「建国」と「肇国」と「天にぎし国にぎし」。 それぞれの言葉には、それぞれに深い意味があります。こうして私たちの先輩たちは、言葉をとても大切にしてきたのです。 日本語を話す日本人であれば、日本語で思考し、日本語で対話します。つまり思考は日本語によって行われるわけです。そうであれば、日本語を正確に、またちゃんとした意味を共通の定義としていくことは、対話を成立させ、コミュニケーションを行ない、あるいは論考をするに際して、とても大切なことです。そのためにあるのが、本来の国語教育です。 |
橿原神宮

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
我が国の建国は、日本書紀の神武天皇記に書かれた、「辛酉(かのととり)の年の春1月1日、神武天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で帝位につかれ、この年を天皇の元年とされました」に依拠します。
原文は次の通りです。
辛酉年春正月庚辰朔
天皇即帝位於橿原宮
是歳為天皇元年
この記述に基づき、旧暦の神武天皇元年1月1日が、明治7年から当時の太政官布告によって新暦の紀元前660年2月11日とされたのは、みなさまご存知のとおりです。
いまではこの日が「建国記念の日」と呼ばれていますが、実はここにも、戦後の特殊事情がからんでいます。
なぜなら、我が国のはじまりは、「肇国」であって「建国」ではないからです。
もっというなら、国史の原典となった日本書紀は、「建国」の二字を新羅や高麗について用いているだけで、我が国の立国については、別な書き方をしています。
では日本書紀がどのように書いているかというと、これが三段構えになっていて、先ず天地をあわせる天孫降臨があり、神武創業があり、崇神天皇による国の肇(はじ)まりがあります。
最初の邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨は、
「天(あめ)にぎし国にぎし(天邇岐志国邇岐志)」で、これは天地が親和することを意味します。
次の神武天皇による神武創業は、
「始(はじ)めて天下(あめのした)を馭(をさめた)まふ(始馭天下)」です。
そして第10代崇神天皇の時代が、
「肇国(はつくに)(日本書紀)」であり「初国(はつくに)(古事記)」です。
そして教育勅語は、
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗
国ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ
德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
と記述しています。
ここにある「国ヲ肇󠄁ムル」が「肇国」です。
どういうことなのか、まず「建国」からご案内します。
「建国」の「建」は、もともと「聿」の部分が筆で文字を書いている姿の象形で、これに道を延長する意味の「廴」が付いて出来ています。
つまり人が筆を手にして何かを書き始めることが文字の成り立ちで、そこから転じて「人の手によって新たに建てられること」を意味するようになったのが「建」という字です。
ですから家を新築するときは、「家を建てる」と言い、「家を初める」とか「家を肇める」とは言いません。
あくまで家は、人の手によって建てられるものだからです。
国が建てられるときというのも、これと同じで、特定の大王や代議員が国を営むようになれば、それが「建国」です。
世界の歴史に登場する王国や、現代の世界にある諸国は、いずれも人の手によって国がはじまっていますから、「建国」という表現が正しいのです。
ところが我が国は、そもそも天孫降臨に際して、
天照大御神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、
豊葦原の千五百秋之瑞穂の国は、
是れ吾が子孫の王たる可き地なり。
宜しく爾皇孫就きて治(しら)せ。
行牟(さきくませ)、
宝祚の隆えまさむこと、
当に天壌と無窮かるべし。
と述べられたことからはじまります。
つまり我が国のはじまりは、天照大御神の御神意に基づいているわけです。
ですから瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、
「天にぎし国にぎしアマツヒコ」と呼ばれます。
これは日本書紀なら「天饒石国饒石天津彦(あめにぎしくににぎしあまつひこ)」、古事記なら「天邇岐志国邇岐志天津日高(読みは同じ)」と書かれています。
「にぎし」というのは、「和」と同じで、神々のおわす高天原と地上の国を親和させたという意味です。
そして御神意よって我が国がはじまったのだから、その国が隆(さか)えることは天壌(あめつち)が永遠のものであるのと同様に、国は永遠に隆(さか)えると書かれているわけです。
これがひらたくいえば、我が国の始まりです。
ところが地上世界の悲しさで、そうは言っても、神とつながっているから俺は偉いのだ、他の者はどうなったって構わないといった誤った考え方をする者も生まれるわけです。
これではいけないと立ち上がられたのが神武天皇で、神武天皇はそうした誤った道を進もうとする者を退治し、あらためて国の民が神々の御意思のもとに、互いに助け合って生きていく国の道を説かれました。
これが我が国の「建国の詔(みことのり)」で、この詔(みことのり)に基づいて2年がかりで都が橿原に建設され、そこで神武天皇が、初代天皇として国を再興されました。
この建国は、神武天皇があらためて国をおさめられたという意味から、神武天皇の御即位が「始(はじ)めて天下(あめのした)を馭(をさめた)まふ(原文:始馭天下)」とされています。
