自分の人生を、ただ他人様の悪口を言うだけに使うのか、それとも自分の霊(ひ)の成長のために使うのか。 もちろん日本を壊そうとする者や、世界を破壊しようとする者、自己の利益のために公然と嘘をつくような者たちを論破することは大切です。 では、論破とただの悪口はどこがどう違うのかといえば、それは対象の名誉を奪っているか否かの違いです。 論には論で戦うのが筋であり、論破できないからなどと、相手の名誉を奪う言動に出れば、それは暗黒面(カン国面)に堕ちたようなもので、自らの霊(ひ)を汚す行為となるのです。 この違いは紙一重ですが、天と地ほどの差があります。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
「人は霊(ひ)の乗り物である」というのが、日本の古来からの考え方です。
だから「ヒト」と言います。
「ヒ」とは霊(ひ)のことであり、「ト」は停めることや止めることを意味します。
つまり「ヒト」とは、身(体)に霊(ひ)を留めた存在だから、「ヒト」という日本語ができています。
霊(ひ)の状態にあれば、なんでも思いどおりになりますが、ふれあいがないし、悩みもないので霊(ひ)の成長がありません。
だからこの世界の身に乗ることで、様々な体験をし、自らを成長させようとします。
その意味で、身は、いわばアバターのようなものです。
ところがその身には寿命があり、さまざまな制限があります。
幼い頃は、身に自由が効かないし、青年期には身は思い通りに動くけれど他者との関係の中で様々な挫折を味わいます。
壮年期になると疲れが出始め、老齢期には身の自由がだんだんに利かなくなる。
要するに使っているうちに、だんだんにポンコツになるわけで、最後には捨てるしかなくなります。
もともとこの世で身というアバターを手に入れるのは、そのアバターが老いて使い物になるまでの短い間に、自分の霊(ひ)をより高いものに成長させるためです。
わざわざそのために身に宿ったのに、人によってはいつの間にか自分の霊(ひ)を成長させることを忘れ、我儘や身勝手、自分さえ良ければといった、むしろより低い次元のものに我が身をやつしてしまいます。
霊(ひ)は、もともと「ひかり」の存在です。
「ひかり」というのは、「霊(ひ)+力+光彩」のことで、力を発揮できる光彩が「ひかり」です。
太陽の光は七色の光彩を持ちますが、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色が全部あわさると、白い太陽光になります。
赤だけが、俺が偉いからと、橙や青色を支配しようとするのは、馬鹿げた話ですが、とかく身の世界ではそうしたことが起こりがちです。
支配は闘争であり、赤色が黄色や青色と闘争して、自分だけが贅沢ができるようにしようと闘争することですが、誰もそんなものは求めていず、結果は必ず破綻します。
むしろ、赤は赤、黄色は黄色、青は青として、それぞれが互いの存在を認めながら、対等な社会を築いていく。
それこそが、共存共栄の道なのに、それが身にはわからない。
身に備わった大脳の本能が、自分だけの生存を追い求めようとするからです。
つまり人の身は、本来霊(ひ)のアバターでしかないのに、アバターの大脳に霊(ひ)が負けてしまう。
組織もおなじです。
自分の組織の生存のために、すぐに仮想敵をつくりたがる。闘争したがる。
闘争して勝利して天下をとれば、次には内部での抗争が起きる。
果てしない抗争の結果、最後にはすべてが滅びてしまいます。
古事記によれば、人の世は神々の胎児です。
胎児の細胞は、日々新陳代謝を繰り返しますが、このことは何億という人の世が人の生死の繰り返しによって構成されているのと同じです。
そしてその全ては、神々の体内にあり、この世は神々の胎児のようなものであるという理解です。
胎児のなかのひとつの細胞が、自らの細胞としての役割を果たさず、自分さえ良ければと周囲の細胞から栄養分を横取りするようになると、これを癌細胞と呼びます。
体中が癌細胞だらけになったら、胎児は死亡し、そんな胎児をお腹に持つ神も無事では済まなくなります。
そうなれば、神々は胎児を、まるごと処分することになります。
人類はいま、そんな癌細胞に、神々による外科手術が行われようとしているのかもしれません。
切除されないためには、自らがこの世に生を受けた意味をもういちど考え直し、周囲の細胞と上下と支配ではなく、あくまで対等に共存していくことを、あらためて常識として取り戻していくことが必要です。
肉体とその人生は、魂が成長するための乗り物です。
そして人生は、長く生きても100年です。
60代になれば、10代のときと比べて、一年はその6分の一しかありません。
感覚的には10代の1年は、60代の2ヶ月に相当します。
時間は、歳を重ねる毎に短くなっていきます。
自分の人生を、ただ他人様の悪口を言うだけに使うのか、それとも自分の霊(ひ)の成長のために使うのか。
もちろん日本を壊そうとする者や、世界を破壊しようとする者、自己の利益のために公然と嘘をつくような者たちを論破することは大切です。
では、論破とただの悪口はどこがどう違うのかといえば、それは対象の名誉を奪っているか否かの違いです。
論には論で戦うのが筋であり、論破できないからなどと、相手の名誉を奪う言動に出れば、それはダークサイドのカン国面に堕ちるようなもので、自らの霊(ひ)を汚す行為となるのです。
この違いは紙一重ですが、天と地ほどの差があります。
では自分の名誉を奪われたと感じたらどうするのか。
答えは、また「名誉を築くしかない」です。
イザナギとイザナミは、最後に千曳岩(ちびきいわ)をはさんで別れるとき、イザナミが
「愛する夫よ、お前がそのようにするのならば、私はお前の国の民草を毎日千人くびり殺そう」と言います。
これに対しイザナギは、
「愛する妻よ、お前がそのようにするのならば、私は毎日1500の産屋(うぶや)を建てよう」と答えます。
これが日本人の戦い方です。
名誉は、預金残高と同じです。
コツコツ貯め込んで増やすしかない。
名誉が奪われたときは、その預金通帳の残高がゼロかマイナスになったということです。
すでに失われているのですから、いくら相手の悪口を言ったところで戻ってくるものではない。
そうであれば、またコツコツと貯めていって、名誉という名の預金残高を増やしていくほかないのです。
名誉を奪う究極は、相手の生命を奪うことです。
これには物理的な殺害もありますが、相手の政治生命や、相手の仕事や家庭を奪うことも、その中に含まれます。
腹が立つのはわかりますが、ひとたびその世界に入ると、定性進化で、その方向だけしか見えなくなるものです。
そしていつの間にか、悪に染まることになります。
議会制民主主義が陥る最大の欠陥がここにあります。
そして悪と悪の対決なら、最初から悪そのものである方が圧倒的に有利です。
なぜなら何の良心の呵責もないからです。
日本は、戦後の大きな歪みの中にあると言われます。
しかしその歪みは、よくよく調べてみると、すでに戦前から始まっていたことであるとも言われます。
だからなんとかして、素晴らしい日本を取り戻したい。
そう思います。
しかし、そのために悪に染まるのか。
悪口雑言で他人の名誉を奪うことだけに、自分の一生を費やすのか。
一生をかけて自らの魂の成長を求めていくところに、日本人の日本人的な生き方があります。
なぜなら人は霊(ひ)の乗り物だからです。
※この記事は2020年10月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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