• 下照比売(したてるひめ)の物語


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    『古事記』は、たとえ罪人としてお亡くなりになった方であっても、ただ悪人だった、裏切り者だったと軽んずるのではなく、「結果として謀反人になってしまったけれど、真剣な愛に生きたという良い面もあり、また妻に心から愛された男であった」とちゃんと書いています。
    ここに日本的思考の美しさの原点があると私は思っています。

    小灘一紀『下照比売命』
    20211031 下照比売命
    画像出所=http://nota.jp/group/kansaibeijou/?20150214020632.html
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    小名木善行です。

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    古事記の国譲り神話のところに、高天原から派遣されたキジを射殺した天若日子(あめのわかひこ)が、神罰によってお亡くなりになるシーンがあります。
    このときちょっと不思議なお話が書かれています。

    簡単に要約してみます。

    中つ国で亡くなった天若日子の妻の下照比売は、夫の死を悲しみ、その哭(な)く声は風とともに響いて高天原まで聞こえてきたのだそうです。
    これを聞いた天若日子の父の天津国玉神と、その妻子は、高天原から降りて来ると、哭き悲しんで、天若日子の亡くなったところに喪屋(もや)を作り、八日八夜、葬儀を行いました。

    この時、阿遅志貴高日子根神(あちしきたかひこねのかみ)が、天若日子を弔(とむら)うためにやってきました。
    すると天若日子の父や妻が、
    「我が子は死ななかった。
     我が君は死なずにいてくれた」と、みんなで阿遅志貴高日子根神の手足に取りついて哭(なげ)き悲しんだのだそうです。
    古事記はここで、「天若日子と阿遅志貴高日子根神の二柱の神の容姿がたいへんよく似ていたから間違えたのだ」と書いています。

    ところが阿遅志貴高日子根神は、これにおおいに怒り、
    「我は愛(うるは)しい友だからこそ弔(とむら)いに来た。
     なにゆえに吾(あ)を穢(きたな)き死人に比べるのか」
    と云うと、腰に佩(は)いた十掬劍(とつかのつるぎ)を抜いて喪屋を切り伏せ、バラバラになった喪屋を足で蹴散らし、そのまま忿(いか)って飛び去ってしまわれました。

    このとき、天若日子の妻である高比売命(たかひめのみこと)は、兄の御名(みな)を知らせようとして、次の歌を詠んだとあります。

    あめなるや おとたなはたの  阿米那流夜 淤登多那婆多能
    うなかせる たまのみすまる  宇那賀世流 多麻能美須麻流
    みすまるに あなたまはや   美須麻流邇 阿那陀麻波夜
    みたに ふたわたらす     美多邇 布多和多良須
    あちしきたかひこねのかみそや 阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也

    そして古事記は、「この歌は夷振(ひなふり)といい、いまも楽器とともに演奏されている歌です」と、この歌にまつわる物語を〆ています。

    すこしやっかいなのですが、ここに出てくる下照比売と高比売命(たかひめのみこと)は、同じ女性のことです。大国主神と多紀理毘売命(たきりひめのみこと)との間に生まれた娘で、大国主神のところに、高比売命(たかひめのみこと)、またの名を下光比売命(したてるひめのみこと)と書かれています。
    そして天若日子と結婚するのですが、やってきた阿遅志貴高日子根神の実の妹でもあります。

    歌にある、
    「あめなるや」は、天上界にいるです。
    「おとたなはたの」は、若い機織り娘のです。
    「うなかせる」は、うなじ、つまり首に架けている、
    「たまのみすまる」は、宝玉を一本の緒で貫いた首飾り
    「あなたまはや」は、緒で穴を貫いた玉よ、
    「みたに」は、御谷、
    「ふたわたらす」は、二つの谷をわたる
    「あちしたかひこねのかみそや」は、阿遅志貴高日子根神や、です。
    これをもとに歌を訳すと以下のようになります。

     天上界においでになる若い機織り娘が首に架けている首飾り
     その首飾りの緒で貫いた宝玉は
     二つの美しい谷を渡る
     阿遅志貴高日子根神なのです

    この下照比売の歌について、多くの解説本が、兄の阿遅志貴高日子根神を讃えた歌だと解説しています。
    私は、違うと思います。
    なぜなら愛する夫を失った下照比売が、ただ兄を讃えただけというのでは、話が通じないからです。

    そもそも歌の中に「二つの美しい谷を渡る(美多邇 布多和多良須)」とあります。
    天上界のひとつの宝玉が二つに渡るというのは、天若日子の魂と阿遅志貴高日子根神が、同じひとつの御分霊であるということです。
    そしてその宝玉は「阿遅志貴高日子根神である」と詠んでいます。

    天若日子は神に背いたいわば犯罪者です。
    ですから直接その名を歌に詠み込めば、それは罪人を讃える(神に背く)ことになります。
    つまり「言えないこと」です。

    ところがその天若日子の御霊と、阿遅志貴高日子根神が同一の御分霊であれば、下照比売が阿遅志貴高日子根神を讃えれば、それは天若日子を讃えることになります。
    つまりこの歌は、残された妻の、夫への失われぬ愛が読み込まれているとわかります。

    本節の末尾には、「この歌は楽器とともに演奏される歌です」と書かれています。
    天若日子と下照比売の愛が、長く歌い継がれたのです。

    このように『古事記』は、たとえ罪人としてお亡くなりになった方であっても、ただ悪人だった、裏切り者だったと軽んずるのではなく、「結果として謀反人になってしまったけれど、真剣な愛に生きたという良い面もあり、また妻に心から愛された男であった」ということを、ちゃんと書いています。
    そしてそのことが歌となり、永く語り継がれているとも書いています。

    どんなに良くしてもらっても、戦いに破れたら手のひらを返したように、彫像までつくって通行人に唾をはきかけることを強要する国もあります。
    けれど『古事記』は、どこまでも、人の愛を尊重しているのです。
    それが日本のこころだと思います。
    そして人の愛を尊重する、あるいは活きる、ないしは認められる社会というものは、たいへんに民度が高い社会であるということがいえようかと思います。

    これは福沢諭吉が説いていることですが、民度が低く、誰もが自分の利益ばかりを追求するような国では、「咎人であってもその愛を尊重」するなどという甘いことは言ってられないからです。
    すこしでも甘い顔をしたら、すぐに民がつけあがって、自分の利益だけを声高に主張し、我儘を押し通そうとする。
    ですからそのような民を持つ国では、政府は厳罰主義で、一片の情のカケラもない苛斂誅求の辛き政府にならざるをえません。

    そしてそのような国では、政府が民の民度を信じる姿勢を見せれば見せるほど、民衆はつけあがり、一部の者だけが利権を貪り、その利権を貪る者が、心が貧しくなった民衆を扇動して、より一層、愚かな貪りをし抜くようなになります。
    悲しいことですが、そのような国においては、政府が民を人間と思ってはいけない。
    李承晩は、朝鮮戦争のときに自国民を片端から虐殺しました。
    朝鮮戦争による南朝鮮の死者は、北に殺された人の数より、自国の軍隊に殺された人の数のほうが圧倒的に多かったとも言われています。
    そしてそのことの罪を問う声は、いまだに国の内外からひとつもあがっていません。
    毛沢東も、1億人以上の自国民を殺したと言われています。
    けれど彼もその国、その民族にとっては「偉大な英雄」です。

    李承晩にしても毛沢東にしても、それぞれその本人にとっては、ある意味幸せで充実した生涯であったかもしれません。
    しかし、そうした人をリーダーに仰ぎ、そうした人の持つ政府によって虐殺されたり収奪されたり、あるいはかろうじて生き残っても、極貧生活を余儀なくされる国民、あるいは民衆にとって、その時代は幸せな時代であったということができるのでしょうか。

    なにより大切なこと。
    それは誰もが豊かに安心して安全に暮らせる。
    そういう社会なのではないでしょうか。
    そしてそういう社会であり、民族であればこそ、たとえ咎を受けたとしても、その夫を愛する妻の想いとその心が大切に尊重され、歌にまでなって、永く讃えられたのではないでしょうか。

    冒頭にある小灘一紀(こなだいっき)画伯の絵は、その下照比売です。
    小灘一紀画伯は、古事記を題材に様々な絵を書き、展示会等を通じて古事記の普及に携わっておいでの境港ご出身の洋画家です。
    どの絵も、とても美しい絵です。


    ※この記事は2016年8月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 重巡洋艦「熊野」の生きざま


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    「熊野」は日本人です。小柄です。
    小柄で、ちっちゃいけれど、打たれても打たれても、何度でも立ち上がった重巡です。
    まるで日本人そのものです。

    重巡洋艦「熊野」
    20211029 熊野
    画像出所=https://hitujimokei.seepmodel.com/work/kumano/
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    小名木善行です。

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    日本海軍が誇る、重巡洋艦「熊野」の物語を書いてみようと思います。
    「熊野」は最上型の4番艦で、川崎重工の神戸造船所で建造されました。
    艦名の由来は、紀伊半島にある熊野川に因んだといわれています。

    もともと軽巡洋艦として造られた船です。
    ですから、小柄です。
    小柄で、ちっちゃいけれど、打たれても打たれても、立ち上がった艦です。
    その姿は、まるで日本人そのものです。

    昭和5(1930)年のロンドン軍縮会議で、日本は補助艦全体の保有率を、対米比、6.975とすることが決められました。
    日本海軍は、政府が勝手に決めてきたこの条約に対処するため、まだ余裕のあった軽巡洋艦の枠を利用して、翌、昭和6(1931)年、ロンドン条約でいう15cm砲搭載の軽巡洋艦4隻の建造を決めました。
    これが、最上型巡洋艦です。
    「熊野」は、その4番艦でした。

    最上型巡洋艦は、小粒だけれど、重巡洋艦に匹敵する艦載装備が施されました。
    20センチ主砲搭載の重巡洋艦に対し、15センチ砲の数で対抗。
    しかもこの砲、いつでも20センチ砲に取り換えれるように工夫されました。
    そうすることで、いつでも軽巡から重巡に変更できるように設計されたのです。

    加えて対空火力がとてつもなく強い。
    まるで高射砲要塞となりました。

    防御面でも、甲板や舷側の装甲がぶ厚くて、少々の魚雷や砲撃では沈められないよう工夫されました。

    エンジン出力はなんと、あの戦艦大和と同じ15万2000馬力です。超破格です。
    この強力エンジンで、しかも艦が小さいから、速力はなんと37ノット。
    まるで海のフェラーリでした。

    さらに被害時の不燃化が徹底して図られていて、普通の戦艦なら木を使うところも、ぜんぶ鋼板が使われています。
    しかもご丁寧に、木目調にされ、さらに毒ガス被害も想定して、ガス対策のための洗浄室まで設けられました。

    軽巡洋艦と侮るなかれ。
    中身は、大型戦艦に匹敵する、当時としては最先端の性能を持つ船として、就航したのです。

    そして「熊野」は、昭和14(1939)年には、当初主砲として搭載されていた15.5センチ砲を、晴れて20センチ砲に換装しました。
    こうして軽巡洋艦から重巡洋艦へと成長しました。

    昭和16年12月、大東亜戦争が開戦となると、「熊野」は、マレー上陸作戦、アンダマンやビルマの攻略戦、バタビア沖海戦などに参加し、次々と大きな戦果をあげました。
    そして昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起こる。

    この海戦で、「熊野」兄弟の長女にあたる「最上」は中破、二女の「三隈」は沈没してしまいます。
    闘いの最中、「熊野」も米艦載機の攻撃で大被害を受け、混乱の中で「最上」と衝突事故まで起こしてしまうのですが、それでも「熊野」は沈むどころか、ますます強靭に敵への砲撃を加えます。
    あまりの「熊野」の強靭さと火力に、むしろ米軍の方が、驚いたと記録されている。

    不思議なことに「熊野」は、開戦当初から、数々の海戦に参加するのだけれど、敵の空襲でそれなりの被害を受けながらも、沈むような状況に追い込まれたことがまるでない。
    これはもう、幸運としかいいようがない、ということで、戦争半ばからは、「熊野」が旗艦となり、「鈴谷」「利根」「筑摩」の3艦を率いて、第七戦隊となります。

    そして、昭和19(1944)年10月、運命のレイテ沖海戦に第七戦隊は、栗田艦隊旗下で参戦する。

    10月24日、栗田艦隊旗艦の戦艦「武蔵」は、米艦載機の猛攻撃を受けて、航行不能に陥ってしまいます。
    戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15の威容を誇った栗田艦隊は、旗艦の武蔵が大破し、重巡の「麻耶」「愛宕」が潜水艦の魚雷で沈み、「高雄」も雷撃で大破、「朝霜」「長波」「妙高」も、中破して帰投していきます。

    ところがこれだけの激しい戦いの中、なんと「熊野」以下4艦で構成する第七戦隊は、まるで無傷。
    悠々と敵を倒し、さらに翌25日早朝にはサンベルナルジノ海峡を突破します。

    そして夜が明けた午前6時44分、艦隊は艦載機を満載した米機動部隊を発見します。

    これまで敵航空機にさんざんやられっぱなしだった艦隊は、喜び勇み、7時3分、敵艦隊に向けて主砲を発射します。

    このときの敵艦隊は、米海軍の護衛空母部隊です。
    兵力は空母6、艦隊駆逐艦3、護衛駆逐艦4です。

    「熊野」は、猛然と最大出力で米空母に向けて一直線に詰め寄ります。
    すると敵艦隊は、空母を守れとばかり、煙幕を張り、「熊野」が空母を目視できないようにしてしまいます。

    目標が視認出来なくなった「熊野」は、さらに速度を上げる。

    そのとき、煙幕の中から米駆逐艦の「ジョンストン」が、「熊野」の真横に飛び出してきます。
    体を張って、「熊野」の突撃を阻止しようとしたのです。

    日本艦隊は、もちろん「熊野」一艦ではありません。
    煙幕から飛び出すということは、自身が敵前に身を晒すことになる、きわめて危険な行動です。
    それでも「ジョンストン」は我が身を晒しながら、突進する「熊野」に向けて、5門の主砲を全開にして砲撃を加え、さらに5連装発射菅2基から10本もの魚雷を一気に発射して、「熊野」を倒そうとします。

