• 大豆と満洲のお話


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    かつての日本人は、現代の日本人よりも、はるかに若くて、活動もダイナミックなものでした。
    最近、歴史に対する塗り替えや、故意にかつての日本人を貶めるような報道や政治家や評論家の発言等が目につきますが、ほんのちょっぴり自分の頭を使って思考力をはたらかせてみれば、誰でもすぐに気がつくことです。
    今回は、満州大豆を通じて、そんなお話を書いてみたいと思います。

    満州国ハルピンの町並み
    20210918 ハルピン
    画像出所=https://www.travel.co.jp/guide/article/18581/
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    もやし、枝豆、煮豆、納豆、味噌、醤油、豆乳、ゆば、豆腐、油揚げ、厚揚げ、節分、サラダ油。

    さて、共通するものは何でしょう?
    答えは「大豆」です。

    大豆を、暗い所で発芽させたのがモヤシです。
    畑で育てて、未熟大豆を枝ごと収穫して茹でたら、ビールのつまみの枝豆。
    完熟したら大豆。
    完熟した大豆を搾ると大豆油ができ、煎って粉にするときな粉になります。
    蒸した大豆を麹菌で発酵させると味噌、
    醤油ができ、蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆になります。

    熟した大豆を搾ったら豆乳。
    その残りカスがおから。

    豆乳を温めて液面にできる膜が湯葉(ゆば)。
    にがりを入れて固めると豆腐。
    豆腐を揚げると油揚げ、厚揚げ。
    焼くと焼き豆腐、茹でて湯豆腐。
    凍らせたら高野豆腐です。

    ちなみに大豆から作られる大豆油(サラダ油)は、かつては燃料としても用いられたものです。

    それにしても日本人というのは、ひとつの豆から実にいろいろな食材を工夫し、用いているものです。
    それだけ大豆が古くからの日本人の食生活に欠かせない食物であったということです。
    ちなみにその国のその民族の食材の中で、様々に工夫されているものは、それだけ歴史が古い食材です。
    逆に歴史がないと、単純な使い方しかできません。

    たとえば白菜は、大正時代になってやっと畑で栽培できるようになった作物です。
    それまでは、菜の花の花粉とすぐに結びついてしまうので、品種の固定ができなかったのです。
    ですから白菜は、新しい食材なため、炊くか、ゆがくか、漬けるかくらいしか、まだ食べ方が考案されていません。
    白菜酢だとか、白菜豆腐、白菜揚げ、白菜醤油なんて、まだないですよね。

    どこぞの国は、白菜を使った真っ赤な漬物が、民族的伝統料理だと自慢しますが、その中心野菜である白菜が、そういうことなのですから、その国では、100年にも満たない食材が、伝統料理なのでしょう。

    さて、大豆というのは、植物の中で、唯一肉に匹敵するタンパク質をもっています。
    なので大豆は、「畑の(牛)肉」、「大地の黄金」などとも呼ばれます。

    現在、大豆の生産国は、
    1位アメリカ  8282万トン、
    2位ブラジル  5020万トン、
    3位アルゼンチン3830万トン、
    4位チャイナ  1690万トン、
    5位インド    660万トンの順です。

    日本は、国内消費量434万トンのうち、420万トンを輸入に頼っています。
    いまや日本は、世界第3位の大豆輸入国となっています。

    日本が大豆を輸入に頼っているから、なんとなく、大豆は欧米産なのだと思っている人も多いようだけれど、実は、欧米に大豆がもたらされたのは比較的新しくて、ヨーロッパで18世紀、アメリカは19世紀のことです。

    そもそも大豆の栽培は、土壌が弱アルカリ性じゃないと生育しません。
    欧米の土壌は弱酸性で、古代、中世ヨーロッパで大豆の栽培が広がらなかったのも、土壌の問題です。
    この土壌を改良することで、19世紀以降、欧米でも大豆の栽培がされるようになるのですが、これも当初は、もっぱら油やプラスチックの原料などに使う工業用に栽培されていました。

    欧米で大豆が食品として注目されるようになったのは、なんと日本の大正時代(1920年代)以降のことです。
    なぜ1920年代かというと、これが実は、日本が実に深く関係しているのです。
    登場するのは、明治の中ごろ三井物産に入社した商社マン、
     山本条太郎(やまもとじょうたろう)です。

    山本条太郎
    山本条太郎


    山本条太郎は、慶應3(1867)年、福井県旧御駕町で元福井藩士の子として生まれています。
    明治13(1880)年、12歳で神田淡路町の共立学校(現・開成高校)に入学するのだけれど、病弱で2年で退学し、三井洋行(現・三井物産)横浜支店に丁稚奉公しました。

    よほど働きがよかったのでしょう。
    丈太郎は、21歳で上海支店に転勤し、明治23(1890)年には、若干23歳で上海フランス租界の近くの交差点口に、三井支店長社屋を建設しています。

    この建物は、1万坪の土地に、大きな3階建ての本館と別館、更に付属の建造物と、広大な庭には池や温室、芝生の野球場と5面のテニスコートが作られ、正門から本館の玄関までには、100メートルの小道がり、樹齢30年以上の桜の木が280本も植えられていました。

    ここではその後、毎年3月に園遊会が開かれ、国内外の官民2000人あまりが招待され、当時この園遊会に招待されなかった人は社会的に紳士として認められていないとさえいわれるほどでした。

    それだけに招待客の選出には細心の配慮と苦心が重ねられたのだけれど、これを完全に取り仕切っていたのが、やはり山本条太郎でしたから、彼は相当、頭が切れたのでしょう。
    それに礼儀正しく品性も良かった。
    なにせそういう人物でなければ、招待客の接待役などまかせられません。

    明治34(1901)年、若干34歳で、条太郎は三代目上海支店長に就任しました。
    当時の上海支店長は、車庫には8人乗りの防弾型キャディラックが1台、8人乗りのビュイックと更に中型車が2台が、支店長専用車として停まっていた。
    いやはやすごいものです。

    この車、全部防弾車で、ガラスはどれも3センチ以上の厚さがあったとか。
    不注意にドアを開けて人にぶつかると、転んでしまうほど重たいドアだったそうです。
    だから車が重い。
    重いから燃費はリッター1キロ程度だったそうです。
    このためぜんぜん走らないから、条太郎は、もっぱら営業マンの乗る普通車ばかり使っていたとか。

    普通車は、防弾処理はされていません。
    だから危険な車でもあるのですが、なにしろ軽いからよく走る。
    このあたり、身の危険を顧みず、行動を優先した条太郎らしさが出ているように思います。

    山本条太郎は、後の昭和2年に満鉄の総裁になるのですが、実は、その条太郎が日本の商社マンとして満洲に乗り込んだ第一号です。

    荒野ばかりの満洲です。
    ここでなにをしたらよいか。
    土地は広いけど、ただの荒れ地で、作物はない。

    その満洲で、条太郎が、いちはやく目をつけたのが大豆です。

    実は、中国に普及した大豆は、もともと南満州にいた貊族(こまぞく)という朝鮮族が、細々と栽培していたものを、いまから約2600年前、斉の桓公(かんこう)がここに攻め込んで、持ち帰った大豆に戎菽(チュウシュク)という名前をつけて、普及させたのがはじまりです。

    つまり、満洲では、ほんの小規模ながら、大豆が栽培されていたのです。

    大豆というのは、そもそもが温帯・亜熱帯産の植物です。
    満洲は、亜寒帯になる。基本的に生育に必要な気象条件が合いません。
    加えて大豆は、同じ場所で生育を続けていると、連作障害が起こるから、何年かに一度は、土地を休ませないといけない。
    そういう意味で、満州での大豆の栽培は結構たいへんなのですが、それが細々と栽培されていたのです。

    これに山本条太郎は目を付けました。

    気候を調べたり、品種改良の可能性を検討したり、徹底して満州での大豆の栽培の可能性を探った。
    もちろん彼は商社マンです。
    栽培の可能性の研究だけでなく、同時に販路も研究しました。

    そして、満州での大豆栽培の目途が立つと、その足でイギリス市場に売り込みをかけ、ヨーロッパ大陸に満洲の大豆の独占販売権を得ます。
    これが1920年のことです。

    その頃のヨーロッパでは、まだ大豆を食べる、という習慣がありませんでした。
    彼は、大豆の加工の仕方や料理の指導まで行いながら、ヨーロッパで大豆の売り込みをかけます。
    こうして、ほんの数トンあるかないかだった満洲の大豆は、山本条太郎が名付けた「満洲大豆」の商品名とともに大きく成長していくのです。

    条太郎が満鉄総裁に就任した昭和2年には、満洲の大豆生産高は、じつに年間500万トンに達しました。
    欧米向け輸出だけで200万トン。日本に200万トン。実に80%が輸出です。

    満洲は、世界最大の大豆生産国になったのです。

    日露戦争で勝利をした日本は、明治38(1905)年に、講和条約に調印し、長春から旅順口までの鉄道や支線全ての権利を手に入れます。
    そして、翌明治39(1906)年には、日本は「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立するにいたる。

    すこし考えればわかることですが、鉄道があっても、ただやみくもに大地が広がっているだけのところに列車が走っても、なんの収益性も産みません。

    ロシアは、満鉄を軍事輸送用に切り開きましたが、日本は、これを民生用、つまり産業育成ように用いました。
    そしてそのために満鉄が、鉄道事業の収益性維持のために、大々的に奨励したのが、鉄道沿線での大豆栽培でした。

    実際、満洲に住む人々にとって、大豆は作れば売れました。
    なにせ収穫量の8割以上が商品として輸出されていたのです。
    満州の人たちは大豆と小麦を売って、自分たちはトウモロコシやアワを食べた。
    大豆は、満洲に住む人々にとって、まさに黄金となったのです。

    当時の記録によれば、満州の貿易額の50%以上が大豆です。
    鉄道沿線で、大豆を作る。出荷するとカネになる。
    大豆の生産を増やすために、荒れ地を開墾して大豆畑を作る。
    そこに鉄道が伸びる。
    こうして満鉄は満洲国の隅々にまで、その鉄道網を拡げて行きました。

    満鉄は、ただ大豆栽培を奨励しただけではありません。
    大連に「農事試験場」と「中央試験所」を建設し、大豆の研究に取り組んでいます。

    「農事試験場」では大豆の品種改良や栽培試験を、
    「中央試験所」では大豆の利用研究を進め、大豆油(サラダ油)の近代的製造法確立の研究をしました。
    その後の30年間で設立した農事試験所関係施設はなんと90ヶ所にのぼります。
    満鉄の大豆に注いだ情熱は並大抵ではなかったのです。

