天皇は、政治権力を持っていないのです。

    現代風に分かりやすくいえば、政治権力というのは「立法」「行政」「司法」の三権です。
    これに「軍事」を加えれば、四権といえるかもしれません。
    西洋や東洋における王や皇帝は、それら三権(四権)のすべてを掌握し、直接に命令を下せる権限を持っています。

    ですからたとえば、王の目の前で、くだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいれば、王は即座にその者のクビを刎(は)ねることもできます。
    それが古来変わらぬ、王や皇帝の権力と権限です。
    社会そのものが「支配と隷属」の関係で成り立っているわけです。

    ところが我が国における天皇には、その権力、権限がありません。
    仮に、目の前でくだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいたとしても、あるいは遠回しに婚礼をお断りしているのに執拗に結婚させろと迫る変態男がいても、そういう者を処分する権限は、あくまで天皇が親任した太政大臣や関白、いまなら内閣総理大臣や国会両院議長などの政治権力者の仕事とされているのです。

    天皇ご自身が、どうしても政治権力を揮いたいと思うなら、天皇を退位しなければなりません。
    そして、天皇の下の位である上皇になれば、政治に直接介入することができます。
    上皇は、序列的に天皇の下になりますが、太政大臣よりも上位の政治権力者となるからです。

    私たち一般庶民の感覚で考えると、政治権力者のほうが忙しくて、政治権力のない天皇のほうは暇ではないか思われます。
    しかし、先に述べたように御公務は多忙ですし、この歌のなかにも天皇の忙しさが書かれているのです。

    視点を変えれば分かることですが、政治権力者である上皇は、小倉山の紅葉が見事だからと、大臣をたちを連れて秋の紅葉見物に出かける余裕があるのに対し、天皇はどれだけ紅葉が素晴らしくても、それを見に行くだけの余裕も時間もないことが、この歌から分かります。

    そして政府高官である藤原忠平は、天皇のスケジュールを調整する役割の人もあります。
    だから藤原忠平は、
    「天皇にも是非この美しい紅葉を味わっていただけれるように、
     なんとか公務を調整するから、紅葉に
     『御行幸いただくまで待っていておくれ』」
    と呼びかけているのです。

    実際、この歌のあと、小倉山への紅葉狩りのための天皇の行幸が、毎年行われるようになりました。
    日々の公務に追われる天皇ですが、むしろ「御公務の側に小倉山までついてきてもらう」ように調整をすることで、天皇にたとえわずかな時間でも、秋の紅葉を楽しんでいただけるように、制度が変えられたのです。

    実はこの「御公務の側についてきてもらう」ということは、現代でも行われています。
    昭和天皇が戦後の焼け野原の中で、全国行幸をされたのは有名な話ですし、今上陛下も、東日本大震災などの被災地へ、たびたび行幸されています。
    そしてこうしたときには、陛下が宮中で行う事務は、近習の者が持参して、現地で陛下が実務を執り行えるようにしているのです。

    さてこの歌で、醍醐天皇に「是非とも紅葉狩りを楽しませたい」と提案したのは、父親の宇多上皇です。
    少し前まで、ご自身が天皇だった方ですから、天皇の忙しさは、まさに身をもって体感しているわけです。
    だからこそ、せめて美しい小倉山の紅葉くらいは、天皇に見せてあげたいと思ったのでしょう。
    その気持ちが痛いほど分かるからこそ藤原忠平は、天皇のスケジュールは自分がなんとかするから、
    「小倉山の紅葉よ、それまで散らずに待っていておくれ」と詠んでいるわけです。

    この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。
    公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。
    だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれているのです。


    ※この記事は2017年9月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    従って、それぞれの国の文化を、異なる言語に翻訳する時は、その語彙をしっかりとわきまえて説明する必要があります。
    そうでなければ、とりかえしのつかない誤解を生むことになるからです。

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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    日本では、古い昔から「権力と権威を分離してきた。これをシラス統治という」というお話を、いつもさせていただいています。
    最近は、だいぶこのシラスやウシハクという日本古来の用語が復活してきて、これを唱える人も増えてきました。
    たいへんありがたく、また嬉しく思っています。
    こういうことは、常識化することが大事です。

