• 縄文時代と漆の木


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    漆器は、なぜかChinaのものが古く、日本はそれを輸入したという説ばかりが、妙に垂れ流されています。稲作と同じです。現実に遺跡の年代測定をしてみれば、明らかに日本の水稲栽培の方が古いのに、なぜかいまだにそのことはあまり公にされません。

    20181104 鳥浜貝塚の漆の木
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    上にあるのは、福井県若狭町の鳥浜貝塚から昭和59(1984)年に出土していた漆の木の枝です。
    2011年10月13日、この枝が約1万2600年前のものであることが、東北大の鈴木三男教授(植物学)ら研究グループの調査で分かりました。
    1万2600年前といえば、縄文時代草創期です。

    縄文時代というのは、いまからおよそ1万7千年前から3前年前までの1万4千年という、途方もなく長い歳月の時代です。
    あまりにも長いので、縄文時代内に時代区分があって、それは次の6つの時代に分けられています。
    1 草創期  約1万5,000 - 1万2,000年前
    2 早期 約1万2,000 - 7,000年前
    3 前期 約7,000 - 5,500年前
    4 中期 約5,500 - 4,500年前
    5 後期 約4,500 - 3,300年前
    6 晩期 約3,300 - 2,800年前

    もうすこし詳しく述べると、人が道具として自然石を使っていたのが旧石器時代。
    石を割ったり削ったりして加工して道具に使っていたのが新石器時代。
    日本ではこの新石器時代は、およそ三万年前からスタートしています。
    世界史的には新石器時代の次が青銅器時代、鉄器時代と続き、ここまでをまとめて先史時代といいます。

    要するに世界的には先史時代に縄文時代という分類はないのですが、ところが日本では、その先史時代にきわめて造形的な土器が出土するわけです。
    そこで世界史の中にある新石器時代の中に、もうひとつの時代区分として縄文時代を置いています。

    縄文時代とか弥生時代といった時代区分を提唱したのは、明治に来日した米国の動物学者のエドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)で、1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器に「Cord Marked Pottery」 と命名して報告したことが由来です。
    「Cord Marked Pottery」は、直訳したら「何らかのコードがマークされた陶器」ですが、同時代の植物学者であった矢田部良吉博士がこれを「索紋土器」(さくもんどき)と訳し、後に同じく植物学者の白井光太郎博士が「縄紋土器」と名を改め、これがまわりまわって「縄文土器」と表記されるようになったものです。

    けれども縄文時代という時代区分は、戦前には使われていませんでした。
    明治時代から終戦にかけての旧学制は皇国史観で、先史時代の日本は神々の時代ですから、縄文式土器とか弥生式土器という言葉はありましたが、それが時代区分として用いられることはなかったのです。

    ところが終戦を迎え、GHQによる占領統治が終わって日本が主権を回復したとき、日本はそれまでGHQによって禁止されていた歴史教育を復活させるのですが、プレスコードがあって学校教育の中で公然と国史の教育ができない。
    国史も、ですから社会科という社会科学(政治学、毛英英学、法学、経済学、社会思想学、歴史学、地理学、言語学等々)を扱う分野のなかのひとつとして、世界史を学び、そのなかで日本史をも学ぶという形のものに置き換えられました。
    ですから日本史は、あくまで世界史の中のひとつであり、それは英国史、米国史、中国史、韓国史などと同等の扱いとしてのみ、教育することが許されたわけです。

    本来、国史というのは、それぞれの国の子供達が、自国に愛情を持ち、国民としてのアイデンディディを育成するとともに、過去の歴史の一当事者となって思考し考えることによって、現代を生き抜き、未来を拓くための知性を磨くための教育分野です。
    けれど、その国史教育が否定されているわけですから、復活するに際しては、あくまでも世界の諸国の歴史を学ぶのと同等の、いつ誰によって何があったかといった事実だけを単に詰め込む教育という形で、ようやく歴史教育が復活したわけです。
    そしてそのために名称も、社会科の中のひとつの分野の日本史と変更されました。

    ここで困ったのが、教科書に我が国の先史時代をどのように記述するかです。
    そこで神話の時代、神々の時代を、あらためて考古学的な見地に立った時代区分が求められるようになりました。
    こうして、明治時代の初頭に名付けられた縄文式土器、弥生式土器の名称が復活し、それぞれ縄文時代、弥生時代と命名されるに至ったわけです。

    要するに優秀な日本人を育てないための方法として、この縄文、弥生の用語が新たに時代区分として復活したわけです。
    ここでおもしろいことが起こりました。
    もともと皇国史観では、紀元前660年の神武天皇による建国以前の時代は、神々の時代としての認識です。
    従って祖代(古代よりも前の時代)は神々の時代ですから、その時代を人々の営みという形で捉えることはタブー視されていたのです。
    ところが戦後にそのタブーが取り払われて、祖代に土器の時代があったとされたことで、古い時代の遺跡からの考古学上の発見に俄然、熱が入るようになったのです。

    このため戦後には、次々と新しい発見が相次ぐようになりました。
    そして戦前まではせいぜいさかのぼっても4〜5千年くらいだろうとされていた日本列島での人々の営みが、なんと12万年前までさかのぼることが証明され、また縄文式土器の時代も、青森県の大平山元1遺跡の発見によって1万6500年前にさかのぼることが確認され、さらに漆もトップの鳥浜貝塚の発見によって1万2600年前にさかのぼることがわかるようになったのです。

    なんでもかんでも戦前が良くて、戦後は悪いという思想に共鳴できないのは、こうしたこともひとつの理由です。
    ひとつの思想に凝り固まると、とかく「ゆがみ(歪み)」が生じやすいものです。
    だから「学問は常に自由であるべき」と思うのです。
    そして学問というものは、その根幹に常に合理性、必然性、論理性を持つものです。
    どこぞの国の歴史観のようなファンタジーにはその3つがありません。
    ないということは、その史観は学問ではないということです。
    学問ではないからファンタジーなのです。

    戦後の日本は、東京裁判史観と共産主義史観によって思想的政治的に歴史認識に歪が生じ、戦後に近隣諸国条項によって、China史観やKorea史観によってあらためて大きな学問のゆがみを生じさせました。
    しかし、では明治から終戦までの日本の史観がすべて正しいのかというと、正しい正しくないよりも、冷静な学問的追求に政治的思想的に制限が生じていたという問題をはらんでいたといえます。
    では、江戸時代の学問はすべて自由であったのかというと、これまた幕藩体制の縛りがあり、たとえば蘭方医(いまの西洋医学)は、外科にしか活用してはいけないなどといった制限があったわけです。

    秩序維持に制限や制約は必要なことです。
    ですからそうした政治的思想的な制限や制約は、いつの時代にもあることです。
    天動説地動説の争いなどもその一例です。

    そういう意味で、過去がすべて良くて、いまがすべて良くないという思考にも問題があるし、逆にいまが一番良くて、過去はすべてよくないというのも、単に政治的思想的見解にすぎません。
    現在というのは、私達にとって現実です。
    その現実を少しでも良い方向に向かわせるために、過去の良いところから学び、現代の問題点を見つめ、現代の良いところと過去の良いところを組み合わせて、一歩でも二歩でも、良い未来を築いていく。
    そのためにあるのが学問なのだと思います。
    秩序のために、学問に思想的政治的制約を課すことは必要なことですが、過度にそれを行うことは人々の営む社会の未来を奪うことになりかねないのです。

    冒頭の漆の木片も、そうした経緯から発見され、研究されるようになったものです。
    長さ約20cmくらいの木の枝ですが、森林総合研究所(茨城県つくば市)での顕微鏡検査で2005年に漆と突き止められました。
    2011年には、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(通称:暦博)で放射性炭素による分析が行われ、それが1万2600年前のものであることが判明しています。

    実はこれはたいへんなことです。
    単に日本に漆の木が自生していたことがわかったというだけの話ではないからです。
    漆は、木を植えただけでは育ってくれないのです。
    下草を刈って、毎年毎年手入れをして、樹液の採取ができるようになるには、まる10年かかる木なのです。
    ですから漆の木が出土したということは、いまから1万2600年前に、そこに人々が定住し、集落を営んでいたというだけでなく、目的をもって長い歳月をかけて漆を栽培していたということになるのです。

    考古学者の中には、そのころの日本人(縄文人)は、まだ定住性がないから、漆は「栽培」したのではなく、「自生」していたにすぎない、と反対する人もいます。
    こういう学者は、あくまで漆はChinaから渡来したものと言いたいらしいのですが、検査の結果わかったことは、この漆の木片は、日本固有種であって渡来ものではない、ということです。

