• 歳末ご挨拶


    京都知恩院の除夜の鐘
    20201231 除夜の鐘
    画像出所=https://www.nippon.com/ja/japan-video/vi900009/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


    今年もお世話になりました。
    どうぞ良いお年をお迎えください。

    明年が皆様にとって、
    よりよい年になりますことをお祈り申し上げます。

    小名木善行 拝



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  • 1月9日新春イベント 伊勢雅臣先生&小名木善行「歴史のロマンと、この国の希望のかたち」のお知らせ(再掲)


    ○最新刊『金融経済の裏側』11月24日発売。
    ○最新刊庶民の日本史11月15日発売。
    1月9日八重洲ブックセンター伊勢雅臣先生&小名木善行トークイベント開催


    20211217 八重洲イベント



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    伊勢雅臣先生著の『この国の希望のかたち』『判定!高校「歴史総合」教科書』 のご出版と、小名木善行著『庶民の日本史』の刊行を記念して、新春1月9日(日)に、八重洲ブックセンターで、新春トークイベントを行います。
    入場無料です。
    会場の都合で、ご来場には、事前予約が必要です。

    参加には、八重洲ブックセンターへの予約が必要です。
    お申し込みは↓から行ってください。
    詳細も、↓のURLのページにあります。
    https://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/21741/

    1月は倭塾はありません。
    代わりに、東京駅八重洲口前の「八重洲ブックセンター」で、国際派日本人養成講座でおなじみの伊勢雅臣先生とのトークイベントを、入場無料で行います。

    テーマは、
    「歴史のロマンと、この国の希望のかたち」です。

    伊勢先生と私が、それぞれお話をしたあと、二名で対談を行います。
    の対談での動画収録および動画公開はありません。
    この場だけでしか聞けないお話となります。

    トーク終了後、会場で書籍販売、およびご希望の方には、著者サインも行います。

    八重洲ブックセンターは、東京駅の八重洲口を出てすぐのところにあります。
    地方からでも、お越しになりやすい場所にあります。

    ご都合の合う方は是非、お越しください。(要・事前予約)


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    《倭塾の日程》
    【開催を予定しておりました1月22日(土)の倭塾は、都合により2月に延期になりました】
    2022年2月23日(水・祝)13:00〜16:30 第89回倭塾 タワーホール船堀4F401号室
     https://www.facebook.com/events/579487736653084


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  • 「道」と「教え」と「つながり」がもたらす日本文化


    ○最新刊『金融経済の裏側』11月24日発売。
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    1月9日八重洲ブックセンター伊勢雅臣先生&小名木善行トークイベント開催(要・事前予約)


    人が正しく生きる道のことを、人道と言います。
    人道が大切であることは、万国共通の常識です。
    けれど人道は、教えではありません。
    教えを通じて得る結果が、人道です。
    これが「宗教」と、「神道」の大きな違いです。
    これは日本文化の大きな特徴です。

    1万5000年の歴史があると言われる熊本の弊立神宮
    20201126 弊立神宮
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E7%AB%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    日本にはもともと「宗教」という言葉がありません。
    この言葉が出来たのは幕末のことで、英語の「レリジョン(Religion)」の翻訳語として生まれたのが「宗教」という言葉です。
    では日本には神様はいなかったのかというと、そんなことはなくて、全国津々浦々に神社があります。

    宗教がないのに、神社がある。
    それならば神社は神社教という宗教なのかというと、これがまたそうではない。
    欧米人にはこのあたりが非常にわかりにくい。

    くわえて日本人や外国の日本研究者が、神社の御祭神のことを「God」と英訳すものだから、余計にわけのわからないものになっています。
    英語圏における「God」は、天地を創造した特定の1柱だけです。
    ですから、日本にはその「Godが八百万(eight million)もいるのだ」などといい出すと、向こうの人からは、「この人、頭がおかしいんじゃないか」と思われてしまうのです。

    その意味では、むしろ日本人にとっての神は、英語圏でいう祖先を意味する「アンセスター(Ancestor)」の方が意味合い的に近いかもしれません。
    それなら、たくさんいて、ぜんぜん不思議がありません。
    けれど誤解を避けたいのなら、むしろ日本語のまま、「Kami(カミ)」とした方が無難といえます。

    さらにやっかいなことが、神道が宗教(Religion)の一派とされてしまうことです。
    「Religion(宗教)」は、いま生きている自分が信仰するものであり、「Worship(礼拝)」の対象です。
    ところが日本の神道は、祖先から伝わった伝統(Tradition)であり、未来の子供たち(子孫たち)につなぐ伝統(Tradition)、つまり過去現在未来という時間の流れをつなぐものです。

    神社への参拝は、過去のご祖先への感謝であり、未来の子供たち、子孫たちの幸せへの祈りでもあります。
    もちろん神社で自分のしあわせ(ご利益)を祈ることもありますが、それはむしろ自分がご祖先からいただいた「ご先祖の祈り」への「感謝」であり、子孫の幸せのための「祈り」であるわけです。

    外国語への翻訳というのは、たいへんにむつかしいものです。
    語彙をあまり考えずに、単に教科書的な訳をすると、むしろ日本文化を貶めてしまうことがあります。
    その意味で、日本語の神は英語でも「Kami」、日本語の神道は英語でも「Sinto」、日本語の神社は英語でも「Jinjya」、日本語の神道は英語でも「Shinto」と訳すのが正しいように思います。

    一方、宗教という日本語は、もともと英語の「Religion」が幕末に翻訳された造語で、こちらはもともと「神と人とを結びつける教え」という語彙を持った単語です。
    幕末の造語であるということは、もともと日本語には宗教という単語がなかったわけで、単語がないということは、そうした概念そのものが日本に存在していなかったということです。

    では、江戸時代まで宗教は、なんと呼ばれていたのかというと、仏教であれば「宗門、宗派」等であり、神道であれば、「神道」であり、「かんながらの道」です。
    「宗」は、おおもとのこと、「道」はそのまま道のことですから、仏式ならおおもとへの帰結、神道なら神とつながる道と理解されていたことになります。
    つまり「教え」ではなく、人がより良く生きるための方向《道》を示しているだけで、その道を進むのか、帰結点に至るのかは、本人次第という考え方が根底となります。

    この、日本における宗教観が、与えられた「教え」ではなく、単に「道」を示したものであったという点は、たいへんに興味深いところです。

    なぜなら、
    「教え」であれば、その根幹に唯一絶対のものがあり、その絶対のものを教わることで、人は幸せになれるのだと考えるのに対し、「道」は、ただ方向を示すだけで、その道を進むのか、別な道を選択するのかは、本人次第だからです。

    最近よく、「こうすれば人生をひらくことができる」とか、「こうすれば幸せになれる」、「こうすればビジネスで成功できる」といったハウツー(how-to)ものが流行りです。
    こうしたハウツーは、方法や手順を教えるものですが、現実には、そのとおりに実践したからといって、必ずしも幸せになれたり、ビジネスで成功できたりするものではありません。
    このことは、「こうすれば成績が上がる」、「こうすれば受験で合格できる」といったハウツーは、なるほど合格のための近道を教えてくれるものではあるけれど、結局のところ、本人がモチベーションを維持してまじめにコツコツと勉強しなければ、決して成績があがることはないことを考えれば、明らかなことではないかと思います。

    つまり教えというのは、わかりやすくするためにすこし極端に例えれば、合格のためのハウツーです。
    けれど合格するかどうかは、受験の当日までの道を、まじめに一歩一歩積み重ねることができたかどうかによって決まります。

    日本人の宗教観が、ここにあります。
    日本人は、自分が人生という道を歩むにあたり、日々コツコツと仕事や育児、良好な人間関係等に励むとともに、それらをより良いものにしていくためのハウツーとして、読書もするし、勉強もするし、世界中のあらゆる教え(その中にはキリスト教も、回教も、ヒンズー教も、儒教も道教も、あるいは新興宗教さえも)得ようとします。

    仏教も、もともとは釈迦の教えですが、日本に来て、日本化したといわれています。
    それがどういうことかというと、仏教(ぶっきょう=仏の教え)が、仏道(ぶつどう=仏になる道)化したということです。
    人によっては、これを日本教と呼ぶ人もいますが、道と教えは異なりますので、やや紛らわしい表現だと思います。

    そしてこのことは、日本文化の大きな特徴でもあります。
    なぜならその文化の根幹が、「支配」にあるのか「自由」にあるのかの違いでもあるからです。

    国王が支配する、あるいはひとにぎりの大金持ちが支配する、あるいはディープステートなるものが人々を支配する。
    そうした支配の社会においては、人々が支配に従う「教え」が必要になります。
    なぜなら人々が自らの「道」を求めるようになったら、支配者の言うことなど聞かなくなるからです。

    日本は稲作の国です。
    米作りは、民間の仕事です。
    民間が、上から言われて仕方なくお米を作るのではなく、自分たちが食べるためにお米を作る。
    そしてそのお米を、みんなで二年分(つまり新米と古米)を備蓄することで(古古米から食べることによって)、万一の天然の大規模災害が各地で起きたとしても、互いにお米の融通をし合うことで、互いに災害から生き延びることができる。
    このお米の融通を調整するための公正な機能が朝廷です。
    日本人が、なんだかんだ言いながら、どこかで政府を信頼しているのは、こうした長い伝統があるからです。
    そして役人には、常に無私や公正が求められるのも、そのことが日本人の生存のために必要不可欠なことであったことによります。
    そして、役人が権力を行使するにあたり、天皇という国家最高権威によって、民衆を「おほみたから」としました。

    こうした一連の流れのなかに、我が国の国民の主体性が育まれています。

    ところがいつの世にも、そうした社会体制を悪用して、我が身の贅沢を図ろうとする者が現れます。
    これを許さない社会を築くための方法は、二つありあります。
    ひとつは、武力をもって悪を許さないこと。
    もうひとつは、民衆の中に、高いレベルの教育と、文化が育てることです。
    日本が選択したのは、後者です。

    人が正しく生きる道のことを、人道と言います。
    人道が大切であることは、万国共通の常識です。
    けれど人道は、教えではありません。
    教えを通じて得る結果が、人道です。
    これが「宗教」と、「神道」の大きな違いです。
    これが日本文化の大きな特徴です。

    日本で神道と仏教が融合できたことを不思議に思う人がおいでになります。
    全然、そうではないのです。
    日本人は、人として歩む道を得るため、さまざまな「教え」を得ようとしてきただけのことだからです。

    神道と仏教の融合のことを「神仏習合」と言います。
    それだけではありません。
    日本では、儒教もまた神道と融合しています。これを「神儒融合」と言います。

    お隣の国を視たらわかりますが、お隣の国にも儒教、仏教、道教などがありますが、それらは決して融合しません。
    なぜならそれらはすべて「教え」だからです。
    けれど、「教え」の前に「道」という概念がないのです。
    だから、すべての教えは、私利私欲のために用いられることになります。

    そういう意味で、「道」を根幹における日本人は幸せです。
    なぜなら、すべてを「つなげる」ことができるから。


    ※この記事は2020年12月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 昭和の赤穂浪士ー日本人の覚醒と行動をハバロフスク事件で考える


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    人を人として考えない。モノや使い捨ての道具のようにしか思わない。まるで鬼畜外道の振舞ですが、実はそれが世界の標準であるといえます。
    日本だけが違う。ご皇室をいただく日本では、ご皇室という国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」と規定されます。権力は、ご皇室のもとで、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるように責任を持つことが役目です。そういう国家のカタチは、世界の中で日本だけが持っていた、これこそが誇るべき日本のカタチだし、戦前戦中の日本人が必死で戦って護ろうとしたものです。

    20201227 シベリア
    画像出所=https://www.asahi.com/and_travel/20170712/6381/
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    日本人が目覚めるときというのはどういうときなのか。
    目覚めたとき、日本人はどのような態度をとるのか。
    このことについて、「ハバロフスク事件」を題材に考えてみたいと思います。
    「ハバロフスク事件」というのは、かつてシベリアに抑留されていた人が、日本人としての誇りに目覚め、立ち上がった事件です。

    シベリアに抑留された日本人は、十年間、ひたすら恭順の姿勢をとり続けていました。
    「民主化」と称する旧ソ連流の共産主義教育にも大人しく従っていました。
    その日本人が、ある日、立ち上がったのです。
    それは銃を手にした戦闘とは、まったく異なる実に日本的な戦いの姿でした。

    大東亜戦争終結後、ソ連は、旧関東軍の将兵をシベリアに抑留しました。
    ソ連兵の態度は、まったく威圧的で情け容赦なく、
    「我々は、百万の関東軍を
     一瞬にして壊滅させた。
     貴様等は、敗者で、囚人だ」
    と、何かにつけ怒鳴ったのだそうです。
    もう本当に「嘘を言うな!」とこちらが怒鳴りたくなりますが、ソ連兵は銃を持ち、こちらは丸腰だから、悔しいけれど抵抗できない。

    現実には、そもそも終戦時、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされていて、満州には戦えるだけの戦力がありませんでした。
    そういうところにいきなり日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦してきて、強奪と暴行の限りを尽くした卑(いや)しい見下げ果てた連中が、「自分たちは勝者である」と威圧的態度をとる。
    腹がたって仕方がないが、生きてさえいれば、いつの日か、必ず祖国に帰ることができる。
    生きて家族に会うことができる。
    その一点のためだけに、彼らは、腹の立つのをぐっとこらえて、耐え続けていたのです。

