• 駆逐艦「雪風」の幸運


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    日本人と同じDNAを持った人たちは、かつて北米や南米にもいました。
    南洋の島々にもいました。
    けれど、それらの本家となる日本が最後まで生き残ることができたのは、その本家として、絶対に逃げない、負けないという意識を、いつのまにか身につけていたからといえるのではないでしょうか。

    雪風
    20151025 駆逐艦「雪風」
    画像出所=http://three-k.info/gara/fuao0044/
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    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    大日本帝国海軍の駆逐艦「雪風」は、さまざまな戦いに参加して生き残り、戦艦大和が沈没したときの戦いにも参加していて、都度、敢然と戦いながら、ほとんど無傷で終戦を迎えました。
    そんな幸運から、駆逐艦雪風の名は、戦後も海上自衛隊に「ゆきかぜ」として受け継がれています。

    そして激しい戦いを生き延びた「雪風」の活躍は、その後の世界の艦隊の様式を180度変えています。
    いまでは巨大戦艦は、どこの国も造っていません。
    すべてイージス艦に変わっています。
    巨大戦艦よりも、小柄な船のほうが生き延びる可能性が高いことを証明したのが「雪風」なのです。

    昭和5年(1930)英国のラムゼイ・マクドナルド首相の提唱で、英、米、仏、伊、日の五カ国がロンドンで海軍軍縮会議を開催しました。
    この時点で、世界の5強国の中の一国が日本であったわけです。

    大正13年(1923)まで、日本には日英同盟がありました。
    世界最強の海軍国は、この時点で英国です。
    つまり東の日本と、西の英国の同盟は、そのまま世界最強同盟でもあったわけです。
    ところがこれが破棄されて、英米が同盟関係を結びました。
    その情況のもとで、日本はこの軍縮会議で、駆逐艦の比率を、米:英:日=10:10:7とすることを合意してしまっています。

    米英は同盟国です。
    つまり両者の海軍力は10+10で20です。
    日本は7です。
    軍事バランスという意味では、このとき日本は、単独で20以上の海軍力を持たなければならなかったといっても過言ではないし、それができないなら、他の国と軍事同盟を結んで、合計で20以上となる海軍力を持たなければならなかったのです。
    ところがそれを7にしてしまう。

    つまらないたとえかもしれませんが、ランチェスターのN二乗の法則というものがあります。
    この法則に従えば、20:7の戦いの帰結は、√(20^2-7^2) で計算できます。
    日本と米英の艦隊が全面対決となった場合、日本の艦隊(7)は全滅し、英米の艦隊は20のうち19が生き残るということです。
    見事な英米の外交戦略です。

    実はこれが「国会」の持つ弱みです。
    国会の議員は、民間で選挙で選ばれた人たちです。
    つまり地元への利益誘導=票になるわけです。
    すると、国益という壮大なテーマについては、選挙で選ばれる国会議員は、常に後回しになります。
    要するに国会という制度は、国民の代表機関であっても、国家の代表機関とはなりえないということです。
    これは大事な点です。

    貴族院という、選挙不要の議会を持っていた戦前の憲法下ですらそうなのです。
    まして戦後の日本は、衆参両院とも選挙で議員が選ばれます。
    それで本当に国益にかなう国家としての選択ができるのか、私たちは考え直す必要があるといえると思います。

    日本は、「約束を守る国、信義に厚い国、決まりを遵守する国」です。
    国際会議で議決をすれば、ちゃんとその決めごとを守る。
    どこかの国のように、「約束は約束であって、都合は約束に優先する」といういい加減な国とは違います。
    それだけにこの軍縮会議は、英米にとっては、ゆるぎない対日絶対的優位を勝ち得たという外交の大勝利であったわけです。

    ところが日本は、ルールが変わると、いつのまにかその新しいルールの枠組みの中で工夫を凝らし、再び「強く」なるという不思議な国です。
    このことは、いまも昔も変わりません。

    ロンドン軍縮会議の結果、艦船の量的制限を加えられた日本は、艦船の数が足らない分、それを「性能で補おう」としました。
    小型で高性能な駆逐艦を、またたく間に開発建造してしまったのです。
    これが当時の新造駆逐艦であった「陽炎型」「朝潮型」「夕雲型」です。