    さらにいうと、いまから9000年前の漆塗りの製品として、北海道函館市の垣ノ島B遺跡から、漆塗りの副葬品が発見されています。

    漆は長いことChinaから日本に渡来してきたものだと言われてきました。
    Chinaの浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡で発見された漆の椀は、いまから約7000年前のものと判明してます。
    同省の跨湖橋(ここきょう)遺跡で発見された漆塗りの木弓は、約8000年前のものとされています。
    けれど、なにせ白髭三千丈の国です。

    そもそも河姆渡(かぼと)遺跡というのは、いまから7000年から6500年前の遺跡で、漆椀の7000年前は納得できるとしても、漆塗りの木弓だけが8000年前のものだというのは、どうにも時点があいません。
    しかも年代測定の詳細が公表されていない。
    さらにいうと、Chinaの漆は、黒漆です。
    日本の漆は赤漆です。
    色がぜんぜん違う。

    その黒漆が、いつ頃日本にもたらされたのかには諸説あるようです。
    具体的な証拠としては、北海道の函館市の垣ノ島A遺跡で出土した注口土器があります。
    これは、いまから3200年ほど前のものですが、なんと黒漆を下塗りして、上から赤漆を塗って味わいを出しています。
    たいへんに美しい。

    注口土器
    注口土器


    ちなみいこの遺跡からは、「足形付き土器」というものも出土しています。
    これは亡くなった子供の足形を粘度版に型どったもので、多数のものが見つかっています。

    足形付き土器
    足形付き土器


    いまでは医療が発達し、子供が死ぬケースはごくまれになりました。
    けれどほんの100年くらい前まで、日本に限らず世界中どこでも、子供というのは、よく死ぬものだったのです。

    幕末に有名な大老、井伊直弼は、井伊家の14男です。
    14男が井伊家の跡継ぎとなったということは、長男から13番目の兄貴までが、みんな亡くなってしまったということです。
    昔は、それだけ子供が生き延びてオトナになるのは、たいへんなことだったのです。

    けれど産んだ親にしてみれば、亡くなった子も我が子です。
    年老いても、幾つになっても、絶対に忘れることはありません。
    ウチの死んだオヤジは、長男ですが、男4人兄弟です。
    けれど、オトナになるまで育つことができたのは、長男坊のオヤジと、末っ子の叔父貴だけでした。
    次男と三男は、やはり病気で子供の頃に亡くなりました。
    死んだ婆さん(オヤジの母)に、まだ子供だった頃のボクは、亡くなった二人の自慢話をよく聞かされたものです。

    昭和の時代でさえそうだったのです。
    ましていまから何千年も前の時代であればなおさらです。
    だからこそ親たちは、亡くなった子供の足形を粘度板にとって、大事に大事にしたのです。
    それが私たちの祖先の姿です。

    人は、おおむね25年で一世代が交代します。
    これは今も昔も変りがない。
    爺さんから、オヤジ、自分、そして子が大きくなって現役のオトナとなるまでが4代100年です。

    古事記が書かれてから、来年で1300年になります。
    ということは、古事記が書かれてから、まだたったの50世代です。
    今上陛下は125代。
    そして1万4000年続いた縄文時代は、560世代です。

    だいたい国民の特徴は、400年で外観や気質が固定すると言われています。
    日本文化は、世界の良心の「最後の砦」だと言った人がいました。
    日本がアメリカや、特アの国々に翻弄され続けているのは、戦後の日本人が、日本人としての価値観や国家観、誇りを失っているからだといわれています。

    いまこそ、私たち日本人は、世界最古の和の文明を開花させた誇りある民族であることの誇りと自覚を取り戻すべきときです。
    そして日本が、再び太陽を登らせるとき、世界は本当に目覚めることができるのではないか。
    そんな気がします。

    もうひとつ。
    垣ノ島B遺跡から出土した漆器は、なんといまから9000年前のものでした。
    ところが非常に偶然、この遺跡は2002年12月28日の深夜に火災にあっています。
    そして8万点にも及ぶ出土文化財や、写真や図面がまる焼になりました。

    幸い、関係者の必死の努力で、漆塗りの製品の形の認識や繊維状の痕跡がはっきりと視認できる部分は焼失を免れたのですが、Chinaよりも古い漆器が出土したことが確認された途端、その遺跡が不審火によって火事に遭っているというのは、なんとも不思議な話です。

    そして漆器は、なぜかChinaのものが古く、日本はそれを輸入したという説ばかりが、妙に垂れ流されています。
    稲作と同じです。
    現実に遺跡の年代測定をしてみれば、明らかに日本の水稲栽培の方が古いのに、なぜかいまだにそのことはあまり公にされません。

    それどころが世界最古といって良い、日本の縄文時代の遺跡群は、学会において決して「縄文文明」とは呼ばれることはありません。
    ところがChinaの長江流域の河姆渡遺跡などは、「長江文明」と、なぜか「文明」として発表されています。
    そういう点もまた、なにやらキナ臭いところです。
    逆に言えば、日本人が日本文明の文化意識、国家意識に目覚め、日本人としての普遍的な歴史認識を取り戻すことが、いかに彼ら特アの工作員さんたちにとって、脅威であるかということです。

    いくらガリレオを否定しても、天動説が正しかったように、日本をいくら否定し、日本人からいくら歴史観を奪っても、ひとたび東日本大震災のような大事が起これば、実に整然とした日本人の美質が、自然と発揮されてしまう。
    これはもう、縄文時代から培われた、日本人のDNAのなせる業としか言いようがありません。
    あとは、日本が、しっかりとした歴史認識を取り戻すこと。

    日本人が、日本人としての誇りを取り戻すことは、世界の良心を目覚めさせることだと思います。


    ※この記事は2011年11月の記事のリニューアルです。
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  • ○○主義は、ないものねだり


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    戦前戦中の日本で、多くの日本人が信じていたのは、軍国主義や、軍国日本ではありません。東洋平和であり、植民地支配を受けない自由であり、政治の安定です。これもまた、ないものねだりであったのです。

    20201109 秋
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    イソップ物語に次のお話があります。

    【キツネと酸っぱいブドウ】
    ある日、キツネはみずみずしいブドウが高い木からぶら下がっているのを見つけました。
    ブドウは本当に美味しそうでしたから、キツネは長いこと見つめていました。
    ブドウが食べたくてたまらなかったのです。
    キツネはとても高くとび上がりましたが、ブドウを取ることはできません。
    何度とび上がっても、ブドウには手が届きませんでした。
    キツネは疲れておなかも空いていました。
    キツネは座り込んで、ブドウを見つめて言いました。
    「私って本当に馬鹿みたい!
     何度とび上がってもブドウは取れない。
     おかげでとても疲れたし、
     おなかもペコペコだわ。」
    ついにキツネは、ブドウに対して本当に腹を立てて叫びました。
    「どうせあんなブドウはおいしくないわ。
     きっと酸っぱくてまずいわよ。
     もう食べなくていい!!」
    キツネは「あのブドウは酸っぱい」と言いました。
    でも本当は食べたくて仕方がなかったのです。
    キツネは捨て台詞を吐いて立ち去りました。

     *

    【ラクダと角(つの)】
    ラクダは、角(つの)の自慢をする強そうな牛を見て羨ましくなって、自分も同じものを手に入れたいと思いました。
    そこでゼウスの所へ出かけて、角を授けて欲しいとお願いしました。
    するとゼウスは、大きな体と強い力に満足せず、余分なものまで欲しがるとはもってのほか、と立腹して、角をくっつけてやらなかったばかりか、耳の一部を取り去ってしまいましたとさ。


    ***

    同じような話を二話ご紹介しました。
    古い昔に読んだ記憶をお持ちの方も多いと思います。
    この二つのお話は、いずれも「ないものねだり」の愚かしさの物語とされています。
    しかし腹が減ったときにキツネがブドウを求めたのは合理的思考であり、体の大きなラクダが、さらに強くなろうと角(つの)を求めることもまた合理的なものです。
    同時に、これらは、キツネには食べ物がないこと、ラクダが牛より喧嘩に弱かったことを意味します。

    実は「思想」も、これと同じで、何かの思想があるということは、その思想が理想とする社会がないことを示します。
    民主主義を理想とする社会は、実は少数の大金持ちに支配され、多くの民衆が隷属させられているという、支配被支配の社会であって、実はそこに民主主義はない。
    あるいは自由主義を理想とする社会には、実は自由がない。
    共産主義を理想とする社会には、実は平等が存在しない。

    要するに、ないから欲しい・・・つまりそれらはすべて「ないものねだり」だということです。
    別な言い方をすると、それらはみんな「水中に火を求む」ものでしかない。

    ところが四方を海に囲まれた日本では、海外の実情がわからないから、それらの主義を標榜している国には本当に民主や自由があると思いこんでいます。
    そして実際に海外に行くと、「ああ、やっぱり日本が良いな」と・・。