    さて、その「権威」ですが、そもそも権威とは何かというと、これは幕末に英語の「オーソリティ(Authority)」を翻訳してできた言葉です。
    ですからもともと我が国に権威という言葉があったわけではなく、むしろ我が国では権威=神のような形で考えられていました。
    ですから、戦前戦中まで天皇=神と説明されてきたのは、あながち嘘ではなく、この場合の神は、英語でいうならオーソリティ(Authority)のことであって、英語圏におけるGOD(絶対神)とは意味の異なるものです。
    そういう語感の違い(語彙の違い)をわきまえずに議論するから、おかしなことになるのです。

    さて、では英語圏の権威、すなわちオーソリティ(Authority)とは何かというと、この言葉はラテン語の「auctoritas」に由来します。
    その意味は「保証、所有権、担保」で、一定の共通の価値観を共有する人々の間にあって、より上位の者が権威となります。
    ですからたとえば、宗教はまさに一定の価値を共有する集団を形成しますが、そのなかでも最も上位の者が「auctoritas」となるわけです。
    当然のことながら、宗教上、最上位にあるのは神(GOD)ですから、神の言葉は当然権威を持つし、神を代理する神官や、神から王権を授かった王もまた権威を持つことになります。

    これに対し我が国の天皇は、異なる価値観を持つ者の間でも権威が生じるように設計(設計という言葉が妥当かどうかは別として)された存在ということができます。

    我が国は、もともと海洋民族であったということは、当ブログで再三申し上げさせていただいていますが、海洋族というのは、船ごとに、いわば独立国のようなものであって、しかも船の中には役割分担はあっても、身分の上下、つまり階層社会のようなものは(すくなくとも小舟)の時代には存在することができません。

    船長は、もちろん船の中の最高権力者ですが、さりとて船長が病気になれば、代わりになる者がいくらでもいる。
    それぞれがそれぞれの役割を忠実にこなすだけでなく、複数の仕事を共有しなければ、安全な航海は不可能だからです。

    このような生活で万年の時をすごしてきた日本人は、ですから船ごとに、あるいは島ごとに文化が異なります。
    もっというなら、高天原文明圏と小笠原文明圏で異なるし、そのことはいわゆる天孫族と国津神系で文化はまるで異なります。
    日本列島に定住するようになってからも、漁労生活者と山中で獣を獲って暮らす人々では生活様式も文化も異なるし、稲作文化と芋作文化でも、やはり生活習慣から村の文化に至るまでまったく異なるものとなります。
    そしてそれらひとつひとつが、もともと海洋族であったことから、非常に独立性が高い。

    宗教についても、そもそも宗教という概念が存在せず、神々さえも八百万の神々です。
    統一された宗教を過去の日本は持っていなかったし、いまも持っていない。

    このような日本では、西洋にあるように宗教による権威(auctoritas)を形成することはできなし、さりとてチャイナのように、皇帝の独裁と、言うことを聞かない者を一族皆殺しにして食べてしまうという内陸型の文化も成立することができません。

    そこで日本が何をもって権威を確立しようとしたのかというと、それが「古いこと」です。
    きわめてシンプルに、古いものに権威があるとしたのです。

    ご先祖をずっとさかのぼっていくと、それはすべての民衆が、どこかでみんな血が繋がります。
    そうしてたどった、本家の中の総本家を、我が国は最高権威としたのです。
    それが天皇(すめらみこと)であり、権威という言葉の代わりに用いられたのが神という用語であったわけです。

    ですから、天皇を「日本のオーソリティ(権威)だ」と英語で説明すると、これまた要らぬ誤解を与えます。
    なぜなら、英語圏におけるオーソリティは、所有者を意味するからです。
    また、天皇を「日本の神(GOD)だ」と英語で説明することも、やはり誤解を生みます。
    西洋圏におけるGODは、人類とは異なる存在だからです。

    言葉は文化によって形成されます。
    従って、それぞれの国の文化を、異なる言語に翻訳する時は、その語彙をしっかりとわきまえて説明する必要があります。
    そうでなければ、とりかえしのつかない誤解を生むことになるからです。