    このとき造られた50隻が、大東亜戦争を通じて大活躍をしました。
    ちなみにこの取り組みが、結果として世界の海軍の様式を一変させました。
    日本は航空機の時代に大艦巨砲主義の大和を作ったからバカだとかいろいろ言う人がいますが、全然違います。
    当時の世界こそ、まだ大艦巨砲大戦艦の時代だったのです。

    しかも当時は、
    「動いている戦艦は、飛行機では絶対に沈めることができない」
    ということが世界の常識でした。
    この常識をくつがえしたのも日本です。
    日本は航空戦によって、英国が誇る最新鋭の巨大戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を、戦艦活動中に撃沈してしまうのです。
    ■参考→http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-531.html

    いまでは世界の海軍の主力艦はイージス艦です。
    名前こそ、米国式のイージス(盾)艦ですが、実はその実態は、ロンドン軍縮会議後の日本式駆逐艦です。

    ロンドン海軍軍縮会議を受けて建造された50隻新型駆逐艦の中に、今日のヒロインである奇跡の駆逐艦「雪風」がいました。
    ちなみに船は女性名詞なのでヒロインです。

    「雪風」は、陽炎型駆逐艦の8番艦として、昭和13(1938)年8月に起工され、昭和14(1939)年3月に進水しました。
    「雪風」は、冒頭にある通り、大東亜戦争における「激戦」と呼ばれる海戦のほぼすべてに参戦しましたが、ほぼ無傷で終戦まで生き残りました。
    それだけでなく、大東亜戦争全期間を通じて、「雪風」の乗員で戦死した者が10人いない。
    まるでアニメの宇宙戦艦ヤマトみたいな話ですが、こちらは本物です。

    「雪風」は、排水量2,033トン、全長118.5メートル、全幅10.8メートルと、小柄です。
    「大和」は、排水量72,809トン、全長263メートル、全幅38.9メートルです。
    下の写真でも、「雪風」が、いかに小柄か、わかります。

    大和と雪風
    (大和の手前にいる小さな船が見えますでしょうか?)
    大和と雪風


    「雪風」の初陣は、昭和16(1941)年12月8日です。
    つまり大東亜戦争開戦の日です。
    帝国海軍の巨艦が真珠湾に向かう一方、「雪風」を含む駆逐艦群は、世界最強の水雷戦隊「第二艦隊第二水雷戦隊」として、南方戦線に向かいました。

    この頃の帝国海軍の強さは、まさに「化け物」級です。
    フィリピン攻略戦、蘭印攻略戦、セレベス島上陸戦、アンボン島上陸戦、チモール島上陸戦にジャワ攻略作戦、ニューギニア攻略戦・・・・帝国海軍は、次々に敵艦隊を撃破しました。
    おかげでインド洋から太平洋にかけて、運用可能な英米連合国軍の主力艦艇が、まったくいなくなってしまったのです。

    ジャワ攻略作戦では、有名なスラバヤ沖海戦がありました。
    この戦いは、大東亜戦争における最初の艦隊同士の、歴史に残る大海戦です。
    このとき日本海軍は、東部ジャワ方面攻略部隊として第四八師団と坂口支隊が登場する輸送船を護ってジャワ海を航行していました。

    日本艦隊の陣容は、
     輸送船 49
     重巡洋艦 2
     軽巡洋艦 2
     駆逐艦 14 です。
    見ていただいたらわかりますが、大型戦艦である重巡はたったの2隻です。
    これで49隻の大輸送船団を護ろうというのです。
    これなら簡単に勝てると踏んだのでしょうか。
    昭和17(1942)年2月27日、その輸送船団に、米国カレル・ドールマン少将率いる米、蘭、英、濠、4か国の連合艦隊が襲いかかりました。

    敵の兵力は、重巡洋艦エクゼター、駆逐艦エンカウンターを含む17隻です。
    戦力からいったら、比較にならないくらい、米英蘭豪の方が絶対的に有利でした。
    おかげで二日間にわたる激戦の結果、日本軍は、駆逐艦「朝雲」が大破しています。
    ところが日本側の被害は、それだけ、でした。