    距離、約9000メートルです。
    もはや、敵空母は目前というところです。

    「熊野」は、これまでの幸運を信じ、「ジョンストン」の発射した主砲や魚雷に目もくれずに、空母に向かって突進する。

    7時25分、「熊野」は左舷から突進してくる3本の魚雷を補足。
    やむをえず回避行動をとり、2本をかわします。
    けれど、最後の1本が、「熊野」の左舷側から、艦首一番砲塔横に命中する。

    大音響とともに、「熊野」は艦首の錨孔から前を吹き飛ばされてしまいます。

    「熊野」は、双方の砲声響くど真ん中で、艦首から浸水が始まり、停船を余儀なくされます。
    そして砲弾が渦巻き、米空母から次々と敵航空機が発艦してくる中を、必死で、吹き飛んだ艦首の修繕を行います。

    そしてどうにか、時速20キロで航行できるところまで、回復する。

    この間、煙幕から飛び出して「熊野」を叩いた「ジョンストン」に向けて、「榛名」が報復の主砲を撃ち込みます。

    なにせ敵の姿が見えている。
    日頃の訓練の賜物です。
    「榛名」の主砲弾は、全弾が「ジョンストン」に命中。
    さらに第十戦隊の「雪風」などが砲撃を加え、レイテの海に沈めてしまいます。

    一方、艦首を吹き飛ばされた「熊野」は、これ以上の戦闘の継続ができません。
    やむをえず「熊野」は、米軍の空母艦載機が、空を舞うレイテ近海を、12ノットという超ノロノロ運転で、単艦、修理のためにマニラへと後退します。

    ところが、単艦で帰投する途中、おそらく上空から見る「熊野」は、艦首が吹き飛ばされていて艦様が変わっていたので見分けがつかなかったのでしょう。「熊野」はなんと日本軍の飛行隊に襲われてしまいます。
    最初は水上爆撃機「瑞雲」3機です。
    続いて艦上攻撃機「天山」1機が飛来し、爆弾を投下してきた。

    幸い、命中弾はありませんでした。
    「熊野」の乗員たちは、友軍機の錬度が落ちていること、彼らが敵味方の区別すら満足に出来なくなっていることを痛感します。

    17時15分、ノロノロ走行を続ける「熊野」に向けて、米軍の爆撃機35機が、襲ってきます。
    「熊野」は単艦です。航空隊の護衛もない。
    しかも満身創痍です。

    それでも「熊野」は、猛然と対空砲火を開始し、敵艦載機から投下された爆弾をすべて回避、そして撃墜こそできなかったものの、敵爆撃機を全部追い払ってしまいます。
    すごいものです。

    翌朝8時過ぎ、再び、米艦載機が襲ってきます。
    戦雷爆合わせて30機の編隊です。

    「熊野」は猛然と高射砲で対抗したのだけれど、うち3機が朝日を背負って目くらましで「熊野」に突進し、爆弾を投下する。
    なんとか一機目の爆撃は回避したのだけれど、2番機の3発が艦橋と煙突に命中、「熊野」は25ミリ機銃群が全滅し、艦橋左舷の高射砲、高角測距儀、水上電探室が壊滅してしまいます。

    そして破壊された煙突の鋼鈑が、横の高角砲に垂れ下がり、高角砲も使用不能になってしまう。
    この戦いで、乗員40名が戦死します。
    それでも「熊野」の乗員たちは、粘りに粘り、ついに敵戦雷爆を打ち払います。

    しかし、煙突をやられた「熊野」は、ついに航行不能に陥ってしまう。

    その「熊野」を、1時間後、さらに15機の米軍雷撃機が襲います。
    「熊野」は、すでに航行不能に陥っている。
    人で行ったら、瀕死の重傷を負った状態です。

    それでも残った砲の全てを使いきり、砲弾を米艦載機の鼻先に集中させた。
    そうすることで、敵機が雷撃行動をとること自体の阻止を図ったのです。
    高速で空を飛ぶ敵航空機が、まさに雷撃しようとする瞬間を狙って、その鼻先に砲弾を集中させるのです。

    こうして「熊野」は、15機の編隊の攻撃を、全部かわしてしまいます。
    そして一発の命中弾も受けずに敵機を追い払う。
    まさに練達の砲兵ならではの応戦です。

    戦いの最中にも、乗員の一部は、艦の復旧作業をしています。
    そして、10時過ぎ、「熊野」は、かろうじて航行できるようになる。

    速度は時速18キロくらいです。
    その速度で「熊野」は、必死でコロン湾に向かう。

    15時、やはりレイテから後退してきた重巡「足柄」と駆逐艦「霞」がようやく「熊野」と合流します。

    16時05分、コロン湾に入港。
    油槽船「日栄丸」から燃料補給を受け、やはり撤退してきた重巡「那智」、駆逐艦「沖波」とも合流する。

    そして敵に見つからないように、夜間に出航し、他の船とともに、10月28日午前6時にマニラ港に入港します。

    ところがせっかくマニラに入港したのに、「熊野」は投錨できない。
    艦首を吹き飛ばされて、主錨が失われていたのです。

    そこで、先にマニラに入港していた特務艦「隠戸」に横付して、両艦を縄でくくり、工作部に応急修理をしてもらうことにした。

    さすがは工作部です。
    わずか6日で、めちゃめちゃに破壊された艦首を成形し、煙突を破壊されて使えなくなっていたエンジンを、8基のうち、4基まで復旧させてしまいます。

    連合艦隊司令部からは、「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航すべし」との命令が出ます。

    時間があれば、完璧に修理したいところです。
    けれど、このままマニラにいたら、さらなる空襲を受ける危険がある。
    それに、とにかく動ける以上、同じく日本に帰還するマニラの油槽船や海上トラック船を護衛しなければなりません。
    それが帝国軍人であり、巡洋艦の使命です。

    3日後の11月6日午前7時、「熊野」は、同じく巡洋艦の「青葉」とともに、日本に向かって帰投する輸送船団らを守って、マニラを後にします。

    船団の速度は、わずか時速15キロです。
    しかも「熊野」も「青葉」も、敵に襲われたときの迎撃用の高射砲の、肝心の弾薬が残り少ない。
    「熊野」に至っては、この時点で使える砲塔は、一部の主砲と、25ミリ機銃30門だけです。
    その状態で、「熊野」は、13隻の輸送船の護衛の任にあたった。

    船団は、沿岸ギリギリを北上しました。
    右舷を、ギリギリ岸に近づけていれば、敵潜水艦が襲ってきても、船は沖に向いた左舷だけ注意すれば足ります。

    出発から3時間経った午前10時、リンガエン湾の北側で、艦隊は、哨戒にあたっていた米潜水艦団、「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻に見つかります。

    10時10分、米潜水艦団は、日本の輸送船団に襲いかかります。

    4隻の潜水艦は、わずか35分の間に、全艦が、輸送船団に向かって計4回の波状攻撃で魚雷を放ちます。

    けれど、日本の船団は、この魚雷攻撃をいち早く察知して回避行動をとります。

    最初の魚雷攻撃は、全艦が、これを回避します。
    米軍の魚雷は、むなしく岸の岩に激突して爆発した。

    2度目の魚雷攻撃も、全弾、回避に成功します。
    輸送船はどれも小粒で、的が小さいうえに日本人乗員の操船技術が巧みなのです。

    そうと知った米軍潜水艦群は、その標的を全艦、「熊野」に向けてきます。
    なにせ船団の中では、「熊野」がいちばん的が大きい。

    3回目の攻撃は、まず「レイトン」が6本の魚雷を全弾、「熊野」に向けて放ちます。
    「熊野」はこれを回避するために、取り舵を切り、そのため背にしていた岸から離れてしまいます。

    その直後、米潜水艦の「レイ」が、「熊野」に向けて、4回目の魚雷攻撃を仕掛けます。

    「熊野」は、ようやっと動いているだけのエンジンを全開にして、そのうち2本をかわします。
    しかし、次いで放たれた3本目の魚雷をかわしきれなかった。

    3本目の魚雷は、レイテで直撃を喰らい、応急処置で修理したばかりの艦首に再び命中します。
    「熊野」は、第一砲塔から前を、吹き飛ばされてしまう。

    すかさず4本目の魚雷が発射されます。
    これは「熊野」の一番機械室に命中し、機械室を破壊して隔壁を吹き飛ばします。

    「熊野」は、この攻撃で、エンジンルームが浸水し、完全に航行不能に陥ってしまう。
    船体は、右舷に8度傾き、26名の乗員が死亡。
    残りの乗員は、手作業で海水を汲みだし、もはやようやく船が浮かんでいるだけの状況となります。

    これを見た米潜水艦の「レイ」は、「熊野」に止めを刺そうと、「熊野」に近づきます。
    ところが、そこには、海底に大きな岩が突き出ていた。
    「レイ」は座礁し、船体をバックさせてこれを逃れるけれど、浸水が激しく、それ以上の追撃が出来なくなります。

    そして魚雷を撃ち尽くした米潜水艦たちは、その場を去っていく。

    この時点で「熊野」は、またしても航行不能です。
    乗員たちの必死の作業で、なんとか浸水を喰い止めたものの、機関が動かない。

    やむなく船団の中の油槽船で、曳航しようとするのだけれど、浸水を含めて1万トン以上の重量となった重巡洋艦を、2200トンの油槽船でまともに曳航できるはずもありません。

    けれど、折からの追い風の幸運に助けられ、船団は、わずか時速3キロという、這うようなスピードで航行し、翌7日15時に、サンタクルーズ港に入港します。

    サンタクルーズ港というのは、小さな漁港です。
    なんの港湾設備もない。
    とりあえず、そこで船を停泊させ艦の修理をしようとするのですが、そこに折からの台風が襲いかかります。

    やむなく「熊野」は、輸送船団を先に行かせます。

    いよいよ台風がやってくる。
    「熊野」は、船首を敵に吹き飛ばされています。
    ですから錨がない。

    しかたがないので、錨口にロープを結んで岸につなぎ、錨代わりにしたのだけれど、やってきた暴風雨に、ロープが切られ、船が湾内を流され始めます。
    そのまま岸辺に激突したら、一巻の終わりです。
    乗員たちは、艦に積んであった約3トンのホーズパイプを海底に垂らします。
    これがかろうじて、海底にひっかかり、ようやく艦が流されずにすんだ。
    またしても「熊野」は生き残ったのです。

    台風が去ったあとの11月12日、救難艇「慶州丸」が到着します。
    「慶州丸」は、マニラから、第103工作部隊を乗せてきてくれた。

    そこで乗員全員で力を合わせて、艦の復旧作業を始めます。

    9日後、努力の甲斐あって、ようやくエンジンの一部が回復。
    艦は、時速10キロほどで航行できるようになります。

    けれど、あちこちで蒸気漏れを起こしています。
    これでは、たちまち真水が不足してしまう。

    そこで乗員たちは、なんと手作業で真水500トンを艦内に運び込みます。
    500トンです。
    よくやったものです。

    しかも、ろくな設備もない艦内で、船の修繕中や、水を運び込んでいる最中に、どこからともなく米軍機が現れて、空襲を仕掛けてくる。
    その空襲の都度、乗員の戦死者が続出します。
    やむなく敵を追い払うために高射砲を撃つのだけれど、そのためにただでさえ不足気味の弾薬が、急速に欠乏してしまう。

    11月22日、マニラから補給船がやってきます。
    「熊野」は、高射砲機銃弾4500発と応急資材、糧食、軽油等の補給を受けます。
    4500発とはいっても、30門の高射砲で割ったら、一門わずか150発です。

    速射したら数分で、なくなってしまう。

    25日、マニラから海防艦「八十島」が応援にきてくれます。
    そこで、「熊野」は、負傷者を「八十島」に移乗させ、マニラの病院に搬送してもらうことにした。
    けれど「八十島」は、出発直後に撃沈され、負傷者も、海に沈んでしまいます。

    「八十島」を撃沈させた敵機は、続けて湾内にいる「熊野」に集中攻撃をしかけてきます。
    迎え討つ「熊野」には、弾がありません。

    「熊野」は、敵機めがけて、一発必中で弾を撃ちます。
    連射したら、弾が持たないのです。
    狙い定めて、一撃必殺。
    あまりに正確な「熊野」の迎撃に、米軍機は、全機、離反してその場を去っていく。

    残りの弾薬3000発です。
    砲門1門あたり、残り、わずか80発しかありません。

    数時間後、再び敵機が来襲します。
    これは米空母「タイコンデロガ」の搭載機で、SB2Cという、米海軍の主力爆撃機です
    しかも20機以上の大群です。

    場所は狭い湾内です。
    しかも「熊野」は、エンジン出力を全開にしても、時速10キロしか速度を出せない状態です。
    そんな「熊野」に、海上の艦船爆撃を専門とする米軍のSB2Cの爆弾や魚雷が、次々と命中します。

    まず、艦橋後部に1発が命中。
    そして艦橋後部に、連続して2本の魚雷が命中。
    一番砲塔横と飛行甲板横にも、1本ずつの魚雷が命中。
    爆弾が二番砲塔に命中。
    その他、数十発の砲弾を浴びて、ついに「熊野」は、左舷に傾き、そのまま転覆してしまう。
    このとき、艦長以下400名も、一緒に海に沈みます。

    昭和19(1944)年11月25日15時30分のことです。

    沈没時、船を逃れて岸まで泳いでたどり着いた生存者は639名でした。
    けれど、その大部分は陸戦隊としてフィリピンに残り、そのうち494名がフィリピンの山野で散華されています。

