「伊勢」も「日向」も、後世に生きる私たちの目から見て、実に「かっこいい」生涯でした。日本の神語にちなんだ「伊勢」と「日向」の名を与えられた船が、使いものにならないとされながら、結局は、この二艦の活躍が、あまりにも目覚ましいことであったというところに、私は何らかの神々の意思を感じてしまうのです。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 上にある写真は「航空戦艦・伊勢」です。
前方が戦艦、後甲板が空母になっているという、実に不思議な、日本だけが保持した「航空戦艦」です。
艦は、同型で二隻作られました。
ひとつが絵にある「伊勢(いせ)」、
もうひとつが「日向(ひゅうが)」です。
名前は、日本神話を司る伊勢神宮と、日本神話発祥の地である「日向」からとられました。
どちらも神々の所在地からいただいた名前です。
ところがこの二艦は、いろいろあって、建艦はされたものの「実戦で使い物にならない」とされて、、大東亜戦争開戦時には練習艦に使われていました。
ところが、その「実戦で使い物にならない」はずの二隻が、
戦争を最期まで戦いきり、
数々の敵艦および敵機を撃墜し、
激戦のさ中にエンジンを停止して日本の誇る軍艦の乗員を救助するという離れ業をやってのけ、
日本最後の航空燃料を持ち帰り、
そして日本海軍最後の主砲を発射して沈黙しました。
その活躍は、まさに鬼神をも泣かしむるものであったのです。
もともとこの艦は、航空戦艦として計画された船ではありません。
最初は扶桑(ふそう)型の大型戦艦として計画され、建艦されたのです。
扶桑型大型戦艦の建造計画は4隻で、
一番艦「扶桑」
二番艦「山城」
三番艦「伊勢」
四番艦「日向」
という陣容で、大正二(1913)年に建艦が計画されました。
ところが実際の建艦は、当初、一番艦の「扶桑」の建艦にはいったところで、残る三隻は、建艦が無期延期になってしまいました。
なぜかというと、国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。
戦艦の建造は、莫大なお金がかかります。
大正年間は、ひとときの平和の時代でもあったわけですから、多くの国会議員が、「軍艦などにお金を回すくらいなら、内政用に予算を使え!」と言い出すことは、表向きはもっともなことです。
しかもこの時代、国政は、ほぼ二大政党が交互に相争うという状態にありましたし、いまと同じで内閣が諸藩の事情で予算案をつくっても、国会の承認がなければ、予算は執行できません。
ところがその国会は、選挙で選ばれる議員によって開かれるわけです。
議員は、選挙に落ちたらただの人ですから、自分の地元選挙民に、鉄道敷設や道路建設、各種公的建物建築など、国家予算を露骨に地元に持ち帰ろうとします。
そうしなければ選挙に落ちるのです。
従って、国家の安全保障や、外地において何が起きているか、長期的視野に立っが国家の行く末は、口端には乗せても、実際の行動は、地元利益優先となります。
一方、この時代の国際情勢は、第一次世界大戦が勃発した年です。
日本は東亜の強国として、この大戦に参戦することになりましたが、一方において日本が標榜する人種の平等は、欧米の植民地利権を持つ大金持ちたちからみたら、あからさまな敵対行為に映っているという時代でした。
植民地利権を持つ者たちからすれば、日本は敵ですし、また東洋においてもその欧米の下請けをしながらアヘン等の売買で大儲けをしている連中(一家)からしたら、日本は明らかな敵となっていた時期です。
つまり本来であれば、日本はここで一番に強くなければ、弱いとみなされた瞬間に、日本国自体が袋叩きにあい、そのことは当然に外地にいる多くの日本人にとっての命の危険が及ぶ脅威となるという時代です。
だからこそ、侮られないためには、日本は海軍力の増強は実は不可欠の要素だったわけですが、そのためには当然費用がかかるということが問題になったわけです。
ところが、軍艦を外国に発注するのではなく、当時の日本は国内に発注しています。
つまり、軍艦建造は、そのまま国内の景気刺激策にもなったわけです。
そのように考えれば、軍艦建造は、むしろ推進すべき事柄であったはずなのですが、議会は、日本の安全保障よりも地元利益を優先したわけです。
こうして実は大正2年に日本が財政上の理由で戦艦の建造を停止したことによって、日本は諸外国から侮られ、追い詰められ、結果として国運を賭けて大東亜戦争へと突入し、敗れて国土を灰燼にし、多くの日本人の人命をも失う結果を招いています。
このお話をすると、時代は航空機の時代に移っていたとか言い出す人がいたので、もうすこし補足します。
明治から大正にかけてのこの時代には、まだ航空戦力の時代は到来していません。
巨大かつ頑強な装甲を施して、大口径の砲塔を据え付けた巨大戦艦が、世界の海を制することができた時代です。
まさに「大鑑巨砲が正義を守る」時代です。
当時、すでに航空機は登場していますが、まだ馬力の少ない複葉機の時代です。
爆弾も、手に持って下に投げ捨てるという時代でもあったわけです。
運行中の軍艦を飛行機が沈めるなどということは、ありえない時代でもあったわけです。
そしてこの時代の世界の三大強国は、「日、英、米」の三カ国でした。
そして日本は、有色人種唯一の、白人支配に対抗できる強国として、世界の期待を一身に担う国家となりました。