    4か国の連合軍の方は、重巡洋艦エクセター(英)、軽巡洋艦デ・ロイテル(蘭)、ジャワ(蘭)、駆逐艦コルテノール(蘭)、エレクトラ(英)、ジュピター(英)、エンカウンター(英)、ポープ(米)が撃沈され、米重巡洋艦ヒューストン(米)が大破しています。
    なんと日本の護衛艦隊は、攻めてきた17隻のうちの8隻を大破沈没させ、1隻を破壊してしまったのです。
    日本の大勝利でした。
    しかも日本の輸送船団は、無傷でした。

    ちなみに、このとき沈没したエクゼターと、エンカウンターの乗組員は、生き残った味方の船にも置いてかれ、付近の海を漂流してしまいます。
    本来は、戦闘が終結したあと、生き残った艦船が味方の乗員たちの救助にあたらなければならないのだけれど、米英の船は、そのまま全部、帰投してしまったのです。
    このためエクゼターと、エンカウンターの乗組員たちは、陸から遠く離れた海の上を漂流しました。
    これをたまたま見つけた日本の駆逐艦「雷(いかづち)」が、自艦の危険すら顧みず、敵である英国人水兵全員を救助しています。
    後年、このとき助けられた「サー」の称号を持つ大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿が、このときの体験談を綴り、話題になりました。
    このお話は、↓でご紹介させていただきました。
     ↓
    ≪エクゼターとエンカウンター≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-532.html

    この戦いで、「雪風」は、僚艦とともに敵巡洋艦2隻を撃沈という大戦果をあげています。
    そしてその後、雪風は、参戦する海戦で次々と武勲をたてて行きます。
    そして「ミッドゥエー海戦」です。

    さて、ここから先の「雪風」の物語には、「雪と風の物語」(URL=http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_1.htmというサイトにある文章を転載させていただきます。

    すばらしいです。

    ~~~~~~~~~~~~~

    ご存じの通り、ミッドゥエー海戦は帝国海軍の強さの根元たる”機動部隊の壊滅”という最悪の結果に終わります。
    雪風もこの作戦に参加してましたが、彼女はミッドゥエー島占領部隊を乗せた輸送船団の護衛として船団の先頭に立って進軍しており、先を進む機動部隊全滅と作戦中止の報が入った為、反転して内地へと帰還する事になりました。

    この後しばらく雪風は、残った機動部隊の護衛を任せられることになり、ミッドゥエーから内地へ、そしてトラック諸島へと機動部隊に随伴。そのまま機動部隊同士における初の海戦「南太平洋海戦」にも参加する事になりました。

    その後、日本軍のフロリダ島・ガダルカナル島への上陸が始まると、ソロモンにおける地獄のような闘いが始まりました。
    大日本帝国・連合国共に大量の戦力を投入し、約一年と数ヶ月の間、陸で空で、そして海で……戦いが続く事になるのです。

    特に海での戦いは、他に例が無いほどの密度で行われた結果多数の艦船が沈み、何時しかソロモンのガダルカナル近海の海峡は、鉄底海峡と呼ばれるようになりました。

    この激戦区へと雪風が姿を見せたのは、高速戦艦比叡・霧島を投入した第三次ソロモン海戦です。

    双方の水上打撃部隊が殴り合うこの地獄絵図のような戦場でも、彼女は駆逐艦を撃沈する武勲を立てました。
    結果的にこの海戦で敵巡洋艦他六隻撃沈・五隻大破の戦果をあげたのですが、帝国海軍側も多大な被害を被る事になりました。
    数々の艦が傷つき鉄底海峡へと沈んでしまったのですが、それらの中には高速戦艦比叡と霧島も含まれていました。

    戦艦というのは海軍――否、国の象徴でもあり、それが沈む事は兵の士気に大きく影響してしまいます。
    無論、精神的な問題だけではありません。
    機動部隊に随伴が可能な高速戦艦は、実用的な意味から見れば大和級戦艦よりも遙かに貴重な存在だったのです。

    戦艦すら沈み、参加艦艇の大半が傷つき亡くなった第三次ソロモン海戦でしたが、雪風は帰ってきました。

    多少の被害はありましたが作戦行動には全く支障はなく、彼女は修理のため内地に向かう空母「飛鷹」の護衛をかねて呉へと戻る事になりました。
    そして今度は修理が終わった空母「瑞鳳」の護衛をしながらトラック諸島へ進出し、以後再びソロモンの地獄へと舞い戻ります。