    おもしろいもので、海外で生活していると、日本人女性が世界でいちばん美しい女声に思えてくるそうです。
    なぜなら海外で接する日本人女性の情報は、週刊誌や動画など、きれいな女性ばかりだから。
    同じことは、日本にいて外国人がかっこいいと思う心理にも似ているようにも思えます。

    そういえばお隣の半島の人は、やたらと「世界平和」を口にします。
    世界平和自体は、もちろん良いことです。
    しかしどうして「世界平和」なのかというと、彼らは腹の中を洗いざらいぶちまける、我慢しないのが正しいことだという文化を持ちます。
    けれど、思いは人によってまちまちですから、それをすることによって常に周囲と衝突を繰り返すことになります。
    そして上下関係が形成される。

    結果、上に立てばやたらと支配的になるし、下であれば常に上のわがままに無理やり付き合わされることになります。このため、心中には「いつかころしてやる・・」という恨みが常にある。
    つまり個人間の付き合いでも、会社などの組織でも、国自体も、その心中は平和とは程遠い、恨みが常にはびこっているわけです。
    だからやたらと「世界平和」とか、「世界が平和でありますように」という言葉が使われます。

    「日本を取り戻す」という言葉が広く認知されたのは、いまの日本に日本らしさが欠けていることの裏返しです。
    要するに、社会用語というのは、多くの場合、「ないものねだり」である、ということです。

    立憲主義を守ることを標榜する人たちがいます。
    彼らは憲法を守ることが大事だと主張します。
    けれども日本は法治国家であり、憲法が守られています。
    にもかかわらず、憲法を守れと言っているということは、彼ら自身は憲法を守る気がまったくないということの裏返しであるということです。
    つまり破壊主義者であるということです。

    あるいは「あらゆる差別に断固として闘う」と言っている人たちがいます。
    つまりそれらの人たちは、差別をしていると(彼らが思う人)を差別したいわけです。
    つまり実は彼らこそが差別主義者であるということです。

    表面上言われていることと、実体がどのように違うのかは、言っていること、主義主張というものは、実はすべてが「ないものねだり」である、という視点に立つと、よく見えてくるものです。
    へそ曲がりのようですが、この視点から論理的に物事を眺めると、意外と真実を見抜く目が養われます。



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  • ビタミンとオリザニン


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    国が侮られ、民族が侮られるということが国の内外でどういうことを招くのか。
    私たちはビタミンからも、それを学ぶことができます。
    学校では、国は悪いことをするものだから、それを監視するのが国民の仕事などと教えますが、そのような反日的なドグマに浸った考え方や行動は、かえって身の破滅を招くものです。

    20171127 鈴木梅太郎
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    9年前に日心会で紹介されたお話です。
    ビタミンの発見が日本人であったこと。
    それが国際関係の中で、日本人の発見ではないものとされたこと。
    そして名誉が回復されたけれど、いまでもその影響が残っていることのお話です。


    ****

    だんだん寒い日が続くようになりました。
    冬の風邪の予防には、うがい、手洗い、そしてビタミン類が多く含まれた食品を摂る事が重要とされています。
    ところで、この「ビタミン」という栄養素ですが、発見者は日本人ということをご存知でしょうか?
    今回は、ビタミン発見に深い関わりのある二人の日本人について、ご紹介します。

    ビタミン不足は様々な病気や体調不良の原因になりますが、「脚気(かっけ)」もその一つです。
    「脚気」とは、主にビタミンB1が不足するため、手足のしびれや全身倦怠、足のつま先が上げられなくなり、つまずいて転びやすくなる。
    また、動悸、息切れ、低血圧、むくみ、頻脈、食欲不振、吐き気などが起こり、さらに進行すると歩行困難になり、最終的には心不全で死に至る病気です。

    古くは「日本書紀」や「続日本書紀」の中で脚気と思われる記述があるほか、元禄時代には「江戸わずらい」と呼ばれ、江戸特有の風土病として恐れられていました。
    地方の農民が雑穀を主食にしていたのに対し、江戸の町民は白米を主食にしていたので、玄米を食べれば摂れるビタミンB1が糠をそぎ落とした白米では十分摂れなかったのです。

    江戸を離れ、雑穀を食べ始めると回復に向かうのも風土病とされた一因ですし、江戸で蕎麦が普及したのは、ビタミンB1を多く含む蕎麦が不足する栄養を補う意味もありました。
    江戸の人々は、蕎麦を食べれば脚気が治る事を経験から知っていたのでしょう。

    さて、時は流れて明治時代。
    列強の帝国主義に負けじと近代的な軍隊を整えた日本ですが、脚気の猛威は相変わらずです。
    陸海軍共に大事な兵士が脚気により死亡する例が後を絶ちませんでした。

    1883年、当時海軍医務局長だった高木兼寛は、「西欧と日本における軍隊の違いは、食事にある」と考え、それまでの白米中心の食事からパン(後に麦飯)と肉類を中心とした食事に切り替えるように提唱します。
    高木の説を取り入れた海軍では兵士の栄養状態が改善され、海軍の脚気患者はみるみるうちに激減していきました。
    脚気患者がほとんどいなくなった日本海軍は、日露戦争における日本海海戦にて当時世界最強の名を欲しいままにしていたロシア海軍バルチック艦隊を打ち破り、日本を見事、大勝利に導いたのです。

    ところが、ドイツの細菌学を参考にしていた陸軍では、「食事の改善などで脚気が治るはずがない」と唱え、白米食を続けました。
    このころ、「脚気の病原菌が発見された」との誤った発表もありましたし、故郷を離れ、命を懸けて国防の任務にあたる兵士には、当時贅沢とされた白米を与えたい、という思惑もあったでしょう。
    最後まで病原菌説を曲げなかったのが、文豪としても有名な森鴎外でした。
    その結果、陸軍では多くの兵士が脚気によって命を落としています。
    しかし、だからと言って当時の陸軍や森鴎外を責めることは出来ません。
    最新の研究結果を踏まえた現在の物差しで当時の実情を図ることは、歴史を検証するうえで不適当です。

    世界で初めてビタミンを発見したのは、鈴木梅太郎という人物です。
    彼は脚気にかかった鳩に米糠を与えると症状が改善される事を突き止め、1910年、米糠から脚気に有効な成分の抽出に成功します。
    同年12月13日、この研究を発表し、抽出した成分を「アベリ酸」と命名、後に「オリザニン」と改名しますが、これこそ現在の「ビタミンB1」なのです。

    その後も彼はビタミン研究に心血を注ぎ、オリザニンの結晶化に成功。
    1937年のフランス万博にオリザニン結晶を出品し、名誉賞を授与されています。
    また、脚気治療薬「オリザニン」の製品化にも大きく貢献しました。
    この治療薬のおかげで更に多くの人命が救われたことでしょう。

    食事の改善という発想で日本海軍を影で支えた高木兼寛。
    ビタミンの発見により、脚気の予防や治療方法を世界で初めて科学的に証明した鈴木梅太郎。
    この二人の大きな功績が礎となり、世界中の研究者によってビタミン不足から引き起こされる様々な病気の予防策や治療法が確立されていきました。

    有史以来、洋の東西を問わず、人類を苦しめ続けた難病「脚気」。
    その苦しみから世界中の人々を解放する糸口を見つけたのは、我々の同胞、日本人だったのです。

     ****

    生物の生存に必要な栄養素には、有機物と無機物があります。
    無機物の代表がミネラルです。
    有機物の代表が炭水化物・タンパク質・脂質で、これ以外の有機化合物を総称したものが「ビタミン」で、現在、ヒトに必要なビタミンとしては13種類が認められています。

    ビタミンという名称は、ポーランドの生化学者であるカシミール・フンクが命名しました。
    フンクといえば、15人の子持ちの絶倫家としても有名ですが、それはまた別のお話。

    彼は脚気の原因を研究し、明治44(1911)年に、米ぬかに含まれる化学物質が欠乏すると脚気が起こることを発見しました。
    そしてその物質には、アミンの性質があることから、それに「生命に必要なアミン」という意味で「vitamine」という名称をつけました。

    フンクが発見したビタミンも、いまでいうビタミンB1です。
    ところがフンクが発見する1年前の明治43(1910)年6月14日に、鈴木梅太郎が同じく米ぬかからビタミンB1の抽出に成功し、その論文を発表していました。

    この同日に発表されたこの論文は、「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」という名称で、
    1 ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬ
    2 糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分がある
    3 白米にはいろいろな成分が欠乏している
    という内容の論文になっています。
    そして彼は、同年12月13日には、「糠中の一有効成分について」を発表し、糠に含まれる有効成分に「オリザニン」という名称を付けました。