実際には、日露戦争は辛勝です。戦争に勝利したとはいってもロシアからの賠償金はもらえず、国家財政は極めて厳しい状況に置かれています。
けれど白人支配に苦しめられている国々からみたら、日本は、まさに夢のような武士の国であったわけです。
しかもその日本は、世界最強の植民地国家である大英帝国と同盟関係にありました。
つまり、世界から見れば、世界第一位の強国と、それに並ぶ第二位の強国が、東西でガッチリと同盟関係を結ぶ関係にあったわけです。
これは、のちのちの世でいえば、全盛期のソ連と冷戦時代のアメリカが、同盟国となったようなもので、この同盟に勝てる国は、世界広しといえども、どこにもない。
日英同盟が締結されたのは明治35(1902)年、失効となったのが大正12(1923)年ですが、実はこの間の21年間、日本は世界中で大歓待を受けています。
いまでも、たとえばペルーやアフリカ、インドなどの港町に行くと、昔の日本人の伝説がたくさん残っています。
私のもといた会社の専務は、もともとは貨物船乗りだった方(もう高齢で80代になられます)ですが、貨物船に乗って世界の港町に行くと、当時、日本人はたいへんな歓迎を受けたという話をよくしてくださいました。
ある日、現地の女性と一夜をともにしたのですが、無料(タダ)でいいというのだそうです。
なぜかというと、祖母の代から「日本人がきたら、あんたのできる最高のサービスをしてやってくれ」と言われて育ったのだという。
どういうことかと聞いたら、昔、おばあちゃんが若かったころ、港にはいつも白人の大男の船員たちがやってきて、酒を飲み、現地の女性たちに乱暴を働いていた。
何をされても力関係で文句を言えない。そんなことが「あたりまえ」だった時代に、あるとき、日本人の乗る船がやってきた。
小柄な日本人のその水兵さんたちは、港に上陸し、盛り場にもやってきた。
ちょうどそのとき、ある白人の毛むくじゃらの大男が、盛り場で大暴れをし、若かったおばあちゃんに乱暴を働こうとした。
誰も止める者なんてありはしない。
殴られて顔中腫らすことになると覚悟したとき、日本人の水兵さんが、「やめろ!」とその大男を制止した。
見れば、白人の大男と、日本人の水兵さんは、体の大きさは大人と小学生くらいの違いがある。
「やめて!その人を巻き込まないで」と必死に哀願するのだけれど、興奮した白人の大男は、相手を小柄な日本人とみて、馬鹿にしてかかり、いきなりパンチを日本人に浴びせようとした。
ところが、その一瞬、信じられないことが起こった。
パンチを繰り出し、日本人の水平さんが吹っ飛ばされると思った、その瞬間、大男の白人が宙を舞い、床に叩き付けられてしまった。
そうして喧嘩を制した日本人水兵さんは、私達地元の女性たちにもとてもやさしく、紳士的に接してくれた。
以来、「日本人が来たらいいつけてやる」というだけで、白人の暴れ者たちが大人しくなった。
だから、日本人がきたら、その感謝の気持ちをずっとずっと伝え続けて欲しい。
そんなことを言われて育ったのだそうです。
大男の酔っぱらいの大振りのパンチです。
剣道、それも木刀を使った練習で、鋭く打ち込まれる切っ先を紙一重でかわす訓練を積んだ日本人の兵隊さんには、彼らのパンチは丸見えだったことでしょう。
投げ飛ばしたのは柔道の技です。
常なら、こうした理不尽であっても、国と国との力関係で、白人を投げ飛ばした有色人種(カラード)は、たとえどのような理由があれ、カラードが悪いとされ、逮捕投獄されるか、あるいは殺されていたのです。
ところが当時の日本は、世界最強の軍事力を持つ国家であり、しかも同じく世界最強の大英帝国と同盟関係がある。
日本と争うことは、世界の強国二国を敵に回すことであり、是は是、非は非として筋を通さなければ、理不尽は許されない。
そういう状況にあったのです。
ですからこうして世界中の港町で、日本人は、大歓迎を受けたし、日本人のモラルの高さは世界が絶賛するものでもありました。
私の元専務のお話は、そんな日本人に関する史実、あるいは伝説が、昭和40年代にも、まだまだ世界に通じていたということをあらわしています。
それだけ日本は、世界から「強い国」「正義の国」とみなされていたわけです。
ところが、日英同盟の締結後、ちょっとした「大きな変化」が起こりました。
それが、明治三十九(1906)年の、大英帝国による戦艦「ドレッドノート」の就役です。
この船は、世界初の蒸気タービンエンジンを搭載し、巨大戦艦でありながら、超高速走行が可能、しかも装甲は厚く、敵のどんな大砲の弾もはじき返す。
さらに世界一の巨大主砲を装備し、この主砲は、世界のどの戦艦の最強装甲でさえも打ち破るというシロモノでした。
ドレットノートは、たった一隻で、他国の大型戦艦二隻分の戦力を有し、たった一隻で、世界中のどの艦隊と勝負しても勝ち抜けるだけの戦力を保持しているというまさに、破格のバケモノ戦艦だったのです。
そんなバケモノ戦艦を英国が開発し、就航させたのです。
世界最強の女王戦艦が就航したら、世界は英国にひれ伏さなければならなくなります。
なぜなら「トレッドノート」一隻が来るだけで、他の国々の艦隊は、ひたすら逃げまくらなければならなくなるからです。
こうなると日本も、軍事バランス上、強大な力を持つ戦艦を建造せざるを得なくなります。
なぜなら、日英の軍事バランスがくずれれば、日英関係は「同盟」関係でなく、「主従」関係に化けてしまうからです。