    これから、AIによる自動翻訳の時代が始まろうとしています。
    そうなる前にいま、私たち日本人が、しっかりとした日本語感覚や、歴史観を取り戻していかないと、なまじ日本が世界で最も古い歴史を持つ国だけに、要らぬ紛争の種を世界にばらまくことになりかねません。
    学会が、偏った考えに凝り固まっている間にも、時代はどんどん先へと進んでいるのです。
    日本はいま、目覚めのときを迎えたのです。


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    沈んだヒル湖よりも、天照大御神や月神は、もっと古い時代からあったのだ《つまりヒル湖の周囲で人々が生活をしていた時代や、それ以前のもっと古い時代》ということを、記紀は、この短い文章の中で書き表しているのかもしれません。

    南米の葦船と葦を使った生活
    20210922 葦舟

    写真はチチカカ湖のもので、友人が現地で撮影したものをお借りしました。あたりまえのことですが、人間は「身近にあるもの」を加工し、工夫して生活します。日本もペルーと同様、葦(あし)が繁殖します。葦は成長が早く、密生し、収穫しやすくて、かつ水に浮きます。つまり葦は、水辺の生活に欠かせない生活必需品です。チチカカ湖のあたりでは、現地の人々が船も家も床も屋根も、葦を束ねて利用して生活しています。葦船を作ることは、すくなくとも大木を伐り倒し加工して船や家にするよりも、ずっとはるかに楽に早く行うことができます。我が国も葦が生えます。ですから万年の昔の生活は、日本もペルーも、きっと同じようなものであったろうと推測することができます。


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    前回は、天照大御神の御誕生の事を書かせていただきました。
    今回は続いて月神(つきかみ)、蛭児(ひるこ)、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の誕生を解説します。

    ▼原文を読んでみる

    次生月神 つぎにはつきの かみをうむ
     一書云  あるふみに いはくには
     月弓尊  つきゆみみこと
     月夜見尊  つきよみみこと
     月読尊  つきよむみこと
    其光 そのひかり
    彩亜日 ひにつぎて うるはしく
    可以配日而治 ひにならび しらしめむため
    故亦送之于天 これもまた あめおくる

    次生蛭児 つぎにはひるこ うみたもふ
    雖已三歲脚猶不立 みとせになりて あしたたず
    故載之於天磐櫲樟船 あめのいはくす ふねにのせ
    而順風放棄 かぜにまかせて うちすてぬ

    次生素戔鳴尊 つぎにはすさの をのみこと
     一書云  あるふみに いはくには
     神素戔鳴尊  かみのすさの をのみこと
     速素戔鳴尊  はやのすさの をのみこと
    此神有勇悍以安忍 このかみいさみ たけくていふり
    且常以哭泣為行故 つねにもなきて いさちりて
    令国内人民多以夭折 くにうちのひと さわにしなしむ
    復使青山変枯 またあほやまを へんじてからす

    故其父母二神 ゆへにちちはは ふたつかみ
    勅素戔鳴尊 すさのをの みことにいはく
    汝甚無道 なむじはなはだ あじきなく
    不可以君臨宇宙 このそらの きみにたるなし
    固當遠適 まことにまさに とほくいね
    之於根国矣遂逐之 これねのくにに つひにやらひき

    《現代語訳》
    次に月の神を生みました。
    (その名は他の書には、
     月弓尊(つきゆみみこと)、
     月夜見尊(つきよみみこと)、
     月読尊(つきよむみこと)とあります)
    月の神の光は、天照大御神に似て彩(うるわし)かったので、太陽と同じく天に配置して治(しらし)めるため、天に送りました。

    次に蛭児(ひるこ)を生みましたが、三歳経ってもまだ脚(あし)が立たなかったため、天(あめ)の磐(いわ)の櫲樟(くすのき)の船に載(の)せて、風に順(まか)せて放棄(うちすて)ました。