    中央試験所には、当時、総勢千名を超える人員がいました。
    発表された研究報告は約1000件です。
    特許が349件。
    実用新案47件。
    華々しい成果です。

    この試験所の様子については、夏目漱石も視察した模様を小説の中で紹介しています。
    さらに満鉄中央試験所では、大豆蛋白質による人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB抽出、スタキオースの製造法の確立など、その成果は枚挙にいとまがありません。

    ちなみに、現在世界が大騒ぎしている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究も、世界の先鞭をきって開発研究に取り組んだのが、満鉄中央試験場でした。

    こうして、何もないただの荒野だった満洲の大地が、大豆栽培によって緑の大地に生まれ変わります。
    いままで、人が住めない荒地が、稔りゆたかな豊穣の土地になる。
    作った大豆は、右から左に高値で売れる。
    大豆農場が広がり、関連産業が発展し、生産穀物の中継点となるターミナル駅ができ、そこが街になり、都市になり、建設が進み、人々に供給する電力や交通、流通などの産業が発展する。大都市ができあがる。

    貧乏人には誰も振り向かないが、小金を手にすると多くの人が寄ってきます。
    今も昔もかわりません。

    満洲が豊かになればなるほど、その利権に垂涎を流す者たちが出てきます。
    とりわけ欧米列強にとっては、民度が高く、産業の発達した満洲は、喉から手が出るほどほしい。
    同時に満洲は、ロシアの南下圧力があり、これは、チャイナ中南部を実質的な支配下に置いた米英にとっても、脅威です。ロシアに巣食うコンテルンは、平気で治安を乱し、人を殺すからです。

    「満洲が欲しい」
    米英は、満洲建国にナンクセをつけて、日本を満洲から追い出しにかかります。

    日本の満洲統治というのは、その基本として、つぎの3項目を掲げるものでした。

    1 悪い軍閥や官使の腐敗を廃し、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることを建国の精神とし、資源の開発が一部の階級に独占される弊を除き、多くの人々が餘慶をうけられるようにする。

    2 門戸開放、機会均等の精神で広く世界に資本をもとめ、諸国の技術経験を適切有効に利用する。

    3 自給自足を目指す。

    この理想を実現するために、日本は満州国建設に伴う産業開発五カ年計画を策定し、当時のカネで、48億円というとほうもない資金を満洲に提供し、大豆、小麦といった農産物に加えて、鉄、石炭、電力、液体燃料、自動車、飛行機などの生産力向上を図っていたのです。

    日本は、かつてのロシアの満州経営が軍事に終始していたのに対し、満州の経済と人材の開発をその使命としていた。
    なぜなら、経済というのは、人が行うものだからです。
    約束を守り、時間を守るという、いわば「あたりまえのこと」があたりまえにでき、人々が創意工夫をし、公に奉仕する精神がなければ、経済の発展などありえない。
    しかしこういうことをされると、それまで何百年か続いた欧米の植民地政策は、破綻に瀕します。
    現地人の民度を下げ、富だけを収奪するのが植民地政策だからです。

    満洲は発展しました。
    農業、産業、教育の振興と都市部の発展にあわせて、満州鉄道の路線は、昭和14(1939)年には、なんと1万キロメートルを超えました。
    バス路線は、二万五千キロメートルに及びました。
    満州航空輸送会社による国内航空路は、網の目のように張り廻らされました。

    満洲は、世界有数の経済大国として成長していったのです。

    そして、その満洲国の発展の、おおもとにあったのが、大豆でした。

    ところが、満洲はもともと酸性の土壌です。
    大豆の栽培には、土壌がアルカリ性でなければならない。
    土壌改良のために、農薬として、大量のリンが必要になります。
    当時の満洲は、リンをアメリカから輸入していました。
    ところがこのリンの満洲に対する輸出を、突然アメリカが打ち切ったのが、あのABCD包囲網です。

    こうなると、満洲経済の基礎中の基礎である大豆の生産ができなくなります。
    満洲経済は、その基礎を揺るがせられてしまったのです。
    ABCD包囲網から日米開戦へ。
    この流れは、もっぱら石油のことばかりが語られますが、当時の日本にとって、満州での大豆の栽培ができなくなることが、そのまま日本の家庭の台所を直撃する問題にもなったのです。

    もともと大豆を食べる習慣のない欧米には、たいした問題ではないかもしれない。
    けれど、大豆を、味噌汁や醤油、豆腐などで、主食並みに消費する日本人、大豆の輸出で産業を形成している満洲にとっては、これは大打撃です。
    こうして日本は、大東亜戦争に突入せざるをえないところまで追いつめられていくのです。

    昨今、戦争は当時の軍部が引き起こしたものである、という人がいます。

    しかし、それは違います。
    戦争のことが一番嫌いなのが、軍隊だからです。
    なぜなら、戦争が起きたとき、まっさきに痛く、辛い思いをするのが、軍隊です。

    リンがない。
    大豆の栽培ができない。
    なんとかしてくれ。
    自分が大豆栽培農家で、同じ環境に置かれたら、誰しもそう言うのではないでしょうか。

    その一方で、満州では、女房子供のために、一生懸命野良仕事をして生産した大豆を、英米から武器を支給された野盗の群れが、共産主義者を自称したり、正義の味方の馬族などと称して、平気で荒らして、農作物を持って行ってしまう。
    家の中まで入り込んで、目の前で女子供を強姦し、殺害する。
    そんな事件さえ頻発するのです。
    子供たちが学校に行くにも、関東軍の兵隊さんに守ってもらわなければ、街を歩くことさえできない。

    連中は、ただ貧しいだけです。
    まじめにちゃんと働いてくれるなら、当時の満洲にはいくらでも働き口はあった。
    ところが、連中に、タダで武器が支給されるのです。
    全部英米製の高性能武器です。

    いい年した若者が、昨日今日、いきなり五族協和の理想郷であるはずの満洲にやってきて、武器を持ってまじめに働く満洲人の家や畑を襲い、日本人が出て行けば自分たちの楽園が空から降ってくるなどとわけのわからないことを言いながら、日本人に協力するまじめな満洲人を襲い、平気で殺害する。

    冷静になって考えれば、当時の満洲が、いったい誰のおかげで富める国になったのか、ほんのちょっとでも脳みそがあるならわかりそうなものです。
    ところが彼らには教養がない。
    教養がないからそういう大事なことがわからない。
    図々しさと、勢力と武器だけがある。
    広大な原野を荒らしまわり、農地を襲って作物を奪い、女を蹂躙し、カネを奪う。

    そんな状態が何年も続く中で、日本の政府は、それでもこちらから武器をもって反撃するのは決してすべきでないと、無抵抗主義、温情主義を貫きました。

    だから、満鉄の総会では、議場に集まった多くの群衆から、檀上の軍の代表者たちにむけて
    「腰の軍刀は竹光かっ!
     俺たちの生活を守るのが
     君達の使命ではないのか!」
    と、血を吐くような言葉が飛び交ったのです。

    とまあ、この続きは、当ブログの他の記事に譲ります。
    ≪五族協和を目指した満洲国≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-784.html

    そこへ、リンの輸入禁止です。
    大豆の栽培ができない。
    どうしてくれるんだ!
    満洲の輸出産業の50%を担う農場からも、悲痛な叫びが聞こえてきます。

    そして日本と満洲国は、やむにやまれず、大東亜戦争に突入しました。
    その後の満州を襲った悲劇については、
    ≪満洲国開拓団の殉難≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html

    いろいろと大戦前後の歴史を学んでいてひとつ思うことは、日本という国、あるいはかつての日本人は、どこまでも大御心のままに、善意と正義を貫き通したのだ、ということです。

    しかもかつての日本人は、現代の日本人よりも、はるかに若くて、活動もダイナミックなものでした。

    最近、歴史に対する塗り替えや、故意にかつての日本人を貶めるような報道や政治家や評論家の発言等が目につきますが、ほんのちょっぴり自分の頭を使って思考力をはたらかせてみれば、誰でもすぐに気がつくことです。

    いまの日本人に必要なことは、本当のことを知ることです。

    さて、今日のお題は、大豆のお話です。

    最近のものの本によると、大豆はチャイナの東北省(旧・満洲)のあたりが原産地である、などと書いてある本があります。
    なるほど上に述べた通り、南満州に斉の桓公(かんこう)が攻め込んで、大豆を持ち帰ったというのですから、それなりの大豆栽培の歴史はあったものと思います。
    ただしこれはいまから2600年前、紀元前7世紀頃の話です。

    では、それ以前はどうだったのかというと、教科書などには、稲作と同じように、大豆はチャイナから朝鮮半島を経由して、いまから2000年くらい前に日本にもたらされた、と書いています。
    なぜなら・・・という、これが実に面白いのですが、実はこの説は、具体的な考古学上の検証に基づくものではありません。

    どういうことかというと、その昔、チャイナに神農皇帝という人がいた。
    神農というのは、チャイナ古代の三皇五帝の三皇のひとりで、いまから4700年ほど前に「実在した」とされる皇帝です。
    この神農時代の事跡を書いた本が「神農本草経」という本で、その本には、
    「生大豆をすり潰して、
     腫れものに貼ると膿が出て治る」
    「呉汁を飲むと解毒作用がある」
    などという記述がある。
    だから、チャイナでは、いまから4700年前、もっといえば、いまから5000年前には、大豆が栽培されていた、というのです。

    もっとも多くの学生さんたちは、上の文の前段は省かれて「チャイナでは、すでに5千年前には大豆の生産が行われて・・。」というところだけをまる暗記させられる。
    テストに出ると言われれば、そう覚えるしかないです。

    ところがこの神農という人が、実にすごい人です。
    なんと身体が、脳と四肢を除いてぜんぶ透明!
    内臓が外からはっきりと見えたのだそうです。

    で、その神農が草木を嘗めて毒か薬かを調べると、毒があれば内臓が黒くなったので、その植物の毒の有無と、人体に影響を与える部位を見極めることができたのだそうです。

    なぜ、胴体部分だけの皮膚や体脂肪だけが透明だったのか、どうして四肢は透明ではなかったのか、どうして脳は見えなかったのか、いろいろ考えだすと眠れなくなっちゃいそうですが、ひとついえるのは、その姿って、アマリミタクナイ^^;

