一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中に、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)があります。 そして、その一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが政治の役割であり、こういうことをしっかりと子供や青年たちに教えるのが教育の役割です。 教育が至らないなら、これを大人たちをも含めて、しっかりと広めていくことこそが、メディアの役割です。 それを誰もやらないといって、文句を言っても始まりません。 誰もやらないなら、自分でやるのです。 |

画像出所=https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_83.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 以前、戸塚宏先生から教わった「権利」についてのお話です。
ある日のテレビ討論の番組で、売春をしていた女子中学生が他の出演者から責められていました。
ところがこの女子中学生、周囲から何を言われても、キョトンとしていたのです。
で、この女子中学生の発言の番が回ってきた。
そのとき彼女が言ったのが、
「で、あたし、誰か、人に迷惑かけた?
誰か被害受けた人いるの?
いないでしょ?
私が何をしようが私の勝手じゃん。
私にだって権利があるんだから!」
彼女のこの言葉に、それまで彼女を責め立てていた周囲の大人たちは、誰も言い返せなかったそうです。
1分間くらいの沈黙が続いたという。
しかたなく番組は、コマーシャルに切り替えました。
さて、みなさんなら、この中学生に何と言い返しますか?
戸塚先生は、この例え話をひいて、
「そもそも『権利』という言葉が誤訳である」と述べられました。
そこからすべての間違いが起こっているというのです。
どういうことかというと、「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語です。
「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)です。
西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才だった人です。
文久2年にはオランダに留学し、明治にはいってから機関紙「明六雑誌」を発行して、西洋哲学の翻訳や紹介を幅広く行いました。
藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語です。
彼は「明六雑誌」の創刊号で、「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」という論文を掲載し、概略次のようなことを述べました。
たとえば、英語の「philosophy(哲学)」を、「フィロソフィー」とカタカナ語で用いるのではなく、翻訳語としての熟語(哲学)を創作する。
なぜそうするかといえば、外国語を外国語のまま紹介したのでは、専門の学者にはそれでいいかもしれないが、その心とする語彙が広く世間に普及しない。
欧米の概念は、欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を、我が日本のものとしていかなければならない云々、です。
英語の言葉を、単にそのままカタカナ語で用いるのでは(最近はそういうカタカナ英語が氾濫しているけれど)、その意味は広く世間に伝わりません。
欧米の哲学や科学力を日本の日本人の知識としていくためには、語彙に即した日本語を造語していかなければならい。
そうすることではじめて、外国の概念や哲学が日本人のものになる、というのです。
これは、まさにその通りです。
「リテラシー」などと言っても、何のことかわからないけれど、「識字」と日本語で書けば、書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力を指すということがわかるし、
ネットリテラシーといえば、ネット上に反乱する情報を正しく読んだり理解する能力ということが理解できます。
西周(にしあまね)は、こうして英単語のひとつひとつを、和訳し、造語していくという作業を、ずっと続けられた人であるわけです。
そしてその西周が「Right」を翻訳した言葉が「権利」です。
ところが、この「権利」という訳に、福沢諭吉が噛み付いています。
「誤訳だ!」というのです。
福沢諭吉は、ただ反発しただけでなく、
「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘しました。
なぜ、福沢諭吉は、そこまで厳しく噛み付いたのか。
その理由は2つあります。
ひとつは、「権利」には能動的な意味があるが、「Right」は受動的な力であること、
もうひとつは、Rightには「正しいこと」という意味があるけれど、「権利」という日本語にはその意味が含まれていないこと、です。
「私がリンゴを食べる」というのが、能動です。
「リンゴは私に食べられた」というのが受動です。
「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になります。
けれど、英語の「Right」には、そんな意味はありません。
一般的通念に照らして妥当なものが「Right」です。
つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても妥当な正当性のあるものが「Right」の意味です。
さらにいえば、「Right」には、正義という概念が含まれます。
要するにひらたくいえば、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が「Right」です。
これを「権利」と訳してしまうと、子供の我がまままでが「権利」だと勘違いされてしまうのです。
お父さんはテレビでプロ野球の試合を観たいのに、子供がお笑い番組を観たいといえば、それは子供の権利であり、むりやりお父さんがチャンネルを野球に変えれば、それは子供の権利の侵害にあたる、などという、もっともらしい理屈だけれど、明らかな「間違い」が起こるようになります。
だから福沢諭吉は「Right」を「権利」と訳すのは、「誤訳だ!」と抵抗したのです。
では、福沢諭吉が「Right」を何と訳したかというと、
「通理」
です。
いつの時代でも、どこにあっても、誰にでも通用する道義的理論、というわけです。
この「Right」という単語は、米国の独立宣言にも出てきます。
〜〜〜〜〜〜〜
They are endowed by their Creator with certain unalienable
Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.