    しかし従順に職務をこなす日本人捕虜たちに対して、ソ連兵が行ったのは、徹底的な酷使です。
    日本人は黙って言うことを聞くから、もっともっと酷使しちまえ!というわけです。
    人を人として考えない。
    モノや使い捨ての道具のようにしか思わない。
    まるで鬼畜外道の振舞ですが、実はそれが世界の標準です。
    日本だけが違う。

    ご皇室をいただく日本では、ご皇室という国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」と規定されます。
    権力は、ご皇室のもとで、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるように責任を持つことが役目です。
    そういう国家のカタチは、世界の中で日本だけが持っていた、これこそが誇るべき日本のカタチだし、戦前戦中の日本人が必死で戦って護ろうとしたものです。

    シベリア抑留者たちは、10年間、耐え続けました。
    昭和30年6月のことです。
    ハバロフスクの捕虜収容所に、ミーシン少佐という監督官兼保安将校がいました。
    ミーシンは、日本人みんなから猛烈に嫌われていました。

    ある日ミーシン少佐は、零下30度の身を切るような寒さの中で日本人がやっと作業現場にたどり着いて雨にぬれた衣服を乾燥するために焚き火をしていたら、これを踏み消して作業を強制しました。
    濡れた衣服のままでは、体温を奪われ、死んでしまいます。
    あまりのことだと班長が抗議しました。
    するとミーシンは、その班長を怒鳴りつけ、銃を突きつけて営倉処分にしました。

    ひとりの青年が堪忍袋の緒を切りました。
    彼は手にした斧で、ミーシンを殴りつけました。
    ミーシンが倒れました。

    10年間おとなしいだけだった日本人が怒鳴り、怒り、手を出したのです。
    その場に居た銃を手にしたソ連兵は、銃を持たない素手の、しかもガリガリに痩せ細った日本人に恐怖を感じてみな逃げ出してしまいました。
    世の中というのは、そんなものです。

    一方、日本人の側は、
    「たいへんなことをしてしまった。みんなに迷惑がかかる」
    と、激情に駆られた青年は、すぐに気が付き、とっさに近くにあった起重機に登りました。
    そして起重機の先端に立った青年は、腰に巻いた白い布を手に取ると、指を噛みちぎって血で日の丸を描きました。
    彼は起重機の上で、その日の丸を風になびかせました。

    そして大きな声で空に向かって「海ゆかば」を歌いました。
     海行かば 水漬く屍(かばね)
     山行かば 草生(くさむ)す屍
     大君の 辺にこそ死なめ
     かえりみはせじ
    歌い終わると、彼は起重機の上からみんなを見渡し、そこから飛び降りようとしました。
    それまで、ただ黙って固まっていた仲間たちは、そのとき、はっと気がつきました。
    「やつを、死なちゃいけない!」
    10年間、悔しい思いをしながら、日本にみんなで揃って帰国することだけを夢見て一緒に耐えてきたのです。
    全員が同胞であり仲間たちです。
    彼らは起重機に駆けあがり、青年の投身を必死で止めました。
    こんこんと説得しました。
    そして青年に自殺を思いとどまらせたのです。

    青年はミーシン少佐を、斧の刃でなく峰の部分で打っていました。
    峰の部分で撃ったということは、あきらかに殺意がないということです。
    しかし彼は、公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂犯にされてしまう。
    そして既に科されていた戦犯としての25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科されました。
    そして別な監獄に送られました。
    その後、その青年がどうなったのかは、不明です。

    以上が実際にあった出来事です。
    山崎豊子さんの小説以上の鬼気迫る現実がそこにあります。

    大東亜戦争終戦の7日前、突然欲をかいて参戦したソ連は、いきなり満洲・樺太・アリューシャン列島にいた日本人に襲いかかりました。
    日本軍は、手元に残る少量の武器で抵抗しながら、敵の武器を奪って戦いました。
    それでも各地の日本兵は善戦し、120万のソ連の大軍を随所で蹴散らしています。
    本当に日本軍は強かった。

    しかし8月15日には終戦となります。
    軍は、本国の命令で動くものです。
    本国から戦闘修了の命令があれば、どんなに勝っている戦いでも、戦闘を止め、敵の武装解除に応じなければならない。
    それが軍隊です。

    だから武装解除しました。

    当時の満洲は、都市整備のためのインフラが各地で建設中でした。
    道路や線路、橋梁、建物を作る民間、あるいは軍隊の技術者や職人さんたちも大勢いました。
    発電所施設の建設を行う者、施設の管理や整備を行う者たちも、まるごと満洲に残っていた。
    そしてその家族もいました。

    ソ連は、そうした民間の技術者集団達を含めて、彼らをまるごとシベリアに連れ去って、ソ連邦各地の都市インフラの整備を、無報酬で彼らにやらせました。
    「君たちは戦争犯罪者であるにも関わらず、
     食わせてやっているのだから報酬なんてない。
     栄養が足りようが足りまいが、
     生かしてもらっているだけでもありがたく思え」
    というわけです。

    「ソビエト共産主義革命によって、
     人々は労働から解放された。
     ソビエトは5カ年計画によって
     国家の都市インフラを整備させ
     ソ連の民衆に幸せをもたらした」
    とさかんに宣伝されました。

    しかしこれは矛盾のある言葉です。
    民衆が労働から開放されたということは、民衆が働かないということです。
    働かないのに、どうしてソ連各地の都市インフラが、次々と誕生するのでしょうか。

    実際には、満洲各地に建設されていた建物や設備を、そっくりそのままモスクワ他、ソ連各地に移築することで、都市インフラが整備されたのです。
    そしてその労働力になったのが、シベリアの抑留者となった日本人たちでした。

    シベリア抑留というと、満洲北部あたりだけに抑留されたようなイメージがあるかと思いますが、当時、抑留された日本人達は、満洲にあった資材とともにソビエト各地へと送られ、そこで強制労働によって都市インフラの整備や建築に従事させられていたのです。

    働かなくてもみんなが平等に国から報酬を受け取ることができる社会主義理想国家などというものはありません。
    どこかで誰かが労働しなければ、みんなの生活は支えることができないのです。
    その労働する人を、国家最高のたからとしたのが日本なら、その労働する人を、奴隷として酷使してきたのが、世界の歴史です。

    もうひとついうと、共産主義国であるソ連は、すべてに「政治」が優先した国でした。
    いまでも、共産主義を掲げる国はそうです。
    これは実に徹底していて、なんと医療も政治が優先します。

    どういうことかというと、「政策」で入院患者は疾病患者全体の2%以内と決められれば、それを越える入院患者は、症状の如何に関わらず、いっさい入院は許されないし、仕事を休むことも認められないのです。
    そんなバカな、と思うかもしれないけれど、それが「政治優先」ということです。

    日本でも某政党が政権を取ったとたん、政治優先と称して事業仕訳などを行い、現実を無視した「政治」を行いました。
    その結果、以後に起こった天然災害では、すさまじい被害が続出することになりました。
    では、当時の政策について、彼ら自身から反省の言葉のひとつでもあるかといえば、何もありません。
    彼らの頭脳では、政治がすべてなのであって、現実は関係ないことだからです。

    ソ連のシベリアの捕虜収容所では、どのような労働を課せられるかは、軍医の体位検査によって決定していました。
    体位検査は1級から4級までで、4級以外は原則として収容所外の工場、学校等の建築作業に出ることとされていました。

    しかし戦後10年を経過して、かつては屈強だった若者も、ガリガリに痩せた病弱となり、作業できる人員が漸減してしまっていました。
    ところが4級認定者は何%以内と決まっているわけです。
    だから実質4級(インワリード=不具者という呼名)であっても3級に認定され、屋外の建築作業にかり出されていました。

    そもそも日本人の体位は、ソ連人とくらべて著しく劣っています。
    これでは作業割当に支障をきたすというので、日本人はソ連人より1階級ずつ格上げした体位検査が用いられていました。
    つまりソ連人の2級、3級該当者を、日本人なら1級、2級にしたわけです。
    そしてソ連人の労働者に適用する作業ノルマを、そのまま日本人に遂行させた。むちゃくちゃです。

    さらに旧日本軍では、重労働に要するカロリーを3800と規定していたのだけれど、ソ連収容所では、接取カロリーを2800と規程していました。
    カロリーを奪えば、体力が落ちて抵抗力を奪えるから、扱いやすくなるし、与える食事の総量も減らせるというわけです。
    それでどうなったかというと、実際には、日本人軍医4名の共同調査・算定の結果では、やっと2580しか与えてもらえなかったのです。

    だから日本人のシベリア抑留者たちは、裸になって並んだとき、前に立っている男の肛門が見えたそうです。
    尻の肉まで削げ落ち、みんなガリガリにやせ細っていたのです。

    ラーゲリのカロリ-


    それだけ酷い待遇、環境に置かれながら、日本人の働き振りは昭和30年の第一・四半期にロシヤ共和国第一位、第11四半期には全ソ連第一の成績です。
    まるで幽鬼のさながらに痩せさらばえていながら、それでも全ソ連第一の建築成果を挙げている。
    まさに日本人、恐るべしです。

    石田三郎著「無抵抗の抵抗」に以下のような描写があります。

    ****
    現場監督側および収容所当局の日本人に対する態度はどうであつたろうか。
    彼らの基本的な態度といえば、それは従順な日本人を徹底的に搾つて自分らの功績をあげること、日本人は最も憎むべき重大戦犯であるから死ぬまで酷使するということにあった。
    このため現場側と収容所側は申し合せて、将校一、下士官一の監視係を任命し、毎日終日私たちの作業を監視させた。

    勿論彼らは建築についてはズブの素人であり、仕事の段取その他について知るはずもなかつた。
    その彼らが事毎に私たちの作業に干渉して作業能率を低下させる許りでなく、現場側と結託して私たちの給金査定にまで容喙するし、時には作業未遂行、あるいは国家財産の故意の損耗を理由に懲罰作業をさえ強制する。

    また零下20度、30度のトラック上の寒風に吹きさらされて現場にたどり着く私たちに、仕事前の暖を取ることさえ禁じたり、雨にぬれた衣服を乾燥するため焚火している火を踏み消して作業に狩り出す。
    当然負傷などの災害が予想される危険な作業にまで追い出し、これを拒絶すれば直ちに営倉に入れる。

    そしてあらゆる言葉の二言目には、
    「貴様らは囚人だ。
     いうことを聞かなければ、
     また監獄に送るぞ。」
    と脅迫するなど目に余るものがあつた。

    ところがその反面、彼らは日本人の大工に私物の家財道具を造らせたり、自宅の薪用に板切れや棒切れを現場側に無断で搬出させたりさえもしたのである。
    また現場側で、ソ連側最高貴任者が監督を集めて訓示を与えるとき、
    「ここの日本人は戦犯だから死ぬまで酷使してもよい。」
    と放言したり、私たちにたいしても、彼らが民間人でありながら営倉に入れるぞと、おどしたりするのは何時ものことであった。

    何しろ収容所当局、現場当局に対する不満は数限りなくあった。
    要するにソ連側は、私たち日本人を奴隷としてしか取り扱つてはくれなかった。

    ****

    昭和30年11月26日、ソ連兵は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26名を、営外作業に適するとして無理に作業に出しました。
    シベリアの11月の末といえば、零下20~30度の酷寒です。
    病弱者たちの病状は悪化し、収容所にたどり着くや倒れる者が何人も出ました。

    ところが12月15日になると、ソ連の将校たちは、さらに他の病弱者65名に営外作業を命じました。
    ハバロフスク捕虜収容所では、みんなで必死に嘆願しました。
    「その分自分たちが働くから、
     病弱者に無理はさせないでもらいたい。」
    しかしソ連兵は耳を貸しません。

    病状は悪化し、血圧が170、180以上になる者が多くなり、中には、200を越す者も出る始末でした。
    寒風のなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は虚空をつかむ幽鬼のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張りました。

    囚人扱いですから、作業休を認められない限りいかなる状態でも休むことは許されません。
    休めばサボタージュとみなされます。
    「病弱者、営外作業に追い出し」といわれました。
    これは病弱者殺害が目的としか思えないものです。

    戦争は、昭和20年に終わっています。
    それからまる10年経っているのです。

    日本に帰えることだけど夢見て、みんなで頑張ってきた。
    ちからをあわせ、励まし合って、どんな無理難題にも耐えてきた。
    それなのに、ここまで支え合ってきた仲間の命さえも、ここで失わなければならないのか。
    誰も死んでほしくない。仲間を死なせるわけにいかない。
    みんな一緒に、日本に帰るんだ。

    「これ以上、もう我慢できない。」
    それまで、まる10年従順でおとなしかった日本人が、ついにソ連兵の横暴に立ち上がりました。

    「このままでは皆死んでしまうぞ」
    「そうだ。収容所側はこれからも、
     このような仕事の命令を繰り返すに違いない。
     そうすれば病弱の者はこの冬に殺される。
     そして現在健康な者もやられてしまう」
    「では、どうするんだ?!」

    収容所側にいくら懇願しても誠意のある対応は期待できません。
    このまま自滅を待つのか・・・。
    ひとりの班長が言いました。
    「自滅するよりは闘おう。
     座して死を待つのは日本人としての恥じだ」
    「そうだ。同感だ」
    「しかしどのように戦うのだ」
    「戦うなら、勝つ戦いをしなければならない。
     さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを
     目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」
    「先ず作業拒否だ」等々、いろいろな意見が交わされました。