世界は「力が正義」です。
「理屈が正義」ではないし、弱い者は、どんなに理論的に正しいことを言ったとしても、「力」の前に屈服せざるを得ないのが現実です。
ですから世界は、「トレッドノート」の就役にともなって、未曽有の巨大戦艦建造ラッシュに突入しました。
日本ももちろんそうだったし、米国ももちろん同様です。
さてここで問題なのが、米国の立ち位置です。
米国は新興国です。
アメリカ合衆国が建国されたのは十八世紀のことですが、南北が統一されて統一国家となったのは、ちょうど日本の明治維新の頃のことです。
米国は、明治三十一(1898)年にスペインとの米西戦争に勝利して、ようやくグアム、フィリピン、プエルトリコという植民地を手にし、明治三十二(1899)年にフィリピンに戦争をしかけてフィリピン独立を鎮圧して米国支配下に置き、さらに明治三十三(1900)年に、義和団事件の平定のためにと称して、ようやく清国に派兵しています。
要するに当時の米国は、まさに米西戦争や米比戦争、あるいは義和団事件をきっかけにして、東亜の植民地支配に、王手をかけつつあったわけです。
当然、太平洋を渡って他国を支配するのですから、強大な海軍力が必要です。
そして同時に、そうした米国の東亜進出にあたって、最大の障害が、武士の国、日本だったわけです。
ところが間の悪いことに、その日本は、世界最大の強国である大英帝国と同盟関係にあります。
この時点で米国が日本に喧嘩を売れば、同盟関係にある英国とも一戦交えなければなりません。
実家が英国にあるという人々が多い米国において、そんなことは世論が許さないし、そもそも軍事的には英国や日本と同じだけの軍事力を持ったとしても、(英1+日1)対、米1、つまり、2対1です。
勝ち目はない。
したがって当時の米国は、日本に手出しをすることはできず、また日本に遠慮をしながらでなければ、東亜における植民地支配地の拡大はできない、という情況にあったのです。
ただし、日本が弱国となれば、話は別です。
日英同盟が破棄され、日本が弱国化すれば、米国は、築き上げた太平洋艦隊を駆使して、東亜を好きなように侵略し、分捕ることができるようになる。
そういう時代背景の中で、一方で英国が「トレッドノート」を就航させ、一方で日本が国際経験に不勉強な外交オンチの政治家によって、新型戦艦の建造を停止したのです。
あとで詳述しますが、結果として戦艦の建造は行っています。
これは海軍からの相当なクレームで、ようやく予算がとれたからです。
けれど、相当予算をケチられた結果、少ない予算で無理やり強力戦艦を作ろうとした結果、設計に無理が出てしまいました。
結果、扶桑級の新造戦艦は、実戦で「使い物にならない」ツマラナイ船になってしまったのです。
艦船がツマラナイ船となることで何が起こったのかというと、軍事バランスが崩れます。
このチャンスをほっておいてくれるほど、世界は甘くはありません。
日本おそるに足らずと見た米国は、大正十一(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。
そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、三:五:五と決めてしまいます。
しかもこの会議に出席した日本政府の代表は、これで軍事予算を軽減できて財政が潤った、世界が軍縮に向かって、良かったよかった、と小躍りして喜んでいます。
もちろんそこには、スパイ工作もからんでいます。
そしてこの代表団は、なんと陛下の勅許も得ないで、独断でこれを決めてきてしまったのです。
これは幕末に井伊直弼が、天皇の勅許を待たずに独断で日米和親条約を締結し、その結果、日本の金(gold)が大量に米国に流出し、日本から金(gold)がなくなってしまった構図と同じです。
とかく日本という国は、政府が陛下を軽んじると、ろくなことが起らないのです。
日本国内では、政府の勝手なワシントン条約批准に、これは陛下の統帥権を干犯した大問題である、との抗議運動が起こって内政は大混乱します。
そして翌年八月には日英同盟が失効する。
継続はありません。
変わって米英が同盟国になりました。
つまり、世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
(日5+英5)対(米5)
という関係が崩れ、一夜にして、
(日3)対(英米10=英5+米5)
という関係になったのです。
つまり「軍事バランスが変わった」のです。
米英の10に対し、日本3です。
日本に勝ち目はありません。
日本は一夜にして「軍事弱国」になってしまったのです。
ここまでくれば、あとは日本の力を削ぐだけです。
米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになりました。
ちょうど、昨今、民主党が日米関係に亀裂を入れたとたんに、中共や韓国が日本に対して露骨な侵害行為をするのと同じです。
そしてついに米国は、Chinaにいる不良武装集団である蒋介石の軍閥に裏から武器弾薬や糧食を渡し、国際連盟の要求によって国際平和維持部隊(いまでいうPKO)としてChina大陸にいる日本人を殺害したり、拉致したり、日本人婦女を強姦したりと、あくどい戦争挑発行為を行いはじめたのです。