    日本語で発表されたこの論文は、翌年にはドイツ語に翻訳されて世界の研究者に紹介されるのですが、このとき、なぜか「オリザニンは新しく発見された栄養素である」という一行が翻訳されませんでした。
    理由はわかりません。
    ただ、当時の世界は、まだまだ人種差別全盛の時代だったこと、日本人は欧米人たちからみて、黄色い猿でしかなかったことなどから、有色人種ごときに新しい発見などできる筈がないとされたのかもしれません。

    あるいは当時、鈴木梅太郎は、多くの学者から「百姓学者」と罵倒されていました。
    翻訳洩(も)れも、そのことが原因だったのではないかという人もいます。
    それまで、米ぬかに脚気を治す成分があるなどとは、誰も説いていなかったのです。

    学者さんには二通りの人がいます。
    ひとつは、先輩学者の言うことをただ鵜呑みにして、そのドグマから一歩も出ない人。
    もうひとつは、新しい説を立てて行こうと努力する人です。
    そしていつの時代も、世間は既存の力を持つ者の味方です。
    ですから前者には力があり、後者にはそれがありません。
    そして新しい説を立てる人は、いつの世においても、馬鹿にされ、罵倒され、悪口を言われ続け、そして時代を変える発見をしても、それは世間に出る前に潰されるか、無視されることになります。

    そして鈴木梅太郎の研究は、結果として世界の学者達から注目されることなく埋もれてしまうのです。
    この研究論文に啓発されたのかどうかまではわからないことですが、不思議なことにその翌年、フンクが米ぬかから抽出した同じ物質に「ビタミン」と名前を付けました。
    そして今でも日本国内では、「ビタミン」の名称が一般的になっています。

    ところが世界は不思議なものです。
    鈴木梅太郎の研究はその後の世界で再評価され、医療の最前線では「オリザニン」という名称が使われるようなりました。
    我が国の医療機関でも、外国から輸入した最前線の医療分野では、「オリザニン」の名称が使われています。
    その一方で日本国内では、一般的にはいまだに「ビタミン」です。

    さて、誰からも評価されなくても誠実を尽く鈴木梅太郎に、神様は不思議なプレゼントをしてくれました。
    当時の日本は、第一次大戦のあとの戦勝景気のあとに襲った大不況と米不足の中にありました。
    そうした中にあって、酒が飲みたくても価格が高くて飲めないという人が多く出ました。
    そこで神様は鈴木梅太郎に、合成酒の作り方を教示してくれたのです。

    この合成酒は大正7(1918)年には商品化され、またたく間に大ヒットなりました。
    いまでも価格の安い日本酒の多くは、その合成酒の手法で造られていいますし、コンビニで売られているビールの発泡酒も、まさにこの合成酒の技法を用いて製造されているものです。
    要するに発酵させてお酒を作るのではなく、アルコールにアミノ酸などを加えて「お酒みたいなもの」にした製品です。
    この合成酒というのは、それまで世界になかったものなのですが、いまでは世界中で造られ、売られるようになりました。

    知識は神々のものであり、その知識を我々人間は「使わせていただいている」というのが、古くからの日本人の思考です。
    そして神々の「たから」は、民にあります。
    だからこそ、世のため人のために最善をつくす。不断の努力を惜しまない。

    鈴木梅太郎の「オリザニン」の発見も、合成酒の製造も、まさにその神々のお心の前に謙虚にあったからこそ生まれた新しい技術であり人類の知恵であったものと思います。
    自分のため、自分の欲望のためではなく、世のため人のために持っている知識や経験を活かす。

    教育勅語にも次の言葉があります。
    「恭倹己レヲ持シ 博愛衆ニ及ホシ 
     学ヲ修メ 業ヲ習ヒ
     以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ
     進テ公益ヲ広メ 世務ヲ開ク」
    まさにこの心が、私たちの祖先がのこしてくれた遺訓です。
    昔も今も変わらない、世界に通じる正しい心なのだと思います。

    不思議なことに、日本人が失ったその心を、いま欧米諸国の人々が必死になって学習している。
    私たちは、すこし立ち止まってそのことを考えなければならないのではないかと思います。


    ※この記事は2012年2月の記事のリニューアルです。
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    20211127 武田勝頼の妻
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     武田勝頼の妻の名は伝わっていません。北条氏康の六女であったことから、武田家では北条夫人と呼ばれていました。天正一〇年(一五八二)三月、織田信長が大軍で武田氏に攻めこんだ時、武田の旧臣たちが勝頼に背いたので、勝頼は百騎ばかりで城から落ちのびました。それは、夫人もようやく荷(に)付(つけ)馬(うま)に乗って、侍女らはみんなワラジを履(は)いての逃避行でした。城には敵が攻め入り火煙が天をおおっていました。

     勝頼たち一行は、天目山(てんもくざん)に遁(のが)れました。けれどそこにも、秋山摂津守が叛(そむ)いて火砲を発して襲ってきたので、鶴背のほとりの田野というところに隠れました。敵兵が潮(うしお)のように湧き出て攻めてきました。勝頼は夫人に告げました。
    「武田の運命は今日を限りとなりました。おまえは伴(とも)をつけて、小田原の実家に送り届けよう。年来のおまえの情(なさ)けには深く感謝している。甲府からどんな便りがあったとしても、おまえは小田原で心安く過ごしなさい」

    夫人が答えました。
    「おかしなことを聞くものです。たまたま同じ木陰(こかげ)に宿ることさえ他生の縁と申すではありませんか。わけても7年。あなたと夫婦の契(ちぎり)を結び、今こうして危機に遭ったからといって、早々に離別されて小田原へ帰るならば、妾(わらわ)の名がけがれましょう。ただ夫婦は、死生を同じうすべし」

    夫人は老女を振り返り、
    「この年月は、子ができないことばかり嘆(なげ)いて神仏に祈っていましたが、今はむしろ良かったのかもと思えます。たとえ子がなくても小田原は跡(あと)弔(とむら)い給うべし(小田原はきっと弔ってくださることでしょう)」
     故郷への手紙には、
    「女の身なればとて、北条早雲、北条氏康より代々弓矢の家に生まれ、ふがいなき死をせしといわれんも恥ずかし。妾(わらわ)はここにて自害せりと申せ」

    手紙の上巻に髪の毛を切り巻き添え、

     黒髪の みだれたる世を はてしなき
     おもひに契(ちぎ)る 露(つゆ)の玉の緒

    と詠ぜられました。そして敵軍、乱れ入り、一族郎党ことごとく討たれていく時、夫人は声高く念仏を唱えて自害しました。老女もともに殉死しました。勝頼も自害して、武田の一門はこうして滅亡しました。

    「跡弔い給うべし」という言葉は、お能の「敦(あつ)盛(もり)」の中に登場する言葉で、次のように展開されます。

     討たれて失(う)せし身の因果
     めぐり逢ふ敵(てき) 討(う)たんとするに
     仇(あだ)をば恩に 法事の念仏 弔(とむら)はば
     終(つい)には共に 生まるべき
     同じは蓮(はす)の 蓮生法師
     そは敵にては なかりけり
     跡(あと)弔(とむら)ひて 賜(たま)び給(たま)へ
     跡弔ひて 賜び給へ

    現代語にすると次のようになります。

     戦いに敗れて討たれて失われるは我が身の因果でございましょう。
     めぐりあう敵は、もしかすると愛の逢瀬のようなものかもしれませんわ。
     敵を討った仇さえも、ご恩のひとつと感謝して念仏を唱えましょう。
     そうすれば、次の世に、きっと二人仲良く生まれ変わることもできることでしょう。
     互いに同じ蓮の根につながる魂でございます。
     敵も味方もありませぬ。
     どうか、あとの弔いを頼みますね。

    「めぐり逢ふ敵」に、男女の逢瀬を意味する「逢ふ」という字が使われているので、「めぐりあう敵は、愛の逢瀬のようなもの」と訳させていただきましたが、語感としては、これが最も正しい訳であろうと思います。たとえ自分の命を失うことがあっても、そこに愛を見出す。これこそが日本的な価値観といえます。
     死ねば魂が肉体から離れ去ります。だからこれを「逝去(せいきょ)」といいます。「逝」という字は、「折」がバラバラになることを意味し、「辶」が進むことを意味します。肉体と魂がバラバラに離れて去って行くから「逝去」です。魂の行く先は、時間に縛られた低次元の世界から、時間を超越した高次元の世界です。勝頼の妻の辞世の歌は、そういう理解の上に成り立っています。
     歌にある「玉の緒」というのは、魂の緒のことです。魂は紐で肉体とつながっていると考えられていましたから、玉の緒が離れることは、死を意味します。露と消える玉の緒であっても、ひとつの思いは消えることはない。その消えない思いというのが、「夫である勝頼と今生では乱れた黒髪のような乱世を生きることに成ってしまったけれど、きっと来世には平和な時代に生まれて、一緒に仲良く、長く一緒に暮らしましょうね」という句になっています。
     そして「黒髪の乱れる」は、和泉式部の歌から本歌取りです。失っても失っても、それでも一途に愛する想いを大切にするところで使われる語です。
     「玉の緒」は式子内親王の歌から本歌取りしています。たとえ露と消えて死んでしまっても、大切なものを護り通して行きたいという想いがこめられた語です。