ここにある「馭」という字は、馬にまたがったことを意味する漢字で、神武天皇が天下という馬にまたがってこれをしらしめられたから、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」(日本書紀)と書かれています。
ところが第10代崇神天皇の時代に、疫病が流行し、人口の3分の2が失われてしまうのです。
御心を悩まされた崇神天皇は、神々の依代となっている全国の神社を統合し、あらためて神社を天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)、神地(かむどころ)、神戸(かむべ)の四段階に系列化されました。
この時代には、まだ仏教伝来はありません。
ですから人々が集まる場所は、もっぱら神様のお社(やしろ)である神社であったわけで、その人々が集まる神社を朝廷のもとに系列化することで、朝廷の意向が神社のネットワークで全国津々浦々に伝わり、また全国の状況や情報が、すべからく中央の朝廷のもとに集まるようにされたのです。
国というのは、中央省庁ができたら、それで国になれるというものではありません。
全国がネットワーク化され、組織化されてはじめて国となります。
その組織のことを、古い大和言葉で「クミ」というのですが、クミには必ずそのまとめ役としての中心核があります。
我が国においては、この「クミ」というのは球体のようなもので、(もっというならミラーボールのような球体を想像いただくとわかりやすいかもしれない)球体の表面にある人々(ミラーボールなら表面の鏡)は、球面ですから上下も貴賤もありません。
ただ球体の中心に、中心核があるだけです。
この中心核が、それぞれの地域にある氏神様で、これが神戸(かむべ)。
地域内の、いまで言ったら市町村単位の神戸(かむべ)をまとめる中心核にあたるのが神地(かむどころ)。
県単位が国社(くにつやしろ)、地方ごとの中心核にあたるのが天社(あまつやしろ)とされたわけです。
このあたり、現代風に考えたとき、古代の人たちが、平面図上に描かれるピラミッド型の組織を想像したのではなく、どう考えても球体が集合してさらに大きな球体を形成するといった立体構造で国の形を考えていたとしか思えないところで、古代の日本人の知恵の深さにあらためて驚嘆します。
崇神天皇の時代は、それまで全国の人口が26万人あったものが、なんと8万人にまで減った時代でしたから、中央朝廷によるこうした取り組みが行われ、これによって全国の神社が統合され、組織化されるとともに、全国の神社に手水舎が設置され、結果、人々が集まるところでは手洗いを口をゆすぐことが作法として徹底されたことによって、疫病がみるみるうちにおさまりました。
こうした人口の極端な減少期に行われた施策が、生き残った人々に大きな影響を与えることを「ボトルネック効果」と言います。
ボトルネック効果の代表事例としては、7万5千年前の地球上の人口の激減期があります。
このとき地球上の人類は、総計で1万人ほどにまで減少しました。
そしてこれによって、もともとは人類も猿と同じで、メガネザルのような小さな人間もあれば、ゴリラのような大型の人類もいたのだけれど、結果として現生人類のような背格好と顔立ちの人類だけが生き残ったとされています。
我が国における崇神天皇の時代は、いまからおよそ2500年前の出来事ですが、その人口の減少期に、崇神天皇によって疫病が克服され、同時に全国の神社が中央朝廷のもとに完全に組織化されたことが、その後の日本の形となっています。
だから崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」(日本書紀)と呼ばれています。
国を肇(はじ)められた天皇だ、という意味です。
ここにある「肇」という字は、手に筆を持って、音を立てながら(攴)、「戸」を開くという成り立ちを持つ字です。
つまり「肇国」は、人の意思というよりも、御神意によって新たに国を開いたという意味です。
教育勅語では、この「肇国」を用いています。
けれども同時に教育勅語は、この「肇国」を「崇神天皇による肇国」とは書いていません。
書いているのは「皇祖皇宗国ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ」です。
「肇国」は、皇祖皇宗によって肇(はじ)られたものである、と記しています。
つまり我が国は、西欧や東亜の諸国のように、誰かひとりの大王によって立国されたのではなく、はるかずっと古い昔に、天照大御神の御神勅に基づいて国が治(しら)しめられ、天孫降臨から歴代天皇へと続く古い昔からの人々の努力の積み重ね、さまざまな苦難を乗り越えてきた祖先たちのはたらきによって、我が国が肇(はじ)められたのだ、という理解のもとに教育勅語はあるわけです。
「建国」と「肇国」と「天にぎし国にぎし」。
それぞれの言葉には、それぞれに深い意味があります。
こうして私たちの先輩たちは、言葉をとても大切にしてきたのです。
日本語を話す日本人であれば、日本語で思考し、日本語で対話します。
つまり思考は日本語によって行われるわけです。
そうであれば、日本語を正確に、またちゃんとした意味を共通の定義としていくことは、対話を成立させ、コミュニケーションを行ない、あるいは論考をするに際して、とても大切なことです。
そのためにあるのが国語教育です。
しかし現代の国語教育は、果たしてそうした日本語の奥行きの深さや、日本的精神性をしっかりと教育するものになっているといえるのでしょうか。
もしなっていないとするならば、それは現代日本が抱える重要な問題のひとつであり、改善をはかるべき課題です。
そういう議論がちゃんとできる国政になっていくことが、国の未来を拓くのだと思います。
※この記事は2020年10月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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