    「神農本草経」という書にしても、その原書があるわけではありません。

    あるのは、西暦500年頃、つまり日本でいうと、蘇我氏と物部氏が、いろいろとゴチャゴチャと争いをしていた時代に、南朝の陶弘景という人が、原書を手本に注釈本として「神農本草経注3巻」を書いた、その注釈本が残っているだけの話です。
    どこにも、4700年や、5千年を証明するようなものはない。
    ほとんど、白髭三千丈とかの話と同じで、たんたんたぬきの百畳敷きという話です。

    具体的に大豆が史書に登場するのは、先に述べた斉の桓公の逸話が、紀元前7世紀、次に出るのが、紀元前140~8年に書かれた「史記」になります。
    「史記」には、歴代皇帝が五穀豊穣を願って儀式をしたと書いてある。
    五穀とは、諸説ありますが、米、大麦、小麦、粟(あわ)、黍(きび)、大豆であり、前に述べた、紀元前7世紀ごろの斉の桓公の逸話から600年で、チャイナ全土に大豆が普及したとしても、これはおかしくはありません。

    では日本ではどうかというと、実は、縄文前期(約7千~5千年前)の遺跡である福井県三方町の鳥浜貝塚から、大豆が出土しています。
    なにが目的なのか、その発見された大豆のことを「リョクトウ」と表記している本が多いのですが、これは感じで書くと「緑豆」で、ただしくは、ミドリマメと読みます。
    これは大豆のことです。

    逆にいえば、いまから2000年ほど前、つまり紀元1年ごろに、大豆が大陸から渡来したという証拠は実はなにもないのです。
    むしろ、古代から日本で栽培され、日本人の食生活になくてはならないものとなっていた、と考える方が、土壌的にも、地質学的にも、考古学的にも、要するに科学的であり論理的です。

    実は、先日食べたオカラがすごく美味しかったものだから、ついつい夢中になって大豆のお話をしてしまいました。
    それにしても、日本て、ほんと、とてつもない国ですね。


    ※この記事は2010年の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    この時代は、まさに江戸の庶民文化が花開いた時代で、ですから江戸時代を描く時代劇では、たいていこの時代が舞台になります。
    たとえば銭形平次や、火盗改方の鬼平さん、大岡越前守や遠山の金さん、浮世絵や歌舞伎が世の人気をさらったりする時代が、まさに江戸の文化文政年間です。

    これより少し前には元禄時代がありましたが、こちらはどちらかというと上方(大阪)文化が花開いた時代で、大阪の豪商、淀屋辰五郎が大名をもしのぐ大金持ちとなって天井に水槽を築き、そこで魚を飼ったなどという逸話が残されました。
    赤穂浪士の物語が、この元禄時代の物語ですが、討ち入りは江戸ですけれど、大石内蔵助の芸者遊びなどは、京都での出来事です。

    文化文政年間は、元禄より100年ほどあとの時代で、第11代将軍の徳川家斉(いえなり)が、将軍職を引退して大御所となって権勢をふるった時代で、このため大御所時代とも呼ばれます。

    将軍家斉というのは、とかく賛否両論のある人で、将軍としての職務と責任は12代将軍の家慶(いえよし)に全部まかせ、自分は贅沢三昧して遊び暮らしたという豪気な人で、おかげで江戸市中にお金がよくまわり、結果、江戸の町人文化が花開きました。

    文化文政時代に出た有名人としては、東海道五十三次の安藤広重、世界的に有名な歌麿、北斎、東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九、天才歌舞伎役者として有名な七代目市川団十郎。
    学問の世界では、35年がかりで古事記全巻の通訳本を出した本居宣長、解体新書を出した蘭学の杉田玄白などがいます。

    そして、この時代に生まれたのが、「酢」と「江戸前寿司」です。

    寿司自体は、たいへん歴史の古い食べ物で、紀元前4世紀には、米の中に塩味をつけた魚を漬けて発酵させ、これによって魚肉を長期間保存を可能にした「なれずし」が始まっていました。
    これは、魚からモツ(内臓)を取り出して、身の部分をお米のご飯に漬ける、というもので、ご飯の自然発酵作用によって、魚の保存性を高めたものです。
    要するにご飯の中に「塩から」を包み込みこんで保存したわけです。
    発酵に用いられた米は捨てていました。

    「なれずし」で有名なのは、滋賀県琵琶湖の鮒寿司や、和歌山県の「サンマのなれずし」などで、なかでも和歌山県の「サンマのなれずし」は、30年も保存可能でる。
    これ自体驚きですが、実は栄養価抜群で、美肌効果、アンチエイジング効果があるだけでなく、一日一舐めするだけで、整腸、便秘解消、体内毒素の排出効果など、味のおいしさもさりながら、きわめて健康に良い食品といわれています。

    この「なれずし」が大阪に行って生まれたのが、バッテラです。
    いわゆる押し寿司です。
    そしてこの押し寿司が、大きく変化したのが、文化文政時代の江戸だったのです。

    最近では、大阪の押し寿司も酢飯を使いますが、もともとは米を使って発酵させて作るものだったようです。
    ところが、発酵食品というのはどれもそうですが、出来上がるまでにものすごく時間がかかります。
    魚を仕入れて、米に漬けて発酵させて、いざ食べれるようになるまでには、早くて1~2週間、長いものでは一年以上かかるわけです。

    気の短い江戸っ子が、そんなに待ってなんていられねえ!とばかり、炊きたてのご飯に「酢」を混ぜることで、発酵米もどきの味をつけ、そこに新鮮な魚をちょいと乗せ、わさびを加えて、
    「ハイ、お待ち!」
    お客さんは、これをちょいと醤油に浸して、ポンと口に入れていただく。
    これが江戸前寿司で、手軽に作れて、すぐに、しかも早く食べれることから、気の短い江戸っ子にぴったり!ということで大評判になり、いっきに江戸の町で普及しました。

    あまりの人気に、江戸前寿司は関西にも流れ出て、押し寿司の大阪寿司まで酢飯が用いられるようになったわけです。

    この酢飯誕生に、同じ文化文政の時代の「酢」の量産化が進んだことが重なりました。

    どういうことかというと、文化元(1804)年に、尾張名古屋の半田村で、造り酒屋を営んでいた中野又左衛門という人物が、江戸に出てきたのです。
    そして酒粕を用いて、「酢」を作る技術を開発しました。

    ここで生まれた「酢」が、大阪から江戸に進出してきた寿司と出会うわけです。

    「なれずしを作るには時間がかかりすぎる。
     そこで、炊きたてのご飯に酢を加え、
     食べやすい大きさにご飯を握って
     その上にネタを乗せて出したらどうか」

    この提案に飛びついたのが、華屋(はなや)という発酵寿司店を営んでいた、華屋与兵衛(はなやよへい)でした。
    華屋与兵衛は、福井県南部の若狭の生まれです。
    伝染病のために両親が相次いで他界したため、与兵衛は単身、江戸に出て、小さな発酵寿司の店を開いていたのです。
    若狭といえば、サバ寿司が有名ですよね?

    そこに現れたのが、酢造り職人の中野又左衛門です。
    米をいちいち発酵させなくても、酢を加えれば、あっという間に酢飯ができる。
    というわけで、これに「なるほど!」と納得した与兵衛は、さっそくこれに「江戸前握り寿司」と名前をつけて商品化しました。
    これが、大ヒット!

    なにせ発酵食品と違って、手軽に作れる。
    早い、安い、旨い。

    華屋はまたたく間に江戸っ子にもてはやされ、毎日長蛇の列ができるほどの繁盛ぶりとなりました。
    こうなると次々に真似をする者も現れます。
    おかげで、にぎり寿司屋は、瞬く間に江戸中に広がって、江戸の名物になりました。

    江戸には、屋台で廉価な寿司を売る「屋台店」が市中にあふれ、料亭のような店舗を構えて寿司を握る者、あるいは持ち帰りや配達で寿司を売る者、宅配する者など、あっという間に江戸中に普及していきました。

    そして箱寿司が主流であった大阪にも、江戸前寿司の店は広がり、天保年間には名古屋にも寿司店ができるようになりました。
    こうして手軽な握り寿司は、あっと言う間に全国に広がったのです。

    江戸前寿司が普及するにつれ、酢の需要もうなぎ上りに増大しました。
    おかげで「酢」造りの中野又左衛門の、酢屋も、またたく間に巨大なメーカーに育って行きます。

    この中野又左衛門が創業した酢屋は、いまでも残っています。
    その社名が「ミツカン」です。
    そうです。あの「株式会社ミツカン」です。
    ミツカンは伝統で、いまでも社長は中野又左衛門(中埜又左エ門)を名乗っています。

    ちなみに、昨今関東で見かける「華屋の与兵衛」というファミレスは、これは関西資本のライフコーポレーションが設立したチェーン店で、寿司を始めた与兵衛さんとは関係はないそうです。

    ちなみに、どうも戦後の歴史教科書というのは、とにもかくにも江戸時代は貧しい時代で、武家が贅沢三昧な王侯貴族のような暮らしをし、庶民は貧窮のどん底暮らしを余儀なくされていたという荒唐無稽な歴史観を無理矢理生徒たちに刷り込んでいますが、これは違います。

    そもそも、武家しか米が食べられないような社会情勢だったのなら、江戸前寿司が江戸町民の間で普及するなんてことは、起こりえません。
    それでも、武家に搾取されていたなどと、子供じみたデタラメを言うような教師や学者には、二度と君たちは寿司を食うな!と言いたいくらいです。

    そもそも日本の歴史を、共産主義思想による階級闘争史観で図ろうとするところからして、無理があるのです。
    日本の歴史は、支配するものと支配される者、収奪する者と収奪される者という二極化した階級闘争の歴史ではありません。

    天皇のもと、身分という社会的な役割の違いを互いに尊重することで秩序を築いてきた歴史を持つのが日本です。
    従って、日本における身分制は、
    「社会の秩序を保持するための制度」であって、チャイナやコリア、あるいは西洋にあるような
    「富の収奪のための制度」ではありません。

    そもそも武家の屋敷というのは、実に簡素で空っぽです。
    西洋の王侯貴族のように、屋敷中に高価な宝玉がそこここに飾り立ててあるなんてこともありません。
    ないということは、贅沢をしていなかった、ということです。

    むしろ、士農工商という江戸身分制度は、富の順番からすれば「商工農士」の順で、自らの貧窮をかえりみず、民を豊にすることこそ武家の役割とされていたのです。

    だからこそ、町民は「宵越しの銭」を持たなくたって、ちゃんと生活が成り立ったし、農家においては、祭りの際に豪華な屋台や御神輿を作れるくらいのゆとりさえあったのです。
    そもそも歌舞伎だって、町人文化です。

    そうそう。「握り」の話が出たので、もうひとつ。
    世の中で一番美味い「おにぎり」って、なんだかわかりますか?