    次に素戔鳴尊(すさのをのみこと)が生まれました。
    (その名は他の書には、
     神素戔鳴尊(かみのすさのをのみこと)
     速素戔鳴尊(はやのすさのをのみこと)とあります)
    この神は、勇悍(いさみたけ)くて忍(いぶり)がやすく、且(また)、常に泣き哭(いさち)るを行(わざ)となす故(ゆえ)に、多くの国内(くにうち)の人民(ひとくさ)を夭逝(し)なせてしまいました。またあるときは、青々とした緑豊かな山を枯らしてしまいました。これゆえ父母の二神は素戔鳴尊(すさのをのみこと)に勅(みことのり)して言いました。
    「おまえははなはだ無道(あじき)ない。
     この宇宙におまえが君たるところはない。
     遠くに行って戻って来ぬが良かろう」
    こうして素戔鳴尊(すさのをのみこと)は根の国に追放されました。


    ▼万年の記憶
    日本書紀は、まず天照大御神がお生まれになられたたあと、月神、蛭児(ひるこ)、スサノヲの順で生まれたと書いています。
    これは古事記に馴染みのある方からすると、すこし違和感をおぼえるところかもしれません。
    図示すると次のようになります。

    『古事記』
     水蛭子(ひるこ)、国生み、神生み、天照大御神、月読神、須佐之男神
    『日本書紀』
     国生み、神生み、天照大御神、月神、蛭児(ひるこ)、素戔嗚尊

    このように順番に誤差が出るのは、こうした数千年《もしくは万年》の単位の古い歴史の物語にはよくあることで、ひとことでいえば、とても古い時代のお話であることを象徴しているといえます。

    両者に共通しているのは「ヒルコを船で流した」という記述で、
    『古事記』は「葦船(あしのふね)で流し去る」とし、
    『日本書紀』は「天磐櫲樟船(あめいはのくすのきのふね)に載(の)せて、風に順(まかせ)て放棄(うちすて)ぬ」と書いています。
    葦船(あしぶね)はヨシズなどに使われるアシでできた船、
    天磐櫲樟船は、クスノキでできた櫂(かい)《オールのこと》付きの丈夫な帆船を意味します。

    ちなみに我が国では三万八千年前に、伊豆から沖合57キロの海上に浮かぶ神津島まで船で往来していたことを示す石器が沼津や長野で発見されていますが、波が荒くて潮流の強い外洋で、この距離を丸木舟で往復することはできません。
    しかも帰りには大量の石を積載して航海するのです。
    そしてこうした航海を実現するには、いまでも南洋の人々が用いているアウトリガー付きの帆船(映画『モアナと伝説の海』にも登場していました)が用いられていたのであろうといわれています。


    ▼二万年前の日本
    またさらに二万年前になりますと、この頃の急速な寒冷化によって陸上の氷河が発達し、海面がいまよりも140メートルも低くなり、いまの東シナ海が「東東亜平野」と呼ばれる大陸に、また琉球諸島は巨大な列島となって東東亜平野と琉球列島との間に巨大な塩水湖を形成していました。

    このあたりは氷河期にありながらも気候が温暖、透き通った浅い海に海藻(かいそう)が繁殖し、これを餌(えさ)にするプランクトンが繁殖、さらにこれを捕食する大小様々な魚がいたと考えられています。
    そしてこの内海が、なんと山蛭(やまびる)そっくりの形をしていました。
    そこで付いた名前が「ヒル湖」です。

    二万年前といえば、いまよりもずっと寒かった時代で、日本列島は樺太北部なみの気象状況です。
    つまり原始的生活を営むには、あまりに寒かった時代です。
    ところがヒル湖のあたりは海流の関係で温暖で、しかも水が綺麗で水深が浅いですから、魚や海藻(かいそう)が豊富に獲れ、波もおだやかだから、人々が大変に生活しやすいところであったようです。

    ちなみにずっと時代が下って八世紀に書かれた『契丹古伝(きったんこでん)』では、中国神話にある黄帝や神農、堯舜、西王母などは「皆倭種なり」と書いています。
    万年の昔、倭人の基になった人々がヒル湖の周囲で暮らしていて、海面の上昇によって、その住むところが、大陸や日本列島、琉球諸島などに別れていったのだとするなら、それも十分にありえることだということになります。