    何よりも最大の目的は「全員が生きて日本に帰ること」です。
    こういう戦いのときというのは、よく、いつのまにか戦いそのものが目的となってしまって、味方に何人の犠牲者が出ようが関係ないような思考に陥る人がいます。
    ChinaやKoreaでは、むしろそれがあたりまえで、そもそも一部の人たちが「自分のために人を使って戦いをさせる」のです。
    ですから目的は、自分だけが助かることにあるのであって、そのために味方が何人犠牲になろうが、一切おかまいなしになります。
    助かりたい人が、自分のために周囲の人達を脅したり騙したりして戦わせるのです。
    そうなると、サブリーダーたちは、戦いそのものが目的になります。
    部下たちは、そのための駒でしかない。
    そのような具合ですから、少しでも不利になれば、全体が総崩れになります。
    彼らの弱さが、そこにあります。

    日本人の場合、どこまでも目的が「全員が生きて日本に帰ること」であれば、これが全員にとっての課題となります。
    そのためには、全員の合意の形成が何より大事になります。
    ですから一部の人が、強制的に人を使役して戦わせるのではないのですから、当然、合意の形成には時間がかかります。
    しかしひとたび合意が形成されれば、その目的達成のために、全員が全力をつくすことになります。
    だから日本人は強いのです。

    あからハバロフスクでも、その合意の形成のために、各班で話しあって、結果を踏まえて結論を出そうということになりました。
    そして12月19日から、各班の結論は、作業拒否で戦うということに決まりました。

    こうして全体の方針が決まりました。
    しかし作業拒否だけでは、ラチがあきません。
    代表を決め、固い決意のもとに全体が組織だって死を覚悟の交渉をするのです。
    班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎さんでした。

    要請を受けた石田三郎は、作業拒否を実行する班はどの班か聞きました。
    班長会議の面々は
    「浅原グループを除く全部だ」と答えました。

    浅原というのは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基(あさはらせいき)のことです。
    この浅原正基という人物は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員でありながら、シベリア抑留の際、イワン・コワレンコというソ連KGBの中佐と結託して、元上官などを次々に告発し、貶め、辱め、殺害に導いた男です。
    すすんでソ連兵に媚(こび)を売り、日本人の同胞を辱め、売り飛ばし、自らソビエト社会主義の先鋒を勤めることで、自分だけがいい思いをしようとした裏切り者です。
    だから浅原は、袴田陸奥男とともに抑留者から恐れられ、「シベリア天皇」(最高権力者という意味)と呼ばれていました。

    浅原は、仲間を売ることでソ連KGBから自分だけ援助を受け、特権階級者になろうとしたのです。
    けれどそれを10年続けてソ連が浅原に与えた身分は、単なる「抑留者」です。
    軽薄な裏切り者、仲間を売るような卑怯者を飼っても、しょせんは信用などできないことくらい、ソ連兵だってわかるのです。

    結局浅原は、ソ連兵にもKGBにも信用されず、仲間たちからも見放されてしまう。
    売国者の末路というものは、こういうものです。

    石田三郎さんは、作業拒否闘争の代表を引き受けました。
    しかしそれは死を覚悟しなければならない大変なことです。
    石田さんはみんなの前で言いました。
    「この闘いでは、
     犠牲者が出ることを
     覚悟しなければなりません。
     少なくとも代表たるものには
     責任を問われる覚悟がいります。
     私には親もない、妻もない。
     ただ祖国に対する
     熱い思いと
     丈夫な身体があります。
     私に代表をやれというなら、
     命をかけてやる決意です。
     皆さん、始める以上は、
     力を合わせて、
     最後まで闘い抜きましょう」

    それまでにも政治犯のソ連人や、ドイツ人その他による捕虜たちのストライキや暴動がありました。
    これに対するソ連の弾圧は、すさまじいものでした。
    同朋人であるソ連人が収容されている収容所でのストライキや暴動でさえも、戦車が出動し、多くの死者を出し、首謀者は必ず処刑されているのです。
    日本人の捕虜たちは、全員、ソ連のこの方針を知っています。

    それでも、仲間の死を座して見過ごすことができない。
    仲間を死なせるわけにいかない。

    こうしてハバロフスクの日本人捕虜769名の戦いが始まりました。
    この収容所の人々は、ほとんどが旧制中学卒業以上の知識人です。
    知的レベルが非常に高い。
    女性もいました。
    このような人々が心の底から結束して立ち上がった点に、ハバロフスク事件の特徴があります。

    日本人捕虜たちの要求事項は次の通りです。
    ~~~~~~~~~~~
    1 皆、健康を害しているので、帰国まで、本収容所を保養収容所として、全員を休養させること
    2 病人や高齢者を作業に出さないこと
    3 高齢者や婦女子を即時帰国させること
    4 留守家族との通信回数を増やすこと
    5 今回の事件で処罰者を出さぬこと
    ~~~~~~~~~~~

    そして、戦術としては、

    (1) 暴力は絶対に使わない
    (2) 収容所側を刺激させないため「闘争」という言葉は避け、組織の名称は「交渉代表部」とし、運動自体も「請願運動」と呼ぶことにする。

    石田さんは全員を前にして言いました。
    「私たちの最大の目的は、
     全員が健康で祖国の土を踏むことです。
     これからのあらゆる行動は、
     このことを決して忘れることなく、
     心を一つにして
     目的達成まで頑張りぬきましょう」

    長い間、奴隷のように扱われ、屈辱に耐えてきました。
    日本人としての誇りどころか、人間としての尊厳や自覚さえも失いかねない服従の日々でした。
    その日本人捕虜が、収容されて初めて、日本人としての誇りを感じ、人間として目覚めたのです。
    石田さんの声は、とても静かなものでした。
    けれどみんなの心に熱いものがこみあげました。

    石田さんは有効な作戦を立てるため、また重要な問題にぶつかったとき、アドバイスを受けるための顧問団を編成しました。
    顧問団には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいました。
    石田さんは、顧問団の名前はいっさい公表しませんでした。
    あくまで個人的に密かに接触しました。
    これらの人々に危険が及ばぬようにするためです。

    顧問団の中には、元関東軍参謀瀬島龍三さんもいました。
    瀬島さんは回顧録の中で次のように語っています。
    「平素から私と親しかった代表の石田君は
     決起後、夜半を見計らって
     頻繁に私の寝台を訪ねてきた。
     二人はよそから見えないように
     四つん這いになって意見を交換した。」

    瀬島さんは、石田さんに請願書の提出を助言しました。
    中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表などに、請願文書を送るのです。
    そしてその文書は、すべて外交文書としての要件・形式を整え、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願する。

    例えば、昭和31(1956)年2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、
    「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」
    と中央の政策を最大限誉め上げ、それにもかかわらず、当収容所は、
    「労働力強化の一方策として、
     計画的に病人狩り出しという挙に出た。
     収容所側の非人道的扱いに耐えられず
     生命の擁護のため止むを得ず、
     最後の手段として作業拒否に出た」
    だから
    「私達の請願を聞いて欲しい」
    と結んでいます。

    また同年1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、
    「モスコー政府の人道主義は、
     いま地方官憲の手によって
     我々に対して行なわれているようなものではないことを確信し」
    と表現しています。

    これらは、皆、瀬島龍三さんのアドバイスによるものでした。
    作戦として
    「中央を持ち上げて地方をたたく。
     あくまでも外交上の筋道をキチンと通す。」

    おそらく収容所側は、作業拒否に対して
    「これは暴動であり、ソ連邦に対する反逆である。
     直ちに作業に出ろ」と執拗に迫ることでしょうし、中央にもそのように報告することでしょう。
    そして減食罰などを適用しながら、一方で、
    「直ちに作業に出れば、許してやる」
    とゆさぶりをかけてくるに違いありません。
    これに対抗するためには、とにもかくにもルールをきちんと守り、筋を通しきっていかなければならない。

    またソ連軍が、事件の首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることも考えられます。
    だから石田さんには、各班から護衛をつけて、夜毎に違った寝台を転々とすることなども取り決められました。

    いよいよ12月19日、作業拒否による抵抗運動が開始されました。
    石田さんは、正々堂々、分所長スリフキン中尉に面会を求めました。
    そしてスリフキンの前で敬礼をし、直立不動の姿勢をとり、姓名を名乗り、営外作業日本人の代表たる旨を報告したうえで、
    「我々は12月19日、
     本日作場出場拒否の方法をもって
     請願運動に入ります。
     この解決について、
     当ハバロフスク最高責任者と
     会見交渉したい」
    と申し入れました。

    分所長スリフキン中尉は
    「今からでも遅くないから作業に出よ。
     問題はその後に相談しよう」
    と作業を督促しました。
    要するに「お前たちの言うことなど聞く耳持たない」というわけです。
    しかし石田さんは断固として
    「最高責任者にこの旨至急報告されたい」
    と言い残しました。

    その日の午前10時、石田さんは、政治部将校マーカロフ少佐の呼び出されました。
    石田さんが団本部に入ってみると、マーカロフ少佐に、吉田団長、鶴賀文化部長がいました。

    事態がここまできた以上、別に、団長、文化部長に室外へ出て貰う必要はありません。
    かえって二人がいてくれた方が話しやすいとばかり、石田さんは、鶴賀に通訳を頼みました。

    マーカロフ少佐は、元来日本人を人間扱いしない総元締です。
    傲岸不遜、人を見下すことを得意とする男です。
    この時も居丈高に、
    「囚人の作業拒否は違法だ。
     如何なる理由があろうとも、
     囚人が作業に出ないとはけしからん。
     不服従として
     厳罰に処する」
    と喰ってかかってきました。

    石田さんは静かに答えました。
    「日ソ間の国交回復が議せられている現在、
     またヴォロシーロフ議長が、
     日本議員団訪ソの際に言明したように、
     日本人は当然、遠からず
     帰国を約束せられている集団
     であると信じています。
     この最も光明ある時期に、
     何故かかることを断行しなければならなかったかは、
     貴官も先刻御承知のはずです。
     特に貴官の病人狩り出しは
     甚だしい非人道行為です。
     このような事態が続くとすれば、
     私たちの健康状態は・・・」

    マーカロフ少佐は、日本人をバカにしていて話を受けつけません。
    石田さんの話の腰を折って、
    「よろしい。
     即刻作業に出ないとあれば
     昼食を支給することはできない」
    と会見を打ち切りました。

    石田さんは団本部から戻りました。
    すると数十名の若者が、営庭の片隅で盛んに大工仕事をしていました。
    何事かと近よってみると、
    「ソ連兵が弾圧のため
     営内に進入してくるに違いないから、
     バリケードを作っているんだ」という。

    石田さんは驚きました。
    「そうか。私はウカツだつた。
     みんな同胞の生命を守るため
     本当に死を覚悟しているんだ。
     だからいま決死の抵抗を準備している。
     そうだ。
     この決意こそが必要なのだ。
     しかし、こういう手段は
     とってはいけない。
     私たちは正義と人道の上に立っている。
     これで充分なのだ。
     暴力を用いてはいけない。
     暴力を用いれば、
     敵に攻撃の口実を与えてしまう。
     ソ連各地のロシヤ人囚人の暴動と
     同一であってはならない。
     あくまで沈着冷静な、
     無抵抗の抵抗でなければならない。」

    石田さんは、若者たちにこのことを説きました。
    若者達は、納得してバリケードを撤去してくれました。

    その日の正午前、石田さんが班長たちにマーカロフ少佐との会見の模様を報告していると、炊事係がやってきました。
    「いま政治部将校から許可あるまで、
     全員に昼食を支給することまかりならぬ、
     と命令がありました」

    ソ連側の圧力のはじまりです。
    そしてこの圧力は、最終的に3月11日、ソ連邦内務次官中将が、自ら指揮する兵力2500名と消防自動車8両とを用いて行った大武力弾圧にまで発展しました。

    作業拒否闘争が始まって間もなくのことです。
    35歳以下の若者130名が、自発的に青年防衛隊なるものを結成しました。
    そして石田さんのもとに、結成式をやるから出てくれと言ってきました。

    石田さんが表に出ると、凍土の上に、シベリアの雪が静かに降る中で、若者たちが整列していました。
    そして青年たちの代表が凛(りん)とした声で、宣誓文を読みあげました。
    整列した若者たちの瞳は澄み、顔にかかる雪にも気付かないかのようです。
    敗戦によって心の支えを失い、ただ屈辱に耐えてきたこれまでの姿が一変し、何者も恐れぬ気迫があたりを制していました。
    彼らの胸にあるのは、自らの意思で、人としての尊厳を取り戻すために、友のために、同胞のために、正義の戦いに参加しているのだという誇りです。
    「私たち青年130名は、
     日本民族の誇りに基づいて
     代表を中心に一致団結し、
     闘争の最前線で
     活躍することを誓う!」

    代表が読み上げた檄文は、
     我々は石田代表と生死を共にする、
     我々は老人を敬い病人を扶ける、
     我々はすべての困難の陣頭に立つ、
     我々は日本民族の青年たるに恥じない修養に努力する、
    と続きました。