    それは、母親が幼子の遠足のためにと作る「おにぎり」だったり、あるいは新婚ホヤホヤの新妻が愛する夫のために作る、すこし形のおかしな「おにぎり」だったりするのだそうです。
    これは、愛情のこもったおにぎりが、その食材そのものの味わいよりも、もっと大きな味わいと美味しさを持つからだと言われています。
    すべてのものは振動によって出来ているといいますが、その振動に愛情の波動が乗る、ということなのかもしれません。

    料亭の板前さんや、寿司屋の職人さんというのは、単に最高級の食材を仕入れ、包丁の使い方から調理の仕方まで、その技術を鍛え上げるというだけでは、実は、本当に美味しい味を引き出すことはできないのだそうです。
    だからこそ、何十年もかけて、母の愛に勝てる味わいを出せるように修行を積むのです。

    昨今では、お寿司も廻り寿司で簡単に食べれるようになりましたが、一昔前までは、寿司はお寿司屋さんで握ってもらうのが常でした。
    すると、同じお店で、同じ材料を使って握っているのに、親父さんが握るお寿司と、修行中の息子さんが握る寿司では、まるで味が違う、なんてことが、よくありました。
    ですから、修行は、まさに消費者に直結していたのです。
    単にネタがでかいとか、新鮮だとか、米や酢が良いとかいった物理的なものだけでない何かが、そこにあるのです。

    味は心がつくるもの。
    だからこそ板さんは、その心を鍛えるためにきびしい修行を積んだのです。

    さて、その寿司ですが、近年、寿司や海鮮丼がたいへんな人気で、おかげで外国資本の寿司屋さんが、日本にも、米国にもたくさんできるようになりました。
    看板は派手なんですよね。
    ところが味はとみると、もう最悪。
    店内は生臭く、ネタもただ解凍しただけの、氷状態であったり、水っぽかったり。
    シャリと呼ばれるご飯も、酢飯の具合がわからないらしく、ただの普通のご飯であったり。

    江戸前寿司というのは、ただシャリの上に刺身が乗っていれば寿司になるわけではなくて、すべてが活きの良さによって成り立つものなのであろうかと思うのですが、キムチなどの超辛い食品ばかりを口にしていると、微妙な味覚が崩れてわからなくなってしまうのかもしれません。

    都内の高級寿司バーも、値段は張るのですが、味は素人のおばちゃんたちが造るスーパーのお寿司のお弁当のほうが、はるかにマシだったりすることがあったりします。
    逆に、銀座の小さな回転寿司屋さんが、実に見事な味だったり。

    もともと江戸前寿司は、ご飯を醗酵させるのではなく、単に酢を混ぜることで、手軽に誰でも簡単に作れるようにした食品です。
    けれど、簡単で単純なだけに、奥がものすごく深い。
    そういうことがちゃんと理解できる日本人の経営者が、しっかりとした味を追求し、かつ、修行を積んだ日本人の寿司職人さんが握るお店が、お寿司はやっぱり美味しいです。

    日本食は、日本の文化のひとつです。
    そして日本の文化は、だれでもわかる入り口の広さが特徴ですが、奥行きがものすごく深い。
    ただのパクリでは、日本の味は真似できないのです。


    ※この記事は2012年12月の記事のリニューアルです。
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    内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。
    要するに文化は、必然なのです。そこに上下はありません。

    20200929 ひつじ雲
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    風がめっぽう秋めいてきました。
    「天高く馬肥ゆる秋」とはよく言ったもので、あの暑かった夏はどこへやら。
    だいぶ涼しくなってきて食欲も旺盛になるし、空を見上げればなんといっても雲の位置が高い。

    夏の雲といえば、積雲に入道雲(積乱雲)ですが、積雲というのは、だいたい高度が2千メートルくらい。積乱雲(入道雲)は、その積雲がもくもくと上空に立ち上がった雲で、てっぺんのあたりは高度が1万メートルくらいに達するのだそうです。
    夏は、湿度が高いので低い位置に雲ができやすく、これが夕方になると雨雲になって夕立を降らせていました。
    このときの雨雲は乱層雲で、高度は2千メートルあたりの低い雲です。

    これが秋になりますと、空気が乾燥してきますから、雲の位置がぐっと高くなります。
    秋の雲といえば、巻雲、巻積雲など。
    これらの高度は、1万3千メートルくらいに達します。夏の入道雲のてっぺんより、もっと上なんですね。

    なかでも巻雲は、雲の仲間の中で一番高いところにできる雲です。
    「すじ雲」とも呼ばれます。ハケで掃いたみたいなスジになっている雲です。

    夕焼け雲になるのが、巻積雲です。
    巻層雲は、見え方によって、「ひつじ雲」、「うろこ雲」、「いわし雲」、「さば雲」などと呼ばれます。

    「ひつじ雲」や「うろこ雲」は、空一面に巻積雲がひろがって、まるで空全体が魚のウロコみたいになったもの。
    「いわし雲」は、よく水族館などの水槽内で、イワシの大群がまるで巨大なモニュメントみたいにみえたりしますが、あのような感じで空に見える雲です。
    「さば雲」は、まるでサバの背中のように、巻積雲が波打ちます。

    巻層雲は、位置が高いので、それだけ日没後も長く夕陽を浴び続けます。
    これが秋の美しい夕焼け雲になります。

    この巻層雲を、天皇の大喪の礼のときの弔問客に見立てた歌が万葉集にあります。
    第41代持統天皇の御製です。

     北山につらなる雲の青雲の
     星(ほし)離(さか)り行き
     月も離(さか)りて
    (原文:向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而)

    この歌は、夫の天武天皇が崩御されたときに、皇后であられた後の持統天皇が、挽歌として詠まれた歌です。
    歌にある「つらなる雲(陳雲)」というのが、まさに「うろこ雲」のことで、大喪の礼に参列したたくさんの弔問客を、空いっぱいにひろがったうろこ雲に例えています。
    意訳すると次のようになります。

    北枕でご安置された天武天皇の涙のご遺体   向南山
    空に浮かぶ羊雲のように連なった参列の人々  陳雲之
    高い徳をお持ちだった天武天皇は       青雲之
    世を照らす光となって離れ去られました    星離去
    歳月もまた過ぎ去りました          月矣離而

    偉大な夫を失なわれた持統天皇の深いお悲しみと、夫の偉業を受け継いで、これからは自分が天皇としてすべてを背負っていかなければならないという決意を込めた、悲しく、美しく、それでいてとっても力強い響きの歌です。

    うろこ雲ができる秋は、雲が空高く、だから「天高く馬肥ゆる」ともいいます。
    この言葉が杜審言(としんげん)の『贈蘇味道(そみどうにおくる)』という漢詩から生まれた言葉だという説がありますが、これはとんでも説です。
    なぜなら、杜審言の漢詩が持つ意味と、日本語の「天高く〜」では、意味がまったくことなるからです。

    杜審言という人は、7世紀の軍事大国「唐」の官僚で、「国破れて山河あり」の詩を書いた杜甫の祖父です。
    杜審言の書いたこの漢詩は、原文に「雲淨妖星落 秋深塞馬肥」とあり、
    「秋になって雲が高くなって空気が澄んで来る季節になると、北方の遊牧民である匈奴たちの馬は、夏草をいっぱい食べて、今頃は太ってきているであろう。そうなると、匈奴がまた南に下って攻めて来るので、気をつけてくれよ」と友人に伝えた詩です。

    杜審言が所属した唐の国は、最終的に匈奴の襲来で国力を落として滅んでいますから、彼らにとって、北の匈奴の動向は死活問題であり、そのことが歌に読み込まれているわけです。
    この歌の中に「馬肥」の二字が入っているから、昔の日本人が杜審言の詩の意味を取り違えて、「天高く馬肥ゆる秋」という慣用句を造語したのだというのが、いまの主流となっている説です。
    しかし、たまたまチャイナの古典漢詩に「馬肥」の二字があったからといって、そこまでこじつけるのは、かなり無理があると言わざるを得ません。

    むしろ、稔りの秋を寿ぐ習慣が、日本には古代からあり、秋の空は高いし、馬たちも食欲旺盛になるし、人間もそれと同じように、みんな食欲がモリモリとわいてくる。
    そのことについて、たまたま「馬肥」の二字が杜審言の漢詩にあったから、それも含めて日本流に楽しんだ、というのが実際のところであったろうと思います。順番が逆なのです。

    こうしたこが起こるのは、我が国がチャイナ以上に深い文化を持っていたからです。
    ただ外国のものを、やみくもにありがたがるのは、むしろ明治以降の日本人の高学歴者に見られる偏向です。

    また、近年増えてきた自称「上級国民」の半島系の人も、すぐに「どちらが上か、どちらが下か」というように思考回路が働くようです。
    そうなると、「天高く馬肥ゆる」も「父にあたるチャイナ様が発祥であり、それを我々半島人が兄として、オクレた日本に教えてやったのだ」と言い出してもいるようです。
    ですが、まったくの間違いです。

    チャイナで生まれた老麺(ろうめん)が、日本で「ラーメン」として発展し、さらに美味しくなって世界に広がり、現代チャイナでも、日本式ラーメンが、とても美味しいと喜ばれる。
    あるいは、中国生まれの餃子が、日本でさらに美味しい食品となり、チャイナでも、その美味しさの秘宝をさらに工夫して、また新たな餃子が誕生する。

    カレーは、もともとインドの食品だけれど、いまや世界中で食され、英国風カレーもあれば、フランス風のカレーもあるし、我が日本のカレーライスもある。
    大切なことは、日本では、常に「民衆のよろこび」に置かれている、ということです。
    そのために、日本人は外国からのものも、日本人向けに加工し、工夫するのです。

    つまり「根底に日本人としての文化がある」から、外国のものも日本化できるのです。
    その根底となる日本文化が形成されていなければ、「外国のものこそがありがたい」という思考になります。
    そして、そうであれば、外国のものをそのまま使用することになります。
    工夫し加工し日本人向けにすることは、禁忌となるのです。

    自動車は、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作した蒸気自動車がその原型であったとされていますが、だからフランスが上だとか言い出したら、それこそ世界の物笑いです。
    フランスで生まれ、米国でこれがガソリンエンジン車へと発展し、フォードが量産型の自動車を出し、さらに世界中で工夫や改善が施されることで、いまや自動車は世界各国の主要産業です。