    不思議なことに沖縄には「天照大御神は、最初に沖縄に降臨された」という伝誦があるのです。これもまた不思議なことです。

    けれどそのヒル湖も東東亜平野も、氷河期の終わりとともに陸上の氷が溶けだし、海面が上昇することで、およそ六千年前には、すべて水没してしまいました。
    もしかすると、そんなとほうもない歴史を、記紀は「蛭児《=ヒル湖》が海に流れて沈んでしまった」と書いているのかもしれません。
    そして沈んだヒル湖よりも、天照大御神や月神は、もっと古い時代からあったのだ《つまりヒル湖の周囲で人々が生活をしていた時代や、それ以前のもっと古い時代》ということを、記紀は、この短い文章の中で書き表しているのかもしれません。

     
    ▼ 天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)
    原文にある天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)は、漢字で見るとまず「磐」の字の「般」のところが手漕ぎ用の櫂(かい)《オールのこと》が付いた帆船を意味します。
    それが石のように堅いから「磐」という字になります。
    そして「櫲樟(よしょう)」というのは「クスノキ」のことです。

    櫂(かい)付きでクスノキでできた大型の帆船といえば、すぐに思い浮かぶのが大昔に地中海で活躍した「ガレイ船」です。
    「ガレイ船」は地中海のように波が穏(おだ)やかな海でなければ航行できない船です。
    なぜなら波の荒い外洋では、櫂のところから浸水して、船が転覆してしまうからです。
    このため大航海時代になると、カラベル船と呼ばれる櫂のない大型帆船が用いられるようなりました。
    波の穏やかな地中海から、波の激しい大西洋に航海に出るようになったからです。

    もし「磐櫲樟船」がガレー船のような櫂(かい)を持った船なら、その船は地中海のような静かな内海を航海していなければなりません。
    そして仮に琉球列島と大陸に挟まれたヒルのような形をしたヒル湖が、二万年前の寒冷期における人々の生活の拠点であったとしたならば、そこはなるほど気象変動とともに、海に沈んでしまったと考えられるわけです。
    そのことを記紀は象徴的に「海に流した」と書いているのではないかと想像することができます。
    そうだ、と決めつけているわけではありません。あくまでも、そのようにも考えられる、ということです。

     
    ▼ 素戔鳴尊(すさのをのみこと)
    そしていよいよ待望の素戔鳴尊(すさのをのみこと)の登場です。
    はじめにある「勇悍(いさみたけ)くて忍(いぶり)がやすく」というのは、要するに忍耐強いの反対で、たいへんに要求が強い子であったことを意味します。
    そしていつもへそを曲げては、泣きわめいているわけです。

    ところが普通の赤ん坊が泣くのと、神様が泣くのとでは、その影響力が違います。
    なんとその泣き声で、国中の人々が死んでしまうし、青々とした緑豊かな山まで枯れてしまう、というわけです。

    この描写は大風をともなう台風などの自然災害を想起させます。
    おそらく古代におけるある時代、長期間に渡って強風が吹き荒れ、落雷や大雨が相次ぐ時代があったのでしょう。

    これゆえ父母の二神は素戔鳴尊(すさのをのみこと)に、
    「おまえははなはだ無道(あじき)だから、この宇宙(そら)におまえの居場所はない。根の国に行け」と、追放されてしまうわけです。

    スサノヲは、偉大な神様です。
    そうであるなら、普通なら「幼い頃から優秀な子であった」と書かれそうです。
    ではなぜ古事記も日本書紀も、スサノヲ誕生のシーンで、いわば暴君のような子であったと描写しているのでしょうか。
    この疑問を持ちながら、続きはまた次回。


    ※この記事は月刊玉響320号(2021.3月)に掲載したお話です。
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  • 今日は西郷隆盛の命日


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    もっともらしい綺麗ごとで目先の財政にとらわれ、国家百年の体計を誤ると、結果として取り返しのつかない切羽詰まった事態に陥るのです。
    それが今も昔も変わらぬ政治の現実です。