    この時、既にガダルカナル島の放棄は決定されており、連合艦隊は島に残された将兵達の救出活動に難儀していました。
    完全に孤立したガダルカナルの兵を見殺しにする事も出来ず、幾度の救出・撤収作戦が行われたが結果は思わしくはありません。
    最新のエレクトロニクスで武装した連合軍の目をかいくぐり将兵を救出する事自体が、既に自殺行為にも等しい状況だったのです。

    その様な状況においても雪風は三度にわたるガダルカナル撤収作戦に参加し、参加作戦における総計で一万三千名もの将兵の救出に成功させました。

    昭和十八年――連合国側の大反攻が激化し、ソロモンにおける連日連夜の死闘の結果、大量の艦艇を失った連合艦隊。
    ガダルカナルを取り戻す事は不可能となり、それでも日本の死活領域とされていたソロモンの戦線を必死に持ちこたえようとする為に、無謀とも思われる作戦が続けられてゆきます。

    雪風もまた、そういった作戦に駆り出される事となり、ガダルカナル撤収作戦が終了した後はニューギニア支援作戦に参加しました。
    八千名の増援部隊を載せた船団の護衛に就き、一路ラバウルからニューギニアへ向かいます。

    ところが米軍に発見され、三月二日から三日にかけて、のべ三百機以上による大空襲を受けました。
    これが帝国にとって忌まわしき「ビスマルク海戦」です。

    この戦闘で米軍は、爆弾を小石のように海面をバウンドさせる「反跳爆撃」という新戦術を投入し、何と輸送船団が全滅する結果になります。
    更に護衛の駆逐艦ですら半数が沈められたこの戦いは、戦場だったダンピール海峡の名を取って「ダンピールの悲劇」とも呼ばれました。

    そんな悲劇と称される熾烈な戦闘でも雪風は生き残り、しかも撤退する事なく海上で救出した将兵と、もとより雪風に座乗していた一個大隊を無事輸送することに成功させるのです。

    しかし雪風一人が健闘したところでソロモン戦線が持ち直すはずもなく、日本にとっての戦況は日増しに厳しくなってゆきます。
    島に上陸した軍への補給は滞り、餓死者さえもが続出する最悪の事態となりますが、補給を送ろうにも足の遅い輸送船では米軍の防衛網を突破することも不可能な状況でした。

    そこで苦肉の策として、潜水艦や高速の駆逐艦で輸送作戦を行うようになりますが、当然ながら効率は非常に悪いです。

    しかもそれらを用いてもなお、思うように補給・輸送作戦ははかどらず、結果的に大切な汎用艦である駆逐艦を多数失う結果になってしまいます。

    雪風もまた、そんな輸送作戦への参加が命ぜられ、ニュージョージア島のムンダ飛行場のテコ入れの為の増援輸送任務へと就きました。

    昭和十八年七月十二日――
    輸送艦隊は連合国軍の偵察網に引っかかり、コロンバンガラ沖夜戦が始まります。

    この戦いにおいて、彼女に初めて搭載された逆探装置が有効に働き、レーダーを装備した敵艦隊とほぼ同時刻に索敵に成功しています。
    艦隊戦力差が一対二という劣性において、艦隊旗艦の軽巡神通は捨て身の探照灯照射を慣行、その結果敵艦隊の陣形を把握した二水戦は突撃を開始。

    当然ながら神通には敵艦隊からの集中攻撃――六インチ砲弾二六三〇発との事――を受け大破し、後に駆逐艦からの雷撃を受け撃沈してしまいます。

    しかし彼女が命がけでもたらした情報を元に、雪風の菅間艦長が艦隊の指揮を執って統制魚雷戦を実施。
    敵艦隊の軽巡ホノルル、セントルイスを大破、駆逐艦グインを轟沈させると、更に艦隊運動の混乱を誘い駆逐艦ウッドワースを大破させ、数に優る敵艦隊を退ける事に成功し、千二百名もの陸軍将兵の揚陸に成功させます。