     この時、勝頼の妻、わずか十九歳です。今から四百年も昔の戦国時代。現代日本人の感覚としては、戦国時代というのは、有史以来最も国が荒れた時代とされますが、そんな時代にあってなお、若い女性がこれだけ高い教養を持ち、そして男も女も純粋に必死で生きていたのです。


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    「そうか。俺は間違っていた。木村殿の心のわからなかったワシが馬鹿だった」
    良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。
    この年、大坂夏の陣の時、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死しています。
    以下は、昭和天皇がとても愛された物語です。

    20211121 木村重成
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     たまたま大坂城内の廊下で木村重成に出会った茶坊主の良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成の袴にひっかけました。
    「気をつけろい!」
    良寛が重成をにらみつけました。良寛にしてみれば、それで喧嘩になればしめたもの。人気者の木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくとでも考えたのでしょう。この手の身勝手な自己顕示欲を持つ者は、いつの時代にもいるものです。ところが木村重成、少しも慌てず、
    「これはこれは。大切なお茶を運ぼうとしているところを失礼いたしました。お詫びいたします」と、深々と頭をさげたのです。
     そんな重成の様子に、嵩(かさ)にかかった良寛、
    「そんな態度では謝ったことになりませぬ。土下座して謝っていただこう!」と迫りました。怒らせて先に手を出させればしめたものです。なぜなら大阪城内での喧嘩刃傷沙汰はご法度だからです。武士である木村重成は、身分を失って大坂城を追われるだけでなく、場合によっては切腹です。かたや地位ある武将、かたや地位のない茶坊主です。良寛にしてみれば、木村重成が失脚すれば「ざまあみやがれ!」というわけです。
     さて、木村重成は、初陣経験のない大坂城勤務とはいえ、一国の大名です。しかも豊臣秀吉の子・秀頼の側近です。相手はたかが茶坊主で、しかもこれは言いがかり。そのような状況で、殿様である木村重成の土下座などあり得ないことです。ところが木村重成、
    「それは気がつきませなんだ」と言うと、膝を折り、床に膝をついて、深々と頭を下げて、
    「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げました。

     木村重成は、慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣で、豊臣方の主力として東大阪市南部方面に進出し、藤堂高虎の軍を打ち破ったものの、井伊直孝との激戦に敗れ、わずか二十二歳で戦死した武将です。人柄が立派で美男子で教養もあり、腕も立つ。しかも殿様です。けれど、そうなるとなかには妬む者もあるのです。世の中に「男の嫉妬と女の恨みほど恐ろしいものはない」といいますが、大坂城にいた、山添良寛という茶坊主もそのひとりでした。茶坊主といっても腕っ節が強く、五人力の力自慢な男でした。常々から、
    「まだ初陣の経験もない優男の木村重成なんぞ、ワシの手にかかれば一発でのしてやる」と、はばかることなく公言していました。
     
     すっかり気をよくした良寛、勝ち誇った気になって、
    「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。ワシに土下座までして謝った。だいたい能力もないのに、日頃から偉そうなんだ」と、言いたい放題となりました。そしてあることないこと木村重成の悪口を大坂城内でふりまきました。
     日頃から人望がある重成です。誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい。ところが人間おかしなもので、日頃抱いていたイメージと、まったく違うことが流布されると、びっくりして、耳がダンボになってしまいます。これを「認知不協和」といいます。
     良寛のまき散らした噂は、たちまち大阪城内に広がりました。なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという噂は、木村重成の貫禄の足らなさだということになって、まさに大坂城内の語り草になったのです。

     この時代、大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからないという世情でした。そういう時代ですから、戦国武将たるもの、常に武威を張らなければ、敵からも味方からも舐められてしまいます。舐められるということは、武将としての名誉にかかわることです。
     噂というものは必ず本人の耳にも入るものです。当然、重成の耳にも入ってきました。登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。心配した周囲の人が、「よからぬウワサが立っていますよ」と重成に忠告もしてくれました。しかしなぜか重成は、笑って取り合いませんでした。

     噂はついに重成の妻の父親の耳にも入りました。この父親はとんでもない大物で、大野定長といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長の父であり、戦国の世で数々の武功を立てた英雄でもありました。重成の妻で、美人のほまれ高い青柳は、そんな大野定長が目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘です。その娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされている。そうなれば大野の家名にも傷がつく。
    「よし、ワシが重成のもとに行き、直接詮議をしてくれよう。ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、嫁にやった青柳に荷物をまとめさせて、そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」
    と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。

     定長は言いました。
    「重成殿、かくかくしかじかの噂が立っているが、茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。なぜその場で斬って捨てなかったのか。貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、ワシが代わりに斬り捨ててくれる。何があったか説明されよ。さもなくば今日この限り、娘の青柳は連れて帰る!」
    重成が答えます。
    「お義父様、ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。ただ、お言葉を返すわけではありませぬが、剣の腕なら私にもいささか自信がございます。けれどもたかが茶坊主の不始末に、城内を血で穢したとあっては私もただでは済みますまい。場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。いやいや、腹を斬るくらい、いつでもその覚悟はできております。しかし、仮にも私は千人の兵を預かる武将にございます。ひとつしかない命。どうせ死ぬなら、秀頼様のため、戦場でこの命を散らせとうございます」そして続けて、「父君、『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。蠅には、金冠の値打ちなどわかりませぬ。たかが城内の蠅一匹、打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」

     これを聞いた大野定長、「なるほど!」と膝を打ちました。蠅はクサイものにたかります。クサイものにたかる蠅には、糞便も金冠も区別がつきません。そのような蠅など、うるさいだけで、相手にする価値さえない。たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、
    「ウチの娘の旦那はたいしたものじゃ。『蠅は金冠を選ばず』と言うての、たかが茶坊主の蠅一匹、相手にするまでもないものじゃわい」と婿自慢を始めたのです。

     日頃から生意気で嫌われ者の茶坊主の良寛です。これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が大坂城内に広まりました。挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちから良寛は、
    「オイッ!そこな蠅坊主、いやいや良寛、お主のことじゃ。そういえばお主の顔、蠅にも見えるのお。蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主! わはははは」と、さんざんからかわれる始末となりました。
     ただでさえ、実力がないのに自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
    「かくなるうえは俺様の腕っ節で、あの生意気な重成殿を、皆の見ている前でたたきのめしてやろう」と機会をうかがいます。

     機会はすぐにやってきました。ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。しかし、いかに裸で背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。正面切っての戦いを挑むほどの度胸はない。良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。なにせ五人力の怪力です。殴った拳の威力は大き・・・かったはずでした。ところが・・・。
    「イテテテテ」と後頭部を押さえこんだ男の声が違う。重成ではありません。頭を押さえていたのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛でした。体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。
     いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤に怒って脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、
    「今殴ったのは誰じゃ!出て来い!タタッ斬ってやる!」と、ものすごい剣幕です。風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守りました。そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。
    「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが・・・。そこな良寛!おぬし人違えでワシを殴ったな!なに、返事もできぬとな。ならばいたしかたあるまい。ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。拳には拳でお返しするが、良いか良寛、そこになおれ!」と、拳をグッと握りしめました。
     戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。腕は丸太のように太いし、握った拳はまるで「つけもの石」です。又兵衛はその大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだったけれど、殴られた良寛は一発で気を失ってしまいました。

     又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの浴室の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、倒れている良寛のもとへ行きました。
    「あわれな奴。せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」と、ひとことつぶやき、「エイッ」と良寛に活を入れ、そのまま去って行きました。

     さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、
    「イテテテテ。後藤又兵衛様では相手が悪かった。次には必ず木村殿を仕留めてやる」
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    「良寛殿、あなたに活を入れて起こしてくださったのは、その木村重成様ですぞ!」
     これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりませんでした。「ただの弱虫と思っていたのにワシを助けてくれた?なぜじゃ?」、その時ハタと気付いたのです。重成殿はワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、城内という場所柄を考え、自分にも重成殿にも火の粉が架からないよう、アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。
    「そうか。俺は間違っていた。木村殿の心のわからなかったワシが馬鹿だった」
    良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。

     この年、大坂夏の陣の時、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死しています。

    さてこのお話は、『蠅に金冠』という題目で、神田家の講談となり、講談師の神田山緑師匠のお師匠さんが、生前に、昭和天皇の前で口演された演目です。昭和天皇は、このお話をたいへん愛されたそうです。