    20210923 西郷隆盛
    Takamori Saigō et ses officiers à la rébellion de Satsuma (1877)
    画像出所=https://fr.wikipedia.org/wiki/R%C3%A9bellion_de_Satsuma
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    上の絵は、フランスのニュース紙に掲載された西郷隆盛とその仲間たちの肖像画です。
    明治10(1877)年のものですが、ここに描かれた西郷隆盛の肖像画は、後年描かれた西郷さんの銅像や絵画の姿とは、ずいぶんと雰囲気が違いますが、この絵は当時写生したものと考えられており、おそらく実際の西郷さんの肖像にかなり近いものであったであろうと言われています。

    さて、その西郷さんが自刃したのが、9月24日です。
    明治10(1877)年のことです。
    享年51歳でした。
    いま考えると、ずいぶんと若かったのですね。

    西南戦争は、西郷隆盛の『征韓論』がきっかけとなったというのは、多くの人の知る事実ですが、昨年、このブログで『征韓論』は「朝鮮を征伐にいく論ではない」と書きましたら、多くの方に衝撃が走ったようです。
    けれど、そうなのです。

    当時、ようやく開国して新政府を築いたばかりの日本にとって、最大の脅威はロシアの南下でした。
    英米仏欄などが、主として海路を通じて海軍の派遣しかできないのに対し、ロシアは大人数の陸軍で南下できるのです。これは元寇どころの騒ぎではありません。
    まさに国としての死活問題でした。

    このロシアに対して我が国を防衛するためには、日本の防衛力を高めるためだけでは追いつきません。
    国力が違いすぎるからです。
    清国にも、李氏朝鮮国にもそれなりに頑張ってもらうしかない。

    とりわけ朝鮮半島は、ロシア南下に際しての最大の防衛拠点です。
    ここがロシアに蹂躙されたら、次は間違いなく日本です。

    と、ここまでは、よく聞く説明です。
    ただし、これだけのご説明ですと、ものすごく大事な点が見落とされてしまいます。
    というのは、当時の国防は地政学であり、困難な相手との間に、いかにして緩衝地帯を築くかが大事にされた時代であったという点です。

    ロシアがあって、そのロシアがシベリア方面から南下してチャイナ北部からコリアにかけてを征服して不凍港を手に入れると、次に植民地支配の対象として攻撃のターゲットとなるのは、あきらかに日本です。
    これを防ぐには、次の3つの戦略が考えられます。

    1 日本が直接ロシアと戦ってロシアの南下を食い止める
    2 緩衝地帯となるチャイナ北東部やコリアに頑張って独立を保持してもらうことで、日本へのロシア南下を食い止める。(チャイナやコリアが独立を保てば、日本の安全保障になる)
    3 放置してロシアの南下にまかせる。

    明治新政府によって、もし3が選択されていれば、いまの日本はありません。
    日本はロシアによって征服され、いまのシベリアと同じようにロシアの植民地となったでしょうし、共産主義革命後の旧ソ連によって、おそらくは収奪の限りを尽くされて、2021年における日本は、まるでアフガニスタンのような情況になっていたことでしょう。

    1は、日露戦争によって、実際、それが行われましたが、かろうじて日本が勝利することができたものの、それはまさに乾坤一擲の大勝負でした。
    もしこのとき日本が敗けていたらと考えると、そらおそろしい大戦であったといえます。

    結局、選択は2しかないのです。
    要するに、明らかに敵対的というか、乱暴者がいたならば、その乱暴者が入ってこれないように、塀を作る、お堀を築くだけでなく、中間地点に別な国を置くことで、自国の安全を図る。
    これが(すくなくとも)先の大戦くらいまでの、いわゆるドンパチの戦争の時代には、実はもっとも有効な安全保障の方法であったのです。

    こうした背景があるからこそ、明治新政府は再三にわたって李氏朝鮮に使いを送り、独立と国防の強化を促しました。
    ところが清国の属国である朝鮮王は日本を馬鹿にして首を縦に振らない。
    そこで出てきたのが「征韓論」です。

    征韓論の「征」の字は、「正しきを行う」です。
    ですから「征韓論」というのは、「朝鮮の近代化を促進する(正しきを行う)ことで、ロシアの南下を防ぎ、東亜の、ひいては我が国の自存独立を図ろう」という論です。