    久しぶりの大戦果を喜ぶ間もなく同月二十日、雪風はベララベラ沖海戦に出撃。
    九月には一度内地に戻り整備を行うものの、翌十月には物資輸送でシンガポールへ出立。
    次いで機動部隊の護衛でトラック諸島へ……と、休む間もなく出撃が続きます。

    年が明け十九年六月――
    連合艦隊が決戦の意気込みで挑むマリアナ沖海戦が始まります。
    雪風もまた、この海戦に参加予定でしたが、訓練中の事故で推進器が壊れて速力が半減してしまった為、応急処置の後、油槽船団の護衛をしつつ内地へ帰還する任務に就きます。

    彼女が参加しなかったマリアナ沖海戦は、連合艦隊が大敗を喫し、やっと再建した機動部隊も事実上の壊滅となってしまいます。
    負け戦に参加出来なくなったのも、彼女の持つ強運だったのかもしれません。

    雪風が護衛に就いた油槽船団はと言えば、敵潜水艦に発見され襲撃を受ける事になったものの、彼女の働きで被害をただ一隻にくい止めることに成功し、大事な油を内地に運ぶことに成功するのです。

    あ号作戦――マリアナ沖海戦で大敗し、油不足も深刻化した連合艦隊は、帝国の絶対防衛圏をフィリピンから北海道近海までの四つの地域に区分けし、それぞれでで敵を打つ捷号作戦(一~四号)を計画します。
    やがて連合軍のフィリピン方面での一大反攻作戦を察知すると、ついに捷一号作戦へ踏み切ります。
    それは言うなれば、連合艦隊の残存戦力をすべて投入して行う、レイテ湾への「なぐり込み」でした。

    規模・範囲・双方の兵力、ありとあらゆる意味で人類史上最大の海戦「レイテ海戦」は、こうして始まったのです。
    修理を終えた雪風は、大和・武蔵・長門を中核とした三二隻による主力艦隊に配属され太平洋をレイテへ向けて進みます。

    途中発生したサマール沖海戦――戦艦が空母を砲撃したという珍しい戦闘――では、雷撃で護衛空母一隻を撃沈したと言われています。

    小沢提督自ら座乗する機動部隊を囮に使った捷一号作戦は、大本営が描いた青写真通りに進み、レイテの防衛網に穴が開きます。
    後は主力艦隊(武蔵を失ったとはいえ、戦艦四隻――大和・長門・金剛・榛名――の超暴力的戦力が残っていた)が、その穴からレイテ湾になぐり込みをかけ輸送船団を壊滅させるだけでした。

    敵からその精神を疑われながらも突撃し、聯合艦隊の全艦艇をすりつぶしながら継続した捷一号作戦は、まさにその成功の瞬間が訪れるという直前、主力艦隊がレイテ湾から反転、ブルネイへ引き返した事で空振りに終わってしまいます。
    (この反転劇の詳細は、指揮官だった栗田提督が生涯口を閉ざした為、未だに謎のままです)

    本来、主力艦隊の行動と呼応して突入する予定だった西村艦隊は全滅し、囮を務めた小沢機動部隊は役目を全うして壊滅。そして五度に及ぶ大空襲う受けた主力艦隊も、
    残存艦艇は僅か一四隻。
    それが捷一号作戦の結果の全てでした。

    残った艦もその殆どが満身創痍であり、内地に戻ったとしても人員不足と物資の不足により、もはや立て直す事は不可能となり、組織としての連合艦隊は事実上壊滅となりました。

    しかし、それでも雪風は無傷で帰還し、彼女には次の任務が与えられるのです。

    レイテ海戦で傷ついた長門の護衛任務を終え、横須賀へ戻った雪風に下った新しい任務は、完成したばかりの超大型空母「信濃」(大和型戦艦の三番艦を改装)の護衛任務でした。
    時代の流れの影響を受け、世界最大の戦艦の三女として産まれる予定だった信濃は、その途上で空母へと生まれ変わる事を余儀なくされました。

    さて、そんな彼女を語る時、最も適切な言葉が「不運」の二文字になります。

    人間に幸運な者と不運な者がいるように、艦にも幸運と不運なものが存在するならば、幾多の死線をかいくぐるも生還し続けた雪風は幸運艦となり、生まれて間もない空母信濃は不運艦の代表格といったところでしょう。
    大和型戦艦の船体をもつ彼女は、アメリカが戦後になって反応動力型空母を就役させるまで、排水量では世界最大の空母でした。