    「熊野」の戦死者は、累計989柱。
    乗員の9割に達しています。

    ~~~~~~~~~~

    昭和43(1968)年のことです。
    観光中のダイバーが、サンタクルーズで、海底に沈んだ「熊野」を発見します。

    そして船内から、ご遺骨約50柱を海底から持ち帰っています。

    ~~~~~~~~~~

    重巡洋艦「熊野」のお話をさせていただきました。

    「熊野」の最後については、当時中尉として艦に搭乗していた左近允尚敏さんの回顧録が、ネットで公開されています。
    http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kumanonosaigo-sakonjyou.html

    ご興味のある方は、ご一読されるとよいと思います。

    どんなにつらくても、苦しくても、泣きたくなるほど悔しくても、周りに誰もいなくなっても、最後の最後まであきらめず、未来を信じて戦い抜くのが、日本人です。

    重巡洋艦「熊野」は沈みました。
    けれど「熊野」の心は、私たち日本人のDNAの中にしっかり刻まれています。

    何があっても、どんなに傷ついても、ボロボロになってもあきらめない。
    沈んでしまっても、魂魄となって護国のために戦い続ける。

    艦は、女性とされます。
    女の「熊野」さえ、こうして戦い、きっといまも戦っているのです。
    次にはきっと勝つ。
    それが日本男児です。
    日本男児は、あきらめが悪いのです。


    ※この記事は2011年5月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • エクゼターとエンカウンター(工藤俊作艦長物語)


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    日本は、武士として戦いました。
    武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語りませんでした。
    だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではありません。
    悪とは、人の名誉を奪うことです。

    工藤艦長(「雷」艦上)と、フォール卿
    20170612 工藤艦長(「雷」艦上)と、フォール卿



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    2008年12月のことです。
    85歳になる元英国海軍中尉サムエル・フォール卿が来日しました。
    フォール卿は、埼玉県川口市に向かい、そこで工藤俊作(くどうしゅんさく)という日本人の墓にお参りをしました。

    フォール卿は戦後に英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られた人物です。
    外交官を定年退職した後、1996年に自伝『My Lucky Life』という本を出しました。
    その本の巻頭には、
    「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」
    と書いてありました。

    時は、来日の日から66年ほどさかのぼります。
    昭和17年(1942年)3月1日、ジャワ海からの脱出をしようとして出港した英重巡洋艦
    「エクゼター」(13,000トン)
    「エンカウンター」(1,350トン)
    の二隻が、日本海軍と交戦して撃沈されました。
    両艦艦長を含む約450人の英海軍将兵は、海上を漂流の身となりました。

    南方の暑い日差しの中です。
    翌3月2日の午前10時ごろには、彼らはもはや生存と忍耐の限界に達していました。
    そして一部の将兵が自決のための劇薬を服用しようとしていました。

    そのとき、たまたま単艦でこの海域を哨戒していた日本の駆逐艦「雷(いかづち)」が、漂流している英国乗組員を発見しました。
    「雷(いかづち)」の乗員は220名です。

    敵兵とはいえ、その時点ではすでに漂流民です。
    しかも漂流している英国兵は450名余います。
    平時の感覚としてなら、これを救助するのは、海の男たちにとって当然の責務です。
    しかし戦時では情況が異なりますし、あらゆる価値観は逆転します。

    まず第一に、この海域には、英国潜水艦が多数徘徊しています。
    救助のためには、艦を停止させなければなりません。これは自殺行為です。魚雷の的になるからです。

    加えて人数の問題があります。
    自艦の船員の倍以上の人数の敵兵を艦内に収容すれば、敵兵によって自艦の船員たちを皆殺しにされた上に、自艦を乗っ取られるおそれもあります。
    ですから海上で敵兵を見つければ、それが漂流中であれなんであれ、全員殺すことが戦時の常識です。
    酷いことと思われるかもしれませんが、そうしなければ、こちらが殺されてしまいます。戦時というのはそういうものです。
    そして、そうされても仕方がないということを表しているのが軍服です。
    それが戦時国際法のルールです。

    自国の軍人を救助してもらっているのに、潜水艦が魚雷攻撃をしてくるはずがないと考えるのも平和ボケです。
    潜水艦側から見れば、日本艦が英国兵を救助しているところなのか、屠殺している現場なのかの判断はつきません。
    ですから英国潜水艦にしてみれば、まずは日本艦を魚雷で轟沈させて危険を取り去った上で、英国兵を救助することになります。
    これが戦時の常識です。

    しかし工藤俊作少佐(当時)は、艦長として「雷」を停止させました。
    そして敵英国水兵の救助を命じました。
    そして敵兵を自艦に収容しました。

    救助の最中、工藤艦長は、英国兵の体力が限界に達している事に気づきました。
    そこで万一の警戒にあたらせていた要員も、すべて救助に投入しました。

    一部の英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできませんでした。
    竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとするのですが、間に合わずに力尽きて海に沈んで行く者もありました。
    工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませ、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛して艦上に引き上げさせています。

    サムエル・フォール卿は次のように回顧しています。

     ***
    「雷」が眼前で停止したとき、
    「日本人は残虐」と言う潜入感があったため
    「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と
    頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。
    ところが「雷」は、メインマストに
    「救助活動中」の国際信号旗を掲揚し、救命ボートを下した。
    私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。
    何度も自分の腕をつねった。
     ***

    さらに艦上でフォール卿を一層感動させる光景がありました。
    日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せずに、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労ってくれたのです。
    当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた時代です。
    にもかかわらず、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用してくれたのです。

    戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
    実際、そういうケースは多々あります。
    ですから相当温情あふれる艦長であっても、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦時の常識です。
    ところが工藤艦長は、艦を長時間停泊させただけでなく、
    全乗組員を動員して洋上の遭難兵を救助したのです。

    さらに工藤艦長は、潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者であっても、発見したら必ず艦を止めて救助しました。
    これらの行動は、戦場の常識ではありえないことです。

    こうして、英国兵422名が救助されました。

    救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語で次のように訓辞しました。
    「貴官らはよく戦いました。
     貴官らは本日は、
     日本帝国海軍のゲストです。」
    そして艦載の食料の殆どを供出して歓待しました。

    フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けました。

     *

    工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県に生まれました。
    明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。
    明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
    校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼しました。

    工藤俊作艦長はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。
    「平民でも海軍仕官になれますか」
    担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。
    そして工藤艦長は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿し、片道約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学しました。

    当時、一流中学校で成績抜群で体力のすぐれた者は、きまって海軍兵学校への受験を志ました。
    次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順ででした。

    この点、当時の欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できません。
    全寮制ですし、学費も極めて高額だったからです。
    経済的にも一般庶民が入学できるような学校ではなかったし、身分上の制限もあったのです。

    ところが世界の中で、日本は学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できました。
    しかも学費は全額国庫の負担でした。
    そして、
     英国のダートマス
     米国のアナポリス
     日本の江田島
    この3つの海軍学校が、世界の三大海軍兵学校とされていました。
    そして日本だけが、入学に際して身分の制限がなかったのです。

    少し補足すると、陸軍は、当時の日本人であれば、誰もが入学出来たのに対し、海軍は「内地籍」を持っている者に入学が限られました。
    つまり海軍は「外地籍」である台湾、朝鮮、満洲、南方の島々の日本人(当時は日本の一部です)は入校を認めていませんでした。
    これは差別です。
    差別というのは、必要なものです。
    理由は簡単です。
    長期間海上で、艦という閉鎖された空間で起居をともにするのです。
    何代にも渡る家系が明確で、家系に犯罪歴や疾病歴がなく、親族一同によって身元保証がしっかりされている者でなければ、海軍軍人として採用できない。
    あたりまえのことです。

    こういう点、頭ごなしに「差別はいけない」という人がいますが、間違っています。
    世界中、どんな民族にも善人もいれば悪人もいるのです。
    いま善人でも、いざとなったら悪人になってしまう残念な人もいます。
    問題は、そのいざという時に、悪行へと走ることを防ぐことができる社会体制が何代にも渡って確立されているかにあるのです。

    ここは大事なところです。
    その人自身の善悪ではなく、悪に走ることを抑えることができる社会体制、集団体制が整っているのかどうかが問題なのです。

    日本は大家族制であり、戸籍もあり、いわば親族一同がそのひとりのための監視役になっています。
    セガレが外地で悪事を働けば、戸主も親戚一同も、その責任を世間から追求されます。
    ですから戦地で戦う日本軍人は、そこでひとりで戦っているわけではないのです。
    その背後には、親戚一同の期待と監督がついている。

    これはとても重要な事です。
    誰にでも弱い心はある。
    それをどこまで封じ込めることができるかが大事だからです。
    言い換えれば、個人が個々に独立しており、しかもその個人が名前までコロコロと変えられるような社会環境下では、犯罪を意図して誘発するようなものです。
    ですからもっというなら、昨今の「在日が悪い」のではないのです。
    彼らが悪事を働くことを制限しようとしない日本が悪いのです。

    この点江戸時代の日本の社会システムは徹底しています。
    長屋でひとりでも犯罪者を出せば、長屋自体が取り壊し、家主と地主は江戸所払い、同じ長屋に住んでいた住民のうち、向こう三軒両隣は叩き、加えてその他の長屋の住民たちとともに、以後何年にもわたって重税を課せられました。
    自分たちのコミュニティから犯罪者を出すということは、重大なことだったのです。

    また、犯罪者そのものに対しても処分は厳しく、軽犯罪であっても行えば百叩き、再犯すれば牢屋入り、三犯になったら、入れ墨を入れられました。
    墨の入った者は、通常の社会からは隔離されましたので、もはや二度と普通の社会に戻ることができない。
    それでも墨の入った者も生きていかなければなりませんから、特定の人足場の親方のもとで働くことになります。
    ただしそこでは、親方にひとことでも逆らったら、口減らしのために殺されました。

    また家中に犯罪者を出すことは、家の恥であり、地域社会の恥であり、藩の恥とされました。
    そして恥は、そのまま家禄の召し上げや、村人なら村八分となることを意味しました。
    国元にある親戚一同にまで迷惑をかけることになったのです。

    そういう背景があるから、江戸時代の人々は、道端に何百両もの大金が置いてあっても、誰もそれを盗もうなどとはしませんでした。
    欲をかいて盗みでもしようものなら、たいへんなことになることがわかっていたからです。

    話が脱線しました。

    工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学するのですが、実は入学の前年の大正8年に、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していました。
    鈴木貫太郎は、海軍兵学校校長に着任した大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新しています。

    ・鉄拳制裁禁止
    ・歴史および哲学教育の強化
    ・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

    工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけました。
    さらに鈴木貫太郎校長は、乃木大将が水師営の会見の際に
    「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚(ごじょう・貴人の命令のこと)されたこと、そしてステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣を許したことなどを生徒に語りました。

    海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任しました。
    工藤艦長は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたそうです。
    その工藤艦長の着任のときの訓示です。
    「本日より、
     本官は私的制裁を禁止する。
     とくに鉄拳制裁は厳禁する」

    乗組員たちは、このような新艦長を、当初「軟弱」と思ったそうです。
    ところが工藤艦長には決断力があり、官僚化していた上官に媚びへつらうこともまったくない。
    しかも工藤艦長は酒豪で、何かにつけて宴会を催しては部下たちと酒を酌み交わしました。

    工藤艦長は日頃から、士官や先任下士官に、
    「兵の失敗は
     やる気があってのことなのだから
     決して叱ってはならない」
    と繰り返しました。

    見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めました。
    このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告するようになったといいます。

    実は戦場において、このことはものすごく大事なことです。
    ミッドウエー海戦で、日本海軍は大敗しましたが、実は、米軍の航空機を日本側の偵察機が先に発見していたのです。
    けれどそのパイロットは、敵機を発見しながら撃墜しなかったことを上官にとがめられることを恐れてしまい、その報告をしなかった。
    このため日本側の米海軍近接への準備が遅れ、結果として日本の大敗となりました。
    もしこのとき、そのパイロットが、自己の処分を覚悟で敵機発見の報告をしていたら、ミッドウエーでは日本が勝利したと言われています。
    戦いというのは、それほど微妙なものなのです。
    その微妙な微差をいかに上手に活用できるかが、勝利の要諦なのです。

    そんなわけで、2ヶ月もすると「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕うようになり、
    「オラが艦長は」と自慢するようになり、
    「この艦長のためなら、
     いつ死んでも悔いはない」
    と公言するようになっていったそうです。
    艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していきました。

    そして、昭和16年12月8日に大東亜戦争開戦。
    開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の英戦艦「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈しました。

    このとき、英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の両艦の乗組員たちの救助をしています。
    日本の航空隊は「エクスプレス」が救助活動にはいると、一切これを妨害せず、それどころか手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送っています。

    またウエールズは、沈むときに艦長が乗員全員を海に逃したあと、自身を舵に縛り付け、艦と運命をともにしました。
    このとき日本の航空隊は、その艦橋の周りを旋回し、最敬礼を尽くしています。
    まさに日本武士道です。

    さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしませんでした。
    こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させました。

    フォール卿は語ります。
     ****
    艦長とモーターボートに乗って脱出しました。
    その直後、小さな砲弾が着弾してボートが壊れました。
    この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

    間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
    固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。
    私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。

    見渡す限り海また海でした。
    救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。
    この時ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかったのです。

    しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。
    けれども救助船は来ない。
    一夜を明かし、夜明け前になると、精気が減退し、誰もが沈鬱な気分になっていきました。
    私も死後を思い、優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。

    翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。
    仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求しました。
    軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していたのです。
     ***

    その情況の中で、偶然通りがかったのが駆逐艦「雷」だったのです。
    二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
    「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」
    「漂流者400以上」
    と次々に報告がはいりました。

    工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じました。

    フォール卿は語ります。
     ***
    午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。
    当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。
    そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。
     ***

    工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけました。
    「一番砲だけ残し、
     総員敵溺者救助用意」