そしてついには、日本に対してハルノートを突き付け、日本が戦争に踏み切らざるを得ないところまで追い込んでいます。
要するに、日本が日華事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「トレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級四隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、ということです。
そして、そのまた遠因には、日本が強くなることによって奪われた利権者たちの存在が見えてきます。
それは、植民地支配者として大儲けをしていた欧米の資本家たちであり、その下請けとなってアヘンの売買などを取り仕切っていたアジアマフィアです。
国際情勢の中においては、いかに財政上の苦労があろうが、軍事バランスを常に「強者」に置いておく努力がなければ、国家は他国に軽んじられ、追いつめられます。
このことは、歴史の教訓として、私達は常に頭に入れておかなければならないことです。
もうすこし述べます。
そもそも軍は、戦争をするためのものではありません。
戦争を未然に防ぐためのものです。
そこを間違えると、財政上の理由でケチった何百倍ものツケを払うことになり、国の経済は傾き、国民の生命や財産を危険にさらすどころか、国家も国民も、何もかもを失うハメになるのです。
その原因を作ったのが、大正二年の、「国民の生活が第一」と民生重視をうたい、軍艦建造反対を行なった日本の国会であったわけです。
さて、その予算に待ったをかけられたのが、扶桑級大型戦艦の「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」の四艦です。
この四艦は、計画段階で予算に待ったがかけられ、ようやく大正二(1913)年に「扶桑」、大正三年に「山城」が建造開始となりました。
ところが、世界最強クラスの戦艦を建造しなければならないという海軍の要求に対し、予算はついたものの、大幅な圧縮予算です。
いざできあがってみると、一番艦「扶桑」、二番艦「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというなさけなさです。
要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。
これでは戦艦の体をなしません。
やむをえず「扶桑級」戦艦としての建造はあきらめ、あらためて「伊勢級」戦艦として、着工開始になったのが、「伊勢」と「日向」です。
しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にはありません。
そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正六(1917)年、「日向」は大正七(1918)年にそれぞれ就役します。
大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、少ない予算の中で、徹底的に船体の改良をされました。
さらに昭和九(1934)年には、緊迫する世界情勢の中で、伊勢と日向の姉妹は大改装を施されます。
少ない予算の中で、なんとかして艦の性能をあげるように工夫と努力が積み重ねられたのです。
まず第一に、艦の主砲の最大仰角が四十五度に引き上げられました。
当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。
そのかわり命中率が下がる。
それでも「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の四十五度という、限界仰角にまで引き上げたのです。
要求されたエンジンの搭載が予算の都合でできないから、船速が遅い。
だからせめて、砲弾を遠くに飛ばそうとしたのです。
けれど、もともとは最大仰角二十五度で設計された船です。
それを一気に引き上げて砲弾を遠くに飛ばすようにし、命中率の向上は、もっぱら乗員の猛訓練に委ねるとされたのです。
これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸び、なんと33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。
日本人おそるべしです。
次に装甲が格段に強化されました。
これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしなくなりました。
さらにエンジンには、小型で安価な新型タービンエンジンを搭載しました。
これによって、最高速度は25・3ノットまで引き上げられましたが、それでもまだ世界の標準艦には追い付けない。
そこで、新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させ、さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線などを搭載しました。
それでも速力が遅いことは、機動部隊の艦としては致命的です。
どうしても30ノットはほしいのです。
結局「伊勢」も「日向」も、これだけの大改造を施されながら、大東亜戦争の初期には低速艦であるとして実戦配備されませんでした。