    もちろんいまでは、チャイナ産の自動車もあれば、コリア産の自動車もあります。
    それをフランスが、大本はフランスの蒸気自動車(当時は時速3キロでしか走行できなかった)なのだから、フランスが上だと言い出したら、それこそ世界の物笑いです。

    工夫し、加工し、発展させる。
    そこにその国の文化性があります。

    そもそも文化に上下などありません。
    文化とは、それぞれの国の、それぞれの風土の中で培(つちか)われてきたものだからです。
    地震のない国と、常に地震の脅威にさらされている国では、その建築文化に違いがあるのは当然です。
    内陸部で海がなく、塩分は動物の肉からしか取れない国や民族と、四方を海に囲まれて、いつでも塩分もタンパク質も摂取できる国では、食文化だって異なります。

    要するに文化は、その土地で人々が生きるための必然です。
    そこに上下を言うのは、カツ丼と牛丼に上下を付けるようなもので、意味がありません。

    我が国に住む一部の日本人のような顔をして日本語を話す日本人でない人たちは、文化に上下を付けたがりますが、それは彼の国が、そういう上下と支配と隷属の文化(それが文化といえるものであったかはともかく)構造が長く続き、いまだに社会が古代のままに据え置かれていることによります。
    哀れなものです。
    だから日本がうらやましい。
    その羨望が、逆ギレして「俺達が上だ」と我を張っているだけのことです。
    幼児の我執性と同じです。

    日本人が、そのような幼児にかまける必要はありません。
    所詮は他人事でしかないからです。
    私たちは、私たち日本が太古の昔から築いてきた日本の文化を、取り戻すだけです。
    そうすることで日本が変わり、世界が変わります。


    ※この記事は2014年9月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    小名木善行です。

    ギリシア神話は、紀元前15世紀頃に遡(さかのぼ)る物語、つまりいまから3500年ほどの過去にまで遡る神々の物語です。
    なかでも紀元前8世紀末の吟遊詩人ホメロスの「イーリアス」や「オデッセイア」などはとても有名です。

    世界が混沌としたカオスの時代からはじまり、オリンポス神々の逸話によって語られる世界は、子供のころ、童話などで読まれた記憶のある方も多いかと思います。
    イメージ的には、とても甘美で美しく素敵な神々の美しい物語と思っておいでの方も多いのではないかと思います。

    そこで、そのギリシャ神話に出てくる物語の一部を抜粋してみます。

    「大地の母神ガイアは、
     子のウラノスと交合して
     三つ子のキプロスたちを産んだ。
     これらはひとつ目の怪物であった」

    「大地の母神ガイアは、
     父ウラノスの男根を切れとクロノスに命じた。
     母から鎌を渡されたクロノスは、
     母ガイアと父がまさに交合しようとするそのときに、
     母に命じられた通りに父の男根を切って殺し、
     クロノスは王になった。」

    「王者クロノスは、
     実の妹のレイアと結婚して5人の子をもうけた。
     クロノスは、
     自分が子に打ち負かされて
     王位を奪い取られる運命にあると
     予言されていたから、
     生まれてきた子を順番に
     食べてしまった。」

    「このとき妻のレイアが隠しとおした子が
     ゼウスである。
     ゼウスは成長すると
     祖母のガイアに教えられた通りに
     父クロノスを騙して吐き薬を飲ませた。
     クロノスはゼウスに飲まされた石を吐きだし、
     続けてクロノスが食べたゼウスの兄や姉を吐き出した。
     吐き出された兄弟たちはゼウスの家来となってクロノスと戦った。」

    「クロノスの子のうちのひとり、
     女神のヘラは、
     実兄の妃となり、
     オリンポスの女王となった」

    「プロメテウスの犯した罪のために弟のエピメテウスはオリンポスを追放された。
     エピメテウスは地上で人間とともに暮らしていたが、
     怒りのおさまらないゼウスは、
     人間にも罰をあたえようとした。
     そこで何でも作れる鍛冶屋の神のヘパイストスに
     女性を造らせた。」

    「できあがった女性に、ゼウスは命を吹き込んだ。
     このときゼウスは、女性に、
     美しさ、
     歌と音楽、
     賢(かしこ)さと狡(ずる)さ、
     好奇心」を与え、
     『これは人間にとっての災(わざわ)いだ』
     と述べた。」


    なにやらとても残酷ですし、また女性を「人間にとっての災(わざわ)い」と規定するなど、よくよく読んでみらたものすごい内容ですが、どうしてそのような物語(神話)がヨーロッパの神話となって広がったのかというと、実はその理由が元《モンゴル》の大帝国の台頭と滅亡にあります。

    よく誤解されていることですが、13世紀以前のヨーロッパの白人社会というのは、決してみやびで豊かな王国社会であったわけではなく、殺し合いと収奪が織りなす、たいへんに原始的な社会となっていました。
    そこに元の大帝国がやってきたわけですが、元は、税率を「力関係」ではなく、あくまで平等な「一定税率」にしたし、戦いに勝利した際の報奨が末端の兵士(あるいは亡くなった兵士)にまでちゃんと行き渡る仕組みを持っていましたから、むしろ元に征服される側の人たちに、城塞都市国家の王に背いて元に味方をする人たちが大勢いたわけです。

    これにモンゴル軍の機動力を活かした強さもあって、またたく間に元はユーラシア大陸を席巻し、その勢力は遠く東欧にまで及ぶことになったわけです。
    ヨーロッパ戦線を担当したバトゥが、たまたま大ハーンのオゴデイが重篤となったために、ハンの後継者を決めるためにモンゴルへと帰還してくれたおかげで、西ヨーロッパはモンゴルに組み込まれずにすみましたが、あと半年、バトゥの帰還が遅れたら、おそらく北欧やイギリス、フランス、スペインなども、完全にモンゴルに飲み込まれたであろうと言われています。

    ところがそれだけの勢力を誇った元の大帝国が、世界史の教科書では、またたく間に滅んだように書かれています。
    これは実は、元が滅んだのではなくて、元の相続制度が、息子たちへの財産(領地)の均等配分方式であったことによります。
    つまり相続が行われるたびに、領土が分割され、細分化されていくのです。
    つまり領土が相続によって細分化されていくことによって、元の勢力が衰えていったわけです。

    世界史の教科書では、その元は明の朱元璋(しゅげんしょう)によって、あたかも軍事的に滅ぼされたかのように書かれています。
    これまた大きな間違いです。

    どういうことかというと、最大の理由が、元の末期の1340年代に、チャイナで疫病(ペスト)が猛威をふるうのです。
    どのくらいの猛威だったかというと、元の人口は1億2千万人だったそうですが、このうちの9500万人が死亡しています。
    さらにペストは元の版図によって、ヨーロッパにまで感染が拡大し、当時のヨーロッパの人口の6割を死亡させています。

    この時代、感染症がウイルスによって引き起こされるなんてことは、誰も知らない(わからない)時代です。
    目の前で人々がバタバタと死んでいくのは、これは神の怒りとしか思われない。
    そして神の怒りを鎮めるのは、もっぱら宗教の役割です。

    さまざまな宗教が起きた中で、実は元にあった白蓮教が、ペスト下で、教団勢力を伸ばしました。
    白蓮教というのはものすごく簡単に要約して言うと白蓮教が、あるときはキリスト教を名乗り、またあるときは仏教を名乗るなど、要するに現世利益のためならなんでもありの宗教であったことによります。
    そして白蓮教では、肉体は闇の存在で悪魔であり、霊魂は光であって尊いものと教えます。
    このため、汚れた存在である肉体の接触を、極度に嫌い、ハグや握手、性交などを忌避しました。

    つまり極端に接触感染を避ける教団であったわけで、実はこの事が、白蓮教をして、なぜかペストから生き残らせるという結果を招いたわけです。

    一方では、普通にハグの習慣を持つモンゴルと、肉体の接触を嫌う白蓮教。
    ペストによって人々がバタバタと死んでいく中で、白蓮教は教団勢力を伸ばし、その白蓮教徒たちは1351年に紅巾の乱を起こします。
    乱を抑える側の元の将官たちは、ペストが怖くて戦えない。
    結局、元は、衛生環境に問題のある大都(北京)を捨てて、北方の遊牧地帯に避難していきます。

    一方で、無人の野を行くがごとく元の領土を奪った紅巾軍の将官であった貧農出身の朱元璋が、紅巾軍以外、誰もいないところで、1368年に皇帝を名乗って建国したのが明です。
    もっともこうして生まれた明も、17世紀にはやはり疫病が原因で、女真族の清によって滅ぼされていくのですが。。

    要するにチャイナでは、疫病の大流行(これに蝗害や洪水なども加わる)によって、大量死が起こり、都度、王朝が交代してきた歴史が繰り返されています。
    疫病、蝗害、洪水といった危機に際して、その被害をまともに受けた地域と、受けなかった地域や民族が、中原を統一して新たな王朝を建ててきたのが、チャイナの歴史であるわけです。

    一方、元の勢力が衰えた中東では、オスマンの大帝国が台頭します。
    オスマンの宗教は御存知の通りイスラム教ですが、イスラムでは、ハグやキスは厳禁で、異性との肌の接触も身内以外とは厳禁です。
    つまり結婚しなければ男女が肌を合わせることができません。
    ということは、感染が起こりにくいわけで、結局、ペストの流行によって元が勢力を衰えさせたところに、ペストの感染率が低いイスラム教徒が、新たに起こした国がオスマンの大帝国であったわけです。

    そしてこのオスマンは、中東から東ヨーロッパあたりまでを勢力下に治め、地中海交易の利権を完全に独占していきます。

    こうなると、地中海沿岸のヨーロッパ諸国は、きわめておもしろくないわけで、生き残った人たちは、自分たちの独立を求めていこうとします。
    そしてこのときに、元に征服されたヨーロッパだけれど、俺達には大昔からの歴史伝統文化があるのだ、ということで興った運動が、有名なルネッサンス運動です。

    ルネッサンス運動は、ひとことでいえば「ギリシャ・ローマの時代に還れ」というものですが、ここで自分たちが栄えある歴史を持った種であることを裏付けたのが、ギリシャ神話であったわけです。

    おそらく(というかいまでもヨーロッパの各民族ごとに古い神話が残っていたりしますが)、ヨーロッパでは中世までに王国同士の殺戮と、極限までの収奪等によって、古い文化がことごとく滅ぼされてしまっていたわけです。
    つまり還るべき原点がない。
    そこで、ヨーロッパの種族の共通の神話として、ギリシャ神話を用いるようになったわけです。