    こういう字句のイメージからくる認識の違いは、度々発生しています。
    たとえば、授産所と聞けば、いまどきの人なら、ほぼ100%、出産所をイメージすると思います。
    ところが明治初期でいう授産所は、「産を授けるところ」という意味で、いまの職業訓練所を意味しました。
    征韓論に対する認識の誤りも、これと同じです。

    ですから西郷隆盛自身、朝鮮に軍事出兵しようなどとはまったく言ってません。
    彼は自分が朝鮮王に特使として交渉に出向こうとしたのです。
    彼自身が朝鮮国を訪問し、朝鮮国を説得し、朝鮮半島の近代化の促進に力を尽くしたいと主張したのです。

    日本政府の要人として西郷隆盛が出向くとなれば、そのための陣立てが必要です。
    この陣立てというのは、いまどきの「数人のガードマンが政府要人の警護にあたる」と意味合いが違います。
    中世的社会は体面を重んじるし、特に儒教国を自認する李氏朝鮮は事大主義の国ですから、それなりの大物が出向くとなれば、それなりの陣立てをし、それなりの行列を組まなければなりません。
    この点、同じ政府使節でも、遣欧使節団のように欧米に向かった使節団は、少数でOKです。
    欧米には、儒教国家にあるような「体面」という思想がないからです。

    李氏朝鮮は「体面」がなにより優先する国です。
    もし日本が清国や朝鮮に、政府の公式訪問団を少数で訪問すれば、相手は、自分たちの国が「軽く見られた」と判断し、それだけで言うことを聞きません。
    ですから公式使節団は、その国力に応じた、士族の相当な大行列である必要があったのです。

    士族というのは、日本では武士団を意味しますが、儒教国では士大夫(しだいふ)です。
    要するに特権階級の要人が、大行列を為して訪問すれば、李氏朝鮮は、行列が大きければ大きいほど自国が尊重されたと思い、その大行列に対して敬意を払うのです。
    やっかいな話ですが、それが儒教国の中世的社会の基本的構造です。

    もうひとついうならば、この士大夫の大行列は、江戸時代の大名行列の江戸入りや、同じ時代の朝鮮から日本への朝鮮通信使と同じように、軍事侵攻を意味しません。
    あくまで体面を重んじるためだけのための行列です。
    本当に無意味ですが、そうやって大行列を従えてワシのところに挨拶にやってきた=ワシはそれだけ偉いのだ、というのが半島のマインドなのだから仕方がない。

    江戸時代の朝鮮通信使では、李氏朝鮮の使節団は、平和時でありながら、派遣使節団は600〜800名の大軍です。
    日本からしたら、そんな大行列は迷惑なだけです。
    しかもその旅費経費は、日本側で負担していました。
    本当に迷惑な訪問だったのです。
    けれど、半島はそういう国なのだから、仕方がない。

    ならばロシア南下という非常時における日本から半島への派遣は、国威を示す意味においても、数千人規模にしなければならない。
    そしてその使節団の経費は、大名行列がそうであるように、訪問する側、つまり日本側がその経費を全額負担です。それが儒教社会における常識です。

    「征韓論」と聞くと、あたかも日本が武力で朝鮮を征伐し、征服しようとしたなどと、ありもしない妄想を膨らませる学者などがいますが、とんでもないことです。
    わずか数千の大名行列で、一国の征服などできる筈もありません。
    数千人規模の使節団は、古式にのっとって、数ヶ月かけて朝鮮を訪問し、それに対して朝鮮国が敬意を払ってもてなしをし、協力の約束をするのです。そいう構造なのです。

    ただし、その訪韓の経費は、日本持ちです。
    向こうがやってくるときは、日本が経費を負担。
    日本が訪問する時も、日本が経費を負担。
    バカな話ですが、それをさせる存在のみが、彼らの国の支えだったのです。