    工藤艦長は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらせました。
    このときの模様を佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。

    ****
    筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
    敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。
    五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。

    それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
    その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

    一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。
    この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。
    『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。

    彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。
    艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。

    当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
    その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。
    ****

    浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。
    甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら
    「頑張れ!、頑張れ!」と呼びかけました。
    見かねた二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込みました。
    立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けました。

    艦橋からこの情景を見ていた工藤が決断しました。
    「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

    甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。
    一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みしました。
    救助されたという安堵も加わって、その消費量は3トンにものぼったそうです。

    便意を催す者も続出しました。
    工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させました。

    工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませました。
    艦が走ると風も当たり心地よいからです。
    ただし、これで全甲板の主砲は使えなくなりました。

    フォール卿が語ります。
    ****
    私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。
    『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。
    ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

    駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。
    水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

    艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。
    われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

    それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。
    しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。
    友情あふれる歓迎でした。

    私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。
    これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。
    私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

    間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。
    すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

    キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチました。

    You had fought bravely.
    Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
    I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

    (諸官は勇敢に戦われた。
     今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。
     私は英国海軍を尊敬している。
     今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

    『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。
    ****

    「雷」はもはや病院船のような情況となりました。
    「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占めています。
    実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後です。
    そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できません。
    するとなんと工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可したのです。  

    蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は、この日夕刻4時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下しました。
    舷門付近で見送る工藤艦長と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈りました。
    高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然としています。

    この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、
    「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。
     非常に情の深い男であります」
    と言って高橋司令長官を笑わせました。

    高橋中将は
    「それにしても、物凄い光景だ。
     自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、
     このような光景は初めてだ」
    とニッコリ笑ったといいます。

    救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。
    移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにしています。

    工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしました。
    これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表しました。

    「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。
    とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせました。
    副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表しました。

    その「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
    乗員は全員戦死です。

    工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となって終戦を迎えています。

    戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移りました。
    そして、1979年に胃癌のため死去。

    生前、工藤艦長は、上記の事実を家族の誰にも、ひとことも話さなかったそうです。
    わかる気がします。
    なぜなら、「雷」がその後沈没しているのです。
    そして「雷」とともに、多くの部下の乗組員たちが犠牲になっているのです。
    亡くなった部下たちへの工藤艦長の愛が、工藤艦長の口を閉じさせたのです。

    これが日本の武士の心得です。
    ですから工藤艦長の家族がこの話を聞いたのはフォール卿からです。

    日本は、武士として戦いました。
    武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語りませんでした。
    だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではありません。

    「悪とは、人の名誉を奪うことをいう」
    こう喝破したのは、ニーチェです。
    その通りと思います。
    そして日本人がどこかの人々の真似をして、必死になって人の名誉を奪う活動を行っても、そのどこかの国の人々には永遠に敵いません。
    なぜなら彼らにとっては、その悪は歴史であり伝統であり文化そのものであるからです。
    日本人が付け焼き刃で悪の真似事をしても、適うはずがないのです。

    日本人は日本人らしく、尊敬と敬意と愛情をもって人々と接することです。
    それが日本の文化であり、日本人に骨の髄まで染み込んだ歴史であり伝統だからです。
    歴史においても、それは同じです。
    たとえ不器用でも、愛と敬意と尊敬の心に生きるのが、人としての、そして日本人の道だと思います。


    ※この記事は2009年6月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    一番哀れなのは戦後の亡国思想教育を受けた日本国民である。
    何故、等しく大和民族の血を受けていながら、半数以上の日本人が日本人らしくない異質の民族に成り果てたのか。

    20211027 鄭 春河
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    鄭春河さんは、日本名を上杉重雄さんといいます。
    元台湾歩兵第二聯隊においでだった方です。

    こよなく日本を愛し、多くの著作を残され、平成17年に台南にてご逝去されました。

    原文はかなりの長文になりますので、一部だけのご紹介です。
    是非、ご一読され、もしよろしければ、URLを辿って、その全文をお読みいただきたいと思います。

    〜〜〜〜〜〜

    【嗚呼大東亜戦争】鄭春河 著
    http://www.senyu-ren.jp/AA/AA.shtml
    ↑原文はこちら。

    戦争は政治の一環であり、戦争目的は政治目的でもある。
    では大東亜戦争の戦争目的(政治目的)は何だったのか?

    その目的は、
    1、経済の安定
    2、国防の安泰
    3、アジア諸民族の解放

    にまとめあげられる。

    1、経済の安定

    昭和に入ってからの日本経済は全く死に体であり、現在の豊かな感覚では想像できない貧乏国であった。
    その日本が、今や経済大国と言われるまでに発展し、個人々々についての格差があるにしても、国民は世界で最も平和で豊穣な生活を享受している。

    一方戦勝国の戦後は如何であったろうか?
    ソ連や中共の国民生活は言うに及ばず、米国は日本に勝ったその日から、ソ連という大敵に対抗して軍備増強に迫られ、米ソ共に莫大な軍事費の支出に耐えかねて、国家経済が破綻して西側陣営に屈伏し、世界一の債権国から債務国に転落したのである。

    イギリス、フランス、オランダも海外に保有していた広大な植民地の総てを失い、二流国に甘んぜざるを得なくなった。


    2、国防の安泰

    戦前の日本は、北にソ連、西に中国、東に米国、南に英、仏、蘭と四周敵に囲まれており、とりわけ米ソは当面する最大の強敵であって、国家予算のかなりの部分を国防費用に回さなくてはならなかった。
    貧乏国日本にとって、膨大な国防費は国家経済の限界を超えた大きな負担であり、それだけ国民生活が圧迫されていたのである。

    戦後の日本は、アメリカの大きな核の傘にすっぽりと覆われ、日米安保条約によってすっかり守られておった。曾つての占領軍は、今や番犬となり、日本はGNP一%程度の予算の二流軍隊でお茶を濁し、せっせと経済発展(金儲け)に専念した。
    四周にいた敵も、ソ連一国となり、それも今や熊から牛に変身してしまった。明治以来、国防がこれ程安泰になったことはなかった。


    3、アジア諸民族の解放

    戦前の世界地図を見れば一目瞭然である。
    世界の大部分が白人の植民地であり、支配地域であった。
    第一次世界大戦の後設けられた国際連盟は、白色人種だけの繁栄と幸福を図ることを目的とした機関であり、有色人種は白色人種に奉仕する為の存在でしかなかった。

    戦後民族自決の気運が急速に高まり、日本が標榜したアジア諸民族の解放は、アジアのみに止どまらず、全世界から植民地が一掃されるに至ったのである。

    大正時代、国際連盟で人種差別撤廃を提案した日本が、白人諸国の大反対で否決されたことを思うと、まさに今昔の感がある。

    戦前には、白人種の前に卑屈な程に跪いていた有色人種が、何故、急速に自信と自覚を持つようになったのだろうか。戦後、英国宰相チャーチルが述懐して次のように言った。

    「英帝国が終焉した理由は、英軍がアジア人の目の前で日本軍に惨敗したからである。
    一度失墜した権威を、もう一度掲げることは出来っこない。
    英軍は戦後も依然として強力だが、しかし世界の人々は、英軍がアジア人に負けたのを見てしまった」


    有色の日本がホンコン、シンガポールで英軍に大勝し、フィリッピンの米軍を駆逐したのを目のあたりに見た世界の有色民族から、長年の間に習性とまでになったいた白人隷属の卑屈な気持ちがヴェールを剥がすかのように一掃され、「白人優位、白人不敗」の神話は、これを機に音を立てて崩壊したのであった。

    白人優位の帝国主義世界が続く限り、日米戦争が昭和十六年に勃発しなくても、何年後かに起こったであろうところの避けて通ることの出来ない宿命であったと思われる。
    まさに大東亜戦争は、有色人種の白色人種に対する壮絶なる巻き返しであり、そしてその力と気迫を持っていた国は、その当時は日本しかなかったのである。

    このように此の黄白戦を見ると、日本は戦争に敗れたものの、四十余年がかりで大東亜戦争の戦争目的(政治目的)を立派に達成したと言う事が出来る。

    古今東西永遠に続く戦争はない。
    しかし政治は永遠に継続し、しかもそれは過去の足跡の上に積み重ねられるものである。

    そして、この黄白の決闘以来、それまで世界の通念となっていた帝国主義が崩れ、国威宣揚の方策であり、美謀でさえあった戦争が罪悪という観念に変わり、世界平和と万邦協和こそ、それぞれの国が繁栄する最良の方法であることを知らされたのである。


    【日本救国の道】台湾・鄭春河
    http://ameblo.jp/ys716/entry-10009424210.html

    大正の御代に生まれた我々は確かに幸せ者であった。
    正しい日本の教育を受けて、千載一遇の太平洋戦争に参加できた。
    敗戦とはなったが我々は最期まで奮戦した。
    波乱万丈の体験を重ねて「盡忠報国」の精神と国民道徳を今もなお身につけている。
    これに勝る幸せがあろうか。

    ところが、一番哀れなのは戦後の亡国思想教育を受けた日本国民である。

    何故、等しく大和民族の血を受けていながら、半数以上の日本人が日本人らしくない異質の民族に成り果てたのか。それは他ならぬ、日教組がしからしめたのである。

    日教組は次代を担う子供たちに、

    「国家・君が代を歌うな、国旗・日の丸を揚げるな」と躾けて、
    子供の情操教育を潰し、
    国民意識・国家意識を喪失せしめ、
    祖国日本を亡国に導こう と活動している。

    日教組は「進歩的文化人」と呼ばれる連中と共に、日本にとっては許しがたき罪人であり、売国奴である。

    彼等は先ず、
    祖国日本の力を弱め、
    国民の元気を削ぎ、
    無気力な日本を共産主義国家の属国にしようと計画・策動しているのである。

    彼等は反国家の姿勢をとり、
    祖国日本に背き、
    日本を非難し、
    日本の過去と現在を否定・攻撃し、
    国家の尊厳を木っ端微塵にまで軽蔑してきた。

    「君が代」と「日の丸」は一体どこが悪いのか。
    日本の国体に最も相応しい、美しい国旗であり、奥ゆかしい国歌ではないか。
    明治の初め、フランスが「日の丸」を買いに来た。
    金は幾らでも出すと云う。
    幸いなるかな売らないでよかった。
    外国から羨望された程の「日の丸」だ。
    その価値たるや以って惜むべく銘すべきである。

    中華民国でさえ、「国歌を歌うな、国旗を掲げるな」という輩があれば途端に非国民反乱罪として投獄されてしまう。
    総統府、各官衛とも毎朝「升旗典礼」(国旗掲揚)という朝礼を行う。
    道行く人馬や車など、即座に直立不動の姿勢で敬意を表する。
    これが世界各国の仕来たりであるのに、日本だけが出来ない、また、やろうとしないのは残念の極みである。

    ご存知の方も多いと思うが、かって韓国でのオリンピック会場で国旗掲揚の際、日本学生のだらしなさがすごく非難された。教養のない日本国民の恥を晒したのだ。

    戦前、我々は、外国で祖国日本の有り難さを実感した。
    至るところで日章旗を仰ぎ、「君が代」を耳にしては感極まって涙をこぼした。

    さて元に戻るが、更に最も甚だしきに至っては「靖国神社に参るな、大臣も国会議員も参拝するな。日本は侵略したのだから、死んだ兵隊に敬意を表すことはない」と日教組は子供たちに教え、

    更に「日本は悪いことをした。お前達の祖父達は侵略の手先となって悪い事をした!」と、50有余年も繰り返し洗脳し続けてきた。

    子供達はそれをまともに信じて、祖国日本に生まれたことを有り難く思わず、中には憎悪を抱く者まで現れた。
    祖父や親達をバカにして言うことを聞かず、勝手な行動をして平気で人に迷惑をかけたり、犯罪を犯すなど、道徳も道義も廃れて今日のような混沌の世の中になってしまったのである。

    「祝祭日には国旗を掲げましょう」「式では国歌を斉唱しましょう」と、国では国民に呼びかけているが、昔の我々は小学校に入る前から躾けられていて、誰でも出来ることで神社参拝も世の仕来たりであり、言われるまでもないことだ。

    或る高校の教諭から聞いたことだが、
    「私の勤めている高校では、先生(高教祖)が生徒に『祝祭日に国旗を立てるのは非国民だ!』と言う。とてもこれが日本人の先生とは思われないような発言をいつもしていて、生徒達も感化されている」とか。

    生徒も「隣近所が旗を立てないのに、家(うち)だけが立てるのもおかしいから止めたよ」と言う。何と情けないことか。聞いただけでも気が遠くなる。その親達も日教組の亡国教育を受けた世代だからどうにもならない。

    毎年8月には日本の大学生が、10数名ばかり台訪することになっている。
    学生達と2日間付き合ってみると日本の様子がよく分かる。
    学生達の話では、「教育勅語や靖国神社のことは、最近、教授の口からぼつぼつ出るようになりましたが、学課ではないので詳しいことは知りません。靖国神社にも参拝したことはありません」。

    かように教育の基本人倫の常経、天地の公道である教育勅語と、祖国日本の為に犠牲になった戦没者をお祀りした靖国神社を、次代を担う子供達に教えないようでは、どうして祖国の真の復興が望まれようか。

    日本人自身が、しかも日本の首相たるものが
    「日本人はアジアを侵略した。謝らなければいけない」などと、非常識なことを繰り返している。

    太平洋戦争に負けたから日本はこんな非常識な国になったのか。否、そうではない。戦後の7年間でアメリカの占領政策によってこんな国にされてしまったのだ。

    太平洋戦争は3年半余りに亘ったが、占領期間が何故7年間もの長期に亘ったのか、それは徹底的に日本国民を精神的、思想的に改造するためであった。
    占領政策は、
     「占領憲法」
     「東京裁判」
    それに30項目にわたる徹底的な
     「言論統制」
    の3本柱である。