    石田さん答辞として次のように答えました。
    「運動の目的は、
     あくまでひとり残らず
     日本に帰国することです。
     そのために暴力は
     絶対にいけません。
     諸君の任務は、
     暴力に訴えることが生じないように
     監督してくれることです。
     そして私を拉致するために
     血を見るような事態に至ったときは、
     私ひとりで出て行きます。」

    すると一人の青年が、石田さんの言葉をさえぎりました。
    「代表が奪われるよりは、
     私達青年は
     銃弾の前に屍をさらす覚悟です」

    このとき、集った130名の青年たちの目には、必死の覚悟が浮かんでいます。
    石田さんの耳には、彼らのすすり泣く声さえも聞こえました。
    石田さんも泣けてきました。
    これまで、如何なる拷問にも耐え、如何なる困難を前にしても泣いたことのない石田さんは、このとき青年たちの手を握って泣きました。

    みんながこのように、純粋な気持で涙を流すことは祖国を離れて以来初めてのことです。
    外の力で動くのではなく、内なる力に衝き動かされ、その結果、人間として一番大切な生命をかける。
    こうして決死の覚悟を抱いた青年たちがどれだけ強いか。
    そのことはソ連兵がいちばんよく知っています。

    予想に反して長引いたハバロフスクの闘争事件で、ソ連側が軽々しく武力弾圧に踏み切ることを控えさせるために、その後、決死の青年隊の存在は大きな意味を持つことになったのです。

    石田さんたちは、ソ連に連行されてから11回目の正月を、闘争の中で迎えました。
    まだ打開策は見つかっていません。
    闘争の行方には不安だらけです。
    しかし彼らの心には、それまでの正月にはない活気があふれていました。
    体はやせ細っていたけれど、収容所の日本人たちの表情は明るかった。

    日本の正月の姿を少しでも実現しようとして、人々は、前日から建物の周りの雪をどけ、施設の中を、特別に清掃しました。
    器用な人が門松やお飾りやしめ縄まで、代用の材料を見つけてきて工夫してつくってくれました。
    各部屋には、紙に描かれた日の丸も貼られました。
    懐かしい日の丸は、人々の心をうきうきさせた。

    そんなお正月の準備作業に取り組む日本人の後ろ姿は、どこか、日本の家庭で家族のためにサービスするお父さんを思わせるものがあったそうです。
    そしてこれこそが、自らの心に従って行動する人間の自然の姿です。

    石田さんは『無抵抗の抵抗』の中で次のように語っています。
    「ソ連に連行されてから、
     この正月ほど心から喜び、
     日本人としての正月を祝ったことはなかった。
     それは本来の日本人になり得たという、
     また民族の魂を回復し得たという
     喜びであった。」

    元旦の早朝、日本人は建物の外に出て整列しました。
    白樺の林は雪で被われ、林のかなたから昇り始めた太陽が、樹間を通して幾筋もの陽光を投げていました。
    そして全員で、日本のある東南に向かって暫く頭を下げると、やがて誰ともなく歌を歌った。

     君が代は
     千代に八千代に
     さざれ石の
     巌となりて
     苔のむすまで

    長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてのことでした。
    歌いながら、日本国民としての誇らしい気持ちと、家族、故郷への思いがよぎりました。
    歌いながら、涙が止まらなくなりました。

    「民主運動」と呼ばれる共産主義の圧政のもとでは、君が代も日の丸も反動のシンボルとして扱われました。
    「民主運動」の中での祖国は、日本ではなくソ連なのです。
    共産主義の元祖ソ同盟こそが理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。だからソ同盟こそ祖国なのだ、というのがソ連の考え方です。
    その思考は、いまの中共にそっくりそのまま受け継がれていますし、日本の左翼運動もその中にあります。

    収容所の日本人達は「民主教育」の理解が進んだことを認められて少しでも早く帰国したいばかりに、それに表面上同調を装ってきました。
    そのような表面だけ赤化したことを、当時は、密かに赤大根と呼びました。

    これを卑屈として後ろめたく思った人もいました。
    自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんだ人もいました。
    けれど、今回の作業拒否闘争で、みんなの心に日本人としての自覚と誇りが蘇ったのです。

    この湧き上がる新たな力によって、共産主義「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出されました。
    彼らは恐怖の存在でさえなくなりました。
    そして影響力を失いました。

    いじめや中傷をの被害を受けている方は、日々書き立てられることに大変なショックを受けることになります。
    それで悩んでしまうことも多いものです。
    しかし、上と同様、自分の中に彼らのいじめや中傷を乗り越える力が湧くと、彼らのいじめも中傷も、まったく気にならなくなります。
    恐怖も辛さも、自分の心が作り出すものだからです。
    自分の中の心が変わったところで、他人の心も行動も変わるはずなどないと思われるかもしれませんが、本当に自分の心が変わると、他人の心も変わってしまうのです。
    世の中は本当に不思議なものです。

    さて、浅原正基を中心とする「民主運動」のグループは、作業拒否闘争に加わらず、同じ収容所の中の一画で生活していました。
    闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、闘争を行う青年たちと、浅原一派の関係は、次第に険悪なものになっていきました。

    彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、みんなを苛立たせ、怒りをつのらせていきます。
    いまもあるどこかの国のネット工作員みたいなものです。
    浅原一味に対する緊迫感は、いつ爆発するかも知れない状態となりました。

    ソ連兵に拉致されるや否や、祖国への誇りを失い、そくさくと「理想的」社会主義者に転向しただけでなく、かつて世話になった上官や、互いに助け合い、支えあった仲間を平気で売り、売られた多くの上官たちや仲間は、ソ連兵によって無残な殺され方をしている。
    その姿を全員がみて、知っているのです。
    それだけでなく、こうしてみんなでまとまって抵抗運動をしている最中に、コソコソと仲間の様子をソ連兵に告げ口をする。

    血気の青年防衛隊は、このままでは闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫りました。
    石田さんは、断固として拒否しました。
    「いかなることがあっても、
     浅原グループに手を加えてはならない。
     それはソ連側に実力行使の口実を与え、
     我々の首をしめる結果になる」
    そしてついに収容所側が、浅原グループを分離する方針をとるに至りました。

    2月3日、第16収容所所長が交代しました。
    マルチェンコ大佐の後任に着任したナジョージン少佐は、着任当初は、いかにも温和な態度で、彼の表現を借りれば「日本人の立場に入り込んで事の解決に努力する」と言明していました。
    しかし事件の原因の説明、私たちの要求の説明という段になると、用事があるといって引っ込んでしまって出て来ない。

    そして何かというと
    「私は新たな立場で着任した。
     従って以前のことについては
     何も知らない。
     君らの要求に対する回答は、
     今度できた新指導部の命令がくるまで
     どうにも動けない」
    と言い逃れていました。
    しかも、
    「作業については当分言及しないことにする」
    と言明したかと思うと、3日もすると、
    「作業だ。作業に出れば万事解決する」
    と作業強要の態度に豹変する。

    1月31日に異動してきた病院長のミリニチェンコ中佐はまだマシで、従来のソ側の非をさとり、石田らの病院関係にたいする改善要求を素直に聞きいれ、彼のできる範囲内で、真剣に改善に骨折ってくれました。
    日本人軍医を信頼して、その起用を計画もしてくれました。
    病人食の支給にも大いに努めてくれました。
    注射、投薬等も多量に施してくれました。
    入院を宜告されていたが、まだ入院できないでいる約30名のために、新たな病窒拡張を計画してくれました。
    病院炊事を拡大し、医務室日本人勤務員の過労を見てとり、勤務員の増加の計画もたててくれました。
    病院勤務員の手当の増額についても努力してくれました。
    そしてソ連人病院勤務者の態度が一変して親切になりました。

    しかし、「計画」だけでした。
    「計画」されたものは、まるで実施されませんでした。
    一部実施されたものも2週間たらずのうちに、また、もと通りに戻ってしまいました。
    ミリニチェンコ中佐の上役である、ハバロフスク地方官憲当局者が、彼の申請をことごとく却下したからです。

    ミリニチェンコ中佐がソ連側の非をさとり、どんなに改善に真剣に取り組もうとしても、彼の上司の見解、決定が変更されない限り、彼一人がいくら躍起となっても、所詮、無駄骨折りになるのです。
    それが政治主導の正体です。

    ハバロフスクには、中国人、朝鮮人、蒙古人がかなりの数、収容されていました。
    彼らの代表が、ある時、闘う日本人を訪ねて共闘を申し込んできました。
    「私たちはこれまで、
     日本人は何と生気地がないのかと
     思っていました。
     日本に帰りたいばかりに、
     何でもソ連の言いなりになっている。
     それだけでなく
     ソ連に媚(こ)びたり、
     へつらったりしている。
     情けないことだと思いました。
     これがかつて、
     私たちの上に立って支配していた民族か、
     これが日本人の本性かと、
     実は軽蔑していました。
     ところがこの度の一糸乱れぬ
     見事な闘いぶりを見て、
     私達が誤っていたことに気が付きました。
     これが日本人だと思いました。
     私達も出来るだけの応援をしたい」

    石田さんは、この言葉に感激しました。
    そしてこれまでの自分たちが軽蔑されるのは当然だとも思いました。
    ソ同盟万歳を叫び、赤旗を振って労働歌を歌い、スターリン元師に対して感謝状を書くといった、同胞のこれまでの姿を、石田さんは改めて思い返しました。

    いくつもの抑留者の手記で述べられていることなのですが、戦いに敗れて、同じように強制労働に服していたドイツ人は、収容所側の不当な扱いに、毅然とした態度をとりました。
    ある手記によれば、メーデーの日に、日本人が赤旗を先頭に立てて祝賀行進していると、一人のドイツ人捕虜の若者が、その赤旗を奪いとって地上に投げ、
    「日本の国旗は赤旗なのか」と怒鳴ったそうです。
    このドイツ人の若者は、同じようにソ連から理不尽な扱いを受けている仲間として、日本人が共通の敵であるソ連に尾を振る姿が許せなかったのです。

    しかし、自分の身よりも他人を気遣う日本人には、ドイツ人達のような行動がとれない。
    自分が一線を飛び越えることで、他の日本人の仲間、他の虜囚たちに迷惑をかけることを、どうしても気遣う。
    自分が暴走するのは簡単です。
    しかしそのことで、仲間たちみんなに迷惑がかかったら、取り返しがつかないのです。

    なぜなら、ひとりひとりに、みんな祖国の家族が待っているのです。
    だから、耐えたし我慢したのです。
    自分がつらいときは、他人もつらい。
    だから我慢する。
    そうしてみんなが一緒に日本に帰る。
    だから10年間、言いなりになってきたのです。

    でも日本人には、内なる力があります。
    その内なる力に火がついたとき、日本人は変わります。
    ひとりひとりが自らの意思で闘い、命を賭けて戦うのです。

    昭和31年2月が終わろうとする頃、石田さんたちの作業拒否闘争は膠着状態となっていました。
    作業拒否を宣言してから2ヶ月、中央政府に対する請願文書の送付も、現地収容所に握りつぶされているのか、まるで中央政府から返答がありません。

    日本人たちの団結は固く、志気も高い。
    しかし何とかこの状態を打開しなければという危機感が高まります。
    石田さんたちは、知恵を絞りました。

    人材には事欠かきません。
    元満州国や元関東軍の中枢にいた要人もいるのです。
    かつて陛下の軍隊として戦った力を、今は新たな目標に向け、新たな大義のために役立てているのです。
    収容所側を追い詰め、中央政府に助けを求めざるを得ない状態を作り出す手段はないか。
    そして、ひとつの結論を導き出しました。
    それが「断食をする」というものでした。

    収容所の日本人全体が断食して倒れ、最悪死に至ることになれば、収容所は中央政府から責任を問われます。
    収容所は、そういう事態を最も恐れるだろう。
    それで現状のこう着状態を打開できるかもしれないと考えたのです。
    こうして全員一致で断食闘争が決まりました。
    密かに計画が練られ準備が進められました。

    健康で生きて祖国に帰ることがこの闘争の目的です。
    断食をいつまでも続け、自滅してしまったのでは元も子もありません。
    ただでさえ、みんなの体力も落ちているのです。

    そこでみんなが少しずつ蓄えていた日頃配られた食料の一部や、小麦粉から密かに作った乾パンなどを、貯蔵し、秘かに断食闘争に使おうということになりました。
    完全な断食によって、体力を消耗し尽くし、倒れてしまったら元も子もないからです。
    そして断食闘争に入った場合、相手が変化して中央政府が何らかの行動が入るまでに、およそ一週間と見通しをつけました。

    闘争代表部は、断食宣言書を作り、収容所のナジョージン少佐に渡しました。
    「作業拒否以来70日が経過しました。
     この間何等誠意ある対応はみられません。
     ソ連邦政府の人道主義と平和政策を
     踏みにじろうとする地方官憲の卑劣な行為に対して
     我々は強い憤激の念を禁じ得ません。
     そこで自己の生命を賭して、
     即ち絶食によって
     中央からの全権派遣を請願する以外に
     策なきに至りました。
     3月2日以降、我々は断固として
     集団絶食に入ることを宣言します」

    そして断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506名が断食に入りました。
    このような多数が一致して断食行動に出ることは、収容所の歴史にも例のないことで、収容所当局は、狼狽(ろうばい)しました。
    彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかせました。

    しかし日本人の意志は固い。
    ある者は静かに目を閉じて座し、ある者はじっと身体を横たえて動かない。
    それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、不気味な静寂は侵し(おか)難い力となりました。