    しかしこのことは、できたばかりの明治新政府には、とてつもなく重たい経費負担です。
    ほんの少数をヨーロッパやアメリカに派遣するくらいなら、明治新政府にも、経費の捻出はできましたが、たとえお隣の国でも、何日もかけた数千の大行列の面倒をみるとなると、これは財政的に、ものすごく重たい。
    しかも、そこまでの陣立てをして、李氏朝鮮がロシア南下に対して国防意識に目覚める可能性は低いのです。

    「それでもやらなければならない」

    それが西郷隆盛の考えです。
    そしてその大行列に、職を失った旧士族たちを充てれば、彼らにとってのそれが生活の糧ともなります。
    旧士族は、失業していたからです。
    海外派遣は、手当は国内出張よりも金額が大きくなります。
    ですから同行した士族たちは、帰国後は、そのときの給金をもとに独立してお店を営んだりするだけの手持ち資金ができるわけです。
    そして、運良く訪韓目的が達成できれば、ロシア南下に対しても大きな防御壁になる。
    一石が二鳥にも、三鳥にもなる。

    ところが明治新政府には、カネがない。
    いや、むしろ、その後に巨額の経費のかかる西南戦争をしているくらいですから、費用の捻出はしようと思えばできたのです。
    けれど当時の新政府の閣僚たちは、『征韓論』の承認をしませんでした。

    ただでさえ、カネのかかる欧州派遣使節を出している最中だったのです。
    ただでさえ財政難なのに、さらに朝鮮半島に数千人規模の使節を派遣するなど、財政的に考えられない。
    ですから、西郷隆盛の『征韓論』は、却下されました。

    歴史というのは皮肉なものです。
    征韓費用をケチった政府は、結果としては西南戦争で、征韓を数倍する費用の負担することになったのです。
    しかも日本は、西郷隆盛という、不世出の英雄を失ったのです。

    西郷隆盛の切腹は、単に西南戦争に敗れたからというものではありません。
    これは、必要なときに必要な行動をしっかりととれる政府になってもらいたい、という、西郷隆盛から明治新政府への諌言の切腹です。
    そこを理解しないと、なぜまだ戦う力が残っているのに彼が切腹したのか、その意味がわからなくなってしまいます。

    ちなみに、この国防が優先か、財政が優先かというせめぎ合いは、旧帝国政府内において、その後もずっと残りました。
    そして財政優先にした結果、明治政府は西南戦争を引き起こしてしまうし、さらに山縣有朋内閣のときに国防力強化のために歳費の7割を陸海軍の増強に遣うという提案もしりぞけられ、結果として日清戦争を招いています。
    目先の防衛予算をケチると、結果として、多額の費用と人命を失うのです。
    これが歴史の教訓です。

    大東亜戦争も、実は同じです。
    日本が開戦前に、多額の予算を計上して、軍事力の強化をしていたら、もしかしたら先の大戦は防ぐことができたっかもしれない。

    もっともらしい綺麗ごとで目先の財政にとらわれ、国家百年の体計を誤ると、結果として取り返しのつかない切羽詰まった事態に陥るのです。
    それが今も昔も変わらぬ政治の現実です。

    さて、その西郷隆盛の遺訓です。

    十一 文明とは道の普く行はるゝを贊稱(さんしょう)せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。
    世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些ちとも分らぬぞ。
    予嘗て或人と議論せしこと有り、
    西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。
    否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、
    實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、
    左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、
    其人口を莟(つぼめ)て言無かりきとて笑はれける。


    《現代語訳》
    文明というのは、華麗な宮殿や、美しい衣装などのことを言うのではない。
    文明というのは、「道が正しく行われているか否か」で見るべきものだ。
    ある人と議論したとき、「西洋は野蛮だ」と言ったら、「いや西洋は文明社会だ」と言うから、重ねて「野蛮だ」と言ってやった。
    すると「どうしてそれほどまで言うのか」と言うから、
    「西洋が文明社会だというのなら、未開の国に対するとき、慈愛を根本にし、人々を教化して開明に導くべきなのに、彼らは相手が未開の国であればあるほど、残忍なことをして、自分の利益ばかりをむさぼっている。だから野蛮だと申しておる」と言ってやったら、その人は大笑いしていた。



    ※この記事は2013年9月の記事のリニューアルです。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
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他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

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