    我が国には古来「美しく立派に生きることを愛する文化」があります。
    人の身は泥まみれになって一生を生きるけれど、同時に人には霊(ひ)が備わっています。
    その霊(ひ)は、正直に、美しく、立派に、清らかに生きる。
    それが、人が死んで神になる道であり、これを「かんながらの道」と言います。

    霊(ひ)のことを、別な言い方で「たま」と言います。
    「たま」は、魂であり、球体をした球であり、みがくことで、ますます美しく光彩を放ちます。
    だから日本人は、「たましい」を磨くようにして生きることを好むし、望みます。
    諸外国にない日本人を日本人たらしめている文化が、ここにあります。

    「美しく立派に散るぞ」
     そう言って一番機に向かう戦友(とも)の胸に
     俺は桜の一枝(ひとえだ)を飾って贈った。
     明日は俺の番だ。
     死ぬときは別々になってしまったが、
     靖国神社で会える。
     そのときは、きっと
     桜の花も満開だろう。
    海軍少尉小野栄一 身長五尺七寸、体重十七貫五百、極めて健康!
    (鶴田浩二「同期の桜」より)


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  • 元の大帝国に敢然と立ち向かった北条時宗


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    元寇に際して日本が戦うことを選択しなかったなら、元の大軍は、易々と日本上陸を果たしていたことでしょう。そして上陸していたならば、彼らは台風で船団ごと壊滅することもなかったことでしょう。つまり、明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた、ということです。これは少し考えたら、誰にでも理解できることだろうと思います。
    その意味での神風は、このとき断固戦うことを選択した北条時宗の決断そのものであったのではないでしょうか。

    20211125 北条時宗
    画像出所=https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2021/06/15/159939
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    「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉を続けていました。
     そしてその間に元の大軍によって侵略され、国をなくしてしまいました」と、日本に禅宗を伝えた宋の僧侶の蘭渓道隆が言いました。また蘭渓道隆の後継者である無学祖元も言いました。
    「莫煩悩(ばくぼんのう)です」
    これは「あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさい」という意味です。こうして幕府の執権、北条時宗の意思は固まりました。そしてついに執権の命令が鎌倉御家人たちに下りました。
    「蒙古軍を制圧せよ!」

     東北地方の山間部に、「モッコ」という言葉があります。「モッコ」というのは、ふるくから“この世の中で一番怖いもの”とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」だそうです。その「モッコ」は、実は蒙古のことだといわれています。元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれています。それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代の恐怖のできごとだったのです。

     一二六八年、高麗の使いによって元の大帝国の皇帝フビライからの書簡が九州の太宰府にもたらされました。そこには次のように書いてありました。

    「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。
     昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。まして大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。例えば私が皇帝になってからも、高麗が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。
     高麗は私の東の領土である。しかし日本は、昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?
    日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝える。
     これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている。日本も我々を父と思うことである。このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。
    日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。
     至元3年8月(1266年・文永3年)」

     相互に仲良くしようといいならが、日本が一通の国書を送らないとささいなことでケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、さらに元の帝国を父と思えと都合のいいことを云いながら、その一方で「言うことを聞かないのなら軍を送るぞ」と脅かしています。
     ちなみにこの書簡をフビライが書いたのは一二六六年でしたが、その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまでに、なんと二年が経過しています。どこで書簡が停滞していたかというと、高麗です。元の属国となっていた高麗は、蒙古と日本が戦争になると兵員や食糧を負担しなければなりません。高麗が「どうしよう・・・」と国内であれこれ議論やっている間に、二年が経過していたわけです。
     書簡が、いよいよ大宰府にもたらされると、太宰府はこの書簡を朝廷に転送しました。転送された朝廷もまた、書簡を見てびっくりし、連日閣議を重ねたあげく、鎌倉幕府に蒙古襲来に備えよと命じました。「命じた」だけでした。大国である元の侵攻を前に、具体策などなにもなかったのです。

     フビライの書簡が鎌倉に転送されたとき、幕府の執権の北条時宗は、若干18歳で執権の座に就いたばかりでした。幕府内では、連日会議が開かれましたが、主戦派と穏健派に分かれて結論はでませんでした。時宗もこの時点では、まだ執権に就いたばかり。幕府の意向が固まるまでは、どうにも結論を出せずにいました。

     しびれをきらしたフビライは、高麗に日本への使者の派遣を命じました。ところが高麗は、天候が悪いの海が荒れたのと理屈をつけて途中で帰ってしまったかと思えば、今度は日本と蒙古が通交するようにすすめたりと、まるでらちがあきません。
     怒ったフビライは、四度目(日本には二度目)の使者として漢族の趙良弼に六千人の兵を持たせて高麗へと向かわせました。わずか六千の兵ですが、そのために高麗は彼らのための食べ物を提供しなければならず、これを民間から強引に調達したため、高麗の民衆は草や木を食べて飢えをしのいだと記録されています。高麗の国力や知るべしです。
     太宰府に着いた趙良弼は「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言い放ち、日本側の返事を待ちました。ところが待てど暮せど返事がない。滞在四カ月に及んだ趙良弼はいったん高麗に戻り、再び日本にやってきて太宰府で一年を過ごしました。この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」と褒めたそうです。

     こうして最初の使いから六年経った一二七四年一月、フビライは高麗に、日本遠征のための造船を命じました。高麗はそのための人夫三万五千人と食糧・材料の木材を出すことになりました。このため労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり、ここでもまた、飢えて死ぬ人が多くいたと記録されています。
     それでも高麗は、わずか十ヶ月の間に大型船三百艘、中型船三百艘、給水用の小型船三百艘、あわせて九百艘の船を造りました。ところが、このときに造船された船は、すべて頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式の船でした。

     一二七四年十月三日、モンゴル兵六千、高麗兵二万四千、合計三万の兵を乗せた船が高麗の合浦を出発しました。そして十月五日には対馬、十四日には壱岐を襲いました。島民の数は、当時おそらく数千人です。いきなり襲ってきた三万の兵にかなうはずもなく、対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれて吊るされました。

     モンゴルと高麗の軍は、十九日に博多湾に集結しました。そして十月二十日、筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津に上陸を開始しました。ところが一夜明けると、高麗の船が全部消えていました。博多湾を埋め尽くしていた高麗船が一艘もいないのです。このときの模様を日本側の記録である八幡愚童記は、「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いています。
     なぜ消えてしまったのでしょう。壱岐対馬では、非武装の住民を、圧倒的な戦力を持つモンゴル軍が一方的に襲撃しました。けれど博多湾では、北九州地域の武士たちが、果敢に彼らに挑みました。圧倒的な多勢に無勢でしたが、モンゴル側が、奴隷兵たちに雲霞のように大量の矢を射掛けさせる戦法であったのに対し、日本側は彼らの指揮官を、一撃必殺の弓矢で正確に射るという戦法でした。奴隷兵による戦闘は、指揮官が倒れると奴隷兵たちは戦意を失って逃散します。要するに、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外にも日本側が武器を持って戦を挑み、これによって指揮官たちを失ったモンゴル兵たちが、慌てて船で逃げ帰ってしまったのでした。

     このときの模様について、高麗の歴史書である「東国通鑑」は、夜半に大暴風雨があり、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書いています。しかし、これはどうやら意外な抵抗を受けて逃げ帰ったモンゴル軍が、本国である元に報告する際に、記録を捏造したというのが、最近の通説です。ここまでが文永の役です。

     これに対し、ほんとうに神風が吹いたのが、その七年後に起った一二八一年の弘安の役です。
     文永の役のあと、

     文永の役の翌一二七五年四月十五日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を届けました。「文永の役は蒙古の恐ろしさを知らせるのが目的であったから早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送る。降参するなら今のうちだよ」という趣旨です。
     戦うべきか、降伏すべきか。幕府の執権北条時宗は悩みに悩みました。そしてこのとき日頃尊敬する蘭渓道隆から受けた教えが冒頭の言葉です。断固戦う決意を固めた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行五名全員を処刑し、見せしめとして首をさらしました。北条時宗は、こうすることで国内世論を、開戦やむなしに固めたのです。
     ところが問題が起きました。使者を全員殺してしまったので、肝心の元の側は、使者が死んだとわからない。いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌年六月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。
     北条時宗は、この周福一行を博多で斬り捨てました。ただし今度はひとりだけは逃して元に戻しました。
     杜世忠と周福が首を刎ねられたとを知った元は激怒し、「日本を伐つべし」の大号令が発せられます。