    当然、防御力も大和並――レイテ海戦において米軍は、武蔵を沈めるのに二〇発もの魚雷と十七発の爆弾の直撃を要した――のはずでした。
    しかしこのあらゆる不運をかき集めたかのような超大型空母は、米潜水艦アーチャーフィッシュの放った、僅か四発の魚雷であっさりと沈んでしまうのです。

    沈む前に護衛の駆逐艦による曳航も考えられ、実際に二隻でワイヤーによる曳航作業を行われたのですが……そこはたかが駆逐艦。
    世界最大の空母を動かすことは叶わず、信濃艦長の阿部大佐は、この不幸な空母が目的地に辿り着けない事を悟りました。

    こうして、四隻の駆逐艦に看取られながら、誕生して僅か十日の生涯で、信濃は阿部大佐と共に海の底へと沈んでします。

    直後、雪風の甲板には救助された信濃の乗員達で溢れ、一様に項垂れていた彼らを見て、当時の雪風艦長寺内は、
    「慣れっこになったなぁ……こういう光景に」
    「こんな風にさ、よそのフネの乗員を助け上げる光景によ」――

    と、漏らしたそうです。

    彼の言うとおり、雪風はいつでもそうでした。
    ソロモンでも、南太平洋でも、インド洋でも、そして今や内地にあっても。他の艦艇がその生涯を終えても雪風だけは生き残り続けました。
    まるで他の艦や兵達の運を吸い取るかの様に……。

    故に彼女は、幸運艦とも呼ばれる一方で「疫病神」と揶揄される事もあったと言います。
    守るべきものを失ったまま、呉に辿り着いた雪風を迎えたのは米軍の大空襲でありました。
    そんな中でも雪風は大いに奮戦し、大したダメージも受けずに生き残ります。
    ただ、この対空戦闘において機銃弾を一万五千発も撃ってしまい、二水戦の参謀から大目玉を食らったと言います。

    開戦以来数々の戦場を戦い抜き、殆ど無傷で生き残ってきた雪風。
    この時点でも十分に彼女の幸運さは有名でありましたが、それが神話の域にまで達するのは、実はこの後からです。

    昭和二〇年四月、
    雪風は聯合艦隊最後の艦隊作戦、「菊水一号作戦」に参加する事になります。
    戦艦大和と作戦行動可能な残存艦で編成した最後の艦隊での、沖縄への特攻作戦です。

    艦隊と言っても僅か十一隻で、しかも内九隻は駆逐艦。
    空母もなければ、上空援護もない裸の艦隊。「特攻」作戦でありますから、最初から成功する確率はなく、戦略的な意味合いは何もありませんでした。

    ただ連合艦隊最後の足掻きとして、かつて無い大兵力で沖縄を責め立てている連合国軍に、一矢報いる為だけに大和を突入させる。
    日本人の意地と、海軍の面子、そして滅び行く祖国への贖罪として一億玉砕の先頭に立つ――それが作戦の全てでした。

    昭和二〇年四月七日
    ――最後の艦隊は、沖縄へ向けて進撃を開始しました。
    せめて艦隊戦が行えれば、大和の主砲で一矢報いる事が出来るかもしれないし、駆逐艦が持つ酸素魚雷だって、最後に見事な戦果をもたらすかもしれない
    ――しかし、それが都合の良い絵空事でしかない事は、艦隊の誰もが思っていた事でしょう。

    そして、その予想は現実のものとなり、十二時四〇分から第一波二〇〇機の空襲を受け、
    艦隊はその後二時間に渡り、
    第二波五〇機、
    第三波一〇〇機、
    第四波一五〇機、
    第五波一〇〇機
    ――のべ六〇〇機による大空襲を受ける事になります。
    その激戦のさなか、雪風の寺内艦長は露天艦橋にて、でっかい三角定規を使って爆弾の軌跡を読み、操艦を指示したと言います。

    鉄兜も被らずに艦橋から頭を出して、タバコを吹かしつつ大声で「俺には当たらん!」とわめき、航海長の肩をけ飛ばして操艦の指揮をしたと言いますから、何とも剛胆な事です。
    この無茶とも思える艦長の行動は、乗組員達の志気を大いに沸き立てる事になったそうです。