    言論については検閲を徹底的に行い、しかも検閲や統制をしているということを国民には極秘にして秘密の漏洩を防ぐという、このような陰湿なやり方で行ったのである。

    そして「日本国民は悪くない、悪いのは軍人だ。戦前の教育は全て悪い。神道も悪い。道徳教育も個人の自由を損なうから悪い・・・」と、戦前の日本はすべて「悪」と決めつけられた。

    要するに勝者の白人は正義で、敗者の日本は不正義で、その最も極端なのが東京裁判であり、日本を侵略国として断罪した。
    その為には日本に有利な証拠はすべて却下され、彼等に都合の良い証拠は、到底証拠とは言えないような代物でも全て採用したのみならず、捏造までして日本を黒と決め付けた。南京大虐殺もその一つである。

    要するに日本を徹底的に打ちのめし、日本を二度と立ち上がれないようにすることが占領政策の目的であったのだ。

    彼等は完全に目的を果たした。これに日教組や共産党が上乗りして、アメリカの意図以上にマインドコントロールを徹底したことである。残念乍ら日本人の大部分はマインドコントロールから覚めていない。

    一昨年、東京裁判で却下された「未提出弁護側資料」が刊行されて東京裁判の欺瞞性が明らかになると共に、東京大学の藤岡信勝教授をリーダーとする自由主義史観研究会やその他の会が次々と発足し、太平洋戦争の真義をもう一度見直そうという空気が漲っていることは、遅きに失したとは云え、誠に喜ばしいことである。

    日本人は、太平洋戦争は絶対に侵略戦争ではないこと、従来の「東京裁判史観」は間違っていたことを認識して、日本の正しい歴史を勉強し、日本が過去に果たした歴史上の役割に自身と誇りを持って、堂々と胸を張って世界に邁進すべである。
    そのためには一刻も早く誤った歴史認識と戦争犯罪贖罪意識から脱却し、目覚めることが先決である。

    万世一系の皇室という素晴らしいものを持っていながら、今の日本人の大部分はそれを忘れれいるのか、或るいは故意に無視しているのか。

    靖国神社に天皇陛下の御親拝、総理大臣が参拝することまで隣国に気兼ねしなければならない日本が、本来の日本に戻れるのはいつになるのであろうか。
    日本同胞の反省と奮起とを切に御祈念申し上げる次第である。

     平成9年6月30日
       鄭 春河(台湾台南市中華南路 在)
    〜〜〜〜〜〜

    鄭春河さんの略歴です。

    1920年(大正9年)、台湾・台南州北門郡佳里町生まれ。
    1939年(昭和14年)、早稲田大学中学部(校外生)卒業後、台南神社にて神職教育を受け、北門郡雇員(公務員)と北門神社奉仕を兼務。
    1943年(同17年)、特別志願により陸軍第一補充兵に編入。翌年、台湾第四部隊に入営後、豪北派遣。チモール島にて終戦。

    1946年(同21年)6月、復員して台湾に帰郷。戦後、日本人容疑で検挙されるも、無罪判決により政治大学課程を履修。
    製油会社等の部長を歴任後、社長・顧問を歴任。

    1997年(平成9年)、台南・延平郡王祀(鄭成功廟)にて催された複台記念日祭典に神道式祭典を斎主として厳修。
    1988年(同10年)、台中・宝覚禅寺の「霊安故郷」碑前にて催された「台湾同胞戦争裁判犠牲者合祀祭」の神道式祭典を斎主として厳修。

    2005年(同17年)12月22日、台南にて逝去。


    日本は、開戦時の工業生産力で約80倍のアメリカと開戦しました。
    これにイギリス、オランダ等、連合軍の国力を加えたら、いったいどれだけの格差があったか。

    Chinaにしても、China事変がはじまったとき、彼我の陸軍戦力の格差は、China国民党210万に対し、日本軍は総力をあげても25万です。
    しかも大陸に派兵できるのは、がんばっても15万がやっと。
    つまり日本は、完全武装した14倍の敵と戦ったのです。

    そういうことから、無謀な戦争だったという人もいるでしょう。
    けれど、それでも戦わざるを得なかったのは、いったいなぜなのでしょうか。

    トム・クルースの主演で映画にもなった「宇宙戦争」の著者であり、イギリスの歴史学者としても有名なH・G・ウェルズは、次のように語っています。

    この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

    これが事実なのです。
    次のような話もあります。

    〜〜〜〜〜〜
    イギリス人は糞をしてる最中に黄色人種が入ってきても平気。
    落としたタバコを拾わすのにも、言葉を使わず、アゴで拾えの合図。
    女性が全裸で部屋に居る時に、黄色人種が入ってきても平気。
    (白人男性が入ってきたら大騒ぎ)

    つまり、黄色人種は猿だったのです。
    インドより東の国では、白人は何をしても許されると言う考えがあった。
    東洋人に対する白人の対応は自然な物だったのです。

    絶対的な差別主義。
    東洋人は、人では無かった。
    この絶対差別主義の世界を塗り替えたのが日本だった。
    今でも、ビルマの建国記念日には、日本の「軍艦マーチ」「日本陸軍の歩兵の歌」が流れる。
    フィリピンの独立記念のポスターにも、日本軍のポスターが貼られる。

    インドのオールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像がある。
    アジア人の自尊心を守ったのは、日本だった。
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    大東亜戦争のあと、東亜のかつての列強の植民地だった国々の多くが、独立を手にしました。

    戦争が「ある政治目的を達成する手段」とするなら、日本は、3年半の戦闘には敗れたけれど、その戦争目的は立派に達成したのです。

    逆の事例もあります。
    ベトナム戦争です。

    コミュニストの支配を阻止するという戦争目的ではじまった南北ベトナム戦争は、15年の長い戦いの末、アメリカの撤退に終わった。戦争目的は達することができませんでした。
    北が勝利したのです。

    日本は、人種差別撤廃のために戦いました。
    国土を焼土と化し、連合軍に国土を占領されました。
    けれど、その戦争目的は、立派に達成しています。
    戦争目的を達成したということは、日本は、戦いには負けたけれど、戦争には勝ったといえます。

    しかし、その後がいけません。
    すっかり洗脳され、骨抜きにされてしまった。

    けれど、日本が目覚めることは、世界の良心が目覚めることです。

    ねずブロでいろいろなことを書いています。
    本日ご紹介した鄭春河さんの遺稿も、いまはまだ少数の異端の説かもしれません。

    けれど、みなさんに予告したいのです。
    鄭春河さんが綴ってこられたこと、
    それは20年後には普及し、40年後には日本の常識となり、60年後には世界の「常識」になる。

    なぜなら、人には良心があるからです。


    ※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 航空戦艦伊勢と日向の物語


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    「伊勢」も「日向」も、後世に生きる私たちの目から見て、実に「かっこいい」生涯でした。日本の神語にちなんだ「伊勢」と「日向」の名を与えられた船が、使いものにならないとされながら、結局は、この二艦の活躍が、あまりにも目覚ましいことであったというところに、私は何らかの神々の意思を感じてしまうのです。

    20170802 航空戦艦伊勢
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    上にある写真は「航空戦艦・伊勢」です。
    前方が戦艦、後甲板が空母になっているという、実に不思議な、日本だけが保持した「航空戦艦」です。

    艦は、同型で二隻作られました。
    ひとつが絵にある「伊勢(いせ)」、
    もうひとつが「日向(ひゅうが)」です。

    名前は、日本神話を司る伊勢神宮と、日本神話発祥の地である「日向」からとられました。
    どちらも神々の所在地からいただいた名前です。

    ところがこの二艦は、いろいろあって、建艦はされたものの「実戦で使い物にならない」とされて、、大東亜戦争開戦時には練習艦に使われていました。
    ところが、その「実戦で使い物にならない」はずの二隻が、

     戦争を最期まで戦いきり、
     数々の敵艦および敵機を撃墜し、
     激戦のさ中にエンジンを停止して日本の誇る軍艦の乗員を救助するという離れ業をやってのけ、
     日本最後の航空燃料を持ち帰り、
     そして日本海軍最後の主砲を発射して沈黙しました。

    その活躍は、まさに鬼神をも泣かしむるものであったのです。

    もともとこの艦は、航空戦艦として計画された船ではありません。
    最初は扶桑(ふそう)型の大型戦艦として計画され、建艦されたのです。
    扶桑型大型戦艦の建造計画は4隻で、
     一番艦「扶桑」
     二番艦「山城」
     三番艦「伊勢」
     四番艦「日向」
    という陣容で、大正二(1913)年に建艦が計画されました。

    ところが実際の建艦は、当初、一番艦の「扶桑」の建艦にはいったところで、残る三隻は、建艦が無期延期になってしまいました。
    なぜかというと、国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。

    戦艦の建造は、莫大なお金がかかります。
    大正年間は、ひとときの平和の時代でもあったわけですから、多くの国会議員が、「軍艦などにお金を回すくらいなら、内政用に予算を使え!」と言い出すことは、表向きはもっともなことです。
    しかもこの時代、国政は、ほぼ二大政党が交互に相争うという状態にありましたし、いまと同じで内閣が諸藩の事情で予算案をつくっても、国会の承認がなければ、予算は執行できません。

    ところがその国会は、選挙で選ばれる議員によって開かれるわけです。
    議員は、選挙に落ちたらただの人ですから、自分の地元選挙民に、鉄道敷設や道路建設、各種公的建物建築など、国家予算を露骨に地元に持ち帰ろうとします。
    そうしなければ選挙に落ちるのです。
    従って、国家の安全保障や、外地において何が起きているか、長期的視野に立っが国家の行く末は、口端には乗せても、実際の行動は、地元利益優先となります。

    一方、この時代の国際情勢は、第一次世界大戦が勃発した年です。
    日本は東亜の強国として、この大戦に参戦することになりましたが、一方において日本が標榜する人種の平等は、欧米の植民地利権を持つ大金持ちたちからみたら、あからさまな敵対行為に映っているという時代でした。
    植民地利権を持つ者たちからすれば、日本は敵ですし、また東洋においてもその欧米の下請けをしながらアヘン等の売買で大儲けをしている連中(一家)からしたら、日本は明らかな敵となっていた時期です。
    つまり本来であれば、日本はここで一番に強くなければ、弱いとみなされた瞬間に、日本国自体が袋叩きにあい、そのことは当然に外地にいる多くの日本人にとっての命の危険が及ぶ脅威となるという時代です。

    だからこそ、侮られないためには、日本は海軍力の増強は実は不可欠の要素だったわけですが、そのためには当然費用がかかるということが問題になったわけです。
    ところが、軍艦を外国に発注するのではなく、当時の日本は国内に発注しています。
    つまり、軍艦建造は、そのまま国内の景気刺激策にもなったわけです。
    そのように考えれば、軍艦建造は、むしろ推進すべき事柄であったはずなのですが、議会は、日本の安全保障よりも地元利益を優先したわけです。

    こうして実は大正2年に日本が財政上の理由で戦艦の建造を停止したことによって、日本は諸外国から侮られ、追い詰められ、結果として国運を賭けて大東亜戦争へと突入し、敗れて国土を灰燼にし、多くの日本人の人命をも失う結果を招いています。

    このお話をすると、時代は航空機の時代に移っていたとか言い出す人がいたので、もうすこし補足します。
    明治から大正にかけてのこの時代には、まだ航空戦力の時代は到来していません。
    巨大かつ頑強な装甲を施して、大口径の砲塔を据え付けた巨大戦艦が、世界の海を制することができた時代です。
    まさに「大鑑巨砲が正義を守る」時代です。
    当時、すでに航空機は登場していますが、まだ馬力の少ない複葉機の時代です。
    爆弾も、手に持って下に投げ捨てるという時代でもあったわけです。
    運行中の軍艦を飛行機が沈めるなどということは、ありえない時代でもあったわけです。

    そしてこの時代の世界の三大強国は、「日、英、米」の三カ国でした。
    そして日本は、有色人種唯一の、白人支配に対抗できる強国として、世界の期待を一身に担う国家となりました。
    実際には、日露戦争は辛勝です。戦争に勝利したとはいってもロシアからの賠償金はもらえず、国家財政は極めて厳しい状況に置かれています。
    けれど白人支配に苦しめられている国々からみたら、日本は、まさに夢のような武士の国であったわけです。

    しかもその日本は、世界最強の植民地国家である大英帝国と同盟関係にありました。
    つまり、世界から見れば、世界第一位の強国と、それに並ぶ第二位の強国が、東西でガッチリと同盟関係を結ぶ関係にあったわけです。
    これは、のちのちの世でいえば、全盛期のソ連と冷戦時代のアメリカが、同盟国となったようなもので、この同盟に勝てる国は、世界広しといえども、どこにもない。

    日英同盟が締結されたのは明治35(1902)年、失効となったのが大正12(1923)年ですが、実はこの間の21年間、日本は世界中で大歓待を受けています。
    いまでも、たとえばペルーやアフリカ、インドなどの港町に行くと、昔の日本人の伝説がたくさん残っています。

    私のもといた会社の専務は、もともとは貨物船乗りだった方(もう高齢で80代になられます)ですが、貨物船に乗って世界の港町に行くと、当時、日本人はたいへんな歓迎を受けたという話をよくしてくださいました。

    ある日、現地の女性と一夜をともにしたのですが、無料(タダ)でいいというのだそうです。
    なぜかというと、祖母の代から「日本人がきたら、あんたのできる最高のサービスをしてやってくれ」と言われて育ったのだという。

    どういうことかと聞いたら、昔、おばあちゃんが若かったころ、港にはいつも白人の大男の船員たちがやってきて、酒を飲み、現地の女性たちに乱暴を働いていた。
    何をされても力関係で文句を言えない。そんなことが「あたりまえ」だった時代に、あるとき、日本人の乗る船がやってきた。