あくまで姉妹は「練習艦」としてだけ使用されることになったのです。
一生懸命お化粧したのに「使えない奴だ」と相手にされなかったようなものです。
ところがそんな姉妹に、実戦投入の命令が来たのが、昭和十七(1942)年六月のミッドウエー海戦でした。
初の実戦配備です。
「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練を施されました。
待ちに待った実戦配備なのです。
その訓練のときの嬉しそうな伊勢と日向の姉妹の様子がまるで目に浮かぶようです。
そんな折に重大事件が起こります。
昭和十七(1942)年五月五日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしてしまったのです。
砲塔部が吹っ飛び、乗員54名が一瞬にして亡くなってしまいました。
やはり仰角に無理な負担があったのです。
やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部がそっくり外されることになりました。
その穴を鉄板で塞いで、上に25ミリの四連装機銃を突貫工事で装備しました。
せっかく高性能な主砲を取り付けてあったのに、これを外して機銃装備になったのです。
付け焼き刃とはこのことです。
ところが、その付け焼き刃が、あとでとんでもない活躍をします。
「伊勢」と「日向」はミッドウェー作戦に参加しました。
理由は、試作品とはいえ、他艦にはないレーダーが装備されていたからです。
ところが速度の遅い姉妹が、戦場となったミッドウエー沖にまだ到達しないうちに、海戦で日本は大敗してしまいました。
せっかくのレーダーもここではまったく活かされず、日本は、大切な空母を失ってしまいます。
失われた空母力を補うため、日本は、急きょ間に合わせでも構わないから、空母を用意する必要に迫られました。
商船や、水上機母艦など、ありとあらゆる船を空母に改造することが検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。
結局、建造中の大和型戦艦の三番艦である「信濃」を空母に改装すること、および、事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいる「日向」、同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されます。
ところがもともと戦艦として設計された「伊勢」と「日向」には、艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。
これを壊して空母に改造するとなると、完成までに一年半はかかってしまう。
それなら、艦の後部だけを空母にしてしまえ!ということでできあがったのが、冒頭の絵にある「航空戦艦」という形だったのです。
「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、空母にするための大改造を施されました。
ただ、艦の中央に巨大な艦橋があるために、空母として航空機の発着陸に必要なだけの十分な滑走路が確保できません。
そこでどうしたかというと、まず離陸にはカタパルト(射出機)を使用することにしました。
これなら、長い滑走路が必要ないからです。
カタパルトは、新型のものを備え付けました。
これは30秒間隔で、飛行機を射出できるというすぐれものです。
これを二基備え付けました。
これによって、わずか5分15秒で全機発艦できる能力を身に着けました。
これは、当時としては世界最速です。
では着艦はどうするかというと、一緒に航海する空母に着陸させればよい、ということになりました。
といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。
そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがないはずです。
どういうことかというと、「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈です。
ある意味残酷な話ではあるけれど、それは現実でした。
さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。
これによって対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されました。
それだけではありません。
新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。
各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、「超強力防空戦艦」としての機能を身に着けたのです。
こうしてようやく完成した姉妹は、昭和十九(1944)年十月に戦線に復帰することになります。
けれど、いよいよ飛行機を積むということになったとき、艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまいます。