    以前の呉大空襲の時には、弾を撃ちすぎて参謀からとがめられたが、今日の戦闘において遠慮は不要。
    何しろ連合艦隊最後の作戦です。

    「訓練は実戦のつもりで、
     実戦は訓練のつもりでやれ!」

    とは寺内艦長の口癖だったと言いますが、その言葉を自ら実践するかのように、寺内艦長は無数の爆弾や火線が飛び交う中、はげた坊主頭に定規をかざして爆弾の軌跡を読み、航海長の肩をけ飛ばして舵を命じ続けました。

    艦長の糞度胸が、雪風にさらなる幸運をもたらす一方で、特攻の要であった大和はついに力尽き、巨大な爆炎を上げてその身を海底へと没してゆきました。
    大和の爆沈により、連合艦隊にとって特攻の存続が無意味となり、そして米軍にとっても脅威が無くなった事で戦闘は終了となりました。

    生き残った艦は雪風を含めて駆逐艦四隻のみでしたが、あれだけの大空襲を受けたにも関わらず、今回も生き残り、多くの漂流者を救出した彼女は無傷で佐世保に帰還する事になります。

    帰還してからの調査で解ったのだですが、実は雪風もロケット弾による命中を受けていました。
    防御力の乏しい駆逐艦でありますから、爆発していればただでは済まなかったであろうそのロケット弾は、食料庫に突っ込んだものの信管が作動せず不発に終わっていたのです。

    九死に一生を得た彼女の幸運はまだ続きます。

    連合艦隊が壊滅し、硫黄島、沖縄が占領されると、敵の航空機が我が物顔で本土の上空を飛び回るようになります。
    空襲を恐れた雪風は、日本海側に待避しますが、結局は逃げ切れずに米軍の空襲を受けてしまいます。

    僚艦が次々に被爆する中においても、彼女には何故か一発も当たりません。
    しかし回避行動中、ついに雪風は米軍が敷設した機雷に触れてしまいます。
    駆逐艦が触雷すれば、沈没はまず免れません。

    誰もが雪風の終わりを確信しましたが、何とこれが回数機雷といって、一度触雷しただけでは信管が働かない(通常の機雷に混ぜて使用する)物だったのです。

    実際その後ろを航行していた僚艦「初霜」は同じ機雷に接触、今度は信管が作動し爆発、轟沈してしまったと言いますから、幸運を通り越して、疫病神呼ばわりされるのもうなずけてしまう程です。

    数度に及ぶ嵐のような空襲も去り、遂に大東亜戦争は終結を向かえました。
    開戦当初存在した陽炎級一八姉妹の中で、その時洋上に浮いていられたのは雪風一隻のみでした。
    従姉妹とも呼べる、ほぼ同型と言って良い朝潮級一〇隻と、改良型の夕雲級二〇隻も全て戦没しており、雪風は彼女の一族において唯一生き残った艦だったのです。

    そんな彼女は一切の武装を外され、戦う為の牙を失いましたが、それで彼女の戦いが終わった訳ではありません。
    特別輸送艦として復員輸送に従事し、戦争が終わっても休む間もなく働き続けます。

    ラバウル、サイゴン、バンコク、沖縄、台湾――かつて戦場だった太平洋の各所を走り回り、彼女の一五回におよぶ往復によって
    祖国の土を踏んだ将兵は実に一万三千人以上にも及びます。

    帝国海軍の艦としての最後の日まで、彼女の甲板は救助された人々であふれていました。
    故郷に帰る兵士の目に、彼女の姿は輝いて映っていた事でしょう。

    昭和二二年五月――
    雪風は連合国側からも最優秀艦と賞揚され、抽選の結果、賠償艦として中華民国に引き渡しされる事が決まりました。
    母国で迎える最期の日、彼女は産まれた時以上に、美しく輝いた姿をしていたと言います。

    伊藤正徳氏による「聯合艦隊の栄光」という本の最後にこう書かれています。
    ~~~~~~~~~~~
    引き渡し式が上海の埠頭で行われた。
    艦内はくまなく整頓されて、塵一点をとどめず。
    検査にのため来艦した米英の海軍将校達は感激して言った。