    小柄な日本人のその水兵さんたちは、港に上陸し、盛り場にもやってきた。
    ちょうどそのとき、ある白人の毛むくじゃらの大男が、盛り場で大暴れをし、若かったおばあちゃんに乱暴を働こうとした。

    誰も止める者なんてありはしない。
    殴られて顔中腫らすことになると覚悟したとき、日本人の水兵さんが、「やめろ!」とその大男を制止した。

    見れば、白人の大男と、日本人の水兵さんは、体の大きさは大人と小学生くらいの違いがある。
    「やめて!その人を巻き込まないで」と必死に哀願するのだけれど、興奮した白人の大男は、相手を小柄な日本人とみて、馬鹿にしてかかり、いきなりパンチを日本人に浴びせようとした。

    ところが、その一瞬、信じられないことが起こった。
    パンチを繰り出し、日本人の水平さんが吹っ飛ばされると思った、その瞬間、大男の白人が宙を舞い、床に叩き付けられてしまった。

    そうして喧嘩を制した日本人水兵さんは、私達地元の女性たちにもとてもやさしく、紳士的に接してくれた。
    以来、「日本人が来たらいいつけてやる」というだけで、白人の暴れ者たちが大人しくなった。

    だから、日本人がきたら、その感謝の気持ちをずっとずっと伝え続けて欲しい。
    そんなことを言われて育ったのだそうです。

    大男の酔っぱらいの大振りのパンチです。
    剣道、それも木刀を使った練習で、鋭く打ち込まれる切っ先を紙一重でかわす訓練を積んだ日本人の兵隊さんには、彼らのパンチは丸見えだったことでしょう。
    投げ飛ばしたのは柔道の技です。

    常なら、こうした理不尽であっても、国と国との力関係で、白人を投げ飛ばした有色人種(カラード)は、たとえどのような理由があれ、カラードが悪いとされ、逮捕投獄されるか、あるいは殺されていたのです。
    ところが当時の日本は、世界最強の軍事力を持つ国家であり、しかも同じく世界最強の大英帝国と同盟関係がある。
    日本と争うことは、世界の強国二国を敵に回すことであり、是は是、非は非として筋を通さなければ、理不尽は許されない。
    そういう状況にあったのです。

    ですからこうして世界中の港町で、日本人は、大歓迎を受けたし、日本人のモラルの高さは世界が絶賛するものでもありました。
    私の元専務のお話は、そんな日本人に関する史実、あるいは伝説が、昭和40年代にも、まだまだ世界に通じていたということをあらわしています。
    それだけ日本は、世界から「強い国」「正義の国」とみなされていたわけです。

    ところが、日英同盟の締結後、ちょっとした「大きな変化」が起こりました。
    それが、明治三十九(1906)年の、大英帝国による戦艦「ドレッドノート」の就役です。
    この船は、世界初の蒸気タービンエンジンを搭載し、巨大戦艦でありながら、超高速走行が可能、しかも装甲は厚く、敵のどんな大砲の弾もはじき返す。
    さらに世界一の巨大主砲を装備し、この主砲は、世界のどの戦艦の最強装甲でさえも打ち破るというシロモノでした。
    ドレットノートは、たった一隻で、他国の大型戦艦二隻分の戦力を有し、たった一隻で、世界中のどの艦隊と勝負しても勝ち抜けるだけの戦力を保持しているというまさに、破格のバケモノ戦艦だったのです。

    そんなバケモノ戦艦を英国が開発し、就航させたのです。
    世界最強の女王戦艦が就航したら、世界は英国にひれ伏さなければならなくなります。
    なぜなら「トレッドノート」一隻が来るだけで、他の国々の艦隊は、ひたすら逃げまくらなければならなくなるからです。

    こうなると日本も、軍事バランス上、強大な力を持つ戦艦を建造せざるを得なくなります。
    なぜなら、日英の軍事バランスがくずれれば、日英関係は「同盟」関係でなく、「主従」関係に化けてしまうからです。
    世界は「力が正義」です。
    「理屈が正義」ではないし、弱い者は、どんなに理論的に正しいことを言ったとしても、「力」の前に屈服せざるを得ないのが現実です。

    ですから世界は、「トレッドノート」の就役にともなって、未曽有の巨大戦艦建造ラッシュに突入しました。
    日本ももちろんそうだったし、米国ももちろん同様です。

    さてここで問題なのが、米国の立ち位置です。
    米国は新興国です。
    アメリカ合衆国が建国されたのは十八世紀のことですが、南北が統一されて統一国家となったのは、ちょうど日本の明治維新の頃のことです。

    米国は、明治三十一(1898)年にスペインとの米西戦争に勝利して、ようやくグアム、フィリピン、プエルトリコという植民地を手にし、明治三十二(1899)年にフィリピンに戦争をしかけてフィリピン独立を鎮圧して米国支配下に置き、さらに明治三十三(1900)年に、義和団事件の平定のためにと称して、ようやく清国に派兵しています。

    要するに当時の米国は、まさに米西戦争や米比戦争、あるいは義和団事件をきっかけにして、東亜の植民地支配に、王手をかけつつあったわけです。

    当然、太平洋を渡って他国を支配するのですから、強大な海軍力が必要です。
    そして同時に、そうした米国の東亜進出にあたって、最大の障害が、武士の国、日本だったわけです。
    ところが間の悪いことに、その日本は、世界最大の強国である大英帝国と同盟関係にあります。
    この時点で米国が日本に喧嘩を売れば、同盟関係にある英国とも一戦交えなければなりません。

    実家が英国にあるという人々が多い米国において、そんなことは世論が許さないし、そもそも軍事的には英国や日本と同じだけの軍事力を持ったとしても、(英1+日1)対、米1、つまり、2対1です。
    勝ち目はない。

    したがって当時の米国は、日本に手出しをすることはできず、また日本に遠慮をしながらでなければ、東亜における植民地支配地の拡大はできない、という情況にあったのです。
    ただし、日本が弱国となれば、話は別です。
    日英同盟が破棄され、日本が弱国化すれば、米国は、築き上げた太平洋艦隊を駆使して、東亜を好きなように侵略し、分捕ることができるようになる。

    そういう時代背景の中で、一方で英国が「トレッドノート」を就航させ、一方で日本が国際経験に不勉強な外交オンチの政治家によって、新型戦艦の建造を停止したのです。

    あとで詳述しますが、結果として戦艦の建造は行っています。
    これは海軍からの相当なクレームで、ようやく予算がとれたからです。
    けれど、相当予算をケチられた結果、少ない予算で無理やり強力戦艦を作ろうとした結果、設計に無理が出てしまいました。
    結果、扶桑級の新造戦艦は、実戦で「使い物にならない」ツマラナイ船になってしまったのです。
    艦船がツマラナイ船となることで何が起こったのかというと、軍事バランスが崩れます。

    このチャンスをほっておいてくれるほど、世界は甘くはありません。
    日本おそるに足らずと見た米国は、大正十一(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。
    そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、三:五:五と決めてしまいます。

    しかもこの会議に出席した日本政府の代表は、これで軍事予算を軽減できて財政が潤った、世界が軍縮に向かって、良かったよかった、と小躍りして喜んでいます。
    もちろんそこには、スパイ工作もからんでいます。
    そしてこの代表団は、なんと陛下の勅許も得ないで、独断でこれを決めてきてしまったのです。

    これは幕末に井伊直弼が、天皇の勅許を待たずに独断で日米和親条約を締結し、その結果、日本の金(gold)が大量に米国に流出し、日本から金(gold)がなくなってしまった構図と同じです。
    とかく日本という国は、政府が陛下を軽んじると、ろくなことが起らないのです。

    日本国内では、政府の勝手なワシントン条約批准に、これは陛下の統帥権を干犯した大問題である、との抗議運動が起こって内政は大混乱します。
    そして翌年八月には日英同盟が失効する。
    継続はありません。
    変わって米英が同盟国になりました。

    つまり、世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
    (日5+英5)対(米5)
    という関係が崩れ、一夜にして、
    (日3)対(英米10=英5+米5)
    という関係になったのです。

    つまり「軍事バランスが変わった」のです。
    米英の10に対し、日本3です。
    日本に勝ち目はありません。
    日本は一夜にして「軍事弱国」になってしまったのです。

    ここまでくれば、あとは日本の力を削ぐだけです。
    米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになりました。
    ちょうど、昨今、民主党が日米関係に亀裂を入れたとたんに、中共や韓国が日本に対して露骨な侵害行為をするのと同じです。

    そしてついに米国は、Chinaにいる不良武装集団である蒋介石の軍閥に裏から武器弾薬や糧食を渡し、国際連盟の要求によって国際平和維持部隊(いまでいうPKO)としてChina大陸にいる日本人を殺害したり、拉致したり、日本人婦女を強姦したりと、あくどい戦争挑発行為を行いはじめたのです。

    そしてついには、日本に対してハルノートを突き付け、日本が戦争に踏み切らざるを得ないところまで追い込んでいます。

    要するに、日本が日華事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「トレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級四隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、ということです。
    そして、そのまた遠因には、日本が強くなることによって奪われた利権者たちの存在が見えてきます。
    それは、植民地支配者として大儲けをしていた欧米の資本家たちであり、その下請けとなってアヘンの売買などを取り仕切っていたアジアマフィアです。

    国際情勢の中においては、いかに財政上の苦労があろうが、軍事バランスを常に「強者」に置いておく努力がなければ、国家は他国に軽んじられ、追いつめられます。
    このことは、歴史の教訓として、私達は常に頭に入れておかなければならないことです。

    もうすこし述べます。
    そもそも軍は、戦争をするためのものではありません。
    戦争を未然に防ぐためのものです。

    そこを間違えると、財政上の理由でケチった何百倍ものツケを払うことになり、国の経済は傾き、国民の生命や財産を危険にさらすどころか、国家も国民も、何もかもを失うハメになるのです。
    その原因を作ったのが、大正二年の、「国民の生活が第一」と民生重視をうたい、軍艦建造反対を行なった日本の国会であったわけです。

    さて、その予算に待ったをかけられたのが、扶桑級大型戦艦の「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」の四艦です。
    この四艦は、計画段階で予算に待ったがかけられ、ようやく大正二(1913)年に「扶桑」、大正三年に「山城」が建造開始となりました。

    ところが、世界最強クラスの戦艦を建造しなければならないという海軍の要求に対し、予算はついたものの、大幅な圧縮予算です。
    いざできあがってみると、一番艦「扶桑」、二番艦「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというなさけなさです。
    要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。

    これでは戦艦の体をなしません。
    やむをえず「扶桑級」戦艦としての建造はあきらめ、あらためて「伊勢級」戦艦として、着工開始になったのが、「伊勢」と「日向」です。

    しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にはありません。
    そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正六(1917)年、「日向」は大正七(1918)年にそれぞれ就役します。

    大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、少ない予算の中で、徹底的に船体の改良をされました。
    さらに昭和九(1934)年には、緊迫する世界情勢の中で、伊勢と日向の姉妹は大改装を施されます。
    少ない予算の中で、なんとかして艦の性能をあげるように工夫と努力が積み重ねられたのです。

    まず第一に、艦の主砲の最大仰角が四十五度に引き上げられました。
    当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。
    そのかわり命中率が下がる。
    それでも「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の四十五度という、限界仰角にまで引き上げたのです。
    要求されたエンジンの搭載が予算の都合でできないから、船速が遅い。
    だからせめて、砲弾を遠くに飛ばそうとしたのです。

    けれど、もともとは最大仰角二十五度で設計された船です。
    それを一気に引き上げて砲弾を遠くに飛ばすようにし、命中率の向上は、もっぱら乗員の猛訓練に委ねるとされたのです。
    これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸び、なんと33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。
    日本人おそるべしです。

    次に装甲が格段に強化されました。
    これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしなくなりました。

    さらにエンジンには、小型で安価な新型タービンエンジンを搭載しました。
    これによって、最高速度は25・3ノットまで引き上げられましたが、それでもまだ世界の標準艦には追い付けない。
    そこで、新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させ、さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線などを搭載しました。

    それでも速力が遅いことは、機動部隊の艦としては致命的です。
    どうしても30ノットはほしいのです。

    結局「伊勢」も「日向」も、これだけの大改造を施されながら、大東亜戦争の初期には低速艦であるとして実戦配備されませんでした。
    あくまで姉妹は「練習艦」としてだけ使用されることになったのです。
    一生懸命お化粧したのに「使えない奴だ」と相手にされなかったようなものです。

    ところがそんな姉妹に、実戦投入の命令が来たのが、昭和十七(1942)年六月のミッドウエー海戦でした。
    初の実戦配備です。
    「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練を施されました。
    待ちに待った実戦配備なのです。
    その訓練のときの嬉しそうな伊勢と日向の姉妹の様子がまるで目に浮かぶようです。

    そんな折に重大事件が起こります。
    昭和十七(1942)年五月五日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしてしまったのです。
    砲塔部が吹っ飛び、乗員54名が一瞬にして亡くなってしまいました。
    やはり仰角に無理な負担があったのです。

    やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部がそっくり外されることになりました。
    その穴を鉄板で塞いで、上に25ミリの四連装機銃を突貫工事で装備しました。
    せっかく高性能な主砲を取り付けてあったのに、これを外して機銃装備になったのです。
    付け焼き刃とはこのことです。
    ところが、その付け焼き刃が、あとでとんでもない活躍をします。

    「伊勢」と「日向」はミッドウェー作戦に参加しました。
    理由は、試作品とはいえ、他艦にはないレーダーが装備されていたからです。

    ところが速度の遅い姉妹が、戦場となったミッドウエー沖にまだ到達しないうちに、海戦で日本は大敗してしまいました。
    せっかくのレーダーもここではまったく活かされず、日本は、大切な空母を失ってしまいます。

    失われた空母力を補うため、日本は、急きょ間に合わせでも構わないから、空母を用意する必要に迫られました。
    商船や、水上機母艦など、ありとあらゆる船を空母に改造することが検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。