     一方、北条時宗は、全国にいる鎌倉御家人たちを博多に派遣し、さらに博多に防塁を築かせました。この工事への参加に、時宗は一切の反論を認めなかったといいます。
     一二八一年(弘安四年)、元は范文虎を総大将とする十四万の大軍を博多に差し向けました。対する日本側の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人。武士だけなら、おそらく1万人です。兵力でいえば、日本側は十四倍の敵を迎え撃つことになったのです。
     日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦いました。一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁に阻まれて、侵攻できない。戦線が膠着状態となり、運命の七月一日がやってきました。旧暦の七月一日は、いまの新暦なら八月十六日頃です。
     この日、北九州方面を、大暴風雨が襲いました。港を埋めつくしていた四千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されました。なんといっても船は手抜きの高麗船です。嵐の前にどうにもならない。
     翌朝、嵐がおさまると、博多湾は船の残骸と無数の死体で埋め尽くされていました。当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。
     「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き残しています。つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができたほどであったといことです。
     同史によれば、生存兵一万九三七九人。士官や将官などの上級軍人の死亡率が七~八割、一般兵士の死亡は九割に至りました。
     すっかり戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げました。港には、置き去りにされた元の兵士が多数残りました。残されたモンゴル兵(主に高麗兵)たちは、ただ残されただけですから、食べ物がありません。そこで彼らは民家を襲い、食料を奪い、住民を惨殺しました。日本側の御家人たちは、そんなモンゴル兵たちを探し出し、次々と倒して行きました。この残党狩りは七月七日まで続いたといいます。
     今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っています。これらは当時のモンゴル軍兵士の首を埋めた場所です。日本は、遺体を丁重に埋葬し、供養としていまなお、踊り念仏が毎年行われています。
     また断固戦うことを選択した北条時宗は、このときに亡くなった幕府の御家人たちや、モンゴル兵たちの供養のために鎌倉に円覚寺を建てて、この寺を臨済宗円覚寺派の大本山とし、自身もこの寺への埋葬されました。敵味方を問わず、戦いが終われば御仏としてちゃんと供養する。これもまた日本の武士道精神です。
     
     最後にひとつ。もし弘安の役で日本が戦うことを選択しなかったなら、元の大軍は、易々と日本上陸を果たしていたことでしょう。そして上陸していたならば、彼らは台風で船団ごと壊滅することもなかったことでしょう。つまり、明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた、ということです。これは少し考えたら、誰にでも理解できることだろうと思います。
     日本を守ってくれた北条時宗、そして鎌倉武士団に、わたしたちは深く感謝すべきだと思うのです。そして、本当の意味での神風は、このとき断固戦うことを選択した北条時宗の決断そのものであったのではないでしょうか。


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  • 歴史を通じて愛され続けた静御前の物語


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    毎度同じ話の再掲で恐縮ですが、歴史上の人物で「誰が好きか」と聞かれたら、迷いますけど、イチオシが静御前です。とにもかくにも美しい。そして素直。気丈。大和撫子を絵に描いたような女性です。
    ちなみに本文とは関係ないですが、個人的に義経=ジンギスカン説を取っています。ですのでその後の静御前の行方が、全国に散らばっていて本当のことがわからないのは、むしろ「そのように工作した」ということで、実は静御前は子を連れて、母の磯禅尼とともに大陸に渡って義経と暮らしたのではないかと思っています。後宮を抱える義経に嫉妬もあったでしょうし、それが静御前にとって幸せなことであったかどうかは別として、世に知られていないそんな真実があったのかもしれないと想像するところに歴史の面白さがあります。ちなみにジンギスカンの第一后は、ジンギスカンより1歳年上のボルテですが、ボルテの出身はキャト族とされています。キャトは、もしかすると京都かもしれない。またボルテはジンギスカンの「ウジン」と呼ばれましたが、これは夫人を意味します。ボルテの息子がオゴデイ、つまりモンゴル帝国の二代目皇帝です。

    上村松園「静御前」
    20180105 静御前



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    「曲者でございます。お出会えそうらえ!」
    よく時代劇などで、大奥のお女中たちが大薙刀を手にして屋内を駆け回る姿が描写されます。江戸時代、武家の女性たちに大人気だったのが薙刀です。薙刀は初心者でも、剣道の有段者を手もなくやっつけることがでるという、実はたいへん強い武器です。そんな薙刀を江戸時代の武家の娘たちが愛した原因となったのが、白拍子であり薙刀の名手であった静御前でした。

     ある日のことです。後白河法皇に招かれて参内した静御前は、「おもてをあげよ」と言われて顔をあげました。
    「こちらに居るのがの、平家を打ち破った源義経じゃ。義経殿、こちらが都一の白拍子の静御前じゃ。静はの、舞で雨乞いができる都一の白拍子じゃ」
    「はっ」と法皇に挨拶をして顔をあげて静御前を見る源義経、
    「この御方が義経様……」と義経を見る静御前。
    ひと目会ったその日から、二人の心は固く結ばれてしまいます。

     静御前のあまりの美しさと人柄の良さに、すっかり夢中になってしまった義経は、鎌倉にいる兄の源頼朝から、「すぐに鎌倉に帰るように」との矢のような催促を受けても、都を離れようとしませんでした。何度使者を送っても鎌倉に帰ろうとしない義経に、ついに頼朝は「義経謀反!」の疑いをかけ、鎌倉から捕縛の兵を派遣しました。
     頼朝が義経に「帰れ」と命じたことには理由があります。もともと源平の戦は、新田の開墾百姓であった武士たちが私田を守るための戦いです。平家も武家ではあったのですが、平清盛の時代にすっかり朝廷に取り込まれ、そうなると新田の開墾百姓である武士たちにとっては、自分たちの田が貴族の荘園に組み込まれてしまうのではないかという危機意識となったのです。ですから頼朝は都から遠く離れた鎌倉に、武家のためだけの政権を築こうとしていました。ところが平家を討ち果たした弟の義経が都にいて朝廷に組み込まれてしまったら、なんのために鎌倉で政権を築こうとしているのか、意味がなくなってしまう。兄としては、弟の義経の幸せは第一の願いとしたいところです。けれど政治的にそれを許すことはできなかったのです。

     捕縛の兵を送られたと知った義経は、兄と戦うことを選択します。岩手県にある奥州平泉まで行けば、そこで兵を整えることができる。義経は近習である弁慶らとともに、静御前を連れて船で京の都を出発します。ところが大阪湾を出たところで、船が難破してしまいます。嵐の中でもしっかりと手を握り合って離さなかった二人です。ようやく陸にたどり着いた一行は、船をあきらめ、陸路で奥州へ向かうことにしました。
     冬の寒い朝のことでした。あたり一面に雪が降り積もっていました。吉水院という僧坊から、大峰山(おおみねさん)の入り口に差し掛かった一行は、その山道の入り口に「女人禁制」の碑を見ます。大峰山は神聖な山で、女性は立ち入ることができないとされていたのです。
     誰も見ていないのだから良いではないかというのは、現代人の思考です。誰も観ていなくてもお天道様が見ている。女の身である静御前を連れたままで、ご禁制の山に入ることはできません。神仏との約束事は破ることはできない。
    「静(しづ)、ここからなら、都もさほど遠くない。
     そなたは都の生まれ。
     必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」
    静御前は、「私は義経さまの子を身ごもっています」と打ちあけました。そして、「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみました。このときの静御前は鎧をつけ大薙刀を手にした男装です。
    義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている手鏡を、そっと握らせまました。
    「静、これを私だと思って使っておくれ。
     そして私の前でもう一度、あの舞を見せておくれ」
    静御前は、山の中で舞いました。

      見るとても 嬉しくもなし ます鏡
      恋しき人の 影を止めねば

    「鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです……」
    雪の山道を登っていく義経の一行。その姿を、いつまでも見送り続ける静御前。一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いていました。文治元年(一一八五)十一月のことです。

     二名の小物を連れて山を下ると、山の裾(すそ)から、大勢が山狩りに登ってくる声が聞こえました。静御前は荷を解き、「お前たち、これまでありがとう。これは少ないけれど、とっておいておくれ」と小物たちに荷役の代金を渡しました。
    「静様、おひとりでは危のうございます」
    「鎌倉方が村人たちを動員しての山狩りです。とうてい逃げおおせるものではありませぬ。私は大丈夫です。むしろお前たちに咎(とが)がおよぶようなことがあってはなりませぬ」

     静御前は、鎌倉方に捕縛され、麓(ふもと)の村で取り調べを受けることになりました。けれど、静御前は凛(りん)として断じて口を割らない。やむなく静御前の身は、鎌倉まで護送されました。厳しい取り調べは鎌倉でも続きました。
    「義経はどこに向かったのか。どのルートで逃亡しているのか」
    何も言わない静御前に、鎌倉でもなすすべもなく、そのまま静御前は鎌倉で幽閉されました。