    収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを一日二回、一回に二枚をお湯に浸してのどを通します。
    空腹に耐えることは辛いことです。
    しかし零下30度を越す酷寒の中の作業に長いこと耐え、様々な辛苦を耐えてきたことを思いました。
    そうすることでみんな堪えました。

    一点、これまでの苦労との違いがあります。
    これまではソ連の強制に屈して奴隷のように耐える苦労でした。
    しかし今度の苦労は、胸を張って仲間と心を一つにして、正義の戦いに参加しているのだという誇りがあることでした。

    一週間が過ぎたころ、収容所に異質な空気が漂ってきました。
    そして3月11日午前5時、気温零下35度の冷気の静寂をただならぬ物音が打ち破りました。

    「敵襲!起床!」
    不寝番が絶叫しました。
    「ウラー、ウラー」
    威嚇の声がしました。
    すさまじい物音で扉が壊されました。
    ソ連兵がどっとなだれ込んできました。

    「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令である。
     日本人は戸外に出て整列せよ!」
    入り口に立った大男がロシア語で叫びました。
    並んで立つ通訳がそれを日本語で繰り返しました。

    日本人は動きません。
    ソ連兵は、手に白樺の棍棒を持って、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えていました。
    大男が手を上げてなにやら叫びました。
    ソ連兵が日本人に襲いかかりました。

    ベッドにしがみつく日本人。
    腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵。
    飛びかう日本人とロシア人の怒号。
    収容所の中は一瞬にして修羅場と化しました。

    「手を出すな、抵抗するな」
    誰かが日本語で叫ぶ声がしました。
    この言葉が収容所の中でこだまし合うように、あちらでもこちらでも響きました。
    長い間、あらゆる戦術を工夫してきたなかで、合言葉のように繰り返されたことが「暴力による抵抗をしない」ということでした。
    棍棒を持ったソ連兵の、扉を壊してなだれこむ行為は、支配者がむき出しの暴力を突きつけた姿です。
    その暴力に暴力で対抗しら、もっと容赦ない暴力が引き出されることは明らかです。

    だから咄嗟の事態でも、
    「我慢しろ、手を出すな、全てが無駄になるぞ」
    という声が日本人の間にこだましたのです。

    引きずり出されてゆく年輩の日本人の悲痛な声が、ソ連兵の怒鳴る声の中に消えて行きました。
    柱やベッドにしがみつく日本人をひきはがすように抱きかかえ、追い立て、ソ連兵は、全ての日本人を建物の外に連れ出した。

    収容所の営庭で勝者と敗者が対峙しました。
    敗れた日本人の、落胆し肩を落とした姿を見下ろすソ連兵指揮官の目には、それ見たことかという冷笑が浮かんでいました。
    ソ連がこのような直接行動に出ることは、作業拒否を始めたころからずっと警戒し続けていたことです。
    そして断食宣言後もずっと、中央政府の代表が交渉のために現われることを期待していました。
    それが予想外の展開になったのです。

    「もはや命がないのか。。。」
    誰もがそう思いました。

    「首謀者は前に出よ!」
    石田三郎さんは、ポチコフ中将の前に進み出ました。
    ボチコフは、中央政府から派遣された将官でした。
    威厳を示して椅子座っています。

    石田さんは敬礼をして直立不動の姿勢をとりました。
    そして将官の目を見詰めました。
    沈黙が流れました。
    一面の緊張が漂いました。

    「こいつがソ連の中央政府の代表か」と、石田さんの心には、走馬灯のように、かつて満洲になだれ込んだときのソ連軍の暴虐や、混乱、逃げまどう民間人の姿、長い刑務所での労苦、収容所の様々な出来事などがよみがえりました。
    悔しさ、悲しさ、怒り・・・
    こみあげる感情の中で、石田さんは、気が付きました。
    ポチコフ中将の態度が、これまでのソ連軍とは何か違うのです。

    石田さんは、この時ひとつのことに気が付きました。
    さっきソ連兵が収容所に踏み込んできたとき、彼らは白樺の棍棒を手にしていました。
    銃を使っていませんでした。

    石田さんは、気づきました。
    そして胸を張って発言しました。
    「私たちがなぜ作業拒否に出たか、
     そして私たちの要求すること。
     それは中央政府に出した
     数多くの請願書に書いた通りです。
     改めて申し上げますと・・・」

    ポチコフ中将がその言葉をさえぎりました。
    「それらは読んで承知している。
     あらためて説明しなくもよい。
     いずれも外交文書としての
     内容を備えている」

    「しかし」とポチコフ中将は、鋭い目で石田さんを見据えました。
    「お前たち日本人は、
     ロシア人は入るべからずという
     標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。
     これはソ連の領土に
     日本の租界をつくったことで許せないことである」

    これは石田さんが拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指しています。
    石田さんにとっては、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことです。
    驚くことではありません。

    石田さんが黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声で聞いてきました。
    「日本人側にけが人はなかったか」
    「ありませんでした」
    石田さんは続けました。
    「お願いがあります。
     私たちの考えと要求事項は、
     この日のために書面で準備しておきました。
     是非ご調査いただき、
     私たちの要求を聞き入れて頂きたい。
     そのために日本人は、
     死を覚悟で頑張ってきました。
     私の命はどうなっても良いです。
     けれど他の日本人は処罰しないで頂きたい」

    「検討し、追って結論を出す。」
    会見は終わりました。
    このあと、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられました。
    病人の治療体制も改善され、中央の病院は拡大され、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行なうことが実現されました。
    第一分所を保養収容所として経営し、各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められるようになりました。
    その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善されました。

    けれど石田さん中心とした闘争の指導者たちは、禁固一年の刑に処せられ、別の刑務所に移送されました。

    この事件について、瀬島龍三さんは、回顧録で次のように述べています。

    「この闘争が成功したのは
     国際情勢の好転にも恵まれたからであり、
     仮にこの闘争が四、五年前に起きていたなら
     惨たんたる結果に終わったかもしれない。」

    このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生した事件です。
    ソ連による武力弾圧は翌年の3月11日です。

    その年の12月26日、興安丸が舞鶴港に入港しました。
    そしてこの船で、最後の日本人シベリア抑留者1025人が、日本に帰国したのです。
    ハバロフスク事件の責任者石田三郎さんの姿もその中にありました。
    一足先に帰国していた瀬島龍三さんは、平桟橋の上で、石田三郎さんと抱き合って、再会を喜びあったそうです。

    この事件について、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長アレクセイ・キリチェンコは、その著書「シベリアのサムライたち」の中で、以下のように語っています。

    「第二次世界大戦後、
     64万人に上る日本軍捕虜が
     スターリンによって
     旧ソ連領内へ不法護送され、
     共産主義建設現場で
     奴隷のように使役されたシベリア抑留問題は、
     近年ロシアでも広く知られるようになった。

     しかしロシア人は当局によって
     長くひた隠しにされた抑留問題の
     実態が明るみに出されても、
     誰一人驚きはしなかった。

     旧ソ連国民自体がスターリンによって
     あまりに多くの辛酸をなめ犠牲を払ったため、
     シベリアのラーゲリで
     6万2千人の日本人捕虜が死亡したと
     聞かされても別に驚くほどの事はなかったからだ。

     とはいえ、ロシア人が
     人間的価値観を失ったわけでは決してなく、
     民族の名誉にかけても
     日本人抑留者に対する
     歴史的公正を回復したいと考えている。

     今回ここで紹介するのは、
     私が同総局などの古文書保管所で資料を調査中、
     偶然に発見したラーゲリでの
     日本人抑留者の抵抗の記録である。

    (中略)

     敵の捕虜として
     スターリン時代のラーゲリという
     地獄の生活環境に置かれながら、
     自らの理想と信念を捨てず、
     あくまで自己と祖国日本に
     忠実であり続けた人々がいた。

     彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、
     不当なスターリン体制に抵抗を試み、
     収容所当局を困惑させた。

     様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、
     ほぼすべてのラーゲリで起きており、
     1945年秋の抑留開始から
     最後の抑留者が帰還する1956年まで続いた。

    (日本人による抵抗運動のことを)
     ソ連の公文書の形で公表するのは
     今回が初めてとなる。

     半世紀近くを経て
     セピア色に変色した古文書を読みながら、
     捕虜の身でスターリン体制に
     捨て身の抵抗を挑んだ
     サムライたちのドラマは、
     日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた。

    (中略)

     これは総じて
     黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が
     一斉に決起した点で
     ソ連当局にも大きな衝撃を与えた。

     更にこの統一行動は十分組織化され、
     秘密裏に準備され、
     密告による情報漏れもなかった。

     当初ハバロフスク地方当局は
     威嚇や切り崩しによって
     地方レベルでの解決を図ったが、
     日本人側は断食闘争に入るなど拡大。

     事件はフルシチョフの下にも報告され、
     アリストフ党書記を団長とする
     政府対策委が組織された。

     交渉が難航する中、
     ストライキは三ヶ月続いたが、
     結局内務省軍2500人が
     ラーゲリ内に強行突入し、
     首謀者46人を逮捕、
     籠城は解除された。

     しかし兵士は突入の際
     銃を持たず、
     日本人の負傷者もほとんどなかった。

     スト解除後の交渉では、
     帰国問題を除いて
     日本人側の要望はほぼ満たされ、
     その後労働条件やソ連官憲の態度も
     大幅に改善された。

     1956年末までには
     全員の帰国が実現し、
     ソ連側は驚くほどの寛大さで対処したのである。

    (中略)

     極寒、酷使、飢えという
     極限のシベリア収容所で
     ソ連当局の措置に抵抗を試みた人々の存在は
     今日では冷静に評価でき、
     日本研究者である私に
     民族としての日本人の特性を
     垣間見せてくれた。

     日本人捕虜の中には、
     浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
     天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
     食料ほしさに仲間を密告する者、
     ソ連当局の手先になって
     特権生活を営む者なども多く、
     この点も日本研究者である私にとって、
     日本人の別の側面を垣間見せてくれた。」

    事件の総括は、上に示すアレクセイ・キリチェンコ教授のまとめの通りと思います。

    日本人の中には、
     浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
     天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
     食料ほしさに仲間を密告する者、
     ソ連当局の手先になって特権生活を営む者など
    もいた。
    いまの日本でも同じです。

    日本人の中には、日本の歴史・伝統・文化を学ぶこともせず、安易にGHQの日本解体工作を信じ、天皇を否定し、国旗や国歌を否定し、カネ目当てに他国に媚を売るような恥ずべき人もいます。

    しかし、それでもなお多くの日本人は、いまでも天皇を愛し、自分より子や配偶者、部下たちの幸福を第一に考え、誰かのために、何かのために貢献できる生き方をしようと模索しています。

    戦前の通州事件や、尼港事件の際、殺された多くの日本人たちは、「日本人は逃げろ~!」と叫んだといいます。
    戦後の阪神大震災のときも、多くの日本人は、自分より先に、家族を助けてくれと救助隊に懇願して果てました。
    そしていまなお、多くの企業戦士、多くの母親たちは、規則やきまりなど、外の力で動くのではなく、会社を守ろう、部下を守ろう、家族を守ろう、子に恥じない親になろう、父母に叱られない自分になろうという、内なる力に衝き動かされ、毎日を必死に生きています。
    それは、ひとりひとりの人間として一番大切な生命をかけた戦いでもあります。

    日本は法治国家だという人がいます。
    たしかに、今の日本はそうかもしれない。
    しかし、非常に治安が良かった江戸時代や、戦前の日本には、現代日本にあるような事細かな法律や省令、政令なんてものはありません。
    そんなものがなくても、日本人ひとりひとりの中にある、道義心によって、現代社会よりもはるかに安心して暮らせる日本ができあがっていたのです。

    わたしたちは、すくなくとも過去を否定するばかりでなく、現在と未来のために、過去の歴史からもっともっといろいろなことを学べるのではないかと思います。

    最後にもうひとつ大切なことを書いて起きます。
    私も、かつてのソ連やソ連が行った日ソ不可侵条約の破棄やその後の国際法上も違法な行為の数々、シベリア抑留や共産主義思想の強制など、ソ連に対しては限りない怒りを感じていますし、絶対に許すべきことではないと思っています。
    しかし、そのことをもって、「ソ連人は」とか、あるいは「ロシア人は」とかいう一般化は、これは間違っています。
    ひとりひとりを見れば、気の良いロシア人の方が圧倒的に多いのです。

    ChineseやKoreanについても同じです。
    異常行動を取る政府や政治は、憎むべき対象です。
    しかしだからといって、それをChineseやKorean一般の問題にすり替えるのは、良くないことです。

    先に結論を書いてしまえば、これらの問題は、特定個人が最高権力者となって、その個人に従うことが社会の秩序であり、それ以外の一切は排除される、という社会の仕組みそのものが人類の歴史の中で持ち続けてきたことこそが、実は、大いなる過ちの集大成なのです。

    「眼の前にいる人たちを殺せ。
     殺さなければ、お前とお前の家族を
     皆殺しにするぞ」
    と銃を突きつけられるという社会にあって、個人の持つ正義感を最大限に発揮するということは、そうそうできることではありません。
    今の香港を見てください。
    あるいは米国の惨状を見てください。
    人類の歴史は、そういうことですくなくともこの何千年かの間、営まれ続けてきたのです。