    結局、建造中の大和型戦艦の三番艦である「信濃」を空母に改装すること、および、事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいる「日向」、同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されます。

    ところがもともと戦艦として設計された「伊勢」と「日向」には、艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。
    これを壊して空母に改造するとなると、完成までに一年半はかかってしまう。
    それなら、艦の後部だけを空母にしてしまえ!ということでできあがったのが、冒頭の絵にある「航空戦艦」という形だったのです。

    「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、空母にするための大改造を施されました。
    ただ、艦の中央に巨大な艦橋があるために、空母として航空機の発着陸に必要なだけの十分な滑走路が確保できません。
    そこでどうしたかというと、まず離陸にはカタパルト(射出機)を使用することにしました。
    これなら、長い滑走路が必要ないからです。

    カタパルトは、新型のものを備え付けました。
    これは30秒間隔で、飛行機を射出できるというすぐれものです。
    これを二基備え付けました。
    これによって、わずか5分15秒で全機発艦できる能力を身に着けました。
    これは、当時としては世界最速です。

    では着艦はどうするかというと、一緒に航海する空母に着陸させればよい、ということになりました。
    といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。
    そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがないはずです。
    どういうことかというと、「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈です。
    ある意味残酷な話ではあるけれど、それは現実でした。

    さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。
    これによって対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されました。

    それだけではありません。
    新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。
    各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、「超強力防空戦艦」としての機能を身に着けたのです。

    こうしてようやく完成した姉妹は、昭和十九(1944)年十月に戦線に復帰することになります。
    けれど、いよいよ飛行機を積むということになったとき、艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまいます。
    結果、「伊勢」と「日向」は、半分空母の半分戦艦でありながら、艦載機をまったく持たないという、なんとも情けない姿で、同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊の一員として参加します。

    この日フィリピン沖で、米軍のハルゼー提督率いる艦隊は、日本海軍殲滅のため、なんと527機もの大飛行編隊を繰り出しました。
    ものすごい数です。
    数人の仲間と過ごしているところに、527匹の蠅が襲って来た様子を想像してみてください。
    そらおそろしい状態となったことがおわかりになると思います。
    この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を被ります。

    けれど・・・けれどです。
    その猛烈な戦いの中で、ついこの間まで練習艦としてしかみなされず、使い物にならなないと相手にされず、航空戦艦に改造されながら、航空機の搭載がされなかった「伊勢」と「日向」が、獅子奮迅の大活躍をするのです。
    二人の姉妹は果敢に対空線を挑み、両者あわせて百機近い敵機を撃墜してしまったのです。
    しかも二人とも、これだけの奮戦をしていながら、ほとんど無傷でした。

    「伊勢」に至っては、群がる敵機との戦闘の最中に、自艦のエンジンを停止させて、被弾して沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業までこなしています。
    戦闘中にエンジンを停止するということは、艦が停まる、ということです。
    停まっている船は、爆撃機から投下される爆弾を避けることができません。
    ですから普通なら、敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙としか言いようがないのです。

    ところが「伊勢」は、強力な対空砲火で敵爆撃機を近寄らせず、戦艦設計の強力な装甲は敵弾を跳ね返し、群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員百名余を、機関を停止したうえで海上から救助してしまったのです。
    これは世界の海軍史に残る偉業です。

    さて、レイテ沖海戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失いました。
    日本の戦況はますます厳しさの一途をたどりました。

    この海戦に生き残った「伊勢」と「日向」は、以後、輸送艦として、主に物資の運搬に用いられます。
    航空戦艦を輸送船に使うなど、もったいない話にみえるけれど、当時の状況下では、強固な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実なことだったのです。

    「伊勢」「日向」の姉妹は、昭和十九年十一月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運びました。
    途中で、何度も米潜水艦に狙われましたが、こちらはもともとが戦艦です。
    なんどとなく米潜水艦を撃退しつつ、無事に内地にたどり着きました。
    そしてこのとき「伊勢」「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ「最後の航空燃料」です。

    沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った燃料です。
    また戦艦大和の最後の出撃のときの燃料も、このとき姉妹が持ち帰った燃料でした。

    けれどその姉妹は、持ち帰った燃料は他艦や航空隊に提供し、自艦は、自走するための燃料さえもなくなって、呉で動かない「海上砲台」として使用されることになります。
    動かない砲台となった「伊勢」と「日向」の姉妹に、終戦間近の昭和二十年七月二十八日、米軍機が猛攻撃加えてきました。

    姉妹は敵の爆弾を動いて避けることができません。
    人間で言ったら木に縛り付けられて動けない状態で、群がる敵と戦ったようなものです。
    それでも伊勢も日向も果敢に戦いました。
    艦底に大穴を開けられ、艦は大破着底してしました。
    それでもまだ戦いました。

    姉の「伊勢」は、大破着底した状態で対空射撃ができなくなりました。
    そこで「伊勢」は、群がる敵機に向かって、主砲をドンと放ちました。
    戦艦主砲です。
    発射と同時に起こる巨大な衝撃波で、操縦不能に陥った敵機がパラパラと墜ちてきたそうです。
    そしてこの砲撃が、日本海軍の戦艦が放った最期の主砲発射となりました。

    航空戦艦伊勢の最後
    航空戦艦伊勢の最後


    冒頭にも書きましたが、「伊勢」と「日向」の名前は、ともに日本神話ゆかりの名前です。
    「日向」は、神話発祥の地、天孫降臨の地です。
    天照大御神と神々の子孫である歴代天皇が祀られているのが「伊勢」です。

    そして日本神話というのは、神々の成長の物語でもあります。
    いってみれば、できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。
    そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされなかった。

    その二隻の姉妹が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の主砲を放ち、沈黙した。まるで日本神話の物語そのものを見ているような生涯でした。
    「伊勢」も「日向」も、後世に生きる私たちの目から見て、実に「かっこいい」生涯でした。

     ありがとう!伊勢!!
     ありがとう!日向!!

    私は、神々というのは、やはり本当におわすものだと感じています。
    なぜなら、我が国に「果たして神々はおいでになるのか」と疑問に思えるほどに世の中が荒れても、後になって歴史を振り返れば、なるほど、そういう意味があったのかと、納得させられるものが歴史の中にあるからです。

    たとえば663年の白村江の戦いで、日本は大敗しました。
    ところがこのことが原因となって、日本は万世の泰平を開く国家の統一と「おほみたから」を育むための都機能の充実と、国家統一の精神性の基となる古事記などの史書の編纂が行われました。
    実に、いまの日本があるのは、この戦いがあってのことでした。

    また平安末期から鎌倉初期にかけて、それまでの平和の日々がまるでうそのような内乱の日々が続きました。
    当時のご皇族や諸々の貴族たちはこれをたいへんに嘆き、その結果生まれたのが、百人一首です。
    けれどその内乱があり、日本の武士たちが合戦馴れしていったことによって、日本は蒙古襲来を跳ね返しています。
    ユーラシア大陸を制した蒙古の大軍を打ち払うことができたのは、当時の世界にあって日本だけでした。

    戦国時代には、まさに群雄割拠で国内がおおいに乱れましたが、このとき世界では、まさにスペイン・ポルトガルによる有色人種国の植民地支配と文化の破壊が徹底的に推し進められていました。
    日本は、戦国大名たちが戦(いくさ)慣れしていることで、まさに、この世界を制した二大勢力を追い払い、江戸300年の泰平の世を築いています。

    幕末の黒船来航以降、日本国内はおおいに乱れました。
    その乱れは、実はいまでも続いています。
    明治初年以降、今年で145年になりますが、その間、いわゆる不平等条約による差別が日本になかった時代は、1911年から1945年までのわずか34年間だけです。
    日本はいまも不平等条約下にあります。
    少し前までの日米航空協定も不平等条約でしたし、EUとの関係においても日本で重大犯罪を犯した者であっても、EUに逃げ込めば治外法権が適用されます。
    日本は主権国であるようでいて、実は全然主権国ではないのです。

    白村江にしても、元寇にしても、戦国にしても、混乱の原因となる事件等が生じてから、安定する状態になるまで、いずれもおよそ200年前後を要しています。
    たとえば戦国時代の始まりは1467年の応仁の乱ですが、徳川政権となり、鎖国が実施され、蝦夷の大規模反乱も抑えられて、国内が完全に平和な状態になるのは1670年頃のことです。

    人が病気になって入院することは、パソコンやスマホのりスタと同じで、魂がリスタをしようとしていることによるのだという説があります。
    国もひとつの人と例えるならば、混乱(=病気)は、何かのリスタを神々が図ろうとしている、つまり様々なアプリがメモリを占拠して動作不良になっている状態を、いちど整理してきれいにすることで、また軽やかな状態に戻そうとしているのだ、とも考えられます。

    先の大戦は、そういう意味で、明治以降の日本の歪みを正そうとした神々の試練であったのかもしれません。
    そしてその厳しい戦いの中で、日本の神語にちなんだ「伊勢」と「日向」の名を与えられた船が、使いものにならないとされながら、結局は、この二艦の活躍が、あまりにも目覚ましいことであったというところに、私は何らかの神々の意思を感じてしまうのです。
    何かある、と思えるのです。
    そこに私達が真実に目覚める神々からのメッセージがあるのではないか。
    そんな気がします。


    ※この記事は2011年2月の記事のリニューアルです。
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    教育が至らないなら、これを大人たちをも含めて、しっかりと広めていくことこそが、メディアの役割です。
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    以前、戸塚宏先生から教わった「権利」についてのお話です。

    ある日のテレビ討論の番組で、売春をしていた女子中学生が他の出演者から責められていました。
    ところがこの女子中学生、周囲から何を言われても、キョトンとしていたのです。

    で、この女子中学生の発言の番が回ってきた。
    そのとき彼女が言ったのが、
    「で、あたし、誰か、人に迷惑かけた?
     誰か被害受けた人いるの?
     いないでしょ?
     私が何をしようが私の勝手じゃん。
     私にだって権利があるんだから!」

    彼女のこの言葉に、それまで彼女を責め立てていた周囲の大人たちは、誰も言い返せなかったそうです。
    1分間くらいの沈黙が続いたという。
    しかたなく番組は、コマーシャルに切り替えました。

    さて、みなさんなら、この中学生に何と言い返しますか?

    戸塚先生は、この例え話をひいて、
    「そもそも『権利』という言葉が誤訳である」と述べられました。
    そこからすべての間違いが起こっているというのです。

    どういうことかというと、「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語です。
    「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)です。

    西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才だった人です。
    文久2年にはオランダに留学し、明治にはいってから機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いました。
    藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語です。

    彼は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。

    たとえば、英語の「philosophy(哲学)」を、「フィロソフィー」とカタカナ語で用いるのではなく、翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。
    なぜそうするかといえば、外国語を外国語のまま紹介したのでは、専門の学者にはそれでいいかもしれないが、その心とする語彙が広く世間に普及しない。
    欧米の概念は、欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を、我が日本のものとしていかなければならない云々、です。

    英語の言葉を、単にそのままカタカナ語で用いるのでは(最近はそういうカタカナ英語が氾濫しているけれど)、その意味は広く世間に伝わりません。
    欧米の哲学や科学力を日本の日本人の知識としていくためには、語彙に即した日本語を造語していかなければならい。
    そうすることではじめて、外国の概念や哲学が日本人のものになる、というのです。

    これは、まさにその通りです。
    「リテラシー」などと言っても、何のことかわからないけれど、「識字」と日本語で書けば、書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力を指すということがわかるし、
    ネットリテラシーといえば、ネット上に反乱する情報を正しく読んだり理解する能力ということが理解できます。

    西周(にしあまね)は、こうして英単語のひとつひとつを、和訳し、造語していくという作業を、ずっと続けられた人であるわけです。

    そしてその西周が「Right」を翻訳した言葉が「権利」です。

    ところが、この「権利」という訳に、福沢諭吉が噛み付いています。
    「誤訳だ!」というのです。
    福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、
    「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘しました。

    なぜ、福沢諭吉は、そこまで厳しく噛み付いたのか。
    その理由は2つあります。

    ひとつは、「権利」には能動的な意味があるが、「Right」は受動的な力であること、
    もうひとつは、Rightには「正しいこと」という意味があるけれど、「権利」という日本語にはその意味が含まれていないこと、です。

    「私がリンゴを食べる」というのが、能動です。
    「リンゴは私に食べられた」というのが受動です。

    「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になります。
    けれど、英語の「Right」には、そんな意味はありません。
    一般的通念に照らして妥当なものが「Right」です。
    つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても妥当な正当性のあるものが「Right」の意味です。

    さらにいえば、「Right」には、正義という概念が含まれます。
    要するにひらたくいえば、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が「Right」です。

    これを「権利」と訳してしまうと、子供の我がまままでが「権利」だと勘違いされてしまうのです。
    お父さんはテレビでプロ野球の試合を観たいのに、子供がお笑い番組を観たいといえば、それは子供の権利であり、むりやりお父さんがチャンネルを野球に変えれば、それは子供の権利の侵害にあたる、などという、もっともらしい理屈だけれど、明らかな「間違い」が起こるようになります。

    だから福沢諭吉は「Right」を「権利」と訳すのは、「誤訳だ!」と抵抗したのです。
    では、福沢諭吉が「Right」を何と訳したかというと、
    「通理」
    です。
    いつの時代でも、どこにあっても、誰にでも通用する道義的理論、というわけです。

    この「Right」という単語は、米国の独立宣言にも出てきます。
    〜〜〜〜〜〜〜
    They are endowed by their Creator with certain unalienable Rights,
    that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.
    That to secure these rights,
    Governments are instituted among Men,
    deriving their just powers from the consent of the governed,
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    直訳すると次のようになります。
    〜〜〜〜〜〜
    すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき「Right」を与えられている。
    その「Right」には、Life、Liberty、そしてthe pursuit of Happinessが含まれている。
    そのthe pursuit of Happinessを保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。
    〜〜〜〜〜〜