    ギリシャ神話には、もちろん、上にご紹介したような、残酷な面もありますが、さらにギリシャの物語は、ペルシャ戦争におけるテルモピュライの戦いで、100万の軍勢を持つペルシア軍に対し、スパルタ国のレオニダス王は、わずか300の手勢を率いて果敢に戦い、全滅しながらもペルシャの2万の兵を倒した等、勇敢な物語が描かれています。

    ヨーロッパでは、いまなおこのレオニダス王とスパルタ兵を顕彰し、テルモピュライには顕彰碑が建てられて、観光名所ともなっています。
    日本では、先の大戦において数々の玉砕戦が営まれましたが、国をあげての顕彰は、戦後75年経ったいまなお行われていません。
    これに対し、ヨーロッパでは、紀元前480年のテルモピュライの戦いが、2500年経ったいまなお語り継がれ、映画化され、またドラマ化されてる。
    誇りというものは、保ち育まなければならないものであることを、あらためて痛感します。

    いずれにせよ、少々難ありといえども、神話や歴史というものが、民族としての誇りを育むものといえます。
    そして実は、誇りこそが、何が正しくて、何が間違っているのかという美意識の根幹であり、物事への判断の根幹です。

    幸いなことに日本は、よその国から借り物の神話や歴史を運んでこなくても、自国の神話や歴史のなかに、すばらしい、そして誇り高い、さらに美意識の原点となる宝石が山のように積もっている国です。

    せっかく日本人に生まれて、アダムとイブと、イザナギ・イザナミの違いについて外国人から質問されてまったく答えられないのでは、あまりにももったいない。
    日本を建て直すなら、その根幹に神話への共通認識が育まれていなければ、実は建て直しの根幹が定まらないのです。

    さらにいえば、日本の神話は、日本の文化そのものといえます。
    その日本文化は、子供にもわかる「やさしさ」を持ち、かつ、大人であれば大人としてさらにもっと深く知ることができる「深み」を持ちます。
    この「やさしさ」と「深み」こそが、日本文化の根幹にあるものです。

    ところが残念なことに、戦後75年がかりで、神話はただの子供向けの物語とのみしか教えられてきていません。
    それどころか、戦後の風潮は、あらゆる日本文化を、ただのエログロナンセンスに貶めることが、あたかも学問であるかのような錯覚をなすものであり続けました。

    ですから我々がいま、あらためて神話を普及しようとしても、神話があたかもエログロナンセンスのようなものとしてしか認知されない。
    我々は、取り戻すべき神話の「やさしさ」も「深み」も失ってしまっているのです。
    だからこそ我々は、いまあらためて神々の前に謙虚に神話を見直すべきであるのだと思います。

    「確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ) 任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」とは、昭和天皇の終戦のご詔勅です。
    そのお言葉通りに、謙虚に進むことが、我々臣民の道であると信じています。


    ※この記事は2020年9月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    小名木善行です。

    いまから800年あまりの昔のことです。
    ある日ひとりの女性が、歌会(うたかい)に招かれました。
    歌会は、摂政右大臣が私邸で開催したものでした。
    並み居る朝廷の高官たちが、ズラリと顔を揃えていました。

    その日の歌のテーマは「旅宿逢恋」でした。
    順番がめぐってきたときに、その女性は持参した一首の歌を披露(ひろう)しました。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき
    (なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
     みをつくしてや こひわたるべき)

    女性の恋の歌にしてはめずらしく、末尾が「べき」という明確な意思を示した命令口調の歌です。
    そして一聞すると、この歌は、ただ恋に命をかけるかのような歌になっています。

    ところが、よくよく聴いてみると、この歌は
    「仮寝と刈り根」、
    「一夜と人の世」、
    「身を尽くしと海路を示す澪標(みをつくし)」
    などと掛詞(かけことば)を多用しています。
    しかも「一夜をともにした女性」というのは、難波江の女性です。

    この時代の難波江は遊女街でした。
    つまりこの歌は、売春を職業とする遊女の「一夜の恋」を詠んだような歌です。
    ところがこの歌を詠んだ女性は、摂政藤原忠通(ふじわらただみち)の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子様付きの女官長(これを別当(べっとう)と言います)です。
    いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理部長の女性です。

    そのような高貴な女性が、遊女の恋の歌を詠む・・・。

    「ハテ、どのような意味が込められているのだろうか」

    和歌というのは、万感の思いを、わずか31文字の中に封じる芸術です。
    詠み手は、その万感の思いを31文字に封じるし、読み手(和歌を聞く側)は、その31文字から、詠み手が何を言いたいのかを読み取ります。これを「察し」と言います。

    当時の高官たちというのは、そうした察する文化に長けた人たちであり、幼い頃からそのための訓練を和歌を通じて学びましたから、歌が披露されたあと、しばしの沈黙の中で、その場に居合わせた貴族の高官たちは、この歌の意図を察しました。

    すると、その場が、凍(こおり)りついてしまったのです。
    並み居る高官たちが、皆、うつむいて言葉を発することもできない。
    何も言えなくなってしまったのです。

    いったいどういうことだったのでしょうか。

    実は、歌を詠んだ女性の上司である皇嘉門院(こうかもんいん)は、第75代崇徳(すとく)天皇の皇后であられた方です。
    崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に御即位されました。
    そして十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子様を皇后に迎えました。
    この聖子様が、後の皇嘉門院様です。

    お二方はとても仲のおよろしいご夫妻であったと伝えられています。
    けれど、残念なことに子宝に恵まれませんでした。
    こうなると困るのが、聖子様の父の藤原忠通(ふじわらのただみち)です。

    藤原氏の権力の源は、「国家最高権威としての天皇の外戚である」ことにあります。
    つまり子がなくて、別な藤原氏以外の一族の娘との間に生まれた子が次の天皇になれば、その瞬間に藤原氏は代々続いた権力の座から追われることになってしまうことになるのです。

    そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫りました。
    そして天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまいます。
    ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしまわます。

    困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇に就けました。
    ところがこのとき、後白河天皇はすでに29歳です。当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
    ものごとの善悪が十分にわかる年齢になっているわけです。

    天皇が未成年の幼い子供であれば、藤原氏が摂政となることで、事実上、権威と権力の両方を併せ持つことができます。
    何もかもが思いのままになる。
    ところが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原氏は権威を手放したことになってしまう。
    加えて、3歳で皇位に就き、しかも強引に退位を迫られたのは、後白河天皇の実兄の崇徳上皇です。
    表面上はともかく、すくなくとも崇徳上皇が、藤原忠通のことをよく思ってはいないであろうことは、容易に察しがつきます。

    そしてこのことが意味することは重大です。
    もしも、崇徳上皇と後白河天皇のご兄弟が手を結べば、500年続いた藤原氏の栄華は、そこで終わりになる可能性があるからです。

    間の悪いことに、我が国では天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇になれば、上皇は藤原忠通、つまり摂政関白太政大臣よりも政治的に上位の権力者となります。
    つまり崇徳上皇が、事実上の国家最高権力者となるのです。
    その国家最高の政治権力と、国家の柱であり中心核でもある国家最高権威としての天皇が、ご兄弟で手を結べば、藤原の一族は、代々続いた藤原の一族の栄華を失う。

    藤原忠通の、そういう心配がわかるから、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないで、日々歌会などを催していましたし、忠道の娘である上皇后の皇嘉門院を崇徳上皇はとても愛していらされたのです。
    つまり、できるだけ事を荒立てないように、日々、配慮していたのです。

    けれど、そうして崇徳上皇が政治に無関心を装えば装うほど、忠道には、それが裏で何かを画策しているかのように見えてしまう。
    人間、ひとたび疑心暗鬼の虫が宿ると、そこから逃れられなくなるのです。

    そしてついに藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じて、「崇徳上皇に謀叛の兆しあり」という、あらぬ疑いをでっちあげて、武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にするという暴挙に出ます。
    これが保元の乱(1156年)です。
    こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流されました。
    上皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残られたのです。

    政治の争いは、世の争いを招きます。
    朝廷内の権力闘争のために、武力が用いられたということは、紛争の解決手段は、それまでの話し合いではなく、強引に武力による解決を図ることが肯定されたことを意味します。
    それはつまり、「話し合い」よりも「武力」が優先する社会であることを、国の政治がみずから認めたことを意味します。

    中央の乱れは、世間の乱れを誘います。
    こうして世の中は、「力さえあれば何をやっても許される」という、鎧を着た武者が、むき出しの大薙刀を持って市中を闊歩する時代へと動いていくのです。

    世は乱れ、貴族たちが優雅に歌会などを開いている間にも、都をはじめ巷(ちまた)では、殺し合いが平然と起こるようになりました。
    そんな折に、右大臣の私邸で歌会が催され、聖子様が皇后時代からずっと付き従い、聖子様が剃髪して皇嘉門院となられてからも、ずっと付き従っている元皇后陛下付きの女官長であり、いまは「皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)と呼ばれている女性が歌会に招かれたのです。

    彼女は持参した歌を披露しました。
    歌は、意訳すると次のような意味になります。

    「難波の港に住む遊女であっても、
     短い一夜限りの逢瀬でも
     一生忘れられない恋をすることがあると聞き及びます。
     しかし朝廷の高官というのは、
     一夜どころか、
     神代の昔から天皇を中心とし、
     民を思って先祖代々すごしてきました。
     けれど、
     そのありがたさを、その御恩を、
     たった一夜の『保元の乱』によって、
     すべてお忘れになってしまわれたのでしょうか。
     父祖の築いた平和と繁栄のために、
     危険を顧みず
     身を尽くしてでも平和を守ることが、
     公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか」

    歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いていますので、ここでは省略します。
    ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき

    と歌を披露したことで、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
    なぜなら、堂々と叩きつけられた皇嘉門院別当のその歌の内容が、あまりに正論であり、その正論の前にその場にいた貴族高官たちの誰もが、ひとことも反論できるものがなかったからです。
    歌は正論であり、否定することはできません。
    さりとて、認めれば、自分たちがアホのやくたたずであることを認めることになってしまう。
    だから、できることといったら、ただうつむく以外なかったのです。

    皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
    このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあります。
    しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院様に及ぶかもしれない。

    おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
    「この歌の出詠は、
     あくまで私の独断で
     いたしたものとします。
     皇嘉門院様には
     決して咎が及ばないようにいたします」
    と、事前に許可を得ていたことでしょう。

    そして別当からこの申し出を聞き、許可した皇嘉門院も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。

    つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
    そういう戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。

    なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
    挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。

    「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
    日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。