That to secure these
rights,
Governments are instituted among Men,
deriving their just powers from the consent of the governed,
〜〜〜〜〜〜〜〜
直訳すると次のようになります。
〜〜〜〜〜〜
すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき「Right」を与えられている。
その「Right」には、Life、Liberty、そしてthe pursuit of Happinessが含まれている。
そのthe pursuit of Happinessを保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。
〜〜〜〜〜〜
つまり、英語圏における「Right」は「神から与えられたもの」です。
ですから、本質的に正しいものです。
これを「権利」と訳すと、次の文節である「そのRightには、Life、Liberty、そして幸福の追求が含まれている」が違う意味になります。
なぜなら、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、個人個人が神の意に反していても「権利だ」と言えるようになるからです。
けれど文意は明らかに、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福を追求)することも、神から与えられた「Right」の内訳と書いています。
これでは意味が非常にわかりづらくなります。
これを「通義」と訳すと、米国独立宣言の文章は、次のようになります。
〜〜〜〜〜〜〜
すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき通義を与えられている。
その通義には、人生、道義、そして幸福の追求がが含まれている。
その幸福の追求を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。
(福沢諭吉訳)
天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。人間政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメテ真ニ権威アルト云フベシ
〜〜〜〜〜〜〜〜
要するに「Right」というのは、神から与えられた「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義」を言うのです。
自分勝手が許される「権利」ではないのです。
「Right」を「権利」と訳すから「権利と義務」とか、よけいにわかりにくくなるのです。
「Right」が通義なら、「権利と義務」の本来の意味は、
「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義と、これを享受するための義務」となります。
意味が、ずっとつかみやすくなる。
そうすると、冒頭の中学生の少女の売春行為も、未成年者の売春行為自体が「正義」ではないのだから、実にとんでもないことで、問答無用で、「あんたは悪い。だからやめなさい!」と言えるようになるわけです。
つまり、日本における権利意識の大きな間違いは、そもそもの誤訳から始まっているのです。
権利という言葉自体が誤訳であり、通義が正しい訳とすれば、権利意識という単語は、通義意識となります。
通義なら、一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義ですから、通義意識は「一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義のための意識」です。
そしてここまでくると、「人権擁護法案」などというとんでも法案も、要するに「人権=人の持つ権利」という誤訳の上に誤解を重ね、さらに「Right」を曲解したところから生じている無教養と身勝手が招いた「とんでもない法案」であることがわかります。
つまり、人権なるものの本来の意味が、「人の通義」すなわち「国民の一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義」であるとするならば、ごく一部の在日外国人の利権のために、他の多くのまともな日本人の生活が犠牲になるなど、もってのほかとわかるわけです。
ここは日本人の住む日本です。
日本は日本人のものであって、外国人のものではない。
日本人としての通義は、日本人のためのものであって、外国人のためのものではない。
あたりまえのことです。
一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義の中に、Life(人生)も、Liberty(道義)も、the pursuit of Happiness(幸福の追求)があります。
そして、その一般的確実性と普遍的妥当性に裏付けられた正義を実現するのが政治の役割であり、こういうことをしっかりと子供や青年たちに教えるのが教育の役割です。
教育が至らないなら、これを大人たちをも含めて、しっかりと広めていくことこそが、メディアの役割です。
それを誰もやらないといって、文句を言っても始まりません。
誰もやらないなら、自分でやるのです。
それが天の岩戸以来の日本人の伝統です。
高天原は平和で豊かで住みよいところです。
あたりまえです。天照大御神が統治されているのです。
けれど、だからといって高天原に住む八百万の神々が、なんでもかんでも天照大御神にお任せして、自分たちで責任を持って高天原を護り、また生活を護ろうとしないなら、それは仮りそめの平和、かりそめの豊かさにしかなりません。
与えられたことに、自ら責任を持つという概念がなければ、平和も繁栄も安定も、ガラス細工にしかならないのです。
だから天照大御神は、須佐之男命がやってきたときに、自ら先頭に立って武装して須佐之男命を待ち受けました。
やってきたのが、実弟の須佐之男命ではなく、もしそれが本物の外敵であったのなら、高天原はどうなっていたでしょう。
そのことがわかったから、須佐之男命は、自ら高天原で暴れ、田んぼの畦を壊したりして、八百万の神々の目覚めを図ったのです。
ところが目覚めない。
だからついには天照大御神が自ら岩戸に籠もるという選択をなされました。
そしてこのことでようやく「自らの責任」に目覚めた八百万の神々は、自分たちの生活は、なによりもまず自分たちで護るという行動を取るようになります。
結局、須佐之男命の行動も、天照大御神の行動も、誰も目覚めないなら、自ら行動するしかないのだ、ということを後世の私たちに教えてくれています。
誰もやらないから自分もやらない、ではなく、誰もやらなくても、自分がその必要を感じるのなら、まずは自分から行動するのです。
須佐之男命は、それによって最後には、目覚めた八百万の神々によって処罰されています。
そして須佐之男命は、黙ってその処罰を受けています。
これこそが日本男児の生きる道です。
世間の常識と違うことを始めれば、最初は非難轟々でしょう。
変人と言われる(笑)
けれど、大事なこと、大切なことと思うなら、やりつづけるしかない。
なぜなら、誰も見ていなくても、正しいことをして生きていくということこそが、日本人の日本的生き方だからです。
私はそういう生き方をしたいと思っています。
まあ、失敗が多いですけどね(笑)
でも、やるんだw
※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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