    「自分たちは、こんなに整頓された軍艦をかつて見たことがない!」と。
    雪風は最後の日まで、日本の名を守った。

    ~~~~~~~~~~~

    中華民国に引き渡された雪風は、艦名を「丹陽」と改め、何と艦隊旗艦として迎え入れられます。
    たかが駆逐艦が「一国の海軍の総旗艦」にです。

    勿論、こんな事例は雪風(丹陽)以外には存在しません。
    ついで話ですが、雪風は帝国海軍で唯一艦隊旗艦を務めた事がある駆逐艦だったりします。

    昭和十八年七月六日より九日までの僅か三日間ですが、第八艦隊の旗艦として将旗を掲げた事があります。
    そんな彼女も、まさか自分が一国の総旗艦になるとは夢にも思わなかったでしょう。中華民国は「礼」を持って彼女を迎えてくれたのです。

    ああ、大事な事を忘れていました。
    雪風の偉大さは、単に激戦を生き抜いた事だけではありません。
    彼女が最も偉大な艦だと言われる本当の理由――それは、開戦から終戦まで、これだけの作戦に従事し、最前線で闘い続けたにも関わらず、亡くなった乗員の人数は何と十指に満たないのです。
    これを栄光と言わずに何と言いましょう。

    栄光に満ちあふれた彼女は、その後も異国にて歳月による腐食と老朽に耐えながらも何度か戦ったそうですが、昭和四一年――ついに台風の影響を受けてその長い生涯を終える事になります。
    現在は彼女の戦歴をたたえ、台湾から返還された舵輪と錨が江田島にて保存されています。

    そして終戦から十数年が経過し、復興を果たした日本に、再び軍艦の造船が認められる事になりました。
    戦後初めての自国生産による軍艦。
    生まれ変わった日本にとって、そして発足間もない海上自衛隊にとって、極めて重要な意味を持つ事になる最初の護衛艦。

    その排水量1700トンの彼女に与えられた名は――
    「ゆきかぜ」――です。

    この名は、今後も何らかの節目で産まれるであろう大切な娘達に、永延と受け継がれてゆく事でしょう。


    ***

    いかがでしたか?

    「雪風」という名は、どんな酷寒の風雪にも耐えて、最期まで使命をやり遂げるという意味が込められた名前であるように思います。
    日本は言霊の国です。
    「雪風」の乗員は、雪風勤務を命ぜられた瞬間から、おのずと、そんな風雪に耐えようとする思いを、無意識の内に胸に刻んだのではないでしょうか。
    苦しいときにこそ、真価を発揮するのが、人というものです。
    なにがあっても負けない。
    こうと決めたら、どんなことがあってもやり遂げる。

    日本人と同じDNAを持った人たちは、かつて北米や南米にもいました。
    南洋の島々にもいました。
    けれど、それらの本家となる日本が最後まで生き残ることができたのは、その本家として、絶対に逃げない、負けないという意識を、いつのまにか身につけていたからといえるのではないでしょうか。

    大東亜の戦いは、敗戦となりました。
    けれど、クラウゼヴィッツが述べているように、戦争が国家目的達成のための究極の外交手段であると規定するなら、日本はなるほど戦いには負けたけれど、戦争目的は見事に達し、世界から植民地支配を駆逐しました。
    そしていま、日本は新たに精神的支配と従属という、人が人を所有するという摩訶不思議な日本人以外の国々に蔓延する不可思議な思想との大きな戦いに入っています。

    日本の中にも、支配したがる人はいます。
    パワーによる支配志向の人が増えてきたともいわれています。
    けれど、私達日本人は、一寸の虫にも五分の魂、です。
    同じ人間として、役割の違いこそ認めるけれど、全人格的な否定や支配は、一切受け入れられない。
    その矜持を、古代の人達は、私達の国の国是としてくれました。

    そうであるなら、日本を取り戻すということは、私達ひとりひとりが、自立自存し、かつ互いに共同し協力しあえる日本を築くことになるのではないかと思います。
    「雪風」は、そんな日本的精神を、まさに示した名艦であったと思います。


    ※この記事は2010年5月の記事をリニューアルしたものです。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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