    男女は対等。
    それが日本の文化です。


    ※この記事は2020年9月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    モンゴロイドという言葉は、18世紀のドイツの人類学者のヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)が考案したものです。彼はコーカサス(黒海とカスピ海にはさまれた平原)出身の白い肌を持つコーカソイド(白人種)が、最も美しくてすべての人類の基本形であるとしました。そして他の人種はコーカソイドが「退化した」ヒトモドキにすぎないとし、なかでもモンゴロイドは、13世紀にモンゴルの大軍がモンゴル平原からヨーロッパに攻め込んできたから、モンゴルのゴビ砂漠のあたりを根城にする人々という意味でネーミングしています。つまりモンゴロイド説は、実は人類の始祖とか万年の昔とは何の関係もないものであり名称です。

    20210913 モンゴロイド
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    小名木善行です。

    我々日本人が「モンゴロイド(Mongoloid)」であるという言い方には、非常に抵抗があります。
    なぜなら「モンゴロイド」という言葉は、18世紀のドイツの人類学者のヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach)が、様々な人種のなかで、コーカサス(黒海とカスピ海にはさまれた平原)出身の白い肌を持つコーカソイド(白人種)こそが、最も美しくて、すべての人類の基本形であって、他の人種はコーカソイドが「退化した」ヒトモドキにすぎないということを述べるために造った造語だからです。

    このときブルーメンバッハは、世界の人種を古くからの言い伝えにある五色人の分類を模倣して、人種を5種類に分けています。
    それが、

    ・コーカソイド(白人種)
    ・モンゴロイド(黄色人種)
    ・エチオピカ(黒人種・ニグロイド)
    ・アメリカ―ナ(赤色人種・アメリカインディアン)
    ・マライカ(茶色人種・マレー人)

    で、アメリカーナも、マライカもかなり怪しい分類ですが、とりわけ「モンゴロイド」は、単にモンゴルの大軍がモンゴル平原からヨーロッパに攻め込んできたから付けられた名前にすぎません。

    要するに「モンゴロイド」というのは13〜14世紀の支配者たちのことを言ってるのですから、人類の起源とは何の関係もない単語です。

    ところが、どういうわけか日本では、その「モンゴロイド」が黄色人種、なかでも日本人の源流であって、その「モンゴロイド」たち、つまりモンゴル帝國のモンゴル人が、北方が陸続きだった2万年ほど前に日本列島にやってきて、同じく南方から来た海洋族と混血していまの日本人になったと、多くの人が信じ込まされています。

    冗談じゃありません。
    万年の歴史を持つ日本人と、13世紀のモンゴル帝国が一緒くたになっているのですから、これはもう学説でもなんでもない、ただの暴論です。

    日本の歴史は、モンゴロイドなどという18世紀の言葉より、もっとずっと古いものです。
    島根県の砂原遺跡からは、12万年前の旧石器時代の石器が出土しています。
    長野県飯田市の竹佐中原遺跡から発掘調査された800点余りの遺物は、3万数千年前〜5万年前のものです。

    しかもこのなかには、舟を使わないと往来できないはずの伊豆諸島の神津島でしか産出しない黒曜石が発見されています。
    つまり3万8千年前の日本には、船で神津島まで往来する技術があったということです。

    そして3万年前には、群馬県みどり市の岩宿遺跡から磨製石器が出土しています。
    日本における磨製石器は、3万年前のものだけが単独であるのではなくて、
    昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、
    同年、千葉県の三里塚からも磨製石斧が出土、
    以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

    その中で、長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、竹佐中原遺跡の石器同様、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

    世界では、神話の登場は磨製石器の登場の時代に始まるとされています。
    なぜなら時間のかかる磨製石器をつくるためには、人類が村落共同体を形成し、かつ、その共同体内部において、社会的分業が行われなければならない。
    そしてそれだけの規模を持つ共同体を維持するために、自分たちがどうしてそのような共同体を形成しているのかを示す具体的な物語、すなわち神話が必要とされると考えられるからです。

    およそ7300年前の古代シュメール文明が注目を集めるのは、そういう理由があるからです。
    共同体の維持のためには、自分たちがどこからきて、どのような文化や生活を求めようとしているのかを明確にしなければならないのです。

    自分たちがどこに向かおうとしているのか、という未来の夢を語るには、実は同時に自分たちがなぜここで共同体を維持しているのか、という共同体の原点が不可欠なのです。
    これを失うと、共同体は崩壊します。
    このことは企業も同じです。
    会社がどこに向かおうとしているのかを明確にするためには、同時にその会社が何を、あるいはどこを出発点にして誕生したのかを明確にする必要があるのです。
    なぜならそれは、会社という共同体の構成員の「共通の出発点」となるからです。

    現下の日本の混迷は、まさに日本建国の原点を失ったことによります。
    与野党の攻防や議論、あるいは高市早苗議員の自民党総裁選出馬会見を見ても、会見終了後に、だみ声で怒鳴り声をあげてヤジを飛ばしている、日本人としてみっともなく恥ずかしいマスコミのおじさんがいましたが(いや、ほんとうにみっともない)、そのような下品な振る舞いが、高給取りのエリートのメディアの、しかもこれから総裁選に立候補しようとする人物、もしかすると我が国の顔になるかもしれない人物に対して傲慢に行う品位のなさは、これはもう、完全にその人物が日本人としての誇りも自覚も失ない、ヒガミと嫉妬とお金のことしか頭にない痴れ者に堕ちていることを示しているのではないか。

    要するに、共同体であれば、それが村であっても、会社であっても、任意団体であっても、郷土であっても、そして国家であっても、これを維持するためには、そこに必ず、
    「共同体の出発点に関する共通認識」
    が必要なのです。

    とりわけ日本のように古い歴史を持つ国においては、日本の何を出発点にするかは、極めて重要で、8世紀初頭に書かれた日本書紀も、まさにその時代に、日本の出発点を共通認識にするために書かれた書であり、その書が1200年以上、日本で使われ、学ばれ続けたことによって、高い民度の日本人が形成されたということができます。

    このことは、逆に言えば、神話に限らず、民族の歴史を失ったり、あるいは改ざんされて貶められたりすると、その民族は崩壊していくということを意味します。
    日本の危機の原点が、まさにここにあります。

    4万年前には、海水面がいまよりも80メートルほど低く、日本列島は、台湾と朝鮮半島を直線で結ぶラインが海岸線となっていました。この頃の日本列島にはナウマンゾウも居たんですよ^^

    2万5千年前には、海水面がいまより140メートルも低くなり、日本列島は北と南が大陸と陸続きでした。
    日本海は、おおきな塩水湖となり、朝鮮海峡にはいまの朝鮮半島と日本との間に、わずかばかりの水路で隔てられているだけの状態となります。

    1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、縄文遺跡のほぼすべてには貝塚があります。
    そこから貝を拾って食べていたということがわかるわけで、人は食べなければ生きていくことができませんから、要するに、大昔の人々は、概ね沿岸沿いに住んでいたであろうということがわかります。
    すくなくとも、ゴビ砂漠の真ん中よりは、沿岸部の方が、人が原始生活を営むには適しています。

    それに寒冷化が進めば、土地の所有なんてないのですから、いまよりももっとずっと南にその多くが生息したであろうということができます。
    ところが温暖化が進むと、それまで住んでいた土地が、海に沈んでしまう。
    人魚じゃあるまいし、人は海中では生活できませんから、当然、陸が後退すれば、それに従って、人々の生活の場も、移動していかざるをえません。

    6千年前の最温暖期には、日本列島のいまの平野部はほぼ全部水没して海の中です。
    北海道さえも、石狩平野は海の中で、北海道は2つの大きな島に分かれていました。
    九州、四国、中国地区は、いまの山間部が海上に露出しているだけで、ほかは海の底です。

    要するに万年の歴史を考えるときには、現代の海岸線だけ見ていても、まともな結論は出ないということです。

    ちなみに、モンゴロイドといえば、赤ちゃんの蒙古斑がありますが、日本人の場合、ほぼ100%近く、この蒙古斑が出ます。
    黒人にも蒙古斑がありますが、肌全体が黒いので見分けがつきにくい。
    黄色人種では、現代モンゴル人でも8割くらいには蒙古斑が出るのですが、出ない人も2割ほどあります。
    そしてもしかすると蒙古斑は、世界最古の古人類の痕跡であるのかもしれない。

    そういう意味では、歴史的にも明らかに間違っている「モンゴロイド」という呼称はもう返上して、これからは「ジャパノイド」とでも名付けたほうが良いのかもしれません。
    というか、実際、そうであったのではないかと思います。
    太平洋を駆け回った海洋民族・倭人が、万年の昔に、世界の文明のあけぼのを拓いたというのが真実でしょう。

    けれどいま、そのような主張をしても、おそらく世界には受け入れられないし、誰もよろこばない。
    なぜなら、いまの日本が「弱い国」だからです。
    日本の正義、日本人の生真面目さは工作員によって貶められ、日本の文化は否定され、ありもしない捏造によって、日本人は悪者にされています。
    つまりいまの日本には、正義もパワーもないと見られている。

    世界が本当に平和を望むなら、そして人類社会が公正を望むなら、未来のために、それらを実現してきた過去の日本を学ぶべきです。
    そうすることで、力だけに頼らない、まったく異なる権威と正義と公正と力を兼ね備えた、世界最強の日本が、これは必ず誕生します。
    それが神々の望みなのだと、私は思います。


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  • 日本書紀講義7 天照大御神の誕生


    次回倭塾は9月18日(土)13時半から富岡八幡宮婚儀殿。
    テーマは「ご先祖から預かった大切な日本」です。
    詳細は→https://www.facebook.com/events/453891059222691


    日本書紀は、元正天皇に提出された養老4年(西暦720年)の翌年以来、終戦の年である昭和20年(西暦1945年)まで、1200年以上にわたって我が国の正史として扱われてきた書です。
    「その国の民度は史書によって定まる」と言われますが、そうであるとすれば、日本書紀は我が国の民衆が高い民度を得るひとつの原因となった書ということになります。
    従って我々がいま日本書紀を学ぶことは、日本人としてのアイデンティティを学ぶことにつながります。
    大切な書なのです。

    20210912 天照大御神
    画像出所=https://spirituabreath.com/amaterasuoumikami-tanjyoubi-100338.html
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    日本書紀講義1 清陽(すみあきらか)
    日本書紀講義2 国之常立尊
    日本書紀講義3 創生の男女神
    日本書紀講義4 磤馭慮嶋(おのごろじま)
    日本書紀講義5 陽神左旋・陰神右旋
    日本書紀講義6 陽神左旋・陰神右旋(修正版)
    日本書紀講義7 天照大御神の誕生