結果、「伊勢」と「日向」は、半分空母の半分戦艦でありながら、艦載機をまったく持たないという、なんとも情けない姿で、同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊の一員として参加します。
この日フィリピン沖で、米軍のハルゼー提督率いる艦隊は、日本海軍殲滅のため、なんと527機もの大飛行編隊を繰り出しました。
ものすごい数です。
数人の仲間と過ごしているところに、527匹の蠅が襲って来た様子を想像してみてください。
そらおそろしい状態となったことがおわかりになると思います。
この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を被ります。
けれど・・・けれどです。
その猛烈な戦いの中で、ついこの間まで練習艦としてしかみなされず、使い物にならなないと相手にされず、航空戦艦に改造されながら、航空機の搭載がされなかった「伊勢」と「日向」が、獅子奮迅の大活躍をするのです。
二人の姉妹は果敢に対空線を挑み、両者あわせて百機近い敵機を撃墜してしまったのです。
しかも二人とも、これだけの奮戦をしていながら、ほとんど無傷でした。
「伊勢」に至っては、群がる敵機との戦闘の最中に、自艦のエンジンを停止させて、被弾して沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業までこなしています。
戦闘中にエンジンを停止するということは、艦が停まる、ということです。
停まっている船は、爆撃機から投下される爆弾を避けることができません。
ですから普通なら、敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙としか言いようがないのです。
ところが「伊勢」は、強力な対空砲火で敵爆撃機を近寄らせず、戦艦設計の強力な装甲は敵弾を跳ね返し、群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員百名余を、機関を停止したうえで海上から救助してしまったのです。
これは世界の海軍史に残る偉業です。
さて、レイテ沖海戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失いました。
日本の戦況はますます厳しさの一途をたどりました。
この海戦に生き残った「伊勢」と「日向」は、以後、輸送艦として、主に物資の運搬に用いられます。
航空戦艦を輸送船に使うなど、もったいない話にみえるけれど、当時の状況下では、強固な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実なことだったのです。
「伊勢」「日向」の姉妹は、昭和十九年十一月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運びました。
途中で、何度も米潜水艦に狙われましたが、こちらはもともとが戦艦です。
なんどとなく米潜水艦を撃退しつつ、無事に内地にたどり着きました。
そしてこのとき「伊勢」「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ「最後の航空燃料」です。
沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った燃料です。
また戦艦大和の最後の出撃のときの燃料も、このとき姉妹が持ち帰った燃料でした。
けれどその姉妹は、持ち帰った燃料は他艦や航空隊に提供し、自艦は、自走するための燃料さえもなくなって、呉で動かない「海上砲台」として使用されることになります。
動かない砲台となった「伊勢」と「日向」の姉妹に、終戦間近の昭和二十年七月二十八日、米軍機が猛攻撃加えてきました。
姉妹は敵の爆弾を動いて避けることができません。
人間で言ったら木に縛り付けられて動けない状態で、群がる敵と戦ったようなものです。
それでも伊勢も日向も果敢に戦いました。
艦底に大穴を開けられ、艦は大破着底してしました。
それでもまだ戦いました。
姉の「伊勢」は、大破着底した状態で対空射撃ができなくなりました。
そこで「伊勢」は、群がる敵機に向かって、主砲をドンと放ちました。
戦艦主砲です。
発射と同時に起こる巨大な衝撃波で、操縦不能に陥った敵機がパラパラと墜ちてきたそうです。
そしてこの砲撃が、日本海軍の戦艦が放った最期の主砲発射となりました。
航空戦艦伊勢の最後

冒頭にも書きましたが、「伊勢」と「日向」の名前は、ともに日本神話ゆかりの名前です。
「日向」は、神話発祥の地、天孫降臨の地です。
天照大御神と神々の子孫である歴代天皇が祀られているのが「伊勢」です。
そして日本神話というのは、神々の成長の物語でもあります。
いってみれば、できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。
そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされなかった。
その二隻の姉妹が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の主砲を放ち、沈黙した。まるで日本神話の物語そのものを見ているような生涯でした。
「伊勢」も「日向」も、後世に生きる私たちの目から見て、実に「かっこいい」生涯でした。
ありがとう!伊勢!!