    「眼の前にいる人たちを殺せ。
     殺さなければ、お前とお前の家族を
     皆殺しにするぞ」
    と言われて、やらざるを得なかった人たちと、
    「浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、食料ほしさに仲間を密告する者、ソ連当局の手先になって特権生活を営」んだ、シベリアの日本人と、果たして、どちらが是で、どちらが非なのでしょうか。

    そのような日本人がいたから、日本人はすべて卑劣なのでしょうか。
    問題は、世の中の歪みそのものにあったのではないでしょうか。

    現代日本を考える上でも、同じことが言えるのではないかと思います。
    私たちが拒否しているのは、一部の人の利権のために、民衆が利用主義的に利用されるという社会です。
    私たちが希求しているのは、圧倒的多くの民衆の一人一人がが「おほみたから」として尊重される社会です。
    そして民衆にとっての「よろこびあふれる楽しい国=豈国(あにくに)」であり、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる国です。
    そういう日本を取り戻したい。
    そういう日本を未来を担う子達のために復活させたい。
    それが、戦いで散って行った帝国軍人さん達の熱い願いであり、今を生きる私たちの望みです。


    ※本編は群馬県議員中村紀雄先生のHP
    「今見るシベリア強制抑留の真実」を基に構成させていただきました。
    この場にて感謝を申し上げます。
    ありがとうございます。
    http://kengi-nakamura.txt-nifty.com/diary/


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    察するという文化なしに、ただやみくもに議論するなら、それは「考えることをしない議論」になります。
    考えもなしに、ただ議論するのなら、それは互いに
    「言い張る」こ
    とにしかなりません。
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    20201226 高松城水攻めの図
    画像出所=https://myougenji.or.jp/about/mizuzeme/
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    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    ときは天正10年4月、秀吉が信長の命を受けて中国の毛利輝元を攻めたときのことです。
    この報を受けた輝元の叔父の小早川隆景は、いちはやく備前、備中の諸城を固く守られたのですが、秀吉の軍勢に押されて、次々に落城し、ついに、高松の一城を残すのみとなりました。

    高松城は、周囲をヤマで囲まれた一面の沼地で、道は、わずかに和井元口と、地下口との二筋があるばかりの要害堅固な名城でした。
    城主は、知勇兼備の将と言われた清水宗治で、この主のためには生命を惜しまない5千の部下が、城を守っていました。
    さすがの秀吉も、これには攻めあぐんでしまうのです。

    このときたまたま部将であった黒田孝高が水攻めの計を献じたのを幸い、大堤防を築いて足守川の水を注ぎ込み、さしもの高松城を水浸しにしてしまうところから、この物語は始まります。

    *********
    【国民学校初等科國語6
     二十 ひとさしの舞】


    高松の城主清水宗治(しみずむねはる)は、急いで天守閣へのぼった。
    見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流がものすごい勢で流れ込んで来る。
    「とうとう、水攻めにするつもりだな」
    この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになるのも、間はあるまい。
    押し寄せて来てるる波を見ながら、宗治は、主家毛利輝元を案じた。
    この城が落ちれば、羽柴秀吉の軍は、直ちに毛利方を攻めるに違いない。


    主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまった今、せめてこの城だけでも、持ちこたえなければならないと思った。
    宗治は、城下にたてこもっている五千の生命をも考えた。自分と生死を共にするといっているとはいえ、この水で見殺しにすることはできない。
    中には、女も子どももいる。
    このまま、じっとしてはいられないと思った。
    軍勢には、ちっとも驚かない宗治も、この水勢には、はたと困ってしまった。


    羽柴秀吉と軍を交えるにあたり、輝元のおじ小早川隆景は、七城の城主を集めて、
    「この際、
     秀吉にくみして身を立てようと思う者があったら、
     すぐに行くがよい。
     どうだ」とたずねたことがあった。

    その時、七人の城主は、いずれも、
    「これは意外のおことば。
     私どもは、一命をささげて
     国境を守る決心でございます」と誓った。
    隆景は喜んで、それぞれ刀を与えた。

    宗治は、
    「この刀は、国境の固め。
     かなわぬ時は、城を枕に
     討死せよというお心と思います」と、きっぱりといった。

    更に秀吉から、備中・備後の二箇国を与えるから、みかたになってくれないかとすすめられた時、宗治が、
    「だれが二君に仕えるものか」
    と、しかりつけるようにいったこともあった。

    こうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒って、軍勢をさし向けたのであるが、智勇すぐれた城主、これに従う五千の将士、たやすくは落ちるはずがなかった。
    すると、秀吉に、高松城水攻めの計を申し出た者があったので、秀吉はさっそくこれを用い、みずから堤防工事の指図をした。夜を日に継いでの仕事に、さしもの大堤防も、日ならずしてできあがった。

    折から降り続く梅雨のために、城近くを流れている足守川は、長良川の水を集めてあふれるばかりであった。
    それを一気に流し込んだのであるから、城の周囲のたんぼは、たちまち湖のようになった。


    毛利方は、高松城の危いことを知り、二万の援軍を送ってよこした。両軍は、足守川をさしはさんで対陣した。
    その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすでに水に没した。
    援軍から使者が来て、
    「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て」
    ということであったが、そんなことに応じるような宗治ではない。
    宗治は、あくまでも戦いぬく決心であった。

    そこへ、織田信長が三万五千の大軍を引きつれて、攻めて来るという知らせがあった。
    輝元はこれを聞き、和睦をして宗治らを救おうと思った。
    安国寺の僧恵瓊を招き、秀吉方にその意を伝えた。
    和睦の条件として、毛利方の領地、備中・備後・美作・因幡・伯耆の五箇国をゆずろうと申し出た。

    秀吉は、承知しなかった。
    すると意外にも、信長は本能寺の変にあった。
    これには、さすがの秀吉も驚いた。そうして恵瓊に、
    「もし今日中に和睦するなら、
     城兵の命は、宗治の首に代えて助けよう」
    といった。

    宗治はこれを聞いて、
    「自分一人が承知すれば、主家は安全、五千の命は助る」と思った。
    「よろしい。明日、私の首を進ぜよう」と宗治は答えた。


    宗治には、向井治嘉(はるよし)という老臣があった。
    その日の夕方、使者を以って、
    「申しあげたいことがあります。
     恐れ入りますが、ぜひおいでを」
    といって来た。

    宗治がたずねて行くと、治嘉は喜んで迎えながら、こういった。
    「明日御切腹なさる由、
     定めて秀吉方から検使が参るでございましょう。
     どうぞ、りっぱに最期をおかざりください。
     私は、お先に切腹をいたしました。
     決してむずかしいものではございません」
    腹巻を取ると、治嘉の腹は、真一文字にかき切られていた。
    「かたじけない。おまえには、決して犬死をさせないぞ」
    といって、涙ながらに介錯をしてやった。

    その夜、宗治は髪を結い直した。静かに筆を取って、城中のあと始末を一々書き記した。


    いつのまにか、夜は明けはなれていた。
    身を清め、姿を正した宗治は、巳の刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣へ向かって舟をこぎ出した。
    五人の部下が、これに従った。
    向こうからも、検使の舟がやって来た。

    二そうの舟は、静かに近づいて、満々とたたえた水の上に、舷(ふなばた)を並べた。
    「お役目ごくろうでした」
    「時をたがえずおいでになり、
     御殊勝に存じます」
    宗治と検使とは、ことばずくなに挨拶を取りかわした。

    「長い籠城に、さぞお気づかれのことでしょう。
     せめてものお慰みと思いまして」
    といって、検使は、酒さかなを宗治に供えた。

    「これはこれは、思いがけないお志。
     えんりょなくいただきましょう」

    主従六人、心おきなく酒もりをした。
    やがて宗治は、
    「この世のなごりに、ひとさし舞いましょう」
    といいながら、立ちあがった。
    そうして、おもむろに誓願寺の曲舞を歌って、舞い始めた。
    五人も、これに和した。
    美しくも、厳かな舞い納めであった。

    舞が終ると、

     浮世をば 今こそわたれ もののふの
     名を高松の 苔にのこして

    と辞世の歌を残して、みごとに切腹をした。
    五人の者も、皆そのあとを追った。
    検使は、宗治の首を持ち帰った。
    秀吉は、それを上座にすえて「、あっぱれ武士の手本」といってほめそやした。

    **********


    國語の授業で使われた教材ですから、もちろんいまと同じく漢字の読み書きや、送り仮名、文中の「これ」が何を指すかなどといったことも授業の中に含まれたのですが、当時の文部省の学習指導要綱を見ると、「取扱の要諦」
    として、次のように書かれています。

     ***

    文章を読ませて、困難な発音、文字、語句等を指導し、確実に読ませる。
    独思や対話の入った文章であるから、地の文と区別して読ませるようにし、清水宗治が切腹して部下を助け、節義をまっとうしたことをわからせる。

    読みが進むに従い、清水宗治が水攻めにされた城下町を眺めて主家を案じ、部下の生命を考え、
     小早川隆景が七城の城主に言った言葉、
     これに対する宗治の態度、
     秀吉から降伏を進められたときの立派な態度、
     高松城の水攻めの様子、
     織田信長の援軍と和睦の条件、
     本能寺の変と和睦の成立、
     老臣・向井治嘉の忠節、
     宗治最期の立派な様子
    等を読み取らせる。

    文意の理解に即して、話すことを練習する。
    また人物を定めて、対話を中心にして劇的に読ませるようにし、読みを深める。


     ***

    この指導要綱に基づき、教室では、先生が、セリフのところを「〇〇君、ここ読んでみて」、「ほら、もっと感情を込めて!」などとやり、さらに「小早川隆景は、どうして七城の城主にこのようなことを言ったのでしょうか。君はどう思う?」なんて問いかけたわけです。

    小学生ですから、意外とこういうときにおもいもかけない答えが返ってくる。
    そこで異なる意見を持つ生徒たち同士で、互いに議論を交わさせたりなんていうことも行われたわけです。

    議論というのは、その国の言語で行われるものです。
    つまり日本人なら、日本語で議論します。
    そこには国語力が必要です。

    そして議論の奨励は、すでに1400年前の十七条憲法に、「論(あげつらふ)」として、その重要性が説かれています。
    上下心をひとつにして、互いに顔をあげて、相手の目を見て議論するのです。

    この点、議論を一切認めない西洋式の軍隊では、上官の発言を気をつけの姿勢で聞く時に、兵はまっすぐに前をミたまま、上官の目を一切見てはいけないことになっています。
    互いに相手の目を見ながらするのが「論(あげつらふ)」です。
    顔《つら》を《あげ》て議論するから、「あげつらふ」と言います。

    戦時中の義務教育では、よく軍国青年の育成が図られたと言われます。
    もし、兵を作ることが教育の目的なら、生徒は教師を見てはいけないし、自分で考えること、自分の意見を持つこと、議論することは、不要です。
    なぜなら、言われたことだけできさえすれば良いからです。

    けれど実際に戦時中に行われていた教育は、自分の頭で考えることができる子供を育成するということでした。
    そしてそのことは、我が国の教育において、千年以上続く伝統でもあったのです。

    我が国の文化は「察する文化」です。
    「察する」という技術は、高い教育と、しっかりとした言語能力によって育てられます。
    その互いに「察する」という土壌の上に、議論(あげつらふこと)が行われます。

    すこし考えたらわかることですが、察するという文化なしに、ただやみくもに議論するなら、それは「考えることをしない議論」になります。
    考えもなしに、ただ議論するのなら、それは互いに「言い張る」ことにしかなりません。
    つまり、微細な違いをとりあげての強弁や、偽りを真実と言い換える詭弁ばかりが横行することになります。
    これでは、互いに議論を交わすことでより高い次元の知見を得ようとする英語圏のディベートにさえおよばないものとなってしまうのではないでしょうか。

    そして察する文化がもたらしたもの、それが日本人の「思いやりの心」です。
    私たちは未来の子たちから、思いやりの心を失なわせるのでしょうか。それで良いのでしょうか。


    ※この記事は2020年12月の記事の再掲です。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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     このことはたいへん意義深いことだ。
     だがな、
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     その慰霊ができるのは、
     飛行機に愛情を注ぎ続けた
     日本人の二宮忠八しかないんだ。
     だから神々は、手柄をライト兄弟に譲ったんだよ」
    日本文化の根幹にあるものは「つながり」です。
    1位を競うことではない。

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    20151226 飛行神社



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    小名木善行です。

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    世界初の有人飛行といえばライト兄弟が有名です。
    ライト兄弟が飛行を成功させたのは、明治36(1903)年12月17日です。
    ところが我が国では、なぜか4月29日が「飛行機の日」とされています。
    なぜでしょうか。
    今日は、このお話を書いてみたいと思います。

    ライト兄弟が、ノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズで、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で、飛ばした飛行機は、最初のフライトが、わずか12秒でした。
    4度目の飛行で、59秒260メートルの飛行が行われました。
    下の写真は、そのときの実写版で、飛行機を操縦しているのが弟のオーヴィル、横にいるのが兄のウィルバーです。

    ライト兄弟
    ライト兄弟


    ところが実は、ライト兄弟よりも12年も前に、飛行機を飛ばしていた人が日本にいます。
    二宮忠八(にのみやちゅうはち)といいます。
    香川県の丸亀練兵場で、わずか10メートルではありますけれど、日本初のプロペラ飛行実験を成功させました。
    それが明治24(1891)年4月29日なのです。
    だから日本では、4月29日が「飛行機の日」です。