    つまり、英語圏における「Right」は「神から与えられたもの」です。
    ですから、本質的に正しいものです。
    これを「権利」と訳すと、次の文節である「そのRightには、Life、Liberty、そして幸福の追求が含まれている」が違う意味になります。
    なぜなら、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、個人個人が神の意に反していても「権利だ」と言えるようになるからです。

    けれど文意は明らかに、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、神から与えられた「Right」の内訳と書いています。
    これでは意味が非常にわかりづらくなります。

    これを「通義」と訳すと、米国独立宣言の文章は、次のようになります。

    〜〜〜〜〜〜〜
    すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき通義を与えられている。
    その通義には、人生、道義、そして幸福の追求がが含まれている。
    その幸福の追求を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。

    (福沢諭吉訳)
    天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。人間政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメテ真ニ権威アルト云フベシ
    〜〜〜〜〜〜〜〜

    要するに「Right」というのは、神から与えられた「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義」を言うのです。
    自分勝手が許される「権利」ではないのです。

    「Right」を「権利」と訳すから「権利と義務」とか、よけいにわかりにくくなるのです。
    「Right」が通義なら、「権利と義務」の本来の意味は、
    「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義と、これを享受するための義務」となります。
    意味が、ずっとつかみやすくなる。

    そうすると、冒頭の中学生の少女の売春行為も、未成年者の売春行為自体が「正義」ではないのだから、実にとんでもないことで、問答無用で、「あんたは悪い。だからやめなさい!」と言えるようになるわけです。

    つまり、日本における権利意識の大きな間違いは、そもそもの誤訳から始まっているのです。
    権利という言葉自体が誤訳であり、通義が正しい訳とすれば、権利意識という単語は、通義意識となります。
    通義なら、一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義ですから、通義意識は「一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義のための意識」です。

    そしてここまでくると、「人権擁護法案」などというとんでも法案も、要するに「人権=人の持つ権利」という誤訳の上に誤解を重ね、さらに「Right」を曲解したところから生じている無教養と身勝手が招いた「とんでもない法案」であることがわかります。

    つまり、人権なるものの本来の意味が、「人の通義」すなわち「国民の一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義」であるとするならば、ごく一部の在日外国人の利権のために、他の多くのまともな日本人の生活が犠牲になるなど、もってのほかとわかるわけです。

    ここは日本人の住む日本です。
    日本は日本人のものであって、外国人のものではない。
    日本人としての通義は、日本人のためのものであって、外国人のためのものではない。
    あたりまえのことです。

    一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中に、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)があります。
    そして、その一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが政治の役割であり、こういうことをしっかりと子供や青年たちに教えるのが教育の役割です。
    教育が至らないなら、これを大人たちをも含めて、しっかりと広めていくことこそが、メディアの役割です。
    それを誰もやらないといって、文句を言っても始まりません。

    誰もやらないなら、自分でやるのです。
    それが天の岩戸以来の日本人の伝統です。

    高天原は平和で豊かで住みよいところです。
    あたりまえです。天照大御神が統治されているのです。
    けれど、だからといって高天原に住む八百万の神々が、なんでもかんでも天照大御神にお任せして、自分たちで責任を持って高天原を護り、また生活を護ろうとしないなら、それは仮りそめの平和、かりそめの豊かさにしかなりません。
    与えられたことに、自ら責任を持つという概念がなければ、平和も繁栄も安定も、ガラス細工にしかならないのです。

    だから天照大御神は、須佐之男命がやってきたときに、自ら先頭に立って武装して須佐之男命を待ち受けました。
    やってきたのが、実弟の須佐之男命ではなく、もしそれが本物の外敵であったのなら、高天原はどうなっていたでしょう。
    そのことがわかったから、須佐之男命は、自ら高天原で暴れ、田んぼの畦を壊したりして、八百万の神々の目覚めを図ったのです。
    ところが目覚めない。
    だからついには天照大御神が自ら岩戸に籠もるという選択をなされました。
    そしてこのことでようやく「自らの責任」に目覚めた八百万の神々は、自分たちの生活は、なによりもまず自分たちで護るという行動を取るようになります。

    結局、須佐之男命の行動も、天照大御神の行動も、誰も目覚めないなら、自ら行動するしかないのだ、ということを後世の私たちに教えてくれています。
    誰もやらないから自分もやらない、ではなく、誰もやらなくても、自分がその必要を感じるのなら、まずは自分から行動するのです。
    須佐之男命は、それによって最後には、目覚めた八百万の神々によって処罰されています。
    そして須佐之男命は、黙ってその処罰を受けています。
    これこそが日本男児の生きる道です。

    世間の常識と違うことを始めれば、最初は非難轟々でしょう。
    変人と言われる(笑)
    けれど、大事なこと、大切なことと思うなら、やりつづけるしかない。
    なぜなら、誰も見ていなくても、正しいことをして生きていくということこそが、日本人の日本的生き方だからです。

    私はそういう生き方をしたいと思っています。
    まあ、失敗が多いですけどね(笑)
    でも、やるんだw


    ※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。
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    そしてこのことは、社会構造そのものを変革します。

    20211014 アダムとイブ
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    旧約聖書の創成期の「アダムとイブ」による人類の「原罪」の物語は有名です。
    アダムとイブが、エデンの園で禁断のリンゴの実を食べることで、互いが裸であることに気が付いた。
    そこで二神は腰巻きを付けるのだけれど、これを神が見とがめます。

    神の問いにアダムは、
    「神が創られたイブに勧められたのです」と、神と女に責任転嫁し、
    イブは
    「蛇に騙された」と、これまた蛇に責任転嫁します。

    残念に思われた神は、
     イブに「産みの苦しみと夫からの支配」を
     アダムに「一生苦しんで地から食物を取ることと土にかえる」ことを命じた、
    というのが、この物語で、そこから女性の出産や、男性の労働は、人類の「原罪」であるとされます。

    ちなみに女性に与えられた原罪のもうひとつが「夫からの支配」で、
    これは英文では
    「Your desire will be for your husband, and he will rule over you.」
    と書かれています。

    つまり、神は「ルール(rule)」を書き換えた、と書いているわけです。
    聖書が書いていることは、単にそれまでの安閑とした楽園暮らしというルールを、苦痛を得、それによって大きな幸せを得るというルールに替えたわけです。

    ところが西洋の人たちは、およそ3000年の間、これを神に与えられた「原罪」だと解釈しました。
    神によるペナルティだというのです。

    古代ギリシャでは、ポリスと呼ばれた都市国家の人口の1%のおじさんたちが「自由民(エレウテロス)」で、今風に言うなら、都市国家のGDPの50%を独占しました。
    このおじさんたちが、なぜ「自由民」なのかというと、神から与えられた「原罪」である労働から開放されて、神に与えられたルールから自由になっているからです。

    残りの99%は、奴隷です。
    (厳密に言うと人口の5%が自由民なのだけれど、5%のうちの半分は女性であり、残りの2.5%の男たちのうち、現役を引退した老人と、若年層の子どもを除くと、いわゆる成人男子の人口は、全体の1%程度になります)
    この奴隷たちは、男が「ドエロ」、女が「ドエラ」と呼ばれました。

    おもしろいのは、ドエロやドエラであっても、支配層である自由民と普通に恋愛したし、結婚もしました。
    また奴隷階層であっても、真面目に働けば、城塞都市の中で土地や家を買うこともできました。

    と、ここまでお読みいただいたら、もう皆様、お気づきと思います。
    ギリシャ時代というのは、いまから2700年ほどの昔ですが、その社会構造は、現代の欧米の社会構造と、まったく同じです。

    たとえば米国なら、全米の1%の大金持ち層が、全米のGDPの5割を寡占します。
    そしてこのひとたちにとって、一般の米国民は、国民とか市民とかの名前だけは与えられているものの、実際にはギリシャ時代の奴隷たちと、身分も、生活環境も、まったく変わっていないのです。

    どうしてそのようなことが起こるのかといえば、これももうお気づきと思いますが、
    「働くことが、人類の原罪」
    だからです。
    そしてそのことが、すくなくとも欧米社会では、2700年にわたって、ずっと守られてきているわけです。

    ところが日本的思考では、これがちょっと変わります。
    人類の原罪というけれど、神は「命じた」とあります。
    これを「ルール」にしたのです。

    そして、よくよく考えてみれば、たとえば女性には出産の苦しみを与えたけれど、その苦しみの後には、苦しみに負けずに最後まで頑張って出産すれば、無上のよろこびである我が子を、その腕に抱くことができるのです。
    そしてそのときの母となった女性の幸福感、高揚感は、まさにこのうえのないよろこびとなります。
    そしてそんな我が子のためなら、睡眠時間が2時間程度しかなくなったり、夜中に起きてオシメを替えたり、乳をあげたり、女性はそのときに自分にできるすべてを子の成長のために捧げます。
    なぜなら、それこそが「幸せ」なことだからです。

    つまり神は、そんな人として、あるいは女性として生きる上での最高のよろこびを、人類に与えたのだし、またそのよろこびを最大にするために、あえて、出産に、痛み、苦しみを与えたともいえるのです。
    先に大きな苦痛や痛みがあるほど、そのあとのよろこびは大きいし、幸せ感が長く続くからです。

    このように考えると、神が与えたというお産の苦しみというのは、実は原罪でもなんでもなくて、むしろ適正かつ公正な、そして人類に与えられた無上のよろこびであるとみることができます。

    同様に、夫から支配される苦痛というけれど、これもまた原罪ではなくて、食料を得るために外に働きにでかける夫を気持ちよく送り出すようにすることで、単純な男たちは、がんばって外で働き、得た食料や富を必ず家に持ち帰るのです。むしろ、女性が威張っていて、男性が逃げ出してしまったら、食料を運んでくる人がいなくなってしまうのですから、女性にとっても、子にとっても、それこそ不幸です。

    このように考えますと、男性に与えられた「労働」も、罰ではなく、よろこびであると考えられます。
    「一生苦しんで地から食物を取る」ということは、覚悟のことです。
    最初から、畑を耕して、食料を得ることは、たいへんなこと、苦しいこととわかっていれば、腹も決まるし、そこにむかって挑戦していこうとする根性も生まれるのです。

    そもそも男性というのは、筋肉と同じで、筋肉痛が出るほどに鍛えれば鍛えるほど、太く丈夫になる生き物です。
    逆に女性は内蔵と同じで、やさしくいたわらないと故障します(笑)

    つまり神が与えた「労働の苦しみ」というのは、実は「苦しみだ」と覚悟させることで、収穫のよろこび、そして収穫された食べ物を家に持ち帰ったときの、妻の笑顔、子どもたちの笑顔という、無上のよろこびを神が与えてくれたという解釈も成り立ちうるのです。

    「そうか。おまえたち、知恵の実を食べて
     そういう知恵がまわるようになったのだな。
     ならば、こんどはお前たち自身で
     食べ物をつくり、
     子をつくり、
     自分たちで努力して生きて生きなさい。
     そうすることで、
     生きるほんとうのよろこびを、
     幸せを
     おまえたちも、その子たちも
     得ることができるであろう」

    旧約聖書の神による原罪は、実はそういう意味であったのではないでしょうか。

    このように考えるならば、国民の1%が、働かないで富を独占するなどというのは、むしろ神に対する冒涜であると理解できます。
    現場で、汗を流し、努力をかさね、苦痛があってもそれを乗り越えながら、強く生きていくことこそがよろこびであり、人類に与えられたルールだということになります。

    そしてもし、西欧の人たちが、神が与えた原罪なるものを、そのように解釈していたならば、おそらく西欧社会は、原罪とは180度違った社会になったでことでしょう。

    残念ながら、西欧社会では、ついに「労働しない人が自由人」という発想から逃れられずに現在に至っています。
    もしかすると、神様の目線からしたら、
    「おまえたちは、なぜこんな大事なことがわからんのだ。
     すこしは宮殿の中でみずから農業を行った
     マリー・アントワネットを見習いなさい」
    くらの感じになるかもしれません。

    言いたいことは、西欧の解釈が正しいとか、間違っているということではありません。
    このように、事実はひとつであっても、それについての見方や、ストーリーの解釈を変更することを、
    「初期条件の変更」
    といい、初期条件を変えることで、その後の人生や社会構造が変わるということを申し上げようとしています。

    たとえば、極貧の家庭に生まれて、子供の頃からすごく貧しい暮らしをしていました。だから私は不幸なんです、ということを初期条件にしてしまうと、その人の人生は一生不幸なままになります。
    なぜなら、不幸でいることを初期条件化してしまっているからです。

    ところが、「私は極貧の家に生まれました。最低の境涯でした。だからこそ、そこから這い上がることが楽しくて仕方がないのです」ということを初期条件にすると、その人の人生は、成長することをよろこびとする人生になります。

    旧約聖書の「原罪」も同じです。
    働くことが罪だ、ということを初期条件にしてしまえば、働かないことが幸せなことということになります。
    けれど人間、食べなければ死んでしまいますから、結果、誰か立場の弱い人を使役して食べ物を作らせて、これを奪うことが自由であることの証になります。

    けれど、実はそれは労働の喜びを命じたものであったのだ、と初期条件をリセットすると、ガーハの皆さんのような、働かないで、何億もの人の年収相当額を、個人で得ているような人たちこそが、神を恐れぬ傲慢な人たちという意味になります。
    そしてこのことは、社会構造そのものを変革します。

    日本を変えるとか、日本を取り戻すということも、実は同じことで、現在の延長線上で、文句ばかりを繰り返していても、実は何も変わらないのです。
    私たち一人ひとりが、「よろこびあふれる楽しいクニ」を目指し、霊(ひ)を大切にする意識に目覚め、シラスという古語を常識語に取り戻すことで、実は、戦後日本の初期条件がリセットされ、世の中が大きく進歩する原因となります。

    わたしたちは、そのために日々、勉強し、また語り合っているのです。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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