    ────────────
    これまでのあらすじ
    ────────────
    前回の抄で、ともに夫婦となられたイザナギとイザナミは、淡路島、本州、隠岐の島などの大八州国を生んだ後、次に海、川、山、木々、草などを生み ます。
    今回の解説は、ここからになります。

    ────────────
    原文を読んでみる
    ────────────
    ここにおいては            既而
    いざなぎみこと いざなみみこと  伊奘諾尊・伊奘冉尊
    ともにはかりて いはくには    共議曰
    あれおほやしま やまかはくさき 吾已生大八洲國
    すでにうむ                及山川草木
    なんぞあめした きみうまむ     何不生天下之主者歟
    ひのかみをうみ            於是共生日神
    おほのひるめの むちとまをす   号大日孁貴
     おほひるめむち              大日孁貴
     これおほひるめ むちといふ     此云於保比能武智
     むちをよみては りきてひのかへし 音力丁反
     あるふみいはく             一書云
     あまてらすおほみかみ         天照大神
     あるふみいはく              一書云
     あまてらすおほひるめのむちのみこと  天照大日孁尊
    このみこひかり うるはしく        此子光華明彩
    りくごうのうち てりとほす        照徹於六合之内
    ゆへにふたつの はしらかみ      故二神
    よろこびて まをさくは          喜曰
    あがこおほしと いへりとも       吾息雖多
    かくくしく あやしきこなし         未有若此靈異之兒
    ひさしくこのくに とどまるはよからず 不宜久留此國
    おのずとはやく あめにおくりて    自當早送于天
    あめのうえの ことにさずけむ     而授以天上之事
    このときあめと つちのあひさる    是時天地相去
    まだとほからず              未遠
    これゆへに あめのみはしら     故以天柱
    もちてはあめの うへにあげるなり  擧於天上也

    《現代語訳》

    伊弉諾尊と伊弉冉尊は、「私たちは、すでに大八洲の国や、山川草木を生みましたから、次には天下の主となる者を生みましょう」と述べられ、こうして日の神が生まれました。 名を大日孁貴と号しました。(大日孁貴と書いて「おほひるめのむち」と読みます。孁の字は国字で霊を変えた字です)
    この神様のことを一書(あるふみ)は天照大神(あまてらすおほみかみ)と書いています。
    また一書は、天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)と書いています。
    この子(みこ)は、光華明彩(ひかりうるはし)く、上下四方を内側から照らし徹(とお)しました。伊弉諾尊と伊弉冊尊はたいへん喜ばれて、
    「たくさんの子を生んできたが、いまだこのような奇(く)しき子は生まれたことがない。この子はこの国にとどめるのではなく、天上界に送って、天上界の事に授けよう」と申しました。この頃はまだ天地は、互いに近かったので、二神は天の御柱(みはしら)を使って、この子を天上界に挙げられました。

    ────────────
    日本書紀は天照大御神を大日孁貴(おほひるめのむち)と書いている
    ────────────
    伊勢神宮の御祭神といえば天照大御神(あまてらすおほみかみ)です。
    天照大御神は我が国の最高神です。
    その御出生について日本書紀は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冊尊(いざなみのみこと)が、はじめに国土を生(う)んだあと、次に海や川、山や草木などを生み、その後にそれまでに生んだすべの神の子らの主人になる神を生(う)もうと話し合って(つまり意図して)生んだのだと記(しる)しています。

    こうして生まれた神様が「大日孁貴(おほひるめのむち)」です。
    日本書紀はこの神様のことを、わざわざ
    「大日孁貴は、
     此(これ)を
     於(お)保(ほ)比(ひ)屢(る)咩(め)能(の)武(む)智(ち)
     と云う」
    と注釈しています。
    ですから読みは間違いなく「おほひるめのむち」です。
    そのうえで、
    「書によっては天照大御神
     (あまてらすおほみかみ)と書き、
     あるいは他の書には天照大日孁尊
     (あまてらすおほひるめのみこと)
     と書いている」
    と注釈しています。
    天照大御神のことなのだから、最初からそのように書けば良さそうなものを、意図して「大日孁貴」と書いているということは、そこに何やらメッセージがありそうです。

    そこで問題になるのが「孁(め)」という漢字です。
    日本書紀はこの「孁(め)」は、「孁音力丁反」と注釈を付けています。
    これで「孁(め)の音(よみ)は力丁(りきてい)の反(かえ)し」と読み下すのですが、これは「反切(はんせつ)」といって、前の音(力)の最初の読みと、次の音の「丁」の後ろの読みを取って読むことを意味します。
    「力」は「ri-ki」、「丁」は「tyou」ですから、その最初と最後の音をとって「ru=ル」と読みなさいと注釈しているわけです。

    これは現代語でも、たとえば「教(おそ)わった」が「おさった」と発音されることと同じです。
    この場合ですと、
     教わった   osowatta.
     おさった   osatta.   になります。

    この「孁」という字は、日本で生まれた国字(こくじ)で、中国漢字には「孁」という文字はありません。あるのは「霊」です。日本書紀は「霊」の字の旁(つくり)の部分を「女」に変えて、「この字は霊という字なのだけれど、天照大御神は女性神だから「孁」と書きました」とわざわざ注釈しているわけです。

    そのうえで、「大日孁貴」の読みは「於保比屢咩能武智(おほひるめのむち)」であると注釈しています。
    従って「大日孁貴」の読みは「おほひるめのむち」で間違いありません。

    ────────────
    大日孁貴と書いた理由
    ────────────
    ではなぜ日本書紀は、天照大御神のことを、わざわざ「大日孁貴」と書いたのでしょうか。
    これについては古来謎(なぞ)とされてきたのですが、拙著『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』で、ひとつの見方として、これはもともとは縦書き文書で「霊女」と書かれていたものを、詰めて「孁」と書いたのではないかと解説させていただきました。

     理由は三つあります。

    1 中国漢字に「孁」という字は存在しない。
    2 「霊」の旧字は「靈」だが、これを「るめ(ru-me)」と読むことはない。
    3 「霊」だけならば「る」と読むことができ、「女」は「め」と読める。

    つまりもともと「大日霊女貴(おほひるめのむち)」と書かれていたものが、どこかで「霊女」がつながって「孁」のかもしれないと解説させていただきました。実際「大日霊女貴」ならば「おほひるめのむち」と読むことができるからです。
    また、「大日霊女貴(おほひるめのむち)」と表記しますと、なにやら「霊女」のところが、曖昧な《幽霊のような存在みたいな》印象になってしまいます。
    天照大御神は我が国の最高神ですから、そのような表記はよろしくないということになって、「霊女」をおもいきってつなげて「孁」としたのではないでしょうか。
    いまのところ「孁」の記述に関しては、これ以上の見方は他にないと思います。

    そして「霊」という字は、略字が「巫」ですから、「霊女」を略字で書けば「巫女(みこ)」となります。
    すると「大日孁」は、
    「大日巫女(おおいなるひのみこ)」となります。
    「大」を取れば「ひみこ《日巫女》」です。

    同じ音の女性が魏志倭人伝にも「卑弥呼(ひみこ)」として登場します。
    卑弥呼は完全に当て字ですから、もともとは「日(ひ)の巫女(みこ)」であり、その女性が「光華明彩(ひかりうるはし)く、上下四方を内側から照らし徹(とお)す」ような素晴らしい女性であったことから、いつしかその女性が我が国の最高神となったのかもしれません。

    しかしだからといって魏志倭人伝にある「卑弥呼」を、日本書紀の大日孁貴(おほひるめのむち)と同一視することは間違っていると思います。
    魏志倭人伝の記述は二世紀後半から三世紀にかけての出来事です。
    その頃倭国で大乱があって、卑弥呼がこれを鎮(しず)めたという記述がありますから、このときの卑弥呼が偉大な女性であったことは事実であろうと思います。
    けれど我が国の神語(かむかたり)にある大日孁貴が「日の巫女」であるのならば、そうした巫女の職は代々受け継がれていくものです。
    その最初の女性が、イザナギとイザナミが生んだ「大日孁貴(おほひるめのむち)」であったのではないでしょうか。

    いまでもお伊勢様で毎年天照大御神の依代になる 女性が選ばれ、儀式が行われていますが、ときにその依代となった女性が、深夜に光り輝くことがある のだそうです。実際、写真で観たことがありますが、 真っ暗な中に、その女性だけがまるで内側から発光しているかのように光っているのです。
    世の中には 不思議なことがあるものです。

    ────────────
    大和言葉での「おほひるめのむち」とは
    ────────────
    ではもうひとつ、「おほひるめのむち」とは、いかなる意味を持つのでしょうか。
    「おほ」は偉大な、「ひ」は日ノ神を意味します。「め」は女性です。問題は「る」と「む・ち」です。大和言葉では「る」は「流留畄」で、流れやそれを留めることを意味します。
    ですから「ひるめ」なら「太陽の光を留める《もたらす》女性」という意味になります。
    「む」は無、「ち」は凝固するものを意味しますので、「むち」ならば「決してひとつにかたまったり、偏在することなく、すべてにあまねく行き渡る」ことを意味します。
    太陽の光りは、すべてをあまねく照らします。
    そのことを「ひるめ」の「むち」と表現したのではないでしょうか。

    だからこそこの神様は、
    「光り華(はな)やかに明(あかる)く彩(いろど)られ、
     上下四方を内側から照らしとおす神様であったため、
     伊弉諾尊と伊弉冊尊がたいへん喜(よろこ)ばれて、
     『たくさんの子を生んできたが、
      このような奇(く)しき子は生まれたことがない。
      この子はこの国にとどめるのではなく、
      天上界に送って、天上界の事に授けよう』
    と話し合い、このころは『まだ天地が互いに近かったので』、二神は天の御柱(みはしら)を使って、この子を天上界にあげられたと日本書紀は描写しているわけです。

    ここでいう天上界とは、高天原のことですから「大日孁貴神(おほひるめのむちのかみ)」は、高天原の最高神となられたというわけです。

    日本書紀は、元正天皇に提出された養老4年(西暦720年)の翌年以来、終戦の年である昭和20年(西暦1945年)まで、1200年以上にわたって我が国の正史として扱われてきた書です。
    「その国の民度は史書によって定まる」と言われますが、そうであるとすれば、日本書紀は我が国の民衆が高い民度を得るひとつの原因となった書ということになります。
    従って我々がいま日本書紀を学ぶことは、日本人としてのアイデンティティを学ぶことにつながります。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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