     年が明けて四月八日、鎌倉では、源頼朝臨席での大花見会が鶴岡八幡宮で行われることになりました。美しい桜に、美しい女性。しかも静御前は都一の舞の名手です。頼朝は静御前に、花見の席での舞の披露を命じました。「命じた」のです。けれど静御前にしてみれば、大好きな義経様の敵の前で舞わされるわけです。
    「私はもう二度と舞うまいと心に誓いました。今さら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇を理由とすることはできません。けれど義経様の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です!」
     頼朝の妻の北条政子が言いました。
    「天下の舞の名手がたまたまこの地にいるのに、その芸を見ないのは残念なこと。舞は八幡大菩薩にご奉納するものです。どのような状況であれ、神に仕える白拍子がこれを断ることはできませぬ」

     当日となりました。静御前は着替えを済ませて舞台にあがりました。会場はなみいる歴戦の鎌倉御家人たちで埋め尽くされています。その御家人たちは、夫の義経の追手たちです。静御前は舞台で一礼して扇を手にとりました。そして舞を歌いながら舞い始めました。曲目は「しんむしょう」という謡曲です。
     素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。けれど何かが足りません。続けて静御前は「君が代」を舞いました。けれどやはり、何かが足りません。ちなみに「君が代」を軍国主義ソングのように思おっしゃる方がいますが、大東亜戦争よりも八百年以上前に、静御前がこうして舞った歌でもあります。
     およそプロの歌や舞というものは、舞台に立って一声発した瞬間、あるいは舞を舞い始めた瞬間から、観客の心を惹き付けてしまうものです。ところが・・・。
    「なんだ、都一とか言いながら、この程度か?」
    「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?それとも静御前がたいしたことないのか」
    会場がざわつきました。敵将の中にたったひとりでいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭たちのうなり声のようにさえ聞こえたことでしょう。普通ならその恐怖は、手足が震えて立つことさえできなくなるほどです。
     二曲を舞い終わった静御前は、床に手をついて礼をしたまま、じっと動かなくなりました。
    「なんだ、どうしたんだ」
    会場のざわめきが大きくなりました。それでも静御前は動きません。この時、御前は何を思っていたのでしょう。遠く、離ればなれになった愛する義経の面影でしょうか。このまま殺されるかもしれない我が身のことでしょうか。
    「二度と会うことのできない義経さま。
     もうすぐ殺される我が身なら、これが生涯最後の舞になるかもしれない。
     会いたい、逢いたい、もういちど義経様に会いたい……」
     このとき静御前の脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。
    「詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて」
    (どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろうと思って)

     静御前は、ゆっくりと、本当にゆっくり立ち上がりました。なにが起こるのでしょう。それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきました。そして、しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れた時、静御前が手にした扇を、そっと広げました。そして歌い始めました。

     しずやしず しずのをだまき 繰り返し
      昔を今に なすよしもがな

     吉野山 峰の白雪 踏み分けて
      入りにし人の 跡ぞ恋しき

    「いつも私を、静、静、苧環(おだまき)の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。幸せだったあの時に戻りたいわ。吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた義経さま。あとに残されたあの時の義経さまの足跡が、今も愛(いと)しくてたまりません……」

     歌いながら、舞う。
     舞いながら歌う。
     美しい。あまりにも美しい。
     場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として声も出ません。その姿は、まさに神が舞っているかのようであったと伝えられています。

     歌の中で静御前は、紫色の苧環(おだまき)の花にたとえられました。背景となる鶴岡八幡宮は真っ赤な社殿、周囲はは桜色の満開の桜花、空には澄み切った真っ青な空に、白い雲が浮かんでいます。その中で、美しい静御前が歌い、舞う。このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。
     静御前が舞い終えました。扇子を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭(こうべ)を垂れました。会場は静まり返っています。静御前が愛する人を思って舞ったのです。どれだけ澄んだ舞だったことでしょう。どれだけ美しい舞であったことでしょう。しかも舞台は敵の武将たちのど真ん中。そこで静御前は、女一人で戦いを挑んだのです。
     この静寂を破ったのは頼朝でした。
    「ここは鶴岡八幡である。その神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきである。
     にもかかわらず、謀叛人である義経を恋する歌を歌うとは不届き至極!」
    日頃冷静な頼朝が怒りをあらわにされました。このままでは静御前は、即時捕縛されて死罪となるかもしれない。会場に緊張が走ったとき、頼朝の妻の北条政子がいいました。
    「将軍様、私には彼女の気持ちがよくわかります。
     私も同じ立場であれば、静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
    「敵将の子を生かしておけば、のちに命取りとなるであろう。
     そのことは自分が一番よく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」
    この時、静御前は義経の子を身ごもっていました。妊娠六カ月です。北条政子が言いました。
    「では、生まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」
    同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。頼朝は、これには、「ならばそのようにせよ」と言いました。

     七月二十九日、静御前は出産しました。男の子でした。その日のうちに頼朝の命を受けた安達清常(あだちきよつね)が、静御前のもとにやって来ました。お腹を痛めた、愛する人の子です。静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに子の引き渡しを拒みました。数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きました。安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。初産を終えたばかりなのです。気力も体力も限界だったことでしょう。けれど御前が寝入ったすきに、静御前の母の磯禅尼が赤子を取り上げ、安達清常に渡してしまいました。子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて殺し、遺体もそのまま海に流してしまいました。

     と、義経記に描かれた物語はここまでです。けれど我が国の古典文学には、「いちばん重要なことは隠す」というなわらしがあります。お気づきいただけましたでしょうか。実は安達清常は赤子を殺していないのです。
     安達清常は武家の「近習の道」を開いた男として知られる人物です。「近習」とは、土地持ちの御家人ではありません。また単なる「配下」《部下のこと》でもありません。上役の考えを「察して、責任を持って、自己の判断で行動する」のが「近習」です。そしてそんな近習が、土地がなくても才覚と努力で御家人となる道を開いたの最初の人物が安達清常です。

     ただ赤子を殺すだけなら、小物を派遣すれば足りるのです。けれど頼朝が、近習のなかの近習、最も信頼できる安達清常を派遣したのは、「清常なら、この問題をきちんと処理してくれる」という期待があったからです。そしてそういう人材こそが、幕府の官吏としてふさわしいとされ、そうであればなおのこと、御家人たちは、さらにもっと深く察して行動できる力量が求められるようになっていったのです。ここが他所の国と日本の武士文化の異なる大事なところです。命令されたからと言って、何の感情もなく、ただ人を殺せるような痴れ者は、鎌倉武士のなかにはひとりもいない。そう断言できるだけの武家文化を、頼朝は構築したのです。だからこそ、江戸時代に至っても、男子が戦慄する武士の模範的姿は、常に鎌倉武士とされました。

     そうした背景をもとに考えてみてください。いかなる理由があれ、生まれたばかりの赤子を殺すのはおよそ武士として恥ずべきことです。だから由比ヶ浜に流して遺体が見つからないことにしたのです。安達清常は、赤子を家に連れ帰って乳母を雇って子を育てました。そして静御前が産褥期間を終えて鎌倉を去るとき、峠で静御前を待ちました。

     坂の下の方から、静御前と、その母の磯禅尼が歩いてきました。我が子が殺された、しかも信じる母によって、我が子が奪われ殺された。そう思い込んでいる静御前です。歩いてくる姿は暗く沈み、並んだ母との間に言葉のやりとりもありません。
     坂の上で馬を降りて待つ安達清常のわきを通り過ぎようとした静御前を、清常が呼び止めました。

    「静殿、こちらを通られると思い、お待ち申しておりました」
    けれど目も合わせようとしない静御前に、清常は「おい!これへ」と馬の後ろにいる女性に声をかけました。その女性が、赤ちゃんを抱いています。
    (私の子も、生きていればこれくらいになったろうか)
    意識の片隅で、なんとなく目線を向けた静御前に、清常が声をかけます。
    「ささ、抱いてやってください。ほら、わ子や、母君ですぞ。
     静殿、ささ若君ですぞ」
    静御前には、まだ事態が飲み込めません。けれど、母というのは不思議なものです。何十人も似たような赤ちゃんがいても、わが子を瞬時に見分けます。このときの静御前もそうでした。静御前は、母を見ました。母の磯禅尼は、にこやかに微笑み、静御前を見ながら、大きくうなづきました。
     胸に抱いた赤子の重み。
    「生きていた。和子だ。生きていた!」

    赤ちゃんを抱きながら、静御前の目から大粒の涙がこぼれ落ちました。そして静御前の頭のなかで、すべてがつながりました。母の磯禅尼は、清常を武士と信じて赤子を渡したのです。祖母にとって孫というのは、我が子以上にかわいいものです。孫が殺されるとわかって他人に手渡せるような祖母は、我が日本にはひとりもいない。見れば、笑顔で立っている髭面の安達清常も、こうしてみれば清々しい良い男です。

     その後の静御前の足取りは、母の磯禅尼、生まれた子も合わせて、歴史からまったく消えています。そして何故か不思議なことに、その後の静御前ゆかりの地なるものが、全国各地にあります。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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