    ちなみに、二宮忠八は、翌日には、なんと36メートルの飛行に成功しています。
    もっともその飛行機は有人ではありません。
    個人の努力のため、予算がなかった二宮忠八は、小型の模型飛行機を作って飛ばしています。
    けれどこれが人類初の「動力飛行実験」の成功であったことは、疑いのない事実なのです。

    二宮忠八
    二宮忠八


    二宮忠八は、慶応2(1866)年の生まれです。
    このとき25歳の若者でした。
    もともと忠八は、伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)の、かなり富裕な家の生まれだったそうです。
    ところが父親が事業で失敗し、さらに二人の兄が遊興に耽(ふけ)ってしまいました。
    要するに遊女に狂ってしまったのです。
    こうして家計が傾いたところに、父親が急死してしまう。

    残された家族を養うため、忠八は12歳で、一家を支えるためにと、町の雑貨店に丁稚奉公に出ました。
    その忠八は、無類の凧(たこ)好きで、奉公先でもいろいろな凧(たこ)を考案しました。
    忠八の凧は、とてもよく飛ぶので、「忠八凧」と呼ばれて、たいそうよく売れたそうです。

    明治20(1887)年になると、忠八は21歳で徴兵されました。
    すこし補足しますが、これはとても名誉なことでした。
    というのは当時徴兵された男子というのは、同年代の男子200人に5人程度の割合です。
    身体頑健、虫歯もなく視力良好、痔疾を含む一切の持病なし、頭も良くて読み書きがちゃんとできること、性格良好、まっすぐで規律正しい男子だけが、甲種合格者として軍人になれたのです。

    入隊した忠八は、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。
    連隊は大佐が指揮する約三千人の大所帯です。

    入隊して2年経った頃、忠八に神が降ってきました。
    それは、野外演習の帰りのことでした。
    霧の深い日でした。
    忠八が仲間たちとともに木陰で昼食をとっていると、そこにカラスが舞い降りてきたのです。
    おそらく残飯の米粒を求めにきたのでしょう。
    よく見かける光景です。

    カラスは翼を広げ、羽ばたかずに、すべるように舞い降りてきます。
    そして飛び立つときには、何度か大きく羽をあおり、谷底からの上昇気流でサァ~と舞い上がります。
    「これだ!」と忠八は思ったそうです。
    「向かい風を翼で受け止めたら、空気抵抗で空を飛ぶことができるじゃないか!」
    これが、「固定翼による飛行原理」の発見になりました。

    忠八はあれこれ工夫を重ね、一年後に「カラス型飛行器」を完成させました。

    カラス型模型飛行器
    カラス型模型飛行器


    明治24(1891)年4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場で、忠八は自作のカラス型飛行器の飛行実験を行ないました。
    練兵場の仲間たちがみんな見に来てくれました。

    この頃忠八は、練兵場にある精神科の軍病院に勤務していました。
    忠八が飛行機の動力源に選んだのが、なんと医療用聴診器のゴム管でした。
    そのゴム管につながった4枚羽根のプロペラが回転すると風が起きて、飛行機が舞いあがるという仕組みです。

    凧は、糸を人が引っ張って空に浮かべます。
    しかし動力飛行機は、自分の力で、空に舞います。

    忠八がプロペラを回してゴムを巻きました。
    いっぱいに巻いたところで、カラス型飛行機をそっと地面に置きました。
    忠八が手を離しました。
    プロペラが勢いよく回転を始めました。

    たくさんの仲間達が見守る中、カラス型飛行器は、約3メートルの助走しました。
    そして、フワリと地面から浮き上がり、空に舞い上がりました。
    まだ誰も飛んだことのない有人飛行に向けて、忠八の夢をいっぱいに乗せた飛行機が練兵場の空を舞いました。
    ぐ~んと高度を上げた飛行機は、10メートルほど飛んで、草むらに着地しました。

    成功です。
    な~んだ。ただのゴム飛行機じゃないかと侮るなかれ!
    人類を宇宙に飛ばすロケットだって、最初の一号機は、ロケット花火程度の小さなモノからの出発です。

    見守る人も忠八も、飛行機が自走して空に舞ったことに大喜びしました。
    忠八は、何度も飛行器を飛ばし、翌日には飛距離を30メートルに伸ばしました。

    自信をつけた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手しました。
    いろいろ研究しました。
    有人飛行の研究のために、忠八は、鳥類の体型を詳細に調べるだけでなく、鳥や昆虫、トビウオから、天女や天狗などにいたるまで、およそ「空を飛ぶもの」ならなんでも調べたそうです。
    そして、鳥の体型にヒントを得た「カラス型」では人間の体重を支えきれないことを知ります。

    どうしたらいいのか。
    忠八は、昆虫の飛行を研究しました。
    そしてそこから4枚羽根の飛行機を考案しました。
    明治26(1893)年のことです。
    この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられました。

    玉虫型飛行器
    玉虫型飛行器


    「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されていました。
    ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。
    翼幅は2メートルです。
    有人飛行を前提とした実機の、縮小模型機です。

    飛んでくれれば、まさに、世界初の実用機となるはずの飛行機です。
    ですからこの飛行機は、人間が搭乗することを前提として、空中で飛行機の向きを上下左右など自在に操れる工夫が施されました。

    いよいよ、飛行実験の日がやってきました。
    動力には強力なガソリンエンジンを搭載しました・・・といいたいところですが、当時は、まだガソリンエンジンは、たいへん高価なものでした。
    忠八個人には、高価なガソリンエンジンを買う資金はありません。

    ですから機体は、ゴムヒモだけで飛ばせる最大サイズとしました。
    そして烏型と同じ4枚羽の推進式プロペラを機尾で回転させました。
    この日の飛行実験で、「玉虫型飛行器」は10メートルの飛行に成功しました。

    残る問題は、動力源です。
    いかんせん、ゴム紐エンジンでは、人が乗るわけにいきません。
    しかし、まだ電気すら通っていない明治の中頃のことです。
    最先端の軍艦だって、まだ石炭を焚く蒸気機関の時代です。
    けれど蒸気機関では、重すぎて飛行機のエンジンに使えないのです。
    さりとてガソリンエンジンは、あまりに高価で、庶民が個人で買うことはできないものです。

    忠八は、「飛行機は絶対に戦場で役に立つ!」と思いました。
    そうなればきっとお国のために役に立つ。
    だから軍でこの研究を引き取ってくれないか。
    忠八は「飛行器」の有効性とその開発計画についてをレポートにまとめ、有人の「玉虫型飛行器」の開発を、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申しました。

    個人では資金がないのです。
    このままでは実機を作れない。
    軍が研究を採用してくれれば、発動機を入手することも可能なのです。

    しかし何度足を運んでも、長岡大佐の返事は「戦時中である」というものでした。
    大島旅団長も乗り気ではありません。
    忠八ひとりの趣味や夢に、軍の予算をまわすわけには行かないという返事でした。

    あと一歩、あとすこしで有人飛行機が完成するのです。
    発動機さえあれば。エンジンさえ買うことができれば・・・。
    忠八は、必死に考えました。
    そして軍の協力が得れないならば、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかない、と決意しました。

    忠八は、軍を退役しました。
    そして大日本製薬に入社しました。
    そして必死で働きました。

    頑張ればその分、給金があがるのです。
    だから本気で働きました。
    忠八は、みるみる成績を挙げ、明治39(1906)年には、愛媛の支社長にまで出世しました。
    支社長になった忠八は、すこし時間に余裕が生まれました。
    それまで給料の大半を貯金に回しながら蓄えたお金も、ようやくまとまった金額になりました。
    軍を辞めてから12年の歳月が経っていました。

    明治40(1907)年、忠八は精米用の二馬力のガソリンエンジンを購入しました。
    そして再び飛行機の研究を再開しました。
    ところが、せっかく購入したエンジンなのだけれど、ニ馬力では、人間を乗せて飛ばすだけの推力が生まれません。
    完全にパワー不足です。

    当時、新しく開発されたオートバイ用のガソリンエンジンは、日本にも徐々に輸入されるようになってきていました。
    けれど、それはものすごく高価な品で、忠八の手は届かないのです。

    考えた忠八は、ガソリンエンジンの部品を少しずつ買い集めました。
    エンジンそのものを自作しようと考えたのです。
    すこしずつ器材も買い揃えはじめました。

    このとき忠八が自作しようとしたエンジンは、12馬力のエンジンでした。
    実はライト兄弟の「フライヤー1号」も、12馬力エンジンです。
    そのライト兄弟ですが、いまでこそ、世界初の有人飛行として有名になっていますが、明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の有人飛行というのは、アメリカ本国内ですら、当時はまるで報道されませんでした。

    これには、ライト兄弟自身がアイディアの盗用を恐れて公開飛行を行わなかったことも理由のひとつですが、地上すれすれに僅かの距離を飛行したということが、この時代には、まだ「大型の凧上げ」程度にしか一般に認識されなかったのです。

    ですからようやくライト兄弟による有人飛行成功が広く世間に広まったのは、明治40年になってからのことです。
    そしてこのことが、日本の雑誌「科学世界」の明治40(1907)年11月号で報道されました。

    忠八は、ライト兄弟の成功を知りました。
    ショックでした。
    このとき忠八は、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話があります。
    実際に壊したかどうかは別として、忠八にとって、このことがとてもつらく悔しかったであろうことは、容易に想像できることです。
    人生をかけてやってきたことの、すべてを失ったという気持ちにさえなったかもしれません。

    結局忠八は、せっかく支社長にまでなっていた大日本製薬も辞め、飛行器の開発も止めてしまいました。
    よほどショックだったのでしょう。
    忠八は、それまで貯めていたお金で薬の製造の仕事にうちこみ、明治42(1909)年に、マルニという製薬会社を起こしています。

    このとき忠八が製作しようとした飛行機は、長い間重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。
    平成3年10月、有志によって忠八の当時の設計図通りに、実機が作られました。
    なんと、この飛行機は、見事、故郷の八幡浜市の空を舞っています。

    さて、だいぶ時が経ち、大正8(1919)年といいますから、忠八が53歳のときのことです。
    明治から大正にかけての日本人の平均寿命は、44~45歳くらいだといいますから、いまの感覚でいったら、60歳くらいの社長さんという感じかもしれません。

    忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会に恵まれました。
    このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がりました。

    この白川義則という人、後年、陸軍航空局長を務め、最終階級は、陸軍大将になるお方です。
    後に関東軍司令官、上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任した人物でもあります。
    タダモノではありません。

    忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にそうした上申があったのかどうか、すぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じました。
    すると、見事、正しい。
    なんと、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたことが確認されたのです。

    白川は、陸軍その他に働きかけ、大正11(1922)年に忠八を表彰しました。
    さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動してくれました。

    おかげで忠八は、大正14(1925)年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、
    大正15(1926)年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、
    昭和2(1927)年には、勲六等に叙勲され、
    さらに忠八の物語は、昭和12年度から、国定教科書に掲載されました。

    このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪してくれています。
    ちなみに、このときの長岡大佐の謝罪は、上から強制されたものではありません。
    もうとっくに軍を退役したおじいちゃんです。いまさら命令もありません。
    彼は、自らの不明を恥じ、自らの意思で忠八に頭を下げに来たのです。
    これは、実に素晴らしい、男らしい振舞だと思います。

    誰だって、自分を正当化したがるものです。
    失敗を他人やご時世の「せい」にしたがるものでもあります。
    そうやって、自らの責任から逃れようとしたがるものです。

    しかし長岡大佐は、自らの非を認めました。
    自分に厳しいから、他人に対して頭を下げることができるのです。
    往々にして、他人に罪をなすりつけたがるタイプの人は、自分に甘いのです。
    長岡大佐は、実に立派な人であったと思います。

    ただ、ひとこと言わせていただくならば、当時長岡大佐が忠八の進言を容れて、軍の上層部に上申したとしても、おそらく100%の確率で却下されたものと思います。
    明治24年といえば、日清戦争の3年前です。
    当時の日本政府は、ほんとうにお金がないなかで、列強の軍事力に屈しないために巨額の建造費のかかる軍艦の製造もしなければならなかったし、陸軍の兵士として採用した者たちへの給金、あるいは宿舎等の手当など、出費がかさんでいました。

    日清戦争が始まってからも、戦傷病者のための病院施設に、看護婦を採用することさえなかなかできなかったのです。
    看護婦は女性です。
    女性看護婦を採用すれば、看護婦の宿舎や更衣室、トイレなどを、男性用とは別にまた造らなければならない。
    その予算がなかったのです。
    そういう厳しい情況下にあって、このうえさらに、できるかできないかわからない飛行機のために予算を割くだけの余裕は、軍にはまったくなかったことは、連隊指揮官である長岡大佐にもよくわかっていたし、軍の上層部も、そうした状況下で軍を維持管理運営していたのです。

    そういう意味では、長岡大佐の不明というばかりではないのです。
    けれど、それでも、可能性を潰してしまったことに、長岡大佐は自責の念を抱いたわけです。
    さすがは明治の陸軍軍人、立派な人であったと思います。

    飛行機は、その後、瞬く間に世界に普及しました。
    ただし初期の頃の飛行機は、事故も多かったのです。
    満足な滑走路も、飛行管制塔もない時代です。
    エンジン性能も、いまどきのエンジンのように安定したものではありません。
    このため飛行機事故で、多くの人が命を失っています。