ありがとう!日向!!
私は、神々というのは、やはり本当におわすものだと感じています。
なぜなら、我が国に「果たして神々はおいでになるのか」と疑問に思えるほどに世の中が荒れても、後になって歴史を振り返れば、なるほど、そういう意味があったのかと、納得させられるものが歴史の中にあるからです。
たとえば663年の白村江の戦いで、日本は大敗しました。
ところがこのことが原因となって、日本は万世の泰平を開く国家の統一と「おほみたから」を育むための都機能の充実と、国家統一の精神性の基となる古事記などの史書の編纂が行われました。
実に、いまの日本があるのは、この戦いがあってのことでした。
また平安末期から鎌倉初期にかけて、それまでの平和の日々がまるでうそのような内乱の日々が続きました。
当時のご皇族や諸々の貴族たちはこれをたいへんに嘆き、その結果生まれたのが、百人一首です。
けれどその内乱があり、日本の武士たちが合戦馴れしていったことによって、日本は蒙古襲来を跳ね返しています。
ユーラシア大陸を制した蒙古の大軍を打ち払うことができたのは、当時の世界にあって日本だけでした。
戦国時代には、まさに群雄割拠で国内がおおいに乱れましたが、このとき世界では、まさにスペイン・ポルトガルによる有色人種国の植民地支配と文化の破壊が徹底的に推し進められていました。
日本は、戦国大名たちが戦(いくさ)慣れしていることで、まさに、この世界を制した二大勢力を追い払い、江戸300年の泰平の世を築いています。
幕末の黒船来航以降、日本国内はおおいに乱れました。
その乱れは、実はいまでも続いています。
明治初年以降、今年で145年になりますが、その間、いわゆる不平等条約による差別が日本になかった時代は、1911年から1945年までのわずか34年間だけです。
日本はいまも不平等条約下にあります。
少し前までの日米航空協定も不平等条約でしたし、EUとの関係においても日本で重大犯罪を犯した者であっても、EUに逃げ込めば治外法権が適用されます。
日本は主権国であるようでいて、実は全然主権国ではないのです。
白村江にしても、元寇にしても、戦国にしても、混乱の原因となる事件等が生じてから、安定する状態になるまで、いずれもおよそ200年前後を要しています。
たとえば戦国時代の始まりは1467年の応仁の乱ですが、徳川政権となり、鎖国が実施され、蝦夷の大規模反乱も抑えられて、国内が完全に平和な状態になるのは1670年頃のことです。
人が病気になって入院することは、パソコンやスマホのりスタと同じで、魂がリスタをしようとしていることによるのだという説があります。
国もひとつの人と例えるならば、混乱(=病気)は、何かのリスタを神々が図ろうとしている、つまり様々なアプリがメモリを占拠して動作不良になっている状態を、いちど整理してきれいにすることで、また軽やかな状態に戻そうとしているのだ、とも考えられます。
先の大戦は、そういう意味で、明治以降の日本の歪みを正そうとした神々の試練であったのかもしれません。
そしてその厳しい戦いの中で、日本の神語にちなんだ「伊勢」と「日向」の名を与えられた船が、使いものにならないとされながら、結局は、この二艦の活躍が、あまりにも目覚ましいことであったというところに、私は何らかの神々の意思を感じてしまうのです。
何かある、と思えるのです。
そこに私達が真実に目覚める神々からのメッセージがあるのではないか。
そんな気がします。
※この記事は2011年2月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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