    忠八は、数々の表彰等でいただいたお金を、ずっと貯めて持っていました。
    そして自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われていくことに深い悲しみを覚えました。
    そして、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るためにと、彼は私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立しました。
    そして会社もたたみ、神職の勉強をして資格をとると、自ら神主になりました。
    そこで生涯、航空の安全と航空殉難者の慰霊に一生を投じたのです。

    飛行神社
    飛行神社


    忠八は、昭和11(1936)年、70歳で永眠しました。
    忠八は、ライト兄弟のような有人飛行機を飛ばすには至っていません。
    しかしライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理を着想し、10年前には実験に成功もしています。

    二宮忠八が飛行機の開発にいそしんだ時代は、まだ日本に電気はありません。
    ガソリンエンジンは高価だったし、忠八にはお金もありません。
    けれどそんな中で、世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。
    日本語の「飛行器(機)」というのも、二宮忠八の造語です。

    ライト兄弟よりもずっと前に、日本で飛行機が実際に研究され、作られていたんだって、なんだか感動です。
    そしてこのお話は、戦前の教科書にはちゃんと載ってたお話です。
    どうして戦後は教科書から削除してしまったのでしょうか。
    このお話のどこに不都合があったのでしょうか。

    二宮忠八は、飛行機に限りない愛情を注いただけでなく、飛行機によって亡くなられた方々の御魂を慰めるために、私財を投げ打って飛行神社を創建し、世界中の飛行機による殉難者の慰霊に残りの生涯を捧げています。
    神々が、二宮忠八ではなく、最終的にライト兄弟に世界初の有人飛行の手柄を譲ったことについて、こんな話を聞きました。

    「発明や発見というのは、
     その人一代限りの名誉でしかないんだよ。
     人類は、飛行機の発明で、
     これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
     このことはたいへん意義深いことだ。
     だがな、
     人類は未来永劫飛行機による殉難者を抱えることになる。
     その慰霊ができるのは、
     飛行機に愛情を注ぎ続けた
     日本人の二宮忠八しかないんだ。
     だから神々は、手柄をライト兄弟に譲ったんだよ」

    そうかもしれないな、と思いました。
    日本文化の根幹にあるものは「つながり」です。
    1位を競うことではない。

    ※この記事は2010年4月の記事をリニューアルしたものです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇たちをいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。

    20211225 かまどの煙
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    聖徳太子がお隠れになったとき、太子の死をすべての人が嘆き悲しみました。
    年老いた者は我が子を失ったかのように。
    若者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声が満ちあふれたと記録されています。

    その聖徳太子の没後、再び蘇我入鹿が専横をしはじめます。
    朝廷は、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらおうとしますが、これを察知した蘇我入鹿は、643年、武力をもって山背大兄皇子を襲いました。
    このとき、逃げ落ちるように説得する家来たちに、山背大兄皇子は、戦いによって多くの臣民の命が失われることを偲ばれて、自害して果てます。
    こうして聖徳太子の子孫は絶え、蘇我氏が専横を極めるようになっていきました。

    「このままではいけない」
    そう思って立ち上がったのが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
    中大兄皇子の父は舒明天皇です。

    舒明天皇は、我が国の理想を歌に詠みました。
    それが『万葉集』にある「天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌」です。

     山常庭    やまとには
     村山有等   むらやまあれど
     取与呂布   とりよろふ
     天乃香具山  あめのかくやま
     騰立     のぼりたち
     国見乎為者  くにみをすれば
     国原波    くにはらは
     煙立龍    けぶりたちたつ
     海原波    うなばらは
     加万目立多都 かまめたちたつ
     怜忄可国曽  うしくにそ
     蜻嶋     あきつのしまの
     八間跡能国者 やまとのくには

    意味は概略すると次のようになります。

    「恵みの山と広い原のある大和の国は、
     村々に山があり、豊かな食べ物に恵まれて
     人々 がよろこび暮らす国です。
     天の香具山に登り立って
     人々の暮らしの様子を見てみると、
     見下ろした平野部には、
     民(たみ)の家からカマドの煙が
     たくさん立ち昇っています。
     それはま るで果てしなく続く海の波のように、
     いくつあるのかわからないほどです。
     大和の国は、人々が神々の前でかしづき
     感動する心を持って生きることができる国です。
     その大和の国は人と人とが
     出会い、広がり、また集う美しい国です」

    この歌について、舒明天皇が単に「大和の国は美しい国だ」と詠んだだけだと翻訳しているものをよく見かけます。
    理由は、「うまし国」の解釈にあります。
    原文にある「怜(忄可)国曽(うしくにそ)」《「忄可」は、りっしんべんに可というひとつの漢字です》を、「美しい国」と翻訳していることにあります。

    全然違います。
    怜(忄可)の「怜」は、神々の前でかしずく心を意味します。
    「忄可」は、良い心を意味し、訓読みが「おもしろし」です。
    古語で「おもしろし」は、感動することを言います。
    つまり「うまし」は「怜(忄可)」と書いて、人々が神々の前でかしづく感動する心を持って生きることができる国であることを示しています。

    天皇のお言葉や歌は「示し」です。
    数ある未来から、ひとつの方向を明示するものです。

    よく戦略が大事だとか、戦術が大事だとか言いますが、戦略も戦術も、そもそも仮想敵国をどこにするのかという「示し」がなければ、実は戦略の構築のしようがありません。
    その意味で、トップの最大の使命は「戦略に先立って未来を示すこと」です。
    舒明天皇は、我が国の姿を、
    「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」
    と規定された(示された)のです。

    ちなみにここでいう「おもしろい国」という言葉は、我が国の古語における「感動のある国」を意味します。
    昨今では、吉本喜劇のようなものをも「おもしろい」と表現しますが、それでも例えばとっても良い映画を観た後などに、「今日の映画、おもしろかったねえ」と会話されます。
    この場合の「おもしろい」は、「とてもよかった、感動的した」といった意味で用いられます。

    「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」というのは、聖徳太子がお隠れになられたときの民衆の反応に見て取ることができます。
    人々が互いに助け合って、豊かで安心して安全に暮らすことができる国だから、素直な心で、いろいろなことに感動する心を保持して生きることができるのです。

    特定一部の人が、自分の利益だけを追い求め、人々を出汁(だし)に使うような国柄であれば、人々は使役され、収奪されるばかりで、安心して安全に暮らすことはできません。
    とりわけ日本の場合、天然の災害の宝庫ともいえる国ですから、一部の人の贅沢のために、一般の庶民の暮らしが犠牲にされるような国柄では、人々が安全に暮らすことなどまったく不可能であり、さらに何もかも収奪されるような国柄では、とても人々はなにかに感動して生きるなど、及びもつかない国柄となってしまいます。

    舒明天皇の時代は、強大な軍事帝国の唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし始めた時代であり、内政面においては蘇我氏の専横が目に余る状態になってきていた時代でした。
    そんな時代に、舒明天皇は、「うし国ぞ、大和の国は」と歌を詠まれたわけです。
    それは、舒明天皇が示された我が国の未来の姿です。

    そんな父天皇を持った中大兄皇子は、そこで宮中で蘇我入鹿の首を刎ねます。
    これが乙巳の変で、645年の出来事です。

    蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は、皇位に即(つ)かず、皇太子のまま政務を摂ります。
    これを「称制(しょうせい)」と言います。
    我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家最高権力者ではありません。
    このことは逆に言えば、天皇となっては権力の行使ができなくなることを意味します。
    ですから中大兄皇子が、大改革を断行するにあたっては、中大兄皇子が皇位に即(つ)くわけにはいかなかったのです。

    そして同年、中大兄皇子が発令したのが「公地公民制」です。
    これによって、日本国の国土も国民も、すべて天皇のものであることが明確に示され、またその天皇が、あえて権力を持たずに国家最高権威となられることで、民衆こそが「おほみたから」という概念を、あらためて国のカタチとすることを宣言したわけです。

    このことは、当時の王朝中心主義の世界にあって実に画期的なことであったといえます。
    なにしろ、21世紀になったいまでも、日本の他には、国家最高の存在が国家最高権力者である国しかないのです。

    ところが中大兄皇子は、朝鮮半島への百済救援のための出兵を意思決定されます。
    倭国は勇敢に戦いましたが、気がついてみれば、百済救援のために新羅と戦っているはずが、百済の王子は逃げてしまうし、新羅は戦いが始まると逃げてばかりで、まともに戦っているのは、倭国軍と唐軍です。
    これでは、何のために半島に出兵しているのかわからない。

    さらに白村江で、倭国兵1万が犠牲になりました。
    亡くなった倭国兵たちは、その多くが倭国の地方豪族の息子さんと、その郎党たちです。
    この禍根は、実は後々まで尾を引きます。

    我が国が天皇を中心とする国家であることは、誰もが認めるし、納得もできるのです。
    そして天皇がおわす朝廷の存在によって、いざ凶作となったときには、全国的な米の流通が行われて、村の人々が飢えることがないようにとの国家の仕組みも納得できるのです。
    けれど我が子が死んだ、中大兄皇子の撤兵指示によって、結果、白村江で多くの命が失われ、そのときに我が子が死んだという、この感情は、どうすることもできません。
    理屈ではわかっていても、感情は尾を引くのです。

    この禍根は、天智天皇から数えて三代後の持統天皇の時代にまで続きました。
    持統天皇が行幸先で、誰とも知れぬ一団に襲撃を受け、矢傷を受けられるという事件も起きているのです。
    国内的には、まさに分裂の危機であり、その分裂は、そのまま唐による日本分断工作に発展する危険を孕んだものであったわけです。

    こうしたなかにあって、兄の天智天皇から弟の天武天皇への皇位の継承が行われました。
    なるほど表面上は、天武天皇が軍を起こして天智天皇の息子の大友皇子を襲撃したことになっています。
    しかし、よく考えてみると、これはおかしな歴史の記述です。

    天智天皇は大化の改新によって、実に革命的に多くの改革を行いました。
    当然、そうした改革は、ものごとが良い方向に向かうようにするために行われるものです。
    しかし、短兵急で強引な改革は、必ず改革によって不利益を被る者を生じさせるのです。

    そうした反天智天皇派の人たちの期待は、当然のように弟の大海人皇子の皇位継承に集まります。
    そして大海人皇子が軍を起こして、天智天皇の息子の大友皇子を追い、みずから天武天皇として即位するとします。

    反天智天皇派の人たちは、よろこんで天武天皇に従ったことでしょう。
    そして天武天皇が即位されると、もともと天智天皇派だった人たちは、もとよりご皇室中心の日本を大切に思う人達なのです。
    このことが意味することは重大です。
    つまり、天武天皇の旗揚げ(壬申の乱)によって、実は国がひとつにまとまるのです。

    正史は、天智天皇亡き後、天武天皇が兵を起こしたことになっています。
    そして天智天皇の子の大友皇子は、人知れず処刑されたことになっています。
    けれど、大友皇子の処刑を観た人はいないのです。

    天智天皇の崩御にも疑問が残ります。
    天武天皇の正妻は、持統天皇です。
    その持統天皇は、天智天皇の娘です。
    そして天武天皇が、皇位に即位されたあと、事実上の政務の中心となって改革を継続したのが、その持統天皇です。
    しかも持統天皇は、なぜだか31回も吉野に行幸されています。

    これは正史には書かれていないことですが、個人的には、おそらく天智天皇は生きておいでであったのだろうと思います。
    生きていても、当時の考え方として、出家されれば、この世のすべてを捨てて、今生の天智天皇としては崩御したことになるのです。
    そして吉野に隠棲し、そこで僧侶となる。

    弟の天武天皇に皇位を継承させるためには、天智天皇に集中した国内の不満分子を、まるごと天武天皇が味方に付けてしまうことが一番の選択です。
    そして皇位継承後は、娘の持統天皇が、皇后として政治に辣腕を揮う。
    幸い、きわめて優秀な高市皇子が、政務を執るのです。
    天智、天武、持統、高市皇子のこの強い信頼関係のもとに、あらためて日本は盤石の体制を築いたのではないか。
    そのように個人的には観ています。

    天智天皇と天武天皇が兄弟であったことさえ疑う意見があることも承知しています。
    しかしそのことを示す史料はなく、この不仲説の根拠となっているのは、万葉集における天智天皇、天武天皇、そして天武天皇の妻であり一女まである額田王の歌が、根拠となっています。
    しかしその根拠とされる歌も実は、その意味をまるで履き違えた解釈によって、歪められていたという事実は、このたびの拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』で詳しく述べた通りです。
    (まだお読みでない方は、是非、ご購読をお勧めします)

    不幸なことに、天武天皇のまさかの崩御によって、鵜野讚良皇后が持統天皇として即位されます。
    そして持統天皇が、敷いたレール、それが、反対派を粛清したり抹殺したりするのではなく、教育と文化によって、我が国をひとつにまとめていくという大方針です。

    万葉集も、そのために持統天皇が柿本人麻呂に命じて編纂を開始させたものです。
    こうして我が国の形が固まっていきました。
    それは高い民度の臣民によって培われた、民度の高い国家という形です。

    我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇をいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。
    爾来1300年、我が国は、庶民の高い民度によって支えられる盤石の国家が築かれてきたのです。


    ※この記事は2019年12月の記事のリニューアルです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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